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Instructions for use Title 性と愛の構造 Author(s) 佐藤, 拓司

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Instructions for use Title 性と愛の構造 Author(s) 佐藤, 拓司
Title
Author(s)
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Issue Date
性と愛の構造
佐藤, 拓司
哲学 = Annals of the Philosophical Society of Hokkaido
University, 44: 81-100
2008-02-29
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/35053
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
44_RP81-100.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
宮廷風恋愛、あるいは夫婦愛否定の論理
一一五O年から一 二O O年までフランスには恋の法廷gロ
gq
mE5日 が あ っ た
0
・
藤
拓
司
いる 。
フランス王の王付司祭アンドレは一一七 O年ごろの著書の中に、次の貴婦人によって聞かれた恋の法廷をあげて
たろうと思われる 。 ただしこの制度が輿論の支持を得ていたと考えてのことだ 。
私の想像 では、この法廷の道徳的権威は、ルイ十四世が名誉 問題のために設けた元帥裁判のそれに似たものであ っ
またもろもろの恋人の提起する個人的な事件を審議した。
た。
恋の法廷に集ま った貴婦人は、法律の問題、たとえば﹁恋は結婚せる者の聞に存在しうるや﹂に関し判決を下し
佐
プロヴ アンス詩人伝﹂ ・
ジヤン・ド ・ノストラダムスはその ﹃
:に 書 いている 。
中略 ) ・
(
・
:
アンドレはまた、シャンパ l ニユ伯爵夫人が﹁真の恋は夫婦聞に存在しうるや﹂の問題を否定的に解決したとき、
提出された請願者をも記録してくれた 。
-8
1
性と愛の構造
北海道大学哲学会 『
哲学』斜号 (
2
0
0
8
年 2月)
しかし恋の法廷に従わなかったときは、どんな刑罰が与えられたか。
ガスコ l ニユの法廷は、その判決のあるものは不朽の憲法として遵守去るべきことを命じ、右を遵守せざる貴婦
人はすべて操持正しき貴婦人より忌避されることあるべしと宣告している。
輿論はどの程度まで恋の法廷の判決に与したであろうか。
その 判決を回避す るのは、今日、名誉の要求する事柄を回避するのと、同じ恥辱を意味したかどうか。
私はアンドレおよびノストラダムスの中に、なんらこの問題を解決すべきものを見出すことはできない 。
スタンダ l ルの ﹁恋愛論﹂ の付録には 、﹁恋の法廷﹂と題された小論がある。冒頭に引用した部分においてスタン
ダl ルは 、十 二世紀のフランスに﹁恋の法廷﹂ともいうべきものが存在し 、それなりの道徳的権威を有していたこと、
さらにその法廷において恋愛感情が夫婦聞においては存在しえないという判定が下されたことを記している。
現 代 に 生 き る わ れ わ れ に と っ て は ど れ も が 驚 く べ き 記 述 で あ ろ う。 しかし、残念なことに彼の記述の前半分にある
﹁恋の法廷﹂は実在のものではない 。中世仏文学者の新倉俊 一が 記しているように﹁現実の裁判所と同じ仕組みで、
恋
法律問題を審議したり判決を下したりする﹁恋の法廷﹂などは存在しなかった﹂のであり、司祭アンド レが伝える ﹁
の法廷﹂は社交界の気晴らし、もしくは戯れに過ぎなかったと考えられる。ましてやノストラダムスの﹃プロヴアン
ス詩人伝﹂などは﹁よくいって奔放、ありていに言えば荒唐無稽な想像力の産物﹂だとされている。
だが、引用文の後半部に記されたこと、すなわち夫婦問において愛は存在しないとする裁定を司祭アン ドレ ・ル・
シャ。フランが記録していること、そしてその裁定が当時の宮廷人たちにある程度受け入れられていたであろうことは
事実である。彼の記した ﹃宮廷風恋愛の技術﹂には次のような裁定が記録されている。
8
2
ある騎士が既に他の男性との愛の紳で結ばれていた女性に恋をした。彼はその女性から愛の希望を与えられ、も
し今の恋人との愛が失われるようなことがあれば、その騎士に自分の愛を必ず与えるとの約束を得た 。 それからし
ばらくして、その女性は恋人と結婚した。そこで騎士は、彼女が与えた希望が実るようにしてほしいと強く求めた 。
ところが彼女は愛が 失わ れたわけではないと主張して、彼の要求をきっぱりと拒否してしま った。 この問題につい
てかの王妃は次のように裁定を下された 。 ﹁ 真 の 愛 は 夫 婦 の 間 で は そ の 力 を ふ る う こ と は な い と 裁 定 さ れ た シ ャ ン
パl ニユ伯爵夫人の意見にあえて反対するようなことはいたしません。したがって、この女性は約束どおり愛を与
えるべきであると勧告します﹂ 。
この裁定自体われわれにとって 驚くべ きものであるが、まず奇異に感じられるのは騎士の言動である。愛する男と
の 愛 を 失 っ た ら 自 分 に 愛 を 向 け て く れ る と い う の が 約 束 で あ っ た 。と こ ろ が 女 は そ の 愛 す る 男 と 結 婚 し た と い う の
に 、 約 束 ど お り 自 分 に 愛 を 与 え て く れ と 騎 士 は 要 求 し て い る 。 つまり結婚したのなら愛は失われたはずだと、この騎
士は考えている 。 さらに裁定でもその騎士の考えがまったく正当なことだとみなされている 。結婚をすれば男女の愛
は 消 滅 す る 。 騎 士 も 、 裁 定 を 下 し た 王 妃 も 、 そ れ を 当 然 の こ と と 考 え て い る 。 む ろ ん ス タ ン ダ l ルのいうように﹁輿
論がどの程度まで恋の法廷の判決に与したか﹂は疑問であるし、強制力があったとも思えない 。だ が 、 少 な く と も 司
祭アンドレの記述を信頼するならば、中世の宮廷風恋愛において﹁結婚をすれば男女の愛は消滅する﹂という通念が
存在したことは確かのようである 。
