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154号上 - Biglobe

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154号上 - Biglobe
(1) 福岡県地方史研究連絡協議会会報 2013.8.31
通巻第154号
Vol.47 Nol
平成25年8月31日
福岡市束区箱崎
〒812−8651
福岡県立図書館
郷土資料課内
1丁目41番12号
園田関困圏
TELO92−641−1126
福 史 連
題字海星 劉寒吉氏
TheLiai80nCouncilon LocalHistoryofFukuokaPrefecture
創造的な地域史研究を
言うまでもないことだが、歴史
は科学である。郷土史・地域史も
むろん例外ではない。
ここ二十年余り自治体史の編さ
んに関わってきて経験したことで
あるが、できる限りの基礎史料を
収集して、注意深く吟味してみる
と、それまでの定説や通説に疑問
を抱くことがよくある。昔からの
定説がそのまま無批判に継承さ
れ、通用しているのである。その
中には伝説がそのまま歴史として
独り歩きしている場合もある。ま
た古文書などの根本史料に拠ら
で、私はその一つひとつについて
丁寧に理由︵根拠︶ を書いて返信
した。やがて返事が直接私宛に寄
せられ、﹁懇切な説明でよく分か
りました﹂と礼が述べられていた
が、それでも﹁先祖からの言い伝
えは今でも信じています﹂とも書
かれていた。系譜伝承というもの
の重みを痛感させられた次第で
大城英知信
と混同されたらしく、なんでもそ
う事を言うてもろたら困る。﹂ と
言われた。その人は宇都宮氏流と
される蒲池氏の傍流大木氏のこと
近世初期に編集されたもので史料
的に問題が多く、その記載事項に
は虚構が多いのであるが、今なお
郷土会の発展も期待できないので
はないだろうか。 ︵三池史談会︶
それがないと郷土研究の活性化や
でオリジナリティーのある地域史
研究を目指して欲しいものである。
願わくば郷土研究会では、創造的
ればよいというものではあるまい。
地域史の研究とは、ただ過去の
定説・通説をそのまま継承してお
史跡案内やボランティアガイドの
説明資料として罷り通っている。
私はこれまで同系図に対して歴史
的な批判を加え、三池氏の歴史像
を正しく描き直すことに努めてき
たのであるが、それでも一旦定説
化した地域の歴史や伝承はなかな
か矯正されず、しぶとく生き続け
るものである。
なっている。しかし、この系図は
今一つ、大牟田市の古い寺社の
中には中世領主三池氏の創建にな
るものが多く、建立者や創建年代
についてはおおむね三池氏の系図
︵﹃筑後国史﹄所収︶ がその典拠に
あった。
の居館である大木城跡には教育委
員会の説明板も立ててあると言っ
ておられた。教育委員会の説明板
がいわばお墨付きなのであろうが、
だからそれが正しいとは限るまい。
たとえば八女郡の某町︵現八女市︶
では、教育委員会が立てたある史
跡の説明板に数ヶ所の明らかな間
違いがあったので、帰り道に役場
に寄って訂正をお願いしたことが
熊本県での話であるが、町史の
中である国人領主 ︵国衆︶ の系譜
伝承について、これまでその町で
は定説になっていた子孫の行く末
を、同家の伝存古文書に基づいて
見直した自説を述べたのであるが、
刊行後しばらく経ったある日、子
孫に当たる方から編さん室宛に、
町史の記述は間違っていると文書
でクレームが寄せられ、六ヶ所に
わたって自説への反論というか公
開質問状のようなものが記されて
いた。しかし、承ると、その反論
はいずれもその家の言い伝えや思
い込みに基づくもので、客観性に
あ
る
。
乏しく、関係史料を正しく吟味す
ず、歴史というよりむしろフィク
ションに近い場合もある。そこで、
客観的にこれを見直したり修正し
たりして自説を発表すると、思い
がけない地元からの抵抗に遭うこ
とがある。そうした二、三の例を
紹介しよう。ただし、固有名詞は
伏せることにする。
言ったら、﹁ちょっと待った。﹂と
ま南北朝時代の竹井城合戦︵現み
やま市高田町竹飯︶ の話になり、
この合戦に出てくる宮方武士の大
城藤次について、私がこの大城氏
は筑後の在国司草野氏の一族だと
れば説明のできる事柄であったの
大分古い話しであるが、筑後の
某町で郷土史研究会に呼ばれて講
話をした時のことである。たまた
話を遮られ、﹁先生、今ごろそうい
第四十七回福岡県地方史研究協議大会
