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ティク・ナット・ハンについてJ 戸松義晴氏に聞く 教育の
浄土第 61 巻第 5 号(毎月 l 固 l 日発行)平成 7 年 5 月 l 日発行昭和 10 年 5 月 20 日第 311郵便物認可 拠りところを持つく〉中 原 実道 観音さまに出会うく〉松平 賓 胤 「ティク・ナット・ハンについてJ 戸松義晴氏に聞く [連環 ] 楽屋ゆかた 関容子 教育の現場から 一一一一内堀照夫 念仏信仰の系譜一一一一一須藤隆仙 共に生きる 御所野洋幸 蕊上特段さやらりい 忘れられた寺院・ 横村克 宏 法然上人鍛仰会 ・ 発行 6日本テレコム 楽しい 、 嬉しい. ちょっと切ない.なつかしい. いろんな話 を し た り‘ 聞 い た り。 そんな 何 気ない こ とが‘ 人 と人との 闘い紳の第 一 歩. それぞれの人の、それぞれのお話に 花を咲か せ るお手伝い. 安い市 外 電話の . 0088 です. 酌酬 @. C Z ) 8 8 f 、 料 無 位時 9L 】 休 } 一 ω m 砂川 00 時叩 oO 8誌 のVJ 山摘 。V お問い合わせ・お申し込み l草 、 日本テレコムお客繍センヲーまでお気曜に . 目次 ・・- 松平貫胤 3 8 16 楽屋ゆかた坂東橘太郎(→................... . .....… 関容子 2 4 カラーグラビア忘れ ら れた 寺院・… H ・ H ・-… 写真=横村克宏 拠りどころを持つ … ・ …… ・ …・……・…………… 中原実道 観音さまに出会う ............ … 一… コラム ……・…・・……・・……・……-………・……・……・・...・ H ・... 教育の現場から ....………… H ・ H ・-… 内堀照夫 念仏信仰の系譜日:繍@ ……… … …………… 須藤隆仙 コラム ー …・・・ …ー 表紙 は語 る … ・ …一 -…… 共に生きる .. . .… ・…・・… ・………・… .. . 御所野洋幸 ひとりひとりが蓮の花になる ー… ティク・ナット・八ン J フォーラム …・…… H ・ H ・....・ H ・-…...・ H ・... … ・ 事務局便り 編集後記 …...・ H ・..………...・ H ・-…・……………… … …………・・ ……………………………………………・………… …… 掛蝿字=浄土門主 中村康幽見下 掛嶋影=御戸胞子洋幸 アートデイレクション=近藤十四郎 7 …・....・ H ・-・・ 31 32 46 4 7 48 52 6 1 6 8 70 拠り E ころを持つ 舎現在の私自身の問題 。 。 阪神淡路大震災、思つでもない大災害が生じました諸証貨を痛烈に思い知らされた ことであります 一瞬の内に崩れた建物の下敷きになた っ方々、また、救いだそうと懸命の肉親の方々、 。 のような思いの中に極限に臨まれたことでしょう E 。 。 。 。 平常から信仰を持つ者、もたない者 正しい信仰を持つ者、持たない者 平常からの念 仏者、そうでない者 それぞれ、どのような臨まれ方をなさったのでしょうか 。 そして、現在、被災した際の恐怖、ショックが原因で起こる身心症状に対する、精神的 ケアが重要になってきました 。 このような状態のもとで、果して、私はどのような生きざまができることでしょう 絶対的拠りどころを持つ 拠りどころを持つものの強さ 。 片 一方のお母さん猿の方は、金網むき出しのまんま 一方のお母さん猿の方は、皆様方が今身につけていらっしゃいま 。 心理学の実験で皆様よくご承知だと思いますけれども、こういう実験がごぎいお ます 。 もう 母さん猿を二匹金網でつくるんです のお母さん猿です 。 。 遊び回り、走り回り、遊び疲れた子猿たち、おなか その 二匹のお母さん猿をこういった大広間に置いて、子猿たちが自由に飲んで お母さん猿とも豊かなおっぱい、そしであったかいミグクがたくさん出るようにつくって 。 すように手ざわりのいい、あったかい布を張りつけてねいぐるみにしてありま両 す方の あります いいようにしであるわけであります 9 。 がすいた子猿たちがお母さん方へ寄っておっぱいを飲めるわけでありそま れす をじっと んです 。 そしておっぱい飲むときだけじゃなしに、遊んでいるときにもそのお母さんに抱 観察しておりますと、どうも人気のいいのは、あったかいぬいぐるみのお母さん猿の方な 。 。 。 。 。 そしてそこで 一カ月ほ 旧制いぐるみのお母さん猿の方へ行った子猿たちは、これはもう そして子猿たちも半分ずつ分けて置かれるわけです この 二匹のお母さん猿を別々の小さな部屋 きついたり、よじ登ったり、寄りかかったり、ひつつきもつつきして遊んでいるわけなん です そういう姿が観察されました 。 これにはもっと次の話があるわけなんです に置きます ど別々の生活をさせます 。 元気に遊んでいます 追っかけ回ったり、天井に登ったり、寄りかかったり、おっぱいに 。 。 こちらの子猿たちも大変元気であります 追っかけ 。 しゃぶりついたり、ひつつきもつつきして遊んでおります、そういう姿が見られます 金 網のお母さん猿の方へいってみます 。 っこして、天井に上り、隅へ地け、そして組みつはぐれつ遊んでいまそ すしておなかが すきますとミルクを飲みに、そのときだけお母さん緩のところへやってきて、金網のお母 。 。 。 さん猿のおっぱい、口を突き出して飲むそして飲んだらまた離れて遊び回っているわけ E 。 そしてそこで集まってきた子猿たちをじっと観察しておりま 。 後、また 二匹のお母さん猿を 一つの大広聞に集めます 子猿たちもみ そういう姿が観察されます そして 一カ月ほ であります んなぞろぞろついてきます すと、金網 Uき出しのお母さん猿のおっぱいを飲んだ子猿も、ねいぐるみのお母さんに抱 きついてくっつきもつつきしながらおっぱいを飲んできた子猿たちも、もうどこにも遠い 。 そうなんです 。 。 平生何事もないときにはみんな一様に元気なんです がありません 。一様に同じように元気に走り回り、飛び回り、追っかけ回してやっている わけであります IO 拠り E ころを持 つ 。 にま わす かに ところが、ここに子猿たちのおびえるようなある事柄、が出来いたし 。 ト ラ のぬいぐるみがウオッというほえ戸と同時に出るのであります 子猿たちは初めて経験す 。 E の子猿もぎょっとするんです そして次の る何か恐ろしげなことでありまずから、瞬間 瞬間、クモの子を散らしたようにわあっと逃げ回り始めますが、すぐさま様相が変わって きます 。一 カ月の間ぬいぐるみのお母さんに抱きついてくっつきもつつきしながら遊んで 。 きた子猿たちは、いつの間にかお母さんにしがみついているんです そして仲間同士扇を 。 そ 寄せ合って、もっとお母さんにしっかりと潜り込もうとしてしっかり抱きついている とを知りません 。 。 。 . 一匹 一匹みんな ばらばらに不安げに逃げ回っている お母さんにしっかり抱きついて、仲間と 一緒に肩を寄せ合っ おろおろおろおろ、 のときになっても、金網むき出しのお母さん猿のおっぱいを飲んだ子猿たち、抱きつくこ わけであります さらに時間が経過します 。 ている、その安心からでしょう あのぬいぐるみのお母さんに抱きついている子猿たちは、 。 恐ろしげなそのトラのぬいぐるみを横目でちらちらとこう見ているんです そのときにな 、それか おびえなければならない現実、目をそらしたくなるような 実現 。 っても、金網むき出しのお母さん猿の子猿たちは、今なお不安げにおろおろおろおろと逃 。 げ回っているわけであります そうなんです ら逃げなくて、それに向かって目をぴたと捉えてその実 現を見つめることができる、 手、,フ 。 いう力が子猿たちの体の中に自然にいつの間にか湧いてきている 。 拠りどころ 4を持たないすがりつくものを持たない 子猿たちは、今なおそういったカが 。 そしてさらに時聞が経過します しっかりと抱きついて、そしてその安心から、その恐 。 出るどころか、不安なまま地け回っているわけであります 11 ろしい、 目をそらさなければならないようなものをちらちらと見始めた子猿たち、やがて そのトラがそれ以上のものでないというのがわかってきだしますと、一 片 方の手と足でお 。 不安げな様子です 。 一方の金網のお母さん猿の子猿の方はおろおろおろおろと逃げ回 。 母さんそしっかり握って、あいた手と足でちょっちょっとちょっかい出し始めたんです そのときになっても、片 。 あの目をそらしたくなるような、逃げたくなるような現実へ眼を捉えて、 っているわけであります そうなんです そしてそれを見つめることができるようになった子猿たちは、やがてその挑百りなければな 。 E うしょうもなしに出てきているんです 。 らない恐ろしいものへ向かって挑みかかっていくカが、いつの間にか湧いてきているんで そしてそれも自然に、気がついたら 。 平常、何事もない時の、人々の生きざまは、それほど大きな違いはありません す 。 。 。 拠りどころを持つ人は強うございます が、諸益…常を思い知らされる大問題が突然生じたときに、拠りどころを持つ人と、持 たない人とはっきり速いが出てきます 子どもにとっては、親は絶対的拠りどころであります とな 。 阿弥陀様の御 私たちは浄土宗徒にとっては、阿弥陀様は絶対的拠りどころであります 。 本願に抱かれおります。そして、「南無阿弥陀仏」と称え絶対にすがりつく阿弥陀様を持 本当に、幸せなことでごまいます 。 この度の大震災においてもご承知のように、絶対的拠りEころとしての親を持たない子 っております は不安であり、また、心の絶対的拠りどころとしてのしっかりした信仰を持たない人も不 E' 。 』ろとして必要とします 安であり、共に、第 二級の拠りどころでしかない、精神科医・カワンセラーを、心の拠り 12 拠り E ころを持つ 第二級の拠りどころ 不安に拠りそうカウンセラー その(一) にだめなの」 。 「先生、私は鯨潮がどん E ん沖の方へ退いて行ってしまうの 。 一生懸命泳ごうとするの 。 高校 1年生で、登校できなくなった女生徒が、カウンセラーである和尚の私に訴える 。 「父さん母さんを、苦しいので尻尾ではねとばしたの、怪我させたの」と、家庭内暴力の 話しをしてくれる う 。 「父さん母さん、私の背中へむしろを掛け、水を掛けてくれてるの。守ってくれてるの」 。 と、数回後の教育相談で話してくれるそうして、 言 。 「先生、潮が来るだろうか私、泳ぎたい。先生、潮来るだろうか」 。 カウンセリングを受け、着実に変化している中に於て猶、不安で杢安でたまらない心の 様子を話してくれる 2 月 。 。 ん E 。 。 「うん、不安なのだね はやく来ればよいのにね」と、添い続ける やがて、 E ん来てる」 「先生、潮が来てる」 。 「そう、見えるか」 「はい、見える 。 「そうか、来てるか よかったね」 「はい、安心した 。今度 は泳ぐよ 沖へ」 1 3 。 今年も賀状が届いた 四歳 そのつ 一 ) 数回のカウンセリングの後、 l 。 二歳の母親として、充実した生活をしている由 ・ トだったの」 。 「先生、私はモーター・ボ lトだった 今、大きな海を行く船が見えて来るの」 「ほう、モーター・ ボ ・ 。 ボ l スピードで突っ走っていたこと、 ・ トであったこと、今、大きな波に出会い転 ていること、目的へ向かって 一目算にまっしぐらにフル 「はい」と 言 って、高校総体の代表選手であること、生徒会委員であること、受験を控え 波の腹を突き抜いて進んでいた モー ター 覆 ・沈没してしまったことを話してくれる 。 そうして、今、大海を行く大きな船が見えてきだしたことを話してくれる 。 ふれ占慨を行く船、波の上に押し上げられて赤い船腹が見えや てが いて る、ぐうんと沈ん 。 。 でマストの先だけが見えてる しばらくすると、ずっと前の方の波の上に船が出てくる 。 