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IMFの役割、危機事前阻止に変化
第3号 より 6月に刊行されるAsian Economic Policy Review(AEPR)の第3号「アジア危機 から10年。学んだこと、学ばなかったこと」から、伊藤隆敏・東京大学教授の論文およ びリ・ジョンファ・アジア開発銀行地域経済統合室室長とイ・チャンヨン・ソウル大学教 授の共同論文の抄訳を掲載する。前者はアジア危機と国際通貨基金(IMF)のかかわり、 後者は韓国の経済危機を論じている。 アジア通貨危機とIMF、10年後の検証 Asian Currency Crisis and the International Monetary Fund, 10 Years Later IMFの役割、危機事前阻止に変化 伊藤 隆敏 東京大学教授 アジア通貨危機が多くの国・地域に広がった要因として、国際通貨基金(IMF)の対応が不十分だった ことが挙げられる。支援規模が小さかったうえ、財政・金融両面の引き締め、弱体化した金融機関の閉鎖 など支援条件も厳しすぎた。IMFへの信頼性は低下し、危機発生時に資本流出を食い止める機能は期待で きなくなった。その役割は、危機の事前阻止に限定されるべきである。 1997年7月、タイの通貨バーツは変動相 揚げる前に加盟国に適切に助言し、危機を 場制に移行した。東アジア全体に波及した 未然に抑えるべきだった②資本移動が自由 通貨危機の始まりだった。大部分の東アジ な中規模の新興国で突然、資本流出が起き ア諸国の為替レートは7月から9月に下落 た場合は、IMFが供与できる額を大きく上 し、12月にはインドネシアルピアと韓国ウ 回る資金が必要である③米国とIMFの救済 ォンの累計下落幅がバーツを上回った。 策に対し、米投資家の救済が狙いとの批判 危機が野火のように広がったと評する人 が欧州を中心に出た―だった。③はIMF もいるが、様々な意思決定があり、波及を が最後の貸し手であるべきか、それとも国 止める機会があった。結局は失敗に終わっ 際資本市場の混乱なしに民間部門を巻きこ たが、止められない野火に例えるのは適切 むメカニズムを構築する役割なのかという ではない。問題はタイ、インドネシア、韓 重要な問題を提起している。しかし進展が 国への国際通貨基金(IMF)の厳しい融資 なされる前にアジア危機は起きた。 条件と、対外債務の規模に比べて取るにた らない金融支援規模だった。 メキシコ危機が先駆け メキシコ危機と違い、IMFは少なくとも 96年末にはタイ経済のリスクに気づき、為 替制度の柔軟化を求めていた。タイの経常 赤字は国内総生産(GDP)の8%の規模 94年のメキシコ危機は、アジア危機の先 で、それを上回る資本が流入していた点で 駆けだった。メキシコ危機の教訓は①IMF はメキシコと似ていた。ただ、タイは危機 は監視機能を改善し、投資家が資金を引き が表面化する前から、投機筋のバーツ売り 10 日本経済研究センター会報 2007.6 特集 にさらされていた。 投機筋と中銀の戦いは96年12月から97年 5月まで続いた。先物市場での中銀のドル アジア再生の10年 ところが大きかった。しかし、メキシコ危 機で受けた批判から、IMFは大規模な支援 をためらった。 売りポジションは200億ドルを超え、外貨準 アジア危機とメキシコ危機の主な違い 備に近づいた。7月4日に変動相場制に移 は、その波及性である。7月11日にはフィ 行すると、2週間でバーツは15%下落した。 リピンが変動制に移行し、インドネシアも 8月にはIMFと日本が共同でタイ支援策 ルピアの変動幅を12%に拡大した。マレー をまとめた。IMFだけの支援には限界があ シアも7月14日に変動制になった。東南ア ったためだ。この時点で下落幅は20%に達 ジア諸国連合(ASEAN)加盟国では、各 したが、深刻な危機ではなく、過大評価さ 国通貨の下落が絡みあっていた。 れていた通貨の調整だった。もし、この水 通貨の引き下げ競争を懸念し、流動性危 準が維持されていたら、地域規模の危機は 機に直面する国に対する支援メカニズム創 起きなかった可能性がある。 設の議論が起きた。8月半ばから9月中旬 IMFは8月20日、総額172億ドル(うち にかけ、アジア通貨基金(AMF)構想が IMFは40億ドル)のタイ支援プログラムを 非公式に何度か議論されたが、IMF、米国、 発表したが、バーツはさらに下落した。そ 中国の反対で実現しなかった。 れまで非公表だった中銀の先物のドル売り 10月中旬になると、震源地はタイからイ ポジションが234億ドルに上ること、短期民 ンドネシアに移った。