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個体性と同一性 バークリ、ロック、デカルト

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個体性と同一性 バークリ、ロック、デカルト
個体性と同一性
──バークリ、ロック、デカルト──
村上
友一
はじめに
近世哲学を概観したとき、実体の概念は「性質は自存しえない」というドグマに支
えられているかに見える1。実際、ロックが「基体」を要請したのは、諸性質は支えな
しには自存しえないと判断したからであり(E, 2, 23, 1)2、バークリもまたこのドグマ
に固執したために、一旦は「感官に知覚される対象は、可感的性質の結合以外の何も
のでもありえない」
(DHP 1, 175)と結論しながらも、ついに中立的一元論に至ること
はなかった。しかし、このドグマの否定から直ちに実体の否定否定が導出されるわけ
ではない。A・クイントンによれば、実体の概念は個体性、個体の同一性、および知
識の客観性の確保、知識の基礎づけという四つの動機によって支えられている3。近世
哲学においても、実体はこうした問題と深く関わっていたように思われる。
本稿が取り上げる三人の哲学者のあいだには、延長と実体を同一視するデカルトの
実体論はロックによって批判され、延長と実体とを分離したロックの実体論はさらに
バークリによって批判されるという歴史的なつながり見出される。この歴史を物理的
対象の個体性と同一性を焦点として見るならば、それらが失われていく歴史を透かし
見ることができるであろう。この批判の歴史を祖述してゆく本稿の検討は、同時に「性
1
本稿における「性質」という語の使用法は、些か曖昧すぎるかもしれない。ときには「関係」
をも包含するような広い意味で、つまり「普遍者」ほどの広い意味でこれを用いる。
2
バークリ、ロック、デカルトの著作への参照はすべて本文中に示す。バークリの著作への参
照は全集版(The Works of George Berkeley, Bishop of Cloyne, ed. by A. A. Luce and T. E. Jessop, 9
vols., Thomas Nelson and Sons Ltd., 1948-57)による。書名等を略記し、
『人知原理論』の序論(Intro)
と第一部(PHK)に関しては節番号を、『ハイラスとフィロナスとの三つの対話』(DHP)につ
いては全集版第二巻の頁数を、
『アルシフロン』
(AL)については章数と節数を、それぞれアラ
ビア数字で示す。ロック『人間知性論』への参照は An Essay concerning Human Understanding, ed.
by P. H. Nidditch, Clarendon Press, 1975. による。書名を E と略記し、巻数、章数、節数の順に
アラビア数字で示す。デカルト著作への参照は Œuvres de Descartes, publiées par Ch. Adam & P.
Tannery, nouvelle présentation, J. Vrin, 1964-73. による。書名等を慣例に従って略記し、巻数をロ
ーマ数字で、頁数をアラビア数字で示す。
3
A. Quinton, The Nature of Things, Routledge & Kegan Paul, 1974, pp. 3-7.
5
質の束」と「性質と基体の複合体」という二つの伝統的な対象観の問題点を指摘し、
その間をゆく第三の選択肢をデカルトのうちに見出そうとする試みに他ならない。本
稿が描きだすデカルトは、歴史的デカルト像とは些かかけ離れたものになるかもしれ
ない。デカルトのうちに見出される諸要素を整理し再構成しなおすこと、それは本稿
のもう一つの意図である。
1
バークリにおける物理的対象の個体性
バークリ以降、ロックの基体概念は絶えず批判に曝されてきた。それにも関わらず、
基体の想定が死滅することがなかったのは、M・J・ルークによれば、その対案とし
て提示される「性質の束」という対象観が、個体性に関して問題を生じさせるからで
ある4。まず最初に、物理的対象を「性質の束」と見なすバークリが、どのようにして
問題を生じさせているかを確認しよう。しかしながら、バークリ自身は、これを問題
として見てはおらず、したがって積極的に説明することはなかった。「ある事物を同
一だと言うことについて、哲学者たちが適切だと考えるかどうかは余り重要ではな
い」(DHP 3, 247)。実際、バークリとしては、種的同一性さえ確保されているならば
日常生活に支障はなく、個体的同一性を確保する必要はないと考えていたように思わ
れる。しかし、D・E・フレージュは、関連するテクストからバークリの個体性の理
論を再構成しようと試みている5。当面の課題を遂行するために、これを利用すること
にしよう。
フレージュがバークリのうちに見出そうとしているのは、
「種概念」
(sortal concept)
と「時空の連続性」
(spatiotemporal continuity)に基づく物理的対象の個体化である。
しかし、このどちらもバークリ哲学に相応しい装置とは思われない。フレージュは、
如何にしてこれらのバークリ哲学への適合化を試みているのであろうか。
まず第一に、抽象一般観念の存在を否定していたバークリが、いかにして種概念を
入手しうるのであろうか。バークリ自身の申告に従えば、それは観念間の関係に基づ
4
M. J. Loux, `Beyond Substrata and Bundles : A Prolegomenon to a Substance Ontology,' in
Contem-porary Readings in the Foundations of Metaphysics, ed. by S. Laurence and C. Macdonald,
Blackwell, 1998, p. 234.
