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聖体と聖霊 -- 東方典礼におけるエピクレーシスの教理史的背景
197 抑王ク旦示 目ヒ目 げ理 耶三 % 娯 東 ハンス・ ユー 西方の ヵ ゲン・マルクス トリック教会と 東方のギリシア 正教会において、 ,サないし聖 体礼儀は一致の 秘跡と呼ばれるほど 中心的な位置を 占めている。なぜなら、 この祭儀において 救いのわざを 記念し、 パン によって、 と ブドウ酒を分かち 合うこと 信者はキリストと 結ばれ、 互いの一致を 深めると考えられるか らであ る。信者が分かち 合うパン と ブドウ酒が実際にキリストのからだと 血であ ることの信仰、 さらに司祭の 唱える奉献立ないしはアナフォラの 心的な言葉によってパン と ブドウ酒がキリストのからだと 中 何に変化すると の信仰も両教会に 共通している。 ところが中世末期以来、 奉献立のどの 言 葉によってパン と ブドウ酒が聖別されるかについては 両教会の教理は 分か れている。 西方教会によれば、 パン と ブドゥ酒が聖別されるのは のイエスの言葉を 唱えることによる。 つまり聖別を 行 司祭が最後の 晩餐 3 本来の行為者はキ リスト御 自身であ って、 司祭はその代わりとして (in persona するということであ る。 東方教会によれば 聖別を行 3 Chnis 切 行動 本来の行為者は 聖霊 であ って、聖霊が ,ンとブドゥ酒の上に 下ることによって 聖別が行われる。 聖霊の降下を 願 う 祈りはェピ クレーシスと 呼ばれ、 最後の晩餐を 記念する 聖体制定の物語のあ とに唱えられる。 西方教会の伝統的な 術語を用いるな らば、 聖体秘跡の「形相」 (forma) にあ たるのはイェスの 最後の晩餐の 言葉 ではなく ェピ クレーシスであ る。また時間の ヵテゴり 一で言い直せば、 "聖 別の時 " とは司祭がイェスの 言葉を唱える 時ではなく ェピ クレーシスを 唱 一 198 一 える時なのであ る る。 このとらえ方は 現在東方教会の 正式な教理となってい n 以上の相違は 14 世紀に入ってから 初めて両教会の 間で問題となった。 フィレンツェ 公会議 (1438/39 年 ) において両教会の 再合同が試みられた 時 、 西方教会の代表者は 自分の意見を 共通の教理として 承認してもらうよ う努めたが、 東方側の抵抗にあ ってこれを断俳せざるをえなかった。 体論の問題に 関するフィレンツェ 公会議の審議とその 決議はまた別の 幼 聖 原稿 で扱いたい。 ここではさしあ たり東方教会の 教理を正しく 評価するため、 まず ギりクァ 教父たちに立ち 帰り、 彼らが聖体祭儀における 聖霊の働 よ び ェピ クレーシスの 役割をど う きお 理解していたかを 確かめたい。次に 14 紀に始まった 西方側の批判に 答えて ェピ クレーシスを 弁解した当時の 世 東方 神学者を紹介したい。 1. ギリシア教父神学の 遺産 本稿ではギリシア 教父神学における 聖体論の発展を 詳しく述べることは できない。明 また今世紀の 初め以来、 東方典礼における ェピ クレーシスの 起源や本来の 意義、 および歴史的展開をめぐって 研究者の間で 論じられて ぎた様々な仮説を 検討することもできない。 体論の基礎となっているギリシア のここでは主に 後代の東方聖 教父に焦点を 絞って 、 彼らが ェピ クレー シスの機能をどう 理解していたか 検討するに止めたい。 もちろんこの 問題 に関するギリシア 教父の意見は 聖霊論の発展と 密接に結び付いている。 れゆえコンスタンティノ そ ー ポリス公会議 (381 年 ) を境として検討を 進めた い。 5) 1. 1. コンスタンティノポリス 公会議以双の 伝承 ギリシア教父一般は 聖体の秘跡を 受肉の出来事に 照らし合わせて 後者か ら 前者を解き明かした。 6) ところで、 4 世紀後半までの 教父はイェスのう ちに受肉した 神のみことばけ OSOS) と 聖霊とをあ まり明確に区別したこと はなく、 したがってまた 聖体祭儀における 聖霊の特有な 働きについてもあ まり問題にしたことはない。 聖体の秘跡はおよそ 次のよ j に説明さねた。 すた ねち、受肉の時ロゴスがおとめマリアの 御目分のからだをかたちづくられた 胎に宿り、「聖霊とおとめから」 よう に、 聖体祭儀の時ロゴスが』 ンと ブドゥ酒の上に 下り、 これを御自分のからだと 何に変えられるという 説明 になっている。 年代順に従って 主な資料を紹介してみよう。 7) すでに 2 世紀半ば頃 、 殉教 老ュ スティノ ス はキ リス 卜者の集まりで 拝領 されるパン と ブドウ酒について 次のような説明をしている。 「われわれはそれを 普通の " ンや普通の飲み物として 拝領することはな い。 そうではなくて、 むしろ神のロゴスによって 受肉されたわれわれの 救い主イェス・キリストがわれわれの 救いのために 肉も血も持ったよう に 、 この万に由来するみこと ぱ Ⅰロゴス) の祈りによって 祝福された 糧 されたイエスの 肉 と血であ ることをわれわれに 教え る。8) 」 ュ スティノ ス は明らかに " ンと ブドゥ酒の聖別とロゴスの 受肉との間の 平行関係を七 張 しているが、下線で示したフレーズの 意味はつかみにくい。 「みことばの 祈りによって」 (山 , と ひ ん 化人 Oyo の " ンと ブドウ酒がキリスト のからだと何に 変わると言われているのだが、 及されているかということであ 問題はどのような 祈りに言 る。学者の答えは 三つに分かれる。 第一の 答えによれば、 ュ スティノ ス は聖体制定の 言葉に言及しており、 その朗唱 によって聖別が 行われるということになる。 実際、 ュ スティノ ス はこの個 所のすぐあ とに制定物語を 引用しているので、 これを考えていたはずであ ると言われる。 。 ) 第二の答えによれは、 う ュ スティノ ス はロゴスの降下を 願 祈りに言及しており、 したがって東方伝統で ェピ クレーシスと 呼ばれる 祈りによって 聖別が行われるということになる。 実際、 ユ スティノ ス は明 らかに受肉と 聖別との間の 平行関係を主張しているので、 そのような、 ロ 一 200 一 ゴス の降下を願 うェピ クレーシスに 言及していたはずであ ると言われ る 。 呵 しかしどちらの 答えをも時代錯誤を 起こすものとして 批判する学者 もいる。川 彼らの提唱する 第三の答えによれば、 お げる特定の言葉とか ュ スティノ ス は奉献立 に 祈りには言及しておらず、 その全体の朗唱によって 聖別が行われると 考えたはずであ ると言われる。") 実際、 奉献立のどの 言 葉 によって聖別が 行われるかという 問いはずっとあ との問題で、 早くとも 8 世紀になって 議論され始めたので、 第三の答えが 一番説得力があ ると 思 われる。 いずれにせよ、 後代のギリシア 教父とは違って ュ スティノ ス は 聖 体 祭儀における 聖霊の働きを 問題にしていた い ことは明らかであ エ イレナイオスの 場合、 事情は多少異なる。 に グノーシス主義の ろう。 彼は 2 世紀の終わり 頃 、 特 肉体蔑視を論駁するコンテキストにおいて 聖体祭儀に 言及するのだが、 彼の報告およびその 論駁の方法から 分かる よう に 、 グ 、ンス主義者も 聖体祭儀を執り 行い、 しかも " ンと ブドウ酒を拝領すること によってキリストのからだと ィ レナイオスはこの 何にあ ずかると信じていたようであ る。③ ェ 共通の前提に 基づいて、 「肉が神の力を 受け入れ、 保ち 続ける能力を 持つ」ことを 認めるか、, 。 ) あ るいは聖体祭儀をやめるか 川と いう二者択一を 論敵にせまる。 そのようなコンテキストにおいてエイレナ イオスは次のように 吉 本 ノ ブドゥ 酒 と水を「混ぜた 杯 とつくられた』 ンが神のみことばを 受けてキ リストの 血 とからだの エタ カリスティアとなり、 これによってわれわれ の 肉体的本性が の いのちであ も キリストの 増し、 支えられる。 ならば彼らはどうしてこの 肉が水連 る神の賜物を 受け入れることができないと 言 う のか。 しか 血 とからだによって 養われ、 その肢体となっている 肉 が。 」, 6) パン ぬ0卸 ブドゥ酒が「神のみことばを 受けて」くされ 旋 Xe と で 鉗梼 v 入 OVovTo を キリストのからだと 何に変わることは 明らかであ るが、「神のみこと ば 」はど 理解されるべきかについてはもうひとっの う 「神への祈りを 受けた(仲 od 几 個所を参考にしたい。 な節uevo Ⅰす% ノムぬ戒Ⅴ㏄ vtoo を 俺 。切地か 一 201 一 ら め パンはもはや 普通のパンではなく、 二つのことから と天上のものから からだもエ タ 成るエ タ 地上のもの カリスティアであ るように、 われわれの カリスティアを 受けることによって、 もはや朽ちるもので はなくなり、 復活の希望を 持つのであ る。 ") 」 ヱイ レナイオスはこの 中でロゴスを ヱピ クレーシスに 置き換えている。 さらにもうひとつの 個所において、 グノーシス主義者マルコスが 聖別のた めに用いた祈りをも ヱピ クレーシスと 呼んでいる。, 8) したがって 、 ヱイ レ ナイオスが ェピ クレーシスと 呼ばれる祈りによってバン と ブドウ酒がキリ ストのからだと 何に変わると 考えていたことには 異論がないであ ろう。 かし、 し この祈りが後代の 意味における ヱピ クレーシスであ ったかどうかは また別の間 題 であ る。 エ イレナイオスは 最後の引用個所に 先だって 、 エタヵリ スティアを「新 しい契約のいけにえ」と 呼び、 その起源としてイェスの 最後の晩餐の 言葉 を 引用している。 , 。 ) このことを理由に 一部の学者は ェピ クレーシスが 聖体 制定の言葉にほかならぬと 解釈している。 '。 ) しかしながら、 エ イレナイオ スがグノーシス 主義者マルコスについて、 スの言葉」はOyo 午鏑 Ⅰ さ宕 彼がいたずらに「 ェピ クレーシ LK 九ヵ 亘 とのわを拡大していると 批判している 点に注 目すべぎであ ろう。和 マルコスが聖体制定の 言葉をいたずらに 拡大したと は考えられないから、 エ イレナイオスは ェピ クレーシスを 聖体制定の言葉 と 同一視したはずもない。 むしろ奉献立全体を ェピ クレーシスと 呼んだの であ ろう。 多くの学者はこの 解釈をとるが、 物ヱ イ レナイオスが 実際に奉 献立における 特定の祈りを ェピ クレーシスと 呼んだ可能性は 必ずしも否定 されえないとの 慎重な見解をとる 学者もいる。") と ろで、 エ イレナイオスが ェピ クレーシスと 呼んだ祈りは 奉献立全体 であ ったか、 それともその 中における特定な 祈りであ ったかはともかくと して、 それがロゴスだけの 降下を願 う 祈りであ ったと言えるだろうか。 , 4) 最後に引用した 個所に先行する 文章において、 エ イレナイオスはバノーシ ス、 主義者を次のように 批判している。 一 202 一 「しかし、 どうしてまた 彼らは主のからだと 何によって養われる 肉が滅 びに至り、 生命を受けることができないと 言うのか。 それなら自説を 変 えるか、 それとも前述したいげにえをやめればよい。 の説は教会の 教えと調和し、 しかし、 われわれ また ェウ カリスティアもわれわれの 説を確 証する。 なぜなら、 われわれは心をひとつにして 肉と霊 との交わりと 一 致を讃えながら 主に彼のものをささげるからであ る。25) 」 引き続いて、 エ イレナイオスは ェピ クレーシスによって 聖別が行われる と説明するのだが、 ヱピ クレーシスは「肉と霊 との交わりと 一致を讃える」 ような言葉を 含んでいたと 推定してもおそらく 間違いではないであ 「 ろう。 請 える」 レなのⅣ 蕪几ezV) という動詞は 第一コリント 人への手紙 11 章 26 節を連想させ、 主の来臨および 主の霊における 交わりと一致を 讃えること が ェピ クレーシスの 不可分の二つのテーマであ ろうか。 そうだとすれば、 ったと言えるのではないだ ェピ クレーシスがロゴスのみならず 聖霊の降下 をも願う祈りであ った可能性は 必ずしも否定されはしないであ はば同時代の ヒ, ポ リュ トスの作 とされている ろう。, 。 ) 下使徒伝承』は一つの奉 献文を含んでおり、 その一個所は 明らかに聖霊の 降下を願う ェピ クレーシ スであ る。洲本文の再発見 C1910 年 ) 以来数十年の 間、 特に ヱピ クレーシ ス 0 倍感性 はついて活発な 議論が戦わされたが、 現在では ェピ クレーシス を 含めた奉献 立 全体が実際に ヒ " ポリ ュ トスの作 と認める学者が 大半を占 めている。") もちろん 3 世紀初め頃 、 聖体祭儀のためにすでに 固定化した 奉献立 が用いられていたと 考えるなら、 時代錯誤を起こすことになるだろ う。 当時、 祈りや祭儀はまだ 割合自由に表現されていたからであ る。 した がって 示してい ヒッ ポリストスは 本書の奉献立をひとつのサンプルとして るにすぎない。 加えて、 ヒ " ポリ ュ トスが当時の 教会の慣用とは 全く無関 係なことを正しい "使徒伝承 " として述べたとも 考えられない。 奉献文は短い 導入対話と神への 感謝の祈りから 始まり、 引き続いて聖体 制定の物語に 移り、 「これを行う時、 私の記念として 行いなさい」とし 令文で終わる。 パンと杯を神にささげる 短い祈りのあ と、 全体は次の ぅ 命 よ う 一 203 一 に締め括られる。 「聖なる教会のささげものの 上にあなたの霊を送って 下さい。 あ なたの 聖なるものにあ ずかるすべての 人をひとつに 集め、 聖霊で満たして 下さ い。 真理のうちに 信仰が強められ、 御子イェス・キリストによってあ たを賛美し、 讃 えることがで き な ます よう に。 栄光とほまれはキリストに よってあ なたに、 聖霊とともに 聖なる教会の 中に、いまも、 世々に、 アー メン。 」 29) この ェビ クレーシスの 相手方は父なる 神であ る。 ヱピ クレーシスは 教会 のささげものの 上にその「 霊 」を遣わす 聖霊降下に よ よ う父に願い求めているが、 この るささげもの 自体に対する 効果は明確にされていない。 しか し、 ささげものにあ ずかる人々にどのような 効果が望まれるかは 明確に述 べられている。 それは彼らがひとつに 集められ、 聖霊に満たされ、 神をほ め 讃 えることができる 2 9 になる、 ということであ る。 以上のエピ クレーシスが 聖別を願う祈りでないことは 明らかであ ろう。 その主な狙いはエ タヵ リスティアにあ ずかる人々の 一致とその信仰の 強化 を願い求めるところにあ る。呵 さらにもうひとつの 点に注意を向けよう。 聖霊が父と子との 同格の自存者として 認められたのは 4 世紀後半のことで あ って、 それ以前は特に 聖霊とキリストとはあ まり明確に区別されたこと はない。川 どちらかと言えば「 霊 」とし 言葉は先 在的 ロゴスの存在様式な ぅ いしは神的勢力を 指していたし、 ヒッポリ ュ トスも聖霊をその ょ うに理解 していたようであ る。32) したがって、 以上の ェビ クレーシスが 結局 p ゴス の降下を願い 求める祈りであ ったことの可能性は 必ずしも否定されえない であ ろう。'3) 同時代のアレクサンドレイアの 教父もロゴスと 聖霊とを明確に 区別した ことはない。 たとえばクレメンスは 制定物語を次のように 解き明かし、 し かもこれを普通の レ<u4面俺PO の説明として 導入する。 「 肉 ( という 語コ をもって ( キリストは る。霊によって肉がつくられたから。 コ われわれに霊の 比楡を示され 血 ( という 語コ をもってわれわれ 一 204 -一 に ロゴスを暗示される。 ロゴスは満ちるふれる 血のように生命の 上に注 がれているから。 両者の混合 Lが屯を 4 す る。 主は霊であ りロゴスであ コ は主であ る。揖 すなわち り、 小さい子らの 糧であ 主 イエス、 すなわち神のロ ゴスは受肉した 霊であ り、 聖化された天上の 肉であ る。'。 ) 」 クレメンスは 明らかにロゴスの る。 彼に よ 受肉を聖体祭儀のモデルとみなしてい れば、 受肉の時ロゴスは 聖霊とおとめマリアから 御自分のから だをかたちづくられた。 籠 そして「血が肉の力であ るよ う に 、 霊がロゴスの 力であ る。 」㈲この言葉からも 明らかな よう に 、 霊はロゴスに 内在する神的 勢力であ り、 そういう意味においてイェス・キリストは「両者の 混合」と 言われる。 受肉の出来事は 聖体祭儀において「現在化」される。 かつてロ ゴス がその 霊 とともにおとめマリアの ゥ 上に下ったように、 いま " ンとブド 酒の上に下り、 これを御自分のからだと 何に変える。 そしてまたかつて ロゴスの霊がイェス・キリストのからだを カリスティアのささげものを 満たしていたよ う に、 いま ェウ 満たしている。 ナi から エタ カリスティアは「受 肉 した霊 (た靭 a s 叩 Ko 篠 ㏄ 0 のと呼ぶことができる 。 「信仰をもってこれ 」 にあ ずかる人は、 からだと魂において 聖化される。 なぜなら父のみ 旨によっ て人間は神的な 混合へと 霊と ロゴスに混ぜられるからであ クレメンスの る。") 」 後継者も受肉の 出来事を聖体祭儀のモデルとして いたし、聖霊の参与を 認めながらもロゴスと 理解して 明確に区別したことはない 03 。 ) ここでは 4 世紀の ア タナシオスだけに 注目しよう。 彼にとって聖霊はロゴ スの受肉者たるイエス・キリストの 神的本性にほかならない。 呵 たとえば トゥム イス の司教セラピオンに 宛てた書簡において、 アタナシオスは 聖霊 の神性を力説してはいるが、 以下の文章からも 分かるように、 聖霊とキリ ストとの区別をなおも 明確にしてはいない。 聖霊 と キリストとの 関係につ いて次のような 説明をしている。 「御自分について (主はコ人の干そしてまた 霊 として語られた。 前者によって 御自分の肉体的なものを 示すためであ り、 それは 霊 ( という 語コ をもって御自分の 霊的な、 超可知的な、 そして最も真実な 神性を表すた 一 205 一 めであ った。」。 。 ' ア タナシオスがこの 書簡において、 聖霊の神性を 強く訴えるのは 何らか の思弁的な関心のためではなく、 もっぱら救済論的な 関心のためであ 彼によれば聖霊を 受けることはキリストの る。 川 神的本性にあ ずかることであ り、 またキリストの 本性にあ ずかることは 不滅性、 不死性に到達するため の 必須条件なのであ る。42)そしてキリストの 本性にあ ずかるには二つの 道 しかない。洗礼と聖体の 秘跡がそれであ る。 鋤 ところで、アタナシオスはア レイオス派に 対して、 キリストのうちに 受肉したロゴスが 父 なる神と同質 のものでないならば、 聖体祭儀においてキリストのからだにあ も ずかること 無意味になると 強調する。 そのような論駁のコンテキストにおいて ァ タ ナシオスもしくは 彼に近い著者は 聖体祭儀の意味を 次のように解き 明か す。 「主は御自分について『私は 天から下ってきた 生けるパンであ る。 ( ョ 』 ハ 6.5la) と 言われる。 他のところでは 聖霊を天上の " ンと 呼んでこ 言われる。 『われらに来たるべ き う 世の(6% 。みoLo のパンを今日も 与えたま えⅡ ( マタ 6 .n1 参照) これをもって 主はわれわれに 次のことを教えら れた。 つまり、 われわれはこの 世にあ って 、 祈りのうちに 来たるべ き 世 の パン 、 すなわち未来の " ンを 願い求めるべきであ って、 われわれは 主 の 肉を受ける時、 このパンの初穂を 今のいのちにおいて 持つ、 というこ とであ る。主御 自身の言われるとおりであ る。『私が与えるパンは 世のい のちのために 与える " ン であ る oJl ( ョハ 6.5lb) それと言うのも、 主の 肉はいのちを 与える霊であ り、 いのちを与える 霊からできたのだか ら 。 40) 」 この説明において、 受肉の出来事は 明らかに聖体祭儀のモデルとなって いる。 しかも聖体の 特質について 言われていることは「受肉した 霊 」とい うクレメンスの 表現によく似ている。 聖体にあ ずかることによって 、 人は 「いのちを与える 霊 」にあずかる。 なぜなら、 霊はかつて イヱス ・キリス トのうちに宿ったように、 いま聖体のうちに 宿るからであ る。 そういう 意 一 206 一 味 において「教会の 晩餐は霊のかつての 受肉の現在化であ る」と言うこと ができる。。 5) ところで、 受肉において 本来の行為者がロゴス 御 自身であ ったように、 聖別においてもまた 本来の行為者はロゴスなのであ る。 このことは ア タナ シオスのものとされている 短い断章からうかがわれる。 『洗礼を受けた者へ の 説教から コ との題が付されているが、 エジプト教会の 典礼に関するコメ ンタリーとみなしても 間違いないだろう。 「あ なたは助祭がパン と ブドウ酒の満ちた 杯をもってぎて、 これを祭壇 の上に置くのを 見るだろう。 しかし、 祈りや願いが 行われない う ちは、 それは単なるパンと 何にすぎない。 ところが大いなる 驚嘆すべ き 祈願が 終わると、 " ン はわれわれの 主 イェス・キリストのからだとなり、 その 血 となるのであ る。 そしてまた『秘儀の 完成に行ぎましょ㍉ 杯は [ とい う招ぎを聞くだ る力 。 この " ンと杯は祈りや祈願が 行われるまでは 単な る " ンと何にすぎない。 しかし、 大いなる祈願や 聖なる祈りがささげら れた後には、 ロゴスが " ンと杯の上に下り、 [" ンと ブドゥ酒が; そのか コ らだとなる。」。 6) このコメンタ り 一から二つのことがうかがえる。 第一に、 聖別の効果は 奉献立における 特定の祈りとか 言葉に帰せられるのではなく、 「大いなる驚 嘆 すべ祈願」と 呼ばれる奉献立全体に 帰せられる。 第二に、 聖別の本来の 行為者は明らかにささげものの 上に下るロゴスなのであ なお当時のエジプト 教会の奉献文一般は 、 ヒ る。 ,ポリ ュ トスのそれとは 対 照的に、 聖霊の降下を 願う代わりにロゴスの 降下を願う エピ クレーシスを 含んでいたと 言えるだろうか。 この問いに対して「然り」と 答える学者に とってはセラピオンの 書いたものとされている 初席書が最も 重要な典拠と なっている。村本書においてひとつの 降下を願 うェピ クレーシスはその の祈りから始まり、 奉献立が伝えられており、 ロゴスの 中にある。鋤 奉献立は父 なる神への感謝 参列者のための 祈願に移り、 彼らが三位一体の 神を讃 えるよう聖霊の 授与を願う。 引き続いて、 再び父への感謝の 祈りに返り、 一 207 一 三回の「聖なるかな」で 終わる。 この賛美は直接「このささげものをあ たの カ な とあ なたの交わりで 満たして下さい」という 第一の短い ヱピ クレー シスに移行する。 鋤この ュピ クレーシスのあ とパンをささげる 短い祈りが 続 き 、 制定物語の前半がこれにつたがる。 さらに神との 和解と教会一致の ための祈願 '。 ) のあ と杯をささげる 祈りに移り、 制定物語の後半がこれにつ たがる。 問題の第二の ェビ クレーシスはこのあ とにくる。 「真理の神よ、 あ なたの聖なるロゴスがこのパンの なたのロゴスのからだとなります 真理の血となります ての人が裁 き よ 上に下り、 パンがあ よう に。 またこの杯の 上に下り、 杯が うに。真理の神よ、 いのちの妙薬にあ ずかるすべ 、 とがめ、 恥を受けることなくあ らゆる病の快復と、 あ ら ゆる完成と徳のための 強化を受けるようにして 下さい。 鋤 」 このあ ととりなしの 祈りがささげられ、 全体が一種の 栄 唱で締め括られ る。 なお、 第一のェピ クレーシスが 聖別の祈りであ るかどうかはともかく としても、 第二のェピ クレーシスは 明らかにそうであ る。 しかも聖別はロ ゴスの降下に 帰せられている。 この事実からして、 ではロゴスの る。 また、 タ 4 世紀のヱ ジプト教会 降下を願 うェビ クレーシスが 通用していたと 言われるのであ カパド キア教父は聖霊の 神性を証明するため、 洗礼の定式 ( マ 28.19 参照) を引き合いに 出しながらも、 聖霊降下を願 うヱピ クレーシ ス には全く言及していない。 