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「ミュージアムとコレクション」 講演録

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「ミュージアムとコレクション」 講演録
開会あいさつ
1
開会あいさつ
公益財団法人 大阪市博物館協会
理事長 山本 重雄
公益財団法人 大阪市博物館協会理事長の山本でございます。シンポジウムの開催にあたり
まして、一言ご挨拶を申し上げます。
このたび、国際博物館の日記念シンポジウム「ミュージアムとコレクション-未来へ成長
するたからもの-」を開催させていただきましたところ、道中お暑い中ご参加いただき、ま
ことにありがとうございます。
我が国では、今年で 12 回目となります「国際博物館の日」のテーマは、
「博物館(記憶と
創造)は未来をつくる」とされております。本日のシンポジウムは、このテーマを踏まえま
して、今年の秋に大阪市立美術館で開催いたします特別展「再発見!大阪の至宝-コレクタ
ーたちが愛したたからもの-」に因んだものとして企画いたした次第でございます。
私ども大阪市博物館協会は、大阪文化財研究所を運営いたしますとともに、市立美術館を
始め、大阪歴史博物館、市立自然史博物館、市立東洋陶磁美術館、大阪城天守閣の 5 つのミ
ュージアムを大阪市より指定管理者として管理運営させていただいております。
そして、これらの施設の核となるコレクションの多くは、それぞれのミュージアムの開設
当初から、民間のコレクターから寄贈されたり、寄託されているものが多く、それが「民都
大阪」の特徴のひとつだとも言われております。
本日のシンポジウムでは、そうした大阪の地に育まれたコレクションの形成とその時代背
景に焦点をあて、改めてミュージアムの役割と未来に向けて成長するコレクションを展望す
るものにいたしたいと考えております。
長時間のシンポジウムとなりますが、会場の皆様方におかれましては、どうぞ最後までご
参加いただきますようお願いいたしますとともに、今後とも当協会の諸事業へのご理解、ご
支援を賜りますようお願い申し上げ、簡単ですが、開会にあたりましてのご挨拶とさせてい
ただきます。ありがとうございました。
2
基 調 講 演
3
大阪とコレクション
-特別展「再発見!大阪の至宝」によせて-
公益財団法人 大阪市博物館協会
会長 脇田 修
今年の秋に開催される「再発見!大阪の至宝」によせて、大阪を中心に、コレクションが
形成された背景をお話したいと思います。
歴史的に少し話をさせていただきます。大阪の歴史は上町台地を中心に始まりました。考
えてみましたら、今の「船場」は「ふなば」と書きますように、もとは湿地帯でした。東側
の「深江」も湿地帯です。古代では大阪周辺で人が住まうには、地盤がしっかりした上町台
地が最も適していた、そこから大阪の歴史が始まった、ということになろうかと思います。
なにわのみや
古代の都の遺跡である難波宮は大阪市立大学の山根徳太郎先生の執念の調査によって発見
されました。山根先生は私の先生と親友でありました。難波宮を発見された頃、
「見つかった
から案内する」ということで伺ったのですが、山根先生は冬の 2 月にビルの屋上で 1 時間お
話をされました。私は震えていましたが、先生はものともせず、説明に夢中になっておられ
ました。そのくらい熱心でないと難波宮の発見はできなかったと思います。
中世の街の中心は、
「渡辺」と四天王寺西門前でありました。渡辺は北浜あたりと推測して
います。また、四天王寺西門前には七千軒在所と呼ばれるほどの町があったようです。こち
そう ぜ ん じ
らは室町時代の記録に記載されています。それから、崇禅寺(東淀川区)という室町時代創
う め だ の うちかく た
建の大寺院の領地の記録に「埋田之内角田」という町が出てきます。これは、現在の梅田の
始まりでありまして、「埋めた田んぼ」では格好悪いので、天神さんの梅にちなんで「梅田」
に地名を変えたのです。現在の阪急百貨店があるところが角田町ですから、まさしくそこの
田んぼを埋めて1つの町が生まれたことが分かります。
れんにょしょうにん
大阪が都市的発展を遂げたのは、大坂に本願寺ができたことであります。蓮如 上 人 が大阪
城あたりに領地を構えたことに始まり、大坂に本願寺が移ってまいります。やがて大阪周辺
じ な い ちょう
に本願寺系列のお寺が増え、お寺を中心とした「寺内 町 」という町ができました。配布資料
に寺内町の代表として「八尾・久宝寺・富田林・今井・貝塚」と挙げております。今でも奈
良の今井町などは、昔の面影をかなり残しております。一度お出かけいただいたらよろしい
かと思います。
本願寺は織田信長と死闘を繰り返しました。恐らく信長が一番手を焼いたのは伊勢長島の
一向一揆です。長島は信長の本拠地である愛知県に近い所でありましたが、なかなか攻め落
さいが
とせず、悔しかったろうと思います。本願寺は最終的に大坂から撤退して紀州の雑賀へ移る
のですが、豊臣秀吉の時代に大坂へ戻り、天満に本願寺があった時がありました。この時も
本願寺へのお参りの方が朝から非常に多くて大変だったという記録が残っています。
豊臣時代になりますと秀吉は大坂を本拠地といたします。日本では江戸・京都・大坂と 3
つの町が三都と申しまして、中心的な都市になります。秀吉は山崎合戦で勝利を収めた後に
大坂へ参りました。上町台地周辺に大名屋敷を置いて、都市域は南へ延びていきます。これ
4
に対して町人居住地は、天満・船場・靭、このあたりになります。大坂は水の都と申しまし
て、町のあちこちに運河を通して物資を運びました。大川や東西横堀・道頓堀などの堀川に
よって大坂が発展していったのであります。
なりやすどうとん
道頓堀は安井道頓が開削したと言われていますが、近年の研究によると成安道頓が正しい
ようです。成安道頓は平野郷の有力者で、その方が道頓堀を作られました。ただし、堀を作
っている最中に大坂の陣が起こり、豊臣家に恩を尽くすために大坂方に味方して討ち死にさ
れました。そういうことで徳川時代にあまり評価されなかったのかもしれません。
豊臣氏が没落して徳川時代に入ると、徳川さんも大坂を再建するために尽力しました。松
平忠明という方が入られて、大坂の復興に尽くします。当時大坂は大坂三郷と呼ばれる、南・
北・天満の 3 つの郷で形成されておりました。人口で見ると、秀吉時代は数字が残っていな
いので分かりませんが、100 万人近くはいたのではないかと思われます。分かっているのは
寛永年間の 42 万人で、寛文年間に 26 万人に減り、このあと天下の台所ということで徐々に
増えて田沼時代の 18 世紀後半に 42 万人となり、明治維新までだいたい 30 万人台で推移し
ていきます。寛永年間が 42 万人と、何でこんなに多いのだろうと思われるでしょうが、おそ
らくこれは大坂復興のために今で言うところのインフラ整備や建築ブームでいろんな業種の
人々が集まったからだと思われます。江戸時代は人口帳簿があるために人間があまり移動し
たか も
ないと思われがちですが、家持ちや高持ちの本百姓以外はかなり移動します。特に、働き口
を求めてどっと流れていくんですね。ところが寛永年間には建築ブームが終わり、大坂の人
口は 26 万人と減少しています。元禄時代には大坂の基礎的な状況が安定してまいりまして、
人口が徐々に増えてゆきます。田沼意次の時代には 42 万人になり、大阪は最も繁栄を迎えま
す。経済活動に関しては、大坂にとって田沼時代というのは大変良かった時代でといえます。
大坂は天下の台所ということで、諸藩は国許の米や物産を売りさばき、必要なものを買い
入れるために蔵屋敷を置きました。京都も高瀬川沿いに蔵屋敷が建てられましたが、大坂は
中之島に 100 以上の蔵屋敷が置かれました。平成 7 年の発掘調査で驚いたのは大阪大学医学
部の跡地に広島藩の船入り遺構が見つかったことです。蔵屋敷は船入りによって産物を効率
よく納め、また物流の起点にもなりました。そこで産物の流通を握っていたのが大坂の問屋
ということになります。
文化的なことも少し触れておきます。元禄時代は井原西鶴や近松門左衛門など多彩な文化
人を輩出します。近松の作品は今でも文楽などに生きております。私は文楽も大好きであり
まして、今も文楽協会の理事をやっております。あの人形は世界一だと思います。文楽人形
のような精巧な「使い」は、恐らく世界にはありません。少し宣伝をしておきますが、そう
いうものであります。
元禄時代中期には富永仲基と上田秋成という人が出ました。この 2 人は大阪の思想家とし
だいじょうきょう
て独特で、富永仲基は、
「 大 乘 教 というのは、お釈迦様が作ったものではない」という説を
唱えました。恐らくこんなことを言った人は画期的だったと思います。今では岩波文庫『法
華経』の解説で岩本裕さんが「法華経は釈迦の滅後、数十年経った後に小さな部族が生み出
した経である」と書かれております。現在の仏教学者が考証しているようなことを、あの時
代に述べているということはすごいことだと思います。
5
それから、
『雨月物語』の上田秋成は本居宣長と喧嘩をしました。本居宣長は江戸時代にお
ける日本の古代史研究の第一人者ですが、第二次大戦中に宣長の思想が恣意的に使われたよ
うに、やや偏った面を持っている。それを秋成が徹底的に叩いたのですね。いつの時代も大
阪の人間はそういうことをはっきりと言うものだなと私は思います。秋成は単に小説を書く
だけではなく、宣長を論破するほどの人物であった、ということを承知しておいていただい
たらよろしいかと思います。
ひらのがん
江戸の中期には学校が随分できます。平野郷の有力者たちが一緒になって創った「平野含
すいどう
かいとくどう
翠堂」これが一番早い例です。それを受けて「懐徳堂」ができます。懐徳堂は三宅石庵がト
ップで、中井竹山なども出て儒学の学校として栄えます。そして最後に「適塾」が創られま
す。こちらは蘭学であります。建物は今も残っておりますから、是非お出でくださいますよ
うにお勧めいたします。大阪大学の所蔵で、学内に適塾の管理運営委員会を作りまして、保
存活動に努めておりまして、私も委員の1人であります。
最後に、幕末から明治になり、その時に「大坂」が「大阪」になりました。幕府が崩壊し
て、みんな不安定な時期でした。土へんの「坂」は土にかえるという意味になり、不吉であ
るということで「阪」に変えたと言われています。案外みんな縁起を担ぐ人が多かったのだ
と思います。
大阪の文化を育み、コレクションを育んだ歴史的背景について色々申し上げましたが、そ
の中で重要な位置を占めるのが住友コレクションです。近代から第一次世界大戦にかけて日
本は経済でも産業でも発展しますが、大坂の長堀で江戸時代から製銅業を営み、財を成して
きた住友家はいち早く海外に目を向け、中国の青銅器や朝鮮半島の陶磁器を収集しました。
いま、その多くは大阪市に寄贈され、市民の財産になっています。
雑多な話をたくさんしました。言いたいことは沢山ありますけれども、もう 1 つだけ言わ
せてください。東京の明治政府は、大阪は経済の街、という考えを持っていたために、最初
は大阪に旧制高校を創らず、帝国大学も京都が先でした。大阪帝国大学ができたのは昭和に
なってからで、医工学部と理学部系だけでした。文化は京都に任せて大阪は経済をやってい
ればよい、という風潮がそのころできたとすれば残念であります。大阪にもちゃんと世界に
誇れる文化が大阪の人間によって育まれ、根付き、今に続いているということを示さないと
いけないと思います。ご清聴ありがとうございました。
6
【報告】
各館の特徴あるコレクション
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各館の特徴あるコレクション
大阪歴史博物館
企画広報課長 大澤 研一
企画広報課長の大澤と申します。よろしくお願いいたします。みなさんが足を運んでくだ
さっている大阪歴史博物館を皮切りにコレクションの紹介ということで、少しお時間をいた
だきたいと思います。
大阪歴史博物館の前身は、1960 年に大阪城内に開館しました大阪市立博物館です。その後、
2001 年に今の場所に移り、
「大阪歴史博物館」に改称しました。現在は歴史博物館と名乗っ
ていますが、元々、市立博物館という呼び方から人文系の総合的な博物館という性格を持っ
ています。カバーする分野、時代、地域など非常に多岐に渡り、それに対応した館蔵品をこ
れまで収集・保管してまいりました。
館蔵品のうち、私ども博物館の所蔵品ということで申し上げますと、2013 年 3 月末現在で
点数が 123,374 点です。そのうち、ご寄贈いただいた受贈資料が 98,045 点、購入したもの
が 19,030 点です。購入と言いましても大阪市の税金で購入させていただいていますので、市
民の方からいただいたという言い方もできるのではないかと思います。受贈資料が約 10 万点
ということで、たくさんの資料をいただいていることを実感しました。改めて頂戴しました
みなさまにお礼を申し上げたいと思います。
分野は、私ども学芸員の研究分野で申しますと、考古、歴史、民俗、芸能、美術、工芸、
建築と幅広い分野の学芸員を擁しています。したがいまして、先ほど申しましたように、人
文の総合的な博物館という言い方ができるかと思います。
地域は大阪に根ざした活動を基本にしていますので、大阪を対象にした資料、あるいは日
本、分野は限られますが東洋という範囲にも及んでいます。これから少し詳しくご紹介させ
ていただきます。
大きく 3 つに分類をしました。A.「大阪の郷土関係資料」
、B.「日本の歴史・美術資料」
、
C.「東洋の歴史・美術資料」です。以下、代表的なコレクションをご紹介させていただきま
す。コレクションは、先ほどもお話がありましたが、個人の方がお集めになり、それを博物
館にいただいたり、購入させていただいたりというものもあります。一方で博物館がある種
コレクターとなって博物館に必要なものを集めたというものもあ
りますので、今回併せてご紹介させていただきます。
A.「大阪の郷土関係資料」の 1 つ目は「文楽人形のかしら(図 1)
」
です。先ほど脇田会長からお話もありましたが、文楽はユネスコ世
界遺産の無形文化財に指定され、大阪にとって非常に重要な芸能資
料です。当館は個人のコレクションを核に、江戸時代から明治にか
けて約 100 点のかしらを収蔵しています。文楽のかしらは、ある
意味消耗品で古いものは基本的に残りません。博物館で江戸時代の
ものから集めているということは、非常に意義のあるコレクション
図 1 文楽人形のかしら
8
だと思っています。
2 つ目は、「大塩平八郎関係資料」で
す。歴史の教科書を見ますと、大塩平
八郎の乱が江戸時代の大きな事件とし
て必ず登場しています。肖像画(図 2)
も教科書に出ていますが、大体は当館
の所蔵品が使われています。これら膨
大な資料は既に退職した当館学芸員が
図 2 大塩平八郎画像
心血を注いで収集したもので、それを
図 3 大阪府指定文化財
屈折式望遠鏡
当館では「大塩平八郎関係資料」とし
て出版や様々な写真掲載にご利用いただいています。
3 つ目は「天文観察記録と郷土資料」と括らせていただきました。江戸時代の天体観測に
関わる資料です。こちら(図 3)が望遠鏡です。観測器具、あるいは天体観測記録、そうい
ったものを集めたコレクションです。江戸幕府に天体観測を行う天文方という役職があり、
はざましげとみ
それに携わった 間 重富に関わる資料群です。資料の中核は大阪府の指定文化財第 1 号になっ
けんかどう
ています。その他、郷土資料として江戸時代の大阪の文人の交流を非常によく示す木村蒹葭堂
の「蒹葭堂日記」が含まれています。
「蒹葭堂日記」につきましては、
「再発見!大阪の至宝」
展(以下「至宝展」
)に展示される予定です。
4 つ目の「古地図で知る大坂」は大阪の歴史を考える上で基本的な資料の 1 つ、大阪の地
図類です。非常に力を入れて集めています。元々は、個人コレクションが核になっているの
ですが、それを膨らませてどんどん増やしています。こちら(図 4)が江戸時代の大坂の地
図で、確認されている中で一番古いものです。こういった大阪にとって一番基本になる絵図
を中心に収集を進めています。
江戸時代の大坂は経済の町でありましたが、そういった活動の中に鴻池さんという豪商が
おられました。鴻池家に伝来した様々な道具類や生活資料を一括で寄贈いただいています。
うちかけ
時代的には江戸後期から明治にかけてのものが多く、打掛(図 5)や様々な調度類、蓄音機
や洋食器など豪商鴻池家ならではの暮らしぶりがうかがえる資料を常設展示で公開させてい
ただいています。
やぶ
明治に入り「近代大阪の工芸」ということで、藪
めいざん
明山という作家が大阪で活躍されていました。彼が
製作した非常に華やかな陶芸品(図 6)を当館でも
収集し、公開しています。当初、国内よりも海外で
評価が高く、随分と海外へ流出したのですが、当館
でもできる限りそういったものも含めて集めてい
ます。
近代・現代の資料では、歴史博物館ですので非常
に幅広いジャンルのものを集めています。
第二次世界大戦直後に大阪で刊行されたいわゆ
9
図 4 明暦元年大坂三郷町絵図
図 5 紅地流水に
遠山桜文刺繍打掛
図 7 カストリ雑誌
図 6 富士・藤・孔雀図大花瓶
るカストリ雑誌(図 7)は、抑圧されていた言論が開放され爆発的に出版されましたが、多
くは創刊号だけで終わってしまいほとんど残っていません。図書館には収蔵されないような
性格のものです。これを市内に住んでおられた柴垣さんという方が収集されていました。コ
レクションと言うと財産をなげうって集める、というイメージがありますが、柴垣さんは普
通の男性で、自分の目の前を通り過ぎるものほとんどすべてを捨てずに取っておいた、とい
う方です。チラシなど些細なものでもたくさん集めておられました。収集当時は外に公開さ
れず、お亡くなりになった時にご遺族から、
「こんなものがありますがどうしましょう?」と
持ち込まれて、
「これはすごい!」ということになっていただいた資料です。図書類も整理し
て、みなさまにも使っていただける形で公開しています。
次に B.「日本の歴史・美術資料」という括りで、もう少し広い範囲で日本国内に関わる資
料についてもご紹介します。
考古資料の「縄文時代の出土品・下郷コレクション」は、滋賀県長浜の下郷さんが集めら
れたもので、主に茨城県・千葉県を中心に東日本の土器・土偶などです。大阪には直接関係
ありませんが、コレクションの学術的な意義は非常に高く評価されています。昨年、明治大
学で当コレクションをめぐるシンポジウム・展示を共催で開催しました。ちなみに、こちら