ではそのような通念はいかなる根拠に基づくものであろうか 。 上記の裁定においてはシャンパ l ニユ伯爵夫人によ
る意見が典拠とされている 。 司 祭 ア ン ド レ は こ の 問 題 に 答 え る 彼 女 の 返 書 を 記 録 し て い る 。 彼 女 は ﹁ 真 の 愛 は 夫 婦 の
間 で は そ の 力 を ふ る う こ と は で き な い ﹂ と 宣 言 し、それを確固とした 真 実 と み な す と 返 答 す る 。 そ の 理 由 を 彼 女 は 次
今、J
。
。
のよ、つに述べる 。
なぜなら恋人たちはけっして強制されるのではなくすべてを自由に分かち合うことができますが、夫婦にはおE
いの要求に従わねばならない 義 務があり、お互いを拒むことはけっして許されていません 。 さらにいえば、夫が恋
人のように自分の 妻 を抱擁したとしても、それによって夫婦いずれの人格の品位(官。EE田)が高まるわけでもな
く 、 す で に も っ て い る 権 利 以 上 の こ と は 何 も 手 に 入 れ る こ と が で き な い と 思 わ れ る の に 、ど う し て そ れ が 夫 の 名 誉
(
夫婦問の愛の障害の理由と 思わ れ る も の は 他 に も あ り ま す 。 そ れ は 夫
F82) を増すことになりましょうか 。 :・
婦の聞には真の愛を育むのに不可欠な嫉妬心がないことです ・
:。
恋愛関係は自由な結びつきに基づく 。 それに反して結婚では互いに義務に縛られ、お互いの意志に従わねばならな
いとされる 。 これが第 一の理由である 。 ﹁人格の品位﹂および﹁名 主 と い う 語 が 使 用 さ れ て い る こ と に 注 意 さ れ た
一
山
ぃ。自由な関係に基づく恋愛では互いの人格が重視されねばならない 。 これが宮廷風恋愛の特徴の 一つである 。 人格
の品位こそが愛の王冠を戴くに値する 。 愛 し い 人 に 値 す る 人 間 に な る よ う 努 力 す る こ と で 自 分 の 人 格 を 高 め る こ と が
恋愛の本質である 。 ﹁男女を問わず、世間から善き人 、立 派 な 人 と 思 わ れ た い な ら 、 と に か く 恋 を し な け れ ば な ら な
い
﹂ 。 そして優れた人格の持ち主たる恋人から愛を与えてもらうことが愛する者の誉れとなる。だが夫婦聞において
はこれが当然のものとして要求されるがゆえにもはや、誉れになりょうがない 。
第 二 の理由とされているのは嫉妬の存在である 。自由に基づく恋愛には嫉妬が必ずつきまとう。 この嫉妬こそが、
恋 愛 の 真 髄 で あ り 、 そ れ な し に は 真 の 愛 は 存 在 し 得 な い と ま で い わ れ る 。 この嫉妬が夫婦問には存在しないのだとい
ぅ。 これはあまりに奇異な主張に思えよう 。実 生 活 を 思 い 描 く ま で も な く 、 夫 婦 問 に も 嫉 妬 が 存 在 す る こ と は 明 白 だ
-84一
からである。司祭アンドレも他のところでは﹁恋人の聞の嫉妬は恋の経験のある者全てが推奨すること﹂だが、﹁夫
婦の間では嫉妬は世界中どこでも非難の対象となる﹂という表現をしており、嫉妬心の存在自体は否定していないよ
うに思われる。ではなぜ﹁真の嫉妬はあり得ない﹂と記したのか。司祭アンドレは嫉妬とはまず﹁愛しい人の要求に
こたえることができていないので、二人の愛そのものが弱まるのではないかという、激しい不安感を起させる魂の真
実の感情﹂であり 、﹁片思 いに終わるのではないかという不安﹂であり、そ して ﹁見苦しい考えを抱くことなく 、そ
れ で も 愛 し い 人 の こ と を 疑 わ ず に は い ら れ な い 、 そ う い う 猫 疑 心 の こ と ﹂ だ と い う 定 義 を あ げ る 。だ が 、 夫 婦 聞 に 何
らかの猫疑心が生じたとしても、それはこの定義には合致しない。互いの要求は満たされるのが当然であり、片思い
ということも意味を成さない 。なに より﹁夫たる者が妻を疑えば、どうしても見苦しい考えをもたざるを得ない﹂か
らである。互いの人格を尊重しあう自由恋愛においては先の嫉妬の三つの属性は肯定的な意味合いをもち、糾弾され
る も の で は な く な る 。 む し ろ ﹁ 必 要 欠 く べ か ら ざ る も の ﹂ と な る 。と こ ろ が 夫 婦 問 で は こ れ が 裏 切 り と と ら れ て し ま
ぅ。夫 婦 聞 の 義 務 に 反 し た も の と 思 い 、 相 手 を 責 め る 感 情 が 生 ま れ る 。 しかもその感情を権利として正当化すること
になる 。 これはもはや肯定的意味合いを与えられる﹁真の嫉妬﹂ではありえないし、そしてこのような土壌を有する
夫婦という聞に愛が生息しうるはずもない。かくして司祭アンドレの宮廷風恋愛は夫婦愛を否定することになる。
むろん、この﹁恋の法廷﹂で語られる愛はいわゆるロマンチック・ラヴに基づく恋愛感情であり、夫婦問の愛情は
これとは別物だという批判も成り立つ 。そうした批判はおそらく正しい 。だ が、それでは夫婦愛とははたして何なの
か。肉親愛もしくは友情と違うものなのか。男女聞の恋愛感情とは本当に別物なのか 。 それともこの恋愛感情が長期
にわたったことにより変質したものなのか。こうした疑問が生じてくる。
宮廷風恋愛の恋愛観からするなら、この答えは簡単だ 。夫婦 問に愛(回日。﹃)はない 。そこにあるのは友愛GEロ釦)
もしくは友情というべきものであり、男女間特有の愛ではありえない 。男女聞をひきつける感情は性欲によるものか、
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O災u
u
E
5円)、そ
山
口
もしくはトルパドゥ l ル (可号泣。日)と呼ばれた南仏恋愛詩人・作曲家の歌いあげた﹁精美の愛﹂ (
してその発展形たる宮廷風恋愛以外にありえないからである 。
﹁愛は十二世紀の発明である﹂という有名なテ 1ゼがある 。むろん男女の愛それ自体は十 二世紀の発明ではなく 、
旧約聖書 の昔にも 、古代ギリシャの古典にも存在している 。 しかし、それらは決して称揚されるべき存在としてでは
なかった 。むしろ﹁狂気﹂ や﹁災厄﹂に近いものとみなされていた 。プラトンにおいて称揚された愛は当時 一般的で
あった少年愛であって、決して男女の愛ではなかった 。古代ロ l マのオヴイデイウスが愛の賛美者として名高いが、
