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ナリンダー・ダミ『ビンディ・ベイブズ』

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ナリンダー・ダミ『ビンディ・ベイブズ』
東京女子大学言語文化研究(
)20(2011)pp.122-135
翻訳
ナリンダー・ダミ『ビンディ・ベイブズ』
田
中
のぞみ
以下は,Narinder Dhami(ナリンダー・ダミ)のヤングアダルト小説,
(2003)の翻訳である。
作者の Dhami は1958年にイギリスで生まれた。インド人の父親とイギリス人の母親
を持ち,インドとイギリス両文化が混在する環境で育つ。バーミンガム大学を卒業後,
ロンドンでの小学校教師を経て専業作家となった。代表作には映画『ベッカムに恋して』
の原作
(2002)などがある。
本作は,インド系イギリス人の三人姉妹アンバー,ジャズ,ジーナが地元の中等学校
(中学校と高校を合わせた公立学校)や家庭で繰り広げる「騒動」を次女アンバーの視
点から描いている。十代の若者に好評を博してシリーズ化され,現在までに続編が三作
出版されている。
本稿では,物語の幕開けとなる第一章を取り上げた。
第
章
むかーし昔,ジーナ,アンバー,ジャズという
アンバー。
人姉妹がいましたとさっ。あたしは
人の中でいちばんかわいくって,いちばん知的。残りの
人に殺される前
にさっさと話をはじめましょう。
あたしたちの話は,ボリウッド映画(注
アクションあり,ロマンスあり。悪者と
)
みたいに何でもアリ。歌あり,踊りあり,
人の美しいヒロインたちまで登場しちゃう。
この話は,あたしの「そこそこ友だち」のキムがはしごを降りられなくなったところ
から幕を開けるの。そしてこの日を境にあたしたちの人生は180度変わってしまった。
(中略)
「アンバー!!」
「あら何の用,キム?」苛立ちながらあたしは尋ねた。顔も向けずに。こういう人って
― 122 ―
いない?
ジャマしないでよ,とも言えないから,
(というか,言ったら言ったでジャマ
されるから)何となく友だちやってあげてるって人。キムとあたしはそういう仲なの。
チェルシーとシャレルは,キムのこと,役立たずって思ってるみたい。
「助けて!」キムが泣き叫びながら,通り過ぎてく。あたし,キムがあんなに速く走れ
るなんて知らなかった。細くて小さい腕と足をパタパタさせてる。
キムの後を追いかけ回してるのは,同じクラスのジョージ・ボトリーだ。
「どうしたのかしら」っていうあたしの疑問に,
「多分ボトリーが,
キムの背中に虫を入れるっておどしてるのよ」とシャレルが答えた。
「なるほどね」あたしは二人に問いかけた。「ねえ,ボトリーってどう思う?
明らか
に見た目は10点満点のゼロ」
「センスはマイナス10点」とチェルシーがバカにしたように笑う。「あいつ,襟たてる
のがおしゃれだなんて思ってる」
ジョージが校庭の向こう側までキムを追いかけ回すのを観察することにした。キムは
狂ったように悲鳴をあげて,どこに向かってるか自分でもわからないみたい。ちょうど
年生の女の子たちが立っておしゃべりしている中に突っ込んだもんだから,女の子た
ちを左右に追いちらしちゃった。女の子たちがとびはね,それからキムをどなり始めた
のが遠目にもわかった。その中の
人,あたしの妹ジャズが足をひっかけたから,ジョー
ジ・ボトリーはスタントマンみたいに校庭を転がってった。
歳が近い姉妹っていい面も悪い面もある。ジーナはもうちょっとで14歳,あたしは12
歳でジャズは11歳だ。ジーナが言うには,ママとパパはジーナのことがすっごく好きで,
歳が近い子供を沢山作ろうって決めたんだとか。それが悪夢の始まりってわけ。一時は
楽しかったでしょうねえ。けどそれはもうかなり昔のこと。
あたしたちは姿かたちは違うけど,お互いの服を貸し借りできる。ジーナは小柄なの
に,男の子たちを釘付けにするようなグラマーな体型。あたしは背が高くてスリム。
