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共和主義と自由主義-アメリカ思想研究についての一考察

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共和主義と自由主義-アメリカ思想研究についての一考察
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共和主義と自由主義 −アメリカ思想研究についての一
考察−
岩渕, 祥子
北大法学論集, 45(3): 185-208
1994-10-24
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/15583
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
45(3)_p185-208.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
││アメリカ思想研究についての一考察││
石
J
I
J
。
説
千
平
共和主義と自由主義
はじめに
(二)ルイス・ハ l ツ﹃アメリカ自由主義の伝統﹄
二共和主義解釈
(一)カ I ル・ベッカ l ﹃独立宣言││政治思想史の一研究﹄
一自由主義解釈
次
(一)バーナード・ベイリン﹃アメリカ革命の思想的起源﹄
(二)ゴードン・ウッド﹃アメリカ共和国の創造﹄
(
三 )J-G・A-ポコック﹃マキャヴエリアン・モメント﹄
子
北法4
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(
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)
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1
目
研究ノート
三自由主義の復権
(二)アイザック・クラムニック﹁共和主義解釈再考﹂
( 二 ジ ョ イ ス ・ ア ッ プ ル ピ l ﹁アメリカ革命イデオロギーの社会的諸起源﹂
むすぴ
ロックの理論が革命期アメリカ人の政治観に多大な影響力を有
一九七二年、ロパ l ト・ E ・シヤルホウプは建国期アメリカ
るとか、フランシス・ハチソンといったスコットランド啓蒙思
ロック以外の思想、たとえばイングランドの急進派の思想であ
していたとする解釈が支配的であった。ところが、大戦後には、
思想研究の動向について、ひとつの興味深い解釈を提示した。
て一九六0年 代 に は 、 建 国 期 に お け る 共 和 主 義 の 影 響 力 を 指 摘
想の影響を指摘する研究が徐々に発表されるようになる。そし
はじめに
ョン・ロックに焦点をあてた解釈に代わり、共和主義の伝統を
する研究が進み、ここに共和主義によるアメリカ史解釈が新た
彼の﹁共和主義統合へ向かって﹂という論文は、それまでのジ
強調する解釈が建国期アメリカ理解の新たな枠組となりつつあ
なパラダイムとして登場することになったのである。
る研究の蓄積によって可能となった。シヤルホウプの同論文は、
ダイム転換が通常そうであるように、古いパラダイムに対立す
アメリカ思想史における新しいパラダイムへの移行は、パラ
て激しい議論が戦わされた。しかもそれは、思想史の分野に限
八0年 代 は 、 彼 の 予 測 に 反 し 共 和 主 義 解 釈 パ ラ ダ イ ム を め ぐ っ
で あ ろ う こ と を 予 測 し た 。 し か し な が ら 、 続 く 一 九 七0年代・
この共和主義解釈が建国期のアメリカ理解に新たな光を投じる
こうしてシヤルホウプは、先行業績の動向を踏まえたうえで、
ることを指摘した。それは、アメリカ思想のロック的解釈から
(
l
)
それまでの研究を振り返り、アメリカ思想の分野におけるパラ
るものではなく、法学や法哲学、社会史、女性史、南部史とい
共和主義的解釈へのパラダイムの変更を告げるものであった。
ダイム転換過程を次のように説明している。第二次大戦までは、
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共和主義と自由主義
するどころか、反対に共和主義解釈と自由主義解釈との論争を
とになった。かくして、共和主義解釈はパラダイムとして定着
ったアメリカ研究のさまざまな分野にまで論争を引き起こすこ
明確ではない。そしてまさにこの﹁ロック的﹂なるものをめぐ
ックの主張のどの面をもってアメリカ思想の特徴とするのかが
的思想﹂の内容は一見して明らかとはいえない。すなわち、ロ
ク的思想と結びつけるものであるが、そこで言われる﹁ロック
ものであるのかを、それぞれの立場を代表する研究を手がかり
本稿は、この﹁共和主義解釈対自由主義解釈﹂とはいかなる
表するこつの研究を取り上げ、そこにおいてロックの思想がい
素であると言っても過言ではない。そこで、自由主義解釈を代
る解釈の相違が、自由主義共和主義論争を構成する一つの要
(
2
)
導くことになったのである。
としながら考察しようとするものである。その際、考察対象を
かに解釈されているかを具体的に検討してみたい。
(ニヵ l ル・ベァカ I ﹃独立宣言ーーlt政治思想史の一研究﹄
建国期アメリカの思想の分野に限定して論争の経緯を紹介する
(
3
)
とともに、二つの解釈の対立から明らかとなった﹁自由﹂の解
釈の相違について若干の考察を加えてみたい。
(5)
アメリカ革命の思想的淵源をロックの思想に求めた代表的研
究 の 一 つ が ベ ッ カ l の﹃独立宣言﹄(一九二二年)である。同
展において、種々の思想のなかでも特にジョン・ロックの影響
アメリカ思想の自由主義解釈とは、アメリカ思想の形成・発
においてである。まず第一に、﹁独立宣言﹂に表明された思想
角からベッカ l の ﹃ 宣 言 ﹄ が 問 題 と な る の は 、 以 下 の 三 つ の 点
た思想が何に由来するのかを明らかにしようとした。本稿の視
の文一言を実証的に比較検討することによって、そこに表明され
書は、トマス・ジェファソンの起草にかかる独立宣言の各草案
を強調する。この解釈は、のちにロック以外の思想の影響力が
が﹁自然権思想﹂を反映したものであると解釈している。第二
自由主義解釈
指摘されるに及んで、その支配的地位を失うことになるが、そ
に、当時のアメリカ植民地人が自然権思想を﹁当然のこととし
て﹂受け入れていたことを指摘し、﹁独立宣言﹂に表明された
(6)
れまでの解釈はまさに﹁ロックの他なし﹂ (F2Z2育児Z Z 白
(4)
EE) という状態であった。
このように、自由主義解釈はアメリカ政治思想の特徴をロッ
1
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北法45(3・
研究ノート
当時のアメリカ植民地の指導者間に広く共有されていた思想を
自然権思想が、たんに起草者ジエフアソンの思想のみならず、
していくが、それまではこの﹁ロックの他なし﹂という状況が
しはさむ個別的研究業績は、やがて大きく共和主義解釈に合流
ただ、革命期におけるロックと自然権思想の影響力に疑問を差
続くことになった。
反映していたとみている点である。第三に、この点が自由主義
共和主義論争に最も関係するところであるが、革命期のアメ
リカ人に影響を及ぼした思想家のなかで、特にロックを中心に
一九五0年 代 前 半 に は 、 植 民 地 人 の 思 想 形 成 に 最 も 影 響 を 及
(一一)ルイス・ハ l ツ﹃アメリカ自由主義の伝統﹄
クの作品を一種の政治的福音として吸収していたし、独立宣言
ぼしたのはロックであるとするベッカ l の見解に対し、ロック
7カl は、﹁大概のアメリカ人はロッ
は、その形体においても、その修辞においても、ロックの統治
以外のイングランド思想の影響を指摘する研究もある程度の進
すえて議論している。ベ
論第二論文のいくつかの文章にきわめて近い﹂という判断を下
展をみるようになった。しかし、このような研究の流れに逆行
(
