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中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化

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中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
Kobe University Repository : Kernel
Title
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化(La
Transformation de la Agriculture en Provence a la Fin du
Moyen Age)
Author(s)
山瀬, 善一
Citation
国民経済雑誌,116(3):34-52
Issue date
1967-09
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00171026
Create Date: 2017-03-31
中世末 期 の プ ロヴァ ンス に おけ る
農業 の変化
山
瀬
善
プロヴ ァンスは十三世紀 の経過の うちに社会の安定 と発展を見,その農業 も
3
06年に教皇庁をアヴ ィニ ョンに迎え,流通が よ り一層 の隆盛
繁栄を示 した 。 1
を見 るにつれ, この繁栄は持続 した。 ヨー ロ ッパ の他 の場所におけ ると同様,
大黒死病は プ ロヴァンスの社会 と経済に重要な影響を与えた。社会の安定 と繁
栄を経験 した大黒死病 までのプロヴ ァンスの農業については,他の機会に既に
1
述べた。 ここでは,それ以後の諸問題を取扱 う。 即ち ヨー ロッパ経済史におい
て農業危機 と呼ばれている時期に,プロヴ ァンスの農業は どの よ うな経過を辿
るのであ るか。そ して この危機か ら何時頃抜け出 し,再生 した農業は どの よ う
な形態を と り始めるのか 。lbl
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大黒死病を含めた十四世紀後半か ら十五世紀前半に及ぶ一連の疫病 と凶作が
人 口の減少を もた らし,それが農業危機の一つ の大 きな原因 とな ったのであ る。
そ こで先ず人 口の動 きを見なければな らない。
中世盛期において,回教徒の恐怖か ら住民は地 中海沿岸地域 (
低地 プ ロヴ ァ
ンス)か ら山岳地域 (高地プロヴ ァンス)- と移動 した。回教徒か ら解放 され
た後, ヨー ロッパの人 口の一般的増加 と並行 して, プ ロヴ ァンスの人 口も増大
す るが,その程度は低地プロヴ ァンスの方が高地 プロヴ ァンス よりも急速であ
1 拙稿,「十四世紀前半におけるプロヴァンスの農業について」,
神戸大学経済学研究年報,1
4(
1
9
67
)
2
7
ぺ-ジ以下。
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
3
5
った。 これは,人 口の 自然増加に,高地か ら低地-の移住が加味されたためで
あ る。 か くして十三世紀 の経過 中に都市を除いた集落の人 口は両 プ ロヴ ァンス
2
問で均衡を示す に至 った。
十 四世紀 に入 って も地 中海沿岸お よび西部プロヴ ァンスは, タ ラ ス コ ンの
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r裁判管区を除いて, 1
3
45
年 まで僅かではあ るが, 規則的な増加を示 し
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)を除い
た. これに反 して,高地 プ ロヴ ァンスの人 口は, コルマ-ル (
3
て,1
31
2-23年を頂点 として衰退の最初の徴候を示すのであ る。 その直接の原
因は,住民 の土地利用を阻害す る自然的 ・人為的事件に伴 な って生 じた住民の
■
・
「
経済 的諸 困難に 由来 してい るもの と思われ る。即ち,嵐 のために起 った連続的
凶作 とか,あ るいは放牧場が領主の利得のため外来の移動牧畜業者に貸与 させ
4
られ ることとかが,保守的な住民に さえ移住を決意 させたのであ る。 一般的に
言 って, この時期には,高地 プロヴ ァンスでは当時の技術を基礎に した土地利
用が,増大 して来た人 口に対 して既に限界に達 してお り,住民の土地利用を妨
げ る自然的 ・人 為的事件が容易にかか る行動を とらせた もの と思われ る。
1
3
48年春以来 マルセーユな らびに ラング ドックの諸港を通 じて黒死病が侵入
し,低地 ・高地両 プ ロヴ ァンスに亙 って人 口の急激な減少を もた らした。 1
3
46
年 と1
351
年 との問におけ る (
(
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)税のためのカマ ド数 が, 殆ん どすべて
5
の集落について少 な くとも‡ だけ減少 しているところか ら明 らかであ る。
十 四世紀後半な らびに十五世紀の中頃においてさえ も,疫病は地方 的規模に
ER が種 々の史料お よび文献か ら確かめ
おいて繰返 されてい る。 E.BARATI
6
えた ものを, ここに-表 に纏 めて掲げ るな らば,次ペー ジの表 の如 くであ る。
大黒死病以後におい て も,疫病は,局限 されていた とはいえ,各地に繰返 さ
れたので人 口は停滞を続けた。更に,それに加えて,飢健 と凶作が疫病 と絡み
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me下の低地 プロヴァンスにおける農業の進展については, BAEHREL,R.