ジャズはあたしたち
人の中間って感じね。
人そろって黒い髪と黒い目をしてるけ
ど,似てるようで,似てない。能なしフランケンシュタイン博士が
ン
人の人間のクロー
体をつくろうとして失敗しちゃったみたい。
だけどね,歳が近いってことが全くもって不都合なときがある。たとえば,口げんか
で勝ちたい時。シャレルの
コ上のお兄ちゃんなんて,シャレルに口をはさむヒマさえ
与えず,アームロック一発 KO 勝ち。けんかが始まったときには,もうすでに勝敗は決
まってるんだって。ところがあたしたちの場合は,百年戦争みたいになる。長い長ーい,
― 123 ―
血みどろな戦いだ。
ジョージは起き上がって,服のほこりを払った。あたしは今度はジョージがジーナの
ところに文句をつけに行くんじゃないかと思ったけど,そんなことにはならなかった。
ジーナが流し目を送ったからだ。ジーナは,息をするように,それはそれは自然に,男
の子をひっかけるの。いつだって。
キムは校旗の陰に隠れようと必死だけど,無駄な抵抗だった。体が旗ざおからはみ出
してる。思ったとおり,ジョージにすぐに見つかって,また追いかけられ始めた。
「ボトリーってキムに気があると思う?」チェルシーが尋ねてきた。
「だとしても,ずいぶん変わったやり方で気を引こうとするのね」あたしは答えた。
シャレルが邪悪な笑みを浮かべた。「あいつはアンバーに気があるのよ。数学の時間
中,熱い視線を送ってるの,あたし知ってる」
「あたしの答えを写そうとしてるだけ」あたしは反論してみた。
「ねえアンバー,キムがどこ行っちゃったか知ってる?」ジャズがあたしのところに来
て,心配そうに尋ねてきた。キムを見守ることは,あたしたち姉妹の暗黙の了解事項だ。
だってあの子は本当に何も出来ない子だから。言い過ぎ?
でも真実なの。
「校舎の裏
に回ったわよ」
上級生の校舎の裏は立ち入り禁止になってるはず。新しい豪華なオフィスからわざわ
ざ外に出ることなんてめったにないモーガン校長が,あたしたちにそう言った。建築業
者が,
あたしたちが皆新しい敷地に移るまでの数ヶ月間だけは校舎をもたせようとして,
あそこであれこれやってる。キムは自分が校則を破ってるんだってことがわかったら恐
怖におののいて失神しちゃう。で,ここであたしのご登場ってわけ。
あたしは給食のおばさんたちが見てない隙に,こっそり学校の裏に忍び込んだ。それ
に,ジャズ,チェルシー,シャレル,そしてその他大勢が事の成り行きを見届けようと
続いた。あっ,ジーナとそのお友たちたちも。
年生の男の子たち数人が,輪になって
こっそりタバコを吸ってるところだった。そしてむせるのをおさえながら,そそくさと
逃げてった。ジョージもそこにいた。にたにた笑いながら。ただし,キムの気配はない。
「キムはどこよ?」あたしはきつく問いつめた。
「上だよ」ジョージはニヤッとした。
あたしは空を見上げた。建物の壁にはしごが立てかけてある。キムはそのはしごを
登っているところだった。まるで木登り猿みたいに。
「キムっ!」あたしは叫んだ。まぶしくて目をしっかり開けてられない。「降りてきな
― 124 ―
さい!
もうっ!
ばか!
はやく!
見つかる前に!」
キムは口をぱくぱくさせてる。言葉が出てこないみたいだ。
「ボトリーのことは心配ないよ」あたしはたたみかけた。「もうキムには近づかないっ
て」
「だれがそんなこと言ったんだよ?」ジョージの問いに,
「あたし」と答えた。
あたしはジョージを思いっきり突ついてやった。なんと,ジョージは嬉しそうだ。あ
あ,本当にこいつがあたしに気があったらどうしよう。なんて恐ろしいこと……。そう
こうしてる間に,次々に人が集まってきて,あたしたちの周りを囲んでる。群衆をひき
よせちゃったらしい。
「キム,もうあんたの背中に虫を入れたりしないって,ジョージに約束させる!」あた
しは力強く言った。
「ああ,ありがとう,アンバー」キムがうめいた。「でも,私,今,動けない」
みんながはやしたてる。
「そんなことない。キム,あんたは動ける。」あたしは言う。「いい?
