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Page 1 Page 2 行政社会論集 第24巻 第3号 身体障害者福祉のモデル
論 説
革新市政発展前史
一
1950∼60年代の社会党市長(4の3完)
功 刀 俊 洋
目 次
1、革新自治体史のなかの飛鳥田神話(20巻2号号掲載)
1[、社会党の自治体対策一松下テーゼの解体(22巻1∼2号掲載)
皿、社会党市長の急増と分解と後退(21巻1号掲載)
IV、東北の社会党モデル市政
1、秋田市(22巻3号掲載)
2、酒田市(22巻4号掲載)
3、仙台市(本号掲載)
V、「革新の牙城」釜石市の鈴木東民市政(24巻1∼2号掲載)
VI、東北の相乗り市政(23巻3号掲載)
補訂ll−4、 H−8(以下本号掲載)
結 論
lV、東北の社会党モデル市政
3、仙 台 市
は じ め に
本節の課題は、1960年代の島野武仙台市政を革新市政として検証することで
ある。島野市政は1958年から1984年まで7期26年間継続した。そして島野市政
は、1960年代前半には、都政調査会や自治労の革新市政研究集会で革新市政の
先駆モデルとして評価され、1970年代には、環境庁や厚生省から環境保全や
1
行政社会論集 第24巻 第3号
身体障害者福祉のモデル都市に指定された。また島野市長は、政治的には、
1963年から革新市長会議の組織化にかかわり、1968年から全国革新市長会のナ
ンバー2として飛鳥田一雄を支えた。
しかし、島野市政の場合でも市民参加、住民福祉、公害対策といった1970年
代型革新市政の先導的施策を実施するようになるのは、全国的動向と同様に
1970年前後の局面になってからであり、また島野のブレーンだった大内秀明
(東北大学)は、島野市政下の住民自治の特徴を文化人市長に指導された官製
市民運動だったと総括している(1)。したがって、1970年代型の革新市政とは
別個のものとして、1960年代の島野市政とは何だったのか、どのような意味で
革新市政のモデルだったのか、そして、そこから上記の1970年代型の施策はど
のような過程で成立していったのか検証する必要がある。島野市政で1960年代
に注目された施策は、広報公聴事業と健康都市建設運動であり、後者は全国革
新市長会の『資料・革新自治体』(日本評論社、1990年、253ページ)で、最も
初期の先駆的福祉医療行政と位置づけられていた。以下これらの事業を重点に
検討する。
1955年の市長選挙一選挙無効事件
1955年4月30日投票の仙台市長選挙は、現職の岡崎栄松(東京市の区長、民
主・自由両党仙台支部推薦)、島野武(東京弁護士会副会長、左右両派社会党
県連と市政刷新連盟推薦)、高橋三郎(高知県知事、東北放送重役)の保革三
つ巴戦となり、岡崎64,645票、島野64,086票、高橋28,314票という投票結果で
岡崎が四選された。現職の岡崎が苦戦した理由は、1953年の渡米旅費不正事件、
大倉川多目的ダムの位置や大仙台構想の内容(広域合併と工業港湾)をめぐる
宮城県・塩釜市との対立、仙台市ガス部不正経理事件、市議会内に早坂忠議長
など反岡崎勢力を抱えるなど、市政が行き詰まった結果だった。それでも岡崎
市長は、四選して戦災復興都市計画の完成を自分の手で成し遂げたかった。
また島野武(2)が善戦した理由は、周到な選挙準備によって、仙台一中の同
2
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
窓会「茶畑会」や、島野の父親が陸軍大佐・仙台市議・仙台市在郷軍人会長だっ
たので、そのかつての部下たちが島野を応援するために結成した「菖蒲会」な
どの個人後援会、そして弁護士会の個人票と労働組合の組織票をまとめたうえ
に、島野派が「独裁市政刷新」「清潔で明るいガラス張りの市政」を訴えて岡
崎市政への批判票を吸収したことだった。島野は立候補の理由を聞かれて「明
るい市政、住みよい仙台の建設のため、自分の郷土の荒廃をみるにしのびず」
「日本じゅうに醜聞をまきちらして有名な市だもの、ボス、利権、独善、フダ
つき、知らんのは仙台市民だけ、なさけない限りだし、ほっとけないよ」と述
べ、抱負には「仙台を明るいきれいな街にする愛市運動」と、県と協力した仙
台塩釜総合開発をあげていた(3)。守勢に追い込まれた岡崎派は、島野が30年
前に関与した学生運動をとりあげて「島野は赤だ」という人身攻撃を徹底的
に行った(4)。
ところが5月14日、この選挙の開票作業に対して、島野派の選挙人が不在者
投票の処理に規定違反があった、また開票作業のなかで得票水増しの不正行為
があったと指摘し、岡崎の当選に異議申し立てを行い、投票用紙保全の上で選
挙無効を訴える裁判が開始された。そして、1957年12月17日最高裁は選挙無効
の判決を下した(5)。岡崎市長は市長失格となって辞任し、全国にも例のない
やり直しの市長選挙が行われることになった。
1958年の市長選挙一刷新市長の当選
1958年2月2日投票の仙台市長選挙は、島野武(弁護士、社会党公認)と松
川金七(自民党県議、自民党県連幹事長、宮城県医師会長、自民党公認)の保
革一騎打ちとなった。島野は前回の選挙で惜敗すると、同窓会や個人後援会の
結束を固め、また社会党に入党し1957年初めには社会党県連から公認を獲得し
て、次期市長選挙を準備してきた。他方、自民党は岡崎市長の自発的な出馬辞
退を待ったために市長候補の選考が遅れ、かつ後任候補に内定していた七十七
銀行の山田勇太郎取締役を降ろして、崎田義雄(前副知事)を推す仙台支部・
3
行政社会論集 第24巻 第3号
市議団と松川金七を推す愛知揆一ら国会議員や県連幹部が対立し、選挙戦直前
まで足並みが揃わなかった(6)。選挙戦が始まると、この選挙は中央政界で衆
議院総選挙の前哨戦と位置づけられ、岸内閣の愛知揆一官房長官と社会党の佐々
木更三選挙対策委員長のお膝元ということもあり、自民党と社会党の総力戦と
なった。社会党は1956年の宮城県知事選挙、1957年の福島県知事選挙と東北の
地方選挙で連戦連勝の勢いに乗っていた。それに対し、自民党は東北の中心地
で県も市も社会党では東北開発が遅れると主張しながら、候補の一本化に成功
するとこの選挙を楽観視して勝利を疑わなかった(7)。
島野の公約は「市民のための市政」「清潔で明るい市政」「港のある大仙台の
建設、仙台と塩釜の合併」、松川の公約は「政府と市政の結合、市議会との融
和による大仙台の建設」で、仙台塩釜の合併による大仙台の建設や工場誘致に
よる生産都市への発展という点で、両者のスローガンや政策の内容はほとんど
差がなかった(8)。島野の公約は、社会党仙台支部の市政綱領をふまえたもの
だったが、当時の社会党の東北開発構想は、ダムと港湾整備による臨海工業地
帯の造成と、仙台塩釜総合開発だった。自民党が口先だけで、中央財界も関心
を示さない後進地東北の工業開発こそ社会党の看板政策だった。
両候補の差異について、島野候補の後援者となった新明正道(東北大学教授)
は、「島野、松川の両候補とも掲げたスローガンや政策の内容をみると一部を
除けばほとんど差はない。法で行財政を規制された市という地方自治団体なの
で、党派でどうこうできるという余地は少ない」「私は素人の島野君に新しい
ものを産み出す未知数の期待と、魅力を感じている」と述べていた(9)。革新
市政の目標について、このような認識では、素人性や清潔さがなくなれば保守
市政と同じということになってしまう。釜石市の章で述べるように、「地方政
治における革新」とは生産より生活・福祉優先の政策、官僚主義に対して行政
の民主化、ボス支配に対して地域社会の民主化をめざすことであり、地方政治
にも革新独自の目標があるという認識は1950年代から存在していたはずだった。
しかし、1958年の島野武や社会党仙台支部は、この選挙でそのような争点を鮮
4
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
明にしなかった。
投票結果は、島野75,869票、松川72,555票、投票率64.86%、大接戦のすえに
島野は弱点とみられた農村部と中心街で善戦し、前回の雪辱を果たした。島野
派は、松川候補は岡崎前市長の後継と宣伝して岡崎市政への批判票を吸収し、
労組の大同団結に加えて、共産党候補を辞退させて共産党支持票の獲得にも成
功した。島野候補は選挙戦のなかで「ショウシャな身のこなし」「歯切れのい
い東京弁」「明るい感じの好紳士」「人間的な幅の広い文化人」「日本一の愛妻
家」と評され、婦人層の支持が厚かった(1°)。だから、自民党宮城県連内では
「結果論だが、保守結集は形だけあって、選挙態勢は最後まで必ずしも一本化
しなかった、それが敗因である」と語られ、市民の島野市政への最初の注文は
「市民のために党色を捨ててやれ」だった(11)。保守市政の失政と自民党選挙の
失敗を条件に、島野は社会党公認でありながら、革新市長というより新鮮さを
期待された刷新市長として当選したのである。
島野市政の出発
島野市長が市政の出発にあたって二本柱とした政策は、第一は仙台市の人口
が40万人から50万人へと急増して都市問題が深刻化することに対処して、道路
舗装、学校施設など生活基盤の整備に尽力することであり、第二は結局実現し
なかったが、臨海部工業開発と塩釜市などとの広域合併によって大産業都市を
建設することだった。前者は岡崎市政の戦災復興事業につづく都市計画事業の
延長であり、後者は宮城県の総合開発計画に沿ったものだった。両者は社会党
の市政綱領・東北開発構想とも合致していた。これら二つの政策の企画・実施
過程を市民との関係に着目して比較すると、後者の開発・合併政策は、岡崎市
政期の県との対立を解消して、1960年1月には県市の政財官学界の有力者によ
る総合企画協議会(会長は一力次郎河北新報社会長)という推進体制が形成さ
れたが、政策の立案にあたって一般市民の声を聞く試みは一度もなされなかっ
た。それに対して前者の都市生活基盤整備事業では、島野市長は、岡崎市政期
5
行政社会論集 第24巻 第3号
には不活発だった広報公聴事業や市民の市政協力活動を市政の看板政策に掲げ
て宣伝し、その活発化に成功したことである。以下各事業について述べていく。
島野の当選直後の第一声は、「市道の舗装に尽力する」だった。当時の仙台
市は「晴れれば砂漠、降れば泥田」と言われ、道路の悪さが仙台の代名詞だっ
た。岡崎市政12年間の戦災復興事業は、仙台駅西側中心市街地の区画整理と国
道整備までで、市道の舗装率は6%にとどまっていた。島野市長の第一行動は、
2月8日塩釜市長を訪問して、仙台塩釜臨海工業地帯の造成と将来の仙塩合併
への協力を確認し、4月11日には大沼知事、桜井塩釜市長、内ヶ崎商工会議所
会頭(東北電力社長)と第1回仙塩開発懇談会を開催し、工業開発推進体制を
立て直そうとしたことだった。そして市政改革の第一着手は、東京から磯村英
一・
(都立大)、稲葉秀三(国民経済研究協会)などの都政調査会の学者グルー
プを招いて、3月13日新明正道(東北大)を団長とする行財政調査団を設置し
て、7月に市政白書を発表させたことだった。また島野市長は3月の初市議会
に、一・方で岡崎市政の方針を継承して水道料金42%とバス料金13%の値上げを、
他方で社会党の市政綱領をふまえて道路舗装と小中学校建設費の増額を盛り込
んだ予算案を提案した。そこには、『市政だより』の増刷や国民健康保険加入
者への無料巡回健康診断の実施、低所得層むけの生活資金貸付制度の開始など、
島野市長らしい広報と健康・福祉の施策がすでに出発時から含まれていた。当
初の島野市政は都市生活基盤整備と工業開発・広域合併を二本柱で併進しよう
とするものだった。
ところが、学者グループが発表した市政調査報告書は、この構想を修正させ
るものだった。それは、1)岡崎市政は赤字を出さないために消極財政に過ぎ
た、積極拡大政策を進めるべきだ、2)復興事業中心で、人口急増に伴う都市
政策が欠如している、3)大産業都市を呼号し夢見ても基盤なしには一挙に飛
躍できないので、現在の仙台市の性格から文化都市としての発展をめざすべき
だ、4)庁内の企画と実施の部門を分離し、企画・統計調査・財政部門を統合
拡充してトップマネージメントを確立する必要がある、5)公聴制度と市民室
6
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
の設置、6)交通、ガス、水道、病院の公営企業はいずれも無計画・無方針の
状態にあり根本的再検討が必要である、という内容だった(12)。島野市長はこ
の提言を受け入れて、1959年の年頭のあいさつで文化都市の建設を提唱し、
1959年度本格初予算の説明では、仙台市の将来ビジョンについて仙塩総合開発
による産業都市づくりは「将来の発展のカギ」と中長期的課題に位置づけ、当
面の方針を「文化都市建設が第一義」と説明し、まず道路、住宅、学校など生
活基盤整備を優先していった(13)。
島野市長は、助役と収入役に自治庁推薦の旧内務官僚を輸入した。しかし、
二人とも戦時中に特高警i察経歴があり、共産党市議と労働組合から「革新市政
への期待を裏切るもの」と批判された。島野市政の庁内人事は、派閥・縁故人
事という批判が絶えなかった。
仙台市議i会(定数48、1963年から52)では、一貫して10前後の小会派分立状
態がつづき、保守系会派は島野野党の旧岡崎派(同志会)と中間派の反岡崎派
(民政会など4派)に分かれて、議長人事をめぐって抗争を繰り返していた。
そして、1959年4月の市議会議員選挙で、社会党と革新無所属が躍進し、反岡
崎派の昭和会や早坂忠(元議長)が島野市長に協力したので島野与党は半数近
くに拡大した。また保守野党会派はこの選挙で後退し、三浦自民党知事の保守
合同工作にもかからわらず三派に分裂してしまった。それで議会のキャスティ
ングボートは新政クラブ(創価学会)と無所属議員がにぎるようになり、その
結果、議長は保守与党派や中間派から選出されつづけた。島野市政は一∼二期
目を通じて議会の多数派工作に苦労したが、ようやく1967年の市議会議員選挙
で、与党6会派から30人を当選させて安定与党を実現した。
7
行政社会論集 第24巻 第3号
表4−3−1 仙台市議会議員選挙の結果
年次・定数
無所属
45
1959年48
32
1963年52
30
1967年52
27
1971年56
20
民社
社 会
共 産
公 明
1
2
11
1955年48
自 民
11
9
1
(創価4)
4
5
2
12
4
6
3
13
5
6
3
表4−3−2 島野市長と市議会会派の与野党関係
1959年48
野党
中 立
准与党
与 党
年次・定数
社会党 11
新政(創) 4
盟友一 8
市政研 4
笹 6
盟友二 6
’、、、
無ク 3
共産党 1
昭和会 5
1963年52
17
10
21
社会党
共産党
公政ク
民社党
公明党
市政ク
火曜ク
青葉会
新政ク
無ク
1967年52
16
21
15
社会党
市政同
公明党
公政ク
民社党
仙萩ク
共産党
青葉会
水明会
無
市政研
1971年56
10
12
14
16
社会党
五城ク
公明党
仙萩ク
民社党
市政研
無
共産党
自民党
無ク
21
26
8
9
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
都市生活基盤整備
