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堤中納言物語 『はなだの女御』 の執筆意図
堤中納言物語﹃はなだの女御﹄ の執筆意図 − モデル探求及び草花による比喩の検討を通して ー 米 田 新 手 るを、また人の取りて書きうつしたれは、あやしくもあるかな。 んなれ﹂など、心に思ふこと、歌など書きつつ手習にしたりけ の女御の官とて、のどかには﹂ ﹁かの君こそ、かたちをかしか 。内裏にも参らで、 つれづれなるに、かの聞きしことをぞ。﹁そ 堤中納言物語中の一作品﹃はなだの女御﹄は、草花のイメージに は じ め に 支えられた喩え・叙述が、好色者の垣間見及び作者の又聞きの形を これら作りたるさまもおぼえず、よしなきもののさまかな。粛 らごとにもあらず。世の中にそら物語多かれは、 誠ともや忠は とって物語化されている。そしてこの中心部分は、 ①女性たちがおのおのの女主人を草花に喩える場面 ざるらむ。これ思ふこそねたけれ。多くは、かたちしつらひな ども、この人の言ひ心かけたるなめり。誰ならむ、この人を知 らはや。殿上には、萄これをぞ﹁あやしくをかし﹂と言 面 ⑧女性たちが草花を詠み込んだ歌に託して女主人の境江を語る場 ③草花のイメージを基盤とした好色者と女性たちの関係の記述 ほれたまふなる。かの女たちは、ここには親族多くて、かく日 とりつつ参りつつ、心々にまかせて逢ひて、かくをかしく、殿 また、先行研究によっても、早くは山岸徳平氏がモデル説を掲げ わりに重きをおきたい。 故意に示したとも考えられるが、私はこの作者の執拗なまでのこだ もっともこれは、話全体が虚構であるがゆえに作者がその事実性を けたまふべし。︵﹃はなだの女御﹄︶ と近くぞあんなるも、知りたまへる人あらは、その人々書きつ のこと言ひでたるこそ、 をかしけれ。それも、このわたり、い から成り立っていると言える。◎◎は表現そのものとしても十分に 楽しめるが、①の部分はそのように呼称される人物の像をある程度 把捉していないと、読み手の側はその比喩の妥当性を理解すること ができない。 さらに作品中では以下にあげる個所が示すように、冒頭と結びの 語りにおいて振り返し物語の事実性が強調されている。 。﹁そのころのこと﹂と、あまた見ゆる人まねのやうに、かたは らいたけれど、これは聞きしことなればなむ。︵﹃はなだの女 ︵ 1 ︶ 御 ﹄ ︶ 40 られたのに端を発し、モデルの存在をある程度認め、稲賀敬二氏の ︵ 2 ︶ ように作品の成立の時代を考えようとされる向きもある。 以上により、私は以下モデル探索を行い、その人物が草花によって 花 命好の君 大君 中の君 三の君 四の君 五の君 六の君 七の君 八の君 九の君 十の君 五節の君 菓御方 いとこの君 姫君 をば君 尼君 小命婦の君 西御方 評 者 説 ︹左大臣殿中君︺ 源雅信女 ︵−︶ A 一都 竹 説 B モデルに関しては、山岸氏の説と、史実により合致するようにこ ︵ 5 ︶ の説に一部手を加えられた都竹裕子氏の説とがある。 藤原詮子︵兼家女︶ 資子内親王︵村上帝第九皇女︶ 藤原連子︵頼忠女︶ 藤原定子︵追随女︶ 藤原彰子︵遺長女︶ 藤原設子︵煩忠二女︶ 藤原元子︵顕光女︶ 藤原義子︵公季女︶ 藤原賊子︵済時女︶ 藤原鱈子︵兼家三女︶ 藤原原子︵道隆二女︶ 藤原尊子︵遺兼女︶ 藤原原子の妹︵遺隆三女︶ 藤原原子の妹︵遺隆四女︶ 評 者一 山 岸 どのように喩えられているかということを通して作品を考察する。 ほちすの花 下草の龍胆 ぎぼうし 紫苑 桔梗 露草 垣はの撫子 刈萱 菊 花薄 朝玖 野辺の秋萩 萱草 くさのかう 女郎花 われもかう 五葉 軒端の山菅 芭蕉菓 子︵道長二女︶ 都竹説B 長保二年 ︵一〇〇〇︶二月二十五日∼同年十二月十五日 私 見 長保二年 ︵一〇〇〇︶二月二十五日∼同年八月十九日 ︹右大臣殿姫君︺ 源重信女 選子内親王︵村上帝第十皇女︶ 恭子女王︵式部脚為平親王女︶ 藤原遺隆三女︵菓笹︶ 藤原済時二女︵芭茶菓︶ 為平卿女 長保二年︵一〇〇〇︶八月二十日∼同年十二月十六日 女院 一品の官 だいあうの富 皇后宮 中官 四条の官の女御 承香殿 弘徴殿 宣掟殿 厩景殿 淑景舎 御睦殿 淑景舎妹三君 淑景舎妹四君 右大臣殿中君 左大臣殿姫君 斎院 斎官 帥の宮上 帥の富上 中務宮上 長徳二年︵九九六︶十二月∼長保元年︵九九九︶十一月 よめの君 山岸説 招く尾花 都竹説A 同同同藤同同同同同同同同同同藤藤藤同同 上上上原上上上上上上上上上上原原原上上 研 彰定遵 子子子 ︵0〃︶ 問題に触れておく。氏の決定された本文では、﹁右大臣殿中君﹂が まず、個々のモデルの検討に入る前に、山岸説における左右大臣の から推定できる。 る。ここで﹁帥宮上﹂に注目してみょう。この人物のモデルとして り、どちらの期間がより妥当であるかということが問題になってく 宮が和泉式部に心変りし、彼女が実家に戻ったことが記されてい ﹁いま一所の女君﹂が済時二女のことである。