7
)
したのであった。その結果、自然権思想と結びつけられたロッ
するかのように、ロックと﹁自由主義﹂とをあらためて強調す
(
8
)
クの思想が革命期アメリカにおいて支配的であったかのような
る 重 要 な 研 究 が 発 表 さ れ た 。 ル イ ス ・ ハ l ツの﹃アメリカにお
(9)
理解が導き出されることになったのである。
ける自由主義の伝統﹄(一九五五年)である。彼はまず、ヨー
アメリカはトソクヴィルが指摘したようにいわば﹁生まれなが
すでに述べたように、ベッカ l の﹃宣言﹄は革命期の政治思
得られた結論をもとに当時の思想状況を類推したものといえる。
らにして平等﹂な社会であったのであり、はじめから自由主義
ロァパと比較した場合、アメリカは旧世界に見られるような封
し か し な が ら 、 同 書 が ﹁ 独 立 宣 言 ﹂ 公 布 当 時 の ロ yクの影響を
社会として成立した。そこでは﹁自由主義﹂は一種の﹁自然現
建的、宗教的圧迫の伝統をもたないという認識から出発する。
重視し、植民地が﹃統治論﹄で展開された自然法の下での自由・
象﹂であり、そのような﹁自然現象﹂としての﹁自由主義﹂は、
でも﹁独立宣言﹂に表明された思想的内容を分析し、そこから
平等の思想を受容していたとしたことは、ロソク以外の思想家
建国時の貴族主義者と民主主義者との対立や、南北戦争、一九
想の全体を考察の対象とするものではない。彼の議論はあくま
の影響を指摘するほかの歴史家たちの批判を招くことになった。
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共和主義と自由主義
弾圧する自由抑圧の力としてあらわれる歴史の逆説すら生まれ
おいて﹁反米﹂﹁反共﹂の名のもと、﹁自由主義﹂以外の思想を
対的自由主義﹂(白宮♀丘町 gmEZB)
と化し、ついに冷戦期に
果、アメリカにおける﹁自由主義﹂は、他の思想を排除する﹁絶
決してその存在を根本から脅かされることはなかった。その結
世紀末の革新主義運動といった深刻な危機を経験しながらも、
ことにあった﹂のである。
は革命以来いささかも変化していないという事実に注意を促す
の特殊歴史的な条件を明らかにし、さらにこの条件が本質的に
由主義が人民の共通の信仰として確立されるにいたるアメリカ
的としたのではなく、松本礼二氏の言葉を借りるならば、﹁自
ないのである。ハ l ツ は 革 命 の 思 想 的 起 源 そ れ 自 体 の 究 明 を 目
に対して、 ハl ツの場合、史料の実証的分析を目的とはしてい
を留保しなければならない。まず第一に、ハ l ツの考察はベッ
しかし、両者を同じ自由主義の文脈で語るには、いくつかの点
るとする点で、ベッカ!と同じ解釈の系譜に位置づけられる。
古典的ロック的な意味の自由主義の文脈で理解することができ
ハl ツ は 、 ア メ リ カ の 政 治 思 想 の 伝 統 が 、 自 由 主 義 、 し か も
するのが次に述べる共和主義解釈である。
ろう。これに対してロックや自由主義以外の思想の影響を強調
の点で彼を自由主義解釈の系譜に位置づけることに異論はなか
カの政治観において支配的であったとする見解を提示した。そ
るとはいえ、ハ l ツ は 建 国 以 来 、 自 由 主 義 と ロ ッ ク と が ア メ リ
このようにベッカ l や 共 和 主 義 学 派 と は 方 法 や 目 的 を 異 に す
(叩)
たのであった。
ヵーや後述の共和主義解釈研究のいずれよりも広く、建国期か
ら一九三0年代のニュ 1 ・ディ l ルまでを射程としていること
共和主義解釈
(日)
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である。ハ l ツの研究は狭い意味での建国期思想研究ではない。
第二に、ハ l ツ と ベ ッ カ ! と で は 、 思 想 史 研 究 の ア プ ロ ー チ が
六0年 代 に 入 る と 古 典 的 共 和 政 体 を 理 想 と す る 共 和 主 義 思 想 や
一九五0年代の新保守主義史家に対して、
﹁独立宣言﹂や一七・一八世紀の植民地人の書簡やパンフレッ
イングランドのカントリー派、﹁反対派﹂の思想を強調する研
、
ベッカ l ゃ
ト、新聞記事から当時のアメリカ人が影響を受けたであろう思
究がつぎつぎに登場する。やがてそれらの研究から、共和主義
異 な っ て い る 。 ベ yカl や 共 和 主 義 解 釈 の 目 的 は い ず れ も 、
想の起源を史料にそくして実証的に特定することにある。これ
九
研究ノート
立場を代表するのが、バーナード・ベイリン、ゴードン・ウツ
解釈が新たなパラダイムとして形成されることとなった。この
リカ思想の解釈を試みている。この研究の画期的性格は、それ
せたのはいかなる思想であったのかという観点から当時のアメ
九六七年)は、植民地人をイギリス本国からの独立へと向かわ
いても、異なった評価を下している。そこでまず、ベイリン、
三人はじつはロックの影響力についても、また植民地独立につ
由主義のそれよりも強調する点で共通している。しかし、この
この三人は、建国期アメリカにおける共和主義の影響力を自
ゃ、思想形成の土壌をヨーロッパと比較して概括的に論じた
して植民地における支配的思想を論じたベッカ!の﹃独立宣言﹄
る。それは、ジエフ 7ソンの﹁独立宣言﹂のみを考祭の対象と
詩、私信の丹念な渉猟をもとに議論がなされているところにあ
めるのではなく、膨大な数にのぼる論説やパンフレット、説法、
が建国期のごく一部の著名な政治指導者の言論をもとに論を進
(
ロ
)
ド
、 J ・G ・A ・ポコックである。
ウッド、ポコックの共和主義解釈を比較し、彼らの間の相違点
史料編纂作業に携わることによって得られた知見から、ベイ
を明らかにしたうえで、彼らと自由主義解釈派との根本的な争
リンは次のように論じている。植民地人は独立を宣言するに至
ハ1 ツ の ﹃ 自 由 主 義 の 伝 統 ﹄ と 比 べ 、 歴 史 学 的 実 証 性 の レ ヴ ェ
いるのに対し、ポコックは一八世紀全体を通じて支配的であっ
は植民地人を独立に向かわせた思想的起源の探求を焦点として
るまでに、ロックなどの啓蒙主義の伝統ばかりでなく、古典古
点を考察することとする。ただし、ここで取り上げる以下三つ
た思想の考察を目的としている。そこで、ここでは視点を三者
代、ピュ l リ タ ニ ズ ム 、 コ モ ン ・ ロ ! の 伝 統 も 受 け 継 ぎ 、 さ ら
ルははるかに吉岡い。
の特徴(他二者との相違点)の比較と革命期アメリカにおける
にイングランド草命とそれに続く共和政時代の政治思想の影響
の研究は、議論の射程距離に違いがある。たとえば、ベイリン
ロックの思想的影響力を彼らがどのように評価しているかの二
を受けていた。そしてこの諸起源のなかで最も影響力が大きか
(こバーナード・ベイリン﹃アメリカ革命の思想的起源﹄
欲を追求する議会とを批判した﹁カントリー派﹂の主張こそ、
である。権力整断により堕落したイギリス内閑と腐敗し私利私
ったのが、イングランドの﹁反対派﹂﹁カントリー派﹂の思想
点に絞って検討することとしたい。
バーナード・ベイリンの﹃アメリカ革命の思想的起源﹄(一
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共和主義と自由主義
植民地人が享受していた自由が脅かされつつあった植民地の状
まさに一七六三年以降、さまざまな形で植民地統制が強化され、
地 人 に 受 け 入 れ ら れ 、 彼 ら を 独 立 U理 想 的 共 和 政 体 の 樹 立 へ と
の擁護や私益に対する﹁公益﹂の優位性をめぐる議論が、植民
ツクは、﹁カントリー派﹂の主張のなかでも腐敗に対する﹁徳﹂
派﹂の主張のなかにも、自然権思想や社会契約論、混合政体に
このような解釈をうち出すにあたり、ベイリンは﹁カントリー
立したと解釈するのである。いいかえれば、ベイリンの解釈は
を恐れ、権力集中によって脅かされる﹁自由﹂を保持すべく独
