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平成28年国内旅行 - Iron Club|アイアン・クラブ

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平成28年国内旅行 - Iron Club|アイアン・クラブ
淡路島・鳴門・しまなみ海道・旧海軍兵学校を訪ねて
2016 年 10 月 11 日(火)~10 月 14 日(金)
10 月 15 日、旅の記憶と感動の薄れない内にと、旅行記の書き出しです。
昨夕 19 時半少し前、旅の終着駅羽田空港に到着。旅を惜しみつつ、三々五々の流れ解散となりまし
た。
帰宅途中、旅の成功(自画自賛?)を祝って、またまたいっぱい飲みました。
連日の勉強疲れ(後述)・睡眠不足・ご馳走攻め・自発的大量飲酒の影響もあって、23 時、疲労困憊・
意識朦朧で帰宅。そのままダウンしましたが、珍しく夜中のトイレ休憩も 2 回で済み、朝 7 時過ぎまで
ぐっすり。
爽やかな寝覚めとともに旅行中にできた舌苔も取れていました。まだまだ若い(74 歳)と安心しま
した。
Ⅰ. 前置き
アイアン・クラブの旅行に参加して、8 年連続 9 回目になりました。私にとって、何故か因縁の有る
旅行です。
6年前の四国旅行、初日の高知のお宿「城西館」に着いたとき、どこかで見たことあるな・・と思い、
山の神に伺ったところ「お父さん!何を言っているんですか、新婚旅行の時泊まった宿でしょう。」と
一喝されました。
「いや・・新妻のお前の顔ばかり見てたので。」と釈明しましたが、
「その口で 40 数年
間、だまされました。
」と更にどやされました。
4 年前の東北旅行の初日、
新幹線八戸十和田駅からバスに乗ろうとしたところ、後ろから「お父さん!」
の掛け声。振り向くと、昔妙齢のゴルフスクールの仲間でした。(私は、お父さん。山の神は、お母さ
んと呼ばれています。
)聞くと、コースは違え、同じ 3 泊 4 日の東北旅行で同じ新幹線でした。今回の
旅行最終地の呉市。
父親の勤務の関係で、小学生の時と中学 1 年から高校卒業まで 2 度、住みました。両親は、1965 年
まで呉に居りましたので、51 年ぶりの呉訪問でした。
しかし、功なり遂げた名士でも無く、呉市の名を有名にした訳でもないため、当然ながら呉市長の表
敬訪問もなければ、宿泊先の呉阪急ホテルに歓迎の幟旗もありませんでした。
Ⅱ. 大まかな旅程
今回の旅行は、三軍揃い踏みでした。陸は、行きの新幹線とバス。海は、観潮船・フェリー。空は、
帰りの飛行機。テーマは、海・海峡・船・橋・島島・海道です。
1.10 月 11 日(火)新幹線で新神戸駅→バスで、明石海峡大橋経由淡路島→昼食後、北淡記念公園→
淡路人形座→洲本温泉のお宿。
2.10 月 12 日(水)バスで、大鳴門橋経由徳島大塚美術館→昼食後、渦の道→渦潮観潮船→バスで、
今治湯ノ浦温泉のお宿。
3.10 月 13 日(木)バスで、しまなみ海道→大三島・宗方港からフェリーで、岡村島・岡村港→バス
で、とびしま海道→大崎下島・御手洗保存地区昼食後、バスで、下蒲刈島・三之瀬地区→バスで、呉の
お宿。
4.10 月 14 日(金)バスで、呉港。フェリーで、江田島・小用港→バスで、海上自衛隊・第一術科学
校→フェリーで、呉港→昼食後、大和ミュージアム→バスで、広島空港→羽田空港。
Ⅲ.本論
1.10 月 11 日(火) 晴れ
今回の旅 4 日間、天気晴朗でそよ風程度。波も漣で、快適に過ごせました。ただ、1 週間前は台風の
影響で大雨・大風・大波。1 週間ずれていたらツアーが成り立っていたかどうかだったそうです。昨年
から、好天 8 連勝になりました。週間天気予報を毎日眺めては「晴れマークのみ。問題なし。旅行成功。
」
一人で合点し、傘も用意しませんでした。
8 時 10 分東京駅発「のぞみ」に乗車。品川・新横浜から乗車の方もあり、阪急交通社のいつもの添
