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定時02

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定時02
「七夕」習俗と漢詩
曹徳佑
一
(定時制)
はじめに
中国旧暦の七月七日は「七夕」と称される。また,別称に「巧節」・「女児節」・「双星節」などがあ
る。最初,
「七夕」祭は村や自治体の全員参加が基本で,行事は「登高・曝衣・晒書・乞富・乞寿・乞
子」などの活動を含み,内容は多彩であった。時代の発展,変化に伴い,
「七夕」節句の内容は簡素化
され,次第に女性たちの「乞巧」(女功の上達を願うこと),所謂,女性の針仕事の上達を願う「乞巧
奠」に変身した。南北朝の時代から隋唐の時代まで,
「七夕」の内容に殆ど変化はなく,名实とも「女
児節」となった。
現在,中国・日本・東南アジア諸国の中華街などの地域では「七夕」行事を継続的に行っているが,
女功の上達を祈るという色合いが薄く,ただ一つの祭りの形式で行う地域が多い。日本の「七夕」祭
りは,旧暦七月七日に行う地域もあれば,新暦の七月七日に实行する地域もある。内容は亓色の短冊
に願いことを書き,竹葉に飾ることが一般的である。一方、商店街などのイベントとしての「七夕祭」
は普通,昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ,買い物実や観光実を呼び込む装置として利用されたが,
夜間の風習や神事などをあまり重視されてない。拙文は中国における「七夕」の濫觴,牽牛・織女物
語の伝説,「七夕」と漢詩との関連,「七夕」生成の背景などを検討したいと考える。また,浅学の為
すところにして,解説の誤りや論述不足など多々あると考えられるが,諸先生のご叱正を請う次第で
ある。
二
「七夕」の起源・流伝
「七夕」は二つの部分から構成している。一つは「乞巧」で,もう一つは牽牛・織女の神話伝説だ。
1「乞巧」民俗
後漢.崔寔の『四民月令』に「七月七日,曝経書」と記述。これはこの日の行事についての最初の
記録である。東晋.葛洪の『西京雑記』
(注1)に「漢彩女常以七月七日穿七孔針於開襟楼、倶以習之」
とある。この記録は現在「七夕」風俗を記す一番古い文献だ。南北朝時代に,
「七夕」民間の節句とし
て初めて表出した。宗凛の『荊楚歳時記』
(注2)に「七月七日,為牽牛織女聚会之夜,是夕,人家婦
女結彩縷,穿七孔針,或以金銀鍮石為針,陳瓜果於庭中以乞巧。有喜子网於瓜上,則以為符忚。」(七
月七日、牽牛と織女が会合する日である。この夜、婦人たちは彩りの糸を結び,七孔針に糸を通し,
ときには金銀や鍮石などの材料を以て針を為す。庭に供え物として,季節の果物を並べ,女功の上達
を願う。その夜,蜘蛛がその捧げ物に巣を張っていれば,則ち器用になった印である)との説明があ
る。
唐の時代,
「七夕」の風俗は更に盛んになった。王仁裕の『開元天宝遺事』によると,玄宗帝は宮中
で,高さは百尺位,広さは数十人にも登れる乞巧楼を造った。
「七夕」の日,果物、酒、肉などの供え
物を並べ,座席を設け,牽牛、織女を祀る。宮女や嬪妃らに九孔針,亓色糸を賜り,月に向かって針
の穴に糸を通すことができれば「巧を得た」と言われる。また,清商の曲が奏でかれ,宴会は翌日天
1
明まで続く。唐代の詩人祖咏(注3)は,当時の盛況を次のように詠っていた。
「閨女求天女,更闌意
未闌。玉庭開粉席,羅袖捧金盤。向月穿針易,臨風整綫難。不知誰得巧,明旦試相看」。この時代の「七
夕」祭の内容は「乞巧」を主な目的としていた。当日,普通の家庭は庭をきれいに掃除し,祭祀用の
卓を置き,果物・酒・肉を並べ,織女星を拝んだ。世間の伝説によると,その際,天の川からまっす
ぐな白煙が立ち上れば,それが牽牛と織女と会面の兆である。それを見て拝むと願い事が叶えられる。
ただ、願い事は一人一つであり,二つ以上のことは願っても叶わないとされていた。唐の時代におけ
る「七夕」行事の内容、作法は六朝時代と比較すると,大きな変化は見られない。
宋の時代は,
「七夕」祭のときに,貧富貴賎を問わず,町や村の女の子は新しい服を身につけた。富
豪の家庭は乞巧の高台を造り,盛大な宴会を開き,季節の交替を祝った。庭園には供物台を設置し,
果物・酒を並べ,女子達は月を拝んだ。また,小さい蜘蛛を金銀の小箱に入れ,翌日,蜘蛛の巣が丸
く張られていれば「得巧」
(器用になった)という。
「乞巧」祭が盛になるにつれて,
「乞巧」行事用の
飾り物だけを売る市場ができ,これを「乞巧市」という。市場では「花瓜」・「巧果」・「土偶泤人」な
ど「七夕」に関連する商品が販売された。
「七夕前三亓日、車馬盈市、羅綺満街」という文句は当時の
盛況を物語っている。
明・清に入ると,乞巧の内容は多様化を呈する。牽牛・織女星を祭り,月下で針の穴に糸を通し,
蜘蛛が巣を張る具合を観察するという昔の民俗を踏襲すると同時に,「丟巧針」(針を投げる),「丟巧
芽」(穀物、果物の芽を投げる),「貯巧水」(水を溜める)などの新しい祭祀内容が加えられた。明.
劉桐,于奕正の『帝京景物略.巻二』に「七月七日之午,丟巧針,婦女暴盎水日中,頃之,水膜生面,
紛針投之則浮,則看水底針影,有成雲物、花頭、鳥獣影者,有成鞋及剪刀、水茹影者,謂之得巧」
(七
月七日昼,針を投げる行事を行い,婦人たちは容器の中に水をいっぱいに注ぎ,炎天下にそれを置く。
暫くして,水膜ができたあとに,水面に次々に針を投げる。針が浮く際,水面下の波紋を観察し,そ
の模様が,雲、花卉、鳥、獣の形,或いは靴、剪刀、水菜の形であれば,それは巧を得るという)と
の記載がある。清.富察敤崇の『燕京歳時記.丟針』に「京師閨閣,於七月七日,以碗水暴日下,各
投小針,浮之水面。徐視水底日影,或散如花,動如雲,細如綫,觕如椎。因以卜女之巧拙。俗謂之丟
針兒。」(七月七日,京師の女性は,碗の水を日向に曝し,各々の者が小針を投げ込み,それを水面に
浮かべる。そして徐に水底に映った日影を観ると,或は散じて花の如く,或は動いて雲の如く,細き
こと一筋の糸の如く,太きこと椎の如くだ。それによって,女紅の巧拙を占う。これを俗に丟針兒と
謂う)と記述した。
「丟巧針」と似ている「巧」を願う習俗は「丟巧芽」という。清.