もしその ょう な ェピ クレーシスを 知っていた ならば、 当然論証に役立たせたはずであ ろうとも指摘される。 さらにささ げものの上へのロゴスの 降下に言及する 個所が ヵパド キア教父の作に 散見 できるのだから、 ⑫彼らの教会においてもロゴスの ンス が用いられていた、 ・ 降下を願 うェビ クレー と言われるのであ る。 辮 さて ヵバド キア教父の証言の 説得力はともかくとして、 セラピオンの 祈 禧書 はそのまま当時のエジプト 教会の慣用を 反映しているかどうかについ ては疑問の余地があ る。特に奉献 立 において、 「彼個人の神学的思弁がきわ だっている」と シスは 4 指摘される。54) さらにまたロゴスの 降下を願 うェピ クレー 世紀のエジプト 教会において 用いられたことはないと 主張する 学 一 208 一 者 もいるのであ る。 司 それに加えて、 そもそも問題の ェピ クレーシスはそ のままセラピオンの 書いたものではなく、 意図的に聖霊の 働きを黙殺しょ うとした プネ 、 ウマトマコイ (聖霊に逆らう ) 派の編集者によって 現行の形 に書き直されたと 主張する学者さえいる。 , 。 ) 本稿ではこの 問題を解決する ことはできない。 ただ東方伝統においてはセラピオンの 奉献立以外、 スの降下を願う ェピ クレーシスのための 明確な証言がないこと、 証言は決して 過大評価すべきものでないことだけを ロゴ またこの 指摘しておぎたい。 ") これまで紹介した 教父は受肉の 出来事を聖体祭儀のモデルとみなし、 前 者から後者を 説明しようと 努めた。 つまり、 受肉の時ロゴスはおとめマリ アの 胎に宿り、 「聖霊とおとめから」神の 子イェス・キリストとして 御自分 のからだをつくられたように、 聖体祭儀の時 " ンと ブドウ酒の上に 下り、 御自分のからだと 血に変えるのであ る。 4 世紀後半までの 教父は聖体祭儀 における聖霊の 働ぎを認めながらも 聖別の本来の 行為者はロゴスであ ると 考えていた。 さらに彼らは 聖別の効果を 奉献立全体の 朗唱に帰した。 制定 物語かェピ クレーシスかという 後代の二者択一はまだ 知らなかったのであ る。 明確な資料が 少ないので当時の 典礼において 用いられた ェピ クレーシ スの内容を確定することはむずかしい。 めげる ェピ クレーシスは ための祈りではない。 スはロゴスの ヒッポリ ュ トスの『使徒伝承』に 明らかに聖霊の 降下を願う祈りであ るが、 聖別の セラピ オソ の書いたものとされている ェピ クレーシ 降下とそれによる 聖別を願う祈りであ るが、 どの程度代表的 であ ったかについては 大きな疑問が 残る。 いずれにせよ、 これまで紹介し た教父は聖体祭儀における 聖霊の働ぎを 軽視したと言うよりは、 むしろ ゴス に対する聖霊の 独自性を特別問題にしたことはなかったと 口 言うほうが より事態に則していると 言えよう。 1. 2. コンスタンテイノポリス 公会議以後の 伝承 コンスタンティノポリス 公会議の決議とその 後の聖霊論の 発展を十分に 一 209 一 評価するために プネ、 ゥマ トマコイ派の 攻勢に対する ヵパド キア教父の守勢 について手短に 触れておぎたい。 ヵパド キア州の カイサ レイア教区におい て論敵の勢力は 特に大きかったようだが、 ナッ ノ アン ッ 教区では事情は ちょうど逆であ ったため、バシレイオスは 親友バレゴリオスと 協定を結び、 これについて 者アタナシオスの 賛同をも得た。 つまりグレゴリオスが 明確 な概念を用いて 堂々と聖霊の 神性を公言するのに 対して、 バシレイオス 自 身は聖霊を「 神 」と呼ぶことをひかえ、 代わりにより 間接的な方法をとる という協定であ った。5% たとえば 4 世紀半ば頃 まで「栄光は子によって、 聖 霊において父であ るあ なたに」という栄唱が一般的であ ったが、374 年 5 日 ( あ るいは 7 日 ) , シ レ イ 9 月 オスは自分の 主教陸聖堂で 執り行われた 典 礼儀式に際して、 この定式を「栄光は 父に 、 子と聖霊とともに」と 改めた。, 。 ) そのため非難を 受けた時、 洗礼の定式 ( マタ 28.16 参照) を引き合いに 出 し、自分の修正を 次のように弁解した。 「伝えられている 定式に従って 洗礼 を受けなければならない。 洗礼を受けたとおりに 信じなければならない。 信じるとおりにほめ 讃 えなければならない。 60) このようにして バシ レイ 」 オスは主に典礼や 祈りのレベルにおいて 聖霊の神性を 解き明かしたが、 コ ソ スタンティノポリス 公会議もこのアプローチをとった。 公会議に参加した 東方教会の代表者はローマ 教皇ダマス ス に宛てた書簡 において、 父と子と聖霊とが「唯一の 神性、 同一の全能の 本質 (0蒜肱 )」を 有すること、 しかし各々が 独立した「自存者」 (砺而倣仇 わであ ることを説 明した。。 " しかし彼らが 採択した信条は 聖霊に関する 個条 においてそのよ うな抽象的な 概念を含んでいない。 。 2) 「主であって、 いのちを与える 聖霊をわれわれは 信じます。 聖霊は父か ら発出し、 父と子とともに 礼拝され、 あ がめられます。 また預言者をと おして語られました。 」。 3) これに先行するキリスト 論的個条 においてはニカイア 公会議のキーワー ド 「同質」 (6メ 00 もl(rtoわが用いられているが、 ここでは聖書と 典礼の用語し か用いられていない。 ニカイア公会議以後の 抽象的な諸概念をめぐる 論争 一 210 一 に 区切りをつげようとする 意図が明らかであ ろう。 根本主張は聖霊が 父と 子と同じ礼拝に 値する、 ということに 尽きる。 主 」はゆto わと呼ばれるの 「 もこのことを 強調するためであ ろう。 周知のとおり「 主 」とは七十人 訳 に 代わる神名でり、 新約聖書においてはキリストにあ おいてヤーウェに れた称号のひとつであ る。 父と 聖霊との区別を てら 示唆するため「聖霊は 父か ら発出する」 ( ョハ 14.5 参照) という聖書の 言葉が引用されているが、 子 と聖霊との区別については 何も言われていない。 当時の教父が 力説したよ うに、 それは概念的思弁に 基づいては解決不可能な 問題であ る。 しかし祈 りや典礼においては 聖霊に特有の 働ぎがおのずから 明らかになり、 それは 上 のことを知る 必要はないとされていた。 6のそういうわ け でコンスタン ティノポリス 公会議以後とりわけ 聖体祭儀における 聖霊の働ぎは 以前より 注目され、 強調されるようになったのであ この新しい関心はエルサレムの 理 講述コに 初めて現れる。 ゆ り て時 軸 W04% る。 司教キュリロス (386 年没) が残した『 教 本書の最初の 18 章は四句節の 間に洗礼志願者 前にして行われた 講話を筆記したもので、 備的教理講述』と 6 一 8 章の本格的「教理講述』の 1 一 5 章の『予 二部に分かれている。 前者は罪、 改心および信仰を 扱い、 後者は徐々にエルサレム 教会の洗礼 信 条を注解し、 コソスタンティノポリス 信条の由来についての 重要な研究 費 料 となっている。。 5@9-23 章は復活祭週間に 受洗者(reo の ゐ俺俺0z 屹 前に して行われた 講話を筆記したものであ レ悔 Ⅰ る:vwz0I/ 忙 扱 ところで、 う り、 洗礼、 堅信および聖体の 秘跡 ので『秘儀講述』と 題されている。 。 。 ) すでに 17 世紀以来、 この『秘儀講述』の 情感性については 議 論 が繰り返された。 文体や思想内容がその 前の仁教理講述』とは多少異なっ ていること、 またひとつの 写本ではキュリロスの 後任 コ アンネ、 ス 二世 (在 位 386-417 年) が著者とされていることから、 る学説が一時有力であ 『秘儀講述山を後者の作とみ った。 。 7) L, かし、 r教理講述 を 予告する個所があ り、 写本の大半において コ キュり においてⅠ秘儀講述 コ ロスが著者とされてい るのだから、 むしろ次の見解のほうが 事柄に則していると 思われる。 すな 一 211 一 ね ち、 r教理講述』も『秘儀講述』も 繰り返し同じ 機会のために ものであ り、 コ 用いられた アンネ ス はその記録を 受け継ぎ、 とりわけ秘跡に 関する部 分に手を加えた。 それゆえ『秘儀講述 コはコ アンネ ス の思想を反映しては いるが、 原作はあ くまでも キュり ロスにさかのぼるということであ そもそも 圧 秘儀講述』の 信愚性が疑われた理由のひとつは、 68) る。 聖霊の働ぎ が重視されている 一方、 奉献文の解釈において 制定物語が黙殺されている という際だった 特徴であ る。 制定物語に関する キュリロスが 奉献立全体を 詳しく注解する 言及がないのは 意図がなかったためであ う。 柑 しかし聖霊の 働ぎが重視されていることは、 ティノポリス 明らかに ろ おそらくコンスタン 公会議以後の 新しい思潮を 反映していると 言えよう。 さて、 キュリロスはまず ェピ クレーシスの 効果については 次のように述べてい る。 「礼拝すべく三位一体への ェピ クレーシスが 行われる双には、 エタ カリ スティアのパン と ブドウ酒は普通のパン レーシスが行われたあ と ブドウ酒であ ったが、 ェピ とには、 バンはキリストのからだ、 ク ブドゥ酒はキ リストの 血 となっている。」 70) なお「姉位一体への ェピ クレーシス」㏄ 旭ぬ和 打切Ⅰ Tp 乏 40 カ という 表現をまだ奉献立全体を 指すものとして 理解することができるかもしれな い。 川 しかし次の文章は 明らかに聖霊降下を 願 短い聖別の祈願について う 物語っている。 「聖霊への ェピ クレーシス (とな zX 几ヮ 仇す n レ EU なな ァ 0 いのあ と、 ェゥ ; スティアのパンはもはや 普通のパンではなく キリストのからがであ リ 0も ん yzoU る。朋 ここでは聖霊が 聖別の動因とされているこ 」 とに疑問の余地はないだろう。 奉献文の注解からこのことは なる。 導入の対話を 割合詳しく注解したのち、 キュ るかな」までの 叙唱の概要をあ げ、 そこから直接 次に教会、 国家、 皇帝などのためのとりなしに 締め括る。 ァ これは明らかに り 一層明らかに コスは三回の「聖な エピ クレーシスに 移る。 触れ、 全体を死者の 記念で 奉献立全体にわたる 詳しい注解ではないが、 ピ クレーシスに 与えられた中心的な 地位が目立つ。 ヱ 一 212 一 「この霊的な 賛美によって 自分たちを聖化したあ と (e妊は)、 われわれは 博愛の神に、 ささげものの 上に聖霊を遣わすよう 願い求める。 それは聖 霊がパンをキリストのからだに、 ブドウ酒をキリストの 血に変えるため であ る。 なぜなら聖霊が 触れるすべてのものは 聖化され、 変化されるか らであ るⅡ ") この ヱピ クレーシスは 明らかに聖別の 祈りであ る。 そして聖別の 本来の 行為者はもはやキリストないしロゴスではなく、 以後、 東方典礼の奉献立においては 聖霊なのであ る。 聖霊降下を願う エピ クレーシスは 制 定物語のあ とに唱えられる。 そして エピ クレーシスの 内容からして「キュ リ ロスのように エタ カリスティアにおいて 聖霊を能動的な 行為者として、 キリスト自身を 単なる支げ 身 として扱うよりほかの 可能性はなかっ た。 74) 」 コ アンネス・クリ ゾ ストモスは古いキリスト 論的な理解 ど 新しい聖霊論 的な理解の両方を 受け継いでいる。 それゆえ中世末期の 論争において、 東 西市教会の神学者からそれぞれの 見解を維持する 最も重要な権 威として頻 繁に引き合いに 出された。 しかし、 その際クリ とのない問題、 すなわち ゾ ストモスが全く 扱ったこ "聖別の時 " もしくは聖体秘跡の "形相。 の問題 が彼の文章の中に 読みこまれた。 どちらかと言えば クリゾ ストモスは聖別 の効果を奉献上全体の 朗唱に帰する。 時には制定物語を 、 時にはェピ クレー シスをより重視しているが、 パン と ブドゥ酒がキリストのからだと 何に変 わるのは制定物語のあ とか、 それとも ェピ クレーシスのあ とかという二者 択一を問題にしたことはない。 まず ェピ クレーシスに 関する最も有名な 個 所を見てみよう。 司祭の役務について クリゾ ストモスは次のような 秘儀解 説を行っている。 「この務めを備えたのは、 人間でも、 天使でも、 大天使でも、 創造され たいかなる権 力でもなく、 助け主御 自身なのです。 - あ なたは主がい け ほ えにささげられ、 横たわっているのを 見て、 また司祭がいげに え をさ さげ、 祈りを唱え、 あ の至高の血によって 皆を赤く染めているのを 見ま 21.3 一 す 。 その時にはまだ 人と一緒に、 この地上にいるとでも 思っているので すか。 むしろ天に移されて、 すべて肉体的な 知覚が取り除かれ、 あ るが ままの 魂と 純粋な知性によって 天上の事柄をながめるのではないでしょ うか。 ・‥私の目の前にエリアを 描いて下さい。 en 列 18、 30 一 39 参照) おびただしい 群衆と石の上に 横たわるいけにえを。 そして他の人々が 皆 黙って深い・沈黙を守っている 間、 預言者だけがひとりで 祈っているとつ いに天からの 炎があ のささげものの 上に落ちることを。 これは驚嘆すべ ぎであ り、 不可思議に満ちています。 そこからあ なた ( の白 7 を 、 いま 司祭がやっている 所へ移して下さい。 たいした情景を 見ることはないで しょう。 しかし、 あ らゆる不可思議以上のことを 見ているのです。 すな わち司祭が立っています。 火ではなく聖霊を 吐いています。 彼は長い時 間にわたって 祈りをささげますが、 それは天から 落ちる火がその 眼前に 置かれているものを 焼きつくすためではなく、 むしろいげにえの 上に 下った恵みが 皆の魂を燃え 立たせ、 皆を火で精錬された 銀 よりも輝かせ るためなのです。 」 7目 地のところでは クりゾ ストモスはより 明解な表現を 用いて、 司祭が聖霊 の降下を願い、 それによって パソと ブドウ酒がキリストのからだと 何に変 化すると述べている。 何 その際、 上の引用個所の 場合と同じようにキ リス トは受 け 身のささげものであ って、 すべての能動性は 聖霊に帰される。 し かし後代の論争のため、 上の引用個所から 特に次の二点を 学びたい。 第一 に、 エリアのたとえで 強調される群衆の「深い 沈黙」および 聖体祭儀の場 合強調される 司祭の「長い 時間にわたる 祈り」がひとつのことを 明確に示 す 。 すなわち クリゾ ストモスは ェピ クレーシスのような 短い祈りにではな く、 奉献立全体に 聖別の効果を 帰するということであ る。第二に、 クりゾ ストモスは司祭の 祈りによる聖霊降下を 重くみるが、 ささげものにおける 効果よりは参列者の 魂における効果を 強調している。 中世末期の東方神学 者 もこの点を認めていたし、 研 フィレンツェ 公会議において 西方の神学者 もこの点を強調したのは 正しかったであ ろう。7% 一 214 クりゾ ストモスは制定物語の 有効性を力説することもあ る。 中世末期以 来、 一番論じられてきた 一個所だけを 見よう。 「ささげものがキリストのからだと 何になるようにするのは、 人間では なく、 我々のために 十字架につげられたキリスト 御 自身なのです。 司祭 があ の言葉を唱える 時には、 キリストを代行して 立つのであ る。 しかし 力と恵みは神から 来ます。 " これは私のからだであ す。 この言葉がささげものを 変えるのです。 よⅡ (11 1 , 28) と司祭は言いま " ぅめょ、増えよ、 地に満ち というあ の言葉は一回しか 語られませんでしたが、 つまでもわれわれの 本性に子孫をも か 語られなかった 『 る う い げる力を与えます。 同様に一回し (最後の晩餐の ) 言葉があ の時から今日まで、 しかも 主の来臨まで、 諸教会の各祭壇の 上に完全ないけにえをもたらすので す。」,。 ) クりゾ ストモスの根本主張によると、 い げにえとをささげるのはただ 十字架上のいげにえと 聖体祭儀の 一人の司祭、 イェス・キリスト 御 自身にほ かならず、 司式司祭が聖体制定の 言葉を唱える 時、 キリストを代行してい る (乾擁 な 姐 W ゐ v)K こ 過ぎない。 この言葉がパン と ブドウ酒をキリストの からだと何に 変えるのは司祭がそれを 唱えるからではなく、 最後の晩餐に おいてキリスト 御 自身がそれを 語られたからであ る。 その言葉の力を 解き 明かすため クりゾ ストモスはそれを 創造者の命令と 回しか語られなかったのにいつまでもその 効果は働 上ヒ 校 して、 どちらも一 き 続ける、 と説明して いる。 上の引用個所は ェピ クレーシスの 有効性を否定するため、 すでに論争の 初めに西方の 神学者によって 引き合いに出されていたよ フィレンツェ う であ る。呵 また 公会議においても、 それは「キリストの 言葉によってのみ」 聖別が行われる、 との西方教会の 見解を支持する 最重要なギリシア 教父典 拠として真先に 引用された。のフィレンツェ 公会議において、 当時二ヵ イ アの 主教であ った べッ サリオンはエフ エゾス の主教マルコス・ エウゲ ニコ スと 同様東方の伝統的な 解釈を力説したが、 公会議のあ とローマ教会の 枢 一 215 一 機卿 として西方の 解釈を弁解するようになった。 ") 現在に至ってもこの 解 釈を繰り返す 学者もいる。皓 しかし他の学者が 正当にも指摘するように、 クりゾ ストモスは明らかに ェピ クレーシスの 効果を認めている。 したがっ て制定物語の 朗唱によってのみ 聖別が行われると 考えたはずもない。 '。 ) 中 世末期の東方神学者に よ れば、 クりゾ ストモスは制定物語も ヱピ クレーシ スも聖別のために 必要であ ると考え、 両者の関係を 次のように見ていた。 すなわちキリストは「これを 私の記念として 行いなさい」と 命令すること によって聖体制定の 言葉にいつまでも 効果的に働く 潜在力を与えられた。 司祭はこの言葉を 繰り返すことによって、 この潜在力をいわばささげもの のうちに吹き 込む。 そして ェピ クレーシスの 朗唱によってささげものの 上 に下る聖霊はこの 潜在力を開花させる。 考えたのは「 う めよ、 増えよ」との る。 この言葉は一回しか クリ ゾ ストモスが実際そのように 創造命令からも 明らかであ ると言われ 語られなかったのに 人類はいつまでも 絶えること のない増殖力を 与えられるのであ る。 しかし子孫が 実際に生まれるように なるにはこの 言葉に加えて 色々なことが 必要であ り、 とりわけ子孫のため の祈りが不可欠であ る。 これもまた制定物語と ェピ クレーシスの 関係に当 てはまると言われる。㈲現代もこの 解釈に賛同する 西洋の神学者がい る,6) 中世末期において、 特に体ディオニシオスは 両教会の神学者によって 各々の意見を 支持する教父として 頻繁に引き合いに 出された。 もちろん、 どちらの伝統においてもこの 教父は使徒パウロスの 弟子とみなされていた のだから、 その権威は特に大きかった。 だっており、 r教会の位階 コ において 5 た典礼の注解がなされているので、 しかし 新 ブラトン主義の 影響が際 世紀終わり 頃 シリア教会に 導入され ほぼその頃 シリアで活動していた 無名 の教会著述家であ ったと思われる。 そこには司祭の 祈りもしくは ェピ クレーシスによって 秘跡が効果的に 行 われるという 主張があ り、 。 7) これは特に東方神学者によって 引き合いに出 された。柑 また 偽 ディオニシオスは 聖油を祝 則 する祈りをも ェピ クレーシ 一 216 一 スと 呼び、 その効果も神秘的に 理解されるべきであ ると力説する。 フィレ ンツェ公会議において、 この個所は西方教会の 意見を支持する 典拠として 二回ほどトル ケマダ によって引用されたが、 彼が用いたラテン 語訳はかな り不正確であ ったし、 その解釈も当を 得ているとは 言えない。靱偽 ディオ ニシオスが ェピ クレーシス一般に 聖別の効果を 帰していることは 原文から 明らかであ ろう。 「聖別のための ェピ クレーシスを 文章で解釈したり、 その神秘的な 意味 および神によってもたらされるその りすることは 許されていない。 力の秘密を破って、 世人に知らせた しかしわれわれの 聖広 が教えるよ う に、 あ なたは非公開の 伝授によってそれらを 学び、 そして神の愛と 聖なる 働 ぎによって、 より神聖なる 姿勢と心の高揚へと 完成させられた 時、 あ ら ゆる神秘の源からあ ふれる照明によってその 至高の認識に 到達するであ ろう。 90) 」 『教会の位階 川 第三章における 奉献文の注解にあ たって 、 偽 ディオニシ オスは ヱピ クレーシスという 言葉は用いていないが、 別が制定物語のあ パン ブドウ酒の聖 と とに行われることを 暗示している。 。 1) フィレンツェ 公会 エウゲ ニコ ス は特にこの個所を 大ぎく取り上げた。 議においてマルコス・ 当時の考え方によれば、 それは使徒時代に 通用していた 奉献文の注解であ り、 そこから分かるように、 東方典礼は西方典礼よりはるかに 近いとマルコス・ ヱウゲ ニコ ス さて、 偽 ディオニシオスの 使徒時代に は力説したのであ る。 ") 注解は奉献立 の アナムネーシスから 始まる。 それは罪により 増大する人類の 悲惨と神の子の 受肉によるその 状況の逆転 を 想起する祈りであ る。 奉献文の中心部分に 触れる前に体ディオニシオス は高 3 、 「神をまねるためには、 たえずそのような 聖なる神秘を 想起する以 外に方法があ ろうか。 鋤 神の模倣は偽ディオニシオスが㌔ 」 ぶ儀式において 頂点に達する。 マルコス・ エタゲニコス ioo 申 yt なと呼 はこの言葉を 聖別 の 意味でとり、。 4) ベッ サリオンも以下の 個所の、 自分のラテン 語対話にお いて consecratIo とする。。 5) 一 217 一 「神のみわざを 讃 える賛美のあ と、 (司教は 聖別に移る。 そのため、 コ ず自己の立場を 弁明し大きな 声で言 う、 ま なたが仰せられた。 これを私 『あ の記念として 行いなさい。J 次に ( 自身が 神をまねる聖別にふきわし い コ 者 とされる よう に、 またキリスト 御 自身に似せられて、 最も尊く神聖な るものを全うし、 それを授ける (者 となる 者がそれを敬虔に 受けるよ う よう祈り、 そしてまた拝領 コ 祈る。 そして聖別を 執り行い、 眼の前にあ る象徴によって 請 えられたものを (参列者に 見せて、 ささげものを 上 コ げる。 ( 次にはコ分かたれていないパンを 隠していた覆いを 取り除き、 " ンを多くの部分に 裂く。 また一つの杯を 皆に授け、 一致のしるしを 増や して皆に配る。 96) 」 このコメンタリ 一によれば、 聖別は制定物語のあ とに執、 行われる。 り ェ ピ クレーシスについての 明確な言及はないが、 聖別の祈りが ェピ クレーシ スにほかならぬという 認識が前提とされているのであ 代の東方神学者は 偽ディオニシオスをそのように ろう。 少なくとも後 理解していた。 だからこ そ べ,サり オンはこの個所の 注解にあ たって、 「主要な聖別」と 参列者に とっての「より 顕著な聖別」との 二つを区別し、 前者を制定物語に、 後者 を ェピ クレーシスによるものであ ると説明している。 97)たしかに用語が 神 秘的なため、 偽 ディオニシオス 自身の意向はつかみにくい。 すよう にダマスコの コ しかし次に示 アンネ ス のとらえ方は 疑問の余地を 残さない。 この教父は 8 世紀のイコノクラスム (聖像破壊運動 ) との対決において、 東方教会の聖体論を 体系的にまとめた。 その論駁的コンテキストは 彼の意 向を正しく評価するために 注目に値しょう。 論敵はエタ カリスティアの パ ンと ブドウ酒のみがキリストの 正当な描写であ り映像であ ると主張したの であ るが、 これに対して コ アンネ ス はパン と ブドウ酒におけるキリスト 御 自身のリアル な現存を力説した。 そこで論敵は ,シレイオス典礼の 奉献文 を引き合いに 出して、 制定物語のあ とにもパン と ブドウ酒がなお「キ リス トの聖なるからだと 血のしるし (み匠加切ぱ )」と呼ばれていることを し、 したがってキリスト 御 自身がバン と 指摘 ブドウ酒において 現存するとの 考 一 21@ 一 えは典礼にも 矛盾している、 と反論したようであ ネ ス 「 る。 