安心して浮かんでいるから、心配せずにエンジンは休まずスクリュウは回り続け 「先生、あの船、波の上にあるときも、波の底にあるときも、安心して浮かんでいるので すねえ ておれるのですねえ」 。 。 「私、スランプの底になったとき、もうおしまいと不安で何も出来なくなってしまった でも、あの大きな船、波の底にいるときも安心して浮かんでいるのですねえ」と 。 。 不安で不安でたまらなかった者が、その不安を越えて安心な心に変わって行く お釈迦様の説かれる事が分かる、出来る人にと変わる 1 4 拠り E ころを持つ 。 「未来を思い煩うことなかれ」と、そして「今、行ずべきことを行ぜよ」と 絶対的拠りどころに出合う為に 和尚はその援助者カウンセラー 。 『 以無縁怒4摂諸衆生」と、 観無口単調』 対に 経説かれてありますように、「仏心者大慈悲是 ρ たず 。 阿弥陀如来像は 無条件 。のお慈悲でもって、私たちをお救い下さるのであります 罪悪 どうしょうもない姿を、 、 。 グ 深重の泥凡夫の私を、そ 見守り援けて下さるのであります のままに 無 ・ 条件に・大事に u ・ 鉱山条件に・肯定的に。受け容れていくカウンセリング・マインドは、阿弥 、 食 ・眼・痴の 三毒煩悩に執われて 動けなくなっている姿 8 そ のままに 。 陀織の御心の、御本願の、現代精神科学的表現でありましょう 。 阿弥陀様は、この私をこの身このままに大事にしてくださり、私の心の拠りどころにな ってくださいます この御息に報いるためにも、私は、不安におびえる人に寄り添い、その人の心の支えに E 。 ころとしての親を持たない人に、カウンセラーとして、しっかり寄り添いたいと 。 なればと、カワンセリングに努めねばと考えます 拠り 思います 心のうちをしっかり傾聴して差し上げることで、人間として万策尽きた絶望の淵から光 合掌 カウンセラーという人聞を拠りどころとしなければ生きれなかった者が、阿弥陀様を、 。 明を見出す信仰の目覚めへと、お念仏申せる人へと教化の逃が聞かれるのであります 。 お念仏を絶対的な拠り Eころとして生きる者へと導かれるのであります (岡山県総社市境審寺住・就 職実短期大学教授) 1 5 之込』み: ヲ・ フ 犬 山 ・、 寂.、, 光, 院 松平貫胤 山 11 M 主‘、. 1 6 観音色まに出会う 一、緑の不思議 のだと思いました。 お釈迦さまの臨終の地はクシナガラ、であり 十歳を一期として入滅されました。今、てこそ には、弟子が「ここは偉大な仏陀の臨終の地 当時も場末の町であったようです。先の経典 ました。この地は今も淋しいところですが、 日本では人生八十年ですが、 Aーから二千五百 しかし、お釈迦さまは「こここそが、私の臨 にはふさわしくない」と嘆く場面があります。 お釈迦さまは今から二千五百年は E前、九 していない時代の八十歳は極めてご長寿だっ 終の地だ」とお答えになっています。 年前、熱い熱いインドで、医学も医療も発達 たに違いありません。 うとおりに寿命を伸ばす,』とが出来るんだよ。 ます。お釈迦さまは「悟りを聞いた仏陀は思 いますが、そこには次のくだりが出てまいり 「大般浬繋 経(だいはつねはんぎょうどとい を自ら示されたのだと思います。 一つの例外も一人の特権階級も認めないこと が、「ここ」を変更出来ないことに関して、 かありません。たとえ地位名誉財産があろう 誰だって、「A 寸」ぞ過ごす場所は「ここ」し ガラで亡くなられてよかったと思っています。 私は、お釈迦さまが平凡な淋しい町クシナ しかし、私は・まもなく寿命を終えることにし お釈迦さまの最晩年の様子を記した経典を た」とおっしゃっているのです。私はその場 自分の音竿芯と努力、て到底及ばないところで 決定される条件を「縁」 面に出会った時、「お釈迦さまは八十歳で亡 くなられてよかった」と思いました。生ある さまが八十歳て、クシナガラで亡くなられた、 いいます。お釈迦 ものは必ず滅びる。た tえ地位があろうが名 これも「縁」のなせるわ、ぎ、でしょう。 t 誉があろうが、財産があろうが、生者必滅に 特権階級も例外もありえないことを示された I 7 、 二 お釈迦さまに出会う旅 さて、 お釈迦さまの亡くなられた場所クシ ナガラは仏教徒にとって記念すべき所「縁」 。 旅」といっていい、でしょう インド仏跡の巡礼は「お釈迦さまに出会う 、 日本では古くから、観音信仰が盛ん 二 観音さまに出会う旅 きて です。一番伝統ある霊場は、京の都を中心と ある場所となりました。実 は先ほどの「大般 浬繋経」の中に出てくることですが、お釈迦 。 して関西地方一円を巡礼する西国三士二ケ所 です 。 さまはこんなご遺言をおっしゃっておられま 期の花山法皇です さすがどの霊場も歴史の 雰囲気を感 じます 。秩父地方の秩父三十四ケ 。 す 重みを感じますし、雅な華やいだ雰囲引がた この札所巡礼の・ 興中 の祖は平安時代中 ねて欲しい きっと私にあえる。まず、私の 「私の亡き後は私の記念すべき場所を 訪 誕生の地ルンピニ l、私が悟りを聞いて仏陀 だよいます。鎌倉を中心として関東 一円に点 。 になった成道の地ブッダガヤl、私が悟りの 、そして、今まさに完全な 在する坂東三十三ヶ所は、関東武士の剛毅な ルナ l ト 内容を人に聞かせてはじめて布教に成功した l 。 、 所には大寺はありません 野の寺、里の山一 早 場所サ 悟りの世界(浬繋)に入るこの地クシナガラ。 規模も小さく子頃に巡礼出来る、まさに庶民 。 この四つは誰でも訪れて感激する場所である 。 の霊場、ですこれでしめて日本百観音、それ この観音巡礼は、観音さまに出会う旅とい ぞれに味わい深いものです 私も巡礼をさせていただいたことがありま っていい、でしょう。しかし、お釈迦さまは実 。 :・。」お釈迦さまは自ら四大聖地の巡礼を すが、巡礼のたびごとに新たな感動、感激で、 在の人物ですが、観音さまは実在した方では 勧めておられるのです 涙が頬を伝わること一再ならずありました。 1 8 観音さまに出会う ありません というのは 。 そこで、「観音さまに出会う」 ういうことなのか、少し考えて E みたいと思います。 観音さまは、「観音経」(正式には寸妙法蓮 、 華経観世音菩薩普門品第二十五」)として親 しまれるお経の中に登場する菩薩さま であり ということはその観音経に説かれてい 、 実は私も観音さまに出会いました 。 それ写れが観音さまかもしれないのです 四 。 私もこの年です 幾度となく地獄で仏に出 会いました。これもその一つ。 それは高校 一年の春休みのこと、友人と三 。 人で山陰地方に旅に出ました 時代が時代で 。 ます より安く、より遠いところに旅をするのです す。高校生の旅行ですから、貧乏旅行です。 。 の存在を信ずることが出来るということにな ることを信じてはじめて、その人は観音さま そこで、わずかな旅費を持ち、夜行列車を選 。 んで移動します 夜行がなければ、駅の待合 。 きて、観音経には「観音さまはこの姿婆世 室で寝るのです。しかし、三月下旬といって ります 界、私たちの住むこの世界、て、いつも人々を も山陰は寒くて、駅の待合室は大きな誤算で それは四日目の晩でした 松江に近いある 。 導いて下さっている。その観音さまのお姿は 小さな駅の待合室のことです 。三 人が寒さを 。 。 とても優しそうな中年女性、でした 。 とあります 。三 十 三とは無限無量の意 その した 人に一番ふさわしいと思われる姿に変えられ こらえながら、肩を寄せあっておりました 二尽ではない。三十三に姿をお変えになる」 るのです この世に五十億の民あれば、五十 その時、和服姿の美しい女性重 が 9いて来ま 、 。 億通りのお実があるということです。という した 。 ことは、私たちには姿形でそれが観音さまか、 「こんな所で何しているの」と尋ねてきまし 。 どうかはわかりません、出会う人、出会う人、 1 9 た。もし、 それが警察官、でしたら、おそらく い t いうことでした。 ました。「それは地獄、て仏だったね。きっと 私は旅を終えて、家で父にそのことを話し その女性は観音さまだったんだよ。いい人に 私たちは逃げ出していたかもしれません。決 して悪いことをしていたわりではありません 巡り合ったね」といってくれました。私は新 が、所詮家出少年にしかみえなかったでしょ ノ。 , 「 きました。そこは国民{望口でした。その女性 く待つてなさい」 tその建物に中に入って行 る所に連れて行きました。到着後、「しばら きなさい」と私たちをタクシーに乗せてとあ コ』んな寒い所で・。 :と :にかく私につ いて えました。そうしましたら、その女性は、 んだからね。名乗るはずがないんだよ。とに ないだろう。とにかくその女性は観音さまな を読んでいるはずだ。しかし、決して名乗ら た。父は、「その女性はきっ t おまえの投書 た月たっても、その後返事はありませんでし ご返事下さい」と投稿しました。ひと月、ふ 下さった方、もしこれを読んで下さったら、 聞の記者欄に「松江の近くの駅、て親切にして はフロントで何か究渉しているようでした。 かく、観音さまだと信じて、心の中で感謝す そこで「実は::::::」と本当のことを答 建物から出てくると、「今晩はここでゆっく ることだね」と教えてくれました。 「そうだね、お札は無理なんだね: ・・ 」と りお休みなさい Lt いってそのままタクシー で去って行きました。あっけにとられてフロ 一言いいました。「その人にはお礼は無t理 なおも諦め切れない私を見て、父は、最後に 、すべての手続きと支払は済ん ントに入る t でおりました。私たちは一夜、暖かい布団て しでも、とにかくお前も人には ん親切 ぐっすり眠ったものです。翌朝、フロントを にすることだ。その親切がまため内、りめ?っ Eん E 尋ねると 、その女性の名前も住所も分からな 20 観音さまに出会う て、その人にお返しすることになるかもしれ ないからね ・ ・ ・ : ・ 」 す。 しかし 、その人たちも 九てみな査足観音 りません。これは生意気盛りの少年時代の思 ふさわしい姿で現われたとしか言いようがあ し、観音さまが私たちを見るに見かねて一番 私たちは逃げ出していたこと、でしょう。しか 立つなよ」と身を持 って教えて下さっている とこの人は「おまえは人に石を投げる側には でしょう。しかし、みな観音さまなら、きっ らすような、憎んでも憎み切れない人もいる 例えば、石つぶてを投げ、中傷デ?を言いふ さまだと受け止める、これが観音信何です。 い出すが、何故か少年の私にも本当に観音さ 観音さまかもしれないのです。「中傷デマは 駅の待合室て出会ったのが警察官、でしたら、 まに出会ったように思われてなりませんでし 不愉快なことなんだ。お前は人にこんなEひ をしちゃいけないよ」とあえて教える t た。 いこ 側に立った観音さまかもしれないのです。こ 松江にはその後一度も訪れてはいませんが、 私にとっては観音さまに出会った記3 今9ペき んな風に考えるには時聞がかかると思います だ」と気付くのではありませんか。 になり、「やはりあの人も観音さまだったん が、その時はじめて憎しみが消え、心安らか 場所として思い出深い所です。 玉、憎たら し い 観 音 さ ま も い ま す 私は松江、で美しい観音さまに出会いました う人が九で観音さまだと思いたいのですが、 その当時は中傷デマに苦しんで、人間関係に い地方の山寺の住職として赴任しましたが、 実は私は二十六歳て地縁血縁のまったくな そうは岡山えない場所が多いですよ。中には憎 絶望したこ tが一再ならずありました。時間 が、世の中そうばかりではありません。出会 たらしい人、意地悪な人、恐ろしい人もいま 21 さまだと気付く旅ではないのでしょうか。と いうことは、インド仏教巡礼がお釈迦さまに はかかりましたが、あの憎々しい方々、意地 悪な方々も、若僧の私を鍛えて下さった観音 出会う旅、同様に三十 三所観音巡礼は観音さ 観音さまのお住まいは補陀洛山(ふだらく 。 