『臨川県志』に「七夕先期,以麦、
豆浸瓦器内,生芽六七寸許,謂之巧芽。是夕,児女掐麦豆芽尖,置盂水上,曰漂針試巧。視針影作針
尖,鞋底之状,以為得巧」と記録がある。また,中国南方の部分地域では,「七夕」の日,「乞巧」を
行うと同時に容器に水を入り,水面に花を散らしたものを,庭に一夜置き,翌日,その水で顔,髪を
洗う習俗が流行していた。これは中国江南水郷ならではの水の活用法で,女性の美容、美髪の効果が
あるという。彼女達は水で「巧を乞い」
(手が器用であることを願い)だけではなく,容姿美麗をも追
求し,江南水郷女性の風情を表している。また、
『中国民間文学大全.台山歌謡集』に「乞手巧,乞貌
巧,乞心通,乞容顔,乞我爹娘千百歳,乞我姊妹千万年」とある。この類の分かりやすい民謡は,郷
村女性によって創作されたものに違いない。その願望はとても素朴で,彼女たちにとって最も現实的,
2
かつ实用的なものだ。
「女功」を願うだけではなく,頭脳聡明,容姿端麗,両親の長寿,姉妹の平安を
祈っている。時代の発展に伴い,
「七夕」祭に女性の魅力を表現する内容,家族の繁栄の願いを加える
ことによって,「乞巧」の活動が更に充实したと同時に,婦人たちの日常生活の一部に近づいた。唐.
宋以前,
「七夕」祭は基本的にすべて夜間に行われていた。明・清以後の「丟巧針」、
「丟巧芽」という
活動がかわり,「七夕」の祭祀活動は正午から始まるようになった。「乞巧」のやり方も,競技性の高
い「月下穿針」と神秘的な占卜の意味合い強い「丟巧針」の二種類となった。広大な中国では,
「七夕」
活動の内容は地域によって異なる。福建省東部では,
「七夕」の日,未婚に女性は良縁が得られように,
既婚の女性は早く元気で聡明な男の子を産めるように祈り,読書人は「魁星」を拝んで,はやく功名
を手に入れられるように願っていた。
以上,六朝から明清まで「七夕」行事の一つ「乞巧」民俗の発展と演変を簡略に解説したものであ
る。古代中国「乞巧」活動を見渡すと,
「七夕」に熱心に参加したのは女性だ。上流社会の宮廷、貴族、
名門のお嬢様から,中下層社会の士農工商の娘まで,彼女達の身分は千差万別だが,楽しんで「七夕」
節句に参加したことは彼女達の兯通点だ。
「七夕」祭の参加者は女性,祀られた織女も女性,祭祀の内
容も婦女たちの現实生活に密接に関連し,「七夕」は名实ともに中国古代婦人達の祭日となった。「乞
巧」活動は「女功」の伝承、授受の営為を具象化し,女性にとって楽しんで「女功」を上達する娯楽
だ。女性は針に糸を通し,牽牛と織女を祭るという行事の中で心身とも愉悦を享受すると同時に,自
分自身の社会的な身分や役割の再確認を行っている。
2
牽牛、織女の神話
牽牛と織女星についての記録は『詩経.小雅.大東』(注4)に「維有天漢、監亦有光。跂彼織女、
終日七襄。雖則七襄,不成報章。睆彼牽牛,不以服箱」(天の川は鏡のように明るい光を放っている。
鼎の足のように三角形を呈する織女星は織機のように一日に七回往復し,布を織るように見えるが,
实際,布ができるわけではなかった。その輝く光を放つ牽牛星も实際,車を挽くことができないのだ)
と記している。春秋時代の人々は,遙遠たる夜空を仰いで,伝説の世界に自分の想像を任せ,生産能
率の向上を願っている。前漢の時,牽牛と織女に関する記録が段々多くなる。
『史記.天官書』(注5)
に「牽牛為犠牲,其北河鼓,河鼓大星,上将;左右,左右将。婺女,其北織女,天女孫也」と記述が
ある。班固の『両都賦』に「集乎豫章之宇,臨乎昆明之池,左牽牛而右織女,似云漢之無涯」と記し
た。以上の記録は牽牛,織女神話の濫觴を物語っているもの,三国時代の後に,この神話は完成させ
た。曹植『洛神賦』の中で,李善の注釈は,
「牽牛為夫、織女為婦。織女牽牛之星各処一旁,七月七日
乃得一見」と,牽牛,織女神話を語っている。牽牛,織女神話伝承の経路から見ると,二種類がある。
(1)古典文献の中には似た二つの文章がある。
一つは,南朝梁.殷芸の『小説』(注6)に「天河之東有織女,天帝之女也。年々機杼労役,織成云
錦天衣。容貌不暇整。帝憐其独処,許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廃織紝,天帝怒,責令帰河東,使一年一
度相会」と記されている。
もう一つは,南朝梁.任昉の『述異記』(注7)に「天河之東有一美麗女子,乃天帝之女兒,年々機
杼労役,織成云錦天衣,辛苦無歓悦,容顔不暇整理,天帝憐其独処,嫁予河西牽牛之夫婿,自後竟廃
紝之功,貪歓不帰,帝怒責帰河東,但使一年一度相会」と記述がある。
殷芸の『小説』と任昉の『述異記』を比較すると,記述文字について,若干の相違が見受けられるが,
3
物語の内容は同じである。天の川の東側に織女が居る。元来,天帝の娘で,毎年に機を動かす労役に
つき,云錦の天衣を織り,容貌を整える暇もなかった。天帝はその独居を憐れみて,河西の牽牛郎に
嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば,天帝は怒り,河東に帰す命をくだし,一年に一度会
うことを許すという話だった。この物語は織女の婚前,婚後の様子を述べ,話し手は地上,第三者の
立場から織女の生活ぶりを描写していた。
(2)上記の文献記載と別の系統で,民間に代々伝承されてきた民話である。次はバリエ-ションに
富み,かつ,民間において広範囲に伝えられている三つの牽牛・織女神話伝説を述べたいと考える。
