...

p321~p358 - 千葉県教育振興財団

by user

on
Category: Documents
31

views

Report

Comments

Transcript

p321~p358 - 千葉県教育振興財団
第 1節 古墳時代「前期」と前方後円墳
ち神門古墳群 と小田部古墳 はいわゆる突出部 (陸 橋部 )付 円墳 であ り,平 面形 は前方後円形 を呈 している。
神門古墳群 は田中氏 による分析 で既 に明 らかなよ うに,出 土土器 に北陸系,東 海西部系 が顕在化 して いる
が,系 譜 の分析 をさ らに強 めると,例 えば神門 5号 墳出上 の装飾壺 には,庄 内式初期 の技法 と在地的 な後
期弥生土器 の融合 が認 め られ,神 門 4号 墳 の有飾 の有段 (二 重 )口 縁壺 に も,庄 内式 の櫛描波状文 の系譜
を無視 できない。 また,小 田部古墳 には明 らかに東海地方西部 の上器 が もた らされて いる。 こ うした初現
期 の前方後円形 の古墳 には,在 地 ,畿 内,東 海西部,そ して北 陸 の系譜 が融合 して いると言 って良 い。一
方,前 方後円形以外 の,例 えば愛宕 4号 墳 (方 墳 ),高 部古墳群 (前 方後方墳 ),滝 ノロ向台 9号 墳 (前 方
後方墳 ),阿 玉 台北 A-7号 墳 (前 方後方墳 ),戸 張一 番割古墳 (前 方後方墳 ),大 崎台13号 (方 墳 )等 で
あるが (方 形周溝墓 との区別化 の問題 は後述す る),戸 張一番割 ,大 崎台例 は畿内系譜 が極端 に顕在化 し
,
高部 ,滝 ノロ例 は東海系,畿 内系,在 地系 の融合,愛 宕例,阿 玉台北例 は在地性 が強 い等,地 域 による外
来系譜 と在地系譜 の偏在性 が極 めて大 きい。 こうした地域色の強 い古墳 の中 で,養 老川,村 田川 の近接 し
た一帯 のみ前方後円形 の古墳 の出現 を見 ていることは何 を物語 るのであろうか。 なお, ここで留意 してお
きた い点 は,外 来系土器 の存在解釈 である。 この出現 イ コール外来文化 の受 け入れ,で ないことは当然 で
あるが,土 器 だ けが動 くことはないわ けであ り,必 ず人間が介在す る。そこには派遣,婚姻 ,争 いの等様 々
な交流現象 に加 え,習 俗,慣 習等 の伝播 も想定 されることは前提 としてお きた い。
副葬品 については,神 門古墳群 のみ,金 属製品 において傑出 した内容 と言 え る。 5号 墳 の多孔平根式鉄
鏃, 4号 墳 の定角式鉄鏃 の古墳 出土 は県内 で類例 が無 く,畿 内,東 海西部 の外来系譜 が想定 で きる。 ガラ
ス玉類 は弥生時代 か らの継続性 が強 い副葬品 であるが,神 門 4号 墳 にお ける多量 の破砕品 に見 る祭祀 の あ
り方 は,在 地 の弥生墓制 か らの脱却 と考 えぎる得 ない。一方,主 体部構造 では,粘 土を使用 しな い在地的
な (組 合せ式 ?)木 棺直葬 が この時期 に一般的であった可能性 が高 く,粘 土椰 ,割 竹式木棺 が明確 に見 ら
れるのは,後 の時期 の手古塚古墳 の時期 にな ってか らである。 このよ うな事実 か ら判断 して,草 刈 I期 の
段階 での房総地方 の古墳群 には,近 藤理論 における墓制 の「 在地的 な飛躍的継承」要素 が一 部 ではかな り
看取 される一方 で,狭 い房総地方 の中 で さえ,土 器 に見 る外来系要素 の地域差 が顕著 であ り,基 本的 な葬
法すなわち主体部構造 において,前 時代 に も共通す る木棺直葬 が主 であることは在地性 が強調 される。言
い換 えれば,高 部古墳群 であって も,土 器 の型式観 において東海 ひいては畿内地方 の系譜 を認 めたとして
も,葬 法 にお いて在地性 が強 く,死 者 に対す る基本的 な見方 が「 飛躍的」 に転換 して いたとは言 い切 れな
い。 なお,都 出氏 の言 う「 北頭位埋葬」 も房総地方 での弥生後期方形周溝墓 では見 られない現象 であるが
,
草刈 I期 の古墳群 も同様 であ り,や は り在地性 が強調 される。上器 や一部副葬品 に見 られる「 畿内系」 も
あ くまで型式上 の波及現象 であ り,強 力 な政治権力 を背後 に伴 った ものではなか った。 その受 け入 れ方 は
地域 によってかな り異 なっていたと思われ るが,彼 らが河川を越えるよ うな支配力 を房総 の地 にみせたわ
けではなか った。 このことは草刈 I期 ,そ れ もおそ らく前半 の段階 で上総地方 で も各河川 ごとに, ほぼ同
時 に前方後方墳 や突出部付古墳 が存在 して いたことか らも想定 され る。
第 2の 時期 は草刈 Ⅱ期 にお ける (大 形 で定型化 した)前 方後円墳 の時代 である。長南町能満寺古墳 ,市
原市今富塚山古墳 ,下 総町大 日山古墳 の 3基 に代表 される。草刈 Ⅱ期 の段階 は,草 刈 I期 に見 られた外来
系譜 の土器 が各地 で受容,定 着 し始 めている。前方部 がバ チ形 に開 き,地 山成形 を積極的 に取 り入 れたと
考え られる能満寺古墳,大 日山古墳,前 方部 が直線的 な今富塚山古墳 と形状的 には差異 はあるが,主 体部
構造 は 3基 に共 に「木炭」使用 という共通性 がある。 そ して未 だ粘土椰,割 竹式木棺 は見 られな い。三 角
―-321-―
第 3章
前期古墳 と出現期古墳について
縁神獣鏡 の伴 出 は共 に無 く,能 満寺古墳 で は,詳 細 は不明 であ るが小形 の重 圏文鏡 が確認 されて い る。 な
お, これ らの前方後 円墳 の「 定型化」 の解釈 につ いて, いわゆ る「 箸墓類型 」等 の畿 内型古墳 に はほ ど遠
いが,草 刈 I期 の段階 か ら飛躍 的 な規模 の拡大 を見 て い ると言 え よ う。草刈 I期 あ る いは草刈 Ⅱ期前半 で
の最大古墳 は,高 部古墳群 や北 ノ作 2号 墳 を して も30m級 にす ぎず,径 に して倍以上 の拡大 で あ る。 これ
らを して「 前期 の前方後 円墳 」 とす ることに は問題 はないで あろ う。 ただ し後 の 時代 に 発生 す る100mを
越 え る大形 前方後 円墳 や三 角縁神獣鏡 や粘土榔 ,割 竹式木棺 を有 す る手古塚古墳 の被葬者達 に対 し,草 刈
Ⅱ期 の段階 での被葬者達 の地位 ,実 態 あ るいは畿 内政権 との関係 はどの よ うな もので あ ったのだ ろ う。
くり返 す よ うであ るが,草 刈 I期 で は,神 門古墳群 や小 田部 古墳 ,高 部古墳群 ,滝 ノロ向台 9号 墳 ,あ
るいは大崎台 13号 ,戸 張 一 番割古墳等 の地域 において は,搬 入品を含 む外来系土 器 の積極 的 な導 入 が 顕著
で あ り,北 陸地方 を含 む交流 の第 一 の波 が存在 した。畿 内系 が 際立 つ地域 もあ るが,そ れが政治 的権 力力
を伴 うものでな く,全 体 か ら見 れば東海西部 系 が圧倒 的 に多 い。 しか し,例 えば 国分寺台周辺 で は,神 門
5号 墳 か ら 4号 , 3号 とい う時間的推移 の 中 で,(培 結合器 台 の よ うに房総 で も定着 して い く土 器 は別 に
して )北 陸系土器 は 3号 墳 の段階 で消滅 して い く状況が看取 されて い る。同時 に東海西部系 につ いて も S
字甕 の新 たな搬入 もか な り認 め られ たが,房 総地方 にお いて定着土器 には至 らなか った と言 え よ う。 その
かわ りに高外 につ いて は広 く定着 ,変 容 して い くのが特徴 であ る。 このよ うに北 陸 ,東 海西部 系 につ いて
は消滅 , も しくは停滞期 間 で あ った と も言 え よ うか。 この時期 が草刈 Ⅱ期 であ る。 そ して土 器型式 的 に最
も斉一 的 に広 が りを見 せ ,い わゆる小形精製土器 =小 形器台 ,小 形増 の組 み合 わせ に加 え,有 段 (二重 )
口縁壺 が古墳用途 の土器 と して定 着 す る。 そ して この現象 こそ強力 な畿 内系 (政 治的権力 を背景 と して い
るか どうかは別次元 であ り不明 であるが)と して想定す べ きもの と言 えよう。 まとめると,① 畿 内系土器
は草刈 I期 では小地域的格差を もって断続的 に波及,定 着 し, さらに草刈 Ⅱ期 の段階 では氾地域的 に小形
精製土器 や有段 口縁壺 の波及,定 着 とい う大 きな波を起 こしている。②東海西部系 は草刈 I期 の段階 で畿
内系以上 の波 を与 えたが,そ の後房総地方で の受容,定 着 がはか られた。③北陸系 は草刈 I期 の段階 で小
地域的 に波及 したが,い ずれ も畿内系譜 と伴 う付随的 な系譜 と言 え,草 刈 I期 の段階 で消滅す る。以上 の
土器型式 の推移 か ら判断す ると,草 刈 Ⅱ期 の段階 での畿内系譜 に集中され る第 2の 波 に注 目せざる得 ない。
こ うした中 で発生 した古 墳 が能満寺古墳 であ り,や や遅 れて今富塚山古墳 で あると考 える。 この背景 には
有段 (二 重 )口 縁壺 の定着,普 及 に見 られるよう,東 海,北 陸地方 を超越 した畿内 との強力 な関係 を重 視
せざるえない。 しか し,一 方 で主体部構造,三 角縁神獣鏡 ,北 頭位埋葬 や段築成 といった「 定型化」要素
は極 めて不十分 な状態 で もあ った。 いわば「地方型 の定型化 した前方後円墳」 の発生 である。
さて, こ うした能満寺古墳 は じめ, この時期 の前方後円墳 は,は た してどの程度 の勢力基盤 が あ ったの
であろうか。草刈 Ⅱ期 の段階 では,前 方後円墳 は極 めて少 ない一方 ,最 大 で30m級 の前方後方墳 の存在 と
それを取 りま く方墳群 の存在 が各地 で認 め られるのが特徴 である。前方後方墳 は基盤集落 を周囲 に従 え る
一方 ,能 満寺古墳 の よ うな隔絶観 は感 じられない場合 が多 い。 そ して草刈 Ⅱ期 の段階 で消滅 して い くのに
対 し,前 方後円墳草刈 Ⅲ期 の段階 では じめてloo mを 越え,最 大化す る。す なわち草刈 Ⅱ期 の段 階 での集
落 にお ける,基 本的,一 般的墓+1は ,前 方後方墳を頂点 と した方墳 が主体 を 占 めて いた と考 え られ る。
(方 形周溝墓 と報告 されるもの も存在 してお り,在 地的な墓制 は継続 して い る)。 となると,逢 か遠方 ので
ほぼ同時期 に存在 して いた能満寺古墳被葬者 は, いったいどのよ うな立場 であ ったのだ ろ う。小形精製土
器 や有段 □縁壺 の出現,定 着 には畿内政権 の政治的権力 の波及 を想定 しやす いが,な らば当時 の権力 の象
―-322-―
第 1節 古墳時代「前期」と前方後円墳
徴,具 現化 と も言 える墓制 において,な ぜ これほどまでに前方後方墳 と方墳 の存在 を各地 で許容 し, 自ら
も畿内的 な葬法 を主 張せ ず,在 地 と融合 して いたのであろうか。畿内政権 を背景 と した政治的支配力 を支
配者 に求 めるな ら,そ れは草刈 Ⅱ期 の段階 ではまだ出現 して いなか ったと言 えよ う。
なお,今 の ところ仮説 の域 を超え るものでは無 いが,能 満寺古墳 については,茂 原市国府関遺跡出土遺
物群 に注 目せざるえない
6)。
出土土器 には草刈 I期 併行期 も含 まれ るが,草 刈 Ⅱ期以降 も存在 して い る。
となると,か な り離 れた位置 (一 宮川 を約 8 km程 上 る)で はあるが,能 満寺古墳 の築造時 にキヌガサ,赤
塗木剣,琴 板等,明 らかに権威象徴的 と同時 に極 めて呪術的,祭 祀的 と も言 うべ き特殊品 が多量 に存在 し
ていたことも比定で きな い。能満寺古墳被葬者 は,当 時数少 ない前方後 円墳 に葬 られたが,そ れは畿 内の
政治的権力 の象徴 でな く,そ れ以前 に もた らされた呪術的,祭 祀的性格 の強 い人物 ではなか ったのか, と
考 えている。
さて,80m∼ 100m級 の大形 の前方後 円墳 が房総地方 で出現 して くるのは草刈 Ⅲ期 か ら和 泉式 (中 期古
墳 )に かけて,そ の ピー クがあると言 って良 い。 これが第 3の 波 (時 期 )で あ る。養老川 の釈迦 山古墳
(93m)姉 崎天神山古墳 (130m),小 櫃川 の浅間神社古墳 (103m),飯 籠塚古墳 (102m), 自山神社古墳
(88m)一 宮川 の油殿 1号 墳 (93m),栗 山川 の しゃくし塚古墳 (82m),利 根川下流 の三 之分 目大塚 山古
墳
(118m),で ある。未調査 の もの も多 いが,墳 形等 か ら判断す ると前方音
「 が発達 した ものが多 く,ま た
出土遺物 か ら中期 に属す るもの も含まれ る。但 し,大 形化 が普遍的 と言 うわけではな く,利 根川下流 の滝
台古墳 は61m,弁 天古墳 に至 っては35mで ある。なお, こ うした墳丘 の変遷 については後述 してある。草
刈 Ⅲ期 においては,冒 頭 で も述 べ たとお り,釈 迦山古墳 が重要古墳 として確認調査 が行われている。粘土
椰,割 竹式木棺 と思われる一 方,北 頭位埋葬 は認め られない。出土品 で最 も注 目され るのは柱状脚高不 で
あり, この系譜 の分析 が重要である。草刈 Ⅱ期 までの高ネ は,草 刈 I期 を起点 と した東海西部系 の受容 と
定着,変 容 で あ った。 しか し,草 刈 Ⅲ期 において,布 留式初期段階 の柱状脚高不 が搬入,定 着 して い る。
釈迦山古墳出土品 は中空 であるが,中 実 の もの も存在す る。 これは特 に柱状化 が際立 ち,完 全 な円柱状を
呈 し,裾 が ラッパ状 に屈曲外反す るもので,公 津原遺跡等 ,ゴ ヒ東部地域 によ く見 られ るもので ある。北陸
地方や東北地方南部 にも共通す る形状 であ り,直 接 の出自は不明 で あるが,畿 内系 としたと して も,波 及
ルー トが釈迦山例 のよ うに直線的な ものではな く,北 方 ルー トによ り変容,定 着 した ものと考 えている。
いずれに して も草刈 Ⅲ期 においては,新 たな畿内の系譜 が認 め られる一方,そ れまでの小形精製土器群
は消滅 して い くことにな る。 やがて古 墳用途 として,土 器 その ものの使用 が無 くなるという方向性 も看取
されて い る。一方 で古墳用途 として注 目されて くるのが,埴 輪壺 と も言 うべ き特殊 な壺 であろ う。釈迦山
古墳 で も出土 した大形 の増 は,全 容 が明 らかでない ものの,朝 顔状 に開 く口縁部 は,大 厩浅間様古墳 や鶴
塚古墳 とい う草刈 Ⅲ期以降 の古墳 に共通す る現象 と考 えて いる。 こ うした埴輪 へ の萌芽 は茨城県上 出島 2
号墳等 に も見 られ,利 根川を超え た広範囲での墓制,葬 法 の共通性 が注 目され る。上出島 は前方後円墳
,
大厩浅間様 は円墳 とい う違 い も併 せ, こ うした強 いつ なが りの背景 には, どのよ うな支配勢力を想定 した
ら良 いので あろうか。 おそ らく釈迦山古墳 に,畿 内地方 の布留式土器を伝えた勢力 ,現 象 と無関係 ではな
か ったはず である。 なお,大 厩浅間様 に代表 される「 円墳」 の普及,定 着 もまた草刈 Ⅲ期 の特徴 である。
墳丘 や主体部構造 が明確 でな い小形円墳 が方墳同様 ,群 構成 を示す状況 を経 て,大 形 の有力円墳 が各地 で
出現す る現象 は, この時期 の前方後円墳 の 出現 とは別 の系譜 と考 えてお くべ きであろうか。
草刈 Ⅲ期 の前方後円墳 で もう一つの大 きな課題 が ある。それ は手古塚古墳 で ある。房総地方 で唯一「 三
-323-
第 3章
前期古墳 と出現期古墳について
角縁神獣鏡」 の 出土 があ り,長 大 な粘土椰 ,割 竹式木棺 を有 す る定型化 した前方後 円墳 と言 え る。但 し
,
全長 が60mで あ り,立 地 的 に も矢刀剛‖最下流 に位置す る。 100m級 の大形前方後 円墳 が 小 櫃 川 中流 域 に 点
在す るの に対 し,極 めて対照 的 であ る。編年 の基準 の一 つが布留式 の「 朱甕」 とい うの も微妙 で あ るが
,
巻末図版 で も明 らか なよ うに多 くの「 銅鏃 」 の型式 は,若 干遡 る編年観 が あ るか も しれ ないが,石 釧等 の
石製品 や直刀 には草刈 Ⅲ期以降 の要素 と考 え ぎる得 ないで あろ う。 このよ うに草刈 Ⅲ期 の間 には,畿 内政
権 との連 合 と もい うべ き三角縁 神獣鏡 の 出土 ,河 川 を上 る100m級 大形前方後 円墳勢 力 ,利 根 川 を超 え る
広範囲 の勢力基盤 の存在 ,円 墳 の定着等 が断続 的 に展開 して いた激動 の時期 であ った と言 え よ う。
注
1)寺 沢 薫「纏向型前方後円墳の築造」『同志社大学考古学 シリーズⅣ』『考古学 と技術』
2)近 藤義郎「前方後円墳 の誕生」
『岩波講座日本考古学 6』 1986
の
3)都 出比呂志「 前方後円墳 誕生」『古代を考える 古墳』白石太一郎編 1989
4)白 石太一郎「 日本古墳文化論」『講座日本歴史」 1巻 東京大学出版会 1984
1988
白石太一郎「 初期 ヤマ ト政権 の成立 前方後円墳出現 の意味と歴史的背景」
『新視点
日本歴史 2 古代編』新人物往来社 1993
5)『 茂原市国府関遺跡群』
3。
財団法人長生郡市文化財センター 1990
前期 の 区分 一土器 型 式 か ら見 た 房総 地 方最古 の 前 方後 円墳 ―
前項 において,今 富塚 山古墳,能 満寺古墳 ,大 日山古墳 について,草 刈 Ⅱ期 の段階 での前方後 円墳 に位
置 づ けた。今 のところ, この 3基 が県内最古 の前方後円墳 の候補 と言 って良 い。 しか し,い ず れ も全面調