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4 前掲拙稿,6
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第 116巻
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3 号
第
疫 病 発 生 の 時 期
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年間に 2度
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年,1
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年
1
37
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年までに数回
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年までに 2回
1
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年間にたびたび
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年,1
467
年
1
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2
年
1
4
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年
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年
1
45
6
-7
年
合 って起 ったのみな らず,十四世紀後半 には戦争 ・内乱そ してそれに基づ く掠
7
奪が相継 ぎ,益 々荒廃現象は激化 して行 った。
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338年 と1
411
年につい て比較す る ことに
所属 してい る所有地についての調査を 1
よって, プ ロヴ ァンスの荒廃 と破壊の具体的な姿を知 ることが 出来 る。高地 プ
ロヴ ァンスの クラレ (
Cl
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)の bai
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i裁判管 区において,教 団は クラレで 1
338
年 に60軒の隷属民に裁判権を持 っていたが , 1
411
年 には最早 11
軒 しかな く,施
療院 の建物 も完全に破壊 された。 同 じ管区の Dromon では,隷属民40人 の う
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ane では,3
0人の うち 2人 しか残 っていない。 また, 同一期
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8
間にマノス クでは,家長の子が消滅 してい る。 コ ム (
Comps
) の bai
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i 裁判管
429年 に L'
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野武士団の残虐な行為 と続 くのである。 この間の政治の情勢については,BUSQUET,R・
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7
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
9
住民は存在 しない。 (
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)税を徴収す る基準 とな った カマ ド数について一,
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n)近 くの Val
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二 の例を挙 げ る。 高地 プ ロヴ ァンスの シス トロン(
1
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は, 1
31
6年 に45であ るが ,1
365年には 1
6,そ して 1
426年には僅か 9とな る。 低地
31
6年 の (
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)税 のため
プ ロヴ ァンスのアル ジ ァン河下流地域の集落で も,1
のカマ ド数が Tar
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400年には極 く少数か, または殆
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s の調査記録 とか, 徴税のためのカマ ド数 とか言 った史料に よっ
てのみな らず,個 々の史料において もまた荒廃の事実を確認す ることが出来 る。
1
37
0年に低地 プ ロヴ ァンスの Si
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sにおいて, その住民は領主であ るマルセ
・の罰金を免除 して
ーユ司教に領主 の森林で木を伐採 したために課せ られた 5S
もらお うとした。その折 に,かれ らはその要求を正 当化す るために,つ ぎの よ う
な 申 し立 てを してい る。最初のペス ト以来,樹木が通路に まではび こ り,家畜
群が通 り抜け ることの出来ない叢 とな り,狼 と鹿類の住処 とな り,収穫に大 き
な損害を与えた と。 司教は 日々減少す る住民を優遇す る目的で,罰金 の免除に
12
同意を与えてい る
。
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)池畔にあ る現在のマル テ ィグ (
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十 四世紀初頭には Jonqui
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s と呼ばれた場所に当たるが, この地はモ ンマ ジ
ゥ-ル修道院に所属す る Sai
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1
3
08年 の領主 の認証 帳を基礎に, 自主地のみの所有者 と他領主-の隷属者を考
慮 してえ られた各地区の家屋数は, つ ぎの如 くである。 Sai
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73軒,
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3
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onne32軒 で, 総計 37
4軒 とな り,
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8
第 116巻
第
3 号
1
4
その人 ロは約 2,500人であ る。 ところが,1418年 の公 的土地 台帳では,諸地区の
うち Jonqui
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sのみが存続 し,そ こには 130人が 135軒 の家屋 を所有 している。
課税せ られ ない者を加味 して, 全人 口は約 1,200人 と推定せ られ る。
1
5
したが っ
て,約一世紀問で住民のほぼiを喪失 した ことにな る。
人 口喪失 は,小集落 よ り大集落の方が よ り大であ る。 大集落 としてほ, アプ
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)では, (
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)税のためのカマ ド数が, 1345年 の 926か ら1400年
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) では 1315年 の875か ら1
420年 の 166に, フ オル カルキエ
の 250に, リエ (
1
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喪失 した。 もっとも,大集落の人 口の激減には往 々過度の誇張が含 まれ ていた
1
7
よ うに思われ る。
小集落の例 としては,フ エ1
)エ-ル (
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) では 1344年 の 17
年 の42に,オプス (
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)では 1341
年 の108か ら1413年の53が挙げ られ,
3か ら1411
1
8
ユ ダヤ人は, キ リス ト教徒 よ りもよ り抵抗 力に富んでいた と考 え られ る。 マノ
ス クのユダヤ人部落は,大黒死病以前にカマ ド数 30であ るが,十五世紀初頭に
註
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古に cens を支払 っている者 (
隷属
氏)の家屋数
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1
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1
4 JIJUGLAS の算定 した家屋数によれば,家族構成が 6- 8人であるので,2
,
2
4
4
-2
,
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2
人 となる
筈である。 しか るに,JUGLAS は3
,
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0
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人としているが,誤植か ? (
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,p・1
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3
5
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5
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人 か ら1
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人
になる。この地区のみを考える場合には明らかに増加を示 している。しか し諸地区の住民が Jonquie
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sに 集 中 し・ 他地区は殆んど消滅 していることを考えるならば,全体 としてほ約与の人 口喪 失 と
