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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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菅茶山研究( Abstract_要旨 )
朱, 秋而
Kyoto University (京都大学)
2000-03-23
http://hdl.handle.net/2433/180790
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
none
Kyoto University
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5 月 4 国
1
3 第 料
文
⋮
秋 ( 第 年 則 究
2
1 規 研
成 位 学
名
士 博
氏
博
学 位 記 番 号
文
学位授与の日付
辛
学位授与の要件
学
研 究 科 ・専 攻
文
学位論文題 目
菅
論 文調 査委員
許 諾 )日 野 龍 夫
茶
山
研
論
菅茶山
H
H国
学位(
専攻分野)
項 該 当
文 学 専 攻
究
教 授 木 田孝義
文
内
容
の
要
助教授 大 谷 雅 夫
旨
(
1
7
4
8-1
8
2
7
)は,4
5才の時にすでに幕府の大学頑林述嘉に当代随一の詩人 と推量 され,また清の愈樋 にも 「各体
『
黄葉夕陽村舎詩』前編,後編,遺稿を合わせ
皆工」と評 されたように,近世後期を代表する最 も重要な詩人の一入であるO
て,二千首余 りの詩を残す。
「
実車を叙 し実際を写す」という詩作態度を取 った茶山の平明で写実的な詩風 は,従来,南宋詩の影響を受 けたものと言わ
れてきた。 しか し,眼前の景に目を向け始めた近世後期の漢詩の大 きな特徴 は,いままで蔑視 されてきた和習的要素を取 り
入れ, 日本化 したところにあると思 う。 中国詩の影響のみでは説明 しきれない面のほうがむ しろ多い。
本論文は,日本化 した茶山詩を日本伝統文芸の視点か ら読み直そ うとするものである。方法 としては,
「
蟹」
「
綿弓」
「
栗の
域」「菜の花」「水鶏」「秋鳴 く虫」「物売 り」など具体的な題材を手がか りに,和漢の詩歌を検討 しなが ら,茶山詩がいかに
中国詩の規範か ら解 き放たれ, 日本の和文学をいかに受容 したかを解明する。
まず第一章 は,和漢の詩歌において, ともにな じみの深い題材 「
壁」を取 り上げ,茶山が一貫 して描 く夏の蟹 と橋辺を照
らす登の描写を中心に,茶山詩 はいかに詩の典型を離れ, 日本の伝統文学 に近づいていったかを論ずる。
,
『
礼記』月令に 「季夏の乱
蛍の季節性 は, 日中文学にそれぞれ興味あるかたちで現れている。 中国では
腐草幾 と為 る」
とあるo晩夏か ら坐が化生 し始めるという古代中国人の自然観察である。六朝時代以降,本格的に詩文の世界に登場 した堂
紘,ほぼ秋の景物 として詠 まれ, とりわけ開怨詩の女性の孤独感を象徴するものとして描かれる。 その後,秋蟹 という詩の
パ タ-ンは定着 し,詩文の世界で受 け継がれて行 く.