あんたがすべき
ことはね,さっき上がったところを下に降りること。それだけよ」
「できない」キムの顔はチョークみたいに真っ白だった。「だって私,高いところが怖
いんだもん」
「高いところがダメな人って,もうしょ恐怖症って言うんだっけ?」シャレルだ。
「それは暑いのがダメなことっ!」ジーナがピシャッと言った。「正解はこうしょ恐怖
症っ!」ジーナは,ありとあらゆる恐怖症ってやつを勉強したことがある。周りの人に
言って歩いてた。例えばハチが怖い人はミツバチ恐怖症,ハゲが怖い人は毛髪恐怖症と
かなんとか。ジーナがでっち上げたのか,本当にあるのか,ジャズとあたしにはわから
なかったけどね。
「キムはボトリー恐怖症だ!」ジョージがしてやったりって顔で言った。彼なりに
ジョークのつもりらしい。「ボトリーが怖い人の事を言うんだ」
「ジョージ,今は黙ってなさい!!」あたしは怒鳴った。「キム,余計な事は考えなく
ていいから。とにかく下に降りなさい」
キムはますますギューッとはしごにしがみついた。キムのスカートが風で舞い上が
る。「ねえ,私の下着,見えてないよね?」心配そうにキムが聞いてきた。
「見えてないよ」……うそ。
― 125 ―
「ばっちり見えてるぜ」ジョージが言った。「ピンクに白の花柄―」
男子たちが騒ぎだした。キムの唇ががたがた震えてる。 手に負えない!
「キム,よく聞いて」いらだってるのが伝わらないよう努めながら,あたしは言った。
「ここで捕まったら,大問題になるの」
キムは左右にわずかに揺れた。「アンバー,私やばい!
パニックー!」キムが叫んだ。
「息ができない!」
「ねえ,キム。前に習ったでしょ?」あたしは語りかけた。「大きく息を吸ってー……
はい,吐いてー」
ジーナがあたしをひじでつついてきた。「アンバー,ここらであたしたち,何かした方
がいいね」
「食堂のおばさんたちも来ちゃったし」ジャズが付け足した。食堂のおばさん集団が,
すぐそこの角で突っ立ってあたしたちのことを見てる。
「うん,あの人たちはツカエナイし……」あたしは返した。「どうしようか?」あたし
たちは
姉妹の
姉妹による
姉妹のための作戦会議に突入。みんながあたしたちを見
つめ,待ってる。
「
人がはしごを登って,キムを助けた方がいいね」ジーナが提案した。「食堂のおば
さんたちが騒ぎ出す前に」
騒ぎ出すどころか,もうすでにおばさんたちはパニック状態だった。どうしたらいい
のか分からず,互いが互いの後ろに隠れようとしてる。そしてとうとう,ハッブルさん
が前に進み出た。いちばん勇気ある人。
「ねえ,キム」彼女の声は震えていた。「すぐに降りてらっしゃい。他の人も校庭に戻
りなさい。あなたたち,ここは立入禁止だって知ってるでしょう?」
キムはこの学校で唯一,ハッブルさんの事すら怖がってるような子だけど,それでも
動こうとしなかった。もちろん周りも。その時,ベルが鳴った。
「ほら,始業のベルよ」ハッブルさんが追い打ちをかける。といっても彼女の声にはあ
きらめが混じっていたけど。「みんな行かなくちゃ」
もちろん,全員ハッブルさんの言うことなんて無視だ。だれだって,この面白いドラ
マを一秒たりとも見逃したくないからね。で,動く代わりに,みんなは,あたし,そし
てジーナとジャズを見ていた。あたしたちがこの事態を解決するのを待っているんだ。
なぜって?
みんなあたしたちのことクールだって思ってるから。
どういうことかわかる?
― 126 ―
そう。
すっごくクールなの。
「今そっちに行くわ,キム」あたしは呼びかけた。「しっかりつかまっててよ」
あたしははしごに足をかけた。その間にジーナとジャズが,キムのスカートの中をの
ぞこうとたむろしている男の子たちを追っ払う。交通事故現場の警察官みたいにきびき
び動いてる。
「何をやってるんだ!」下級学年主任のグリムウェイド先生が,どなりながら駆けてき
た。大砲から飛び出た弾丸みたい。
「いやはやこれは夢でも見てるってことかか,もう
ベルが鳴ったと思ったんだが。いや,そんなはずはない。見ろ!