言える。 (
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1
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39
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
1
9
おいて もなお 20が残存 してい る。
大黒死病に よる人 口の垂直的崩壊後,大多数の集落は,十五世紀初頭 まで規
則 的に減少を続 け るが,その程度はそれほ ど激 しいものではなか った 。 1410年
か らほ回復の若干 の要素が ここそ こに見 られ る。例えば
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の コムの
裁判管 区において , 1411年 と1429年 とを比較 して見 る と, コムでは 23軒
2
0
が 25軒にな り,バル ジュモ ン
(
Bar
gemon)
では, 18軒が 20軒にな ってい る。 し
か し停滞は 1450年 まで,おそ らく1470年 までさえ継続す る。
束 プロヴ ァンスの山岳地帯においては,回復の徴候は遅れ る。 アノ
ア ン トル ヴ ォ
(
Annot
),
(
Ent
revaux
)
,ギ ヨーム (Guillaumes) の渓谷では , 1471年 のカマ
ド
調査 に従えば,最低 に達 してい る。 例えば, ギ ヨームほ 1442年に カマ ド数 134
2
1
であ るのに, 1471年 には89しかない。 サ ン ・ブノア (Saint-Benoit) な らびにそ
の近隣か らほ , 1442年以来40家族が立ち去 ってお り, ア ン トルヴ ォで も約 20家
2
2
族 が リ工に移住 した。東 プ ロヴ ァンスの海岸地帯においてほ,傾 向は逆で,再
植民が早期に現われ る。 ここでは各集落の 1471年 のカマ ド数が きま って 1315年
のそれ よ りも多い 。 1442年 に殆ん ど無人地に化 したヴ イレニ ューヴ ・ドゥ ・ヴ
ァンス
(
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eneuvedeVence) は, 1
471
年に34を数える。 1467年 の疫病 のためそ
1
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s の例では, カマ ド数が1
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年
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,黒死病の影響は比較的少な く, む しろ十四世紀後半の減少は社会経済的 ・政治的原因による
ものと思われる。
十五世紀中頃に同集落に見 られ る限 りのユダヤ人の家族構成は,キ リス ト教徒 よ りも豊かに少な
く4人以下である。 これ も自然的原因とい うよりはむ しろ人為的原因に よるものと言える。
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年にはアルル大司教に十分の-税を支払 う誓約をな した家長数が8
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年に僅かながらの再興が見 られ,1
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2 東 プロヴァンスにおける集落か らの移住地 として,
十四世紀前半では地中海沿岸の Ni
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とが中心であったが,十五世紀後半では専 ら Ri
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eal
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induXVes
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と
c
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apr
と
sl
'
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nqui
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ede
1
471'
)
,da
msM 6
1
a
nge
sBUSQUET,p・1
4
6
)
。
4
0
第 116巻
第
3 号
り住民のすべてを失 ったサ ン ・ロラン ・ドユ ・ヴ ァ∼ ル (
S
a
i
nt
La
ur
e
nt
duVa
r
)
3
2
は,極めて急速にその領主であるグ ラス (
Gr
a
s
s
e
)の司教に よって再植民 された。
この場合, ジェノヴ ァ湾に面 した北 イタ リアの リヴ ィエ ラ地方か らの移住者に
頼 ってお り, 1
471
年には23家族が来任 してい る。 イタ リアの リグ リア地方の移
住者が プロヴ ァンスの海岸地方に現われ るのは,正に この頃であ り, この移住
者は十五世紀末お よび十六世紀には現在 のヴ ァール県 の内部にまで拡大 して行
く。 そればか りではな く,デ ュランス河渓谷の コル ビエール (
Co
r
bi
とr
e
s
) にま
2
4
で も1
471
年 と1
47
6年 とに若干の ピエモ ン ト人が定住 している。 この地方に山岳
l
eLube
r
o
n)におけ る異端 ヴ ォ ドァ派の
人が到来 した ことが, リュブロン山系 (
2
5
起源をなす と言われ る。
1
41
0年か ら1
47
0年 までの間に,回復の徴候が若干 の地域に見 られ るが,反対
に回復す るどころか減少を続ける地域 もあ る。 したが って,全 体 的 に 見 た 場
合,人 口減少は一応中止 した とはいえ,いまだ増加の方 向に転換 した とは言え
ない。人 口が増加す る地域 と減少す る地域 とが併存 していることは,プ ロヴ ァ
ンス全体の人 口の増加 よりはむ しろ 自発的に,あ るいは人為的に起 された社会
の流動性の激 しさを物語 るであろ う。 プ ロヴ ァンスの この様な傾向は, プロヴ
ァンスに隣接 し, しかも史料的に より優れた証拠を提供す る ドフ イネのバ ロニ
Ba
r
o
nni
e
s
) 地方の傾向によって裏書 きされ る。 E・BARATI
ER は, ドフ
ィ (
イネ地方の人 口の動 きについて,つ ぎの ように述べている。 「1377- 1
42
0年間
に人 口の激 しい減少 と著 しい窮乏化があ る。 全体 として カマ ド数は場所に よっ
●●●
ドの数が十四世紀には多数を 占めていた
て ‡ か ら Ⅰ の減少を見,完全なカマ
430-50年間においては,事態は増大-の方 向
が,十五世紀には少数になる。 1
と減少- の方 向 とに僅かなが らの距 りを示 しなが ら安定す る。人 口の衰退は静
止 し,最低水準を示す。増加の徴候は,先ず 1
450-60年間では極めて散 々た る
ものであ るが, 1
460年か ら1
47
4年にかけて著 しく明瞭な もの とな る。 1
464年に
2
3 BARATI
ER,E.
:Lade
mo
g
r
a
phi
cpr
o
ve
nc
a
l
e
,p.86.
2
4 後述 5
0ペ ージを見 よ.
2
S BARATI
ER,E.
:Lad占
mo
g
r
a
phi
epr
o
ve
nc
a
l
e
,p.8
6.
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
41
は完全な
な (不完全な)
●●●カマ ドの数が悲惨
●●●
●●●● カマ ドの数 と均衡 を とるに至 り,そ
年 のそれ か らは劣 るとはいえ,既に経済的回復 と富裕化
れ放,人 口は まだ 1377
とが存在す る。集落での不満な声は減 り,数軒 の離村者があ るに過 ぎない。 こ
れ に反 して, 1427年 と1447年 とにおいては,死亡率,窮乏,河川 の氾濫,聖俗
貴族 に よる土地 の完全な没収についての苦情のみであ った。 その時においては,
2
6
死 亡 と離村 に よ り空 自にな った カマ ド数が残存す るカマ ド数を上廻 った。
」 ド
フ イネの この一地方 に見 られ る十五世紀前半における人 口の発展は, プロヴ ァ
ンスの事情を説 明す る傍証 とな りうるであろ う。
プ ロヴ ァンスにおけ る人 口の増加が明瞭に確認 出来 るのは , 1471年 か らであ
る と述べたが, この 1471年 とい うのは人 口積算の基礎にな った カマ ド調査の行
2
7
0年乃
なわれた年であ る。 したが って,増加の現象が現われ るのは,おそ らく1
至2
0年以前に遡 るもの と思われ る。各集落についての人 口増加の始期を決定す
る史料は存在 しない。少な くとも, 1471年 のカマ ド調査以後は,低地 プロヴ ァ
2
8
ンス も高地 プ ロヴ ァンス も一様 に人 口の増加を経験 してお るのみ な らず,荒廃
2
6 Ibi
d.
,p.8
7
.
27 1
471
年のカマ ド調査によれば, この年に人頭税 (プロヴァンスの人頭税は財産を基礎に賦課され
た)に服 したプロヴァンス全体の家族数は21
,
0
00である。人頭税を免除 された家族数を推定 して,
これに加えるならば,プロヴァソスの総家族数は最大限40,
0
0
0となるO家族構成を Sとすれば,紘
人 口は20
0,
000
人 となる。 (
FEVRI
ER,P・
A・
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Lapopul
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nceムl
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induXVes
i
占
c
l
e
,
)
,
p.1
44)
十五世紀中頃の Car
pe
nt
r
asの人 口を分析 した R.
H・BAUTI
ER は, この集落 の1
47
3
年 の家族構
成を平均7
.7としてお り,下表か らも知 られる如 く, ヨーロッパ全体か ら見て, 高水準を示 してい
る (
BAUTI
ER,R.
H.
:o
p,ti
t
.
,p.260)
O
(
I
bi
d.
,p.258)
2
8 利用 しうる数字に従えば,カ マ ド数が1
47
3
年まで引続き減少を示 した Carpent
r
asでも, 1
51
9
年
には一躍 2倍以上になっている。カマ ド数の動向は次の如 し。1
2
6
9
年 (
67
2
)
,1
3
80
年 (
9
3
6
),1
3
9
4
年
42
第 116巻
第
3 号
地 も再び定住 されるか, または,定住を伴なはな くとも,再 び耕作 され るに至
った。 1540年 までの約 70年間にプロヴ ァンスの人 口は,集落に従 ってその増加
2
9
は 2倍か ら 5倍に及んでい るが,全体 として平均 3倍 の増加を示 した。
十四世紀後半におけ る人 口の急激な減少,それに続 く十五世紀 中頃 までの停
滞 は,集落の再編成に大 きな意義を持 った。先ず低地 プ ロヴ ァンスに焦点を置
いて農村集落な らびに農業の変化の状態を述べ よ う。
ベル池畔の Jo
nqui
∼
r
e
s について 1308年 の認証 帳 と1418年 の土地台帳を分析
3
0
した J.