一方, 日本では,『
万葉集』に詠 まれていない蛍 は,平安朝 に入 ってか ら新 しく発見 された素材であるO
『
伊勢物語』四十
雁」と一緒に詠まれ,中国の詩句の影響を受 けた側面 も見 られるが, しか し 『和漢朗詠集』,勅撰集では 『後
五段のように 「
拾遺和歌集 』 以降,幾を夏の歌 に収める季節観念が定着するo
Lか し, 日本の漢詩に描かれる蛍の季節 というものは,実 はその時期における中国詩文の規範力の強弱により,夏 と秋の
間に揺れ動 いている。 例えば,勅撰三業の時代か ら平安中期 までは枚豊であったが,院政期か ら混乱が始まり,秋 と夏の坐
が両方詠まれるようになる。 五山文学の隆盛期では秋蛍であり,室町末期か ら近世前期までは再 び混乱が起 きる。近世中期
以降は唐詩尊重の風潮が強まり,秋登 しか詠まれな くなるようになるが,江戸後期になって,六如たちが清新な宋詩風を提
唱 し,蛍の季節 は再び一定 しな くなった。
六加より一回 り若い茶山の詠んだ十数首の畿詩を検討 してみると,その季節の確認できるものは,すべて夏である。 その
中に 「
竹田村畔渓橋の路,蛍火群飛 して夜昏か らず」(
竹田夜帰)や 「
吟歩 して愁へず還た夜 に入 る,余照を借 り将 って山梁
を渡 る」(
蛍七首その-)があるO群がって飛ぶ蛍火が,蛍雪の故事に見える書を照 らすのではな く,橋辺を照 らす というそ
の着想は,茶山以前の詩文に先例を見ない,ユニークなものである。
中国の秋蛍 と明 らかに異なる茶山の蟹詩に限 って,よくいわれる写実的な宋詩風の影響 という理解のみでは,説明 しきれ
ないところがある。その源流を探 ってみると,平安朝以来の和歌,物語,随筆などか ら近世の俳欝まで引き継がれた日本独
…7
1-
特の夏の幾の感覚が兄いだせるO
さらに、
いえば,橋 と堂 という茶山の堂詠の もう一つの特色 もまた,和歌に源泉を もっ ものであろうO 平安朝末期の便意の
歌の題である 「ほたる橋をて らす」 が初出の例 で,中世か ら近世 まで 「
橋蛍」は,和歌の蟹の趣向の一つとして歌われ続け
た。和歌の噂みのあった茶山は,福山の歌会記録に 「お もひをばたが身にかけて竹のはしのよなよなもゆるほたるなるらむ」
という 「
橋幾 」 の歌を残 している。 和習的 といえる橋辺の蟹を詠 じた茶山は,おそ らく自ら詠んだ経験のある 「
橋蛍 」 とい
う歌の表現の流れの中か ら,斬新な着想を汲み得たのである。
茶山或いはその同時代の詩人は じつはジャンルを超えて,和歌や俳潜など日本の伝統文芸に新 しい詩想を求めていたので
ある。 ささやかな例ではあるが,茶山詩の日本化 と和文学の関わ り方を垣間見たものである。
第二章 は,「
綿弓」「
乗の櫨」「
菜の花」三つの素材を通 して茶山詩の表現 と俳譜の関係を探 るものである。
茶山の詩 には,素材 として綿を詠みこむことは例が多い。 しか し,木綿の原産地たる中国の詩文には意外にも,その用例
は乏 しい。秋の詩語 としての 「
木綿」は,特に意識 されていなか った。一方,近世の俳譜書には,秋の季語 として 「
綿取 り」
や 「
綿打」や 「
新綿」などがあげられている。 どの俳人にも,綿 に関わる句を兄いだすことは難 しくない。
目前の景を重ん じる茶山は,中国の詩 にまれに しか詠われなか ったにもかかわ らず,綿に豊かな詩趣を感 じ,俳譜 と同 じ
く,秋の情緒をか もし出す景物 として繰 り返 し綿を描いたのである。
その綿の作品の中で も,
「
女児壁を傾けて新榛を采 る,・
・
・
村家竹裏綿弓響 く」(
赴鴨方途中) という句は,若い娘たちが竹
龍をかかえて新綿をっみ取 り,村の竹篭のむこうか ら綿弓の音が聞 こえて くると詠んでいる。 もちろん中国にその先例を見
野ざらし紀行』には,
「
綿弓や琵琶に慰む竹の奥」とい
ない描写である。 しか し実は,茶山が尊敬の念を懐いていた芭蕉の 『
う句が見 られる。 茶山のね らった趣向は芭蕉のそれを襲 ったもの とも考え られるのであるo
l
次に,茶山の 「
乗珪」詩O「
乗越初めて裂けて秋谷晴る」や 「
秋来栗杜竣初めて結ぶ」など.また 「
栗樹小鳥」という詩に
は,
菜種将裂葉将椎 葉蛙 将に裂けん として菓将に挫 けんとす
四野西風 日夜健
四野の西風
日夜催す
知是陰崖寒己重 知んぬ是れ 陰崖 寒己に重 きを
小食相逐出山来 小食 相逐 うて山を出で来たる
とある。 栗の鐘がまさに裂 け,栗の木の葉 も落ちようとする頃,小 島たちも山の北側の寒 さを避 け,つ ぎっぎと山か ら出て
くる。 新秋か ら初冬への季節の移ろいを細やかに観察 し,よ くその変化の機微を捉えた作品である.