これに答えて コ アン はまず制定物語の 朗唱と聖別の 時とを明確に 区別する。 聖 " シ レイオスのようにあ る人々はパン だと血のしるし (みノ でて でリひ と ブドウ酒をキリストのから 性 呼んだが、 彼らは聖別のあ とのことについ て ではなく、 聖別の前のことについて 語っており、 ささげものをそのよ うに呼んでいる。」 9% 後期の他の教父もこの 言葉がまだ聖別されていないささげものを 指すこ とを強調しているし、 "。 ) 第二二ヵ イァ 公会議 (787 年 ) もこのことを 承認し た 0,00) コ アンネ ス に よ れ ば 、 バシレイオス 典礼の奉献上においてバン とフ。 ドウ酒が制定物語のあ とに「しるし」と呼ばれるのは、 「来たるべきことの しるしであ って、実際にまだキリストのからだと 中世末期の東方神学者はこの 血でないからであ る。 」, 0打 解釈を受け継いでいる。 '。 2) 以上のようにして 東方教会の内部において 初めて制定物語 かェピ シスかの二者択一が 問題となった。 上述のイ コノクラスムの クレー 反論からも推 察される 2 9 に、 その時点までは 制定物語にも 一種の聖別の 有効性が帰さ れていたが、 コ アン ホス はこれを初めて 明確に否定し、 聖別が行われるの は司祭が ェピ クレーシスを 唱える時であ ると力説した。 彼の見解はもはや 他の解釈の可能性を 残さないからこそ、 ベッ サり オンは自分本来の 意見に も 反してフィレンツェ 公会議のあ と、これを誤謬として 批判したし、 憾 今 世紀の 50 年代までこの 批判を繰り返した 西方神学者もいた。 , 。 。 ) ところで、 コ アンネ ス もまた受肉の 出来事を聖別のモデルとして 引き合 いに出し、 聖霊の働ぎを 次のように解き 明かす。 「パンと ブドウ 酒 そのものが 神 ( キリストコのからだと 何に変えられる。 これはどのようにして 起こるか、 とあ なたが私に尋ねるなら、 それは霊 によって起こるのだということを は主が聖なるおとめマリアから 知ればあ なたには十分であ ろう。 それ 事によって御自分のうちに 肉を受け入れ たとおりのことであ る。 その方法を知ることはできない。 しかし神のみ ことばが真実であ り、 効果的で全能であ ることの他には 何も知る必要は 一 219 一 ない。 他方、 次のように言っても 間違いではないだろう。 すなわち、 ンは食べられることによって、 " ブドウ 酒 と水は飲まれることによって、 自然に、 食べて飲む人のからだと 血に変えられ、 そしてその人が 以前に 持っていた、 それとは別のからだにならないのと 同様に、 奉納された " ンと ブドウ 酒 と水は ヱピ クレーシスと 聖霊の降下によって 超自然的に キ リストのからだと 何に変えられる。 しかも二つではなく、 一つにして同 じからだなのであ る。 05) 」・ 下 線を引いた文章からも 明らかなとおり、 コ アンネ ス は イ コノコラス ム に対して "聖別の時 " を ェピ クレーシスに 定めたとは言え、 聖体制定の言 葉 も一種の有効性を 持つことを決して 否定してはいない。 しかしその有効 性は相対的であ って ,ェピクレーシスなしには 現れない。 他方 ェピ クレー シスも聖体制定の 言葉なしには 何の効果も持たない。 両者の相関性を 説明 するために コ アンネ ス は クリゾ ストモスと同じように 創造者の命令を 引き 合いに出すが、 クりゾ ストモスのように「 う めよ、 増えよ」という 人間に 対する命令に 限定せず、 ,シレイオスの創世記注解にならい、 大地への命 令まで繰り広げる。 。 。 。 ) 「神のみことばが 自ら進んで人となり、 男を介せずして、 聖母の純潔で げ がれのない血から 御自分のために 肉をつくられたのであ れば、 今この " ンを御自分のからだに、 このブドウ 酒 と水を御自分の 血につくり変え ることができないことがあ ろうか。 『地は青草をはえさせよ コ (創 1 .1 け と初めに言われた。 そして今日まで 雨が降り、 地は神の命令に 勧められ、 強められてその 実を結んでいる。 神は言われた、 『これは私のからだであ る 』。 そしてまた『これは 私の血であ る。 これを私の記念として 行いなさ いぬ このことは主が 来られるまでその 全能の命令によって 行われる。 な ぜなら来られるまでと 言われているから。 そして ヱピ クレーシスによっ て聖霊の満ち 溢れる 力 はこの新しい 農地(yeの wpYia) の上の雨となる。 な ぜなら神がつくられたすべてのものを 聖霊の力によってつくられた よう に、 霊の 力 は自然を超えて、 信仰の目でしか 把握せず、 理解できないこ 一 220 一 とを成し遂げる。 ,どうしてそんなことがあ りえましょうか。 私にはまだ 夫があ りませんのにⅡと 聖なるおとめが 言われた。 大天使ガブリ ヱか は 答えた、 r聖霊があ なたに臨み、 いと高き 者の 力 があ なたを覆うでしょう か』 ( ルヵ 1 .34-35 参照 ) 。 あ なたも今どうして ,@> ンが キリストのからだ にブドウ 酒 と水がキリストの 血になるかと 尋ねる。 そして私はあ なたに 言う。聖霊が下り、 理性と知解を 超えるこれらのことを 成し遂げる。 '。 ') 」 フィレンツェ 公会議において 西方教会の神学者もこの 個所を引用したほ どに、 コ アンネ ス は制定物語の 有効性を力説する。 Ⅲひしかしバン 酒が実際にキリストのからだと と ブドウ 何に変化するのは 聖霊降下によるもので あ って、 したがって ェピ クレーシスが 唱えられたあ との " 時 。 であ ると考 えている点については 疑問 余地がないだろう。 「農地」のたとえから明ら り かなとおり、 コア ノネスは聖霊の 働ぎを創造にまでさかの ぱ らせて創造と 受肉および聖別との 間の平行関係を 主張する。 つまり、 創造以来聖霊の 力 は 大地の上に下り 大地に実りを 与えるように、 受肉の時おとめマリアの 上 に下りおとめマリアをみごもらせた。 この二つの降下と 同様に ェピ クレー シスが唱えられる 度 毎に聖霊は祭壇の 上に下りパン のからだと何に 変えるのであ と ブドウ酒をキリスト る。 これまで述べたことから 明らかなとおり、 コンスダンティノポリス 公会 議を ギリシア教父の 聖体論の発展における 決定的な分岐点とみなしてもお そらく間違いではないだろう。 それ以前の教父は 聖霊の働きを 認めながら もロゴスないしはキリストを 聖別の本来の 行為者とみなしていた。 ところ がコンスパンティノポリス 公会議において 聖霊の神性と 子に対する独自性 が 典礼や祈りのレベルで 理解されるべぎであ ることが指摘される 2 9 に なってからは、 特に聖体祭儀における 聖霊の特有な 働 ぎがクローズア " プ され、 ェピ クレーシスの 機能が以前より 強調される 奉献上における ェピ クレーシスの よう になった。 そして 位置付けとその 内容からして、 これを 聖 別の祈りとして 理解するほかに 可能性はなかった。 本稿では主に 中世末期 の論争に際して 東西南教会の 神学者によって 引き合いに出された 教父に焦 一 221 一 点を絞ったが、 コ アンネ、 ス ・ クりゾ ストモスからダマスコの コ アンネ ス ま での基本線はこの 断片的な検討からも 明らかになったであ ろう。 クリ ゾ ストモスは聖体祭儀における 聖霊の働ぎを 重視しながらも、 あ く までより古いキリスト 中心的なとらえかたを 保ち続けた。 彼は聖体制定の 言葉を創造の 命令と比較し、 どちらも一回だげしか 語られなかったのにい つまでもその 効果は働 き 続けると言う。 ダマスコの コ アンネ ス はコンスタ ンティノポリス 公会議以降の 聖霊中心的なとらえかたを 最終的にまとめ た。 彼も聖体制定の 言葉を創造の 命令と比較するが、 その実現のために 聖 霊の 力 が大地の上に 下ることが必要であ るとする。 そして聖霊の 力 がおと め マリアの上に 下った時初めて 天使の台地が 実現されたよりに、 ドゥ酒の上に 下る時初めて 聖体制定の言葉が 実現されると 言 。 う パン と ブ さらに ク リゾストモスはまだ 奉献立全体に 聖別の効果を 帰したのであ るが、 ダマス コの コ アン ホス はこれを ェピ クレーシスに 限定した。 これによってギリシ ア 教父本来のとらえかたはかなり においてはそ う 狭められたが、 するほかに道はなかったであ イコノクラスムとの 対決 ろう。 2. 中世末期の東方神学 西方教会の伝統的奉献立 は キリスト中心的に 構成されており、 最後の栄 唱 以外には聖霊に 関する言及はない。 '。 。 ) それゆえ聖体制定の 言葉は常に 最も重要な意味を 持っていたが、 11 世紀まではその 言葉の朗唱だけでパン と ブドウ酒が聖別されるとは 考えられていなかった。 Ⅱ 0) ところが ァ リス トテレス哲学の 質量形相論が 聖体の秘跡にあ てはめられた 時、 事態は一変 した。 種 なしパン と ブドゥ酒はこの 秘跡の質量であ り、 聖体制定の言葉が その形相であ る、 と考えられる よう になった。 しかもトマス・ ァ クイナス が力説した よう に、 たとえ司祭が 聖体制定のすべての 言葉を朗唱しなくと も 、 この秘跡を行う 意向をもって「これは 私のからだであ でも、 パンがキリストのからだに 変化するのであ る。,,,) る」唱えるだけ 一 222 一 この新しい神学を 学んだ ド ; ニコ会の修道モ が ビザンティン 帝国の領土 にやってぎた 時東方典礼において ェピ クレーシスに 与えられていた 中心的 な役割につまづいたようであ る "2) 論争の発端 と経偉は ついてはあ まり明 確な資料が残っていないが、 ェピ クレーシスを 不要とした西方側の 批判 か ら 始まったことは 確かであ る n 14 世紀の後半において 一般信徒で、 かつ 神 学者であ ったニコラオス・ 力 ,シラスはクリゾ ストモス典礼に 関する注解 書の中で初めてこの 批判に答えた。 "3) 14 世紀の終わり、 あ るいは 15 世紀 の初め 頃 テサロニケの 主教シメオンはもう 一度 エピ クレーシスを 西方側の 批判に対して 弁解した。" 。 ) フィレンツェ 公会議において 西方側が自説の 承認を求めた 時東方側の主要な 代弁者を務めていたマルコス ス は同僚のためにひとつの , エタゲ ニコ 覚書を書 き 、 制定物語と ェピ クレーシスの 関係 を再検討した。 本稿ではこの 三人の神学者の 見解を確かめたいが、 その際 彼らの教父解釈は 省いて、 その組織神学的見解のみを 取り上げることにし たい。 2 . 1 . ニコラオス・カバシラス ニコラオス・カバシラスは と 1320/22 年頃 おそらくテサロニケに 生まれた 思われる。 1391 年以後役したようであ るが、 いつ『神聖なる典礼の注解』 を書いたかは 明らかでない。 " 。 ) 本書は 53 章に分かれており、 一般信徒の ために クリゾ ストモス典礼の 手ほどぎをするもので、 その ェピ クレーシス の解釈を批判する 今世紀前半のカトリック 神学者さえ本書の「健全な 神学 的 基礎」を評価し、 「聖体の秘跡について 最良の示唆を 与える著作」として 賞賛している。 " の 聖体の秘跡に 関する教令を 作成するにあ ント公会議によって 参考にされたことも たってトリエ 興味深い。 ,回 さらにプロテスタ ントの聖体論を 論駁するため 17 世紀のカトリック 神学者によって 大いに 利用されたことも 注目に値しょう。 "9) 本書がそもそも 論争神学的著作でないことは、 ェピ クレーシスについて 一 223 一 述べられていることを 正当に評価するためには う。 友人 デ メトリオス・キュ 重要な意味を 持つであ ろ ドネスの訳をとおしてカバシラスはトマスの 『神学大全』を知っていたが、 " の トマスの聖体論を 論駁せず、 ただ古来の ェビ クレーシスを 余計な祈りとして 批判した「二・ 三の西方人」 (れ峻 Ⅰ AorZVot)に答えるに止めている。 しかも全著作の 2 章 だ げしかこの問題を 扱っていない。 '刈 すでに本書の 最初のラテン 語訳者はこの ラスの神学思想全体のコンテキストからはずして 2 章をカバシ 読むべ き でないことを 力 説したが、 必ずしもすべての 研究者がこの 警告に従った わ げではない。"') ここではまず 最近再び注目されているカバシラスのキリスト 中心的神秘 思 想 に注意を向けよう。 り 3) 西方側の批判に 答える 際 カバシラスは 聖体祭儀における 聖霊の働きを 強 調するのだが、 積極的に自分の 聖体論を展開するコンテキストにおいては むしろキリストの 方にウエイトを 置いているように 思われる。 たとえば、 ェピ クレーシスに よ る聖霊降下に 触れたのち彼は 次のような説明を 付 け加 える。 「主は、ただ聖霊がわれわれとともに 留まるよ う 、 それを遣わされただ けではない。 主御 自身が世の終わりまで、 いつもわれわれとともにいる ことを約束された ( マタ 28.20 参照) 。 助 け 主はからだを 持たないので、 見えざる仕方で 臨在しておられる。 しかし救い主はわれわれの 本性を受 け入れ、 いつまでもそれを 保ち続けるのだから、 素晴らしい聖なる 秘跡 によって目で 見られ、 手でさわられることを 許されるのであ る。 囲 」 カバシラスのキリスト 中心的聖体論を 理解するためにはその 著書Ⅰキリ ストにおける 生活』が最良の 手がかりになろう。 囲 本書の初めに 強調され るように、 人間の救いはこの 世からの解脱を 意味するのではなく、 あ えて この世のまっただなかで、 ますますキリストに 似る生活をし、 そうするこ とによってキリスト 御 自身の姿に変えられることを 意味する。 そのような 新しい生活を 可能にするのは 神のひとり子であ るキリストの 受肉と聖体の 秘跡におけるその 絶え間ない現存にほかならない。 このことを強調するた 一 一 224 め、 力 』シラスは エ イレナイオスの 思想を連想する 仕方で救いの 営みをひ とつの下降運動として 次のように描いている。 「われわれは 自ら神へと無だって、 そのみもとに 登ったわけではない。 る。それと言うのも、 神 こそ、われわれのところへ 下って来られたのであ われわれは探したのではなく 探されたのであ るから。 羊は牧者を、 銀貨 (ルヵ 13. 3-10 は婦人を探したわげではない 参照 )。 神御 自身が地面に 身をかがめ、 ( その コ似姿(eUcゐ のを見つげられたのだ。 羊が迷っていたと ころへ出かけて 行き、 それを御自分の 肩に乗せても う 迷わないようにさ せられたのであ る。神はわれわれをここから 移されたのではなく、 地上 に留まったままでわれわれを 天に属する者とし、 天上の生命を 与えて下 さった。 要するに、 神はわれわれを 天に連れていかれたのではなく、 わ れわれの方に 天を垂れて下って 来られたのであ る (詩 18. 9 参照 ) 。 」Ⅸ ) キリストにおける 生活は神のイニシアティブで 始まる。 そしてこの世の まっただなかに 全うされる。 これが;,シラスの 根本主張であ ろう。 彼は 神のイニシ フ ティブを描写するため 失われた 羊と 銀貨のたとえを 引き合い に出す。 特に銀貨のたとえは 興味深い。 失われた銀貨は 罪深い人間にほか ならない。 罪人ではあ るが、 なおも神の似 姿 であ り続ける。 なぜなら銀貨 に刻まれている 皇帝の肖像 ( マコ 12.16 参照) が消えないように、 創造と ともに人間に 与えられた本質規定 (11 1 .26-27 参照) も消えはしないから であ る。 しかし人間が 堕罪によって 神から遠ざかった 以上、 その本質規定 に則して生活するためには 神の新しいイニシアティブを 必要とする。 それ ゆえ神はそのひとり 子の受肉をもって「地面に 身をかがめ、 その 似 姿を見 つけⅡそして 再び立て直された。 さらに人間がも う 二度と倒れることがな いように、 彼に「天上の 生命」を与えられた。 この生命を受ける「方法は 秘跡にあ ずかることであ る。 すな ね ち、 洗い清められること ( 二洗ネ コ、 油 」 を塗られること ( 二 堅信コ、 聖なる食卓で 養われること ( 二聖体 なのであ コ る 。 」, 27) ヵ バシラスに ょ れば洗礼と堅信の 秘跡は聖体の 秘跡に方向 づ げられて ぃ 一 225 一 る 。 キリストにおける 生活は洗礼の 秘跡から始まり、 堅信の秘跡によって 成人の生活となり、 そして聖体の 秘跡によってますますキリスト 御 自身の 神秘体の生活へと 変えられる。 なぜならキリストは「いのちのパン」であ ると同時にその 神秘 休め 「心とかしらであ り、 であ る。 12的ところで、 聖体の秘跡によってキ 」 神秘体の肢体になるばかりでなく、 われわれはその 肢体だから リス 卜者はただキリストの 「キリストの子」ともなる。 この表現は 珍しい。 カバシラスはこれを へ ブライ人への 手紙 2 章 11-14 節から導 し、 そして次のことを き 出 強調する。 すなわちキリス 卜者はキリストのからだ と何にあ ずかるのだからその 神秘体の肢体であ るが、 自立の主体として キ リストに結ばれるのだからその 一 子なのであ る。 , 29) だからキリストとの 致はあ らゆる血縁関係よりも 深いのであ る。 「自然によって 両親と結ばれている 以上に、 われわれは祭壇によってキ リスト と え、 一層親密に結ばれている。 彼は、 一回だけわれわれに生命を 与 そののち離れ 去ってしまう 両親のような 仕方で生命を 与えるのでは ない。彼はいつもともにおられ、 われわれと一致しておられるのであ そしてその現存によってわれわれにいのちと る。 存在を与えて 下さる。 " 。 ) 」 聖体の秘跡はそのような 効果をもたらすのだから、 洗礼と堅信の 秘跡に まさっている。 後者によってキリス 卜者は「ただ 聖霊の賜物」を 受け、 前 者によって「恵みをほどこすお 中心的聖体論をまとめる 方組自身」を 受け入れる。ド 1) そのキリスト 形で ヵ バシラスは言う。 「キリストが神 だけであ るならば、 このような仕方で 御自分をわれわれ に一致させることは 出来なかったであ ろう。 どのようにしてわれわれの 糧 になりえたであ ろうか。 また、われわれのような 者だけであ るならば、 そのようなこともまた 出来なかったであ ろう。 しかし彼は両方なのであ る。 一方によって 人問と結ばれて 人間とひとつになり、 他方によって 人 間の本性を高め、 それを超えて 御自分へとっくり 変えることが 出来るの であ る。 "2) 」 力 ,シラスの典礼注解は 以上のような 神秘思想を背景にして 読まれるべ 22f 一 ぎであ ろう。 まず奉献立全体についての 短いコメンタ り 一を見よう。 「信徒の心が最も美しく、 聖なる思いに 満ちてからば、 すべての良いも のの源であ る神への感謝に 移るほかに何が 残るだろう。 したがって、 信 徒は聖体の秘跡を 制定する前にその 父 なる神に感謝をささげたあ の最初 の 司祭をまねる。 司式司祭は奉献の 祈りの間に供えものを 聖別するが、 この祈りに先だってわれわれの 主 イェス・キリストの 父 なる神にこの 感 謝をささげる。 r主に感謝をささげましょ 力 と彼は言 う 。 そして皆が賛 同を表し、 『それはふさわしく 正しいことです』と 答える,それから司式 司祭はひとりで 神に感謝をささげる。 彼は神の栄光を 讃 え、 天使ととも に賛美し 、 時の初めから 神によってわれわれのために 起こったすべての 良いことをほめ 讃 える。 そして最後にわれわれのための、 つくせない不可思議なみわざを 挺 、 主の言い 思い起こす。 次に尊い供えものを 聖別す る。 そこでいげにえが 完成される。」Ⅸ ) カバシラスにとって 聖体祭儀は何よりも 先にいげにえであ り、 聖別に よってそれは 完成される。 彼がトリエント 公会議において 参考にされたの も、聖体祭儀をリアルないげにえとして を全面的に支持しているからであ 理解している ヵ トリックの聖体論 ろう。 カバシラスはその 聖体論の要点を 次のようにまとめている。 「このいげにえについて 信 ずべ き ことをひとつも 忘れず、 すべて守る必 要があ る。 ではどのようなことを 信 ずべ き だと私は言っているのだろう か。 それはこのいげにえが 単なるいげにえの 象徴としるしではなく、 ま ことのいげにえであ ること。 い げに え にささげられているのはパンでは なくキリストのからだそのものであ ること。 そして、 さらに一回だ けさ さげられた神のⅡ羊の 唯一のいけにえであ ることなのであ る。 つまり、 聖別によって』 ンと ブドウ酒は十字架につけられたキリストの からだに変化し、 こうしてあ の一回限りのいげにえと 一休化されて 神にさ さげられる。 いけにえを さきげる司祭はキリスト 御 自身であ る。 キリスト は「いけにえとして 御自分を一度ささげられたのち、 司祭の務めをやめた 一 227 のではなく、われわれのために 絶えずこの典礼を 行 九 そうすることによっ て世々にわたって 神のみ前にわれわれの 弁護者であ られる。 比 5) したがっ 」 て、 聖体祭儀は新しいいけにえでもないし、 また十字架のいけにえの 繰り 返しないしは 遣り直しでもない。 聖体祭儀において 一度だけささげられた 十字架のいげにえが 現在化されるのであ る。 この秘跡が成立するには 三つの要因が 必要であ る。 聖体制定の言葉、 聖 霊の降下、 それに司祭の 言行であ る。 「立御自身は仰せられた。 ,これは私のからだであ る。」また『これは 私 の血であ る。 J 主御 自身がこれを 行 5 2 5 使徒たちに、 そして彼らをと おして全教会に 命じられた。 『これを私の記念とし行いなさいⅡと。 も し彼らに、 これを 行 j ことができるように カ を授 げなかったならば、 こ れを 行 j ことを命じられなかったであ ろ j。 この力 とは何であ ろ j か。 聖霊であ る。 聖霊は上から 使徒たちを強められた 力であ る。 それは主が 彼らに言われたとおりであ る。r上から力を授げられるまでは、 あ なたが たはエルサレムの 町に留まっていなさい。 .1 ( ルカ 24.49: これはあ の降 下の働きであ る。なぜなら一度下った 聖霊はわれわれを 離れることなく、 われわれとともにおられる。 そしていつまでもともにおられるであ 救い主が聖霊を 遣わされたのは、 聖霊が世々にわたってわれわれと に留まるためであ ろう。 一緒 った。 ・‥この聖霊は司祭の手と舌によって 聖体の秘跡 を全 j される。 - それが意向に 従って、 そして司祭たちの 祈りによって 行われるならば、 信徒は供えものの 聖別も、 その他の秘跡 [ の効果コも 疑 j ことができない・」, 3。 ) 以上のようにいけにえとしての のち、 ヵ 聖体祭儀の意味を 積極的に解き 明かした バシラスは ェピ クレーシスの 問題に移る。 彼の報告によれば ヱピ クレーシスは「二・ 三の西方人」によって 次のように批判された。 「主の言葉によって 聖別が完成されるのだから、 r取って 、 食べなさい…」 との主の言葉のあ と、 供えものを聖別するために 何の祈りも必要ではな い。 したがってこの 言葉のあ と、 パン と ブドウ酒について 語ったり、 あ 228 一 たかもそれらがいまだ 聖別されていないかのようにその 聖別を願い求め たりする人は、 不敬虔なことを 考えており、 その上余計で 無用なことを する、 と彼らは高 3 。 」Ⅲ @ ヵ バシラスは「二・ 三の西方人」について 語っているのであ り、 彼らが 西方教会の立場を 代表しているとは 考えていない。 かえって表現、 儀式な どの相違にもかかわらず、 東西市教会の 典礼が根本的には 一致している、 ということを 示すのが狙いであ る。 その証明を締め 括って彼は言 う 。 「供えものの上の祈りを軽んじるのは、 西方教会全体ではなく、 少数の 革新者だけであ る、 というのは明らかであ ろう。 彼らは何か耳新しいこ とを話したり、 聞いたりすることの 他に (便 17.21 参照) 時間の過ごし かたを知らない。 」 138) 力 " シラスに よ れば論敵は特に 次の三点を非難したようであ る。 