5
D. E. Flage, `Berkeley, Individuation, and Physical Objects,' in Individuation and Identity in Early
Modern Philosophy : Descartes to Kant, ed. by K. F. Barber & Jorge J. E. Gracia, State Univ. of New
York Press, 1994, pp. 133-54.
6
いて形成される。「諸観念は、それらの間に何らかの本性的な関係があると見なされ
ると(…)
、一つに取りまとめられ、一つの名前で呼ばれ、一つの事物と見なされる」
(DHP 3, 245)。そして、同じ関係が他の諸観念のうちにも観察されると、それらすべ
てが「そうした特定の観念すべてを無差別に心に示唆する」
(Intro, 11)ような一般名
辞で呼ばれることになる。しかしながら、ここで前提とされている観念間の関係とは、
異なった時間に生起する複数の観念トークンによって共有されうる普遍者に他なら
ない。それゆえに、ここに素描したような概念形成は、個体から普遍者を導出しよう
として、そのために普遍者を前提してしまうという、いわゆる「抽象のパラドクス」
に曝されることになろう6。こうしたパラドクスを回避するために、フレージュは感覚
的所与を「一つの事物」へと組織化するような生得的能力ないし性向へと訴える。
「欲
求や理知能力が幼少の頃には見られなかったからといって、それが人間にとって本性
的なものであることを否定するでしょうか。(…)事物が心にとって本性的であるこ
との最初の徴候が、心のうちに初めから存在するわけではありません。(…)事物は
人間という種に本性的なものでありえますが、すべての人間に見出されるわけではあ
りません」(AL 1, 14)。このように、バークリもデカルトやロックと同じように素質
生得説を認めていた。
さしあたり、「バークリは物理的対象の把握において種概念を前提としていた」と
いうフレージュの主張を認めるとしよう。しかし、種概念だけでは、ある対象をある
種に帰属するものとして同定することは可能であるとしても、その時間を超えた個体
的同一性を保証することはできない。そのためには、更にその対象が時空的に連続し
ていることが前提とされねばならない。物理的対象が心の外部に存在することを否定
したバークリが、いかにして時空の連続性を前提しうるのであろうか。バークリにお
いて物理的対象と呼ばれうるのは、想像の観念と区別されるような感覚の観念である。
「自然の創造主によって感官に刻み込まれた観念は実在物(real thing)と呼ばれる」
(PHK, 33)。そして、感覚の観念は、想像の観念とは違って、自然法則(Laws of Nature)
に従うとされている(PHK, 30)。フレージュはこの主張を根拠として、感覚に与えら
れる物理的対象は時空的に連続していると結論する。
しかし、この議論には無理がある。確かに、主張者が物理実在論者であったとすれ
6
cf. H. Bergson, Matière et Mémoire, PUF, 1896/1968, p. 297.