JUGLASの業績は,十五世紀初頭 の農業 の変化をまざまざ と示 して く
3
1
a
i
nt
Ge
ni
と
Sの Pr
i
e
ur
eの下
れ る. 前述 した如 く, この集落は, 1308年には S
に,他の三集落 と共に併存 していたが , 1418年 までに他 の ものは放棄 され, こ
れ のみが存続 したのであ る。 いま, 1418年 までの変化 の特色を摘記すれば,つ
3
2
ぎの如 くであ る。
1 地域の広 さには変わ りはないが,耕作地面積が著 し く縮小 してい る。
2
耕作地が居住地の近 くに集中化 され,離れた耕作地は放棄 され てい る。
居住地の近 くにある限 り,か って沼沢地 として顧 み られなか った場所が干
拓 され,耕作 されてい る。
3
耕作物の種類 として穀物が相対的に重要視 され, 1308年に c
e
nsが課せ
られた約 300の耕作地の うち, 1418年では 176に耕作 されてい る。 ブ ドウ園
と果樹園が完全に消滅 した地域で も,穀物耕作地だけは継続 してい る。
(
8
2
2
)
,1
3
9
8
年(
約8
0
0
)
,1
4
0
0
年(
約7
8
0
)
,1
43
3
年(
約7
00
)
,1
47
3
年(
52
0
)
,1
51
9
年(
I
,
06
0
) (
Ibi
d・
,p・
0
226 の図表)
2
9 BARATI
ER,E・
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J
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epr
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al
e,pp・90 s
qq・に掲載 されている多 くの図表は,客地の
A・
:(
・
Lapopul
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i
ondel
a Pr
ove
nceaI
af
in
増加の状態を数字的に明確にしている。 FEVRIER,P・
du XVes
i
と
c
le
,
)
,p.1
4
8
.
3
0 JUGLAS,J.
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1
Lavi
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agede Jonqui
占
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3
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41
8
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,
Pr
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l
i
s
t
or
i
que,T.ⅤⅠ
Ⅰ
Ⅰ(
1
958)
,p.9s
qq.
3
1 前述3
7
ページ以下を見 よ。
3
2 JUGLAS,J.
:op.c
i
t
.
,pp.2
8s
qq.
中世末期のプロヴァソスにおけ る農業の変化
43
1
308年に c
e
nsが課せ られた約2
00の ブ ドウ園の うち, 1
41
8年 では 11
0が
利用 されてほい るが,穀物 と比較 して よ り大 きな打撃を蒙 づた。
1
308年に ce
nsが課せ られた約 1
2
0の菜園の うち,35しか利用 されず,皮
大 の衰退を経験 した。 これは菜園の維持には より多 くの労働力 と配慮を必
要 としたか らであ る。
果樹園は数的にはほぼ維持 され続けたが,沿岸 に多 く設け られ るよ うに
な った。
牧場は増大 したが,その所在地が 1308年には殆ん ど常に丘陵地にあ った
41
8年 には耕作地 の脇に移 った。 この事実は農業 の衰退な らびにその
が, 1
悲惨 な状態の一つの証拠 で もある。
4 一般 に,住民の土地保有は分散的で, 1
3
08年におけ るよ りも個人的 また
は家族的面で よ り大 きな集中化は見 られ ない。
S 土地所有 の制度は顕著 な修正を蒙 った。 1
3
08年には,大部分の土地が,
Sa
int
Ge
ni
e
sの Pr
i
e
ur
6の所領であ ったが , 1
41
8年には 自由所有地が多数
を 占め るに至 る。 しか し,保有地 もなおつ ぎのよ うな割合で存在 していた。
穀物耕作地 176の うち21, ブ ドウ園 11
0の うち2
8,菜園35の うち 6。 保有地
i
e
ur
6に属 してい るものは,穀物耕作地 15, ブ ドウ園27,菜 園 3。
の うち Pr
(
) c
e
ns は,牧場については貨 幣で支払われたが, その他の所有地につ い
ては実物,主 として小麦で支払われた.十分の-税は支払われた もの と思
(
t
as
que,
1は殆ん ど消滅 した。
われ るが,確証はな い 。 (
Jonqui
と
r
e
sはその生活の基礎を専 ら農業においていた集落ではな く,水 産業
3
3
が重要 な産業をな していた。それ放,土地への関心は相対的に少な く,住民 の
土地保有は分散的であ った。 この種 の特殊事情があるとして も,農村 的集落 な
らびに農業 の変化 の姿が,或 る程度現わ されてい るよ うに患われ る。即ち,一
方 では廃村 と集落 の再編成を,他方では食料確保を中心に,労働力の不足か ら
33 前掲拙稿 ,8
1
ページに Jonqui
と
r
e
s において課税に服 していた富裕な住民 S名について,その財
産構成を-表に掲載 しておいたが, この S名の うち 2名が水産業に関係を持 っている。
4
4
第 116巻
第
3 号
結果 した と見 られる諸現象を示 してい る。
人 口の絶対的減少は,経済的に見て,住民を収益性の少ない土地を放棄 して
よ り収益性の高い土地に集中させたのである。 ところ が,十五世紀特にその後
半に人 口の増加傾向が再現 して来 ると,放棄地の再利用が始 まる。 プロヴ ァン
3
4
スの如 く,一般的に言 って,土地の肥沃度が劣 り,土地 の限界収益 力が急激に
低下す る場合には,少 しの人 口増加で も集落の 自給 自足がその近隣支配地だけ
で不足を来たす。そ こで,放棄地の再利用が急速に進め られ る。その際,放棄
された土地に再植民が行なわれ ることも多か ったが,また再植民を伴 なわずに
単に利用のみがなされ ることもあ った。 どち らの方 向を とるかは,社会的 ・経
済的 ・政策的 ・技術的 ・その他の条件に よって決定 された。か って放棄 された
土地に再植民をす る場合には,そ この元 の住民か, またはその関係者に よって
3
5
なされ ることもあるが,その土地に とっては全 くの外来者,時には異 国人 (
北
3
6
イタ リア人 の場合)さえ もが この植民に従事 した。
プロヴ ァンスで (
・
bas
t
i
de
s
>
)と呼ばれ る特有な居住形態が生 まれ るの もこの時
期であ り,植民 と関係を持 っている。 (
t
ba
s
t
i
de
s
,
)紘,集落か ら離れて,一連の
3
7
所有地の中心に設け られた孤立 した住居に よる居住形態で,低地 プロヴ ァンス
Cr
a
u)
地方,エクス,アプ ト,フオル カルキエ周辺に特に多 く, アル ジ
では,クロ (
3
8
ade
a
u,Br
o
vと
S附近に も散在的に比較的多 く見 られ る。
ァン河下流における Tar
3
4 前掲拙稿,45
ページ以下を見 よ。
3
5 1
3
9
9
年に Fre
j
usに住んでいた Vi
l
l
e
pe
y 出身の Je
an Lombar
d とい う人物の家族の一員が,1
47
S
年以来 Vi
l
l
e
pe
y に戻 っている (
FEVRI
ER,P・
A・
:(
<
LaBas
s
eVal
l
占
edel
'
Ar
ge
ns
'
)
,p・52)
0
3
6 前述4
0
ページ,および後述4
6
ページを見 よ。
3
7 T・SCLAFERT は,(
{
bas
t
i
de
s
}
)の出現を個人主義の萌芽 と結びつけて,つぎの ように述べている。
「
1
4
0
0
年以後個人主義の波は人間を旧い (
・
c
as
t
r
um,
) か ら離れた居住形態に押 しやる。 かれ らほ,
(
<
cas
t
r
um>
)を避けたのみならず,新 しい場所に団体をな して集まることを も欲 しな い 。」
FERT,T・
:op.ci
t
.