(図 8)は元々大阪市立美術館所蔵であったものが当館に移管されたもので、資料をより有
効に使うために大阪市の中で移動させている事例でもあります。
同じく「縄文時代の出土品・武藤コレクション」は、縄文土器を中心とした長野県・山梨
県の方のコレクションです。
美術品に関しては、当館で一番まとまった資料群として「前田コレ
ただし
クション」があります。前田 維 さんが集められ、大阪市に寄贈いただ
きました。絵画・書跡・陶磁器・漆工品・金工品・刀剣・武具など非
常に幅広く、重要文化財が 2 件 8 点、重要美術品 1 件 2 点を含む 220
件 283 点と膨大なコレクションです。こちら(図 9)が重要文化財「十
ま
て ひめ
二天図」で、
「至宝展」に展示予定です。徳川家康の養女満天姫が津軽
家へ嫁ぐ際の輿入れ道具として持たされた重要文化財「関ヶ原合戦図
(図 10)」など、関ヶ原合戦に関する出版物等には必ず出てくる重要
図 8 土偶
茨城県椎塚出土
な資料も含まれています。
10
図 9 重要文化財十二天図
伊舎那天
図 10 重要文化財
関ヶ原合戦図
当館には建築の分野もあります。博物館では珍しい分野ですが、そういった資料を博物館
で残すということで、取り壊される建築の部材や関連の図面を集めたりしています。旧阪急
百貨店うめだ本店のステンドグラス、開高健邸の玄関タイルも収集しています。
C.「東洋の歴史・美術資料」には日本・中国・朝鮮の鏡のコレクションがひとまとまりで
あります。
シン ギ
ス
現在収集中なのが「朝鮮通信使関連資料」で、大阪在住だった辛基秀先生がお集めになっ
たコレクションを順次購入させていただいています。大阪は朝鮮半島と非常にゆかりの深い
場所ですので、辛先生はご自分が集めたものを是非大阪に残したいと生前おっしゃっておら
れました。私も直接聞いたことがあります。で
すので、当館で収蔵を進めさせていただいてい
ます。
他にも、もちろんたくさんあります。豊臣秀
吉にあてられた明国王からの国書(図 11)は
「至宝展」に展示予定です。大阪の町の中を描
図 11 重要文化財 明王贈豊太閤冊封文
いた絵画も当館にはたくさんあります。その中
の 1 つが「川口遊里図(図 12)」です。
本日、私がお話をさせていただくにあたり、
膨大なコレクションの中からどれをご紹介し
ようか、大変迷いました。最終的には独断で選
ばせていただきました。大阪歴史博物館にはこ
のようなコレクションがあるということを少
しでもご理解いただけましたら幸いです。どう
もありがとうございました。
図 12 大阪市指定文化財 川口遊里図
11
各館の特徴あるコレクション
大阪城天守閣
館長 松尾 信裕
大阪城天守閣の松尾でございます。私どものコレクションをこれから紹介させていただき
ます。本日ご紹介するものは、本当にごく一部です。1 万点もの資料のうち、有名なものを
紹介させていただこうと思っています。
はじめに、大阪城天守閣の歴史を知っていただければ、と思います。開館は昭和 6 年で、
今年で 82 年目を迎えます。開館当初から 2 階~7 階を郷土歴史館として運営していました。
1 階は倉庫や収蔵庫、
8 階は現在と同じ展望フロアです。2 階~7 階には大坂城や大坂本願寺、
くすのきまさしげ
郷土史や考古資料等、色々なジャンルの展示をしていました。当時は戦前ですので楠木正成な
ど大阪の偉人についての展示も行っていました。開館時から天守閣運営委員会が設置され、
委員会によって展示・運営が進められていました。戦前のことですから、公立の歴史系博物
館では大阪城天守閣が唯一でしたので、豊臣秀吉や戦国時代の歴史資料だけを集めるという
ことではなく、考古資料も収集していました。難波宮跡出土古瓦(難波宮発見第一号の瓦)、
などの考古資料も当館の所蔵となっています。難波宮跡から出土した瓦が天守閣に収蔵され
た経緯は、資料の末尾「大阪博物場と大阪市民博物館の系譜(P.56)
」にありますように、
「市
おじお
民博物館」ができた当時、大阪市民博物館の収集委員であった山根徳太郎先生が置塩氏から
預かっておられた古瓦を市民博物館に展示され、そのまま大阪市に帰属され、天守閣に収蔵
されることになったのです。現在は、当館よりも大阪歴史博物館のほうが利用度が高いとい
うことで、お預けして活用いただいています。2010 年には大阪城天守閣所蔵の考古資料の内
容を知っていただくために、テーマ展「地中からの遺産」を開催しました。
天守閣の収蔵品は 4 つのテーマを基に収集しています。
「豊臣時代」
「大阪城」
「武器及び武
具」
「郷土史」です。展示・調査活動・講演会もこの 4 つのテーマを主体に行っています。歴
史書やテレビなどで紹介されていて、よくご存知かと思いますが「大坂夏の陣図屏風(図 1)
」
も当館の所蔵品です。
図 2 重要美術品
豊臣秀吉自筆
辞世和歌詠草
図 1 大坂夏の陣図屏風(部分)
12
図 3 徳川家康画像
(伝狩野探幽筆)
現在、文化財を展示していますのは 3 階と 4 階です。
およそ 2 ヶ月ごとに展示更新を行っていますので、2
ヶ月に 1 度来ていただきますと、違う展示がご覧いた
だけます。毎回違ったもの、違ったテーマの展示が観
られますので、ぜひお越しいただきたいと思います。
資料の紹介をさせていただきます。重要美術品「豊
臣秀吉自筆辞世和歌詠草(図 2)」は昭和 33 年に購入
上:図 4 賤ヶ岳合戦図屏風
しました。最初にご覧いただいた「大坂夏の陣図屏風」
下:図 5 賤ヶ岳合戦図屏風(部分拡大)
もこれと同じ年に購入しております。
次は、秀吉ではなく家康の画像です(図 3)。こちら
も豊臣時代の資料として購入しています。家康も大坂
に来て、秀頼の後見を務めています。そしてその後、
関ヶ原で石田三成と戦い、しばらく後で豊臣家を滅ぼ
す人物です。当館では信長・秀吉・家康の三傑の時代
の資料も収集していこうと極力努めております。
し ず が たけ
「賤ヶ岳合戦図屏風(図 4)
」は、秋に開催されます
「再発見!大阪の至宝」展(以下「至宝展」
)に出品す
図 6 幕末大坂城 湿板写真原板
る予定でございます。下の図は有名な七本槍の場面を
描いています。屏風全体は大きいものですので展示し
ているとなかなか見にくいかもしれませんが、こういう箇所(図 5)を探して見つけていた
だくと楽しいかと思います。
こちら(図 6)は「大坂城」がテーマの資料です。幕末の大坂城を撮った湿板写真です。
今では失われた大坂城の姿を見ることができます。本丸の東側の内堀の際、そのすぐ西側に
やぐら
三層の 櫓 が建っていました。これらは幕末の戊辰戦争で焼けてしまいました。写真で見ます
と本丸の東側には二の丸と違って三層の櫓が建っていたことがわかります。
ふ
じ ご し ん か もん く ろ き ら し ゃ じ ん ば お り
「武器及び武具」として、こちらの「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(図 7)」も「至宝展」
に展示いたします。桃山時代の陣羽織は奇抜なデザインが多く、特にこちらは現代でも通じ
いろいろおどし に ま い どう ぐ そ く
るようなデザイン性を持っていると思います。
「色々 威 二枚胴具足(図 8)
」は、秀吉の側近
が揃いのユニフォームの様に使用していたものだという伝承があります。家康の側近が使っ
ていた可能性もあります。というのは、実はたくさん現存しておりまして、こちらは館蔵品
ですが、当館でも個人の方からの寄託品で同じものがありますし、同じものがヨーロッパに
も渡っています。たくさん作ったうちの 1 つと理解していただけたら結構です。
13
図 9 菱垣新綿番船川口出帆之図(芳豊図)
南木コレクション(上方郷土庶民資料)
左:図 7 富士御神火文黒黄羅紗陣羽織
(伝豊臣秀吉所用)
右:図 8 色々威二枚胴具足
「大阪の郷土史」では、こちら(図 9)が「南木コレクション」のうちの 1 つです。これ
も「至宝展」に展示させていただくことになっています。江戸時代の大坂が非常に繁栄して
ひ がきかいせん
いて、大坂から江戸へ菱垣廻船でたくさんの物資を運んでいた賑わいを今に残すものです。
今までたくさん見ていただきました。こちら(図 10)は「秀吉と桃山文化」という図録で
す。秀吉と桃山時代のコレクションをほとんど掲載しております。写真も大きく扱っていま
すし、解説も付いています。この図録をご覧いただきますと当館のコレクションの一端が分
かっていただけると思います。宣伝も兼ねましたが、大阪城天守閣のコレクションの話を終
わらせていただきます。ありがとうございました。
図 10 「秀吉と桃山文化」図録 1500 円
14
各館の特徴あるコレクション
大阪市立東洋陶磁美術館
館長 出川 哲朗
東洋陶磁美術館の出川です。よろしくお願いいたします。東洋陶磁美術館は、平成 24 年度
に日本建築家協会の「25 年賞」を受賞しました。25 年以上経った建物について、建築当初
の状態を保ちながら、有効活用されていて、今後も永続的に使われる建物ということで、非
常に貴重な賞をいただきました。築 30 年以上になりますが、古びず、今なお現役で今後も使
用できるという賞です。
収蔵品は約 6,000 点ほどになりますし、主要なものだけでも 2,500 点ほどになります。韓
国陶磁が 1,200 点、中国陶磁が 700 点、日本陶磁が 600 点といった構成です。すべてをご報
告するのは時間がかかりますので、主なコレクションをご説明いたします。
最初に当館の核である「安宅コレクション」です。レジュメ(P.46,47)に記載しています
ので、簡単にご説明します。このコレクションが集められたのは昭和 26 年から。戦後ですか
ら、これらを集めた美意識が注目されます。つまり、20 世紀後半の名品主義とはいかなるも
のであるか。
「安宅英一の眼」という展覧会では、歴史主義で網羅的なものというよりも、彼
が集めた時代の美意識で一番良いと思われるものを集めました。図録の表紙(図 1)は、油
滴天目を真上から見た写真です。
イ・ビョンチャン
また、韓国陶磁のコレクションとして、在日韓国人の 李 秉 昌 博士によって収集された「李
秉昌コレクション」は、コレクションルームを別に造って展示しています。
「入江正信コレクション」は非常に特殊なコレクションです。お酒が大好きな方で、お猪
口や盃など酒器に集中して集められました。名品主義とは対極で、趣味的な集め方ですが、
通史的なセレクトをされています。また、使える器ばかりを集められて、すべて自分でお酒
しゃく
を入れて飲まれたとうかがっております。図録の表紙(図 2)は中国明時代の 爵 という白磁
を載せておりますが、こちらも実際に使われたそうです。
「堀尾幹雄コレクション」、堀尾幹雄氏は濵田庄司と親しい方で、濵田作品に限定して集中
的に集められています。さらにそ
の周辺の民芸運動にかかわる作
品も集めました。濵田庄司に関し
ては、有数のコレクションになっ
ています。
「高田早苗コレクション」、テヘ
ランに御主人が赴任されていた
ため、ペルシア陶器を中心に現地
で収集されています。現在では手
に入らない質の高いコレクショ
ンです。
図 1 『安宅コレクションの至宝』
15
図 2 『中国陶磁に遊ぶ』
「鈴木正男コレクション」、浅川伯教氏の娘婿にあたる方のコレクションをいただき、大規
模な展覧会を開催することができました。
「東畑謙三コレクション」、建築家の方です。中国陶磁 2 点と数は少ないですが、重要文化
財を含む 2 点の価値は非常に高いものです。
うさときん じ
はくとうろ
「卯里欣侍(号「白檮盧」)コレクション」、今年の夏に展覧会を開催する予定です。この
方は文人気質の方で、自分の好きなもの、気に入ったものを集めていくタイプのコレクター
です。名品主義ではありませんが通史的なものを集められています。
「福島サトコ氏寄贈川崎毅作品」、現代陶芸のコレクションです。福島さんは普通の会社員
のかたで、代金だけ美術商にローンで払い、作品は一度も手元に置かずに当館のために購入
し、ご寄贈いただきました。美術館支援のありかたとして、信念のあるさわやかさを感じま
した。
「清水保孝氏寄贈清水卯一作品」、清水卯一さんという重要無形文化財保持者のご遺族の方
から一括でいただいたコレクションです。
そうよう
「宇野眞理栄氏寄贈宇野宗甕コレクション」はレジュメ(P.47)のとおりです。
び えん こ
「沖正一郎コレクション」、鼻煙壺のコレクションです。東京にお住まいの方ですが、一括
して 1,200 点をご寄贈いただきました。何度も展覧会を行っていますが、1,200 点すべて紹
介するのは難しいので、200 点を掲載した図録を作りました。常設展示では常時約 150 点を
展示しています。
コレクションは、ご寄贈いただいた時にはコレクターの個人的な美意識が反映されていた
り、あるいは歴史主義と言いますか特定領域の網羅的なものであったり、作家のコレクショ
ンであったり、さまざまな個性がございます。それらを理解したうえで、当館はこれらの作
品を美術館として多くの人々に鑑賞してもらえるような展示を心がけております。本日のテ
ーマ「ミュージアムがどのようにコレクションを活用しているか」ということを、学芸員の
役割としては、どうやって新しい展示にしていくか、過去のコレクションを歴史的に相対化
とび せ い じ はないけ
して新しい価値を見出し、新しい知見を得るかが常に課題です。実際に、国宝飛青磁花生は
寄贈の時は南宋時代とされていましたが、きちんと調査すると元時代のものだったという例
もございます。このように、新知見を踏まえ感性的にも非常に満足できるものを目指して展
示していこうと思っております。
ミュージアムが作る未来というのは結局、個人コレクターがある意図を持って収集したも
のを美術館に集め、コレクションの集大成として構成してゆくのものだと思います。ミュー
ジアムが創造する価値もあるのだということを示してゆきたいと思っています。当館の核に
なっている安宅コレクションも 20 世紀初頭のモダニズムです。昭和初期、1930 年代 1940
年代にアメリカあるいはイギリスで起こったコレクション活動をそのまま真似たスタイルで
す。これが明治時代のコレクションだったら違うものになっていたでしょう。また、現代の
評価では、あるものは非常に上がり、あるものはそんなに上がっていません。コレクション
は集めた時代の意識・意義を反映していますが、ミュージアムは時代が変わっても変わらぬ
価値を見出してゆくものではないかと思います。
「至宝」ということですので、国宝について申し上げます。国宝に指定されている工芸品
16
は、日本に 252 点あります。国宝 1,082 点のうちの 252 点、つまり 4 分の 1 が工芸品です。
大阪にある国宝は 55 点で、そのうち 22 点が工芸品です。国宝の所蔵数でみれば藤田美術館
が 9 点と圧倒的に多く、徳川美術館と並び、東京国立博物館の 87 件に次ぐものです。武田
科学振興財団は 3 点、当館は工芸品 2 点(油滴天目茶碗・飛青磁花生)が国宝です。国宝に
指定されている中国陶磁は 8 点ですが、そのうち 2 点が当館にあるということになります。
陶磁器だけを見ると、韓国陶磁の国宝は 1 点しかありません。日本陶磁の国宝は 5 点ありま
す。当館には 2 点の国宝と 13 件の重要文化財が収蔵されています。
時間となりましたので終了させていただきます。ありがとうございました。
【国宝・重要文化財 指定文化財の件数】
種別/区分
重要文化財
絵画
158
1,974
彫刻
126
2,654
工芸品
252
2,428
美
術 書跡・典籍
工
芸 古文書
品
223
1,882
60
739
考古資料
44
586
歴史資料
3
167
866
10,430
(264 棟)
(4,468 棟)
216
2,386
1,082
12,816
計
建造物
合計
国宝
【都道府県別】
国
美
宝
術 工
芸 品
絵画 彫刻 工芸 書跡 古書 考古 歴史 計
東
京 63
2
93
85
16
15
274
京
都 43
37
15
53
27
3
178
大
阪
9
4
22
15
2
3
55
奈
良
9
69
35
11
1
8
133
≪文化庁 HP(http://www.bunka.go.jp/bunkazai/
shoukai/shitei.html)より一部加工≫
17
各館の特徴あるコレクション
大阪市立自然史博物館
学芸課長代理 金沢 至
大阪市立自然史博物館の金沢です。当館のコレクションについて説明させていただきます。
当館の資料数は、最新の集計で 150 万点を超えました。非常に多くの標本が集まっています。
「人と自然の関わり」というのが当館のメインテーマですが、その自然の歴史を市民ととも
に考えるということをキャッチフレーズにして、地道に活動してきたことが、この点数につ
ながったのではないかと思います。
けんかどう
当館の一番有名なコレクションは、大阪府指定文化財「木村蒹葭堂貝石標本(図 1)」です。
貝や変わった石が重箱にきれいに収められています。美術品としても価値の高いコレクショ
く ろ だ すいざん
ンです。大阪市指定文化財「畔田翠山押し葉帖(図 2)」は、紀州藩士の畔田翠山が熊野や大
峰・大台の山、高野山などで植物を集め、きれいに
台紙に貼ったさく葉帖。日本で現存する最古級のも
ので非常に貴重な標本です。
本日お配りした資料の末尾の表(P.56)に自然史
博物館という名前が出てこないように(注 1)当館
は新しい博物館です。1950 年に展示開設を大阪市
立美術館で行い、自然科学博物館の名前で西区靭に
移転しました。1974 年に靭から長居植物園の中に
図 1 木村蒹葭堂(1736-1802)貝石標本
(大阪府指定文化財)
移転し、現在の自然史博物館になりました。当時、
「自
然史」という名前をつけた日本で最初の博物館だったと思います。その後、今から 12 年前に、
「花と緑と自然の情報センター」がオープンしました。以来、それぞれの分野ごとに収集方
針を定め資料を集めております。
他に貴重な標本と申しますと、
「タイプ標本」です。論文で新種記載する際に標準となる模
式(基準)標本を指定する必要があります。その模式標本を博物館などの公的機関が保存す
る義務があるということで、昆虫などは 500 点以上所蔵しています。こちら(図 3)は博物
館の HP に掲載されている写真です。昆虫に関しては背面、側面、腹面の 3 方向から写真を
図 2 大阪市指定文化財
畔田翠山(1792-1859)さく葉帖
18
図 3 ヤクシマクロギリス
の完模式標本
撮り、HP で公開しています。海外の研究者から標
本を送ってほしいという依頼もありますので、なる
べく写真で公開して写真で判断していただくことを
考えています。
「証拠標本」が最近注目されています。日本では