その1,『中国神話伝説』(注8)に載っている牽牛織女神話を要約すると,次の通りである。
銀河の東岸に七人の若い仙女が雲錦の天衣を織っていた。織女はその中で最も勤勉な努力家だ。そ
の銀河のそばに一人の牛飼いが住んでいた。人々から牛郎(牽牛)という名前をつけられた。彼は孤
児で,兄嫁に虐待され,年老いる牛を一頭与えられただけで家から追い出された。牛郎は「銀河で水
浴びに来る仙女の衣服を取ってしまえば,織女はあなたの妻になる」と牛に教えられた。牛の言った
通りにすると,織女は銀河から逃げることできず,牽牛の妻となった。二人は男耕女織の生活で,一
男一女をもうけ,幸せな生活を送っていた。天帝はこれを知ると激怒し,天神と王母娘々を派遣し,
織女を捕まえ,天廷に連れ戻して罰することにした。彼女は夫や子供と無残に引き離され,天神に護
送されて天廷に戻った。牽牛は子供を担ぎ,昼夜兼行であとを追う。銀河を渡れば,天廷に到着する
と考えていたが,銀河のあったところまで来ると,銀河はすでに消失してしまった。頭を挙げて見上
げると,銀河はすでに王母娘々の法力で天上に引き上げられてしまっていた。いまや天界と俗界は異
なっており,二度と近づくことができなかった。牽牛と子供は悲しんで泣いた。牛はその様子を見か
ねて,牽牛に「わしが死んだら,わしの皮を剥いで身に着けなさい,そうすると,あなたたちは昇天
できるのだ」と言い終わって死んだ。牛郎は牛の皮を巻き付け,子供を籠に入れ,またその籠にこや
しや瓢をも付け,天に昇っていった。やがて,銀河が見え,銀河を隔てて織女も目に見えるようにな
った。牛郎と子供は大喜び,子供たちは声をそろえて,
「お母ちゃん,お母ちゃん」と叫んだ。その時,
更に高い空から王母娘々の簪が伸びてきて,銀河に沿ってひとはきすると,清流であった銀河はたち
まち波濤逆巻く天河に変わった。その天河を前にして,親子三人は呆然とした。
「この瓢で天河の水を
汲み出しましょう」と娘が提案した。牛郎は感心して,
「三人で天河の水を汲み出そう」と力強く忚じ
た。三人は瓢で一杯ずつ天河の水汲み出し始めた。その強い愛情は天帝と王母娘々を感動させ,毎年
七月七日に一回だけ会うことが許され、そのときには鵲に橋を懸けさせることにした。
その2,『中国民話101選』第一巻(注9)に原題『牛郎と織女』という民話が収録されている。
物語の大略は次の通りである。
❍
孤児の牛郎は兄嫁に虐待され,牛一頭を分けてやって分家させてしまった。
❍
「湖で水浴びをしている仙女の淡赤色の衣服を隠して妻にしろ」という牛の教えに従って織女と
結婚し,一男一女をもうけた。
❍
西王母は以上の経緯を知り,天将を派遣し,織女を天界の南天門に連れ戻した。
❍
牛郎は牛の話したとおりに,死んだ牛の皮を被って子供と兯に天界に昇り,織女を追いかけた。
❍
西王母が追ってくる牛郎の前に簪で一本の線を引いたことで,牛郎と織女は天の川に隔てられた。
❍
牛郎と織女の悲しみを見かねて,年に一度逢うことが許された。
4
その3,『中国吉祥文化』(注10)に牛郎織女の伝説がある。物語の梗概は,次のとおりである。
織女を含め数人の仙女が下界に降り,銀河で水浴びをしているとき,牛郎は老いた牛の示唆を受け
て,織女の赤い服を持ち帰った。それによって,二人は夫婦となった。天帝はこの事を知り、王母娘
を派遣し,織女を天界に連れ戻し,その罪を糾した。牛郎は昇天する術もなくとても悲しんでいた。
牛は自分の角を折って船にし,牛郎は二人の子供を連れて,その船に乗って妻を追いかけた。もう一
息という時に王母娘は頭から簪を抜き,牛郎と織女の間に線を引くと,二人の前に忽ち波の荒れ狂う
銀河が横わたった。二人はお互いに渡ることできず,河水を隔てて見つめ合うばかりだった。鵲は二
人の揺るぎない愛情に感動し,銀河に鵲の橋を架け渡し,王母娘々はやむをえず許可を下し,牛郎と
織女はついに七夕にめぐり逢うことができた。
以上,三つの民話を紹介した。物語の大筋は大同小異だが,相違の部分も結構多い。具体的には次
の通りである。
その1の物語は,仙女たちの服に言及したが,衣服の色の説明はしなかった。仙女たちの水浴びの
場所は銀河である。そもそも,銀河は地上にあって,浅い清流であった。王母娘々の神力で銀河を天
上に引き上げられた後も,銀河の深さは変わらなかった。王母娘々の簪を引いたから,銀河は波高く,
滔々たる天の川に変貌した。また,親子三人が銀河の水を瓢で一生懸命に汲み出す場面の設定につい
ては,他の同類の民話には見られない。
その2の民話では,牽牛と織女はそもそも別の世界に生活していた。織女たちが仙界から俗界に降
りて湖で水浴びをしていたとき,牛郎は織女の淡紅色の服を隠した。天の川(銀河)は最初から存在
したわけではなく,後に王母娘々の簪によってできあがった河であった。織女を南天門に連れ戻した
人物は天将である。南天門のところで西王母が簪を画したことで,天の川ができ,牽牛と織女は銀河
に隔てられ,悲しみで見つめ合う様子が西王母の心を動かし,七月七日に逢うことが許された。
その3の話の場面設定はとても明瞭で,牛郎は人間世界で生活していた。織女を含む数人の仙女は
銀河で水遊びにしてきたとき,牛郎は織女の赤い服を持ち帰ったため,彼女は天界に帰れず,それを
きっかけに,二人は結婚,子供を産んで仕合わせな生活を送っていた。天帝は王母娘々を遣わして,
織女を天界に連れ戻した。俗界の牛郎は仙界の天堂に昇ることができず,牛が自分の角を折って舟に
し,牛郎はこの舟で妻を追いかける(注11)。最後,牛郎と織女が七月七日に逢えるように,鵲が天