,p.1
01
)
(
SCLA-
3
8 FEVRIER,P.
l
A.
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Que
l
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ct
sdel
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,
)
,
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ol
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s
t
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71
5)
,Ann6e1
958,p.306;du m8
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La popu
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e左l
af
indu XVes
i
ec
l
e
,
)
,p・1
45・J.JUGL
.
AS も,Jonqui
かe
s に人々が集中化 した後
ma§
) が存在 した ことを指摘 している (JUGLAS,J・
:
に,それ以外の地区に若干の孤立 した農家 (
op.°
i
t
.
,p.21
)
0
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
4
5
特に多い地域では住民は完全 に集落 と (
<
bas
t
i
de
s
,
)
に分かれて居住 してお り,Chat
eaune
uf
Mi
r
avai
l(
Bas
s
e
l pe
A
s
)の如 く, 7- 8個にグル ープ化 してい る35個 の
・
bas
t
i
de
s
,
)が完全に土地を分け合 っている場合 さえある。 もっとも,あ る (
{
bas
l
(
3
9
t
i
de
s
,
)では小村に集団化す る傾 向があ った事実 も認めなければな らない。
再植民を伴 なわず に,単 に利用のみがなされ る場合には,かつての集落は廃
村状態を続け ることにな る。 プ ロヴ ァンスにおけ る多 くの集落民は,その集落
か ら離れた場所に多数 の耕作地,放牧場 な どを所有 し,不在地主 としてその経
4
0
営に当 っていた。確かに,不在地主 の存在は,都市の住民が農村の土地所有に
多大 な関心を寄せていた南 フランスでは,古 くか らの一般的現象であ ったが,
この期において この傾 向が よ り一層強ま った と言わなければな らない。
A.
P.FEVRI
ER は, プ ロヴ ァンスの二大都市 マルセ-ユ とエ クスに在住す
4
1
る者が , 1
540年に市壁外に所有 した土地の分散状態を示 している。 マルセ-ユ
s
i
s
,LesPe
nne
s
,Sai
nt
Mar
ce
l
,Neaul
x などに家屋 とか (
.
bas
t
i
de
s
,
)とか
人は Cas
を所 有 してお り, これ らの場所はすべてマルセーユの周辺にある。 これに反 し,
nt
M ar
° (
ll ba
s
t
i
de
s
)
, Thol
one
t (
ll ba
s
t
i
de
s
)
,
エ クス人は,市 の周辺の Sai
Sai
nt
Ant
oni
n(
3ba
s
t
i
de
s
)
,Sai
nt
Cannot(2家屋)
,Ve
ne
l
l
e
s(28の家屋とba
s
t
i
de
s
,
その他 4) のみな らず,更 に遠隔地 Pal
ays
on,Am
ir
at
,Tr
oi
s
e
mi
r
e
s
,Thor
enc に
も見 られ る。両都市の この よ うな差異は何に基づ くものか明瞭では ない。
個人の近隣地域での土地所有 と並んで,共同体 自体が他地に放牧場を所有す
る こともあ った。共同体に よる他地での放牧権 の獲得は よ り一層 しば しば見 ら
れ る事実 であ る。 この場合,あ るものが他 の ものを支配す るとい う形を とる際
に往 々見 られ る相互の対立 関係を起す ことな く,む しろ友好的契約に基づいて
4
2
行 なわれえた ことは注 目して よかろ う。 プ ロヴ ァンスの集落の存在が,経済的
な相互補完 関係に よ り多 く基づかなければな らなか った ことも, この ことに関
3
9 FEVRI
ER,P,
A.
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Lapo
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T
)p.145.
4
0 FEVRI
ER,P.
A.
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p
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1
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.
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41 I
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i
d
.
,p.31
1
4
2I
b
i
d
リp.31
1s
q
.
4
6
第 116巻
第
3 号
係を持 ってい るように思われ る。
共同体相互 の関係がか くの如 くであ るのに反 して,共 同体 と領主 との問には
4
3
しば しば係争事件が起 ってい る。 領主は,政策的意図の下に村落 の再生 と新村
.