そこまで要求されませんが、アメリカの学会誌では
研究に使った標本の保存場所を明記しないと論文を
図 4 プレパラート標本
掲載しないようになってきています。証拠標本の 1
例には、三木茂コレクションがあります。三木さんは生きた化石植物メタセコイアの発見で
有名ですが、このコレクションに膨大な数の証拠標本が入っています。それから、タイプ標
本もかなり含まれています。写真のように 3 万枚のプレパラートがきっちり保存されていま
す(図 4)
。
かつて自然科学博物館後援会(友の会の前身)というのができました。大阪自然科学研究会と
なり、三木先生は研究会の会長でした。なにわの町人学者のグループがありまして、それが
ナチュラリストの系譜ではないかと思いますが、その中に緒方洪庵の直系の子孫である緒方
正美先生(蛾の研究者として有名)、陸水生物学を確立した上野益三先生、「世界の昆虫」を著
した阪口浩平先生、クモ学の八木沼健夫先生などがおられ、博物館を応援してくださいまし
た。
「Natural History(博物学)」というのは自然史の元の名称ですが、古い学問ではなくて、
最近の環境科学的なところを自然史博物館としても重点的にやっていかないといけないと考
えています。
資料数については、節目でどれだけ増加しているかを館報(1963 年が第 1 号)から調べた
ところ、1975 年に長居に移転した時に増加点数が年に 11,676 点でした。花と緑と自然の情
報センターオープン時には 3 倍くらい増えています。それ以来、色々な方からの寄贈が増え、
年間 41,596 点と点数が急増しています(図 5)
。私は昆虫担当ですので、宣伝させていただ
くと、昆虫標本が 3 分の 2 ほど占めています。特に甲虫の仲間(カブトムシ、クワガタムシ)
が 125,378 点と多いです。他には、蝶、蛾、ハエ、ハチの標本が多くあります。こちら(図
160
万
140
増加
41596 点/年
120
100
植物学部門
昆虫学部門
動物学部門
地学部門
増加
80
30182 点/年
60
40
増加
11676 点/年
20
図 50 資料数の急増
19
6)は、外国産の蝶類標本です。軽井沢に住んでおられた
ポール・ジャクレーという有名な版画家が、版画のテーマ、
色合いを参考にするために外国のきれいな蝶をたくさん集
めておられました。それを自然科学博物館時代に緒方正美
さんが紹介してくださり、購入したものです。
花と緑と自然の情報センターでは無料で色々な調べもの
ができます。地下が収蔵庫になっています。こちら(図 7)
図 6 ポール・ジャクレー
チョウ類コレクション
は岡村宏一さんのコレクションです。同一規格の箱で収蔵
されています。植物は台紙に貼りつけて、順番に並べて保
管されています(図 8)
。こちら(図 9)は標本をアルコー
ル溶液などで保存した液浸収蔵庫です。こちら(図 10)は地質標本(ボーリングコア)です。
ビルを建てる時に大阪の地下の地質の状態を調べたものが博物館に収蔵されています。今回
の発表は非常に短時間ですので、150 万点もある中で紹介しきれませんが、HP にはある程
度公開しておりますので見ていただくことができます。主なコレクションはこれだけあって
(図 11)、それぞれのコレクションをクリックしていただくと、写真と説明が出てきます。
第四紀研究室は「人と自然の関わり」を主要テーマとしている当館独特の研究室です。学
芸員は 2 名しかいませんが、大阪地下のボーリングコア資料が急増し、有史以前の大阪の姿
が明らかになってきています。第 2 展示室とオリエンテーションホールには、更新世に大阪
に生息していたマチカネワニ(図 12)(豊中市待兼山の大阪大学理学部工事現場で発見され
たもの)が展示されています。靭時代は外に展示してあったクジラの骨格標本(図 13)は、
現在は第三展示室に展示してあります。また、博物館のポーチには大阪湾で打ち上げられた
ナガスクジラの骨格標本(愛称「ナガスケ」)が吊られていますので、自然史博物館はクジラ
の骨格標本のイメージがあるかもしれません。
これら収集活動のほかに野外行事もたくさん行っています。
自然に関心のある市民を誘い、アマチュア研究者を楽しく奥深
い道へと誘っています。多くの市民サークルを育成し、友の会
会員からナチュラリストへの道を開いたことがコレクションの
急増につながったと私は考えています。以上です。
注 1:当日配布した表は 1962 年まで。本記録集ではそれ以降の情報を追加し
ている。
左:図 7 岡本宏一氏コレクション
中:図 8 台紙に貼りつけられた植物標本
右:図 9 液浸収蔵庫と標本瓶
20
図 10 地質標本(ボーリングコア)
図 11 自然史博物館 HP より、主なコレクション
図 13 クジラの骨格標本
図 12 マチカネワニの骨格標本
21
各館の特徴あるコレクション
大阪文化財研究所
所長 長山 雅一
みなさんこんにちは。大阪文化財研究所(以下、研究所)長山でございます。研究所は博
物館施設ではありませんので、発掘で得られた調査成果は大阪歴史博物館に展示しておりま
す。たとえば博物館 10 階に古墳時代の船形埴輪があります。重要文化財に指定されたもので
すが、研究所の所蔵品ではありません。研究所は発掘調査をする機関ではありますが、出土
した文化財は大阪市教育委員会の所蔵になり、研究所はそれらを責任もって保管・管理する
という立場です。毎年出土する遺物の量は膨大で、収蔵庫は数ヶ所に分散し、登録作業や輸
送が大変なのですが、小さな破片でも大阪の歴史ですから、すべてを保管している状態です。
さて、今日、私は「大阪文化財研究所とは一体何か」ということと、本日の「ミュージア
ムとコレクション」との関係や「未来へ成長する」ということが、どこで関わるのかという
ことをお話しなくてはいけないと思っています。
研究所は 1979 年に大阪市文化財協会という名前でスタートしました。ちょうど我が国でも
土地の開発が進んで埋蔵文化財が破壊されだしたころで、それを何とか止めて保存しなくて
はいけない、という目的でつくられた組織です。それが 30 年余り経って大阪文化財研究所に
なにわのみや
なりました。大阪市文化財協会発足の端緒となったのが難波宮(図 1)です。先ほど大阪城
天守閣のご報告で出てまいりましたが、天守閣に所蔵されていた瓦が難波宮の発見につなが
りました。瓦が見つかったのが 1913 年、今年で 100 年目にあたります。配布資料の末尾の
表(P.56)にある「博物場」にその瓦が展示されたことがありまして、それを山根徳太郎先
生がご覧になり、難波宮の調査へとつながって行くのです。山根先生が始められた発掘調査
は大阪市と大阪市文化財協会へ引き継がれ、今日の大阪文化財研究所に至っています。
大阪市文化財協会設立以降、大阪市内の各地で発掘調査が行われました。年間 100 件以上
の調査が毎年のようにあります。発掘が始まった最初のころは難波宮の周辺だけだったので
すけれども、船場地域の発掘も行われるようになりました。道修町では江戸時代の魚市場の
跡が見つかり、魚の名前が書かれた木簡が大量に出てまいりました。そこで調査を進めてい
きますと、下層から大坂城を築城したころの銅の鋳造遺跡が見つかったり、豊臣時代の色々
なことが分かってきました。その土地を所有する第一製薬の大阪支所長が大変理解のある方
でして、近辺のビルの所有者に「このあたりは大変重要な所だから、工事をするのであれば
教育委員会へ行って相談するように。
」とアドバイスをされたようです。私はその頃、大阪市
教育委員会におりましたので、そういう方たちとお話をして、いくつもの発掘調査にご協力
いただくことができました。発掘の成果は大坂城下町の解明のために非常に重要な資料にな
っています。
そのころよく言われた問題が、
「私の土地に私のお金でビルを建てるのに、ここで出てきた
ものをどうしてくれるのか。
」という話です。大阪の人らしい発想です。文化財保護法では「文
22
化財は国民共有の財産なので、あなたのものではありません。」ということなのですが、その
ように申し上げるとお怒りになられるかたもいらっしゃいました。けれど、なかには「それ
なら、建設する新しいビルで陳列ケースを作るので、出てきた遺物を貸してもらえるか?」
と言うかたもおられ、文化庁とも相談していくつか展示を実現させました。たとえば扶桑薬
品。道修町の製薬会社ですが、本社ビルに桃山時代の焼物を展示させていただいています。
中之島の味の素グループ大阪ビルでは、建物の外からも見える展示施設を造られました。大
阪という土地柄は、うまく乗ってくれればどんどん協力していただける面白いところがあり
ます。何十年も経って、調査協力いただいたかたに久しぶりに道でばったり出会って、
「あな
た何してるの?あの時は、えらいやりあいましたな。せやけど、あの時やっといてよかった
わ。」と言ってくださいます。大阪にはそういう文化を育ててくれる芽があるんだということ
を、私は自信を持って言えます。また、研究所の調査が発端となって街の中に何等かの形の
ミニ博物館が生まれているということもたいへん嬉しいことです。
そこで、私がもう 1 つお話をしなくてはいけないことがあります。その基を作ってくださ
った山根徳太郎先生のことです。ある意味では、この方に勝る大阪の至宝はないのではない
かという気がします。山根先生は大阪生まれ大阪育ち、西区堀江ご出身です。中学校で物部
氏の廃仏にかかわる「難波の堀江」の話を聞かれ、
「私の住んでいる堀江ですか?」と尋ねた
ところ、学校の先生は、
「そんな所ではない。
」と言われ、
「どこですか?」と聞いたら「分か
らない。
」と言われたそうです。そこで、わからないのなら自分で調べるしかないと思われた
そうです。古代史に興味を持った山根先生は、後年、中央区法円坂付近こそが難波宮である
と推定するに至ります。すぐにでも調査を始めたかったのですが、その場所は陸軍第八連隊
の駐屯地であったため発掘する訳にいきません。先ほどの天守閣に所蔵されていた瓦も第八
連隊兵舎の工事中に出たものです。やむを得ず山根先生は戦争が終わるまでじっと待ってい
ました。
やがて日本は戦争に負け、軍関係の土地が解放されて発掘調査が可能になりました。けれ
ども同時に開発も進み、先ほど脇田先生がビルの屋上で寒い日に 1 時間も話を聞いておられ
た場所、そのようなビルが建っていく過程で難波宮のようすが徐々にわかってきました。山
根先生は大阪市立大学の教授を務めておられましたが、大学を退官後もずっと毎日のように
弁当持参で杖をつき、ビルの工事現場を歩かれました。あるとき、仲よくなった工事作業の
おじさんから、模様のついた大きな瓦が見つかったということを知らされます。多分、作業
し
び
員さんはそれを鴟尾とはわからなかったと思いますが、変な瓦が出てきたということで先生
を呼び止めて見せたそうです。「これは鴟尾だ。
こんな大きなものが出るのは宮殿しかない。」と、
先生は大いに驚かれました。そこで大学の研究会
に持ちかけて、お金を集めて発掘調査を始めまし
た。それが 1954 年のことです。もう 60 年近く
なろうとしています。
そんなふうに発掘が始まる訳ですけれども、私
は山根先生という人の偉大さが今になって分か
23
図 1 史跡難波宮公園と大阪歴史博物館
りました。先生にお会いした時にはそれほど感じなかったことですが、何かと言うと、先生
は、発掘調査する時にきちんとした手順を踏もうとなさっていたことです。よく学生に、
「考
古学は科学である。サイエンスだ。だから、仮説をたてることによって、それを実証するた
めに発掘をしている。君たちはそれを忘れてはいけない。」ということをおっしゃいました。
先生は雨が降ったら学生を集め、
「20 世紀初頭、梅毒の薬は 606 回の実験を経て、やっと見
つかったのだ。
」というお話をされました。私は「何でこんな話しはるんやろう?」と思って
いました。今考えると、物事を探求して解決するためには、そういう粘り強い取り組みが必
要だということをおっしゃりたかったのだと思います。それから今回、
「至宝展」で展示させ
ていただく資料の中に、木越さんという学習院大学の先生の手紙があります。木越教授は日
本における放射性炭素年代測定の第一人者で、山根先生は難波宮の資料を送り、当時まだ新
しい技術であった C14 測定法で遺跡の年代を決めようとなされたようです。1960 年以前の
話です。さらに上町台地にはどんな植物が生えていたのか、どういう生態であったのか知る
ために、先生は地下から採った土を分析するという作業をなさいました。先ほど自然史博物
館の方が三木茂先生の話をなさっていましたが、三木先生の所へも資料を届けておられまし
た。考古学者でありながら、考古学だけでなく非常に幅の広い研究を試みられました。必ず
しも成功したとは限りませんが、色々な新しい研究を取り入れようとされ、周りをとりまく
研究者の方のお力で難波宮の研究が盛り立てられたのだと思います。そういうことをやられ
た先生は、ある意味では大阪の至宝ではないか、この宝である先生の学問を我々はどう受け
継いでいくのか。それがこれから私たちに与えられた大切な使命であると思っています。
先生は地味であり、非常に頑固な方でした。奥様のお言葉を借りますと、
「但馬のこって牛」
だと。今、但馬牛は美味しいお肉だということになってしまいますが、先生のご先祖は但馬
ご出身で「但馬のこって牛、この人は言い出したら聞きませんよ。
」と、おっしゃっていまし
た。三宅米吉という先生の先生が書かれた「謙退保身」という額があるのですが、それをご
自分の居間の上にかけておられ、私どもが行きますと前に座らされて話が及ぶ訳です。
「君た
ちは、自分たちを大事にするばかりではなくて、身を慎んできちんとした将来の展望を持っ
た仕事をしなさい。そういうことができないようではだめだ。
」と、よく叱られました。そう
いうように非常に厳しい方でしたけれども、その厳しさが難波宮の発見につながったと思っ
ています。
先生は本来、研究者なのか、中学校の教師も経験されたから教育者なのか、あるいは発掘
調査資金を集める手腕を持った実業家なのか?ということで先生の持っている色々な資料や
手紙を全部調べた方がいます。結果、先生はすべての要素を兼ね備えた人であったと言わざ
るを得ません。ところがその中には、先生と奥様が一年間取り交わされた袋いっぱいのラブ
レターも含まれていて、活字本になって出版されています。もしよろしければお見せします
が、4 ㎝くらいの厚みで 3 冊もあります。一年の間に書いておられるので、アホらしくて読
んでいられませんが(笑)
。そういう一面もお持ちの方です。
山根先生からすると、我々は 50 年以上も若い世代になってしまいました。ここで先生のご
意志を継いでがんばっていくこと、それが我々、研究所の課題ではないかというふうに考え
ております。これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
24
各館の特徴あるコレクション
大阪市立美術館と
特別展「再発見!大阪の至宝」
学芸課長 守屋 雅史
私に与えられたテーマは、大阪市立美術館のコレクションの紹介と、私どもの美術館で秋
に開催します「再発見!大阪の至宝」展(以下「至宝展」)の概要を説明することです。
最初に、大阪市立美術館について少しご紹介させていただきます。住友家〔第 15 代住友吉
ともいと
しゅんすい
けいたくえん
左衛門(住友友純、号: 春 翠)氏〕から、本邸跡地と慶沢園(図 1)という庭と茶臼山を大
阪市に寄贈していただきました。ただし、本邸の跡地には美術館を建設することが条件で、
大阪市がそこに建物を建てて、大阪市立美術館として昭和 11 年に開館しました。そういう経
緯のもとに、私どもの美術館は設立されました。当時どのような美術館にするか色々な議論
がありましたが、最終的には展示と収集方針については洋の東西を問わず、時代の新古を問
わず、いわゆる総合美術館としてやっていきなさいということで始まりました。当初は、大
阪市立美術館が主催展を行うコーナー、今でも北館と呼んでいますが、中央のホールを挟ん
で北側の 1 階と 2 階、それと南側の南館は大阪市の色々な美術団体に会場をお貸しして展覧
会をしてもらう、そういう 2 つの側面をもつ美術館としてスタートしました。開館が昭和 11
年(1936 年)ですので、80 年近くの歴史があります。
りんせんかいゆうしき
慶沢園は、林泉回遊式近代日本庭園という言い方をしますが、泉(慶沢園は池に近いです
が)の周囲の木立ちの中をぐるりと一周できるような庭園というものであります。茶臼山と
かわぞこいけ
隣接する河底池(図 2)でありますが、茶臼山は住友さんのお庭の一画にあったちょっとし
あらはか
た山です。昔から古墳ではないか、四天王寺の文献に出てくる荒陵ではないかと言われ、今
では指定史跡になっている所です。先ほどの大阪文化財研究所が何回か発掘調査を行いまし
たが、なかなか古墳の証拠が見つからず、大坂夏の陣と冬の陣の陣屋跡の遺物が出てきまし
た。そういう意味での歴史的な遺跡にはなっています。
私が大阪市立美術館に来た頃に「じゃりんこチエ」という漫画を読んでいたら、小鉄とい
う猫が一生懸命トレーニングする場所が、実はこのあたりではないかと言われていますし、
ヒラメちゃんという女の子が絵画で表彰される表彰式に友人のチエちゃんと父親の鉄が一緒
に行きますが、天王寺公園の透かしのあるような塀をずっと行きますから、これはもしかし
図 1 慶沢園
図 2 茶臼山と河底池
25
図 3 池上四郎銅像
たら大阪市立美術館かもしれないと思っています。表彰場は 3 階
の大講堂ではないかと。実際に作者に確認したことがないので分
かりませんが、そんなこともあるかもしれません。
それから、天王寺公園には池上四郎さんという市長の銅像(図
3)があります。就職した当初、
「何でこの人の銅像がここにある
のだろう?」と思っていましたが、よくよく調べていくと、大正
図 4 屋根瓦
9 年に大阪市の議会で大阪市立美術館を建設することが決定され
ましたが、その時の市長が池上四郎さんでした。また、天王寺公
園内で住友家の面影が唯一残るのが、美術館前の小さなお蔵の屋根瓦にある住友家のマーク
(図 4)だけです。現在の美術館の周辺には、こうしたエピソードがいろいろとあります。
さて、大阪市立美術館には様々なコレクションがあります。今日は、
「至宝展」関係として
9 つの大きなコレクションを紹介させていただきます。
ふさ じ ろ う
最初は「阿部コレクション」です。東洋紡の社長さんだった阿部房次郎氏が寝食を忘れて
集めた中国書画の一群です。当時、中国から様々な絵画が日本の古美術商に入ってきました。
そういうものを丹念にコレクションして美術品群としての 1 つの塊を形成されました。最終