7
ば、ある対象が自然法則に従うという主張によって、その対象の時空的連続性が含意
されるかもしれない。しかし、現象主義者バークリにとって、対象が自然法則に従う
とは、その対象を構成している諸観念のうちに恒常的連接が見出されるということに
すぎない。「自然法則は経験によって教えられる。事物の通常の経過において、かく
かくの観念にかくかくの観念が付随することは、経験がわれわれに教えるのである」
(PHK, 33)。そうした恒常的連接は同じタイプの対象すべてに見出されるのであるか
ら、そこから導出されうるのは通時的な種的同一性にすぎない。対象の通時的な個体
的同一性は、依然として確保されていないのである。
物体の外在性を否定し、それを観念へと還元することは、通時的な個体的同一性を
語るための舞台を奪うだけではない。それは同時に、異なった主観が同一の物理的対
象を同定することさえ拒むのである。「われわれが感覚によって直接に知覚するのは
観念である(…)。それゆえ、どんな二人の人間も同一の事物を知覚することはでき
ない」
(DHP 3, 248)。このような困難を惹起する物体の外在性の否定を、バークリが
基体的実体に対する批判から導き出しているのは疑いない。基体的実体を想定するな
らば、バークリが抱える問題は解決するのであろうか。バークリのロック批判を手掛
かりとして、
「性質と基体の複合体」という対象観を検討することにしよう。
2
バークリのロック批判
バークリが物体の外在性の否定を基体的実体への批判から導出しているとしても、
基体の否定から直ちにそれが帰結してくるわけではない。議論を始めるに先立って、
一見バークリが混同しているように見える二つの要素を区別しておかなければなら
ない7。一つは「可感的対象は心の外部に独立した存在をもつ」という主張に対する批
判であり、もう一つは「可感的性質は実体に内在せねばならない」という「内在の原
理」に対する批判である。対象の外在性と性質の内在性とは相互に独立した主張であ
り、どちらの否定も他方の否定を含意しない。物理的対象の外在性を認めつつ「性質
の束」という対象観を採用することも可能であるし、物理的対象の外在性を否定し可
感的性質を心的実体の様態と見なすような唯心論的立場も不可能ではない。
7
J・ベネットはバークリが二つの批判を混同していると批判し(J. Bennett, Locke, Berkeley,
Hume : Central Themes, Clarendon Press, 1971, pp. 70-4)、J・L・マッキーはこれに異を唱えてい
る(J. L. Mackie, Problems from Locke, Clarendon Press, 1976, pp. 83-5)。
8
バークリの基体的実体への批判を根底で支えているのは、性質の内在性に対する批
判である。なぜなら、バークリが「基体的実体が性質を支える」という主張を斥ける
のは、基体的実体が何であるのか明らかではなく、その可感的性質に対する関係も明
らかではないという理由によるからである(DHP 1, 199 ; cf. PHK, 16-7)
。しかし、基
体がこうした性格をもつことは、ロック自身が認めていたところである(E, 2, 23, 1)。
それにも関わらず、ロックが性質と峻別される基体の必要性を否定することはなかっ
た。
基体を想定することによって、バークリが抱えていた個体性の問題は解決するので
あろうか。実際、ロックが基体を要請したのは、物理的対象の個体性を説明するため
ではなかった。彼は物理的対象の個体性を論ずるに際して、基体へと直接に訴えては
いない(cf. E. 2. 27. 3-5)。しかし、
「性質の束」が惹起する個体性をめぐる問題を解決
するためには、性質と峻別される基体が不可欠である考えた者もいなかったわけでは
ない8。そうした主張を支えるのは、「性質によっては区別できないが、数的には区別
しうる複数の個体が存在しうる」という前提、すなわち「不可識別者同一の原理」の
否定である。つまり、性質とは複数の個体によって共有されうるものであるから、そ
の個体のもつ性質をどれほど事細かに枚挙しようとも、そうした性質群に該当する他
の個体が存在する可能性はつねに開かれている。それゆえ、対象の個体性を確保する
ためには、性質とは峻別されるような存在者すなわち基体が必要であるというわけで
ある。
確かに、二つの対象が異なる基体をもつと想定するならば、諸性質を完全に共有し
ていようとも、基体の相違のゆえに、その二つの対象は個体として異なることになる。
しかし、このような個体性の説明にも問題がないわけではない。基体はあらゆる性質
を剥ぎ取られているがゆえに、本性的に不可知なものであり、したがって、個体を識
別するための基準としては機能しえないからである。このように個体識別の基準とし
て機能しないものを、個体性を確保するために要請することに意味があるとは思われ
ない。この意味で、基体の想定を無用として斥けたバークリの批判は適切であったよ
うに思われる。
8
e.g. B. Russell, `On the Relations of Universals and Particulars,' rep. in Logic and Knowledge : Essays
1901-1950, ed. by R. C. Marsh, Allen & Unwin, 1956, pp. 105-24 ; cf. Loux, ibid, p. 235.