乗員那須さんを含め 30 名で出発です。
(新神戸駅で、大阪から参加の山本さんを含め総勢 31 名)グリ
ーン車にふんぞり返り(日頃乗り慣れない小物は、グリーン車に乗るとふんぞり返らなければいけない
と思っている。
)
、遅めの朝食。幹事役の山田さん・那須さんと色々打ち合わせしているうちに新神戸駅
に到着です。
出迎えてくれたのは、福山に本社のある鞆鉄道の柏葉運転手さんとガイドの橘高さん。
【閑話休題】
:運転手の柏葉さん、優良運転手だそうで、前に乗っていましたが、急発進・急ブレーキも
無く、自動車道でもスピード制限のプラス 10 キロ以内を常に保ち、それでいて必ず時間通りの到着で
した。
ガイドの橘高さん、経験と知識は相当な物でした。「流れの中で・・」と言う言葉を良く使っていま
したが、語り口・説明そのものが流れ重視。「右奥の方に今治タオル美術館。今治はタオルで有名で、
高いものになると・・・」面白そうな話になるなと思っていたら、「皆さん!左を見てください。焼肉
のたれで有名な日本食研・・」
「あれ?タオル美術館何処へ行っちゃったの?」豆タンクのような体形
と愛嬌のある顔立ち「まあーいいか。
」
。
神戸淡路鳴門自動車道に入り、明石海峡大橋を渡り淡路島へ。明石夢舞台の中のレストランで、ビー
ルで乾杯しながら握り寿司の昼食。
「瀬戸内の魚は美味しいなあー。ネタも大きいけれど、ご飯も大振
りだなあー。
」
注1)明石海峡大橋:1998 年 4 月、着工から 10 年して供用開
始。全長 3,911m・主塔の高さ 298.3m・航路高 65mの当時世界最
長のつり橋。
総工費 5,000 億。当初は、鉄道・道路併用橋の予定であったが、
建設費・地盤の問題があり道路専用橋となった。上部工鋼重(基礎
部分を除く鋼材)212,000 ㌧。
(日本鉄鋼連盟)
昼食後先ず訪れたのが「北淡震災記念公園」。ここで、震災の語
り部のお話です。今回の旅行が観光旅行と修学旅行になったスター
トです。(ともかく、沢山の語り部・ガイドの説明を受けました。
勉強しました。
)
①1995 年 1 月 17 日午前 5 時 46 分に発生したマグニチュード 7.3
の阪神淡路大震災で、当日夕方には、この地区の全員の生死が判明した。
②これは偏に、地区のコミュニティー間の連携・連絡の緊密性の賜物である。誰が、家のどの部屋で寝
ていることも分かっており、この辺で寝てたはずと潰れた家の下から助け出した。
③私の自治会では、姓名・電話番号は個人情報だ等のクレームで名簿すらありません。ましてやどの部
屋で寝ているなんて、あな恐ろしやです。
④保存されている北淡野島断層を見て、自然の破壊力に驚き。新耐震基準前の建物でも、耐震に対しし
っかりしてあれば傾いても潰れない。
耐震構造の重要性を理解。最後は、阪神淡路大震災と東日本大震災の揺れを体験いたしました。震度
7 の揺れ(7 でも少し揺れを小さくしているとの事)を体験しましたが、最初から揺れの大きさが分か
っていること、部屋の強度がしっかりしていることからあまり怖さを感じませんでした。
火事・津波が無く、耐震がしっかりできていれば、被害が小さくなるのではと思いました。
淡路島を一路南下、南端福良港そばの「淡路人形座」に到着。
注 2)淡路人形座:①500 年の歴史を持ち、
国指定重要無形民俗文化財の淡路人形常設館
で、1964 年開業。
②座席数は、補助席も入れ 200 席程度。ここ
の良いところは、舞台と観客席が非常に近い
位置にある事です。表情が良く見えます。
先ずは人形師がカシラをもって、顔の表情の動きの操作。次に、人形で手・足の動きの操作。3 人で
操っています。続いて出し物。
「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」を演じてくれました。巡礼お鶴「ととさ
んの名は、阿波の十郎衛・・・」のお話です。最後は、恵比寿様の人形で、記念写真と「福よ来い来い。」