的にはどこか美術館や博物館に寄贈したいというお気持ちがあり、最初は東京の国立博物館
にもらってくれないかというお話をされたそうです。しかし、当時の東京国立博物館は帝室
博物館でしたので、所蔵品は皇室の持ち物にふさわしいものに限られます。そのため「阿部
さんのコレクションをセレクトさせてほしい、ある物はいただかないということでどうだろ
うか。」という話をされたそうです。その時に交渉にあたられたのはご子息の孝次郎氏ですが、
それでは父の意図にそわないということで寄贈を諦めました。そこで、私どもの美術館に事
情をお話になり、大阪市立美術館に寄贈するということに決まりました。それが昭和 17 年の
ことです。もうじき戦争が本格的になる、そういう時代にコレクションが大阪市立美術館に
入りました。阿部コレクションは世界的にも知られておりまして、実は、
「至宝展」の計画が
始まった去年、今年などは、本場の中国からも何点か貸してほしいと言われ、平成 24 年度に
図 5 重要文化財 明妃出塞図(部分)宮素然筆
金時代〔12~13 世紀〕後期展示
図 6 遠岫晴雲図 米友仁
南宋・紹興 4 年(1134)
前期展示
図 7 花卉図冊 惲寿平
清時代〔17 世紀〕
26
図 8 東坡詩意図冊 石濤
清時代〔17~18 世紀〕
は香港で大々的な展覧会をさせていただきました。平成 25 年にはイギリスのヴィクトリア&
アルバートミュージアムで中国絵画の展示をするということで、宋元時代の絵画を何点か出
品します。すべてそちらに出てしまうと「至宝展」に展示する宋元時代の絵画作品がなくな
るので、担当者に「なんとか出品してほしい。」と交渉して、今回、半期だけですけれども、
み ん ひ しゅっ さ い ず
べいゆうじん
「明妃 出 塞図(図 5)
」を「至宝展」で展示します。それから、米友仁の山水画(図 6)も半
期だけですが、陳列させていただきます。阿部コレクション自体は、宋元時代から明清時代
を代表する中国絵画の優品が 160 点そろっています。きれいなお花を描いた作品(図 7)で
あるとか、清々しい山水図(図 8)であるとか、そういうものも「至宝展」では出品する予
定です。
それから、2 番目にご紹介するのは「山口コレクション」です。山口謙四郎氏という方が
戦前から収集された中国石仏と中国工芸を中心としたコレクションです。この方は、非常に
研究肌の方でありました。私どもの美術館がこの方とお知り合いになりましたのは、私が就
職するすこし前に、中国美術展シリーズという 5 回にわたる中国美術の展覧会を開催したの
がきっかけです。その時に初めて山口謙四郎氏のコレクションをご遺族の方から見せていた
だき、その中から中国の石造彫刻と工芸品を購入させていただくことになりました。ここで
は工芸品の中で漢代の青銅器(図 9)
、明代の陶磁器(図 10)を紹介しておりますが、なか
でも注目されるのは石仏類(図 11)です。ご自宅でコレクションの石仏の調査をしたわけで
すが、そんなに数が見当たらない。
「おかしいですね、文献によると山口さんはかなりのボリ
ュームの石仏をご所蔵しておられるはずなのですが。」、ご遺族の方も不思議がられ、
「ちょっ
と調べてみます。
」ということになりました。実は、謙四郎さんはアメリカの進駐軍が来ても
石仏を没収されないように、主だった石仏をすべて床下に収蔵しておられたのです。床下に
もぐってみたら、石仏がごろごろしていて、それを畳の部屋にあげて調査をさせてもらった、
すごい宝の山だったと先輩方から聞いております。
また近年、小野薬品工業の会長であった小野順造氏が収集した中国石仏「小野コレクショ
ン」(図 12)をご遺族から購入させていただきました。先ほどの山口コレクションにはあま
せっくつ
り石窟寺院関係の品がなく、単独の仏像が多かったのですが、小野さんのコレクションは石
窟関係の石仏作品で、これらが美術館の所蔵品となることにより、当館が所蔵する中国の石
仏・石造彫刻のコレクションは、世界 1、2 位のレベルまで大きくなっていきました。このす
ばらしいコレクションを「もっとアピールしなさい。
」とよく叱られます。今回の展覧会でも
中国石仏の魅力というものを十分にアピールしてゆきたいと思いま
図 9 青銅 人物鳳凰飾龍把香炉
後漢~東晋時代
〔2~4 世紀〕
図 10 豆彩 瑞果文鉢 景徳鎮窯
明時代・万暦期
(1573~1620)
27
図 11 石造 菩薩交脚像龕
北魏時代〔5 世紀〕
す。
し こさい
別の中国関係では、師古斎コレクションをご紹介します。師古斎という名前は号で、本名
は岡本蓉二郎さんとおっしゃる銀行マンの方で、ご自身も色々な拓本をとられます。中国の
碑刻拓本がお好きで、少しずつ買われては楽しんでおられたものを一括で私どもが購入させ
てんぱつしんしん ひ たく
ていただきました。ご紹介しているのが「天発神讖碑拓(図 13)」という、なかなか読むの
が大変な漢字の作品ですが、中国の三国時代の呉という時代に作られた碑文です。石碑その
ものは失われてしまいましたので、拓本でしか碑文の内容を知ることができないので貴重で
あり、その拓本も 3、4 点しか現存しないと言われています。この拓本を師古斎さんがご覧に
なり、お父様から受け継いだ不動産等を売ってでも手に入れようと思い立ち、購入されたら
しいです。奥様はそのいきさつをご存じなく、
「あの家を売って私がもらえたのはこれだけ?」
と言って嘆いておられたそうです。コレクター魂としてはそういうこともあるかもしれない
なと思います。
それから、日本美術を中心としたコレクションとしては、
「田万コレクション」がございま
きよおみ
あけ こ
す。大阪で衆議院議員・弁護士として活躍した田万清臣氏と明子氏ご夫婦が収集されたコレ
ただし
クションで、子息 侃 氏からも追加寄贈していただきました。清臣氏ご自身はどちらかと言う
と庶民的な部分で政治活動をされた方です。奥様は、病院の経営などに携わりながら、貧し
い人たちの救済など色々と活躍をされました。美術を通じて人々の心を満たしたいというお
考えで、膨大なコレクション 663 点をご寄贈いただきました。日本の絵画と仏教美術がコレ
クションの中核です。絵画では「四季花鳥図(図 14)」を中心とし、仏教美術では金銅仏・
だ
き にてん ま ん だ ら
木彫仏、それから絵画、経典などに特に優れたものがあります。
「荼吉尼天曼荼羅図(図 15)」
は 15 世紀の作品ですが、稲荷信仰の発生を象徴的に捉える品として、中世の色々な研究の中
でリクエストされることが多い作品でもあります。
図 12 左:石造 如来立像頭部
龍門石窟奉先寺洞 唐時代〔8 世紀〕
右:石造 如来坐像頭部
龍門石窟敬善寺洞 唐時代〔7 世紀〕
図 14 重要美術品
四季花鳥図
図 13 天発神讖碑拓 原碑:三国・呉・天璽元年(276)
狩野宗秀 桃山時代〔16 世紀〕
28
図 16 九曜紋源氏物語蒔絵手箱
江戸時代〔17 世紀〕
図 17 象牙彫根付 粟に鶉 岡友銘
江戸時代〔18 世紀〕
田万コレクションの寄贈から少し経った後で、3 年に渡って購入さ
せていただいたのが「カザールコレクション」です。蒔絵調度(図
16)や近世装身具(図 17)などがあります。ウーゴ・アルフォンス・
カザール氏はスイス出身で、神戸で貿易商の代理人として長らく活
図 15 荼吉尼天曼荼羅図
室町時代〔15 世紀〕
動されていました。彼はコレクションをスイスに持ち帰るために、
神戸港の倉庫に一括して預けていたのですが、戦争によって文化財を海外へ持ち出すことを
禁止されてしまいます。倉庫に置いたままにもできず、どうしようとなった時に、
「私どもで
お預かりしましょうか?」とお声をかけたのが当館でした。当時はそれを活用するというよ
りは、預かることが目的でした。また、コレクションの内容が近世・近代の貿易用の蒔絵と
いった欧米人好みのものが中心でしたので、当時の古美術界の蒔絵に対する関心の中では、
あまり重要視されていない部分でもありました。ところが、昭和 50 年代以降になり、そうい
うものが日本にほとんど残っていなかったこともあり、希少価値の高い作品群ということで
購入したと聞いています。
また、一括重要文化財の「尾形光琳関係資料」は、画家の尾形光琳が自分の息子を銀座の
官吏の小西家へ養子に出す時に持たせた粉本画稿類や手紙などの資料類です。
「私が遺産とし
て残すのはこんなものしかないから、これを持って行け。」と言って渡したものだと言われて
います。小西家に伝来した資料の全体としてはかなりの数量がありますが、当館が武藤金太
氏からご寄贈いただいたのはその内の 33 件でした。色々な経緯を経て国が購入した 33 件以
外の一括作品は京都国立博物館の所蔵品になりましたが、それも私どもの寄託品になり、今
のところ尾形光琳関係資料は大阪市立美術館に一括して収蔵されています。
これらの寄贈のいきさつは、1 つの推理小説になるくらい複雑なお話があります。武藤金
太氏の父、武藤山治氏という政治家でありジャーナリストとしても活躍した方が美術愛好家
でもあって、購入の話が宙に浮いた状態で作品の所有者が二転三転し、訴訟にもなりました。
誤解が解けて小西家と武藤家の関係も改善されたある日、息子の武藤金太氏が当時の望月信
成館長を訪ね、
「望月さん、四の五の言わず全部もらってください。」と。望月館長は、
「何か
様々な深い事情があるんでしょうが、全部いただきましょう。」と返事をしたことで、小西家
に遺されていて売却の対象になっていなかった 33 件の作品(図 18)が大阪市立美術館に入
ることになりました。
「田原コレクション(図 19)
」は近年、耳鼻咽喉科の医師であった田原一繁氏と元子夫人
29
図 18 重要文化財 円形図案集
尾形光琳 1 帖 33 図のうち
世紀〕
江戸時代〔18
図 18 重要文化財 こにし宛書状
尾形光琳 正徳 2 年(1712)
図 18 重要文化財 松鶴図屏風画稿
尾形光琳 江戸時代〔18 世紀〕
図 19 左:色絵 唐花文変形皿 鍋島藩窯・松ヶ谷手
江戸時代〔17 世紀〕
右:色絵 紅葉流水図皿 鍋島藩窯
江戸時代〔17~18 世紀〕
が収集し、一繁氏の没後元子夫
人からいただいた鍋島焼のコ
レクションです。松ヶ谷手をは
じめとした初期の段階から、廃
藩置県で藩窯としては廃絶し
た後期の段階までの作品がそ
ろっている作品群です。
図 20 夜桜
北野恒富
「住友コレクション」
(図 20)
昭和 18 年(1943)
は、昭和 18 年に大阪市立美術
館南館で朝日新聞社が住友家の肝いりで開催した関西日本画壇を代表する作家による「関西
邦画展」に出品された作品を、展覧会終了後に住友家から寄贈していただいた作品群です。
次に、「コレクターたちが愛したたからもの」という副題がついた「再発見!大阪の至宝」
展についてお話をいたします。現在大阪市博物館協会が大阪市立美術館など美術館・博物館
5館を指定管理していますが。大阪市博物館協会として連携事業の一環において、どういう
展覧会をしたら上手く大阪市の博物館・美術館の存在を市民にアピールできるかということ
を考えました。そこで美術館で各館の名品を持ち寄って一堂に展示し、大阪市の美術館・博
物館のあり方というのをお示ししようと考えた展覧会です。展示構成としては、
「中国美術・
韓国美術へのあこがれ」
、
「日本美術の豊饒」、
「私立美術館に開花したコレクション」
、そして
「大阪の近代美術」という括り方をいたしました。
ざっと見ていただきますと、東洋陶磁美術館の陶磁器(図 21)、そして当館、大阪市立美
術館の中国・日本美術(図 22)
、自然史博物館の木村蒹葭堂貝類標本(図 23)、大阪歴史博
30
物館の蒹葭堂日記(図 24)や前田コレクションの屏風絵や仏画(図 25)
、大阪城天守閣の南
木コレクションから芸能関係の浮世絵(図 26)、それから大阪新美術館建設準備室の山本發
次郎コレクションから高僧の墨蹟類(図 27)などを展示します。
また、大阪市立美術館には色々な社寺からお預かりしている寄託品がございます。寄託品
の収集活動も、展示活動の一環としては非常に重要なファクターを持っております。そこで、
寄託品の中から国宝 5 件を出品させていただこうと考えています。それから、私立美術館の
コレクション。こちらは大阪を発祥とした美術館のコレクションから優品を数点お借りする
予定です。
そして最後に近代大阪の諸相と題して、大阪新美術館建設準備室の山本發次郎コレクショ
ンの佐伯祐三作品(図 28)と大阪市立美術館の所蔵品によって大阪の洋画と日本画を展覧し、
大阪ならではの作品群をご紹介して、作家やコレクターと美術館・博物館との様々な関係性
を示します。コレクターやその遺族の方々がどのような思いや形でそれぞれのコレクション
を美術館に寄贈したり譲渡したのか、あるいは個人の私立美術館としてどのように美術館活
動を進めてゆくのか、そうしたあり方の中で日本の美術館がどういうふうに展覧活動をして
きて、どういうふうに市民のみなさまとコンタクトをしてきたか、そういうことを検証する
ことができたら、これからの美術館活動の展望も開けてくるのではということで、この展覧
会の構成を考えています。ご清聴いただき、ありがとうございました。
図 21 左から
国宝 油滴天目茶碗
福建省建窯
豊臣秀次所持 南宋時代〔13 世紀〕
大阪市立東洋陶磁美術館
住友グループ寄贈・安宅コレクション
青花辰砂 蓮花文壷
京畿道広州官窯(分院里窯)
、
浅川伯教旧蔵 朝鮮時代〔18 世紀〕
大阪市立東洋陶磁美術館
安宅英一氏寄贈
図 21 左から
重要文化財 青磁象嵌 唐子宝相華文水注
高麗時代〔12 世紀〕
大阪市立東洋陶磁美術館
住友グループ寄贈・安宅コレクション
辰砂 蓮花文壷
朝鮮時代〔18 世紀〕
大阪市立東洋陶磁美術館
李秉昌コレクション
図 22 重要文化財
堀河中納言家・一条大納言家歌合
鎌倉時代〔13 世紀〕 大阪市立美術館
中島小一郎氏寄贈
31
図 23 大阪府指定文化財 破笠細工蒔絵箱入貝石標本
木村蒹葭堂収集 旧大阪府博物場蔵
江戸時代〔18 世紀〕 大阪市立自然史博物館
図 25 重要文化財 水天(十二天像の内)
珍海本 鎌倉時代〔13 世紀〕
大阪歴史博物館
前田コレクション
図 24 蒹葭堂日記 木村蒹葭堂
江戸・安永 8 年(1779)~享和 2 年(1802)
大阪歴史博物館、羽間文庫資料
図 26 中村歌右衛門の加藤正清
寿好堂よし国筆
江戸・文政 3 年(1820)
大阪城天守閣
南木コレクション
図 28 大阪市指定文化財 郵便配達夫
佐伯祐三 昭和 3 年(1928)
大阪新美術館建設準備室
山本發次郎コレクション
32
図 27 「無為」一行書
三輪田米山
明治時代〔19 世紀〕
大阪新美術館準備室
山本發次郎コレクション
館長座談会
~未来へ成長するコレクション~
33
館長座談会「未来へ成長するコレクション」
進
行:山西良平(大阪市立自然史博物館館長)
パネラー:脇田 修(大阪歴史博物館館長)
松尾信裕(大阪城天守閣館長)
出川哲朗(大阪市立東洋陶磁美術館館長)
篠
雅廣(大阪市立美術館館長)
山西:
「国際博物館の日記念シンポジウム」は平成 20 年から始まりました。当時は“大阪市
博物館群“として色々な種類の博物館・美術館が連携し、大阪市が博物館都市であるという魅
力を発信するスタートラインでもありました。それから 5 年たち、今年の秋には博物館力を
結集した特別展「再発見!大阪の至宝」(以下「至宝展」)を大阪市立美術館で開催するはこ
びとなりました。今日は、「至宝展」に寄せて、「未来へ成長するコレクション」というテー
マでお話を進めてまいりたいと思います。
1.各館の特徴あるコレクション
ゆ てきてんもく
とびせい じ はないけ
出川:当館は油滴天目茶碗と飛青磁花生という 2 点の国宝を所蔵しています。
「至宝展」で
はこの 2 点を前期と後期に 1 点ずつ出品し、その完成された美の意味をご覧いただきたいと
思っております。
日本には文化財を評価する指定制度があります。国宝や重要文化財に指定されていると、
それだけで良いものなのだろうと思いがちですが、はたして本当にそうなのか、ご自分の眼
で確かめていただきたいのです。当館の油滴天目茶碗とよく似た作品は、九州国立博物館に
も重要文化財として所蔵されています。飛青磁花生も何点か同じような作品が知られていま
す。けれども、すべて色あいや文様のバランスが微妙に異なり、違った姿をしています。よ
く似ているけれど明らかに違うことをご納得いただけるのではないでしょうか。
「国宝」や「重
要文化財」は一種のレッテルであり、それを先に見てしまうともうそこに価値が見えてしま
います。先入観抜きに実際にご自分の眼でご覧いただくということが、作品の持つ本当の美
に触れる近道ではないかと思います。
とよとみひでつぐ
また、国宝は伝来を重視するところがあります。例えば油滴天目茶碗ですと豊臣秀次が所
持していたものが西本願寺、酒井若狭家へ伝来しました。飛青磁花生は大阪の豪商鴻池家が
あ たか
旧蔵で、九州の炭鉱主へ渡り、それから安宅コレクションに入
って東洋陶磁美術館へ納めらました。伝来は、ある意味での付
加価値です。代々受け継がれてきた経緯を噛みしめることも重
要かと思います。
山西:国宝や重要文化財などの指定品だけが重要ではないと
いうことですね。次に大阪市立美術館の篠館長お願いします。
篠 :美術館のコレクションは大別すると、収集・寄贈・寄
託となりますが、基本的には増え続けないといけない。俗に「痩
34
国宝 油滴天目茶碗
大阪市立東洋陶磁美術館蔵
撮影:三好和義
「再発見!大阪の至宝」前期展示
せる」と申しますが、どのジャンルであっても、絶えず体系化し、
現在的解釈を加えないと、コレクション自体の価値が減少してくる、
それぞれの作品自体の魅力が失われていくことも往々にしてありま
す。
美術品は、世俗的な富が発生するところに集中的に集まるもので
すし、現代ではミュージアムは、その最終的な集約地、受け皿の趣
きがあります。大阪市立美術館は戦前に設立されている事情もあり、
コレクションの形成過程をふり返ると、どちらかと言えば古典的で、
龍門石窟敬善寺洞将来
石造如来坐像頭部
間口を広くとった収集を続けてきました。この点では欧米の代表的なミュージアムのありか
大阪市立美術館蔵
「再発見!大阪の至宝」展示
たとよく似ています。
1970 年代以降、全国各地に雨後のたけのこのごとくできた公立美術館は、既存の他館との
違いを鮮明にして、それぞれ独自の方針を掲げて美術品の収集にあたってきました。設立当
初はそれでもよかったのでしょうが、収集という行為自体が、公私問わず設置主体の財政状
況と密接につながっているゆえに、いまでは購入予算を削減されたり、廃止されたりして、
コレクションの補完や欠落を埋めることに、かなり難儀している美術館が見受けられます。
