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第一章「富士重工業の歴史とスバルの誕生」 1、中島飛行機の歴史 1−1

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第一章「富士重工業の歴史とスバルの誕生」 1、中島飛行機の歴史 1−1
第一章「富士重工業の歴史とスバルの誕生」
1、中島飛行機の歴史
1−1
飛行機研究所から中島飛行機へ
富士重工業の前身は、戦前戦中にかけて数多くの戦闘機、航空機用エンジンを量産した
中島飛行機株式会社である。中島飛行機は 1917 年、元海軍機関大尉の中島知久平が群馬県
尾島町に「飛行機研究所」を設立したことに始まる。1919 年、飛行機研究所から「中島飛
行機製作所」に改組、中島式四型6号機が陸軍から20機もの受注を受けたのを期に、企
業としての本格的スタートをきった。以後、陸軍・海軍の軍用機を中心に発展しつづける。
1−2
中島の技術力とその認知
航空機用エンジンについては当初、自社生産は出来なかったが、1924 年頃から自社製エ
ンジンの研究を開始し、1925 年にはイギリスのブリストル社製ジュピターの生産ライセン
スを取得、5 年後の 1931 年には初の独自設計による「寿(ことぶき)」が完成、1933 年には
「栄(さかえ)」が完成した。栄エンジンは三菱の「零戦(零式艦上戦闘機)」などに搭載され
た、旧日本軍の最量産航空機用エンジンとなった。その設計の確かさは、終戦後アメリカ
に接収されたいくつかの機体がテストされ、日本での設計性能を大きく超える高性能を発
揮したことでも十分証明された。また 1937 年 4 月に、東京∼ロンドン間を 94 時間 17 分
56 秒の世界記録を樹立した「神風号」のエンジンも中島製だった。同年、当時世界屈指の
高性能軽飛行機「九七式」が、1941 年には一式戦闘機「隼(はやぶさ)」が登場し、中島飛
行機は「戦闘機の中島」という絶対的な認知を得るに至った。
終戦当時、従業員数は約 20 万人におよび、日本屈指の大企業となり、航空機分野におい
ては三菱を凌いだ。しかし、軍需が主であった中島飛行機は終戦と共に生産を停止し、歴
史に幕をおろしたが、後の自動車開発への技術力はここから蓄積された。創業以来の生産
実績は、機体 25,935 機、エンジン 46,726 基にもおよぶ。
1−3
戦争と飛行機
中島飛行機を代表する技師長であった小山氏は終戦後「われわれ中島の技術者は国家の
存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若
者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは
決してするまい」
(1)と述べ、それが各技師達の心にあって、中島飛行機の記録や回顧録
は極端に少ないものとなっている。
ここまで、中島飛行機の成り立ちと製品についてふれてきたが、あくまで当時の技術力
の高さとその認知について述べることを目的としたものである。
2、財閥解体から富士重工業の設立まで
2−1
航空機技術の自動車産業への転用
GHQ(連合国軍総司令部)の財閥解体により、中島飛行機製作所は各工場を母体とした
第 2 会社群 15 社に分割された。中枢は 1950 年に「株式会社富士産業」として再スタート
したが、日本での航空機生産はもとより、その研究開発も禁止された為、高度な知識や技
術力を持て余しながら、鍋やヤカン、リヤカーなどを作っていた。だがその基礎技術を活
かそうと、1949 年国産初のフレームレスリアエンジンバス「ふじ号」を開発した。このバ
スはモノコック構造(2)で設計され、元々航空機のものであった技術の自動車への初採
用だった。当時都市交通の要はバスであったが、車体が旧態化し、交換が必要であった為、
バス市場は成長市場であった。このバスは好評を得て、会社復興の大きな力となった。富
士産業にとって自動車産業が、かつての技術が生かせる産業への最初の参入である。
2−2
富士重工業の誕生と六連星の意味
1952 年に「航空機製造法」が成立し、航空機工業再開への見通しが開けてきた。そこで
中島飛行機時代の旧友達が集まり、一緒に自動車を作りつつ、再び飛行機を開発しようと
いう動きが生まれ、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮冨士工業、宇都宮車
両の5社の共同出資により 1953 年7月に「富士重工業」が設立された。現在のスバルのマ
ークである「六連星」は6つの会社が統合したのではなく、5つの会社を統合して富士重