11月4日にIMF理事 間債務が300億ドル以上あることがわかり、 会で承認された総額400億ドルの支援プロ 合意された規模では対処できなかったと受 グラムは当初の2週間はうまく行っている け止められたためだ。翌週になると、バー ように見えた。ルピアは上昇し、経済の混 ツはさらに4.5%下落した。IMF支援策の 乱も起きなかった。しかし、IMFが求めた 効果に対する市場の信頼性は低かった。 金融引き締めと高金利は維持できず、金融 IMFは脆弱(ぜいじゃく)な金融機関の 政策も通貨価値の維持と弱体化した銀行の 閉鎖と、財政・金融両面の引き締めをタイ 救済に右往左往した。GDP1%の財政黒 政府に勧告した。だが経済活動は急速に衰 字の目標も同国には厳しすぎた。11月後半 え、財政引き締めが間違いだったことがす までにルピアは上昇分を失い、12月末にか ぐに明らかになった。 けて下落を続けた。経済の混乱は社会・政 大規模支援ためらったIMF 治不安に発展し、スハルト大統領は98年5 月に辞任を余儀なくされた。 タイ危機の教訓は、①事実上のドルペッ アジア第2の工業国に発展していた韓国 グ制の危険性が改めて確認された②固定相 が危機に陥るとはほとんど考えられていな 場制は、十分な外貨準備を持つときに放棄 かったが、11月中旬になると、危機波及の すべきである―だった。バーツ下落は、 兆しが見え始めた。海外の投資家が韓国企 IMFプログラムの規模が小さいことによる 業・金融機関の融資借り換えを突然、拒否 日本経済研究センター会報 2007.6 11 するようになった。 97年半ばのタイ、インドネシア、韓国の 経済状態は大きく異なっていたが、外貨準 相場(クローリングペッグ)制あるいは固 定相場制維持への支持が盛り込まれたが、 数カ月しかもたなかった。 備に対する銀行部門の短期債務比率の高さ ロシアでは、IMFは固定相場制の維持を は共通していた。同年6月末の比率は韓国 許したが、支援から1カ月後の98年8月に が2.1(インドネシアは1.6、タイは1.4)と は、高利回り政府債券(GKO)のデフォ 3カ国中、最悪で、中南米諸国の比率を上 ルト(債務不履行)に追い込まれた。IMF 回っていた。 との合意の下でドルペッグ制を維持したブ IMFは米国、日本と緊密に協力し、韓国 ラジルも、最終的には変動制に移行した。 への支援プログラム案を作成した。時間と アジア危機では、インドネシアや韓国な の戦いであり、IMF理事会は12月4日、前 どに融資条件の一部として変動制採用を求 例にない迅速さで570億ドル規模の支援策 めたIMFが、ロシアなどには通貨の切り下 を承認した。融資条件には財政・金融引き げを求めなかった。突然、IMFは「寛容」 締めや脆弱な金融機関の閉鎖に加え、貿易 になった。持続不可能な政策を継続させ、 や資本勘定の自由化、労働市場改革まで含 投資家を救済したとの批判がIMFに浴びせ めた。だがウォンの下落は続いた。 られた。皮肉なことに、IMFは、必要とし 98年夏以降、多くの東アジア諸国は為替 なかった国々に財政引き締めと厳しい融資 レートの安定性を取り戻したが、生産活動 条件を課し、逆にある種の固定相場制の継 と銀行部門に大きな問題を残したままだっ 続を許されたポスト・アジア危機の国々 た。大幅な通貨下落は輸出部門の助けとな は、失敗したのである。 ったものの、多くの金融機関のバランスシ ートは悪化した。 アジアには依然としてIMFへの反発が残 っている。多くの国は将来の危機の際に 98年後半になると、ルピアを除く全通貨 IMFに頼らない「保険」として、巨額の外 が、失った価値の3分の1から半分を取り 貨準備を積み上げている。世界及びIMFの 戻した。東アジアの多くの国は99−2000年 関心は、アジア危機が起きた10年前から大 に著しい経済回復を見せ、危機以前よりは きく変わった。資本流出の阻止にお墨付き 幾分低いものの成長軌道に戻った。為替レ を与える存在としては、IMFは信頼性を失 ートも98年の春から夏に回復に転じたが、 った。 危機以前の水準には戻らなかった。 寛容になったIMF 結論を言えば、アジア危機は「支払い能 力危機」というより「流動性の危機」だっ た。外貨準備を増やしているのはアジア諸 アジア危機が過ぎ去った後も新興経済諸 国だけではない。産油国や他の地域の新興 国はたびたび危機に陥った。ロシア、ブラ 国もこぞって必要と思われる以上に積み増 ジル、トルコ、アルゼンチンなどだ。いず している。IMFは危機を事前に阻止する役 れの国でも、IMFプログラムには小幅変動 割に限定すべき時代になった。 12 日本経済研究センター会報 2007.6