島野市長は、就任直後から次々と都市生活基盤整備計画を実行に移していっ
た。
その一住宅。島野市政は、1958年9月住宅建設第一次五力年計画を決定した。
それは、毎年人口が一万人ずつ増加していくことに対して、毎年3500戸5年間
で1万7500戸の住宅を建設して住宅不足を解消しようというものだった。しか
し、そのなかで市営住宅は1年間にわずか170戸、5年間で850戸というほとん
ど民間だのみの計画だった(14)。やがて、1960年代には欠陥市営住宅への批判
や住宅団地造成地での公共施設整備の遅れへの不満が住民から噴出していった。
その二上水道。仙台市の都市問題で最も深刻なものは水不足だった。国営大
倉ダムからの通水が始まるまで、水道局は有効な渇水対策を実施できず、仙台
市民は毎年夏季に断水騒動に悩まされた。島野市政は、岡崎市政末期に開始さ
れた大倉ダムの建設に合わせて、1959年4月仙台塩釜共同上水道工事に着手し
国見浄水場を建設していった。そして、島野は大倉ダムからの通水予定を1962
年夏から1961年夏に一年短縮させ、ひとまず水不足の解消を実現した。これが
一 期目最大の実績となった。
その三下水道。島野市政は岡崎市政末期に決定していた下水道建設20か年計
画を再検討せずそのまま継承し、1959年1月起工式を挙行した。しかし、市当
局は総額36億円の4分の1にあたる9億円の受益者負担の徴収について一般市
民への広報公聴を省略し、土木局の職員が工事予定地区の町内会幹部に説明会
を開いただけで済ませてしまった。それで、申告通知をうけた市民のなかには
「受益者負担は不当だ」と批判し、また徴収の方法が「寝耳に水だ」と憤慨す
る者が多かった(15)。
その四道路。島野は社会党市政初の本格予算となった1959年度予算の重点施
策を市道舗装にさだめ、道路舗装5ヵ年計画を実施していった。しかし、中心
市街地のコンクリート舗装は国の補助事業だったが、住宅・商工業地域のアス
9
行政社会論集 第24巻 第3号
ファルト簡易舗装は工費の3分の1を地元町内会から負担金として徴収する市
の単独事業だった。島野市政はこの岡崎市政期の住民負担制度を継承したので、
市道舗装は市内の各所で寸断され、あるいは計画が停滞して悪路に対する市民
の苦情が絶えなかった(16)。初期の島野市政では、義務教育施設整備について
も、市費と同額のPTA寄付金が整備計画の前提になっており、生活優先の都
市行政は税外住民負担と公共料金値上げを伴って出発した。
これらの生活基盤整備事業は、市民団体代表や一般市民から意見を求めずに
継承・計画・決定された。他方で同時期には、市制70周年記念行事の事業案に
ついて、島野市長は事前に市民団体代表による懇談会を設置して意見を求め、
それをふまえて植樹、文化スポーツ施設の建設や青葉祭り・七夕祭りへの補助
を検討しており、広報公聴の有無と方法を事業分野によって使い分けていた。
そして、生活基盤整備事業は、実施地域の市民生活に大きな影響を与え、また
住民負担と住民の理解・協力が不可欠だったから、実施過程で事業への理解を
求める事後広報と苦情処理・不満解消ための事後公聴が必要だった。
広報公聴事業一市民の声と行政懇談会
島野市政は、事業内容によって形態を使い分けながら、先駆的で活発な広報
公聴事業を展開した。その一、『市政だより』の充実。仙台市は戦時中から
『市広報』、『市政だより』を発行し、毎月三回発行の『市政だより』は1954年
2月で500号に達していた。ただし、発行部数は3000部で、町内会の斑単位で
回覧していたようである。島野は就任直後の1958年5月から『市政だより』を
9万部印刷して町内会を通じて全世帯に配布した。そして、1959年4月から
「各局仕事めぐり」というコーナーを『市政だより』に連載し、以後毎年、行
財政の実態と方針について市民に丁寧な説明をしていった。島野は、1958年10
月から市役所内に市民相談室を開設し、1959年9月には市庁の機構改革によっ
て広報課を新設し、広報の充実と公聴の開始を準備した。そして、1960年4月
から『市政だより』をタブロイド版2ページ月3回発行からB5版8ページ月
10一
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
2回発行にして誌面を充実させた。『市政だより』は1961年12月、第7回全国
広報コンクールに入選した。
その二、団体代表懇談会。1959年の仙台市制70周年記念行事の立案にあたっ
ては、島野市長は東北放送、交通公社、商工会議所、農業委員会、婦人団体連
絡協議会などの企業・民間団体代表による懇談会を開催して、「市民の声を聞
いて」事業計画と予算案を作成した(17)。記念行事として1959年度予算に盛り
込まれたものは、青葉まつりと七夕まつりへの助成、市役所前広場と児童公園
の整備、中心市街地の街路樹植樹だけであり、市民プール・博物館・総合庁舎
の建設は調査準備経費がついただけだった。
その三、世論調査と市民の声=投書による公聴。前任の岡崎市長は1956年12
月、国民健康保険の次年度実施をめざし、市内全世帯を対象に世論調査をおこ
ない、その是非について市民の声を聞いていた。したがって重要事業に関する
事前の公聴は、保守市政で先行していた。島野市政では、1960年2月第1回市
民世論調査を実施して、それ以後毎年一回世論調査を実施していった。しかし、
その調査の内容は広報課所管の『市政だより』や市民への窓口対応といった広
報事業への市民の評価であり、前述の生活基盤整備事業、公共料金の値上げ、
大仙台圏=広域合併構想や仙台塩釜開発計画など当時の仙台市の重要課題につ
いては世論調査を実施しなかった。
1960年6月には、釜石市の鈴木市長と同様に、第1回「市長に手紙を出す運
動」を実施した。これには、122人の市民から203件の苦情、質問、要望が市長
に寄せられた。島野市長は投書した市民全員に返事を書き、あるいは『市政だ
より』で回答した。これを契機に、同年8月から『市政だより』に「私は知り
たい」という市政への質問コーナーが常設され、それが「市民の広場」となっ
て継続した。そして島野市長は、1960年10月第1回「市政懇談会」を開催し、
ここに6月の「市長に手紙を出す運動」で投書を寄せた市民のなかから抽選で
33人を市役所に招待し、市民から市政に関する意見を直接聞いた。しかし、一
般市民から抽選で市民を市役所に招待する「市政懇談会」は、1961年7月の第
11
行政社会論集 第24巻 第3号
4回までしか開催されなかった。その理由は、1961年の秋がすでに市長選挙の
準備期間に入って、社会党の市政懇談会が予定されていたからだろうが、島野
再選以後もこの投書した市民を対象にした「市政懇談会」は再開されなかった。
公聴形態として抽選した一般市民の市政懇談会は有効ではなかったのだろう。
「市長に手紙を出す運動」月間で市役所に届いた市民の投書は、釜石市とち
がってその後も増加しつづけ、それ以外の時期の投書も含めて毎年一冊ずつ
『市民の声』という分厚い報告書にまとめられていった。その第1∼8集によ
れば、投書した市民は南材木町、通町、八幡町、長町、原町、北六番丁、上杉
山通、南小泉など中心市街地の周辺で、新旧の住民の混住が進んだり、住宅団
地が開発されたりして人口が急増した地域の住民だった。投書の内容は、道路
舗装、下水道、衛生・清掃、交通(バス)への不満であり、上述のように仙台
市の都市問題の深刻さ、膨張する住宅地での生活基盤整備の遅れを反映してい
た。そして、この地域と苦情・要望の特徴はその後も変わらず、むしろ投書数
が増加して1965年度には714人、933件に達した。市役所は、市民の投書のすべ
てに対し担当部局の回答と対応の結果を付して返事をしていた。
その四、市長自身の広報公聴。1960年10月から、島野市長は『市政だより』
に「市長日誌」を連載し、時々の市長の活動や市政の課題を市民に説明していっ
た(18)。つぎに、1961年2月市長選挙一年前になると、第一回「市長を囲む行
政懇談会」が新市域・農村地帯の高砂、岩切、六郷、七郷の出張所単位で開催
され、部落会連合会など地域団体役員が参加した。また、1961年5月第一回
「市の施設をみる会」を開催し、国見浄水場、ガス局工場、中央卸売市場、野
草園を市長自身がバスガイド役を勤めて案内した。島野市長の市民直結は、再
選をめざした1962年の選挙で「島野氏は冠婚葬祭市長と陰口をたたかれるほど
四年間熱心にやった」と報道された(19)。やがて、「市長を囲む行政懇談会」は
市内各地の町内会連合会の主催で定着し、二期目以降の主要な月例の公聴事業
となった。1964年度には15回、1392人参加、1965年度には14回、1180人参加と
いった実績だった(2°)。
12
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
上記の都市基盤整備事業とこれらの広報公聴事業を照合すると、島野市政の
広報公聴事業は、市長が都市行政の必要に迫られて市役所主導の行政計画を次々
と実施し、その過程で住民負担を求めるので、あるいは住民から不満が噴出す
るので、主に新住民に対しては投書への回答で、旧住民や農村地区の地域団体
役員に対しては市政懇談会という形態で、市政への理解を求め不満を解消する
ための事後説明をした、苦情処理という機能を果たしたのである。島野はこの
時期には、一般的に投書を受け付けているだけで、公共料金の値上げ、広域合
併、新産都市などの重要テーマでその是非を事前に具体的に市民に問うことは
なかった。島野がそのような政策決定過程における市民参加の必要を市政の課
題だと述べるのは、1966年の三選以後だった。そして、都市基盤整備事業の推
進のために、住民に市政への積極的な協力をもとめたものが官製市民運動だっ
た。
愛 市 運 動
島野が市長に就任した時、仙台市はすでに愛市運動という官製市民運動を実
施していた。それは、「市政だより」によれば岡崎市政期の1952年秋から「市
民の公衆道義を高めよう」をスローガンに、教育委員会社会教育課が各種市民
団体を指導し、仙台市愛市運動委員会(会長は加藤多喜男東北大学工学部長)
を結成させたものであった。同会は「環境の浄化、公共施殻の建設愛護、青少
年の育成補導、公害防止」などの事業で市政に協力し、市民自ら「文化都市の
建設」にあたるものだった。また、岡崎市政は「衛生都市仙台」をスローガン
に、1955年8月から3年間の官製市民運動として「カやハエのいない生活実践
運動」を実施していた。それは、鳩山内閣期の新生活運動の具体化であり、市
内の保健所の下に学区・支所ごとに衛生団体連合会を、町内会ごとに衛生組合
(あるいは婦人会)290団体を組織し、毎月定例の薬剤散布、春秋の大掃除を全
市一斉で実施し、あるいは衛生に関する講習会を開催するものだった(21)。た
だし、市政だよりや地元新聞を通覧すると、岡崎市長がこの官製市民運動に熱
13
行政社会論集 第24巻 第3号
心だったとは言えず、市民の活動も下からの盛り上がりに欠けるものだったよ
うである(22)。岡崎市政の最後の年となった1957年の3月、岡崎市長は市議会
で新年度施政方針の重点に下水道整備20年計画と国民健康保険の導入の二つを
あげていた。
つまり、1958年2月から市政を担当した島野市長にとって、健康・衛生都市
の建設と、そのための市民団体の協力、市民の奉仕活動の活発化は岡崎市政か
ら引き継いだ宿題だった。島野市政は、1959年9月の機構…改革で衛生局(衛生
課、保健課、清掃課)を新設し、さらに1960年10月市内の衛生組合を仙台市衛
生組合連合会に組織して、衛生行政の強化を準備していった。しかし、一期目
の四年間、島野市長もこの官製市民運動に熱心だったとは言えず、この市民活
動に対して新機軸の事業を提案しなかった。愛市運動委員会は、1958年4月、
下記の「平易な語句に改められた」新しい愛市憲章を定め、それを印刷して全
家庭に配布した。しかし「この運動を学校教育にも取り入れ、とくに道徳教育
と関連して子どもたちに愛市運動の精神を徹底させることに努め」なければな
らなかった。官製の教化修養運動は町内会の活動にも位置つかず、ほとんど市
民のものにならなかったのだろう(23)。
私たちは仙台を明るく美しい市にするために愛市運動をつづける。
一 、私たちはおたがいに親切にしましょう。
一 、私たちは共同生活のきまりを守りましょう。
一 、私たちは社会を清潔にしましょう。
一 、私たちは公共の物を大切にしましょう。
一 、私たちはよいまちづくりに努めましょう。
愛市運動委員会は1961年2月、各界代表170人を集めて第8回市民大会を開
催し「愛市宣言」を決議した。そこでは、交通道徳の徹底、カやハエの絶滅、
野鳥保護、生活環境の美化、明るい家庭づくり、新生活運動の推進の6項目が
14
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
掲げられ、1960年から全国的に開始された「花いっぱい運動」に歩調を合わせ
て「市内のグリーンベルトに花を植えること」が提案されていた(24)。
この愛市運動を市民はどう受け止めていただろうか。仙台市に転入して3年
目というある新住民は、愛市運動の「造花のような美しいキャッチフレーズの
羅列に失望した、住みよい生活とは私たちの日常生活に直結した問題をひとつ
ひとつ解決することが先決だと思う」とこの愛市運動を批判し、泥んこ道、汚
水処理の欠陥、公衆浴場の不備、公衆トイレの不潔、運動公園がない、汲み取
り料金の不正徴収など、生活基盤整備の遅れを指摘していた。そして、住みに
くい実感として「仙台の封建的気風」をあげ、「官庁、会社、町内会における
個人の生活すべてにどうして特定の人が顔を利かすのだろうか」「顔に頼らな
ければ何事もうまくいかない仙台の気風は重苦しい」となげいていた(25)。
社会党仙台支部の活動
社会党宮城県連・仙台支部は、1957年初めに島野を公認市長候補として決定
すると、革新市政実現のための市政綱領を作成し、仙台市政対策委員会を設置
していた。島野の公約は社会党の市政綱領をふまえたものだった。また社会党
宮城県連・仙台支部は、1958年の市長選挙で共産党と共闘するために民主団体
協議会を結成したが、半年後には共産党と一線を画するため自ら協議会から脱
退していた(26)。つまり、選挙目的だけの社共共闘だった。そして島野市政が
開始されると、社会党県連・支部は市政対策委員会を通じて島野市長の人事政
策や議会対策をコントロールしようとした。
日本社会党は、1961年3月の第20回党大会で自治体改革の運動方針を決定す
ると、中央オルグを東北地方に派遣し、重点地区として仙台、釜石、八戸の3
支部の組織強化と自治体改革方針の具体化を指導した。しかし、社会党宮城県
連・仙台支部と労働組合の県労評が、自治体改革運動に着手したことを示す資
料を確認できない。仙台市の社会党にとって1961年の後半は、翌春の市長選挙
の準備期間であり、社会党と労働組合が市政を点検し、また様々な住民の要求
15
行政社会論集 第24巻 第3号
と結合して地域活動を活発にし、労働者の居住地組織をつくり、党組織を強化
することが内在的にも求められていた局面だった。
また、仙台市も高度成長期特有の都市問題が山積していた。河北新報によれ
ば、人口急増に都市施設の整備が追いつかず、高台地区の住民は毎夏断水に悩
まされ、また老朽欠陥の市営住宅を利用する住民から苦情が続出していた。そ