頭をなぜてもらえます。
(2 年前の 7 月、頭をなぜてもらった我が山の神、9 月にホールインワン達成。
信じる者は救われる?)楽しくも興味深い、1 時間でした。
今宵のお宿は、洲本温泉「ホテルニューアワジ」17 時 30 分ごろ到着です。ここで、ツーリスト阪急
が大失敗をしました。ホテルの佇まい・眺望・温泉・料理何をとっても一流。最初に、最強カードのス
ペードのエースを切った為、後のお宿も頑張りましたが色あせました。
行程を逆にして、最後にこのお宿にすれば、終わり良ければすべて良しだったかな…。(行程の承認
は、我が委員会です。
)
温泉にのんびり浸かり、19 時半から、今泉委員長のご挨拶(事情があって 3 年ぶりの参加になった
事。好天に恵まれた事。観光旅行だと思っていたら修学旅行になりそうな事。修学旅行が今回のキーワ
ードになりました。
)
・乾杯のご発声で大宴会のスタートです。素晴らしい料理でした。瀬戸内の新鮮な
魚介・伊勢海老の造り・ウニ・マッタケ・鯛しゃぶ・淡路牛・タコ飯堪能しました。「渡辺さん、もう
21 時 40 分ですよ。
」慌てて中締めでしたが、22 時前のお開きでした。
2.10 月 12 日(水)晴れ
朝風呂に行かれた安達さんのお話「雲がありましたが、雲の中をもがくように太陽が昇り、素晴らし
い日の出になりました。
」
この日は、今治のお宿に向かう途中、カーブを回るたびに沈む夕日も拝めました。良い一日でした。
ゆっくりの 9 時出発。大鳴門橋を渡り徳島県に入り大塚国際美術館へ。
注 3)大鳴門橋:①1985 年 6 月完成。全長 1,629m・主塔 144.3m・航路高 41mのつり橋。鳴門の
渦潮に影響を与えないよう多柱式基礎工法を採用(1 本の巨大な橋脚では無く、橋脚下部がセメントを
流し込んだ何本かの鋼管で、その上にセメントの土台を作り、その上に巨大な橋脚を乗せる工法)
。
②上部は自動車道で、下部は鉄道を通すことができる設計。上部工鋼重 64,000 ㌧。
大塚国際美術館、ゆっくり 2 時間半時間を取りましたが、皆さん「あら!あれも見てないわ。これも
見てないわ。
」
。私は、文芸員に付いて 2 時間近く説明を受けましたが、勉強になったというか、受験勉
強時代の復習をしたのか、ただただ唖然としていました。
(ほんの一部しか見学できませんでした。
)本
物でないので意味がないとおっしゃる方もおられます。
しかし、世界 25 か国・190 余の美術館が所蔵する世界的価値のある名画を、寸分違わず陶板で再現
した技術力や労力、勿論この美術館の建造・維持の巨額な費用。感心ではなく感動しました。
注 4)大塚国際美術館:①大塚グループ創立 75 年の記念事業として、1998 年開館の常設「陶板名画
美術館」
②建物は地下5階・地上3階だが、展示場は、地下
3階から地上2階で、展示スペース 29,412 ㎡。
1,000 余点常時展示。
③総費用 400 億円(建物 100 億円・絵画 300 億円)
主催者の公表ではありませんので真偽不明です。
鯛シャブの昼食にビールを飲んで美術館の興奮を冷
まし、次なる目的地「渦の道」へ。大鳴門橋の徳島
側から、橋の下部に 450mの遊歩道があります。と
ころどころガラス床になっており、ここから眼下 45
mに鳴門海峡の激しい潮流と渦潮がスリル満点で眺望できます。
私見ですが、ガラス床を渡るか渡らないか?男性は、自称インテリ度が高いほど渡らず、女性は、怖
がり屋さんは遠慮し、一方「子供を産むときの辛さに比べれば、こんなもの何よ」とすいすい渡る人に
分かれるようです。
次は今回の旅行の目玉の一つ、舟からの渦潮展望です。定員 46 名の水中展望室完備の観潮船に乗船。
全席座席指定との事で、穴倉のような薄明りの展望室に閉じ込められました。40 数名の大人が、狭い
部屋に背中合わせで押し込まれ、高速船なので前にある手すりにしがみついている姿はいただけません