l
A.FEVRI
ER の挙げ るアル ジ ァン河流域 の
の建設を積極的に推 し進めた。 P
4
4
Bagnol
sにおけ る植民の例を述べ よう。 Bagnol
sは 1
471
年 の カマ ド調査には,
その対象 とな ってお らず,おそ らく住民は存在 しなか った もの と思われ る。 し
か るに 1
476年 3月に領主であ る司教の居住令が 出され てい る。 これ は, 司 教
Ur
bai
n deFi
e
s
queが兄弟の He
c
t
or を して イタ リアの リグ リア地方 におけ る
Al
be
nga聖堂区の Loui
sAme
r
o に依頼 して, 75年以上放 置されていた Bagnol
s
の土地を耕作 し うる植民者を釆住せ しめ よ うとした ものであ る。 移住者には,
0s
e
t
i
e
r の穀物を与えた。 この地
収穫後返済す る とい う条件で,種子 として 15
方 の土質は穀物耕作に適 し, しか もフ レジュス (
Fr
6
j
us
) とい う良港が控えてい
たので,司教は穀物耕作を 目指 して植民を意図 したのであ る。 従 って ブ ドウ,
オ リーブの栽培は植民者 自らの費用で行なわねはな らなか った。翌年 の 1月以
来 この地に植民者が到着 した。とい うのは 1月 5日に フ レジュスの商人 Phi
l
i
ppeJus
t
iが Al
be
nga 出身で, Bagnol
sに移住 した M6
r
o 兄弟 (
Je
a
n と Pa
ul
i
n)
4
5
・
me
ge
r
i
e,
)契約を取 り結んでい るか らであ る。 この商人 Jus
t
i は1
472- 6
と (
年 間に亙 って司教庁の主計係を していた人物で, Bagnol
sの植民について司教
と無 関係ではなか った よ うに思われ る。 この契約に よって Jus
t
iは 4頭 の牛 と
<型べ ら>,
付 きの無輪型を Sか年間貸与 してい る。 借主は, この年を耕長 と材
木運搬に使用す るのであ るが,その年を養い,利益 の半分を貸主 に渡す ことを
約束 してい る。 また,貸主は播種用小麦を与え,必要あれば貨 幣を も与え るこ
とを保証 してい る。 Sか年後には無輪梨が返済 され,牛 2頭 は兄弟の所有にな
る。 以上の事実か ら,司教は特定な人物に植民 の業務を委托 していた もの と考
43 I
bi
d.
,p.31
3.
4
4 FEVRIER,P・
A・
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LaBas
s
eVa
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l
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edel
'
Ar
ge
ns
,
)p・551なお,この論文の末尾 (
pp・59s
qq・
)には
1
4
7
6
年 3月の居住令の全文が掲載 されている。
4
5 後述5
2
ペ ージを見 よ。
中世末期のプロヴァンスにおけ る農業の変化
47
え られ る。 領主 の収益増加 の意図は,放牧権を外来者に しば しば販売 した事実
に も現われてい る。 領主 の この意図は,旧い村落の住民が享受 していた利益 と
衝突す る場合が多か った。 これが両者間の係争事件を惹 き起す原因 とな ったの
であ る。
-般に地 中海的気候の下にあ る低地プロヴ ァンスの耕作農業は,古 くか ら穀
物耕作以外に, ブ ドウ, オ リーブな どの栽培に向け られていた。 しか し,各 々
の地域におい て,更に細かな 自然的環境の差異 に基づ き,あ るいはまた,経済
的事情に よって これ ら三種類 の耕作割合は異な っていた。経済的繁栄期には,
それぞれ の作物 の相対的適地での専門化が強 ま り, Lか らざる場合には,穀物
の 自給 自足へ の傾 向を見 る。 十五世紀初頭の経済的衰退期 に Hos
pi
t
al
i
e
r
sの所
有地 において, ブ ドウ園が穀物耕作地に転換 されてお り, 同 じ頃同一現象が マ
4
6
ル セーユ近傍において も見 られ る。 この よ うな現象は,穀物 の単作地域ではな
く, しか も穀物 の収穫高,従 ってその収益性が若干の適地 (ローヌ河およびアル
ジァン河下流)を除い て,相対 的に高 くなか った ことか ら起 るもの と思われ る。
かか る意味において,経済 的繁栄期には,地域的な経済的相互補完 関係が よ り
強 く必要 とされ る地域 と言 うことが出来 よ う。 したが って,都市は言 うに及ば
ず小集落 の多 くが穀物の供給に常に意を用いねはな らなか った。十五世紀後半
か ら十六世紀 にかけて継続的な経済興隆期が訪れ ると,再 び作物の地域的な専
門化が進んだ。 この期 に低地 プ ロヴ ァンスにおいて作物 の地域的な専門化が顕
4
7
A.FEVRI
ER は,つ ぎの三地域を挙げてい る。
著に見 られ る地域 として P.
1 0ut
r
e
Si
age 地域 - ブ ドウ,オ リー ブその他の果樹の うちに, 小島の如
く小麦 の豊 富な僅かな地点を持 ってい る。
2 Toul
on 地域 -・
穀物に対 して ブ ドウとオ リーブが優越 してい るが, その
他の果樹はない。
3 低地 と高地 の両 プ ロヴ ァンスの境界にあ る台地 -・
オ リーブの栽培が優越
してい る。
4
6 FEVRIER,P.
A.
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Pr
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nce)
)
,pp.307s
q.
47 Ibi
d.
,pp.305s
q.
48
第 116巻
第
3 号
1
471
年のカマ ド調査では,家畜についての記事は断片 的で,低地 プロヴ ァン
スの牧畜の全貌を知 ることが出来ない。 しか し,若干 の記事か らアルル地方に
4
8
は十四世紀前半 と同様に家畜の大群がいた もの と思われ る。例えば ,Lamanon
の土地が Senasの住民に よって保持 され,多数 の家畜を養 うために殆ん どすべ
ての耕作地が牧場に代えられ,小麦耕作地が著 し く切 り詰め られた。 また, 同
じ調査は Sai
nt
e
s
Mar
i
e
s
de
1
aMe
rに3
0,000頭の羊 と1,000頭の牛を挙げてい る。
しか しこれほ ど多 くの牛は他に見 ることは 出来な く,む しろ牧畜の中心は羊に
あ った。 東部の Fayence周辺 (
Br
i
g
nol
e
sと To
ul
o
n の中間地域)では,税負担者
当 り平均 30頭未満の羊を所有 してい るが, これは,高地 プロヴ ァン女 (
pr
6
a
l
pe
s
地域)におけ る平均30-60頭の羊 よ りは劣 ってい る。 もっとも Fayence周辺は
住民の少ない ところで, しか も調査が断片的な ものであ るので一般化す ること
は出来ない。
高地 プロヴ ァンスについては, ここの住民の生活を支 える主要な産業であ っ
た林業 と牧畜業に関 し中世末期に生 じた諸変化を取扱 う。
高地プロヴ ァンスにおける集落の破壊 と放棄は,経済的観点において相矛盾
す る二つの結果をもた らした。一方では,残存者は資源を 自由に利用せん とし
て附近の荒廃地に侵入 した。最 も魅力的な資源であ る森林に容赦な く無断で入
り込み,樹木を濫伐 し,部分的乃至全体的に森林を根絶す るに至 った。他方で
は,放棄せ られた土地が人里離れてい るとか, またはなん らかの理 由で接近が
困難である場合には,何人 もそれに魅力を感ぜず, 自然のなすがままに放 置さ
れた。ために,土地は樹木で蔽われ,猪 とか鹿 とかに適 当な住処を与えた。 こ
の野獣は農村 とか都市近傍に出没 して ブ トウ園,耕作地,菜園を喰い荒 らした。
これがため,各所で森林保護の手段が講ぜ られ,村民に よる狩猟の自由が認め
られた。
十四世紀の後半,即ち 1380年に Se
yne の cons
ul
s は, 共有林で落葉松,樵,
48 I
bi
d.