力﹂と﹁自由﹂との対抗関係を主軸として、植民地人が寸腐敗﹂
いざなったと解している。これに対し、ベイリンの場合は﹁権
(
U
)
況に重ね合わせて理解されたという。
し彼は、自由主義解釈派が強調するそれらの側面を重視しない。
よる自由の保障などが含まれていたことを指摘している。しか
権力に対抗する自由を強調する点で自由強調型共和主義解釈で
ロックの影響力の評価についてはどうであろうか。ベイリン
ベイリンが特に着目するのは、﹁カントリー派﹂の主張に見ら
や﹁腐敗﹂は、同書第三章の﹁権力と自由﹂において詳しく論
は独立に至るまでのあいだに植民地人が影響を受けたと考えら
あり、ウッドやポコックのそれはシヴィックヒューマニズム強
じられている。ベイリンの解釈によれば、イギリス国王のもと
れる思想的淵源を複数指摘し、そのなかにロックの自然権思想
れる、権力の腐敗に対する憂慮であり、その腐敗の拡大がもた
に集中が進み、腐敗しつつある権力に対し、﹁自由﹂を保持す
や社会契約思想が含まれるとしている。このようにロックの影
調型共和主義解釈であるといえよう。
べきことを説いた﹁カントリー派﹂の思想が、植民地人に受け
響力は、思想的淵源の一つとして数えられてはいるものの、ベ
らす徳の喪失に対する﹁恐怖心﹂である。こうした﹁恐怖心﹂
入れられ、そうした﹁腐敗﹂や自由に対する﹁策略﹂の存在が
ッカi やハ l ッ 、 ま た ジ ョ イ ス ・ ア ッ プ ル ビ ー ら の い わ ば 新 自
評 価 さ れ て い る 。 し か し な が ら 、 同 じ 共 和 主 義 解 釈 派 の ウ yド
(U)
現実的であったがゆえに、独立へと立ち上がることになったと
由主義解釈学派と比較した場合にはその重要性は相対的に低く
このように、一八世紀イングランドの思想家の影響力をカン
やポコックと比較した場合には、彼女らよりもロックの思想的
(日)
みられる。
トリー派の思想より強調する点に関しては、ベイリンの議論は
影響力を評価しているといえる。
(日)
ウッドやポコ yクの議論と大差はない。しかし、ウッドとポコ
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研究ノート
リンがロックの思想を諸起源の一つに数えるときには、ロック
的背景に焦点をあわせている。すなわち、この大著の主眼は、
目的としたのに対し、ウッドの﹃創造﹄はアメリカ建国の思想
ベイリンがアメリカ独立の思想的起源を明らかにすることを
(二)ゴードン・ウッド﹃アメリカ共和国の創造﹄
の社会契約論と自然権思想を指しているのであって、新自由主
独立までに植民地人が受容していた思想のなかで最も影響力を
ただし、ここで注意しておかなければならないことは、ベイ
義解釈派が主張するような、ロックの自然権思想を基礎とする
有していたのが一八世紀イングランドのホイッグの思想である
ことを踏まえたうえで、独立以後、各邦がホイッグの思想にも
る。もちろん、この点はただちに啓蒙思想のなかの個人主義的
要素をベイリンが否定したものと受け取ることはできない。し
とづき共和国の建設を試みたことを論証するところにある。同
近代的な個人主義的自由主義を指してはいないということであ
かし、新自由主義解釈派のようにロックの思想と個人的・経済
にアメリカが独立を宣言してから一七八九年に合衆国憲法が発
書のタイトルが示すように、ウッドの主たる関心は一七七六年
効するまでの期間にある。その反面で、独立宣言以前の思想的
ていたとしているわけではない。つまり、ベイリンはロックの
思想を一つの起源として認めてはいるものの、それが植民地人
起源の解釈については、ウッドはベイリンとほぼ同じ立場に立
的自由を結びつけ、それが革命時に大きな思想的影響力をもっ
に及ぼした影響の内容については新自由主義解釈派と評価を異
っている。
アメリカ草命の思想的起源については、ウソドとベイリンは
にしているといえるのである。
このように、ベイリンは腐敗した権力に対して植民地人が自
一致するものの、独立の根本的動機をどう解釈するかという点
起こした動機は、腐敗した権力によって自由の存立が脅かされ
で、両者は見解を異にする。ベイリンにとって独立革命を引き
淵源におけるロックの自由主義思想の影響力を過小評価するも
るという植民地人の﹁恐怖﹂であった。ところが、ウッドの場
個人主義的自由ではなかった。この解釈は、アメリカの思想的
のであるとして、やがて新自由主義解釈派の批判を招くことに
合は、たび重なる本国の圧制によってイングランドの国制が危
由を保持すべく独立したと解釈した。しかし、その﹁自由﹂は、
なったのである。
機に晒されていると判断した植民地人が、ホイッグが理想とし
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共和主義と自由主義
﹁ペシミスティック﹂な解釈であるのに対し、ウッドの解釈は
本国政府に対する嘆きや失望によってもたらされたとする点で
ように、ベイリンの解釈は、アメリカ植民地の独立は腐敗した
至 っ た と 解 釈 す る の で あ る 。 ダ ニ エ ル ・ ロ ジ ャ iズ が 指 摘 す る
た共和政体をアメリカにおいて実現しようとした結果、独立に
様性を共和国の存立の観点から否定する思想が支配的であった
なしている。しかし、公益を私益に優先させ、者修や利害の多
理想的共和政体樹立のための奮闘とその挫折とが叙述の中心を
かえれば私利私欲よりも公益を優先する、有徳な人民からなる
が理想とした共和政を独立後の各邦にいかに樹立するか、いい
られたのに対し、ウッドの場合、イギリスの﹁急進的ホイッグ﹂
﹁起源﹂においては﹁権力﹂と﹁自由﹂との対立が主軸にすえ
このように同じイングランド思想を起源として特定しながら
地を認めないため、やはりのちに新自由主義解釈学派からの反
とするウ yド の 共 和 主 義 解 釈 は 、 個 人 主 義 的 思 想 が 存 在 す る 余
(
口
)
で﹁オプティミスティック﹂であるということができよう。
理想の政体樹立という高遁な精神によりもたらされたとする点
も、そのいずれの面を強調するかによってもたらされた解釈の
てしまったイングランド国制を新世界に再構築しようと試みる
とは同書が、一七七六年以降を考察対象の中心としていること、
立宣言以前のロックの影響にはほとんど触れていない。このこ
ロックの影響力に話を移すならば、ウッドは一七七六年の独
論を引き起こすことになった。
が、その場合の古き良き国制とは﹁共和政﹂であった。しかし、
および草命期植民地人の一言説において﹁急進的ホイッグ﹂の思
う点とも関係する。ウッドによれば、植民地人は腐敗し堕落し
違いは、建国期アメリカの﹁共和主義﹂をどう理解するかとい
過去の歴史が説くように、共和政であるだけでは統治の腐敗を
ことによると思われる。アメリカにおけるロックの思想的影響
想が支配的であったことをあらかじめ基本的な前提としている
をウソドが取り上げるのは、一七七六年以降、植民地側が君主
回避し得ない。共和政体でありつつ偉大な国家であり続けるこ
る。そこでは﹁倹約、勤勉、中庸、質素といった質実剛健な独
政を否定し、新たな統治体制を樹立する必要が生じたときであ
との成否は、共和国を構成する人民の資質と精神にかかってい
立自営農民の特性が社会を堅固にする﹂ものと考えられ、逆に
っていたのは、帝国とその植民地の関係であり、ロックが﹃統
る 。 ウ ッ ド に よ れ ば 、 反 英 抗 争 時 に 本 国 l植 民 地 問 で 争 点 と な
(時)
ることは社会を堕落させると考えられた。つまり、ベイリンの
そうした特性と対立するような者修や個人的利益追求を志向す
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研究ノート
人にとって重要になったのは、イギリスからの独立を宣言し、
築と関わるものではなかった。ロックの社会契約論がアメリカ
治論﹄で展開した自然状態における個人の同意による社会の構
えるのである。
六年以前のロックの影響力を過小評価していることに異議を唱