9
基体が本性的に不可知であるにも関わらず、ロックがその存在を必要としたのは、
彼が「性質は自存しえない」というドグマに固執したからである9。バークリもまた、
このドグマに導かれて、物理的対象の外在性を否定することとなった。可感的性質が
物質的実体に内在することを否定しつつ、性質は自存しえないと主張するのであれば、
そこからは可感的性質が心的実体に依拠していることが帰結するというわけである10。
実際、物理的対象の外在性を主張しつつ、このドグマを保持するのであれば、われわ
れは心の外部に実体を要請せねばならなくなる(性質の支えとして要請される以上、
それは性質とは異なる基体的実体でなければならない)。すでに見たように、バーク
リが個体性をめぐる困難を抱えるのは、物理的対象の外在性を否定することによって
である。したがって、もし前述のバークリのロック批判に同意しつつ、この困難を回
避しようとするならば、「性質は自存しえない」というドグマは放棄されねばならな
い。
しかし、こうした方針を採った場合、われわれは「性質の束」という対象観に寄せ
られた前述の反論に答えて、対象の個体性が性質のみによって確保されうることを示
さなければならない。実際、個々の性質を単独で取り上げた場合には、これは可能に
は思われない。複数の個体によって共有されうることが、性質の本性だからである。
しかし、幾つかの性質の組み合わせたとき、それらの性質すべてを併せもつ対象は唯
一つしか存在しえないかもしれない。「時空点」とは、まさにそうした性格をもつ性
質の組み合わせである11。たとえば、時空点(x, y, z, t)は「一つの事物は一度に一つ
9
山田友幸によれば、ロックによる基体の想定は日常言語の構造に基づいている(「ジョン・
ロック『エッセイ』に於ける論理形式の問題と基体としての実体」
、東京都立大学哲学会編『哲
学誌』第 26 号、1984 年、7∼17 頁)。しかし、その議論が示しているのは、
「性質は自存しえな
い」というドグマが日常言語に浸透しているという事実以上のものではない。こうした言語的
な正当化を、バークリが認めるようには思われない。バークリは言語を「思索を混乱させ紛糾
させてきた張本人」(Intro, 6)と見なし、「剥きだしの観念を眺めること」(Intro, 23)を勧める
からである。実際、言語的な正当化が幾つかの日常言語の特殊性に依存しているに過ぎないと
すれば、そこから世界の存在論的構造を導出するのは僭越という他はない。
10
バークリの推論をこのように定式化するならば、バークリがデカルト的二元論に依拠してい
るのは明らかである。しかし、E・B・アレルのように、バークリの結論を「可感的性質は心
的実体に内在する」
と理解するのは適切ではない(E. B. Allaire, `Berkeley's Idealism,' rep. in George
Berkeley : Critical Assessments, 3 vols., ed. by W. E. Creery, Routledge, 1991, vol. 3, pp. 248-9)。近世
哲学の伝統に反して、バークリは観念(=可感的性質)を心的実体の様態とは見なしていない。
11
こうした性質の組み合わせは時空点以外にもあるかもしれない。たとえば、P・F・スト
ローソンは聴覚情報(音の大小や音質)のみに基づいて、物理的対象の個体性を説明しようと
10
の場所にしか存在しえない」という空間関係の特性のゆえに、唯一つの個体によって
しか占められえない。しかし、x, y, z, t の各々は、複数の個体が例化しうるという意
味で性質ないし関係なのである。
性質による個体化が可能であるとすれば、「性質は自存しえない」というドグマを
放棄するのに躊躇する必要はない。しかし、このドグマを放棄したとしても、直ちに
実体論を放棄する必要はない。むしろわれわれの主張する物理的対象の外在性は、物
理的対象を実体と見なすよう要求するように思われる。なぜなら、近世哲学の伝統に
ならって心を実体として捉えた場合、物理的対象が心の外部に存在するとは、物理的
対象が心とは別個の独立した実体であることを意味するからである。もちろん、ここ
で想定される実体は、性質と峻別されるような基体的実体ではありえない。われわれ
がこの方向のうちに位置づけようとしているのは、主要属性である延長と同一視され
るデカルトの物体的実体である(cf. PP 1, 63, VIII-1, 30-1)12。
3
デカルトにおける物理的対象の個体性
時空点によって物理的対象を個体化するためには、その舞台となる空間の外在性が
確保されねばならない。しかし、ルークの指摘するように、絶対空間や絶対時間を物
理的世界に導入することは、基体に訴えるのと構造的に変わるところがない。両者の
相違は得体の知れない存在者を対象の内部に措定するか、外部に措定するかの違いで
しかない13。絶対空間や絶対時間に訴えないのであれば、ある個体を同定するために
は何か他の個体が基準として必要となる。そして、この他の個体は、更に他の個体に
試みている(P. F. Strawson, Individuals : An Essay in Descriptive Metaphysics, Methuen, 1959, Ch. 2)。
ただし、それは時空点に比べると貧弱な機能しか果たしえない。
12
こうした文脈において要請される実体は、物体の外在性を語るための概念装置以上のもの
ではない。こうした実体の捉え方は、物体観念を分析によっては実体の観念には到達しえない
にも関わらず(cf. Resp. 4, VII, 222 ; PP 1, 62, VIII-1, 30)
、物体について実体の存在論を採ること
の理由を与える。実際、主要属性と実体との理性的区別に対するデカルトの言及も、物体の外
在性に関わる文脈のうちにある。「われわれは「本質」(=主要属性)によって知性のうちにそ
の対象として存在するかぎりでの事物を理解し、「実在」(=実体)によって知性の外に存在す
るというかぎりでの同じ事物を理解する」
(A ***, 1645 ou 1646?, IV, 350)。それゆえ、その外在
性を主張することなく物体観念を分析する「蜜蝋の分析」において、デカルトが直観している
のは実体ではありえない。本論考は、こうした筆者の「蜜蝋の分析」解釈に対する理論的正当
化という意味合いをもつ(拙稿、
「デカルトにおける物体認識の構造 ──「蜜蝋の分析」の検
討」、北海道大学哲学会編『哲学』第 34 号、1998 年、1∼16 頁参照)。
13
Loux, ibid., p. 237.