でした。止まるとガラス越しに何やら泡のようなものがぶくぶく、良くわかりませんでした。(この日
は中潮で、あまり大きな渦は見られませんでし
たが大潮の時は、水中1m の位置から、渦潮が
竜巻のように舞い上がり水の柱を作っては消
えていく様子がわかるそうです。)甲板に出て
心地よい風に吹かれながら、でかくないとは言
え迫力のある渦潮を目
の前で眺めました。
徳島自動車道で、徳島県を横断し愛媛県今治
が今夜のお宿です。途中道の駅でお買い物やらトイレ休憩やら約 200km、2 時間半の旅で 18 時頃、
湯ノ浦温泉「汐の丸」到着しました。
温泉でのんびりし、19 時半宴会スタートです。乾杯のご発声は、上島副理事長。
「今日も修学旅行堪
能しました。
」
「裸のマハと着衣のマハの感想。」
「牢獄のような船底の部屋に閉じ込められ、バラスト替
わりなのか、あの水中観潮船は良く分からない。(答えは、前述の通りです。)」等、相変わらず軽妙な
ご挨拶いただきました。
この湯ノ浦温泉はバブル時、県の指導で開発されたのですが、バブル崩壊で観光客激減し、今は、お
遍路さんと明日から行く「しまなみ・とびしま海道」サイクリングの客が主体だそうで、大誤算だと言
っておりました。
そのせいか、設備がやや古く物足りませんでしたが、その代わり食事は量・質とも上出来でした。鱧・
新鮮なお刺身・アワビのサラダ・マッタケ・お肉・天ぷら・アイナメの煮つけ・鯛飯。「さあ食べてく
ださい。まだまだ出ます。さあどうぞ」またまた2時間超の宴会でした。
3.10 月 13 日(木)またまた晴れ
朝食は、バイキング形式。和食続きの皆さん、
久し振りにパン食を召しあがった方が多いの
では?少し早目の 8 時 10 分、旅のハイライト
「しまなみ・とびしま」海道に向け出発です。
海峡・橋・島々を繋ぐ海道。海辺育ちの私には、
胸わくわくの一日です。
来島海峡大橋→大島→伯方大島大橋→伯方
島→大三島大橋→大三島→大三島宗方港からフェリー→岡村島。(来島海峡は、鳴門・関門と並び日本
三大急潮の一つです。流速は、早い時には時速 18.5kmになります。世界一流の男子マラソン選手並み
のスピードです。
)大三島で、
「しまなみ海道」とお別れです。
注 5)
「しまなみ海道」
:①愛媛県今治市と広島県尾道市の間の 6 島を 10 橋で結ぶ街道で、サイクリ
ングの聖地です。
」
「とびしま海道」
:①愛媛県今治市と広島県呉市の間の 7 島を 7 橋で結ぶ街道で、瀬戸内海に浮かぶ島々
が、あたかも庭園を渡る飛び石にように見えることから名付けられたそうです。
岡村大橋から「とびしま海道」→中ノ島→中の瀬戸大橋→平羅島→大崎下島・御手洗保存地区に到着
です。
「しまなみ海道・とびしま海道」沿い、過疎化が進み集落はほとんどなく、信号も無く、車も、
人通りも無く(時々サイクリング車を見かける程度。観光バスには全く会いませんでした。)あるのは、
青い空と青い海、主としてミカン・レモンの段々畑。和みました。
御手洗保存地区で、2人のボランティアガイドさんとドッキング、約1時間半案内していただきまし
た。重要伝統的建造群保存地区の御手洗地区(呉市)は、江戸時代の風まち・潮まち・港町で、中継貿易
港として栄えたところです。潮待ち館・船宿・天満宮他神社仏閣・豪商の邸宅、これだけの伝統的建造
群が、保存されている事とは想像できません。絶対、一見の価値のある所です。
【閑話休題】
:①ところどころのお家の玄関先にすだれに掛けた生花が飾ってありました。粋でした。
②英国人と結婚し、かわいい赤ちゃんを連れた若奥さん。この地区で、小間物店(手作りのレターセッ
トとかアクセサリー)を開いていました。過
疎化の中の新しい息吹き。
「頑張ってね。」と
声をかけた方もおられました。
③京都の彫刻師が彫った欄間が素晴らしい浄
土真宗「大東寺」
。特別に中を拝観させてもら
いました。
相当ご年配の、住職の奥さまかお母様か分