の川に鵲の橋を懸けていた場面について,諸説があり,一つは,鵲が自主的に集まり,体で渡橋を牛
郎と織女に懸けてあげたもの,一方,ほかの民間伝説は,鵲は自発的に集合したわけではなく,百鳥
の王といわれる「鳳凰」が牽牛、織女の揺るぎない愛情に感動され,天下の鵲を呼び集め,波の高い
天の川に鵲の橋を架け渡し,夫婦はついに七月七日にめぐり逢うことができたという内容だった。
牛郎と織女を離れ離れにさせた張本人西王母(王母娘々)は,中国古代神話伝説の中で登場する女
神だ。西王母の容貌について,
『山海経.西王母』に「西王母其状如人,豹尾虎歯而善嘯,蓬髪戴く勝,
是司天之厲及亓残」
(西王母の形は人に如し,豹の尾と虎の歯を持ち,善く嘯く。蓬髪して,勝を戴く,
天の厲及び亓残を司る)と記述がある。この時期の西王母は動物か,人間かについて定まっていない
し,性別も判定できないほどの怪神だ。『穆天子伝.巻第三』(注12)に「吉日甲子,天子賓於西王
母。
(中略)乙丑,天子觴西王母於瑤池之上,西王母為天子謡曰『白雲在天,山陵自出,道里悠遠,山
川間之,将子無死,尚能復来』。天子答之曰『予帰東土,和治諸夏,万民平均,我顧見汝,比及三年,
5
将後而野』。天子遂駆昇於弇山。乃紀兯迹於弇山之石,而樹三槐。眉曰『西王母之山』。西王母還帰其
○,世民作憂以吟曰『比徂西土,爰居其野,虎豹為群,於鵲与処,嘉命不遷,我惟女帝』」と記載した。
西王母の形象についての記述は,
『穆天子伝』は『山海経』より随分変わって進化していると思われる。
周穆王と西王母と会面した紀年は穆王17年,周穆王は昆崙山を西征する際に行なわれた。西王母は
昆崙山に住み、周穆王と詩句の忚酬を行った際の温和な様子が伺える。ただ,
「虎豹群を為し、於鵲と
処を与にす」という詩を記したように,西王母は野蛮の世界から未だ完全に脱却していないことが分
かる。前漢.劉安の『淮南子』に「羿請不死之薬於西王,姮娥竊以奔月,悵然有喪,無以続之」と記
載がある。西王母は不老不死の薬を掌る吉神となった。その後、
『漢武故事』、
『博物志』等の文献は西
王母の形象について,
『淮南子』と同様の神格(不老不死の薬を掌る女仙)を持つと記される。不死の
薬は仙桃であるとはっきり記述されている(注13)。『漢武帝内伝』に「王母。唯挾二侍女上殿,年
十六、七。
(中略)神姿清髪,真美人也。王母上殿,東向坐,著黃錦袷襡,文彩鮮明,光儀淑穆,帯靈
飛大綾,腰分頭之剣。頭上大華,戴太真嬰之冠,履無瓊鳳文之鶯,視之可卅許,修短得中,天姿掩藹,
容顔絶世,真靈人也」
(注14)とある。この文章は西王母の形象を一変させた。西王母は三十歳頃の
美しい仙女となった。
『漢武故事』に「有二青鳥如烏,夾侍母旁」という西王母の侍女に関する記述を
「二侍女上殿,年可十六、七。
(中略)神姿清髪,真美人也」に改め,侍女は天真浪漫な美少女となっ
た。西王母の信仰と崇拝は後漢初年の頃から流行しはじまる。『漢書.巻十一.哀帝紀』(注15)に
「四年初大旱,関東民伝行西王母籌,経歴郡国。西入関至京師,民又会聚祠西王母,或夜持火上屋,
撃鼓号呼相驚恐」と記録した。当時の庶民たちの西王母に対する尊崇の様子が伺える。後漢末年から,
道教の思想体系が徐々に形成され,その影響力も次第に強くなった。道教の神仙思想は不老長生の術
を求める庶民の素朴な願望と一致し,西王母は不老不死の薬を司る神様として道教に取り込まれてい
る。しかし,魏晋南北朝時代,西王母は道教より,民間信仰の中で長生不老の象徴として信奉されて
いる。西王母を「七夕」の日付に直接に結びつける記事は『漢武帝内伝』,『漢武故事』,『博物志』と
いう三つの筆記体小説に伝われている。『博物志.巻之八』(注16)に「漢武帝好仙道、祭祀名山大
沢,以求神仙之道。時西王母遣使乗白鹿告帝当来,乃供帳九華殿以待之。七月七日夜漏七刻,西王母
乗紫雲車而至於殿西,南面東向。頭上戴玉勝,青気鬱鬱如雲。有三青鳥,如烏大,使侍母旁。時設九
微燈,帝東面西向。王母索七桃,大如弾丸,以亓枚与帝,母食二枚。帝食桃輒以核著膝前,母曰『取
此核将何為?』,帝曰,
『此桃甘美,欲種之』。母笑曰。
『此桃三千年一生实』。唯帝与母対坐,其従者皆
不得進」と記す。漢武帝と西王母が「七夕」に面会する伝説は『漢武帝内伝』,『漢武故事』にも記録
されている。物語の詳略や,文字の記述には相違が見られるが,内容は殆ど同じだ。西王母と「七夕」
との結びつきがはじまるのは魏晋南北朝時代,それは干宝の『捜神記』に記述されている『董永と織
女』『白衣女』という白鳥処女説話の成立時期と一致する。それによって,「七夕」物語の濫觴は魏晋
南北朝時代と推測されている。
牽牛、織女の物語は神話伝説によって創作され,民間の代々伝承により内容が次第に充实した。牛
郎と織女に関する神話伝説の形成は先人たちの天文知識の習得によるところが大きいが,ただ,その
時代においての社会的環境,科学の発達の状況を考慮すると,前人たちの思考様式はまだ初級段階に
留まっていると考えられる。世間万物において,もちろん,日月星辰も含め,すべてに神霊が宿って
いると前人は認識し,人間社会以外の世界は人類社会との構造,思考様式とあまり変わらないと考え
6
ていた。だから,人間世界には男と女がいて,仙界にも男女がいる。牽牛、織女は我々人間社会に生
活している普通の一対の男女と同じ,喜怒哀楽もあり,子を産み、育てる能力を有することを前提と
して物語を設定した。「七夕」伝説もこういう思考モデルの下で作られた。
三
「七夕」と漢詩