すな ね ち、 聖体制定の言葉のあ とさらに聖別の 祈りが唱えられる 場合、 まずキリスト 御 自身の言葉が 無力なものとして 軽んじられ、 次に、 祈る司祭は自分の 祈 りによって聖別が 行われると自負し、 最後に聖体の 秘跡が人間の 祈りとい う不確かなものに 依存させられる。 " 銭 その第一の点に 答えて 力 " シラス は次のように 高 3 。 「われわれも 秘跡を働くのが 主の言葉にほかならないことを 信じてい る。しかしこのことが 起こるのは司祭のとりなしや 祈りに ょ るのであ る。 主の言葉は時と 所を問わず、 純粋にそのものとして 働くわげではない。 色々な条件が 満たされていたければならない。 の効果も生じないのであ そういう条件なしには 何 る。 140) 」 キリストが聖体の 秘跡を制定したのだから、 その言葉はいつまでも 働き 続ける。 しかしこの言葉は 聖体祭儀において 奉献立全体とともに 司祭に よって唱えられる 時、 初めてその効果をもたらす。 たとえば、 罪のゆる し はキリストの 死によるのだが、 各自に対してゆるしが 効果を顕すためには 悔い改め、 信仰告白、 司祭の祈りなどが 必要であ る。 だからと言ってキリ ストの死が軽んじられるということにはならないであ ろう。 同様に、 聖体 祭儀においては 毛の言葉に加えて 司祭の祈り、 とりわけ聖別を 願い求める ェピ クレーシスが 必要であ る、 とカバシラスは 力説する。 次に司祭の自負 という第二の 批判点を取り 上げる。 「供えものの 聖別のために 祈る人人をそのように 非難するのは 道理に 適っていない。 祈りに頼る彼らは、 自分自身にではなく、 与えることを 約束して下さった 神に頼っている。 祈りはその理念からして ( 自負とは コ 正反対のことを 求めている。 祈りをささげる 人人は自分の 願い求めてい ることについて 自信がなく、 神からのみそれを 受けることができると 信 じている。 祈る人は神のみもとに 逃れ、 まさにそうすることによって らは何もでぎず、 全く神に依存していることを 認め、 こ う 白 叫ぶのであ る。 『これは私にできることではなく、 私の能力以上のことです。 そのため にはあ なたが必要です。 そしてあ たにすべてを 委ねます。』と彼は言って いる。」, 4,) そのような謙虚な 姿勢が祈り一般に 見られるならば、 聖別の祈りについ てはなおさらであ る。 しかしながら 謙虚に祈ることが 決してその結果を 確かなものにするわけではない。 不 キリスト 御 自身が「これを 私の記念とし て行いなさい」と 命じられたのだから、 聖別のための 祈りは最も確かな 根 拠を持つものであ る。 そのように 力 ,シラスは第三の 批判に答えて 言 「もし神がそれを 教えて下さらなかったならば、 のを想像することするできなかったであ あ う 。 人間は秘跡のようなも ろう。 もし神がそのように 勧め て 下さらなかったなら、 人間はその望みすら 持つことができなかったで ろ @ し 欺くことのないお 方からそう望むようにされなかったなら 人間はそれを 受けようと期待することもでぎなかったであ ろう。 要 するに、 もし押脚自身が 、 人がそれを願い 求めること、 そして御自分に 願い求める人々にそれを 与えることを 望んでおられるということを 確実 に示して下さらなかったならば、 誰もあえてそのようなことのために 祈 りはしなかったであ ろう。 したがって祈りは 疑わしいものではなく、 そ の結果も不確かではない。 なぜなら与えることの 主御 自身はあ りとあ ら 一 230 一 ゆる仕方で与えることを 望んでおられるということを 示して下さったか 2) らであ る。 」,。 力 ,シラスがさらに強調するように、 聖油の祝別や 病者の塗油あ るいは 東西市教会の 司祭 叙階式はすべて聖霊降下を 願う祈りを伴っている。 その 理由で秘跡の 効果が不確かになると 言うならば、 一体教会はどうなるので あ ろう。, 鋤 「もし彼ら革新者に 従うならば、 キリスト教全体は 捨てられて しまうほかに 道はないだろう。 」, 44) 祈りの力 に関する議論を " 締め括って ヵ シラスは言う。 「そういうわげで、 われわれは秘跡の 聖別を司祭の 祈りに委ねる。 しか しその場合、 決して人間の 力にではなく、 神の 力 に信頼を置く。 ( その結 果を確信するのはコ 人間が祈るからではなく、 神が聞き入れて 下さるか らであ る。 そして (神が聞き入れて 下さるのはコ 人間が祈るからではな く、 真理 ( そのものであ る 神コが与えることを 約束しで下さったからで あ る。 」,。 5) ヵ バシラスはさらに 教会の伝統に 訴え、 とりわけ クりゾ ストモス や偽 ディオニシオスの 思想を引き合いに 出し、その検討を次のようにまとめる。 「祈りが秘跡を 完成させることを 教父たちは教えてくれる。 彼らはこの 教えを使徒たちとその 後継者から受け 継いだ。 すでに述べた れはすべての 秘跡に、 とりわけ聖なる エタヵリ よ うに、 こ スティアに当てはまる。 …物語の形で 唱えられる主の 言葉について、 それらが供えものを 聖別す るに足りるとは 一人の教父も 言ってはいない。 確かに一回だ け 主によっ て語られた言葉は 、 主によって語られたのだから 創造の言葉のように、 いつまでも効果を 持つと クリゾ ストモスは言っている。 しかしながら 今、 司祭によって 語られる (その同じ らその効果をもたらすとはどこにも コ 言葉は、 彼によって語られるのだか 教えられていない。 創造の言葉も 効 果を持つのは、 やはり人間の 誰かによって 語られるからではなく、 て 神によって一回語られたためであ かつ る。」,46) 最後にカバシラスは 西方教会の典礼を 取り上げ、 その司祭も聖体制定の 言葉を唱えたあ と、 東方教会の エピ クレーシスとよく 似た祈りをささげて いることに注意を 向ける。 フィレンツェ 公会議においてもこの 点は東方教 会の代表者によって 指摘されている。 "7@ 問題の祈りは 伝統的ローマの 奉 献立 (現在の第 - 奉献立) において次のよ j な形をとっている。 「全能の神 よ、つつしんでお 願い致します。 あ なたの栄光に 輝く祭壇に、 このささげものをみ 使いに運ばせ、 いま祭壇で、 御子の神聖なからだと 血に、 ともに結ばれる 干たちが、天の祝福と恵みに 潤 されます よう。 」。 。 , ) この祈りは本来聖霊降下の 願いを含んでいたかもしれない。 現行の形では 聖別の祈りでないことは "田 明らかであ ろう。 ところで、 しかし 力 ,シ ラスはこの祈りを 手掛かりに、 東西面教会の 典礼が根本的には 一致してい ることを示そうと 努める。 彼に ょ れば、 この祈りは東方教会の ェピ クレー シスほど明確に 聖別を願ってはいないとしても、 秘跡がまだ完成されていないことを いに運ばせ…」とし 主の言葉だけでは 聖体の 示している。 彼は「ささげものをみ 使 j 表現に注目し、 論敵を次のよ j に攻める。 「これが何のことであ るかを言って 欲しい。 彼らは供えもののために、 地 あ るいは地の下から 天への場所的移動を 願っているのか。 それとも下 位の状態から 上位の状態への 価値的変化であ るのか。 " 。 ) 」 もし供えものがすでに 主の言葉によって 聖別されているとすれば、 らも考えられない。 まず「場所的移動」 ヒ0 な iK 帝 どち 押伍 免碗パが 考えられな いのは、 主の遍在性のゆえ、 そのからだが 地上の祭壇の 上にあると同時に びパE 天上の祭壇の 上にもあ るからであ る。 また「価値的変化」@ を 1. 「 ぴ俘 。几 利 も考えられないのは、 主のからだが 下位の状態から 上位の状態に 変化する とい j 見解が途方もない 冒涜だからであ る。 したがって供えものの 聖別が この祈りによって 完成されると 考えるよりほかはない。 カバシラスはこの 結論を両教会に 共通であ るいげにえの 理念に基づいて、 次のように裏 付け る。 「同じお万ロキリストコは 司祭であ り、 祭壇であ り、 いけにえであ る。 ならば、 ささげものにとっては 司祭によって 聖別されること、 あ のいけ 一 232 一 ほ えに変えられること、 事柄なのであ あ の至高の天上の 祭壇に運ばれることは 同一の る。 したがって、 あ なたがたがこの 三つのうちいずれかを 取り上げてその 実現を願い求めるならば、 それら全体を 願い求めたこと になる。」, ,,) そのように 力 ,シラスは表現や儀式の相違にこだわらないで、 両教会の 典礼が根本的には 一致していることの 承認を西方側に 要求する。 東方教会 は供えものの 上に聖霊が下るよう 祈るが、 西方教会はよりキリスト 中心的 に、 供えものが天上の 祭壇の上に受け 入れられるよう 祈っている。 「あ がた司祭たちよ、 キリストを とつにされるよ う い げにえと見なし、 供えものがキリスト なた とひ 願い求める時、 (われわれとは ) 異なる表現や 言葉をもっ て全く同じ事柄を 願い求めるのであ る。 "2) 」 これまで述べたことから 明らかなとおり、 クレーシスかの 二者択一に対して 力 ,シラスは制定物語かェピ 後者を選ぶが、 ェピ クレーシスのみに よって聖別が 行われるとは 考えていない。 かえって制定物語の 朗唱もその 他の条件も聖別のために 必要であ ることを繰り 返し強調している。 さらに 西方教会の典礼およびその 聖体論に対する 穏健な態度が 目立つ。 前述した 東方伝統に ょ れば、 聖霊は聖体祭儀における 本来の行為者であ レーシスにおいてその 効果が願い求められるのはそのためであ ながらカバシラスはこのとらえ り、 ェピ ク る。 しかし 方にはこだわらない。 彼はキリストを 本来 の行為者とみなす 西方の聖体論を 批判することなく、 むしろそれを 手掛か りとして両教会の 根本的な一致を 証明しようと 努めている。 その証明の説 得力はともかくとして、 真のエキュメニカルな 試みとして現在もなお 注目 に値しょう。 2. 2. テサロ コケ のシメオン シメオンはビザンティン 帝国末期において、 カバシラスに 次ぐ有力な神 学者であ ったがその生涯についてはほとんど 何も知られていない。 1425 一 233 一 年、 テサロニケの 主教ガブリエル (1410 Ⅱ 418 年役) の後任であ ったことが 資料から分かっている。 テサロニケがトルコ 軍によって征服される (1430 年) 一年前に没したようであ る。ぱ明 編集された著作の 大部分は典礼、 秘跡、 その他の宗教儀式を 扱っている。 そのうちの二つの 著作において 聖体祭儀 の詳しい注解が 行われている。 ひとつは下位聖職者のための 手引ぎであ り、 『全異端説 に対する対話』という 題が付いている。 それは最初の 32 章で 色々な異端 説 、 わけても当時の 反 " ラマス派および 西方教会のそれらを 取 り上げ、 33-78 章で秘跡を 、 残る 79-100章で聖体祭儀の 注解を行ってい る。" 。 ) もうひとつの 著作には『神聖なる 神殿およびその 司祭、 助祭、 司教 並びに彼らが 着る祭服、 また聖体祭儀に 関する解説』という 冗漫な題が付 いており、 ヵ テキズムの問答形式で 一般信徒のために 教会聖堂の内部構造 や聖職者の役割および 聖体祭儀の式次第を 説明している。 文体および思想 展開の仕方は 力 " シラスほど 明蜥ではないが、 その代わり時に 力 " シラス がしたようにあ たかも読者の 忍耐を試すような 繰り返しはない。 さて、 本書の第二間において、 シメオンはまず 一般的に聖体祭儀の 意味 と目的を解き 明かし、 次に自分の神学的立場を 明らかにする。 制定物語を 引用したのち、 次のように述べている。 「キリストは変わることのない 神であ りながら、 御自分をわれわれに 合 わせて肉 と何とをともにし、 われわれのような 人間として現れた。 それ はわれわれがその 神性にあ ずかるためであ った。 このことをキリストは 神的で理性を 超える仕方で 成し遂げられた。 すなわち全能のお 方は、 わ れわれの飢えを 満たし、 われわれの 渇 ぎを癒す糧に 御自分を混ぜて、 " ンと 杯をその神的 力 によって御自分のからだと 何に変えられた。 全能だ からであ る。 これによってキリストは 御自分をわれわれに 混ぜて、 御自 分をわれわれとひとつにし、 正義の太陽としてわれわれを 純潔さによってわれわれを 照らし、 その 輝かせて下さる。 " 。 ) この文章から 明らかなとおり、 シメオンは 」 ヵ バシラスに影響されて 聖体 の秘跡をキリスト 中心的にとらえている。 このことは長文にわたる 第八十 一 234 一 八間において、 ェピ クレーシスについて 述べられていることを 正当に評価 するためにも 重要であ ろう。 その検討に移る 前にまずシメオンの 神学的立 場に注目しょう。 初めからシメオンが 強調するように、 彼は教会の伝統を 尊重し、 これを あ らゆる刷新や 改革に対して 保護しょうと 努める。 実際、 彼の典礼注解で はおよそ 1000 年の東方伝統が 結晶されている。 コンスタンティノポリスの 征服 (1453 年 ) ののち東方典礼はほとんど 変わっていないので、 それは今 もなお東方教会にとって 古典的な価値を 有する。"7) シメナンは自分の 立 場を次のようにまとめている。 「われわれは (本書のコ大部分を 教父たちから 集めた。 なぜなら、 われ われの間には 伝統の刷新もほげれば、 受け継いだものに 対する変化もな い。 われわれはむしろ 信条のように、 すべてを忠実に 保ち続けてぎ た。 」, 5。 ) もちろん西方教会が 伝統を刷新したとの 批判がこの文章の 中には含まれ ている。 それはとりわけ 信条に関する 言及から明らかであ ろう。 実際、 西 方教会が古代エキュメニカル 公会議の禁令にも 反して、 (filloaue) の挿入によってコンスタンティノポリス フィリ ガクヱ 信条を変えたことが 当 時雨教会の間で 最も激しく論じられていた 難点であ ったし、 シメオンも 他 のところでこれを 教会分裂の最大の 原因として大きく 取り上げている。 " 。) なお シ ナメンは本書の「大部分を 教父たちから 集めた」と言っているが、 自らは 偽 ディオニシオス、 バシレイオス、 クりゾ ストモスおよび 告白者マ クシモスの名をあ げ、 また東方教会の 慣用を支持するラテン 教父としては フ ンブロシウス と 教皇バレゴリウス 一世を引き合いに 出す。"0) 次には第三問から 第二十五間で 教会堂の内部構造の 象徴的な意味を 解き 明かし、 第二十六問から 第四十四間では 聖職者の祭服をやはり 象徴的に解 釈したのち、 第五十五問から 最後の百三問で 聖体祭儀の式次第を 徐々に注 解する。 現行の クリゾ ストモス典礼に 加えて、 その他の典礼式 文 をも考慮 しようと努めているため 時々筋がつかみにくくなる。 しかしながら、 一番 一 235 一 長い第八十八間において ェピ クレーシスの 問題に入ると 論述は明解にな る。 ヵ バシラスの場合と 同じように、 西方側の批判が 真先に引用される。 「ところが、 聖霊に対する ェピ クレーシスおよび 供えものの聖別につい て正しく考えておらず、 むしろ救い主およびその 使徒たちと彼らの 後継 者であ る聖なる教父たちによって 伝えられていることに 矛盾した考えを 述べる人がいる。 彼らはわれわれを 難詰して言う、 一体なぜわれわれは 神聖なる供えものの 聖別にあ たって 、 主の言葉に満足せず、 むしろ自分 の祈りのほうに 頼るのだろうか。 」, 611 すでに批判のまとめから 分かるように、 シメオンも主の 言葉が聖別のた め 必要であ ることを認めている。 しかしそれだけでは 聖別が行われないこ と、 ェピ クレーシスをもって 初めて聖別が 完成されることを 論敵に説明す るのがシメオンの 狙いであ る。 まず彼が強調する よう に 、 ェピ クレーシス は 叙暗 されている司祭、 もしくは司教によって 唱えられる時にのみ 聖別の 効果をもたらす。 そういう意味で 彼は言 う 。 「司祭が聖霊の 恵みを願った 時、 人間が;働くのではなく、 司祭をとおし て 神が働くのであ る。 司祭の言うことはすべて 司祭 職の力によって効果 を持つ。 しかしこの 力 を持つのは一般信徒ではなく、 叙階式によってそ 2) れを 授 げられた者だけであ る。」,。 この文章のあ とシメオンは 洗礼氷 の 枕 別や病者の塗油、 賢信 および叙階 式 のために用いられる 聖油の祝 別 がそれぞれ聖霊降下を 願 う 祈りを伴って いることを示し、 また信徒が十字を 切るのに用いる 聖水の祝別や 日用品の 祝 則 さえ同様な祈りと 結び付いていると 指摘する。 さらに司祭および 司教 の 叙唱 式 においては聖霊に 対する ェピ クレーシスが 唱えられて初めて 叙暗 される人の上にこの 秘跡が完成される、 という点に注意を 向けた後、 聖体 祭儀における 司祭の祈りや 仕種を次のように 解き明かす。 「このょう に』 ンも杯も明らかに 司祭の祈りによってキリストのからだ と血になることをわれわれは 信じる。 このことは司祭が (供えものの上 でコ 十字を切る時、 また聖霊に対する ェピ クレーシスを 唱える時に完成 一 236 一 される。 なぜなら『とって 、 食べなさい J 、 『 皆 これを受けて 飲みなさい』 そして『これを 私の記念として 行いなさい』という 主の言葉は一回しか 語られなかったが、 使徒たちとその 後継者たちの 祈りによっていつまで もそのように 働くことのできる 能力を与えられたからであ る。」,63) シメオンは「司祭の 祈り」によって " ンと ブドウ酒は聖別されると 言っ ている。 その際「祈り」 億ぬ㎡ ) という名詞を 複数形で用いているが、 これ は明らかに奉献立全体のことを 示しているのであ ろう。 しかしながら「聖 霊に対する ェピ クレーシス」によって 聖別が完成されるとも 言い、 しかも 供えものの上で「十字を 切る」司祭の 仕種をひとつの 条件として強調して いる。 これを余計な 、 新たな論争点として 批判する学者もいるが、 , 田 カバ シラスも同じ 仕種に言及して「司祭たちの 手と舌によって 秘跡が完成され る」と言っている。, 65) シメオンが注解した クリゾ ストモス典礼のルブリカ もこの仕種を 求めている。166) シメオンの注解によれば、 司祭はまず救いの 営みゆえに 父 なる神を讃 え、 その営みの頂点であ る最後の晩餐を 思い起こし、聖体制定の言葉を 唱える。 さらに、短い奉納の祈り℡ ) を 唱え、次に ェピ クレーシスに 移る。 シメオン はその中心的な 部分だけを、 しかも割合自由に 引用している。 これを唱え ながら「司祭は 十字を切る」と 指摘し、 「姉度十字を切ったあ と、 が ( キリストの コ " ソと杯 からだと何であ ることを確信する」と 力説する。,柑シメ オンはまた「あ なたの聖なる 霊によってこれを 変化させてくださいますよ う に」とし ぅ 祈りが " ン の上に、 またブドウ酒の 上にそれぞれ 唱えられ、 その祈りはともに「アーメン」とし ぅ 確認の言葉で 締め括られる、 という 点 に注目する。 シメオンによればこの 言葉をもって 司祭は、 「ささげものが キリスト と 父と聖霊との 力によって、 キリストのからだと 何になること、 また人間的なものがそこには 何 ひとつなく、 すべてが神の 恩恵によって 行 われることを 信頼し、 告白する。 回 」 この文章からも 明らかなとおりシメオンは 聖体祭儀における 三位一体の 協力を認める。 これはカバシラスに 比べて彼の最も 際だった特徴であ ろう。 一 237 一 フィレンツェ 公会議の後、 べ,サり オンはこの考えに 基づいてマルコス・ エウデ ニコ ス の聖霊中心的なとらえ 方を論駁した。 " 叫 しかしながらシメ オンは べッ サリオンほど 明解にこの考えを 展開してはいない。 彼はまず受 肉の例を引いて、 神の子だけが 人となられたが、 その受肉を可能にしたの は 父がこれに賛同し、 聖霊がおとめマリアの 上に下ったからであ ると指摘 し、 その後聖体の 秘跡も同様の 仕方で完成されると 力説している。 すなね ち、 キリストが司祭の 祈りをとおして 働 き 、 父がこの祈りを 霊が願い求められたことを 完成させるのであ は言 う 。 「姉位一体の力と働ぎはひとつであ る。 そういう意味において 彼 る。父の賛同もなく、 聖霊の協 力 なくしては受肉した 子は何ひとつ 成し遂げたことはない。 を前提にしてシメオンは 受け入れ、 聖 」, 叫 この思想 聖体制定の言葉と 聖霊に対する ヱピ クレーシスの 関係を、 結論に代えて 次のように解き 明かす。 「聖別の根拠は 初めから主の 言葉であ る 。 この言葉は司祭の 祈りをとお して働く。 こうして働くのは 人間ではなく 司祭も人間であ る限り キリストなのであ る。 そしてキリストは 聖霊において、 司祭たちの 聖なる職務をとおして、 働かれるのであ る。 」, 72) これまで述べたことから 明らかなとおり、 中世末期の東方神学者はコン スダンティノポリス 公会議以後の 聖霊中心的聖体論とならんで、 よ り古い キリスト中心的なとらえ 方をも保ち続けてぎた。 彼らはこの二つのとらえ 方を統合しょうと 試みることなく、 キリストも聖霊も 各々固有の働ぎを 持 ち、そのいずれも 軽視してはならないと 力説した。け 3) 西方側の批判に 対し て、 彼らは ェピ グレーシスの 有効性を強く 弁護したが、 ェピ クレーシスの みによって聖別が 行われると考えてはいない。 確かにシメオンはカバシラ スよりも厳密に ヱピ クレーシスの 朗唱を,聖別の時。 としてとらえている が、 これは西方側がかつてのイコノクラスムの 場合のように、 主の言葉か ヱピ クレーシスかとの 二者択一を彼に 迫ったからにほかならない。 ヱピク レーシスの内容および 位置づげからして、 これを聖別の 祈りと見なすより 他に可能性はないだろう。 したがって、 どの時点で聖別が 完成されるかと 一 238 問われた東方神学者は、 かつてダマスコの シスのあ とと答える他はなかったであ コ アンネ ス のように ェピ クレー ろう。 なお、 も西方教会の 典礼を批判したこともないし、 力 " シラスもシメオン その聖体論を 直接問題にした こともない。 ただ ェピ クレーシスを 余計で無用な 祈りとして批判していた 西方の少数派に 答えて、 東方教会の古い 伝統を弁護したにすぎない。 ろが フィレンツェ 公会議において、 もはや少数派だけでなくローマ とこ 教皇を はじめ西方代表団も ェピ クレーシスを 新たに問題にし 始めた。 2, 3. マルコス・ ェウゲニコス 東西市教会の 代表団はおよそ 一年間にわたる 議論の末、 1439 年 6 8 月 日、 聖霊の発出および 信条の拡大修正の 問題に関する 合意に達した。 " りそ の翌日教皇 ェゥゲニゥス 四世は残る論争点、 すなわち聖体の 秘跡、 煉獄お よ びローマ教皇の 首位 権 に関する審議を 求めた。 その際、 聖体の秘跡につ いて二つの問題を 区別した。 ひとつはパンの 種類に関わるもので、 再合同 のあ と東方教会も 西方教会のように 種 なし " ンを使 べきか、 それとも 伝 う 統に従って種のあ るパンを使い 続けるのか、 という問題であ った。 いまひ とつは ェピ クレーシスに 関するもので、 なぜ東方教会が 聖体制定の言葉の あ とにもなお聖別のための 祈りをささげるのか、 とい分間頭であ った。",) 東方の代表団は 第一の問題に 答えては、 それぞれの慣用が 現行のまま承認 されるべきであ ると、 また第二の問題に 関しては 「ささげものをみ 使いに運ばせ…」とし ラ ヵ バシラスと同じように ローマ奉献文の 祈りを引き合い に 出し、 これも ェピ クレーシスのような 聖別の祈りであ るのだから、 これ 以上互いの教理を 詮索する必要はないと 答えた。" 。 ) さて、第一の問題は 11 世紀以来激しく 論じられてきた 難点であ ったにも かかわらず、 すでに翌日それぞれの 慣用を尊重しあ 意 が成立した。 " の い、 承認しるう旨の 合 しかしながら ェピ クレーシスの 問題がその後二週間に もわたって論じられるようになったのは 東方の代表団にとって 意外な出来 一 239 一 事であ ったに違いない。 