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幸福追求権 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要

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幸福追求権 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要
幸福追求権
研究ノート
幸福追求権
―延長上に家族と平等を一部考える―
君塚 正臣
1.憲法 13 条の権利性
日本国憲法 13 条は、
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及
び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法
その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と謳う。これは、戦前の全体
主義やなおも戦後日本に残る集団主義的傾向を否定する一方、他方で無政府主
義や利己主義も否定して、個人主義・人間尊重主義を根幹とする人権宣言の一
般原理、特にアメリカ独立宣言を淵源とするものと受け取られている。
*アメリカ独立宣言の思想的支柱とされるジョン・ロック『統治二論』
(1690)では、
「幸
福追求」ではなく「財産」が掲げられている。この点、ロックの『人間悟性論』
(1690)
を引用して両者は同じであるとする説、日本国憲法の理想主義の下で「財産」の発展形
が「幸福追求」となったとする説がある。
古くは、プログラム的・倫理的規定、人権宣言の一般原理に過ぎないとする
説も強かった。また、第 1 文の「個人の尊重」の言い換えとする説、15 条以
下の個別的人権(人権カタログ)の根底に存する自然法的権利とする説、個別的
人権の総称とする説などのように、13 条に「切り札」的価値を認めない説も
有力であった。しかし、本条が「権利」の語を含むこと、個別的人権で憲法上
の人権は尽きるものではないこと、多くの「新しい人権」の主張の拠り所にで
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きることなどから、その権利性が承認されるに至った。そして、その位置や文
言からして、他の個別的人権と並置される独自の個別的人権とこれを解する説
は有力にならず、14 条(平等権)と共に包括的人権(基本権)と解されるように
なった。判例も、
京都府学連事件(最大判昭和 44 年 12 月 24 日刑集 23 巻 12 号 1625 頁)
で 13 条の権利性を承認している(但し、明示的な裁判例は稀少)。
ドイツ基本法(憲法)の影響から、第 1 文の「個人の尊重」を人権とする説
もあるが、第 2 文に「権利」が明記されており、日本ではその必要はない。
「生
命」や「自由」に独自の意味を読み込む説(予防接種禍東京訴訟一審=東京地判昭
和 59 年 5 月 18 日判時 1118 号 28 頁などを評価する)もあるが、多くの学説は、それ
も幸福追求の一側面であるとして、
「生命、自由及び幸福追求」は一体のもの
として、総合的にこれを「幸福追求権」と呼称している。
*ナチズムを経験したドイツの基本法 1 条は「人間の尊厳」
、2 条は「人格の自由な発展」
を掲げるが、日本国憲法で同じ位置を占める条項が「個人の尊重」という文言を選択し
たことは重要である。
「人格」の重要性もさることながら、集団の拘束に対する個人の
自由に力点があると考えられる。また。本条の考察から、
日本国憲法は極端な自由主義(い
わゆる新自由主義など)も協同体主義(社会主義や民族主義、家族国家など)の統治も
予定していないとも言えよう。
日本国憲法の諸権利は、22 条や 29 条に代表される古典的自由主義を体現す
る人権、15 条などに代表される民主主義を体現する人権、25 条などの福祉や
実質的平等を体現する人権があり、そのままこれらの諸価値を日本国憲法は内
包している。これら 3 つの原理はトリレンマの関係にあるので、包括的人権で
あり人権の要である 13 条の中身がこれらを含みつつ、その調整の中で憲法的
価値と認められる内容が 13 条の下で憲法上の権利として具体化されることを
示唆しよう。このほか、31 条に代表される法の支配(実質的法治主義)の価値を
も、13 条は内包していると考えられる。これらの事情により、13 条について
作為請求権的性格を全く否定して、専らに自由権を包括する権利と見做すこと
はできないと思われる(まして、「幸福追求」の中心を経済的自由と考えることはできな
い。他方、本条を政治的プロセスの基本権に傾斜しても読めまい)
。また、13 条は適正
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幸福追求権
手続を一般的に保障する条項と考えられ、31 条は刑事手続・刑罰に関する特
別則を定めたものと考えられる(判例は、成田新法事件=最判平成 4 年 7 月 1 日民集
46 巻 5 号 437 頁などで適正手続保障 31 条準用説に立ち、通説も同じ。 但し、人権毎にある
べき手続保障が異なり、
その司法審査基準も異なることには注意すべきである。 個人タクシー
事件=最判昭和 46 年 10 月 28 日民集 25 巻 7 号 1037 頁は、職業選択の自由に関わる事案を
考慮して、申請者の主張立証の機会を必要とした)
。重要な人権ほどその侵害は慎重か
つ最小限でなければならないとする比例原則は人権の一般則であり、その根拠
は 13 条であると考えられよう(但し、比例原則が合憲性判断の決め手=物差し等にな
らないことも注意したい)
。また、一般にパターナリズムによる人権制約が許され
ない根拠条文ともなろう(民法 7 条の成年被後見人制度、11 条の被保佐人制度は許容さ
れよう。旧 11 条の凖禁治産制度につき、最大決昭和 36 年 12 月 13 日民集 15 巻 11 号 2795 頁