こんなに多くの生徒
が外にいるんだ」そう言いながらぎろっと周りをにらんだ。「ここは全員立ち入り禁止
だ。いやはや,居残り部屋にはこんなに多勢入るだろうか?
いや,まず,しっかり考
えよう。もしや,下級生たちは居残り罰を受ける世界記録を作ろうとでも……?」
「キムがはしごの上で身動きがとれなくなってるんです」ジーナが説明した。「アン
バーが降りるのを手伝おうとしてるところです」
グリムウェイド先生がこっちを一瞥し,「アンバーっ!!」とどなってきた。「そこで
一旦止まりなさい!」
あたしははしごの途中で立ち止まった。「大丈夫です,先生」あたしは自信に満ちた声
で言った。「問題ありません」
「だからと言って,きみがそこに行く理由はないじゃろう」グリムウェイド先生は大声
で返してきた。真っ青だ。計算高い彼のことだから,あたしとキムが落ちでもしたら,
学校はいくら慰謝料を払うことになるか,なんてきっと考えてるんだ。
「行かないわけにいかなかったんです,先生」あたしは簡潔に答えた。「キムがパニッ
ク状態だったもんで」
「今・で・も!」キムがあえいだ。
(中略)
「キムは高いところが苦手なようね」カーク先生(ちなみに環境学の先生)が,同情の
まなざしで言った。
「それ,何て言うんでしたっけ?」アロラ先生が聞いた。「もうしょ恐怖症?」
「ちがいまーす!
それは暑いのがダメなこと!」見物人たちが声をそろえて言った。
そういうのをよそに,あたしははしごを登り続けていた。
「アンバー!」グリムウェイド先生がまた突然どなった。びっくりしてはしごから落
― 127 ―
ちるとこだった。
「気をつけるんだぞ!」だって!
「わかってまーす,先生」あたしはキムが毛髪恐怖症じゃないことを祈った。だってグ
リムウェイドのハゲ頭で,お日様がきらきら光ってるんだもの。おお,目もくらむほど
のまぶしさよ!
あたしは,はしごのてっぺん近くまで着いた。キムが目を大きく開き,おびえた表情
であたしを見下ろしてる。あたしはキムの後ろで立ち止まって,手を差し出した。「さ
あ,こっちに来て。助けてあげるから」
「でも,手を離さなきゃいけないじゃない」
「ほかに下に降りるいい方法思いつくなら,教えてよ!」
あたしたちはしばらくそこにつかまっていた。するとジョージの声が下から響いた。
「こういう映画あったよな。警官が飛び降りようとする人を説得するっていうさ」
「ジョージ,居残り罰,追加だ!」グリムウェイド先生の
責が聞こえた。
「さあ,キム,こっちへ」あたしはキムの足首を優しくひっぱった。「あんたを落とし
たりなんてしないから」
「無理だよー!!」キムが泣きわめく。
みんなが顔を上げて見ている。そしてあたしの成功を期待している。ジーナとジャズ
は落ち着いて見せてるけど,本当は内心ビクビクだって,わかってる。ここで落ちたり
するわけにいかない。あたしは勝者なんだ。敗者じゃなく。
「キム」あたしはそっと呼びかけた。下にいるだれにも聞こえてないはずだ。「もし,
今ここであたしと降りないっていうなら,あんたのスカート引きずり降ろして,ここに
いるみーんなにパンツを見せちゃうよ。」
「今いく」キムはそう言うと,初めの一歩を踏み出した。
あたしたちがゆっくりだけど無事に一段降りるたび,みんなが騒ぐ。あと数段という
ところであたしはジャンプして着地した。ネコみたいに華麗に。みんながあたしを賞賛
のまなざしで見つめる。キムは着地したとたん,ジーナとジャズの腕の中に倒れこんだ。
「建築業者たちときたら,全くもって無責任だ」グリムウェイド先生が小声でぶつぶつ
言う。「このあたりはロープをはって囲いこんだ方がいいな。もしだれかが機材で怪我
でもしたら,保護者たちに訴えられてしまう」
「そうですね」アロラ先生が魅惑の声色で言った。「だれか生徒が怪我でもしたら大変
ですからね」
「あ,もちろんそのことも」グリムウェイド先生があわてて同意してみせる。「とにか
― 128 ―
く,建物の工事を何が何でも終わらせてもらわなくては。建築業者たちによく言ってお
こう。何せもう少しで……」
