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「展覧会の絵」 また、日常の写真生活のことである。 趣味とはいえ写真を
「展覧会の絵」 また、日常の写真生活のことである。 趣味とはいえ写真をする人は数多くの絵画を見るべきである。 秋も深まってくれば各地で色々な展覧会が盛んになってくる。 拙者の経験から言っても、作品展への作品作りはいつもの練習と違って、下手ながら個性 的でのびのびとしたものが出来そうな・・息抜きでもあるが同時に進歩の感じられる機会でも ある。芸術の秋と言えば、音楽・美術・工芸・写真などなど芸術系の花開く季節である。 大きな美術館の話ではない。各地の公民館などで市民の趣味の展覧会を見に行くべし・・ である。 人間の目は明るく高性能で優秀であるが、脳はもっと柔軟で優秀である。 絵画の世界では、網膜で結んだ明るさと色彩を脳ですでに絵にしているわけである。写真と 違って映像をなすのに道具は要らない。しかし、それでは絵画という作品ではない。 絵画はそれを表現する芸である。表現するというのはまず技であり。相当な鍛錬を必要とす るのは当たり前である。正に、そのイメージするところはまさに脳のなせるものである。多彩な 絵具や技法でもって自分のイメージの表現に成功したとき斬新かつ個性的な作品にすること ができる。 人間の目の優秀な点、それは視野が広いことである。 人間も平原や森で進化してきた動物である。平原に広く深い視界が得られたのは二つの目 を横に並べて距離を測定する機能が有効だった。 それをカメラに置き換えると F1.0・焦点距離50㎜(35ミリフイルム用の)のレンズという感じ になるということらしい(50㎜が標準レンズたる所以)。だが、そんなことではない。それが2本 あってしかも2つの目が脳で望遠にもマクロにもなることである。 写真機は文明の道具であるが、それに比べるべくもなく絵画の歴史は古すぎる。人間に目と 脳と手がある限りの歴史である。2本のレンズでの視野による映像がスタートである。遠近法 などというのは、人間の視野にもっとも忠実な画像ではないだろうか。絵画はやはり芸術、な ぜなら感性の脳のなせる技ということだと思う。 だからである。油絵・水彩・墨絵・版画によらず、それぞれの絵の構成と視覚に学ぶべきであ る。この絵は写真で表現した方がいいのではないだろうかと思う絵もある。また、これはやはり 絵画だな思うものがある。そういう時はレンズでは表現できないものを感じる。アマチュアだって 絵は描ける、いい絵に当たれば、これこそ絵画であり作者の個性であり感性でありひょっとし たら人格なのではないかと思うこともある。 趣味の会である限り、おそらく絵画出展者の中にも大きな力の差があるに違いない。出展者 同士が切磋琢磨の機会でもある。 現金な表現をすれば、縦の構図、横の構図、色彩のタッチ、見る高さ、同じように四角に切 り取られた世界・・・写真とは違っても全て参考になる。 写真は絵画の代用品だという人もいる、写真も絵画の一手法だという人もいる。それはとも かく我が塾も切磋琢磨をモットーとする会である。・・・この際、上達を目指すものは、見て感 じて“盗む”べきである。 写真は記録である。光として存在しえないものは対象にならない。雑誌を見てもレストランの メニューを見ても写真だらけ。仮に絵画の代用だとしても、存在する物(ぶつ)は写真としての 方が手っ取り早い。それは現実感があるからである。しかし、ただ物を現実のまま鮮明に記録 するだけのものとは違う。 今、我々が心がけることは物(もちろん人物だって風景だって)を光の中で光として見る目で ある。 写真は道具の世界である。シャッターを押せば作品が出来ると思える。しかし、なおさら無闇 にシャッターを押さないでほしい。ファインダー(ディスプレイ)を見て、自分の脳に作図して欲し い。そんな難しく言わなくてもいい・・こんな風に仕上がるかなと・・?いうようなことを先に考え てシャッターを押してほしい。それが作品。しかも、狙った通りでなくとも結果として良ければそ れも良し。自分の技法にしていけばいいだけのこと。 絵画に学ぶべき点は、まさに脳の中で一度作図するということ。 我が塾は“作品として”ということを標榜している。写真展も盛ん。もちろん写真展は当然な がら、ここちよき作品を目指して絵画展にも学ぶべきと思う次第で・・・ある。 成24年10月3日 新切写楽苦会(http://www.geocities.jp/singireaji/)塾長 新切鰺郎