結婚後二三年経って 促にかへらせ給にしのち、このごろきけば、心えぬ有さまのこ ︵ 9 ︶ とのほかなるにてこそおはすなれ。︵﹃大鏡﹄第二巻師ヂ伝︶ に、官、和泉式部におぼしうつりにしかば、ほいなくて、小 泉院の四親王、帥官と申御うへにて二三年ばかりおはせしほど 又、いま一所の女君は、ち1殿うせ給にしのち、御心わざに、樹 は藤原済時二女が考えられ、彼女が帥官と結婚した時期が﹃大鏡﹄ ﹁左大臣殿中君﹂に、﹁左大臣殿姫君﹂が﹁右大臣殿姫君﹂になって ︵ 6 ︶ いる。これは稲賀氏・三角洋一氏がすでに指摘しておられるよう に、氏自身がモデルを当てはめる関係から入れ替えられたものであ る。氏が底本としておられる桂宮本では、﹁右大臣殿中君﹂ ﹁左大 ︵ 7 ︶ 臣殿姫君﹂となっている。したがって、底本のままに本文を定めて 問題なかろう。 ところで、山持・郡竹両説の大きな違いはこの左右大臣である。 ︵ 8 ︶ 以下に、該当すると思われる期間における左右大臣を掲げた。 源 重信 藤原道兼 保二年︵一〇〇〇︶であると推定される。したがって、この時期以 る。この事件に関しては周知のごとく﹃和泉式部日記﹄ に詳しく、 宮と式部の交際が始まったのが長保五年︵一〇〇三︶と考えられる。 正暦五年︵九九四︶∼ 源 重信 藤原遺兼 降をその範囲としている都竹説Bが妥当であると言える。よって、 モデルもこの都竹説Bであげられている人物たちがあてはめられる 正暦二年︵九九一︶∼ 左 源 雅信 右 藤原為光 源 重信 正暦六年︵九九五︶∼ 源 重信 ∵.日工二 藤原道長 藤原道長 ルとしてほ都竹説Bで示された人物たちをそれぞれ提示したい。 から同年八月十九日の期間を、またその期間にあてはめられるモデ 以上のことから私見として、長保二年︵一〇〇〇︶二月二十五日 げることができる。 すると、尊子が﹁御睦殿﹂であったのは長徳四年︵九九八︶から長 ︵ 1 0 ︶ 保二年︵一〇〇〇︶八月十九日であったので、下限はもっと引き上 加えて、﹁御睦殿﹂のモデルであると考えられる藤原尊子に注目 それから逆算すると、済時二女が﹁宮上﹂になったのは早くとも長 長徳二年︵九九六︶∼ 藤原道長 藤原実資 藤原公季 藤原顕光 藤原公季 ことになる。 寛仁元年︵一〇一七︶∼ 藤原頗光 寛仁五年︵一〇二一︶∼ 藤原顕光 藤原頼通 これを見てわかるように、他の人物を当てはめた時期に合わせるな そこで、可能性のある時期を提示した説として都竹A・B説が残 らば、﹁左大臣﹂は藤原道長、﹁右大臣﹂は藤原顕光となる。 42 二 も﹂ 六の君、はやりかなる声にて、﹁撫子を常夏におはしますと言 ふこそうれしけ九。 む﹂ 常夏に思ひしげLとみな人は言ふなでしこと人は知らな 次に、推定したモデルと草花による比喩を検討する。それぞれの モデルに対する草花による比喩は、その生蛙を端的に象徴している とのたまふに、おどろかれて、五の君﹁うち臥したれは、はや かな﹂ 朝政のとくしぼみぬる花なれどあすも咲くはとたのまるる ど、いとはかなくて。 十の君﹁まろが御前こそ、あやしきことにて、くらされて。な めや﹂ 秋の野のみだれてまねく花すすき思はむかたになびかざら とあれば、九の君﹁うらやましくも仰すなるかな。 かな﹂ 拉ゑしょりしげりまLにし菊の花人におとらで咲きぬべき ﹁まろが菊の御方こそ、ともかくも人に言はれたまはね。 とのたまへは、みな人々も笑ふ。 く﹂ 刈萱のなまめかtさの姿にはそのなでしこも劣るとぞ聞 とのたまへば、七の君﹁したり所にも、 という点でよく対応していると思われる。しかし、ここでは詳述す る余裕が無いので、後日稿を改めて論じることにして、本論では比 喩の中心に位置していると考えられる女郎花を中心に考察していき 先に掲げた本文構成①⑧の部分では、二十人の女性たちが競うよ たい。 うに措かれており、その中で女郎花に喩えられた﹁右大臣殿中君﹂ が、表現面からも構成面からも最も賞揚されているとみることがで きる。 そしたまひつれ﹂、︵﹃はなだの女御﹄︶ 姫君﹁右大臣殿の中の君は、見れどもあかぬ女郎花のけはひこ 嵯峨にせんざいはりにまかりて 藤原長能 傍線部の表現は、﹃拾遺和歌集﹄巻第三秋の ≡日ぐらしに見れどもあかぬをみなへしのべにやこよひたび ︵ 1 1 ︶ ねしなまし 痘入りにけり。何事のたまへるぞ。まろは、はなやかなるとこ を下敷きとしている。また次の文章も﹁右大臣殿中君﹂のこの物語 中での優位性を示すだろう。これは本文構成⑧の部分を全文引用し ろにし候はねば、よろづ心細くもおぼゆるかな。 たのむ人露草ことに見ゆめれば消えかへりつつなげかるる 命婦の君は﹁はちすのわたりも、この御かたちも、﹃この御方﹄ たものである。 かな﹂ と、庄おびれたる声にて、また寝るを、人々芙ふ。 など、いづれまさりて忠ひきこえはべらむ。にくき枝おはせじ ほちす菜の心ひろさの思ひにはいづれとわかず露ばかりに かし。 43 女郎花砂御方﹁いたく暑くこそあれ﹂とて、扇を使ふ。﹁いか にとて参りなむ。