まに出会う旅といって間違いありません きまだったのかもしれないtAユ Lは思えるよ うになりました 七、観世音 l声無き声を男優める 。 六、あなたも観音さまになれる 、 先に 観音経の「観音さまは三十三に姿を う名のお寺が多いのは観音さまのお住まいだ OO寺とい さん)です。観音霊場に補陀洛山 れば、五十億とおりの観音さまがある 」 とい というところから、でしょうまた観音霊場の 」というくだりを私は「五十億の民あ うことだと申しました。ということは、早い 査号大悲殿とか大悲閣と申しますが、観音 変える 話が、私自身が実は観音さまかもしれないん さまのお働き 「大慈悲」からきています 。 「 会う人、出会う入、凡てを観 ですよね。 出 「 に喜ぶこと」の意、「悲」は「共 「慈」は 共 。 音きまと受けとめる」ということは、結局自 に悲しむこと」の意です。申書ごとは共に喜 、 分も観音さまだと気付く・」とはないでしょう 。 ぶことにより、その喜びは倍増します悲し みごとは共に悲しむことにより、その悲しみ は半減します。観音堂は大慈悲に満ち溢れて 三十三所の観音霊場を巡礼するという、 』と .刀 は、一番札所から寺々を歩きながら、観音さ いるからでしょう 。 する、見極める」という意味で世 すの音と きて、観世音というお名は「世の音を観察 。 まに詣でながら、道中いろんな人に出会って 助け助けられ、苦楽を味わいながら、結局、 自分以外はみな観音さま、そして自分も観音 22 観音色まに出会う いの手が出る」、千眼は「無差別平等に優し 。 ーレト Jf 「ノ 札所に山寺が多いのはそのような理由からで 。 きをお持ちなるのが観音さまです観音さま 。 は、私たちの声のことです。喜びゃ、怒りは いまなざしで見ることが出来る」、このお働 うと居眠りをしていようとその喜び怒りを t 必ず大きな声が出ます たとえ観音さまがう は補陀洛山から私たち一人 一人をくまなく見 むしろ問題なのは声鉱山き声であ 。 聞き付けます。しかし、悲しみは問題、です 守っておいでになるのです。三十三観音霊場 。 声を上げて泣くのならまだ大した悲しみでは 。 。 悲しみに声も出ない、ただ放心状態 ありません ります こんな予備知識をもって観音さまをお訪ね 。 ありとあらゆる方角に気を配っておいでにな りませんね。 だと気付けたら、この世も捨てたものではあ 訪ねするうちに、まわりのみんなが観音さま 。 というのは最悪の場合です ということは観 してみたらいかかがでょうか 観音さまをお 。 音さまは耳を頼りにしていてはいけないので す 。 、 その声なき声ほ E じっくりと観察する、 見極める必要があるからです 八、慈悲ーたくさんの顔、たくさんの手 たくさんの眼 観音 さまのお働きは大慈悲ですが、そのお 働きを具体的に形、て表したものが一 十函千手 千眼の観音像です 十一面は「四方八方士万、 る」、千手は「同時に沢山の人々が 一斉に助 げを求めても、無差別平等にさつ t慈悲の救 2 3 2 4 楽屋ゆかた ず、,ん ‘ A. るとすぐ離婚したんで、祖父母と、母ど、兄 ど、ぼくの五人暮らしでした。おじいちゃん 橘太郎が四天(捕手や軍兵)の先頭を切っ は屋台のおでん屋。でも気っぷだけはいい人 でした。小さい孫にコイコイ(花札)教えて、 てキピキピ と 登 場 し て く る と 楽 し く な る 。 無 C の妙技を見せてくれるのかな 類の運動神経を駆使して、今日はどんな胸の すくウルト ラ (笑)、近所で火事のとき眼鏡と座布団ど花札 自分が負けそうになるとカッカしたりして 持って逃げた、って人です。あのころおばあ 『 蘭平物狂 」 で、三メートルの屋根から石 らんぺい もの守るい ど、期待で一杯になるからだ。 ちゃんがぼくをおんぶして、屋台に兄を乗っ 内 -』轟ea 灯縫のよへ返り落ちして、さらに舞台へ返り けて 。 μ じいち おでん屋台の後押ししてる姿をよく見 落ちする、 連 続 二 回 宙 返 り 。 『 千本桜』 (小金 た、って近所の人から聞いてます 蔵』 (五段目)の猪の芸識を開いたことがあ 私は橘太郎に、何年か前に会って 『忠臣 十のときまで元気でした」 ど、おばあちゃんはぼくが橘太郎になった二 、 四 九人の背中を返 五ロ討死)で、かがんだ 申天告 い νに〈るよてん 越しする九人跳ぴ。まるで五条橋の牛若丸の ゃんはぼくが八つのころに亡くなりましたけ ごう主 ように身が軽い。 そう言えば童顔で小柄なところも、 土俵の 牛若、舞の海を思わせる。 。 きったろうた色ぽなや る。猪の中に入る役者の名は筋書には載らな 屋号は橘屋。昭和三十六年 東京生まれ。大つのとき師匠市村羽左衛門の いので、だれに聞いたらいい?と歌舞伎役 板東橘太郎 『 盛綱陣屋 」 に小三郎役で初舞台。板東うさ の番)田代紋太郎さんに相談すると、即座に 者のことなら何でも知ったいる四番人(楽屋ロ 橘太郎の名を挙げた。田代さんの眼鏡に叶っ Vを 3 名乗り、子役として活躍する。二十歳で はたのしろう 橘太郎と改名。昨年一月名題試験に合格。今 たいの A 年の一月 『対面 』 の秦野四郎役で名題昇進披 ただけあってさすがに橘太郎の話は生き生き 。 していたし、人柄にも好感が持てた 。 「生まれは大井町です両親はぼくが生まれ 露をする。 2 5 板東うさぎの初舞台は昭和42年 6 歳の跨で、「盛綱陣屋Jの小三郎役。 をは師匠の市村羽左衛門 26 楽屋ゆかた だから今年一月の筋書で橘太郎の名題昇進 を見つけたときは、何だかとても嬉しかった。 「おばあちゃんは芝居好きで、自分も小芝居 で長唄に出たりもしてましたし、その妹(大 「7さぎ』と言われたらしいですが、あんな いい男の名優にあやかつてるみたいで嬉しい したら、 『こらっ、おめえなんかう抜主のさ です。でも松緑臼一那の楽屋まで行って悪さを 松緑旦那は恰好よくてあこがれてました。綱 」っ て脅かされましたけどね。 アの妹はついこの間まで三津五郎旦那の付き 『 ( 茨木』の渡辺綱)の幕切れなんてしょ v さにしちゃうぞ 人でした。それでほ〈はいつの間にか楽屋で っちゅう 旦那の部屋で真似してましたから 叔母)はうちの師匠の付主人で、また、その 挑んだり跳ねたりして遊ぶようになるわけで あれはカッどロを聞けて大見得をするわけで わたなべのつな すが、その前に、ある日おばあちゃんが兄を てなめるんです。ぼくが見てると『なめたい すが、舌を赤〈するために食紅を小皿に溶い いばらき 連れて芝居見に行って、たしか『道成寺』の か、『先代萩 』 の鶴千代、千松は何度もっと その年代にちょうど子供がいなかったせい うさぎは楽屋中で可愛がられた。 っしゃる、というわけです」 はそれ見て笑いながら、機嫌よ〈舞台へいら なって幕切れの見得をして見せる。松緑旦那 y どなめて、足を前後にパッど開いて得意に か』って、皿をスッどさし出してアさる。ぺロ 。 撤き手拭が兄の頭にポンど当たったんですっ て。これはこの子は役者にしなくちゃいけな い:::っ て 。 ど ん で も む い ば あ ち ゃ ん で す ね それで橘太郎の兄は羽左衛門に入門し、坂 (笑)」 東橘九となる。橘太郎も一一諸について行って いるうちに、気がついたらある日子役になっ のころから色白でピヨンピヨン跳ね回る元気 めたし、 「 乳房復 」 の真与太郎役では国立劇 ていた。う さ 玄 と い う 変 わ っ た 名 前 は 、 子 供 者だったし、うさぎの「う」は羽左衛門の 場特別賞をもらっている。うさぎが十一歳の ときで、本来はもっと小さい子役がつとめる まよたろう 「羽」でもあるという。 「十五代目羽左衛門という方が耳が大きくて 2 7 電弘法目民 事 4 5・・・圃 昭和 43年 5 月、大阪新叡舞伎座での「先代萩』の平総を演ずるうさぎ 2 8 楽屋ゆかた 「御覧の通りチビですから結構長〈子役でし 役だが、 っちゃった。でもそのうちのらなくなって また三階になりましたけど、招きに名前がの 役が 『 盛綱』の小四郎になったんで、楽屋は じゃないかと思いますよ(笑こ ・:死んだ人以外では、そういう例はないん て、お前、 大 き く な ら な い 薬 飲 ん で る の か 、 ところで京都南座の顔見世では、劇場の前 なんてすロわれたりしました」 でも橘太郎はめでたく名題になった。今度 のるだろう。 京都の顔見世に出れば、堂々と招きに名前が に役者の連名の招き看板が掲げられるが、こ こには名題以上か名題の資格はなくても名門 ムM 京を離れる子役は、学校のほうはどうするの それにしても、名古屋、京都ど何か月も東 の御曹司かでな〈ては名前が出ることはない。 ν という招きが三年間、 しかし、「板東うさよ 南座に上がったことがあるという。 「ぁ、そのことは、どうも成駒屋の旦那(歌 の転入でした。すっかりおなじみになって 京都で顔見世によく出ましたから、三年連続 「行く先々の学校へ臨時転入です。名古屋や 月に名古屋の御園座で「 先代萩 」 が出たんで 右衛門)のおかげらしいんです。南座の前の すが、そのとき旦那が政岡でほ〈が鶴千代。 ぼくよりニつ年上の今の門之助(当時小米) 名題さんの弥五郎さん、田門さんが、それに たしが頭下げにくい』とおっしゃったとかで、 が三階の大部屋から出てこられたんじゃ、あ 鶴千代は若君で政岡は乳人ですから、『子役 ぽ〈の兄ど同い年ですけど、よく一緒にどん っても楽しかった。 hm 九郎さんは大つ年 上で、 帰って歌舞伎座のとんぼ道場で遊ぶときはと く読めないし、計算も苦手です。でも東京へ もサ かって仲良くなりましたけど、教科書開いて 『 待ってました! 』なんて友だちから声が掛 めのと さんと、四 人 部 屋 へ 入 れ て も ら い ま し た 。 ッパリわかんない。おかげで漢字もよ 「よ〈おぼえた」ど大成駒から御褒美をいた ぼの稽古をしたものです。歌昇(当時光輝) i だいたと思います、あくる月は京都へ行って 2 9 三階の子役ども交流がありましたね。 A7 は子 さんも一緒でした。あのころの坊ちゃん方は にかかってった。そういう酒落たことがお好 チビが権持って、ヤア1 ッ、って中村屋さん れ』 って。それで大人の船頭の中に混じって つかしかった 。 村屋の甘い感じの口調を不意に思い出してな 子役に「うちゃ玄ちゃん」ど呼びかける中 きでしたね、あの日一那は」 役から役者になる者もほとんどないし、A7 の 坊ちゃん方は学校が忙しそうで、とんぼ道場 で遊んだりはなさらないみたいです」 ここで橘太郎は、少年俳優の勉強会「杉の 子会」のことを突然思い出して語り始めた。 伺うと、也前九郎さんが『ね、泊まっちゃいな 藤太で出てて、稽古に小日向 (h 三m 郎邸)へ 藤は歌昇(光輝)さんでした。ぼくは近江小 んの五郎、時蔵(当時梅枝)さんの十郎、工 す。ぽ〈は 『 寺子屋 』 の黒四天で出てました 女が十六のとき、名古屋へ芝居見に来たんで をして、二十ニで結婚しましたけど、その彼 生の彼女がいて(笑)、中学二年でプロポーズ うそう、ぽ〈には小学校二年で見そめた同級 「優しい方でしたね。中村屋の旦那って。そ よ、明日ラジコンの飛行機飛ばしに行こう 町 川 引のあ三郎旦那 が 『 彼 女来たのかい?よ 「『対面』が出たどきのことです。働九郎さ よ」なんて::。また、あ九郎さんとはやは いい役に回して〈れるのかなど思ったら 『じ し、何かやらしてやろう 』 って。それで少し ゃお前、先頭に出て首桶持ちなさい」 (笑)。 。 つ子役のころに 「 逆櫓』の遠見(遠景を表現 何だ、たいして変んねえや、と思いましたけ きかろとおみ するため、子役が大人と同じ扮装で演ずる) で一緒に出たことがあります。hm 九郎さんが ど、でも嬉しかったです」 ひ内、ち 那が 「 うちゃぎちゃん、逆立ちできんだっ 』 っておっしゃるので 『はい」 って答え (エッセイスト) 樋ロでこっちは船頭ですが、ある日お三郎旦 てつ たら、 『 じゃ、楽(千秋楽)の日に遠見が終 わったらあたし(本役の樋ロ)にかかっとく 30 す ご承知の通り、もともとは 五月の第二日曜日は母の日で 。 