これはC ・S -ルイスのいうように中世によって﹁誤解されたオヴイデイウス﹂ でしかなか った。 オヴイデイウスは
﹁恋愛なんて人生のささいな過ちにすぎぬ、と思っている読者の存在を前提としている﹂ 。彼の 言葉はだから皮肉と
して、冗談として読まねばならない 。愛は飲酒や賭け事と同じく男性の快楽の源泉でしかなく、女性蔑視に基づく性
欲の表現でしかなかった。
しかし、十 二世紀に﹁発明﹂された愛は違う。 それは女性を高く評価し崇めるものであった 。 この愛は 、最終的に
は 肉 体 の 結 び つ き を 希 求 す る も の の 、 ま ず は 感 情 の 、 魂 の 交 流 を 強 く 求 め る 。愛 は 肉 体 的 な 欲 望 に 収 ま ら な い 、 精 神
的な 出 来 事 と し て 発 見 さ れ る 。 そ し て こ の 精 神 的 な 恋 愛 感 情 は 当 初 か ら 結 婚 と は 相 容 れ ぬ も の と み な さ れ て い た の で
ある 。トルパドゥ l ルの歌う愛はおもに騎士が領主の妻などの上流貴婦人に向ける不倫の愛であった 。身分の高い女
性 に 向 け ら れ た 崇 拝 の 念 と と も に 騎 士 の 愛 も ま た 高 め ら れ て い く 。宮 廷 風 恋 愛 に お い て も 同 様 で あ る 。 相 手 が 既 婚 者
であっても愛のさまたげにはならない 。結婚という枠の外部にあるからこそ愛は存立しうるのであり、その美しきゃ
意義を保つことができる 。妊娠によるトラブルを結婚によって収拾しようとしたアベラ l ルに対して、 エロイ lズは
﹁結婚がもたらす不名誉:・
、それから生じる障害﹂を冷静に説く。 ﹁自然が万人のためにと創った私が 一女性に身を
捧げ、恥ずべき桂槍のもとに屈するのは何と不似合いな、何と嘆かわしいことだろう﹂ 。 当 時 の 知 識 人 の な か に は 結
-86-
婚が自白人としての資格を自ら否定するものであり、既成の体制に組みこまれることだという思想が根強く広まって
いたのである。
以上のような恋愛観からすれば、夫婦愛を説くなど愚かなことでしかない。 マリ 1 ・ド・フランスやクレチアン・
ド・トロワのように自由意志に基づく恋愛と結婚とを結び付けようとした作家もいないではなかったが、宮廷風恋愛
の本流にはなりえず、時代的にも十 二世紀の後半になる。愛はそもそもの成り立ちから古い性欲的な愛から独立し、
そして結婚という制度からも免れている 。 そうでなければ愛は成り立たない。性と強く結びついても、結婚と結び付
けられでも、愛は自らのうちにある精神性と、人格の高まりを失う。愛 は 汚 濁 か ら 逃 れ る た め に も 性 や 結 婚 と 結 び 付
けられてはいけない。
恋 愛 に よ っ て 結 び つ き 、 結 婚 を し て 、 性 的 に 合 一 す る 。 こ れ が 理 想 で は な い か と い う も の も あ ろ う。 法 王 パ ウ ロ 六
世の回章﹃人間の生命﹄により、 二十世紀以降のカトリックでは結婚・性行為・愛・生殖の四つが分かちがたく結び
付けられている 。 カ ト リ ッ ク 以 外 で も 、 そ れ ら の 四 つ は 複 雑 な 構 造 に な っ て は い て も 自 然 に 結 び つ い て い る の が よ い
と 考 え る も の が 多 い か も し れ な い 。 そ う す れ ば 余 計 な 罪 悪 感 も い だ か ず に す む か ら 。 だが、宮廷風恋愛はこれをはっ
きりと否定する 。
あなたのお答えでは罪なくして行うことのできる恋愛のほうがはるかに望ましいとのことですが、そんなことは
ありえないと思われます。 なぜなら、結婚した夫婦が生殖のための愛情や夫婦としての義務を超えて快楽を与え合
おうとするならば、罪を免れることはできないからです。あ り ふ れ た 悪 習 を 用 い る よ り も 、 神 聖 な も の の 用 途 を 濫
用して庇めるほうがそれだけ罪が重いのです。他の女との場合より妻 と の 場 合 の ほ う が 重 罪 に な る わ け で す 。 使 徒
{却 )
の 提 が 教 え る よ う に 、 自 分 の 妻 を 過 度 に 愛 す る 夫 は 姦 淫 の 罪 を 犯 し た も の ( 包 巳 宮 吋 ) と み な さ れ る の で す。
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勺
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性や結婚とのかかわりを徹底して排除することで自らの純粋さを守ろうとした愛。だ が、ここまでくるとその論理
にはもはや倒錯めいたところが見出される。
性の生殖、そして婚姻との結びつき
発 明﹂された当初の愛においては 。
愛はその本性からして婚姻とも性欲とも結びつかない 。少なくとも十 二世紀に ﹁
前節での主張をまとめればこうなる 。だ が 、 そ の 純 粋 性 を 維 持 し よ う と す る と 、 か え っ て 倒 錯 め い た こ と に な る 。恋
愛における精神性、自由を維持するために、それは婚姻という制度とは別個に存在するものでなければならなかった 。
と こ ろ が そ う し た 自 由 さ を 維 持 し よ う と す る あ ま り 、 愛 は 婚 姻 を 徹 底 的 に 敵 視 す る こ と に な る 。枠から逃れるために
無理にでも不倫の愛でありつづけなければならない 。自 分 の 愛 を 困 難 な 状 況 に 追 い 込 む こ と で し か 、 そ の 愛 を 続 け る
ことができない。
(幻)
だが、そのような愛は当時においても現代においても現実から隔たっている 。そ う述べて過言ではないだろう。﹁
日
常的な現実というよりも文学的な戯れのようなもの ﹂と いうべきなのだろう。教会がいかに性を敵視し性行動を倫理
化し ようとしても、男たちは性衝動を抑えられずに強姦と暴力に走る 。 既婚者間の不倫もありふれたものだ った。精
美の愛や宮廷風恋愛はこうした現状の中で教会倫理とは別方面から道徳的に教化する援軍のような意味合いをもって
いた。現実には愛はいやおうなく性をともない、性は生殖と、生殖は婚姻とかかわらずにはすまなかった。そしてこ
れは現代でも同様である 。
カトリックではここに神による結びつきを考えている 。 回章﹃人間の生命﹂では﹁夫婦の行いとしての結合の意義