恋しくこそおはしま みな人もあかねにはひを女郎花よそにていとどなげかるる 別薗﹂︵﹃はなだの女御﹄︶ 始めに、命婦の君によって競い合いが実現し、六の君がその主人を 撫子と称して自慢する。これに対して、七の君はその撫子も自分の 主人の﹁刈萱のなまめかしさの姿﹂には劣るとして張り合う。さら に、八の君は菊になぞらえられるおのれの主人こそ人に劣らないと する。このあたりおのおのが主人の素晴らしさを競いあっており、 者が思慕する人物として描かれている。﹃はなだの女御﹄では、女 房とその女主人はほとんどパラレルとして記述されているので、女 郎花の優位性はここからも受け取れる。 この女郎花に喩えられた﹁右大臣殿中君﹂のモデルとして想定さ れるのが、藤原延子である。右大臣顕光の娘延子は、三条天皇の第 一皇子敦明親王と結婚した。その時期は、親王が式部卿に任ぜられ ︵ 1 2 ︶ た究弘八年︵一〇二︶以降であろうと推定される。結婚当時のこ かくて東宮の一の官をば式部脚の宮とぞ聞えさするを、廣晴の とについて、﹃巣花物菰巴 に記述がある。 御有様なり。︵中略︶式部胸官、﹁さばかりにや﹂と思ひきこ ど思ひきこえさせ給ふに、それさしもあらず、いと目安き程 姫君に、この宮婿取り奉り給へり。﹁いでや、古体にこそ﹂な 中納言は今は右のおとどぞかし、承香殿の女御の御おととの中 面の最後に登場してくるのが、問題の女郎花である。﹁みな人もあ 抑心持などもあらまはしう、 何事も目安くおはしましければ、 え給しかども、いと思ひのほかに女君もきよげにようおはし、 次に発言する三人は主人の心細い状態を嘆いている。こういった場 かぬにはひを女郎花﹂とあり、誰からも認められる美しさを持って いたことがわかる。このような表現からは、最初の撫子・刈萱・菊 しく、ほのかたりしすゑぞ、今に、﹁いかで、ただよそにて語 く思ひし人なり。︵中略︶その中にも、女郎花のいみじくをか かの女郎花の御かたこと言ひし人は、声ばかりを聞きし。志深 いたことがわかり、円満な夫婦の様子がうかがわれる。ところがそ つはな︶ この部分からは、延子が美貌の女性であり、かつまた心様も優れて いと思はずなる事にぞ、人人聞えける。︵﹃柴花物蒐巴巻第八は けれど、この女君を、ただ今はいみじう思ひきこえ給へれば、 ものに思ひきこえ給へり。宮もいみじう御心の木鉢たはれ給う なきものに思ひきこえさせ給し父大臣、この官の上をいみじき 御l 仲らひの心ざしいとかひある様なれば、ただ今は、女御を又 の相互の競いあいから一歩抜きんでた扱いがされているとみること ができよう。 さらに、﹁右大臣殿中君﹂は直接出てこないけれども、彼女を主 人に持つ姫君と好色者との恋の様相の記述があるので引用する。 らはむ﹂と思ふに、心にくく、﹁今ひとたび、ゆかしき香を、 の数年後、延子は権力闘争の波に翻弄されることとなる。長和五年 〓二こ いかならむ﹂と思ふも、定めたる心なくぞありくなる。︵﹃はな ︵一〇二ハ︶、後一条天皇が即位し、敏明親王は三条天皇のたっての ︵‖︶ だの女御﹄︶ ﹁かの女郎花の御かたこと言ひし人﹂ ︵姫君︶は、作中で最も好色 44 希望で皇太子に立てられる。しかし・外戚関係の無い道長は、敦明 親王が皇太子に立てられたことに対して、内心心よからす思ってい ㌔翌寛仁元年︵一〇一七︶、道長の陰の圧力等により敏明親王は皇 太子を辞し、替わって彰子所生の敦艮親王が皇太子に立った。この 出来事に対して後ろめたさを感じた道長は、東宮を退下した敏明親 ︵禁 ︵17︶ この事件以後、院の延子への訪れはほとんど途絶え、幸福な愛情生 王に小一条院の院号を与え、なおかつ自身の娘寛子と結婚させた。 こととなる。 活を失った延子と政権への道を失った父顕光は、憂愁の日々を送る 圭・∴予へ主︰音斗言こ∴∴∵︰﹁ゾ∵⋮言=十㌧∵︰ らで臥し給 へり。おとども消え 入りぬばかりにて臥し給へるに 一の宮おはしまして、﹁大臣、やや、起きよく。馬にせん﹂ と起し奉らせ給へは、あるかにもあらで起きあがり給て、高這 して馬になりて乗せ奉りたまて、這ひ歩かせ給へは、一の宮﹁例 よりも動かね馬悲し﹂とて、扇してしとしとと打ち奉らせ給ふ を、女御見やり奉らせ給うて、い と ど 目 く る る 心地せさせ給へ ば.−中いq州息翻心﹂矧瑚到割引咄矧でl御衣を引き被きて 臥させ 矧べ引“1いみじうあほれなる御有様なるに、﹁女御は若うおは すれはいとよしや。殿の御年はさばかりなるに、いかに罪得さ せ給ふらん﹂と、見奉る人も、あはれに悲しく心憂Lと見る。 ︵﹃巣花物蒐巴巻第十三ゆふLで︶ 。東宮にた1せたまへりLをうれしきことにおぼし1かど、院に ならせ給にしのちは、高松殿御障殿にわたらせ給て、御心ばか りはかよはしたまひながら、かよはせ たまふことたえに しかは ︵﹃大鏡﹄第三巻兼通伝︶ そして二年後の寛仁三年︵一〇一九︶、悲しみに沈んだまま延子は 去夜大左臣二娘<院御息所、>忽以亡逝云寸、﹂司 レ ︵ 拍 ︶ 還らぬ人となった。﹃小右記﹄︵寛仁三年四月十一日粂︶の となった・言わば敗者の側の女性である延子が、女郎花に喩えられ という記述が印象的である。