九州大学大学院比較社会研究院
中野 等
﹁近世柳川城の歴史とその構造﹂
︻講演1︼
福岡県の近世城郭2 筑後の部
平成二十五年六月二十二日出、福岡
県立図書館レクチャールームを会場
に、主催福岡県教育委員会、共催福岡
県地方史研究連絡協議会︵福史連︶で、
第四十七回福岡県地方史研究協議大会
を開催しました。今回は﹁福岡県の近
柳川城および城下町の構造
筑後柳川は水郷として知られる。観
光客をのせた﹁ドンコ舟﹂ で賑わう掘
世城郭2 筑後の部﹂をテーマに、九州
課の園井正隆氏に講演いただきました。
る。柳川は戦国期に南筑後の有力国人
であった蒲池氏が本拠をおき、ついで
九州平定後には南筑後三郡に封ぜられ
顎 駁; 壷 身 蕉鵬溜 ∴∴∴ ∴∴ :∴∴ ∴∴「∴∴ ::∴∴∴ 菖 ∴∵ ∴∴十 ∴十一調子
圭一∴. ∴∴よし∴∴∴:∴
∴ 一一∴ ∴∴ ∴∴
とが多く、近世城下町は一般に武家地
と町人地・寺社地などに分類される。
近世都市柳川の基本構成について見
いても天守・広間・書院・所々矢倉な
年候て、高麗へまかり越し、朝鮮にお
に於いて苦労仕り、中戻り仕り、又一
また、後年の史料であるが、いわゆる
ておくと、ここは社会的・地理的に大
る以前であり、柳川立花領には本城たる
ど申し付け﹂と、これに符合するよう
﹁立斎様御自筆御書之写﹂ には﹁高麗
きく三つの部分に区切られる。すなわ
柳川のほか、五つの支城が設けられた。
る。主たる城濠もこのころに設けられ
領した田中吉政の時代だといわれてい
ではあるが、低湿地という自然環境を
を相互に連結・補強したり、柳川と久
沿岸に断続的に存在していた干拓堤防
本報告では主に近世成立期を主題と
するが、まず、近世都市柳川の城下町と
しての構造について概観しておこう。
豊臣期における城郭整備について確
実な史料としては、上洛に伴って統虎
︵当時の実名は﹁親戚﹂を称する︶ が
近世社会は兵農分離という体制を前提
た城下町はそこに集住する武士階級と、
てた覚書がある。ここには小野和泉守
文禄五年五月十七日付で留守居衆に充
鎮幸に対し﹁柳川城普請肝煎申し付け、
に成立しており、こうしてできあがっ
ゆる町人層を主たる構成体として成立
彼らの需要をみたす商人や職人らいわ
する。武士身分と町人身分との隔絶は
宮守居﹂なる肩書きが付されている。
︶
城下町内での居住区域にも反映するこ
︶
七年台所入之掟﹂は慶長七年七月二十
五日付で、田中吉政が国元に充てたも
のである。そこには﹁台所入﹂すなわ
留米や八女黒木などの支城を結ぶ道路
網の整備などをおこなっているが、柳
川城・城下町の本格的な建設も吉政の
時代に始まると言われている℃﹁慶長
うこともあって、領国統治を積極的に
進めていく。たとえばそれまで有明海
巧みに利用した要害であり、龍造寺隆
信や戸次道雪らも攻めあぐねたその難
攻不落ぶりを往事の柳川人は ﹁柳川三
年、肥後三月、肥前・久留米は朝茶の
たものと考えられる。
子﹂と讃えた。
う経歴の持ち主である。筑後入封前は
三河を領し、城地の岡崎を近世都市化
する上で大きな功績を果たしていた。
吉政は筑後国を一円的に領有したとい
江の出身で秀吉に取り立てられたとい
国は田中吉政に与えられた。吉政は近
西軍に与し、戦後改易されてしまう。
関ケ原合戦ののち、欠国となった筑後
立花宗茂は他の筑後の諸大名ともども
なか、慶長五年の関ケ原合戦に際し、
柳川城と城下の整備
国内の戦乱や在京生活、朝鮮出兵な
どによって領国支配も思うに任せない
いわゆる﹁一国一城﹂令が発布され
な記事を兄いだす。
される地域、および同じく武家地の南
ち、並郭式構造の本九・二の九・三の
丸を中核にほほ方形の壕に囲まれた武
家の集任地 ︵﹁城内﹂と称される︶ と、
その北東部に展開する﹁柳河町﹂と称
豊臣政権期の柳川
戦国期には国人蒲池治久が支城を築
いていたと伝えられるが、詳細は不明
である。のち、蒲池氏は二流に分かれ、
それぞれに下浦池・上溝池と俗称され
る。治久の孫にあたる鑑盛に至って柳
川に﹁築城﹂し、ここが下蒲池家の本
拠地となる。近世柳川城の淵源はここ
西部に隣接する ﹁沖端町﹂と言われる
地域である。
た立花宗茂が城地とする。近世的な城
郭建築を含め、城下町の建設はこの段
に求めることができる。柳川城は平城
繊
冨ユ
;∴:
自
り割りは、近世柳川城の城濠に由来す
階から見られるようであるが、それが
大学の中野等氏、久脅米市文化財保護
各講演について、次のとおり、﹃福
岡県地方史研究協議大会報告﹄ より一
部転載します。全体は福岡県立図書館