と生殖の 意義との聞には、神によって定められた、人間の意向で勝手にきりはなすことできな い不 可分なつなが りが
-88-
(お)
存 在 す る ﹂ と 述 べ ら れ て い る 。 ﹁夫婦の行いは、その深遠な本質にもと守ついて、夫と妻をきわめて親密に結合させる
とともに、男と女の本性自体に刻み込まれた法に従い彼らをして新しい生命の産出をかなうものとする﹂。この論理
を用いてパウロ六世は夫婦においても避妊具を使用することは許されないと断ずる 。だが、性行為における結合と生
殖が結婚において本当に固有のものであるとするなら、神が分かちがたく創られたものをどうして人聞が自らの道具
でそれを分けようと望むことができようか。夫婦聞において避妊具を用いた性行為があるとすれば、それは自分たち
の親密なつながりをより深めようとする意図があることになる。生殖という意義がなくとも夫婦の結びつきを深める
という意義があるわけである 。 逆に夫婦問の性行為には純粋に生殖のみを意図していて、夫婦聞の結びつきを深める
ことをまったく意図しないようなものもありうる 。すなわち夫婦が性行為を最も重要な目的であるはずの生殖のため
に行おうとするときですら、それが夫婦の愛を表現するという意図を有していない場合もあるわけである。愛の表現
と受胎とを同時に意図するというのは、生殖だけを意図したり愛の表現だけを意図したりするよりも、かえって難し
(担)
いのかもしれないのである 。
パウロ六世は生殖と愛が夫婦問の性行為の本来の目的として結びついていなければならないと考えている 。だが、
多元的価値観の下で見れば性行為に固有の目的など見出すことは難しいし、それが結婚・愛・生殖と結びついている
とも思われない 。 性 行 為 と 愛 と の 結 び つ き は 、 愛 の な い 性 行 為 や 行 き ず り の 性 行 為 に よ っ て 、 ま た 愛 を 性 行 為 以 外 の
行為によって表現することによって否定されることになる 。むしろそれこそが夫婦問の粋をより強く結びつけるもの
であるにもかかわらずである 。愛 と 結 婚 と の 結 び つ き は 、 政 略 結 婚 や 経 済 的 理 由 な ど に よ り 強 制 さ れ る 愛 の な い 結 婚
に よ っ て 、 ま た 国 家 や 教 会 の 権 威 の 外 部 で 愛 し 合 う よ う な 関 係 が 存 在 す る こ と に よ っ て 断 ち 切 ら れ る 。 結婚と生殖の
結びつきは、不妊や老齢、また﹁ロ豆同∞﹂(ダブルインカム・ノ lキ ッ ズ ) な ど の 生 殖 を 行 わ な い 結 婚 に よ っ て 、 さ
らにどこにでも見出される結婚外での生殖的性行為が数多くあることによって断ち切られる 。 性行為と生殖との結び
-89-
っきは、人工的な手法による生殖、そしてまた多くの種類の避妊具の存在によって否定されている。生殖と愛の結び
っきは、夫婦が性行為において愛を表現することをまったく意図せずにただ子供をつくることだけを目的とすること
によって、また夫婦による生殖と分かたれたあらゆる愛の (同性愛、異性愛を問わぬ)関係によって断ち 切られる 。
そして最後に、性行為と結婚のつながりは、婚前・婚外・非婚の性行為によって否定され、そしてセックスレスの夫
婦の存在によっても否定される 。
愛 や 性 、 そ し て 生 殖 を す べ て 婚 姻 に お け る 固 有 の も の と 位 置 づ け る こ と に 無 理 が あ る の で は な い か 。 ﹁生殖は善、
快楽は悪﹂ 。 カトリックの性哲学を研究したウタ ・ラ ン ケ ・ ハ イ ネ マ ン は 、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 性 哲 学 を 端 的 に こ う
まとめている。生殖は善であっても、性を動かすのは悪の力とされる 。 こうした考えのなかで性に肯定的意味づけを
するには、性のもつ意味を徹底的に限定するしかない 。性日生殖と割り切ってしまうしかない 。 それ以外の余計なも
のは、すべて楽園追放後に罰として与えられたものだと考える 。だから生殖さえあればよいのであり、その源となる
性的な欲情、 いやそれどころか本当は性行為自体なくてもよいと考えたいところだろう。
性とは生殖のためにある、そしてそれ以外の性的なものはすべて堕罪以後に与えられた罰だという考え。この性に
対するあまりに貧しい考え方が、キリス ト教の性哲学のなかにこれ以後も行き続けることになる 。 中 世 最 盛 期 の 哲 学
者トマス ・アクイナスにも、むろんそれは残っていた 。
(担)
ト マ ス が 強 調 し た の は 、 性 に お け る 自 然 本 性 と は 何 か と い う こ と だ 。 そ れ は 生 殖 で あ る 。 ﹁人類全体の保存へと、
性の行為は秩序づけられている﹂ 。 そ れ は 食 物 を 食 べ る 行 為 が 一 人 の 人 間 の 生 の 保 存 へ と 秩 序 づ け ら れ て い る の と 同
じである。だから ﹁
性の行為も、もし子供を生むという目的に適合的であることに従いつつ、しかるべき仕方やしか
(
担}
るべき秩序づけにおいて行われるのであれば、あらゆる罪を免れて存することができる﹂ 。 したが って、生殖という
目 的 の た め に 神 の 定 め た し か る べ き 仕 方 ( す な わ ち 結 婚 ) においてなされた夫婦問の性行為は善となる 。 そしてそこ
-90
から外れる悪が﹁姦淫﹂
(
3
・
) とよばれる。姦淫の種類としてトマスは単なる未婚者との私通、姦通、近親姦、
EE
H
処女陵辱およびレイプ、自然本性に関する悪徳などの例をあげてそれぞれ詳しく論じている。
このトマスの性哲学で重要なことは、目的としての生殖と同等に﹁しかるべき仕方﹂として結婚という制度を特に
重要視したこと、そしてこの結婚という枠外にある性行為、とくにこの枠を侵害するような性行為を罪悪として批判
したことである。彼は結婚を自然法に基づいて正当化する 。 不特定多数との性行為は﹁人間の自然本性に反する﹂も
却)
{
のであり、そうではなく男性が特定の女性を性のパ ートナー とすること 、すなわち﹁結婚﹂が自然本性的な正しさを
有するという。生殖は女性が懐妊にしただけで達成されるのではない。その子が無事に成長せねば意味がない。子孫