こうした道長の栄華達成のための犠牲 ていることは注目される。さらに顕光の娘たちに関して述べれば、 延子の姉元子も撫子に擬され、﹁撫子を常夏におはしますと言ふこ まず桔梗に関して検討しょう。 そうれしけれ﹂と賞揚されている。 これに対して道長の娘たちについて見てみると、彰子が桔梗に、 ︵ 1 9 ︶ 厨子が吾木香に喩えられている。 ちなめれば、それにもなどか似させたまはざらむ﹂︵﹃はなだの 四の君﹁中宮は、父大臣つねに引割判引を読ませつつ、祈りが 女御﹄︶ 父親である大臣が、常に無量義経を読経させては祈ってばかりの様 子であるから、義経と桔梗を掛けてそれに似ているだろうという論 きちかうの花 とものり 理の展開になっている。桔梗は、八代集においては﹃古今和歌集﹄ 巻第十物名の く 喜秋ちかうのはなりにけり白露のおけるくさばも色かはりゆ のように物名歌に用いられるのみであった。この歌を発想の基盤と したのが、次に掲げた﹃村上御集﹄の歌である。 六月のつごもりに給へりける御返しを相成につけて、 秋ちかう野は成りに けり、人の心も、 と き こ え 給 へ り 45 ︵14︶ ければ 一六 秋ちかうなるもしられず夏ののにしげる草葉とふかき思ひ ま かへし ; 夏すぐる野べのあさぢはしけれどもつゆにもかるる物とこ そきけ 相手の心変りを恨む手紙に桔梗を付けたというもので、次にあげた こと女にものの給ふとききて、引可利引につけて ﹃元良親王集﹄の歌も同様の発想である。 かうのはな 完 たのみせはをさなからましことのほほかはりにけりなきち このように、物名歌に用いられる事がほとんどで、その他は相手の 心変りを恨む時に託す花である桔梗を比喩として用いたという点 と、父親︵道長︶のことを引き合いに出したもので、その人物そのも のの属性をプラス評価したものではないという点とは注目される。 次に吾木香について考察する。 をば君﹁左大臣殿の姫君は、]われもかうに劾引u疎にぞおはし ます﹂など言ひおはさうずれば、︵﹃はなだの女御﹄︶ 吾木香にも負けないぞという御様子でいらっしゃるということでそ の勝ち気さが強調され、吾木香という植物名に﹁我も此う﹂が掛け られている。この植物は、私が調査した限りでは和歌で用いられた われもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころはひまで思し 棄てずなどわざとめきて、香にめづる思ひをなん立てて好まし ︵ 2 0 ︶ ぅおほしける。︵﹃源氏物玉巴匂宮巻︶ まつりたる、 いとゞ匂ひな有、l刺身到u劃心地山村引当あり 。香染の御衣どもに、吉きが、汲き蒔き、珂叫判別引の純物たて し斎院の、枯野奥着給へりし御掟くたれ姿、﹁めでたし﹂と、 御心に染みしけにや、まづ思出られさせ給。﹁華やかなる色よ 武蔵野の霜枯に見し珂珂引叫引秋Lも劣る匂ひなりけり りも、なまめかしう、めでたうも、見えしかな﹂と、思ひ出づ るも、 ﹁同じ花とも見えわは、ロ惜しきわざかな﹂と、心の中に思ひ ︵ 2 1 ︶ 続けられ給にも、︵﹃狭衣物克巳巻三︶ ﹃源氏物菟巴匂宮巻の引用では、﹁世の人の塑つる女郎花﹂と並ん で、﹁物げなきわれもかう﹂つまり何ということも無い吾木香が出 てくる。﹃狭衣物語﹄の例は織物の名としての吾木香であり、地殊 な属性を持つものとして描かれている。﹃栄花物蒐巴等では派手好 きな女性として登場する研子を、このような植物を用いて喩えてい る点も気にかかる。そこには何か皮肉のようなものが感じられる。 したがって、こういった扱いの相違を考察することによって、﹃は なだの女御﹄の作者の意図したものが汲み取れるのではないだろう か。 ところで前に述べたように、延子は寛仁三年︵一〇一九︶に、そ 三 めづる女郎花、小牡鹿の妻にすめる萩の露にもをさをさ御心移 して父顕光は治安元年︵一〇二一︶にその生距を閉じた。死後の顕 。御前の儲栽にも、容は梅の花園をながめたまひ、秋は嘲叫大功 例はほとんど無く、以下に掲げる用例が主なものと言えるだろう。 したまはず、老を忘るる菊に、おとろへゆ↑藤袴、 ものげなき 46 じられていたようである。﹃小右記﹄寛仁二年︵一〇一八︶六月二 光・延子父子は物怪となって遺長方に崇ったと、当時の人々には信 隙なくおぼし掟てさせ給ふ。堀河の大臣、女御やなどひき連 ふバ入道殿よりも、かくおはしませば、御修法・御託経なども ならせ給へげ、かたがたいかにとのみいみじうおぼし欺かせ給 二十四わかばえ︶ いとはしうかたはらいたうのみおぼしめす。︵﹃栄花物語﹄巻第 て 、 い と お ど ろ く し き 御 け は ひ 有 様 に て の の し り 給 へば 十四日条を見る。 或云、大︹太︺関所悩有賀布祢明神モ︹之︺出示﹃崇﹄、是院 御息所と祈也、<謂御息所者左府二娘、> 得たり︿﹂と、堀河のおとど・女御もろごゑに﹁今ぞ胸あく﹂ 0御髪そがせ給へる、︵中略︶御もののけどもいといみじう、﹁し もっともこれはまだ延子在世中のことであるが、道長の病気が貴布 禰明神の果りのせいであり、それは延子の祈りの為であるという風 封叫研創叫日刊腎脅.