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A.2.2 重度の障害をもった新生児への安楽死①

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A.2.2 重度の障害をもった新生児への安楽死①
A2.2
夕食会の席で活発な議論を始めるひとつの確かな方法は、人類は時を経て立派になってきたの
か、という質問を提起することだ。道徳的な進歩に対する楽観主義者は次のように指摘するだろう。
ここ数世紀、少なくとも西洋では奴隷制度や法的人種差別の廃止、宗教、言論、出版に関する自由
の拡大、女性への待遇の好転、とくに殺人などの暴力事件の減少など、日々の生活の中でこのよう
な良い進歩がみられる、と。悲観主義者はユダヤ人大虐殺や強制労働収容所など 20 世紀のけた
はずれの悪行を挙げて返答するだろう。自らの宗教の信念に従い、家庭の崩壊や、性的道徳の低
下に注意を向ける人もあるだろう。戦争で市民が殺されることや死刑の再導入、もしくは拷問の使
用など、見かけ上ではモラルの進歩が進んでいる領域での逆行について訴える人もいるだろう。そ
して、もし夕食の招待客が特に知識のある人なら、だれかが嬰児殺しについて話を持ち出すのは、
極めて自然の流れである。
嬰児殺しーそれは両親と社会の同意の下に行われる故意の新生児殺しであるーは、人類の歴
史上の多くの場面で一般的なものであった。エスキモーや、アフリカのクン族や 18 世紀の日本人の
社会では、食物の供給が制限されているときに産児制限の一つとして嬰児殺しが行われた。ギリシ
ャの都市国家や古代ローマなど他の地域では、嬰児殺しは奇形児を排除する一つの方法であった。
(プラトンは優生学上の目的での嬰児殺しについて熱烈な支持者であった。)しかし、ユダヤ教、キリ
スト教、イスラム教の三大一神教の三つともが嬰児殺しを殺人として非難している。ただ神のみが
無実の人類の命を奪う権利があるという考え方を固持しているのだ。したがって、西洋の全ての
国々ではその慣習は長い間禁止されている。
しかし今年、嬰児殺しの歴史に新たな一章が始まるかもしれない。ヨーロッパでも文明の中心で
あるオランダで開業医をしている2人の医師が、今春 The New England Journal of Medicine に記事
を発表した。それは、彼らが新生児の「安楽死」と呼ぶものについてのガイドラインである。その著者
たちは、彼らが働いている町の名前にちなんで、このガイドラインをフローニンゲン規約と名づけた。
その一人の医師である Eduard Verhagen 医師は、致死量のモルヒネと睡眠薬のミダゾラムを点滴
することでこの 3 年間で 4 人の赤ん坊を殺すことを主治医として行った、と認めた。Verhagen の行為
はドイツの法律上違法であるが、彼は起訴されなかった。もし彼のガイドラインが認められれば、彼
の死を与える仕事に法的な根拠が与えられることになる。
一見したところ、公の嬰児殺しの必要性はモラルの進歩と逆行したもののように見える。嬰児殺し
は「生の尊厳」という教義を無視するもので、その教義は特にアメリカでは、道徳的な考えがたくさん
詰まったものとなっている。全人類の生命は平等で極めて貴重な価値をもつと考えられている。新し
く生まれた赤ん坊は、たとえ奇形でも知的障害を持っていても生きる権利をもっている。この権利は
どんな道徳的考察にも勝るものである。この権利を侵害することは、いつどんな場所でも殺人とな
る。
「生の尊厳」の教義は、嬰児殺しに対し、全く融通の利かない性質を持つ。しかしながら、実際に
にこれは極めて柔軟性のあるものであることがわかってきた。脳の大部分または全てを失って生ま
れてきた赤ん坊の例を考えてみよう。無脳症として知られるこの病は、出生数 2000 人に対し 1 人の
割合で起こる。無脳症の赤ん坊は生物学的にはヒトと分類されるが、他人とうまくやっていったり将
来のことを考えたりすることはいうまでもなく、原始的な意識を発達させることも決してない。しかし
の「生の尊厳」の教義によれば、このような障害がその道徳的立場に影響を与えることはなく、それ
ゆえ生命の権利にも影響しない、というのだ。無脳症の赤ん坊たちは必要な延命処置をうければ、
何年かは生命を維持することができる。しかし治療は結局「普通ではない方法」になってしまう、とい
う考え方のもと、典型的に途中でやめられてしまう。同じような治療を必要とする普通の脳を持つ赤
ん坊であれば必要な治療は奪われないだろうが。したがって、無脳症の新生児は死ぬことを許され
るのだ。
このような新生児の「安楽死」にどのような制限があるだろうか?1982 年インディアナで、Doe とし
て知られる新生児がダウン症を持って生まれたときに、ある有名な試験事例が起きた。ダウン症を