茶山以前の詩文に栗の壇 は, もちろん詠 まれていたが, しか し詩語 としては 「
乗蓬」「
栗刺」「
栗壱 」であり,「
栗壇」と詠
む類例を見ない。おそ らくは 「
栗竣」 は日本で作 られた熟語なのであろう。
さらに 「
小鳥」 に季節の変化を感 じ取 ることは,蕪村の 「
小鳥来 る音 うれ しさよ板庇」などに見 られ る俳譜独特の季節感
栗壇」という表記で詠 じたの も,同様の理由で,つまり俳譜的な風情を漂わせるもの
覚である. 茶山が従来の漢詩 にない 「
と考え られる。芭蕉の 「
秋風のふけども苦 し栗のいが」と茶山の 「
秋釆栗社壇初めて結ぶ」,または 「
行 く秋や手をひろげた
る栗のいが」と 「
菜種将に裂 けんとして葉将に推 けんとす」や 「
粟櫨初めて裂 け秋谷晴る」
。これ らの表現 もまた同巧のもの
と言 うべ きであろう。
最後の 「
菜の花」につい て,中国では花成大の 「
糊蝶双双 として菜花に入る」(
晩春田園雑興)や楊万里の 「
児童急走 して
黄蝶を迫ふ,菜花に飛び入 りて尋ぬる処無 し」(
宿新市徐公店)などのように,蝶蝶 と一緒に詠まれるのは一つの典型である。
六如 ・寛斎 ・頼山陽まで茶山周辺の情新派 と言われる詩人 ももれな くその 「
菜の花一蝶」 という連想のパ ターンに沿 って詩
を詠んでいた。
その菜の花の詩の表現を茶山が知 らないはずはな い
。
しか し,数 ある菜の花の詩に,一度 もその表現を用いなかったO逆
に中国の詩文に見ない 「
春潮一派田池に通ふ,野菜花中海舶行 く」(
先陣庵)や 「
波涛湾曲千帆の影,-故宮は黄葉沙田に満
つ」(
兎原道中)である表現を愛用 した。菜の花を海や川 と取 り合わせて詠んだのである
実は菜の花は,春の田園風景 として近世の俳人によく詠われた題材の一つであった。画家 として も有名な蕪村はいろんな
角度か ら菜の花の風景を俳句で捉えている.「
菜の花や鯨 もよ らず海 くれぬ」や 「
菜の花やみな出はらひ し矢走丹」などo春
野に一面咲 き広がる黄金色の菜の花に海や湖のイメージを取 り合わせる作品であった。大雅の絵 よりも蕪村の絵の方を高 く
-7
2-
評価する逸話を残 した茶山の菜の花の新 しい着想 は,蕪村のこのような句 に触発 されたものであろう。
綿の花や,乗の櫨や,菜の花について,茶山は従来の漢詩 に規範化 された泳法に追随せず,芭蕉や蕪村 によって詠 まれた
詩情を漢詩に応用 して,俳譜的な感性で,細やかな美や,季節の変化の機微や,絵画的な構図を斬新 に詠み とった。漢詩の
俳潜化の一例であ り,茶山詩の日本化を顕著に示す表現であった。
第三章は,茶山が好んで梅雨の詩 に水鶏 を詠み込む ことを取 り上 げ,和漢の水鶏のイメー ジの相違か ら,茶山詩の日本化
の更なる-側面を明 らかにするものである。
中国では,梅の実が熟れる頃に降 り始める雨を梅雨 と言 っている。 季節 は夏,そ して,古 くか ら詠われて きた梅雨の詩 と
いえば,和漢の詩人を問わず,雨水の足 りることを歓 び,秋の豊かな実 りへ と期待を馳せるものであ ったo
Lか し,茶山は違 う。
「
梅雨飛飛 として山は夜な らん と欲 し,秩鶏角角 と して野 に風無 し」 (
藤伯協来訪分得韻東)や 「
雨
断みて梅東宮 として未だ晴れず, -門柳陰中姑悪鳴 く」(
即事)や 「
門架蔵 りを添へて庭勅 に平 らかなり,終夜秩鶏枕 に近 く
鳴 く」(
偶成)など,「
水鶏」 と梅雨を強 く結 びっけて,門辺の柳の蔭や増水 した溝の周辺 に水鶏の姿 と声 とを描 き出すO
茶山の詩 にも見える 「
姑悪」 は,水鶏の中国名であることは知 られていた。その 「