言い終わる前に,先生たちはいっせいに青ざめた。彼の言おうとしていることがわ
かったのだ。あと
週間も経たないうちに視学官(注
)
がコパーゲートにやってくるも
んだから,先生たちは神経をぴりぴりとがらせてる。
ジーナとあたしは,恐怖でほとんど歩けないキムに腕を貸した。ジャズはキムがはし
ごの下の方で落とした上着を拾い上げた。あたしたちがキムを学校の中へ誘導すると,
みんなは,わきにさっとよけた。先生たちでさえも。あたしたちだけが,校則を破れる
し,ヒロインになれるのだ。
「あの子たちなしでは,どうしたらいいのかわかりませんわねえ」カーク先生の賞賛の
声が聞こえた。
みんなあたしたちのことが大好きだ。先生たちは,あたしたちが勤勉で,賢くて,礼
儀正しくて,思いやりがあるからって理由で。他の子たちは,あたしたちが容姿が良く
て,人気者で,面白くて,お利口さんだから。こんなあたしたちのことを周りはこう呼
ぶの。ビンディ・ベイブズ。つまり,インドのかわい子
姉妹って。あたしたち以上に,
名の通った人なんていない。あたしたちは欲しいと思ったものは全て手に入れる。い
や,たいていのものはなんでも。
前にあたしが言ったこと,覚えてる?
うらやましがってる人はね,かわいそうがっ
てないの。うらやましがってる人はね,あたしたちを見て,あたしたちのママに起こっ
たことを思い出さないでしょ。
あたしたちのママは死んだ。
そういうことってあるの。
「ああ,やっかいなことになりそう」キムが弱々しく言った。
あたしたちは教室の近くまできていた。あー,骨が折れたこと!
なんたって,詰め
ものが取れちゃったぬいぐるみみたいにだらーんとなってるキムを,ジーナとあたしは
運んであげたんだから。
「大丈夫よ」あたしは保証した。「とにかく,全部ボトリーのせいなんだから」
「それウソっぽくない?」キムは信じていない口調。
あたしは肩をすくめた。「やつは今週すでに何百っていう罰を受けてるわ。ちょっと
やそっとのことじゃ動じないわよ」
「私,トイレに行きたい」キムがつぶやいて,脚を交差させた。
― 129 ―
「そう,じゃ,自分で行ってきて」あたしはそう言って,キムの腕を離した。
あたしたちは口を閉じ,キムがよろめきながら女子トイレに入っていくのを待った。
「で,何て言って,キムを降ろしたの?」ジーナが尋ねてきた。
「みんなにパンツ見せちゃうわよ,って」あたしは答えた。
「うまいこと言ったね」ジャズが言った。「ああ,かわいそうなキム」
あたしたちは顔を見合せてにやっとした。キムは何から何まであらゆることが怖いん
だ。あの子にとって,人生っていうのは問題の連続。それに対し,あたしたち
人には,
怖いものなんか何もない。人生っていうのはなかなかいいものってことになってる。あ
たしたちに何が起きようと。
*
*
*
「さて,今夜パパに頼みたいことがある人?」ジーナが実務的にとりしきる。
学校が終わって,家へ帰る道でのことだ。キムはまだちょっとふらつくみたいだった
から,あたしたちは,キムが,お母さんとゲーリーっていうお母さんのボーイフレンド
と暮らす高層アパートに,キムをおくり届けてきた。あ,その中の一所帯っていう意味
よ。自分たち名義のビルなんて所有してる訳ないわ。あはは。
「あたしの耳について」口火を切ったのはジャズだ。ジーナとあたしはブーイング。
「またあ?」あたしは言った。「あたしの新しい靴の方がもっと重要だわ」
「どうしてよ?」ジャズが攻撃してくる。
「だって,チェルシーとシャレルにもう言っちゃったんだもん。あたし,靴を買うん
だって」あたしは答えた。
「それはちょっとばっかり無謀ってもんよ。パパにもまだ言ってないんでしょ?」ジー
ナの注意,入りましたー。
「パパがダメって言うとでも?」あたしはあざ笑ってやった。あたしたちは一度にた
くさんのことをパパに要求しないようにしてる。だからこうして学校の帰り道に定期的
に話し合って,作戦を立てるの。あたしがダナ・キャラのサングラスをゲットしてから
もう
ヶ月も経った。だから,あたしの新しい靴はもうあたしの足にあるも同然よ。
「とにかく,ジャズ!