︵﹃栄花物玉巴巻第二十五みねの月︶ 聞が、世に流れていたことがわかる。この頃道長は病兜に苦しめら れており、結局翌年出家した。少し降って万寿二年︵一〇二五︶、こ りきこえさすべし。︵中略︶﹁さてもあさましかりける蝋細面九 それもこの同じ御物のけの思ひのあまりなる べし。それもいと みじく悩ませ給へは、これをいと恐しき事に殿の御前おぼさる。 回叫女到御叫御樹矧かな﹂と、殿も院もおぼしめせど、﹁後の悔﹂ 果てさせ給ひぬる﹂とある御消息を聞しめす御心の程、思ひや の年道長一家を不幸が襲う。三月、小一条院の女御寛子・院の母君 ︵ 2 3 ︶ 賊子が病床に伏壌︶娘子は同月にそして寛子は七月に亡くなった。 ︵24︶ 続いて道長の四女嬉子が、八月にこの世を去る。これらを記す古記 といふ事のやうになん。折しも中将殿の上も、御もののけにい 0日釆のおぼつかなさを悔しうおばさるる味方に、﹁ただ今なん 録の一連の記事において、﹁邪霊﹂ ﹁霊気﹂ ﹁邪気﹂の為だとする ︵ 2 5 ︶ 見解が見えることは注目される。また、嬉子死後の風聞を記述する ﹃小右記﹄万寿二年八月八日条を見てみると、 人三石、故掘河左村井院女院・御息所霊所吐之詞一家尤有嘲毘 堀矧叫如拙、l封狐やとさし続き、同日乳口剖刷叫訓におはすら 0凋河の大臣・女御、さし続きてののしり給ふさま、いとうたて く お ぼ さ る るなり。︵﹃栄花物語﹄巻第二十五みねの月︶ ﹁故掘河左荷﹂ ︵痍光︶並びに﹁院女院﹂︵娘子︶﹁院御息所﹂︵延 ︵26︶ 子か︶の霊が吐いた言葉を道長一家が最も恐れたということ、そし 五巴巻第二十五みねの月︶ 云∼、種モ所陳皆有矧矧云\ てこのことは皆道理にかなったものであったと当時の人々が認識し ていたということがわかる。そして﹃栄花物蒐巴においては、これ 給ひぬ。御年十九。﹁あないみじ、あさまし﹂とおぼしめす。 ひ続けののしり給ふ。︵中略︶されどすべて限になり果てさせ んを、返返かたはらいたく苦しうおぼしやらせ給ふ。︵﹃栄花物 ︵中略︶院にはこの事ども聞しめして、 ら悲劇の全てに﹁掘河の大臣、女御﹂つまり頭光・延子父子の物怪 射河のおとど・女習叫御薗、lll刊笥判例u剖劃どl引到粛昂 恐しうあやにくなり。 が出現したと語っている。 いと苦しげにせさせ給ひっ︵つ︶、月日にそへて影の様にのみ 0院は官の御悩をいみじうおぼし欺かせ給ふ。この院の女御殿も、 47 研子姉妹をわざわざ低める必要はないわけである。したがって、木 作品の執筆者としては後の三つ、つまり小一条院に近い人物、延子 ︵﹃栄花物五巴巻第二十六廷王のゆめ︶ それから二年後の万寿四年︵一〇二七︶五月三十日桑の﹃小右記﹄ る。延子・顕光の怨霊を恐れあるいは痛ましく思った人物が、敗者 四 めようとしたと言えるのではないだろうか。 だ形で低めることによって、悪霊として世を騒がせる二人の魂を鎮 延子を賞揚し、勝者道長の娘である彰子・研子をどこか皮肉を含ん ・顕光に近い人物、及び全く関係の無い第三者の可能性が考えられ には道長の次女研子の病悩のことが見え、この時にも顕光等の霊が 現れたことが記述されている。 入陪宰相中将来云、宮御悩無減、樹矧矧劃矧l・尚侍霊等出剰1 奉釈五百弟子受記晶、 また、これは﹃栄花物玉巴にのみ見える記事ではあるが、後一条天 御もののけども移りてののしる様いと恐し。併噺射河劃対矧聖 皇の病悩の時にも二人の霊が出現したとされている。 ある程度推定することができる。作品の成立に関しては、これまで このように考えると、この作品が執筆された可能性の高い時期も 苦しき御心地に添へても、笥栄花物或巴巻第三十二歌合︶ 女御殿具し給て出でおはし、さらぬものさまざま名乗り、いと さらに、﹃宇治拾遺物或巴一八四御堂関白御犬暗明等奇特の事にも 物色すれば、風雅集などに、四条大皇太后官即ち前記記子に して間もない頃 − の作ではなかろうかと考えている″ ︵ 2 9 ︶ 。山岸徳平氏 〝若し強いて、そのような人を当時の女房中から すなわち﹁その頃﹂巻頭があらわれる、﹁宇治十帖﹂が完成 様々な説が出されてきた。主なものを以下に掲げよう。 ︵ 2 8 ︶ 。鈴木一雄氏 〝ほぼ、﹁源氏物語﹂が完成して間もない頃−−− ﹁此顕光公は、死後に怨霊となりて、御堂殿辺へはた1りをなされ ︵27︶ けり。悪霊左府となづく云々﹂と記されている。以上により、この 二人の怨霊については彼等の死後すぐに噂され、かなり強烈な印象 こういった背景を考えると、この ﹃はなだの女御﹄は、延子・顕 仕えた主殿などが現れて来る″ ︵ 3 0 ︶ 。野村一三氏 〝﹃はなだの女御﹄ の作者はこの掘河あたりでは を持って人々に受けとめられていたということがわかる。 光父子の魂を慰めることを意図して書かれたものであると考えられ 大きく四つに分けられる。その一つは遺長方の人物、二つ目は小一 物語成立の延応元年︵一二三九︶以後における鎌倉中期頃か あるまいか〃 ︵ 3 1 ︶ 。