と解してはじめて説明しうるとし、ウッドやベイリンが一七七
況は、一七七六年以前にも個人主義的自由主義が存在していた
危機的状態を経験したことから、アメリカ人は新たに形成され
たときであった。﹁本国との論争や植民地の政治が、変転する
な個人に立脚する、より近代的な意味の﹁自由﹂や自由主義を
るロックの思想的影響力を問題にするとき、彼らは自由で平等
ところで、新自由主義解釈学派が独立以前のアメリカにおけ
(幻)
各邦レヴェルにおいて一種の自然状態ともいえる状況が発生し
つつある彼ら人民のあいだの関係について、また人民と国家と
指している。この﹁自由﹂をめぐる共和主義解釈派と新自由主
(ぬ)
の関係について説明するための、契約論的な新しい類推を必要
義解釈派の認識のズレについては次節で詳しく考察することと
このようにウッドの﹃創造﹄は植民地を独立へと駆り立てた
影響力をウッドがどのように解釈しているかということについ
し、ここではロックに由来するとされる個人主義的自由主義の
とした﹂のである。
思想的影響力のなかの社会契約思想の影響力をほとんど考慮し
てのみ触れておきたい。
前述のように、腐敗した本国との対抗関係からアメリカ諸植
なかったが、ロックとの関係ではここにもう一つ、未決の問題
が残る。すなわち、自然法の下での自由で平等な諸個人という
民地は共和国の樹立を目標に掲げることとなるが、彼ら植民地
改変を意味する以上に、アメリカ共和国の﹁性質﹂が問われる
人にとって共和国建設は、君主の首をはねるという単なる政体
らの新自・問主義解釈学派による共和主義解釈批判は、独立革命
ことを意味していた。イングランドの急進的ホイッグが理想と
の推進に影響を及ぼしたのかという問題である。アップルピー
が無私の公民からなる失われた共和国再興のために戦われたと
する共和政体では、君主・貴族・庶民が牽制し合い、その牽制・
観念は、はたして革命前に植民地人に受け入れられ、独立革命
れる個人主義、物質主義、プラグマティックな利益政治の存在
する解釈に立つならば、独立直後のアメリカ社会に顕著にみら
均衡によって自由が擁護された。しかし、君主や貴族なき後の
一階層社会において衆愚政や無政府状態に陥ることなく、共和
(初)
を説明できないというものである。彼らは、独立直後の社会状
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0
共和主義と自由主義
政が維持されるためには、私益を公益のために犠牲にする公徳
立されていなければならないとする論法によって、二つの自由
私的自由が主張されるためにはその前段階として公的自由が確
こうしたウッドの解釈を踏まえたうえでアップルビ l の批判
の矛盾・対立は顕在化しなかったのである。
G
E
E
-円三ユロ巾)の存在が必要不可欠であった。
共和主義解釈にしたがうならば、共和国の命運にとって人民
の公徳の存在が重要で、そうした公徳重視の姿勢が植民地人の
批判するほど個人主義的思考の存在そのものが否定されている
の妥当性について検討してみるならば、次の点が指摘されるで
わ け で は な い 。 し か し 、 ア ッ プ ル ピ 1 が批判するように、彼の
あいだに共有されていなければならないことになる。しかし、
されていたのだろうか。この点についてウッドは次のように説
解釈では私益よりも公共善が強調されるため、自由主義的思考
あろう。まず第一に、植民地独立以前に個人主義的自由主義に
明する。アメリカ植民地人が受容したホイッグの思想において
様式と共和主義的思考様式とが措抗しつつ並存していたという
それでは彼らが﹁自由﹂を口にするとき、そこには﹁私益追求
は、﹁最も重要な自由とは、公的なあるいは政治的な自由であ﹂
解釈は生み出されない。このように、﹁自由﹂をめぐる二つの
ドの﹃創造﹄の中にも若干の言及がみられ、アップルビーらが
り、個人的な自由と公共善とは、互いに敵対し合うものではな
解釈の対立は、それぞれの解釈が近代的な自由主義的思考様式
裏打ちきれた思考様式が存在していたか否かについては、ウッ
く、共存可能な(﹃28門 広 島 芝 も の で あ っ た 。 本 国 か ら の 独
の自由﹂は含まれていなかったのであろうか。あるいは、アッ
立という事態に直面した植民地人にとって、シヴィル・リバテ
の影響力をどの程度とみているかの差に帰することができる。
プルピーらがいうように近代的自由主義と古典的自由は、区別
ィとは﹁政治体あるいは国家の自由であり、個人的なそれでは
しかし、近代的自由主義思想が横民地に存在していたことを
ア yプ ル ビ ー に よ れ ば 、 独 立 以 前 に も 植 民 地 人 の 間 に は 近 代 的
(お)
な利益を追求したりはせず、一般的な福祉を一体となって要望
なかった﹂。﹁一体としての人民は彼ら自身の利益に反するよう
認めたとしても、アップルピ l の議論には若干の疑問が残る。
意味でのリベラリズムと共和主義とが並存していたということ
する﹂のであり、そこでは公的な自由と個人的な自由との聞の
矛盾・対立など存在するべくもなかったのである。このように、
になる。しかし、本国の圧制に対して反旗を翻し、﹁自由﹂を
(
n
)
公共善のために私的利益追求の自由が犠牲にされるとしても、
北法4
5
(
3・
1
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5
)
4
8
1
研究ノート
ウァドが指摘するように、革命期、特に独立宣言発布に至る一、
由﹂は近代的個人主義的自由を意味していたと言えるだろうか。
獲得せんと蜂起した植民地人にとって、はたしてその時の﹁自
o
z
z
n印)﹂とするのである。
門
印
ご)
邦憲法の制定をもって﹁古典的政治の終駕
いう、新しい政治科学に依拠する現実政治の展開を予定した連
なくなった。こうしてウッドの﹃創造﹄は、多元的利益政治と
国の父祖たちは古典的共和主義に基づく政治を断念せざるをえ
目標であったといえる。したがって、近代的な意味での生産・
した建国史解釈を提示した。ここにおいて、ウッドが連邦憲法
このように、ウッドの﹃創造﹄は、共和主義の展開を主軸と
(
§
:
z
oご-821
二年は植民地人の公共性重視の姿勢が最も高揚した時期であり、
所有に関わる経済的な自由を、植民地人をして独立へと推し進
たと見るのに対し、連邦憲法制定後も共和主義がアメリカの思
制定期にはアメリカ社会が共和主義的政治から最終的に脱却し
(
M
)
そこでは対本国との闘争関係において﹁植民地の自由﹂こそが
めた複数の思想的衝動のなかで特に強調するアップルビーの解
脚した邦憲法制定が進められ、理想とされた共和政が船出する
なかった。独立宣言の後、各邦レヴェルでは共和主義精神に立
微少な勢力にすぎず、人民の私的利益志向はまだ潜在的でしか
いたことを指摘している。しかし、彼らは独立の大義の前には、
想となったことを論証した大著である。ここでは本稿と関係す
すなわちイギリスとアメリカにおいて非常に強力な共和主義思
示すようにルネサンス期のマキャヴエリの思想が大西洋の両岸、
ポコックの﹃マキャヴエリアン・モメント﹄は、その副題が
(
三 ) J - G・A-ポコック﹃マキャヴエリアン・モメント﹄
である。
想の主流を占めていたと解釈するのが、次に考察するポコック
釈には疑問が残るのである。
たしかに、ウッドは腐敗したイギリス本国からの自由獲得と
いう、シヴイル・リパティ熱が最も高揚した時期においでさえ、
ことになる。しかしながら、共和政を宣言することは、ただち
近代的個人的な自由の欠如を問題とする植民地人が少数ながら
に理想的な公的市民を創出することにはならない。現実の邦政
づけていたのはホイッグ派の思想と、ミルトン、シドニー、ボー
ポコソクによれば、一八世紀英米の政治思想を根本的に特徴
る同書の第十五章﹁徳のアメリカ化﹂を取り上げる。
治においては、公共の徳が失われ、同質であるはずの社会の中
で異なる利害と利害がぶつか円あうこととなった。この時、建
北法4
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(