山西:コレクションは本来的に増え続けていくもの、収集方針のあり方についてお話いた
だきました。続きまして大阪市博物館協会会長でもいらっしゃいます、大阪歴史博物館脇田
館長お願いします。
脇田:最初に大阪歴史博物館へ来た時、すごく立地の良い所だなと思いました。間近に大
なにわのみや
阪城と難波宮が見える、これ以上ない歴史的な環境です。ここで博物館を育てていくことが
責務だと感じました。
大阪の歴史のなかで気になっていることがあります。大阪の町がずいぶん変わってきた感
そ
ね ざき
覚があるのです。私は曽根崎小学校に通っていましたが、今、同級生 40 人のうち誰ひとり曽
根崎に住んでおりません。私自身も京都府に住まいしておりまして、大阪在住ではありませ
ん。このような傾向は大正時代くらいから始まっていました。昔の商家はお店と主人の住ま
いが同じでしたが、そのころから市街地から離れた場所にお住まいを移し、ご主人だけお店
に通われるようになり、町との結びつきが薄まっていったのですね。そうなると本来大阪に
育つべき文化はどうなってゆくのだろう、ということがずいぶん気になっています。
住友家の場合でも、当時開発が進んできた天王寺の土地を大阪市に寄付され、郊外に移ら
れました。そのおかげで現在の市立美術館があるわけですが、文化の担い手でもあった方々
が大阪の中心部にもうお住まいではない、それも一つの社会の変化ですが、大阪がこれから
どうなるか非常に危惧しているところです。
山西:脇田館長が危惧されている点、非
常に大きいことだと思います。そういう意
味でも「至宝展」は、振り返って、大阪の
どういうところが良かったのかを確認でき
重要文化財
明王贈豊太閤冊封文
大阪歴史博物館蔵
「再発見!大阪の至宝」展示
る場でもあると思います。
35
松尾:私ども大阪城天守閣も博物館施設として 82 年の長
きにわたって活動を続けてまいりました。
これまで、豊臣時代、大阪城、武器武具、そして大阪の郷
土史に関わる資料をたくさん収集してまいりました。多くの
所蔵者から寄贈や寄託も受けてきました。これは、歴代の学
芸員が豊臣時代や大阪城などの研究を続けてきた結果、大阪
粉川昭平コレクション
アルコールに保存された日本産の
新生代植物化石
大阪市立自然史博物館蔵
城天守閣に対する信頼を作ってきたからだと思っておりま
す。例えば、「大坂夏の陣図屏風」は豊臣時代の大坂城を知
る上で欠かせない資料ということで、当館学芸員の強い働き
かけが功を奏して、昭和 30 年代に収蔵できたものです。最近では平成 16 年にご寄贈いただ
こんいと す がけいとおどし
どう ぐ そく
とり い もとただ
かっちゅう
いた、
「紺糸素懸糸 威 二枚胴具足」という鳥居元忠が所有していた甲 冑 の例があります。鳥
居元忠と申しますと、関ヶ原合戦の前夜に徳川家康の命令で伏見城に立てこもり、西軍を 10
日以上くい止めた武将です。この甲冑を所蔵されていた方のご親戚が、私どもに鳥居に関す
る質問をしてこられました。それに丁寧にお答えし、交流を深めましたところ、当方へ深い
信頼をお寄せいただき、甲冑を預けるのだったら大阪城天守閣に、となったのです。鳥居元
忠は徳川方の武将ですから、徳川に関わる美術館・博物館へ預けられてもよかったわけです。
どこの館でも同じですが、寄託者・寄贈者との信頼関係を深めていくこと、そして一般市
民のみなさまと深い信頼関係を結ぶことが、寄託や寄贈を受けることにつながっていくので
はないか。これを崩さないようにしてゆくのが我々の使命と思っております。
山西:コレクターとの信頼関係が博物館活動すべてにつながってゆくということですね。
わたくしが勤める自然史博物館には、研究者が集めたコレクション以外にも、友の会やサ
ークルなどの市民交流を通じてアマチュアの方が集められたコレクション、標本がたくさん
あります。それらをコレクターとともに紹介する、
「なにわのナチュラリスト」という展覧会
を平成 17 年に開催しました。当時までの自然史博物館のコレクションの形成を総括したもの
で、冊子にもなっています。総数約 150 万点におよぶ標本のコレクションは自然史系博物館
のなかでも群を抜いております。これらはお金には換算できませんが、同じように大阪のナ
チュラリストと博物館の信頼関係の賜物といえるものです。
2.今後のコレクションの充実に向けての想い
山西:大阪には寄付文化が根付いていることを感じます。篠館長にお聞きしたいんですが、
アメリカ型の作品収集と、大阪での作品収集についてお話いただけますか。
篠
:アメリカ型、というか欧米の代表的なミュージアムの発想の背後には、世の中にあ
るものすべてを集めるという百科全書的な、世俗的には富の偏在を誇示する、もう少し踏み
こんで言えば、植民地争奪戦あるいは帝国主義的なデモンストレーションの装置としての側
面が濃厚に漂っています。
私が以前勤めておりました京都市美術館は昭和 8 年の開館で、お向かいには昭和 38 年に開
館した京都国立近代美術館があります。そこの館長さんからあるとき、
「もう京都市美には日
本画(の収集)では勝てない」と言われたことがあります。京都市美には、戦前から京都画
36
壇の作家たちとの深いつながりと信頼があるという強みがあったのです。大阪市立美術館は
遅れること 3 年、昭和 11 年に開館しました。戦前には陸軍の、戦後も数年間、連合国軍の接
収を受けて閉館の憂き目に遭う困難な事態も経験しましたが、それでも、変わりなく上町台
地の、あの場所に存在し続けました。ミュージアムというのは、美術品を保存する建物です
が、それ以上に、訪れて、なにかの感銘をうけた数えきれない、おそらく数千万人の市民の
記憶を保存する装置でもあります。今年で開館して 77 年経ちましたが、これからもあの場所
に、あり続けないといけないと思っています。
山西:ありがとうございます。コレクターとの信頼関係が大切という点で松尾館長のお話
とも共通していたということになります。
「流転するコレクション、流転する作品」について、出川館長にお話を伺います。
出川:私立の美術館の多くは単体のコレクションから成り立っています。個人が美術品を
収集し、そのコレクションを伝えるために財団法人を組織し美術館を運営しています。とこ
ろが最近いくつかの美術館が閉館となり、コレクションを手放されている例があります。優
れたコレクションですと別の美術館が購入し、所蔵先が移動します。ましてや 400 年前に日
本に伝来した珍貴な品物が、1 人の手元にずっと留まるということはまずありません。色々
な人のフィルターを通して、納まるところに納まっていく。篠館長のおはなしによりますと
経済の原理で集まっていく、ことになります。
ようへんてんもく
たとえば、曜変天目茶碗は大正時代に約 5 万円の値が付きました。当時の月給が 20 円ほど
ですから、今の物価に換算すると 5 億円くらいでしょうか。妥当な金額かどうか、美術品は
時代の流れに翻弄されて評価が上下しますので、相対的な価値というのは計り知れないもの
です。けれども公立美術館はさまざまなコレクションを集積し、次の世代へ伝えていかねば
なりません。芸術的価値は時代によって、あるいは見る人によって変化しますが、学芸員は
研究によって普遍的な価値を付加し、新しい見方を提示していく、それが義務だと感じてい
ます。
山西:ありがとうございます。流転するコレクションの最終的な落ち着き先としての公立
の博物館・美術館。そこで流転が止まり付加的な価値が付く。そ
ういうことですね。
昆虫や化石などの自然史標本の場合は、コレクターが生涯かけ
て膨大な資料を集めますが、流転するということはあまりありま
せん。ただ、そのコレクターが亡くなられたり、収集を止められ
たりしてそのまま放っておくと、虫に食われたりカビが生えたり
してダメになります。ですから自然史博物館の場合は、コレクタ
ーご自身の意思で博物館へ標本をお持ちいただく場合が多く、そ
こが美術品の移動とは異なるなと思いながらお聞きしておりま
した。
松尾:大阪城天守閣では戦国時代、特に豊臣時代に関わる資料
の充実です。織田信長や豊臣秀吉など、戦国時代史を展示する博
物館として、さらに文書・手紙類、武器武具など、戦国武将にか
37
富士御神火文黒黄羅紗陣羽織
大阪城天守閣蔵
「再発見!大阪の至宝」展示
かわる様々な資料を収集したいです。収蔵した資料の内容を研究し、成果を公開することで
市民に知っていただけます。さらにマスコミ等の報道によって、大阪城天守閣にこういう資
料があるということも知っていただける。大阪城天守閣は、戦国史が語れる博物館として、
もっと色々な資料を収集してゆきたいと考えております。
3.特別展「再発見!大阪の至宝」に寄せて
山西:
「至宝展」は、各館関係者がプロジェクトチームを組み、展示方針の検討を重ねて企
画されました。
「コレクターのまなざしとともに」、
「個々のコレクションを育んだ大阪という
都市や関西という地場の感性を浮き彫りに」、「ミュージアムとコレクションの関係」という
視点が、この展覧会のポイントであると感じています。ものだけではなくコレクターの人柄
も分かるような展覧会、そして大阪という場所がいかなるコレクションを育み、やがて美術
館・博物館の歴史と信頼関係を通じて受け継がれていく。その中で博物館の思いや学芸員の
姿が見えてくるような、そういう展覧会になれば、大阪は素晴らしい、と思っていただける
のではないでしょうか。
脇田:大阪の文化財というのは、大阪城天守閣も市民の寄付金で建てられました。大阪市
立美術館も住友家から寄付を受けました。そういう意味では大阪市民の力が大きかったと思
あいしゅ
います。中央区今橋にある愛珠幼稚園もそうです。園舎は明治 13 年建設で、幼稚園としては
日本最古の木造建築で重要文化財に指定されていますが、今も現役です。あるとき、この幼
稚園を取り壊す計画が持ち上がりましたが、卒園生であるおばあちゃんがお孫さんを連れて
こられ、保存を訴えられたのですね。大阪の街や文化財は今もみなさんから支えていただい
ているのです。
出川:
「至宝展」では、名品が一堂に会するということが重要です。こんなに素晴らしいコ
レクションが大阪にあるということ、寄付によって色々なコレクションが大阪に集積されて
きたこと。どんな美術館でも最初は小規模ですが、年月を重ねるうちにコレクションが増え、
育ってゆく。その新たな核となるのが「至宝展」ではないでしょうか。
篠篠:コレクションは相互交流させることも必要です。東洋陶磁美術館のコレクションと
私ども市立美術館のコレクションを合わせて見ると、また別な発見があります。展示という
ものは、並べ方しだいでまったく違うものになります。いかにエレガントに見せるか、いか
にそのものの良さを引き出すか、ミュージアムの枠を超えて、私どもの美術館で相互のコレ
クションをお見せすることで、それぞれのジャンル・作品が、また違った意味合いを帯びて
くるかと思います。
また、私どものコレクションは貸出すこともございます。展示の様子を別の美術館で拝見
いたしますと、正直、
「おっ」と思います。「こんな良いコレクションだったんだ、こんな良
い作品だったんだ。
」と。展示室がきれいで展示環境が優れていると、同じ作品でも見方がか
わります。私どもの美術館は戦前に建てられ、最新の設備とはまいりませんが、歴史の荘厳
の中で各館が蓄積してきたコレクションをご鑑賞いただき、大阪の文化を感じとっていただ
きたいと思っています。
なん き
松尾:大阪城天守閣からは、南木コレクションの中から錦絵の一部を出品します。南木芳
38
かみがた
ひきふだ
太郎氏は大阪の文化人として有名な方で、戦前から『上方』という雑誌を主催し、チラシや引札、
浮世絵を収集されてきました。それを昭和 36 年に天守閣が一括で購入いたしました。今回の
展覧会は、大阪のコレクターの収集品が集まりますので、大阪の文化人がどういう目線を持
っていたのかが見えてくるかもしれません。過去から最近に至るまで、大阪人がものに対し
てどういう意識を持っていたか、ということが見えてくるのが「至宝展」なのではないでし
ょうか。是非、見に来ていただけたらと思います。
山西:ありがとうございます。
「至宝展」は、大阪人の血が、体温が感じられるような、そ
ういう展覧会になることを期待したいと思います。
大阪は寄付文化が発達した土地柄だと思います。また、寄付に値するような市立の博物館・
美術館が活動してきたということ、公立博物館の役割というものを、改めて認識していただ
けたと思います。わたしたちはこれからも、責任を持ってコレクションをお預かりし、コレ
クションを増やし続けることで博物館の魅力を高めていくことを目標に頑張ってまいります。
本日は、みなさん長時間どうもありがとうございました。
特別展「再発見!大阪の至宝」ポスター
39
40
閉会あいさつ
41
閉会あいさつ
公益財団法人 大阪市博物館協会
専務理事 西 良文
公益財団法人大阪市博物館協会の西でございます。本日は、大変お忙しいところ、お集ま
りをいただきまして本当にありがとうございます。本日のシンポジウムはいかがでしたでし
ょうか?これだけの日本を代表する美術館・博物館が大阪にあって、長年の蓄積があるとい
うことは、非常に重たいものがあると思います。また、そういったコレクションと共に歩ん
でこられた先人方の財産をどう引き継いでいくのかということは、我々に与えられた大きな
使命だという風にも考えております。
この秋に開催されます「大阪の至宝展」でございますが、これについては本編中に色々な
ご説明がありましたので、あえて私からは申し上げませんけれども、一都市大阪として、大
阪に匹敵するような都市は数多くございません。これだけの博物館・美術館のポテンシャル
を生かして、このような展覧会ができるというところは他にはないと自負いたしております。
手前味噌とお叱りを受けるかもしれませんけれども、私は、そのように考えております。本
来ならば、各館へ年に何回か通って優れたコレクションを観賞するということでございます
けれども、この秋にはコレクターのまなざしからコレクションを一堂に会するということで
ございますので、今日のお話をお聴きになった方々は、もっと深い鑑賞ができるのではない
かと思いますので、この期間中には是非、お近くの方にもお知らせいただけましたら幸いで
す。
当博物館協会でございますけれども、平成 22 年に大阪市の指定管理といたしまして、1 研
究所と 5 館の運営をいたしております。まだまだ発展途上で、もっとできることがあると思
いますけれども、この秋には、
「大阪の至宝展」で一定の成果の発表をさせていただきたいと
思っています。来年、再来年には、
「大坂冬の陣・夏の陣」から 400 年がやって参ります。こ
ういったところでも、我々の博物館・美術館が集積した財産を、市民の方々によりわかりや
すく展覧会や事業を進めさせていただきたいと思いますので、是非、ご期待いただけたらと
思います。
大阪城天守閣は、天守閣復興から 82 年になります。一昨年の 80 周年の時に天守閣で 80
才(昭和 6 年生まれ)の方という形で、お声かけをいたしましたところ、3 名の方がお見え
になりました。足の悪い方もおられまして、道のりが大変なんですけれども、子どもさんと
お孫さんみんなで付き添って来られました。80 周年というのは、そのお姿を見ても非常に重
たいことだと思いますし、我々が今、預かっているものはそれだけの歴史と価値があると再
認識いたしました。先ほどの各館長からのお話にもありましたけれども、この財産をどう未
来へ引き継いでいくかは、我々にとって大きな使命だと思いますので、みなさまの引き続き
のご支援とご理解を賜りますように切にお願いいたしまして、本日の私のごあいさつとさせ
ていただきます。本日は、どうもありがとうございました。
42
当日配布資料
(再編集)
43
国際博物館の日 記念シンポジウム
ミュージアムとコレクション-未来へ成長するたからもの今年で 12 回目となる「国際博物館の日」のテーマは「博物館(記憶と創造)は未来をつくる」です。
大阪市の博物館・美術館は開設以来、特徴ある優れたコレクションを収蔵・保管し、研究と公開に努めてきました。
今年の秋はそれらの優品を一堂に会した特別展「再発見!大阪の至宝 ―コレクターたちが愛したたからもの―」が大阪市立美
術館で開催されます。そこで本年の「国際博物館の日」は、大阪の地に育まれたコレクションとその時代背景に焦点を
あてシンポジウムを開催します。ミュージアムとコレクションの関係を紹介し、今日までミュージアムが果たしてきた役
割と未来に向けて成長するコレクションを展望します。
次
第
開 会(13:00)
✦開会挨拶
公益財団法人大阪市博物館協会
理
事
長 山本重雄
✦【基調講演】 大阪とコレクション-特別展「再発見!大阪の至宝」に寄せて
公益財団法人大阪市博物館協会
✦【報告1】 各館の特徴あるコレクション
大阪歴史博物館
大阪城天守閣
大阪市立東洋陶磁美術館
大阪市立自然史博物館
大阪文化財研究所
会
長 脇田 修
企画広報課長
館
長
館
長
学芸課長代理
所
長
大澤研一
松尾信裕
出川哲朗
金沢 至
長山雅一
休 憩(14:50~15:00予定)
✦【報告2】 各館の特徴あるコレクション
大阪市立美術館と特別展「再発見!大阪の至宝」
学 芸 課 長 守屋雅史
✦【館長座談会】 未来へ成長するコレクション
大阪歴史博物館
大阪城天守閣
大阪市立東洋陶磁美術館
大阪市立自然史博物館
大阪市立美術館
閉 会(16:40)
✦閉会挨拶
公益財団法人大阪市博物館協会
館
館
館
館
館
長
長
長
長
長
脇田 修
松尾信裕
出川哲朗
山西良平
篠 雅廣
専務理事 西
良文
≪参考資料≫
1.大阪新美術館コレクション概要
2.大阪市立科学館について
3.天王寺動物園について
4.各施設の沿革とおもなコレクション年表
5.大阪博物場と大阪市民博物館の系譜(1963 年以降の情報追加)
国際博物館の日…国際博物館会議(ICOM)が 1977 年に提唱。毎年 5 月 18 日。
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【報告1】各館の特徴あるコレクション
1.大阪歴史博物館
企画広報課長 大澤研一
◎大阪歴史博物館(前身は 1960 年開館の大阪市立博物館)は、カバーする分野・時代・地域が多岐にわたる。館蔵品資料の
幅もそれに応じて広い。
点数:123,374(受贈 98,045、購入 19,030、移管 6,299:2013.3.31 現在)
分野:考古、歴史(文献)、民俗、芸能、美術、工芸、建築
地域:大阪、日本、東洋
A.大阪の郷土関係資料
1.文楽人形かしら
大阪で育まれた芸能文楽の足跡をたどるため、人形かしらの収集を継続。これまでに藤堂献三氏、伴一郎氏、斎藤清二
郎氏のコレクションを受贈・購入し、近世後期から明治にかけて 100 点を超えるかしらを収蔵。9 階展示室で公開中。