郷土資料室で閲覧することができま
料室のページからもご覧いただけま
本格化するのは関ケ原合戦後に筑後を
蒸器鸞繋\言霊霊−\ 義霧蓬蓬髪遙豪/
す。また、当館ホームページの郷土資
す。 ︵福史連事務局︶
∴「∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ ∴∴
(2)
地方史ふ く お か 第154号
2013.8.31
(3)
この田中家は吉政を継いだ忠政が元
立花豪再封後の柳川城下
に及び述べられている。
関わる様々な指示・命令が五十五箇条
ち大名蔵人地を中心とした領国支配に
城内を形成し、連郭式の構造を持つ。
城下に注目すると、外郭南東の地点
から束へ延びる幹線道 ︵通町筋︶ は、
の居住地とされている。この四地区で
までは南北に連なり、さらにその南に
は外郭が東西に長く広がり、上級武士
の屋敷と蔵が存する。本丸から三ノ丸
と家老屋敷があり、三の丸に家老四家
侍屋敷の調査を、平成六年に実施し
た。久留米城外郭−佐々木家屋敷跡−
では、三間二戸の薬医門が現存してお
すものと考える。
ており、消火に砂を用いた可能性を示
る。焦土に混じって大量の砂が堆積し
年の ﹁田代火事﹂を当てることができ
火﹂、下層には享保十一︵一七二六︶
︶
和六年八月に江戸で没すると無間断絶
となってしまい、柳川には立花宗茂が
高良山西麓を南北に通る薩摩街道へ接
一
再び城主として返り咲く。この度与え
三mの溝が約三四mの長さで掘られて
いる。本調査地点は、白石火事︵一六
九八︶、湯山火事︵一七〇五︶、文政の
火事︵一八二人︶とその翌年の火事︵一
八二九︶ の都合四度の火災にあってお
り、屋敷境の溝とは考えにくいこの溝
を、火除けのために隣地との境から四
mの幅で閑地を設けたことを推測する
ことも可能であろう。さらに、東側に
おいても隣地境界から外れた所に穴蔵
を設けているのも興味深い。
られた領知は従前と異なり、山門郡の
あり、井戸の右手には貯蔵用の穴蔵数
最後に紹介する久留米城外郭第一八
次調査は平成二十四年度に実施したも
り、屋敷地の玄関口を想定することが
できた。門を入って直ぐ右側に井戸が
個を確認した。門の正面に母屋の玄関
があったであろう。母屋部分には柱の
続する。また、同地点から南には柳川
礎石が数個残存していた。門の左手は
池を有する庭があったと推定される。
母屋の奥手には溝は数条走るが、畑・
往還が延びる。二つの幹線道の沿線に
は町屋が形成されている。一方、城下
ゴミ捨て場などがあったと考えられる。
ほか三瀦郡の南部、三池郡の北部およ
び矢部川以南の八女地方であったが、
城下の東方に、寺町に二十力寺を超え
櫛原侍屋敷遺跡第三次調査では、屋
敷地内の西側で南北走行の溝を検出し
ので、外郭の南東端に位置する部分に
おける外堀に面する土塁の状況の調査
である。この地点の西側を平成三年と
二十二年に調査を行い、土塁の状況を
確認している。土塁は版築をなしてい
ることを確認していた。今回の調査で
は土塁の基底部を確認でき、幅八mで
の侍屋敷は、外郭を中心に見て、南西
に京隈侍屋敷、束に櫛原侍屋敷、南に
石の城下町として栄えることになる。
る寺を配し、各停屋敷に接する町屋に
寺を点在させ、非常時における前線基
た。溝幅は七五∼一一〇m、深さは一
接して存在する。
庄島侍屋敷、南東に十間屋敷が町屋と
地として利用できるよう配置している。
方法など、全てが同一ということはな
、>
ヽ↓ 〇
り、更なる事跡の分析に努めていきた
用については、更なる類例を検証でき
ると考えている。久曹米城関連の遺跡
の調査は既に一〇〇箇所を超えてお
いが、母屋・庭・穴蔵・井戸・畑など
溝のつくりや侍屋敷に見る土地の活用
久留米城関連遺跡の屋敷地内の土地
利用状況について述べてきたが、境界
字形であり、調査区中央付近で立ち上
がり、陸橋状となっている。南北端で
は階段状となるため、通常の溝とは異
なる。﹃米府紀事略巻之七﹄ に、床下
あることが判明した。
久曹米城関連遺跡の調査を開始した
のは、平成元年の ﹃三本松遺跡﹄ が最
初である。久留米城下町遺跡第一四次
調査 ︵米屋町︶ では、町境・屋敷境・
屋敷地内の溝を確認した。既調査にお
いて、溝の護岸はそれぞれの所有者が
の配置に類似性が見られる。
また、火災等の災害についても、記
録に残る事跡と調査成果の対照が進ん
でいる。火災防止を取り入れた土地活
ほど離れて、幅一・三m、深さ一∼一・
櫛原侍屋敷遺跡第一五次調査におい
ては、奥の隣家との屋敷地境から四m