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)
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8
2
共和主義と自由主義
リングブロ l ク と い っ た ネ オ ・ ハ リ ン ト ン 派 の 思 想 で あ る 。 さ
己実現﹂に励む公民像が強調されている。
やウッドのような共和主義の﹁規制的﹂な側面ではなく、﹁自
という二元論的対立図式が一八世紀全般を理解する際に有効で
かつ彼に対する批判が最も集中したのであるが、﹁徳﹂対﹁商業﹂
第三の特徴は、この点にポコックの特異性が最もよく現れ、
(お)
らに、彼らの思想の系譜を時代を遡って探求してみるならば、
古典古代のロ 1 マ の 共 和 政 に 傾 倒 し た マ キ ャ ヴ エ リ に ま で た ど
アメリカ思想の淵源をミルトン、シドニーらに求める点にお
あるとする点である。一八世紀全般ということになると、アメ
りつくという。
いて、ポコックとベイリン、ウッドとのあいだに違いはない。
邦憲法批准による大陸大の共和国建設までのすべてが含まれる
リカの場合、イギリスによる植民地統治から反英抗争、一七七
ついての彼の解釈が、他のいずれの共和主義史家よりもヨーロ
ことになる。ポコックは、独立までの一、二年を頂点として盛
六年の独立宣言、それに引き続いての各邦憲法制定、そして連
(
2
5お と と い う 文 脈 に お い て 語 ら
り上がった古典的共和主義信奉の気運が、その後次第にその熱
のような点で特徴的である。まず第一に、共和主義思想伝播に
れていることである。たしかに、ベイリン、ウッドも一八世紀
する共和政治が放棄されたと解釈するウッドに反論し、腐敗を
狂度を失って行き、連邦憲法制定に至つては古典古代を理想と
しかし、ポコックによるアメリカ政治思想の共和主義解釈は次
アメリカ政治思想の淵源を一七世紀のイングランドの思想に求
義思想を、さらに遡ったヨーロッパ思想の系譜に結びつける点
させる言説は、一七九0年 代 に 入 っ て も ア メ リ カ 人 の 思 想 を 規
もたらす商業への反感、いいかえれば﹁徳﹂を﹁商業﹂と対立
ッパ的思想とその﹁系譜﹂
めてはいるが、ポコックの場合、一七・一八世紀英米の共和主
が特徴的なのである。
人は私益を公益に譲ることが求められたと解釈したが、ポコッ
響力はどのように評価されるのであろうか。この点、ベイリン
寸徳﹂対﹁商業﹂で捉えるポコックにおいては、ロックの影
定していたとする。
クの解釈では、共和主義で重要なのは、公益のための無私より
はロックを諸思想のうちのたんなるひとつに数え、ウッドは過
第二に、ウッドは、理想とされる共和政を維持するために偶
(252与 を と 公 民 と し て の 政 治 参 加 で あ っ
小評価した。しかし、ポコックはやや強引な、否定とも受け取
も、公民的資質
たことが強調される。つまり、ポコックの共和主義はベイリン
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(
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3
研究ノート
の 植 民 地 人 が 抱 い て い た ﹁ 慨 嘆 fz自 邑 ご も 、 共 和 主 義 の
される共和政の概念こそ、契約思想登場の舞台を準備したので
しかし、ルネサンスのシヴィック・ヒューマニズムから導き出
れた契約思想や自然状態への一言及をロックと結びつけてきた。
ように説明する。従来の解釈は、独立革命時のアメリカにみら
クの思想的影響力を犠牲にしたうえで、と前置きしながら次の
ることのできる評価をロックに対して下している。彼は、ロッ
する。これがいわゆる﹁共和主義│新自由主義論争﹂と呼ばれ
義の軽視、あるいは無視に対し、その復権を唱える立場が登場
ない点では少なくとも共通している。こうしたロック的自由主
主義思想に多くの光をあて、その結果ロックの影響力を重視し
それぞれ異なっている。しかし、建国期アメリカにおける共和
に自由主義に対する共和主義思想の影響力重視の程度において
る三人の研究は、対象とする時代や﹁共和主義﹂の解釈、さら
これまで見てきたように、共和主義解釈派と一般に総称され
かし、彼のロック評価は従来のアメリカ思想のロック解釈に一
かじめ﹁ロックを過小評価する犠牲の上に﹂と断っている。し
ロァクを過小評価することについては、ポコック自身、あら
る。彼女の﹁アメリカ革命イデオロギーの社会的諸起源﹂と題
てた思想であったとする解釈に対し、異議を唱えたひとりであ
的ホイッグ派﹂の思想こそがアメリカ植民地を独立へと駆り立
アップルピ 1 は 、 一 七 世 紀 イ ン グ ラ ン ド の ﹁ 反 対 派 ﹂ ﹁ 急 進
L
石を投じることに熱心なあまり、﹁ロックの他なし﹂に代わる﹁共
する論文は、一八世紀のイングランドとアメリカにおいては、
の社会的諸起源
( ニ ジ ョ イ ス ・ ア ッ プ ル ビ l ﹁アメリカ革命イデオロギー
自由主義の復権
るものである。
あって、ロソクの社会契約論ではなかった。また、反英抗争時
腐敗に対する嫌忌から説明される。つまり、アメリカ共和国の
建設は、自然状態への安易な回帰の観点から推進されたのでは
は、商業がもたらす腐敗と徳とが対峠し、指抗しあうなかのア
な か っ た の で あ る 。 ポ コ yク は 、 植 民 地 人 に と っ て 抵 抗 と 独 立
ム ピ ヴ ァ レ ン ト で 矛 盾 し た 契 機 (goBg円)を構成するものと
(お)
和主義の他なし﹂という行き過ぎた解釈を行っているように思
単一のイデオロギーが支配的であったのではなく、古典的共和
して理解されたと論じる。
われる。
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4
共和主義と自由主義
革命期の植民地人の思想が共和主義の圧倒的影響下にあったと
立しながら並存していたことを指摘した点で新しい。彼女は、
主義と一七世紀イングランドの自由主義的経済思想の二つが対
きると一耐じる。
七世紀の自由主義的社会経済思想にその起源を求めることがで
業関与を認めるべきか否かを問題とするという思考様式は、一
あって、市場経済の発展という現状を認めたうえで、政府の商
(幻)
すると、独立直後から顕著であった個人主義、物質的繁栄志向、
それではアップルビーらが強調する一七世紀の経済思想の特
ランドのウォルポ l ル 政 権 と 在 野 派 と の 論 争 は 、 た ん に 古 典 古
の再検討を出発点としている。彼女によれば、一八世紀イング
た﹁反対派﹂が置かれていた当時の政治状況や政敵との論争点
同論文は、ベイリンやウッド、ポコァクらが思想的淵源とし
在する。つまり、共和主義においては﹁私﹂に対して﹁公﹂が
発的・自律的な個人が互いに交流し合うという個人認識とが存
うるという人間の認識と、さらに自然的社会秩序においては自
この社会像の背景には、人間はだれしも、合理的に判断を下し
的市場モデルとは、自然の社会秩序を反映したものであった。
徴とはどのようなものであろうか。まず、彼らの説く自然調和
代の追慕(アイザック・クラムニックいうところの﹁ノスタル
優位したが、経済思想においては﹁合理的﹂で﹁自律的﹂な個
していたと解釈するよう主張したのである。
利益集凶政治の存在を説明できないとして、複数の思想が存在
デイツクな﹂思想)のみを軸として戦われたわけではない。政
人が肯定的・積極的に捉えられたのである。
さらに、経済発展によってもたらされた繁栄は﹁私益追求﹂
権派による国策としての商業拡大の可否があったのである。一
面でこの場合の﹁反商業的﹂立場は、共和主義的な﹁徳﹂対﹁商
についても新たな認識をもたらすことになる。すなわち、古典
を投じ、公益の増進に励むことによって、結果として私益も満
的共和主義においては、徳と英知とを身につけた公民が、私益
たんなる商業従事の可否をめぐるものではなく、政府が自然調