参照)
。
*包括的人権条項は私法原理(秩序)を支配するなどと記される例があるが、裁判所を含
む公機関において、上位法である憲法が下位法である民法などの諸法令の解釈基準とな
ることは公理である。民法 2 条や 90 条がその根拠なのではない。違憲の法令は無効と
なり、合憲的に解釈適用されることが公機関に要請されるのみである(違憲審査権を有
さないフランスの裁判所の場合と異なり、日本で無効力説はあり得ない。また、憲法判
断を独立した憲法裁判所に委ねるドイツの例とも異なり、日本では通常の司法裁判所が
民事事件でも当然にこれらの判断をできる)
。これは、私人間に憲法が直接効力をもつ
こととも法理論的に異なる。
2.幸福追求権の性格
幸福追求権は、平等権と同様、包括的人権であるが、独立した人権と承認さ
れるに至っているが、その中身については大きく 2 つの立場が対立している。
人格的利益(人格核心)説は、幸福追求権を、
「人格的自律の存在として自己を
主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する
包括的 な 主観的権利」(佐藤幸治『憲法』〔第 3 版〕445 頁(青林書院、1995))な ど と
するものであり、通説と言ってよい。
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だが、これに対しては、(i)多様な利害のうち、憲法的保障の可否を決する
のに、人格的生存に必要不可欠というメルクマールを用いられるか、
(ii)人格
概念が不明確である上、自律が幸福であるという決め付けが濃厚で、かつ、人
格主義に流れがちである(日本国憲法が特定のあるべき人間像に歩むことを国民に義務
付ける結果になる)
、
(iii)ここに含まれない広範な自由の規制が不当に許される
ことになる、などの批判も強い。また、
「生命」権に独自の権利性を認める立
場からは、人格的利益説が生命権を軽視する危険があるとの指摘もある。
*人格的利益説の論者の多くは、
「生命、自由及び幸福追求」一体のものを幸福追求権と
呼び、生命権を軽視するものではない。むしろ、自殺の権利を否定する傾向が強いなど、
現実の学説はその逆であろう。しかし、人格的自律を持ち出せば、合理的計算の結果、
究極的自己決定としての自殺は否定できないのではあるまいか。結局、憲法が求める人
格者(人間としての立派さ)とは何かを解かねばならないという困難さに漂着するよう
に思われる。弱者・少数者の権利や社会権の軽視など、
「人格的自律」の語の一人歩き
も危惧される。
そこで、
「新しい人権」のごく一部を承認するのではなく、人の生存活動全
般にわたって成立する一般的自由を、憲法 13 条は保障するのだとする一般的
自由説が有力に唱えられることとなった。昼寝や散歩、飲酒や喫煙、趣味など
の日常生活の自由まで幅広く憲法は保障しており、ただ、他者の人権との矛盾
衝突は「公共の福祉」により調整すれば足りるなどとするのである。
この説に対しては、
(i)保障する内容が反射的利益と呼べるものなど広汎に
過ぎ、13 条が「ドラえもんのポケット」化してしまう、
(ii)権利のインフレ
が生じる結果、歴史的に重要な人権とされてきたものが相対化されてしまう、
(iii)権利の外延が不明確で、後に「公共の福祉」で制限されるとはいえ、殺人、
自殺、
麻薬、
賭博までもが憲法上の権利とされるのか、
などの批判がある。また、
およそあらゆる人権が憲法 13 条から創出できるということは、最終的には哲
人的な裁判所による憲法改正の許容に等しく、かつ、わざわざ規定した筈の個
別的人権を単なる例示としてしまう点でも問題がある。日本国憲法をそこまで
自由主義に突出した憲法と考えてよいのか、13 条は(参政権や社会権は視野にない)
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幸福追求権
「自由権」ばかりの一般則なのか、という疑問もある。
*このため、一般的自由説の中には、殺人、麻薬、賭博など、伝統的に犯罪とされるもの
を排除する見解もある。だが、これをどう区別するかが曖昧である上、正当防衛などで
複雑な再検討を要するなど、学説的不統一感は拭えない。
最高法規の一般条項の中身は最高法規全体の解釈により決せざるを得ず、お
よそ日本国憲法が保障しているとは思われないものを保障すると考えること
は、矛盾に等しい。憲法 13 条の保障する中身は、個別的人権条項を通観して、
これらからは漏れるが基本的人権として保障するに値する、もしくは当然に保
障されると解されるものに限られよう。この際、憲法が特に予定していない
「人格」や「自律」によって 13 条の保護範囲を区切ることもまた適切ではない。
加えて、幸福追求権は、いわば人権条項の一般法的位置を占めるため、個別的
人権が適用できる限りはそれが優先される(補充的保障説)。よって、
「新しい人
権」であっても、
政府情報公開請求権が憲法 21 条の解釈から導き出せるように、
専ら個別的人権条項で保障される権利について、13 条上の権利と言う必要は
ない。このため、幸福追求権の守備範囲は、その意味でも限定されよう。
*宗教的人格権については、20 条解釈の中で曖昧な内容を煮詰める必要を感じる(自衛
官合祀事件=最大判昭和 63 年 6 月 1 日民集 42 巻 5 号 277 頁 な ど 参照)
。さ ら に、被選
挙権を 15 条が、外国旅行の自由を 22 条が明文で規定していないなどしても、その密接
性から、当該権利はこれらが保障したと考えるのが適当である。同様に、社会権保障に
ついては 25 条が、刑事手続については 31 条が、それぞれの領域の一般条項の役割を果
たしており、13 条の出番ではない。逆に、ある権利を創出するのに、前文・1 条・15 条・
21 条・25 条などのように数多の条文等を根拠に掲げるのであれば、13 条のみを掲げる
べきであろう(なお、情報公開請求権については 21 条を挙げれば足りる)
。
このように考えると、13 条で保障されるのは、まずその文言からして、生