土岐武治氏 〝この﹁はなだの女御﹂物語の成立は、やはり今 いた側の立場で微妙にその内実が変わってくるだろう。その立場は るのではないだろうか。しかしながら、一口に鎮魂といっても、書 条院に近い人物、三つ目は延子・顕光に近い人物、そして四つ目は 人物が書いたとすると、先に検討した桔梗・吾木香の喩えが気にか としていた一条帝中期において、顕光家サロソの存在をこの と思ほれてならない″ ︵ 3 2 ︶ 。郡竹裕子氏 〝種々のサロンが存在し、定立していない、混沌 全く関係の無い第三者である。二人の怨霊の票りを恐れた遺長方の かる。単に延子・顕光父子の鎮魂を意図したのなら、自家の彰子・ 48 小編から仮想してみることは許されないであろうか″ ︵ 3 3 ︶ 。三角洋一氏 〝万寿三︵一〇二六︶年以後、﹁逢坂越えぬ権中 納言﹂に相前後する時期と想定してみたい″ ︵ 3 4 ︶ 。阿部好臣氏 〝まず、嘉院は五葉に讐えられた。この五葉を五 へ︰・一・︶ 代の長きにわたり斎院をつとめた人という特異性を表わすと 考えるとすれば、﹁かはらせたまはざんぬれば﹂が、長い間 の斎院ということも重ね、このモデルである村上帝皇女選子 ﹁ ︻ − ﹁ ・ ︶ 内親王が五代目︵後一条帝︶に入るのは寛仁元︵一〇一六︶ 年からである。︵中略︶後冷泉朝、主殿を考えておきたい″ ︵ 3 5 ︶ 。稲賀敬二氏 〝一応、十一世紀中頃の女房たちの関心を背景に して成立した作品と見ておく″ 三角氏は、成立の上限を決定する上で女院の問題に触れ、﹁二人目 の上東門院院号宣下による女院号定着以後、すなわち万聖二︵一〇 二六︶年正月以後の成立であることを暗示しているのではないか﹂ 後一条と、五代の天皇に斎院として奉仕した。このことから阿部氏 は五菜に五代が掛けてあるとみて、選子が五代目の天皇に入る長和 五年︵一〇一六︶を本作晶成立の上限としておられる。ところで、 五葉に五代を掛けて用いられる例は、現在私が調査した限りでは見 あたらない。五葉は和歌の世界ではその用例が見られず、物語等の 平安朝の和文の世界では以下のような用いられ方が一般的であっ た。 。御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、可動 風に散る紅葉はかろし春のいろを岩ねの松にかけてこそ見 の枝に、 め ︵﹃源氏物蒐巴少女巻︶ 。こだかき岸よりえならぬ到魂にかゝりてさきこぼれたる朝ぼら ︵37︶ けの藤を、折りてみる心地して、 ︵﹃夜の寝覚﹄巻四︶ ﹃源氏物議巴の例は五菜に永遠性を見ている。﹃夜の寝覚﹄ の方は できると思う。がしかし、女院号の定着問題についてそこまでこだ わる必要があるのかという疑問も残る。 た。こういったことから五葉に五代を掛けたとみるのはやや不安 な属性を持った租物としては松が用いられることが一般的であっ てきている。全体として五葉の用例は多いとは言い難く、同じよう 女性の容貌を植物によって表現した部分であり、その中に五葉が出 もっと確実な上限の設定の仕方としてほ、すでに阿部氏が指摘さ が残るけれども、単に永続性を示すためなら松としてもいいところ とされている。確かにそういった方向での見当のつけ方も一方では れているように、本文における斎院を五葉に喩えた記述が問題にな を、それほど多用されているとは言えない五菜を敢えて用いた点 ってくるだろう。 尼君﹁斎院、司鼎と聞えはペらむ。かはらせたまほざんめれば 代・世・時代等の意をもたせた使い方が漢詩文の世界に見られる。 今之吏部相公是其四顧孫也 ︵﹃本朝文粋﹄巻第十 七言九月振 ︵ 3 8 ︶ 田侍北野廟各分一字 高積善︶ に、五代の意を込めたかった作者の作意が感じられる。さらに葉に よ。罪を離れむとて、かかるさまにて、久しくこそなりにけれ﹂ とのたまへば、︵﹃はなだの女御﹄︶ この斎院の王丁ルとなったのは、村上帝第十皇女選子内親王である と考えられる。選子は、円融帝をはじめとして花山二条・一二条・ 49 ︵36︶ 以上のことにより、私も先行説に従って五菜に五代を掛けるとい う点に関しては異論がない。ただし、上限の設定の仕方について少 し考えるところがあるのでそれを述べてみたい。選子が斎院を退下 するのは長元四年︵一〇三一︶であり、その時に初めて五代の天皇 に仕えたということが確定する。したがって、正確な上限はこの長 元四年︵一〇三一︶となるのではなかろうかとも考えられるのであ るが、このあたり、本文の記述とも合わせてみるとどちらとも決定 め続けたということは想像にかたくない。したがって、この時代に おける十数年以上という隔たりは、それほど問題にしなくていいの またこういったこととともに、長保二年︵一〇〇〇︶頃に物語の ではないかと私は考えている。 たという点も考察しなければならないだろう。長保二年︵一〇〇〇︶ 如台を設定し、実際の比喩にはその後の女性たちの生をも反映させ と言えば、定子がまだ存命で彰子は入内したばかり、他の女御たち 呈していた。