できる。
敷地内に設ける溝の性格を伺うことが
湿抜に大滝を掘ると題し、﹁戸田勘解
由宅ハ戸田尉左衛門新造なり、床力下
の地形二大溝を縦横幾筋も掘り、床下
を立ッて往来するこ妨なし、床下掃除
の為メ且ツ湿を泄ス為也﹂とあり、屋
七〇∼二七五cmを測り、断面形状はU
以後柳川は幕末まで立花藩一〇万九千
残念ながら、天守閣を含め本丸は明
治五年正月 ︵旧暦︶ に謎の失火によっ
て焼減している。城域は、のち開田さ
れ石垣の多くは有明海の干拓堤防に再
利用されたという。したがって、現在
天主台として整備されている遺構は、
くものではない。
必ずしも近世城郭のそれに直接結びつ
︻
講
演
2
︼
−屋敷地内の土地利用状況IL
作るとの見解が示されている。この調
﹁発掘調査に見る久留米城下町
久留米市市民文化部文化財保護課
査では、そうした知見を再認識すると
共に、屋敷地内の溝について、家人が
往来するに便利なように石積みを行っ
ている。この調査では、VOC銘入染
付芙蓉手鳳凰文皿が出土したことも記
すとともに、出土した焦土層が、上層
で文政十二 ︵一八二九︶ 年の ﹁庄島大
国井 正隆
福岡県指定史跡の久留米城は本丸に
天主を有せず、七 つ の 櫓 と そ れ ら を 繋
ぐ二層の多聞長屋が取り巻く構造であ
る。天保年間図によると、本丸の南側
に大手口を設け、二の丸に藩主の御殿
(4)
地方史ふ く おか 第154号
インターネットを活用した地方史研究
国会図書館所蔵の図書
国立国会図書館所蔵の本で著作権が
で買うこともあるし、文字通りの古書、
や自室でパソコン画面ををがめるだけ
貫一頁めくって探し出した史料が、今
一泊して防衛省防衛図書館を訪ね、一
段に縮まったということ。私が東京に
都市在住者と地方在住者との格差が格
のはない。第一にあげてよいのは、大
ネットを論じると、こんなに便利をも
地方史研究という視点からインター
報が盗まれたり、話題には事欠かない。
き込んだ犯罪の温床になったり、誹誘
中傷・差別がまかり通ったり、個人情
ないと、目的のものを見逃すことがあ
最初から最後まで一コマずつ見ていか
力されていないこともある。このため、
綴じられた史料の冒頭部分たけしか入
索できるが、誤入力があるし、分厚く
されている。史料のタイトルなどで検
公開している。平成二十三年四月現在
で一六二万件、二二四六万画像が収録
所蔵資料を撮影して画像データとして
戦史研究センター︵陸海軍の史料︶ の
政府の公文書が公開されている
国立公文書館が設置しているサイト
に﹁アジア歴史資料センター﹂がある。
国立公文書館︵旧内務省史料を含む︶、
外務省外交史料館、防衛省防衛研究所
工夫することで、さらに多くの図書に
本誠﹂、号の ﹁福本日南﹂など検索を
実に出てくる。こうした時に本名の﹁福
目次に日南の名が入っているものも確
手っ取り早い。日南の著作はもちろん、
をめくるよりも画像を呼び出す方が
のもあるが、原稿を書くときには、本
作である。現物を古書店で入手したも
私がよく利用するのは福本日南の著
その中には稀親書も含まれるだろう。
よう。六六七点の図書がヒットする。
れている。文字情報を利用するだけな
ら、苦労して原本を探す必要はない。
明治・大正・昭和期のものに限られる
が、平成二十三年六月時点で図書六万
八千点が収録されている。これも日々
増加している。﹁博多﹂ で検索してみ
その差額が実収になっているようだ。
五〇円の送料を取るので、たとえば送
料実費が八〇円 ︵メール便利用︶ なら
いる本があり驚くが、出品者は必ず二
﹁ABaZOnL では一円で売りに出て
たどりつくこともある。
拾っているので、戦前の週刊誌などに
最も安いものに容易にたどりつく。﹁日
本の古本屋﹂ では、雑誌の執筆者名を
段がつけられているので、送料込みで
を検索する。同じ本でもさまざまな値
あるいは新刊が古書店に流れたものな
ど、さまざまな方法で購入できる。こ
で済む。出張旅費も、複写費用もいら
る。日々増加しているので、繰り返し
い、身銭を切っている研究者にとって、
ように地方在住で、しかも肩書きのな
あっけない程に苦労がなくなった。
もっともここに落とし穴もあり、不
揃いの紙が時系列で分厚く綴じられた
公文書を見た者にとって、パソコン画
面に出てくる画像は異質な史料だ。そ
こは研究成果を左右する程の重みがあ
インターネット上の書店﹁ABaZOn﹂、
全国の古書店が加盟する﹁日本の古本
オークション﹂ の三つで、目的の書名
屋﹂、個人・企業が出品している﹁ヤフー