なぜなら、 フィレンツェ 公会議に先立つ 交渉にお いても、 6 月 9 日までの公会議における 審議でも、 西方側は一度も エピ ク レーシスを問題にしたことがなかったからであ る。 6 月 L2 日、 教皇は東方 の代表団に双述した 問題に関する 数理決議の草案を 提出した。 それは 16 日 、 18 日の両日にわたってトル ケ マーダが東方の 代表団を双に 行った演説 から分かる よう に、 「主の言葉によってのみ 聖別が行われる」とし 承認を求める 草案であ った。" 襲 ぅ 文章の これは東方側にとって、 同時に討議されて いた首位 権 に関する草案より 一層深刻な問題となった。 " 銭高合同への 道 は、 6 月 26 日、 教皇がこの問題に 関する教理決議を 断俳した時、 初めて 開 かれたのであ る。 , 80) さて、東方の代表団の 内部では ェピ クレーシスの 問題は 6 月 14 日、 15 にわたって特に 討議された。 "" 皇帝 日 コ アンネス 人 世パレナロゴスがマル コス・ エタゲ ニコ ス にこの問題に 関する覚書の 作成を依頼したのはおそら この頃 であ ろう。㎎ わ その頃 は公会議をとりまく いた。"3@ 日程も非常に 詰まって 書の理論の展開がそれほど 明解でないこと、 子を示していることをこうした 調 またいらだちの 背景から理解できよう。 この覚書は西方側 には提出されてはいない。 トルケマダ の第二の演説から 推察されるよ う に、 6 月 17 日、 ビザンティン 皇帝が彼のもとに 遣わされた枢機卿 団 との交渉に あ たって、 これをメモとして 用いたようであ る。㎎ 4) さて、 覚書の冒頭でマルコス・ エタゲ ニコ ス は自分のテーゼを 次のよう にまとめている。 「聖なる供えものは 主の言葉によってのみ 聖別されるので はなく、 聖霊の力にお し 、 て、 その後の司祭の 祈りと祝福によっても 聖別 さ れる。」 比 5) この簡潔な命題から 分かるよ う に、マルコス・エタゲニコス も ェ ピ クレーシスによってのみ 聖別が行われるとは 考えていない。 主の言葉も 聖別の 一 要因であ ることを明確に 認めている。 教皇によって 提出された決 議案は、 「主の言葉によってのみ 聖別は行われる」となっていたので、 コス・ エタゲ ニコ ス はテサロニケのシメナンのように ェピ マル クレーシスの ほ か 、 十字を切る司祭の 仕種をも聖別の 要因として強調する。 それはあ くま 一 240 一 でも聖別が「聖霊の 力 において」行われるとの 古来の信念を 保護するため であ った。 実際、 古来の東方伝統こそが 覚書の最も重要な 論拠となっている。 マル コス・ エタゲニコス はこのことを 次のように強調する。 「われわれは聖なる使徒と 彼らの後継者であ る教父から神秘的典礼の 式 文 を受け継いだ。 主の言葉そのものによってのみ エウ カリスティアの 供 えものの聖別が 完成されるということ、 つまり主のからだと 何に変えら れるということを、 どの式上においても 見たことはない。 むしろそれら は調和して、 次のことを示している。 すな ね ち、 先に唱えられた (主の コ 言葉がわれわれにかつて 起こったことを 思いおこさせ、 そして供えもの に、 いわばその変化のために 力を注ぐことを。 しかもその後の 司祭の祈 りと祝福が初めて 供えものをあ の秘跡に 、 (すなわち 主のからだと 何に コ 変えることを。 」は 6) カバシラス とテ サコ ニ ケ の シメオンのようにマルコス・ ェウゲ ニコ ス も 伝統的典礼をあ らゆる刷新や 改革から保護することを 自分の務めとみなし ている。 教父時代以来、 東方典礼は聖霊の 働きを重視してぎた。 今、 ここ で教皇によって 提出された決議案を 受け入れるならば、 古来の伝統を 捨て るとともに聖霊の 働きをも否定することになる。 マルコス・ ェウゲ ニコ ス がさらに強調するように、 問題の決議案は 実際西方教会の 教えや慣用にも 合わない。 「彼らさえも、 たまたま誰かによって、 しかも祭壇なしに 主の言葉が語 られたならば、 その言葉に働ぎがあ るとは言っていない。 しかるに、 司 祭も祭壇もその 他の条件も必要であ るとするならば、 一体なぜ祈りと 祝 福、 およびそれらによって 訪れ、 すべての秘跡を 完成させる聖霊が 必要 でないと言うのか。 」 田 7) マルコス・ ェウデニコス によれば、 このような決議案が 出されたのはそ もそも西方教会において 聖霊の独自の 役割があ まりにも軽視されていたか らにほかならない。 東方典礼において 聖霊の働ぎがどれほど 重視されてい 一 241 一 るかを示すため、 マルコス・ ェウゲ ニコ ス はその四つの 古典的な奉献上を 引き合いに出す。 その引用は覚書の 三分の一を占めている。 しかも彼はほ とんど何のコメントも 付けていない。 テキストそのものだけで 十分社説得 力を持つと考えたのであ ろう。 なるほど東方神学者にとって 確実な原理が あ とすれば、 それはとりもなおさず「祈りの 法則が信仰の 法則を確立する」 という原理であ ったのであ ろう。" 引 問題の決議案が「祈りの 法則」に矛盾 することを示すには 奉献文の中心個所をただ 引用するだけで 十分であ っ たⅠ。 マルコス・ ヱウゲ ニコ ス はまずいわゆるクレメンス 典礼を引き合いに 出 す 0 ㎎。' これは r使徒毅憲 J ( ディダスカリア ) の第八巻に記録されているも ので、 使徒たちに教えられてローマのクレメンスが た。Ⅳ。) 古代、 中世においてはこのことが 書いたものとされてい 一般に認められていたので、 マル コス・ ェウデ ニコ ス は本書の奉献上 を 「使徒たちの典礼」として 真先に引 屈 している。㎎ 11 実際にはⅠ使徒毅憲』は 4 世紀末から 5 世紀初めにかけて、 シリアで書かれた 偽作であ り、 その奉献立はおそらく れを基礎に作られたものであ ヒッ ポ リュ トスのそ ろう。 いずれにせよ、 あ まりにも長文にわた るので実際典礼のために 書かれたかどうかも 疑わしい。 さて、 マルコス・ ェウゲニコス はアナムネーシスを 手短かにまとめたあ と 制定物語から ヱピ クレーシスまでの 個所を引用する。 他の ェピ クレーシ スの場合と同様、 父なる神がこの 祈りの相手方となっている。 ここでは ェ ビ クレーシスだけを 翻訳してみよう。 「お願い致します。 あ なたの前に置かれているこの 供えものをいつくし み 深く顧みて下さい。 何の不足もない 神よ、 あ なたのキリストの ほ まれ のためこれを 快く受け入れて 下さい。 あ なたの聖なる 霊 、 主 イェスの苦 しみの証人をこのいげにえの 上に遣わして あ なたのキリストのからだに、 下さい。 (聖霊が コ このパンを この杯をあ なたのキリストの 血にして 下 さいます よう に。 '。 2l 」 次にいわゆるヤコボス 典礼が引用される。 '附 これはクレメンス 典礼の 一 242 一 少しあ と エルサレムで 成立したもので、 ニコ ス マルコス・ ェウゲ も強調す るとおり、 主の兄弟、 使徒ヤコボスの 書いたものとされていた。 , 。 。 ) 5 世紀 以来アンティオケイア 総主教区の典礼であ ったがフィレンツェ 公会議の少 し前から、 後述するコンス タン ティノポリス 総主教区の二つの 典礼がそれ にとって代わった。 マルコス・ ェウデ ニコ ス はここでは制定物語を 省 き、 救いの歴史における 聖霊の働 き、 特に使徒たちの 上への聖霊降臨に 関する アナムネーシスの 部分を引用し 、 次いで ェピ クレーシスに 移る。 「主よ、あ なたの最も聖なる 霊を私たちとここに 置かれている 聖なる供 えものの上に 遣わして下さい。 聖霊がその聖なる 善意と栄光に 満ちた釆 臨 によってこのパンをあ なたのキリストの 聖なるからだに、 この杯をあ なたのキリストの 尊い血に聖別して 下さいますように。 次に引用されるバンレイナス '。 5) 」 典礼は 10 世紀まてコンスタンティノポリ ス総主教区において 支配的なものであ ったし、現在でもなお 年に 10 回用い られている。, 96) , シ レイオスの名で 呼ばれるのは 6 世紀以来のことであ るが、 実際には,シ レイオス自身がアレクサンドレイアの 典礼を基礎に、 アナムネーシスの 部分を現行に 近い形で編集したようであ る。 現行のそれ は少しあ とに再編集されたもので、 地域的には小アジアが 推察される。 "') まず神のあ マルコス・ エウゲ ニコ ス の引用は制定物語から 始まる。 エピ クレーシスは われみを願 い求めたあ 「あ なたのキリストの と、 次のように 続 { 聖なるからだと 血のしるしば レ で乏で 吻鋪 をささげ ながら謹んでお 願い致します。 至高の聖なる 方よ、 いつくしみ深いみ 心 にかなって、 あ なたの聖なる 霊が私たちとここに 置かれている 供えもの の上に下り、 これを祝福し、 聖別 し 、 このパンを主であ り、 神であ り、 私たちの救い 主であるイェス,キリストのからだに、この杯を世のいの ちのため注がれた 主であ り、 神であ り、 私たちの救い 主であ るイェス・ キリストの血にして 下さいます よう に。」,98) マルコス・ エウケニコス は覚書の後半で「しるし」 葉を取り上げて、 その意味をダマスコの コ (み "で 下で 吻 めという言 アンネ スと 同様に解釈してい 一 243 一 る , 99) 最後に引用されている クリゾ ストモス典礼は 現在もなお東方教会におい て支配的であ る。'鵬 現行の形は 6 世紀末あ るいは 7 世紀初め頃 できた よ うであ るが、 とりわけ奉献文の 原形は 4 世紀にさかのぼり、 , 川 おそらく 当 時のアンティオケイア 典礼を基礎に クリゾ ストモスによって 編集されたと 思われる。'。 2) マルコス・ エウゲ ニコ ス の引用は再び 制定物語から 始まる。 彼はこれに続く 短いアナムネーシスおよび 奉納と感謝の 祈りを省いて、 ェ ピ クレーシスに 移る。 「私たちはあ なたに、 この霊的 け ovt 幼レnで無血の礼拝をささげながら、 謹んでお願い 申し上げます。 私たちとここに 置かれている 供えものの上 にあ なたの聖なる 霊を遣わして 下さい。 このパンをあ なたのキリストの 尊いからだに、 この杯の中にあ るものをあ なたのキリストの 尊い血にし て下さい。 あ なたの聖なる 霊によって ( これを よ う コ 変化させて下さいます に。 」 20% これはこれまで 見て来た ェピ クレーシスとは 違って 、 父 なる押脚自身が 「聖なる霊によって 変化させて」下さる 主体となっている。 実際クリ ゾ ス トモス典礼が 東方教会の三位一体 読 的なとらえ方を 一番明確に表してい る 。 聖体祭儀において、 父と子と聖霊とが 各々固有な 働 ぎをする。 ェウヵ リスティアの い げにえは父にささげられ、 父によって受け 入れられる。 キ リストはこのいげに えをささげる司祭であ ると同時にささげられているい げにえそのものであ る。 聖霊の働きによってこの 不可思議ないげにえは 可 能になる。 父は司祭の祈りと 仕種に答えて、 聖霊を遣わし、 その降下によっ て パン と ブドウ酒はキリストのからだと 何に変わり、 父のみ心にかなうい げにえとなる。 この全体的なとらえ 方を保つようにとマルコス・ コ ス は東方の代表団に 訴えようとしたのであ エタゲ ニ ろう。 彼が上の引用部分を 要約する形で 言うように、 すべての奉献立において エピ クレーシスは 制定物語のあ とに唱えられる。 その機能は明らかに 聖霊 降下による聖別の 完成を願うことであ る。 '㎎ ベソ サリオンもこのことを 一 244 一 認めている。 だからこそ聖体制定の 言葉による「主要な 聖別」とェピ クレー 、ンス による「より 顕著な聖別」とを 区別するのであ る。 そして ヱピ クレー ンス の様式や表現が 多様であ るため、 同一の聖体制定の 言葉を本来の 聖別 ・ のために用いるのが る 絶対必要であ るとマルコス・ ヱウゲニコス に反論す 。 20s) もちろん、 すでに見たよ う にマルコス・ エタゲニコス も ェピ クレーシス によってのみ 聖別が行われるとは 考えていない。 クリ ゾ ストモス や ダマス コの コ アンネ ス のように彼は 創造者の命令を 引き合いに出し、 聖体制定の ことばとェビ クレーシスの 関係を次のように 説明する。 「あ の最初の創造にあ たって、 大地は神の命令によって 自分自身から 生 えさせる力を 受けた。 そしてその命令は 大地の中に残り、 絶えず生えさ せる力を与える。 しかし大地が 生み出したものが 完成されるには、 りわれわれの 配慮や農夫の 仕事も必要であ よって一回だ け 語られた言葉が - る。 それと同様に やは 救い主に いつまでも働く。 しかしささげものの 聖別のための 祈りと祝福をとおして 働くには、 聖なる司祭職の 協力も必 要であ ろう。 - したがってささげものの 上に祈り、 かつそうすることに よってささげものが 聖別されると 信じる時、 われわれは自分の 祈りに 頼ったり、 あ の (主の コ 言葉を無刀なものとして 軽んじたりすることは ない。 かえって (王の コ 言葉が固有の 力 を保つことを 認め、 また前述し た聖なる司祭職の 力を認める。 それはェピ クレーシスをとおして 働かれ る聖霊によって 秘跡を完成させる 力なのであ るⅡ'。 。 ) ヵ バシラス や テサロ ニ ケ の シメオンのようにマルコス・ エタゲニコス も 聖別の祈りとしての ェピ クレーシスの 排他的有効性を 力説するより、 むし ろ制定物語から 始まり、 ェピ クレーシスにおいてその 頂点に達する 聖別の 全過程を尊重するよう 訴えている。 それゆえ彼は 最後に、 前述した 偽 ディ オニシオスの 典礼注解を引き 合いに出し、 現行の東方典礼がそこで 注解さ れている式次第に 近いことを示すため、 制定物語から ェピ クレーシスまで の司祭の言葉と 仕種を手短かにまとめる。 それはあ くまでも「主の 言葉に 一 245 一 よってのみ聖別が 行われる」という 決議案が古来の「祈りの 法則」にも現 在のそれにも 合わないことを 示すためであ った。, 。 7) 引き続いて彼は 西方 教会の典礼を 取り上げ、 とりわけ当時から 第二ヴァティカノ 公会議までの 司祭の単独行為を 厳しく批判する。 , 。 。 ) 前述したようにカバシラスも 口 ニケのシメオンもまだ 相手側の典礼を 批判したことはなかった。 マルコス・ エタゲ ニコ ス の苛立ちが理解できないわげでもない。 テサ しかし 本稿にお いて紹介した 資料からも分かるように、 そもそも西方側は 東方教会の古い 慣用を問題にすべぎではなかったし、 事実力バシラス や テサロニケのシメ オンの頃 はまだ西方の 少数派だけがそれを 問題にしているにすぎないと 考 えることができたが、 マルコス・ エタゲ ニコ ス の場合もはやそのような い考えは許されなかった。 だからこそ西方典礼そのものの 甘 批判に転じ、 相 手側が「われわれを 難詰して、 われわれの典礼を 詮索する」資格はないと 力説したのであ る。 ,。 。) 3. 展 望 1439 年 7 月 6 日、フィレンツェ 公会議は東西面教会の 再合同を祝う 憲章 を発布した。 この憲章は聖体秘跡の「形相」 (forma) もしくは "聖別の時 " に関する教理決議を 含んでいない。 なぜなら、 時の教皇の賢明な 判断に従 い、「以双一度問題にされなかったことをいまさら 問題にする、 という印象 を与えたくない」との 理由で明確な 教理決議が断俳されたからであ る。 " 。) ところで、 アルメニア教会は、 古代教会の四つの 総主教区を代表してビザ ンティン皇帝までの 参加を誇る東方の 代表団とは違って、 同年晩夏、 少数 の使節日をフィレンツェ 公会議に送った。 しかもそこにはマルコス・ ゲ ニコ ス ほどの代弁者は 加わっていなかった。 ェウ 同年 n1 月 22 日に発布され たアルメニア 教会との 再 合同憲章は、 あ らゆる教理の 問題に関して 西方教 会の主張を貫くものであ り、 聖体の秘跡に 関してもそうであ った。"11 ではこの憲章の 背景および普遍妥当性についての ここ 検討を進めることはで き 一 246 ないが、 以前のより右方な 東方代表団に 対しては「主の 言葉によってのみ 聖別が行われる」という 決議案の承認が 再合同の条件とはされていなかっ たことは注目に 値しよう。 なお、 現在の東方典礼における エピ クレーシスの 教理史的背景を 十分理 解するためにはフィレンツェ 公会議のあ との発展にも 手短かに触れる 必要 があ ろう。17 世紀に入ってからキエフを 中心としたロシアの 南西部では西 方の影響が強くなり、 その結果 ェピ クレーシスに 対して制定物語の 有効性 を力説する神学者も 出た。 その頃モスクワはすでに 東方教会の支配的主教 座 となっていたし、 信条の拡大修正によってその 首位権を失ってしまった 「第一のローマ」および、 フィレンツェ 公会議における 妥協的な姿勢のた めその指導力を 失ってしまっていたコンス タン ティノポリス 総主教区とい う「第二のローマ」に 代わって、 正統な信仰を 保護するのがモスクワとい う「第姉のローマ」にほかならない、 というイデオロギーは 多民族、 多人 種の国家をまとめるため、 モスクワによって 利用されていた。 " わ いずれに せよウクライナの 神学者たちの 西方寄りの聖体論を 排斥するため、 1690 年 モスクワで教会会議が 開かれ、 ェピ クレーシスによってのみ 聖別が行われ るという決議が 採択された。"3) 1848 年 1 月 6 日、 時の教皇ピオ 大世は回勅『ペトロの 最高の司教 座 にて』 を 発布し、 その中で東方教会に 対するローマの 首位権を新たに力説した。 この回勅に答えるため 東方教会の四人の 総主教は同年 5 月コンスタンティ ノポリスに集い、長文の教書を 発布した。その中には ェピ クレーシスによっ てのみ聖別が 行われると主張されている。 エイレナイナスの その際、 本稿の初めに 検討した 説明が唯一の 典拠として引き しかしこの典拠が 弱いことは明らかであ 合いに出されている。 2,4) ろうし、 フィレンツェ 公会議まで の東方伝統においても 制定物語も一貫して 聖別の 一 要因として重視されて いたことは無視されるべぎではない。 いずれにせよ、 その時以来、 東方の 神学者は ェピ クレーシスによってのみ 聖別が行われると 繰り返している。 この狭められた 考え方に対して 中世末期の東方神学者の 全体的なとらえ 方 一 247 一 は 再評価されるべぎであ ろう。 確かに「主の 言葉」 か 「 ヱピ クレーシス」 かとの二者択一を 迫られた時、 彼らはいつも 後者を選んだが、 それでも ピ クレーシスのみによって 聖別が行われるとは 誰も言ってはいない。 ェ この 二者択一は論争の 状況のもとに 強いられた問題であ ることを念頭に 置くべ ぎであ る。 しかしこのような 二者択一への 問いそのものは、 同時に聖体祭 儀の秘跡的意味を 歪曲させてしまう 危険をはらんでいるということも 認め るべきであ ろう。 略号 AG CILL(ed Qり oes け, ゆり 庵ぴれ 甘口 cfo 窩笏 9 の0㏄窩卸 Co れ czi@z Efo 柁 れね れ z, Roma 1953. AL C. HOFMANN (ed.), FzJoァ Ⅰ 後 fiれ i, Roma Jugie M. LCE L. PETIT(ed.), Mar ㎡ JUGIE. デんり Ca ル w だ ㏄ Roma LEW ガ丘 A れば ガり C れⅠ り Sし れ Ctは AC ぬ L Ⅰ f,Ai れれ Co れ ccwだヶ filnⅡ ムタあ 0ま竹 mだ ㏄ C 几 Ⅱふ ti乙れ 0朋脚 結 ㏄仮名 れ ぬ佛 Ⅰ Ⅰ 一V, 0バクれ物 h ぴ笏 乙う Ec.c. 加 ㎡乙 Paris 1926-1935. E ぴどし れ ici M と ルク nh Ktかル si 0 ゆ 6%A ぬ召 免 れ ひ後 ・ in れぬ ガ ㏄ l977, 118.126. F.E. BRIGHTMAN,/C.E. Oxford HAMMoND(ed り ., Lifu 笘わ s Ed お招 別れれd Weesfe笏, l965. PE A. HANGGI/l. SE L.MOHLER,B PAHL(ed,), V. LAuRENT(ed Co れ S加乃 Pr 緩 6 ぴり 材@央tica, Fnbourg ㏄㏄ わ 0穏複 加工ん eolo まe, HuMmta リム tu Fn 庵 Ⅰ@n. が 免tgeen 3, Paderbom Syr Ⅰ㏄ S l955. は篠 け,ム㏄ "M 乙移 0i は " メぴ % れ %. 且ぴれル れれ Ⅰ み みク 「 アル 0/ogiS襯eReoi York 笏妙用op ガ die l976 による。 ) 王 exzei 襯% ぬ, Be ㎡n.New ECcf ぬ肋珂ぴ e ガク 7%9 ん se oれ ci ルガク F o形免 ㏄, Romal971. G 栢れメ 氷上記以外の 略号はすべて , S.ScHwERTNER, ひ S ぬ dな 1942 位 epr. Aalen l967), 1-69. op ね Sノ 7ひⅠ Sレし Sツル Po ぬわ 3 Sぴ Ⅰ 屋 A 晩仇襯%9s れみ 1968. プリ 佗 篠 s ,ノ ans 互ぴ しん よ 9 eu c 舘h みけガ ん Ⅰ 。 ,o W, MO DOKI Ev ア ・ ( て 、ルd 交 .@ れ よ1 ク2 ル、 ま 妓血 一 248 一 t 一 249 一 、Snnm侮れe.m ね in: MSR l5(1958), 95-136. 特に 101-105. 110-1ll.124-125.最近の研究と ・ しては. J.M.R. TII,I,ARD, L 牡 雄材廊わり オル Sa 肋ナ -% クガ t, in: NRTh 302-387;J.H.McKENNA.Euc 肋愁 t an HOory spi 「 ir, London1975, ガ saaん種 佛倒ルダ 刑 Ⅲec 力ms 乙 sP ル I i佑 た HoTz, Dぬ 244; K. GAMBER, C ん %tus. l,if.u笘わ , in:L.LIEs(ed.),P りん en Ost un ガ姥㏄ t, GUtersloh Geist.助姥こ ㏄ク ぴれみ g0(1968). 15-91.117-142: % 1979, 229- ゐァ ヵ篠 ルn aben み肱Iwdzs 協ク % C 刀心 ft(FestschriftJohannesBetz),D ぬ p5p れナ肋 廿 ss 目 「 dn 「 f 1984, 131.150 参照。 5) J.BETz.op.cit.340 6) J. BETZ. 0p. ・ c廿 . 341;MysalIV/2.300 , 302;G.E.SMIT,0p.cit.l10 7) 分かりやすいまとまりは J.H. McKENNA, 8) JUSTlNUS, ・ 111.124-125 267.318. APoZ. 66, 2 二 CorpAp ム cit.48.57 にある。 0p. I/1, 180 , 182(=PE7 ㎝. % 磁 Ew りりバ Siie れ ach/ び st 妨ぬ I A タ oJ. c. 66. @DT I8(1940) 296-316; M. JuclE, De 乃,w 切り冗肋れ蕊肋 e. Dg ゆわル おう ws 吻Ⅰ初伝 ticゐ , R0ma l943. 9) ム 0ま 0s O. PERLER. 104-106; B. ALTANER 10) F. CABRoL.0p. M ソ A. STulBER, P は Ⅰの zog ね , Freiburg.Basel.Wien D ゐ円㏄依尹れ &07 cit. 143; F.J. DOLGER, 81978, 7 . 初ル r/ 胡乃しレ i5f7icんと 鋒 ぴ He ㌣ ゐ f GeiSf. in:H.D.WENDLAND (ed.), Kos 肋 os M% ガ E 姥zeS肋 (FestschriftfurW. S はh Ⅱ n), Kassel 1953. 40 41. l1) 特に O. PERLER. 0p. c旺 . 296.303.308.309.313. 名eif J, Ⅱ nster21928.73-79; R.STAHLIN,D ・ 12) F. VARAINE. ム %icz ゑ se 正配初伝は乙 りん 柁 des ん ewc 乃 aHsf 卍 Me, ヵ. lg10 . 