して現地を視i察し、直接これらの住民の不満や苦情に対応したのは島野市長だっ
た。松島湾で養殖のカキが全滅し、東北電力火力発電所の排水に対して公害反
対の漁民大会が開催されたが、仙台市から応援に駆けつけたのは共産党系の労
働者だった。
1961年8月、社会党宮城県連・仙台支部は、島野市政一期目の総括および次
期市長選挙の市政政策として「島野市政の現状と分析」という市政白書を発表
した。そこでは、「社会党と島野市長は市民の予算要求運動をまきおこし、市
民組織を作るという任務の中で、その布石もうたなければならない」と本部の
自治体改革の方針を自覚していた。しかし、「労働者との日常的な課題を通じ
ての自治体政治の悩みや、困難さや矛盾を語り合う機会を十分に持つ努力をし
なかった弱点もあった。更により広汎な市民要求を組織的にとらえ得なかった
面もあった」と反省していた(27)。その後も社会党仙台支部の活動は議員活動
が中心で、市政にかかわる市民運動を組織したり、市民運動と結合して対市予
算要求闘争を展開したりしなかったようである(28)。
1961年秋、市長選挙が近づくと、石炭購入をめぐる市ガス局汚職事件、大倉
ダム工事をめぐる市水道局汚職事件が摘発され、自民党や河北新報によって島
野市政批判のキャンペーンが張られたが、社会党市議と市職労は市役所の自浄
活動に着手しなかった。社会党県連・市支部は1961年10月浅沼稲次郎追悼集会
を挙行すると、その後、市政懇談会を市内で連続して開催していったが、それ
は市長選挙の事前運動としての遊説活動であり、自治体改革運動の契機にはな
らなかった。
16
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
(1) 「仙台市20年をへた島野市政の課題」『地方自治通信』93号、1977年8月
(2) 仙台一中、二高卒業、東大経済学部中退、1931年弁護士開業、東京弁護士
会副会長、都政調査会理事、門屋博は実兄 ・
(3)
河北新報1955年4月16日「市長候補に聞く」
(4)
河北新報1955年5月2日「功奏したアカ宣伝」
(5)
桜沢東兵衛「仙台市長選挙無効事件と選管の反省」『選挙』1958年2月
(6)
河北新報1962年1月15日「選挙一騎打ち物語仙台市長選下」の回想記事に
よる
(7) 河北新報1958年1月24日
「両党首脳作戦を語る」
(8) 河北新報1958年1月28日
「仙台市長選挙公約一覧表」
(9) 河北新報1958年1月30日
「仙台市長候補を語る、未知数の新鮮味」
(10) 河北新報1958年2月3日
「仙台市長に島野氏」、同2月4日「微笑に筋金一
本」
河北新報1958年2月4日
(11)
「宮城県自民党県連全面刷新か」、同日「アンケー
ト党色を捨てた市政を」
(12)河北新報1958年7月3日「仙台市政に鋭いメス」
(13)河北新報1959年3月5日「一に道路、二に民生」
(14)河北新報1959年1月21日「島野仙台市長への注文帳2住宅」
(15) 河北新報1959年1月28日「島野市長への注文帳8下水道」
(16)河北新報1959年1月20日「島野仙台市長への注文帳1舗装」
(17) 河北新報1959年2月20日「仙台市制70年記念事業決まる」
(18) 島野武『市長日誌』市長日誌刊行会、1965年はこれを編集したもの
(19) 河北新報1962年1月22日「中…盤戦をさぐる」
(20) 各年度の仙台市広報課『市民の声報告書』による、『社会新報』1965年11月
3日「住民の不満や要求 市政懇談会で解消」を参照
(21) 『市政だより』572号、1956年3月25日「カとハエのいない生活運動」、同617
号、1957年6月25日「健康は明るい街建設への担い手」
(22) 河北新報1958年1月11日「地に付かぬ新生活運動」
(23) 河北新報1958年4月2日「愛市運動を全市民のものに」
(24) 河北新報1961年2月18日「社説町に花を植える心」
(25) 河北新報1961年2月23日「愛市運動の実際」
(26) 河北新報1958年7月21日「社党県連大会、菅原除名を決定」
17
行政社会論集 第24巻 第3号
(27) 『国民自治年鑑』1964年版、327∼332ページ
(28) 「予算議会における革新市政の苦悩」『地方政治』1966年7・8月、63∼66
ページ
1962年の市長選挙一市民直結で再選
革新勢力の中では、一期目の島野市政に対し不満が強かった。市庁内の汚職
事件や縁故人事に対してだけでなく、県労評には交通局職員への賃金切り下げ
や人員整理に反対論が残り、社会党の左派は島野の保守性に批判的だった。し
かし、社会党県連は任期があと一年となった1961年2月、島野市長を公認候補
に決定し、民社・共産両党や労農団体に統一戦線の結成による共同推薦を呼び
かけていった。社会党の懸案は、革新勢力が足並みをそろえること、とりわけ
民社党や全労系労組の民労協の協力を獲得することだった。社会党は、この選
挙で「市民と直結した市政」を島野のスローガンとし、前回は同窓会、後援会、
革新勢力の寄り合い所帯の選挙体制だったが、今回は四年間の市政の実績をふ
まえた政策中心の選挙にする方針だった。
他方、自民党県連は、現職の島野に勝てる外部の有力候補を発見できず、地
元出身の国会議員も市長への転身を固辞した。また宮城一区の愛知揆一派と保
科善四郎派の対立を背景に、県内や県連からの候補選考も遅れた。結局、自民
党は1961年6月、前回惜敗した愛知派の松川県議を再び市長候補として公認し
た。そして、自民党は大仙台建設促進同盟を結成して市内の政財界人を結集し、
仙台の発展のためには「国と県に直結した自民党市政でなければだめ」と主張
した。
市長選挙まで半年を切ると、社会党と民社党は1961年9月から共闘会議を開
いて島野共同推薦の条件を協議したが、民社党は島野の党籍離脱と無所属立候
補を主張して、両党の協議はまとまらなかった。1960年代前半では、社会党は
首長選挙に公認候補を擁i立することが党大会で決定された原則であり、その上
で民社・共産両党に自党候補への無条件協力を求めることを統一戦線と理解し
18
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
ていた。
そして11月に入ると、自民・社会両党はこの市長選挙を重視し、選対事務所
を中心市街地に開いて事実上選挙運動に突入した。そして、市内各地で「市政
を語る会」「市民の声を聞く会」などの市政懇談会を連日開催していった。社
会党の懇談会は、政治家の遊説活動だったが、島野市長は現職の強味を発揮し
て市民の苦情・要望の陳情を聴き、それを選挙に結合させた。それに対して、
自民党は松川候補を中心に大仙台建設懇談会を市内各地で開催するとともに、
この選挙運動を契機に市内38学区、360町内会ごとに地区組織委員を有給で委
嘱して、地域の末端に選挙運動員を獲得しようとした(29)。実態は町内会や婦
人会の役員への一括委嘱だったのではないか。この組織委員は年内に5000人に
達し、翌1962年1月から選挙戦が始まると、さらに8000人にまで膨張して松川
派の票固めを期待された。愛知揆一県連会長によれば、自民党仙台支部のこの
地域組織作りは画期的成果として党大会で表彰されたようである(3°)。
社会党が島野候補の擁i立形式について単独公認に固執するか、無所属共闘で
妥協するか苦悩しつづけていると、民社党は社会党に対して改めて島野の党籍
離脱を主張した。そして、社会党から回答がないので、11月になって門間県議
を市長選挙に立候補させた。すると、社会・民社両党の動向を見守っていた共
産党は12月になって、「島野市政への対決」を主張して、県委員長を市長候補
に擁i立した。槙猛市議会議員は、「当選後の四年間の市政を見ていると、島野
氏のやり方は革新の方向を向いていない、島野市政は自民党政府の下請け機関
であり、自民党のいいなりになっている、看板だけ社会党で内容は自民党その
ものだ」と述べ、大仙台圏構想は三浦自民党県政案と同じだ、工場誘致条例は
雇用の拡大に役立たないと島野の工業開発政策を批判した(31)。三党は公党の
原則に固執した。
しかし、いよいよ年末になり、市長選挙告示まで20日を切ると、三党間の妥
協が試みられた。民社党県連会長の竹谷源太郎は、「これまでの島野市長のよ
うに主義主張がなく、ただ当選すればよいといった行き方には反対だ、仙台は
19
行政社会論集 第24巻 第3号
東北の基幹都市として長期計画により大仙台を建設しなければならない」と主
張し、民社党の政策を取り入れ、島野を無所属にするなら、社会党との共闘は
あり得ると述べた(32)。同月に実施された新潟県知事選挙では、社会党が公認
候補を党籍離脱させ無所属で立候補させており、これが民社党の主張の根拠と
なった。社会党にとっては、保守革新の票がきわめて接近している仙台市の選
挙で、キャスティングボートを握った民社党・民労協の1万票を手放さないこ
とが最優先だった。
社会党はまず12月31日、共産党や労農団体、島野与党の保守系市議会派に反
自民戦線の結集を呼びかけ、島野候補の選挙母体となる革新市政確立連盟(仮)
を結成した。社会党と共産党は、安保反対、日中国交回復など国政問題での共
闘を主な内容とした政策協定を結び、安保共闘組織を市長選挙のカンパニア組
織として利用することを確認した(33)。共産党は独自候補を降ろして革政連に
参加した。すると、社会党は1月4日、民社党に連盟への参加を申し入れ、民
社党は島野の無所属立候補を改めて要求し、また共産党が共闘組織に参加する
ことに反対した。それに対して社会党は、共産党が自発的に島野に協力したも
ので共闘ではないと苦しい弁明をし、島野は公認せず無所属の形で出馬させる
という妥協案を提示して、社共と社民のブリッジ共闘の成立を模索した(34)。
これによって、社会・民社両党間で共闘の交渉が再開され、社会党が革政連
の主導権を握り、当選後の島野の行動は社会党が責任をもつことを民社党が了
承し、1月8日市長室で両党と島野は手打ち式を行って共闘を確認した(35)。
民社党は、共産党と共闘しないために革政連には参加しないで、ひとまず別の
共闘組織を構想した。しかし、革政連は政党間の共闘組織ではなく事実上島野
選対であると理解し直して、革政連に正式参加した。1月10日、革新市政確立
連合が結成され、社会、民社、共産の三党、県労評、日農県連、民労協、仙台
商工連合会、市政研究会(革新無所属系市議会派)の8団体が構成団体となり、
水明会(保守系与党会派)と農政連はオブザーバーの参加団体となった。会長
には菊池養之輔社会党県連会長が就任した(36)。こうしてようやく、1962年1
20
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
月の市長選挙は告示直前になって島野と松川の保革一騎打ちの再演となった。
このように、島野再選をめざす革新共闘の成立過程は、安保共闘が市長選挙・
自治体政策での共闘に発展したものでも自治体改革の市民運動に支えられたも
のでもなく、政党間の候補擁立形式=「公党の原則」をめぐる党派間の主導権
争いだった。そして革新統一とは社会党と民社党の共闘を主な目的とするもの
で、その条件は社会党の候補者公認原則の棚上げだった(37)。候補者が現職だっ
たので、候補者の選考条件は不問に付され、市政公約は島野と社会党に一任さ
れた。この選挙は、1960年代前半の大型市長選挙のなかで、社会党による野党
三党のブリッジ共闘が成立した極めて例外的な事件だった。社会党は1961年の
名古屋市長選挙で、民社党に独自候補を立てられ革新市政を継承できなかった。
また、この仙台市と同時に実施されていた京都市長選挙でも、社会党は民社党
の協力を得られず、高山市長を相手に社共共闘候補が敗北していた。社会党に
とって仙台市は大都市革新市政の残された最後の砦だった。
1月18日の告示によって選挙戦がはじまると、この仙台市長選挙は今回も自
民党と社会党の総力戦となり、両党は最高幹部を仙台市に送り込んで応援演説
合戦で対決した。しかしそれは、単に参議院選挙の前哨戦と位置づけられだけ
でなく、高度経済成長と都市化の進展で膨張する都市中間層の支持をいかに獲
得し、大都市で政党の地方組織をいかに強化するか、という自民党にとって組
織近代化の、社会党にとって構造改革論・自治体改革方針の課題を検証する最
初の舞台でもあった(38)。
両派は、島野派が文化的健康都市の建設と「市民に直結する市政」、松川派
が新産業都市から大仙台圏の建設と「国と県に直結する市政」をスローガンに
掲げたが、市政の公約はともに工業開発による大仙台圏の建設を中心とするも
ので、「保守対革新の対決が強調されるあまり、肝腎の政策争点がぼやけてい
る」と報道された(39)。島野市政一期目の看板だった道路政策をめぐっては、
保守の松川派が「道路舗装の地元負担金をなくす」と公約して、島野の弱点を
突いたのに対して、革新の島野派は、むしろ仙台を中心に東北各県をむすぶ高
21
行政社会論集 第24巻 第3号
速道路の建設を公約した。同様に、松川派が「学校関係の父兄の負担をだんだ
んなくしていく」と公約したのに対して、島野派は歯科・工業・女子の大学設
立促進を公約した(4°)。保守派が革新の政策を、革新派が保守の政策を各々訴
えて浮動票を獲得しようとした。島野派の選挙運動には、「平和憲法を守る婦
人のつどい」など15の革新系婦人・青年・文化団体が加わり、市内の農協組合
長は全員島野支持にまわった。松川派は医師会、薬剤師会、遺族会、スポーツ
団体、旧軍人団体、商工団体から推薦を獲得した。
河北新報は、両派の総力を挙げた組織戦で大接戦となった選挙戦の終盤で、
「本当の争点」は道路、学校、民生など革新市長が市民に直結した市政の実績
か、大仙台建設のため中央に直結する自民党市長かの選択であり、勝敗のカギ
はこの争点に対する無党派層の去就だと解説していた(41)。
1月28日の投票結果は、島野武102,918票、松川金七73,101票、投票率67.96
%で3万票という予想外の大差をつけて現職の島野の圧勝だった。河北新報は、
島野の勝因を革新勢力の大同団結、保守系市議や農協幹部の協力、そして四年
間の実績と、市内の庶民からも東京の文化人からも支持される島野個人の魅力
を挙げていた(42)。当選直後の記者会見で、島野は「大仙台圏建設の裏付けと
なる、働く市民の住みよい平和な健康都市づくりに適進したい」と抱負を述べ、
自民党の政府に直結する市政論に対しては「ああいう地方自治を無視した暴論
には最初から義憤を感じていた、市民の良識がこれに答えてくれたことが何よ
りうれしい」と批判した(43)。また、選挙結果に対する「市民の声」は、島野
市長が一期四年間で「清潔」「市民に直結」「市民の声を市政に反映した」とい
うイメージを獲得し、生活基盤整備への尽力が市民に評価されたことを示して
いた(44)。他方、仙台商工会議所会頭は、この激戦のしこりが三浦県政と島野
市政との対立を深める原因となり、大仙台圏建設計画が停滞することを懸念し
た。そして、島野市長の都市計画は岡崎市政の継承であり、その実績に党派の
違いはないと述べて県と市の協調を要望していた(45)。
22
辮政繍史一一一195・−6・年代の社会党市長(4の3完)(功刀俊洋)
河北新報、96、年、。月2・日「二ヶ月後に迫った仙台市麟」・同11月25日
