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飛び出すむかしの宝物 九州歴史資料館 解説シート やっきょう 小銃の弾丸と 薬 莢 学校から出土した銃弾 にしじんまち い せ き 出土遺跡 福岡市 西新町 遺跡 や っきょう 近代以降の鉄砲の弾は弾丸部分と火薬が入る 薬莢 部分に分かれており、この やっきょう 2点は別々の種類の弾丸と 薬莢 です。どちらも使用済みで、弾丸には打ち出さ や っきょう れ時についた傷が残っており、薬莢 には火薬が残っておらず弾丸が撃ちだされ て先端が開いています。小さい方の薬莢には雷管が残っており、撃鉄で凹んだ 痕跡が残っています。 ぼ し ん この弾丸は スペンサー銃 という明治初期の小銃の弾で、戊辰 戦争で会津藩の 山本八重が使ったものと同じ銃です。現代の弾には銅と鉛の合金で覆われてい ますが、当時は溶かして作った鉛のままのものが使われていました。 やっきょう 薬莢 は 村田銃 に使われた銃弾です。初めての国産小銃である村田銃は日清 E A U U 戦争に使われました。 西新町遺跡のある場所は明治初期には民家が立ち並んでおり、戦争や軍事演習 しゅうゆう か ん が行われた場所ではありません。おそらく、太平洋戦争中に旧制 修猷 館 中学 校で行われていた軍事教練で実弾射撃訓練が行われたときのものでしょう。 下線の付く言葉の解説は裏面にあります スペンサー銃 幕末から明治初期は銃が急速に進化した時期で、戊辰戦争ではいろいろな銃が使われま したが、スペンサー銃はこのうち最新式の銃でした。 幕末に諸藩が外国から購入したいわゆる洋式銃(ゲベール銃)は、球状の弾を撃つもの で、火縄銃の発火装置が改良された程度のものでした。欧米ではすでに椎の実型(ミニエ ー弾)を撃つ新式銃(エンフィールド銃)に交替しており、長州・薩摩藩はいち早く新式 銃を購入し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を圧倒しました。 この新式銃も1発撃つごとに先端から火薬と弾を込めなければならない先込め式でした が、山本八重が使っていたスペンサー銃は手元で弾を込めることのできる後装式の銃で、 弾も火薬と弾が一体となった最新式の金属薬莢が使われていました。 火縄銃・ゲベール銃 の球状弾 スペンサー銃の弾 村田銃 エンフィールド銃 の弾の 1 種 つねよし 銃の名前は開発者に由来しており、村田銃は村田 経 芳 が開発し、明治 13(1880)年に 日本軍が採用した最初の国産小銃です。明治初期の日本軍にはさまざまな外国製銃が混在 しており、銃ごとに銃弾を用意しなければなりませんでしたが、村田銃が開発されたこと で、銃弾の交換が簡単になり、日清戦争に使われました。 村田銃の薬莢は、弾丸の根元が入る部分と火薬が入る部分の段が中央付近にあることと 底部の直径が大きく縁が張り出していることが特徴です。採用後も何度も改良されている ため、年式で違いがあります。雷管部品を取り付ける部分が底面から1段飛び出している ものは口径が 11mm あり、11mm 弾を使う村田銃は 13 年式とその改良型の 18 年式のみな のでどちらかのものです。小さいほうは口径8mm で、22 年式のものです。13 年式と 18 年式は1発しか弾を込めることができない単発式だったため、22 年式では連発式にされま した。しかし、チューブ式弾倉が用いられており暴発を防ぐため弾の先端に平坦面を持た せたため空気抵抗を受けやすくなり命中率が悪くなりました。その後、30 年式歩兵銃が登 場するとこれに交替し、多くは散弾銃に改造されて猟銃として払い下げられました。 図引用文献:玉東町教育委員会 2012『玉東西南戦争遺跡』 写 真:本館撮影 (文化財調査室 秦)