,pp.3
04s
q.
中世末期のプロヴァンスにおける農業の変化
4
9
針椎を伐採 した り,損傷 した りす ることを禁止 してお り,その違反者は領主に
4
9
2S
・
,共同体に 1
0S
.の罰金を支払わねはな らなか った。フ オル カルキエ地方では,
Mane
,For
c
al
qui
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r
,Le
sYbour
gue
s
,Sai
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lの四つ の共 同体が,Chat
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uf
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I
Maneの森 林 の利 用 に つ い て話 し合 うよ うそれぞれ の s
yndi
c
sに要請 し
5
0
てい る。 1
385年 に Bar
c
e
l
onne
t
t
eの s
yndi
c
sは,加工 ・未加工を問わず材木を
Bar
c
e
l
onne
t
t
eの渓谷外に持 ち出す ことを禁止す る許可を国王に求めてい る。村
民に よる狩猟 の 自由については,つ ぎの例が挙げ られ る。 野獣対策に とって下
級役人がなん らの手を打たず,依然 として獲物の‡ を要求す るとい う会欲な振
舞を続けていた ので, Si
s
t
e
r
on の bai
l
l
i裁判管区の諸集落 の住民は,直接の上
ne
c
halに訴 えた。そ こで,1
377
年に Sか年 に亙 って戚課 の免除
級役人であ る S6
5
1
yne では,獲物 の大 きさに従 って
された狩猟権が住民に与 え られた。 また, Se
報償金を与 え,狩猟を奨励 してい る。
低地 プ ロヴ ァンスにおけ る と同様,十五世紀以後徐 々に放棄 された土地の再
植民が見 られ る。 自発的 占有 として行なわれ る場合には,個人の 自由意思 の下
に場所の選択,放牧場 ・森林 の利用がなされたので,無秩序利用に基づ く土地
の荒廃は著 し く,特に移住を伴なわない時には甚だ しい。高地 プロヴ ァンスに
<
bas
t
i
de
s
,
)の出現を見 るが, ここでは先ず牧人に よって家畜の避難所
おいて も (
として設け られた納屋が,次第に恒久的住居 としての設備を整 えて行 ったので
あ る。 この (
・
bas
t
i
de
s
,
)は,未 開 または開拓 された森林,牧場,小麦耕作地に よ
5
2
<
afar
,
)と呼ばれた。
って取 り囲 まれ てお り, 当時 (
領主 も収益源 として荒廃地を利用す ることに関心を向けた。領主 自らが荒廃
地を組織化 して直接的に,あ るいは植民政策を通 じて間接 的に利用 した。前者
5
3
の例 として Pont
e
v∼
Sの領主 の場合を挙げ ることが出来 る。 Pont
e
v∼
Sの城砦 と
49 SCLAFERT,T.:Cul
t
ur
e
sen Haut
e
Pr
ove
nce,pp.91s
q.
5
0 Ibi
d.
,p.92.
5
1 Ibi
d.
,p.91
.
5
2 Ibi
d.
,p.1
01
.
5
3 Ibi
d.
,p.1
04.
S
O
第 116巻
第
3 号
村落は破壊 され,住民は消滅 していたが,領主は極めて貿 明に この事態に対処
bas
t
i
de,
)を設け,それを (
<
bas
t
i
dedePont
e
vと
S
,
)と呼んだ。そ こ
した。 一つの や
には非常に良い放牧場 と ドング リの豊富な大森林 とがあ り,領主は豚の大群を
飼育 して年 1,000乱 以上の収益を挙げた。 また,肥沃 な土地に 250char
ge
sの耕
作地を所有 し,その大部分を賃貸 ししたが,賃借人に耕転用家畜 と種子を与 え,
賃貸料 として小麦 300c
har
ge
sを うることが 出来た。 後者即ち植民政策を通 じ
て間接的に荒廃地を利用 した例 として, Cor
bi
とr
e
sの場合を挙げ ることが 出来
5
4
bi
と
r
e
sは十一世紀初めの史料に現われてい るが , 1
400年には完全に荒
る。 Cor
廃地 とな った。 ここへの移住は北 イタ リアの トリノ司教区に 属 して い る La
Ce
l
l
e お よび Sai
nt
Dami
e
n か らの来住者に頼 った. 来住者には (
(
c
as
t
r
um,
)の
内外において 自由に住居を建設 し,耕作地な らびに未耕作地を 占有 し, ブ ドウ
を植え,小牧場,菜園を作ることが認め られ,立入禁止地区を除いてすべての
森林 と放牧場に木材採取 と放牧のために侵入す ることが許 され,更には狩猟権
さえもが与え られた。
荒廃地の 自発的占有 と並んで,長期賃貸借契約に基づ く合法的な土地賃借 も
十五 ・六世紀就中十五世紀に数多 く見 られ る。契約対象物は,開拓 さるべ き森
林,荒廃 した耕作地に限 られ ることな く,水車 とか,時には領主権,荘園全体
5
5
にさえ及んでい る。
高地 プロヴ ァンスの住民に とって重要な生活 の 基 礎 の 一 つ を な して い た
5
6
(
・
t
e
r
r
ega
s
t
e,
) の制度において も,重要な変化が見 られ る。一種の共有地である
〝
t
e
r
r
egaS
t
e抄において,住民は可成 り広範な 自由な用益権を行使 していたが,
その所有権は伯ならびに地方領主に属 していた。そ こで 《
t
e
r
r
egas
t
e,
)の一部を
t
t
as
que
,
)の支払いが要求 さ
開墾す る場合な どには, 所有者の許可 とかれ- の (
れた。 ところが,一方で,住民は領主に属す る所有権を茂に し,領主 の要求を
なん ら守 らず,他方で,領主は所有権を 自己の収益 のために強 く意識 したので
S
4'
I
bi
d.