工業というひとつの大きな会社になったことを表している。ひとつだけ星が大きいのはそ
のためだ。ちなみに、現在まで富士重工業を表すコーポレートマークは「丸フ」のマーク
が使用され、スバル自動車部門のみ六連星を使用してきた。50 周年記念を期により認知度
の高いこの六連星が新たなコーポレートマークとして使用されることになった。
2−3
中島から受継がれる技術者魂
GHQによって分割された 12 社の内、最終的に残ったのは、富士重工業とプリンス自動
車(3)の2社だけになった。当時、トヨタ、日産、いすず、東洋工業(現マツダ)など
も自動車を作っていたが、多くの国産メーカーは、海外の自動車メーカーと提携してクル
マの作り方を学んでいる。オースチン、ルノー、ルーツ(ヒルマン)などがその相手だっ
た。そのような状況のなか、富士重工業とプリンス自動車は海外のメーカーとは手を結ば
なかった。それについて、故・中川良一氏(4)は「中島飛行機で航空機を作ってきた者
の想いとして、ひとのモノマネは嫌だった。航空機作りに携わっていた日本の素晴らしい
頭脳集団が自動車産業に来たのだから、いまさら欧州の枯れた自動車など真似たくなかっ
た」(5)と述べている。
3、スバル誕生から現在まで
3−1
設立当時の富士重工業と日本
設立後しばらく、富士重工業では自転車に変わるパーソナルな移動手段として、エンジ
ンやフレーム、ボディーなどを各工場で分担しながら「ラビット」と呼ばれるスクーター
などを作っていた。このラビットの車輪には、当時工場に大量に残っていた旧日本軍の双
発爆撃機「銀河」の尾輪が使われていた。このことから、経営資源の乏しかった富士重工
業の苦労が窺える。当時日本も貧しかった為、安価で手軽な交通手段のスクーターが持て
はやされていた。1954 年、富士重工業は当時の国産乗用車としてはきわめて進歩的な「ス
バルP−1」(6)を開発していた。しかしスバルP−1は量産化されることはなかった。
当時としては破格の高級車になるモデルを量産するには、余りにリスクが高いと判断され
たからである。このクルマで初めて「スバル」というブランドが使われた。スバルという
ブランドは富士重工業の乗用車開発とともに生まれたのである。
3−2
本格的自動車事業の開始
次第に国内が社会的、経済的に安定してくると、人々はより快適な移動手段を求めるよ
うになってきた。1955 年、通産省は国産自動車を育成する目的で「国民車構想」を発表し
た。だがその条件として提示された仕様(7)が、実現の難しいものであった為、本気で
取り組むメーカーは少なかった。その数少ないメーカーの中で富士重工業は果敢に挑戦し、
3年の開発期間をかけ、極めてオリジナリティの高いモデルを開発した。
「スバル 360」で
ある。これはスペース性、走行安定性に優れた方式、モノコックボディ、
「スバルクッショ
ン」
(8)などの画期的な装備の採用で、わずか 360cc という排気量ながら、大人四人を乗
せて乗用車並みの安定した走行を可能とし、しかも庶民にも手の届く価格(9)で提供さ
れた。これにより、スバルブランドが人々に認知されることとなり、スバルが軽自動車市
場を確立することとなった。当時、個人での乗用車の保有率は極めて少なく、また軽乗用
車市場も未開拓であり、新たな市場創造となった為大ヒットとなった。1955 年、富士重工
業が 5 社を吸収合併し、現在に至る自動車事業を本格的に営んでいくこととなる。
3−3
現在につながる製品・技術の確立
1966 年、国内初の FF(フロントエンジン・フロントドライブ)量産小型乗用車「スバル
1000」を発売。従来の軽自動車に加え、小型大衆車の市場エントリーを果たし、本格的自
動車メーカーへの第一歩を踏み出した。特筆されるのは、今でもスバルを代表する技術と
して存在する、水平対向エンジンの採用である。1968 年自動車の輸入自由化、資本導入の
自由化をひかえ日産自動車と業務提携を行う。1972 年には「レオーネ 4WD シリーズ」が
登場する。たまたま水平対向エンジンは、乗用車タイプの 4WD 車を作るのに適していた
ことが幸いして、安全性にも優れる 4WD 方式が採用され、水平対向エンジン・4WD 機構
の結実となった。そしてこの「レオーネ 4WD シリーズ」はそれまでジープタイプしかな
かった 4WD 車において、乗用車4WDという新ジャンルを創造した。また、1987 年に登
場した「アルシオーネ」では、現在レガシーGTシリーズの水平対向 4 気筒ターボエンジ
ンと並び搭載されている「水平対向 6 気筒エンジン」を完成させていた。1989 年、現在の
スバルを代表する車種である「レガシィ」がデビューする。それまでのワゴンは商用バン
の派生車種的なクルマであったが、ツーリングワゴンという新たなジャンルを創造するこ