かりませんが「私も東京で生まれ、20 数年間
暮らして居りました。
」懐かしさとどこか寂しげな姿が印象的でした。
昼食は、アナゴ重。これでもかこれでもかと穴子が乗っており大満足。
豊浜大橋→豊島→豊島大橋→上蒲刈島→蒲刈大橋→下蒲刈島に到着。先行していた先ほどのガイドさ
んの案内で、三之瀬地区を見学いたしました。古来より港町として栄えたこの地区、江戸時代朝鮮通信
使が計 11 回この地区に宿泊した由。朝鮮通信使の資料が残る「松濤園」
。幾つかの美術館・文化館。最
後に、江戸末期の楼造りの建物のお座敷で、お抹茶をいただきこの地区とお別れしました。
安芸灘大橋を渡って、呉駅前の「呉阪急ホテル」に早目の 17 時前に到着しました。
18 時半、久し振りにホテルの披露宴会場に使う大部屋で丸テーブルを囲んでの、恒例演芸大会付き・
綺麗どころ付きの大宴会スタートです。
今井理事長から、ご挨拶と乾杯のご発声をいただきました。「演芸大会余興の稽古に気を取られ、挨
拶の事すっかり忘れていました。
」
(後述しますが、ぶっつけ本番に近い形で、余興にご出馬願いました。
)
続けて、淡路島の事・明日は故郷に帰るようで楽しみであること等のお話有り難うございました。(今
井さん、1944 年、明日行く江田島の旧海軍兵学校を受験、合格されました。
1945 年、定員の関係で入校は、佐世保市の針尾分校です。
)呉も全国有数の酒どころ。杯が飛び交い、
これに恒例の?大喜多さん差し入れの美味しいワインで杯が進み、食べきれないほどの山海の珍味(和
洋の会席料理)を堪能しました。
(帰ったら、体重 2 キロ増加。)
いよいよ楽しみの演芸大会です。幕開けは高崎夫人の「愛の賛歌」。美声・熱唱、日頃の努力いかば
かりか・・でした。ただ、申し訳なかったのは、ホテル側の操作ミスで1オクターブ高い設定になった
こと。
よくぞあれだけ高い音程を歌い切った歌唱力恐れ入りました。山本さんの「憧れのハワイ航路」、80
台後半のお年ながらのあの声量、驚きました。
今泉さんの「男の背中」哀愁がこもっていました。愛妻百合ちゃんを想い、目じりに水玉。思わず私
も・・でした。中澤忠義さんの「乾杯の歌」、だんだん中澤フアンのご婦人バックコ
ーラスが増え、今年は 6 人になりました。大型新人ご夫妻、先ずは栗川さんの「東
京尋ね人」
、勿論歌詞は見ず舞台全体を使い、身振り手振りの熱演。
もう芸人の域です。栗川夫人の「川の流れのように」、カラオケで歌ったことの無
い本格派が、幹事の無理強いに応えてくれました。夫婦のデュエット「銀座の恋の
物語」
。芸人と本格派、芸人が真面目に肩に力を入れて甘い曲をデュエット。
結果は如何に?でしたが大受けでした。森脇さ
んの「雪が降る」
、この方の歌の引き出しはいく
つあるのかと感心します。和洋何でも御座れです。
大喜多さんの「ジョニーへの伝言」
、
「五番街のマ
リー」もそうですが、風貌と曲がマッチ、聞かせ
てくれました。
最後は、近年最大のイベント登場です。高崎屋
千恵・ご存知今井の敬親分・後見山田師匠が演じるのは、「祝三番」①口上御挨拶②お嬢吉三大川端の
場③白波五人男の弁天小僧です。高崎屋千恵の見得(振り袖姿も堂に行っていました。)
、敬親分の口上、
山田師匠の拍子木。やんややんやの拍手喝采、サービス係のホテル従業員も口あんぐりでした。ご出演
の皆さん有り難うございました。
お開きはこれも恒例の、三木さん指揮によ
る童謡3曲。全員舞台に上がり「瀬戸の花嫁」
「里の秋」
「ふるさと」を可愛く歌い、童心に
戻って散会しました。
4.10 月 14 日(金)旅の最終日も晴れ
ゆっくりの 9 時ホテル出発。バスで呉港、
瀬戸内シーラインのフェリーで江田島小用港へ。20 分の船旅、工業地帯の中に日新製鋼の高炉も見え
ました。バスですぐの海上自衛隊・第一術科学校に。高官と広報の方二人の出迎えを受け約2時間、説
明を受け見学しました。
(海の青には、純白の制服が似合います。
)