姑悪」 は,末代の蘇東城 あたりか ら申
国文学 に登場す る。 当時の俗説 によると, この鳥の鳴 き声が 「
姑が悪 い」 というふ うに聞 こえるところか ら,姑 に虐げ られ
「
姑悪」 と称ばれたとい う。 そのイメージを, さらに拡大 し,定着 させたのは,
て命を落 とした嫁の魂の化身だ と考え られ,
母親 に気に入 って もらえなか った妻 と離別 させ られた苦 い経験を もっ陸薪であった。例えば 「
君聴 け姑悪の声を,乃 ち諸婦
の魂なか らんや」(
夏夜舟中間水鳥声甚哀若日姑悪感而作詩)や 「
孤愁忽 ち起 き耐ふ可べか らず,風雨渓頑姑悪の声」 (
夜間
姑悪)など。以後,姑悪詩の陰欝なイメージは全 く固定化 していった。
ところが,茶山の描 く姑悪 は,そ うではなか った。中国の類型化 した姑悪の陰欝 なイメー ジを覆 し,新鮮 な息吹を感 じさ
せ るものである。
茶山が姑悪をただ梅雨空 に鳴 く鳥 とだけ,夏の-風物 と見 ることがで きたその新 しい感性の根源 は,実 は和文学 にあった。
,
早 く平安時代の女流文学 に水鶏 は 「
木陰いとあはれな り,山かげの くらが りたるところを見れば,蛍 はおどろ くまで照 らす
(
『
購蛤 日記』
)や 「ただそ こはか とな う茂れ る陰 どもなまめか しきに,水鶏の うち
め り。 - くひなはそ こと恩ふまでたた く」
たたきたるは,たが門 さして,いと哀におぼゆ」(
『源氏物語』
)などのように描かれた。その鳴 き声が戸を叩 くように聞 こえ
ることか ら,恋人が訪ねて くる音 として,それは しば しば恋歌 に描かれた。 また水鶏が木陰に隠れて鳴 く情景 も好んで描 き
出された。 そ して水鶏 と木 と水の音を取 り合わせ る美感 は中世の和歌 にも継承 され, それに静寂 さが新 たに加え られた。連
宗碩) などと詠 まれた。茶山の 「
門柳陰
歌の世界で も 「
水鶏な く門田木深 き柳哉」 (
宗長)や 「
水鶏鳴 く月や誰が門柳陰」 (
中姑悪鳴 く」の句は,あたか もその漢詩訳のよ うであろう。
また,茶山の敬慕 した芭蕉 もまた,水鶏の鳴 き声の雅趣を愛 した人であ った。その 『
幻住庵記』 に 「
笠 とりにかよふ木樵
の声,麓の小田に早苗 とる歌,幾飛 びかふ夕闇の空に,水鶏の叩 く音,美景物 としてた らず と云ふ事 な し」とあるO ほかに
門栄藤 りを添へて庭勘 に平 らかなり,終
「
水鶏噂 と人のいへばや佐屋泊」や 「
昼の水鶏のは しる溝川」などの句 は,茶山の 「
夜秩鶏枕 に近 く鳴 く」(
偶成)や 「
雨後の溝渠水尚は淳 なり,-秩鶏角角 として鳴 きて還 た走 い-」 (
夏 日雑詩)の描写を髪
繋 させるものである。
。
「さみだれに羽 もほ しあへず柴の戸をあけていれよとな くくゐなかな」 と,茶山は実際, 水鶏の歌を詠んでいた 「
姑悪啄
啄 として竹風吹 く,書画船繋 ぎて何処 にか在 る」(
答武拍子除夜夢余見寄作)とい うその詩の 「
啄啄」は戸を叩 く音。まさに
「
柴の戸を叩 く」という和歌の表現を詩 に翻訳 した ものであった。
姑が悪いと鳴 くという詩 と戸を叩 くように鳴 くという歌俳 と, この鳥の鳴 き声 に対す る和漢の受 け止め方 に大 きな隔た り
に多 くの日本詩人 は戸惑 いを感 じたのでではないか。結局,詩の題材 として敬遠 されたこととなったのだろう。
しか し詩 にとどま らず,和歌,連歌,俳誰など詩歌全般 に深 い興味を示 し, 自ら歌俳を噂んだ茶山は,姑恵を愛唱 した。
平安朝の女流文学 に始 まる和文学特有の水鶏を賞美する視点か ら,梅雨の水鶏を巧みに描 き出 したのである。