もつ子どもたちは普通いくつかの知能障害とその他の障害に悩むこととなる。しかし一方で、彼らは
両親や家族に大変な努力を示すことで、時に楽しくそしてほぼ独立した人生を歩むことも多い。たま
たまBaby Doe の食道は形成不良であり、そのため彼の口に入った食べ物は胃腸にまで届かなか
った。外科手術でこの問題は解決できたかもしれないが、彼の両親と主治医は治療を行わないこと
に決め、代わりに鎮痛剤の処方を選んだ。何日かで赤ん坊の Doe は飢えて死んだ。レーガン政権
はこのようなハンディキャップをもつ新生児の延命処置治療を命じる Baby Doe guidelines を作るこ
とで、この事例に対応した。しかしこのガイドラインはアメリカ医学協会から批判を受け、結局、米最
高裁判所によって廃止された。
赤ん坊を殺すことと、死を迎えさせてあげることとの区別はとても主観的である。しかしそこに道
徳的な違いがあるだろうか?無視や怠情や臆病はないのに、誰かの命を救うのを失敗してしまうの
も、一つの出来事である。しかし、可能な救命の治療法があるのに故意に赤ん坊の治療をやめてし
まったら、その意図は赤ん坊の死をもたらすだろう。そしてその結果は、もしも治療が可能なだけ引
き伸ばされて痛みを伴うものであったとしても、それが致死量の注射によりもたらされた結果と同じく
らい確定したものである。
我々の「生の尊厳」の教義の文化で受け入れられている「受動的な安楽死」と、オランダで支持さ
れている「積極的安楽死」の体制を比較するのは面白い。フローニンゲン規約は上記の事例に存在
しない要素に関するものである。つまり耐えがたく、取り除けない苦痛の要素についてである。
Sanne の 事 例 を 考 え て み よ う 。 彼 女 は ド イ ツ 人 の 少 女 で 極 め て ま れ な 皮 膚 病 で あ る
Hallopeau-Siemens 症候群でも特に重い症状を持って生まれてきた。今年の初めの Gregory Crouch
in The Times によると、Sanne の皮膚は、もし誰かが彼女に触れるものなら、文字通り剥がれ落ち、
そこに痛々しい瘢痕組織が残されるのである。この病によって皮膚ガンで死ぬまでで彼女は最大 9
歳か 10 歳まで生きられるだろうと予測された。彼女の両親は彼女の苦しみに終わりをもたらすよう
に頼んだ。が、病院の関係者たちは刑事上の起訴を恐れてその頼みを拒絶した。苦痛の 6 ヶ月後、
Sanne は結局肺炎で死亡した。
この Sanne の場合のように、新しい道徳的基準がとても関係してくるように思われる。その基準とは、
苦悩、特に無益な苦悩に対処するためのものだ。それこそがフローニンゲン規約が存在を認識しよ
うとしている、ものである。
もし新生児の予後が希望の持てるものではなく痛みが辛辣で軽減しようにないものであって、それ
が見てわかるものであれば、両親とその主治医はその新生児にとって生き続けるよりも死を選んだ
ほうが慈悲深い選択であると同意するかもしれない。その規約は、要求される項目のリストを提案
することにより、「不当な」安楽死に対して予防線を張ることを目標としている。その要求されるリスト
とは、両親の同意、確かな診断、少なくとも1人の第三者的立場の医師による確認などを含んでい
る。
新生児の安楽死についての議論では、たいてい2つの価値観の衝突という構図になる。すなわち、
生命の尊厳と生命の質である。後者について判断することは、もちろん周知の通り主観的なもので
あり、すべりやすい坂を下ってしまうことにつながりかねない。しかし、苦痛という観点に重きをおけ
ば、議論の状態は変わる。その残りの寿命が痛みに支配されている新生児を生かし続けることは、
―その痛みを新生児は耐えることも理解することもできないー議論の余地はあるだろうが、継続的
に新生児を傷つけることと同様である。
何が道徳的進歩となるのかについて、私たちの基準は、ある部分では理性的問題でまたある部
分では感情的問題である。理性的側面では、フローニンゲン規約が進歩的であるように思われる。
なぜなら、この規約は「殺すこと」と「あるがままにしておくこと」の間のあいまいな識別をはっきりさ
せるために、ただ新生児の苦痛を長引かせるように指示することを否定しているからだ。これは、ア
メリカではしばしば決疑論で覆い隠されてしまう臨床での断固とした誠実さを主張している。一方で、
道徳的感傷というのは、時に道徳的理性の力に対抗するほどの慣性をもつ。彼が行った医学的に
引き起こされた新生児の死について、Verhagen の記述を引用すれば、-「それは素晴らしい瞬間で
ある…あなたが初めて彼らの和らいだ表情をみるのは、まさに彼らが亡くなった後のその時なのだ」
―夕食時の、モラルの進歩に関するもっとも盛んな議論の場でさえも、当分は静寂に包まれるだろ
う。
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