(29)
(㍊羅鮒謄灘戦線を確認」・同・月9日「雛戦線
(3奮る勧北新報、962年・月・・日「鞭きのう発足」
(41)
辮欝灘灘灘争点をえぐる」
(42)
河北新報・962年・月29日「公約を忠実に実行」
(43)
(44)
灘蕪牒誰に鴛撫再騨つて」
(45)
一23一
行政社会論集 第24巻 第3号
ンピック開催の環境整備として「首都を美しくする運動」を提唱し、池田内閣
は東北地方では青森市、秋田市とともに仙台市をオリンピック歓迎「○○市を
美しくする運動」のモデル都市に指定していた。したがって、これは保守政権
の官製国民精神修養運動の一環に位置づけされていたようである。そして具体
的には、5ヵ年計画で、当面は清掃と下水道を施策の重点にして尿尿処理の強
化と終末処理場の建設をめざし、ハエや蚊のいない町づくりを推進し、長期的
にはさらに交通安全、緑化、花いっぱい、体育の振興によって市民の健康づく
りを実現しようという計画だった(47)。
3月に予算市議会が開かれると、島野は、仙台市の大仙台圏構想は国の拠点
都市構想、県の仙台湾臨海工業地帯構想と一体のもので、工業港湾と工業地帯
の建設を引続き市の目標にすると述べたあと、健康都市構想を「将来大都市と
して悩む弊害を、全市民をあげて除去しようというもの」と説明し、その施策
の三本柱として①生活環境の整備改善、②保健衛生施策の強化、③市民の健康
増進をあげた。3月16日市議会は全国にさきがけて健康都市宣言を満場一致で
議決した(48)。
健康都市宣言
仙台市は東北開発の中核として近代的大都市の建設を目指し、飛躍的発展
の段階を迎えようとしている。このときにあたり、本市は真に市民福祉の向
上を期するため、「市民のすべてが健康で文化的な生活を営むことができる
都市」の建設を、その基本目標として、産業、交通、建設、教育、文化、民
生などあらゆる施策をここに結集し、清く、明るく、住みよい都市(まち)
づくりに総力を傾注して、その目標達成のためまい進しようとするものであ
る。よって、ここに全市民とともに仙台市を健康都市とすることを宣言する。
実際は、まだ「全市民とともに」ではなく「全市議会議員とともに」だった
が、島野は健康都市建設を「全市総がかりの市民運動」によって推進しようと
24
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
した。この宣言を公告して全市民に協力をよびかけると同時に、市役所に健康
都市建設推進本部を設置してみずから本部長に就任した。翌17日には全職員を
市役所前広場にあつめて「あらゆる市の施策を健康都市建設に結集する」と訓
示した。4月から市役所の正面玄関の上には「明るく、住みよく、美しく」と
いう健康都市の合言葉が掲げられた。『市政だより』は4月から10月にかけて、
毎号健康都市づくりの特集号となった。5月28日には、健康都市建設を市民運
動として推進する市民組織として健康都市建設協議会が発足した。これには愛
市運動実行委員会、衛生団体連合会、商工会議所、医師会、日赤奉仕団、体育
協会、小学校長会、PTA、婦人会、青年団体など59の団体が参加した。会長
には愛市運動実行委員会会長の加藤多喜男(東北大学工学部長)が就任し、事
務局は市企画室長が担当した。仙台市はこれに年間200万円の補助金を支出し
た。同会は、毎月1回の健康都市デー、市民大会、講座・講習会・研究発表会、
表彰などの活動を計画した(49)。
島野市長によって健康都市建設運動が提唱されると、その具体化を先導した
のは保健所だった。仙台市は従来春秋各一回市内一一斉清掃・ドブ俊いを実施し
てきたが、春の大掃除の結果を点検するため、仙台南保健所は5月下旬管内の
各町内会に対して環境衛生診断を実施した。すると、長町中区町内会は、保健
所から「得点ゼロの不名誉なカルテをいただいたため」汚名を雪こうと、保健
所の技師二人を招いて6月10日親子総出動で町内の一斉清掃をおこない、町内
会全員で環境衛生運動を開始した。そして、それに呼応して町内の小学生で環
境衛生こども会を結成し、「道路下水の清掃」、「写真斑による不衛生地区の実
況報道」という活動をして大人の活動に協力することにした(5°)。これを先例
にして、健康都市建設協議会は7月25日健康都市建設市民大会を開催し、健康
都市宣言をした3月16日にちなんで、8月16日から毎月16日を「健康都市の日」
と制定して町内会・衛生組合ごとに全市一斉早朝の町ぐるみ清掃活動を展開す
ることにした(51)。仙台市当局は、この市民運動を徹底するためポスター2000
枚、チラシ35,000枚を町内会に配布した。
25
行政社会論集 第24巻 第3号
第一回町ぐるみ清掃の当日は、島野市長自身がほうきを手に取り、そのあと
島野市長と関係局長などが7斑に分かれて、おもな町内会を巡回し市民の協力
に感謝した。市内三保健所の調査結果によれば、この清掃には、市内533町内
会の42%にあたる223町内会18,465人が参加した。この清掃によって集められ
たゴミは、62町内会の123ヶ所から88トン、不法投棄ゴミ11トンの合計99トン、
トラック41台分に達し、ゴミは焼却場に運ばれた(52)。この清掃活動に熱心に
協力したのは、南小泉、台ノ原地区など市街地周辺の住宅地の主婦たちで、中
心街に通う商店主や経営者はソッポを向いていた。市役所の推進本部事務局長
は「問題はこの運動が天下り式の強制と受け取られては困ることで、市民自身
が自分のために環境をきれいにするという気持ちを盛り上げていきたい」と、
第一回「健康都市の日」を反省した(53)。しかし、この市民運動は後述する市
民の反応に表われたのように、文字通り天下り式の強制だった。上記の長町町
内会のように成績の悪い地区や協力しない市民・事業者は、不衛生・不健康で
不名誉な存在と見なされ兼ねないと自認したのではないか。市当局は、第二回
目に向けて宣伝活動に加え、地域懇談会を各地で開催して事前啓発に尽力した。
その結果、9月16日(日曜日)の第二回町ぐるみ清掃運動では、仙台駅前、
東一番丁、中央通の中心商店街がつくる三栄会が全商店の参加を申し合わせ、
七十七銀行も本店と19の支店・出張所が清掃を実施した。そして、参加者は全
市内の88%にあたる470町内会から4万人に達し、集めたゴミは138町内会438
ヶ所から196トン、トラック86台分、側溝やドブを渡ったドロは68トンに達し
た(54)。
仙台市の健康都市建設推進本部と市民団体の建設協議会は、8∼9月の町ぐ
るみ清掃が成功したと判断すると、島野市長の当初の構想どおり、この官製市
民運動の活動分野を次々と拡大していった。まず10月を健康都市建設強調月間
と決定し、町ぐるみ清掃に加えて、従来毎年秋に実施されてきた学区ごとの市
民体育祭と市民一斉健康診断の行事を健康都市建設運動のなかに位置づけ
た(55)。三回目となった10月16日の町ぐるみ清掃では、仙台市清掃部の調査に
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
よれば、集めたゴミのトラック運搬を申し出たものは125町内会、297ヶ所、118
トンへと減少した(56)。これで町ぐるみ清掃は一段落して、次年度春以降も町
内会の月例行事として定着していった。寒さのため早朝清掃が冬休みになる12
月∼3月の期間に対しては、推進本部・建設協議会は活動の重点を火災予防運
動、青少年健全育成運動、保健衛生意識高揚講演会・映画会に置くことにし
た(57)。そして、健康都市宣言一周年にあたる1963年3月16日には、警i察・消
防の音楽隊が市内を記念パレードし、町内会ごとに町ぐるみラジオ体操を実施
した。これには小学校長会が全面協力して、小学生を動員した。またレジャー
センター前広場に一万人の市民を動員して、NHKを通じて全国にラジオ体操
を実況中継した。このラジオ体操には5万人の市民が参加した(58)。そして、
推進本部・建設協議i会は1963年度の活動目標を毎月の町ぐるみ清掃に加えて、
ラジオ体操と花いっぱい運動(生活環境美化と緑化)に設定した(59)。1963年
6月の市民大会では、市内650地区にもれなく環境衛生こども会が結成された
ことが報告され、9月には健康都市こども大会が開催された。こども会には黄
色い会旗、参加したこどもには健康都市バッジが贈られた。
健康都市運動への市民の反応
河北新報の投書欄「窓」に寄せられた市民の健康都市建設運動への反応は、
投書という資料の性格から当然だろうが、総じて市長と市役所に批判的なもの
が多かった.それは、一つは、市役所が道路舗装の地元負担金や尿尿汲み取り
料、ゴミ収集料を市民から徴収していながら、さらに道路やドブの清掃を市民
にまかせることへの批判であり、むしろ保健所や市役所が責任をもって衛生・
清掃を担当すべきだという主張だった。二つは、仙台市の尿尿処理、道路舗装、
衛生行政の現状はあまりに低劣で、「健康都市」など「市長のひとりよがりの
戯言だ」という批判だった。市民の衛生の悩みは、尿尿汲み取り業者から不当
な料金を要求されること、一般ゴミの収集は料金制だったため不法投棄が多かっ
たこと、台所のゴミ(厨芥)は市役所が収集せず、「ブタ屋」(厨芥利用組合所
27一
行政社会論集 第24巻 第3号
属の畜産業者)に依頼して無料で回収する制度になっていたが、高い料金をと
られたり、「ブタ屋」が来ない地域では河川や空き地に棄てられたりしたこと
だった(6°)。市民の尿尿は青葉丸という尿尿処理船で海洋投棄され、あるいは
山間地や海岸に埋設されていた。そして、それらの批判は、市民税や公共料金
が毎年のように値上げされていたことを背景に、次のように島野市長の行政手
法への批判をともなっていた。
窓 健康都市に疑問
仙台市では毎月十六日を健康都市の日ときめ、このほど第一回目の運動が
行われた。その実施状況をみると、各町内会の住民を早朝から集め、市道や
県道をほうきで清掃させている。結構である。ただ、ちょっと疑問が残る。
市民税を値上げし、公共の路上を、市当局が清掃を怠り、市民にやらせてい
るからである。これでは私たちは、いったいなんのために市民税を納めてい
るのだろうか。ゴミ集めには金を取り、道路の清掃は市民にやらせる。これ
では市役所はいらないのではないか。役所は役所らしく戸籍や住民届けなど
の書類事務だけやっていればよいというのだろうか。
人気取りに、いろいろとふろしきを広げ、アドバルーンをあげることが好
きなようだが、健康都市を標示する仙台市のやり方はどうみても不健康その
ものだ。健康に一番必要な衛生面がゼロなのがそのいい例で、汲み取りなど
は一度や二度の電話連絡では、まったく用がたりない。また消毒にしても月
一 回の消毒もない。市長の草むしりが写真入りで報道されたが、市のやり方
はすべてこの調子で、うわべだけを飾って、地についた施策がさっぱりない。
最近の市長さんのやり方をみていると、戦時中、東条首相が、市民のゴミ箱
をみて歩いて、浮ついた人気取りをやったことを思い出し、なんとも嫌な気
持ちになったのは私だけだったろうか(61)。
この疑問に対する推進本部事務局の回答は、「これは市民自ら協力的に盛り
一
28一
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
上がった姿ですから宣言の趣旨をおくみとりのうえ、よろしくご協力をお願い
します」という形式論だった(62)。しかし、この市民運動は上述のように前史、
発足の経緯、組織と事務と財政のいずれも市役所・保健所主導による行政補助
団体中心の官製運動だった。また島野市長は、この市民運動を提案する前に、
清掃、衛生、緑化などの分野で行政が担当する事業と市民活動との役割分担の
あり方について、市民に諮問し市民の意見を聞く、市民と合意形成をはかると
いう手続きをとらなかった。市長選挙でスローガンとして健康都市をかかげた
だけだった。社会党や労働組合はこの官製市民運動に関与しなかった。
この官製市民運動によって、町内会が毎月町ぐるみ清掃などに動員されるよ
うになると、町内会の役員と一般市民から島野市政と町内会のあり方について
相次いで批判の声があがった。それは、町内会役員からの「愛市運動、健康都
市宣言、町ぐるみ清掃などと看板を掲げて、道路清掃からゴミの処理まで受け
持たされ、そのうえ結果の報告まで義務付けられている」民生局、衛生局、保
健所関係の事務負担や募金の強制が多くて応えられないという苦情であり、一
般市民からの町ぐるみ清掃への参加を強制されて「この瞬間ふと私は戦時中の
あの強制的な隣組制度を思い返さないではいられませんでした」という憂慮だっ
た(63)。すると、島野市政は1964年1月から毎年「町内会長に感謝する会」を
開催し、町ぐるみ清掃などに功績のある町内会長を表彰し、さらに1965年度か
ら連合町内会に補助金を交付して、上記の苦情や憂慮を封じ込めていった。た
だし、町ぐるみ清掃は2年目が終わってみると、町内会組織が存在・機能しな
い中心市街地や新興住宅地では実施されなくなり、実施地域は市内の3分の2
にとどまった。参加者も当初の盛り上がりが一・段落すると、町内会役員とこど
も会、そして表通りの住民だけになった(6‘)。さらに3年目の夏以降には、東
京オリンピック直前の町ぐるみ清掃にもかかわらず、参加した町内会は全市の
1割60∼70程度にとどまり、当初とくらべると下火になった(65)。
他方、島野市長が当面の重点施策とした下水道と清掃事業は、この市民運動
による健康世論づくり (清掃・衛生問題への市民の関心の喚起)と市民からの
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行政社会論集 第24巻 第3号
苦情や要望の顕在化を促進要因にして、進捗していった。下水道計画は1957年
から20年計画で実施されてきたが、島野市長は1962年度に建設省と厚生省から
合わせて1億円の補助金を獲得し、幹線工事とポンプ場・終末処理場建設を中
心とする4億円の工事費を予算化した(66)。そして、これによって20年計画を
15年計画に短縮していった。また尿尿処理は、それまでの民間業者委託を1962
年10月から汲み取りも終末処理(海洋投棄、農村への還元、山間地への埋設)
も市清掃部の監督下に切り替えて、ヤミ料金の慣行や不法投棄をなくすように
改善の一歩を踏み出した(67)。そして、1963年9月から南蒲生終末処理場の尿
尿処理施設が運転を開始し、捨て場に困っていた尿尿の処理が可能になった。
1963年度には市内の中心市街地から徐々に水洗便所が使用できる目処が立つよ
うになった(68)。ゴミ集めは、有料制・家庭の申し出による回収という従来の
方法を継続したが、1963年6月から町内会に協力を呼びかけ、町ぐるみ清掃日
に町内会全戸のゴミを集める場合には無料制を採用し、清掃専用車による定時
収集を開始した(69)。
このように清掃・衛生行政が進捗しはじめると、それが市民の負担や生活環
境に直結していたために、市民の間には二つの反対運動が成立した。一つは、
県労評や自治労が取り組んだゴミ処理料、尿尿処理料の値上げ反対運動だった。
しかし、島野市政は1963年9月市議会で社会党、民社党、保守系与党の賛成を
得て値上げを実現した(7°)。二つは、衛生施設の新設が予定された特定地区住
民の建設反対運動だった。新たに尿尿埋設地になった岩切地区や清掃事務所が
建設された黒松団地では、衛生組合や町内会が生活環境の悪化を理由に反対期