11
依拠することなく特定されうるのでなければならない。
あらゆる観察者にとって他の個体への依拠なしに特定可能な基準点として、「いま
ここ」
(here-and-now)を挙げることができる14。確かに、
「いまここ」はあらゆる観察
者にとって他の個体への依拠なしに特定可能な基準点である。デカルトがこうした基
準点を確保する瞬間を、われわれはコギトのうちに見出すことができる。しかし、基
準点が確保されたとしても、そこから広がる知覚風景がバークリの『視覚新論』が提
示したような色彩分布でしかないとすれば、個体を空間のうちに位置づけることはで
きない。われわれは知覚を条件づけている空間性の発見を、「蜜蝋の分析」のうちに
見出すことができる15。しかし、こうして得られた空間は、瞬間的で主観的なもので
しかない。デカルトは物体の外在性を示すことによって、物理的対象の客観化への途
を開く。
そもそもデカルトは物体の本質として延長以外には認めていなかった。これに対し
て、ロックは延長だけではなく、
「固性」
(solidity)すなわち「不可入性」をも物体の
本質として認める(E, 2, 4, 5)。実際、時空点が個体化の原理として機能しうるのは、
「一つの事物は一度に一つの場所にしか存在しえない」という空間関係の特性による。
そして、この特性は物体が不可入性をもつことを前提としなければありえない。デカ
ルトも晩年には、物理的実在が不可入性をもつことを認めることになる。「相互に不
可入な二つの部分を同時に同一の場所に考えること決してできません。空間のいかな
る部分も取り除かれていないのに、こうしたことが起こるのは矛盾を含意しているか
らです。私としては、このような実在的特性は実在的物体のうちにしか存在しえない
と考えておりますから、完全に空虚な空間なんて認められないと、延長するものはす
べて真の物体であると主張するのです」
(A Morus, 5. fev. 1649, V, 271)。
しかし、延長に加えて不可入性を認めたとして、それによって物理的対象の個体的
同一性を説明するに十分な条件が与えられたわけではない。時空点による説明に対し
ては、対象の個体的同一性が保証されえないという古典的反論がある16。実際、運動
状態にある物理的対象は、異なる時点においては異なる空間位置を占めることになる。
時空点はそれぞれの時点における対象を個体化するのに役立つとしても、その間の同
14
15
16
e.g. Quinton, ibid. p. 20.
前掲拙稿、8∼13 頁参照。
cf. G. Lewis, L'individualite selon Descartes, J. Vrin, 1950, pp. 27-8.