が無事に成長することを望めるような﹁しかるべき仕方﹂ で性行為はなされねばならない。たとえ、男性と女性の正
しい結合ではあっても、子孫の適正な成長が阻害されかねない状況での性行為ならば、善とはみなされない。むろん、
犬などのように、女性というより雌だけで子供を育成できるような動物の場合には事情は違う。この場合は不特定の
性交が自然だ 。だが、子供の育成に雄と雌の世話が必要とされるあらゆる動物の場合は、雄と雌の特定パートナーと
しての結びつきが自然本性から要請される 。特 に 人 間 の 場 合 は 、 正 し い 成 長 の た め に は 肉 体 だ け で な く 魂 の た め の 教
育も必要とされる 。 そ し て そ れ に は 長 い 時 間 を 要 す る 。 必 要 な こ と を 教 え る だ け で な く 、 間 違 い を 矯 正 し 、 大 人 に な
るまで保護をせねばならない 。 この任は女性だけでは不十分だとトマスは考える 。 むしろ、矯正し罰を与えるだけの
強さを持つ夫(男性) の任だという。 したがって、人聞は特定の性パートナーと永続的な結合を持ち、長い間ないし
(
沼)
は全生涯にわたって 一緒に 暮 らす必要があるとされる 。 この永続的な結合を﹁結婚﹂と呼ぶ 。
トマスはかくして結婚を正当化し、姦淫を批判した 。夫 婦 の 友 愛 は ア リ ス ト テ レ ス も 認 め た よ う に 自 然 に 根 拠 を も
つものとされ、カトリックにおいては秘蹟として正当化されることになる 。 だ が 、 そ こ に は そ れ 自 体 と し て の 性 行 為
もなければ、本来の愛もない 。すべては生殖に結び付けられたものとしてのみ存在する 。前節で述べたような愛は、
ハ
ツ
姦淫という熔印をおされることになろう。生殖に結びつかないあらゆる性行為も同様である 。 では性および愛には結
婚のごとき排他的(良己 gH40) な一対の関係を求める傾向性はないのだろうか 。前節で述べた愛同様に、性もまた
本来的に結婚の外部に立つべきものなのだろうか 。
性と愛における排他性、 あるいは個別化する思考
性 も 愛 も そ れ ぞ れ 単 独 で み る か ぎ り 婚 姻 と い う 枠 に 収 ま る も の と は 思 え な か っ た 。 生殖というものに無理やり結び
付けられることで 、はじめて婚姻に結びつくように思われた 。 では性や愛にはそれぞれの方向性・目的性として婚姻
への向かうものではないのだろうか 。第一節で論じた宮廷風恋愛では無理にでも婚姻の外部にいつづけようとしてい
たように思える。
だが、本当にそうなのだろうか 。 時 代 的 な 状 況 か ら し て 宮 廷 風 恋 愛 は 結 婚 と い う 制 度 と は 相 容 れ る わ け に は い か な
かった 。 これはやむをえないところだろう。 しかし、排他的な 一対の関係性をつくりだし、それを維持しようとする
傾向性は有していたように思える 。司祭アンドレの﹃宮廷風恋愛の技術﹄のなかにも﹁いかなる人も同時に 二 つの恋
(
お)
をすることはできない﹂、﹁愛する者の一方が死亡した場合には、残された者には二年間の服喪が要求される﹂、﹁真に
愛する者は愛しい人との抱擁以外を望まない﹂などという規則があげられている。また愛する者の気構えとして﹁愛
しい人のために純潔に身を保つこと﹂、また﹁他の人の恋人をそれと知りながら横取りしようなどと思わないこと﹂
(
剖)
という規則もある。愛する者に要請される誠実さは、婚姻関係にある者に課せられる義務とほとんど変わらない 。 い
お)
(
ゃ、むしろ政治的状況に より平然と離縁が行われていた当時の宮廷における婚姻関係よりも厳しいとすらいえる 。違
うのは 、愛される側にはこうした厳しい要請がなされていないことである 。 ﹁男性も女性も 二人の異性から同時に愛
-9
2
(却)
されることは禁じられていない﹂。この規則があるゆえに夫婦問における靖疑心の発生のごとき破綻を生じさせない
わけである。
ともかく司祭アンドレが伝える宮廷風恋愛においては、愛する側に排他的で一対にある関係を志向する向きがある
ことは明らかと思われる 。
では性においてはどうだろうか 。 性 的 欲 望 も 排 他 的 な 関 係 を 志 向 す る の だ ろ う か 。 こ れ に つ い て は 簡 明 な 答 え を 提
出することは難しい 。 こ こ で は パ ウ ロ 六 世 が 信 じ さ せ よ う と し た も の よ り は る か に 性 と 愛 が 複 雑 に 絡 み 合 っ て い る 。
愛 が 本 性 的 に 排 他 性 を 志 向 す る と 仮 定 し て も 、 性 欲 は そ う で な い か も し れ な い 。 あ る 人 xは他の人 yを好み yに性的
に魅了されているが、別の人 zに対しても同じような状態になるという場合は十分に考えられる。
それでも愛と性が複雑に絡み合っているなら、性もまた排他性を志向性すると考えることもできる。そのように考
え る 哲 学 者 も 決 し て 少 な く は な い 。 近 世 の 哲 学 者 デ カ ル ト は ﹃ 情 念 論﹄ の な か で 、 性 的 欲 望 は 排 他 的 な も の と し て 経
験 さ れ る と 主 張 している 。
われわれは異性の人聞を数多く見るけれども、それでも同時に多くの異性を望むことはない 。 :・その 異性のうち
の一人に、同時に他の人のうちに見るところのもの以上のいっそう自分に気に入る何かを見るとき、われわれの精
神 は 、 自 然 が 人 の 所 有 し う る 限 り の 最 大 の 善 を 追 い 求 め る た め に 与 え て く れ た 傾 向 性 の す べ て が そ の た だ 一人に対
してのみ向かっているのを感ずるようになる 。
し か し 、 こ の 性 的 欲 望 の 排 他 性 は し ば し ば 否 定 さ れ る 。 むしろ性は規定のない本能とみなされ、そして愛もまた、
性 を 組 み 入 れ そ れ と 規 範 的 に 結 び 付 け ら れ て い る 限 り に お い て 、 排 他 性 へ と 向 か う こ と は な い よ う に み え る 。 ﹁浜辺
丹
、
“
ハ
フ
や市民プ l ルにでも行って、座って通り行く人々を見てみたまえ。次の人は今通り過ぎた人よりもつねに魅力的に思
担)
{
われ、君の胸は高鳴り、手足は震え、君が最初に見て感じたのが何だったのか不思議に感じられよう﹂ 。 キルケゴ l