成同盟会を結成して反対運動に立ち上がった。しかし、市役所は同地区に市民
プールを建設するなどの「見返り」を提供して反対運動を収束させた(71)。島野
市長は、これらの反対運動に対して協議の場を設けて市民の意見を聞くという
対応をとらなかった。健康都市建設の官製市民運動は、市民の衛生行政に対す
る反対運動を抑制する役割を果たしたのではないだろうか。
1963年10月、東京で四大革新市政の研究集会が開かれた。終了後の座談会で、
30
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
司会役の松下圭一は「島野さんのところでは、清掃関係で月一回、市民集会を
やっていらっしゃるようですけれども」と述べ、町ぐるみ清掃を市民集会と強
引に理解して島野に発言を促した。島野は、松下の質問に対し、町内会の奉仕
活動も、メーデーのデモ行進も、お祭りも、みんな市民集会だと思っているか
のように応じて、町ぐるみ清掃の官製的実態を語らなかった(72)。松下は、仙
台市の町ぐるみ清掃の実態よりも、革新市政には市政改革の市民運動が成立し
てほしいという願望に固執していた。革新市政に対する事実にもとつかない過
大評価、つまり飛鳥田神話は、すでに1963年から始まっていた。仙台市で市政
を考える市民集会が最初に開催されたのは、後述するように、美濃部都政誕生
直後の1967年11月だった(73)。
(46) 河北新報1962年1月6日「仙台を健康都市に」、同2月2日「健康な都市づ
くり」
(47) 島野武「仙台市健康都市建設の構想」都市計画協会『新都市』16巻10号、
1962年10月および島野武「健康都市を宣言した仙台市」全国市長会『市政』127
号、1963年2月、「革新市政めぐり⑩仙台市」『社会新報』1964年3月15日を参
照。なお、同じ1962年3月には、革新市政の静岡県三島市が全国で初めて環境
衛生都市宣言を議会の満場一・致で可決していた、なお「首都を美しくする運動」
については、源川真希『東京市政』日本経済評論社、2007年、248ページを参照。
(48) 河北新報1962年3月17日「住みよい街づくり」、『仙台市議会史 昭和34∼
38年』1973年、仙台市、902∼905ページ
(49) 河北新報1962年5月29日「進む健康都市づくり」
(50) 河北新報1962年6月11日「親子総出で運動、環境診断の汚名挽回へ」
(51)河北新報1962年7月26日「明るく、住みよく、美しく」、8月15日「あすは
健康都市の日」
(52)河北新報1962年8月16日「まず好調なスタート」
(53) 河北新報1962年8月23日「初の町ぐるみ清掃運動を顧みて」、8月30日「さ
あ健康都市づくり」
(54) 河北新報1962年9月18日「繁華街もあげて参加」、同9月20日「全市で4万
人が参加」
31
行政社会論集 第24巻 第3号
(55)
河北新報1962年10月5日「運動を町のすみずみまで」
(56)
河北新報1962年10月26日「低調になった清掃運動」
(57)
河北新報1962年11月10日「防災運動や映画会」
(58)
河北新報1963年3月16日「一一・周年迎えた健康都市」
(59)
河北新報1963年4月13日「花いっぱい緑化」
(60)
河北新報1962年9月26日「始末に困る台所のゴミ」、同10月1日「ゴミに埋
るドブ川の対策」
(61) 河北新報1962年8月19日「窓 健康都市に疑問」
(62) 河北新報1962年8月28日「健康都市の疑問にお答え」
(63) 河北新報1963年2月23日「町内会と隣組」、同2月27日「仙台市当局の反省
を望む」、同4月25日「町ぐるみ清掃を強制される」
(64)
河北新報1963年10月14日「町ぐるみ:清掃に一言」
(65)
河北新報1964年12月8日「町ぐるみ清掃終わる」
(66)
河北新報1962年7月4日「下水道整備で健康な町へ」
(67)
河北新報1962年10月10日「尿尿処理事業根本的改善へ」
(68)
河北新報1963年5月4日「尿尿の悩み八月に一挙解消」
(69)
河北新報1963年6月3日「台所からゴミ追放」
(70)
河北新報1963年9月12日「清掃事業改善共闘委、島野市長に強く要望」
(71)
河北新報1963年8月13日「市に下流住民が抗議」、1964年2月7日「もめる
北部清掃事務所設置」
(72) 「革新市政をどう育てる」『エコノミスト』1963年11月5日、10ぺv−…一ジ
(73)飛鳥田一雄「革新市長日記7」『経済評論』1967年12月
東京オリンピック推進国民運動から河川浄化運動へ
島野市長は全国市長会の都市問題会議などでこの健康都市建設運動を紹介し
てきた。この運動は各地の市当局者から注目され、1963年の秋には鹿沼市、津
島市、青森市など8市町、1965年秋には喜多方市、中村市、加世田市など13市
町に波及して健康都市連絡会議が組織された。そして1964年2月には、東京オ
リンピック推進国民運動委員会(委員長は日本商工会議所会頭)は全国の都市
清掃美化運動を展開していくにあたり、この運動を「仙台方式」と呼んでその
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
モデルに採用した。これに呼応して仙台市健康都市建設協議会は、宮脇仙台商
工会議所会頭が提唱して、健康づくりの重点に「仙台親切運動」という「心の
健康運動」を実施することにした。そして、町の善行者を町内会から推薦して
もらい、善行者に親切バッジを贈る運動を開始した(74)。すると、健康都市建
設運動の母体かつ中心である愛市運動委員会は、1964年の実行目標を日の丸掲
揚に定め、仙台市に日の丸を掲揚する市の行事を制定・実施するように申し入
れた(75)。この当時、厚生省は、1963年から生活環境整備5ヵ年計画を立てて、
尿尿処理、ゴミ処理、終末下水道の施設整備をすすめていた。そして1964年4
月、厚生省は東京オリンピックを前にして国土浄化運動の実施を地方自治体に
通達した。同時に池田内閣は清掃法を改正して、公共施設の清掃義務化、水洗
便所の奨励、汚物処理業の市直営化などを法定し、都市の清掃・衛生行政の近
代化をめざしていた。島野市政の健康都市づくりは、厚生省の衛生行政の先導
役であり、東京オリンピック準備期の国策協力運動のモデルだった。
その後、健康都市建設運動から派生して仙台市の特色ある市民活動となった
ものが河川浄化運動だった。1964年10月、東保健所の衛生課長がドブ川だった
市街地北部の梅田川の清掃に自ら乗り出すと、住民の間から「自分たちの手で
なんとかしよう」という声があがった。次いで、東清掃事務所が梅田川へのゴ
ミの不法投棄をやめることと、ゴミの定時容器収集を住民と町内会によびかけ
た。これらの働きかけによって、1965年3月流域の11の町内会と老人クラブを
主な担い手として東部地区梅田川河川環境浄化推進協議会(会長は錦戸弦一東
部地区衛生組合連合会長、民社党市議)が発足した(76)。そして、4月16日の
町ぐるみ清掃日から毎月16日、保健所、町内会、老人クラブ、小中学生による
梅田川のクリーン運動・河畔美化運動が開始され、半年後には魚が戻り始め
た(77)。仙台市はこの市民活動の発足に対応して、梅田川流域の下水道幹線工
事の完成予定を繰り上げ、1965年4月から梅田川への下水の放水を停止した。
この「梅田川をきれいにする運動」は、1966年12月、「美しい町づくり全国コ
ンクール」(読売新聞社、新生活運動協会主催)で最優秀賞に選ばれた。その
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行政社会論集 第24巻 第3号
表彰式では、保健所と清掃事務所に指導されたこの市民活動は「だれにも、ど
こからもテコ入れされたことのないこの純粋な町ぐるみ運動」と誤解されて紹
介され、審査委員長の磯村英一は「梅田川は純粋に町の人々の素朴な願いから
出発して、大きな運動に発展したもので、町ぐるみ運動の模範」と絶賛し
た(78)。保健所の指導による官製の河川環境浄化運動は、1966年以降宮城野地
区、広瀬川流域、六郷・七郷堀流域へとひろがっていった。
このように、島野市政の健康都市建設運動は市民の健康世論づくりによって
清掃・下水道事業の改善・推進に貢献し、東京オリンピック準備期の国策協力
運動のモデルとなったが、その実態は保健所指導下の町内会による奉仕活動で
あり、革新市政らしい市民の市政参加や、自治体行政と地域社会の民主化をめ
ざす市政改革の市民運動を生み出すものではなかった。
工業開発の停滞と広域合併の失敗
他方、仙台市の工業開発と広域合併計画は停滞した。仙台塩釜地区は、1958
年東北開発三法の計画特定地区に指定され、建設中の塩釜港湾、七ヶ浜火力発
電所、大倉多目的ダムにつづいて臨海部工業用地造成が開始された。島野市長
は、岡崎市政の工場誘致奨励金条例を継承して企業誘致をめざし、大産業都市
建設を仙台市の将来ビジョンに掲げ続けた。しかし、大工業地帯づくりは、
1960年に製鉄大手三社の仙台市への工場進出計画が中止され、1961年に石巻市
万石浦への石油化学コンビナート建設計画が挫折すると展望を見失い、宮城県
の長期計画自体が停滞してしまった。また、塩釜港は浅海漁業への影響や地理
的要因から大工業港の立地には適さなかった。 1962年に仙台市長浜地区に掘
り込み式の仙台新港計画が浮上すると、仙台塩釜総合開発と広域合併の目的自
体が不鮮明になった。それでも、島野市長は1963年10月の革新市政研究集会で、
次のように工業開発構想を語っていた。
「仙台市の将来の発展という問題に関連して、こんど新産業都市の指定を
受けたが、私はこれにのって、おくれた東北地方の拠点としての広域都市建
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
設をやっていきたいと思っている。仙台・塩釜の合併は多年の懸案であるが
この機会に八市町村の合併を強力に推進したいと思う。地域開発は、なるほ
ど政府の方針であるが、だからといってこれに反対すればいいということに
はならない。やはり国の強力な集中的投資がなければ、東北地方の開発はむ
ずかしいのである。構想としては、北は石巻市から南は岩沼町に至る海岸線
に新しい工業港をつくり、そこに石油コンビナートと鉄鋼関連産業を誘致し
たい。この工業地帯は文化都市仙台とかなり離れたところにできる予定だが、
いまのうちから公害防止条例をつくっておく必要もあると思う。この工業地
帯建設に伴って住民負担の問題がでてくるが、それは極力さける努力をして
いくつもりである」(79)
しかし、期待されつづけた重化学工業大経営の工場誘致の夢は1965年の不況
で消失してしまった。1960年代の前半に島野市政が実施した工業政策は、通産
省の指定と補助金を受けて、市街地内の中小工場を市南東部郊外の工業団地に
集団移転させたことにとどまった。島野市政の産業政策の消極性は、市議会与
野党の一致するところだった(8°)。広域合併に対しては、保守派と民社党が推
進の立場から島野の無策ぶりを批判し、革新派・労組は足並みが揃わなかった。
島野市長は三選実現後の1966年、「太陽と緑と空間と」をスローガンとする新
都市計画を策定し、初当選以来の大産業都市・大仙台の建設というビジョンを
20年後の百万都市建設長期計画に委ねて、学術と生活の文化都市を仙台の新都
市計画の将来像に設定した。1967年2月、仙台塩釜地区の広域合併計画は周辺
町村の反対で正式に挫折した。
立ち遅れた公害規制、宅地開発規制、児童福祉
島野市政は、新しい都市問題や福祉行政に対して先駆的な成果をあげただろ
うか。ここでは、1960年代の仙台市で社会問題化した大気汚染、住宅団地の乱
開発、児童福祉をとりあげる。
仙台市では、1950年代から住宅地に混在した中小工場の騒音・煤煙をめぐっ
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行政社会論集 第24巻 第3号
て各地で紛争が起きていた。そして、1963年1月、東部地区への中小工場の進
出や自動車の普及にともない、大気汚染、スモッグが市民を襲った。同年8月
には、生活廃水のため広瀬川の汚染が深刻化しついに水泳が禁止となった。こ
の年から公害に対する市民の苦情が多く市役所に寄せられるようになった。そ
れで、仙台市は健康都市づくりの一環に公害対策を位置付け、県に公害防止条
例の制定を要望するとともに、独自の大気汚染調査を開始した。しかし宮城県
は、規制を厳しくすると工場誘致にブレーキをかけることになり、既存の中小
企業も対応できないという理由で、政府の立法待ちという消極姿勢をつづけた
(81)。仙台市は1964年11月仙台市公害対策委員会を庁内に設置したが、汚染調
査を継続することしかできなかった。1966年4月、ようやく宮城県は公害防止
条例を施行し、それにもとついて仙台市は保健課と三つの保健所に公害係を新
設し、公害対策委員会を学識経験者中心の専門委員会(愛市運動の加藤多喜男
東北大学名誉教授が委員長)に改組した(82)。しかしその後も、仙台市が実施
できたのは汚染調査だけだった。仙台市中心街での自動車の排気ガス(一酸化
炭素)は東京、大阪並みといわれたが、県の条例では防止条項がなく、有効な
対策を立てられなかった(83)。仙台市が独自の公害規制に乗り出したのは、197
0年5月の東北電力仙台火力発電所との公害防止協定の締結からだった。
新興住宅団地での違法建築による欠陥住宅や排水施設の未整備による崖崩れ
など住宅団地をめぐる乱開発は、仙台市でも1961年ころから社会問題化し、市
内60ヶ所の団地のなかで13ヶ所が危険地区と言われていた(84)。とりわけ毎年
の6∼7月の雨期には「あぶない速成造成地」「ガケクズレあぶない団地」と
注意が喚起され、その規制の必要が指摘されていた(85)。東北管区行政監察局
は、1964年に地方監察結果報告書のなかで「仙台市は、健康都市を宣言し、清
く明るく住みよい近代的都市建設を市政の目標にしているが、新市街地につい
ては自然的発展にまかせ、行政当局は民間宅地造成を規制する根拠がないこと
を理由に、現行の関係法令の運用にアグラをかき、計画性のある積極的都市行
政を行っていない」と批判して、都市計画区域の改定と行政指導の強化を求め
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
ていた(86)。ところが、仙台市はその後も有効な対策を立てず、1965年6月下
旬に川崎市の造成地で大事故が発生すると、建築課と消防局が急遽市内の住宅
団地への査i察指導に乗り出した(87)。そして、宮城県はようやく同年9月、仙
台市の都市計画区域への住宅地造成事業法の適用を政府に申請した。仙台市の
宅地開発規制は、法律と県の対策の後追いにとどまっていた。
1961年の時点で仙台市には、勤労者人口の急増にともなって、保育措置を必
要とする児童は4204人いたが、そのうち保育園に入所できた児童は1118人、25
%にとどまっていた。仙台市には当時、私立保育園が14ヶ所、市立保育園は1
ヶ所しかなく、必要保育所数60ヶ所に対して、仙台市は毎年1ヶ所つつ市立保
育所を建設する計画しかもっていなかった(88)。そして1965年6月、仙台市は
私立保育所設置助成条例を施行して、民間の保育所建設に独自の補助金を支出