とによって、乗用車としてのワゴンを定着させた。ツーリングワゴンの市場は現在では年
間販売台数 656407 台(10)の大きな市場となっている。1992 年には「インプレッサ」が
デビュー。富士重工業はこのクルマで WRC(11)などに参戦している。1997 年に発売さ
れた「フォレスター」は、クロスカントリー4WD ベースの SUV が増える中、街中での使
い易さを追求した乗用車ベースの SUV(12)として街乗りSUVという市場を創造した。
3−4
富士重工業のクルマ作りの姿勢
富士重工業のクルマ作りに対する姿勢を端的に表すある考え方がある。それは「予防安
全」と呼ばれる。富士重工業では、走る・曲がる・止まるという基本要素について、妥協
なき追求が絶えず行われている。これは飛行機作りから受継がれる考え方で、クルマの安
全性を考えるときに、
「衝突する前にまず衝突しないこと」つまり予防安全という考え方で
ある。飛行機は衝突すれば墜落してしまう。同じように車についても、確実な操縦性能と、
いかにドライバーが運転しやすいかなどを追求するものであり、飛行機を作っていたメー
カーならではの考え方といえる。
4、歴史的に見た富士重工業
ここまで、前身である中島飛行機から現在の富士重工業に至るまでの歴史を見てきた。
そこからわかることは、富士重工業が国内において、飛行機作りで培った技術を基にクル
マ作りを行ってきた伝統をもつ、数少ないメーカーであるということである。確かにその
飛行機が、戦闘機として多くの人々の命を奪ったことは無視できない事実であるし、兵器
としての戦闘機を肯定するつもりはない。強調したいのは機械の使い方ではなく、飛行機
を作っていた中島飛行機の技術力の高さと、その技術、姿勢がクルマ作りに活かされてい
るという事実である。
また戦後の歴史においても、当時弱小企業であったにもかかわらず、トヨタなどの国産
メーカーが海外のメーカーとの提携によって技術を学ぶ中で、単独でクルマ作りを行って
いた。なぜそのようなことが可能だったのだろうか。それは中島飛行機時代の技術的蓄積
があったからこそなしえたことなのである。今、日本の自動車メーカーは国際的な競争に
さらされている。その相手は自動車を発明したメルセデス・ベンツや、同じく飛行機メー
カーだったBMWなどである。それらは伝統やブランド力を武器に確固たる地位を築いて
いる。今後それらのライバルに対して、富士重工業の伝統こそ重要になるのではないだろ
うか。例えば現在でも、航空機を生産している自動車メーカーは少ない。もし戦後の歴史
のように、航空機技術をクルマ作りに生かすことができれば、富士重工業が他のメーカー
に大きなアドバンテージを持つことになるだろう。
ここからは、現在の富士重工業の事業形態を明らかにし、その中でスバルブランド位置
付けにあるのをはっきりさせていく。
5、富士重工業の事業内容とスバルブランド
5−1
富士重工業の主な事業内容
現在、富士重工業の事業内容は主に4つに分けられる。スバルとはその4事業の内の1
つである、スバル自動車部門の事業ブランドである。つまり「富士重工業=スバル」では
ないのだ。ここでは4つの事業を明らかにすることで、事業ブランドとしてのスバルを明
確にする。
5−2
スバル自動車部門
上記のようにスバルというブランドは、富士重工業の一事業であるスバル自動車部門が
生産するクルマに統一してつけられる事業ブランドである。事業ブランドとは企業や製品
単位ではなく、ある事業や子会社に独立して与えるブランドのことである。各部門を親会
社と分離したブランドとして管理することが可能であり、多角化、合併・買収、提携に伴
いこの形をとる場合も多い。
(13)現在、スバル自動車部門ではレガシー・インプレッサ・
フォレスターなどを生産している。富士重工業の主力部門で、平成 14 年度の販売実績では
1,229,807 百万円と全体の 89.6%を占めている。
(14)
5−3
産業機器カンパニー
汎用エンジンのロビンエンジンなどをコアコンピタンスとし、エンジンそのものや、ロ
ビンエンジンを搭載したエンジンジェネレータ、エンジンポンプ、スノーモービルなどを生
産する部門である。ロビンエンジンとは、1956 年に農業用エンジンとして、ロビンエンジ
ン KD11 の発売以来、人々の生活を支える機械や、大自然の中で使われる機器に搭載され、
酷暑、極寒、砂漠、水上など地球上のあらゆる場所で常に安定して働き続けるために、ロ
ビンエンジンは過酷な試験を繰り返して開発されてきた。例えば 30 余年前に開発された建
設機械ランマー用エンジンにおいては、路面を振動で固めるために激しい上下運動を繰り
返すという過酷な条件に対応することが求められ、耐久性の問題から多くのメーカーが開