あんたはピアスの穴を開けてもいいかなんて,パパにまた聞い
たりしちゃだめよ」あたしはさらに続けた。「パパは,12歳になるまではだめだって言う
だけよ,いつもどおり」
「そんなことない」ジャズがあたしに負けまいと言う。「パパは弱くなってるよ。あた
し,わかるもん。もうあたしの目をまっすぐ見れないんだから」
― 130 ―
「あたしは,寝室を模様替えしたいの」ジーナが参戦してきた。「先週の『チェンジン
グ・ルーム』(注
)
で,紫と銀のきらきらの配色をやってたのよねえ」
「あれに出てた髪の長い男が気に入っただけでしょ」あたしは追撃。
「ちがうわよ」ジーナの応戦。あたしたちは
分くらい,それぞれのバッグで相手をた
たきあった。
「ジーナ,友たちと一緒にデートしない?」あたしたちの後を15分ほどつけてきてた,
10年生のにきび面の男子が声をかけてきた。
「いいえ,結構よ」ジーナが丁寧に返した。
あたしたちはしょっちゅうこんなふうに誘われる。パパはすごく厳しくて,男の子と
デートしないよう言ってくる。あたしたちは気が向いたときには,パパの目をかいく
ぐって出かけちゃうけど。
ロ・ウ・バ・イ
「ね,こんなおしゃれな言葉はどう?」あたしはジャズの耳を軽く叩いた。「 狼
狽」
「そんな言葉,ないでしょ」ジーナが反論してきた。
「あるんだなあ」あたしはにっこり笑った。「さあ,どういう意味か当ててみて」
実のところ,あたし自身も意味なんて知らない。でも,すっごく響きがいいでしょ。
「あなたは私の頭をロウバイする」ジャズが,耳をさすりながらのってきた
「あの犬はロウバイしています」ジーナも加わる。ジャーマンシェパードが街灯に片
足をあげているのを横目に。
「うーん,ちがうなあ」こう言って,しばらく
人に考えさせた。もちろんその間に,
あたしも頭の中で考えをめぐらし,適当にでっちあげる。
(中略)
「あれ,パパの車じゃない?」
「えっ?
まさか!
そんなはずないわ」ジーナが手をかざして道の先を見た。
「でも確かにパパの車だよ」ジャズが言った。「何してるんだろう?」
ここであたしたちは気付くべきだったんだ。あたしたちが帰宅した時にパパが家にい
たことなんてなかった。オコーナーさんっていう家政婦さんを雇っていたけど,
ヶ月
前にパパを説得して辞めさせた。パパが仕事から戻るまで自分たちのことは自分たちで
やるって言って。パパは大企業の主任会計士をしてて,いつだって仕事を山ほど抱えて
る。夜の10時や11時になっても帰ってこない日が週の半分くらいある。だから,あたし
たちはテイクアウトの食べ物を買ってきて,見たい時に,あたしたちには似つかわしく
ないようなテレビ番組でもなんでも見放題。ああ,なんて素晴らしき生活。
― 131 ―
「パパが最近,仕事から早く帰ってきたのって,いつだった?」ジーナが尋ねてきた。
あたしはしばし考えて,「あの時よ,ジャズが転んで,頭をパックリ割っちゃった時」
と返した。
「オコーナーさんがそりゃあもうあわてちゃったよね」
ジャズは不満げだ。「オコーナーさんったら,あたしのかわいそうな頭よりも,『ネイ
ヴァーズ』(注
)
を見逃すこと,心配してたんだから」
「そうね,あの時はちょうど,かなりの山場だったしね」ジーナが同意した。
あたしたちは家へと急いだ。お隣さんのマーシーさんが前庭の草むしりをしていた。
いつも通り,あたしたちに背を向けて。マーシーさんは
ヶ月前に越してきたのだけど
回も話をしたことはなかった。どうしてマーシーさんがあたしたちのことを好いてい
ないのかは,わからなかった。あたしたちがイギリスに住むインド人だから?
たちが子どもだから?