アメリカでキリスト教徒の問に おこった行事ですが、一九一二 年に日本に伝えられて以来、今 。 の聞にも浸透しています ではもうすっかり私たち日本人 もちろん仏教でも、母親のみ ならず、父親の思というものの 非常に大なること、そして子供 。 例え はそれに対して報いるべきであ ることが説かれています 期の経典には「両親が歳を老い ば「スツタニパ|タ」という初 て衰えているのに養うことなく、 。 これは破滅への円である」 . 自介だけは豊かに暮らす人かい る という、お釈迦様の言葉がのこ 。 . 私たちは誰でも皆、 父母 かい されています のことばかりを考えずに父母に られたのであるから、自四分たち たればこそ、この世に命を授け も大切と思われます とを振り返り、見つめ直すこと た人間となっているか、そのこ ならば自介はその願いにかなっ 親の気持ちを思い、自介自身 。 孝行を尽くしなさい、というこ そしてその気持ちを表 。 一生懸命に生きる これが子供 。 としての親に対する何よりの贈 とです そうというのがこの母の日の仏 。 教的な意味と言えましょう 既 にお浄土に往生されている父母 。 向けてのプレゼント商戦が燐烈 も、どんなお供えものよりもそ 各デパートではこの母の日に りものではないでしょうか に、そして賑やかに繰り広げら いでしょうか れを一番喜んで下さるのではな 。 れているようですが、もう皆さ 。 んは贈りものは決まりましたか 親にしてみれば子供はいつま ば毎日が母の日であり、また父 その意味では、子供にしてみれ 。 いものですが、本当に母親が欲 でたっても子供だといいます あれ-}れと悩んで選ぶのも楽し いることは何かもう一度考えて しいと思っているもの、望んで の日であると心得なければいけ 。 ないのかもしれません 。 みたいと思います どんな親で 。 (正) も子供たちの健やかな成長を、 いという願いを持っています そして立派な大人になってほし JI 一 一 O ミf ' )O (l(le0tt其 N M U L 。 C 若和尚の 教育の現姐明から 子どもは「ありのままの自分を b つ 子(]' まるごと受容してくれる人」を得たとき、 王e 田~常国 別官勤 内李会 堀野 内面から「信愛」を育む 女 ー「いじめ」の問題| 一一一口一 J 大 妻 夫講代 師表 32 教育の抑~から 豊校拒否になった'例で 一、「仲間はすし」から これは、母親から、 おて 日陪日に父親が、ドライブに誘い出『し 。 父さんは、おまえと同じ男だよ おまえの気 。 には絶対しない。話 してごらん 」 t 行 っ 落ちはきっと分かる おまえが苦しむような こ t 。 』 と言っ たらに っ こりしたといい て聞きだしました 帰途は 「 お姉さんも心配 していたよ 。 「うちの康太は六年生です おとなしくて、 。 康太の仲良しに ABC 三 人がいた。三学期 ます」と 。 いくじのない面もありますが友だちには好か れていて、特に仲良しの子が 三 人いました に入ったす?の頃、たまたまBt 二人で帰る 日、 B が Aに「康太が、お 一月中旬頃から元気がない、風邪か疲れ寸ら た」ともらす。翌 ことがあって「この頃 Aは、つまんなくなっ 。 その内に大好きなすき焼きをして 。学校へは行っていま いに思っていたんです したから 。 それを聞いた A は、 B 、 C ていたと告げた まえはつまんないからもう遊ばない」と言っ だけでなく他の友だちも誘い込んで仲間にし 。 も、しらたきを 一本つまんで口に入れるぐら いの食欲になってしまいました私(母親) と 。 言 い出したんです 。 いろいろ原因 。 t 。 口にし、 Bもそれを受けていたので気に っていた だ。バス ケ ットボールの朝練習のときに二 も ところが、 学校へ行ってみる t何かがへん も留めず、そのまま忘れてしま い たのである。康太 じすれば話のはずみでひょ が風邪で勤めを休んでいましたら私の布団に それを 」行動にで 「康 太を相手にしない、無視する 。 。 これはただ事ではないと 入ってくるんです 思いつつ、思わず頬ずりや C ました 見た姉(中一二)が「 お母さんは康太に甘すぎ 』 』と抗議しました その時 『学校へ行きた る くない を知ろうとしましたがしゃべりません 33 I = t たてで 相組 。 手ん をで 連練 去を れ習 るは 学め 校る のと 帰 り誰 じ 。 ーが もか 人ゃ につ なて 。 。 この教師は 子 E もを 「単純な感情 の持ち主」とでも思い 。 込んでいるのだろうか あるいは自分の発言 。 「仲直りしなさい。握手 伝しなさい 。 を「神のお告げ」とでも過信しているのだろ うか さい」な 。 で指導し、処置できたと思 E の一 言 。 っても犯し難い「尊い人格」があ その子その子それぞれに、流れを強めた E も、 であ い込むなどは、思い上がりも甚だしい 例え 子 る 。 この担任教師に限らず、多くの親も大人 。 方、康太の両親の対応は親や教師のモデ 一 一、両親の対応はモデルである ていすぎないか も「子どもの心を動かす」ことを容易に考え る には、山をも動かす気概と命がけの覚悟がい 古人の 言を引くまでもないが、人を動かす 。 感情のうねりをそう簡単に変えられるもので 握手をして仲直りだ」と言 もうやめなさい はなレ 、 教師の子ども達への対応である この事例で特に検討を必要とするのは担任 二、担任教師の対応はこれでよいのか 談に米たのであった。 担任の処置が気にかかって、この時点で相 ないよ」とつぶやいた。 は「・・:でも、あれで仲良くなれるとは思わ われたので握手をしてき。 た話し終って康太 ら聞き「なんだそんな詰まらないことで: は四人を呼んで、その聞の事情を一人一人か 翌日、夕食時の康太に様子を聞くと、先生 した。 任の先生に電話、て状況を話して善処をお願い 元気を出しなさい。頑張 りなさい 。反省しな 父親は、日曜日であったが失礼を省みず担 っき人 34 教育の現場から 。 ルになる 幾っかを挙げてみよう 。 O 子 Eものシグナルを見落とさないで早期に O対応が速い 。 。 日曜日でも蹄踏がない 即座に担任教師に 連絡して善処を依頼している。これは「休日 。 発見している 、 礼ではなく 担任教師をパートナーと信じて に不厳ではないか」などといった形式的な虚 いることから発露した当然の帰結、である 六年生にもなって母親の布団の中に入つで きたりすると「なによ、赤ちゃんみたいなこ 。 とをして」とはねのけるのが一般的ではない 残念ながら、学校とその周辺で起こってい 四、「いじめ」に立ち向かう親と教師の姿努 子と心境を聞き出している。 場商を選んで、康太の緊張を和らげなが虫様 翌日には、夕食時という家族の心がなごむ 。 O事後にも配慮がある 。 。 か しかし、この母親は「これはただ事では ない」と受け止めている 。 O事情を聞き出すのに工夫がある 口を閉ざす子に詰問するのではなく「ここ は父親の出番だろう」と判断してバトンタッ 。 。 チし役割を分担する ドライブをしながらと いう設定も心を聞きやすい O家族が連帯感をもっている。それが本人に 。 この時点、て「いじめ」が表面化し教師に よっては校長に報告することになり「いじ る じめられている」ことを発見して担任に訴え 多くの場合、まず親 ・保護者が「わが子がい 。 る「いじめ」を学校教師が発見したり「いじ 。 その姉も E も伝わっている 。 弱虫」な め」 t判断したりしたケ l スはまれである 、 であろう 。 立した この姉弟は、日常は喧嘩をしたり対 言われたりしているの り、時には「男のくせになによ t 。 「心配していたよ」と伝えることで、康太は んなに救われたことか E 35 三日 「日帰り活動」から一一ゲームづくりに取り組む子ども達 。 。 め」の件数に加算される 担任は、何等かの 対処 ・指導を行う その対処 ・指導の結果が好転しないばかり ったりすると、親 ・ 保護 か、かえって「いじめ」を拡大したり、陰湿 なものになってしま 。 者の不安をつのらせ担任への不信感を生む 。 再ひ、親 ・保護者は訴えてくる 担任とし ては、それなりの処置と指導をしているつも E と許しがたい発言 する 。 りだから「おたくの子にも 『いじめ 』 られる 原因がある」な 親 ・保護者は激怒し、担任では「頼りにな らない」とみて、直接「いじめる子」の家に 出向いたり、校長に面会を求めたり、教育委 4AV 。 員会に電話をしたり、など t いう手段に訴え この段階になると、不確かな情報も飛び交 い、感情論や立場論も加わって手に負えなく わu,eQ。 ・ 保護 「いじめ」の事例て、担任教師と親 スが皆無に 者が信頼関係て結ぼれているlケ 36 教育の現場から E るからに他ならない 。 等しいのは、多くの場合このパターンの経過 をた 「いじめ」をなくせるのか? 五、子ども遣に何をして上げると、 「いじめ」を引き起こす学級集団の人間関 、 係の図式は 「いじめ」られる子、「いじめ」る 子 Eも述、傍観する子ども達、無関心でいる 。 子ども達の四つから成る そして現にターゲ E も達が「向分の保身のために」それぞ トにされている子 Eも以外のほとんど全て ッ の子 れの関係位琶を不安におびえながら「おしく 。 らまんじゅう」きながらに保っていると見る が出来る ・ 違和感 ・恐怖を感じ、その中に在る自分 このような 学 級の人間関係の在り方に疑 ,」t 問 に苛立ちを党える感性の鋭い子どもに育て、 例え「登校拒否」という手段であったと 。 出来れば何等かの行動を起、』す子どもにした い 3 7 しでも 。 向かう 。 これは、自分で思い立って計画し、 解決へのアプローチとして次に挙げるが、 白分、で判断して実行し結果を 。摘 一む 連の内 。 。 うにならなければ承知できない子」になって 成功体験ばかりだと「何事も自分の思うよ て形成されていく 挫折、忍耐苦難、再挑戦などの体験によっ これらは、四つの何れのグループに属してい 発的活動の過程叫て起きる成功と失敗、挑戦と 。 る子Eもに共通して指摘できることである 付可愛がり愛してあげる いくつかの事例が裏付けている'』とである が、愛された経験の乏しさから、愛すること で得られる個々とがふくらむような感覚に浸 しまう。一方、失敗体験ばかりだと「自分は 適時に、優しさに裏打ちきれた適切な支援 。 ることが少ない場合に「いじめ」が起きやす 何も出来ないダメ人間」と思い込んでしまう 。 、 どんな時 ても僕(私)を守ってくれる」 。 。 る?」ときEきこんな聞いかげを子Eもの発 金を出しても買えないものって知ってい 「かけがえのないものって何?Eんなにお もたせる 国「かけがえのないもの」を尊び畏敬の念を を歩み統げられる「白信 H n立」を得させた 「いつでも僕(私)のことを想ってくれていをして自発的活動を繰り返させ自己実現の道 る など、 子どもは「現在の自分のありのままの姿を まるごと受容してくれる」人が自分の身近に 「信愛」を内面に育てていく 。 居ることを感じ取れるとき、自他そ尊重する ω 「自 信 H自立」に向かわせる なくさまざまなものが存在するけれども「か 。 身近な人との温かい関係によって「信愛」 達に応じてしてみよう この地上には数限り を育んだ子どもは、「自信H自立」の課題に 38 教育の現場から 。 「かげがえのないもの」 けがえのないもの」は、根源的には十指を越 えることはあるまい が尊い人格に関わるものであることの理解を 。 。 深め、だからこそ守り育でなければならない 、 との認識が鮮明になるであろう 合る う をを も相 た互 関そ 係れ い目 のし 。 。 たに今 一番合っているのよ 他の人は他の人 。 六年生の学級、で算数の時間に、かけ算九 、 九の 学 習が堂々と できる 子 にしたい 。