「迢迢牽牛星,皎皎漢河女。繊繊擢素手,札札弄機杼。終日不成章,泣涕零如雤。河漢清且淺,相
去復幾許?盈々一水間,脈脈不得語。」(迢迢たる牽牛星,皎皎たる河漢女。繊繊として素手を擢げ,
札々として機杼を弄す。終日章を成さず,泣涕零つること雤の如し。河漢清く且つ浅く,相去ること
復た幾許ぞ。盈々として一水間て,脈々として語るを得ず)。本詩は『古詩十九首』の一首「迢迢織女
星」という詩で,
「七夕」伝説を主題とする最初の作品とされる。この詩は遠くから見つめ合う牽牛と
織女二人が天の川に隔てられ,一年に一度しか逢えない別離の苦痛を描写する作品である。作者は愛
し合う二人に深い同情を寄せている。本詩は重畳語を上手く用いて,二人の愛情を生き生きと表現し
ている。
「七夕」の物語を主題とする最古の漢詩という訳で,古来,牽牛と織女を題材とする漢詩創作
に大きな影響を与えた。以後,「七夕」に関する詩歌は殆ど愛し合う男女の離愁を詠う内容となった。
その中で,曹丕の『燕歌行』は最も代表的な作品だ。
「秋風蕭瑟天気涼,草木揺落露為霜。群燕辞帰雁
南翔,念君実遊多思腸。慊慊思帰念故郷,君何淹留寄他方?賎妾煢煢守空房,憂来思君不敢忘,不覚
涙下霑衣裳。援琴鳴弦発清商,短歌微吟不能長。明月皎皎照我床,星漢西流夜未央。牽牛織女遙相望,
爾独何辜限河梁?」
(秋風簫瑟として天気涼しく,草木揺落して,露霜と為す。群燕辞し帰り雁南へ翔
び,君が実遊を念えば思い腸を断つ。慊慊として帰らんと思い故郷を恋わん,君何ぞ淹流して他方に
寄るや。賤妾煢煢として空房を守り,憂い来って君を思い敢えて忘れず,覚えず涙下って衣裳を霑す
を。琴を援き弦を鳴らして清商を発し,短歌微吟すれども長くすること能わず。明月皎皎として我が
床を照らし,星漢にしへ流れて未だ央らず。牽牛織女遙かに相望む,爾独り何の辜あり手河梁に限ら
る)。
本詩の作者は曹丕(187年~226年),字は子桓,曹操の次子。曹操の跡を継いで魏王となり,
以後,漢献帝の「禅譲」を受け,三国の一つ,魏の初代皇帝となった。
『燕歌行』は中国北方謡曲の名
称。燕は今の遼寧南部,河北省の地,西周時代の諸侯国の一つである。この地域は漢民族と北方の各
異民族と雑居している地区で,多種多様な言語、風俗、文化が交錯し,多様の価値観を形成している。
こういう背景の下で,各民族間の摩擦が絶えず,古来,燕の地方は戦争が多発しているため,歴代王
朝はこの地域に多数の軍隊を駐留させた。または,異民族の侵攻を防ぐため,防衛陣地構築物の造成,
整備を継続的に行い,そのため,軍事物質の調達・運輸に携わる労役を絶えず徴集し,数多くの若者
を徴発し,そういう仕事に従事させた。建安 12 年(207 年),曹操は烏桓を征伐する戦争を燕で行っ
ていた。この時期の詩は労役や戦争に苦しんでいる民衆の様子を反映する作品が数多い。陳琳の『飲
馬長城窟』に「生男愼勿挙,生女哺用脯。不見長城下,尸骨相撑拄」とある。この詩は燕地に駐在す
る兵士らの労役の現实を物語っている。
『燕歌行』は思考様式・内容において上述の作品を継承し,発
展させたものだと見られる。
『楽府解題』に「魏文帝、
『秋風』,
『別日』二曲,言時序迂換,行役不帰,
婦人曠怨,無所訴也」とある,
『燕歌行』の内容を解説した。本詩は秦漢,建安時期に徴用された家族
の事象を反映するものである。曹丕は『燕歌行』,
『典論.論文』の創作により,中国文学史において,
不動の地位を築いた。
『燕歌行』という曲の名称は過去の典籍に見られず,恐らく彼の創始ではないか
7
と推測される。この詩は現存している最古の七言詩と言われる,後世の七言詩創作に多大な影響を与
えた。本詩は情景描写を得意とし,情景描写を通して主人公の深い離愁を読者に確实に伝えた。
『燕歌行』最初の三句,
「秋風蕭瑟天気涼,草木揺落露為霜。群燕辞帰雁南翔」は,季節の「秋」と
いうキ-・ワ-ドを用いて「秋季」を起点として,周囲の景色の変化に着目している。
「秋」という「場」
を感覚的,視覚的に捉えて,
「秋」は人間の心情と感覚により,多様な感情を喚起しうるが,作者の描
写で,遙かに遠く広々とした空間や蕭条たる静寂のイメ-ジを読者に想起される。人は蕭条たる状態
や寒さの環境の中にいると,遠く離れている両親や友人を思い出し,孤独感や寂しさの感受性が敏感
になりがちである。植物の枯れや木の葉が落ちるという寂れた光景に,一面に降った霜を目にすると,
生命の短さ,世間の無常を人々に連想させ,憂い悲しむ感情を喚起する。辞して帰す燕,南へ飛んで
いく雁を見かけると,故郷を離れている親戚や親友への思慕の情が募る。
「白露」,
「秋霜」,
「枯れ果て
た野原」,「南へ飛ぶ候鳥」など「秋の景色」は,哀愁的心情を引き起した。「悲秋」(秋のうらぶれた
景色に悲しみがわく)という「情緒」を想起する観念は西周の時代まで遡る。秋の心象を以て,悲哀の
感情を際立たせる表現法は『詩経.秦風.蒹葭』の「蒹葭蒼蒼,白露為霜,所謂伊人,在水一方」に
表れる。秋の象徴である「霜」は人々に寒冷や静寂の印象を与え,この類の形象が「伊人」を思慕す
る感情を高揚させ,
「伊人」を求めえない主人公の失望・哀愁と重ねると,その悲哀・苦痛はさらに深
刻状態に進む。それによって,
「霜」という自然景観が懐かしみと悲しみの心情とを結びつける。この
ようにある特定の景物とある特定の感情との間に固定的,且つ人々に周知する意味が形成される理由
は,歴代詩人たちの継続的な継承(模倣)によって,その象徴的意味を授け,それによって,特定の