命権や身体的な自由であろう。次いで、生命・健康を害しない環境で生活する
権利という意味での(狭義の)環境権も保障されると考えられよう。21 条 2 項
や刑事手続上の人権条項からしてプライバシー権、19 条及び日本国憲法の個
人主義からして名誉権などは、何らかの意味で 13 条が保障していると考える
に値すると思われる。これ以外のものについては、よく考える必要があろう。
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3.幸福追求権の中身
13 条の保護範囲であることに学説上の争いがあまりないものがある。その
内容は、生存自体に密接に関わるか、人間の精神存在性に関わるものであって、
侵害法令等の司法審査基準は厳格審査と考えるべきであろう。
これに対し、従来、一般的自由権ならば認められ易い「新しい人権」も多数
ある。だが、その多くは、仮に認められても緩やかな合理性の基準で審査され
るべきものであろう。これらは、政府に権利侵害や利益保護を訴える際に、
「憲
法上の権利」というインパクトを与えられるかに焦点があるようにも思える。
*この結果、真っ向から対立しているように見える人格的利益説と一般的自由権説などの
諸説も、その哲学的差異は兎も角、機能的な差はあまりない。
(1)生命権・身体的自由権
個人主義・自由主義・民主主義を基本原理とする日本国憲法が、全体の利益
のために生命を奪うことは、厳格で適正な刑事手続の下で許容されるのみであ
る。身体的拘束も同様である。憲法は 18 条で奴隷的拘束の絶対禁止を禁じて
おり、これに類する非人間的もしくは不合理な生命・自由の剥奪は許されない。
強制予防接種において、伝染病による死者・重大な障害が残る者より人数が
少なくとも、副作用で死者などが生じることは、以上の意味で許されない。29
条勿論解釈説、29 条類推解釈説、25 条説、17 条説(東京訴訟二審=東京高判平成
4 年 12 月 18 日高民集 45 巻 3 号 212 頁などは、歴代厚生大臣の過失として国家賠償請求を認
容した)などもあるが、端的に 13 条違反として国の責任を認めるべきであった。
ハンセン病患者の長期の強制隔離が問題となった訴訟で、裁判所は居住移転の
自由の問題などに矮小化せず、13 条から導かれる人格権の不合理な侵害と断
じ(熊本地判平成 13 年 5 月 11 日判時 1748 号 30 頁)、確定した。行政手続として強制
採尿・採血・指紋押捺などがなされれば、
本条の問題となるケースもあろう(何
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幸福追求権
れも、身体的自由の侵害であると共にプライバシー権侵害の恐れもある。同様に、国が個人
に特定の生き方を強制することなども許されまい)
。
(2)環境権
環境権概念については、文化的・社会的環境まで含む説もあるが、工業化・
都市化に伴う公害問題の深刻化の中でそれが主張されたことや、13 条で保障
するものは生命や健康を脅かすものと考えるべきことから、大気・水・食品・
音・臭い・日照などの自然環境に関するもののうち健康上基本的レベルのもの
とまずは解するべきであろう。微妙なものに嫌煙権がある。受動喫煙の弊害は
言われて久しいが、既存の公害問題ほど深刻でないと考えられてきた(国鉄喫
煙車両を受忍限度とした東京地判昭和 62 年 3 月 27 日判時 1226 号 33 頁など)
。但し、今
日では公共施設内の分煙や全面禁煙が一般化している。
*環境権 は 25 条 で 保障 す る(国立歩道橋事件一審=東京地判昭和 48 年 5 月 31 日行集
4=5 号 471 頁)
、もしくは 13 条及び 25 条が重複的に保障するとする説が多い。しかし、
25 条は経済格差を是正する実質的平等を実効化する社会権の一般条項と考えるならば、
環境権はその守備範囲ではない。生命や健康に密接に結び付く問題である限りでは 13
条の保障とすべきであり、これにより保障が弱まると考えるべきでもない(むしろ 25
条では司法審査基準が低まる)
。
企業の不法行為を問う民事訴訟が多いが、主に国を訴えたものもある。大阪
空港訴訟 で、二審(大阪高判昭和 50 年 11 月 27 日判時 797 号 36 頁)は、人格権侵害
を理由に午後 9 時以降の航空機の離着陸差止めを将来に向けても認めたが、最
高裁は、航空行政権を民事訴訟で争うことは不適法として過去の損害賠償のみ
認 め た(最大判昭和 56 年 12 月 16 日民集 35 巻 10 号 1369 頁)。横田基地訴訟二審(東
京高判昭和 62 年 7 月 15 日判時 1245 号 3 頁)も、
「人格権の一種として、平穏安全に
生活を営む権利」を認めたが、飛行差止めは認めなかった。
*平和的生存権については、実際に、軍事演習などが生命・身体・健康上の危険を生じ
させていれば、13 条上の権利の侵害は明らかで、新たな概念は必要すらない。問題は、
一般にその主張が、軍事・防衛上の施設の存在自体やその展開がこの権利を侵害すると
述べる点にある(長沼訴訟一審=札幌地判昭和 48 年 9 月 7 日行集 27 巻 8 号 1385 頁は 9
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条を根拠とする)
。だが、それは防衛「政策」の一環で、非武装中立が平和的生存に供
するか否かは議論の余地が大きく、そもそも個人の「権利」と呼ぶべきでなく、たとえ
認めても直ちに統治行為論の対象になるなどから、これを 13 条上の権利とすることに
は消極的にならざるを得ない。
環境権については、生命・健康の危機までとは言わずとも、よりよい環境を
政府に求める権利(おいしい水・おいしい空気・おいしい食品・静寂など)もあろう。
但し、厳格審査の対象とは言えず、立法・行政によりよい政策展開を求める
主張の基盤というにとどまる。よりよい文化的・社会的環境を求める権利も同
様であ ろ う。大阪市営地下鉄宣伝放送差止め訴訟(最判昭和 63 年 12 月 20 日判時