ルの﹁おそれとおののき﹂にも次のような描写がある 。﹁ある恋する男が思い違いをする 。彼は灯の光で恋人を見て、
却)
(
彼女の髪の毛は黒いと思った 。 と こ ろ が ど う だ ろ う 、 よ く 調 べ て み る と 金 髪 だ っ た の だ │ と こ ろ が 彼 女 の 妹 、 こ れ が
理想の女だった﹂。
一方では愛は排他的であらねばならないと議論される。他方では愛は性的な要素を含むとも想定されている。複数
の性的関係の背徳性は複数の愛に 責 任 転 嫁 さ れ 、 同 様 に 性 的 欲 望 の 排 他 的 現 象 も ま た 愛 に 転 嫁 さ れ よ う と す る 。
だが、これは本当に単数か複数かの問題だろうか 。プ 1 ルの例でも姉妹の見分け問題でも欲望の対象は果たして二
つになっているのか 。 それとも欲望の対象が姉Aから妹B に移行したのか 。 この点をきちんと見極めなければ愛と性
における排他性の問題を理解することはできない。この話がまず姉 A に魅了され、同時に妹B にも同様に魅了された
とするならば、これは彼の性的欲望が複数であることを意味する 。 そしてそのことによる姉妹聞の関係に問題がなく
相互性も機能するようであれば、愛も複数になったと認めてよいかもしれない 。 しかし、キルケゴ l ルによる例を、
これはいままで姉Aだと思っていたのがじつは妹Bだったという錯誤の話だと読み込むとすれば話は変わる 。B のこ
とを Aだと思い込んでいて、 A の名を呼んで抱きしめてみたら実は彼女は思い人ではなかったとする。さらに(旧約
聖書のラケルとレアの話のように)そのことに気づかずB の姿を思い描いたまま暗い部屋で Aを抱いたとしよう。そ
のとき彼の性的欲望はだれに向かったのか 。抱かれた Aは彼の B への欲望を満たしたのか 。
ロジャ l ・スクラットンの欲望分析によるならば、﹁性的欲望は個別化する思考(宮全4EEEロ
mFgmZ) に基づ
く﹂という 。﹁ 欲望に個別的な指向性があることは 驚 くに値しない 。と い う の も 性 的 欲 望 は 性 的 興 奮 と 同 様 に 人 格 間
の応答なのであって、われわれが相手を人格としてみなす視点のうちには相手をけっして他のもので代替可能な単な
-9
4
る道具とは見ていないということがある﹂ 。性的欲望の対象に代わりはない。これが他の欲望との違いである 。﹁ある
特定の人を欲望の対象として考えることが、欲望の方向付けの一部なのである﹂ 。 彼は Aだ と 誤 解 し て い た も の の 彼
の性的欲望は本来B に向か っている。ならば たしかに彼が欲望しているのは B であって、 Aではない 。 だから彼が A
とともに寝たことは A に 対 す る 彼 の 欲 望 を 満 足 さ せ る と い う こ と に は な ら な い 。彼 は そ の よ う な 欲 望 を は じ め か ら
もっていないのだから 。だが 彼は B に対する欲望は有している 。だから 話は (1)(彼 は 一 晩 中AをBだと信じ込ん
でいたのだから) Aは彼の Bに対する欲望を満足させたか、もしくは (2)(Bと 寝 たわけ で はない のだか ら)彼の
l)になる 。
Bに対する欲望は Aとの 一晩では満たされなかったかの、どちらかとなる 。 スクラットンが選ぶ記述は (
(
引)
彼の B に対する欲望が Aと過ごした一夜で満たされたように思えるのは、あくまで自分と寝たのが Bだと彼が思い込
んでいるかぎりでしかない。
ただし、この事例においては、単純なラケルとレアの話と違って、これだけでは収まらない部分もある。名前のも
つ問題点である。ここでは彼は B のことをずっと Aだと思っていたのであり、思い人を呼ぶとき﹁A﹂ の名を呼んで
しまっている。名前はふつうその指示対象から意味を獲得するという 。だ が、﹁愛や欲望の場では、名前はあたかも
その意味によって指示対象が決定されるかのように扱われることがある﹂ 。 状 況 か ら し て そ の 名 に こ め ら れ た 意 味 に
よ っては 指示対象決定に影響 を与え、思い人に対する感情を最終的に変化させることも考えられる 。 ここでは単純な
錯誤として片付けたが、場合によってはそれではすまなくなることもあろう。名前はそれだけでその実体にまで影響
トリスタンとイズ l﹂を思い浮かべられ
を及ぼしてくる。シェイクスピアの﹁ロミオとジユリエット﹂、もしくは ﹃
たい。どんなに捨てたいと思っても、どうしても捨てられず 、最後までその名はついてくる 。そ して最後に呼 ぶのも
また互いのその名なのである 。
愛 に お い て も 、性的 欲 望 に お い て も 、 個 別 化 す る 思 考 が は た ら く こ と で 初 め て 対 象 を 有 す る こ と に な る 。 そ れ は 唯
ny
、u
ε
一の対象であり 、だ か ら こ そ 自 分 も そ の 人 に と っ て 唯 一 の 対 象 で あ り た い と 望む。﹁愛している人なら、自分の愛す
る相手が自分のことを代わりのないただ一人の人として求めてくれることを望む﹂ 。 こ の 構 造 が ロ マ ン チ ッ ク ・ラヴ
のイデオロギ ーを支えている 。 こ の 思 い 込 み の 構 造 が な け れ ば 宮 廷 風 恋 愛 も 成 り 立 ち 得 な い だ ろ う。﹁ 恋 愛 の 希 望 に
よって励まされなければ、真に愛することはできない﹂のだかM。スクラッ ト ンがいうように、この構造のなかでは、
ジョンがメア リ ! と の 恋 に 破 れ た と き に 、 ﹁ エ リ ザ ベ ス に し な よ 、 彼 女 と な ら う ま く 行 く よ ﹂ と い う の は 不 適 切 で あ
る。 個別 化する思考がそれを許さない 。 だが 、こ れが宮廷風恋愛を袋 小路に追い込んだのだとしたら 、愛と性のため
にはあえてそれをゃぶり、そのアドバイスを受け入れる必要があるのかも しれない。愛の対象に代わりはいるという
こと、あらゆるものが愛にとって脅威となり、破壊する可能性があるのだということ 。 いってみれば当然の こと であ
る。宮廷風恋愛でもすでに前提とされていたはずのことである。遊戯なのだから。しかし、愛は遊戯のままでありつ
いかにこのイデオロギ ーから逃れるか、宮廷風恋愛の倒錯化から免れるか。それが次の課題となろう。
づけることはできない。それを婚姻に対立させるために追及させていくと、イデオロギーと化してしまう。