2.大塩平八郎関係資料
歴史の教科書に必ず登場する大塩平八郎と大塩の乱に関する書状や書跡・肖像画などの歴史資料を受贈、購入によっ
て体系的に収集。相蘇一弘『大塩平八郎書簡の研究』に結実。
は ざ ま
3.天文観測記録と郷土資料―大阪府指定文化財を含む羽間文庫資料―
はざま し げ と み
江戸時代の町人天文学者間 重富ゆかりの天文・暦学関係資料と大阪の郷土資料。羽間平三郎氏収集・羽間平安氏寄
き む ら け ん か ど う
贈。天文関係資料は大阪府指定文化財。近世大坂の文人交流を記した木村蒹葭堂の自筆「蒹葭堂日記」も重要(「大
阪の至宝展」展示)。
4.古地図で知る大坂
奥田由造氏旧蔵 47 点、大阪歴史資料コレクション 655 点を核とし、さらに購入によって補う。近世最古の明暦元年
(1655)大坂三郷町絵図を含む江戸時代の大坂図の変遷をたどる基本的な図が揃う。
こうのいけけ
5.豪商の暮らし―鴻池家資料―
大阪の両替商・実業家として著名な鴻池家に伝来した道具類、生活資料などで 3,000 点を超える。鴻池善右衛門氏寄
贈。小袖などの服飾資料や調度類、蓄音機などの趣味の品、洋食器類などは豪商鴻池家の生活を彷彿とさせる。7階
展示室で公開中。
やぶめ い ざ ん
6.近代大阪の工芸―藪明山関係資料―
明治から昭和にかけて輸出陶器の制作・販売を手がけた藪明山の作品と制作工程にかかわる資料。精巧かつ華麗な上
絵付の作品は博覧会に出品されて高い評価を受け、多くの作品が海外へ渡った。
7.大阪の近・現代資料―柴垣コレクション―
市内在住の柴垣清氏の収集・寄贈資料群。日々の暮らしのなかで収集されたチラシ、パンフレット、雑誌、地図、写真帳、
絵葉書などからなる約 4,400 点。大阪の郷土史関連図書も「柴垣文庫」として登録、公開している。
B.日本の歴史・美術資料
しも ごう
1.縄文時代の出土品―下郷コレクション・武藤コレクション―
・下郷コレクション
滋賀県長浜の下郷伝平氏による収集品。茨城県・千葉県を中心に東日本で採集された土器・土偶など約 6,000 点。24
年度には明治大学で当コレクションをめぐるシンポ・展示を共催で開催。
・武藤コレクション
長野県在住の武藤盈氏旧蔵。山梨県小淵沢岩久保遺跡出土縄文中期の深鉢形土器など一括資料など 100 点。
2.美術工芸の優品―前田コレクション―
前田維氏の寄贈品。絵画・書跡・陶磁器・漆工品・金工品・刀剣・武具など幅広い。重要文化財 2 件 8 点と重要美術品
1 件 2 点を含む 220 件 283 点。重要文化財関ヶ原合戦図は徳川家康の養女満天姫が津軽家へ嫁ぐ際の輿入れ道具。
重要文化財十二天図像(珍海本)と柳橋水車図などは「大阪の至宝展」で展示。
3.建築を博物館で遺す―部材・図面のコレクション―
博物館で建造物を紹介するため、展示可能な建築部材と図面を体系的に収集。建築部材は歴史的建造物が建て替え
られる際、象徴的な部材の寄贈を受けたもので、旧阪急百貨店うめだ本店ステインドグラス、旧ダイビル本館テラコッタ、
開高健邸玄関モザイクタイルなど。
C.東洋の歴史・美術資料
1.日本・中国・朝鮮の鏡―鋳造鏡コレクション―
東アジア三国の古鏡 453 面。日本のものでは古代史の議論のまととなっている三角縁神獣鏡や優美な文様をもつ柄鏡
など古墳出土鏡から江戸末期までの和鏡があり、中国では唐から明代、朝鮮では高麗~朝鮮時代の作品を含む。
シン ギ
ス
2.朝鮮と日本をつなぐ―朝鮮通信使関係資料(辛基秀コレクション)―
大阪在住だった辛基秀氏の収集品。江戸時代に日本を訪れた外交使節団朝鮮通信使関連の絵画・古文書・人形など
と朝鮮時代の民画屏風からなる。現在継続購入中。朝鮮半島と歴史的関わりの深い大阪にふさわしいコレクション。
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2.大阪城天守閣
館長 松尾信裕
1.大阪城天守閣
昭和 6 年(1931)の大阪城天守閣再建時から大阪の郷土歴史館として運営。
1 階には収蔵庫や倉庫。2 階~7 階は大阪や大坂城に関わる歴史資料を展示。最上階の 8 階に展望所。
学識経験者による天守閣運営委員会が組織され、この委員会の決定によって天守閣の展示・運営が進められた。
歴史系博物館が少なかった戦前・戦後すぐには、大阪城天守閣は歴史資料だけでなく考古資料も収集。人馬小坩装飾付器
台・七観古墳出土武器武具・難波宮跡出土古瓦など。
2.天守閣収蔵品
大阪城天守閣では「豊臣時代」「大阪城」「武器及び武具」「郷土史」に関する資料を収集・保管・展示および閲覧させることを
事業目的の一つとしている。現在では上記4項目に関連する史資料を豊富に収蔵。
3階・4階の文化財展示フロアで展示。2ヶ月ごとに全展示品の展示替えをおこなっている。
■豊臣時代
書状
肖像画
屏風
武器・武具
■大阪城
■郷土史
徳川家康画像
(伝狩野探幽筆)
重要美術品 豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草 昭和 33 年購入
徳川家康画像(伝狩野探幽筆) 昭和 40 年購入
賤ヶ岳合戦図屏風 昭和 32 年購入
富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(伝豊臣秀吉所用) 昭和 32 年購入
色々威二枚胴具足 昭和 33 年購入
幕末大坂城湿板写真原板 昭和 32 年購入
南木コレクション(上方郷土庶民資料) 昭和 36 年購入
重要美術品
豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草
富士御神火文黒黄羅紗陣羽織
(伝豊臣秀吉所用)
賤ヶ岳合戦図屏風
(賤ヶ岳の七本槍部分右隻三扇)
3.大阪市立東洋陶磁美術館
色々威二枚胴具足
館長 出川哲朗
1.安宅コレクション(住友グループ寄贈)
合計965件 1,376点
(内訳) 中国陶磁 144件 148点
韓国陶磁 793件 838点
日本陶磁
2件
2点
その他
26件 388点
<解説> 旧安宅産業株式会社が収集した東洋陶磁コレクションで、国宝2点と重要文化財12点を含む。世界的にも
著名なこのコレクションには、収集にあたった安宅英一の透徹した美意識が反映されている。
2.李秉昌コレクション
合計351件 363点
(内訳) 韓国古陶磁 301件 313点
中国古陶磁 50件 50点
<解説> 韓国陶磁の個人コレクションとしては世界的な質と量を誇る。在日韓国人である李秉昌博士によって収集され
た本コレクションの寄贈には、韓国陶磁文化の世界的な発揚と在日同胞の矜持と希望の糧となるようにとのコレ
クターの願いが込められており、その意義は極めて大きい。
3.入江正信コレクション
中国陶磁 合計242件 262点
<解説> 酒器を中心に収集された本コレクションは、大汶口文化の黒陶から清時代の民間青花磁器に至るまで、時代
別、種類別、窯別に多岐にわたっている点に大きな特色がある。
4.堀尾幹雄コレクション
合計265件 384点
(内訳) 濱田庄司作品 197件 288点
河井寛次郎作品
6件 6点
芹澤銈介作品 19件 19点
バーナード・リーチ作品 1件 1点
棟方志功作品
2件
2点
黒田辰秋作品
2件 2点
日本陶磁
2件
2点
<解説> 個人コレクションとしては日本でも有数といえる濱田庄司作品を中心に、さらに河井寛次郎、芹澤銈介、そして
バーナード・リーチなど関連作家の作品も含まれる。また、古染付や朝鮮時代の陶磁なども実用器を中心とす
る点に特色がある。
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5.伊万里コレクション
日本陶磁 合計160件 212点
<解説> 輸出伊万里を中心としたコレクション。現在中国巡回中。
6.高田早苗コレクション
ペルシア陶器他 合計126件 161点
<解説> 1959 年から 60 年にかけて現地で収集された本コレクションは、ペルシア(現イラン)を中心とした西アジア製
の土器、陶器、青銅器、ガラスなど多岐にわたる。
7.松山朋子氏寄贈尾形周平コレクション
赤陶把手手付水注他 合計14件 14点
<解説> 陶芸家の故・五代尾形周平氏の収集した西アジアの製の土器、陶器などの作品。高田コレクション受贈の際
に親交のあった尾形氏の収集品をご遺族からご寄贈いただいた。
8.鈴木正男コレクション
合計35件 52点
(内訳) 韓国陶磁
32件 32点
中国陶磁
2件 2点
浅川伯教筆関連資料
1件 18点
<解説> 「朝鮮陶磁の神様」と言われる浅川伯教の娘婿にあたり、浅川伯教旧蔵の作品や関連資料を含む貴重な作
品。
9.東畑謙三コレクション
合計2点 2件(中国陶磁 2件 2点)
<解説> 数は少ないがいずれも世界トップレベルの作品。重要文化財「青花牡丹唐草文盤」は世界的に評価の高い元
時代の青花磁器の名品。
10.白檮盧コレクション
合計178件 178点
<解説> 奈良県在住の卯里欣侍氏(号「白檮盧」)が蒐集した中国陶磁を中心としたコレクション。文人気質のコレクタ
ーが独自の視点で蒐集したコレクションには古陶磁以外にも漆器、青銅器、書画など幅広く、古陶磁以外の主
要な作品は根津美術館に寄贈されている。
11.福島サトコ氏寄贈川崎毅作品
合計26件 26点
<解説> 川崎毅(1942-)は、多摩市在住の現代陶芸の作家である。1980 年代から現在まで続けられる「街」をテー
マとするシリーズは、風景を立体として切り取ることを考えたもので、変化が加わりつつも決して揺るがぬ存在感
を放っている。
12.清水保孝氏寄贈清水卯一作品
合計12件 12点
<解説> 陶芸作家の清水卯一(1926-2004)は鉄釉陶器の優れた技術により国の「重要無形文化財」、いわゆる「人
間国宝」に認定され、独自の作風で高く評価されている。本コレクションは長男で陶芸作家の保孝氏からのご寄
贈いただいた。
13.宇野眞理栄氏寄贈宇野宗甕コレクション
合計87件 87点
<解説> 初代宇野宗甕(1888-1973)は初代仁松の長男として京都に生まれ、国が撰定した無形文化財、辰砂・青
磁技術の「関係技芸者」に選ばれた陶芸家である。本コレクションは、宇野眞理栄氏からご寄贈いただいた。
14.沖正一郎コレクション
合計1,181件 1,200点
<解説> 陶磁、ガラス、金属など各種材質の鼻煙壺コレクション。鼻煙壺のコレクターとして著名な沖正一郎氏より寄贈
を受けたもので、これを機に約150点を常時展示するコーナーを館内に新設した。
4.大阪市立自然史博物館のコレクション
学芸課長代理 金沢 至
大阪市立自然史博物館は 1950 年に自然科学博物館として展示を始め、1974 年に長居公園に移転した比較的新しい博物
館である。地下が全て収蔵庫である花と緑と自然の情報センターが 2001 年にオープンし、収蔵能力が大幅に拡充したが、寄贈
標本数も急増している。
点数:1,515,340!(動物 139,309、昆虫 937,136、植物 369,741、地学 69,154)
種類:動物、昆虫、植物(含菌類)、化石、岩石、鉱物など
重点地域:大阪>関西>日本>東洋>アジア>世界
時代:古生代~現生
1.指定文化財
■「木村蒹葭堂貝石標本」(大阪府指定文化財)
江戸時代中期の大坂が生んだ偉大な本草学者である木村蒹葭堂(けんかどう)の貝と石の標本。潤(うるみ)漆塗りの重箱
(567 枡)と縞柿の重箱の中に、源氏貝や歌仙貝など文学にちなんだ貝や、日本にある標本の中では最初にヨーロッパからもた
らされたモミジソデという巻貝などを含む貴重な貝類コレクションと、日本各地の貝化石を含む奇石コレクションが収められてい
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る。重箱に塗られた漆の剥落や木地の接合部分の剥離が見られることから、平成 15 年度に修復を施した。
■「畔田翠山押し葉帖」(大阪市指定文化財)
江戸時代末期の紀州藩士畔田翠山(くろだ・すいざん)によりつくられた植物標本帖。数枚から数十枚を一括して綴じた 69
冊よりなる。翠山が壮年時代に訪れた北陸の白山や立山、幾度となく訪れた熊野や大峰・大台の山、高野山などの植物が採
集地別に収められている他、各地の植物が草、木に分けて綴じられている。縦 40cm、横 28cm という、当時としては異例とも思
える大きな台紙に、植物標本が貼付してあり、翠山の博物学者としての見識の高さを示している。書籍、著述、標本などの翠山
の遺品は、畔田家の貧窮を見かねた翠山の門人、大阪の堀田龍之助により買い取られ、堀田家に保管されてきたが、大阪市
立博物館に寄贈され、後にそのうちの植物標本が自然史博物館に移管された。日本の植物の研究はケンペル、ツンベルグ、
シーボルトなどのヨーロッパ人によって始められ、その基礎となった標本はヨーロッパ各地の博物館に収められている。畔田翠山
押し葉帖は日本に現存する最古級の植物標本である。
2.タイプ標本
新種記載の際に、その根拠となる標本(または標本に相当するもの)を明示することが義務づけられており、模式(基準)標本
と呼ばれる。公的な博物館に永久に保存されることが推奨されていて、ホロタイプが最も重要な標本である。
3.証拠標本
様々な研究の基礎になった証拠標本は、その研究成果の信頼性を高める役目を持った大切な標本であり、タイプ標本に次
いで価値のある大切な標本と言える。もう一度検討することによって事実の再確認や訂正が可能になる。
■三木 茂コレクション
生きた化石植物メタセコイアの発見で有名な三木茂博士は、水生植物の研究においてもすぐれた業績を残した。研究材料と
して収集された膨大な数の標本(約 3,600 点)は重要な証拠標本であるとともに、新種記載の原資料となったタイプ標本が多く
含まれている。三木博士が研究された植物化石は、植物遺体と呼ばれる落ち葉のような標本で、約 3 万枚のプレパラート標本
が作成された。
4.主な寄贈・移管・購入コレクション
■動物分野
鈴木寿之魚類コレクション吉良哲明貝類コレクション、山本虎夫貝類コレクション、梶山貝類コレクション、旧淡水魚保護協会
淡水魚類、松村勲貝類コレクション、倉本両生類コレクション、小郷一三ウミユリ類コレクション、木場両生爬虫類コレクション、
川村鳥類コレクション、土井鳥類コレクション、今福ヤドカリコレクション、宝塚ファミリーランド鳥類・哺乳類コレクション、亀崎ヤド
カリコレクション
■昆虫分野
ポール・ジャクレーチョウ類コレクション、戸沢信義ハチ類コレクション、青木浩昆虫類コレクション、小島圭三カミキリムシ類コ
レクション、後藤光男甲虫類コレクション、林匡夫カミキリムシ類コレクション、岡村宏一チョウ・甲虫類コレクション、笹川満廣ハ
エ目コレクション、酒井清六昆虫類コレクション、宝塚昆虫館移管標本、仲田元亮昆虫類コレクション、住吉薫チョウ類コレクショ
ン、北脇和光昆虫類コレクション、木村輝夫ハエ目コレクション、八木沼健夫クモ類コレクション、梅谷繁雄昆虫類コレクション、
小路嘉明チョウ類コレクション、加藤信一郎チョウ類コレクション、堺市立科学教育研究所移管コレクション、足立淳一スズメバ
チ科巣コレクション、常木勝次ハチ目コレクション
■植物分野
花博出展植物コレクション、山本虎夫海藻コレクション、真砂久哉シダ類コレクション、アデレード標本庫植物、布藤昌一植物
コレクション、粉川昭平果実コレクション、三木茂水草コレクション、田中久美子変形菌類コレクション、児玉務蘚苔類コレクショ
ン、中島徳一郎蘚類コレクション
■地学分野
三木 茂コレクション、工業研究所岩石標本、三木 茂和泉層群産コダイアマモ化石コレクション、石原産業石材コレクション、
粉川昭平コレクション、引田 茂コレクション、大野コレクション、米阪紀雄コレクション、鈴木敬治コレクション、長尾コレクション、
瀬能コレクション、宮本コレクション、吉田コレクション、高荘吉教授鉱石鉱物コレクション、長島乙吉希元素鉱物コレクション、倉
橋コレクション、池辺コレクション、木下茂慶コレクション、紀川コレクション、民谷コレクション、春成コレクション、中村コレクション、
黒沢コレクション、島倉コレクション
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5.大阪文化財研究所
所 長
長山雅一
(公財)大阪市博物館協会にあって、研究所は他の5館とは違った歴史を持つ。本来、大阪市域の埋蔵文化財が、市域の開発
に伴い破壊されるのを守り調査するのを目的として設立されたものである。その機関は(財)大阪市文化財協会と称し、研究所の
前身である。
協会は 1979 年に設立されたが、それに至る経緯は、難波宮跡の発掘調査のため大阪市によって設立された難波宮址顕彰会
に遡る。難波宮跡の研究は大阪市立大学を中心に 1950 年代から始められていたが、調査経費の捻出や市内の開発に伴う調整
について行政との関係が必要なので、顕彰会は大阪市教委の中に事務局を置き、市長を会長として 1960 年に発足している。
難波宮跡は 794 年に廃止され、長岡京遷都のあとは所在不明で、江戸時代以来宮殿名から推定される下町説と仁徳の伝説
に伴う上町説が存在していた。しかし、上町説は旧陸軍八聯隊の施設内にあたり、発掘調査や研究は不可能であった。
それが、敗戦により軍の解体を機に解放され、研究が始まったのである。それ以前、旧軍の施設内での被服廠の建設工事にお
いて奈良時代の軒瓦が発見されていた。大正2年(1913)のことである。くしくも、今年は難波宮の発見の端緒となった瓦の発見か
ら 100 年にあたる。
瓦を難波宮のものとして大切に保管されたのが、建築史にも造詣が深かった建築家の置塩章氏であった。瓦のことを知った山
根徳太郎先生らは、大阪市大に「大阪城跡研究会」を立ち上げ、研究を開始された。難波宮址についてメドがたった時、「難波宮
址研究会」と改称、山根先生が代表となられた。1954 年、第一次の発掘調査が始まった。しかし、成果はすぐには現れず、研究
等の苦労はそこから始まったと云える。
【報告2】各館の特徴あるコレクション
6.大阪市立美術館と特別展「再発見!大阪の至宝」
学芸課長 守屋雅史
1.はじめに
大阪市立美術館・・・住友家〔第 15 代住友吉左衛門(住友友純、ともいと、号:春翠、1865-1926)氏〕から、慶沢園(林泉回遊
式近代日本庭園)・茶臼山とともに、美術館の建設を条件に本邸跡地の寄贈を大正 10 年(1921)に受け、
建物を大阪市が建設して、昭和 11 年(1936) 5 月に開館。
2.主要なコレクション
(1)阿部コレクション
中国書画
東洋紡績株式会社の社長を勤め、その後貴族院議員にもなった阿部房次郎(1868-1937)氏が収集し、子息孝次郎氏より