1302 巻 94 頁)でも訴えは斥けられたが、これも 21 条で保障される消極的情報
受領権の制約の受忍限度の問題と考えるべきであろう。
*環境権の主体を人間以外の動物や自然とする主張もあるが、憲法上の人権の主体は一般
的に個人(人間)であり、無理である。自然破壊は結局、食物連鎖等の頂点に立つ人間
の種としての存続を脅かすものであり、ある生命体の《権利》を延々と理論的に繋げて
ヒトの権利として主張する可能性はあるが。
(3)プライバシー権
人間は、他者や社会・国に操作されない「自己」なくして、生きていけない。
個人主義原理に立つ日本国憲法は、ごく個人的な生活や価値観を保障している
と解するのが自然でもある。1890 年の米論文で主張されて以来、この権利は、
ひとりでいさせてもらう権利(right to be alone)であったが、密集社会で人間関
係が複雑化したことや情報化・管理社会の進展(今や、データをマッチングするこ
とで本人の意と異なる人物像を創造できる)を受けて、自己の存在に関わる情報を開
示する範囲と相手を選択できる権利とする情報プライバシー権、もしくは自己
情報コントロール権と理解する考え方が強まった(「仮面」を付け続ける社会的動
物性を重視し、
「自己イメージ・コントロール権」とする学説もある)
。このため、何が
精神の平穏を保てる自己情報かは時代や国によって異なり、個人毎にも異なろ
うが、その項目と範囲は社会的に(最後は判例上)決めざるを得ない。顔(肖像)
や全身像、身体的特徴、氏名、履歴、戸籍、住所、電話番号、メール・アドレス、
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幸福追求権
犯罪歴、病歴、収入や財産、購入物、趣味、交友・情交関係などは一般にこれ
に該当しようが、社会性・公共性を有すればプライバシーの問題ではなくなり、
下記の名誉の問題となることもあろう(地域サークルで学歴の秘匿は許されるが、大
学教員になろうとすれば許されまい)
。日本では、
元外務大臣(東京都知事候補)と妻(料
亭女将)との関係を赤裸々に描いた三島由紀夫のモデル小説が問題となった『宴
のあと』事件(東京地判昭和 39 年 9 月 28 日下民集 15 巻 9 号 2317 頁)以来、この概念
が一般化するようになった。
京都府学連事件(最大判昭和 44 年 12 月 24 日刑集 23 巻 12 号 1625 頁)で 最高裁 は、
「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)
を撮影されない自由を有する」と判示し、今日では肖像権の一部とも解せるも
のの権利性を認めた(刑事法廷での被告の撮影につき、最判平成 17 年 11 月 10 日民集 59
巻 9 号 2428 頁も参照)
。国が個人情報を不適正(広汎、目的が不合理、目的と手段の不
一致など)な手法で収集したり、不必要にこれを集積したり、情報を悪用したり、
流布したり、もしくはこれらのことをしたかのように振舞ったりすることは、
憲法上のプライバシー権侵害と解されてよい。
*但し、刑事手続そのものの問題であれば、31 条以下の問題であろう。自動速度監視装
置による容貌撮影(最判昭和 61 年 2 月 14 日刑集 40 巻 1 号 48 頁)も同様であろう。電
話の盗聴も、刑事手続ならば 31 条以下、それ以外なら 21 条 2 項の問題である。ポリグ
ラフや麻酔分析も、刑事手続ならば 31 条以下、それ以外ならむしろ 19 条の問題であろ
う。これら条項から漏れる領域が 13 条の問題である。
前科照会事件(最判昭和 56 年 4 月 14 日民集 35 巻 3 号 620 頁)で 最高裁 は、犯罪経
歴を「みだりに公開されない法律上の保護に値する利益」とし、その開示は「公
権力の違法な行使にあたる」として、市に賠償を命じた。また、江沢民講演会
名簿提出事件(最判平成 15 年 9 月 12 日民集 57 巻 8 号 973 頁)では、警察当局への出
席者名簿(単なる個人識別情報)の提出がプライバシー権の侵害と認定された。だが、
1999 年まで続いた外国人登録法の指紋押捺を合憲とする判決(最判平成 7 年 12 月
15 日刑集 49 巻 10 号 842 頁など)や、住民基本台帳ネットワークシステムがデータ・
マッチングや名寄せでありながら、具体的な危険がないとする判決(最判平成 20
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年 3 月 6 日民集 62 巻 3 号 665 頁)もある。
プライバシー権は、他の私人の表現の自由との関係で問題となることが多
い。
『宴のあと』事件のように、双方が重要な人権であって、その調整は難しい。
ノンフィクション『逆転』事件(最判平成 6 年 2 月 8 日民集 48 巻 2 号 149 頁)では、
米軍施政下の犯罪歴は、時の経過や地域的隔たりのため、保護に値するという
判断がなされた。賠償額も、いわゆるロス疑惑に関する一連の訴訟などをきっ
かけに高額化している。また、
「エロス+虐殺」事件(東京高決昭和 45 年 4 月 13
日高民集 23 巻 2 号 172 頁)では差止めは認められなかったが、選挙直前に刊行さ
れた月刊誌当該号が、北海道知事選挙候補者の生い立ちや私生活を侮辱的に詳
述していた北方ジャーナル事件(最大判昭和 61 年 6 月 11 日民集 40 巻 4 号 872 頁)で、
最高裁は差止めの仮処分を許容した。
『石に泳ぐ魚』事件(最判平成 14 年 9 月 24
日判時 1802 号 60 頁)では、小説のモデルが全くの私人で、顔の特徴や家族関係
などが刊行により広く知られることの精神的苦痛は大きいなどとして、単行本
の差止めが認められた(公立図書館で、掲載誌の閲覧禁止の動きも続いた)。但し、政
治家長女の離婚を報じた週刊文春当該号の差止めを認めない司法判断(東京高
決平成 16 年 3 月 31 日判時 1865 号 12 頁)もある。