査 が実施 されてお らず,確 定的ではな い。特 に大 日山古墳 は出土土器 は不明 である。 したが って今富塚山
,
能満寺古墳出土 の上器 の型式観 について,再 度確認 してお きた い。
①市原市今富塚山古墳 (第 2章
第84図 参考 )
全長約 110mで 埋葬施設 に木炭 を使用 して い る。時期決定 の根拠 は第84図 の有段 口縁 の底部穿孔壷 (1
∼ 6)で あ る。草刈編年 において有段 口縁壺 の変遷 は,草 刈 I期 後半段階 での神門 4号 墳 の搬 入品例 を初
現期 と見 ている。畿内系 であ り,そ の後草刈 Ⅱ期前半 において無文化 し,後 時代 まで定着す る。前方後方
墳 には普遍的 に副葬 され,集 落内部 で も使用 されて い る。型式的 には神門 4号 墳例 のよ うな外側 に大 きく
ハ の字 に開 く尖底状 の ものか ら,次 第 に水平方向へ の張 り出 しが弱ま り,草 刈 Ⅱ期後半 では草刈 A103号
墳,東 間部多 2号 墳 に見 られ る,有 段簡略化及 び胴部横
=、
1図 編年表参照 )。
くれ形状を経 て,草 刈 Ⅲ期 では形骸化す る (第
一方 ,報 告者 の判断 では第84図 1か ら6ま です べて (有 段 □縁 )底 部穿孔壺 片 と して
いるが, 2を 含んだ場合,有 段下部 がも、くれた形状 の壺 とな り,無 文化 した有段 口縁壺 と しては房総地方
で類例 を見 いだせず,茨 城県香取神社古墳 (第 204図 )出 土例 が唯一である。仮 にその形状 で あ った場合
,
形骸化 した もの と言 え,編 年的 には草刈 Ⅱ期後半 か らⅢ期 にか けての姿相 である。 しか し,第 84図 のよ う
に, 2を 除外 して形状復原 した場合 を考え てみたい。 日縁部 は大 きく斜 めに張 り出 した形状で,復 原高約
40∼ 50cm,球 体胴部 にはなるが日径 をそれほど凌駕 しない。す なわち神門 3号 墳 に類似す るもの となる。
また,底 部 を焼成前 に垂 直 に切 り取 って あ り,壷 としての形状を損 なわない ものであ り,第 4図 65の よ う
な胴下半部切断方式 では無 い,古 相 と も言える技法 である。一方,(2)に ついて は有段 口縁高塔 の破片 と
も考 え られ る。 となれば畿内系 として草刈 Ⅱ期前半 まで遡 ることはで きる。以上 の分析 について は,非 常
―-324-―
第 1節
古墳時代「前期」と前方後円墳
に細片 で ある出土資料 か らの推論 で あ る。断定 はで きな い ものの総合的 には草刈 Ⅱ期 の範 Ⅲ
壽には入 る前方
後 円墳 と した い。
②長南町能満寺古墳 (第 2章
第 174図 参考 )
以前 は前方後方墳 ではないか と言 われて いた。 もしそ うであ った ら,30m前 後 にとどまっていた古式 の
前方後方墳 の系譜 の被葬者層 が,前 方後円墳以前 の あるいは同 じ頃,何 らか の影響 によ り,地 域的 な首長
として飛躍的 に強大化 したと考えざる得 なか った。 しか し,前 述 したとお り,平 成 7年 度 に, くびれ部形
状確認調査,周 溝範囲確認調 査が行われ,全 長73mの 前方後円墳 で ある ことが確定 した。 その時 の調査 で
は古墳 に伴 うとされる土器 は出土 していない。 したが って第 174図 にある明治大学 の 資料 が基準 とな る。
(1),(2)は 今富塚山古墳 と類似す る有段 口縁底部穿孔壺 である。 日縁部 の張 り出 しが強 く,水 平 であ る形
状 は草刈 Ⅱ期後半 には積極的 に見 られな い。 また,高 堺 については小形 の椀状外部 を持 つ元屋敷系 である
が,外 部 がやや扁平化 し,器 高 が高 くなっている状況 は草刈 Ⅱ期前半 に比定 されよ う。一方 で,柳 葉形銅
鏃 については,第 4章 の 田中 の分析 ではこの編年観 には必 ず しも当てはまらない要素 が強 い。 したが って
,
今 のところ草刈 Ⅱ期 という大枠 で捉 えてお くべ きであろうか。 なお,鏡 につ いては小形 の重圏文鏡 が見 ら
れるが詳細 は明 らかでな い。以上 の ことか ら,現 状 では能満寺古墳 が房総地方最古 の前方後円墳 (草 刈 Ⅱ
期 )で あるが, この時期 を もって房総地方 の古墳時代前期 の始 ま りと確定 で きるわけではな い。 しか し草
刈編年上 , これよ りも古 い型式 となると草刈 I期 であ り,後 述す るように房総地方 ではこの時期 は小形方
墳,前 方後方墳 が展開 して いる。 したが って前方後円墳 を基準 と した時期区分 であれば,現状 では「 前期」
の開始 を,草 刈 Ⅱ期 に見 てい くことに問題 はないと考えている。
4.出 現期 の 区分 ―草刈 I期 併 行期 の古 墳 一
前節 では能満寺古墳 =草 刈 Ⅱ期 を古墳時代「 前期」 としたが,そ れではこれ以前 の草刈 I期 併行期 に属
す る,小 形方墳,前 方後方墳等を どう捉え るべ きであろうか。近藤理論 に基 づ けば,房 総地方 では能満寺
古墳 よ りも古 く,か つ定型化 した前方後円墳 の存在 が確認 されな い限 り, これ ら草刈 I期 に属す る古 墳群
はす べて弥生時代墳墓 もしくは方形周溝墓 ということにな ってい く。 しか し最近 の調査例 を見 ると,古 式
の前方後円墳 の発見 は無 く,冒 頭 で も述 べ たとお り,前 方後円墳 とかつては言 われ,粘 土榔主体部 の沼南
町Jヒ ノ作 2号 墳 が,前 方後方墳 であることが判明す るなど,前 方後円墳 に関す る状況変化 は認め られない。
む しろ草刈 I期 併行期 の方墳 (陸 橋付 を含 む),前 方後方墳 の良好 な発見例 が相次 いでい ると言 えよ う。
「古墳」 の概念規定 や「 古墳発生論」 は,研 究者 の歴史観 に基 づ くものであ り,今 後 も論争 が絶 えない と
思われるが,そ れが根本的 に異 なると言 うのな ら,永 遠 に解決 で きな い,あ るいは しな くて も良 い課題 な
のか も知 れない。時代区分 が明確 な歴史時代 の場合,例 えば封建支配者 の権力掌握 日を もって○○時代 が
始 まる, とされるが, この場合,そ れに伴 う「社会構造等 の変遷上 の画期」 の追究 は後回 しにされ,言 己念
日的な時代区分 が優先 されて い ることが特徴 である。 したが ってそ う した区分 を取 り入 れな い考古学上 の
「古墳時代」 ゆえに,常 に論議 の対象 とな らざるを得 ないのである。
これまで「 前期」
「前方後円墳」 を中心 に論 を進 めて きたが, ここでは研究史的 に も対 峙す る形 で登場
した「 出現期」 について も触 れてお く必要があろう。房総地方 における「 出現期」 の研究 につ いては,言
うまで もな く市原市神門古墳群 にお ける田中新史氏 の主張 が起点 であ り,基 本 である
l)。
また,出 現期 に
,纏 向石塚古墳 をめ ぐる石野博信氏 3)の 主
張 と共 に,先 の近藤義郎氏 らの古墳論 に対峙す る形 となっている。 この他 の県内 の研究者 と して,近 藤理
属す るいわゆる「 纏向型前方後円墳」 を提唱 した寺沢薫氏
-325-
2)ゃ
第 3章
前期古墳 と出現期古墳について
論 に立 つ 沼沢豊氏 は (定 型化 した)前 方後 円墳 の 出現以前 は弥生 時代墳墓 , と明確 に規定 した上 で房総地
4),大
方 の古墳 を捉 え集成 ,分 析 されてお り
姿勢 は明 らかで あ る
5)。
村 直氏 も「 小 田部墳丘墓」 (ノ lヽ 田部古墳 )の 報 告 例 で もそ の
これ に対 し,自 井久美子氏 は国分寺台遺跡群 にお ける出現期古墳 の主 張 6),小 沢
洋氏 は高部古墳群 にお け る,前 方後 円墳 出現以前 の前方後方墳 の主張
7)が
ぁ る。
このよ うに,多 くの研究者 によ って語 られ ることの多 い「 前期」
「 前方後 円墳」以 前 (本 論 で い う草 刈
I期 併行期 )の 古墳群 で あ るが,本 論 で は先述 した とお り上器型式区分 によ り,草 刈 I期 を弥生 時代 の範
疇 か ら脱 却 した型式 観 =土 師器 と した。 したが って古墳本体 か らの分析 で はないが, この 時期 の所産 は
,
便宜 的 にす べ て古墳 と呼 ぶ ことにす る。
注
1)田 中新史「 出現期古墳の理解 と展望」
『 古代』第77号 1984
2)寺 沢 薫「纏向型前方後円墳の築造」
『 同志社大学考古学 シリーズⅣ』
『 考古学 と技術』
3)石 野博信,関 川尚功『 纏向』 1976
4)沼 沢 豊「 東日本 一千葉」
『 古墳時代 の研究 11』 1990
5)大 村 直『 小田部向原遺跡』財団法人市原市文化財センター 1991
6)白 井久美子「 長平台遺跡の調査」
『 上総国分寺台発掘調査概報』1982
7)小 沢 洋「 高部古墳群」
『 前方後方墳の再検討』埋蔵文化財研究会 1995
8)近 藤義郎「 前方後円墳の誕生」『岩波講座日本考古学 6』 1986
第 2表
時期 区分上 の諸問題
土
時
代
区
分
設
定
基
1988
型
器
式
編
年
準
草
刈
編
下総地方併 行 例
年
土 器 の種 別
弥 生 土 器
弥 生 時 代 後 期
│
最 古 の古 墳 の 出現
草刈
1
阿 玉 台 北 1期
土 師器
※2
1期
期期期期
レL
萌
帥
瀬
瑚
諏 訪 原
諏阿公戸
前 方 後 円墳 の 出 現
前半
古 墳 時 代 前 期
I期
後半
※
前半
古 墳 時 代 出 現 期
土 師器
草 刈 Ⅱ期
後半
草
古 墳 時 代 中 期
須 恵 器 の 出現 (※ 3)
和
Ⅲ
刈
泉
期
式
阿 玉 台 北 3期
戸 張 作
1期
公 津 原
2期
戸 張 作
2期
戸 張 作
2期
※ 1「 弥生時代終末期」(も しくは後期末,後 期後半等 )と した場合,草 刈 I期 (前 半,後 半 )に 所属す るものは「 墳墓」 も しくは
「 方形周溝墓」 とな り,※ 2は 弥生土器である。
※ 3当 セ ンター刊行,『 房総考古学 ライプラ リー古墳時代 (1」 での基準
―-326-
第 2節
第 2節
1.は
出現期古墳 と方形周溝墓
出現期古墳 と方形周溝墓
じめ に
本論 では上記 のとお り,「 出現期」 は土器 の型式観か ら古墳時代 であ り, したが って「 方形周溝墓 」 は
「 方墳」 と呼称す るとい う基本姿勢ではあるが,本 節 においては先学 の業績 を紹介す る上 で の 混乱 を避 け
るため,「 方形周溝墓」名称 を使用す ることを前提 とす る。
房総地方 では草刈編年 に基 づ けば,突 出部 (陸 橋付 )古 墳 (以 下陸橋付古墳 に統一 ),小 規模 方墳 ,前
方後方墳 が前期以前 に存在す る。 まず,村 田川 と養老川 に挟 まれた上総国分寺 台を中心 に展開 した陸橋付
古墳群 であるが, これ らの評価 については古 くか ら田中新史氏 によ り行われて い る。 その他 ,小 櫃川水系
の愛宕 4号 墳 ,滝 ノロ向台 9号 墳,10号 墳 ,矢 那川水系 の高部古墳群 について も注 目されるところである。
これ らは「 墳丘 を有す る」故 に,研 究者 の多 くは,土 器 の型式観 にそれほどとらわれず「 古墳」 と認定 し
ている もの もある。 これに対 し,同 じ草刈 I期 に属す る「 大崎台13号 」等 は墳丘 を持 たず,「 方形周溝墓」
等 と認識 され る場合 が多 いのではないか。 しか し,出 土遺物や周囲 の遺構 との関連 において,例 えば大崎
台13号 は 1辺 が20mを はるかに越え,隔 絶 された位置 にある単独 の大形 (方 形周溝 )墓 で あ り,出 土土器
のほとんどが畿内地方 を中心 とした (搬 入品を含む)外 来系 で 占め られて いる。畿内系 の上器 が 出 たか ら
古墳, という判断 ではない ものの,愛 宕 4号 墳出上 の在地 の弥生色 の強 い土器群を伴 う「 古墳」 と,大 崎
台13号 の搬入品 を含 む外来系土器群 で 占め られる「 方形周溝墓」 についての解釈 は, どのよ うな基準 に基
づ くのか追究す べ きであろう。本紀要 は土器 か ら見た「前期古墳」 の展開を主 旨 としているが, こ うした
前期以前 の状況 について も言及 してお く必要がある。以下水系 ごとにと りま とめておきたい。
2.各 水 系 ご との分 布
村田川,養 老川水系では小田部古墳 ,養 老川 は国分寺台遺跡群 である。す べての古墳 が辺 中央 に陸橋部
を有 し,出 土土器 には北陸,東 海西部 の外来系譜 が主体である。特 にJヒ 陸系 は房総 にお ける初現 と考 えた
い。小 田部古墳 は出土土器 の一括性 に疑間が多 い ものの,東 海西部系 が明瞭 であ り,元 屋敷系高琢 の存在
が ある。 しか し,編 年的 には,定 型化 した小形培出現以前 の在地編年観 か ら草刈 I期 に対応 させて い る。
Jヒ
陸系 は今 のところ認 め得 ない。国分寺台遺跡群 については加茂 Cl号 ,東 1号 ,神 門 5号 ,長 平 台 288
号 が北陸,東 海西部 の系譜 を指摘 されて い るが,私 見 では櫛描波状文 には畿内系 を無視 で きな いと考 えて
いる。神門古墳群 にはその後 も4号 墳 の段階までは畿内系,北 陸系,東 海西部系 が共存す るが,神 門 3号
墳 に至 り北陸系 の消滅 を見ている。 こ うした単純 な外来系譜 の比較 か ら言 えば,小 田部古 墳 は北陸系 の消
滅時期 に併行す るか もしれない。
さて,墳 丘 を もつ 出現期 の古墳 が営 まれて いた頃,当 地では同時 に「蛇谷方形周溝墓」 (第 97図
)が 形
成 されて い る。在地系土器 を主体 と し,畿 内,東 海西部系 の技法,形 状 を融合 させたよ うな土器 が見 られ
るが,先 に見 た出現期古墳群 に比 べ,明 らかに外来系譜色 が弱 く,土 器 の胎土 か ら判断 して も在地 の もの
である可能性 が高 い。 また,鉄,玉 等 の副葬品 も持 たない。 なお,加 茂 Cl号 墳 は当初 は「 方形周溝墓」
とされていたが,副 葬品 の豊富 さが区別化を促 した ことは否 めない。
こ うした村 田川,養 老川水系 の状況 と同様 に,小 櫃川水系 では同時期 に「方墳」
,「 方形周溝墓」 とそれ
ぞれ報告 されているものがよ り多 く共存 して いる。第一 に注 目す べ きは愛宕 4号 墳 である。僅 か (約 20cm)
-327-―
第 3章
前期古墳 と出現期古墳 について
ではあるが墳丘 を有 す るとい う事実 に,中 央主体部 の検出,短 剣,ガ ラス玉 ,と い う副葬品 の組合 せ さ ら
に,菊 川式 に繋 が る東海束部系 か と思われ る高琢 が,在 地系壺 とともに出上 して いる。土器 の型式観 を弥
生土器 とす るか土師器 とす るかは意 見 の分 かれるとこであ り,同 時 に「墳丘 を持 つ方形周溝墓」あ るいは
「 弥生墳墓」 とす るか,「 方墳」 とす るか,が さらに議論 されよう。 この ことについて解決 の糸 口となるの
が,小 櫃川水系 において,弥 生後期 か ら草刈 Ⅱ期 にか けて方形周溝墓 と報告 されて いる一群 の系譜 ,す な
わち林 Ⅱ遺跡 (第 105図 )か ら西 ノ窪 (第 123図 ),上 大城 (第 124図 ),向 神納里 (第 126図 ),田 川 (第 128
図 )各 遺跡 に至 る各方形周溝墓群 である。林 Ⅱでは在地弥生土器 の装飾壺 とともに底部穿孔 の単 口縁 の壷
が伴 う。土器 に限 って言 えば, この様相 と愛宕 4号 墳 出土品 をどのよ うに区別 した らよいのか分 か らない。
両者 の決定的 な違 いは短剣,ガ ラス玉 といった副葬品 と20cmの 墳丘 の有無 である。副葬品 の有無,あ るい
は格差 によって「 方墳」 と「 方形周溝墓」 の区別 が可能か どうかは分 か らないが,少 な くと もこの地域 で
は,愛 宕 4号 墳以後,古 墳時代前期 (草 刈 Ⅱ期 )に 至 るまで,西 ノ窪,上 大城等 の方形周溝墓 にはガラス
玉 や鉄製品等 の副葬品 はほとんど無 く,上 大城 では土玉 が定着 して いる。一方,墳 丘 を持 つ「 二 又堀方墳
群」等 では少 なか らず ガラス玉他副葬品 が見 られる。
一方,印 藩 ,手 賀沼水系,利 根川水系等 ,下 総地方 では一 つの特徴 が顕著 である。 それは出現期 (草 刈
I期 )の 段階 では,愛 宕 4号 墳 のよ うな (僅 かであ って も)墳 丘を もつ「方墳」 が見 られな い点 である。
そのため, いずれ も報告者 によって明確 に「 方形周溝墓」 とされて い る。 さらに大崎 台遺跡 の畿内系土器
(第 208図 ),石 揚遺跡 (第 238図 )や ヲサル山遺跡 (第 219図 )に 見 られ る豊富な副葬品 は, 同時期 の 小櫃
川水系 と様相 を異 に して いる。 また,神 々廻方形周溝墓群 (第 241図 )に あるよ う,草 刈 Ⅱ期 に至 って も
,
墳丘 を持 たず,中 央主体部 を有す る場合 がある。すなわち当地方では,弥 生時代 の方形周溝墓 の系譜 が古
墳時代前期 (草 刈 Ⅱ期 )に 至 って も,よ り強 く継続 していると考 え られる。同時 に草刈 Ⅱ期 の段階 で,公
津原古墳群 (第 220図 )等 に見 られるよう15mを 越 える明確 な方墳群 が出現 して くる。 しか し, こ う した
現象 は画一 的,突 発的 な ものではな く,飯 合作遺跡 (第 211図 )に 見 られる方形周溝墓 と方墳 の混在 こそ
が,両 者 の漸移的 な消長 を示 して い ると考 え られる。
3。
ま
と
め
以上 の よ うに,上 総地方 の一部 では15mを 越える方墳 が,出 現期 お いてがいち早 く発生す る。同時 に方
形周溝墓 は存在 こそす るものの,一 部 の副葬品等 に見 られるよう,何 らか の区別化 が図 られて くる。 これ