に赤鉛筆で書き込まれたようなものに
た。そこで、webca十を検索し﹃日本一﹄
所蔵目録
﹁日本の古本屋﹂ で日南の書いた文
章を収録した月刊誌﹃日本一﹄ を知っ
全国の大学図書館を網羅する
も出会う。こうなると、国会図書館以
を取り寄せた。現在はWebcanP︸us
外には存在せず、他に代えがたいデー
タとなる。画像データのない本・雑誌
などは、国会図書館のホームページか
ら申し込むと、代金後払いでコピーを
先行研究を探すには
あるテーマで先行研究の論文を探す
へとサイト名が変わっている。
︶
送ってもらえるサービスもある。
のバックナンバーの所蔵元を探した
︵ある所にはある!︶。すべての目次を
収集し、その後、目的の箇所のコピー
戦前の検閲制度では出版物は必ず内
務省に納本された。時には検閲のため
の時、私は三つの方法を試みる。
ない。必要なのはいかなるキーワード
切れたものから順次画像として公開さ
で検索するかという工夫である。私の
のぞいてみる価値はある。
たとえば﹁新原 海軍﹂ で検索して
みる。糟屋郡南部の須恵町・志免町・
粕屋町に所在した海軍炭鉱 ︵当初の名
称は新原海軍採炭所︶ の史料がヒット
する。該当件数は四三五件。もちろん
直接関係ない史料が紛れ込むことはあ
る。たとえば海軍の軍人に新原という
姓の人物がいた場合など。それらを除
いて画像を見ると、海軍炭鉱の施設を
描いた設計図・配置図、事故が起きた
図書を購入する場合は
石 瀧 豊 美
る。私が防衛図書館で閲覧した史料は、
ところどころ頁全体が袋で覆われてい
時の写真など、さまざまな史料が出て
参考資料として図書を購入する場
こともできる。Oinii︵サイニー︶−学
地方史研究とインターネット
た。情報開示を躊躇する理由があった
くる。採掘によって井戸水が滴れたり、
合、もちろん書店で買えばよいのだが、
術論文のデータベースだ。ただし、記
インターネットは功罪相半ばする。
ゲームにのめり込んだり、未成年を巻
のだろう。パソコンをながめているだ
田が陥没することがある。そうした鉱
そうなると定価で買うしかない。定価
出会える。
けではそこまで思い至らない。
害補償に関する史料もある。
︶
2013.8.31
(5)
︶
事索引なので、どこかで現物に当たり 人物文献検索﹂、﹁郷土関係雑誌記事索
直す必要はある。 引﹂、﹁古文書等検索﹂ のデータベース
福岡県立図書館のホームページから が提供されている。これも必見である。
﹁郷土資料室﹂に入ると、﹁福岡県関係 ﹁郷土資料の紹介﹂から地図・絵葉書
千 綾 光 男
に幸先の良さを感じた。
立華を献上し、又、昭和二年十一月名
古屋における、陸軍大演習の際、今上
陛下の御座所の花を献上する光栄に浴
す﹂とある。本題﹁小倉の生花真古流﹂
小倉の生花真古流とその足跡
慈照寺銀閣
今、手元に﹁無双真古流年表慈照寺
華務係編﹂がある。仕上げは簡素で薄
緑の表紙二重に、前半は左横書き年表
で後半は反対側から始まり、右縦書・
地図﹂は明治・大正・昭和︵戦前・戦
を見ることもできる。﹁近代福岡市街
を作り、慈照院殿より御賞美を受けた。
一人初代珠阿弥は、初めて青竹で花器
寺八八頁︶。義政公の近臣⊥ハ祖師の
︶
ている。 ︵福岡地方史研究会︶
中︶ の地図三二点を画像として提供し
を調べるのに適している。
下と一二巻が全文記述され、内容の詳細
忠兵衛︶ が ﹃萩農霜訓解﹄を著し、そ
の中で南毒蕎花敬、月雪花楽堂郁山、
花得山翁の名跡を次、真古流本家とな
り﹁萩濃霜﹂との拘りを述べる。
右の ﹁萩濃霜﹂ に関し、図書館で次
の書物を見つけた。
一、﹃続花道古書集成﹄第三巻 纂者・
続花道古書集成刊行会 編者代・岡
田幸三 発行者・田中周二 発行所・
思文閣出版
同書は、﹁目次﹂ に立国巻他十四書
名がある。何よりも﹁萩濃霜﹂上・中・
また、文化三年 ︵一八〇六︶ 五月、
木村家四代花楽堂雪山 ︵木村六右衛門
二代目、四代目の花楽堂によって花活
けの法が確立したのである。
木村家に関する、次の文章を引用させ
て頂き、稿を進めることとしたい。
真古流宗家と花楽堂
生花無双真古流は室町時代八代将軍
足利義政公を開粗とし、その近習の六
祖神︵能阿弥・相阿弥・江州葦浦寺・
大江広末・大徳寺義門・筑紫主阿弥︶
の一人である筑紫主阿弥︵法夢庵軒梅︶
を経て、一方軒花蘭︵山名宗閑︶⋮と
続き、宝暦十四年︵一七六四年︶ 六月
、一国蕎花頭より書生蕃花敬︵宗家
木村徳右衛門︶がその名跡を受け継ぎ、
以来、木村家が代々無双真古流花術本