あたし
多分両方。もしくは,だれのことも好きじゃないのかも。マー
シーさんの家を訪れる人を見たことがなかったから。
「ミセス・マーシーは確実にロウバイしています」いつも首から下げてる鍵でドアを開
けながら,ジーナが言った。
「そうね」あたしは返した。「それが正解だと思うわ」
あたしたちがドアを押し分けてリビングに入ると,パパが現れた。スーツとネクタイ
の代わりに,ジーンズとデニムシャツだ。ショックだった。パパが家に帰ってきてて,
しかも着替えまでしてるってことは,もう会社には戻らないってことだ。
「何してるの,パパ?」ジャズがすぐに聞いた。「何かあったの?」
パパは緊張してるみたいだった。恐怖でぞっとした。
年ほど前,学校から帰ると,
パパが,ママは病気でもう二度と良くならないとあたしたちに告げた,あの時のことを
思い出したから。あの時の記憶が濃すぎて,苦すぎて,あたしは今でもあの味を忘れら
れない。あたしはいつものように,それを頭の外に押しやった。あたしと,あたしの人
生には実際には関係のない悪夢みたいに。
「何にもないさ」パパは素早く答えた。パパは銀縁のメガネを外すと,袖でそれをみが
いた。何気なさを装いながら。それでなおさらあたしは不安になった。パパがメガネを
掃除するときは,心配事があるときなのだ。そうやってあたしたちの目をまっすぐ見な
いようにする。
「今日は早く仕事を終えたい気分だったんだ」
「どうして?」ジャズが尋ねた。足が入っちゃいそうなほど大きく口を開けて。
パパはあたしたちと同じくらい落ち着かない様子だった。
「娘たちの顔を見るために
早く家に帰るのに,理由なんているかのかい?」
― 132 ―
そうきたか!
どう返すべきか,あたしたちはちょっと迷ってしまった。
「いいえ」ジーナが口を割る。
「まあ」続いてジャズ。
「素敵」締めはあたし。
あたしたちは突っ立ったまま,お互いを見やった。
「そうだろう」パパは困ったように言うと,メガネを元に戻した。「ふだん,この時間
は何をしてるんだい?」
「食事を作ってるわ」ジーナが答えた。
「健康に良くて,栄養のあるものを」あたしが続く。
「それか,パーフェクト・ピザからテイクアウトし……」こう言いかけたジャズが
「痛っ!!」と声をあげる。
まるで悲劇のヒロインみたい。あたしはジャズのつま先をぐりぐり踏みつぶしてやっ
ただけなのに。
「そうかい」パパはほっとしたみたいだ。「じゃあ,何か作ろうか」
あたしたちはキッチンに入った。ジーナがマークス・スペンサー(注
)
のラザーニャ
を冷凍庫から取り出し,パパが食卓を整える。あたしはサラダを作り,ジャズは調理台
に座って足をぶらぶらさせる。
「ねえ,どうしてパパが早く帰ってきたと思う?」ジーナが電子レンジのスイッチを入
れながら,聞いてくる。心配そうだ。
「パパが言ったこと,聞いてたでしょ」あたしはラザーニャの箱を手際良くごみ箱に入
れながら答えた。「たぶん,あたしたちの様子をうかがいにきたのよ。パパが本当はオ
コーナーさんをクビにしたくなかったこと,知ってるでしょ?」
「それもそうね」ジーナが元気になった。「ちょっとジャズ,あんたってばトマトソー
スの大きな染みの上に座ってない?」
あたしたちは席に着いた。パパはまだ緊張してるみたいで,あたしにはそれがなぜか
理解できなかった。もしあたしたちの様子を偵察に来たのなら,どうして緊張したりす
るの?