に対 し下総地方 の一部では,墳 丘 の無 い中央主体部 の方形周溝墓 が継続 し,上 総地方 と同様 な方墳 の出現
には未 だ時間を有す る状況 であった。 しか しなが らこ うした状況をさらに混乱 させ る出来事 が この時期発
生 して い る。戸張一 番割遺跡や阿玉台北遺跡 に出現 した「 前方後方墳」 である。下総地方では以前か ら
,
古式 の古墳 は前方後方墳 が多 いことで知 られ,草 刈編年 において も最古 の古墳 は戸張一 番割古墳 (第 227
図 )(草 刈 I期 =出 現期 )で ある。方形周溝墓 が継続的 であ った時代 に,方 墳 (陸 橋付 も含 む )で はな く
前方後方墳 を受 け入れる要因は何 であろうか。房総地方 における前方後円墳出現以前 の状況 は, このよ う
に地域差を見 せなが ら,複 数 の墓制系譜 の共存 を生み出 し,決 して一元的では無 い融合 した社会状況 が看
取 される。方形周溝墓 と方墳 も同様であ り, これ らの消滅や出現を具現化す ることは極 めて難 しいと言 え
よ う。 こ うした複雑 な状況 は, しか し,草 刈 Ⅱ期 の段階 において,房 総地方 で も70m級 の大形前方後円墳
の出現 (能 満寺古墳 )を 見 てか らは,中 央主体部 を有す る明確 な方形周溝墓 も消滅 して い く。 この最後 の
一-328-―
第 2節
出現期古墳 と方形周溝墓
姿 は手賀沼水系 の神 々廻 (し しば )方 形周溝墓群 (第 241図 )で はな いか と今 の ところ考 えて い る。
山岸良 二 氏 は『「 方形周溝墓」 か ら「 古墳」 へ の推移過程 は,内 面 的 な差 異 と して は副 葬 品 にみ られ る
属性 (農 耕集 団内 での祭祀権掌握度 )が どの程度高揚 して きた段階 と把握 す るか とい う点 と,当 然 その変
化 に伴 う被葬者層 の集 団内地位 の 向上 によ る「墳墓造営 に要す る集 団 エ ネ ルギー」 の強大化 ,そ して そ の
1)と
結果 と して「 立 体 的表徴」 =「 墳丘」構築 へ と変化 して い った到達点 が「 定型化 された古 墳」』
し,時
期 的 には「 焼成前底部穿孔壺形土器 中心 」 =第 3段 階 と して い る。 この第 3段 階 とは,草 刈編年 で言 えば
草刈 Ⅱ期前半 (古墳 時代前期前半 )で あ り,後 半 で は,小 形 の壺 も増加 し,底 部穿孔 とい うよ りも胴部下
半部 を切 り取 る形状 も出現 して い る。 このよ うに山岸氏 の指摘 した土器穿孔行為 の視点 か らの葬送儀礼 の
規定 ,古 墳概念 は,草 刈編年上 で は妥 当性 が ある。一方 ,「 副葬品 にみ られ る属性 の 高 揚 」 =強 大 な 首 長
層 =定 型化 した古墳 とい う図式 につ いて はいかがであ ろ うか。
「 剣 ,槍 ,刀 」
「 鏃」
「 玉類」 の
合 せが多種 に具現化 して い く時期 が第 3段 階 (草 刈 Ⅱ期前半 )で あ るとされて いるが,第
3属 性 の組
6表 の副葬 品 の
出土状況 によれば,草 刈 I期 (出 現期 )と 草刈 Ⅱ期 (前 期 )の 違 いが理 解 で きる。鏃 は鉄鏃 が初 めに もた
らされ,や がて 銅鏃 が加 わ る一 方 で,剣 は草刈 I期 (出 現期 )の 象徴 が「 短剣」 と「 槍」 で あ り草刈 Ⅱ期
以降 に長剣 や刀 が定着す る (次 節参照 )。
山岸氏 の指摘す る第 3段 階 にお ける「 剣 ,槍,刀 」
「 玉 」 の組合 せ,が 具体的 にどの よ うな ものな
「 鏃」
のか,明 確 で はないが,草 刈 Ⅱ期 (前 期 )に おける「 短剣 ,槍 」 の欠落 ,「 銅鏃」 の伴 出 ,玉 類 の 石 材 の
多様化等 をそ の姿相 と して捉 え るべ きであろ う。 この結果 , この時期 に能満寺古墳他 ,初 現期 の「 前方後
円墳」 の 出現 を見 て いる。
「 定型化 した古墳」 はす なわ ち定型 化 した「 前方後 円墳」 とす べ きで あろ う。
注
1)山 岸良二編「 方形周溝墓研究 における今後の課題 関東 の「古墳」 と「 方形周溝墓」」
『 関東の方形周溝墓』同成社
―-329-―
1996
第 3章
前期古墳 と出現期古墳 について
第 3節
主体部 (埋 葬施設)構 造 の変遷
1.木 棺 の 種 類 と変化
竪穴式石室 とそれに伴 う長大 な割竹形木棺 は,「 定型化 した前方後円墳」 の重要属性 と言 われ る。 しか
し,房 総地方 では一 切見 ることはない。石 を産 出で きない,と い う理 由だけでな く,石 の ある他 の関東諸
地域 にさえ存在 していない。 しか し,今 回 の集成 で明 らかなよ うに,割 竹形木棺及 び粘土榔 につ いては草
刈 Ⅱ期 の北 ノ作
1, 2号 墳 を最古 に,主 に草刈 Ⅲ期 の段階 で墳丘形状 に関係 な く,取 り入 れ られ るよ うに
なる (第 3表 )。 出現期 (草 刈 I期 併行期 )の 段階 では,市 原市神門 4号 墳,小 田部古墳 (共 に突 出部 付
円墳 )に あるよ う,
3m前 後 の木棺 を埋 め込 んだ,墓 坑内木棺直葬 が主であ った と思われる (第 249図 )。
共 に頭位付近 に赤色料 が散布 され,神 門 4号 墳 では墓内祭祀 が行われ,多 量 のガ ラス玉 が破砕 されて いる。
いずれに して も旧表土上ではな く,一 定 の盛 り土 を行 い,そ の面 で土抗を掘 り,木 棺 を埋 め込 んだと想定
され る。同時 に当時 の生活面 よ りも高 い位置 での祭祀 が執 り行われたと考 え られる。木棺 が どのよ うな構
1ヽ
造 であったのか知 る由 もない。 しか しこの当時,茂 原市国府関遺跡出上 の木製品 を見 て も
3m程 度 の
板材 へ の加 工 ,細 工 ,継 ぎ合わせ等 において,か な り進 んだ技術 が既 に取 り入 れ られてお り,組 み合 わせ
式 の箱形木棺 を作成す ることも容易 であ ったに違 いない。 なお,埋 葬人数 は単葬 であ ったことは副葬品等
か らも明白であるが,そ れでいて神門 4号 墳 ,小 田部古墳 と も木棺 が 3m前 後 であるとすれば,そ れが一
つの長 さの基準 であ ったのか も知れない。
その後,草 刈 Ⅱ期前半 の段階 で,沼 南町北 ノ作 1号 (陸 橋付方墳 ), 2号 墳 (前 方後方墳 )が 出現す る。
ここには じめて「 粘土椰」 が用 いれ られ ることとなる。但 し,厳 密 な意味 での「 椰」 では無 い。特 に 1号
墳 においては報告 では,粘 土を床 に敷 いただ けの「 粘土床」 であった可能性 も高 く,そ の中 (上 )に 納 め
られた木棺 も 3m前 後 と想定 され,出 現期古墳 に近 い。 また,割 竹形木棺 であ ったか どうか も明確 ではな
い。 おそ らく神門 4号 墳 や小田部古墳 のよ うな木棺 に,補 助的な支えとして粘土が使 われ始めた時期であ っ
たのか もしれない。一方, 2号 墳 では 5mを 越え る木棺 が想定 されており,断 面観察 か ら割竹式木棺 の可
能性 も高 い。 2号 墳 は 1号 墳 よ り僅 かに後出的であ り,そ うした意味で草刈 Ⅱ期前半段階 における,出 現
期古墳 か ら前期古墳 へ の構造変化 の過渡的な状況を示す ものなのか もしれな い。
『」 が ある。それは木炭椰 である。注 目す べ きは長南
同 じく草刈 Ⅱ期 の段階 で取 り入 れ られた特殊 な「棺
町能満寺古墳 ,下 総町大 日山古墳,市 原市今富塚山古墳 とい う古式 の前方後円墳 に共通 している点 である。
この採用 が単 なる防湿,濾 過等 の技術的要素 だけとは考 え られな い。木炭椰 は,後 の時代あ るいは周辺諸
地域 で も見 られ るものであるが,大 日山古墳 では割竹形木棺
(も
しくは舟形木棺 )を 使用 している。粘土
の使用 は (粘 土榔以外 は)木 棺 の単 なる支え,充 填材 としての要素 であることは,多 くの出土例 か らも説
明 で きるが,木 炭 で覆 う
(あ
るいは木炭 を敷 く)と い う行為 とともに,割 竹形木棺 が使用 されたとい う事
実 は,被 葬者 へ の特別 な意識を持 つ ものと考 えて い る。
草刈 Ⅲ期 の段階 になると,粘 土郁 とセ ッ トのよ うな関係で割竹形木棺が出現 して くる。最 も良好 な検 出
例 は市原市新皇塚古墳 (前 方後方墳 )で ある。長大 な粘土塊 が墳丘 で検出 され,そ の中を くり抜 くよ うな
形状 で 2つ の長大 な木棺 の痕跡 が見 られる (第 249図 )。 いわゆる 1椰 2棺 で,北 椰 は実 に約 14mも の全長
を図 る。木棺 が置 かれていた底部 は U字 を呈 し,そ れが割竹形木棺 であった ことは明 白 であ る。 また
,
副葬品 の出土状況 か らす ると,木 棺 の中央 に遺体 が埋葬 (単 葬 )さ れて いたよ うである。 なお,頭 部 は北
-330-―
第 3節 主体部
(埋 葬施設)構 造の変遷
位 を 向 いて はいない。房総 地方 で は,新 皇塚古墳 に匹敵 す る粘 土椰 は数 少 な いが ,木 更 津 市 手 古 塚 古 墳
(前 方後 円墳 )で は一 面 の粘土塊 に推定約
9mの 割竹形木棺 が想定 されて い る。 この よ うに粘 土 榔 と割 竹
形木棺 は同時 に併用 されたよ うであ るが, け っ して一 般 的 であ ったわけでな い。 む しろ今 の ところ確実 な
例 は,房 総地方 で は新皇塚古墳 と手古塚古墳 の 2例 だ けであ る。
市原市釈迦 山古墳 で も推定約 9mの 木棺 が想定 され るが,粘 土 は椰 と して の塊 は断定 で きな い (第 249
図 )。 市原市大厩浅間様古墳 (円 墳 )は 想定 10.5mの 割竹形木棺 が推定 され るが粘土 は検 出 されて いな い 。
石枕 を 出土 した千葉市東寺山石神 2号 墳 (円 墳 ),上 赤塚 1号 墳 (円 墳 )と い った 中期 古 墳 で も長 大 な割
竹形木棺 が推定 されて いるが,粘 土 の使用 は限定的 であ り,決 して「 椰 」 で はな く,木 棺 の支 え,充 填等
に,状 況 に応 じて 使用 された と考 え られ る (第 250図 )。 また割竹形 木棺 と推定 されて い る もの も,断 面観
察 か ら判断す ると,本 来底 が平坦 な木棺 で あ った可能性 もあ る。 このよ うに草刈 Ⅲ期以降 ,粘 土椰 が 出現
した後 も,房 総地方 では決 して画 一 的,斉 一 的 な埋 葬施設 の供用 が あ ったわ けで はない。特 に畿 内系土器
を 出土 したか らとい って粘土椰 や割竹形木棺 が共通 す るわ けで もない。房総地方 で は100m級 の (草 刈 Ⅲ
期 に比 定 され るであ ろ う)い わゆ る畿 内型 の大形前方後 円墳 の埋葬施設構造 が ほとんど未調査 であるため
,
それが どこまで畿 内 に共通 して いたのか知 ることはで きな い。 しか し,房 総地方最大 の「 粘土椰 ―割 竹形
木棺」 の新皇塚古墳 につ いて は前方後方墳 であ り,手 古塚古墳 につ いて も全長 は60mに す ぎな い。手古塚
古墳 は唯一 ,三 角縁神獣鏡 を伴 う「 畿 内型」 と言 え るが,他 の大形前方後 円墳 の埋 葬施設構 造 が解明 され
ない限 り,粘 土椰 ―割竹形木棺 の 出現 が一 概 に,畿 内政権 の直接 的影響下 に組 み込 まれ た結 果 , とい う断
定 はで きな いで あ ろ う。
2.副 葬 品 の 出土 状 況
副葬品 につ いて は第 4章 で言及す るが, ここでは別表 によ り,今 回取 り上 げた古墳等 に伴 うと思 われ る
こ用 い られ
玉 類 と金 属製 品類 につ いて,取 りま とめてみた。玉類 と金 属製品 は副葬品 であ る場合 や,祭 祀 こ
る場合等 が想定 され るが,前 期古墳 の崩壊 しやす い主体部構造 や,後 世 の盗掘等考 え ると,本 来的 な組成
,
量 を留 め る場合 は極 めて少 ないと言 え る。 玉 類 は石材別 に各種並 べ た もので あ り,細 か な形状 差 ,製 作技
法差 ,及 び大 きさの違 いに まで今回 は言及 して いない。 したが って型式 学 的資料 と して は不十 分 と言 わ ざ
る得 ないが,お おまかな使用傾向 は以 下 の とお り看守 で きた。
① ガ ラス小玉 は弥生後期 か ら草刈 I期 当初 は コバ ル ト着色 (濃 青 )が 多 く,そ の後 は淡色系 も加わ る。 ガ
ラス小玉 は全時期を通 じて多 く出土す るが,方 形周溝墓 と報告 された ものの中 には欠如 があ り,そ の代
用 として土玉 が製作 された場合 が ある。
②石材別 に見 ると, ガ ラスが全時期を通 じて用 い られる一方, メノウ,水 晶,琥 珀 は草 刈 Ⅱ期 か らⅢ期
,
滑石 については草刈 Ⅲ期以降 に急激 に増加す る。
③種類別 に見 ると,小 玉 ,丸 玉,管 玉 は全 時期 を通 じて使用 され るが,棗 玉 は草刈 Ⅱ期以降,自 玉,勾 玉
が増加す るのは草刈 Ⅲ期 と言 える。 しか し,管 玉 や勾玉 は弥生時代 か ら数多 く定着 した もので あ り, よ
り詳細 な型 式的分類 が必要であ り,草 刈 I期 ∼ Ⅲ期 の推移 の中 で, い くつかの系譜 の違 い等 が指摘 され
ると思われ る。
④草刈 Ⅲ期 における玉類の種類の豊富さは前時期 に比べ明確であるが (小 玉,管 玉,勾 玉,棗 玉,日 玉等)
石材 は種類 によっては,む しろ限定される傾向にある。
-331-―
第 3章
前期古墳 と出現期古墳 について
⑤石製品では石釧 は草刈 Ⅲ期,石 枕 は和泉期 という傾向がある。
⑥円墳 である大厩浅間様古墳や島戸境 1号 墳の出土品の豊富さは前方後円墳を凌 いでおり,古 墳の墳形等
の違 いによる格差を明確 に指摘す ることはできない。
金属製品の遺存率は玉類 に比べさらに低 い。統計処理できたものは第 6表 のとおりである。
①槍,短 剣 は草刈 I期 の指標 となる傾向がある。
②草刈 I期 当初 は鉄鏃のみの出上があり,や がて銅鏃 がこれに加わる。銅鏃 は当初 は単独の副葬であるが
,
手古塚古墳例 にあるよ う同一形態の大量副葬が認 められるようになる。 しか し,草 刈 Ⅲ期以降急激 に消
滅 していく。
③方形周溝墓 と報告 されたものには鉄鏃 は少ない。
④刀子 の増加,直 刀の出現 は草刈 Ⅲ期以降である。
なお,鉄 鏃 については,神 門 5号 墳 の多孔平根式,神 門 4号 墳の定角式が際立 って 目立つ存在 であり
,
ともに県内では類例が見 いだせない。類銅鏃系である神門 5号 墳例 に比べ,神 門 4号 墳例 は周辺地域 の
弥生時代 に系譜 を求めることはで きない一方,九 州地方でも類例があり,全 国的な視点での把握が必要
である。
―-332-
主体部 (埋 葬施設)構 造 の変遷
第 3節
第 3表
2-(6
村 田川
村
草 メ呵A102号 跡
村 田サ
方 lll
村 田り
方
=ル
5-
5-(2)
草 刈l員 塚
125万 形 川
4■ 基
草刈 員塚 133方 Jttl・ ll泄 基
7
l
大厩
8-(2)
大厩
大厩
98
1
│
村 田′
│
│
田り
│
周 41内 土抗
周 Zli内 土 抗
■
■
■
方
llt
方
lll
lll
ニ
ヒ抗
大 厩 浅 間 様 古 lll
村 田り
方 墳
晋り
竹形 木相 3
新 皇塚古墳
七廻 塚古墳 ※
大覚 寺 山古 lll※
上赤 塚 1号 lll※
村 田リ
円墳
村 田リ
円墳
粘 土 椰 (1相
官)
木 棺 直 葬 3 `2オ
村 田り
村田
前方 後 円墳
本l田 リ
養老リ
円墳
陸橋 付方 墳
長半 台
養老リ
養老サ
東
養老リ
○
養老川
○
1
│
1号 lll※
判 F15号
llt
Cl号
lll
288号 ,289号 lll
1号 墳 (持 塚 6号 )
神 門 4号 墳
」
申‖り3号 墳
5
北旭 台
73号 l■l
呑老
雪 角旱沢
S001号 ,026-1号
束 間 部 多 16号 llf
養老リ
養老リ
2号 墳
養老リ
東間部多
j
割 竹形 木棺 2
木棺 直葬 3
木棺 直葬
陸
llCi付
方
lll
lll
円墳
本棺 直葬
方墳
前方 後方
○
養老川
養老川
3号 III
付 円 lll
円
養老 川
4号 lll
海 保 第 2号 llt
j
陸橋 付 円墳
陸橋 付 円墳
養老川
持塚
l」
l_t橋
呑老 リ
今富 塚 山古墳
諏 訪 台33号 墳
姉il崎 束原 B29号 墳
海保第
円
│
5
1
方 lll
方 lll
方 llI
陸橋付方
│
│り
用 ZI内 土 抗
方墳
1
圧
■
方墳
方 墳
加茂
108
二
し例
円墳
方墳
村 田り
村 田り
号墳
5
村 田リ
草刈
105
○
│
lEElj
田サ
田り
田り
9号 墳
3号 墳
7号 墳
8号 墳
用 泄内 上抗
円墳
1
2∼ 3号 墳
馬 ノロ
■ 墳 F■ 墓
lll
i」
○
村 田り
ウ
トIELIサ
,卜
ll 考
lll
│
│
草刈 3号 墳
草 力p4∼ 26号
草 刈 貝塚 122方 形周 rYl基
4
村 田り
村 田り
草 メ可B191,274,311号 跡
llll造
方 lll
Fllサ
│
ホ
主 体 部
状
陸橋 付 PJ墳
方 lll
前方 後方 墳
方 lll
○
A99号 跡
A100号 跡
草 刈 A101号 跡
苫ユメ可A93, 95, 96手
草 刈 B区 方 墳群
22-
形
草刈
草刈
草 メ呵A103号 跡
2-(5)
和泉 式
村 田リ
村 Ff!サ ││
草刈Ш期
2-
系
草刈Π期
-(2)
水
草刈 I期
名
lll
小 圧1部 古 墳
草メリA94号 跡
1
22
古
弥生 後 期
遺跡 番 号
ページ
掲載古墳等一 覧表 (1)
lll
前方 後方 墳
前方 後 円墳
前方 後方 墳
前方 後方 lll
木炭螂 ,床
方
土抗
l■l
番老川
円 lll?