なお、1988 年制定の旧個人情報保護法には、罰則がない、民間対象のガイ
ドラインには法的拘束力がないなどの欠陥が指摘されたため、2003 年に個人
情報保護法(個人情報の保護に関する法律)、行政機関個人情報保護法、独立行政
法人個人情報保護法、情報公開・個人情報保護審査会設置法などが制定され、
2005 年 4 月に施行された(しかし、報道の自由との関係で反対も根強い)。
(4)名誉権
人間は、一定水準以上の誇りを持ち続けなければ、生きていけない。人間存
在の根幹であるなどとして、ローマ法以来、民法や刑法で名誉を保護してきて
いる。日本でも今日、憲法上の権利と一般に解されている。プライバシーが私
生活の面を保護するのに対し、名誉は社会生活の面を保護するものである。但
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幸福追求権
し、名誉は元々貴族の徳目や為政者の保護を目的とするものであり、個人主義
原理に立ちながら、表現の自由に優越的地位を与える日本国憲法下では、保護
の範囲や程度については再考すべき面がある。公共性ある社会活動に関して、
公益的見地から、真実に基づく批判を浴びることはやむを得ず(当該社会活動の
種類により、どこまで私的側面が批判されて仕方ないかも決まる。辛辣な批判もときには許
容されようが、単なる人格攻撃は許されまい)
、また、一度低下した名誉も、ある程
度は言論活動等で回復可能な点は考慮されるべきである。
名誉については、3 つの概念があるとされる。このうち、他者や自己の評価
を超えた真実の名誉を指す内部的名誉については、他人から侵害され得ないこ
とや法的評価の範疇外であることなどから、保護の対象ではないとされる。社
会が与える人の評価である外部的名誉と、主観的自己評価である名誉感情が法
的保護の対象である。これらを支える精神活動が憲法上も保護に値し、これを
過度に傷つける立法・行政・司法の判断は憲法上許されない。
*このため、13 条は名誉の財産的側面を直接保障するものではない。対抗利益等も考慮
した結果、侵害行為の差止めではなく、心の痛みを償わせるために多額の損害賠償を認
める事例もあるだけのことである。著作者人格権も同様か。
夕刊和歌山時事事件(最大判昭和 44 年 6 月 25 日刑集 23 巻 7 号 975 頁)で は、
「人
格権としての個人の名誉の保護」が認められたが、真実の誤信につき相当な根
拠があれば、名誉毀損罪に問われないと判示されている。名誉の回復は、対抗
言論や確定判決の公示(敗訴者の費用)を軸とすべきであり、差止めは原則とし
て認めるべきでない(前述の北方ジャーナル事件で裁判所による差止めが認められたの
は、公選候補者でも、プライバシーの問題が主だからであろう)
。
(5)自己決定権
現在、本条を巡って最も論争の的となっているのは、いわゆる自己決定権
(一定の個人的事柄について公権力から干渉されずに自ら決定する権利)についてである。
本条の保障を一般に、一般的自由権説は広く、人格的利益説は狭く解する。
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(i)生命・身体に関する行為
最も先鋭的なのは、死に直面する場面である。消極的安楽死、積極的安楽死、
尊厳死、自殺などをどう考えるのか。父を積極的安楽死させた事案で安楽死の
6 要件を打ち出し、嘱託殺人罪で処断した例(名古屋高判昭和 37 年 12 月 22 日高刑
集 15 巻 9 号 674 頁)
、患者家族の依頼を受けて医師が積極的安楽死処置を行った
事案で違法性阻却を認めなかった例(東海大学安楽死事件=横浜地判平成 7 年 3 月 28
日判時 1530 号 28 頁)もあり、裁判所が積極的安楽死を憲法上の権利とする傾向
にない。回復が不可能で、苦痛が絶望的であるとの客観性の高い評価は難しく、
本人が冷静にそれらを判断できる場面も少ない。かつ、医師や家族がそれを実
行する(この点が消極的安楽死との差異だが、それとて、延命治療の打切りという行為を
含むのが普通で、線引きは難問である)ことがなぜできるのかはさらに難問である。
尊厳死(苦痛というより、スパゲティ状態や植物状態になるなら延命措置を拒否する=延
命装置の切断)にも類似の問題がある。リビング・ウィルによるとしても、親族
や医師が代行する点、難問が残る。
*自殺は一般に 13 条上の権利ではないとされる。但し、自殺者は何らかの苦痛を抱える
以上、消極的安楽死との差異は微妙であるほか、長時間かけての自殺と評価される行為
(喫煙など)との差異も難しく、
前述のように人格的自律や、
それを前提としながらの(限
定された)パターナリズムはその説明とはならない。むしろ、社会権も規定する日本国
憲法は「生身の人間」の保護を予定しているため、一般に自殺を権利として肯定できな
いと解すべきではあるまいか。このため、確固たる信念による事案では自己の生命の処
分も憲法上保護に値する場合もあろう(エホバの証人輸血拒否事件=最判平成 12 年 2
月 29 日民集 54 巻 2 号 582 頁など)が、19・20・23 条等の問題とすべきである。
身体の一部の処分も難問である。生存中の臓器移植は自らの生命を危険にさ
らす側面がある。臓器移植法は、脳死を人の死と定め(三兆候説を改め)、移植
医療(他者の生命の維持)に途を開いたが、生命の終期を早めたことは、生命権
を保障する日本国憲法の立場に反するとの批判もないではない(なお、生命の終
期は自己決定の問題ではなく、合憲的に法定されるべきものである)
。
136
幸福追求権
(ii)生殖行為
性行為(被拘禁者 に つ い て、東京地判昭和 44 年 12 月 26 日判時 578 号 38 頁)、妊娠・
出産は、自己の遺伝子を残し、家族を形成する幸福追求行為であり、プライバ
シーの最たるものであり、憲法上当然に保護される。他面、リプロダクション
が女性の身体内で進むため、女性が身体について他者や国の支配を排除する権
利も考慮せねばならず、端的には中絶の自由として主張がされる。日本では、