第四章 は,秋鳴 く虫を詠む和漢の詩歌の相違 に留意 しなが ら,茶山の 「
秋蛍」詩の新 しい趣向 と,鈴虫や松虫の声を愛好
す る日本の伝統や和歌の表現の関わ りを明 らかにす るものである。
茶山は,六十七才の時に福山藩主の命令により,江戸 にゆき,滞在中の秋の夜,郷里 にいる五才の甥孫の夢を見て,
「
秋夜
夢姪孫」三首を詠んだ。第一百 は 「
分明に汝が径間に奔 るを見 る, ・
・
・
応 に秋蛍の草根 に蔵 るるを覚むなるべ し」
,二首目は
- 7
31
「
草径多 くは蛇轍の栖為 り,・
-縦 ひ資 を得 ざるも浸 りに暗 くこと休かれ」
, そ して三首 目は 「桑声還 た聾鈴 に勝れ り,捕え待
たれば憐れみを垂れて草庭 に放て」と,野道を走 り回 り,秋 の鳴 く虫を探す という夢の中の幼子 に慈 しみの情 を込めて詠ん
だ佳作である。 しか し管見の限 りでは,「
覚虫」という詩語, あるいは 「
蟹鈴 」よりも勝れ るとい う虫の声,「
放虫」という
詩想 は,中国には見ない ものである。 また別の詩では,「
露気知 らず吟袖の湿ふを,数声の虫語磯稜稜」 (
即事) と,虫の声
を
「
d
e
n
g
1
e
n
g
le
n
g
」と,日本の鈴虫
(
現在の松虫)の 「チ ンチロ リン」に通 う音声 として詠 っている。「
聾鈴」の比噂 と照
らし合わせて考えれば,おそ らくは茶山は, 日本の 「
鈴虫」を念頭 に置 いて詠んだのである。実際,茶山は 「窓近 く聞 くも
めづ らしふ りはへて とひこしや どのすずむ しの声」 と鈴虫の歌を詠んでいた。
ほかに 「
午梶微涼猶 は永 日,夜叢清露 己に鳴虫」(
中元臥病簡器甫)や 「山村秋気早 し,暑 日鳴虫有 り,衣露三更の月,棉
声 四野の風」 (
山村)など涼 しげな虫の声 も詠 うが,とりわけ見逃せないのは 「四壁虫声夜気澄む,-愛 し看 る大月松を抱 き
て升 るを」 とい う有名な詩である。月を待っ夜 に虫の声を点景 として描 くことや 「
大月松 を抱 きて升 るを」とい う奇矯な着
想 は,「月松虫」を 「月待つ虫」の意 にかけて詠む和歌の手法 にかかわるのであろう。
また十五夜前後の詩 に虫の声が多 く詠 まれ ることも茶山の秋輩詩の一つの特徴であるO 「明月を愛でる」 と 「
虫の声を聞
く」, または 「わび住 まい」 と 「虫声」 という取 り合わせの感覚 は,中国の詩文 にはない ものであ った。 しか し茶山は,「
復
中秋)や 「
此の際君 を得 る情豊 に浅か らんや,露撃虫語小村斎」(
十五夜草堂飲
た坐 して残酒を温む,虫語柴関に寂 た り」(
岡俊卿来会分得韻佳) などのよ うに, 自分の隠居に虫の声 を配 して,ある種 の風情を醸 しだすのであ った。
,『詩経』の時代か ら詠 まれて きた中国の秋鳴 く虫 は,実 は殆 ど 「燃蜂」や 「促織」や
一方
「
絡緯」 といった総称で詠われ
たのであるo
「
促織」とは,女性 に冬衣の用意を促すように虫の声 を聞 きなす ことによっての名前である。即ち虫の音色その ものの印象
。
や虫の種類 には関心 は余 りなか ったのであ り,もっぱ ら人事的な連想 に傾 くのである 『楚辞 』以来の秋 を悲 しむ観念 は,漢
代以降一般化 し,秋を知 らせ る虫声 も人を傷 ま しめる景物 と して詠 まれることが多 くなった.六朝時代の閏怨詩 によ く使わ
「
,
久客涙無 きを得んや,故妻農 に及 び難 し」 と,閏怨のは
れ る素材の一つで もあ った。唐代 になると,杜南の 促織」詩 は 「