19; O. CASEL, Dね %/ 硲fiw 旛 Ma/ ゆr, in:Kath.13(1914).332.341;J.BETz.op.cit. 268.271.329,331;J.H. McKENNA, 13) IRENAEUS,A Lyon R 化r. ム op. 73. 2 手 c旺 . 5l; K. GAMBER, SC264.190 ・ 192 を 0p.cit. 133. A はひ . H 庇/. Ⅰ V. Ⅰ 8, 5.6 Ⅰ SC 100 . 610 616; Adv. Haer. V. 2, 2.3 二 SC l53, 30 40 と比較せよ。 ・ 14) 15 ) 16) ・ A 力. H 庇/, y, 3, 2 二 SC 153, 46(vv. 48-49). A ん. H 彫/. V, JB. 5 二 SC l00 , 6]0(vv. l10 113). A . H 化r. Ⅱ 2, 3 Ⅰ SCl53,34(vv.37.43).J.P.deJ0NC,D Ⅰ ・ Ⅰ ・ Ⅰ 20) クがぽ p 切れ gH 研gS 脇刀 ん Ⅰれ碑 笏 Ⅰ W れ化ぬ , メひ 0れ卸仇ル㏄ ぴれガ M お襯笏麟脇硲後口 襯ル r Ewc in: ALW g/1(1965), 28.47. 17) A みひ . R 化r. V. J8, 5 々 SC l00 , 610 612(vv. 18) A 力. H 化/. 7, f3, 2 Ⅰ SC 264. 191. 1g) A%. H 化r. V, J7, 5 Ⅰ SC l00 590 592. ひ ・ Dぬ A. STRuCKMANN, ん体 fi乙 切花 des 116-123). ・ Gege れの ぱ が C ル六わ 肋 ルア 1905, 87; M. JuGIE, De 乃肪篠, op. cit. 92.94; id 。 E 穏励パ5% Theo@ogie メ ゆ花s Sgi%l du Lyon ル勿勿, in: Bib@iothさ que V(Memoria@ J. Chaine). Lyon op.cit.22;o.CASEL,E ぴ己 0% ん eifigen EMc 肋ガstie. Wien ぬ乃 抑竹り肋 de @a Facu@ sacxe 卸粥t ルパ cath0lique de 1g50 . 223.233. 21) 注 18 参照。 22) F.VARAINE. 廿わ ie乃花. op.cit.336;J.BETZ,op.cit 一 250 一 272-275.328-331;G. K.RETscHMAR, Sfudien T 幼 ic. 偽り ewcha 休floue, in:DThC5/1(191%.233. む bingenl956,189;S. P. RoDoPouLos. (ed.), SALAvILLE. J. Quasten). MUnster 肋ク卸わル @s六が On Conse ㎝ぽぱ on O/ the Fo ん, London McKENNA, J. BETz, 25) A 26) E. LANNE,Le ガひ the in:JTS25(1923/24),340; Li 協 r毅 an み 初地 9 ゆ, E 肝ん㎡㎡ 1935, 29-30; 0. PERLER, op. cit. 313-314. J.H cit. 53. op. 24) l970. 844-846. 蒜ぬA.n 沖ボARep 乃 eMeaningof E.G.C.F. ATcHLEY. 戸棚己心tlicん e.gn アガ ni ばむ 坊 eologiie, 0れ切e Co0nsecrxation. in: P. GRANFIELD/J.A.JuNGMANN Ⅰ彫 れ化ぬ K ク riakon(Festschrifl R.H.CONOLLY, 23) zur cit. 334; K.GAMBER, opp. . Haer,. rV.. Ⅰ 8, 5=SC mo 乃ル op. cit. 133 はそう断言している。 l00. 610(vv. l10-117). JeSSぬ C わ廊 Ⅰが s0 免肋ひ 0㏄お 0篠襯佗sa 施t 7rennぬル L 卵れ in: lren. 49(1976), 43. 27) 土屋言訳Ⅰヒッ ポリ ュ トスの使徒伝承 Jl W燦案出版社・ 1983 年) 10-17 頁。 なお本章 は批判的編集の 対訳となっているので ,それだけを 引用する。少なくともェピクレー シスの部分はシリアに 由来し、4 世紀中頃の作とみる学者は、 W.C. p ん 篠田花月。 笏Ⅰが Consec のho 穫が ル e Hoo 沖 T 32-33; G. DIX, Rome Ⅰ S4%ct れ S 切れ 乃ク ガ 月乙は Ⅰカク 9別ひⅠとんと B2 A % 0挺 , in:JEAl(1950). A ク o鮒 o俺c T 竹刀は0刀 o/ Sai%t H ゆゆ oかfwS n ルエ ア勿 fiSe on 施e '1968 , 75-79;@ L. BOUYER , London@ R ひ ん んリア 66(1908),385-404; ルソ ncaAfnn in 施 e Hoo か Euc 坊パst, in: Theol. 8(1924). 89-100;E.C. J. A. ROBINSON, RATTCLIFF, 吊虻 脇㎡ st, in: CQR Tル B@SHOP, れ 4ぴ @ゆ zれ fo f んと ゑぴⅠん口れ 村 デクメ ば殉 りれ f P のれと 卸 S, in: H. ロETzMANN, ァゆ ク クカ o/ R , D , RICHARDSON . A 0 ガど zれ S 援 zf 乃ミカ リガ di P がⅠ は竹 C /o Ⅳez M ㏄S 口 れば Lo ぬ Ⅰ SM 力化 r. Leiden l979, , op . cit . 170-177;@ と り 584-596. 3 世紀の初め頃 ローマで活動した 反教皇 ヒ " ポリュ トスの 作 と認める学者 Uber diepswMdo は 、 E.SCHwARTz, 1910, 39.40; W.H. 口KT7MANN, Ruc 力 肱esse れん ふ t P 柏yer り冬 放ガ o刀 P ねルⅡ Strassbourg London l922, 17; H. u竹ガはぴ托肋 竹切れ, Her Ⅱ ln 1926, 167; R. H. CoNoLLY, of HiPppo塊ぬ; in: JTS ・ zffu le aHtPpo ゆosto 旛c加乃 Kircc 乃hfenordwungen, T レ P ㎡ 卸雁化ConS8c FRERE, か 4e. Roma l959, collecfionS ㏄れ oniaues, in: OC "Tradltlon Aposto@ique, 39(1938). 350-369; J.M. HAussEN, 501.504-505; B. BoTTE, Les Plus 48(1960), 344-345; Y. TsucHIYA. 。 in: RThAM AP 33(1966). 183-186; K. GAMBER, 「 La anaiennes のlpos op. 本稿ではこの議論を解決することはできない。 J.H.McKENNA,op.cit.212,n.25 よればェピクレーシスを 含めた奉献上 の Ⅰ亜 e de la cれ . 140. に 信患性を認めることが 現在の研究段階では 安全であろう。 」同様に土屋舎正、 上掲書 17 頁注 4 。 29) 土屋舎正、上掲書 17 頁 3L 。 30) H.LIETzMANN, 367; J.H. McKENNA, 31) M. SlMoNETT@, Meesse, op.cit.80-8l;R.H.CoNoLLY,Euc op. 肋nshicP 櫛形r..op.cit cit. 20. Noote di c旛 to わま肋 p 彫un笘 h ㏄, in: AuB. l2(1972),201.232 によ 一 251 一 れば、4 世紀半ば頃までは「 霊」は先在的キリストの本性(natura) あ るいはその固有 名 (nomepersona@e) を指していた。 その結果、 聖霊を完全に先 在的キリストと同一視 する教父も出た。 32) J.BETz,op.cit.338-340;[email protected]. ストについてヒッ ポリ ュ たとえば、先在的キリ トスは こ j 断言している。 「ロゴスであ った。 霊であった。 力 であった。 」 (Co んのⅣ oe 地れ 4 丁 PG l0, 809 B ㍉「父から出たものがロゴスでなけれ いっ ば・いったい何者であ ろうか。 父から生まれたきが 霊すなわちロゴスでないなら、 たい何者であろうか。 」 (ib@d. 16 二 825 A). ヒ ,ボリュトスによればロゴスは 受肉の行 為者であって、その時「ロゴスは 聖霊とおとめから」 (と れ 爪印 先vo の神に一人の御子をかたちづくられた ibid.4 二 (exspiritusanctoetuirgine) 上掲書 l4 頁 )。 ガ W 伽な roc 809A). み vio も…九 % 「聖霊とおとめから」 という表現はそのまま 奉献上にも出てくる(土屋舎正、 ヒッボリュトスに ょ れば、ロゴスは受肉のあ と初めて完全な 意味にお ける御子と呼ばれる。 「ロゴスは完全なロゴス、 ひとりに生まれた 方であったが、 肉な しには接研 な px0 わ 御自分自身としては 完全な御子ではなかったⅡ U 団 d. l5=823 C. 825 A). 33) この可能性を 事実として主張している 学者は、W.H. Cp ㏄fE@(c ヵⅠ 万 S/ p ぬかr,London 1938,43,44;G.DIX, op.c@t. ㏄8.340 によれば、ヒッポリ ュ FRERE, デぬ e A れゆ脇の or れ勿 ise.op.cit.78-79.J.BETz, Ⅰ トスは聖体祭儀を 歴史的受肉の 秘跡的現在化と して理解ししいた。 どちらの場合も ゴス は本来の行為者であ るのだから、 聖霊降下を 願うエピクレーシスは 結果的にロゴスの 降下を願う祈りであ る。 34) CLEMENsA@ex.,Pa 口 ed. J. 6, 432-3%GCSI. は J. BETz, op. cit. 277-279; M. S@MoNETTI, 35) St の加 . V, 3. 16., 5 二 GCS I1, 336, 13 を 115,30-116,4(Stahlin).これについて op.c@t. 213 参照。 E 托. 笏 Theod. 600 二 GCS lI1. 127, l.2 と 比較せよ。 36) Paed. Ⅱ, 2?, 1g 37) Ibid. 168. 7.9. 二 GCS l, 167, 28-29. 38) これについてはJ. BETZ, 39) M. S@MONETTI, op. op. c@t. g2-95.117-121.279-283参照。 cit. 206-207. EP. 耐 Se ぬp. IV., g 二 PG26. 665 B. 40) ATHANASIUS, 41) 「もしも聖霊が 創造されたものであ るとしたら、 われわれは聖霊を 受けて神にあ ず Ⅰ かるということは 全くでぎず、 反対に被造物に 結び合わされ、 神の本性とは何の関わ りも持たないものとなる。 - しかし実際には、 われわれは聖霊にあ ずかることによっ て神の木性にあ ずから。 それゆえ愚かな 人でもなければ、 『霊は創造された 本性を持っ ていて神の本性を 持っていないⅠとは 言わないであろう。聖霊が神の木性を 持ってい る。 それで聖霊が 神化する るからこそ聖霊をうちに 持っている人が 神化されるのであ ものであるから・聖霊の 木性が神の木性であ ることに何ら 疑いをはさむべき 余地もな い のである gJ @八 % ⑨招 zp. J, 27 Ⅰ PG26, 585 B.588A) 一 252 一 42 ) 「人々の創造者であ る方が後に恩恵によって 彼らの父にもなろう ということは、 神 の慈愛によるものであ る。 こうしたことが 起こるのは、 創造された人々が 使徒の言う Ⅰ ア," 、 父よ (ロマ 8 . 15 』 参照) と叫ぶ霊を自分の 心に受ける時であ る。 - 彼らは 本性によっては 被造物にすきないものであ るが、 神の子らとなりうる 道は木性によっ て真の子である方の霊を受けるという 方法である。 (0 Ⅱ 乙 」 A わ 0n.I1, 5g=PC26,273 A.B). A ん例. 43) 0r. c. 44) De 鹿 ㏄別. 26, 108 C 一l0g A. 7, 4Z 二 PC 26, 10l2 B. とれ 0も 仇ov の訳についてはPCL529 Ar 肋 n. i6=PC c. 照、 。 本書の信感性については. B. ALTANER/A. SlMoNETTI, 45) op. J.BETZ,op.c cれ . STUIBER, 参 cⅡ. 273. 289; M. op. 207 参照0 Ⅱ. 284. このとらえ方は 4 世紀後半までラテン 教父にもみられる。 た とえばアンブロシウスによれは「キリストのからには 聖なる霊のからだであ る。 なぜ De 坤於綾. 58 ならキリストは 霊だからである。」 @MBROSIUs, F 招g. 46) 援. Z 二 PC 二 PL l6, 409 A). 26, 1325 C.D. 聖別に関するアウグスティヌスの 有名な定義も 同 じロゴスの降下表象を 前提とするかもしれない。 「あ なたが祭壇の 上に見ているのは パ る。 しかしこの パソとブドゥ酒にみことばが 伴 うと 、 そのからだと ソと ブドゥ酒であ 血になる。 @AUGUsTlNUs, S ぴ刑 . 姦鹿ボ 6=PL 」 47) F.X. FUNK(ed @repr. Tor@o , り 1970), 48) 奉献立は 、 Funk M ㏄㏄, op. cれ . cⅡ. D 妃ぬ ㏄Jia 乙 159-195 (以 T Fuぴ rrfんhe.er Ⅰ c什 . れワ ガ符 几 op.c dgiie 仰笘乃 ゐ用 eMc0risfic0 , Roma 49) 50) 2, Paderborn lg05 にある。 これについては、 H.LlETZMANN, 36.37. 186.197; C. DIX, S 肋か, op. op. A ク 0㎡㎡ 0用刑 Funk とする)。 l72-177@二 PEl28-133) 178-181. 335; L. BOUYER, RICHARDSON, 46, 834). C0% 切ぬfi0n ㏄ 201-207; cⅡ. 162.170. 276.277; J. BETZ, op J. H. McKENNA, Ⅱ. 672-675;C. GIRAUDO, c吐 . 27-2g; R.D ルttu 附加ナめのわり op. Ⅰ, aSt l981, 334.341. Funk l74, 7.8. Funk l74,17,22.教会一致のための 祈願はほとんど 文字どおり T十二使徒の教訓 3 (ディ ダケ 一 ) 9 章 14 節からの引用であ り、 これがヱピクレーシスの 成立母体である と考える学者もいるる。 L. CLE A. KAvANUGH, ア乃 0% 屋 0n ⅢCl, EinSa 緩緩 ぬ ㎎ ルアんxsf gMfen, M N 徽 E 配ん isfic P 放ル バ, in: Worship ガ ルe Ⅰ ℡ nster l966; 43(1969), 2.12. 5l J Funk l74,28-176.6. 言葉によってロゴスを 降下 52) たとえば、ナ ツィアソツ のグレゴリオスは「司祭がその させる」 昭れ 7み 二 PG37,280C) と 言い、ニュ ッサ のグレゴリオスは 、 @ テモ 4 . 5 を引用しながら 聖別を次のように 説明する。 「パソは神のロゴスと 祈りによって聖別さ れるれ (Or. cat. 3% 53) A.J. E 配ん4% McLEAN, 3 二 PG 45, 97 A). ルひ 0㏄お 0打 @l@urgica@ , in:ERE ん ナゆ た JeSぬ , London l917, 7@191 り , 412;J.W. 66.68; E.C.C.F. ATCHLEY, TYRER, ア乃 c T 乃マ位わl㏄ ぬ : A 一 253 一 C パzic 恭櫛 , in:[email protected](1934).33.34:id の@ zん Epic 麻ゐ, op.cit.62-63;J.BETZ.op 。 cit. 335. 54 ) B. ALTANER/A. STuIBER, 55 ) B. CAPELLE. ム H%ap ん op. o附加 cit. 257. S 百 mpio 孔 in: Mus 奄 5g(1946). 425-443, 特に 439 on 443. 彫ル 56) B. B0TTE 57) 同様に、J.H. McKENNA, 。 ⅡEMcozo S をのが ow op. ㏄Ⅰ ィ 7 % 肋笏鹿 q%e ク , in: OC 48(1964). 50 56. ・ cit. 27.29. 東方伝統における 奉献立の諸形態の閲覧 表は同書47 一47 頁にある。 この閲覧表から、 断章 DerBa@yzeh とセラピオンの 奉献立 以外はすべてが 聖霊の降下を 願 うェピクレーシスを 含んでいることが 分かる。 58) GREGORIUS 月は 7肋 d. 二 PG Naz., Or. 63, 68.63 二 PC 36, 588 26, 1168 C 一団 ル 5例 f. D ノ o%. 二 PG Caes., De S沖んM S. 6Z 二 A 一589 C; ATHANASlUs, 助 .初 25, 516 B (全体についてPG 32, 23.32 参照)。 5g) BASlLIUS 60) Ep. i25, 3; 759, 之 226, 3 丁 ついては.H.J. MARX, E 荻oq%e Sankt Augustin 且わ化移は 竹れ 櫛 , P 移 ㎝解裾 oio 康ク梶s PG 32, 88 PG32.549 %% みル乃 o@ 1977, ゼ C. 他のヵバ トキア教父に e庇㏄ d打 ルは% 102.105.106.120; B. S@ync&o 尽ひoれ K0%5 放れれ der gn7 ecん柊 Cん en Th%eoloeie, in: OrChrp A 一l05 B.620C.849A. れ oP カ d% G 加ぴ ぬ裕 SCHuLTzE, 口 85c ん 加功 辮ル dイル 仰 Dね Ro 棚物ル窩%9 47(1981), 20-53. 61) COD28,22-26. 西方教会の代表者は 参加しなかった。 力ルケドン公会議(541 年) の議事録から分かるよ に、 東方教会の内部においてもコンスタンティノポリス 公会 う 議は初めからエキュメニカル 公会議として認められていたわげではない。 これについ ては、H.J. MARX, 62 ) COD24 二 DSl50 FihoQue, op.cit. 199-202 歩昭。 . 木 信条はカルケドン公会議の 第四総会において、 ニカイア信条と ともに全教会に 共通の信仰告白定式として 承認された。 伝統的な考え方によると、コ ンスタンティノポリス 公会議は原ニカイア 信条を改訂し、 わけても聖霊に 関する信仰 個条を付加した・とされている。 それゆえ木 信条は一般的に二ヵイア・コンスタンティ ノポリス信条と 呼ばれる。しかし最近の 研究から明らかにされたよ に、 それはエル う サレムで用いられた 洗礼信条の変形で、 当時他の洗礼信条の 場合もそうであったよう に、 その中にニカイア 信条のキーワードさ が 0o 防z0 豆が取り入れられた。 エルサレムの 司教キュリロスが 残した 教理講述] から分かるように、 聖霊に関するエルサレム 信 仁 条の個条は次のとおりであ った。 「また、 預言者をとおして 語られた唯一の 聖霊、助け 主を [信じます (CYRILLUS コ Hier., P の㏄t. v, aめ p. 二 PG 33., 533 B) 。 ヱ ルサレム信 条がコソスタンティノポリス 公会議自身によって 現行の形に改訂されたかどうかはあ まり詳らかではない、 いずれにせよ、 力 んケ ドン公会議以来、 この信条はコンスタン ティノポリス 公会議の信条として 知られており、 そのラテン語訳は 6 世紀以来、次第 に 西方教会内部においても 支配的地位を占めることになり、 今日もなおp 一 % 典礼式 文の正式な信仰宣言となっている。 254 63) COD Mn メ 24, 26.31. これについては A.M. sei れ Symnb07. Gnttingen R@TTER, K ㎝刀 7 % 後 つ俺 K0ws@ は wfi れ 0ク e/ P 後㎝用 尻 0め gie, Op. cit. l965. 295.307; B. SCHULTZE. 11.20 参照。 これについてはH.J. MARX, 64) 65) CY 乃り 04%, Ⅵ㏄ i. HieL, P の㏄i. ム Ⅲ LLUS op. cit. l02.111.117-118参照。 Ⅳ・ⅩⅤⅡⅠ 二 PG33, 331-524.537-1060 .『教理講 述 から復元され. た エルザレム教会の 洗礼信条は同書533 に掲載されている。 DSM も コ 後ま乙rE 参照。これについては J. B Ⅲ NKTR@NE,Beif deS Cre メ 0 . in: EL 66) A.PI 丘 後 むぬ脇 ノ尼り材 E 肋 AdrM ㎎ ㎎ 42(1928), 何 -85 参照。 DEGNAL(ed M が 柘ど 0段四硲, ソ tめ,ひり fich ゑ s㏄ Pa ㎡ s1966( 二 SCl26). 以 下、 同編集のぺージ、 行の数のみを 記す。 67 ) たとえばJ. BETz, op. cit. l01,102.226-227.289-290 . 305-306 は とる。 W. Ph Ⅱ Cyr 辺 が /er 庵a/e 用 TELFER, adelphial955,50 Ⅳ8%csis 乙尼 -貫してこの学説を o/ Edcss は, LOndon. によれば、 H.W0 年までは『教理講述」だけが 流布されていたが、 秘跡に関する解説が欠けていたので、 ョ 。シ ネス二世のそれが 付け加えられ、 ついに キュり ロスの 作 として通用するようになった。 議論の経過およびこの 学説のメリ,ト は ついては、 A. 68 ) F. L. CROSS, London P@EDEGNAL, g51, XXXIX; Ⅰ op. cit. 18-28 参照 " St. CVniil サ ル附田ル用ちん p.c.tuY㏄ A. P 屯 DEcNAL. TO ㎡ no 1973, 369; B. ALTANER/A. op. 肋 e C ん iristian S尻ぬ別徽ぬ, nn cit. 28-40; J. QuASTEN, STulBER, Op. 一回だけ制定物語に 触れる(C 刀 . 69) キュリロスは P 裾の Z0名 妨 2, cit. 312.313. 別 yst. ⅠⅡ ,ア= Ⅱ 2, 18. 9). 最近また Ⅰ 制定物語がエルサレムの 奉献文の中に含まれていなかったことを 主張する学者として は、 E.J. CA. Ⅰ RONE, /c れ(Sa/c 用 A 70) C 尻. ルタ 5#. ム in: OrChrP 7 二 94, 72) ㏄ f. 別が t. Ⅱ 7. 3=124, 73) Caf. 44([email protected]. はれ メ旭 c E び 0ぬ fiow が fhe 菱田。 4-7. 7l) M. JUG@E, つ e/o@物 a, 用 タ st. M 雙れ鮮伴佃 / ㏄ fechesぬ C アリ 73 ヤク ん 0後, op. cit. l11.1l七 S. SALAVlLLE. Epicl6se, cit. 238-239. Op. 2.4. V, ア二 54, 1-6. Ⅰ 74) G. DIX, 別り化, op. cit. 280 .なおJ. BETz, Op. cit. 340-341 によれば、キュリロス も以前の教父と 同じように聖霊をロゴスと 同一視する。しかしながらこれは 4 世紀の 終わり頃にはもはや考えられない。 学者の大半は 三位 -体の第三位の自存者としてと らえられた聖霊の 降下が願い求められていることを 認める。 O.CAsEL, op. cit. 17l; E.G.C.F. ATcHLEY, 198-202; H.C. Ow [email protected], 肋 c Epic/gsぬ , op. cit. 52;G.DIX, つぬ EMchay.isf/e 別 s Ew TeSfa 用りれ fi, Kassel l957. 