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経済政策の視点から−強い通貨、強い経済

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経済政策の視点から−強い通貨、強い経済
「経済政策の視点から−強い通貨、強い経済−」
聖学院名誉理事長、聖学院大学全学教授
速水
優
はしがき
戦後60年のドイツと日本の経済復興とそれに引き続く経済発展が急速に進展したことは、こ
の機会にトレースし、比較してみることは意義のあることと思う。
結論を先にいわせてもらえば、その国への内外の信認というものは、 強い通貨・強い経済 が
みたされれば国の豊かさ、物価の安定をもたらし、信認を得られるということです。日・独両国
は過去60年いろいろ波もあったが、概ねこの線を歩んできているといえよう。以下、私自身の
体験と感想を中心に報告してゆく。
1.終戦直後ゼロから出発の日本、東西2国に分かれるドイツ
私自身、終戦は軍隊で経験し、大学に無事復員してきて2年後に大学を卒業し、日本銀行に就
職した。はじめに、日々の貸借対照表(balance sheet)を作成している計理局に配属され、銀行
券というものは中央銀行のもつどのような資産・負債に見合って発行されるものであり、国の豊
かさ、物価の安定、経済の成長要因等につき教えられるとともにこれからおこる国際取引、為替
等についても戦前の動きや各国の動向等を勉強した。
1949年に1ドル360円の単一為替レートが決まり、米軍 GHQ は貿易の民間移行を発表
した。私はその年に繊維産業の中心である大阪に転勤となった。ここでは営業の第一線で小さい
繊維製品の米国等への輸出を金融面から支援する貿易手形や、綿花商が綿花代金支払資金を調達
するため日銀の審査を受けた上で、金融ブローカーを使って地方の金融機関に売却する等のかな
り進んだ金融方法が活発に動き始めた。時恰も、朝鮮動乱が勃発し、米軍関係の特需の取引やフ
ァイナンスが為替取引やドルの受取りを支えていた。
こうして紡績復元と称して 10 大紡績の中心地である大阪を中心に紡績手形による融資などが
増え始めていた。
日本の保有外貨や受け入れ外貨の全面集中の作業も対日講和条約の調印等を契機に政府・日本
銀行に移管され、日本銀行の外国為替局の拡大もあって、私も1951年に本店の外国為替局に
転勤した。
当時、欧州でも欧州支払同盟(EPU)が1950年秋に成立している。ドイツでも1948年
に通貨改革を行い、ライヒス・マルクからドイツ・マルクに切り替わり’49年に西ドイツが発足
し、’53年に東ドイツが発足して、ベルリンの壁が’61年に築かれたと聞いている。
ベルリンの壁が崩壊されるのは’89年暮であり、ここでは東側の情報不足にてその間の東ドイ
ツのことはふれないで西ドイツ中心に議論を進めたい。
私は日銀にいて専ら、国際金融・為替の企画などをしていた。1952年に IMF、世界銀行へ
の加盟等とも相俟って、輸出主導の経済成長が各種の政策で効果をあげていった。
その間、私は’58−’60年までロンドン駐在となり、cityの英蘭銀行の近くにoffic
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eがあり、為替市場の動きはもとより、当時出はじめていたユーロ弗の動きに関心をもち、よい
経験とセントラル・バンカーや学者などよい知人を持つことが出来た。また、本部の指示で日銀
保有ドルで現地ブローカーを通じて、金の市場での金買いを時折やったこともよい経験であった。
2.ブレトン・ウッズ体制の下でのドイツ・日本の発展の背景
ロンドンに2年いて日本に帰り、外国為替局での為替銀行の外貨資金やり繰りを調べながら、
為替、外貨のDMの動きや西ドイツのたくましい経済発展の歩みを注目し始めていた。マクロ面
からみて、第2次大戦の勝利国である米英等が第1次大戦後の敗戦国に対して厳しすぎた対策を
とらず戦後の世界経済の回復を早くし、日本、ドイツなどの敗戦国の経済成長を早め、結果とし
て以下のような措置が世界経済の回復に貢献したと思う。
(1)敗戦国に対して、巨額の賠償金の請求などはせず、戦争責任者や戦争犯罪人とを国際裁判
にかけた。また、敗戦国への必要な援助物資をマーシャル・プランとかガリオア・エロアの援助
などで敗戦国に贈与し、戦後の日米協力関係とか、日米親善の空気を新たに作り上げてゆくこと
に成功している。
この種の援助は西ドイツに対しても行われていたと推測する。
(2)終戦の前から戦勝国のサイドで国際会議を開き、ブレトン・ウッズ協定案を作成し、終戦
の年の 12 月に発効した。これにより戦後の国際取引は、金・ドル本位の固定為替レートを採用し、
新しい国際機関として、IMF、世界銀行が創設された。戦後速やかにこの制度による民間取引の
拡大となり、世界の経済成長を推進させてきた。
(3)このような戦勝国サイドの協力に加えて、日本でも、西ドイツでもそうだったと思うが、