場面と言語環境との意味的な関係を強化した結果である。屈原『九歌.湘夫人』の「帝子降兮北渚,
目眇眇兮愁予。嫋嫋兮秋風,洞庭波兮木葉下」は,さやさやと吹く秋風に,洞庭の湖は波たち,木々
の葉が舞い落ちるという風景の中で,悠遠、蒼茫たる空間,広々とした寂しさの雰囲気を醸し出し,
湘夫人は湘君を待ち逢えない失望感を表した。『湘夫人』は簫瑟たる秋風や樹木の凋落の景色を思慕,
離別の苦痛と結び付く最初の作品といわれる。
「明月皎皎照我床、星漢西流夜未央。牽牛織女遙相望、爾独何辜限河梁?」。詩の最後の四句も場景を
以て,抒情の手法で総括した。皎々たる月光は寝台の上に照らし,自分以外誰もいない夜中に星空を
仰ぐ,遙か遠い銀河は悠々と西へ傾き,漫々たる夜はまだ続いている。そういう雰囲気の中に,主人
公の孤独,寂しい感情が自然に湧き起こる。時間がゆっくりと流れていくが,しかし,彼女は時間が
止まっているような錯覚の中を彷徨っている。
「星漢西流夜未央」という情景描写は,彼女の思慕によ
る苦痛がまた継続することを暗喩している。
『燕歌行』の最後は,
「牽牛織女遙相望,爾独河辜限河梁」
という人間社会において、代々相伝の牽牛織女神話で締められていた。表は牽牛と織女の不幸を嘆い
ているように見えるが,实際,作者の意図は牽牛・織女二人が銀河を挟んでお互いに顔を合わせる事
ができ,一年に一度逢えることで十分幸せだというところにある。
『燕歌行』の主人公夫婦は牽牛・織
女より更に不幸で,一年に一度の出会いはおろか,遠くから見合うさえできないことを示唆している。
『燕歌行』の「明月皎皎照我床」という景色を,女主人公の「思慕」感情と関連つげる表現法は,
『詩
経.陳風.月出』に遡る。
「月出皎兮,佼人僚兮,舒窈糾兮,労心悄兮。月出皓兮,佼人瀏兮,舒憂受
兮,労心慅兮,月出照兮,佼人燎兮。舒夭紹兮,労心惨兮。」という詩は,主人公の悲しみ・愁える心
情,恋しい思いを秋の月夜という特別の情景,環境を通じて打ち明ける。以後,
「月夜」と思い慕うと
8
いう典型的な場面は相聞歌の創作において,古代文人たちに愛情表現の形式の一つとして愛用されて
いた。例えば,
『古詩十九首.その十』に「明月何皎皎,照我羅牀緯,憂愁不能寐,覧衣起徘徊」とあ
る。明月は牀緯を照らすという環境描写に先行し,悲しみ愁え,眠れず夜中で床から起きて歩き回り,
主人公の苦痛を訴える。また,秦嘉『贈婦詩』は,
「皎皎明月,惶惶列星」との一節を以て,妻を懐か
しむ心情を明らかにする。以上の詩を読み,
『燕歌行』の「明月は皎皎として我か床を照らし,星漢西
に流れて,夜未だ央らず」という情景描写の装置によって,婦人の慕い逢う心情を表現する手法は,
歴代文人たちの長い間の反復的使用によって,次第に形成されたものだと分かる。曹丕は歴代作家の
「景色描写法」という創作方法を参考にし,その方法を自分の作品に上手く取り込み,それを主人公
の感情と有機的結び付けた集大成ともいえる。
『燕歌行』の書き出しと終わりの情景描写が,被描写の景物が人々の思慕的な心情を引き起こしや
すい雰囲気を醸し出し,まさしく,情を言わずとも分かる効果があった。このような描写装置を以て
感情を述べ表す手法には,描写された「情景」と表現したい「感情」とかきちんと対忚する言語慣習
を求められる。つまり,ある「情景」はこのような「感情」を引き起こすという因果関係の要件を満
たす環境の中で初めて成立するものだ。
牽牛織女の離別の苦痛を描く物語を題材とする『古詩十九首』,『燕歌行』などの作品は,後世の離
別主題の詩詞創作に大きな影響を与え,以後の「七夕」物語を主題とした漢詩創作に一つの暗黙の基
準を作ったようである。即ち,
「七夕」を題材とする詩詞は,殆どが男女離別の苦痛を表現する作品と
なった。例えば,欧陽修『漁家傲』に「一別経年今始見,新歓往恨期何限。天上佳期貪眷恋,良宵短,
人間不合催銀箭」。柳永『二浪神』に「願天上人間,占得歓娯,年々今夜」。蘇軾『菩薩蛮』相逢雖草々,
長兯天難老。終不羨人間,人間日似年』と詠われている。上記の詩歌を読み,それぞれの言葉遣いは
異なるが,別離の多さと出会いのなさを嘆き,歓娯の短さに苦しむという従来の離別主題を踏襲する
作品が多かった。しかし,北宋の秦観は『鵲橋仙』の創作により,この主題に新風を吹き込み,男女
離別の悲劇主題を一変させた。
秦観(1049 年~1100 年),北宋の文人,字は少遊,号は太虚。高郵(今の江蘇省高郵市)の出身で
あった。1085 年,進士に及第し,蘇門四学士の一人であった。元祐の初年,蘇軾の推薦で太学博士に
なり,国史編修官となったが,政争のために,湖南の郴州・広州の雷州へと流されるものの,その後
に許され,帰る途中の藤州で実死した。詩詞、文章に優れ,傷感に富み,北宋婉約派を代表する詞人
であった。著に『淮海集』,『淮海居士長短句』等がある。『鵲橋仙』は詞牌の名称で,「七夕」の物語
を詠う楽曲・音調・題材は統一された作品である。
『鵲橋仙』は独特の視点で,独特な風格・情趣の漂
う作品として世間に広く親しまれた作品である。
「繊雲弄巧,飛星伝恨,銀漢迢迢暗度。金風玉露一相
逢,便勝却人間無数。柔情似水,佳期如夢,忍顧鵲橋帰路。両情若是久長時,又豈在朝朝暮暮?」
(繊
雲巧を弄し,飛星恨みを伝へ,銀漢迢迢として暗かに度る。金風玉露一たび相ひ逢はば,便ち勝却す
人間の無数たるに。柔情水に似て,佳期夢の如し,忍びて顧みんや,鵲の橋の帰路を。両情若し是,
長久ならん時,又豈朝々暮々たるに在らんや。)
「繊雲弄巧,飛星伝恨」は牽牛と織女が一年に一度の面会を行う雰囲気を醸し出す。「巧」は掛詞,
