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聖母、征服者、先住民首長:植民地アンデスにおける聖像受容の政治学
聖母、征服者、先住民首長:植民地アンデスにおける聖像受容の政治学 岡田裕成 (発表要旨) 「融合」の語は、異なる文化の接触・交渉に関する議論の場で頻繁に用いられる。こ の語は、宗教的な文脈においては「習合 syncretism」の概念と隣接する。また文脈に よっては「混血 mestizo」や「雑種性 hybridity」という比喩的な概念が結びつく場合 もある。これらの語は相互に関連し合いつつ、異文化交渉論の定番的な概念となってき た。 しかしながら、征服によって生まれた新大陸植民地のような場所において、文化は単 純に「融合」したのだろうか。あるいは、信仰はたんに「習合」したのだろうか。これ らの概念はいずれも、文化交渉の「結果」としての状況に注目したものであり、その過 程で作用したはずのさまざまな作為や意図に、概して無関心だ。その結果、異なる文化 の接触をあたかも自然現象のようにとらえることにもつながりやすい(それゆえ「文化 の混血」という比喩も安易に用いられる)。だが、植民地のように、異なる文化が支配 と従属の非対称の関係のもとで出会い、交錯する「接触領域」 (M. L. Pratt)において、 文化の交渉は、結果としての状況のみならず、むしろその過程にこそ深く考察すべき問 題が潜んでいる。この報告ではこうした観点から、しばしば地母神的神格との「習合」 が語られるアンデスの聖母像について、《コパカバーナの聖母》の像を例として、予定 調和的な文化の「融合」論にとどまらない議論の可能性を探った。 《コパカバーナの聖母》は、先住民の彫刻家ティト・ユパンキの手で制作され、1583 年、コパカバーナの聖堂に献納された。植民地アンデスにおいて、先住民が制作したこ とが確かで、かつ教会によって公認された最初の聖像として知られる。その制作を主導 し、さまざま援助を与えたのは、コパカバーナのインカ系親族集団の首長アロンソ・ビ ラコチャ・インカであった。 コパカバーナは征服以前からの太陽信仰の聖地の一角を占める枢要の地である。S. マコーマクらが詳しく論じたように、彼らインカ系集団は、かつてこの宗教的聖地の統 治を担った。その一方で彼らは、征服に際してはスペイン人征服者と結び、早くからキ リスト教への改宗を受け入れた人びとでもあった。聖母像の制作とその積極的受容の背 景を理解するには、このようなエリート先住民の立場を見逃すことはできない。 そこでまず注目したいのは、聖像制作に関わるという行為のもつ社会的意味だ。植民 地の教会や行政当局は、先住民の改宗を進める一方で、聖像制作などへの先住民の直接 的な関与については一定の制限を加えていた。この《コパカバーナの聖母》像制作の過 程でなされた司教などからの妨害や、美術制作者のギルドの規定などは、その現実を裏 づける。逆に、聖像を制作し、それをみずから所有することには、支配文化の領域に参 入し、「良きキリスト教徒」としての自己を顕示する大きな意味があったのだ。もとも と宗教的聖地の統治に携わってきたインカ系集団は、聖母像のような信仰の中核的イメ ージにアクセスすることの政治的価値に、敏感であったに違いない。 たほう、聖母像が献納された 1583 年という時期も重要だ。1572 年、ビルカバンバ を拠点に抵抗を続けたインカ勢力の最後の王トゥパク・アマルが捕縛・処刑された。ク スコの宣教師の証言によれば、この後、インカ王族・貴族層はキリスト教への積極的な 接近の動きを強めたという。ティト・ユパンキやアロンソ・ビラコチャ・インカらが聖 母像の制作に向けての試みを始めたのは、まさにこの時期であった。 これらの背景をふまえ、本発表では、聖母像の制作と受容に関わったコパカバーナの 先住民エリートが、土着的な在来宗教への執着よりも、新たな支配文化としてのキリス ト教への適応に深い関心をもち、かつそこに「政治的」ともいえる利害を見いだしてい たことを指摘し、単純な「習合」論にとどまらない植民地のキリスト教美術論・聖像受 容論の可能性を検討した。