そこに物語の時を設定し数多くの女性を登場させたこ も鶏を競いあっていた時期で、まさに後宮は百花繚乱という様相を とは、一条朝の懐古ということにもなるであろうし、またその中で し難いと思う。ともあれ、モアルとなった人物たちの記憶が人々の のことを考慮すると、この上限として設定される時期をそう降らな 中から消え去っていない時期、及び頭光・延子父子の怨霊の出現等 延子の優位性を描くことによって、より彼女の賞揚も意味のあるも かる人物ということになってきて、現代の我々の眼からみればやや かなり限定することになるだろうし、読み手もその時代のことをわ か通じないような描写でもって書いたということは、その執筆者も 干の皮肉を込めた形で描写されている部分であるとも見ることがで 講や法華三十講等を催しっつひたすらに祈りがちな道長の姿が、若 なめれば﹂という箇所は、庶流なる物怪出現に怯えながら、法華八 にあげた﹁中宮は、父大臣つねにぎきやうを読ませつつ、祈りがち ところで、こういった鎮魂という眼で作晶を見直してみると、先 五 ている。 のとなり、鎮魂という意図にも叶うものとなったのであろうと考え い時に本作晶が執筆された可能性が高いと考えられる。 ところで、長保二年︵一〇〇〇︶の頃に生きていた女性たち︵し かし、物語における比喩の内実にはその後のその人物の生きざまも 反映されている︶を、少なくとも十数年以上隔たった後世において こういったことが成り立つのかという疑問も当然現れるだろうと思 物語の中にモデルとして取り入れ、かなり事情のわかった読者にし う。しかし、現代のあらゆる情報が氾濫している世の中と同レベル 分は、執筆者を延子の側の人物、さらに言うなら昔延子に仕えてい もあかぬにはひを女郎花よそにていとどなげかるるかな﹂という部 た女房として見ると、世間では物怪として恐れられている延子の復 きる。また﹁いかにとて参りなむ。恋しくこそおはしませ。みな人 にならないくらい限られていたと想像される。そのような状況にあ 権を計ったものであると解することができるだろう。﹃巣花物兎巴 で考えるべきことではないだろう。なにしろ平安時代のことであ って、恐らくはかなりの注意を払っていたであろう政治の関わる後 る。貴族の関心を持つ事柄は、現代の我々の多様さとはくらべもの 宮の様相等についての話題が、度々人々の口の端にのぼり関心を集 50 は、敦明親王の東宮退位後、日ほしい女房たちのほとんどが延子の そばを離れてしまったと記す。自らが生きていくためにはそうする よりはかなかった女房のひとりが、昔の主人の怨霊説を聞くに忍び ず、主人の賞揚と己の延子を思う気持ちの二心の無きを、本文の早 く姫様のもとへ参上したいという記述に込めた、とも見ることがで きるのではないだろうか。ただし、このように考えると、本文にお いて女郎花に喩えられた姫君を主人に持つ女性が、最も好色者の思 慕する人物として描かれているのは、やや自画自賛的な趣を皇して くるように思われる。この問題には、物語の登場人物をそのままそ の物語の作者と重ね合わせることの危険性も絡んでくるので、この ような可能性もあるのではないかという一つの提案にとどめてお 書に拠る。 山岸徳平氏﹃提中納言物語全註解﹄ ︵一九六二年、有精堂︶ ︵2︶に同じ。 稲賀敬二氏 完訳日本の古典︵一九八七年、小学館︶ 都竹裕子氏﹁提中納言物語﹁はなくの女御﹂考1左右大 臣該当者への一試宏T−−﹂︵﹁国文目白﹂一九七九年二月︶ 言物語全訳注﹄ ︵一九八一年十月︶ 稲賀敬二氏、前掲雷。三角洋一氏、講談社学術文庫﹃提中納 宮内庁書陵部蔵﹃堤中納言﹄ 0らち住rん肌へ、・ア7た 。.仕も一b∴乱のハい苦み ︵﹃影印本 堤中納言﹄笠間書院︶ ﹃公卿補任﹄に拠る。 岩波日本古典文学大系。以下﹃大鏡﹄の引用は同書に拠る。 ﹃一代要記﹄女御従二位藤尊子 長徳四蟹一月十一日為御虹殿別当入内年十五︵中略︶長保二 用は同書に拠る。︶ 年八月二十日為女御︵改定史結集覧。以下﹃一代要記﹄の引 新編国歌大観。以下和歌の引用は同書に拠る。 ﹃一代要記﹄ 小一條院寛弘八年十月五日為親王叙三晶年十 ﹃巣花物語全注釈﹄。以下﹃栄花物語﹄の引用は同書に拠る。 八同十二月任式部椚 ﹃一代要記﹄ 同︵長和︶五年正月二十九日為皇太子 このあたりの事情に関しては、角田文衛氏﹃承香殿の女御﹄ ︵一九六三年、中央公論社︶、及び酒井みさを氏﹃上東門院の 51 く。いずれにしても、本作晶の執筆意図として、ある種の実験小説 れるということを提示したい。 を目指したということ等とともに、延子・顕光父子の鎮魂が考えら 最後に、このような鎮魂の意図を、作者は物語の中で明確に示さず に何故故意にわかりにくくしているのか、という問題に触れて結び とする。この﹃はなだの女御﹄が執筆された可能性のある時期は、 摂関政治を極めた藤原道長を頂点とする道長一門が隆盛を誇った時 代であった。その中であからさまに権力を握っている側を批判し、 その権力の犠牲となった側を賞揚するのは憧られたはずである。し たがって、こういった手のこんだ方法をとることによって、作者は 延子・顕光父子の魂を慰めるという意図を物語の表現の中に忍ばせ たのではないだろうか。 ︹ 註 ︺ ︵l︶ 小学館日本古典文学全集。以下﹃はなだの女御﹄の引用は同 \_ノ ) ( ( ( ( 5 4 3 2 ) ) ) ) ( ( 7 6 ヽ−ノ ) ) ヽ_ノ ) ) 151413 ( ( ( 10 9 8 ( .へ ( 皇太子敦明親王請レ退こ儲白き。即日。立二帝同胞弟敦艮親王︼ 系譜とその周辺﹄ ︵一九八九年、自帝社︶等に詳しい。 ︵16︶ ﹃日本紀略﹄寛仁元年八月九日粂 為こ皇太弟車。<年九。>︵中略︶以こ前春宮坊︼為−一小一條浣︼。 年給官爵如し巧 ︵新訂増補国史大系︶ ︵17︶ ﹃御堂閑自記﹄寛仁元年十一月二十二日粂 小一条院高松殿二啓シ道長女寛子ト婚シ給フ 此夜中一条院御近衛御門、東対東面借御車、左大将・左衛門 督採指燭、入従寝殿東妻戸、時成、中宮大夫・修理大夫等 供、殿上人十八人、従母と許装束井会等送給、皇大︵太︶后 給装束、︵大日本古記録︶ 小学館日本古典文学全集。以下﹃源氏物語﹄の引用は同書に 拠る。 ﹃小右記﹄万寿二年三月十八日条 岩波日本古典文学大系。 皇后官不覚悩給云\<後開、為剰盟被取入給、時剋移蘇生 給云と、> なお、晃子もこの時期病の床にあったことは本論で掲げてい る﹃栄花物預巴巻第二十四わかはえの引用によってわかる。 ﹃小右記﹄万寿二年七月九日条 院御息所亡、<頁時云・く、> ﹃左経記﹄万寿二年八月五日条 及申剋尚侍殿忽卒去云々、︵中略︶卒去之由所疑万端也、或 云矧叫矧所為云々、或云産後依不加労、旧血上所為云々、或 云、御産自供加持、邪矧成各所為云々、︵史料大成︶ ︵22︶︵24︶参照。 は延子という注がある。しかし、私ほ国光との関係からここ 史料大成では注なし、大日本古記録では寛子、大日本史料で は延子のことであると考える。 岩波日本古典文学大系。 52 ︵18︶ < >内は、割書き。なお、﹃小右記﹄ の引用は大日本古記 録に拠る。記事中の﹁左大臣﹂ほ顕光のことである︵﹃公卿補 任﹄によれば、顕光は寛仁元年︵一〇一七︶より左大臣︶。 ︵19︶ 延子・彰子・研子を中心とした略系図を参考として掲げる。 敦明親王︵小一桑院︶ 鈴木一雄氏﹁堤中納言物語の作風とその成因をめぐって﹂ 山岸徳平氏、前掲書。 土岐武治氏﹃堤中納言物語の注釈的研究﹄ ︵一九七六年、風 学研究﹂一九六八年六月︶ 野村二二氏﹁提中納言物語中八篇の作者について﹂︵﹁平安文 ︵﹁東京教育大学文学部紀要﹂七、一九五六年二月︶ ︵27︶ ︵28︶ ︵29︶ ︵30︶ ︵31︶ ) )‘ ) 34 33 32 問書房︶ 都竹裕子氏、前掲論文。 三角洋一氏、前掲書。 阿部好臣氏﹁物語の視界50選はなだの女御﹂︵﹁解釈と鑑賞﹂ 一九八一年十一月︶ ﹃賀茂斎院記﹄選子内親王 稲賀敬二氏、前掲書。 村上天皇第十皇女也。母中宮安子。藤原師輔之女也。円融院 天延三年六月二十五日ト定。︵中略︶後一条院即位之後。斎 王不レ改。風元四割九月二十二日選子依レ有二老病︼私以退出。 ︵中略︶ 是月二十八日選子落飾為レ尼。逆子在二斎院一之問。凡 歴こ五代−。当時称こ大斎院−。︵中略︶長元八年六月二十二日 前㌢<年七十二。>︵群書類従第四輯︶ す。また本稿を成すにあたり、稲賀敬二先生および位藤邦生 な御助言を賜りました諸先生方には記して御礼申し上げま いて同項で口頭発表した内容に加筆したものです。席上昔重 ︹付記︺本稿は平成三年度広島大学国語国文学会秋季研究集会にお ︵38︶ 身延山久遠寺蔵﹃本朝文粋﹄に拠る。 ︵37︶ 岩波日本古典文学大系。 ヽ_ノ ) りました。心より感謝申し上げます。 先生には御多忙の折にもかかわらず、終始暖かい御指導を賜 − 広島大学大学院博士課程後期在学 − ︽会員近著紹介︾ ﹃椎名麟三論−−<判らないもの>を求めて − ﹄ 富 野 光 男 著 ﹃語りえぬものへのつぶやき1椎名堅二の文学1﹄に続く著 者の椎名論の集成である。﹁椎名麟三研究﹂に発表された六編の論 を追究しようとする姿勢に甘かれた本書は、前著の延長線上に位置 考を収める。副題が示す通り、椎名文学における<判らないもの> のための、もうひとつのキーワードが、木文中にもすでに出てきた つけることができる。﹁あとがき﹂には、﹁<判らないもの>解明 ことであるが、<誤解>ではないか、という思いを抱いている昨今 である﹂という言葉も見られる。著者の柾名論の更なる進展が楽し ﹁第一章 判らないということ ー初期作品を中心にしてーー﹂ みである。なお、本書の内容は左記の通り。 て − ﹂ ﹁第二葦 判らなさに由来する誤解−1﹁その日まで﹂を中心にし ー ﹂ ﹁第三章 判らない<死から先の一行> − ﹁希望﹂を中心にして − ﹂ ﹁第四章 <何か>が判らない ー ﹁赤い孤独老﹂を中心にして ふれながら ー ﹂ ﹁第五章 判らないものあれこれ − ﹁ある不幸な報告書﹂などに ﹁第六章 判らないものの表現− ﹁遊近﹂にふれながら −﹂ ︵四六版、一九五ページ。一九九二年六月、朝文社刊。 二四〇〇円︶ 53 ( ′{.1 ′ヽ ( ( 36 35