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『 あの方は、ここにはおられない 』
知多教会説教 2016/03/27 復活祭 知多教会 牧師:花城 裕一朗 出エジプト記 15:1-11 コリントの信徒への手紙一 15:21-28 ルカによる福音書 24:1-12 『 あの方は、ここにはおられない 』 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた がたにあるように。 アーメーン。 皆さん、イースター、おめでとうございます。やっとイースターが来 た、という気が致します。特に今年の四旬節は、先週の聖金曜日に行っ た、受難賛美礼拝を予定していましたので、その日に向かって、ずー っと、主の十字架のことを考えつつ、歩んでいたように思います。本来、 毎年毎年、そのように四旬節を歩むべきなんでしょうけども、今年は特 に、いつもよりも深く、主の十字架を覚えて歩む、四旬節であったよう に思います。しかし、そうであったからこそ、またこうして、イースター を迎える喜びも、ひとしお大きいものとなりました。 先週の受難主日には、いつもよりも大幅に長く、福音書朗読を行い、 主イエス・キリストの十字架の受難の出来事を、御言葉を通して覚えまし た。また、聖金曜日の受難賛美礼拝では、これもまた、たっぷりと長い 福音書朗読劇と、また、ドイツコラールの、心に響くカントライの歌声を 1 もって、主の受難の出来事を心に覚えました。その印象は今もまだ、 生々しく、私の心に残っております。 ましてや、今日、お読みした福音書の中に出て来る婦人たちは、私 たち以上に、そのような気持ちでいたことでしょう。彼女たちの心には、 まだ、十字架に付けられたイエス様のお姿が、まだ、生々しく、痛々し い気持ちで、残っていたに違いありません。鞭打ちの拷問でイエス様 の体に無数に刻まれていた深い傷跡、十字架の上で叫ばれたイエス 様のお声、そして、見るも無残な姿になってしまった、イエス様のお身 体。その日から、まだ3日です。たったの3日しか経っていないのです から、婦人たちの心の内は、察するに余りあるものだったと思います。 ただ、悲しくて、悲しくて、まだ、その悲しみのどん底の中にいたことで しょう。そのような心持ちで、婦人たちはイエス様のお墓へと向かった のでした。ところが、お墓の前に置いてあった大きな石は、わきに転 がされており、イエス様のご遺体は、お墓の中に見当たらなかったの です。どうなってしまっているのか、婦人たちは途方に暮れていまし た。その時、輝く衣をまとった主の天使が二人、現れて来て、婦人たち に言うのです。 (ルカ 24:5-7)「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あ の方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにお 2 られたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪 人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになって いる、と言われたではないか。」 この天使たちの言葉を聞いて、「婦人たちはイエスの言葉を思い出し た」(ルカ24:8)とあります。これはきっと、婦人たちは、イエス様の言葉 を思い出しただけではなくて、≪イエス様が復活されたのだ≫という ことも、信じた、ということだと言えます。ですから彼女たちは、墓から 帰り、使徒たちと他の人たちにも皆に、一部始終を知らせたのです。 今日私たちは、この天使たちの言葉に注目したいと思うのです。 (ルカ 24:5-6)「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あ の方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 この天使たちの言葉から、私たちは多くのものを汲み取ることができ ると思います。婦人たちは、イエス様は死んでしまったと思っていまし た。イエス様は死んでしまったし、イエス様のことはこれでもう、おしま いだ、そう思っていたことでしょう。そのような婦人たちの姿は、私たち すべての人間を代表している姿だと言えます。私たち、すべての人間 は、イエス・キリストによって変えられるまでは、この婦人たちと同じよう に考えていたのです。 3 ≪イエス様を死者の中に探すこと≫、≪イエス様を墓の中に探すこ と≫、これは、イエス・キリストを信じる前の、すべての人間の姿なので す。私たちは、イエス様を信じて、イエス様によって変えられるまでは、 この世的な考えによって歩み、この世的な生き方でしか、生きられませ んでした。どう、あがいてみても、私たち人間は、この世的な力の外に 踏み出すことは出来なかったのです。この世的な力は、目に見えない 鎖でもって、私たちの心を、私たちの魂を、縛っていたのです。