戦後生き残った官民による経済再生への情熱が強く、治安も駐留軍の努力で守られ、マッカーサ
ー将軍の率いる GHQ に対して国民は敬意を表していたと思う。このような配慮が、第一次大戦
に負けたドイツで早い時期にナチスがおこり、ヒットラーのような右翼をつくり上げ、第2次大
戦へのきっかけとなっていったことからの反省でなされたことと感謝したい。
(4)また、それぞれの敗戦国での政治と経済のよきリーダーを得たことである。西ドイツでは
アデナウアーが 15 年近く首相をつとめ、民主的な国と外交をつくり上げ、また強い DM の番人
として中央銀行のウィリアム・フォッケ総裁など中央銀行の任務をよくわかったセントラル・バ
ンカーが通貨の信認を強くしていったことに我々の立場からみると忘れられない。
日本の場合にも自民党の吉田茂首相が米国サイドともうまく接触しながら日本に民主主義を育
て、新しい平和憲法をつくったことは偉大であった。米本国からきたドッジ(経済)シャープ(税
制)の使節もよかった。また通貨の信認を守る日本銀行も、一万田尚登総裁が法律自体は変えず
に新たに7人の政策委員会をつくって政策決定権をもたせ、中央銀行の自主性をもりたててくれ
た。これを受け継ぐすぐれた総裁方が強い円、強い経済をつくり上げながら、円への信認が高ま
り、経済力が戦後四半世紀で世界第二位の経済大国になっていった。
3.DM、円、SFが強い通貨に
ブレトン・ウッズ体制の下では、IMF,世界銀行等が経済復興に必要な資金を補い、民間経
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済の発達を促進する機能を果した。こうして西側では、資本主義、自由競争、価格機能が企業、
市場を育成していった。
ドイツ、日本の産業技術の高さや労働生産性の高いこと、通貨面でインフレが低率で維持され、
輸出競争力が強化され、DM、円、スイスフランへの信認が強くなっていった。
私は1964年に日本銀行のニューヨーク事務所の次長として家族を連れてニューヨークの北
の郊外の鉄道の駅のそばに住み、officeまで一時間近くかかったが、小さい子供2人の学
校と幼稚園は公立でも、地方には結構よい学校があったと思う。
ケネディが大統領の現職で銃撃され、副大統領であった同じ民主党のジョンソンが大統領を引
継いでいた。問題はヴェトナム出兵がはじまり、同時にケネディの時から国内の黒人等の福祉や
差別扱いの排除等で財政の支出も多く、経常収支と財政収支の「双子の赤字」が予想され、米ド
ルの軟化がおこっていた。
そんなことで海外から米国での起債が止められるなど米ドルへの人気は弱く、固定相場ではあ
るが、DM、円、SFの3通貨の強さが目立ち始めていた。
当時ニューヨークにいて、日本からNYでのドル起債に関心のある人が、外国からの起債がと
められていることを聞いて、”Wall St. is now surrounded by high wall”と嘆いていたのを思い出
す。国際的な流動性のある通貨が足りないということで、やがてIMFがSDR(特別引出権)
の創出を考案して70年に一部発行しており、構想はいまでもIMFに残っている。
4.ニクソン・ショック後のドイツと日本
私は1966年に帰国し、外国局総務課長を勤めたが、在米中に、日本は IMF の8条国に移行
し、OECD にも正式加盟していた。また、東京で IMF、世界銀行の年次総会や東京オリンピック
が開かれるなど、日本の敗戦からの復興、発展が国際的に認められてきたと思う。また、アジア
開発銀行がマニラに新設され、総裁は初代から日本から派遣されている。
この時期は世界的な不況感と基軸通貨への不信感がまん延した時期であり、国際通貨制度の将
来が危ぶまれていた。現に英ポンドは危機を生じ、’67年秋に 14.3%の切り下げを行なっており、
ロンドン、パリ市場ではゴールド・ラッシュが発生していた。反面、西ドイツではエアハルト、
キージンガーの下で経済力が強くなり、DM も切り上げが問題にされる程強くなっていた。
私は、国内経済を知る機会として九州の大分支店長を2年半やらせてもらったが、地方でも電
力、鉄鋼、造船、自動車工場などが極めて活発に動き、都市銀行の支店、地方の銀行が伸びてゆ
く企業に充分な資金供与を行なっていた。また、道路、交通、航空はもとより、海の埋立てによ
る工場地帯の作成など官民の協力が極めて活発に展開されていた。
’71年の問題の年のはじめに二度目のロンドン勤務となり、家族も連れて、ロンドンから欧州
全体をよく見てゆくよう指示された。日本は’70年から BIS(国際決済銀行)に正式再加入をし
ており、欧州は既に欧州共同体を発足していた。
西ドイツはブラント首相の下、5月になって外国からの資金流入(主としてドル)が激しく、
一時為替市場の閉鎖を行なった上、5月 10 日に変動相場制(フロート制)に入った。日本も資金
流入もはじまり、6月には輸入自由化を促進し、8月には資本自由化を閣議決定していた。
