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カルミナ・ブラーナの時代背景
名古屋市民コーラス カルミナ・ブラーナの時代背景 ヨーロッパの中世はゲルマン民族の大移動で幕をあける。彼らは3世紀から6世紀頃にかけて西ローマ 帝国に侵入し多くの王国を立てラテン文化とキリスト教を取り入れた。カール大帝は、周辺諸国を統一しフ ランク王国を拡大し 800 年に法王レオ3世から西ローマ皇帝の冠を授かった。その後 843 年と 870 年に分 裂し東フランク王国ができ、後のドイツにつながる。1096 年から 1291 年にかけ前後 7 回にわたった十字軍 の影響で、十字軍に必要な物資の調達資金貸与を通じ、商業活動が活発化し都市が発達し、又荘園領主 と教会と大学が力を持つに至った。土地支配権を確立した騎士の土地は荘園という形で経営され、領主に 農民が貢納した。荘園には必ず教会があった。教会も叙任権・裁判権・徴税権を持ち、修道院が各地の教 会を指導・支援した。大学は法王に特権と自由を保証され、各地の大学は国際的な研究教育機関として存 在した。 中世ヨーロッパの文化・芸術・学問はカトリックのものであり、共通してラテン語が使われた。中世の支配 階級である騎士たちは、封建制度の発展期に「アーサー王物語」「ニーベルンゲンの歌」「ローランの歌」の ような長編叙事詩を作り吟唱することによって騎士道を鼓吹したが、一方、女性への賛美や愛欲を表現し た短い抒情詩が作られるようになった。 それが最初に現れたのは十字軍による都市の繁栄が早かった南フランスのプロヴァンス地方で、トルバ ドゥーレと呼ばれる吟遊詩人がいた。イタリアではこれをトロヴァトーレ、北フランスではトルヴェールと呼ぶ。 これらの歌は中世に支配的だったグレゴリオ聖歌の歌いまわしとは異なった明るい響きを持っている。 商業が更に発展すると、ヨーロッパの南北を結ぶライン川の流域で多くの都市が生まれ、ドイツ特に南ド イツからオーストリアにかけての地方からミンネゼンガー歌曲、騎士歌曲が出る。ミンネとは〈愛〉の古語であ る。これらはグレゴリオ聖歌の影響を抜け出ていないが、中世的なものが残るドイツの特徴である。 11 世紀~13 世紀にかけては、ゴリアルドとかヴァガブントと呼ばれる、酒・女・賭け等で身を持ち崩したり 体制からはみ出たりした放浪修道士・遍歴学生の道化・詩人達がいて、各地の荘園・教会・大学を生きるネ タを求めて渡り歩いた。彼らはもちろん世俗のことがらに通じていたが、教養もあり、聖書・ギリシャローマ神 話などの古典をテーマにあるいはもじって、ラテン語(一部中世高地ドイツ語・フランス語)で詩を作り、荘園 等で求められれば詩を歌った。 「カルミナ・ブラーナ」は彼らの詩が領主か司教によって収集され奇跡的に残ったものである。ミュンヒェン の南数キロのボイレンにあるベネディクト会大修道院で 1803 年に教会財産の調査に訪れた人が13世紀初 めの詩の手写本を発見し、高い価値を認め、持ち出してミュンヒェン・バイエルン王立(現・州立)図書館に 納めた。これを編纂し 1847 年に全集版を刊行したアンドレアス・シュメラーが〈カルミナ・ブラーナ(ボイレン の歌の意)〉と名づけた。中世の社会生活を反映し、すこぶる露骨な表現もあるが、恋愛詩・飲酒遊戯詩・ 道徳詩・風刺詩・宗教詩等、抒情詩約300が収められ、譜線なしネウマによって旋律の付されたものもある。 オルフは「カルミナ・ブラーナ」の手写本をテキストとして 24 の詩に作曲したのである。 (テナー 天野 明)