昭和 17 年に寄贈された中国書画 160 点。宋元時代の書画をはじめ、明清時代の諸派の作品など中国絵画史において欠くこと
のできない作品も多く、世界的にもよく知られた名品が多い。
(2)山口コレクション
中国彫刻・中国工芸
関西信託の社長などを務めた関西の実業家、山口謙四郎(1886-1957)氏が収集し、遺族から昭和 52 年・53 年に譲渡され
た中国の石造彫刻 125 点・金銅仏 5 点・工芸品 94 点の計 224 点。北魏から隋唐代に至る石仏には紀年銘をもつ優品が揃い、
中国仏教彫刻史を概観する上で欠くことの出来ない作品が多い。
(3)小野コレクション
中国石窟将来彫刻
小野薬品工業株式会社の社長・会長であった小野順造(1916-89)氏が昭和 30 年後半以降に収集し、遺族から平成 7~
14 年に譲渡された南北朝から唐時代にかけての中国石窟将来の石造彫刻 19 点。山西省雲岡石窟や河南省龍門石窟などの
名だたる石窟将来の仏頭を中心とし、当時の彫刻技術の最高峰を示す。
(4)師古斎コレクション
中国碑刻金石拓本
銀行マンであった岡村蓉二郎氏(1910-91)が収集し、昭和 49 年一括譲渡された中国拓本 450 件。商周代から唐代に至る
金文・墓碑・墓誌・造像銘など多彩な内容の拓本を含み、墨法・拓法に優れた旧拓も多く、美術的・歴史的資料としての価値に
富んでいる。
(5)田万コレクション
仏教美術・近世絵画ほか
大阪で衆議院議員・弁護士として活躍した田万清臣(1892-1979)氏が、明子夫人とともに収集し、清臣氏の一周忌である昭
和 55 年に故人のご遺志により夫人から、また昭和 57 年にも夫人から、さらに昭和 62 年にはご子息侃氏から寄贈を受けた仏教
美術・近世絵画などの 663 点。特に、重要文化財・重要美術品などを多数含む絵画・彫刻・工芸からなる仏教美術には優品が
多い。
(6)カザールコレクション
蒔絵調度類・近世装身具類
スイスの有力商社の代理人として神戸で活躍されたスイス人 U.A.カザール(Ugo Alfonso Casal 1888-1964)氏が収集し、遺
族から昭和 50 年・昭和 51 年、昭和 56 年~59 年、平成 2 年にかけて譲渡された、江戸時代から明治にかけての漆工品類な
ど 3,409 件。豪華な蒔絵調度や香合、印籠、櫛・笄、根付などの装身具をはじめ、欧米人が好んだ貿易用の精緻な蒔絵調度な
どの優品が多く、国内では珍しい作品群。
(7)小西家伝来・尾形光琳関係資料
粉本画稿類・手紙類
江戸時代の画家、尾形光琳(1658-1716)の子息・寿市郎が養家である江戸の銀座の小西家にもたらした関係資料のうち、
鐘紡株式会社を再建した関西の実業家であり、衆議院議員、時事新報社の社長などとして活躍した武藤山治氏の子息武藤金
太(1898-1966)氏より昭和 18 年に寄贈された 33 件。尾形光琳の全貌を知る上で不可欠であり、絵画史上のみならず、染織・
蒔絵・陶磁器などの工芸品や芸能史など、元禄時代の文化史全般における貴重な作品群。
49
(8)田原コレクション
鍋島藩窯 染付・色絵・青磁
大阪枚方で耳鼻咽喉科を開業されていた田原一繁(1934-2009)氏が夫人元子氏とともに収集し、平成 23 年に元子夫人か
ら一括寄贈を受けた鍋島藩窯の染付・色絵・青磁などの 118 件。初期の段階から後期の終末期まで通史的に集められた鍋島
藩窯のコレクションは希少で、学術資料としても貴重。
(9)住友コレクション
近代日本画
昭和 18 年秋に朝日新聞社により当館で開催された「関西邦画展覧会」に出品され、展覧会閉幕後、昭和 19 年に展覧会の
出資者であった第 16 代住友吉左衛門(住友友成、1909-93)氏から寄贈されたた日本画 20 点。上村松園・小野竹喬・山口
華楊・北野恒富・榊原紫峰など、当時の関西日本画壇の代表的な作家による作品群で、当館の近代日本画の中核をなしてい
る。
3.特別展「再発見!大阪の至宝 ―コレクターが愛したたからもの―」
会期:平成 25 年(2013)10 月 29 日(火)~12 月 8 日(日)
会場:大阪市立美術館(天王寺公園内)
〔展覧会概要〕
大坂(大阪)は日本の政治的中心地や諸外国との窓口に位置し、古くは豊臣秀吉などの天下人やあまたの豪商たちが「事・
物」の集積を担ってきました。近現代になると経済界の人々が多様な“数寄”の道に足を踏み入れ、大きな美術コレクションが
形成されてきました。これらの大阪や関西にゆかりある数々のコレクションは、収集者の死後に大半が散逸してしまいましたが、
一方で自らの収集品を市民共有の文化遺産と考え、次代への継承を意識するコレクターたちも登場しました。その受け皿とな
ったのが、国公立の美術館・博物館であり、コレクターを母体とした私立の美術館・博物館でした。国公立の美術館・博物館は、
市民の情操の向上や学術の発展に寄与するために、コレクションの寄贈や、廉価な譲渡を受けながら展覧会活動を充実させ
てきました。
本展は、大阪市の美術館・博物館が所蔵する主要な美術コレクションについて、その収集の軌跡をコレクターのまなざしととも
に振り返ろうとするものです。加えて大阪を発祥とするコレクションを所蔵する私立美術館の名品も陳列させていただきながら、
個々のコレクションを育んだ大阪という都市や関西という地場の感性を浮き彫りにし、大都市の欠かせない施設であるミュージ
アムとコレクションの関係をおよそ 160 件の作品を通して再考します。
〔展覧会構成〕
第1章 中国美術・韓国美術へのあこがれ (北館1階第1~4陳列室)
大阪市立美術館:阿部コレクション(中国書画)・山口コレクション(中国彫刻・工芸)・小野コレクション(中国彫刻)、大阪
市立東洋陶磁美術館:住友グループ寄贈安宅コレクション(中国・韓国陶磁)・李秉昌コレクション(韓国陶磁)ほか
〔コラム〕師古斎コレクション、銀行マンの一念
〔コラム〕浅川伯教(1884-1964)と韓国陶磁研究
第2章 日本美術の豊饒 (北館2階第6~9陳列室、南館2階第 18・17 陳列室)
大阪市立美術館:小西家伝来光琳関係資料・田万コレクション(仏教美術・近世絵画)・カザールコレクション(蒔絵調度・
近世装身具)・田原コレクション(鍋島焼)、大阪歴史博物館:前田コレクション(近世絵画)、大阪新美術館建設準備室:
山本發次郎コレクション(墨跡類)、大阪城天守閣:秀吉関連作品・南木コレクション(浮世絵他)ほか
〔コラム〕豊臣秀吉ゆかりの名品
〔コラム〕失われた難波宮の至宝
〔コラム〕木村蒹葭堂の収集と作品
〔コラム〕大阪市立美術館の国宝寄託品
第3章 私立美術館に開花したコレクション (南館2階第 16 陳列室)
藤田美術館(茶の湯道具より)、逸翁美術館(与謝蕪村より)、泉屋博古館(中国青銅器より)、黒川古文化研究所(中国
工芸より)、滴翠美術館(日本陶磁より)
第4章 大阪近代美術の諸相 (南館2階第 15 陳列室)
大阪新美術館建設準備室:山本發次郎コレクション(佐伯祐三)ほか、大阪市立美術館:住友コレクション(近代日本画)、
大阪市立自然史博物館(昆虫などのコレクション)
〔コラム〕昆虫などを美術の眼で見ると
50
≪参考資料≫
1.大阪市立科学館について
大阪市立科学館 飯山青海
1.概要
大阪市立科学館は西区四つ橋の電気科学館の歴史を引き継ぎ、1989 年に中之島4丁目(もと大阪大学理学部跡地)
に開館しました。「宇宙とエネルギー」をテーマに、見て、ふれて、体感しながら科学の法則を学ぶことができます。
2008 年 7 月にリニューアルした展示場は、随時 200 もの体験型展示やサイエンスショーを行い、科学に関する「本物」
の資料を多く展示。なかでも日本一の伝統を誇るプラネタリウムは、直径 26.5mもの世界最大級のドームスクリーン
に天の川を 35 万個の星として表現し、学芸員のライブ解説とともにリアルな星空を体感できます。全天に映し出す映
像は迫力満点。大人も子どもも楽しめる、科学の世界にお越しください。
2.主なコレクション
①奈良・時の資料館コレクション
収蔵時期:平成 22 年(2010)購入
後藤晶男氏が収集し、奈良市に開設していた私設博物館「時の資料館」で展示されていた資料群。江戸~明
治時代の時計、暦および関連資料、望遠鏡ほか、合計 19 点からなる。
資料の一部(江戸時代の和時計、暦、暦関連資料)を常設展示にて展示。
②真空管ラジオ等、オーディオ関係コレクション
収蔵時期:平成 21 年(2011)寄贈
百田哲郎氏が収集した真空管ラジオ 10 点、蓄音機、スピーカー、レコード盤等、66 点のオーディオ機器・
資料のコレクション。真空管ラジオ 7 点を常設展示にて展示。
③プラネタリウム投影機(カールツァイス II 型 25 号機)
1937 年の電気科学館開館時より、1989 年の電気科学館閉館まで稼働していた、東洋初のプラネタリウム
機器。2000 年 12 月、大阪市指定文化財。
④コッククロフト ウォルトン型加速器
受入時期:平成 5 年(1993)
1935 年に大阪大学に設置された、原子核物理の実験装置。
⑤学天則(復元模型)
学天則は、西村真琴により 1928 年に制作された、日本初のロボット。大礼記念京都博覧会で展示され、その後
各地でも展示された。現物や設計図等はすでに失われてしまっているが、当時の写真や記事などの記載を元に、
2008 年、原寸大復元模型を制作し、展示している。
2.天王寺動物園について
天王寺動物園 今西隆和
天王寺動物園は大正 4 年に開園した日本で3番目に古い動物園で、敷地面積 11 ha を有する都市型動物園であり、
現在約 200 種 900 点の動物を飼育しています。当園の前身は大阪市中央区本町橋2丁目にあるマイドームおおさか付
どうぶつかん
近にあった大阪府立博物場の附属動物檻であると言われています。
当園では平成 6 年から、動物の新しい展示方法として動物がもともと住んでいた自然に近い環境を再現して展示す
る「生態的展示」の手法に基づく施設整備をおこなっており、現在、アジアの熱帯雨林ゾーンとアフリカサバンナゾ
ーンが当該手法に基づいた展示施設となっています。
アジアの熱帯雨林ゾーンでは野生の動植物が生息する環境を再現するとともに、タイの人とゾウの関わりについて
展示の中で感じ取っていただくような展示となっています。ここには「春子」と「ラニー博子」という2頭のアジア
ゾウが飼育されており、戦後間もなく来園した「春子」は今年推定 65 歳の国内で2番目の長寿ゾウです。
アフリカサバンナゾーンは園の約 16%を占める広い展示施設で、カバ舎、サイ舎、草食動物ゾーンと肉食動物ゾー
ンに分けることができます。とりわけカバ舎は国内初となる水中観察プール(水量 450t)を設置し、水中のカバの
様子をガラス越しに観察することができます。このプールの透明度を維持するために大型のろ過器6基で 450tのプ
ールの水を1日に 38 回ろ過循環しています。またプールにはカバの生息地で共生しているティラピア(チカダイ)
、
アマサギ、エジプトガンなどとも同居展示されています。
草食動物ゾーンには、アミメキリン、エランド、グラントシマウマ、ダチョウ、アフリカハゲコウ、ホロホロチョ
ウが混合展示され、肉食動物ゾーンではライオン、ハイエナが展示されていますが、園路に近いところに肉食動物の
放飼場を配置することで、肉食動物の向こうに草食動物が見え、臨場感あふれるアフリカのサバンナを再現するとと
もに、アフリカの自然環境と我々の生活の間にどのようなつながりがあるかについても学べるような展示施設となっ
ています。
アフリカサバンナゾーンにはこれらの動物以外にもコフラミンゴ、コビトマングース、ボールニシキヘビ、ケープ
ハイラックスなどが展示されています。
これらの展示以外にも、アムールトラの「センイチ」と「アヤコ」、ホッキョクグマの「ゴーゴ」と「バフィン」、
マレーグマの「マーズ」と「マーサ」
、オウサマペンギン、フンボルトペンギン、レッサーパンダ、コアラなどの動物
も根強い人気をもっています。
51
1915 大正4
1885 明治18
1884 明治17
1870 明治3
1868 明治元
元和6
寛永3
寛文5
天保14
52
1938 昭和13
1937 昭和12
1936 昭和11
1934 昭和9
1933 昭和8
1932 昭和7
1931 昭和6
1929 昭和4
1928 昭和3
1925 大正14
1924 大正13
1921 大正10
1920 大正9
1915 大正4
1885 明治18
1884 明治17
1870 明治3
1949 昭和24
1948 昭和23
1946 昭和21
1947 昭和22
1958 昭和33
1957 昭和32
南太平洋学術調査
大坂夏の陣図屏風(重美)購入
西区靭2丁目(元靭小学校を改装)に移転
博物館後援会(友の会)誕生
下郷コレクション(縄文土器)購入
1957 昭和33
1957 昭和32
1996 昭和31
1955 昭和30
1954 昭和29
1953 昭和28
1951 昭和26
トカラ列島学術調査
1950 昭和25
1949 昭和24
1948 昭和23
1946 昭和21
1947 昭和22
1945 昭和20
北山峡科学調査
大阪市立自然科学博物館開館(昭和48
まで)
大阪城公園拡張工事完成
美術館接収解除
第二次世界大戦終戦、連合軍による接収
1944 昭和19
1943 昭和18
市立美術館2階廊下にて展示開設
豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草(重美)購入
豊臣秀吉自筆書状(3月5日付、祢宛)(重
美)購入
秋草文彩画団扇(伝淀殿所用)購入
富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(伝秀吉
所用)購入
幕末大坂城湿板写真原版購入
賤ヶ岳合戦図屏風購入
大阪城天守閣が博物館相当施設に指定
大阪城域一帯が国の特別史跡に指定
大阪城域一帯が国の史跡に指定
城内13棟の古建造物が国の重要文化財
に指定
ジェーン台風により城内の古建造物被災
紀州御殿焼失
大阪城の接収解除、接収中に天守閣所
蔵品の一部が破損・紛失
大阪市が大阪城天守閣条例を制定
天守閣の一般公開再開
空襲により大阪城域被害
終戦により米軍が大阪城を接収
住友家より関西邦画展出品作の寄贈
1944 昭和19
1945 昭和20
小西家旧蔵光琳資料の寄贈
1943 昭和18
1942 昭和17
大
戦
1956 昭和31
後
)
元和6
寛永3
寛文5
天保14
1868 明治元
1620
1626
1665
1843
1615 元和元
1614 慶長19
1585 天正13
1583 天正11
1570 元亀元
1533 天文2
1496 明応5
1940 昭和15
山根徳太郎教授による難波宮跡発掘調
査開始
大阪文化財研究所
戦局悪化により大阪城天守閣への入場
禁止
阿部コレクション(中国絵画)寄贈
大阪市立美術館開館
市議会の決議により美術館設立が議決
住友家が茶臼山本邸寄付を大阪市に申し
出
美術館
各施設の沿革とおもなコレクション年表
自然科学博物館開設準備委員会設置
自然史博物館
1942 昭和17
人馬小坩装飾付器台(重要美術品)購入
京極文書(徳川時代大坂城築城関係)購
入
東洋陶磁美術館
陸軍、山里丸に大阪国防館を設置
大阪城本丸内に第四師団司令部庁舎竣
工
天守閣建築工事開始
大阪城公園ならびに大阪城天守閣竣工
天守閣にて「豊公特別展」開催
大手前公園開設
大大阪記念博覧会開催にともない天守台
に「豊公館」を設置
大阪市、天守閣復興を含む大阪城新公園
計画を発表
和歌山城の二の丸御殿を大阪城内に移
築(紀州御殿)
蓮如上人が大坂に坊舎建立
本願寺本山が山科から大坂に移り大坂
(石山)本願寺成立
織田信長と本願寺との戦闘開始(石山合
戦)
羽柴(豊臣)秀吉、本願寺跡地に大坂築
城開始
天守完成
徳川幕府軍が大坂城を攻撃(大坂冬の
陣)
幕府軍が再び大坂城を攻撃、豊臣家滅
亡、大坂城落城(大坂夏の陣)
幕府による大坂城再築工事開始
天守完成
落雷により天守焼失
大坂城の総修復工事開始
戊辰戦争、大坂城焼失し新政府軍が城を
接収
新政府が城内に軍事工場設置(のちの大
阪砲兵工廠)
大阪城天守閣
1940 昭和15
昭 1950 昭和25
和 1951 昭和26
時
代 1953 昭和28
(
第
2 1954 昭和29
次
世
1955 昭和30
界
)
昭 1932 昭和7
和 1933 昭和8
時
代 1934 昭和9
(
第
2
次 1936 昭和11
世
界 1937 昭和12
大
戦
以 1938 昭和13
前
1931 昭和6
1929 昭和4
1930 昭和5
1928 昭和3
1925 大正14
大 1920 大正9
正
1921 大正10
時
代 1924 大正13
明
治
時
代
1620
1626
1665
1843
江
1583 天正11
戸
時 1585 天正13
代
1614 慶長19
以
前
1615 元和元
1570 元亀元
1533 天文2
1496 明応5
大阪歴史博物館
新美術館建設準備室
チンパンジー「ロイド」来園
第1次拡張工事完了、アシカ舎完成(現
存)
チンパンジー「リタ」来園
大阪市立動物園開園、約60種・230点の
動物
府立大阪博物場附属動物檻開設
天王寺動物園
プラネタリウム再開
戦局悪化により休館
動物慰霊碑除幕式
アジアゾウ「春子」来園、開園以来最高の
6万人の入園者を記録
戦局悪化により猛獣10種26頭を薬殺処
分開始
エサ不足でゾウ、キリンなどが死亡
大阪大空襲で園内に焼夷弾2000発落
下、猛禽舎焼失
エサ不足でゾウが死亡
350種・1600点を超え、日本最多の飼育
数に、「リタ」死亡
西区四ツ橋に大阪市立電気科学館開館
(平成元まで)
ホッキョクグマ舎完成(現存)
東洋初のプラネタリウム(カールツァイスII
型25号機)稼働(平成元まで稼働)
科学館
3.各施設の沿革とおもなコレクション年表
53
)
(
第
2
次
世
界
大
戦
後
豊臣秀吉画像(伝狩野光信筆)購入
金明水井戸屋形(重文)の解体修理工事
開始
城内古建造物の解体修理工事完了
国貞文書(小早川家関係)購入
大阪城公園完成式
長篠・小牧長久手合戦図屏風購入
聚楽行幸記(天正16年5月吉日付)購入
鍋島文書(朝鮮出兵関係)寄贈
城内古建造物の解体修理工事完了
秋草文蒔絵硯箱(秀吉所用)購入
大手口多聞櫓(重要文化財)の解体修理
工事開始
杉山地区を中心とする大阪城公園整備が
開始
延岡堀文書(堀秀政関係)購入
桜門(重文)の解体修理工事開始
東洋陶磁美術館
花博植物標本作製事業
ナガスクジラ漂着・標本作製開始
1987 昭和62
1986 昭和61
1985 昭和60
1984 昭和59
1983 昭和58
1990 平成2
住友長堀銅吹所跡の発掘調査開始
1990 平成2
昭和64
復元古代船「なみはや」釜山へ航海実験 1989
平成元