養老川
前 方 後 円 lll?
釈迦 山古墳
││
北 旭 台 74号 ∼ 76号 墳
ll
番 後 台 081号 方 形 周 名
1墓
││
後
「
l
?
二
LIプ ニ
響14均 り
粘土 ‖
杉木 1官
`?,
■14均 り
杉
木棺 ,上 抗
■
姉 崎 天 ‖1山 古 lll※
老 川
愛和 号墳
林 遺 跡 Ⅱ ,1.6.12.2号
林 道 跡 Ⅱ ,3. ′1号
泄 ノ [中 l台 ()0"」 . 0057J
泄 ノ El向 台 9号 lll
2
格 3号 墳
寒 沢 12号 墳
清水井 2号 ■
4
―(3
4
4
lli
51-
1
2
向 ‖確内IL第 2号
SE α)1号 遺
金井 lth00 1,002号
11号
田り
│12号
田サ
文 yllttlll l
三 ツ田台
■
陸
方 llt
順 川
lFi卜 1方 llt
周泄内土抗
木‖I直 葬
方墳
方墳
方
ll燿
ll崎
ブア
方 lll
[1直 ′
F
′く
オ
方
lll
木 オi直 ′F
小櫃 川
陸
lr・
′ 1饉 リ
方 lll
○
:[り
llliサ
○
0
│
ヽ
ltlサ
○
│
方
宮 1/Jl第 2号 ti
1螢
■
木‖∵直′│.川 濯i内 三
L抗
プ」l11
ワlll
lll
フ
ケll彎
′
1ヽ 1憤
ヽ
′
」
ltI
l方 墳
方墳
○
Jヽ
Jヽ
方墳
l・
力 な,
│
小櫃 川
′ 概川
′ lllり
3・」lll
冨 脇 第
■
方墳
′
/1`
1出
木棺直葬
lll
杉周 溝 墓
方り
方 墳
Jヽ
lll
デ
子
孝 工11占
小 IIli川
]ヽ
│タ
51-
4ヽ 櫃川
lLiり
'141/
ピヨノ /」 りル
=【
上大城 2∼ 7号 墳
境 17」
○
│
ヽll:i川
:そ
○
本
側サ
8号 墳
二 又 卯15∼
り::渕 │lli:1)ir」
49-(
49-(
/Jヽ
二 X堀 2∼ 4号 llt
二 又 堀 SK O()9号
76
方
川
││
小概 り
││
小糧 り
ll
小柵 り
ヽ ││
′イ
ホ ││
1
2
ヽ櫃
■
iliプ
小 順川
lヽ
二 又 堀 l tt■ i
l
方
サ
※は参考資料の古墳 ll l考 ‖
‖の 日 は方形周ll基 と報告されているもの
-333-
パ
14Vi内 Jlう t
にコメミ
」ニ
ウt
方 llt
〃1れ 雌1杓
円 lli
割
方墳
11角 形 木 柑 2
4均
=liル
t
形木柑 2
※第 4章 での草刈Ⅳ川1を 含む
■
第 3章
前期古墳 と出現期古墳 について
第 4表
浅 │‖ 神 社 古 墳 ※
飯 lL塚 古 lll※
白 LL「 ‖1社 古 lll※
′1ヽ ‖り
ll田 1号 墳
ノIヽ 欄
(■
神 田 3号 墳
刊1圧 12号 lll
神 田 1号 方形パ
1泄 墓
.ti部 32号 墳
高部30号 墳
西 ノ入 2号 墳
′lヽ 欄
(扇
小櫃
小 lttl
ノ
lⅦ W
59-(2
O
ヽりJII
装
カ
リ
」││)
(市
○
″脚 ││)
姉 ,必
││)
夕
ξllト リ
l
○
││
夕ξ〃5り
う
(lll`′
う
ξ 11
,そ 〃
ドリ
│
庚 申塚 A021号
庚 申塚 A020号
蓮 1=寺 035号
1)
ll 考
11フ,0(Fllll
│
ξll`り
ウ
主 体 部 構 造
状
形
前方 後「]lll
○ ?
大 直1台 2001-2003
59-
系
和泉式
202
水
草刈皿期
55-(3
55-(4
56-(1
56-
名
草刈 Ⅱ期
55-
墳
草刈 I期
5s-(r
古
弥生後 朋
遺跡 番 号
ペー ジ
掲載古墳等一 覧表 (2)
○
f.l溝
方
土 抗
lll
内土 抗
前方 後 円 lll
方 lll
L抗
周 溝内二
前方 後方
前方 後方墳
木棺 直葬 .周 泄内土 抗
木棺 直葬
方 llI
方 形周 /1VI基
中央 土抗 ,木 柑 直葬
lll
■
方 墳
○
Jll`サ
前方 後 円 lll
前方 後方 墳
■
■
方墳
矢刀
方墳
鳥 ,毬 古 墳 ※
矢 ll`j
前方 後方 墳
6262-
俵 ケ 谷 14号 lll
矢 川り
俵 ケ谷 4号 墳
62-(3
俵 ケ谷
矢
(鳥 田チD
〃 リ (鳥 田 り
タモ「
63
手古 塚古 墳
矢
64
駒 久 保 6号 墳 ※
道 祖神 裏古 lll)K
小糸 川
小 糸川
小 糸リ
前 方後方 墳
前方 後 方墳
方 墳
■
′1ヽ 糸 川
方墳
■
待 l「l川
方 墳
夷 llJ川
方墳
66-
1
66-
225
225
川 島
│`リ
2,13.5,11号
墳
8∼ 10号
り
‖島 SX 3,6,7号
SX-1号
だ肛Li 7,8号
能 ii寺 古 lll
大 綱 山 EB台 新 林
北野
74-(2)
北
17・
4号 墳
5号 lll
前方 後 円墳
不ll本 晨リ 下 流
市iプす
利根 リ 下 流
前方後方墳
阿玉 台北
墳
木炭椰
方 墳
土抗
下流
○
lll
下流
○
前方 後 円墳
利根
下 流
○
長方 墳
禾りlft
下流
前 方後 円墳
木棺直葬 4
利根
中流
前方 後 円墳
利 根
中流
に
!流
卜
前方後円墳
大 崎 台 第 13号
印屈 /71
方 墳
[ll方 轟′
召
方 墳
Ell方 17召
前 方 後 方
9∼ 12号
飯号 作 1号 墳
3.4号 lll
飯号 作
2号 墳
88
飯 号作
88-(5
飯 号作
D6,7
D8∼
89
90
Eけ 卜
南rl■ tt Btt I.Ⅱ 用溝基
1/・
lll
19
E11方 F′ fJj
Fロ リ
輛 77j
に'方 171'召
H9号 lll
1tt H 17号
墳
鶴塚古ぜ
コJ晨 一杏■‖
′
l lll
ノ仰11号 墳
2号 墳
弁 天古 lll※
山古 ■1※
水 ‖‖
石 場 1∼ 4号
lJ[Π 台 1 2号
‖々廻宮ni l,ool,003∼ 005号
戸 張 作 l.3∼ 5号
星 久喜第
1.2号
石 力 14号 lll
1占
方墳
方墳
■
ハ
Ч71■ 1/bl上 う1
周 泄内土 抗
■
方墳
○
方
■
中央 ,Pl11内 上抗
中央上抗
方 lll
フ
7111
17171
方
lTl,召
l円
■
土抗
墳
前方 後方 墳
`
口 縣 7/j
陸 lri付 方 墳
粘土椰
前 方後 方墳
前方 後 Fllll
L‖ ド
粘ュ
木 柑 直′F
ローム11`.本 オ
li
「
■
Pllll
イ
′
[│1方
■
■
Ill
方」
'方
F」
中央 土抗
木 411直 葬
lll
i
]l方 77イ
1
北 ノ作
前方 後方
(
(
/1
方′
「
公津 原
■
■
○
F口
に
中央土 bt
lll
方墳
/F7
レLIJ∼ I Bool^-003手 手
ヲサ ソ
「
卜戸 司 N165∼ 67号
Jヒ
方
方
77召
「 〕
[口 方
希7召
印加
作 1号
公7
104-(1
104-(2
前 方 後 円 lll
香 取 :‖ 1社 古墳 ※
上三 ケ尾 宮前 l.3.4号
飯号作
306
308
308
■‖l littlT
方
下 流
不可本
艮
千J
ムプロック本解
下 流
,2号 墳
2号 lll※
cl―
I墳
○
│
1号 l■l
大崎 台第
298
方 墳
栗山り
上 出島
8888-
■川‖l」 構
木橋直葬
円墳
○
8号 lll※
堀電 浅肺
275
275
lll
柏熊塚
A-7号
A004号
■刑溝遺術
方 墳
│
作 田川
大戸天神台古墳※
山 之 辺 手 ひ ろ が り 3号 ltt※
三 之 分 EI大 塚 山 古 l■l※
88-(1
円
南 白亀り
作田川
作 田川
台北
木炭椰
瑣
1号 lll
大 日山
8787-
.円
島戸 境
1呵 玉
256
■i躁
万瑣
11
0102号
粘土″ド
前 方 後 円 lll
││
瀧 台古 墳 ※
78-
前方 後 円墳
4号
1号 llll※
枯 木 台 第 1号 古 墳
油殿
74-(t
土 抗
│
││(弓 田 りID
Jlり
rll
土抗
前方後円墳
小 林 西 之 前 1∼
235
239
方
○
lllSリ
根 方 上 ノ芝 条 L■ tt E―
232
│(R田 川 )
■
土抗
]
rJ
カ′
「ロ
「
O
日1麻 7召
前方後
「 │]方 澪771
方 IIl
方 Fi
コ 希ム
方ザ
E口 麻 7召
l方
i
○
○
¬ い2号 ll疑 ※
/」
中央 土抗
lll
■
■
Lう t
「卜 て二
だ1ム ■ ЧttLう t
1し
│メ
方 ri
方
―-334-―
llt
I Jlll
.木 炭 床
害144式木棺
■
方り
じlli
主体部 (埋 葬施設 )構 造 の変遷
第 3節
第 5表
13号 墳
1些
Э
石
石
f
付円lll
他
3
lF・
l?
lNl円 墳
64
73+
橋付円lll
l
方墳
林 Ⅱ4号
ヲサル山 M3001
ヲサ ル山 M3002
劉
匡 ■■
Э
■
I
石揚 l号
■
石揚 3号
■
石揚 4号
西 ノ入 2号 墳
Э
1
l
2
1
ll
■
方墳
l号 墳
l
前方後方lll
方lll
椿 3号 墳
方墳
北 ノ作 2号 墳
前方後方 tll
前方後円墳
■
Э
1
1
1
ト■
上大城 5号
上大1/x7号
7
l
草刈24号
Э
2
1
大 日山古墳
馬 ノロ 2号
に
俵 ケ谷 5号
l
Э
に
草刈 B方 墳 192号
5号 墳
1
■
l
│
方lll
3
前方後方好i?
大厩 8号 llI
○ 方墳
大 lLI浅 問様古ザ1
○
1■ lll
持塚 4号 lll
○
方lll
○ 前方後
1可
8
2
新皇塚古llI
○
l
l
前方後方llt
i
2
4
手古塚古墳
堕│111¥i
8
1
l
■
○ 方 lll
海保第 3号 讐
l
■
方墳
D09
1
I
俵ケ谷 4号 墳
IJ(良
そ の
土
方llt
I
大1向 台 13号
lrF・
石
陸橋付円lll
滝 ノロ向台 9号 墳
北
ス
土工
釧 匡陸
利F14号 lll
飯合作
玉
石
滑
号lll
小田部古墳
神 ELl
「
月
琥 水 琥
前方後方墳
│
愛宕 4号 墳
ll■
lF・
玉
カ
ガ ラ ス 今濃 土同︶
○
高部32号 llI
f白
碧
ガ ラ ス 企薄 ユH︶
陸
利Jl1 5号 墳
石
l
El
t
山
石
ス
不 頁
棘玉
Jヽ
鉄 石 英
緑 色凝灰 岩
凝 灰 山
石
土 灰
水 暁 硬
ガ
′玉, 丸玉
玉
管
蛇 文 岩
あ〔
状
J形
メ ノ ゥ
︲ Ⅲ川 併 行
草メ
草 刈 I期 併 行
名
草刈 Ⅱ期併行
lll
古
勾
臼玉
‖
寺 '切
玉 類 出土 状 況
1
石釧,11輸 石他
5
1
石9‖
1
5
l
1
55?
8
3
│な
石釧
2
1?
「
方後円墳
上出島2号 壕
1(∼ 11泉 り│)
○ 前方後円lll
鳥戸 境 1号 墳
〇
円墳
9
7
2_1)
3
■ は方J杉 用がi墓 として報(よ されたもの
―-335-―
204
2
4
第 3章
前期古墳 と出現期古墳 につ いて
第 6表
金属 製 品 出土 状 況
銅
‖
寺 り
鏃
鉄
l
利■]4号 lll
○
陸橋付円墳
利Fヨ 3号 墳
○
陸橋付円墳
滝 ノロ向台 9号 墳
○
方墳
高部30号 墳
○
前方後方墳
川島 SX 6号
○
■
阿玉台北 A004号
○
■
大崎台10号
○
■
ヲサル山 MB()01
○
■
石揚 2号
○
■
石揚 4号
○
■
2
半肉彫四獣鏡
2
不明
1
1
捩文鏡
lll
方格規矩鏡
不1月
方墳
前方後円llt
6
2(7FL人 ?)
1
1
飯号作 1号 墳
○
前方後方墳
北 ノ作 1号 墳
○
方墳
北 ノ作 2号 lll
○
前方後方墳
大 日山古墳
○
前方後円墳
二又掘 8号
○
方墳
神 []3号
○
方墳
俵ケ谷 5号
○
方墳
石神 4号
○
1
1
3
1
l
2
l
l
1
l
1(混 入 ?)
方墳
○
方墳
手古塚古llI
○
前方後
「
新皇塚古墳
○
前方後方Ill?
珠文鏡 ,内 行花文鏡
大厩浅│‖ ]様 古 lll
○
円 lll
珠文鏡
持塚 4号 lll
○
方
海保第 3号 lJI
○
釈迦山古墳
○
前方後 l墳
「
前方後円lll
″第 2号 墳
宮‖
○
方 tI
宮脇第 3号 墳
○
方 ri
○
南打 イ
友「刷41
三判│三 摯
よ獣帯鏡
四獣鏡
lllt
1
1
2
l
2
l
?
5
1
3
長三
│
1
6
/」
1
1
1
小形倭鏡 4
「ル
ヽ 1)
1り
l
弁天古墳 (和 泉脚1)
T両
水刊‖httllt(和 泉月1)
前方後円lll
ブ
」
Flti
1
`炎
―-336-
直刀
tl刀
I
l
lll
島戸境 l号 lll
7Jlll(千
l
l
鉄釧
○
里I()1
1
2
○
F'令
1
1
2
能ill寺 古墳
計2号 ri(∼ 和1泉 り1)
1
1
二神二獣鏡
椿 3号 墳
_LII‖
1
2
方
○
2
2
l
1
前方後方墳
5号 lll
子
1
1
俵ケ谷 4号 墳
lrr・
フフ
l
鳥越古 tll
北
鉄
品
他
そ の ¨
方 llj
槍
製
農 工 漁 具
○
短剣︶
鉄剣 ︵
愛宕 4号 lll
で の 他
,
前方後方lll
鳥 舌 式
○
柳 某 式
高部32号 墳
墳
平 根 式
1空 lFi「 1円
鉄
鏃
定 角 式
○
多 孔平 根 式
利rり 5号墳
鏡
茎
腸快柳 葉 式
状
有
柳 葉 式
形
腸快柳葉 式
草 刈 Ⅲ期併行
名
草 刈 Ⅱ期併行
lll
草刈 I期併行
古
枷F環
l
3
3
第 3節
JT l 1 l l 1 l l
¨
‖
1綱
''#'ir''1'4n
主体部 (埋 葬施設)構 造 の変遷
-7
30■
l一―
irTl'*n
上 ■1'
“
小 田部古墳
神門 4号 墳
・
許
ビ
々
けラ
手
´:::眸 な
印
新皇塚 古墳
________
♀
2m
::::ill:上
釈迦山古墳
第249図
主要 古墳 主体 部
-337-
(1)
第 3章
︲
り
=
=
=
=
=
=
=
=
=
=
=
=
︱
=
=
=
︲
到
¶
副
Ⅶ
。
∈
︵
.
ヽ ︱
︲
一
´
.
´ /
r ︱ リI JI
l ]︱
上赤塚 1号 lll
石神 2号 墳
■
!