母体保護法 14 条が経済的理由による中絶を認め(勿論、胎児自身に誕生の可否の意
思表示の機会はない)
、これによる多くの中絶が行われており、欧米とは事情も異
なる。また、憲法上、主に 24 条の問題と考えるべきである。
(iii)危険行為・自堕落な行為
他者加害ではないが、自らの生命等を危険にさらし、ときに救助せざるを得
なくなる、冒険活動、冬山登山、荒海でのサーフィン、ノーヘルでのオートバ
イ運転などの活動がある。生命権・身体的自由権などではなく、一般に精神活
動などとも距離を置く行為群でもあって、憲法上の権利か、微妙である。
喫煙(受刑者について、最大判昭和 45 年 9 月 16 日民集 24 巻 10 号 1410 頁)、飲酒、賭
博(最判平成元年 12 月 14 日刑集 43 巻 13 号 841 頁など)、麻薬(覚醒剤について、最大判
昭和 31 年 6 月 13 日刑集 4 巻 10 号 2029 頁)
、売春などの行為は、さらに立法裁量に
委ねられる可能性が高いと言えよう。
(iv)ライフスタイルその他
服装(制服の指定など)や身なり(ひげなどの忌避や、登校服の規制など)では、公
立男子中学生の髪型を巡るいわゆる丸刈り訴訟(熊本地判昭和 60 年 11 月 13 日行集
36 巻 11=12 号 1875 頁)
、私立高校生のパーマの是非が争われた事件(最判平成 3 年
9 月 3 日判時 1401 号 56 頁など)や受刑者の髪型を巡る訴訟(東京地判昭和 38 年 7 月
29 日行集 14 巻 7 号 1316 頁)もある。これらは、個人の信条に近い信念に達すれ
ば憲法上の権利と認められる余地はあろう(これらは、男女で扱いを異にしている
137
横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月)
ため、14 条の問題となり得るケースも多いし、行き過ぎれば身体的自由権の侵害でもあろう。
もはや中学生の強制丸刈りはこの域に達しよう)
。
一般には趣味と思える領域の問題もある。税を逃れてのどぶろく造り(最判
平成元年 12 月 14 日刑集 43 巻 13 号 841 頁)やオートバイ運転(私立高校生に関する最
判平成 3 年 9 月 3 日判タ 770 号 157 頁)が直ちに憲法上の権利と言えるかは微妙で
ある(但し、公立高校生のバイクの運転に関して、13 条上の権利と認めた、高松高判平成 2
年 2 月 19 日判時 1362 号 44 頁もある)
。但し、一定の精神活動の高まりを伴う芸術・
スポーツ・技能などの活動を同様には扱えまい。このほか、一般に、クラブ活
動や趣味のサークル、友人関係、恋人同士(但し、ストーカー規制を合憲とする最
判平成 15 年 12 月 11 日刑集 57 巻 11 号 1147 頁にも注意)などの親密な結合の自由は本
条の保障範囲と考えられる(目的的結社である政党、宗教団体、労働組合、企業などは
個別的人権の問題で、本条の問題ではない)
。
4.幸福追求権の発展形――家族
憲法 24 条は、1 項で婚姻の自由、2 項で家族に関する立法が「個人の尊厳と
両性の本質的平等」であるべきことを謳う。このため、家制度を定め、家督相
続制度や妻の無能力制度を規定していた大日本帝国憲法下の明治民法の家族法
部分は 1947 年に全面改正(親族編と相続編に分けられ、口語化)された。家制度の
残滓と言える法制度(長男単独相続など)があれば、端的に違憲と考えられる(民
法 897 条の祭祀・墳墓の単独相続容認の法定については、その疑いもある)
。
本条については、制度的保障に過ぎないとする説もあったが、現在では人権
条項として認知されている。また、その性格も、分類不能とする説、社会権説、
自由権説などまちまちであったが、現在では平等権の特別条項と位置づける説
が有力である。しかし、24 条の内容は平等にとどまらないため、13 条も含め
た包括的人権に密接に関わる人権と捉えるのが適切と思われる。併せて、自己
決定権や男女平等などの問題のうち、家族や生殖行為に関する問題の多くは、
138
幸福追求権
13・14 条ではなく 24 条を根拠条文とするべきである。
*本条及び 29 条の存在は、憲法が公法のみの最高法規ではない証拠である。私法規定の
違憲(合憲限定解釈、適用違憲などを含む)判断は当然あり得る。基本的には合理性の
基準が妥当する財産法とは異なり、厳格審査が妥当する場面も多い家族法分野では、違
憲の疑いの濃い条項も多い。
(1)婚姻の自由と家族の保護
一組の男女の合意により婚姻は成立する。裏返せば、家の存続を理由とした
一夫多妻制は「個人の尊厳」を害し、否定される。本条は一夫一婦制を保障し
たと考えられるため、重婚の禁止(民法 732 条)は当然とされる。保証人や他者
の同意は原則として必要なく、本来、法的な成立要件ではない。婚姻の性質上、
年齢制限はやむを得ないが、未成年者の婚姻への父母の同意(民法 737 条)は、
その不完全さや時間が解決することなどから改正論もある。優生保護的な理由
から近親者間の婚姻は禁じられている(民法 734 条)が、民法はそれを超えて家
族秩序・道徳に踏み込んだ規制を多く行っており、議論は残ろう。民法 770 条
は破綻主義の下、裁判上の離婚を定めるが、判例は有責配偶者からの離婚請求
をおよそ認めてこなかった(踏んだり蹴ったり判決=最判昭和 27 年 2 月 19 日民集 6 巻 2
号 110 頁)が、別居が長期で未成熟の子がいないなどの条件付でこれを認めるに
至った(最大判昭和 62 年 9 月 2 日民集 41 巻 6 号 1426 頁)。同条 2 項は裁判所に広汎な
裁量を認め過ぎており、問題ある判決(うば桜判決=東京地判昭和 30 年 5 月 6 日下民
集 6 巻 5 号 896 頁など)の誘因にもなっている。
*女子結婚退職制度は婚姻の自由を事実上制限するので無効とする判決もある(住友セメ
ント事件=東京地判昭和 41 年 12 月 20 日労民集 17 巻 6 号 1407 頁)
。
同性婚、3 人以上の男女の共同生活、婚姻に至らない男女の性愛関係を本条