高廻り1・2号墳、法円坂倉庫群の発見
加美遺跡方形周溝墓群の調査開始
1982 昭和57
1981 昭和56
1980 昭和55
1988 昭和63
白檮廬コレクション(韓国陶磁)寄贈(平
成9・15)
建築業協会賞を受賞
森小路遺跡発掘調査開始
1979 昭和54
1977 昭和52
1975 昭和50
上記3団体を統合し、財団法人大阪市文
化財協会設立
1974 昭和49
高速大阪東大阪線難波宮跡調査会を組
織
1972 昭和47
1973 昭和48
1971 昭和46
1970 昭和45
1968 昭和44
1969 昭和43
1967 昭和42
1966 昭和41
1965 昭和40
1964 昭和39
1963 昭和38
1962 昭和37
1961 昭和36
1960 昭和35
1959 昭和34
長原遺跡調査会を組織
難波宮大極殿跡発見
大阪市が難波宮址顕彰会を組織
大阪文化財研究所
カザールコレクション(漆工)譲渡(昭和59
長原・瓜破遺跡発掘調査開始
まで)
田万コレクション寄贈
山口コレクション(中国仏教彫刻・工芸)
譲渡(昭和53まで)
師古斎コレクション、拓本譲渡
美術館
昭和64
1989
平成元
大坂夏の陣図屏風が重要文化財に指定
大阪城公園を会場に「築城400年まつり
大阪城博覧会」開催
本丸にて豊臣時代大坂城の詰の丸の石
垣が発見(翌年発表)
和歌山城と姉妹城提携締結
宝塚昆虫館標本移管
市立自然史博物館開館
益富寿之氏から木村蒹葭堂貝石標本寄
贈
トウヨウゾウ発掘
フィリピン群島自然史調査
長居公園内に新館敷地確定
1965年~岐阜県美山洞窟群調査、明石
象標本発掘・寄贈
マチカネワニ発掘
ポール・ジャクレーコレクション(蝶標本)
購入
自然史博物館
1988 昭和63
1987 昭和62
1986 昭和61
1985 昭和60
1984 昭和59 長尾コレクション(縄文土器)寄贈
1983 昭和58
長浜城と姉妹城提携締結
大阪城天守閣所蔵コレクション全国巡回
展「大阪城天守閣所蔵名品展 秀吉と大 住友グループ21社から安宅コレクション
阪城―その伝説と謎をさぐる―」開催(翌 寄贈の申し出
1980 昭和55
年まで)
大阪市は中之島公園内に専門美術館建
難波コレクション(弓具)寄贈
設を発表
安井家文書購入(昭和37寄贈のものと一 岡田コレクション(幕末維新志士書画)寄
1981 昭和56
建設工事着工
括のもの)
贈
伊勢・おかげまいり関係資料購入・寄贈
1982 昭和57
大阪市立東洋陶磁美術館開館式
(随時継続)
1979 昭和54
1977 昭和52
1975 昭和50
1974 昭和49 岡田コレクション(貨幣・紙幣)寄贈
1972 昭和47 下郷コレクション(縄文土器)移管
1973 昭和48 奥田コレクション(近世地図・絵図)購入
1971 昭和46 錦影絵資料寄贈
1970 昭和45
1968 昭和44 堀田コレクション(博物館学資料)寄贈
1969 昭和43
昭
1966
和
時
1967 昭和42 建具制作道具および雛形寄贈
代
1965
1964
1963
1962
1961
1960
1959
大阪城天守閣
大阪城総合学術調査開始
千貫櫓・焔硝蔵・金蔵(重文)の解体修理
昭和34
工事開始
本丸地下から豊臣時代大坂城の石垣発
見
大阪城本丸内、旧第四師団司令部庁舎 大阪城本丸内、旧第四師団司令部庁舎
昭和35 の建物を改築し、大阪市立博物館第一次 の建物を改築し、大阪市立博物館第一次
開館(平成13まで)
開館(平成13まで)
南木コレクション(上方郷土庶民資料)購
入
昭和36
大阪城天守閣所蔵コレクションを核とした
初の展覧会「大阪城天守閣復興三〇周
年記念 名品展」開催
大阪市立博物館全館開館
南蛮屏風購入
安井家文書寄贈
昭和37
今中コレクション(初代中村鴈治郎資料)
吉村文書(小牧長久手合戦関係)購入
寄贈
豊臣秀吉自筆書状(14日付、ひがし・きゃ
くじん宛)寄贈
昭和38 鋳造鏡コレクション購入
渋谷文書(徳川時代大坂城再築関係)購
入
一番櫓(重文)の解体修理工事開始
豊臣秀吉木像購入
豊臣秀吉朱印刀狩条目(天正16年7月8
昭和39 藤堂コレクション(文楽人形)寄贈
日付)寄贈
幕末大坂城総修復関係絵図購入
六番櫓(重文)の解体修理工事開始
昭和40
西の丸庭園開園・極楽橋架橋
勝矢コレクション(鐔)寄贈
豊臣秀頼自筆和歌貼交屏風購入
昭和41 武藤コレクション(縄文土器)寄贈
大手門(重文)の解体修理工事開始
大阪歴史博物館
科学館
大阪市立近代美術館建設準備室を設置
大阪市美術品等取得基金設置
大阪市立科学館開館
高畠アートコレクション(近代絵画)寄贈
(平成6まで)
近代美術館構想委員会より「近代美術館
大阪市立電気科学館閉館
構想に関する答申」
関西電力(株)が科学技術館(仮称)を建
築・寄贈する申し出
市政100周年記念事業基本構想に近代
市政100周年記念事業基本構想に新科
美術館建設計画
山本發次郎コレクション(佐伯祐三作品ほ 学技術館新設計画
か)寄贈
新美術館建設準備室
コアラ来園
タスマニアデビル受贈(日本初)
日中国交回復記念で上海動物園がモウ
コガゼル等寄贈
大阪万国博覧会で海外交流活発化、アジ
アゾウ「ラニー博子」来園
ホッキョクグマに氷柱プレゼント開始
サンフランシスコ市との姉妹都市提携に
伴う動物交換実施
大阪市天王寺動物園に改称
動物園改造9ヵ計画開始
天王寺動物園
54
大阪歴史博物館
大阪市パリ事務所開設、同地にて天守閣
所蔵錦絵展“Osaka dans les Nishiki-ē”
(錦絵に見る大阪)開催
鴻池家資料、近世・近代調度等寄贈(平
成9まで)
羽間文庫資料寄贈(平成11まで)
大國百斎資料(美術工芸品)寄贈
http://www.mus-his.city.osaka.jp/
06-6946-2662
FAX
ホームページ
06-6946-5728
電話
http://www.osakacastle.net/
06-6941-2197
06-6941-3044
http://www.moco.or.jp/
06-6223-0057
06-6223-0055
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/
06-6697-6225
06-6697-6221
http://www.osaka-art-museum.jp/
06-6771-4856
06-6771-4874
〒543-0063
大阪市天王寺区茶臼山町1-82
天王寺公園内
〒546-0034
大阪市東住吉区長居公園1-23
〒530-0005
大阪市北区中之島1-1-26
大阪市中央公会堂東側
〒540-0008
大阪市中央区大手前4-1-32
特別展「再発見!大阪の至宝」開催
日本建築協会25年度受賞
鈴木正男コレクション(浅川伯教関係資料
ほか)寄贈
沖正一郎コレクション(鼻煙壺)寄贈
宇野真理栄氏より宇野宗甕作品寄贈
福島サト子氏より川崎毅作品寄贈
2013 平成25
住所
2001 平成13
2000 平成12
1999 平成11
1998 平成10
1997 平成9
1996 平成8
1995 平成7
1994 平成6
1993 平成5
http://www.occpa.or.jp/
06-6920-2272
06-6943-6833
〒540-0006
大阪市中央区法円坂1-1-35
アネックスパル法円坂6F
財団法人大阪市博物館協会 大阪文化
財研究所設立
上町谷1・2号窯発見
2013 平成25
2012 平成24
2011 平成23
2010 平成22
2009 平成21
2008 平成20
2007 平成19
2006 平成18
2004 平成16
2003 平成15
難波宮跡で日本最古の万葉仮名文木簡
発見
韓国(財)嶺南文化財研究院と「交流に関
する協定」締結
糖アルコール含浸法実用化
細工谷遺跡の発掘調査開始
広島藩大坂蔵屋敷跡発掘調査開始
前期難波宮「朱雀門」発見
1992 平成4
1991 平成3
2002 平成14
田原コレクション(鍋島藩窯磁器)寄贈
大阪文化財研究所
佐賀藩蔵屋敷跡調査開始
白檮廬コレクション(中国陶磁)寄贈(平
成16・23)
海野信義コレクション(中国陶磁)寄贈
せともの祭造り物写真資料寄贈(平成24
まで)
小野コレクション(中国石仏)譲渡(平成
14まで)
美術館
鈴木正男コレクション(中国陶磁ほか)寄
贈
ナウマンホールリニューアル
堀尾幹雄コレクション(濱田庄司作品ほ
か)寄贈(平成13・17)
鈴木正男コレクション(韓国陶磁ほか)寄
贈(平成14)
花と緑と自然の情報センター開館
堀尾幹雄コレクション(中国陶磁ほか)寄
贈
新館一般公開 新館開館記念展
自然史博物館
2012 平成24
2011 平成23
〒540-0002
大阪市中央区大阪城1-1
エッゲンベルグ城(オーストリア)と友好城
郭提携締結
2009 平成21
上田城と友好城郭提携締結
大坂城図屏風購入
大坂市街・淀川堤図屏風購入
東照宮縁起絵巻購入
紺糸素懸糸威二枚胴具足(鳥居元忠所
用)寄贈
茶糸威桶側五枚胴具足(伝浅野長政所
用)購入
南蛮屏風が重要文化財に指定
文化庁より刀剣49点(赤羽刀)譲与
扇面三国図(伝秀吉所持)(重美)購入
洛中洛外図屏風購入
2010 平成22 奥田弁次郎関係資料寄贈
入江正信コレクション(中国陶磁)寄贈
(平成13)
フランスにおける日本年にあわせ、同地に
て天守閣所蔵錦絵展“Osaka, Hier et
李秉昌コレクション(中国陶磁)寄贈
Aujourd'hui Collection du château
d'Osaka”(大阪今昔展)開催
昭和6年復興大阪城天守閣設計原図等
李秉昌氏土地・家屋寄贈
関係資料寄贈
蜻蛉燕文様陣羽織(伝秀吉所用)購入
大阪城天守閣が国の登録文化財に指定
「平成の大改修」が完了し開館
2008 平成20 楳茂都流関係資料寄贈
2007 平成19 藤原せいけん関係資料寄贈(平成20)
東洋陶磁美術館
大阪城天守閣所蔵コレクション全国巡回
李秉昌コレクション(韓国陶磁)の寄贈
展「秀吉と桃山文化―大阪城天守閣名品
(平成10)
展―」開催(翌年まで)
紅糸釘抜紋柄威二枚胴具足(堀家伝来)
新館増築工事着工
購入
大阪城天守閣「平成の大改修」着工
考古資料センターと新博物館の建設を発
本願寺坊官下間少進家資料購入
表
前田コレクション(近世書画・工芸)寄贈
藪明山資料(陶画工の作品・工房関係資
料)寄贈(平成8・10)
大阪歴史コレクション(古文書・地図・絵
図・絵画・考古資料等)購入(継続)
2006 平成18 中村順平資料(建築図面)寄贈
2004 平成16
2003 平成15
2002 平成14
大阪城天守閣
柴垣コレクション(近現代歴史資料)寄贈 草花蒔絵螺鈿洋櫃寄贈
平 1999 平成11 寺谷家資料(美術工芸品・生活道具)寄
贈
成
2000 平成12
時
大阪歴史博物館開館
代 2001 平成13 朝鮮通信使関係資料(辛基秀コレクショ
ン)寄贈・購入(継続中)
1998 平成10
1997 平成9
1996 平成8
1995 平成7
1994 平成6
1993 平成5
1992 平成4
1991 平成3
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/
06-6469-3897
06-6469-5186
〒553-0005
大阪市福島区野田1-1-86
中央卸売市場本場業務管理棟8階
サントリーホールディングス株式会社より
サントリーポスターコレクションの寄託
大阪市戦略会議で中之島に新しい美術館
を整備することを決定
大阪新美術館建設準備室を設置(大阪市
立近代美術館建設準備室を改称)
「心斎橋展示室」開設(平成24まで)
北区中之島4丁目大阪大学医学部跡地
北側約8,000㎡を近代美術館用地として
購入
北区中之島4丁目大阪大学医学部跡地
南側約8,000㎡を近代美術館用地として
購入
吉原治良作品一括寄贈
前田藤四郎作品・資料一括寄贈
新美術館建設準備室
サイ舎公開
日本初水中観察可能なカバ舎公開
ZOO21基本計画を策定し、生態的展示を
進める
爬虫類生態館(アイファー)公開
天王寺動物園
http://www.sci-museum.jp/
06-6444-5657
06-6444-5656
〒530-0005
大阪市北区中之島4-2-1
プラネタリウム(全天周映像システム)リ
ニューアルオープン
奈良・時の資料館コレクション購入
真空管ラジオ等、オーディオ関係コレク
ション寄贈
オリジナル全天周映像「HAYABUSABACK TO THE EARTH-」完成・上映開始
大規模展示場改装
昭和初期に制作された日本初のロボット、
学天則を復元、展示
プラネタリウムリニューアルオープン
http://www.jazga.or.jp/tennoji/
06-6772-4633
06-6771-8401
〒543-0063
大阪市天王寺区茶臼山町1-108
大阪市天王寺動植物公園事務所
アフリカサバンナ区肉食動物ゾーン公開
551蓬莱(株)がホッキョクグマ「ゴーゴ」
を寄贈
入園者数1億人突破
アジアの熱帯雨林ゾーン・ゾウ舎公開
プラネタリウム機材(カールツァイスII型25
アフリカ・サバンナ区草食動物ゾーン公開
号機)大阪市有形文化財に指定
大規模展示場改装
大規模展示場改装
大阪大学よりコッククロフト ウォルトン型
加速器(原子核物理実験装置)の受け入
れ
科学館
5.大阪博物場と大阪市民博物館の系譜(1963 年以降の情報追加)
大阪の博物館・美術館の系譜
大 阪 博 物 場
明治7年9月 内務省認可内本町橋詰町旧府庁舎利用
明治8年11月開場(官民協力運営)
(設立目的)内外古今の物品を陳列し、歴代の沿革と現今経済の形状とを徴し、
広く衆庶の縦覧に供し、知識を進め商業を競わせることにある。
府 立 勧 工 場
明治12年改称 府の直営となる
小会を10月1日~11月29日常設する
公 立 大 阪 博 物 場
明治11年8月開設 江戸堀南通3丁目
大会 毎年 3月15日~6月22日開催
小会 毎月 1 ・ 6 ・ 3 ・ 8日開催
府 立 教 育 博 物 館
明治13年6月13日廃止 陳列場を博物館へ移す
明治11年5月開設 北区第4大区5小区常安町18番
明治14年廃止 博物場と合併
府 立 博 物 場
明治17年3月7日改称 博物場に動物檻を設ける
明治18年5月 博物場規則改正、毎年1月20日~12月25日常時開設とする
明治19年 博物場隣地780坪(2578.52㎡)買入れ、事務所と物品陳列室数棟を増築する
明治21年 博物場に美術館落成する
明治29年 博物場北側の地所760余坪(約2512.4㎡)買入れ、東門と売品室4棟の建設着手、翌年竣工
商 品 陳 列 所
明治22年10月22日 大阪府が設立
北区堂島浜通2丁目
明治42年7月31日 大火で全焼
仮事務所を府庁舎内におく
明治36年 第五回内国勧業博覧会に際し、諸設備を拡充
明治36年1月 大阪ホテル新築
同29日 大阪巡航船合資会社設立
博物場は数棟の陳列所・売店・茶店・能楽堂・動物園などでもって構成さ
れ、園内に花樹を植えて、一つの遊覧所・娯楽場を形成する。
第五回内国勧業博覧会
会期 明治36年3月1日~7月31日
会場 南区天王寺今宮
大正3年 府立博物場解散し、その跡地に再建される
その際、博物場で飼養していた動物を大阪市へ譲渡する
市 民 博 物 館
市 立 動 物 園
商 品 陳 列 所
大正4年10月市会決議を経え、第五回内国
勧業博覧会の美術館(天王寺公園内)跡を
改造して利用、同8年12月開館、ご大典記念
事業として成立
大正3年6月 天王寺公園内に起工
同12月竣工 翌年1月開園
旧博物場の飼養した動物180点等下附される
大 阪 府 立 貿 易 館
(設立目的)市民に対して本市の過去及び現状を知ら
しめて将来の準備をするため、また、外来者に本市を
紹介するため。
昭和20年 大阪大空襲で園内に焼夷弾2,000発落下
内本町橋詰町
昭和5年1月1日改称
大 阪市 天王 寺 動物 園
昭和12年4月 建物を産業会館(内本町2丁目)
に移す
昭和7年3月31日 市民博物館廃止
昭和10年 別館科学館を残すのみ
*昭和16年3月 通俗科学知識を普及する(模型類)
昭和39年改称
平成12年 アフリカ・サバンナゾーン公開
(以下、現在にいたる)
大 阪城 公園 ・天 守 閣
(以下、現在にいたる)
昭和25年 市立美術館内で展示開設
昭和6年11月7日竣工
大 阪 市 立 美 術 館
大 阪市 立自 然 科学 博 物館
昭和20年 終戦により米軍が大阪城を接収
昭和23年 接収解除
平成9年 大阪城天守閣が国の登録文化財に指定
天王寺茶臼山住友邸跡
昭和2年12月起工、同11年4月竣工
昭和33年開館
(設立目的)美術及び美術工芸の助長奨励及
び研究を目的とする。
大 阪市 立自 然 史博 物 館
(以下、現在にいたる)
昭和49年開館
平成13年 花と緑の自然の情報センター開館
大 阪市 立電 気 科学 館
昭和20年 終戦により連合軍が接収
昭和22年 接収解除
(以下、現在にいたる)
(以下、現在にいたる)
大正12年 大阪電灯株式会社を大阪市が買収、電気局電灯部
昭和3年10月 電灯市営5周年・ご大礼記念事業として、交
通電気博覧会(天王寺公園)開催
昭和5年4月 電気局舎5階と屋上に電気普及館開設
昭和7年7月 電灯市営10周年記念事業で電気科学館建設
の議おこる
昭和8年9月 電灯市営10周年記念、電気科学博覧会開催
昭和10年2月 プラネタリウム設置内定する
昭和12年3月11日開会式 同3月13日一般公開
昭和35年 難波宮址顕彰会を組織
昭和49年 長原遺跡調査会を組織
昭和50年 高速大阪東大阪線難波宮跡調査会を組織
(財) 大 阪 市 文 化 財 協 会
昭和54年 3団体を統合
(公財) 大 阪 市 博 物 館 協 会
大 阪文 化財 研 究所
大 阪 市 立 博 物 館
昭和35年12月1日開館(1階のみ)
大阪城内師団司令部跡地
昭和37年1月 改修工事のため一時休館
昭和37年11月1日 全館改修工事終了、開館
平成13年3月末閉館
平成22年改称
昭和64年閉館
(以下、現在にいたる)
大 阪 歴 史 博 物 館
大 阪 市 立 科 学 館
大 阪市 立東 洋 陶磁 美 術館
平成元年開館
平成16年 プラネタリウムリニューアルオープン
平成23年 全天周映像システムリニューアルオープン
(以下、現在にいたる)
昭和57年開館
平成13年11月3日開館
(以下、現在にいたる)
平成11年 新館一般公開
(以下、現在にいたる)
55
参考資料:第85回特別展『ルーツ・日本の博物館―物産会から
博覧会へー』昭和54年 大阪市立博物館
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