無双真古流家元臨済宗銀閣寺管長第廿
さて、豊前の小倉には、街道筋に時
折り、大きな顕彰碑が建っている。中
でも、一際目立つのが、台座に﹁門人
中﹂﹁門弟中﹂と刻まれた生花の顕彰
家を名乗っているとある。
二世管憲宗師の小論である。
双方の文末を一枚の表裏に印刷した
五枚程度の薄い小冊子で、刊行年月日
碑である。
碑と京都銀閣寺の生け花との関係につ
いて、無謀にも銀閣寺へ問い合わせた。
天如周充﹂より
﹃萩農霜﹄ を著す。⋮略⋮。この縦心
続いて﹁天明六年︵一七八六︶十月、
木村家二代花楽堂郡山 ︵木村角太郎︶
軒の践文によれば木村家二代花楽堂郡
山は天明六年の秋に京都に上り、洛西
の ﹁見聞き﹂ である。この原稿を善く
に当たり、生来初めての船出、筆先の
て花活の法なし ︵古寺巡礼京都 銀閣
なる瓶を衆め、只、花の活方ばかりに
室町時代、花器は唐物、和物の古雅
程なくして、京都慈照寺銀閣華務様よ
銀閣慈資料﹁無双真古流と慈照寺
の言葉が流行したとのこと。明治以後
二、﹃日本花道史﹄ 著者・久保田滋・
瀬川健一郎共著 発行者・豊島激
発行所・光風社書店版
同書は、全一八〇頁に及び、いけば
な史年表も付している。生花史の解説
で、鎌倉時代は﹁立てる﹂、室町時代
は ﹁立花﹂ で生け花の名称がある。江
戸時代には﹁拠入れ﹂が起こり、﹁生花﹂
﹁生花﹂ の名称や、別に﹁挿花﹂﹁花道﹂
や頁の印字もない。小論は ﹁そもそも
地で真古流の生花を教え、その門葉の
先年、これを解し難く、小倉の顕彰
懇望により﹃萩農霜﹄を著したもので
り、平安朝の細やかな毛筆で以て返書
を受け、画質・色彩の上品を ﹃同仁﹄
誌八冊と冒頭の生花真古流に関する多
数の資料が小包で届けられた。
方向を見失うことの無い様に慈照寺銀
⋮﹂とある。
閣のご教示に甘え、生花真古流の創始、
概して、室町時代の義政と同朋衆、
生まれたと述べている。
どが、それぞれの様式によって名称が
は﹁盛花﹂﹁投入﹂及び﹁前衛花﹂な
一方、私の調査は独学で、一人歩き
無双真古流華道の濫腸は銀閣寺の開
基、足利八代将軍慈照院殿准三宮義政
公を以って流祖 と す る ﹂ に 始 ま る 。 論
の終わりの下、枠外に横一列で﹁昭和
四年︵一九二九︶ 華道家名鑑の記があ
るので、これが恐らく出典・刊行年月
日であろう。
その一文に﹁営流は明治四十四年九
州小倉において、大本営御座所に、生
花を謹挿し、明治天皇の天覧を恭ふし
たのをはじめ⋮﹂とある。続いて、同
四十年五月大正天皇東宮に在せし頃、
京都離宮御静養中、御座所に生花及び
もあり、長浜の岩松家文書もその一つ
に伝えられた手永日記などの郷土資料
銀閣慈照寺﹃同仁﹄ ︵平成十八年発行
る手が震え、冊子の撮影は今一つ芳し
くなかった。幸いにも、岩松家文書﹁生
花真古流﹂冊子は、素晴らしい結果を
得た。同博物館蔵岩松家文書﹃挿花萩
之霜下之巻﹄ は、驚いたことに、京都
なり 一〇九頁
云ふあり、真古流挿花に達人、詩人
何故、大正、昭和以降に入って、真古
云われる。辛うじて戦禍を免れ、今日
長浜地区には、幕末の偉人、響灘白
の挿絵︵カット︶が全く同一であった。
第六巻、第七巻︶ と内容の字句、花術
−御船方役−奥に住吉社あり、毎年六
り、真古流の先生あり一〇三頁
1円応寺筋−遍照院と云ふ真言宗あ
理﹂と記述の覚えがあったが急にはそ
れが見当たらない。唯、第七号の奥付
には、著者・木村郡山著 ︵月雪花楽堂︶
刊行・天明六年板行︵一七八六︶ とあ
る。二冊の花術冊子の版木が同じであ
るのか、年代はどうか、専門的なこと
は解らないが、やっと単位が一つ取れ
た感じであった。
城下町と真古流の師匠
明治後期、元小倉藩士松井斌二が書
で幾度も頁を捲っている。小倉の生花
いた ﹃龍吟成夢﹄ は、小倉城下の郷土
史を学ぶ初心者にとって貴重な手引書
真古流を学ぶ上でも大変役立った。こ
れは、以前、古書店で購入した。
当時、小倉の城下町で他の生け花を
含めて、生花真古流が如何に伝授され
たか、その師匠の名が、次の様に記述
されているので引用させて頂く。
豊前史料集成三 ﹃倉藩時式・龍吟
成夢﹄ 平成六年二月二十七日発行
原著者・松井斌二 編集者・小倉
藩政史研究会・代表 米澤三郎
発行所・小倉藩政史研究会より。
以下、原文のカナを平かなにした。
︶
歩いた。
及び三谷昔語り÷石碑は語る﹂ ︵呼野
遍︶山本公一著を参考に﹁見て聞いて﹂
冊﹁企救郡碑誌その二吉岡成夫著、
なお、小倉郷土会編 ﹃記録﹄第十五
きな碑であった。調査の足りない碑は
除いて次の通りである。
以上は、﹃龍吟成夢﹄ にみる江戸時