の保障の範囲とすることはできない。婚姻以外の親密な関係は 13 条の保障と
考えるべきである(婚姻届だけがない、いわゆる事実婚は 24 条の問題であり、法律婚に
準じる保護を検討する余地はある)
。性行為や妊娠・中絶・出産の自由についても、
ほぼ同じように考えられよう。
139
横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月)
婚姻により個人の呼称はどうなるか。民法 750 条は夫婦同氏を定め、
例外(選
択的夫婦別氏制)を認めていないが、憲法の個人主義を基軸に考えれば、違憲性
が濃い(民法 767 条 2 項が離婚の復氏の例外を定めるが、片面的である)。名は親が名付
けることからも、氏名は家族と一体の制度となっており、氏名権は本条の保護
範囲と考えられる(呼称を歪められない権利につき、NHK の日本語読みに関する最判昭
和 63 年 2 月 16 日民集 42 巻 2 号 27 頁も参照)
。
*これに対し、ペンネームや芸名など、家族概念とは異なる呼称(個称)
、あるいは法律
上の氏名と異なる呼称(名のみを含む)を求める権利は 13 条にあろう。
他方、民法 762 条は夫婦別産制を採り、憲法の個人主義の建前からも合憲で
ある(最大判昭和 36 年 9 月 6 日民集 15 巻 8 号 2047 頁)が、一般的に夫婦の一方の名
義で登録された土地家屋などの財産はその者の特有財産としない判断が定着し
ている(最判昭和 34 年 7 月 14 日民集 13 巻 7 号 1023 頁など)。
出生により人は家族の一員となるが、第一義的には未成熟の子の揺りかごと
して家族の憲法的保障の意義がある。法律上も、実の親の子となることが基
本であり、嫡出推定の規定(民法 772 条)もあるが、離婚後 300 日以内にこれが
及ぶため、実の父が推定されず、元夫の嫡出否認を必要とする(民法 774 条)な
ど、問題もある。非嫡出子では、親の認知で親子関係に入るが、忌避されれば
認知の訴えを起こすことになる(民法 787 条)。だが、親の死後 3 年で訴権が消
滅するとの問題もある(但し、最大判昭和 30 年 7 月 20 日民集 9 巻 9 号 1122 頁は合憲論)。
子の保護とは無関係の、親のエゴとしての認知は認めない趣旨で、成年者の認
知には本人の承諾を要するとされている(民法 782 条)。代理母や、凍結精子に
よる死後生殖に親子関係を認めないのが判例(それぞれ、最決平成 19 年 3 月 23 日
民集 61 巻 2 号 619 頁、最判平成 18 年 9 月 4 日民集 60 巻 7 号 2563 頁)だ が、DNA 鑑定
等で父子関係を認定する現実との矛盾もある。
(2)家族と平等
民法には「両性の本質的平等」に反すると思われる条項がなお残る。731 条
140
幸福追求権
が婚姻適齢を定めるのは当然としても、男女の 2 歳差は性役割(男は稼ぎ、女は
家を守る)を前提としており、違憲性が強い。733 条が女性にのみ再婚禁止期間
を設けていることは、子の父の確定の目的を超え、不必要な性差別である(相
手男性も結婚できないのだから性差別でないとの説もあるが、女性だけが誰とも結婚できな
い以上、論理的誤り)
。学説中には中間審査の下で、本条はその期間を 100 日に短
縮すれば合憲とする説もあるが、性差別であれば厳格審査の下、父子鑑定が容
易となった今日、この手段は違憲と言わざるを得ない(但し、最高裁は合憲論のま
まである。最判平成 7 年 12 月 5 日判時 1563 号 81 頁など)
。
民法 900 条四号但書は、非嫡出子の相続分を嫡出子の半分と定めている。婚
姻制度を憲法が保障するものの、このような生来的差別は、憲法 14 条 1 項後
段列挙事由に該当するとも考えられ、厳格審査の下、許されまい(但し、最高裁は、
反対意見も多いながら、合憲論のままである。最大決平成 7 年 7 月 5 日民集 49 巻 7 号 1789
頁など)
。他方、国籍法 3 条上、父が日本人で母が外国人の非嫡出子の生後認知
では日本国籍を準正取得できないことは違憲とされ(最大判平成 20 年 6 月 4 日民
集 62 巻 6 号 1367 頁)
、本条は改正された。
〔補論〕平等権総論
日本国憲法 14 条は、13 条と共に包括的人権(基本権)と位置づけられ、24
かすがい
条を鎹に、今日では一体的に論じられる。封建時代・絶対王制を断ち切った近
代人権宣言の核は、自然権思想に裏打ちされた人間の自由と平等(不平等からの
自由)にある。日本国憲法 14 条は 2 項で貴族制度の廃止、3 項で栄典に伴う特
権の禁止を特に謳っており、その系譜に属することを明らかにしている。
*この点、天皇制は 14 条の大いなる例外である。だが、
「世襲」や「象徴」などの憲法上
の制約を除けば、皇室典範も憲法全体に違反できない。
しかし、個々の能力や個性は各様であり、何が平等かかも各人で評価が分か
れる。また、変数以外を固定して複数のものを比較することは困難である。家
父長ブルジョアジー主導の近代冒頭の自由国家(夜警国家)の平等観は、
「形式
141
横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月)
的平等(機会の平等、スタートラインの平等)」であったが、次第に資本主義の高度
化と共に、それが貧富の差の拡大をもたらすことが鮮明となってきた。そこで、
福祉国家(社会国家)憲法では、普通選挙の導入(15 条 3 項、国会議員選挙について
44 条参照)や社会権規定(25 条など)の挿入などと共に、平等観も「実質的機会
の平等(条件の平等、実質的平等)
」へと変化した。社会主義国家では
「結果の平等」
を希求したが、強大な国家権力の存在を求めない日本国憲法はその立場ではな
い。福祉国家ビジョンに立つ日本国憲法も「実質的機会の平等」を希求してお
り(教育に関する 26 条も「能力に応じてひとしく」と謳う)、
自由と平等は対抗軸となっ
た。とは言え、近代立憲主義を修正した日本国憲法が自由を基本にしているの