牛ヱ
(
1) スタンダ l ル﹃恋愛論﹄大 岡昇平訳、新潮文庫、 一九七 O年、三四 0 1三四四頁。
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品・
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ラテン語原文のテキストには問。・4司色目F編による ﹀
ロ
弘
、
向
日切のロ﹄邑
(
2
) 新倉俊一 ﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄ ︹旧版、筑摩書一
房
、 一九八三年︺ちくま学芸文庫、 一九九八年、 一九二頁。
(
3
) ﹀出向可申白由。者∞ロgj
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詐・4u
gp U由﹀司81向旬、口担問
4D
﹄
巴 一編によるテキストを参照した。そして以下
5 0ロ﹄い。EFOロ品。ロ -U己弁当。ュY E∞Nを用い、その節番号を記した 。他に問、 H・
N
ロ
Q
宮廷風恋愛について ﹄瀬谷幸男 訳、南雲堂、
の邦訳を参照し 、その対応する頁数を記した 。 アンドレ l アl ス カ ペ ル ラ 1 ヌス ﹃
九九 三年 、 一七八頁。
4
-96一
(4) マリ・ド・シャンパ l ニユ伯爵夫人は、十二世紀北仏における宮廷風恋愛のサロンにおける代表的な女主人であり、彼女の宮廷は
卓越した物語作家クレチアン・ド ・トロワや本文に紹介した司祭アンドレを擁したことで今日にその名を残している 。彼女は、最初の
廷を介する ことによ り、南仏の トル パドゥ lルたちによ って歌われた、女性を高貴な存在として崇める﹁精美の愛﹂(由民自き円凹)が北仏
トル バド ゥiルとし て知られるギヨ lム九世の孫娘アリ エノ lル・ ダキテ l ヌの娘にあたる 。 この恋多き女アリエノ lル と娘らの宮
一
(
五1一 一一頁)を参照 。
一
一
﹃ ヨーロ ッパ中 世人 の世 界﹄ 一七九1 一八O頁、およびジヨル
に伝えられ、宮廷風恋愛をつくりあげたという経緯がある 。新 倉 俊 一
ジュ ・デユピ 1 ﹁
十二世紀の女性たち ﹂新倉俊 一・松村剛 訳、白水社、 二O O三年におけるアリエノ │ ルの項
(
5) 匂b
也 4guuu・(前掲訳書、九四 頁)。
F臼
同s。
RH ロa E(
前掲訳書一八頁)。
6) 芯E45(
(7) N念仏
48白 (前掲訳書七四頁)。
(
8
)SR.、∞戸(前掲 訳書八八頁)。また司祭アンドレが伝える恋愛の一一 一一カ条の規 則にも次のように 記されている 。 ﹁ 一 結 婚 は 愛
t
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愛する人はいつも不安げである﹂﹁ 一
ご
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(9 ) N同
V﹀ヨ。な
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真 の嫉妬はいつも愛情を 募 らせる﹂﹁ 一一
一
一
(
前掲訳書、八 九頁)。
丘
、 ω巴 (前掲訳書九 O頁)。
川)SRuU4∞ 臼
(
∞
。
・ (前掲訳書八 九 i九O頁)。
w
日
(
愛 し い 人 を 疑 う と き 、嫉妬が増し、
一九 九 九 年 の 著書 でも 、こ のテ iゼを﹁いささか誇張は
。
一九九九年、四四 頁
ほかにC ・
S -ルIイス ﹃愛とアレゴリ ー﹄玉泉八 州男訳 、筑摩叢書 、 一九七 二年、およびドニ ・ド ル ー ジ ュ モ ン ﹃愛について ﹂
あるにしても 、かなりの説得力をもっ﹂と記して いる。新倉俊 一 ﹃中世を旅する│奇跡と愛と死と ﹄白水社、
、
変が生じたことは確かだと思われる 。 この 言葉を日本に広めた新倉俊 一は
た。現代の歴史学においては文字通り十二世紀に発明されたと考えるものは少ないと恩われる 。だが、この時期に 恋愛観の大きな異
(
ロ)十九世紀末の 歴史家シヤルル ・セニヨポスの 言 葉。D ・ド・ルージュモンやC ・
S- ルイス ら に よ っ て こ の テlゼは広められ
)
。
(
前掲訳書、 一八八 1 一九 O頁
を妨げる理由にはならない﹂﹁ 二 嫉 妬心のない 者は愛することができない﹂﹁いかなる人も同時に 二 つの恋をすることはできない﹂
O
その結果恋も増す﹂:・ 。ロ∞﹀回向?戸口岳民・
∞
ー「
F
勺
ny
一九九三年を参照。
﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄ 一六二頁。
鈴木健郎・川村克己訳、平凡社ライブラリ ー
日)新倉俊
ル 1イス前掲訳書七頁。
( M ) C S・
(
日) D・ド・ルージュモンの影響からか、この愛を肉体を忌避したプラトニックなものと考える向きが広まったことがある。伊藤勝
愛の思想史﹄ でも﹁肉体の結びつきを求めない、結婚を度外視したもの﹂と記されている(︹旧版︺紀伊国屋新書、一九六五
彦の ﹁
年、︹新版︺東信堂、一九九二年、六六頁)。だが、事実としては結婚を度外視しているものの、肉体の結びつきは当然最終的に求め
られるものであった。南仏のトルパドゥ lルの詩にもそれは散見される。宮廷風恋愛でも四つの恋愛段階の最後には﹁自分のすべて
﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄一八一 1 一八三頁。
一九九一年、およびマリ l ・ド・ フランス﹃十
をゆだねる﹂とされている(第一段階では希望を与え、第二段階で接吻、段三段階が抱擁)obぬ与さDZHSMMF"
・(前掲訳書二
白 2
五頁)。また新倉俊一
一九六四年改訳版、二八頁。
神沢栄三・天沢退次郎訳 ﹃フランス中世文学集 2 愛と剣と ﹂白水社、
﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄ 一八四頁。
(時)﹁アベラ lルとエロイ lズ﹄畠中尚志訳、岩波文庫、
路)新倉俊
(口)新倉俊一
ド ・フランスのレ l﹄月村辰夫訳、岩波文庫、一九八八年を参照。マリ 1 ・ド・ フランスの物語には、最初
二の恋の物語│マリl ・
は不倫などの三角関係に始まりながら、最終的に結婚へといたるものがいくつも収められている。クレチアン・ド・トロワもキリス