158; J.H. McKENNA, 75) JOANNES 76) 功 つ c sacerd. f77, 4=PG CHRYsoST0MuS, Sは㏄ 田.ⅠV, 4 二 PG op. 48, 681; ル coc 用りれ f. 397-398; ル力 ク れれ. 脇肋. XLV, 2=PG 59, 253. がは 帝些, ⅣeMcBcif S 肋化, /ぬ ㎎ der op. cit. れ rb は cit. 56. 48. 642. ゆ化Ⅱ.付加c/M ㏄つり用. 二 PG 49, 一 255 一 77) NlCoLAUSCABAS@LAS, Lit. ぢゆ . XXX, J6 二 SC 4bis. 196-198. 78 ) AL 249. 36-40; 5E 10, 2-9; 48. 18-31; 66, 39-68,7. 79@ De クの d. ル而e ho 笏 . 80) NICOLAUS ム R 二 PG 49. 380. Lif. 傍P. XXfxX, CABASILAS, 7=SC4bis, 178-180. AL 237, 37; 248, 5 を 237, 40-238, 5 と比較せよ。 81) これについては、 82) 5E 30, 15-32, 32; 52, 9-29; 64, 6-25. 83) J.BRINKTR@NE, 磁ゅ ic/esie穏脇心わ㏄, in:EL37(1923),15.16;JugieII1.228;id ぬ翅 e5 ば0%e De 乃7% 篠 , op.cit.98.100;E.MApELL@, れ el ㏄ co ム STuIBER. 84) 0 ⅩⅠ ノ , in: ScC67(1939), ム ま柁 ㏄が 鍍 ㎡ e俺 , 85) % ゑ ル di ひ . 姥佛囲 圧クゆ .Ⅹ X ⅠⅩ, 37 0 88 二 二 PL l55. 737 B.C; LCE り穏ん旛 fiqwe ん庵 豚 0% 援 e%n ㏄ん% 石 ㏄ 87) SC4bic,180 ・ 184;SYME0NThess., l23,7-124, 11. r ゆic 』困り 0わ引拓 ies,in:MSR3(1946),202.204;P. ㌦ 肪め/ogie ル ㍗ ゆic/ぬ e, in: VC じ l4(1960), 320 . Areop., De ㏄czes. ゐ ier. Ⅰ V, J.3.72 Ps. DIONYSIuS 笏は んPe, op.cit.281.282;C.KERN, O れよ ルめ icies ぬ , op. cit. 68.167; A. CHAvASSE, E.G.C.F. ATCHLEY, HuILL@ER, ガもク 伝花 乙襯 ㏄ 4% in: I捷n. 24(1951), i74.175. 177.181. se, NlCoLAUSCABASILAS,L 86) cit. 484; B. ALTANER/A. co 裕允ぬ施n e%c 肋仏 fi4%e in: EO l3(1910).321.324;G.DIX,S nta 笘召ル 7EpicA Eゆ . op. わぬ se ガゆ硲艶肋 f C 力ぴ0s 拓笏と裾肋サ 竹刀ガ 0%occi ル篠拓 z,in: ll(1908), 101.112; id 。 ム a E% ルノ 袖わ膝i fの G 花は乙Lat 劫ヶ 194;J. QuASTEN. cit. 329. op. S.SALAvILLE, EO 。 Ⅰ PG3, 472 D. 476 D. 484 C 一485B. 以下,岡編のぺージ 数のみを記す。 偽ディオニシオスの 典礼注解については Bi&fi ㏄/ a% P. RoREM, Toronto 88) 89) % ㏄/ Sヴぬ &0 なのif % あ ァ 比ク 八% ガ o.Dio ゆs肋れ鋤n 肪 es ぬ , 1984. NlcoLAus SYMEoN Li 肋 み CABAsILAs, L 化. E The eゆ. X ⅩⅠⅩ, jJ; XX Ⅹ, 7 二 SC 0 88 々 PG l55, 737C.D. 4 bis, 186. 194.196 ㏄。 ゆ .ル田 ひ. 招 仰が AL 238, 8.l0; 249, 3-36. 90) De ecc ㎏. 施れ。 wH, 70 二 565 C. 9l) De e㏄膝. カね r. ⅡⅠ 二 421 B-445 C. さらにLEW 487.490(PE2l0-213) 参照。 92) LCE Z4,34.126,17. 93) Dg ecc/es. み ieK ⅡZ, 12 94) LCE 95) SE62. 二 441 C. l24. 25.29. 30 々 63, 31; 64, 20 Ⅰ 65, 21. 後代のパラフレイズ (Paraphrasis Pachymerae) も問題の個所における zepo 中yねに 「すなわちバンと 杯のそれ」との 説明を付け加え ている。(PG 3. 469 付 . 96) De ecczes. ん帝 r. ⅡZ, Ⅰ 2 Ⅰ 441 D 一444 A( 二 LEW 489. 18.33). 97@)@ SE@64 , 21-22. 98 ) JOANNESDamasc., De ガ威 orth. Ⅰ v. J3=PGg4. 1152C 一l154A を LEW406, 1 と比較せよ。 論争の背景と展開については、 C.vonSCHoNBoRN,L,ICo れちん 142-200 3 章。 操安達也著丁キリスト教史 Ⅲ東方キリスト 教」 @E236) C んぬ f, Fribourg,1976, (山川出版社・ 1979 年) 108 一 127 頁参照。 9g) EuTYCHIuS Con5t., 鰯/w2o ル P㏄肋.切り冗肋r. 2 Ⅰ 二 PG 86/2, 393 B-D;SO Hier. け ),F 抑g. co 笏研 . 7%. 3=PG8773,984C;ANASTASIuSSln.,Ho pHRoNIuS 23=PG@ せり どぴ S B 89 , 297@ D. 100@)@ ACED@ 10l) De 刀 d. orth. IV, 13=PG IV , 369@ 372@ 102@)@ NICOLAUS@CABASILAS A g4, 1153 B.C.. pGl, 159 参照。 , Lit . exp . XXVH@=SC@ ルせル.加川 Di0 88 二 PG l55, 737 A.B; LCE 4@ Ⅰ s, 174;@SYMEON@ Thess , 、 @@ . l22,30-39. ベッ サり オンはこの解釈に 詳 しい反論を加え (5E 44-63), 問題の表現の意味を次のように 説明する。「聖別されたあ の真のからだと 血のかたち田篠0 いとしるしね 匠珪 1@, 加引と 呼ぶ とにも秘跡をキ ことができる。 眼前のパソとブドウ酒の覚形は 聖別のあとにもかたちとしるしと 象徴 であると正しく言われる その中に含まれている 主の真のからだと 血おょぴその 神秘体 と教会一致の 象徴だからであ る。 l03) SE MADOz. 60 El 215-241;@ HJ 104) 」 58, 30 37) ・ Ⅰ . MARX , Filioque オン本来の見解については、 J じれ Flo 柁れ c肋 , in: Gr. l5(193 , op . cit . 309-310.313-316@@BS M. JuGIE, L, ゆic/おしぬル解of 乙 れ田 坤じせマ肋笏 ㏄㏄ (1906),196;S.SALAvILLE, 105)@ De 106) BAS@LIuS 107) De7% 卸何あ り fid . orth , IV , 13=PG@ み. Ⅰ 3 二 PG 彫笏.Ⅱ, JO g4, l140 C@ BOULARAND, OP. PE427-438. の, 、o せ 9 s田刀 f B 乙 ㎡ ル , in: EO g Ⅱ. 250;G.C.S.SMIT,op.cit.114.115 ぴ e,op.c A 94 , 1144@ A-1145@ Cae5., Ho 笏 . 庇 He 0れん .ⅠⅠ二 引C助伝わり 108@)@ AL@238 . 5-8.@fc@ii@@-H¥@ E . MAPELLI 109) @E 一f62. 教父の不可謬性 に関する A 穫ぴ 解りれ to 月ク わ stico s笘ぬれ B ㏄sfs 乙わ 0れ 二 PG 114l 2g, 116 C A , Concilio, op . cit . 194;@Jugie@III , 228.277;@E, Clt. 255-256 もトルケマダの解釈を批判している。 聖霊降臨の祭日にかぎって 聖霊の@ きによる、 参列者の一致のための 祈りが栄 唱の前にささげられていた(PE 437) 。 110) このことは1079 年 2 月 22 日ベレンガリウスによってローマの 教会会議に提出さ れた宣誓書からも 分かる。 「祭壇に備えられたバン と ブドウ酒が聖なる 祈りの神秘とわ れわれの救い 主の言葉によって、 われわれの主 イエス・キリストの 真にして固有の 生 げるからだと 何に実体変化する。 」 DS700), ぐ 秘」 (mystenium sacrae ベレンガリウスの 言う「聖なる 祈りの神 orat@onis) は奉献立全体をさしており、 4 世紀のラテン 教父 この表現を同様な 意味において 用いていた。たとえばアンブロシオスはパン とブド ウ 酒が「聖なる 祈りの神秘によって [キ ⅠⅡ, J0, J24=PL l6, 641A@ 的祈りによって」 @recemystica) PL からだと血に 変えられる。@e 」 ガル 言っている。さらにアウグスティヌスは 聖別が「神秘 行なわれる、と説明している (Dg f㎡ れ if ⅡⅠ メ , JO= 48, 874A) 。 しかし聖体制定の 言葉にアクセントが 置かれていることを、 アンフロ - 一 257 シ オスはまた示してくれる。 「あ なたが受ける 秘、 跡はキリストの 言葉によって 完成され る」 @e IX .WO.磁二 PL l6, 405 C. 406 C) 。 さらにはっきりと、 「どのような 表 笏於 l. 現や言葉によって 聖別が行われるのでしょうか。 王イェスのそれらによってでしょう。 それというのも、 それ以前に言われていることはすべて 司祭によって 言われるからで す。 - 尊い秘跡が完成される 個所では司祭はもはや 自分の言葉を 用いるのではなく、 キリストの言葉を 用いているからです。 したがってキリストの 言葉がこの秘跡を 完成 させるのです。 (De sac 切れgn 仏 」 lll) THOMAS AQUINAS. 112) R. LOENERTZ, La soci fi タ l6, 440 A). l. ad 4. a. P8r E だWs ガ㏄ わ 彫れ な, Roma ゑま l937, 81; M. T ん eoJogia, op. cit. 323.324. GORDlLLo, N 楠示 113) S. SALAVILLE(ed./trJ, Paris '1967(SC MANZIO, Co 櫛櫛 SYMEON GAMBER, ㏄ 力 初伝 : 4 bis). 他の現代語訳は、 J.M. C 妨㏄ゲぬ : A Co 緩緩 笏肋ゅ on 114) 巧 J4 丁 PL Ⅰ S.T. I1I, q. 78. ㎝fo ルぬ Thess., 印刷gon ひ 協拷 ㏄われ HuSSEY/P.A. di ㎡ ァna ん肋笘肋 , Padova ダひ ル 櫛が o 二 PG D 協彫 L 乙笘わ, N McNuLTY, fん e Di ひル g Li ぬ笘 y, London 助 .ルビ . わん 0伝 1960; M. DARlTTl/S. l984. l55, 697.750. 独訳, K. GAMBER/W. n んり ㏄ 援0切切: 例 gr dig 國は /icル on ル功 M が肋90gig, Regensburg 1984. 115) LCE. 116) R.J. LOENERTZ, 用ひⅠ ぬ 肋のれ oJ0 康6 %s % 0玖ひ花 S 7(1949/50), l7. 人物と神学9 、 想については. H.G. REByz エル oJog わ @ Ⅳわ oぬ C れ力㏄ 笏 ゆ羽ん%i5% 棚 R あ 肋, ㏄ 乙肋ゆ irif幻九 % Munchen んゐノ l959. Jos ゆん Byrgn 痂os, in: BECK. 幻 rc んち ひれ ガ 780-783; B.BOBRlNSKoY, Cん &sfg, @n:Pensee O れ hodoxe(Par@s 1966), 21.42. 117) E. MApELLl, 鹿 わ % ㎡, op. c@t. 189, さらに188.203. 聖体論については、 M. LOT. % 尻切れ㎝faiW ル J,O わ enf, in:RSPhTh24(1935), Ca ㏄ヶぬ s, in: DViv 24(1953), 123.134; H.M. BlEDERMANN, D ぬ L 物化 0れルr E ひ C幼心ル 庇 N 荻 o肋 os K 妨㏄i肋 s, Wurzburg 1954, 29-4l; G. GHARIB, Ⅳわ oJ ぬ C Ⅰ 力ぬ棚 ㏄ 裾 J,はかヶ ㏄ゎ 0れ 鞭刑 bo 用 qMe ル乃 席肋笘ゐ , in: POC l0(1960), 114.133; P. MlQuEL. L 依ク 百わ en ㏄ S尻切れ㎝陀ル㏄ Jo Wco ぬ Cab 俺i 汰, in: I㎡n. 38(1965). 176.182; W.VOLKER, D g 鰯ん 切れ ク放ルり切 ルガ㏄ N 肋 o肋 os K 妨㏄れぬ, Wiesbaden l977; C. TSlRpANLlS, エル U 加笘@/ an ビ M ノ sfi㏄J TAgoJo 馴 o/ N わ o伝 Ca ㏄i肋 s, New York l979 参照。 BORODINE,/n 九 ガ on 664.675; id., L Ⅰ ひ肋はわ 援肋櫛焚符ひ 9s Ⅰ sf ね功 は Ⅳわ 0肋 s 力 ひ 「 れ 』 「 力 118) CT VlI1, 912.913. 11g) A.ARNAuD, Ⅰ刀化ゆり加乃を ル肋ルァル /,Eg/ な り㏄旭 0/ り彫foMcha 何 Paris 1696; J.B. BOUSSUET, Eゆん ㏄ わ 0れル 4%Jc ん gs ⅠⅠ ぴ襯 ほ伝 fie, ガわ移 ㎝んあ ル肋櫛 ㏄㏄, Paris 1689. 120) H.G. BECK.op.cit.734. ただし、「神学大全コ 第三巻は訳されずに、 デメトリス、 一 258 一 キコドネス の手による、ギリシア訳の 概要でしか知られていなかった ;注 111 参照)。 121.) N@C0LAusCABAslLAs. 122) PG t カ. eゆ .ⅩⅩ zX. ⅩX Ⅹ 二 SC4 bis. 178.198. l50 . 366. たとえば、Jugie II1. 284.286; M G0RD@LLO. ア %eoiog 肋 , 0p. cit. 323.325 を一方的な注解者として 参照。 123) S.SALAvlLLE 125.134; H.M. K 妨㏄Ⅰ 膝 , in: P. 白Es, 玖p. 襯伝fo㏄ んパ 5ぬクル Ⅳわ 07 億㏄ う体 九の, in: EOr 。 Le B@EDERMANN. op. 124) ム %. 125) De ㎡ 肋劫 C 乃 ぬ fo=PG bis, l78. l50 , 493-725. 独訳。 A.v0nIvANKA,S Ⅰ D ぬね 加れ 35(1936), ん幼体 fie bが N 椛 o肋 os cit. 162.l71. ⅩⅡ ぱZ, 3 丁 SC4 der Osf 々 i/ 鹿e. 126) C 乃わ 5fasge 甜 ei%sc 用所初ル rE 脇 C 乃旛 ぬガ㏄Ⅳ 珪 0ね o$ Ⅰ 砧放篠鰍ぬ /笏が sfi々 K 劫㏄ァ膝 , M Ⅱ nchen l958. Ibid. I二 PG l50 , 504 B. 以下、同 編0 ぺージ数のみを 記す。降下思想の先駆者と A ヵ. IRENAEUS, しては、 127)@ Ibid =516@ 128)@ Ibid , IV@=592@ ・ 601 ん B 131)@ 581@ A 二 SC 2l1, 380(vv.63-70)参照。 B 129@)@ 597@ C-600@ 130) Roer. Ⅱ7, J9, 3 C. A 132@)@ 593@ B 133) 玖p. L な. ⅩX ⅡW 二 SC 4 bis, 172-174. 以下、同 編のぺージ数のみを 記す。LEW 384, 16.387, 28( 手 PE 224.226)と比較せよ。 134) Ibid. XXXI1, 8.10 135 j Ibid. XXVII1. Ⅰ 3 二 178. 136, Ibid. 2. 5 二 176.178. 137.@ Ibid . XXIX 138 Ibid. XXX, ノ 139;@ 140 , 1=178-180. l7%198 Ibid . XXIX Ⅰ 204. 、 1.@ 9-10=180.184-186 4 丁 182 Ibid. 141 )@ Ibid . 5=182 142;@ Ibid . 6@=182-184 143)@ Ibid , 11-18=186-188. 144.)@ Ibid.@ 19=188 145@ )@ Ibid . 7=184 Ibid 147@)@ SYMEON@ ・ 146)@ 21-22=190 Thess , , De@ div , tempio@ &S=PG@ 155 , 740@ B;@AG@441 , 22-30 148@)@ PE@ 435 149) 本来西方教会の 奉献文も聖霊降下を 願う ェピクレーシスを 含んでいたこと、しか もそれが制定物語のあ とに唱えられていたことを 証明する研究は、 B. FISCHER.E ルク 一 259 一 G 佐がゆ ㏄8 ルノ % MiS ㏄ル Ro 笏 o%a 勿 , (M 目 anges ℡ur 団 quesB. Botte),Louvain1972. C ん ㎡ sfws. ば % イ Gg 矧ゆZ々 /ese 。 op.cit. 144.146. 司書 144 頁によれ 139 、 149;K.GAMBER. ば、 本来「ェビクレーシスの 西方形式においては 二つのことが 区別される。 天上の祭 壇におけるささげものの 受容のための 祈りと,バンと ブドウ酒の上の 聖霊降下のため の祈り。 」 150) eゆ .Ⅹ X Ⅹ, Liz 3-4 Ⅰ 192. 151 ) Ib@d. l5 丁 196. 152) lb@d. 153) E.MApELLl,Ep 助肪l Sソ甜 gon わ fesi.op.cit.203.212;H.G. が T ん BECK,op.cit.752.753;T.BALF0UR, ㏄ 5刀0% 帝 りぬ ク Ⅱな to パむ の 7 庇柊owaii 坤 , in: GOTR 28(1983) 55-72. 154 ) SYME0N 155) ) 156 Thess., D 肋 70解 S はは牝 rs 庵 0勿 竹庵 且ゆ . ル di ひ . ル 仰が 脇り移 S㏄ 二 PG l55, 33-304 o 二 PG l55,697-750 ・以下ベージ 数のみを記す。 1団 d. 2 二 700 B-C 157 ) たとえばロシアの 作家エコラオス・ ゴゴかはこれに刺激されて・ 晩年自らの典礼注 解の作成にとりかかった。 独訳 R. 臼nttlzch2Litu 158 @ De 刀び . はた, Fre@urg ル 仰が 0 2=701 WALTER(tr von け, ム が屋 肋ぬれ 臼e.n な her カク l938. A. 159) シメオンも他のところでは ブリオクヱ の挿入によ る信条の拡大修正が 教会分裂の 最大の原因として 厳しく論駁している (D 訊.仏あ .肋材.Ⅹ エⅩ.ⅩⅩ.Ⅹ X ⅠⅩ 二 97 D. l00 B. l0l A. 14l C- 町 且ゆ 0s. S. sア棚oJ/ 二 781 D.784 A. 793 A.B. 785CJ. 彼はエフエゾ ス 公会議以後の 四つのエキュメニヵ ル 公会議の修正禁令を 引き合いに出し (D 初 .仏ん. 庇ひ.ⅩⅩ w. ⅩⅩⅠ X=136C,137C). さらにブイりオクヱ の前提となっている 西方の三 佳一体読をも徹底的に 論駁する(D 肋 /. 5% 弓0 ル 二 aガひ . 脇乙.Ⅹ XX Ⅱ 二 157 B.169 D; 牡ゆ 0s. s, 785D 一788A). 信条修正の問題背景については、 拙論「中世紀における 東西 の分裂」『日本の 神学』 (19 号・ 1980 年) 32-58 頁参照。 160 ) Dedi ひ .老脚 が。 2 二 701 B. 偽ディオニンオスの 典礼注解 (注 91) を用いているこ とは明らかであ る。 シメオンは " シ レイオスの典礼注解に 言及するが、 実際に用いた 著作はⅠ教会史 と神秘的観想] (PC co 笏榔 ㎝肋 znes g8, 383,454)であ って、R. め切切肋s ル肋 diUi れ e fifw穫㌍ ル VZ7 。 袈 Xy BORNERT, 。 ㏄ なル , Par@s L㏄ 1966, 124.180 によれは、おそらくコンスタンティノポリスの 総主教ゲルマノス (733 年没) の作であろう。シメオンはクリゾストモスの著作の 中から特に本稿で 扱った個所を引 き合いに出す。 また彼が用いている 告白者マクシモスの 典礼注解(M 於と 昭昭の二PGgl, 657.718)は明らかに偽ディオニシオスの 影響を受けている。 161) De di ひ . ル 仰が。 88 ・ 733 C. 162) 733 D 一736 A 163 ) 736 C 一 D. 一 260 一 164 ) E. MAPELLl, Epic/esi. 0p. eゆ .ⅩⅩⅡ℡ 7, 2 Ⅰ SC 165) L 訂. 166) LEW387,4. cit. 205. 4 bis, 178. 現在の慣用については 高井寿雑著 ギリシア正教大「 ヨ J (教文館 1978 旧 ・ 年改定版) 166 頁参照。 167) 「私たちはあ なたのものからのあ なたのものを・あ なたにさき げます。すべてに よって、 すべてにおいて」 (LEW 386. l0 手 PE 226) 。 シメ オソ はこの祈りを「私たち はこれをあなたにささげます。 すべてを超えて」 (736 D) とに改訂する。 168) 736 D. シメオンはここでは ヱピクレーシスを 次のように引用している。 「私と整 えられているささげものの 上にあなたの霊を遣わすようお 願い致します。キリスト御 自身が仰せられたとおり , これをそのからだと 何にして下さい。 あ なたの聖なる 霊に よってこれを 変化させてくださいますように。 」最古の写本に よ る ェビクレーシスの 386. 24-387.19 参照。 本文については、 LEW 169 ) 737 B. 170 ) 5E 20-22.40.48-50.64. 171 ) 737D 一740A. ベソサりオンはこの孝ぇ を 次のように展開している。 子…が父の 「 賛同と聖霊の協力によっておとめの 聖なるげ がれのない血からからだを 受けたよ う に、 三位一休もまた 祭壇におけるこのからだをつくり、 聖霊はその固有の 力 によって パンをひとつの 実態から他の実態に変える。 そしてこのことが 信徒にとって明らかに なるよ に聖霊を記念する 必要がある。 聖霊降下によって 聖別が行われると 言 教父 う う はそのようなことを 考えているのであ る。 しかし主の言葉によって 聖別が行われると、 と 言 明らかに述べる 教父もいる。さらにどちらも、 う 教父もいる。彼らは互いに矛盾 り、 どちらも真実なのであ る。 しているわけではない。 同じことを言っているのであ つまり、両者とも (子と聖霊 ひとつであるのだから、 同じことを同時に、 否、 同じ コ る。 それぞれ別の 仕方で、 それぞれ別の 瞬間にではなく、 瞬間に成し遂げられるのであ 全く同じ仕方で、 全く同じ今において 両者ともに同じことを 成し遂げられる。 なぜな らわれわれが 呼びかける三位一体のぺルソナはひとつにして 同じ本性であって 、 互い に分離されえないからであ る。」 (5E 48-50). 172) 737 B,C. 173) G. DIX, S 脇化, l74) AG cit. 291-292. op. 440 , 10-30 .