そうで ある限り、私たちは、イエス様を死んだものと思い、イエス様を墓の中 に探すしかなかったのです。信仰が与えられない限り、信仰を持つこ とができない限り、イエス様を求めようとしても、そのようなやり方でし か求めることは出来なかったのです。 ところが、ここで、神の力が働くのです!!神は天使たちを遣わし、 あの言葉を語らせました。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここには おられない。復活なさったのだ。」(ルカ 24:5-6) この、天使たちが告げた言葉によって、婦人たちの心を、魂を、縛っ ていた、この世的な鎖が打ち砕かれたのです!!婦人たちは、この 言葉によって新しく生まれ変わったのです!なぜなら、≪十字架で死 んだ主イエス・キリストは、生きておられる≫という信仰が、その時、婦 4 人たちの心に、神の力によって、与えられたからであります! 天使たちは言いました。「あの方は、ここにはおられない。」(ルカ 24:6)私たちはこの言葉を、重く受け止めなければならないと思いま す。多くの人々が、主イエスがおられない所に、主イエスがおられると 思って、探しているのではないでしょうか。この世的な学問、この世的 なものの考え方でもって、主イエスを探そうと試みても、そのような試 みはすべて、失敗に終わるでしょう。なぜなら、主イエス・キリストは、 神であって、私たちは被造物、人間に過ぎないからです。神は、そう 易々と、被造物である人間にお姿を見せることはありません。人間は、 人間の力でもって、神を見出すことはできないのです。パウロもまたそ の事を、次のように証ししています。 (Ⅰコリント 1:18-21)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚か なものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう 書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の 賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はど こにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものに されたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでし た。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚か 5 な手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」 私たちが、本当に主イエス・キリストを見出すためには、私たちはこ の世的な力の≪外に≫踏み出して行かなくてはなりません。この世的 な力から≪自由に≫ならなくてはなりません。この世的な力は、私た ちの心を、私たちの魂を、見えない鎖で縛り付けています。それは≪ 罪の力≫とも言い換えることができます。罪の力が、私たちの心を縛り、 私たちの魂を縛って、イエス・キリストの福音の光を見えないようにして いるのです。この世的な、人間的な憶測でもって、イエス・キリストを捜 し求めても、本当のキリストはそこにはいません。例えば、キリストを、 偉大な人物、たくさんいる偉人の中の一人として考えている限り、その 人は本当のイエス・キリストを見出すことはできません。聖書を、倫理や 道徳の本とだけ考えて読んでいる限り、その人は本当のイエス・キリス トを見出すことはできません。神が人間になれるはずがないと、常識 的に考える人、死んだ人間が復活できるわけがないと、科学的に考え る人、そのような人は、本当のイエス・キリストを見出すことはできませ ん。復活のイエス・キリストは、そういった常識的なことを超えた所、科 学的なことを超えた所に、おられるのです。なぜなら、イエス・キリスト は神であられるからです。 6 十字架に付けられたイエス・キリストと共に死ぬこと。つまり、この世的 な力に対して、この世的なものの考え方に対して、死ぬこと。このこと を通して私たちは、この世的な力から自由になり、主イエス・キリストの 復活の光を見出せるのです。私たちも、この世的な力に対して死んで、 新しい復活の命に生まれ変わるのです。そのようにしてこそ、主イエ ス・キリストが下さる、永遠の命の力が私たちの中に注ぎ込まれて行く のであります。 今日は、喜びの日、イースターです。私たちは、主イエス・キリストの 復活を信じる、その信仰の力によって、新しい命に生きましょう!この 命は、信じる者に与えられる命です。信じる前にあった命ではなく、神 によって、神の力によって、新しく生まれさせられた命です。これこそ、 ≪永遠の命≫です!私たちをこの、新しい命に導いてくださる、十字 架と復活の主、イエス・キリストにご一緒に感謝を捧げましょう。 祈りましょう。 7