ド ・シャンパ l ニユの命により奮いた代表
ト教倫理観に基づき、不倫恋愛とは異なる物語を好んでいたと思われる。女主人のマリ ・
作の ﹃ランスロまたは荷車の騎士﹄は不倫愛を主題としたものだが、なぜか一夜の愛を描いたところで中断してしまっている 。
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回章﹁フマ │ネ・、ヴイテ﹂(人間の生命)﹄神林宏和(代
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表)訳、中央出版社、一九六九年。)邑田ロ ω
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zp叶宮、と白色白色、
(却)匂やみさ口3HSZFタω
∞NBU
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ω(前掲訳書、九 0 1九一頁。)
(幻)性もその精神性が強調されすぎると倒錯的傾向が強くなることがある。詳しくは佐藤拓司﹁性的倒錯の哲学的分析﹂日本医学哲
-98一
・倫理 学会(編)﹃医学哲学医学倫理﹄第一一一一一号、 二O O五年、九七 1 一O五頁、および﹁現代に生きる倒錯│倒錯者と模倣者の
子
尚
応用倫理 学各分野の基本的諸概念に関する規範倫理学的研究﹄平成一ムハ・ 一七年度科学研究費補助金(基盤研究 (B)
哲学的分析﹂ ﹃
(
2))研究成果報告書、研究代表 者 坂 井 昭 宏、課題 番号 呂ωNOSH、二O O五年、七九 1九 二頁を参照。
o
-年、七四頁。
(
辺)サピ lヌ ・メルシオ lル Hボネ/オ lド・ド・トックヴイル﹃不倫の歴史﹄橋口久子訳、原書房、二o
(前掲訳書一九頁)
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-RFu 司
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(お) V
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己戸壱
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μ)mozp
、
口
(お) 芯豆、3 5
pg 印・
・
高木万里子 ・
、 一九九六年、 一一八頁。
(お)ウタ・ランケ・ハイネマン ﹃
カトリック教会と性の歴史﹄高木田国史 ・
松島富美代訳、 三交社
(幻)楽園では男女間に性行為のない結びつきだけがあったとまで、アウグスティヌスは述べたりもする(﹃創世記に関してマニ教徒を
。さすがにこれには無理を感じたのか、のちに楽園における性行為自体の存在は認めるようになるが 。それでもその行為は、
駁する ﹄)
﹁ この欲情が目覚め
性的な欲情をまったく伴わない、完全に理性によってコントロールされた、生殖のためだけの端的な行為となる 。
たのは罪ののちであった﹂のだから(﹃
神の国﹂
一 四 ・二 二 。罪のない楽園においては 、﹁性的器官は欲情によって刺戟されないで意志
スティヌスにとっての性とは、ただそれだけのためのものなのである。ウタ・ランケ・ハイネマン前掲訳書、第六章を参照。
によって促されて、必要なとき必要なだけ、男は子孫の種を蒔き、女はそれを胎に宿したことだろう﹂(﹃
神の国﹄ 一四・二四)。アウグ
(
お) ﹃
神学大全﹄ E │ 第 一五三間第 二項。
一
一
(mU) 向。
(お) ﹃
神学大全 ﹄ E │一一第一五四問第二項。
(
神学大全 ﹄ E l--第一五 四問。
訂)﹃
近親姦。 これは血 縁というすでにある自然的に 密接な結びつきに反する行為となるがゆえである 。 この二つは結婚という制度以前の
(勾)姦淫のなかでも﹁自然本性に反する罪﹂が最大の罪となる 。 これは生物の自然そのものに反しているからである 。次に重い罪が
人間の生物的本性に反する行為だから、特別に重罪となる 。それ以外の場合は、結婚という自然が要請する制度を侵害するものが重
-99
罪となる 。だから不倫は処女陵辱(私通および誘惑)より重い 。さらに暴力が加われば罪は 重くなるから、処女略奪 (レイプその他
暴力でもって娘を 奪うこと)は処女陵辱より重く、人妻の略奪は姦通より重い 。他人に筈を与えていない単なる未婚者の私通はこう
した姦淫という罪のなかでは 一番軽いことになる 。
(お) 同
)
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F∞(前掲訳書 一八八 1 一九O頁)。
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M
g目(前掲訳書六六頁)。
(斜)匂悶与さ口足 HSHVE 由
(お)表向き離婚が禁ぜられていたとしても抜け道はあった 。手続き上の不備を 言 い立てたり、また近親婚であるとして無効を 言 い立
てることもできた 。当時の貴族問ではほとんどの婚姻が当時禁止されていた七親等内の近親婚にあたるから、これは容易であった 。
ほかにも相手の性的不能を指摘することで婚姻の無効を主張するということも行われた 。新倉俊 一 ﹃ヨーロッパ中世人の世界﹄
・ ダルモン ﹃
性的不能者裁判﹄辻由美訳、新評論、 一九九 O年を参照。
五1 一五六頁、およびピエ lル
(お)匂町﹀sozRS1F∞込∞・(前掲訳書 一九O頁)。
世 界 の 名 著 デ カ ル ト ﹄中公パックス 二七
、 一九七八年、四五七頁。
(幻)野田又夫訳﹁情念論﹂、 ﹃
(お)∞D
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EPDhu
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H由4・
世界の大思想M キルケゴ lル﹄ 河出書房、一九六六年、八 二頁。
(お)桝田啓 三郎訳﹁おそれとおののき﹂、 ﹃
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(羽)河口問。﹃ mnESF句史E
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5・(前掲訳書 一八九頁
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