大厩浅 間様 古墳
宮脇 3号 墳
湖
月
N
M
Ⅳ
I
I
I
I
り
︱
︱
︱
︱
=
た
上 赤 塚 1号 墳
躊
││
111
主要古墳主体部 9)
一-338-―
北旭 台74号 墳
。
.0
2●
第 4章
第 1節
編年 的研究 にみる前期古墳 の展開
千葉県 における古墳編年研究
1.古 墳 の編 年 的研 究 と問題点
千葉県域 の前期古墳 といえば,戦 後 ま もな くの1947(昭 和22)年 に発掘調査 され大塚初重氏 によって報
告 された能満寺古墳
1)や
,1959(昭 和34)年 に発掘調査 され,金 子浩昌氏・ 中村恵次氏・ 市毛勲氏 によっ
て報告 された北 ノ作 1号 墳 2)は ,古 墳時代及 び古式土師器研究 に欠 かす ことので きな い資料 として,早 く
か ら知 られて きた。 その後 も新資料 が知 られるたびに,編 年的研究 は検討 され,現 在 まで積 み重 ね られて
きて い る。 それ ら個別的検討 と諸調査 の経緯 について述 べ るだけで もかな りの紙数 が必要 である し,土 師
器研究史等 に も深 く触 れなければな らな いが,今 はその用意 がない。 ここでは,む しろそれ ら先 学 の成果
を もとに した,最 近 の網羅的 な古墳編年研究をとりあげ,課 題 を明 らかに したい。
以下 に紹介す る古 墳編年表 は古墳 の築造順序をわか りやす くま とめた表 であ り,「 首長墓 (首 長 )系 譜
(系 列 )」 等 の 日本独 自の研究 をはぐくんできた。 それには長 い研究 の歴史があるが,全 国的 に比較す るこ
とを可能 に した1985年 の『 季刊 考古学』 10号 以降,盛 んに作成 され るようになる。 そ の後 ,大 王墓 と地
域首長墓 との動向 の一致 が初期国家的 な政治体制 の成立 を証 明す る3), とぃ ぅよ うな「 首長墓系譜」 研究
の新局面 を生 み出 した一 方 で,表 の作成 自体 が研究 の 目標 であるかのよ うな錯覚を も生 じた観 がある。
一地域 の編年表 を作成す るためには,遍 く詳細 な古墳 の把握 が必要 とされる。個人研究者 には負担 が大
きす ぎる。編者 の意図 に合 わせた受動的 な研究例 が多 くなるのは,完 成 された ものを提示す ることが至極
困難 で あるか らにほかな らない。 それで も成果 を上 げて きた先学 に対 し深 い敬意を表 さずにはいられない。
千葉県 における古墳 の詳細 な把握 という点 でひとつの到達点 を示 したの は,沼 沢豊氏
1)で あ る
。氏 は
河川流域毎 に主要な古墳 の把握を試み,文 献上 にみる小国造 の勢力範囲 と対 比 させて 編年 案 (第 251図 ―
1)を 示 した。 この把握 が厖大 な基礎作業 の上 になされたことは『 千葉県古墳詳細分布調査報告書』(1990)
で も扱 い きれなか った詳細 な情報 が盛 り込 まれて いることか ら知 られ,確 度 の高 い ものとな ってい る。
白井久美子氏
5)は
墳丘長 100m以 上 の古墳 がいつどこで築 かれたかを示す資料 として編年表 (第 251図 ―
2)を 作成 した。前期 か ら後期 まで大古墳 が集中す る上総東京湾岸 に対 し,後 期 に大古墳 を築 きは じめ る
太平洋岸 というよ うな,地 域 によって大 きな相違 のあることを強調 して い る。
『 前方後円墳集成』 において,下 総地域 と上総地域 をそれぞれ担当 した車 1時 正 彦氏
6)と
小沢洋氏
前方後円 (方 )墳 という古墳 の形 を基準 とし,円・ 方墳 は補助的資料 として編年表 (第 251図
7)は
,
-3)を
提
示 した。前方後円墳数第一位 の千葉県 では, と くに下総地域 で後期 に小型前方後円墳 の事例 が爆発的 に増
8),
加し
もはや前方後円とい う墳形 はさほど特別 な存在 ではな くな る実態 をよ く説明 して い る。 なお
,
『 前方後円墳集成』 では畿内編年 を基軸 とした統一 の時期細分案 (10期 編年 )を 採用 して い る。 研究者 に
よって ニ ュア ンスが異 なるが 9),お おむね 1期 か ら4期 までが前期, 5期 ∼ 7期 が中期 に相当す る。
椙山林継氏
(第 252図
0は 墳丘長「 50m以 上 の前方後円墳 を中心 に注 目す べ き条件 を持 つ もの」 を選 んで編年表
-4)を 示 した。50mと い うのは経験的 な基準 であろう。 なお,氏 は文化伝播論的 に古墳 が築 か
れるよ うになるさまを述 べて,論 を結 んでいる。
-339-―
︵L
¨
日
¨
一
︵
ご
枷
¨
編年的研究 にみ る前期古墳 の展開
tilr,tl
I
l均
8
9
¨
8 0い
R`
¨□ 〓○ 画
rlam""
9 脚
「
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱貯=======ド
第 4章
9
O
a
2o
⊆
21.r
(『
古墳時代 の研 究』 1l lll山 閣 出版 1990 '伝 載 )
8
小
●
人
“│,恩
イプラリーJ6
文化│″ センター 1992転 載)
『│(1虚 鵠常
可需
熙
11 1
Q
"
[
:‐
│五 而
沼沢案
8.“
肌甲 鵬
1
■8“
白井案 排静顔え
11'「
メ
8.RI
W[f
「
いQ
臨網 昌 臨
,l。
人
ユ
18
+調 器 │IIIIJⅧ
I二
│
。
Ⅲlllメ ロう
││●
二
Ⅲ‐イ
iiEttiri..-l
r1{11.,&i
,
"」 ¬
上総
小沢案
輸 ● ll●
前方後 円墳 集成案
東北・ 関 東編
山川 出版 社
(『
前方後円墳集成」
1994
i,fl
転載 )
'"ッ
下総
車 1崎 案
●●
う
│
“
を
( )下
ら古
leに
lll
`十
°
"
│.1l
Ⅲ
I
■ 匡
1=・
)生 _
」
l,irlr.rI
4・
山人“暉●
,
古墳編年表集成
-340-―
一
︱
,一
, ﹄ 十 ■ n ● oo
t角 Ⅲ 0わ
“一
“ 一人工嗜o●
,,
。
”
]一
2
市
ム
高
=
・
昴一
輪“・
6
一
■山︱サ●“ ”
第 251図
(1)
¨
¨
¨
¨
一 ¨
一
︹
lサ 0〕 2
a
﹂
﹁
一 ”
融
籠
口
¨
]
1・ IШ
n
● ■ °°3
‖
;1《
‖
'`颯
九■:07,
1貰朧 下
::2r)
│"│
││:イ │:
第 1節
F
,l.,r.t,t J
,l,nnr,r
|
elr I
,t
〈人 'F IF'')
僣
イ
Hrrlr
● ●
,
T,嗜 :“ 2
luaF?
■
luaftl
︲
1
ラ台●■
,
u ● ●r颯
t 颯 ︵菫一 ”市
,
●菫■
│
T軽
”
■螂
一
一
ロ
ロ
¨
︵▼■■山︱
酬踊盟
価勁
却
“
山
● ■
●帥
大 た寺 ︵コ 薔 ● ■ “ 口 寺
口
¨
︼
一
︼
駆
m
.
■ け m
m
. ロロ
ロ
│
●I■ 浅 m 山
一T 一 船 暉
〓 動鍵キ
整創
↑
12冒 1
0
口地 ¨
“︵▼ロ︵
︺
個熙2 1
●
︵
一
︻
菫
一
三
之日
,
11
●こ
言2
︵
”
一
﹂
颯
剌
枷
﹂
::]│
會 ●I ●
12,1
甲餌
“
■
︵菫一0■●
■嘔“
,1
2 コ
蘇=.
理山
,I
菫驀
1習
冒い 口 岬
∴椰出
il,r
│
IL総
13
千葉県 における古墳編年研究
尺 ♀
“
│
4
本昌 LLI案 (『 全国古墳編 年集成』 lll山 閣 出llx 1995 1A載
′
T・
.
)
房総の前期から中期古墳略年表
代
房 総 中II古 1113年 表
房
│
1998010
″
lr';(,o,
lllrrsfl:,o,
な
?
?
¨
● ¨
伸
︱ ““
●¨1 ■
2
賃
“
菫 ¨
〓
●”
”
﹄
●
li,tihrrr'$r
¨
● “
9
1
“
曾 一●出 ・¨
︱
︱
︲ ︲
︲
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
1¨
パア ¨ ︵
7¨
” 枷1
・“
”m・
、
ぼ F I I P I I●嬌 ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
rl´
,
ヶ
︼
″ ,
,
¨m“厠“
5
rv/ ″
6 /1嘲
泳 t7召 錬:(『 第 3回 東北・ lXl束 前方後 IIllrl研 究大 会
ー
Vll_
尺案 (『 君津 ll`市 文化 財 セ ィ タ 研 究紀 要」
財 団法人君 津市文 (ヒ 財 セ ンクー 1998 転載 )
シ ンポ ジウム前 j颯 古墳 か ら中期古墳 へ』 1998 転載 )
第 252図
古 墳 編年 表集 成 (2)
―-341-―
第4章 編年的研究にみる前期古墳の展開
い
永沼律朗氏 )は ,「 全国的 にみて も,編 年 が明確 でない時期 の古墳編年 は困難 であるが,房 総半 島 に多
い滑石製品 の副葬 を中心 に略年表 を作成す る」 として前期 か ら中期 にか けて編年案 (第 252図
-5)を
示
した。
小沢洋氏 ② は房総 の中期古墳 の集成 を行 い地名表 にまとめ ④,前 後 の時期 の良好 な資料 を もつ古墳 に
ついては大 小 にかかわ らず編年表 (第 252図
-6)に 組 み込む ことを試みた。『 前方後円墳集成』 とは異 な
り, 自 らの千葉県土師器編年 に基 づいて古墳 の編年 を行 って い る。
以上 , 6つ の編年研究を示 した。 それぞれ違 った前提条件 の下 に,異 なった 目的 で執筆 されて いるので
,
表 に相違 が あることは当然 の帰結 で ある。評価 が安定 している古墳 と不安定 な古墳 があることは,資 料 の
多寡 に由来す る。姉崎天神山古墳 などは,墳 丘形態 しか手 がか りがな く,大 きな前方後円墳 なだ けにその
処遇 は研究者 の悩 みの種 とな って い る。 また,前 期古墳 の基準資料 となるべ き木更津市手古塚古墳 や市原
市神門古墳群 などの発掘 資料 の全容 が知 られず,研 究 の深化を難 しい もの として い る。
6つ の古墳編年表を前期 か ら中期 までの部分 について比較す ると,ま ず気 がつ くのは実年代観 の相違 で
あろう。比較的安定 した評価 がなされている千葉市七廻塚古墳 で比較 してみよ う。最 も古 い年代 を提 示す
る永沼案 に対 し,最 も新 しい年代 を提 示す る沼沢案 との間 には, じつに40年 前後 の開 きが ある。 かつて沼
沢氏 は,和 泉式 の開始年代 について 4世 紀末 を与 えたように M), 当時 5世 紀 中葉 とす る意 見 0も あ る中
で積極的 に古 く考 えたこともある。現在 で も 5世 紀初頭 に求 める意見 が強 いことを考慮す るな らば 0,千
葉県 で考 え られて いる実年代 は相対的 に古 い傾向 があるか もしれない。研究者 によって,地 域 によって
,
さらに開 きは大 きいとみ るべ きであろう。 もちろん,実 年代観 は研究者 それぞれ の根拠 が あ り,趨 勢 や平
均値 で求 めるべ きではな い。 ここでは,実 年代観 にこの程度 のズ レがあ り,研 究者 の共通言語 にはな りえ
ていないことのみを確認 してお く。
『 前方後円墳集成』 では, こ うした混乱を避 けるためlo期 編年 という統一基準 を設 けて い る。10期 編年
は,埴 輪 ,副 葬品,棺 の構造等を指標 とした区分 で,各 期 を代表す る近畿地方 の主要古墳 が示 されており
,
そ こに地方 の古墳 を当て はめるとい うもので ある。資料をイ メージ しなが らの議論 が可能 となるため,実
年代 よ りはるかに共有 しやす い時間軸 である。 しか し,運 用 に相当 の困難 が伴 うことは避 け られな い。東
日本 では副葬品や埴輪資料 に乏 しく,埋 葬施設 は西 日本 との差違 が大 きい。出土頻度 の高 い壺 などの上師
器 は,指 標 に入 っていない。 しか も,鉄 鏃等 の副葬品 は,東 日本 の壺形土器・ 埴輪 の年代観 との間 に,解
決 されて いないズ レを有 して いる い。 このよ うな状況 で10期 編年 の よ うな細分案 を適 用す れば , と くに
前期 か ら中期 の狭間 にあたる3∼ 5期 において,容 易 にね じれを生むであろう。
このよ うに,古 墳編年 に実年代を用 いた場合 は議論 の土台 にで きな いこと,相 対年代 の場合 で も,近 畿
地方 の細分案を適用す ることは障害 が多 く,比 定 の確 かさが著 しく低下す ることが第一 の問題点 である。
次 に, 6つ の研究例 のなかで 5例 までが河川 の流域 ごとに古墳 を分類 している点 に気 がつ く。 これは
,
全国的な傾向ではあるが,果 た して有効 であろうか。
地域区分を唯一理論 づ けて い る沼沢氏 は,首 長墓系譜 の継続性 を探 るよ りも,む しろ領域 の問題 に大 き
な関心を寄 せ,「 灌漑水利」 という政治的結合 を生む要素 に注 目 して,各 河川流域単位 に古墳 を把握 しよ
うと した。 そ して,「 基本的 に各河川流域単位 に成起 し,展 開 して きた地方政治集団 の枠 」 が 存在 し,最
終的 にそ うした「伝統的地域圏を こえて 2つ の政治的地域圏 が設定 された」 と結論 づ けた。
千葉県 は茨城県 と同様 に文献上 か ら小国造の存在 が知 られ,そ れ らが上総・ 下総等 の律令国へ編成 され
-3Z12-
第 1節 千葉県における古墳編年研究
て い く過程 についての問題 を抱 える。地域史的課題 と して領域論 をと りあげたことは卓見 である。ただ し
,
第251図 -1の よ うに各流域 ごとの大型古墳 の消長 は多様 であり,流 域 ごとに展開 した とい うにはやや抵
抗 を感 じる。氏 自身 も本文中 において政治的勢力 の拡大 や縮小について言及 して いる。
栃木県那須地域 か ら茨城県北部 を横断す る那珂川 の場合,上 流 の那須地域側 と下流 の茨城県側 を一 緒 に
珂川 は上流域 と下流域 が山地 で隔 て られる ことか ら,地 形的
扱 う研究者 はまず いない。 それはなぜか。刀Ь
な区分 が容易 である。 これが区分 の根拠 であろ うD。 このよ うに,単 純 に河川流域 を同一地域 とはみな
さない場合 がある。
微地形 の連続 である関東平野 において,那 珂川流域等 と同様 の区分根拠 を示す ことは困難 である。 とは
いえ,千 葉県 の養老川・ 小糸川・ 小櫃川流域 など,山 地を含む上総丘陵部分 ではい くつかの地形 による隔
離 がみ られる。 と くに小櫃川流域 では,古 墳分布 が上・ 下流域 で三分す るよ うに もみえ る。 それを越 えて
河川流域 =「 伝統的地域圏」 と認 めるには, 自然地理以外 の人文的要素 を加味 して検討す る必要 があろう。
・
逆 に,領 域 が河川流域を越える場合 は人文的要素 による分析 で しか証 明 しえない。
このよ うに,前 提 となる地域区分 について議論 が尽 くされて いない点 が第二の問題点 である。大型古墳
等 の築造場所 を把握す るだけの 目的 であれば,便 宜上 いかなる区分 で も差 し支え ない。当時 の政治的・ 社
会的領域 が河川 に規制 を受 けやす いと私 も考 えるので,の ちの行政区分 を援用す るより河川毎 のほ うが進
かに有益 である。 しか し,研 究 の精度 を高 めるには,前 提 の再検討 が必要 とされて くる。
第二の問題点 は, これ も前提 の問題 であるが,編 年表 に組 み込む古墳 の基準 が研究者 によ って まちまち
であ った り,曖 味 であった りす る点 である。
白井氏 は文 中 で墳丘長 100m級 の前方後円墳 をとりあげ,大 型古墳 が築造 される時期 と地域 の変遷 を示
した。椙山氏 は墳丘長50mを 基準 としてお り,文 化論的 なが らほぼ同様 の 目的 を達 した。
『 前方後 円墳集
成』 では前方後円 とい う墳形 を基準 として,そ の時間 と空間を考慮 した分布 図 を示 した。 これ らが, も し
仮 に首長墓系譜論等 にまで踏み込む ときは,お のず と基準 は違 うもの となるであろう。最 も意義深 い論 を
展開 した沼沢氏 の場合 においては,基 準 は単純 な ものではありえず,個 々の古墳 の詳細 な記述 で選択 の根
拠を示 したが, これには大変 な資料 の積 み重ねが必要 とされた。詳細 な記述す らな いままに「 主要古墳」
編年表 とのみ記 される場合 には,結 論 を恣意 的 に導 く可能性 があ り,つ ねに 目的 にあわせて 資料 の範囲 が
提示 される必要 が ある。
以上,時 間軸 の問題,地 域区分 の問題 ,扱 う資料 の範囲 という三 つの問題 について考 えて きた。 これ ら
は千葉県 にとどま らず,普 遍的な問題点である。
2.本 章 の課 題
千葉県内の前期古墳を対象 と した編年的研究 が今回 の課題 である。古墳時代 を通 じて変遷 を追 う必要 が
ある首長墓系譜研究 は言 の及ぶ ところではない。 では,ど のよ うな方向性 を もつべ きか,三 つの問題点 に
学 びなが ら,以 下 に示 して い くことにす る。
時間lllの 問題 は, 1・ 2章 ですでに示 したように,千 葉県 の古墳 で圧倒的 に出土頻度 が高 い,土 器 を軸
に据え た。 この方法 はすでに小沢氏 もとっている。新 たな編年案 を用 いることを 申 し合わせたのには,段
階設定 の細 かい編年案 は正 当 な説 であって も運用 が困難 であるとい う既述 の理由があるほか , 次 の 三 つ
の理 由がある。
-343-