あたしは,まゆ毛をあげていわくありげにあたしを見つめるジーナを見つめ返
した。あたしと同じことを考えてるみたいだ。ジャズだけは,ふだん通り,自分のこと
しか考えていない。
「ねえパパ,あたしまたピアスの穴,開けてもいい?」ジャズがねだり始めた。
「どうして?」パパは勇敢にも聞き返した。でも,ジャズの言った通り,負けの態勢に
― 133 ―
入っている。そわそわしてて,落ち着かない様子だ。「もう, つも完璧に穴を開けてる
じゃないか」
「ジーナとアンバーはね, 回耳に穴を開けて,さ・ら・に鼻にも!ピアスしてるんだ
よー」ジャズが泣き落としにかかった。これがもう,うまいんだから。
「そうね,
でもあたしたち
人は12歳になるまで待ってたわよ」ジーナが言った。「ジャ
ズだって,あと半年の辛抱じゃない」
「あたし,年齢の割に大人びてるでしょ」ジャズも負けない。「あたしの頭の中では,
もうすでに12歳って感じがしてるの」
「あら,あたしは17歳の気分よ」あたしは言ってやった。「だからパパ,車買ってちょ
うだい,いいでしょ?」
パパが笑った。そしてそのことがあたしをとっても嬉しくさせた。あたしはパパを笑
わせるのが好きだ。だって近頃ではめったにないことだから。ちゃんと顔を合わせるこ
とすら,ままならなかったし。でも,パパは,ジャズが下唇を突き出し,さらなる泣き
落としにかかると,黙ってしまった。
「ねえ,お願い,パパ」
「うん,そうだなあ」パパは曖昧な返事を返した。パパはママの助けがないと,いつも
居心地悪そうで,途方にくれている。よくないと思うけど,こんな考えが頭に浮かんで
きてしまう。<ママだったら,ジャズが何を言おうと,屈服したりしないはず>。ああ,
そんなことを考えちゃダメ,あたしは自分にすばやく言い聞かせた。
パパはフォークをくるくるさせていた。あたしはパパが何も食べていないことに気づ
いた。
「ちょっと聞いてくれるかい」パパが言った。「話しておかなきゃいけないことが
あるんだ」
会話なら毎日あった。でも話 ではなかった。パパとあたしたち
人はママのことが
あってからお互いちゃんと向き合って話をするってことがなかった。パパは何を言うつ
もりなんだろう。
「うん,そのだね……」パパは少しの間そわそわしていた。「この
年,ぼくたちの生
活はとっても楽ってわけじゃなかった,だろう?」
あたしたちはそろってお皿を見つめた。パパは今までママのことを話そうとはしな
かった。あたしたちだってそうだった。だってそれが,全てをしのぐ唯一の方法だった
から。
「で,ここらで変化をおこすべきなんじゃないかと思ってね」パパが話を続ける。
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「変化?」あたしはあやしむように繰り返した。「どういう変化?」
あたしはジーナもジャズも,あたしと全く同じことを考えてることがわかった。どう
してあたしたちに変化が必要なの?
あたしたちはこの状況下で,考えうる限りうまく
やってきたじゃない!
パパがせきばらいをした。そして明るく言った。
「インドの叔母さんのこと,覚えて
るかい?」
叔母さん?
「叔母さんって?」ジャズが目を見開いて尋ねた。「インドに叔母さんなんていたっ
け?」
「いるわよ,ばか」あたしはテーブル越しにそう返した。
「ああ,あの人」ジャズが言った。「あたしたちを嫌ってるあの人ね!」
「あのね,ジャズ。違うんだよ」パパは心配そうだ。「それは間違ってるよ」
いや,そうなのだ。叔母さんはパパの妹だけれど,あたしたちは全くあの人のことを
知らない。何年か前に一度だけ,イギリスに来たことがあるけど,ママと折り合いが悪
かった。だからあの人がこっちに来ることは二度となかった。
「叔母さんはね,お前たちのこととっても気に入ってるんだよ」パパはそう続けた。
あたしたちは何にも言わずにいた。あたしは,彼女がどんな感じだったか全然思いだ
せない。最後に会った時は
歳だったし……。
「叔母さんはね,ぼくらと暮らすためにインドから来るんだ」パパが言った。「僕らの
世話をしてくれるんだ。どうだ,素敵だろう?」パパはお皿を熱心に見ていた。
「素敵?
いったい何が?」と,ジーナ。
「いつ?」と,あたし。
「今,あたしは本当にロウバイしています」と,不機嫌そうにジャズ。
パパからの答えはなかった。
訳者注
⑴
ボリウッド映画:ボンベイを中心とするハリウッド映画のインド版
⑵
視学官:国から派遣され学校を視察し指導や忠告,評価を与える人達
⑶ 『チェンジング・ルーム』:イギリスのインテリア番組。
⑷ 『ネイヴァーズ』:イギリスの人気連続テレビドラマ。
⑸
マークス・スペンサー:イギリス最大手のスーパーチェーン。
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