学 級成 い パ ーテストの得点の高低など一喜一憂 て、早退してしまうわが子を、「それがあな 遅刻して登校し、好きな授業だけに出席し 。 た注 せに 平等と公平」を排除させる 同形式的な 「 しい でいいの」と心底認めて上げられる親が欲し 四人聞の値うちを多様に捉えきせる 認発 め揮 支し 持て って生 ー てを 。 エ ッチなことの物知りがいた、っくり話しの 必要な学習はこれなんだ」と胸を張 って応え 。 られる子どもにしたい わが子が「友達がからかう」と訴えてきた 当性を納得 とき、毅然とした態度て行為の正 もの個性 tして際だち仲 E みな一人一人の子 いくように諭してあげられる親になれないも 。 間の中で貴重な存在として位置づけられてい むかしを懐かしんでいるのではない現在 。 のだろうか ないのがいた、鼻の利くのがいた、それらは うまいのがいた、大人と話すのに遅れをとら 虫捕りのプロがいた、木登りの名手がいた、 員のみんながあざ笑 ったときでも「今の僕に むかしは、べいごまの名人がいた、カプ卜 きていく人間」には育たない していたのでは「ゆ ったりと自信をも ペ るせ」 J'。~ 一人一人が「その子らしさ、その子の持 の子ど 、 も達、その活動をじっくりと見ている と、 39 で合ち あわ昧 須藤隆仙 れていたのでありまして、阿弥陀仏も弥劫仏 念仏信仰の系譜 - 奈良の六宗 聖拘夫子が仏教の普及に力を入れられたの 。 も区別されなかったような形跡があると学 、 は、統一国高子炉支える精神的原理としてこれ 説されております しかし日本の場合にも中固と同じで、仏教伝 なく、浄土教の芽生えがみられるのですが、 。 が必要だったからでした それまでの日本に み は氏村の 崇拝があ 。 ったわけですが、氏神は氏 した 。信仰対象としての仏様も、釈迦 族の利害 t結合しているわけです 統 一国家 弥 った諸仏 薬師・観音、そして阿弥陀とい 勅 ・ というのは、氏族制度の地方分権を捨てて、 ろ〈 が、特別な教義に固定されることなく礼拝さ ・ 来の当初は雑然とした信仰形態なのでありま 前述のように、円本に仏教が伝来して間も e 40 念仏信仰の系譜 。 から、それにふさわしい普遍性のある宗教が 統一的中央集挙管はかる必要があるわけ、です なければならないので す 仏教はそのようにして日本に定着したので く 京 『 成実論」を学ぶのであり、一二問諮 一 は空の た書)を学ぶのであり、成実宗は空の理を説 哲学書 『 十二門論』「 百論』 (これを 中論」『 三論と呼ぶ)を学ぶのであり、華厳宗は『華 。 建 厳経』皇子、ぶのであり、定 一 律典を学ぶの きあ、 こうなると、念仏はどこへいってし -奈良時代の浄土教 一 国家を すが、それが大震時代になると、統一 t くのであります。そのため仏教は国家機関 して統制化されるのですが、教義の研究熱も t eょうねん そこの t のある凝然大徳 。 いうことになるのでありますが、それが る ころを、前に紹介したこ また、ちゃんとあるのであります t まった、弥陀浄土信仰はどこへいってしまっ 華厳 (ペカクショウと読む)たちの動きもあって、 高まってき、とくに唐からの帰朝の留学生 ・ ・ た 成実宗 ・ 三論宗 日本にも六つの宗派が成立するのであります。 ・ 倶合宗 ほつそう〈しやじよう口っさんろんげどん 法相宗 律{示なとですが、これらは宗とはいって の ・ も、今日みられるような宗とはちょっと違っ しょう。同書の「大日本国浄教弘通次第」に 宗 ておりまして、仏教学研究の学派のようなも 次のようにあります 。 。 浄土の教観別宗と為さず 各々自宗に随っ 。 世間に弘布す その後漸次に諸宗流転す。 唐の仏宗次に此の国に伝わり、一 一 一 ・法相 論 「昔、百済の仏法制て日域に伝わりて、大 〈だら怜レ@ 『 浄土法門源流章」で見てみることにしま のでありました。一人の僧が二宗以上を兼学 。 法担示というのは、一切のもの(法) し、寺院は複数の宗を兼ねる道場でもありま した のありのままの姿(相)を学ぶのであり、倶 せしん 倶会口論 会宗は世親菩薩の 『 』 (存在論を述ぺ 4I であります 4£53 護る、いわゆる鎮護国家の宗教へと進んでい 々33 がんごうらこうらい で法義を解釈す 。昔、元興寺の智光 eょう 礼 ・ 光、各々一二論を弘め兼ねて浄教に通ず 。法 かいどん しよ畠 3 相の昌海、安養を欣楽し西方念仏集 一巻 けか 並びに阿弥陀悔過を撰す」(原漢文) 、一つの宗派とはなっていなかっ 即ち、奈良時代にあっては、念仏の法門と いうものは 。 これは非常に重要 たが、いろいろな宗派に付随して存在してい た、というのであります 。 に必ず念仏があるということは、ここでも証 明されているわけであります この頃また、中国や朝鮮の浄土教関係の経 論が多く流入され、教義研究に拍車をかける . 。 ようになるのですが、それら伝来の経論名は 正倉院文書に見る'』kが できるのです そしてここに、ぽつぽつ、浄土信仰につい ての書物を著わすような方が現われてくるの 。 であります その先駆けをなす方が 「浄土法 依揚(入、出七 なご指摘だと思フのであります。 土三門極論、七 。 門源流意』 に教示されてあります智光師であ 教論の楽を九 O にを礼坊学歳九 帰顕光にびで| 以下智光師について述べます i争に同寺三で( 申しますのは、申由に於いても、仏教渡 くくまのに府 t 。 1奈良じ、師阪 ります 阿てしちつ)智 弥、た元いの光 陀共 。 奥て人師 来の当初は、雑然とした信仰形態だったとい 土、師光寺寺河 2 -智光 師の信 仰 ま光 、 じし O 極しとまめ、頃 楽たもた鋤 1 元) 浄が)仙固た興は うことを前に述べておきましたが、日本もま しし頼りは家八 たそれと同じだったのであり、つまり異教と しての仏教が入ってきた当初は、雑然として 9 ると いたのは当り前のことだったのです。宗 とい うものができても、前述のように兼A 主 ったなかで、念仏は、それぞれの宗 。 いうことが普通だったのです そうい を同と院にの内 包 願時仲に住智ち( いにが転し蔵 f 大 求 派に付随して行われていた、これは念仏の普 通性を物語るものでありまして、仏教の底流 タ:長お ミミ三5す 42 創ム信仰の系諮 めたので した 。 両人の浄土願求は並大抵のものではなかっ は部屋に龍って弥陀浄 った国体 したことが考えられ、鎮護国家とい 仏教色のなかに、個人選択の自由信仰が出て Eの 智光師はまた、『 鉱山量寿経論』 釈五巻、「 観 。 きた、それが浄土教であったということが重 E たようで、礼光師な いう無言の行を行じたというのです。そうし 。 。 浄土教諭を著わしておられます 他に般若経 都市量寿経」 疏一巻 『 四十八願釈』一巻な 親友であ った智光師は、夢で礼 、 や法華経に関する論書 も いておられますが、 て数年後に大往生されたのでした ところが ったのであり 光師が極楽に往生した・ 』 とを知 浄土教に関しては、阿弥陀如来の第十八願と そこでその極楽浄土の様相を画工に描 。 ます いうものが、悪人往生に対する救済の顕であ 。 注 目するなど、日本における、浄土 かせ、極楽坊に掲げたのでしたこれが世に 。 ることに ちこ司 s-んだら いう智光量茶羅といわれるものであります ぴ〈 教教学 の本格的な第 一歩を踏み出されたお方、 宝楼閣 ・宝池の聞に阿弥陀 三尊と 二十 虚空 ・ 四菩薩-それに二比丘を描いた簡潔なもので 。 といえるのであります(石田克之 『 浄土教教 れませんが、井上光貞博士の 『 日本浄土教成 出てきませんので戸惑う方がおられるかも知 ことですが、この人の名は浄土宗の辞典にも 次に 『 浄土法門源流章 」 に記す昌海師の しようかい -昌海師その他 理史」参照) 一按で焼 した 。一 尺余寸四方の小さなものだったそう ですが、宝徳三年( 一四五二の土 失し、A1 は転写本のみですが、浄土念仏信仰 、 この量茶維が が、このような形て現われてきたことに注目 。 ったということは、おそら する必要があると思うのです このように小さか く部屋に掛けまつって、個人的に浄土を観想 43 大なのであります £$ 土のことを観察し、人々と一切話をしないと 仔潟b 立史の研究」 によります 、昌海師はおそら t く延暦十五年(七六九)に寂した人で、興福 ぜ んU ゆ 寺の普珠の弟子らしく、 西方念仏集』『阿弥 「 往生集」 の著書もあ った 陀悔過』 のほかに 「 。 みろ〈 らしというのであります 善珠師については、 最近の仏教事典などに、弥勅の浄土を願った 人というふうに記されていますが、井上博士 き 無量寿経賛紗』 や 『 無量寿経註 は、普珠に 『 ゆいし 字釈』 (各一巻)の著書があること、唯識の ことを金口いた『 唯識義灯増明記 』 の序文に を指摘して、弥陀浄土信仰者であっ E 「共に西方安楽園に生ぜん」(原漢文)とある ことな 。 たと明 言 しておられるのであります(前掲 ら ωりい 井上博士はまた、東大寺の華厳の学僧智慣 書) 無量寿 無量寿径 妻 師についても、 『 一 指事 』『 、 ったと指摘 経指事私記』 (各一巻)なE の著書があるこ 。 とを挙げて、弥陀浄土信仰者 であ しているのであります 軍五ミ岳 会三ぎ -浄土塁茶羅 っていくのであります 。 そして奈良 このようにして、 奈良仏教にも念仏信仰が 着々と育 「 上代の浄土教 』参 (変相図)が数多く作られるようになるので へ堂 、うず 朝後半には、阿弥陀仏像や阿弥陀浄土呈茶羅 あります(大野達之助 照)。また阿弥陀仏をおまつりする阿弥陀堂 。 も建てられました 阿弥陀堂が建て られた理 由の 一つには、阿弥陀悔過ということがある 。 阿弥陀悔過」 という のです 先に昌海師が 「 著書を著わされたことを記しましたが、悔過 。 K日もあ って、 他の仏様の前て行なう場A 過とは、阿弥陀仏の簡で犠悔する法なのであ とは罪過を機悔することであって、阿弥陀悔 ります 。 。 宗 や真 阿弥陀悔過はのちに天台 例えば薬師如来の前て行なう場合は薬師悔過 といいます 言宗へも流れていきます たいま 阿弥陀浄土量茶羅については、先の智光師 。 のものの外に、 当麻受茶羅が有名であります 4 4 念ゴム信仰の系譜 部事ホの方で、河内の百済帰化人の家系 だそうですが、諸寺を建てたばかりではなく、 はず 道路修理 これは天平の頃(奈良後期)中将姫が蓮の糸 で織りなしたと伝説されるもので、実際は絹 な E、広く社会福祉事業に身を挺されたお方 のが 、て、菩薩と崇められているのですその 「 行 。 文亀年間(一五O 一|一五O四)の模写図が ねむ 基菩薩行状記』 に、「夜は通夜群郷の境を逃 れて、高声念仏を唱えて長夜迷妄の眠りをさ 中 の所説を忠実に描写した貴重なものです AY まし、畳は終日諸人の門戸に趣きて、浄土の せっ 園ては唐代に義尋大師が、』の自国柔羅をたくさ 文理を講讃し、往生浄剃の安心をさずけて愚 。 浄業とはお念仏 『 望月仏教大辞血』 (にも「浄業を唱 。 ふ」と記されているのです のことであります 。 ん作られたといわれまずから、その流れのも ために って量茶 (平安中期には、堂陸出身の ひ たら 昧の輩を利益し給いき」とあるのであります 。 お彼岸にこれをかけるので、拝まれた方も多 。 『 あって詳細が分かるのですが、 観音量寿経」 ・ 堤防築造 ・橋梁架設 ・貯水池設置 糸ですが、破損した断片しか現存しておらず、 \主& 奈良県当麻町の当麻寺にあるのです。ただし ミミえ33 3 のと想像されますが、浄土宗のお寺去では、 いと思います ぜいかいらよろしよう口 Iま L 、カ f ゑ二信 ・ 行 f号、あ韮 ‘ り々や茸 品 l座 まに鑑f 五:和2 と すも真 ロ 嚢信官真 草 232 和 鑑 行仏尚 Z 渡日を成功させたという高償て、映画にまで な って業績を賛えられておりますが、日本に 。 