かに,さらに久 しく故郷 に帰れない旅人の涙を誘 うもの というイメージを付 け加えたのである。こうして悲 しげな虫の声 は,
若干の例外 はあるが,明や清の詩人 まで引 き継がれて行 く。
また, 日本の鳴虫詩 もその影響 を強 くうけ,秋の哀感や詩人の悲 しみをそそ るもの として詠 まれるものが殆 どである。写
実的な釆詩風 を手本 に詩 を作 った六如 あた りか ら, ようや く 「
鈴虫」や虫の和歌題漢詩が試 み られるようにな ったが, しか
し, それ も虫声か ら悲秋 という連想か ら完全 に解 き放 たれ るに至 らなか った。
このよ うに,茶山の秋蛍詩の新 しい趣向 は,先行の詩文 には見 られない ものであったが 日本の伝統的な文学 に目を転ずれ
ば, その着想の原点 を辿 ることがで きる。
, 」 」
さらに茶山の親 しんだ和歌で も,
「
尋虫」
「
尋虫声」
「
野外尋虫」などの歌題 は,広 く詠われていた。「
野径尋虫」 は,早 くも
『
古今著聞集』に見える堀川天皇 の時か ら行われ る宮中行事であ った。 また伊勢 の 「
前栽 に鈴虫をはなち侍て」
(
『
拾遺集』
)
とい うの も,近世の人 にとって 「虫狩 り 「
虫聞 き 「
虫撰 び」は,身近 な秋 の遊興の一つであ り,俳譜 に も多 く詠 まれる。
とい う歌が見えるよ うに,特定の秋 の虫の音色を愛好 し,わざわざ庭 にはなち, それを楽 しむ ことは,古 くか ら日本人の風
流であ った。
「おおかたの秋 をば憂 Lと知 りに Lをぶ り捨 てがたき鈴虫の声」という女三宮 の歌が見え
さらに 『
源氏物語』鈴虫巻 には,
る。秋虫の声を美 しい もの として愛でる日本独特の美意識が端的に表 されているO 茶山の秋蛍詩 は,中国の 「
促織」詩では
な く,虫の音を秋 の美的な喜 びの一つ とみる平安朝か ら綿 々と引 き継がれて きた 「もののあはれ」の感覚 に由来 し,表現の
上で も虫の声の和歌 に負 うところが多か ったのである0
」
」
第玉章 は, さまざまな物売 りの風景 を七言絶句 に詠み込む茶山の詩について,中国詩 に見 られ る 「
炭売 り 「
花売 り 「
飴
売 り」の描写や捉え方 と比較 しつつ, それがいかに俳諺の表現へ と傾斜 していったかを明 らかにす るものであるO
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
日本の文学史を通 じて,漢語 による文学表現 は, それぞれの時代の最高の知識人によってになわれ,時代の文化の全てを
導 く大 きな役割 を果 た した ものであ った。 しか し, それ らの漢文学 は,当然 なが ら中国の文学 の強 い影響の下 に作 られ,そ
一一
.7
4-
れ故 にその模倣作 として低い評価を受 けがちである。 国文学史 は,それを主導する漢文学 についての配慮の不十分なまま,
多 くは和文学 に偏 って記述 され, ま して漢文学 と和文学 との関わ りが言及 されることはきわめて稀であった。
例えば,江戸時代後期の詩人菅茶山 も,専門的に研究 されることは殆 どな く,中国の南末の詩風を承 けて 日本の詩壇 に写
実詩を定着 させた詩人 として,凍文学史の枠内における一定の評価を得 るにとどまってきた。
本論文 は,その菅茶山の漢詩を,和歌や俳譜などの和文学か らの連続の上 に位置づ けよ うとす る独 白な研究である。 茶山
は,社会 と言葉の異なる日本 と中国では詩の表現 も異なるべ きだ と考え, 日本の現実 に立脚 した漢詩表現を模索 したが,そ
の中で,伝統的な和歌や俳譜の表現に基づ くいわゆる和習的な表現を受容す ることとな った。本論文 は, それを異体的な表