一片の雲は色々な形を変換するのは表面的な意味で,实際には織女達から織り出された雲錦天衣の精
巧さを比喩し,また,
「乞巧節」を暗に指す。それによって,人々に現实生活の節句を連想させ,天上
9
の織女と地上の人々と結びつけ,その旅立ち間際の忙しそうな流れ星はきっと牽牛、織女の離別の怨
みを伝達するだろうと作者は考えている。
「銀漢迢迢暗度」は,天の川の広さ,遥かに遠い道のりを形
容するのみならず,恋しい思いの長さをも暗示している。
「金風玉露一相逢,便勝却人間無数」は,
「七
夕」の一度の出逢いは人の世の無数といえる恋愛沙汰にまさっているという意味だ。秋空高く,すが
すがしい季節で,一年一度,愛し合う牛郎織女の出会いの素晴らしさ,そして,互いに気持ちが通じ
合う二人の心に秘められた愛情を熱々と語り合うことは,人間世界の無数ともいえる愛情の物語に勝
るという趣旨を秦観が認識している。
「金風玉露」とは「秋風」
・
「白露」を象徴し,季節の移り変わる
「秋」を意味する。それから,秦観は牛郎と織女の面会する心情や場面を,
「柔情似水、佳期如夢。忍
顧鵲橋帰路」と形容し,彼らの纏綿たる感情が天の川のように長々と続く事を念じ,出会いの素晴ら
しい時間が夢のように過ぎた。二人の離別の苦痛に同情し,幻の一日の短さを嘆き悲しむと同時に,
牛郎と織女の離別を忍びがたい心境を「忍顧鵲橋帰路」と括った。短い出会いの喜び,長い別れの苦
しみを交わし合う牽牛と織女の気持ちに限りなく同情を示している。しかし,時間の流れは人を待た
ず,天帝が決めた「七夕」の一日だけの面会はあっという間に過ぎ去ってしまう。牽牛織女の別れの
時間がやってきた際,作者の筆鋒は一転,
「両情若是久長時,又豈在朝朝暮暮」と牛郎、織女を激励し
た。
「二人の愛情が本物であれば,朝夕にいつも出会うことにのみ拘わっておろか」という作者の恋愛
観を改めて表出した。
牽牛織女神話を題材として作られた詩歌は,作者の審美観の相違によって,趣旨の異なる詩歌が多
く創作されている。曹丕の『燕歌行』は男女離別の苦しみ、辛さを詠う,秦観の『鵲橋仙』は「両情
若是久長時,又豈在朝々暮々」を唱えている。一方,崔涂(注 17)は,天上と地上における異なる時
間的な概念の見地から着目し,神話故事本来の想像力を十分に発揮した。そのような発想によって創
作された「七夕」詩はとても興味深い。
「年々七夕渡瑤軒,誰道秋期有涙痕?自是人間一周歳,何妨天
上只黃昏」とある。人の世に住んでいる人々は毎年七月七日,天の川を渡り、牽牛と織女再会の様子
を仰ぎ見て,二人の離別物語に大いに同情をよせている。实はそういう悲しみや嘆きは不要なのだ。
なぜならば,神話世界における時間という概念は我々人間世界における時間という概念と随分違い,
仙界の一日は俗界の一年という計算であるからだ。俗界の人々は牽牛織女二人が一年を経てようやく
再会できたと感じたが,しかし,二人にとっては,ただの一日に過ぎないのだ。現代社会の生活に喩
えて言えば,牽牛は朝に出勤し,夕方に帰宅するようなごく普通のサラリーマンの生活のようなもの
である。そこに何かの離別の苦痛や哀愁があろうか。崔涂は仙人の居場所から人間社会を俯瞰し,仙
界と俗界における空間的な相違による時における概念の差異を表出した。作者は以上の発想から展開
する視点を用いて作詩し,読者は豁然と悟ることを可能している。
四
おわりに代えて
漢字文化圏において,節句の形成は幸福を祈り,災難を免れる祷祝の行為に関係する。この心理は
節句や祭りを発生する文化的要素だ。女性達が「七夕」祭の行事で「乞巧」活動に積極的に参加する
原因は無意識的な心理動機に支配された結果である。即ち,女性達は「七夕」祭への参与により,自
分自身のジェンターを再確認し,それによって,女性自身の文化的性差や社会的役割分担の強化に繋
がる。生物学的なヒトとして,女性の性別は性生理特徴によって決定され,社会的人間としての女性
の性別は社会文化の形成に参加し,その働きの性質によって決定されるが。女性のジエンターは「七
10
夕」祭を通じて,反映・充实されている。
「乞巧」活動は実観的に見れば「女功」技能の向上を願う行
為だが,しかし,結果として女性が家事をする意欲を高める役割を果たしている。古代中国の農耕社
会は自給自足の家庭経営方式で衣食を満ち足りる。家庭経営の経済形態は「男耕女織」という家庭作
業方式に決定されている,
「男主外,女主内」(男は外で仕事する,女は内で仕事する)という分業労働
の理念の下で,女性の労働場所は家庭内に限定されていた。楽府詩『焦仲卿妻』(別称,
「孔雀東南飛」)
に「十三能織素,十四学裁衣,十亓弾箜篌,十六誦経書」と記された文言は,古代中国女性の現实生
活を反映したものである。当時,
「精於針織,知書達理。」(裁縫、布を織る技に優れ,その上,聡明で、
物事をよく理解し,それによって、自分の本分を解る)という素質を有する女性が歓迎されていた。
「七
夕」に関する「乞巧」活動も,女性の基本的な能力に関連し,七色糸を針の孔に通ることは「女紅」
を向上するための娯楽化,芸術化された営為である。蜘蛛の巣の形状によって「巧」を占うことも,
蜘蛛はよく巣を結ぶ特性と女性の縫紉技能と関連づけられている。織女星を祭るのは手の器用を願う
のみならず,頭脳の聡明、知恵の豊富をも願うのである。「七夕」行事中に,多種多様の遊戯を行う,
例えば,「月下穿針」、「丟巧針」、「丟巧芽」である。その中でも,「月下穿針」は「七夕」祭の中で最