けっか 『 この方の伝記によりますと( 本朝高僧 正しい律(仏教の戒律)を伝えた方でありま す 伝』『 招提千載伝』 なE) 、西方に向って結蜘 45 清海という僧が大和の超昇寺 に入 てすに る方藍基 官あ肴尚 鑑真和尚は唐の人、幾度もの失敗にもめげ どあ良 羅を作ったが、これら智光呈茶羅・当麻量茶 さり時 れま代 ず、その間失明したにもかかわらず六度目、て つ名 三量茶羅という) 羅 晴 ・ 海量茶羅を、日本浄土 ?こて奈 ふざ であります よって和尚が、弥陀の西方極楽 。 鉄坐(仏様の坐法)して入寂されたとあるの 浄土を仰慕されていた,』とが分かるのであり ます。 -天台浄土教 時代は奈良から平安時代へと進みます。平 。 安時代になると、浄土教はいっそうふくらみ を見せてきます 平安時代は中国から天台 ・真言の両宗が伝 えられて根づき、平安仏教の名、で呼ばれてお 。 と りますが、この両宗の中にも浄土教は大きな 流れとなって発展していくのであります くに天台宗には「天台浄土教」という言葉、が生 まれるほど念仏が盛んになりまして、その本 せん揮うざんげ 「 山である比叡向では、朝に 法華遣に李会 撃機法の勤めをし(機法とは憾悔を行なう法 会)、夕方には阿弥陀仏を拝して「南無阿弥 る弗君いも〈ゅうねん 陀仏」とお念仏を称えたから、「朝題目タ念 ぷつ 仏」という言葉さえ生まれたのでありました。 勺ミお ミミ予 らしゃ ちぎ だいたいがして、中国での天台の祖智頻師 (天台大師とも智者大師とも)は、メインは 法華信仰ですが、別に強大な浄 土念仏信仰も もっておられたのでありまして、亡くなられ と 「 無量寿経」 の題目(題 る時は、専ら弥陀・観音・般若の名を称え、 弟子に 『 法華経」 名)を唱えさせ、四十八願荘厳浄土(弥陀の 浄土のこと)に往生する道理を説いて白結え られたのであります。、ですから天台宗の大学 者、てあられた叡山学院名挙薮授山口光円先生 日ないしよう は、その著 『天 台浄土教史』の中で、知目顔師 の「自内証は浄土教であった」といってお られるのであります。自内証とは心の奥底の でんぜ事さいちょう 。 信心の'』とであります ですから、日本の伝教大師(最澄。日本 天台宗開祖)もまた、弥陀信仰をもっておら れたのであり(右書参照)、法然上人や親驚 。 聖人もそのことを指摘しておられるのであり ます (つづく) 6 4 。 世俗を離れて、はやいもので 二年が過ぎよう と し て い る いまでも世俗、といっても普 るうちに、ああ、この人もお坊 。 いないではない 。 。 。 しか さ 読経の功徳か、生活 。 。 人に今度聞いてみよう 。 。 (Y) 顔を突き出して、会社時代の友 つなってきているだろう自介の 日に日にお坊さん顔に少しず ん顔になぜなるか らお坊さんの中にいる お坊さ そんなことをいつも考えなが 。 るはずなのだが・:: らではの何かが、そうさせてい スタイルのせいか、お坊さんな めるのか 坊さんをお坊さん顔らしくせし 。 類されてしまう すると何がお それでは会社が顔付きだけで『分 。 だけで、同じ顔にはなるまい が朱に交われば赤くなるという 。 会をつくる集団ではあった だ もともとお坊さんは特殊な社 。 悪い気はしない それどころか、 さんの顔だと納得してしまう 。 自分がお坊さんの世界に飛び込 んで、最初に感じたこともこの ことなのである 。 通の株式会社だったその会社に グお坊さん顔。の存在だ 。 り、様々な業界の人にあった 会社にいたころは仕事柄もあ 付きがあるということだ そう、お坊さんならではの顔 。 勤めている同僚たちゃ、上司だ 。 った先輩に、何か事あると会う ことがある すると、もちろん彼らは私が 転身、お坊さんになった、とい 。 うお坊さんお坊さんが皆同じ顔 そしてお坊さんの世界に 会 それでもその度に、「だんだん に見えた うことを十分承知しているのに、 坊さんらしい顔になってきた」 長い髪であろうが、その顔付き も浄土宗だけに限らない 。 坊主頭であろうが、 と、にこにこしながら、顔をの や表情や眼差しが皆同じ優しさ 。 ぞき込むようにして言う 現役 をたたえているのである とサラリーマンのお坊さんに もちろんなかには一見、これ 。 サラリーマンが昔机を並べたも 顔をまじまじと見られるのは がお坊さん、と目を見張る人も だが会ってい 。 だがこう 言われると、自分が選んだ新し るうちに、しばらく顔を見てい あまり好きではない い世界に馴染んできたわけで、 4 7 . ん 顔 お 坊 . N M U L 。 C 表紙は語る 共に生きる ブナ原生林から 本誌表紙写真/文 御所野洋幸 森 1.ì7]( を貯え、土壌を作る 。 地球温暖化の原因になっている 二酸 化炭素を吸収し、鳥獣を育て、プラン ク ト ンや虫の育成まで行ない、結果的 には魚類も保護している 。 その森の働きの要、それがプナの原 生林なのだ。 樹齢 1 50年のプナ 1 本で、約 8 トン の水を貯え、ヘクタ ーノν あ た り年間 10 ト ン近い築を落とすという 。 雨が地表を走ることを抑えて~t7j(を 防ぐプナ。 果実沈殿獣を養い、落葉は土 を肥やし、山菜や他の野草を育てるプ ナ 。森の母、森の医者と呼ばれるブナ。 そ のプナと共に生き、写真を織り続ける ひとりの写其家がいる 。 48 表紙は諮る 山、か笑う 天然記念物に指定されている野鳥 ク、 マゲ ラを確認した、と教育警只会に勤めている宮 。 私はまだ見た唱』とはない 野氏から知らされた。 クマゲラは日本最大のキツツキで体長およ 。 そ四十五センチ カラスほどの大きさで全身 が黒く、オスは頭部全体、メスは後頭部が赤 。 。 おもに北海道に生息している 本州て く、目の黄色とくちぱしの灰貰色が目立つと いう 確認されたのは、今のところ白神山地と、こ 。 こ奥森吉だけである クマゲラは枯れた立木 Eの 高さに縦に長い楕円形、て、 。 で太〈スマートな大木に巣穴を作る地上か ら十メー トルは 縦約十七センチ、横十センチの玄関を作り、 奥は六十五センチの深い穴になっているとい ノ。 ,「 4 9 t 『 桐の滝 遊歩道の中程にある 桃 』 、 ドドドドドドドドドドドド 。 十分寸らいで巣穴の近くに行けると思っ 巣穴は あ 『ド 』 鈍い、重いひびきが一定の間隔て聞えて来 た時、 。 クマ、グラのドラミングだ時々吹く風、て ヒラゆれてい っせいにオ シヤベリをしている 。 ようなにぎわいだ 赤いカエデの花てウグイ スがさえずり、フキの塔、カタクリの花、イ チリン 革、水芭蕉の花、昆虫、それ写れの 生 。 進んで行くと、目の前一面が水芭蕉の花だ 五月十六日、中谷地地区に入 って湿地帯を 。 物が動き出し、林の中は活気に満ち、新しい 。 た 生命の喜びを感じさせる 。 望遠を付けたカメ 。 フ音しか聞えない林の中で、重〈 校のふれAP 力強い音は際立っている ラを首に、静かに進む。ドラミングが止った 。 。 。 春紅葉の (四 『 ケキョ、ケキョ、ホーケキヨ 芭蕉の聞を泳ぎ回る 。 思わず 『 ヴ 。 ヴ ィ 』。水 一緒に私をつ 』 を口 ア ルディの四季 森の生命の鼓動が春の香り つむ 。 それ Fれの生物は他の生物の恩恵をうけ、 ずさむ t がいる、烏がいる、岩魚が背ピレをだして水 の音、自然の微生物の香り、コケがある、虫 からは ろ E ころに小さなプナの子供連まわりの林 その真中に大きなブナの枯れた老木、担元か 。 カタクリの 巣穴のそば、である十分、十五分、三十分、 。 らは若木が伸び、土に変りかけた落葉のとこ 。 E動くことなく待ってみたが、クマゲ ほとん ラは姿を見せない 残念である う 花があちこちで笑顔をみせている 。 山が笑う 山で働く人達が 言 この時季、私の 一番好きな季節である 月下旬から五月中旬) 。 五月も半ばになると、葉芽も花芽も紫、さを 乗り切るための硬い赤いコlトを脱? プナの葉は 一丁四センチ穫で産毛に被われ、 全体が柔らかで下に垂れ、少しの風でもヒラ 5 0 表紙 11諮る 。 。 そして共 。 この自然のメカニズム 食物 また他の生物に恩恵を与えている に生きてい る 、 連鎖と、陸上で最も大規模で円滑な物質循環 。 が、解りやすい形ていま目の前に広がってい 。 この上なし仕合せなものだった 花のある杜ては 地には草があり それから風は音をたてた 木には葉があり とても清らかな それにしてもなんと美しい景観だろう枯 'Q れた老木に向って回りの木々と、烏たち、水 。 楽しきで 。 花のある社ては (佐藤春夫、詩集より) この上なしの仕合せだった 仕合せだった かくわたしは と、水芭蕉の大コーラスだ 老木への讃美歌 だ その日の日記には、真中の枯れた老木守 。 。 神木と記した 私の敬慶な気持を表わす術は それしかなかった 快晴にめぐまれた翌日、朝から神木のそば に行き、知っている限りの歌をくり回し歌い、 。 お畳を食べ小高い所に横になり、暖い日ぎ しのあるあいだ、その場を動かなかった 先人の音楽家や、詩人の表現力に感服し、 自然の中に染り、生ある今を喜び過した一週 花のある杜 花のある杜に行って来た 間であった 。 誰も一緒には行かなかった 長い間ひとりでそこにいた J I ティク・ナット・八ンは、 1926年生ま れ。ベトナム戦争に対し、「行動する仏 教者j の一人として非暴力・平和を訴え、 その結果亡命を余儀なくされました。 1973年以降、彼はフランスに在住し、難 民救援活動に傍わるいっぽう、欧米の 人々に仏教思想のエッセンスを伝えるこ とに心をくだいています。平明で、美し く魂に響く言葉と、現代人向けに工夫さ ひとりひとりが ティク・ナット・ハン 蓮の花になる ン宝 K l An24J 小 閃 勺晴 ナ 義 ク松 d・コ -TF ベトナム生まれの跨人・仏級者 れたやさしい隈想法によって、彼の思想 は多くの人々の共感を得ています。 そしていま、地球レベルの諸問題一一 環境破媛、南北問題、核、戦争など一一 に対応するための思想・行動の体系とし て全世界的に仏教が注目され、「地球仏 教j という概念が生まれるに至っていま すが 、 ティク・ナット・八ンは、ダラ イ・ラマと並び、その代表的指導者とし て評価されています。 52 このインタビューは、 一九九五年三月 ハン師が今回来日さ ・ に行なわれました。 〈編〉ティク ・ナット れ、四月二十九日の大阪を皮切りに五月十四 日の鎌倉光明寺まで、五ケ所、で講演などを行 。 われるということですが、まずハン師のご紹 。 ハン師は、一九二六年生 ・ 介をお願いいたします ・ナッ卜 シヨ ド ブッディストという、社会に関わった仏 ・ まして、被災者や難民の救援活動を行いまし 言葉を掲げ 教、あるいは行動する仏教という た。 。 コン 結果、北ベトナムの方からは、 cIA しま ハン師は最後まで中立の立場を守り通 した の手先といわれ、南ベトナムからはベト 。 そんな中でも、仏教社会福祉 の手先だといわれて、両方から攻撃されるこ とになります ブ・ヒエン教固な Eを設立しました 。 青年学校、ヴァン ・ハン仏教大学、ティエ そして一九六六年に渡米し、平和実現のた 。 たということで追放処分を受 っ 選P 〈 戸松 〉わかりました ティク 1 まれのベトナム人で、十六歳の時に出家し僧 となりました。一九五O年にメディテ ン道場を創設し、ベトナムで初めて外国の文 めに各地て講演を行い、ハン師のスピーチは 非常に多くの人に感銘を与え、高く評価され、 。 献を原語で勉強する仏教研究所を創りました また六一年から六三年の間アメリカに留学し 受賞はしませんでしたが、キング牧師からノ 。 て仏教 t比較宗教学を勉強しています ベル平和賞に推薦されました 更に一九七 二年のパ リ平和会談にも参加し、和平に尽力 ー 争が勃発しました、彼は僧院の中て修行を続 しました アメリカ留学から帰国した頃にベトナム戦 けるべきか、それとも僧院を出て爆撃に苦し に協力しなか しかしベトナム国内では、戦争中 む人々のために行動すべきかを考えた未、そ け、現在も帰国を拒否されています。 