第 4章 編年的研究にみる前期古墳の展開
1)県 外 の案 では地域差 が運用面での障害 となること
2)小 型土器群 や器種構成 の変化 を軸 と した編年 は広域 で通用す るが,偶 然 に小型土器群 の欠落 した資
料 では運用 に著 しい支障 を来す こと
3)古 墳出土土器 の構成や造 りは,集 落等出上 の上器 と異 なる可能性 が高 いと考 えたこと
今回必要 とされる土器編年 は,古 墳 の大小 を問わず広 く十分 な運用 が可能 でな くてな らない。 それでな
くては後述 の分析 に耐 えな いのである。 そ こで,地 元 の古墳出土土器 を使用 し,で きるだけ段階設定 の少
ない,大 掴 みでわか りやす い案 を提示す るよう申 し合わ された。 また,地 元 の上器 のなかで も出土頻度 が
高 く,地 域性 が強 い, したが って連続的 に変化 したであろう,甕 を軸 にす ることも申 し合わ された。
0, 1), 2)の 理由について理解 いただけるで あろ う。 問題 は 3)で
甕 の著 しい地 域性 を考慮す れば
ある。 これは十分 な共通認識 を得 られて い るとはいえないので,新 たに検討 してお く必要 がある。
また,前 期古墳 の年代推定 では副葬品 の組合 せが重要 な要素 であ り,な かで も鏡 ,石 製腕飾類 ,琴 柱形
石製品,鉄 製武器・ 武具 は研究史 が厚 く,つ ねに相互 の整合性 が検討 されて きた。 それゆえ,土 器編年 を
副葬品 の編年 に優先 させ る考え方 には疑間を感 じざるをえない。普遍的存在 ゆえに資料的優位 にある土器
編年 といえども,観 点 の相違 か ら異 なる仮説 が成立 しうるのに加 え,現 状 は地域差 が大 きく,他 地域 との
ク ロスデーテ ィ ングもなかなか困難 である。 このよ うな土器編年をより有効 に し,広 域 で機能 で きるよ う
にす るために,金 属器 や石製品 などとの相互 チェックは不可欠 である。
副葬品 のなかで, 3例 の短 冊形鉄斧 が存在す ることは特筆 され る特徴 であるが
2の
,通 時的 な編年資料 に
はな らな い。鏡 は高部古墳群 の舶載鏡 a)ゃ ,木 更津市手古塚古墳 の傍製 三 角縁神獣鏡 と四獣鏡 の ほか
多数 の小型妨製鏡
2の
,
が知 られて いるが,そ れぞれ種類 が異 なるため個別 の年代観 を示す のが 限界 で あ る。
石製腕飾類 では,手 古塚古墳や市原市新皇塚古墳・ 大厩浅間様古墳例 の碧玉製石釧 と,草 刈 3号 墳 と千葉
か
市七廻塚古墳例 の滑石製 の特殊 な大型品 が あ り,後 者 の文様 に新要素 を含 む ことが指摘 されたが ,車 輪
石 の形状 を もつ点 で類例 がな く,通 常 の石釧 との関係を明 らかにす るの は困難である。
鉄鏃・ 銅鏃 は,あ る程度出土例 に恵 まれて い る。後述 のよ うに茨城県南部地域 も参考 に加 えれば,一 定
の編年案 が提示 できる。 これによ り古墳編年研究 の一指標 を提示 し,土 器 との整合性 をはか ることも可能
で あろう。
そこで,古 墳 出土土器 の特性,お よび副葬品編年 (お もに鏃 )と の整合性 については,第 2節 で整理 を
試み る。
二つ 目の地域区分 の問題 については,前 期 という限 られた時期 の分析 であ り,領 域 の変遷問題 を深 く追
究す ることは今回 の主眼ではないので,集 成 は河川流域 ごとに行 った。 ただ し,第 3節 の,前 方後円墳 の
墳丘形態 か ら首長 の関係を探 る際 には, よ り広域 な地域 を対象 とした検討方法 を とった。
三つめの資料 の範囲 とい う問題 は,研 究 目的 によって決 まる。本紀要 の資料集成 とい う側面 を生 かそ う
とすれば統計的処理 に力点をお くことになるが,同 じよ うに中期古墳 を集成 して編年 を試みた小沢氏 の研
究 を参考 に しなが ら主眼 とす べ きところを示 したい。
小沢氏 は他 と異 な り,首 長墓 と目され る大型古墳 とそ うではない小型古墳 を一緒 に編年表 に組み込 んで
い る。 こ うした試みは以前 か らもあるが,大 型古墳 の資料 がないので表中 の空 白を埋めるために小古墳 を
さ し挿 んだ程度 の ものが多 い。氏 の研究 は,認 識 しうる古墳 をす べて分析 の対象 と した うえ で,各 時期 に
おける「 古墳 の構成」(古 墳 に表象 された身分がどの程度重層的 な構成 を して い るか )を 描 こ うと した点
―-344-―
第 1節
千葉県 における古墳編年研究
に,方 向性 が感 じられ る。
古 墳 か らみ た 階層 構成 につ いて ,地 域 の 実 態 を 視野 に入 れ なが ら モ デ ル 化 す る研 究 は ,和 田 晴 吾 氏
2)
に よ る もの で あ る。
「 古墳 の構 成 」 も氏 の 用語 で あ る。社 会構成 と も,政 治 的結 合 関 係 と も受 け取 れ るそ
の モ デ ル は,実 態 を なか なか 表現 しづ らい首 長相 互 の 関係 を如 実 に表 現 す る ことに成功 した 。古 墳 は 身分
の 表 象 , とい う考 え 方 を 是 とす る場 合 は,古 墳 時代 当初 か らの秩 序 の 完成 を唱 え る意 見 が 強 か ったの に対
20,古
し
墳 時 代 の 各期 ごとに構 成 が 変 化 す る ことを描 こ うと した点 に,「 古 墳 の 構成 」 の 特 徴 が あ る。
古 墳 の墳 形 や 規模 を 代 弁者 と して ,階 層 モ デ ル を 描 こ うと考 えて いた研 究 者 は,少 な くなか った は ず で
あ る。各地 の 事 例 研 究 が 即座 に反 応 した の はその 表 れ と考 え る
20。
小 沢 氏 も研 究 の 流 れ を と らえ ,千 葉
県域 にお け る事例 研 究 に踏 み切 った の で あ ろ う。
「 古 墳 の 構 成 」 は,被 葬 者・ 造 営主・ 造 営集 団 の い ず れ の 関係 なのか が 曖 味 で あ る もの の ,社 会構 成 の
把握 は古 墳 時代 研 究 にお け る主 要課 題 の一 つ で あ る。第
3節 で は古 墳 のか た ちや 規 模 の統 計 的処 理 を通 じ
て ,す こ しこれ を 検討 した い。
注
1)大 塚初重「 上総能満寺古墳発掘調査報告」
『 考古学集刊』第 1巻 ―第 3冊 1949
2)金 子浩昌・ 中村恵次・ 市毛勲「 千葉県東葛飾郡沼南村片山古墳群 の調査」『 古代』第33号 1959
3)た とえば,都 出比呂志「古墳時代首長系譜 の継続 と断絶」『待兼 山論叢』第22号 史学篇 1988な ど
4)沼 沢 豊「 5-2千 葉」
『 古墳時代 の研究』 11 地域 の古墳 Ⅱ 東 日本 雄山閣出版 1990
5)白 井久美子「 第五章 畿内政権 の伸長 第一節 巨大古墳 の築造」
『 房総考古学 ライブラ リー』 6
古墳時代 (2)
財団法人千葉県文化財 セ ンター 1992
6)車 崎正彦「第 8章 下総」『 前方後円墳集成』東北 0関 東編 山川出版社 1994
7)小 沢 洋「第 9章 上総」『 前方後円墳集成』東北・ 関東編 山川出版社 1994
8)下 総 の表ではできるだけ墳丘長 の大 きい例 を抽出 しているが,群集墳 の中 にさえ混 じって存在す る前方後円形小
墳 と明確 に区分す ることは,発 掘 を経ず には困難 を 7め る。
l・
9)た とえば,田 中新史「古墳時代中期前半 の鉄鏃
(一 )」 『古代探叢』 Ⅳ滝口宏先生追悼考古学論集
1995で は, 前
方後円墳集成 で4期 の指標 とされた長柳葉形鏃 (田 中氏 によると鳥舌形鏃 )や 二段逆刺鏃 ,短 頸広 身鏃 は中期 前
半を代表す る鉄鏃 であるとしてお り, この場合4期 は中期 ということになる。 1998年 の第 3回 東 Jヒ 。関東前方 後
円墳研究会大会 における大方 の意見 では,東 北・ 関東 において も4期 と 5期 に変革 が見いだせ るとされ ,前 期 と
中期 とを分 ける目安 とされた。 ただ し, 4期 を前後二 時期 に分け る必要 があることも提案 された。
10)椙 山林継「上総・ 下総」
『全国古墳編年集成』雄山閣出版
1995な お,椙 山氏は『季刊
考古学』 10号 1985で も
千葉県 の編年表を担当 している。包括的な表 としては先駆的であるが, このと きは残念 なが ら編年根拠等 の説 明
や歴 史的評価を示す のに十分 な紙数 がなかった。
H)永 沼律朗「千葉県
前期 か ら中期古墳 へ」
『 第 3回 東北・ 関東前方後円墳研究会大会
シンポ ジ ウ ム前期古墳 か
ら中期古 墳 へ』 1998
12)小 沢 洋「上総 における古墳中期土器編年 と古墳・ 集落 の様相」
『君津郡市文化財 セ ンター 研究紀要』Ⅷ 財団
『市文化財 セ ンター 1998
法人君津君
13)小 沢氏は,中 期 のみを扱 ったのではな く,中 期 の特性 を描 くため前期大型古墳 出現以降 の古墳 の展開を扱 った。
14)『 東寺山石神遺跡』財団法人千葉県文化財 セ ンター 1977
15)玉 口時雄「 土師器」
『 新版考古学講座』 51970
16)た とえば,坂 野和 信「 和泉式土器 の成立過程 とその背景 ―
布留式後期土器 との編年的検討」
『 埼玉考古学論集』埼
―-345-
第 4章
編年的研究 にみる前期古墳 の展開
玉県埋蔵文化財調査事業団 1991な ど。
17)日 高慎・ 田中裕「 上出島 2号 墳 出土遺物 の再検討」
『岩井市 の遺跡』2 岩井市史編 さん委員会 1996に お いて ,実
年代 の問題 として取 り上 げた。す なわち,従 来 の考え方 によれば,同 古墳出土 の壺形埴輪 は 5世 紀前葉 に下 る最
新段階 の ものだが,柳 葉形鉄鏃 は 4壁 紀末以前 に遡 るというものである。個 々の遺物 に付与 された実 年代観 は事
実上 ,他 の遺物 との併行関係を代弁す るものである。 そこにズ レが あるとい うことは,実 年代 の問題 に とどま ら
ず,複 数 の遺物を組み合わせて古墳 の築造年代 を考えると,ズ レの部分 が古墳 の前後関係 にかたちを変 えて しま
う危険 がある。
18)地 域区分 の根拠 に律令国境を用 い ることには慎重 を期す必要 がある。律令国 などの行政区分 が成立す る歴史的経
緯 を明 らかにす るには,そ れ以前 の領域
(こ
こでは首長を中心 とした地域結合体 の大 きさをさす )の 変遷 を探求
す る必要 があるので,律 令国成立以前を研究す るのに,領 域論 が関わ る部分 で律令国域 に沿 って研究す るの は歴
史的遡及法 として も容認 で きる種類 の ものとはいえない。
19)田 中 裕「『 S字 甕』終焉 のころの関東」
『第 7回 東海考古学 フォー ラムニ重大会
S字 甕 を考える』東海考古学
フォーラムニ重大 会事務局 2000
20)大 日山 3号 墳木炭椰 ,能 満寺古墳木炭椰 ,滝 ノロ向台 9号 墳旧表土上 で出土 して いる。
21)高 部32号 墳 では破鏡
(斜 縁四獣鏡 )が ,31号 墳 の破砕 された斜縁二神二獣鏡 (類 例 のない五珠銭文付 き画文帯 を
もつ)が 出土 した。
22)『 研究紀要』 17財 団法人千葉県文化財 セ ンター 1996で 集成 されているので参照 され たい。新皇 塚古墳 の 内イ
テ
花文鏡 と珠文鏡,大 厩浅間様古墳 の珠文鏡,島 戸境 1号 墳 の珠文鏡・ 内行花文鏡・ 捩文鏡 2面 ,俵 ケ谷 4号 墳 の
捩文鏡 などが公表 されて い る。俵 ケ谷 4号 墳 の捩文鏡 は中期前半 まで下 る可能性が高 い。 これ ら千葉県前期古墳
出土「 倭鏡」 の変遷 については,車 崎正彦「倭鏡雑感」財団法人山武郡市文化財 セ ンター『 島戸境 1号 墳』 山武
町教育委員会 1994を 参照 されたい。
23)杉 山晋作「 特異 な彫刻文 のある石製腕 飾」
『 古代探叢』 Ⅱ 早稲 田大学考古学会創立35周 年記念考古学論集 1985
24)和 田晴吾「古墳時代前期 の政治 と宗教」『 日本考古学協会 1992年 度大会研究発表要 旨』 1992な ど。
25)た とえば,都 出比呂志「 古墳 が作 られた時代」
『古代史復元 6 古墳時代 の王 と民衆』所収 講談社 1989,6の
雛壇式階層図 がある。都出比 呂志「 墳丘 の型式」
『 古墳 の時代 7 古墳 I墳 丘 と内部構造』所収 雄 山閣 出版
1992で は,前 。中 。後期 に分 けて 3種 類 の図 が提示 されたが,同 じ雛壇 の中での変化 であることに変わ りはない。
26)た とえば,比 田井克仁「 西相模における五世紀 の社会構成 ―
その基礎的な把握―
」
『 西相模考古』第 2号 1993な ど。
-346-
第 2節
第 2節
土器編年 と古墳編年
土器編 年 と古墳編年
1.古 墳 出 土 土 器 の 特 性
古墳 出土土器 の構成 や造 りが集落等 出上 の土器 と異 な る。 しか し, どの点 で,ど の程度相違 が あるのか
,
共通認識 は得 られて いないのが現状 であ る。 そ こで,県 内古墳 出土土 器 を網羅 す るなかで その特性 を 明 ら
かにで きないか , と私 ど もは期待 した。既述 の とお り編年 的研究 にお いて忌避 で きな い問題 であ る。
古墳 出土例 に限 らず,土 器 の 出土状況 は重要 な要素 であ る。 と りわ け古墳 で は,埋 葬施設 内 に入 って い
た ものか,墳 頂 に置 かれた ものか ,墳 丘 を巡 らせ た ものか,周 溝 に投 げ込 まれ た ものか, ヽヽ
ずれ に して も
意味 が ま った く異 な って くる。 ところが,埋 葬施設 内 の上器 を 除 き,周 溝 の上器 は墳頂 か らの転落 によ る
か も しれ ないな ど,分 別 が難 しい。葺石 の ない千葉県 の古墳 で は,墳 丘盛土 内 か墳丘面 か の認識 が 困難 な
場合 もあ り,異 質 な土器 を一 緒 に扱 って しま う こと もしば しばあ る。墳丘 内出土 は極力取 り除 くが,残 念
なが ら分別 が 困難 な周溝 内土器 と墳丘上土器 とは,ひ とまず一 緒 に扱 うことと して検討 を進 め る。
市原市草刈
3号 墳 は,特 異 な大型石釧 とと もに周溝 か ら大量 の土器 が 出土 した。草刈 Ⅲ期 を代表す る土
器群 の ほか,中 期 末∼ 後期初頭 の上器群 も多 く,後 者 に舟形高不等 の須恵器 や「 草刈型須恵器」 とい う赤
焼 き 0丹 塗 りの須恵器 が含 まれ ることでよ く知 られ る。前者 と後者 は同一 の周溝内 に あ りなが ら,前 者 は
周溝 の ほぼ底面 に集 中 し,後 者 は覆土 中層 の上 か ら出土 してお り,完 全 な隔絶 が あ る。す なわ ち,草 刈 Ⅲ
期 の下層土器群 は,古 墳築造 直後 に投入 され るか,流 入 した と考 えて よ い。
草刈六之台遺跡 は,一 角 に この草刈 3号 墳 を含 んで いるが,古 墳時代 にお いて は,草 刈 Ⅲ期前後 の 時期
と,中 期末 ∼ 後期初頭 の竪穴住居跡 が密集す る,集 落主体 の遺跡 とみてよい。 その時期 は草刈 3号 墳周溝
内 の下層土器群 と上層土器群 に対応 して いる。 白井久美子氏 の報告 によれば,玉 類・ 滑石製 品・ 鉄製 品・
貝層・ 動物 の骨・ 周溝内埋葬 の存在 か ら,草 刈 3号 墳 の土器 も両時期 にお け る葬送儀礼 に伴 った遺 物 とさ
れ る 1)。 この よ うに,草 刈 3号 墳 と草刈 六之 台遺跡 は,一 遺跡 内 の一 時期 における,古 墳 出土土 器 と集落
出土土器 の構成 を比 較・ 検討 す るための良好 な資料 といえ る。
そ こで,報 告書 に掲載 された土 器 の図化点数 か ら,器 種 ごとの割合 を導 いた。図化点数 を基礎 に した分
析 には 自ず と限界 はあ るが,一 時期 にお ける出土状況別 の比較 にお いて は有用性 が認 め られて よい。同一
報告書 内 の分析 は有 用性 が高 ま る し,複 数遺跡 の分析 において は,同 器種 の多寡 を比 較す るとい う用途 に
限 り,分 析点数 (母 数 )の 拡大 によ って一 定 の有用性 が確保 され よ う。 今 回見 分 け る こ とに した器 種 は
甕
2).壺 3).高
1)を
不・ 小型器台・ 小型丸底鉢・ その他
基本 と し,図 化 されて いて も器形 が 判 然 と しな い
場合 は除外 して い る。
草刈六之台遺跡 の草刈 I∼ Ⅲ期 に該 当す る竪穴住居跡 において,数 えた図数 351点 中
,
甕40%,壺 15%,高 不 17%,小 型器 台 9%,小 型丸底鉢 12%,そ の他 7%
であ った。各期 ごとの 内訳 もそれ ほど大差 はな い。
草刈 3号 墳下層土器群 は,図 化数 126点 の うち
,
甕46%,壺 29%,高 琢
6%,小 型 器台 4%,小 型丸底鉢 9%,そ の他 6%
で あ る。
注 目 され るの は,壺 と高外 であ る。
古墳 の壺数値 は竪 穴住居跡 の約 2倍 近 く多 い。 と くに二 重 回縁壺 の差 が歴然 と してお り,墳 丘 に壺 を巡
―-347-―
第 4章
編年 的研 究 にみ る前期古墳 の展開
鰤逹孟匡EE一
二 重 回縁壺
直 口縁壺
草 刈六 之台遺 跡
(集 落)
高
堺
器
台
小型丸底鉢
草 刈 3号 墳
甕
その他
草 刈 Ⅲ期
草 刈 Ⅱ期
草 刈 I期
0%
第 253図
20%
40%
600/0
80%
100%
草刈六之台遺跡 におけ る集落・ 古墳 出土土器組成 (上 段 )と