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米国がヴェトナム出兵と国内での公民権運動で財政の歳出が大きく、また世界の貿易・投資が
増えゆく時に、それを決済するための国際流動性が不足していることは明らかであった。これこ
そ「流動性ジレンマ」であって、多少の前述した SDR の増発などでカバーできる問題ではない。
そういう状況下、ニクソン大統領が8月 15 日(日曜日)の夜、「ドル防衛、景気刺激、インフ
レ抑制のための総合的経済緊急対策」を世界に発表した。私は、日曜の夜テレビで聞いていたが、
日本は時差の関係ですでに月曜日の午前で市場を開いており、いっせいにドル売りとなり、固定
相場下限で外為会計は1日で6億ドル近く買わされた。
本部から、この件につて明日月曜の午後、ワシントンからボルカー財務次官とデーン連銀理事
がロンドンに行くから、連絡を取って欧州主要国代表と一緒に話を聞いて報告するように指示が
あった。
早速、月曜朝、英蘭銀行に行き、場所を教えてもらい、日本の大使館の原公使と一緒に秘密会
議に出席した。各国大蔵次官、英国からは英蘭銀行のモース理事、ドイツからはブンデスバンク
のエミンガー副総裁が出席していた。ボルカーさんはもとより、エミンガーさん、モースさんな
どかねてから親しい人々が、
「アメリカはいつどうして市場を再開するか、教えないと我々は市場
を開けない。日本は今日一日市場を開き、下がることのわかっているドルを6億ドルも買わされ
ている。」と問うたのに対し、ボルカーは「私は交渉に来たのではない。採った措置を説明に来た
のだ。皆の意見を聞きたい。」と言って帰っていった。
結局、12 月のスミソニアンで新レートが決まるまでフロートし、308 円に切り上がったが、一
年余り維持されただけで’73年2月に再びドル売りが激しく東京市場も一時閉鎖して、フロート
にして再開し、今日に至っている。EC6ヶ国もその頃から共同フロート制に移行し、ユーロ統合
への第一歩を踏み出している。
ブレトン・ウッズ体制(金・ドル本位固定相場)がなくなり、円、DM などがドルに対しても
っと強くなることが予想されたが、ひとつ予想外のことがあったのは、石油国(OPEC)が石油
価格を急速に引き上げ、第一次、第二次 oil shock が起こって大きな不安を呼びおこしたことであ
る。
石油価格が急速に引き上げられることは、消費国サイドの物価に影響を与えることは申すまで
もない。また、OPEC 諸国が増える保有外貨をドル以外の運用(円、DM 建の債権投資など)に
用いることは、これらの通貨を機軸通貨化してゆく支えとなる一方、どこまで石油価格が上がっ
てゆくかは消費国サイドでは自国通貨の強さへの混迷の要因ともなる。
もう一つは、為替相場水準への見通しがたたないのはユーロの通貨統合の動きへの関心であっ
た。独・仏がどのようにこれを押し進めてゆくか、見通しが難しかった。とくに、独のシュミッ
ト首相と仏のディスカルデスタン大統領の頃からの所諸ボンパリ枢軸の動きは我々にはよくわか
らなかった。
ロンドンから帰り、外国局長、外国局担当理事をやり、’81年に日銀を辞め、総合商社、次に
強力な財界団体の一つ「経済同友会」の代表幹事をやり、世界経済の動きには関心を持ち続け、’
98年に再び総裁として日銀に戻った。ユーロの動き出す過程はオランダ時代からお親しいドゥ
ーゼンベルグ総裁から BIS 会議などでよくお話を聞いていた。
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これが成立したのは、やはりドイツが決断された西ドイツ、東ドイツを1−1で通貨統合され
たことに起因すると思う。産業の面、物価の面、労働力の面、為替の面などかなり後遺症があっ
たのかもしれないが、よく踏み切られ、ドイツの再統合、ベルリンの壁の崩壊を実現されたと思
う。このことは一人の経済人として深く敬意を表したい。
最後に、ドイツとの長い付き合いの中で今思い出しても嬉しくなる一つの経験をご披露したい。
1979年7月の第二次オイルショックの最中であった。外国局担当理事で当時の森永総裁の
お伴をしてバーゼル BIS の総裁会議に出席し、帰りにフランクフルトを訪ねてブンデス・バンク
でエミンガー総裁と理事一同の方々と第二次オイルショックへの対応の難しさなどを話し合われ
て帰る前に、森永総裁がお礼を言い、今の気持ちはドイツの格言にある「喜びは分かち合えば倍
になり、悲しみは分かち合えば半分になる」というのを、そこだけドイツ語で
“Geteilte Freude ist doppelte Freude,
Geteilter schmerz ist halber Schmerz”
といわれ、初めの”Geteilte…”と言い出しただけでエミンガー総裁が「そうだ、そうだ」といい、
同席の理事方も机をたたいて感動的なシーンであった。
長い付き合いのあるドイツと日本、これからもこの気持ちでお互いお付合いしていきたい。
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