。 の両方を行なうことを決意し、エンゲージ 5 3 INTERVIEW ティク ・ ナ ッ ト ・ ノ、ン 〈 編〉追放処分を受 けたというこ 。 t は亡命者 〈 編 〉主目的としてはあくまでも仏教徒の共 同体というか、 、 ということですか 〈 戸松〉そうです、 実践ですね 。 決して社会事業や社会活動のための集合体 仏教の教え 〈 戸松〉形の上 てはそうかも知れませんが、 をそこで体得して、 生活の中に生 かしていく 。 現在はフランス国籍を持ち、南フランスに 。 ハン師自身には亡命者という意識はないです ね 。 ではありません します 。 それ無しで人を スフル、平静にな 。 プラム ・ビ レ ッジというサンガを造り、そこ ート まず自分自身の心がピ ることからスタ 。 〈 編〉いわゆる教団のようなものですか 。 を拠点として、自然農法による自給自足の生 〈 戸松〉教団とはまた違いますね 。 l 活をしながらベトナム仏教を伝えています 。 〈編〉そこに集ま っている人達は仏教者とい うことですか 、 助りたり社会活動をするというは全く無意味 ベトナム人だり 〈 戸松〉某未的にそうです まずその碁未を学 ぶという場所ですね 1 ト を行 っています 。 あんご 。 。 。 マインドアペ いうのは修行ですか 。 普段の 生活か ら離れ 。 更にハン師は、年に 一度必ず世界各地を訪 。 であるというのがハン師のスタンスですから、 。 ってきて、仏教の教えを 中 ではなく、世界中から弟子になるために、あ るいは修行しにや 心と した生活をしています l ト t れ、講演やリトリ 〈 編 〉リトリ 現在このプラム ・ヴィレツジを中心として ハン師や弟子の人達が、世界中に在るベトナ 、 まあ安 居ですね 〈 戸松〉修行じゃないですね 。 〈 戸松 〉 全く安 居です 〈編〉日本でいうところの安居にあたると 安ら ぎとく つ ろぎという ム難民のキャンプや孤児達をサポートするプ 。 ログラム作りや具体的な活動を行っ ています 。 〈 編〉それは共同体の主 目的なのですか 戸松〉違います。全然違います 〈 選y 5 4 。 て特別な行の期聞を持つt いう'』とですね E に在 にでも受け入れ られるものなのです 。 〈 編〉世界、て一番読まれているというのは出 しての出版数も多い 。 版点数発行部数が多い t いう、』とですか 最初はアメリカやオーストラリアな るベトナム人の難民キ ャンプを訪れて、カウ 〈 戸松〉もちろん単著 t ン セリングというか、ベトナムの伝統的な価 番多く し、仏教聖真のようなものφ除けば一、 。 、 賞者、仏教僧などのように ハン師は人の前に付く形容詞、何々人 〈 戸松〉彼自身は仏教者という意識だと思い だとか、富豪 ます 。 値観あるいは仏教に根ざした方法で人々の救 の国の 言葉に翻訳されているということです 。 済、教化にあたっていましたその後、ハン 〈 編 〉 ハン師はご自分を仏教者といわれてい クという講演会 。 師の著作が英語、て出版されたりして、その活 ますが、僧とは違うんですか らも求められてダルマ ・卜 ! トなどの布教伝導を行うように l 。 tE 。 バー のようにして出 ー 選y 動が知られるようになり、ベトナム人以外か ゃ、リトリ なりました 。 今戸松〉私が八八年から九 一年えて ハ 会われたのですか 〈 編〉戸松さんはハン師 いう方が相応しいと思います 。 容詞は、意味をなさない 自分は仏教者の一 人々を差別化、あるいは区別化するような形 はベトナム人だけではない、アメリカ人も同 人に過ぎないという立場ですから、僧という 特にアメリカでは、ベトナム戦争の被害者 じなんだということで、ベトナム戦争で精神 ハン師の著作のことを話されま t より仏教者 E 。 的に傷を負った元兵士のために、ボランティ 〈 編 〉先ほ アでカウン セリングなどを行っています 。 ド大学 に留学 しているとき、日本でいう教科 したが、どのくらい出版されているのですか 〈 戸松〉ハン師の著作は、世界で 一番読まれ 書として先生から推薦された本の中に、必ず 。 ている仏教書なんです 師の本は易しくて誰 5 5 I NTERVIEW ティク・ナ ッ ト ・ ハン ハン師の著作があったのです。町のどの本屋 行われ、 ハン師の弟子でもある同家年+のトリ 参 加する機会が の仏教書コーナーにも必ずハン師の本があり、 アンというベトナム人と共にJ ありました。そのリトリ 卜は大変な人気、て、 誰よりも多くのセクションが設けられていま 大学などに貼り紙をする程度の宣伝しかして というは E 、インテリ ιでした。そこに来ている人達は、 七時頃には大きな体育館がほとんど殆E 一杯 l した。私が知らないだけで、かなり有名で多 イン いなかったんですが、朝十時から始まるのに l ス』『 ワンダフル ・モーメント・プ 『ピ くの人に読まれている本に違いないと思い、 ・ピ 1 大学院の学生とか先生、学者な グ 手に取ってみると、タイトルも レゼント ・モー メント 』 とか、非常に良い感 l 卜が終わって別の日に、ハン師が の人達が中心、です。 リトリ じて、中を拾い読みしてみると解り易く心に 響〈ようなことが書いてある。そこで試しに に招待され、幸運なことに私も同席すること まさに本に書いてある'』とを本当に実践して ができました。夕食後お話をする機会があり、 泊まっているベトナム人の家に友人が個人的 シヤル・チェン 一冊買 って読んでみたら、自分の云いたいこ -y l スで、社会変革と仏教との関わ ・アンド ととフィットしたんです。そのうち授業で、 ブッデイズム 1 いるというのが、一瞬にして私に伝わってき ジというコ りを歴史的かつ地域的に勉強しているときに、 ・ペル ました。仏教の本質が話さずとも伝わってく タニング る。要するに本物といいますかね。本当に人 1 アジアの仏教者としてハン師の「覚醒の鐘」 間に付く形容詞を抜いて人に接しているとい ・アウエ というビデオが教材 tして使われました。そ うことも身をもって示している。お坊さんの 。 ザ のビデオを観ることで、本を読んで受けた感 一九九一年の春にボストンでリトリ l卜が 在るべき姿を感じたというか、できることな 銘がより一層深くなりました 選P ヲ6 ら自分もそうなりたいと思いましたね。 。 たのはすごいショックでした 。 でも確かにおっしゃられることはその通り なところがありまずから、ぜひまた日本に来 それが私とハン師の出会いです 〈 編〉その出会いをきっかけ t してハン師の ていただいてお話しをしていただきたい 。 来日に尽力されたわげですね。 特に一般の人よりも日本のお坊さん達にハ ン師の話を聞いて貰いたいと、そのときから 〈 戸松〉はい、私自身非常に感銘を受けまし て、実はその時にぜひ日本に来てほしいとい 〈 編〉マインドアル事務局という団体ができ、 願っていました 。 うことをハン師にお話ししたんですが、その 今回来日が実現したということですね。 ー 。 ルを企画しました。 ク、講演会としては、四月二 ュ 卜の他に講演会をしていた ト リ 1 ・卜 l 四日間から 選ア 時ハン師は、「私は日本の仏教者の人達に本当 。 〈 戸松〉今回の場所の選択に関しましては、 に心深く失望しました」そういわれたんです 日本の仏教者、まあお坊さんのことなんで 、 ダルマ だくことにしてスケ ジ そ, 』 でリ を見つけて下さいという要望がありました 自然が在って、宿泊ができる、そういう場所 ハン師の方から、静かで、人が大勢入れて、 。 、 日本は同じ ベトナム戦争の時に、ハン師はアメリ すが カに行く途中で日本に立ち寄り 。 仏教固であり経済力もあり、アメリカとも近 い関係で影響力もある ぜひ仏教者として平 和のために働きかけをしてほしいと日本の偉 。 十九日に大阪吹田市のメインシアタ ー、五 いお坊さん達と会って訴えたのです その時 にはみんなからいい返事を項いたのですが、 九日に東京のよみうりホールで 月 実際には言葉だけで何の働きかけもしては貰 五日間の安居、リトリ 1卜の場所として五月 一一百から 七日まで伊動鼠の思親会、五月十日 。 えなかったという こ と で し た 。 ハン師が日本の仏教者に失望したと云われ 57 INTERVI EW ティク ・ ナット ・ ハン から十三日までは清里のキ プフォレスター リンゴをひとつ置いて、一体このリンゴの 中に貴方は何を見ますか。ハン師の考え方、 l ズキャンプ場、て。更に四月三十日には京都比 インターピ l イングですね。「空」のとらえ 叡山の居士林、五月十四日には浄土宗総合研 ク」という夜の講演会、「マイン t いう その生活があって、リンゴをここまで運んで 悶があって、土があって、それを作る人々と リンゴの中に青い空があって、雲があって、 のです。 そして貧万が何を見たか書いて下さい 究所主催、て饗屈の光明寺、この二ケ所、でマイ 方。要するに完己をもってリンゴを見て、 ドフルの一日を開催します。 一人。ても多くの方に参加していただきハン l 師に接していただきたいという思いで、「ダ ルマ・卜 ドアルの一日」というリトリ くる過程があって、売る人が居て、貿う私達 卜の一日版、 l 四日間と五日間のリトリ 1卜を企画しました が居る。そう書くと七十点寸らい。 るとい V うこと、そして美味しいと感じたなら その後があって、そのリンゴを私達が食べ ので、ご自分のご都合にあった会場に足を運 んでいただき、ぜひハン師のお話しを、ある いは実際にハン師と共にメディテ|シヨンを 思います。 ば、私達はリンゴの中に見えたすべてのもの t 経験していただきたい に対して責任がある。強い関わり A口いがある 実は私達に深く関わった問題なのだという、」 と。だからその中に起きるすべての問題は、 どがありましたらご紹介下さい とです。それが一番印象に残った言葉ですね。 か戸松さんご自身が印象に残っている言葉な 〈 戸松〉ハン帥の特徴は、誰にでも解り易く 〈編〉五月十四日には浄土宗総合研究所の協 〈編〉ハン師の教えの中心といいますか、何 仏教を説くことにあります 。その中で特に私 力て浄土宗の大本山である繋属の光明寺で 。 が印象深いお話しをひとつご紹介しましょう。 選p 58 リトリ t それは E ういうこ いうと、法然上人自身が、仏教の教え 。 ハン師は本質的にす 。 卜の一日版を開催されるのですね 1 〈 戸松〉私は法然上人 t ごく近いと思っています とか や修行の形が、どれほど深く、そして整った ものであっても、それで人々が実際に救われ るわけではない。教えそのものが人々の心に 誇のお経を読hだ u けではな 常に人聞を見つめて、 、 選y 響くもの.でなければ意味がない。要するに、 仏教を伝えるためにお念仏を説いたのではな く、人々が実際に救われる、あるいは少しで も精神的に安心を得る、そのためにお念仏を 説いたのだと思います。 lリl ハン師もまったくその通りで、人々に理解 できないパ く、直按にお話しすることな E に重点ぞ置い 。 て、誰もが生活の小、て経験、できるようて な形 教えを伝えていく 。 人々を苦しみから救うために何が大事なのか を考え実践していく ハン師の言葉で、「ま ず自分自身が微笑ま 59 INTERVIEW ティク・ナ ッ ト・ ノ 、ン なくてどうや って人に徴笑み返す司』とができ 。 ようか」というのがあります 仏教的な精神 。 自分と社会とは切り放せないものなの で先ず心を確立し、その上で社会と関っわ て いく 、 。 要するに私達 は 仏教を生活の中で実践し ていこうという者達 の集まりなんです 、 自分自身の心が静かに、安心といいます 私自身のことでいいますと、お念仏を唱え て っ てい っ て 。 って少 あるいは法然上人の本来言 ぞフ 。 