12
一性を何ら保証するものではありえない。
この問題を検討するに先立って、個体的同一性が保証されるべき物理的対象を、デ
カルトがどのように捉えていたのか明らかにしておくべきであろう。というのも、デ
カルトが延長に付与した無限分割可能性という特性は、物体から語源的意味での個体
性、すなわち「分割不可能」(indivisible)という意味での個体性を剥奪するからであ
る(cf. PP 2, 20, VIII-1, 51-2)
。しかし、たとえ語源的意味がそうしたものであるとし
ても、物理的世界の最小構成要素を措定し、その同一性によって物理的対象の同一性
を確保しようとすることが、われわれの言語使用に馴染むとは思われない。「物質の
何らか粒子が変化したとすれば、物体はもはや完全には同一ではない、あるいは数的
に同一ではない」
(Au P. Mesland, 9 fev. 1645, IV, 166)17。しかし、火に近づけることに
よって蜜蝋の粒子が変化したとしても、われわれは「同じ蜜蝋が残っている」と語る
のである(M2, VII, 30)。デカルトが物理的対象の個体的同一性について語るとしても、
このような厳密なものではありない。デカルトにおいて、物理的個体は「場所的運動
を共有するもの」として定義される18。
「私は「一つの物体」や「一つの物質部分」に
よって、「一緒に移動するものすべて」を理解しています。たとえこうした物体が更
に多くの部分から成っており、これらの部分がそれぞれ違った運動をしていても構い
ません」(PP2, 25, VIII-1, 53-4)19。
物理的対象をこのように定義するとすれば、運動状態にある対象の同一性が保証さ
れるためには、その対象の運動が特定されていなければならない。そして、運動を特
定するためには、その対象がもつ特性が知られていなければならない。二つの交錯す
る軌跡を見て、それを反射と見るか交錯と見るかは、その軌跡を走る個体に不可入性
を認めるか否かに存するであろう。物理的対象の特性を探求するのは、言うまでもな
く自然学である。それゆえ、物理的対象の個体的同一性は形而上学において決定され
17
ロックもまた「物質の塊」の個体的同一性を説明する際には、こうした粒子論的説明を採
用している。ただし、その際にロックは最小要素として「原子」
(atom)を想定している(E, 2,
27, 3)。
18
ロックならば、これを「一つの凝集した物体において適当な体制をもつこと」(E, 2, 27, 4)
と表現するであろう。
19
これがデカルトが物理的個体に対して与えた唯一の定義というわけではない。幾何学的延
長のみによる定義も試みられている(e.g. PP 2, 10, VIII-1, 45)。しかし、E・グロショルツによ
れば、デカルトはそうした静的定義の問題性に気づき、定義に運動を導入するに至った(E.
Grosholz, `Descartes and the Individuation of Physical Objects,' in Barber & Gracia, ibid., pp. 44-52)。
13
るのではなく、自然学に委ねられることになる。
おわりに
個体性の理論にしか注目しなかった場合、デカルトとバークリやロックとの間にさ
ほどの相違は見出せないかもしれない。しかし、そうした理論を支える存在論におけ
る相違が看過されてはならない。デカルトの実体論は、物理的対象の外在性を主張す
る点においてバークリと異なり、性質と峻別されるような基体の想定を斥ける点にお
いてロックと異なる。この二つの相違点は、バークリが抱えていた困難を回避すると
同時に、バークリのロック批判を回避することを可能にするものである。しかし、そ
れを実体論と呼ぶのは果たして適切であろうか。というのも、デカルトは延長と実体
とを同一視することによって、物理的対象を「性質の束」と見なす立場へと接近して
いるようにも見えるからである。
実際、この問いに対する答えは、何を以て実体論も見なすかに応じて変わってくる
であろう。しかし、少なくとも次のように言うことができる。延長と実体との同一視
によって、実体と性質との間にあった非対称性が失われているわけではない。なぜな
ら、物体の基本属性である延長は、その他の物理的性質の支えという意味合いをもつ
からである。「各々の実体には、その実体の本性と本質とを構成する一つの基本属性
があり、その他の属性はすべてそこに帰属せられる」
(PP1, 53, VIII-1, 25)。実際、バ
ークリが「あらゆる可感的性質は共在する、ないしは同一の場所に存在するものとし
て現れる」
(DHP 1, 194)と主張したとき、彼はこうした立場に接近していた。しかし、
彼が「場所」に対してこうした特権的性格や外在性を認めることはなかった。
本稿では、デカルトからロックを経てバークリへと至る道筋を、物理的対象の個体
性や同一性が失われていく歴史として捉えた。こうした捉え方に対しては、それらは
デカルトにおいて既にして失われているのではないか、という疑念を呈する者もいる
かもしれない。確かに、時空点を基礎として与えられる物理的対象の個体的同一性は、
自然学の理論に相対的なものでしかない。それは基体の同一性が与えるとされた個体
的同一性に比べると貧弱なものかもしれない。しかし、それは「開かれた自然学」に
とって、より相応しい個体観であるように思われる。
14
付記
本稿は日本学術振興会研究奨励金、文部省科学研究費補助金による研究成果の一部で
ある。
15
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