するようになり、1966年度からようやく毎年2ヶ所、5ヵ年計画で合計10ヶ所
の市立保育所を建設する計画を立てた。それでも、1966年3月時点で、市立保
育所7ヶ所、私立保育所13ヶ所にとどまり、なお3451人の入所できない児童が
存在した(89)。
(74)河北新報1964年2月1日「清掃美化に仙台方式」、2月6日「町から町へ親
切運動」
(75)河北新報1964年2月10日「市民こぞって日の丸を」
(76)河北新報1965年4月6日「どぶ川よ、さようなら」
(77) 河北新報1965年9月18日「魚がチラホラ梅田川」、『健康都市づくり20年物
語』仙台市、1981年、44∼50ページ
(78)
(79)
河北新報1967年1月31日「表彰された梅田川」
『地方自治資料』304号、1963年11月15日、4∼5ページ
(80)
河北新報1965年10月25日∼11月8日「島野市政を採点する①∼⑫」
(81)
河北新報1964年8月11日「公害防止条例が難航」
(82)
河北新報1966年4月20日「仙台公害への苦情ふえる」
(83)
河北新報1966年11月13日「黒い空気、東京なみ」、1967年3月8日「公害の
横綱仙台駅前」
37
行政社会論集 第24巻 第3号
(84) 2011年の東日本大震災では、この1960∼64年に仙台市内陸部で造成された
住宅地で、土壌の液状化、地すべりや崖崩れ、地盤の陥没が多発した。朝日新
聞2011年5月23日「内陸部危ない我が家」
(85) 河北新報1964年7月14日、1965年6月17日
(86) 河北新報1964年1月17日「放任状態の仙台新市街地」
(87) 河北新報1965年6月28日「再び川崎事故起こすな」
(88) 河北新報1961年10月31日「ここもせまき門仙台市の保育所」
(89) 河北新報1966年4月5日「保育所も狭き門仙台」、なお1965年当時の仙台市
の都市問題の深刻化、住宅団地開発、公害、寄付金依存の教育については、吉
田震太郎「仙台一急膨張する東京の飛び地」『エコノミスト』43巻21号、1965年
5月18日を参照した。
1966年の市長選挙一野党共闘で島野三選
島野市長は1965年2月の記者会見で、一年後の任期満了をめざして三選出馬
を声明し、仙台塩釜の合併と新産業都市による大仙台づくりを公約として掲げ
ていた。他方、社会党宮城県本部は、現職知事の死去に伴う同年3月の宮城県
知事選挙で、臨時大会を開催して党公認候補を決定した上で民社・共産両党に
統一戦線の結成を呼びかけ、従来の首長選挙闘争の原則を変更して共産党と政
策協定を結び、民主県政確立連合を結成した。そして、その政策協定は「農漁
業構造改善事業に反対」「大資本に奉仕する自民党の新産業都市政策に反対」
「新産業都市建設を前提とした仙塩八市町村の合併押し付け反対」などの項目
を含み(9°)、それらは島野市長の公約と対立しかねないものだった。また、直
後の参議院地方区補欠選挙での社会党公認候補の完敗は社会党の党勢衰退を露
呈させ、大型首長選挙で社会党が勝利するためには、もはや野党共闘が不可欠
の条件になったことを示していた(91)。
やがて、市長選挙の準備段階にはいると、社会党宮城県本部は10月上旬に定
期大会で島野を公認候補とすることに決定し、「第三期島野仙台市政実現のた
めの市政要綱案」を発表し、民社、共産、公明、農政連などの県内団体に反自
38
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
民の革新市政確立連合の結成を呼びかけた。そして、この要綱案では、県知事
選挙の際の政策協定から一転して、新産業都市建設と仙台塩釜合併に積極的に
賛成して島野市政を後援する方針を打ち出した(92)。社会党県本部は、これに
ついて新産業都市は自治体の財政を圧迫しないようにという法律の付帯決議に
もとづき賛成する、仙塩八市町村の合併は新産都市のためでなく長い歴史的沿
革によるものである、と説明していた。
これに対して自民党県連は、保守層にも広く個人票を持つ島野市長に勝つ候
補の選考に悩み続け、10月下旬になってようやく前インドネシア大使の古内広
雄を公認候補として推薦し(93)、反島野戦線の結成を民社、公明、農政連に呼
びかけた。古内は7月の参議院選挙地方区に立候補したが、保守分裂のために
敗退していた。
社共両党は、11月以来市長選挙に関する政策協定の協議を継続し、1966年1
月9日島野の立ち会いのもと協定書に調印した(94)。協定書は、まず島野市政
の八年間について「市民と直結する市政」の実現を目標に民主的発展をはかっ
てきたが、公約実現でも自民党政治と対決する点でも不十分だったと指摘して
いた。また、「新産業都市建設については、当面、独占資本に奉仕する産業基
盤づくりとなるムダな投資、市財政を圧迫する危険のある先行投資は行わず、
地元産業の育成と市民生活を守るために戦う」、「八市町村合併については共産
党は独占資本奉仕、中央集権、地方自治破壊という観点から反対の立場を明ら
かにした。社会党は住民の意思を無視した市町村合併は行わない、府県合併に
は反対することを明らかにした」。両党はというより、島野市長と共産党は前
者で相互に妥協し、後者で両論併記の並行線のままだった。その他、福祉、医
療、公害防止の具体的政策について列挙していた(95)。
自社両党の呼びかけに対して、民社党県連と宮城同盟は「他党の候補は推薦
しない、共産党とは共闘しない」という方針を掲げたが、社会党県本部が島野
を無所属推薦に切り替えると、民社党はようやく1966年1月12日、島野市長個
人を支持し、ただし革新市政確立連合には参加せず、独自の選挙対策本部を設
39
行政社会論集 第24巻 第3号
置して選挙活動を行うことにした(96)。農政連(鈴木孝一・郎委員長)も島野に
要望書を提出し、その回答を待って島野推薦にまわった。
告示前、両派の市政公約では、自民党県連の愛知揆一選対本部長は、中央政
府と直結しない島野市政では新産業都市建設や仙塩合併は成功しないと主張し、
自民党市政によって仙台市の国際都市化、中小企業対策と農政の挽回、市民負
担の軽減を実現すると述べていた。それに対し、社会党県本部の西宮弘選対本
部長は、第一に広域都市計画によって健康で文化的な新産業都市を建設する、
第二に市民会議、市民の直接参加の討論集会とブロック集会を開いて市民と直
結した市政を確立したいと述べていた(97)。また両派の選挙運動体制は、自民
党古内派は、選挙戦の出遅れを挽回しようと県内保守勢力の総力戦で臨み、高
橋知事と県行政の影響下にある医師会、引揚者団体、遺族会、婦人団体連合会
などの90団体の古内推薦を獲得し、また自民党政治家個人の後援会組織の選挙
運動に依拠した。それに対し革新島野派は、県市レベルの社共両党と労組、農
政連など40団体が構成する革新市政確立連合の選挙共闘と、社会党仙台総支部
が39学区ごとに組織した地域選対委員会の活動に依拠し、島野市長は保守系島
野派市議とともに町内会ごとの市政懇談会を開催していった(98)。
1月18日市長選挙が告示され、両派の選挙運動が開始されると、島野候補は
公約の冒頭から減税と市道舗装、上水確保、ゴミ収集無料化、保育園新設など
市民生活に密着した生活基盤と市民福祉の充実、そして市民会議による市政の
一
層の民主化を掲げ、新産業都市建設は末尾にまわし、仙塩合併は公約の文面
から削除した。それに対し古内候補は、新産業都市建設と八市町村の合併を冒
頭に掲げた(99)。そして古内派は演説会で、島野市長が新産業都市や合併に反
対している共産党と共闘したことを批判して、島野には大仙台建設の意思がな
いと批判した。他方、島野派が民主市政確立連合の演説会を開催すると、社会
党中央本部の佐々木更三委員長、共産党県委員会の鈴木善蔵委員長とともに、
民社党県連の竹谷源太郎会長が弁士として登壇し、事実上の社共民選挙共闘が
成立していた(1°°)。この市長選挙は、投票日直前の河北新報社の世論調査によ
40
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
れば、浮動票の比重が他のどの選挙よりも低く、多くの市民は投票したい候補
者を決めていた。また、主婦、学生、公務員、会社員は島野支持が多く、民社
党支持者は古内支持に回っていた(1°1)。選挙戦の終盤になると、仙台市周辺の
七市町村長は新産業都市建設のため古内候補を支持するという声明文を発表し、
また民社党本部は宮城県連に島野支持を取りやめるよう善処勧告文を通達し
た(1°2)。
1月28日投票の市長選挙の結果は、島野武121,922票、古内広雄97,928票、投
票率72.06%(前回67.95%)、島野は前回から2万票を上乗せして自民党の追撃
から逃げ切り、三選を実現した。島野の勝利について、社会党代議士・民主市
政確立連合代表の日野吉夫は、これは民政連=仙台方式の勝利であり、自民党
の総力戦に対抗するには民政連の力しかなかったと語り、野党共闘を勝因の第
一
にあげた。これに対して河北新報は、島野派は共産党との政策協定で一部の
革新勢力や浮動票を自民党に回らせた、むしろ勝因は島野の市政八年間の実績
による厚い個人票だった、と論評していた(1°3)。島野市長は三期目の市政担当
にあたり、新産業都市建設と仙塩合併はこれまでどおりの方針で推進していく
と決意を語るとともに、市民参加のために市民会議を開いて市民福祉の予算を
作りたい、合併は住民の意思が第一で住民投票などの方法も考えて実現につと
めたいと述べていた(1°4)。
この1966年1月の仙台市長選挙は、大型市長選挙のなかで、社会党が党の公
認候補を無所属候補に切り替え、かつ共産党と自治体政策で協定を結んで、つ
まり社会党主導の野党共闘形式を一応取り下げて勝利した最初の選挙だった。
直後の京都市長選挙では革新派は社共分立で保守候補に惨敗していた。しかし、
この首長選挙原則の変更は、党勢の衰退のために社会党が余儀なく選択したも
のであり、また仙台市の事例は、島野の個人票による勝利という側面もあって、
その後の選挙闘争のモデルになるほどの成果とは認識されなかったようであ
る(1°5)。 革新共闘方式は、その後京都府知事選挙、京都市長選挙、高知市長選
挙をへて、1967年3∼4月に東京都知事選挙のなかで、かろうじて「美濃部方
41
行政社会論集 第24巻 第3号
式」として採用されモデル化していった。しかし、革新共闘方式が、結果的に
社共共闘の事例と社公民共闘の事例を含んで、市長選挙で次々と採用されるの
は1970年前後からである。選挙の争点となった市政政策では、島野は上水道、
道路舗装、ゴミ収集などの生活基盤整備で市民からその実績を評価されていた。
社会党市長はまだ住民福祉、公害対策、市民参加の都市政策について模索の段
階で、また新産業都市建設や市町村合併に革新市政らしく対応することができ
ないでいた。これら二つの要因で、社会党の革新モデル市政だった島野市政も、
1966年には、なお革新市政の発展期への入り口にあった。
おわりに一憲法集会から市民のつといへ
島野市政のなかに、1970年代的な意味で革新自治体らしい市民参加と自治体
政策交流の兆候が登場するのは、ようやく1966∼67年からである。その背景に
は、全国各地でのベトナム反戦共闘の成立、インフレ物価高や都市問題の深刻
化で市民生活の困難が顕在化・社会問題化し様々な都市社会運動が開始された
こと、日本社会党が佐藤栄作内閣に対抗して1965年から佐々木委員長のもとで、
(1961年の自治体改革の方針でなく)反安保・護憲平和路線を採用したこと、
1965年11月の仙台作並温泉での懇親会から革新市長の全国組織づくりが具体化
し、革新市長間の政策交流が活発化したこと、などがあったと思われる。
憲法制定10周年の記念行事は、1957年に岸内閣のもとで政府行事として実施
されていた。ところが、佐藤i内閣は憲法制定20周年記念行事を準備・実施しな
かった。島野市長は、護憲運動の一環として1966年5月3∼9日の一週間を仙
台市独自の憲法記念行事週間とし、憲法講演会、記念植樹、文化祭、健康体操、
歩け歩け運動、無料健康相談所と行政苦情相談所の開設などを行い、「とかく
忘れがちな憲法をもう一度読み直そうと市民によびかけた」(1°6)。これは、蜷川
京都府政が1965年の春から憲法集会を開催し、『ポケット憲法』を発行したこ
とにつづくもので、革新市長による憲法集会の第一号だったようである。やが
て1967∼68年には、革新知事・市長は連合して、また全国各都市で憲法集会を
42
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
開催するようになった。
仙台市の既成婦人団体のなかには島野ファンが多く、また仙台市主催の健康
都市建設運動やこの憲法集会に協力してきた。1966年10月、宮城県婦人問題連
絡会、仙台市婦人のつどい、町内会婦人部、NHK婦人学級など35の婦人団体
は、島野市長の参加と祝辞を得て仙台市婦人会議を結成した。そして、それま
で親睦、社会奉仕、慈善事業、文化、社会教育などの活動をしてきたこれらの
婦人団体から、島野市長による市民参加活動の一つの担い手が形成されていっ
たようである。
島野市長は、飛鳥田市政に学んで(1966年6月横浜市でチビッコ広場第一号)、
1966年11月3日文化の日に仙台市にチビッコ広場の第一号を設置した。同様に、
本多調布市長の生活保護措置改善運動に学んで、仙台市は1966年夏に低所得層
の生活実態調査を実施し、島野市長は1967年3月に貧困家庭の代表者と懇談会
を開催し「みなさんの声を今後の福祉対策に反映させる」と約束した。仙台市
は市独自の高校進学奨学金制度や敬老年金制度の新設を検討しはじめた(1°7)。
1967年5月、第2回憲法集会で、島野市長は「日ごろぜひともこういうもの
を開きたいと願っていた」と述べ、市民相互の対話集会の開催を参加団体に提
案した。すると、PTA連合会、主婦連、仙台市婦人会議などの市民グループ
が賛同して、その後青年会議所、衛生団体連合会、保育所連合会、労働組合な
ども参加し、20団体が協力団体になり「市に音頭をとってもらい」「市と話し
合って準備をすすめ」、1967年11月19日、地方自治法施行20周年記念行事とし
て仙台市主催「第一回市民のつどい」が開催された(1°8)。都政調査会の学者研
究者と東北大学の教員が講師や助言者となった。美濃部都政の登場で、すでに
「対話」は流行語になっていた。「みんなで話し合おう住みよい仙台のまちづく
り」をテーマに、5つの分科会で市民討論が行われた。こうして、一年半前の
市長選挙で島野市長が公約に掲げた市民会議による市民対話の市政が憲法集会
をきっかけに開始された。この「市民のつどい」は以後毎年春秋に2回開催さ
れるようになり、第2回目から市役所主催にかわって参加団体の役員による世
43
行政社会論集 第24巻 第3号
話人会が主催するようになった。そして1969年2月には、第3回集会の結果、
児童福祉や教育について市民活動計画案や行政計画案をつくり、市民や市役所
に提案する目的で100人市民委員会「こどもの城づくり委員会」(会長は仙台市
PTA連合会長)が結成された。同委員会は、第4回市民のつどいにその計画
案の検討をゆだね、要求書を市役所に提出して1970年度市予算案に反映させた。
島野市長主導の選択的な公聴活動・官製市民運動を前史に、憲法集会の中から