千葉県内古墳 出土土器組成 (下 段 )
らせ た形跡 が ない草刈 3号 墳 といえ ど も全体 の13%を 占 めて い るのに対 し,竪 穴住居跡 では 5%に とどま っ
て い る。 これ に対 し,高 琢 は半分 どころか 1/3近 くに とどま り,断 然少 ないのであ る。
古墳 出土土器 と集落 出土土器 には造 りに違 いが あ るので あろ うか。壺 と高琢 はどち らか一方 の 資料 が 欠
けて しま う ことか ら十分 に比 較 で きな い。強 いて あげ るな ら,中 実柱状 の屈折脚高琢 が伴 出 して もよ いⅢ
期 であ るのに,草 刈 3号 墳 の上器群 には一 つ も見 あた らな いとい う事実 が あ る。
草刈
3号 墳 か ら出土 した甕 の造 りには集落 と比 べ て相違 はないが,色 調 が異 な る点 に違和 感 を覚 え させ
られ る。当該期 の甕 は黒ずんだ色 調 の ものが 比較的多 く, しば しば煤 がつ いて い る。草刈
3号 墳墳丘下 に
検 出 され た竪 穴住居跡 で は,二 次焼成 を受 けて黒 く煤 がつ いた土器 が 出上 した。 白井氏 によ ると火 を 用 い
た祭祀 の結果 であ るとい うが, ことさ らにそ の事実 を強調 したのは,草 刈 3号墳出十十器 との相違 が際 だ っ
て いたためで あろ う。古墳 の甕 は,か な り明 るい色調 の ものが 多 く,丹 塗 りされ た もの も含 む 。 一 方 ,草
刈遺跡 L区 201号 跡 などの集落 内祭祀遺構 の甕 も黒変 した ものが 多 い。 これ らか ら察 す るに ,草 刈
3号 墳
の甕 はほかの 用途 に一 時的 にせ よ使 われた ものの転用 で はな く,む しろ古 墳 に供 され るべ く新 たに焼 か れ
た ものが 多 い と考 え る。
以上 を整理 す ると,草 刈六之 台遺跡 と草刈 3号 墳 出上 の土器 を比較 した場合 ,古 墳 で は明 らか に壺 が 多
く,高 ネ は少 ない。 また,高 琢 は造 りに相違 があ る可能性 が高 く,生 活用具 の 印象 が 強 い甕 につ いて も
,
簡単 に転用 とは断 じきれない要素 が あ る。
古墳 にお け る壺 の多 さにつ いて は,多 くの研究者 に「 や は り」 とい う反応 で評価 され るであ ろ う。 と こ
ろが高外 の場合 ,一 つの事例分析 の みで はむ しろ疑義 が提 出 され よ う。 そ こで,小 稿執筆 時 に入手 して い
たす べ ての古墳 資料 に対 して 同様 の分析 を加 えてみた。す ると,草 刈 3号 墳 の数値 が特殊 な もので はな い
―-348-―
第 2節 土器編年と古墳編年
とい う結果 が得 られた。
I期 ∼ Ⅲ期 に該 当す る古墳 (墳 墓 )出 土土器 において,数 え た図数 は1,286点 であ る。 その 内訳 は
,
甕 31%,壺 27%,高 不 11%,小 型 器 台 10%,小 型丸底鉢 6%,そ の他 15%
で あ る。
各期 ごとの 内訳 で は (第 252図 ), I期 を除 き近 い傾 向 にあ り,
I期 とⅡ期 の間 に一 つの画期 が あ るとみ
て よい。全体 で は,小 型丸底 鉢 が I期 には存在 しないため合計 す ると相対数 が少 な くな る。 これを考 慮す
れば,上 記高不 の わずか な数値 の上昇 も相殺 されて しま う。大型前方後 円墳等 が展開す る Ⅱ期・ Ⅲ期 にい
た って は,高 不 は 8∼
7%し か な く,そ れ もおそ らく実態 よ り多 い数値 であろ う。高琢 が と くに古墳 にお
いて 出土す る比 率 の低 い器種 だ とい う ことが わか る。
この よ うに,一 般 的 に古墳 (墳 墓 )で は集落 と くらべ,壺 が 多 く,高 不 が少 な い傾 向 に あ る。
で は,沼 南 町北 ノ作 1号 墳 の墳頂部 出土土器 は例外 であろ うか 。長南 町能満寺古墳墳頂 で も壺 と高不 が
出土 して いる。 これ らは墳頂 に供 され る特別 な土器群 で あ り,古 くか ら注 目 されて きた。 おそ らく,墳 頂
に この種 の土器 を供す るの は I期 以来 の伝統 であ り,Ⅲ 期 まで受 け継 がれ たの はほぼ確実 であ る。伝統 が
大型古墳 の み に受 け継 がれたのか,ノ ト型古墳 に もあ ったのか,墳 丘 が削平 され た状態 での調 査例 が 多 いの
で明 らかには じが たい。
それ に して も,北 ノ作 1号 墳 の土器 は特殊 であ る。胴部下
1/3を 切 り取 ったひさ ご状 の壺 や ,
あ らか
じめ不底 に穿孔 し,そ の孔 内部 まで丹塗 り した高琢 な どは,お よそ集落 か ら出土 す る土器 で はない。
集落 に隣接 す る円墳 の草刈 3号 墳 です ら周 溝 出上 の土器 に特性 がみ られた。 それ よ り大 きな前 方 後 円墳
と もなれば,墳 頂部 出土土器 にさ らな る特殊性 が認 め られて もよ いはず であ る。
草刈 3号 墳 と同 じ草刈 Ⅲ期 と考 え られ る市原市釈迦 山古墳 は,93mと い う墳丘規模 で首長墓 にぶ、さわ し
い威容 を誇 る。 その墳頂 トレンチか ら壺 と高琢 が 出土 して いる。墳頂 に配置 されて いた可育旨性の ある壺 は
,
厚 い折返 し口縁 の下部 に刻 みを巡 らせ た,集 落 で は希有 な類 の二 重 回縁壺 を主 体 とす る。直 口縁壺 も,細
「を有
いハ ケ調整 に似合 わず大 ぶ りな造 りが,埴 輪化 を思 わせ る特殊 な土器 であ る。高琢 は,細 身 の柱状触
し,横 方 向 の非常 に丁寧 な ミガキが施 され る薄手 で精緻 な造 りの,屈 折脚高琢 であ る。 これを草刈 Ⅲ期 に
比定す ることに異 を唱え る研 究者 で も,県 内 で これ に匹敵す る精美 な高琢 をみ る機会 が ほとん どないで あ
ろ う ことにつ いて は賛同 され よ う。
山武郡 山武町島戸境 1号 墳 は墳丘径 24mの 円墳 なが ら,4n 製 の捩文鏡 2面・ 内行花文鏡 1面・ 珠 文 鏡
面 とい う傑 出 した副葬品 を もつ 。周溝 出上 の土器 は高不脚部 1片 と甕 2片 が報告 されて いるだ けであ るが
1
,
甕 は無理 な く草刈 Ⅲ期併行 の所産 と考 え られ る。高ネ は,釈 迦 山古墳例 に比 較 す ると厚 手 であ り精美 さに
お いて一 歩 を譲 るものの,よ く磨 かれた中空柱状 の脚 で あ り, この時期 の集落 で頻 出す る もので はない。
隣 りの茨城 県 で も同様 の例 が ある。新治郡八郷町佐 自塚古墳 は墳丘長 58mの 前方後 円墳 であ るが,墳 頂
か ら中空 で均整 な造 りの屈折脚高琢 が 出土 した 5)。 草刈 Ⅲ期 にみ られ るの と同 じ小型丸底 鉢 が伴 出 して い
る。集落 で この組合 せの 出土例 を見 か け ることはあま りな い。 む ろん ,同 古墳 の墳丘 か ら出土 した壺形土
器 や,変 形 の器台形埴輪 などが特殊 な もので ある ことはい うまで もない。
これ らの示す意 味 ,そ れ は古墳 出上 の土器 と集落 出土 の土器 が構成 も造 りもかな り相違 して い ると い う
ことで あ る。 そ して,釈 迦山古墳 の事例 が示す よ うに,相 違 の度合 いは大型古墳 で あ るほど顕著 にな る可
能性 が高 い, とい うことで あ る。
―-349-―
第 4章 編年的研究にみる前期古墳の展開
ここで,編 年上 の問題 を集約す ると次 の ことがいえる。
壺 は集落 よ り古墳 のほ うが多数出土す るため,種 類 も多 い。集落 の土器編年 では網羅 しきれな いはず で
ある。 しか も,政 治色 が強 い古墳 においては,他 地域 の ものを革新的 に取 り入 れた り,一 方 で過 度 に古式
であ った り6),古 墳 における扱 いの特殊性 か ら前後 の脈絡 か ら外 れ るものが生み出された り して ,系 統 が
複雑 に入 り組 んだ様相 である ことが想定 され る。墳丘 に配列す る埴 輪的 な もの とそ うでない ものを分別 し
,
系統立て ることが第一 に要求 され る。
逆 に,高 不 については,古 墳 ではあま り出土 しないので,集 落 での編年 が適応 しな い。今回 の草刈編年
を採用す るな ら, とくにⅢ期 は深刻 で ある。集落 においてその時期 を代表す るはず の,中 実柱状 の屈折脚
高琢 は,小 古墳 か らの例外的 な出土 にとどまる。一 方,釈 迦山古墳 のよ うな大型古墳 で出土 して い る類 の
高不 は,集 落 ではほとんど認 め られな い。相互 に排他性す ら感 じられ る様相 で ある。
草刈編年 で も古墳 に高郎 がないため,苦 慮 の末,後 述 の草刈遺跡 L区 201号 跡 (土 器溜 ま り)に よ って
Ⅲ期 の資料 を補強 している。 もちろん この考え方 には異論を挟む余地 が あ り,中 実柱状 の高琢 と釈迦山古
7)。
墳 のよ うな精美 な中空 の高不 を前後関係 に考 える小沢洋 の仮説 もまた成 り立 ち うる
ぃまは,集 落 と古
墳 とでは異質 の資料 で補填 しあ う必要 があ り, これが古墳編年 と土器編年 が うま くかみ合 わなか った原因
の一 つではなか ったか, とい う疑間を喚起 したい。古墳 における土器 には集落 とは異 なった意 味 が あ り
,
わずかなが ら異 なったモノ もあるとい う認識 が必要である。
2.土 器 編 年 と副 葬 品編 年 の整 合性
(1)底 部穿孔壺 と壺形埴輪
中国地方 の特殊器台・ 特殊壺 が埴輪 に変化 したことを解明 したのは,古 墳時代研究史上特筆 す べ き成果
であったが, この系譜 を重視す るあま り,壺 形埴輪 という用語 は使用 しづ らくな った側面 もある。関東 に
お いて古墳 に供 された壺 の うち,独 自の変容 をおこし,明 らかに墳丘 に配列 された ものは,本 来 の埴輪 と
は系譜 が異 なるとい う理 由 によ り壺形埴輪 という呼称 が避 けられる傾向 にある。埴輪壺 として分離 しよ う
とす るの はよいほ うで,底 部穿孔壺 や二重 (複 合 )口 縁壺 など,そ れぞれ異 なる範疇 を もつ土器類 に含 め
て論 じられることが多 い。
長頸化 や長胴化 した壺 とい うものは,古 墳 に しか出土 しない ものである。それ も,以 下 に説明す る例 は
墳丘長40m以 上 の首長墓 ばか りである。古墳 に供す る土器 には集落 にはない特性 があ り得 ること, しか も
墳丘規模 が大 きいほど特殊性 が増す可能性 が ある ことを考 えれば,仮 に壺形埴輪 などがその他 の壺 よ り新
しい傾向 が あ ったと して も,新 しくなければな らな い という法則 はない。祖形 となる底部穿孔 の二 重 回縁
壺 が古 い段階 に存在することは認 め られ るが, いったん埴輪化 を始 めた壺 のほかに も,別 の壺 が作 られ つ
づ けて,の ちに孔をあけられ古墳 に供 され ることもあろ う。土器編年 と副葬品編年 を対応 させ る上で,少
な くと もこ うした底部穿孔壺 と,壺 形埴輪 とを1唆 別す る必要 が ある。
同様 に系統を整理す る意味 で,「 前期末 か ら中期 の初頭 にかけての円筒埴輪 に伴 う壺 とい うの は, その
時期 に当然胴部 が極端 に長胴化 した壺形埴輪 が出現 しているに もかかわ らず,円 筒埴輪 に伴 うの は球形 の
胴部 の壺形埴輪 とい うことで, どうも関東地方 の中 で も壺形埴輪 に関 しては極端 な長胴化 した壺形埴輪 と
い うの は,そ れだけが円筒埴輸 とは違 った系譜 で入 って きて い る可能性 が高 い」 と述 べ,円 筒埴輪 に伴 出
す る例 とそれ以外 の例 とを別系統 と考え た稲村繁氏 8)の 指摘 は注 目に値す る。 ただ し,千 葉県 では当該期
―-350-―
第 2節 土器編年と古墳編年
に 円筒埴輪 が知 られて いないため,混 同す る危険 はな さそ うである。
茨城県岩井市上 出島 2号 墳 の壺形埴輪 は市原市大厩浅間様古墳 の壺形埴輪 と高 い類似性 が あ るので注 目
。
され るが,研 究史 において 同例 は等 し く最新段階 の壺形埴輪 との評価 を受 けて い る )。 私 ど もも,埴 輪 と
同 じよ うに底面 を作 らず,制 作当初 か ら筒状 に粘土紐 を積 み始 め る同例 は,壺 本来 の形 が企 図 か ら失 われ
て い ることを示 し,埴 輪化 の極致 であ ると論 じた ことが あ る 。 。同例 を壺 形 埴 輪 と呼 ぶ ゆえ ん で あ る。
長胴化 す るとい うのが この制作方法 と通 じた現象 で あ ることは,関 東 に限 らず,遠 く九州 の事例 か らも読
み とれ るn)。
これ らの特徴 を示す上 出島古墳 ,大 厩 浅間様古墳 ,香 取神社古墳 の 3例 はいずれ も長頸である。 よって
,
当地方 にお け る典型 的 な壺形埴輪 は長頸化 した壺 の系譜 をひ くと考 え る。す ると,長 頸化 した壺 であ るが
胴部 が丸 く,切 り取 り式 の底部 を もつ新皇塚古墳 ,今 富塚 山古墳 などの壺 形埴輪 は,よ り古相 を示す と考
えて よい。 しゃ くし塚古墳 は この 中間的要素 を示 す。
(2)鉄 鏃・ 銅鏃 の編年
②
武器類 は土器以外 にお ける編年 の要 で あ る。 と くに鏃 は,け っ して 多 くな いが ,松 木武 彦 氏 の 意 見
に従 い銅鏃 と鉄鏃 を一 緒 に考 え.補 足 と して茨城 県南部地域 の 資料 を加 えれば,大 掴 みに変遷 を たど るだ
け の 資料 は揃 って いる。前期古墳 の展 開 を考 え るときには中期前半 の様相 も考慮 したい ところで あ るが
幸 いに も,田 中新史氏 によ って 当該期 の鉄鏃 がすで に集成・ 分析 されて い る。 。
,
なお,鏃 の用語 につ いて ,私 ど もで は原 則 と して報告書 に用 い るべ き用語 を 内規 で定 めている。 しか し
,
この案 には再検討す べ き点 もあ るため “), と くに問題 とな る中期 前半 の鉄 鏃 につ いて はひ とま ず , これ
を集成 した田 中新史氏 の名称案 に従 って お く。
第 253図 は,東 関東 にお ける前期古墳 出土銅鏃・ 鉄鏃 の報告例 であ る。
1∼ 6は 市原市神門古墳群 出上 の鉄鏃 で あ る。 3号 墳 の墳頂埋葬施設 (本 棺 直葬 )出 上 の柳葉形鉄鏃 の
うち,
1は 鏃長 7.8cm,鏃 身長 5.7cm,幅 2.Ocm, 2は 鏃長7.Ocm,鏃 身長5.lcm,幅 1.8cmあ り, と もに大 型 品
で あ る。身 が縦長 であ り, 5 mm以 上 の厚 みを もつ菱形 の断面 と,身 の両辺 が 直線 的 で あ る点 が 特徴的 であ
る。 4号 墳 の墳頂埋葬施設 (木 棺直葬 )内 か ら出土 した 3,4の 定角式鉄鏃 は,刃 部 が鋭角 で長 く, 鏃 身
を貫通 す る孔 が一 つ あるのが特徴 であ る。 これ ら 3・ 4号 墳例 は,前 期古墳 にお ける鏃 の主体 的存在 であ
り, しば しば銅鏃 と して も認 め られ るの に対 し,
5号 墳 の墳頂 埋葬施設
(木 棺 直葬 )内 か ら出土 した 5,
6の 鉄鏃 は,あ ま り類例 をみない。
7は 木更津市滝 ノロ向台 9号 墳 の北西周溝底 よ り出土 した銅鏃 で あ る。銹 化 によ り刃部 が欠損 してお り
,
原形 はJヒ ノ作 1号 墳 の銅鏃 と類似 の形態 で あ る。粗 い横方 向 の研磨 によ り錦 を つ け,逆 刺 のつ け根 や茎 に
も粗 いヤス リの痕跡 が残 るが,側 面 は平 坦 な造 りにな って いる。
8,9は 佐倉市飯合作 1号 墳 の墳丘内出土銅鏃 であ る。古墳 以前 の竪穴住 居 か ら もた らされ ,古 墳 築造
よ り多少 さか のぼ る時期 の所産 とされ る。現存長 は3.47cmと 3.78cmで あ り,北 ノ作 1号 墳例 よ り小 さい。
10は 木更津市高部 32号 墳 出上 の鉄鏃 であ る。神門 3号 墳例 と同 じV字 形 の関 (ま ち)は 柳葉形鉄鏃 の特
徴 であるが,錦 の有無 や関 の側面構造 などは判然 と しな い。墳 丘上部 出土 とされ,混 入品 か否 か微妙 である。
11,12は 袖 ケ浦 市椿 3号 墳 の第 1主 体部 (木 棺直葬 )出 土例 で ある。 11は 柳葉形銅鏃 で あ るが ,鏃 長 8
cm,鏃 身長 5.8
cmと 「 木更津市手古塚古墳 ,長 南町能満寺古墳 の もの と比 較 す るとかな り大形 の よ うであ
-351-一
第 4章
編年的研究 にみる前期古墳 の展開
/1\
= =︱
―
―
43
ロ
曰
0 (1:2) 5cm
第 254図 束 関 東 の 前 期 古 墳 出 土 鏃
1,2神 門 3号 墳 3,4神 門 4号 墳 5,6神 門 5号 墳 7滝 ノロ向台 9号 墳 8,9飯 合作 1号 墳 (盛 土内)
10 高部32号 墳 11,12椿 3号 墳 13∼ 16北 ノ作 1号 墳 17北 ノ作 2号 墳 18∼ 23能 満寺古墳 24神 田 3号 墳
25釈 迦山古墳 26∼ 29岩 瀬町狐塚古墳 30∼ 33丸 山 1号 墳 34∼ 38桜 山古墳 34∼ 43上 出島 2号 墳
-352-
のW例=L
ぬW サ 畠 乳
II
ΔI
I冒1
︱
り暑尋辟
ぬ︱
∩ 一雌
`
、
125
中
一
部 噸
¨
3
.