現の一 々を取 り上 げることによって鮮やかに指摘 した。
第-章 に取 り上 げる蛍 は,中国 と日本 とでは種類 と生態が異な り,中国の蛍 は晩夏か ら秋 にかけて陸生 し, 日本では初夏
に水生する。 そ して,その現実の反映 として,中国の詩では一貫 して 「
秋幾」が詠 まれ,和歌や俳許ではそれを 「
夏虫」 と
呼んできたo Lか し, 日本の漢詩においては,中国の詩を規範 とす る意識が強い余 りに,一部の例外を除いては,現実 には
存在 しない秋の蛍を描 き続 けてきた。 その現実 と表現 との食い逢 いを正 し,夏の蛍 を繰 り返 し措 いた詩人が菅茶山であり,
茶山に至 って初めて, 日本人の詩が 日本の蛍を詠み得たことを本論文 は指摘す る。 しか も, より重要 なことは,茶山の 「
竹
田村畔渓橋の路,蛍火群飛 して夜唇か らず」
,蛍の光が橋を明 るくすると詠 う詩句が,平安時代の俊恵 の 「ほたる橋をて らす」
という歌題,その他の和歌表現の型 に添 うことの指摘であるo写実主義の詩人 という評価が一般的な中で,その蛍の表現が
一方で和歌表現の型を受容することの指摘 は,新鮮 な発見 として高 く評価 されるべ きであろう。
本論文 は, さらに菅茶山の漢詩 と俳語 との関わ りについて もいくつかの創見を示 した。例えば木綿 を打っための綿 弓を,
綿弓や琵琶 に慰む竹の奥」の句を慕 うものである可能性を,茶山
茶山は 「
村家竹裏綿弓響 く」 と詠んだが,それが芭蕉の 「
の芭蕉-の傾倒ぶ りを傍証 として説 いたO また菜の花 は,中国の詩では黄色 い蝶蝶を取 り合わせて詠 まれることの多 い表現
,
野菜花中海舶行
素材であり,茶山以前の日本の漢詩人 も例外な くそれを踏襲するが,しか し茶 山はその表現を一切用 いず 「
く」など,菜の花畑を海や湖の水辺 に措 くことを好んだ。その興味深 い現象を指摘 した上で,それが 「
菜の花や鯨 もよ らず
海 くれぬ」などの, これ も茶山が尊敬 した蕪村の句などに触発 された表現であろうことを説 いた。
本論文は,以下の全ての葦 において も,今 まで誰 も問題 としなか った何気ない表現を取 り上げて, それ らが中国の詩の表
現の典型を踏襲せず,和文学の表現の伝統を継承す ることを論 じるものである。 菅茶山 という漢詩人を日本文学史の中に正
しく位置づ けるための基礎を作 るとともに, ひろ く日本の漢語表現を史的に研究す るための一方法を提示 し得た論文 として
高 く評価で きる。
ただ し,短所 は長所の裏側 に存在する。具体的な表現を取 り上 げて論 じる本論文の方法 は十分 に説得力を発揮 しているが,
その反面で,同 じ問題を別の例 により繰 り返 し説 くという弊が生れていないとは言 えない。 また,茶山の詩の全てが歌俳 に
基づ くものではもちろんな く,従来の漢詩,和歌,俳譜の表現 になか った新鮮な表現がむ しろ多いことも,無視す るわけに
はいかない。 ひとっの問題 に拘わ らず,茶山の詩の全体像を求めて,研究方法を多様化す るべ く努めることが,今後の課題
となる。
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0年 2月 2
5日,調
以上,審査 したところによ り,本論文 は博士 (
文学)の学位論文 として価値あるもの と認め られる。2
査委員三名が論文内容 とそれに関連 した事柄 について口頭試問を行 った結果,合格 と認めた。
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