,p.1
09.
S
S I
bi
d.
,p.1
05.
5
6(
{
t
e
r
r
ega
s
t
e
,
)の制度については,前掲拙稿6
3
ページ以下を見 よo
中世末期のプロヴァソスにおける農業の変化
5
1
両者 の間に係争が持 ち上が った。 この場合,住民に有利な結末にな った場合 も
<
t
e
r
r
egas
t
e,
)
多 く,結局領主 はなん らの収益を もあげ ることが 出来な くな った (
5
7
を共 同体に低廉な価格で販売す るか,あ るいはまた 自発的に贈与す るに至 った。
か くして,十六世紀 までに大部分の共同体は (
(
t
e
r
r
egas
t
e,
)の所有者 とな った.
l
ar
d におけ る一例を示そ う。Vi
c
omt
eが (
・
t
e
r
r
egas
t
e,
)を引渡す際に
い ま,Tal
年 の協定は,つ ぎの内容を含んでい る。「く
く
t
e
r
r
egas
t
e,
)の
共 同体 と交わ した 1511
使用は,領主 と住民に とって共通であ り,そ こで放牧 させ,薪を とることが 出
来 る。 しか も領主は決 してそれを我が物 とした り,新 し く賃貸 しした り,外来
5
8
家畜 をそ こに導入す るよ うな ことは しない。
」 い まや,開墾に とってのなん ら
の許可 も必要 とせず, また開墾地の 自由選択 も可能にな ったので,それだけ住
民 の開墾意欲を掻 き立 てた もの と思われ る。 しか し,高地 プ ロヴ ァンスにおけ
5
9
る森林 と放牧場の意義は決 して失われたのではない。耕作地,森林,放牧場の
問にはあ る程度の組織化が行なわていた。耕作に適合 した場所は耕作地 として
利用す るが,伐木禁止地区,放牧禁止地区を設けて森林 の保護をなす と共に,
c
ompas
c
ui
t
6
-vai
n pat
ur
e
)について も考慮が払われた。
共 同放牧場 (
人 口の減少 した時期には,家畜 の頭数 も減 った。十五世紀就中その後半以降
人 口の増加 と並行 して牧畜業 の繁栄 も顕著 とな った。家畜頭数を正確に評価す
as
s
e
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t
e
l
l
ane
, Gui
l
l
aume
s
, Sai
nトPaul
deVe
nce
る史料は存在 しないが,Gr
の地域に限定 して見 る と,公証人 帳簿に記載 された放牧場の賃貸借契約な らび
6
0
に家畜賃借契約が この時期に増加 してい る。 また, 1471年 の カマ ド調査は, こ
こでの家畜頭数は幾分過少に評価 されてい るとも思われ るが,それで も家長 当
6
1
り平均 1
00頭 以上 の村落を相 当数示 してい る。
牧畜が隆盛にな るにつれ て,家畜賃借が広 く行なわれ るに至 った。家畜貸借
5
7 SCLAFERT,T.:op.ci
t
.
,p.1
23.
5
8 Ibi
d.
,p.1
23.
S
9 Ibi
d.
,p.1
25.
60 Ibi
dリp.1
33,
61 Ibi
d・
,pp・1
4
0s
qq・
には,Grasse,Castel
l
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,Gui
l
l
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ume
s
,Sa
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paul
de
Ve
nc
eの1
471
年のカマ ド
調査に含まれた家畜調査の分析 と図表化が巧みに試みられている。
5
2
第 116巻
第
3 号
それ 自体は十 四世紀以前において も既に見 られ る事柄であ るが,十五世紀初め
以来その契約数が漸次増大す ると共に,新 しい契約形式が登場 して来 るのであ
る。 新 しい契約形式の一つ として (
.
me
t
t
e
r
i
e(
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r
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)ami
dr
oi
tetc
r
oi
t
,
)と呼
6
2
ばれ るものがあ る。 これは増加分の折半のみな らず,契約時に賃借 の対象 とな
った家畜 の折半をも意味 していた。公証人 帳簿では,か っての家畜 貸借は (
f
ad
me
di
um i
nc
r
e
me
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um,
)と記載 されたが, い まや, (
l
ad me
di
asr
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,
)(
方言で
は
ami
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s
) とされ るに至 った。
家畜の賃貸借の形を とった新 しい契約形式 として, (<arr
e
nt
ame
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um ave
r
i
s
,
)
6
3
と (
・
l
oc
at
i
o ave
r
i
s
,
)を挙げなければな らない。前者 は一定数 の家畜 を一定期間
(
例 えば 6年)貸付け,借受人は賃借料 として年 々一定量の畜産物, または貨 幣
額 を支払い,契約終了 と共に契約時 と同一の数 と品位 の家畜 を返却す るもので
あ る0 1
429年 1
2月2
0日に Manos
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l
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al
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r近
傍 の Sai
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an Aut
r
an に 1
55頭の緬芋類 (1
08頭の牝羊または子羊 と
47
頭の山羊または小山羊) を賃貸 しした。借受人は賃借料 としてペ ンテ コステ と
聖 ミカエル祝 日の二回に分けて年 1
8丘・を支払い,契約終了時には,契約時 と
同一 の数 と品位 の家畜をなん らそ こな うことな く, また毛を刈 り取 る こともな
く返却す ることを要求 された。賃借料 として畜産物,例 えば チーズ何程 と定め
られた場合 も多 く,返却時の家畜の品位については,牧羊企業家 の専 門的判定
・
l
oc
at
i
o ave
r
i
s
,
)契約は, Col
mar
s地域に多
に委ね ることもあ った。後者即ち (
6
4
く見 られ る。 その共通の特色は, 6月前半に契約 され てお り,期限は 3か月 の
短期で,専 ら乳用牝羊 ・山羊に適用 され,貸借料は何程か のチーズで定め られ
6
5
てい る。 更に十六世紀か らは牧畜組合 の契約が数多 く見 られ る。 これは特定 の
数人が,それぞれ同数の家畜を出資 し,共 同の計算で牧畜 を営む ものであ る。
十六世紀以前に もこの形態は存在 した と思われ るが, この世紀か らは低地 と高
地 の牧畜業者 の問で組合が形成 された。
6
2 Ibi
d" p.1
51
.
63 Ibi
d.
,p.1
56・
6
4 Ibi
dリ p.1
57・
6
S
I
bi
d.
,p.1
5
8・
Fly UP