ようやく市政参加の担い手が形成されたと言えよう。
同様に、町内会や婦人会を母体に仙台市に公害問題市民委員会が結成された
のが1970年5月、「公害をなくす市民集会」が開催されたのが1970年7月だっ
た。そして、1971年1月福祉のまちづくり市民の会が発足し、同会は11月には
島野市長に対し1972年度予算への要求書を提出していた。仙台市が市民参加、
公害対策、住民福祉の政策分野で、革新市政らしい実体を獲得したのは1970年
前後だった。
(90)
河北新報1965年3月3日「民主県政を実現、社共両党政策協定を結ぶ」
(91)
河北新報1965年4月19日「どこへ行く社党県本部、補選大敗にただぼう然」
(92)
河北新報1965年10月15日「革新連合結成へ、仙塩合併進めよ」
(93)
河北新報1965年10月29日「保守・革新の対決へ、古内氏出馬を受諾」
(94)
「仙台市長選挙に関する社共両党の’協定書」『地方自治資料』359号、1966年
3月1日、および社会党の『国民自治年鑑』1967年版、309∼312ページが全文
を掲載している
(95)
河北新報1966年1月10日
「大資本へ対決姿勢示す、島野候補で共闘」
(96)
河北新報1966年1月13日
「民社党、島野支持決定へ」
(97)
河北新報1966年1月4日
「仙台市長選、公約と姿勢①」
(98)
河北新報1966年1月8日
「体制固め急ぐ両陣営」
(99)
河北新報1966年1月18日
「公約と略歴」
(100)河北新報1966年1月24日
「個人演説会から(下)」、同「佐々木委員長も登
壇、民政連仙台で大演説会」
(101)河北新報1966年1月25日「激しい追い込み戦、仙台市長選の情勢」
44
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
(102)河北新報1966年1月26日「緊迫化する仙台市長選」
(103)河北新報1966年1月29日「底力をみせた個人票」、同「堅い八年の実績」
(104)河北新報1966年2月2日「仙塩合併など推進」、同様に『市政だより』1966
年2月15日、855号では仙塩合併と新産業都市建設は住民投票で市民の意思を問
うべきものだ、また清掃や都市計画など部門ごとに具体的な問題で市民会議を
開きたいと述べていた。
(105)堀幸雄「中間地方選挙を判定する」『エコノミスト』1966年3月、44巻9号
(106)河北新報1966年5月3日「仙台憲法記念日祝う」
(107)河北新報1967年3月16日「くつみがきの未亡人ら生活の悩み訴え」
(108)『市民のつどい報告』1968年3月、仙台市
補訂ll−4、革新市長会議の全国組織化
本論の第1[章第4節「全国革新市長会という幻影」で筆者は、全国革新市長
会という組織の母体となった、つまり、革新市長の会合でその全国組織化をめ
ざした最初の会議は、根拠資料不明の1964年11月7日の熱海会議ではなく、そ
の一年後1965年10月の仙台作並会議だったという新説を提示した(本誌第22巻
第1号の123∼126ページ)。そして、その根拠資料は
a)『神戸新聞』1965年11月11日「最後の票読みに必死」
b)大島太郎「発行に当たって」『地方自治通信』1号、1966年7月10日
c)鈴木東民「公務員ストと市長の立場」『社会新報』1966年10月23日
d)本多嘉一郎「革新市長の同窓会」『カツドウ屋市長奮戦記』1968年8月
および
e)松下圭一の『朝日ジャーナル』1977年6月10日号座談会での発言記事
であった。これらの4人は会議の当事者と考えられ、d)とe)は最初の革新
市長会の会合は仙台だったと回想しており、b)は1965年11月に、 c)は1965
年10月18日に仙台で革新市長の会議iあるいは研究会があったと回想していた。
45
行政社会論集 第24巻 第3号
そして、a)はすでに11月11日の時点で、飛鳥田を全国革新市長会の代表と報
道していた。それで、筆者はb)の11月でなく、日付が確認できるc)の10月
18日を自説とした。
しかし、これらの資料はa)は同時期の新聞資料ではあるが、革新市長の会
議自体をテーマに取材した記事ではなく、b∼e)は回想であり、上記の自説
は間接・二次資料による推論だった。その後、この1965年秋の仙台会議に関す
る一次資料はないものかと思案しながら、東北地方の革新市長について資料収
集作業を継続していたら、この仙台会議の開催予告と結果報告の新聞記事を発
見した。
開催予告は、岩手東海新聞1965年11月9日「革新市政のカベ打開 火の車の
二十二市長会同」という記事であり、情報源は鈴木東民釜石市長かその秘書だ
ろう。この記事は、「全国の革新市長が集って革新市政の実態報告と討論をす
る集りが都政調査会の主催で二十六日、仙台の社会教育センターで開かれる」
と報道しており、この会議自体の性格は、研究団体主催の都市財政危機対策を
主要テーマにした研究集会だとしていた。出席の連絡を都政調査会にしてきた
のは大阪市、広島市など関西や四国九州を含む、そして非社会党員市長を含む
22人の市長であった。社会党主催でなく、東日本革新市長会議(東日本広報連
絡会議)主催でもなく、研究団体主催だから、この参加者の広がりは自然だっ
た。
鈴木東民は、11月25∼26日に東京で開催予定の全国市長会財務分科会、全国
市長会理事・評議員合同会議に出席してから仙台にもどって、日程が重複して
いる仙台会議については、27日だけ革新市長の懇親会に参加する予定だった
(同紙11月20日「鈴木市長革新市長会まで滞在」)。鈴木は、この11月26日の理
事・評議員合同会議で、東北支部を代表して「全国市長会の体質改善並びに運
営強化問題」を提案していた。改善・強化とは、全国市長会を自治省の下請け・
陳情団体という実態から、政府と対等に交渉する団体へと改善・強化すること
であった。そして、自分が地方自治にとって重要な提案をしているのに、革新
46
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
市長たちがその全国市長会の会議をサボって、仙台の研究会に出かけてしまっ
たことに対し、鈴木は激怒したのである。鈴木が革新市長たちを批判したのは、
10月18日の全国市長会臨時総会での公務員ストライキ問題への対応だけではな
かった。それで、鈴木は一年後の社会新報紙上での上記回想記事で、10月18日
と11月26日を混同してしまったと思われる。
革新市長の仙台会議が、この1965年秋に連続して2回開催されたとは考えに
くいので、本論H章4節の自説を訂正し、鈴木の回想10月18日ではなく、大島
の記録どおり11月の26∼27日だったと推定する。神戸新聞は、飛鳥田を東日本
でなく全国の代表と勇み足で報道したようである。
結果報告は、朝日新聞1965年11月27日「同じ悩みを話合う 仙台・革新系の
17市長が初会同」という14面の小さな記事である。縮刷版の索引では、「地方」
や「社会党」でなく 「財政」に分類されていて筆者の発見が遅れた。この記事
は、「全国の革新系市長が集って金ぐりの苦しい地方財政など問題が山積する
地方自治の実態を話合い、対策を求めるねらいの『市民の幸せのための市政報
告研究会』が二十六日午後一時から、仙台市内の市民教養センターで、都政調
査会の主催で開かれた。結果的に出席したのは、飛鳥田横浜、吉田北九州市長
ら十六人の市長、ほかに市長代理一人、革新系市長が集って地方行政の問題を
話合うのは、これがはじめて」と報道していた。実際は、1963年10月につづい
て都政調査会主催の革新市長の公開研究集会は2回目だった。
参加予定は22人だったが、実際に出席した市長は、帯広、釧路、宮古、秋田、
酒田、仙台、栃木、野田、大宮、調布、横浜、見附、伊東、中村、北九州、田
川、神戸(代理)の16人と代理1人だった。
さらに、仙台市の地元新聞である河北新報1965年11月3日「社党、公明にも
共闘申し入れ仙台市長選」という予告記事では、11月26日には高橋正雄九大教
授と全国の革新市長が仙台市にあつまって島野市長の三選をめざした大講演会
を開く予定だった。ところが集会の目的が市長選挙の応援から市政研究集会へ
と変更されて、同紙11月27日「革新市長が参加 市政報告研究会」という報告
47
行政社会論集 第24巻 第3号
記事は、上記の研究会の内容を朝日新聞とほぼ同様に報道していた。これによ
れば、約百人の市民が参加して、飛鳥田横浜、吉田北九州、吉村帯広、島野仙
台の四人の市長が市政体験を報告し、質疑応答をして午後四時過ぎに散会して
いた。なお、同日の河北新報夕刊は、社会党委員長の佐々木更三がこの革新市
長の研究会に参加し、27日の朝、新築落成直後の仙台市役所で記者会見をして
いたと報道していた。
この報告記事の内容は、開催場所、時期、参加人数が上記d)の本多嘉一郎
の回想と一致するから、この研究会の終了後、彼らは仙台郊外の作並温泉に宿
泊して、そこで全国的な革新市長会の組織化を決定したと推定する。鈴木東民
が一・日遅れてやってきた時にはすでに結論が出ていて、鈴木は組織化の議論に
は関与できなかったのではないか。
この訂正した自説からさらに推定されることは、大島太郎が1965年4月に地
方自治センター代表となり、その夏から秋にかけて北海道や中国四国の市長を
訪問して参加を勧誘したのは、全国化を模索中の東日本革新市長会議への加入
の勧誘ではなく、地方自治センターという革新市長の連絡組織への加入の勧誘
だったのではないかということである。なぜなら、上記の仙台会議の実態から、
1965年11月の時点では、都政調査会という研究団体が主催して革新市長の研究
会が開催され、そこに集った市長たちが革新市長の全国的な組織化を決意して
おり、東日本革新市長会議も地方自治センターも開催主体になっていないから
である。そして、東日本革新市長会議は全国組織へと発展的解消をとげたので
はなく、1966年以降も別個に地域ブロック組織として存続したからである。上
記の17人は、酒田と神戸を除けば全員社会党員市長であり、佐々木委員長も出
席しているのに、その会議を社会党主催とせず、また飛鳥田がリーダーという
点では同じなのに、東日本革新市長会議(東日本広報連絡会議)主催とせず、
研究団体主催の研究集会を借りて革新市長を招集したのはなぜか。この会議直
前の市長選挙で地元の社会党支部が推薦しなかった神戸市の原口市長、この会
議には出席を予定しながら結局出席しなかった大阪市の中馬市長、全国市長会
一
48
革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
の会議に出ていたので出席できず、革新市長たちの同会議欠席に激怒した釜石
市の鈴木市長など、幅広い市長の参加をめざしていたからだろうか。
革新市長会議の全国組織化を決定したのが、1965年11月27日の仙台作並会議i
だったとすれば、次の会議i1966年7月1日の伊東会議が全国革新市長会という
組織としての初会合だったことになり、大島太郎がその内容を報告するために
上記b)『地方自治通信』第1号を発行したことと辻褄があう。
さて、ll章4節で述べたように、革新市長の会議が全国的かつ組織的実体を
獲得したのは、1964∼65年ではなく、ようやく1968年以降だった。これに関し
て、社会党『国民自治年鑑』の1969年版274ページは、1968年6月13日付けの
朝日新聞記事を引用している。この記事は、1968年5月に熱海で開催された革
新市長会議を取材したもので、会議の主催者は、議事は非公開にしたが、新聞
記者に対して写真撮影と取材だけは初めて許可したものだった。その文面には
「三年前、全国革新市長会が結成された」と記述されていた。つまり、1968年
当時の革新市長会幹部は、朝日新聞の記者に対して、全国革新市長会の結成は
1965年と語っていたようである。
さらに、この熱海会議iの直後の1968年6月1日、美濃部都知事は蜷川府知事
とともに名古屋市内の憲法集会で講演して、「私は全国の革新都市連合を提唱
する、もし必要なら私が先頭に立ちましょう」と訴えていた(朝日新聞1968年
6月3日「革新都市連合の結成を提唱」)。1968年の時点で、美濃部は全国革新
市長会という組織の存在を、名称としても実体としても確認していなかったの
か。あるいは、美濃部のこの発言の意図は、飛鳥田革新市長会の存在を知りな
がら、その公然化と全国化を催促することだったのか。なぜなら、1968年当時、
全国メディアの前に公然と存在したのは、美濃部防衛と首都圏広域行政対策の
ために、1967年5月に美濃部を加えて結成された首都圏革新市長会だけだった
からである。上記の熱海会議を取材した朝日新聞は「この悩みを話し合い、互
いの経験を交流しあって孤立感から脱け出ようと、三年前、全国革新市長会が
結成された、いってみれば遠慮のいらない仲間うちでのグチをこぼしたり、励
49
行政社会論集 第24巻 第3号
ましあったりする会である」(朝日新聞1968年6月13日「悩みがいっぱい革新
市長」)と記述していた。全国革新市長会は1965年11月に仙台で結成が決定さ
れて、翌年の夏の伊東会議から定期会議を開催してきたが、その後3年経って
1968年になっても、まだ国民の前にはその姿を現わさず、その前史的な停滞状
況から抜け出していなかった。
ところが、1970年以降、飛鳥田一雄や鳴海正恭などは革新市長会の結成につ
いての回想で、1965年11月でなく、1964年11月に(熱海で)全国革新市長会が
結成されたと発言しはじめた。 1971年まで全国革新市長会の幹事長をつとめ
た本多嘉一郎も『続カツドウ屋市長奮戦日記』(1972年4月、地方自治センター)
のなかで次のように書いている。
「思えば昭和三十九年の秋、燃えるような紅葉の東北作並温泉で、はじめて
全国の革新市長会が結成され」(244ページ)
「飛鳥田横浜市長や島野仙台市長などと力を合わせてはじめての革新市長の
会合を仙台市で開いた。昭和三十九年の十一月二十七日のことである。集った
全国十七市長が夜を徹し三日二晩語りあかし、大いに勇気づけられた」(178ペー
ジ)
これらの文面は、「昭和三十九年」という年次以外は、場所、日付から参加
市長数まで筆者の上記の結論と同じである。そして、本多はその数行あとで、
この会合直後から開始された市長選挙の応援活動について次のように年次を間
違って書いていた。
「昭和四十年一月の仙台市長選には、北は北海道、南は九州から各市長が、
はせ参じて島野市長を応援した。春四月の野田市長選には、新村市長を応援に、
近隣の革新市長が集まった」「その後の伊東、磐城、三島、調布の市長選にも、
市長が応援に集まった」(179ページ)
しかし、仙台市から調布市まで一連の市長選挙が実施されたのは「昭和四十
年」ではなく、翌年の昭和四十一年、1966年である。いわき市は1965年にはま
だ発足していない。だから、本多はこの回想記の文面で仙台会議の開催年次
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
1965年を1964年と、市長選挙の実施年次1966年を1965年とそれぞれ一年間繰り
上げて誤って記述していた。なぜこんな誤記か勘違いが生じたのか、自分が再
選された1966年の調布市長選挙の年次さえ誤認していることにも気付かなかっ
たのか。
補訂Il−8、自治体改革の再提起