行動を通じてこそ多くの人とお念仏の縁が結 私はそういう中から起こってくる具体的な 。 とを行動を通して多くの人に伝えていく しでも安心を得たらその安心を得たというこ 形だけの念仏ではなくて、念仏によ そういう輪が少しずつ広が スフルな気持ちになって、それを今 か、ピ ッジ のようなものを日本 。 ジェクト事 ロ しているのですか プ ・ ー だから、他の人が救われたということがなけ 度 は自分の周りに居る家族に伝えて、そして 。 プロジェクト事務局と ・ れば自分の救済もないという大乗的な考えな 〈 編 〉マインドア ル のです t ・ビレ いうのは、最終的にはハン師の 主 催するフラ ンスのプラム で創ることを目的 〈 戸松 〉このマインドアル ぼれていく 'としていることが多くの人に伝わっていくの った集まりで、それ守れが個人的 t いうのは、あくまでもハン師を招聴す るために創 務局 ではないかと思います 。 それが 生 活の中 、 る」時聞を味わ ってほしいと思います 。 ハン師のいう 「ひとりひとりが蓮の花にな 。 ンドアルの 一日に参〆加して下さいそして、 ぜひ五月十四日に鎌倉の光明寺、て行うマイ 。 にハン師と関わりはありますが、今まで個々 には面識のない人達の集まりですが、本質的 っ ていくということ には仏教の教えに基づいたサンガのようなも のを造 。 に仏教を実践していく,』とになるんじゃない かと考えています 品F 6 0 FORUM 瀞士ω 広場 6 r • 間欠 誌 観 今~~、 の ノ"会z,,、、 も あ ら ず 迷 し、 、, わ t-I 上 れ ら 既 jl 、ハハ I~ ブ~ 寛 の E 司 EXJ 壇 乗 r~ 船 、- む 日尭 闇 の 仏 具 屋 の 逆 さ ま の 木 魚 歌 り 、, 、ー め . . . . . • E 直 下 の 海 の 三円 金三 {菜 き 室、 子 f岳 ,、、 れ 匿名希望・蓮 門小子 6 2 この都市の風に微かな念仏の戸聴きとりているは確かか 慎悩は尽きねどきみの僧形の烏に似たる姿を愛す さらば童子、 額に当てて剃刀を引けば朱に 散る長朝無常偶 内陣の すべての水は凍れども花々冴えて今日御忌である 6 3 誌 投 旬 越後路の植田のかかり神病る 寺町の護に映えて幡立 つ . : . むらさきの風の狂乱騰の花 変身の目をつむりゐる木下問 。 小さき手にわが手重ねて彼岸諸 花万染念仏行脚に会かにけり 上 吉田ゆきゑ (東京都) (静岡県) 児玉仁良 (燭玉県) 児玉良男 6 4 間四閑固 平成 5 年、 B l 回は吟行)より 年の互選による優秀句 貞源寺句会 》 (年間4回開催、うち 《 花馬酔木瓜を深く寡夫椅む 対面の五郎のえ得や初芝居 居酒屋に鏡開きの併少し 春愁や女患者のえロ赫く パナマ帽斜めに直し阜押す 柵子の浜に時差もて年の政まる 罪めきし語さらりと花まつり 良吉 清虚 智恵 +方連{潤 郎 紫陽花の吐息雫の重さほど かすれたる筆ひとはきの夕立かな 日溜まりの猫の長さや春となっ 6 5 哲 酉怠寺句会 》 (不定期開催、吟行多し、「月天」同人主体) 《 平成六年「句海浄土」より え々と花は眠らず夜深し 花風吹き挟遊ばせ漫ろゆく 詐れかれと挨拶交わす桜路 忠い出のためになど散るな桜 木蓮の散をごちする午睡かな 匝々砂 色…苗EF 初夏や速くにゆれる赤い帽子 文雄 八千代 はつなつや素甘に患う指の腹 逝く春や乳首に似たる菜子の列 じゃがたらの花の新宿副都心 菜の花やメガネをはずすえの敬 白 々 敦 美 烏 鷺 6 6 FORUM , ト 一復刻版 一 「 縮冊 一 一 一 一法然上人行状画図 当会理事をされている神奈川 そ し携帯されていたそうですが、 うち の根源を元組上人の「 御伝」 の 一梶上人のご趣意を「現代の布教 この度同害を復刊されたのは 。 教区・横須賀正観寺住職、宮沢一宮沢上人もまた、二十年来ご愛 。 寺におけるお十夜法要の唱導師 善弘上人は、昨秋の大本山光明 一 周されているとのことです のご大役を勤められました 。 くの方に手にして頂きたいとお の復刻版「縮冊法然上人行状 一裡に求めよ」ととらえられ、多 の記念として発刊されたのがこ 画図」です 。 実はこの 。 引、年譜も附されていて利便を いる問害には、詳細な縁起、索 六十以上もの絵が挿入されて 一 るものです 小田原市板橋の常光寺(住職一考えになった宮沢上人の志によ か Uほうじゅん 松島定宣上人) その第二十二 世・梶賓順上人(一八六四一 。 一九二O)の御名をご存じの方 も多いことでしょう 本は布教伝道に尽力された梶上一極め、布教伝道に一生涯を捧げ られた梶上人の御心が伝わって 。 としてここにご紹介致します 一 とっては必携の官官と確せるもの 。 人が明治四十一年こ九 O八) くるようです 特に本宗教師に 。 に宗祖七OO 年御忌に際して記 念出版されたものであります を知恩院からの褒賞の記念とし 宮沢上人のご先代はこの第四版 て賜わり、常にご布教の支えと 6 7 B 事務局便り -当会顧問・大田秀三師、御忌会唱導師を 前・浄土宗宗務総長、現・大正大学理事長で当 -待望の L ・明OEC 豆(浄土フォーラム)開設 ・司O刃C玄 Vを四月号より開設 「 浄土 」では、以前からご要望の声の多かった 短歌や俳句、書評、随筆や詩、身 。 会の顧問の任にもつかれております、群馬教区高 読者のコーナー 合 崎組・安国寺住職・大田秀三上人が、四月五日、 しております 。 。 。 応募下さい なおタイトルは自由です 。 採用介に 大本山増上寺での御忌会日中法要唱導師の御大役 近な出来事や情報など、左記の要領でどんどんご をお勤めになられました 。 。 。 投稿は随時受け付けております ただし採否に 下さい・・・適宜 。 見やご感想など、何なりとお気軽にお聞かせ 3 その他、本誌の体裁や掲載記事に対するご意 2 俳句・短歌・川柳など:・ニ首まで ー随筆・詩など・:四百字詰め原稿用紙十枚以内 A マ投・稿・募・集・中A' 当日は穏やかな天気に恵まれ、ほのかな紅色に 関しては記念品を進呈致します 染まった桜の花が迎えるなかを、多くの随喜寺院 と可愛らしいお稚児さん、そして櫨信徒の方々か らなる練り行列がはなやかに行われました 大殿 での法要も厳かなうちに執り行われ、お導師が元 祖・法然上人の遺徳を謝す表白を読み上げると一 同に手をあわせ、またお導師の声にあわせてとも 。 どもに高声にお念仏を唱え、祈りを捧げていた参 拝者の熱心な表情が印象的でした 会員一向、この度の御大役を心からお祝い、お 。 。 り下さい 。 秀作もお待をしています! 却いたしませんので必ずコピーをおとりの上お送 。 慶び申し上げますとともに、重ねて益々のご活躍 関しては編集部に「ニ任下さい また、原稿は返 した をご祈念申し上げます 誠におめでとうございま 6 8 - 会員 募 集 の お 知 ら せ 東京城南組月窓院 長野長野組古田幸隆 。 一般会員の方には本誌を毎号五部お送りして 平成七年度の会費につきまして、近日事務局よ ・会費ご請求のお知らせ 東京北部組念偽院 当会では随時新規会員を募集しています櫨信 。 また、ご寺院の皆棟方には一般会員(会 神奈川京浜組善養寺 下さい 徒、お知り合いの方々にも本誌のご講読をお勧め 。 費三 0000 円)のご入会をお願い致しておりま す り会員各位に別途にご請求させて頂きますので、 。 おりますので、一層読みやすく、楽しくなったこ 同封の振込用紙にてご送金下さいなお、当会の ってまかなわれております 請求書がお手もとに 。 浄土 」の発行費用は皆織の会費によ 運営並びに 「 届きましたら、忘れずに、早めにお振り込み頂き 。 浄土 」を是非とも憤信徒数化にご活用下さい の 「 .新規 会員紹介(敬称略、順不同) 善導寺 ますよう重ねてお願い致しますまた、ご不明の 〈一般会員〉 福島浜通り組 宝蔵寺 明照会館内 ⑮一O五東京都港区芝公園田|七|四 法然 上人 鑓仰会 n+ お問い合せ、投稿は:・ 点がございましたら事務局までお問い合せ下さい 。 東京 品 川 葛南組 景勝院 千葉 西部組 専称寺 講読会員 佐賀 内堀拓潤 o=一|三五七八|六九四七 松崎シン lL T1F ト」 O 三|三五七八|七 O 三六 所沢 須田雄一 FrAHV 八 邑楽郡 石巻 正福院 群馬 宮城 新座 埼玉 埼玉 69 最近連日のように新聞のトップを、ある宗教団 体の記事が独占している。この何 t も恐ろしい宗 教を名のる団体は、その教義として「仏教」を名 のり、釈尊の言葉までも引用して釈明会見を行っ ている。一般の多くの人々が「だから宗教は怖 い」などと口走り、テレビで著名人が 2示教は生 活の陰の部分、後ろ盾の部分、であり、生活のすべ てであるな Et いう宗教は t んでもない話だ」 「社会の価値観に迎合しない宗教は間違っている 」 な Et いう言葉を聞くと、今回の問題、対岸の火 事、ただの一新新宗教団体の問題 t 片づけられな t ・ 編集協力 編集顧問 - お願い ス鮪同五佐山哲郎 オ フィ 大室了時 町名変更や移転などで住所や電話番 号が変わる際には、お手数ですが事務 局までお知らせ下さい本誌がお届けで g いますのでよろしくお願い致します。 きなくなるなど、支障が来すことがご 同門 い気がしてくる。 たとい余事をいとなむ 少なく t も宗祖は、 「 も、念仏を申し申し、これをする思いをなせ。余 事をしし、念仏す t は思うべからず」 t 申してい るのであるし、社会の価値観と違う価値観に立つ ことによって、すべての罪人までもが救われるこ とが念仏の道である。この事件から巻き起こる宗 そうした意味からも、今回ご紹介したテイク 教論議、世間の動向にも注意してゆきたい。 ナット ・ハン師は、本物の平和主義者、本物の社 会派僧侶である。偽物 t の違いを見極める意味で も、是非お会いしてみて下さい。(長) 栗田順一 六六 帝昭 ィ 1 六七会 長谷川岱潤 斎藤晃道 千百 認 可 亮彦 i1社13 七六櫛~- Ü )L 仰 三四 一一 八八 人 編集チーフ 編集スタッフ 太田正孝 村田洋一 石上俊敬 費価頒 日昔 語郵 f 種 一干 z 牧宮 互捧菩田林 テl 月月雪 七七 平成平成 巻 月 年五 年十 二一 コ 全然菌 五豆上 ' ー:t 話 式会社株 六 |五 dEFー i E手 QQ 一法 ン + 一 亀 所人人 七七 一 ~ │ H 一 発印H 寸和 O ~p 発 |S 発 行- ~ 断行軍行 IX 電 行 葺 後記 編集 70 l H f 1 シ ユツ 秒 1 f 司一一孟 「日I! 、ば d ' i l- -邑問 一 F 町門 浦 ゴタゴタゴタゴク・・・. 秒が、 4aa--R 両ドI躍語、」副 、 と、声がでる・ . 何 なんだ・ノドたたく快 感 喜 ぴに 満 ちている . yν l ルは、初歳になってからあきかんはリ品 サ切 イクルへ 「ノドうつ、うまさ己それが黒ラベルです この黒ラベルの 味 、ひとことでいうと? たまらない 駆 けぬける爽やかな味わい・ このうまさは・ 「あl ッ生きててよかツた ノドが‘ 体 が.さて、黒ラベル.プ ただいま.渇いています.ビールを 欲 しがっています. フ . 午前 5時まで停止されています 帽 岨副 売は午後日時らカ ・ご協hのお闘い臼耐眠売植による司 ビ 。 日産のかたちを見てください。 :1;74l:;;におJAiLZ不足 信蓑慣 ・ VG30DET(V6.Y イノカムターボ総排気量 2960 ,,)ヱ J ジン ・ 置高出力 255PS/6000 , pm (議 NET 値 ) ・ 置大判レク 35.0kgm l 3200rpm ・ フルレノジ電子制間 4 連才一トマチ y ク (E - AT)( 議 NET 値)とは、エンジン告車両に信組した棋態とほぼ同条件で劃定したむ のです日量自動車株式会社お客帽帽猿宜 ・ 全国共通フリーダイヤル 01 却 315-232.. ..........・ e ・.. お近くのローレル販売会社へ。