は確かで、まずは「形式的平等」の観点から事実上の差別、特に前近代的(身
分制度の残滓)差別を排除し、通常の社会経済過程から排除されている弱者・少
数者を救済する「実質的機会の平等」視点は補助的に(まして立法の不作為に対し
ては)用いるべきである。
*平等は関係概念であり、無内容であるので「平等原則」と言うべきという主張もあるが、
比較劣位の者が優位水準までの補填を求める権利性はあろう。
憲法 14 条が「法の下の平等」とあるので、本条は立法者を拘束しないとす
る説(法適用平等説、立法者非拘束説)もあったが、
「法」は憲法も含み、法律が不
平等なら平等な適用も困難であるので、通説は立法者拘束説である。通説は、
14 条が広く差別を禁じると解したので、勢い、1 項後段の列挙事由(人種、信条、
性別、社会的身分、門地)は単なる例示と考え、
「同じものは同じく、異なるもの
は異なるように」扱えばよいとする相対的・比例的平等の立場に立ち、
「合理
性」の基準を採るに至った。判例も同じである(例えば、尊属殺重罰規定違憲判決
=最大判昭和 48 年 4 月 4 日刑集 27 巻 3 号 265 頁)
。
*「合理性」の基準は、
「不合理だが合憲」との概念があり得ず、空虚な基準であり、恣
意的に運用できるという欠点を有する。しかし、それ以上に、法適用平等説は、ここで
も 1 項後段列挙事由を絶対的差別としたものの、他の差別を許容したこと、そして、
「性
別」などに安易に例外を認めたことで敗北した。
だが、14 条 1 項列挙事由は歴史的に悲惨な差別がされてきた代表例であり、
142
幸福追求権
多くは民主的過程で回復困難な少数者であり、多くは生来の偶然の産物(本人
に責任がない)であることから、これらに基づく差別は「疑わしい差別」であり、
厳格審査を行うべきとする説が準通説化した。妥当である。
*「性別」と「社会的身分」は少数者とは言えず、中間審査とする説もあるが、その属性
の典型的生き方を打破する側は少数者であり、政治的多数者とは言えず、列記事由の中
で審査基準を分断するのも適切ではないであろう。また、
「信条」は生来のものでない
としても 19 条で厳格審査となるほか、14 条 1 項のそれは家や民族の宗教のようなもの
と考えれば、納得できよう。
14 条 1 項列挙事由以外の差別は緩やかな合理性の基準を採るべきだが、そ
れは無審査を意味しない。学生無年金障害者訴訟の事例のように、周囲の比
較対象者の殆どと谷間の差別を受ける場合、違憲とすべきときもあろう(但し、
最判平成 19 年 9 月 28 日民集 61 巻 6 号 2345 頁は合憲の判断)
。
差別を解消するため、
被差別集団を優遇する積極的差別是正策(アファーマティ
ブ・アクション、ポジティブ・アクション)について、審査基準を下げるべしとする
主張が強い。しかし、何が古典的差別で何が積極的差別是正かは審査を始めな
ければ不明(女子大学を積極的差別是正の一つとする主張は多いが、家政学部などの多い
現状では、性役割を固定化する古典的差別であろう)であり、実際に権利が制限され
るのは無垢な個人である危険も大きいことからすれば、必要最小限の手段であ
ると認定されたもののみを合憲と考えるべきである(無制約なクォータ(割当制)
はまず違憲とされるべきである)
。他方、中立的規定が大きな差別効果(例えば、身
長や体力を要件に性差別を行うなど)があり、このような差別動機の読み取れるも
のは、間接差別として違憲の疑いを及ぼすべきである。
〔付記〕
本研究は、筆者のいわば網羅的日本国憲法解釈研究を完結させるものである。筆者は以下
の著書で教科書・基本書的解説を度々行ってきたが、13 条と、14・24 条の一部だけが空白
のままにされてきたため、
今回、
機会を得て公表するものである。また、
このような性格のノー
トであるため、主要な教科書・基本書・判例集・コンメンタール等は参考とさせて戴いたが、
原則として個別に註を付しての引用を行わなかった。御海容願いたい。なお、2010 年 6 月の
143
横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月)
脱稿後に竹中勳『憲法上の自己決定権』
(成文堂、2010 年 7 月)に触れた。
中谷実編『ハイブリッド憲法』
(勁草書房、1995 年 7 月)4-11 頁「欧米における立憲主義の
展開」
、106-120 頁「人権総論」
、216-220 頁「能動的権利」
榎原猛=伊藤公一=中山勲編『新版基礎憲法』
(法律文化社、1999 年 4 月)87-109 頁「精神
的自由権」
長谷部恭男編『Best Selection 憲法本 41』
(平凡社、2001 年 7 月)327-328 頁「平等」
川岸令和ほか『憲法』
〔新版〕
(青林書院、2005 年 3 月)29-44 頁「平和主義」
、197-208 頁「身
体的自由権と手続的権利」
、287-318 頁「裁判所」 * 2011 年改訂予定
君塚正臣=藤井樹也=毛利透『Virtual 憲法』145-270 頁(悠々社、2005 年 11 月)で 統治機
構全部と憲法保障、国家賠償請求権、裁判を受ける権利、参政権。このほかに前書きと後
書き部分 君塚正臣編『ベーシックテキスト憲法』
(法律文化社、2007 年 4 月)3-16 頁「憲法の基本概念」
、
23-32 頁「日本憲法史」201-208 頁「国会− I 国会の性格・地位、II 国会の組織・構成」
、
285-288 頁「憲法改正」 * 2011 年改訂(
「憲法改正」は担当交代)予定
杉原泰雄編集代表『新版・体系憲法事典』
(青林書院、2008 年 7 月)455-465 頁「平等 の 個別
問題」
君塚正臣編『高校から大学への法学』
(法律文化社、2009 年 4 月)55-70 頁「日本戦後史──
日本国憲法の理念と国際関係の現実の狭間で」 君塚正臣編『高校から大学への憲法』
(法律文化社、2009 年 4 月)153-168 頁「経済生活──
自由国家から社会国家へ」
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