聖霊の発出に 関する合同文書の 作成および採択については、 拙論 「フィレンツェ 公会議における 三位一体読」Ⅰ南山神学』 (1 号・ 1978) 28-41 頁参照。 信条の拡大后正に 関する合同達成については、 拙論「中世に於ける東西市教会間の 核 H.J.MARX. 心問題 下」『南山神学㏄ 号 1980 年)44 Ⅱ9 頁参照。さらに詳しくは、 コ A 妨。翅e, ・ 0p. cit. 328%41. 175) AG 440 , 34.441, 4; 441, 22.30 . 176@)@ AG@ 441 , 5-12;@441 , 30-442 , 177@)@ AG@443 , 6-27 7 2f61 178) AG 447. 5.7 を AL 一 237, 37; 248, 5 と比較せよ。 179) 特に AG 447, 34-36; Syr 474,22-478,3参照。首位権に関する合同文書の 作成と杉 沢は ついては、拙論「フィレンツェ 公会議におけるローマ 教皇首位権問題について」 中丁ア 180) ; デ ; ア コ人文・自然科学 編 (28 号・ 1978 年) 41-62 頁参照。 AG 451,29-36;AL 252,25-27;255, 18-24 。 教理決議の代わりに 口頭で西方教会の 見解を承認する 宣言が東方側に 求められた(AL 256,7.8)。 ベッ サり オンは7 月 5 日、 この宣言を行った (AL257.36-258, ま 259,11;5y 「 496,16-19)。 その記録は8 月 27 日、 チヱ サリニ枢機卿および 二人の西方教会の司祭によってpublicum instrumentum と して署名された (Frag 26, 1.20)0 181) AG 182) Syr 476,12-478,3.覚書の作成の時上について, E. MApELLI, 447, 34-36. 346-347; E. BouLARAND, op. cit. 250; J. GILL. Flore8nnce, op. Con ㎡ iAio,op. cれ cit. 272. Ry 用 o 彫. 0p. cit. 387-388 参照。マルコス・エタゲ ニコスについては、V. GRuMEL, Marc みはク ん %. Ⅱの 乙 わね, イ 0が れ ne. in: EtFr 36 (1925),425-448;JugieI.455-458;11,123.125.403.406;H.C. BECK,0p.cit.317.755.758; J. GILL, R 庵 o%07ifies oダ施 e Co%) ㏄ はか几 ore れ ce, OXford l964, 55-6% C.N. TS ℡pANLIS, Ma r E% 臼徽 ic%s aれみ施 e CoM れ ci/ 7 %0 柁 nce, Thessal0nikel974;H. J.MARX,R 朋oq 彩, op.c れ . 48.51;さらに同書人名索引 402 頁参照。反合同の立場を 最 183) 日程については、 H.J.MARX, Ⅰ れ 後まで貫いた神学的理由については、 上掲拙論「東西市教会間の 核心問題」 65-70 頁 参 昭。 184 ) トル ケマダは 6 月 18 日に行われた 演説の第二部において、 チヱザリ二 枢機卿に対 して述べられた 東方側の反論に 答える(AL 249, 2.15)0 その前夜ビザンティン 皇帝は チヱザリニ の率いる枢機卿 団 と交渉した (AG 一部に相当する @CE124,34. 450, 23-29)。 トル ケマダの答えは覚書の 125, 14;122,30-39;118,22.119,2)0 帝は覚書をメモとして 用いたと推察されうるが E. MAPELLI, このことからして 皇 Conci/io, 0p. cit. 346. トル ケマダの手元にも覚書があ ったとは考えがたい。 トル ケマダはマル 347 のように、 コス・ ェウデニコ ス の名前を上げていないし、 覚書の大半には 全く触れていないから である。 185) LCE l18, 2.7. 186) LCE l18, l-21; 同様にLCE 187) LCE l24, 27-34. 188) M. ワイルズ キリスト教教理の 形成Ⅰ縮小田敏雄 訳 ( 日本基督教団出版局・ 1983 l24, 12.27. ァ 年) 96 頁。 189) LCEll9,3-39. R.H. CRESSWELL, London@ McKENNA 奉献上全体はLEW T%e Lifw 笘ノ 1924;@ J. BETZ 7 l4.2 ㍗ 二 PE82-95@ %e E 苦ル Boo& 。 op , cit . 171-174.@ 205-207;@ 。 op , cit , 22-23;@ C. GIRAUDI L. にある。 これについては、 が ル サ BOUYER , op . cit . 290-295 A タ os ぬ Jic Co 郷お fM わ o郷, , op . cit , 119-135;@ J. H 一 262 一 190 ) Diaas ㏄lia VZI Ⅰ フ, 4-5l 19I ) LCE ll9. 3.4.40-41. 192) ll9, 31-39. LEW LCE 二 Funk 49f6-514. 21, 3.8(PE g2) との比較から 分かるよ に、 引用はかなり う 正確であ る。 なお、「からだに、 - 血にして下さいますよ ん う に」と訳した動詞は - 宕 0の 卸01. となっているので、 文字どおり「 として示すよう に」と訳 すべきであると 強調する学者もいる。 たとえば、 J.HOLLER,D Li 地名ien, oん e%%JiSc Wien lg12, 110 134; Epikleseder 皮セ襯わ 仙-0 れ穏ね依 C加乃 庇 加乃 汐セcん iSc 乃 り竹 刀 材 ぬ Dぬ id., ・ EPi 々 zeSe ルれ Li 切符ien, in: HJ 35(1914). 110 126 は本書のェビクレーシスを 手がが ・ りに、 本来聖霊降下の目的は供えものを「変える」ことではなく、 キリストのからだ と血を「示す」ことであ ったとする。 言い換えれば ェピクレーシスは 信徒が供えもの をふさわしく 拝領するための 祈りであった、 ということになる。 L. BOUYER, op. cit. 267.286.313 は同じ見解をとる。 ところが学者の 大半が動詞み 『 0伊 0z eりは「変化」を ノ E.G.C.F. ATcHLEY, 表すとしている。 0 免ルe EptdJesぬ,, McKENNA, L ㏄た on 0p. LCE 拭ル E渉cf㏄ ゐ , in: The0@. 3(1921), 90 98; id., ・ cit. 114-115.134.137;M. JuGIE, De 力笏仮, op. cit. 17-18; J.H clt. 23.108.10g; W.F. ARNDT/G.F. が 肋 9 Ⅳ紺 @1954 。 10 Ⅱ PCL 193) Op. T ㏄ 妬笏 例@ ロ仮 WILBouR, 4 G 解ん ぢ 2ng ん Sヵ 0i ん e/ 劫 アウ C ん体 ん後 むねのぬ形, Chicag0 , 218. l20 1.35. 奉献立全体はLEW 49.54( ・ Ⅰ PE 244-261) にある。 これについて は、 G. DIX. S 脇化, 0p. cit. 175.207;J. BETZ. op.cit. l77. 206-208. 341; L. BOUYER, op.cit.268.280;J.H.McKENNA.op.cit.29,30;33.34C.G@RAU ㏄.[email protected] 参 照。 194) LCE l20 , l.3. 195) LCE l20 , 29-35. LEW 54, ,2-10(PE 250) と比べて文体の 僅かな相違しかない。 196) LCEl20.36-121.36.奉献上全体はLEW402-411( 巨 PE230-242)にある。 これにつ いて @ま 、 [email protected] はS Cん乙 Ⅰお お 5Cんり H0 んま et Ⅰ九 % 切 ばれ 37 な びりまね, MUnSte 1931; M. JuGIE. De ゆiciesi 瑚C助 仏ね㎝secMn あ % E 俺iii% 移 M ㎎wM 神 . in:AAV lg (1948) . 202-207;@ L . BOUYER . op . cit . 290-304;@ J. H . McKENNA . op , cit , 31-33;C りぴ GIRAUDI, Op.C Ⅰ りう ガクァ ァ れ .、30.3.30f 参照。 197@)@ G. 198) LCE l21. 25.36. LEW, 19g) LCE l22, 30 39. ダマスコのコ アンネス については、 注 98 、 105 、 107 歩昭。 ベッ DIX , Shape , op . cit . 287;@ L. BOUYER , op . cit , 291 406, 1-9( 二 PE 236) と同様。 ・ サり ナンの反論については、 注 102 歩昭。 200) LCEl21,36.122,17.奉献立全体はLEW383.393( いては.A.RAES. OrChrP 24(1958), 5.16; L. BouYER, ひぼク窩 ㎎ ガク C んゆ sosf0 脚 0s7i/w笘ぬ, Bが0%fi れ e 々 PE224.229) にある。 これにつ L 協姥勿fici援ル肋 用地 笘ぬ め功何% クルS. ル化 C 脇が0蕊 0御色 in: ,D わ i%eLifM は明 " 0p. M Ⅱ Dぴ cil. 281.282. 286.290; G. WAGNER, nster l973; R. TAFT, in:orChrp43(1977), 353.377;J.H. T%e E 0ぬ 0移 ひ れ り/ fん e McKENNA.0p.cit. 一 263 32.3 む C. GIRAuDI, 20l) G.D@X,S 一 cit. 301.3U3 参照。 op. 脇化, op.cit.287.R.TAFT.op.cit.358.359 によれば" レスチナに由来 する。 202) L. BoUYER,op. cit. 281.282; G. WACNER, op. 関わりを否定する 学者として、 A. BAUMSTARK, 1953, 299.300; G. DIX. S んロ pe. 203) LCEl22, op. J.TYC@AK. り劫笘セco 佛 如何e, Chevetogne ' cit. 287. 9.17. LEW386,24.387,17( L.BOUYER, 204) op. cit. 265.267. クリ ゾ ストモスとの Ⅰ PE228) と同様。 几 oyzx みノ の訳について。 cit. 288 参照。 T ルoio 卑s襯eD 笘胡屋れ ガぴれガ A&e れ dza れ d, in:E.von Ha% 佛肝カル r Osf 々 irc ん ew ん M% ル, Dusse@dorf 勿休fize レ Mo IvANKA/J.TYClAK/P.W@ERTz(ed.). 1971, 294. 205) 注 97 に上げた出典に 加えて5E 16.18.24 参照。 206) LCE 122. 39-123. 23. 207) LCE 124, 34-125, 36. 208) LCE 125. 36-126. 14. 20g) LCE 210) AL 211) l26. 15.16. 255. 22-23. 「この秘跡の 形相は、それを制定した 救い主の言葉である。 司祭はキリストに 変 わってUn personaChrist りその言葉を 唱えて、この秘跡を行う。 この言葉自体によっ てパンの実態はキリストのからだに、 ブドウ酒の実態は 血に変えられるのであ る。」 (DS 1321) 212) 1.SEvCENKo. Ⅰ 竹 fe 「 fec 加功 R ゆヶ㎝㏄i0 庵がⅠル CoM 肋すがり ore% ㏄, in:ChH24 (1955). 306.311. 213) Jugie II1, 290 301; M. G0RDlLLo. ・ Co 笏 Pe れ diM れ 1937. 170-171. 214) Mansi 40 , 399 A ( さらに406 B;413 C 参照) n ルoJo 互肋 e O ルれ 拓地. Roma EUCHARISTAND THE HOLY SPIRIT Dogmatic@ Historical@ Background@ of@the@ Epiclesis @@ the@ Eastern@ Liturgy H.J. MARX The@ Catho ic@ and@ Orthodox@ Churches@ They@dffer 、 however Western@ 、 about@the@formu Ⅰ tradi ion@ Christ@ @@ present@ i sttutonal@ words@ He@ is@present@ of@the@ last@ the@ p est@ has@ recied@ the once@ . supper For@the@first@time . in@the@ fourteenth@century Ⅱ According@to@ n@ as@ . It@was@taken@up@by@the@Council@ i n, uRvers3 Ⅰ v3@@ of@Florence es@tried@to@impose@thCr@ dogma@ the@ on@ Eastern@ i g@ to@ stiff@ Eastern@ oppositi n@ the@ CounCl@ unchanged Eastern@tradi , this@difference@became@a@problem (1438/39)@where@the@Western@representati Ⅰ n . Accordng@to r@of@consecrati the@ priest、 in@the@ epiclesis, has@invoked@the@descent once@ of@the@ Holy@Spirit Ye re3 of@ Christ@ under@ the@ species@ of@ the@ eucharist@ bread@ and@ wine presence@ tradti both@ bC ieve@ @@ the@ own n dCegati left@ the@ status@ quo , The@ present@study@tri s@to@ il mi ate@the@theol gc3@ background@of Ⅰ the@Eastern@insistence@on@the@importance@of@the@epiclesis . It@starts@from the@relevant@Greek@sources@before@the@Council@of@Constantinople@which de ni Cy@ marks@ a@turning@pont@ not@ only@ in@pneumatoogy@ Ⅰ the@ understandi thought@ Logos@ very@ was@ g@of@the@eucharist much@ a Ⅰ ng@ . the@ li e@ Before@ the@ CounC@ of@ Western@ Greek@ tradti perceived@ to@ be@ the@ principal@ agent@ n. However se Ⅰ,subsi the@ partici ati n@ of@the@ HOy@ a Ⅰ . SPrit@ was@ in o@ Fathers The@ Dvine in@ the@ mystery@ incarnation@as@well@as@in@the@sacrament@of@the@eucharist @@ both@ i stances@ but@ of True@enough recogDzed , He@was@not@clearly@distinguished@from@the@Divine@Logos@as@a tent@ hypostasi Following@ the@ Cappadocian@ had@ adopted@ a@ reformulation@ Fathers , the@ Council@ of@ Constantinople of@ the@ Creed@ where@ the@ Divinity@ of@ the 、 2。 8 Ho@@ SP t@was@expressed@@@ Ⅱ liturgc3@ terms . It@was@to@be@on@t s@ Ⅱ vo Ⅰ that@Eastern@tradition@tried@to@explain@the@hypostatical@and@operational difference@ between@ the@ Son@and@ the@ Holy@Spirit . As@a@consequence@ Son@was@percoved@to@be@the@pasSve@part@in@the@euchari the@ act@ of@ changing@ bread@ and@ Wne@ attri uted@ to@ the@ Ho was@ Spi i , centered@ Di )@-a@ contrad si Ⅴ sacri i e , n For the coexi ted-"wi st@ as@ bei Ⅰ t@sacri i e@whi Ⅰ into@ the@ body@ and@ blood@ of@ Christ SPrit . Neverthoess Ⅰ on@ Ⅰ of@ Ch n@ Eastern@ cti WtHn@ concep the h@ the@ acti g@ tradi ion@has@never@ , si e@ by@ si e@ to@ tHs happy@ a@ e@ illogi ali y"@(G pri st@ of@ the@ eucha tFed@ to@ reconC sti Ⅰ th@@ apparent Ⅰ ・ f@st hme, 珂o 珂 %f o/ the duri 移れ 0 打 became co 後 sgc と the@ Eastern@ Church@ the@ iconoc g@ When@John@of@Damascus@was@confronted@with@ Ⅰ problem a st@@ controversaries the@argument@ Basilius, Liturgy@ the@ species@ of@ bread@ and@ wine@were@ . that@ @@ the called@"figure"@or "si n"@of@ the@ body@ and@ 5ood@ of@ Christ@ even@ after@ the@ reCtal@ of@ the insLtu onal@ Ⅰ consecration narra Ⅰ he@ opted@ ve,@ . Judging@from@ for@ the@ epi les@@ the@ moment@ as@ of the@content@and@position@of@the@epiclesis@in Eastern@liturgy@there@can@be@no@doubt@about@its@consecrational@function So , once@the@ question@ of@the@ moment@ other@way@ was@no@ Adopting@ Ⅰ t3@ reC ぬe 乃 Ⅰ of@ these@ understanding@ led@ to@ e@ emPre@ elaborate@ceremony@ take@ po Ⅰ up@ mi pri st@ りク the@ nuc Ⅰ medieval of@ the@ i stituti us@ n3 thuseffectively making moment@ n, of@ consecrati THs clash@ with@ Eastern@ tradition@ when , after@ the Ⅰ cked@i to@the@territory@of@the Ⅰ liturgy@ for@ its c3@ epiclesis, The@ first@ theologian@to surrounding@the@ was@ Nicolaus@ al@context,@he@stressed@the@ac more@ posed@ there to@ the@ eucharist , and@ started@ to@ criti ize@ the@ this@ challenge@ even@ scheme@ ofthissacrament, words@ a@ was@ John@ of@Damascus@did , Western@monks@f Fourth@Crusade@(1204) Byzanti of@ consecration@ as@ gans@ had@ opted@ for@ the@ narrative asbeing the@ answer@ the@ hylomorphic@ theo Western@ than@to@ Cabasilas Ⅰ ve@ro Ⅰ than@ the@ Greek@ Fathers , . However of@Chri so@ that@ ・ in@ a@ none t@as@the@sacri Ⅰ ter@ he@ cou i ing Ⅰ be quoted@extensively@by@Catholic@theologians@in@their@polemic@against@the Protestant@ understanding@of@ the@ euchari t 一 279 Symeon@ of@ Thessalonike@ but@even@he@never@insi Fna , prayer theologians@ Ⅰ took@ Marcus@EugeDcus at@ the@ time@ much@ harder@ ant a@ ted@on@the@epi Ⅰ , the@most@anti proposed@ for@ a@ dogmatc@ stand, consecratory , uDoDst@of@3l@Eastern . Faced@ with@ a@ formula , defini ion@ by@ the@ Pope , according@ to@ whi h takes@ place@ only@ through@ the@ words@ of@ the@ Lord , "@he attacked@ Western@ When@ Ⅰ , he@recognized@the@necessity@of@the institutional@ narrative@ for@ consecration understanding@ Western@ of@ the@ Council@ of@ Florence , is@ given@ a@ fair hearing . Like@Cabasilas@and@Symeon "consecration@ ・ s@@ as@bCng@the@so 一 liturgical@ customs@ of@ the@ eucharist@ pressed@ to@ say@ as@ but@ its@ Christ , centered never@ such what@ is@ the@ moment@ of@ consecration , all Eastern@theologians@since@the@days@of@John@of@Damascus@had@opted@for the@epi Eas 七 ern sis . However,@unt@@ Ⅰ theologian had consecratory be@relativized@ the@ Lme@after@the@Counc@@ ever asserted that . This@has@ become@Eastern@dogma@ accordingly of@Florence,@no 0 れか切りゆ ic鹿 5% were much@ later@ and@ should