たされるとされていたのが、経済思想家の理論では、共和主義
こでアップルピ lが重視するのは、在野派と政権派の論争が、
和的市場経済に不当に介入することをめぐるものであったとい
私益追求とその充足による自己実現が認められたのである。こ
思想が否定した﹁野心﹂﹁欲望﹂﹁生活向上意欲﹂が肯定され、
業﹂という一言説に依拠したものといえなくもない。しかし、こ
う点である。彼女は、﹁反商業的﹂な古典古代的共和主義思想
(叩品)
からは、市場の自律性を前提とした議論は導き出されないので
~I:i去45(3 ・ 199)485
研究ノート
す、社会上層に対する人びとの信頼も揺るぎ始めることになっ
いることが人々に明らかとなるにつれ、恭順の政治の基礎をな
みるならば、高級官吏が自らの利益に適うような施策を行って
うになっていた。さらに、植民地内部の政治状況に目を転じて
本国イギリスの経済政策の下、経済的繁栄を実際に享受するよ
無縁なものではなかった。一八世紀初めにはアメリカ植民地も
このような本国の思想状況は、アメリカ植民地にとっても、
ントリのあいだでは、古典教育の影響が強く、それゆえ反英抗
かに植民地の中でも高等教育の機会に恵まれた社会上層のジエ
けではなかったことを指摘したのである。彼女によれば、たし
る階層が﹁無私﹂を美徳とする共和主義思想を遵奉していたわ
内部における﹁階層﹂という点に着目し、植民地社会のあらゆ
ップルビーは共和主義解釈があまり注意を払わなかった植民地
に属する人びととでは異なっていたことをも指摘している。ア
の上層に属する人びとと貿易商や職工、小売商などの中・下層
とどまらない。彼女の指摘は、私益肯定を前提とする社会的上
た。こうした経済発展と社会構造の動揺が現実に進むなか、植
争の際に彼らの理論的支柱をなしたのは、本国の﹁腐敗﹂にア
れはまさに﹁私益﹂に対するイメイジの大転換ともいうべきも
民地においても私益追求を肯定し、勤勉と節制に裏打ちきれた
メリカの﹁徳﹂を対置する共和主義思想であった。しかし、非
昇志向の蔓延に対する態度が、ジエントリのような植民地社会
社会的地位上昇を求める主張が登場するようになった。一八世
もまず植民地の繁栄に対する干渉・妨害にほかならなかった。
特権層にとって本国政府による植民地経済の統制は、腐敗より
のであった。
紀のイングランドの思想状況と同じく、こうした私益肯定や社
したがって、近代的自由主義に依拠しつつ独立運動にコミット
(却)
会的地位上昇容認といった思考は、公益を重視し、変化を否定
する古典古代を理想とする共和主義思想に由来するのではない。
していったとみられる。
アップルビーが社会の上層と中・下層とに、それぞれ古典的
アップルピ l の 共 和 主 義 解 釈 批 判 の 要 諦 は 、 共 和 主 義 思 想 以 外
の思想が一八世紀のイングランドとアメリカ植民地において存
論の余地のあるところであろう。しかしながら、植民地アメリ
共和主義と近代的自由主義とを結び付けて解釈している点は議
アップルピ l の 議 論 の 重 要 性 は 、 彼 女 が 単 に ア メ リ カ 革 命 思
カに複数の思想が並存し、階層分化もかなり進行していたとす
在していたことを強調するところにある。
想の思想的淵源をより広く解釈すべきであると主張したことに
北法45(3・
2
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)
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共和主義と自由主義
る指摘は、あたかも植民地人が一つの思想に基づいて、あらゆ
﹁カントリー対コ l ト ﹂ の 枠 組 を も っ て し て は 解 決 で き な い 問
に、一七六0年 代 に も 、 す で に ﹁ 課 税
ラムニックは、次の三点から反論を試みている。彼はまず第一
や﹁代表制﹂といった
る階層が全く同じ理想を掲げて独立へと向かったかのような印
L
象を想起させる共和主義解釈の弱点を的確に突いたといえる。
題が人々の議論の対象として存在していたことを指摘し、すべ
議論されたのではなかったとしている。クラムニックによれば、
ての争点が﹁徳﹂対﹁商業﹂といった共和主義思想に基づいて
被治者の同意に基づく課税や公平で平等な代表選出、さらに権
(二)アイザック・クラムニック﹁共和主義解釈再考﹂
も 、 ア ソ プ ル ピ i同 様 、 基 本 的 に ロ ッ ク や 社 会 急
(初)
アイザック・クラムニックが一九八二年に発表した﹁共和主
限受託者背信時の人民の革命権などの問題は、アングロサクソ
義解釈再考
進主義、ブルジョワ・リベラリズムが、共和主義解釈によって
ンの権利に基づいて回顧的に議論がなされたのではなく、むし
L
過小評価されていることを批判している。しかし、同論文は自
の思想の影響力が大きく反映していたという。
ろ自然権に基づいて議論がなされたのであり、そこにはロック
ト﹄の基本的主張││一八世紀後半においても共和主義思想
主義解釈派、なかでもポコックの﹃マキャヴエリアン・モメン
ことを指摘している。たとえば、一八世紀前半における﹁腐敗﹂
といった概念の内容も、一人世紀の前半と後半とでは変化した
第二に、彼は議論する際に用いられた同じ﹁腐敗﹂や﹁徳﹂
(訂)
ようとしたものではなく、議論の焦点をより絞り込んで、共和
由主義と共和主義の影響力の程度を比較し、その強弱を測定し
がアメリカ人の一言説を規定していたとする主張ーーを批判し
の機能不全によってもたらされる権限の集中を指したのに対し、
とは、公益を顧みず私益を追求することであったり、混合政体
一八世紀後半になると、﹁腐敗﹂は﹁怠惰﹂﹁放蕩﹂﹁非生産性﹂
す で に 述 べ た よ う に 、 ポ コ ッ ク は 一 七 九0年 代 の フ エ デ ラ リ
たのである。
スツとリパブリカンズの論争も、基本的には﹁商業﹂の是非を
﹁無能﹂を意味し、腐敗した政治制度とは﹁能力のない人聞が
コl ト 対 カ ン ト リ ー と い う 対 立 図 式 が 政 治 的 議 論 の デ ィ ス コ ー
の内容も﹁政治的動物である﹂ことや﹁公益に対し私益を犠牲
公職についていること﹂を指すようになった。また、﹁有徳﹂
(詑)
めぐるものであり、したがって一八世紀末にいたってもなお、
スを規定する枠組として働いていたと主張した。これに対しク
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研究ノート
味る
すこ
ると
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には
うで
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語台
し
、
ので
であ
あ る
た勉
るどこ
。と
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生
,
-
産
的
で
あ
る
と
敗
の構図においては、両者がともに有徳な公民からなる共和
政を支持していたという点だけから、彼らを共通項にくくりい
L
同一ではなかったのである。それにもかかわらず、﹁徳﹂対﹁腐
彼らによって貴族主義者と批判された人びとのいう共和政とは
るようになっていたのである。つまり、急進派のいう共和政と、
的﹂といった、階層分化を前提としたイデオロギーが用いられ
﹁貴族主義的﹂﹁資本主義的﹂あるいは﹁封建的﹂﹁ブルジョワ
レヴェルでは連邦憲法制定派と反対派が対立するのと並行して、
後半、すなわち各邦政府内では急進派と保守派が対立し、全国
のであろうか。クラムニックが明らかにするように、一八世紀
し、そうした共和主義の理想と一八世紀の現実は合致していた
は否定され、社会の均質性が共和政体存立の要件となる。しか
益の充足につながるとする共和主義においては、利害の多様性
たかのような印象がもたらされる。たしかに、公益の尊重が私
は、﹁反商業﹂を唱える勢力があたかも全く利害を一にしてい
されてしまっていると批判する。ポコックら共和主義解釈から