発を断念したのに対して、富士重工はいち早くこの条件をクリアした。さらに、コンプレ
ッサーや発電機などに使われるエンジンには、いかなる負担がかかっても、常に一定の回
転数で回り続けるという使命があるが、富士重工業では、エンジン回転数を一定に保つ回
転調速機ガバナーに世界初のコンピューター制御方式を開発して対応した。このようにそ
れぞれのロビンエンジンは、最も厳しい使用条件を想定した設計基準で開発されており、
そのことが今日の信頼につながっている。(15)
5−4
航空宇宙カンパニー
富士重工業の原点は、1917 年に創設された航空機メーカーの中島飛行機研究所である。
以来、航空機づくりの技術とスピリットを受け継いで日本の航空宇宙産業をリードし続け
ており、多種多様な航空機の開発・生産に携わっている。国内では、三菱重工、川崎重工
に次ぐ第三位の事業規模を誇り、大型旅客機においては、1973 年にアメリカ・ボーイング
社の旅客機生産に参画して高い技術力で信頼を獲得し、以来、ボーイング767、777
などの開発・生産に関ってきた。特に、最新鋭機777では左右の主翼と胴体をつなぐ中
央翼という最重要部分を海外メーカーとして初めて担当し、設計段階から共同開発を進め
て製造している。また、国内では自衛隊の飛行機の生産、維持・メンテナンスなども行っ
ている。維持・メンテナンスとは、飛行機が 3 年から 4 年に一度、部品体位まで分解し、
修理などを行う、クルマでいう車検のようなもので、販売台数自体が少ない航空宇宙の分
野においては重要な部分をなしている。生産、維持・メンテナンスを行うのは、多くの部
分、人間の手作業による。これは自動車のように生産台数が多くない為、ロボットなどの
設備投資を行うと、一機あたりにより多くのコストがかかってしまうからである。このた
め、技術者の中には職人のような人もいる。例えば自衛隊のT−3練習機などは数十年前
に生産されてから、今までずっとメンテナンスを受けてきた。よって富士重工に入社して
から退社するまでT−3担当の技術者もいるわけである。彼らは機体について知り尽くし
ており、まさに職人である。これは私が富士重工業の社員の方から直接伺った話である。
このような職人的技術者を有していることはコアコンピタンスを維持する上でとても重要
である。富士重工業の技術への高い評価は、ボーイング社が世界 3000 以上の関連メーカー
の中で最も優れたメーカーに贈る「サプライヤー・オブ・イヤー」主構造部門賞を日本の
メーカーとして初めて受賞したことでも証明されている。また、航空機メーカーならでは
の先進技術を投入したドライビングシミュレータの開発など、富士重工業のエンジニアは
自由な発想で新ビジネスの可能性を追求している。(15)
5−5
エコテクノロジーカンパニー
富士重工業では、環境の世紀を見据えた技術開発を推進。ゴミ処理問題にもいち早く取
り組んでおり、「フジマイティー」の名で知られる塵芥収集車は 35 年を越える歴史を誇る
トップシェア商品である。また、リサイクルのニーズに応える分別収集車の開発も積極的
に行っており、新たに実用化された CVSR(16)は、賞味期限切れの食品(廃棄物)をパ
ックしたまま高速破壊し、砕かれた包装材と中身(有機資源)に分別することができる。
この他、富士重工業は、異なる業種の企業と協力して大小さまざまなゴミ処理プラントの
開発を推進しており、例えばゴミの最終処理に関しては焼却灰溶融システムを開発。焼却
後の灰をさらに高温で溶かし、容積を減らすとともに無害化した後に、土木建材など資源
として再利用することを可能にした。(15)
6、事業ブランドとしてのスバル
ここまで、現在の富士重工業の主な事業内容について見てきた。そして「富士重工業=
スバル」ではないこと、スバル自動車部門は販売実績で 89.6%を占める主力事業であるこ
とがわかった。この論文では富士重工業の中の主力事業であるスバル自動車部門の「スバ
ルブランド」について考えていきたいと思う。富士重工業にとってスバルは、最も重要な
ブランドであり、主力事業のスバルのブランドを育てていくことは富士重工業にとってと
ても意味があると考えた。スバルというブランドが、国際的な競争の中でどのようにブラ
ンドを強化し、生き残っていくべきなのかを考察する。さらにスバルブランドに対して、
他の航空宇宙などの事業がどのように関わっていくべきかについても含めて考察したい。
そこで次章では、まずスバルが富士重工業にとって主力事業であるということを、富士
重工業の各事業部ごとの売上げや研究開発の内容をもとに示していこうと思う。
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