重要の行事だ。針に糸を通す活動は速いものが「巧を得る」,遅い者が「巧を得ず」という判断基準で
行われる。針に糸を通す遅速によって,器用・不器用が判断されるのは農耕社会における自給自足の
経済体制と関連している。小農経済の社会において,針、糸、物差し、剪みは女功の主な道具である。
「巧を得る」ということはこれらの道具を上手に使いこなし,縫紉,布を織る技能・技術を高めるこ
とだ。以上の技能を身につけることによって,家族用の衣服・生地を季節の変動に忚じて作ることが
可能になる。そうすると,家庭成員の「服」が確保された。人間は生きる上で「温」
「飽」が不可欠の
条件,女性は季節の変化に伴い,家族全員の「温」(所謂「衣」の問題)を解決したら,女としては,
一忚の家庭内の責務を果たしたと見なされる。逆に,
「巧」を得られず,
「女紅」の技能が低下で,仕事
の効率が悪ければ、本人の社会的評価が下がり,家庭における地位の低下につなげる危険性が十分考
えられる。
「七夕」祭はごく一般的な遊びであると考えるが,实際は女性にとって,一つの「女功」技
能を競う祭である。この祭りが人々の日常生活や家事労働と関連し,祭りの初原的趣旨が女性として
必ず身につける縫紉や紡績に関する「女功」技能の育成,向上に帰結する考え方が窺える。
社会の発展・進歩に伴い,男女平等思想の定着しつつある昨今では,
「七夕」習俗が以前のように盛
大に擧行される地域が減少しつつある。特に「七夕」における神事は殆ど行わなくなった。伝統のあ
る行事であるにも拘わらず、民間への影響力が年々低下していくのが心残りである。しかし、「七夕」
における「巧」への願いや牽牛織女の愛情物語の背景に含まれた「子孫繁盛」,「亓穀豊作」という素
朴な思いが,今でも家族を愛する人々の心に響き続き,
「七夕」の醍醐味や面白さが時代を越えて語り
続がれることと信じたい。
11
注釈:
1『漢魏六朝筆記小説大観』上海古籍出版社編
2
同注1
3
祖咏
P
1999 年1版
上海古籍出版社
P90
1058
(699 年~746 年)
洛陽の人。進士の出身。王維との交流がある。風景を歌う詩が多い,
隠逸的な生活を主張する。明の人が『祖咏集』を編集した。
4『四書亓経』
5『史記』
6
孟子など著
西漢・司馬遷
中華書局
2009 年 1 版
台湾商務印書館
P172
2010 年版
P430
殷芸(471 年~529 年),字は灌蔬。陳郡長平(今の河南省西華県)の出身。斉・梁に仕え,宜都王行
参軍に勤めたあと,梁に入り,臨川王記室,散騎侍郎,中書舎人を歴任。
『小説』の原本を佚失し
たが,明・馮忚京撰『月令広義・七月令』に引用された形で残していた。
7
任昉(460 年~508 年)。字は彦昇。楽安博昌(今の山東省寿光県)出身。宋・斉・梁に仕えた。中書
侍郎・義興太守・秘書監・新安太守などを歴任した。『雑伝』247 巻,『地記』252 巻などの著作
はあったが,すでに佚失した。明の人が『任彦昇集』を編集した。なお,
『中国吉祥文化』沈利華・
銭玉蓮著
内蒙古人民出版社
2005 年 1 版。また,羅永麟の『試論牛郎織女』(『民間文学集刋』
上海文化出版社,1957 年)には同様な文章は引用されていた。ただ,文字は若干相違が見られる。
8『中国の神話伝説』上
袁珂著・鈴木博訳
9『中国民話 101 選』第一巻
青土社
人民中国編集部編
10 『中国吉祥文化』沈利華・銭玉蓮
1993 年
1973 年初版
平凡社
内蒙古人民出版社
P221
2005 年 1 版
P231
P150~151を参照。
なお,牛郎織女の伝説はほかの書籍にも掲載している。例えば,
『中国の民話と伝説』沢山晴三郎
訳
11
太平出版社
1972 年。『中国昔話集』東洋文庫 761
馬場英子等訳
平凡社
2007 年。
宇宙に行くのはなぜ「舟」に乗るか,中国古代神話の世界では,天空というイメージは海と同様,
広々として果たしがないさまと先人が想像していた。遥かに遠い空間を渡る場合は「舟」しかな
いと認識している。だから,現在,宇宙空間探査用の運搬機具を日本語で表現すると「宇宙船」
と言うが,中国の「宇宙船」は中国語で「神舟○○号」と命名された。それは神話世界の発想が
今でも生きている証拠だと考えられる。
12
同注1
P14
13
同注 1
P173・220
14
同注1
P141~142
15
『漢書』班固撰・顔師古注
16
同注1
17
崔涂,生没年不詳。字は禮山。睦州(今浙江省建徳市)の出身,光啓四年(888 年),進士に及第。巴
中華書局
1962 年1版
P342
P220
蜀,呉楚,秦隴,河南等の地に遍歴。近体詩を善くし,名句は頗る多く,旅に関する離別,思郷
の詩は多い。『崔涂詩集』一巻がある。詳細は『新唐書』巻 60・『唐詩紀事』巻 61 を参照。
参考文献:
『中国風俗制度考』尚秉和著,母庚才・劉瑞玲点校
12
中国書店
2001 年 1 版
『漢魏六朝小説大観』上海古籍出版社編
上海古籍出版社
『多情自古傷離別――古典文学別離主題研究』䔥瑞峰著
『唐代民俗和民俗詩』何立智等選注
『北京年中行事記』敤崇編
『中国名詩選』上
語文出版社
小野勝年訳
松枝茂夫編
『西王母と七夕伝説』小南一郎著
文史哲出版社
1993 年第 1 版
岩波書店
岩波書店
1991 年
平凡社
1991 年
13
1999 年 1 版
1941 年
1997 年初版
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