(鈍)
という図式を強力に押し進めることによって、階層対立が隠蔽
第三に、﹁有徳なカントリー思想﹂対﹁腐敗したコ l ト思想﹂
をに
意す
」
れてしまう点を、クラムニックは批判したのである。
クラムニックの指摘は、共和主義の言説が一八世紀を通じて
支配的であったとするポコックの見解に対する反証である。し
かし、ここではクラムニックの批判が、一八世紀後半のアメリ
カにおける共和主義思想の影響を真っ向から否定しているので
はないことに注意すべきであろう。クラムニックは﹁徳﹂や﹁腐
敗﹂といった共和主義思想の鍵概念が一八世紀後半の言説から
姿を消してしまったとしているわけではない。それらは依然、
人びとの言説の中に存在した。が、そうした表面上は同じ概念
も実はその中身を変え、﹁私益追求﹂と寸徳﹂はもはやかなら
ずしも相反するものではなくなっていた。つまり、クラムニツ
コックら共和主義解釈が概念の変容を考慮に入れていない点を
クは共和主義思想の影響力を否定しようとしたのではなく、ポ
批判したのである。
アップルビーやクラムニックの共和主義批判は、シヤルホウ
ことを示す。いわゆる共和主義パラダイムの形成以後も、アメ
プが仮定したように共和主義解釈の﹁統合﹂が定着しなかった
リカにおける共和主義思想の影響力、あるいは自然権思想、社
会契約思想の重要性が争点となって議論が戦わされてきた。し
かし、新自由主義解釈による共和主義批判は、たんに二つの思
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共和主義と自由主義
新自由主義解釈派が提示した、共和主義と自由主義の﹁並存﹂
想的起源への目配りの必要を強調するところにあったというべ
は、共和主義解釈派のひとりであるベイリンによっても支持さ
きである。
リカ社会内部の対立の契機が軽視され、かつてのロック的解釈
れることとなった。ベイリンは、一九九二年に出された﹃思想
ろう。アップルビ l に 代 表 さ れ る 新 自 由 主 義 解 釈 学 派 は 、 ア メ
に代わり、共和主義コンセンサスが支配的となっている状況を
的起源﹄増補版序文のなかで、自らが共和主義解釈派の一人と
想の優劣の問題を指摘したものだけと見なされるべきではなか
批判したのである。いいかえれば、歴史を﹁抽象画的﹂に﹁理
目されていることに対し、次のように記している。自分は、ア
(お)
念化﹂して解釈する共和主義解釈に対する批判という側面を共
に﹁シヴイツク・ヒュ l マ ニ ス ツ ﹂ と し て は 解 釈 し な か っ た と
メリカの指導者たちの思想を描き出すにあたり、彼らを一面的
和主義自由主義論争は含むものでもあったのである。
むすび
た時期と異なった状況において、異なった強調をしていた﹂と
ニスツ﹄でもあり、また﹃リベラルズ﹄でもあり、ただ異なっ
述べ、さらに、﹁革命の指導者たちは、﹁シヴィック・ヒュ 1 マ
の共和主義解釈は新たなパラダイムをもたらし、それに対して
したのだと書いている。これは、自身の解釈に対する誤解を正
これまで述べてきたように、ベイリン、ウッド、ポコックら
アップルビーやクラムニックらの新自由主義強調派が共和主義
すとともに、基本的には新自由主義解釈の見解に同意を与えた
論争は、共和主義思想と自由主義思想の﹁並存﹂という一応の
ベイリンの一言葉にみられるように、﹁共和主義対自由主義﹂
(お)
解釈の修正を求め、ここに共和主義解釈と自由主義解釈が並立
ものと受け取ることができよう。
和主義思想の影響力を否定しようとしたものではないというこ
決着を見るに至ったが、はたして二つの思想が対立しながら並
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することとなった。しかしながら注意すべきは、新自由主義解
とである。つまり、﹁共和主義対自由主義﹂論争の眼目も、ア
存していたのかという点については、なお疑問が残る。もちろ
釈派は共和主義解釈に修正を求めたのであって、彼らの説く共
メリカの思想的起源を共和主義と自由主義のいずれか一方を二
ん、自由主義解釈派は﹁個人主義的自由﹂
﹁個人性
者択一的に選定しようとするところにではなく、さまざまな思
や
研究ノート
(-EEE田口々)﹂、﹁経済的自由﹂を強調する点で共和主義解
なのだろうか。本稿の結びとして、以下では革命の指導者たち
そもそも古典的共和主義、あるいはアメリカ的共和主義と無縁
的自由に対するアムピヴァレントな感情が存在していた。古典
に見られるように、アメリカ輩命の指導者のあいだにも、経済
ウッドによれば、
由に関するウッドの説明の中に示唆を見いだすことができる。
このようなズレについては、個人的自由と公的(政治的)自
存在したのではないだろうか。
は﹁シヴイツク・ヒュ l マニスツでありリベラルズでもあった﹂
的共和主義の影響を受けた彼らにとって、﹁富の追求﹂﹁富の蓄
釈派と対立する。しかし、彼らのいう﹁個人性﹂や﹁自由﹂は
というベイリンの指摘を手がかりに、共和主義と自由主義の親
はたして彼らはオリジナルな共和主義思想をあるがままに受け
的共和主義思想はたしかに植民地人に影響を及ぼした。しかし、
引換に放棄されなければならなかったのである。こうした古典
(ESE-05Eg)﹂ と 結 び つ く 個 人 的 な 自 由 は 共 和 国 の 存 立 と
ところを追求する﹁自由﹂ではなかった。いいかえれば﹁放縦
れなければならず、したがってそこでの﹁自由﹂とは自ら望む
す共和主義においては、﹁私益﹂は﹁公益﹂のために犠牲にさ
した共和主義思想、すなわち古典古代の共和政体の復興をめざ
すでに述べたように、アメリカ植民地人が書物を通じて受容
植民地人も、そうした思想にもとづく理想的国制が古典古代の
のである。つまり、古典的共和主義思想に忠実であろうとした
危殆におとしいれることにもなるというディレンマが存在した
自由の一部を成す財産所有まで禁じることは、自由そのものを
理想のためには﹁個人的な自由﹂は放棄されねばならないが、
富の蓄積も許されないのであろうか。ここには、共和国という
ることも否定されるのか。勤勉による財産所有も、節約による
し、だとすれば勤労により財産を得、節制により財産を蓄積す
獲得を-認めることは共和主義の原則に反することになる。しか
積﹂は﹁公益﹂を顧みないことを意味し、したがって﹁富﹂の
一七七五年のウィリアム・ M- スミスの一言葉
和性について若干の検討を加えてみたい。
入れ、一八世紀において古典古代的な共和政を完全な姿のまま
姿のまま再現可能だとは考えられなかったといえよう。
的共和主義と、それ以外のさまざまな思想の影響を受けて形成
共和国を建設するという大義の前には、微力なものでしかなか
しかし、スミスによって提起された疑問も、本国から独立し、
(幻)
復興できると考えていたのであろうか。彼らが机上で知る古典
されたアメリカ独自の共和主義との聞には少なからざるズレが
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共和主義と自由主義
るいは﹁共和主義的であること﹂は選択の余地のないことであ
った。しかし、そうした鍵概念も実は状況に応じてその内容を
った。本国に対して﹁自由﹂を保持するといった場合の﹁自由
とは、なによりもまず植民地の、すなわちパブリックな自由で
変化させていたことが、新自由主義解釈の批判から明らかにさ
L
あった。たしかに、そこでは経済的な自由と結びつく個人的な
れたのである。
おける共和主義が、自由主義解釈、共和主義解釈のいずれもが
強調する立場の歴史家は批判する。しかし、革命期アメリカに
ける異なった争点の存在を暖味にする。今や共和主義│自由主
一八世紀全体を共和主義思想で語ることは、異なった状況にお
を明らかにしたことは、重要な指摘であった。しかしながら、
共和主義解釈がアメリカ思想における古典的共和主義の影響
自由は前面に出てこない。ここから、共和主義解釈では、個人
前提とするほどには古典的な共和主義そのものではなかったと
つつある。しかし、最近の研究は、概念内容の変化に留意しつ