5
3
列中
部
体
主
”
内裏塚古墳東椰
1∼ 5海 保 2号 墳
土器編年 と古墳編年
第 2節
第 4章
編年的研究にみる前期古墳の展開
る」 と指摘 されている0。 12は 目釘孔 を もつ無茎 の銅鏃 としては鏃長3.9cm,幅 1.9cm未 満 の小型品 であ り
柳葉形 と共通 の くびれを有す る,あ ま り類例 をみな い銅鏃 である④。
,
13∼ 16は 沼南町北 ノ作 1号 墳 の墳頂埋 葬施設 (粘 土床 )出 土例 である。13の 銅鏃 は逆刺 (か え り)を も
ち,側 面観 が平坦 な類 と しては大型品 であ り,鏃 長4.65cm,鏃 身長3.05cm,幅 1.6cm,厚 さ0.44cm,重 量6.4
gで ある。銹 による表面 の最Jが れが著 しい。14,15は 身 の両辺 に緩 やかな くびれを もつ典型的 な柳葉形鉄
鏃 である。 ともに鏃身長2.5cm前 後,幅 1.3cm前 後 の小型品 で,断 面 は菱形 ,大 きさに見合わず 4∼ 4.4mmの
い
厚 みがある。16は 方錐形 の切先 を もつ角柱状 の鉄鏃 で,類 例 はあま りな い 。
17は 沼南町北 ノ作
2号 墳 の後方部周溝付近 の表土 よ り出土 した鉄鏃 である。鏃身 が広めの三角形であり
,
逆刺 を もつ。現存長 は4.Ocm,同 幅3.7cmで ある。
18∼ 23は 長南町能満寺古墳 の墳頂埋 葬施設 (木 炭榔 )出 土例 である。全 8本 の銅鏃 の うち図示 され た 6
本 はいず れ も大 きさや外形 がよ く揃 った柳葉形銅鏃 で ある。鏃長 6 cm未 満 ,鏃 身長 4 cm未 満 の比較的小型
品 であ り,身 の くびれが強 く,や や縦 長 である。 なお,本 更津市手古塚古墳例 はこれ らをひ とまわ り大 き
くしたとい う観 が あ り,類 似度 が高 い。
24は 袖 ケ浦市 神 田 3号 墳出土 の撃頭形銅鏃である。比較的肉厚 で,撃 のよ うな片研 ぎ刃で はな く両研 ぎ
刃 であるのが特徴 である。
25は 市原市釈迦山古墳 の墳頂埋葬施設 (粘 土椰 )出 上 の鉄鏃 である。鏃身 は長 い五角形 で,両 側 に長 い
逆刺 がつ き,茎 は逆刺 より短 い。現存長 は4.45cm,厚 みは3.7111m以 下 であ り,薄 い。
以上 が千葉県内 の事例 であるが,隣 接す る茨城県南部地域 の例 も紹介 し,資 料 の充実 を図 ってお く。
26∼ 29は 東茨城郡岩瀬町狐塚古墳出上 の銅鏃 である。同古墳 は墳丘長36mの 前方後方墳 であ り,粘 土椰
か ら玉類,刀 剣,短 甲,銅 鏃 ,鉄 製工 具類 が出上 した。銅鏃 は 2種 類 ある。26は 1本 だけ離 れて出土 した
という柳葉形銅鏃 で ある。鏃長5.5cm鏃 身長 3.6cm幅 1.4cm厚 み 411mと ,小 型品 に属 し,能 満寺古墳例,北 ノ
作 1号 墳例 の中間 にあたる。他 は定角式銅鏃 で,鋭 角 な切先 が特徴 である。
30∼ 33は 新治郡八郷町丸山 1号 墳出土銅鏃 である。 4例 とも十字鏑 を有 し,左 右 の くびれが強 い,逆 刺
つ きの柳葉形銅鏃 で ある。
34∼ 38は 竜 ケ崎市桜山古墳例 である。同古墳 は利根川支流 である小貝川 の下流域 にあ り,千 葉県 に もっ
と も隣接 している例 である。粘土椰 か ら,剣 ,鉄 製工具 とともに出土 した。鏃長8.2cm鏃 身長 5.3cm幅 2 2cm
と比較的大型 の柳葉形鉄鏃 で ある。
39∼ 43は 岩井市上出島2号 墳出土鉄鏃である。同古墳 は現在 の利根川左岸 に近 接 した台地上 に位置す る
墳丘長56mの 前方後円墳 であ り,粘 土榔 の埋葬施設 か ら玉類,剣,鉄 鏃 ,鉄 製工具類 が 出土 したほか,墳
丘か ら壺形埴輪 が多数出土 した。鉄鏃 は 8点 出土 してお り, 3種 類 に分 かれ る。 39∼ 41は 鏃長 9.4cm鏃 身
長 5.8cm幅 2 cm前 後 の,鏑 を もつ柳葉形鉄鏃 である。42は 鏑 のない剣形鉄鏃 である。43は 鏃 身長 5.3cm,幅
1.8cmと 柳葉形鉄鏃 としては細 いが,鏑 を もち, くびれが強 い。
このよ うに,類 例 が もっと も多 いのは柳葉形鏃 である。
柳葉形鏃 は,他 の鏃 に比較 して重要 な意 味 を もっていた。柳葉,定 角,撃 頭 の銅鏃基本三 種 の一つで あ
ること,柳 葉 のみ銅鏃,ほ かは鉄鏃 とい う組合せで出土す ることがあること,奈 良県桜井市 メス リ山古墳
のよ うな巨大古墳等 において多数出土 し,同 時 に副葬 された鏃形石製品 において も多数 を占めることがそ
の重要性を示 している。 なによ り,収 形埴輪 に描 かれる矢 が,前 期 には柳葉形鏃 で あ り,中 期前半 には鳥
一-354-―
第 2節 土器編年と古墳編年
舌形鏃 (第 255図
-1∼ 5)で あ ることが多 い。 これ らか ら推察す れば,古 墳 時代 当初 にお け る「 儀 使 の
0と して柳葉形鏃 が 中核 的存在 で あ ったの は
間違 いない。
矢鏃」
儀器 と しての鏃 を重 視 した松木武彦氏 ")も ,弥 生 時代 か ら古墳時代 にか けて権 力 機 構 が 成 長 す るの に
伴 い,威 信財 と して 次 々 と新 しい鏃 が配布 されたため,階 層 によ って入手 で きる鏃 に格差 が生 じるよ うに
な った とい う仮説 を示 してお り,最 後 に中央 が作 って配布 した とい うのが,柳 葉形鏃 な どの銅鏃 を含 む有
稜系鏃 と して い る。鏃 に格式 が生 じて い ったよ うであ る。
中核 的 な儀器 とい うもの は,政 変 の際 に標 的 にされて消滅す ること もあ るが,正 統性 を重 視す る社 会 に
お いて は伝統 が長 く維持 され,型 式変遷 が連続的 にたど りやす い こと もあ る。収形埴輪 か ら察す るに,柳
葉形鏃 は後者 の ほ うで はな いか 。
銅鏃 か ら鉄鏃 へ とい う変遷観 は,大 村 直氏 が や川 西宏幸氏
a)に よ って
明快 に 否 定 され たが ,柳 葉 形 鉄
鏃 に関 して は「 類銅鏃式鉄鏃」 と称 して もか まわな いと考 えた ことが あ るの 。 理 由 の一 つ は,弥 生 時 代
の銅鏃 に祖形 が求 め られ る可能性 を考慮 した ことで あ ったが,同 時期 の椿葉形鉄鏃 との共通点 も見逃 せ な
いため,成 立 にお ける系譜 の整理 は簡単 で はない。
系譜論 よ りもむ しろ,古 墳時代初頭 に成立 す る鏃群 が, ほか に比 べ銅質 などの材料 か ら仕上 げ の丁 寧 さ
まで精製度 が格段 に高 い,新 時代 の鏃群 であ ることに注 目 して ほ しい。外形 で も っと もよ くわ か るの は側
面観 で ある (第 256図 )。 精製 の鏃 は鏃身 と茎 の境界 =関 に くっ きりと段差 が付 くまで研磨 し,起 伏 の あ る
側面観 を もつ
20。
矢竹 が密着す るよ うに 円錐形 の頚部 を作 り出 した もの もあ る。 これ に対 し,通 有 の 鏃
は鉄鏃・ 銅鏃 と もに身 や関 の研磨 によ る整形 がわ ず か しか行 われず,平 坦 な側面観 を もつ 。
精製 の柳葉形鏃 は,成 立 当初 か ら銅鏃 と鉄鏃 の両者 が存在 したよ うであ る。 これ は柳葉形鏃 を 中心 と し
て格式 を整 え よ うと した もの と考 え るが,精 製銅鏃 は錫成分 が 多 い ら しく銀光 りす るため,制 作 当時 に鉄
鏃 とどれほどの違 いが見分 け られ たか につ いて は疑間 が残 る。両者 は酷似 して いるが,概 して,銅 鏃 の ほ
うが規格性 は高 く,鉄 鏃 には比較 的形態差 が ある。 これ は柳葉形鏃 が長 く用 い られ る中 で,鉄 鏃 よ り銅 鏃
の存続期間 が短 か く,銅 鏃終焉 の後 ,鉄 鏃 が銅鏃 と同 じ形 態か ら独 自の変遷 を始 めたため と考 え る。 そ う
い う意味で, これ らの鉄鏃 を「 類銅鏃式鉄鏃 」 と呼 んで もよ い。
杉 山秀宏氏")は ,「 類銅鏃式鉄鏃」 につ いて銅鏃 の模傍 か ら鉄 の特質 を生 か した機能 的形 態 の 追 求 , す
なわ ち実践 的 な鏃 へ 変換 した過程 と考 え,鏃 身 の 巨大化・ 長身化 ,鏑 の消滅 ,茎 断面 の 円形 か ら方形 へ の
転換 などの変化 を想定 した。確 か に,鉄 の鍛造技術
A
I
Ⅲ
強度 ,刺 突機能 につ いての合理化 とはいえず,む し
I
I
には適合 した変化 といえ る。 しか し,必 ず しも素材
Ⅲ
Ⅲ
ろ非合理化 に も思 え る。 これ らを逆 に機 能的 には退
I
I
I
I
間
るよ うな 弓矢 に付加 され た儀器 と しての性格 を読 み
I
I
化す る過 程 と考 え るな ら,川 西氏 や松 本氏 が 強調す
=
とることもで きる。す なわ ち,実 践機 能 か らます ま
V
す遊離 して い くと同時 に,儀 器 と しての精美 な造形
か らも逸脱 して い く,と 考 えて こそ杉 山編年 は有効
銅 鏃
性 を増す と考 え る。
この仮説 で想定 され る変化 は,強 度 の無視 と,整
-355-
第 256図
「椿葉形」鉄鏃
非精製鏃 群
側面観 の相違
第 4章
編年的研究 にみ る前期古墳 の展開
畿 ↓
。
2
近︵川ⅢΨU
A国椰Ⅵり﹁
呼
信
9
砦
段
ぬじ=
を省 くと,錦 は不 明瞭 にな り,茎 断面 は四 角 くな る
ので,こ れ らが後者 の変化 といえ る。儀器 と しての
つ ことは新要素 とはな らな い。 なお,形 が 同 じで も
鍛造 と鋳造 とい う異系統 の制作技術 を 同 じ基準 で比
︲
︲
0
較す ることは理 論 的 で はないので,鉄 鏃 と銅鏃 の前
後関係 は総合的 に判断 しな くて はな らな い。
東関東 の例 で編年観 を示す と,第 257図 の よ うに
〇
∩同 I
一 ρ 耽
鸞 髄隔琳一
o
東 o l
・
関
側
7
珊
束鋤
束
∩目J
︵U
t
^
な る。一 様 に細長 くな るとい うよ りもむ しろ,精 製
の柳葉形鏃 には鏃身長 5 cmを 境 に 当初 か ら大小 の別
が あ って,大 型 品 はやや縦長 で あ るとい う傾 向 が あ
り,新 しい段階 にな ると小型 品 が 消滅 し,薄 くて細
長 い ものだ け にな る, と概括 で きる。
1段 階
1段 階 は成立期 とい って もよ い。神 門 3号 墳 出土
l
4段 階
が前者 の変化 ,薄 くな ることに連動 して ヤ ス リ掛 け
性格 が もと もと強 いとす れば,巨 大 さと,頚 部 を も
‐
↑014
「
3段 階
形 の手抜 きであ る。鏃 身 が長 くな る,薄 くな るなど
鉄鏃 のよ うに,厚 手 で しっか り した鏑 を もつ 例 は古
く位置 づ け られ る。側面観 に も研磨 の丁寧 さが窺 え
第 257図 柳 葉 形 鏃 の 編 年
1神 門 3号 墳 2北 ノ作 1号 墳 3狐 塚古墳 4能 満寺古墳 5
桜山古墳 6,7上 出島 2号 墳 8海 保 2号 墳 9∼ 11弘 法山
古墳 12中 山大塚古墳 13,14山 王寺大桝塚古墳 15前 橋天神
山古墳 16森 将軍塚古墳 17桜 井茶臼山古墳 18和 田東山 3号
古墳 19櫛 山古墳 20北 椎尾天神塚古墳 21和 泉黄金塚古墳
る。鏃身 は大型 品 に属 し,縦 長 で,側 辺 が くび れ な
い。 これ は,成 立期 の柳葉形鏃 の うち鉄鏃 に特徴 的
な形態 であ る。手抜 きによる造形 とい うよ り,青 銅
製品 と同 じ整形 を鉄製 品 に も要求 したため一 時的 に
生 じた,技 術上 の 問題 によ る もの と考 え る。高部 32
号墳例 も小型 の精製鏃 と認 め ることがで きるな ら,技 術 的 な混乱 が あ るこの段階 に位 置 づ け るべ きであ ろ
うが,薄 手 なのがやや疑間であ る。 なお,東 関東 で は明 らかで はないが, この段階 に柳葉形銅鏃 は存在 す
る (第 257図 -9,10)。
2段 階
小型 品 の北 ノ作 1号 墳 出土鉄鏃 は厚 みがあ り,比 較 的古 く位置 づ け られ るが,豊 か に切先 が膨 らみ ,明
瞭 に くびれた銅鏃 そ っ くりの形態か ら,精 製鏃群 と して完成 した段階 =2段 階 の もの と考 え る。
一 方,
2段 階 まで の柳葉形銅鏃 は 切先 が豊 かに膨 らみ,側 辺 が微 か に くびれ, V字 形 の関 と,縦 に一 本
の鏑 を もち,刃 部長 に対 す る刃部幅 の比 が 2:1と い うプ ロポ ー シ ョ ンで あ るのが 基 本 形 で あ るり 。 小
型品 ほど規格性 は高 く,茨 城県狐塚古墳 出土銅鏃 はそのよい例 で あ る。北 ノ作 1号 墳鉄鏃 との類 似 が 目を
ひ く。銅製 の定角 と撃頭 が加 わ り,銅 鏃基本 3種 が 出揃 うの も この段階 であ る。
椿 3号 墳 出土銅鏃 は大型品 であ り,や や細 長 い。古 い可能性 もあ るが,第 254図
くびれ る形態 に復原 で きるな ら,
-11の よ うに しっか り
2段 階以降 とす るのが理 論的 で あろ う。
能満寺古墳 出土銅鏃 は,小 型 品 で あ るのに基本形 よ りくびれ もつ よ く,細 長 い。」ヽ
稿 の前提 か らす る と
-356-
第 2節 土器編年と古墳編年
新 しく位置づ けなければな らない。 また, くびれをよ り強 く研 ぎ出すために丸山 1号 墳例 のよ うな十字錦
にす るなどの研磨法 が, 2段 階 の途中 に登場す る。碧玉製石製品 が加 わるの もどうや ら 2段 階 の途中か ら
である。 これは形態上 の退化 というよ り,精 製鏃群 に付加 された儀器 としての格式が,よ り複雑化 していっ
たとい う制度上 の問題 が関係 していると考え る。 これ らの新要素 が同時 に加わ るとは限 らな いが, 2段 階
を前半 と後半 に分 ける必要 はあ ろう。
3段 階
3段 階 は基本形 の銅鏃 がほぼ消滅す る段階 で,著 しく変容 した最後 の銅鏃 が ご く一部 の古墳 か ら出土す
るのみとなる。 これ も退化 とい うより制度上 の破綻 が原因 であ ったと考 える。残 る「 類銅鏃式鉄鏃」 のほ
うは加速度的 に退化を始 める。千葉県 の古墳出土例 はな いが,茨 城県 の桜山古墳例 と上 出島 2号 墳 の柳葉
形鉄鏃 はこれにあたる。前者 は大型 で あるのに銅鏃 の基本形 か ら逸脱 して いないので 2段 階 に位置 づ けて
もよいが,薄 手 であることを重視 して 3段 階 の初期 の ものと考 える。後者 は鏑 や側辺 の くびれ など銅鏃 と
同 じ特徴 を残 しなが ら,側 面観 は平坦 にな り,茎 断面 が四角 いなど,精 製度 の低下 が著 しい。単純 に長身
化 した例 と,長 身 でなおかつ くびれる例が分化 してお り,後 者 は 4段 階 へ の過渡的特徴を もつ。
4段 階
4段 階 は鳥舌形鉄鏃 の段階 である。長身化 がすすみ,鏑 は完全消滅 し,次 第 に くびれ方 が強 くなると同
時 に,関 が山形 に突出 して くる。側面 は平坦 であ り,柳 葉形鏃 の面影 はまった くな い。 ただ し,多 様 に変
容 した 3段 階 の不安定 さに比 べ ると出土例 ごとの形態差 が小 さく,安 定感 がある。退潮 にあ った古 い系統
を土台 として,新 しい鉄鏃 が成立 した段階 ともいえ る。再 び儀 器 としての機能 を取 り戻 したと考 え るが
,
鉄鏃 の主体 は,列 島 には系譜 が求 め られな い長頸鏃 など (第 255図 -6∼ 10)が 占めることとなる。
最後 に,柳 葉形鏃編年観 とその他 の鏃 との関係 を探 るため,福 島県会津若松市会津大塚山古墳例 を と り
あげたい。同古墳 の 2つ の埋葬施設 の うち,古 いほ うの南棺 (木 棺直葬 )は ,傍 製三 角縁神獣鏡 などの副
葬品組合 せの類似 か ら,木 更津市手古塚古墳粘土椰 と近 い時期 の埋葬 ではないか と考 える。収 に納 め られ
た状態 で出土 した鏃 は,銅 鏃 と鉄鏃合わせて 9種 類 もあ り,前 期 のある時期 に東 日本 で入手 で きた鏃群 が
どういうものか知 ることがで きる (第 258図 )。
1と 2の 柳葉形銅鏃 は基 本形 か らそれほど逸脱 して いないが数 は少 な く, 3∼ 6の ように多角鏑 を もつ
柳葉形銅鏃 が多 い点 で,精 製鏃 2段 階 の後半,あ るいは最後 に位置 づ けてよい。残 る 7ほ か22点 の銅鏃 は
弥生時代以来 の銅鏃 で ある。大型で若干 の くびれがみ られ る以外 は精製鏃群 と異 な り,銅 質 が著 しく悪 く
,
旧来 の形状 をとどめる。北 ノ作 1号 墳出土銅鏃 の下限を示す例 といえ る。11ほ か 5点 の鉄鏃 は中期 の鏃 に
も似て いるが,む しろ神門 5号 墳出土鉄鏃 の系統 を引 く東 日本 に通有 の鉄鏃 の一 つ と考 えたい。
注 目 した いの は 9ほ か 7点 の鉄鏃 である。管見 では市原市釈迦山古墳例 に もっと も似 て い る例 である。
鏃長 5∼ 6 cmは やや大型 であるが,形 において も,茎 を関 まで差 し込む矢竹 へ取 り付 け方式 について も共
通 している。釈迦山古墳例 は草刈 1号 墳第 2主 体部例 の二重逆刺付 き鉄鏃 (第 255図 -22∼ 26)と も似 て
い るか もしれないが,鏃 身 を くわえ込む取 り付 け方式 であるよ うに,そ れ らは矢 としての姿 が異 なるので
郷)。 比
別系統 の鉄鏃 と考える。つ ま り,釈 迦山古墳例 は中期 よ りも前期 の鏃 の要素 が 強 い
較 的華奢 な造
,
りをやや後 出的要素 と考 え るな ら, 2段 階後半 か ら 3段 階 に併行す る時期 に位置 づ けてよ いと考 える。
一-357-―
編年的研究 にみ る前期古墳 の展開
ほか11点
I
O u.t, z ,H.
irr'12,+.
︵
﹃∪=Vo
O◎
8
2
︲
︲
∩同 扁椰ⅧO◎
︱
O
2
◆
〇
.+
<--..-.-<
E:E
l1
︲WW 6
AハⅢ田旧ⅢⅢⅢ囚Wl
l
1
l
1
O
⇔
⇔
,
◇
◆
点
]
同
回
2
¨
割
﹃
勒
剋
﹁
一
m
ヽ
力
◆
〇
ま
︲
第 4章
ほか 6点
⇔
占
―
€ ,o
il
@ m,t's,{
0
(1:2) 5cm
第 258図
福島県会津大塚 山古墳 出土鏃
『会津大塚山古墳の時代』(福 島県立博物館 1994 転載)
(3)土 器編年 との対応
銅鏃・ 鉄鏃 などが豊 か な古墳 は,部 分調査 しか行 われないことが 多 いので,必 ず しも土器 に恵 まれな い。
千葉県 で も神門 3号 墳 ,北 ノ作 1号 墳 ,能 満寺古墳 ,釈 迦 山古墳 で若干 の土器 が知 られ る の み で あ る 。 ま
た,壺 形埴輪 で は茨城県側 の上 出島 2号 墳 だ けであ る。
神門 3号 墳 は,甕 の欠如 によ り評価 は微妙 であ るが,草 刈 I期 後半 の土器 を もつ 。 出土鉄鏃 は最 古 の 精
製柳葉形鏃 と して 1段 階 に考 えた。 1段 階 の柳葉形鉄鏃 は長野県弘法 山古墳 ,兵 庫県権現 山51号 墳 や 岡 山
県浦間茶 臼山古墳 の ほか,奈 良県中山大塚古墳 などに類例 が あ る
2つ
。 神 F]3号 墳 と弘法 山古 墳 の土 器 は
近縁関係 にあ ると考 え るので矛盾 はないが, もし東海地方西部 の廻 間 Ⅱ式後半併行 と考 え るな らば,近 畿
地方 では布留式以前 の庄 内式新段階併行 と考 えな くて はな らな い。残 る 3古 墳 は定型化 した古墳 とされ る
か ら布留式最 初 の段階 に併行す ると考 え ると,東 日本 の方 が早 くか ら新式 の鏃 を も って いた とい う結 果 に
な りかねず ,精 製鏃群 の理 論的前提 と合致 しな い。 わずか な矛盾 で はあ るが古 墳 時代開始論 にかか わ る間
題 なだ けに,よ り充実 した資料 のなかで 今後 の検討 を待 ちた い。
北 ノ作 1号 墳 は草刈 Ⅱ期 の上器 を もつ と考 えたが,す でに大村直氏 によ って布留式古段階併行 とす る編
28)。
年案 が 出 された ことが あ る
柳葉形鉄鏃 は 2段 階 の ものなの で ,草 刈 Ⅱ期 で あ れ ば 前 後 関 係 に矛 盾 は
ない。 2段 階 の鉄鏃 は前橋天神 山古墳 や長野県森将軍塚古墳 な どに類例 が あ る。同 じ小型 品 で近 似 の鉄鏃
を もつ前者 で は小型丸底鉢 もどきの土器 が知 られてお り,や や大型 であるが形態 的類 似度 の高 い後者 の 例
では,埋 葬施設 か ら忠実 な小型丸底鉢 が伴 出 して いて,木 下正 史氏 によ り布留式古 段階 に併行す る もの と
-358-
Fly UP