本論の第II章第8節「低迷する自治体対策」で筆者は、社会党の自治体闘争
が70年安保闘争に従属したものから、地方選挙の勝利と自治体改革自体を目的
にしたものへと修正され、1961年の自治体改革の方針が1970年代に再提起され
る契機となったものは、1969年(11月の佐藤首相訪米阻止闘争の敗北につづく)
12月の総選挙での敗北、そして1970年4月の第33回再建大会だった、と述べて
いた(本誌22巻2号、57ページ13行目以下)。しかし、筆者の作業に資料の見
逃しがあり、この修正の契機はすでに1969年7月の都議会議員選挙での敗北か
らだったことが判明した。それで、57ページ13行目から58ページ15行目までを
以下のように補足訂正する。
社会党地方政治局は、社会党が1969年7月の都議会議員選挙で惨敗し、衆議
院の解散・総選挙が近づくと、10月に「統一地方選挙の勝利をめざす自治体闘
争・18か月闘争要綱」(『国民政治年鑑』1970年版、585∼586ページ)を提起し
た。これによれば、社会党は「反安保70年闘争」の勝利を最大目標にしてきた
従来の自治体闘争方針を修正して、近づく衆議院総選挙、70年反安保・沖縄闘
争、18か月後の統一地方選挙という三つに目標を設定し直した。そして、過去
10年間の自治体闘争の総点検、自治体綱領の再検討、各県ごとに革新自治体研
究集会を開催する、1970年秋に全国自治体議員総決起集会を開催する、という
行動方針を地方組織に提起した。
さらに、社会党は、1969年12月の衆議院総選挙で惨敗すると、佐藤内閣打倒・
社会党政権による安保廃棄をめざす短期の「70年闘争・6月闘争」の敗北必至
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行政社会論集 第24巻 第3号
を自覚して、新たな反独占・反安保の長期の「1970年代闘争」へ方針を変更し
ていった。そして、1970年4月の第33回再建大会で、党再建と1970年度運動方
針の最重点を「住民の生活と権利にねざす地域自治体のたたかい」に設定した。
そして、地方組織が各地域に「市民会議」を組織して、「革新市長会議」と協
力し、300の革新自治体の実現をめざすことを提起した。江田書記長は、一方
で参議院選挙での社公民共闘をめざすとともに、他方で5月23日、党本部で開
催された反安保全国活動者会議で、前年からつづく市長選挙での連戦連勝をふ
まえて、「70年代は自治体の闘いが主戦場となる形勢が出現しております」と
自治体闘争の戦略的重要性を強調した(「70年をどう闘うか」『月刊社会党』16
1号、1970年7月)。
そして、社会党はこの自治体改革の再提起を掛け声倒れに終わらせないため
に、1970年の5∼6月にかけて1)革新市政の実態調査と総括の活動をふまえ
た統一地方選挙綱領および自治体綱領づくり、2)全国革新市長会との提携強
化による都市綱領(シビルミニマム)づくり、3)公害・福祉総点検運動の全
国展開、4)年内の首長選挙および翌年の統一地方選挙勝利をめざす自治体選
挙闘争本部の設置という活動方針をたてた。江田書記長は6月8日熱海で開催
された全国革新市長会総会で、「70年代変革の主戦場は自治体である、安保条
約を廃棄するには社会党が政権をとらなければならないが、そのためには革新
自治体を通じて革新政治を実践していく必要がある」(朝日新聞1970年6月9
日「改革へ一大運動」)と挨拶していた。社会党は上記の活動方針を具体化し
て、革新市政シンポジウム(7月旭川市)、公害追放全国活動者集会(9月富
士市)、県公害防止条例全面改正・老人医療費無料化・児童手当の実施を求め
る直接請求の署名運動(埼玉県が先進例)などを展開し、そして、10月12∼13
日、日比谷公会堂で「浅沼稲次郎追悼十年・革新首長議員総決起大会」と自治
体問題研究集会を開催して、統一地方選挙闘争を開始した。社会党が独自の自
治体問題全国研究集会を開いたのはこれが最初だった。
社会党本部は、相次ぐ国政選挙の惨敗で存亡の危機に直面して、1960年代の
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
10年間、住民運動や世論に対して「後追い的」にしか取り組んでこなかった都
市問題・自治体問題にようやく本腰を入れたのである(安井吉典と篠原一の対
談「70年代と革新自治体」社会新報1970年8月23日)。1970年12月、社会党は
第34回党大会で都市問題対策特別委員会が作成した『人間復権のための都市改
革』を決定し、革新自治体を足場に、シビルミニマムによる先駆的行政水準を
示すこと、公民館活動・対話集会や予算要求闘争による自治体改革の基盤とし
て「地区市民会議」を小学校区ごとに組織することという組織・運動方針を提
起していた(『国民自治年鑑』1972年版、131ページ)。さらに、1971年2月に
は『革新自治の創造 社会党の自治体政策』を発表して1967年以来の都市政策
づくりの作業をまとめあげた。
しかし、社会党の地方組織は、都市社会の変容と住民運動の激発のなかで
「地区市民会議」を組織する主体、自治体政策を地域で具体化する主体を発見
できず、1970年代の自治体改革を社会党主導の市民運動と市民会議によってで
はなく、革新首長主導の計画行政と市民参加行政に依存していった。労働者の
居住地組織一憲法を守る会一都市再建会議i一地区市民会議。社会党が1960年代
に提起してきた自治体改革運動の住民組織方針は、いずれもその具体化が一部
の事例に限定されるか、あるいは掛け声倒れの不発に終わった。
結
論
本論は、1950∼60年代の革新市政が量的にも質的にも生成期、発展前の停滞
局面、つまり発展の前史段階にあったこと、1950年代に登場し1960年代に活躍
した社会党市政は、1970年代の革新市政とは異質の特徴をもっていたこと、そ
して東北地方の社会党モデル市政でも、この停滞局面に選挙対策と自治体政策
で苦悩と模索をつづけ、1967∼70年を転換局面として挫折して退場した市政と、
先駆的施策と野党共闘の選挙対策を実施して1970年代に生き残った市政に分岐
していったことを実証した。この社会党市政の特徴は、北海道や首都圏のモデ
53
行政社会論集 第24巻 第3号
ル市政でも同様だったのではないか。また、この特徴は発展期の前提として
1970年代の革新市政の内実を規定したと推測する。
(選挙政治、社会党市長と相乗り市長)
量的停滞の原因は、1950年代後半から社会党推薦市長は続出したが、その選
挙地盤が弱く、1960年代に退場したり、保守化したりする市長が多かったから
である。市長選挙で社会党推薦市長が初当選するには、労組地盤だけでは困難
で、保守分裂や保守系市長の失政と社会党推薦候補の個人的人気が必要だった。
社会党は労組の居住地組織や自治体改革の市民運動を組織して、それを選挙地
盤にすることを方針としたが、それらはほとんどの都市で組織されなかった。
また、社会党が党勢の衰退と野党の多党化に対応して、やむなく社会党主導と
いう首長選挙原則を放棄し野党共闘に転じたのは1966年以降だった。それで、
社会党推薦市長は「革新市長」としてというよりも、現職市長の失政に対する
「刷新市長」として登場し、市民に歓迎された。
1960年代前半の社会党推薦市長のなかで、社会党などが主催する革新市長会
議に出席した市長は30人未満、全体の4分の1未満の社会党色が強い市長だけ
だった。その他の社会党推薦市長は、東北地方では再選時までにその60%以上
が保守勢力と相乗りしていた。野党連合・相乗り現象の多くは、保守分裂時の
選挙戦術から派生したもので、相乗りの政治的結果は保守と社会党・労組の地
域開発推進連合のための総与党化だった。それで、相乗り市長は一期で保守化
したり、保守連合によって退場させられたりする場合が多かった。だから「刷
新市長」として当選してはみたものの、彼らにとって「革新市長」はマイナス
シンボルであり、革新市長の全国的結集は困難だった。ただし、相乗り市長の
なかには、独自の都市づくりと人気で実績をあげて超党派ワンマン市長となり、
1967年以降「革新市長」がプラスシンボルに転じると、全国革新市長会に名前
を連ねて1970年代に革新市政らしい都市政策を実施した市長も存在した。つま
り量的には、1970年代の革新市政の発展とは革新市長数が増大したというより
も、分散していた社会党推薦市長が全国革新市長会に参加したことだった。
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
(1960年代社会党市政の特徴)
質的停滞それによる模索と苦悩は、東北の社会党モデル市政の自治体政策に
表われていた。1960年代の釜石市、仙台市、秋田市、酒田市は、首都圏や北海
道の社会党市政とともに社会党の地方組織強化と自治体改革の重点地区だった。
東北の社会党市政の特徴は、1)社会党支部の市政綱領をスローガン的指針
とし、都政調査会などのブレーンによる行政調査をもとに、ワンマン市長が既
存の保守的自治体官僚機構に依拠して行政計画を立案し、そのうえで、一方で
保守勢力と一体となって産業基盤整備=工業開発や都市計画を、他方で生活基
盤整備や学校建設を推進したことである。そして、東北では結果的に重化学工
業開発が停滞していくなかで、社会党市政は生活基盤整備の成果によって市民
の幅広い支持を獲得していったことである。
2)その行政手法は、市長が広報公聴事業で既存の住民団体の陳情活動に直
結し、また官製市民運動=住民団体の奉仕活動を組織して生活基盤整備事業に
協力させたことである。そして、その奉仕活動を「市民参加」「市民運動」で
あると過大評価して、革新市政下に地域民主主義が成長しているかのように宣
伝したことである。しかし、この町内会やPTAの奉仕活動は、保守政権の
「社会開発」の先駆的モデルだった。社会党の自治体改革方針は党支部や地区
労に届きながら、支部や地区労が住民組織づくりと日常的地域活動という課題
を実践すること、つまり地域社会を民主化することは困難だった。1960年代前
半、社会党市政では市民の「市政参加」とは、市民個人の政策決定過程への参
加でなく、既存の住民団体役員層の個別陳情活動か、住民団体総ぐるみの地域
共闘運動だった。また自治体行政=市職員機構の民主化という課題も実施困難
だった。
3)社会党市長は相互に孤立していて、ようやく1965年の秋、仙台市での懇
親会から革新市長の全国的結集の準備を開始し、1966年の夏、伊東市で事実上
の革新市長会の第一回市長集会を開催した。しかし、まだ革新市長の社会的影
響力はほとんどなく、市政内部には上記の支持基盤の弱さと下記の政策的困難
55
行政社会論集 第24巻 第3号
を抱え、社会党市長たちは全国市長会や中央政府交渉を舞台に革新市長連合の
政治運動を開始するだけの政治力をもてなかった。市政に関する交流活動や中
央政府交渉は1966∼70年の局面でも模索の域をでなかった。
それで、4)市政の課題は都市によって多様だったが、一方で一部の社会党
市政は地場産業振興や地元負担軽減をめざして革新市政らしい模索を試みなが
ら、他方でインフレと不況下の都市財政危機(公営企業経営再建、公務員人件
費、公共料金)および地域開発政策の失敗と弊害(工場誘致、新産業都市、広
域合併、企業合理化、公害)をめぐって、多くの社会党市政はそれらの課題に
革新市政らしく対応できなかった。本論では、これら4つの要素を特徴とする
1960年代の社会党市政を保守政治の枠内での「生活改良の地方政府」と規定す
る。
(停滞から発展へ一護憲平和路線と住民運動の全国化)
1963∼66年は、社会党推薦市長が財政危機や地域開発圧力を要因として保守
化や退場を余儀なくされる停滞の要素と、保守政権の産業優先政策の挫折や都
市問題の深刻化による住民運動の登場、ベトナム戦争を契機とする護憲平和の
革新共闘の再興によって、革新勢力が前進する要素とが並存していた。そして、
社会党の構造改革論=松下圭一の自治体改革方針は結局ほとんど実践されず、
社会党市長の市民直結(広報公聴と官製市民運動)からは町内会やPTAの奉
仕活動しか派生しなかった。1966年に発足した全国革新市長会の実態は社会党
市長の情報交換・懇親会だった。これらは革新市政発展の主要な推進力にはな
らなかった。1967∼70年の転換局面でも、社会党市長や革新市長会が自力で革
新市政の発展期を切り開いたのではなく、国民の世論と運動を後追いして発展
の契機をつかんでいった。社会党の革新モデル市政のなかには、1966∼67年か
ら公害対策や住民福祉で先駆的施策を具体化したところもあったが、それらが
全国の革新市政のなかに波及するのは1969∼70年になってからだった。
発展の第一契機となったものは、東京都知事選挙で太田薫候補と社公民連合
構想が挫折した結果、美濃部亮吉候補と社共共闘・明るい会方式が成立し、革
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革新市政発展前史一1950∼60年代の社会党市長(4の3完) (功刀 俊洋)
新都政が社会党市長たちにとって想定外の形で誕生したことである。1967年に
美濃部・蜷川知事と革新市長を初めて政治的に結集させたテーマはベトナム反
戦アピールであり、1968年には革新首長たちは憲法集会と沖縄返還アピールで
共同行動を継続していった。そして社会党市政下の労組と市民団体による憲法
集会から、美濃部都政の「対話」をきっかけに、市民対話集会一市民団体と市
民個人の市政参加が派生した。結局、革新市長たちが国民世論にアピールし、
各都市で幅広い市民団体を結集させることができた最初のテーマは護憲平和だっ
た。革新市長はまず「護憲平和の市長」として結集していった。
第二の契機として、1969∼70年に産業優先から生活優先への世論の変化が顕
著となり、公害反対などの住民運動が全国化すると、大都市での党勢の衰退に
危機感を抱いた社会党は、ようやく都市政策と革新自治体の実現を「反安保・
反独占」の運動方針に位置づけるようになった。松下圭一の地域民主主義・自
治体改革論は、社会党と革新市長会の運動方針に再採用され、マスメディアか
ら注目されるようになった。同じ局面で、東北の社会党モデル市政では、勤労
協(秋田市)、社共両党および市職労共闘(酒田市)、市民委員会(仙台市)な
どの形態で自治体改革運動が模索されていた。1970年、革新市長たちは共同の
「都市づくり綱領」と全国革新市長会の組織的実体化を獲得し、シビルミニマ
ムと市民参加の政策を模索するようになった。革新市長たちは「都市づくりの
市長」をめざしはじめ、住民運動の圧力を受けて、ようやく独自の公害対策や
住民福祉政策を具体化し、革新市政の質的発展が展望できるようになった。こ
の住民の世論と運動は、一方で新世代の革新市政を全国各地に続出させると同
時に、他方で1970年代の革新市政の質を問い始めた。
1960年代の社会党市長や1970年代前半に登場した新世代の革新市長は、1970
年代の発展期に、反独占・護憲平和の市長、社会民主主義と市民民主主義の市
長に発展できただろうか。それとも上記の4つの要素の状態にとどまり、社会
党市長は1960年代からの「マンネリズム」から抜け出せなかったか。その検証
が次の革新市政発展史の研究課題である。
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