義論争は﹁リベラルかつリパブリカン﹂という帰結に落ち着き
性、個人的自由が軽視されることになり、その点を自由主義を
すると‘個人性・個人的自由は、後者の強調するアメリカ的共
σ
問。
巾﹃門開
ω
E
Z
M
CP
℃ JcgE
血児
8EFEnsrzz巴回一
E
U
n
m凶口広田田口
歴史学的に明らかにする方向に進んできているといえる。
(お)
つ、いかなる共和政体が現実に構築されようとしていたのかを、
和主義のなかにすでに包含されていた可能性もでてくるのであ
る
。
最後に、共和主義自由主義論争により明らかにされた、
註
﹁自由﹂﹁共和国﹂﹁徳﹂﹁腐敗﹂といった概念の変容について
触れておきたい。この概念変容の指摘は論争の結果得られた収
(1)
な h白君、皇室ミは一九八八年の七月号で共和
CE5るが、翌八六年にはま﹄音書白ミミ白qC55る が
主 義 特 集 を 組 ん で い る 。 ま た 、 一 九 八 五 年 に は と 芝 3SS
(2) 例えば、 E
N m w Q白ロ -Hmw叶N)・司司品∞∞。
﹀ 宮 内 司 呂 田 口 百 三O
﹃若宮山﹀建主
﹃HCm
、
.
S苦言弘ミ自qcES之
叶町巾開田巾円四魚川口円巾 D同白ロ己ロ︻同巾﹁印丹田口品目口問。﹃児巾匂
穫といってもよい。というのも、共和主義解釈がアメリカ思想
と古典古代思想との継続性・類似性を強調するあまり、時代状
況や概念の変容に注意を払わなかったことが、こうした概念変
容に対する注意を促したともいえるからである。たしかに、独
立に際しでも、また各邦憲法制定に際しでも、さらに一八世紀
末の連邦憲法制定期においても、文言の上では、﹁共和政﹂あ
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同じく共和主義特集号を発行している。思想史以外の分
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新主義学派が地域的、あるいは経済的対立の観点からア
る革新主義学派に反論する形で登場したものである。革
リカ憲法の神話と現実﹄(木鐸社、一九八九年)、一一一一一一頁。
(日)アメリカ史学史における新保守主義学派とは、先行す
学出版会、一九八八年)に、また、アメリカ独立革命期
義思想の基底性ーーを主張したことからコンセンサス学
E巾同双山 N)-U℃・=ーω∞ を
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参照。
(3) アメリカ史学史については、有賀貞﹁アメリカにおけ
るアメリカ革命史研究の展開﹂﹃アメリカ革命﹄(東京大
の政治思想については、佐々木武﹁︿英国草命﹀一七七六
年 111思想史的独立革命論のために﹂阿部斉他編﹃アメ
リカ独立革命﹄(東京大学出版会、一九八二年)に多くを
派とも称される。詳しくは有賀、前掲書参照。
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るのが一般的である。しかし後述するように、アップル
(日)アップルビーやクラムニックらの立場は﹁自由主義解
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守主義史家は、一致や一貫性││ハ 1 ツであれば自由主
メリカ史を解釈するのに対し、ハ l ツに代表される新保
負っている。
(4) 盟国一吉宮・ E河内宮ZHn23EF巾
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(6) なお、ベッカ l以後の﹁独立宣言﹂の思想研究につい
ては斎藤虞﹁﹃独立宣言﹄研究史素描﹂阿部斉他編﹃アメ
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リカ独立革命﹄(東京大学出版会、一九八二年)所収を参
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共和主義と自由主義
も の で は な い 。 本 稿 で は ベ ッ カ ー や ハ l ツらと区別する
ピーらは単にロック的自由主義を再強調するにとどまる
といえる。
ポコックと同じく﹁ペシミスティック﹂な解釈に属する
に対する恐怖からアメリカ植民地が独立したとする点で、
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ため﹁新自由主義解釈派﹂という名称を使用した。なお、
ピl タl ・ オ ウ ヌ フ は 最 近 の 論 文 の 中 で 、 ア ッ プ ル ピ ー
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地との聞の争点は、帝国対植民地の関係であったため、
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(凶)ウッドの場合、独立革命時のイギリスとアメリカ楠民
ロックの社会契約論は独立以前にはあまり接点を持たな
むしろ一七七六年に独立を宣言してから後、各植民地が
いる。
が革命指導者たちの聞にも存在していたことを指摘して
かったとしている。ロックの契約論が意味を持つのは、
政府を構築するときであったとする。ポコックの場合には、
(出)﹃守礼子 n
zxa︿・なお、ウッドはその後の論文﹁徳の喪失
アメリカの思想的伝統におけるロックの影響力の軽減に
やや熱が入っているため、ロックの思想的影響を否定し
と 私 益 の 興 隆 ﹂ に お い て こ の 見 解 を 改 め 、 一 七 九0年 代
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においても共和主義解釈は有効であるとしている。。。﹁
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ポコックの共和主義解釈の相違については、問。仏間
主義解釈を比較する際に用いているが、ベイリンも腐敗
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小川・片山編、前掲書所収。
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後半とでは、﹁主権﹂﹁自由﹂﹁共和政﹂﹁民主政﹂﹁国制/
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ように変容していったのかを明らかにした論文集である。
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後者は、﹁反共和主義的﹂政策を推進したとされる初代財
究員奨励費)による研究成果の一部である。
[付記]本稿は、平成五年度文部省科学研究費補助金 (特別研
憲法﹂といった概念の内容が異なるとし、それらがどの
る平等な配慮要求は篤信とより合わせられているため、
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はたしてそうした思想が宗教的信条に由来するものか世
カ的共和政の実現を構想していたとする。
務 長 官 ア レ グ ザ ン ダ1 ・ ハ ミ ル ト ン も 、 彼 独 自 の ア メ リ
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俗的なリベラリズムに由来するものかの判断は難しいと
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(お)この﹁抽象画的理念化﹂という比聡は斎藤氏による。
二年)、四六O頁 。 斎 藤 氏 は 共 和 主 義 解 釈 と 社 会 史 学 の 歴
斎藤虞﹃アメリカ草命史研究﹄(東京大学出版会、一九九
史解釈を除えて、前者を﹁抽象画的理念化﹂、後者を﹁細
密面的具象化﹂としている。
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