注 6)海上自衛隊第一術科学校:①1945 年、終戦とともに海軍兵学校は閉校になり、連合軍が駐留。
1956 年、海上自衛隊術科学校(後に、第一術科学校に改称。約 600 名の学生。
)開校。翌年、幹部候
補生学校(150 名の学生。
)開校。
②第一術科学校学生館(外から)
・幹部候補生学校庁舎(外から)
・大講堂(入学式・卒業式等が行われ
る大正6年に建てられた約 500 坪の講堂。内部で説明。)
・教育参考館(海軍の歴史と伝統保存、自己修
養と学術研鑽の場。内部で説明。
)
都会の喧騒から隔離された広大なキャンパスで、文武両道確立に精神・肉体・心構えを相当鍛えられ
てると思います。
(競争は相当激しく、常に、成績1番からビリまで公表されている由。)今回の参加者
は、直接戦闘行為は無かったものの、非常に深く戦争を体験された方々と自身の記憶と周りからの話等
で身近に感じられた方々と戦中・戦後生まれで全く記憶の無い方々です。皆さん思い思いの気持ちで見
学されたことと思います。
13 時過ぎ、呉港に戻り昼食は、海軍定食。
(海軍カレーかと思いきや、鯨カツ定食。独特
の臭みがあり美味しくなかったです。(地ビー
ルは好評)昭和 20 年代中頃の呉で、豚カツは
ぜいたく品食べられず、おふくろが苦心して鯨
カツを揚げてくれました。60 数年ぶりにあの
味と合わせ、脱脂粉乳の給食を思い出しました。
これを最初に食べておけば、後の食事どれほど
満足したのかな・・。前述した通り、旅程が逆でした。
)
最後の見学は、ボランティアガイドの案内で「大和ミュージアム」
。戦艦大和実物 10 分の 1 の精巧な
模型・ゼロ戦等興味深いものが展示されていましたが、見学者もガイドさんも多く話が交錯、旅の疲れ
と戦争の悲惨さを感じる気持ちも強く、木陰で休んでおられる方もいらっしゃいました。
注 7)大和ミュージアム:①正式には、呉市海事歴史科学館。4階建 9,628 ㎡で、2,005 年 4 月開館。
日本の幕末から太平洋戦争終結までの歴史と呉海軍工廠の歴史、海軍兵器の実物、戦没者の遺品等々膨
大な資料が展示されている。近接して、海上自衛隊呉資料館がある。
16 時、広島空港に向け出発。車中で、猪熊副委員長から、旅行参加のお礼と簡潔にして明解な 4 日間
の旅の総括を頂き、17 時空港到着。
週末の夕方で大変混雑をしており出発が少し遅れましたが、19 時半前、JAL0264 で羽田空港到着。
再会を約して解散いたしました。
4 日間、何のトラブルも無く、皆さん体調も万全、素晴らしい旅行ができましたこと感謝いたします。
Ⅳ.終わりに
1.神戸から淡路島経由徳島に南下。ほぼ真西に 200km先の今治。やや北西の呉・広島。底の少し浅
い大きな盥を横から見た、約 450kmの旅程でした。
2.北淡震災公演の語り部・大塚美術館の文芸員・御手洗地区と三之瀬地区のガイド・第一術科学校の
高報のお二人・大和ミュージアムのガイド、沢山の方の説明を受けました。漫然と眺めるより、説明を
受ける方がなるほどと納得することが多いのですが、耳を傾けることは、結構集中力がいるものだなと
感じました。
3.何時もながら、表面ニコニコ、快適で満足な旅行になるよう陰でハードネゴをして頂いた、添乗員
の那須さん。常に最後方でバックアップ頂いた、拍子木師匠の山田さん。神出鬼没でカメラ・ビデオ撮
影にご尽力頂いた、中澤吉さん。本当に有り難うございました。
4.何と言っても一番感じましたのは、第一術科学校の「教育参考館」。世界中何かと不穏な動きが起
きている時代、70 余年に亘り平和を謳歌している日本、国の為、家族の為に戦場に散った方々の気持
ちを察するに「自分ならできただろうか?とても出来なかったのでは?」と自問自答したことでした。
幸せな時代に生きてきたことに、深く感謝しました。
(渡辺
徹記)
以上
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