代の城下町、小倉の生花真古流の師匠
たちの状況である。
次に、小倉には明治・大正・昭和に
かけて建立された生花真古流の顕彰碑
が多々ある。最初にこれを発見したの
は、横代・呼野の外れにある庭先の大
なり、門弟多し一四人頁
︵正信・化龍︶ と云ふ真古流の先生
屋と云ふ、御茶屋番に福島与左衛門
湯川の山畳み重なりて富士見のお茶
花、遠州流の挿花、真古流の挿花等
奉納有是、旦過町には盆石等に夕刻
より参詣人語衆す一四〇頁
−城野村富士見の茶屋−九郎原の山・
月晦日に祭礼あり、英日は諸人に参
詣を免され群衆し賑敷⋮略⋮以て見
立作り物影敷、門外には池の坊の挿
慈照寺銀閣﹃同仁﹄ の挿絵は﹁電算処
−川上屋敷−御献上御縮師森島壮助と
−中の町−中の町入口右角に高橋益左
衛門と云ふ真古流挿花の先生、臥梅
堂と云ふ 八七頁
である。
白焼した。この戦火で城下町を始め、
近隣の村、農家が多くの被害を受け、
流は裏返したのか。要因としては、明治
洲の灯台建設功労者・岩松助左衛門を
称える顕彰会があり、活躍されている。
先年、郷土会の是則君から岩松家文書
一覧︵件名約八〇〇ほど︶ の資料を受
郷土の貴重な資料が焼失、逸散したと
の時流に乗り切れなかった点である。
当時の政府は、既に欧化主義から日
本独自の国家主義、端的に生花の時流
は ﹁嫁入り道具﹂﹁免許制度﹂等改革
が進んでいる。豊前では ﹁巻き取り﹂
けた。しばらくして、その内容に目を
江戸時代の家元制度、ピラミッド型の
組織、女性の進出。明治期の生花の時
流、戦後の前衛活花などの生花の歩み
は、真古流の衰退の疑問に大変参考に
制度を中心とした男性社会、宗家を脅
書が残らないその体質が衰退の一つで
はないか。もう一つ考えられるのが、愚
説で、纏められないので今は遠慮する。
け、同館学芸員日比野氏に文書の閲覧
とデジカメ撮影の許可を得た。これが
初めての郷土史との出会い。和紙を捲
文が同じ
なった。 同三頁∼六頁
かす宗家に勝る顕彰碑の尊称、文章・
通すと、件名の終わりに﹁挿花花之霜﹂
﹁花伝書﹂﹁無双真古流花術叢書﹂ 二冊
の計四件を一覧に見つけ歓喜、会員是
則君へ謝意を送った。直ちに、八幡東
区の北九州市立歴史博物館へ駆けつ
郷土史料
慶応二年、小倉藩は幕府の長州征討
で長州兵と戦い、八月一日、小倉城を
忠言宣誓蒸器等と妖
言∵十岩諒送工隼−夕を1気先高察
﹁帝方\惹7着藍崇高衆悪球詰寄定ま︸高潔∵︰
言差薬消雪?笑▲惹,業者之も窪批難︵
五言高み丸々窯元宗一雪空享子 ふ読売︳あを費富を÷㌻∴
二手㌻哉糸豊克急募亨誓言曇葦合,震倶
委︷ぅゾ あ 局tあ4年拍−紅ふう亮㌣二鮮ズ ノー
−カタへ華か、∼合評 治し一点−← チ高く
:÷急実需を主ふ!∴高点手鼻−‘ノー
上左 銀閣『同仁』誌
下左『挿花萩之霜』
(6)
地方史ふ く お か 第154号
2013,8.31
(7)
顕彰碑など
−笑月堂素人碑−足立山麓広寿山福衆
花術之宗家篤静観月堂素人園助次郎
寺墓地の角にある。碑に無双真古流
翁大正三年六月門人建立と刻まれて
い
る
。
︵現無住寺︶。碑は昭和の中頃危険な
−淡月堂楳窓翁−南区中曽根の謹念寺
ため取り壊された。池尻家に免状と
位牌がある。
−花月堂青雲花林仙碑−呼野・円龍寺
の境内にある。花生家。住職の話し
では、正月は親が真古流で花を活け
ていたと聞いた。
︶
−本山幹事真古流観月替花秀碑−南区
横代、門の横に大きな顕彰碑が建つ。
二基の顕彰碑がある。同地区は横代
−花愁院翁書道碑−横代には両白石家
神楽の保存会もある。
−茶屋本花活翁碑−葛原の中津街道筋
に面し、屋敷入口に花術と庭匠の大
子供達の指導と伝承に当たっている。
きな顕彰碑が二基建つ。横代・白石
家の作庭は同翁が拘ったと判明した
ので、その旨を取り持った。現在、
茶屋本家は葛原新町楽のお世話で、
一
碑は由緒のある墓碑が多いので何度
も訪問する。先日、郷土会例会の折
り、考古学・金石文専門の中村修身
氏に尋ねた処、﹁碑は裏面を調べる
事﹂ の指導及び﹁花塚は真古流﹂と
の助言を受けた。再度調査、裏面に
の刻字を確認した。同寺の碑文は由
大きく江戸後期の文政九年、真古流
緒が多いので、今までも再々訪問し
ているが迂闊であった。お礼方々本
稿に加えさせて頂いた。
−松田素坊と仏母蕃−広寿山福衆寺は
は宅地となり、その一角、地元の墓
何時も寄る笑月堂素人碑の横で近隣
聖應寺・朝日寺など懐かしい。先日、
若い時、二年ほど座禅に通った。塔
頭が多く、玉泉蕃・円通蕃・仏母蕎・
と共に残る。JR城野駅を過ぎると、
の方と話をする。昨日改めて、同家
−化龍先生墓−城野村、富士見茶屋番、
福島正信化龍の墓。城野の原、昨今
廃線旧妙見駅辺りで足立峰が一瞬ひ
両区呼野町国道筋の顕彰碑二基
秋月花芳堂如蝶居士碑
生花無双真古流・吟月花賞堂豊山翁碑
∴∴∴ .:∴∴ 官 :∴∴ 灘
を訪問した。尊父は仏母蕾の世話僧
との事。傍ら花・香等も嗜まれ、号
を松田素坊と称した。昭和四十二年
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴:
−秋月花芳堂如蝶居士碑−及び
−生花無双真古流・吟月花賞堂豊山翁
碑−昭和四年建立。呼野の国道筋に
並んで二基がある。下津家に免状が
っになり、富士山となる怪不思議。
−真古流城西舎中−竪町、安国寺の花
塚。碑の裏面に、文政九年五月吉日、
の三月に没。何よりも生前の花器︵竹
∴:\∴
竹 花活け 松田素肪
∴∴ 冨 :∴ ∴
∴:∴
∴∴「 ∴ 「∴
∴∴∴ 「∴
∴∴∴「∴__∴−_∴
真古流城西舎中と刻まれる。同寺の
膏∴∴享∴:「「∴オ:÷∴ゝ:
∴:∴∵∴;∴:∴
懲/鱗 r「∴ ∴∴
∴∴∴∴∴ ∴∴「∴∴.∴∴
城野 富士見茶屋番 福島正信化龍先生の墓
∴JL∴
残るとのこと。呼野は銅山の開発が
行われ、生花やお香が嗜まれ、文化
が栄えた。
廣寿山福緊寺 笑月堂素人翁碑
∴ 霧消∴
罵
(8)
地方史ふ く おか 第154号
器︶・台・香具等を保管されていた。
由緒は兎も角とし、明治以降か昭和
期に自分で作られた物と思わる。木
札に無双真古流花術之末家松×亭素
坊の木札・銀閣慈照寺之判とあるの
で写真に撮る。
−玉泉蕎−﹁玉泉番の老僧は玉井姓で
当時真古流の花道の宗匠として名高
かった﹂ ﹃記録﹄ 第四冊﹁広寿山の
記憶﹂友石孝之著︵九八頁︶。玉泉番・
仏母篭と如意蕎 ︵長清寺︶ などの塔
頭、福衆寺と末寺との関係、僧・和
尚・の師弟関係が分かり難い。玉泉
寺はもっと調べたいが、本寺が無い
ので、今回は簡単に済ます。
−花楽堂雪峰−同じく﹃記録﹄第十五
冊で友石孝之著に﹁晩年の小森承之
助日記﹂がある。丙寅の騒ぎで手永
小森一家が京都郡久保手永方に身を
寄せた日記で、﹁上の新宅は、大き
な造り酒屋と云うことの外かに、挿
花真古流の家元として知られてい
た。当主を善右衛門、挿花の方で七
代花楽堂雪峰といった。承之助の妻
は、この雪峰の長女であった。妻の
兄を嘉七郎、またの名を雪帆︵第八
代・花楽堂︶といった。﹂ 同七八頁
モノローグ
最後に、蒲生の植波家は代々文化人
を輩出し、漢詩・医∴化術に秀でた家
系である。三代目可適翁は、昭和二十
二年小倉の生花真古流宗家第十代花楽
堂雪崗翁の死去に際し、次の七言絶句
を奉じ悲しんだ。
奉レ英二無双真古流花術本家
花楽堂雪崗翁之逝去一
継承衣鉢夙威名
真古流風木鐸鳴
花楽堂空人不在
租春逝水奈無情
衣鉢を継承して 夙に名を成し
真古流風 木鐸鳴る
粗く春 逝く水奈ぞ無情なる
花楽堂は空しくして 大在きず
﹃三鎗高枕庭詩妙﹄ 第一遍
岡田桜波 ︵不二夫︶ 上梓
以上、今は幻となった小倉の生花真
鼓に、小倉の生花真古流は第十代で
終焉を迎えたのである。
完
古流、顕彰碑のみが現在もあちこちに
仔んでいる。
仏の緑
世の中は、広いようで狭い。狭いと
一手うか、お互いに縁がある。手永小森
承之助と久保手永木村家が縁続きで、
しかも本稿真古流木村花楽堂である。
なお、筆者は昨年十一一月、母の回忌
で大阪に行った。法事が早く終わった
のでアポなし、京都慈照寺銀閣に参じ
た。着いたのが午後四時半頃、銀閣華
務に挨拶、足利義政・真古流の話を伺
い、小倉の足跡を報告する。山荘を辞し
た時は既に京都は夕闇に包まれていた。
︶
実は、三年ほど前、前述の久保の木
村宗家を訪ねるべく、旧勝山町教育委
員会へ交通機関を問い合わせた。それ
が届いたのかどうか、返事が無かった
ので、短気でもって暫く調査を中断し
た。昨年四月遠くの会員から連絡を受
け驚愕した。銀閣寺が、豊前のみやこ
町を訪問、生花の実技。それがテレビ、
新聞で大層報道された。そのことで再
度筆を止めた。﹁素直になれ﹂との仏
の教か、母の法事が縁で銀閣へと参っ
た。以後再び調査を再開した処、本会
の末席を受け、又、仏縁なのか、お真
古様のこと執筆の機会を頂いた。﹁見
らないが、その様な経緯が有りました。
聞き﹂ の散策、専門的なことは全く分
併せて、申し述べます。
︵小倉郷土会︶
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