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梅澤信一の東京音楽学校甲種師範科卒業後の音楽活動の再評価
Bulletin of Aichi Univ. of Education, 65(Art, Health and Physical Education, Home Economics, Technology and Creative Arts),pp. 11 - 15, March, 2016 梅澤信一の東京音楽学校甲種師範科卒業後の音楽活動の再評価 ― 熊本県における校歌作曲を視点として ― 国府 華子 音楽教育講座 Kosyu-shihanka of Tokyo Academy of Music of Shinichi UMEZAWA Re-evaluation of Musical Activities after Graduation Hanako KOU Department of Music Education, Aichi University of Education, Kariya 448-8542, Japan のカリキュラムが整っていたとは言い難い状況であっ はじめに たとしても、やはり、当時の地方の音楽を支えていた 明治 12 年の設立当初より、音楽の専門家の育成を のは、師範科を卒業し地方へ行き、または、出身地に 第一としていた音楽取調掛とそれに続く東京音楽学校 戻り、音楽を広め、地元の音楽教育を担った師範科出 であったが、かなり早い段階から教員養成にも取り組 身の者たちではなかっただろうか。甲種師範科を卒業 1 んでいる 。そして、明治 33 年にそれまで師範部だっ し、地方の教員となった者の音楽活動を通して、甲種 たものが師範科となり、甲種と乙種の 2 コースが設置 師範科の卒業生が果たした役割を明らかにしていきた された。この目的は「師範科ハ師範学校中学校高等女 い。本研究では、一つの事例として昭和 11 年に東京音 学校及小学校ノ音楽教員ヲ養成スルノ目的ヲ以テ之ヲ 楽学校甲種師範科を卒業し、熊本県において長年にわ 2 置ク」 ことであった。そして甲種師範科は師範学校、 たり音楽教育に貢献してきた梅澤信一を取り上げ、そ 中学校、高等女学校の音楽教員を、乙種師範科は小学 の活動内容を見て行くことにする。一言に甲種師範科 校唱歌教員を目指す学生を育てたのである。これまで の卒業生と言っても、卒業時期による違い、地域によ に、教員養成機関としての甲種師範科については、い る違い、その人物による違いなどがあり、一括りに語 くつかの先行研究がある 3。坂本(2012)は、甲種師 ることはできないだろうが、一つの例をひも解いてい 範科が演奏教育を重視し、特にピアノ教育が大きな進 くことにより、甲種師範科の役割の一端が見えてくる 展を見せ、成果をあげたことについて述べている。ま ものと思われる。手始めに本稿では、梅澤信一のいく た、鈴木(2004)は音楽の教員になることが義務づけ つかの音楽活動の中から、熊本県下の校歌を多数作曲 られていたコースであったにもかかわらず、 「 『音楽教 したことに焦点をあて、その分析を行いたい。 授法』や教育実習が軽視されていたように思われる」 (p. 52)と、実際のカリキュラムでは教育についての 内容が充分とは言えない状況であったことに言及して 1 梅澤信一の略歴と音楽活動 いる。 梅澤信一は、 《旅愁》や《故郷の廃家》の作詞をし このように、甲種師範科がどのような教育を行って た犬童球渓の長男である 5。養子になったために、梅 きたのかについては研究が進められてきている。しか 澤の姓となっている。本人の回想によれば 6、梅澤は父 し、この甲種師範科を卒業した者たちが、その後どの である犬童球渓が音楽の先生であることを、小学校 5 ように音楽教育に貢献していったのかについては、未 年生まで知らなかったそうだ。熊本師範を卒業した時 だ明らかにされているとは言えない 4。特に、地方の に、音楽の道に進みたいと打ち明け、そこで東京音楽 師範学校の音楽教員として派遣された者たちが、その 学校の一回目の受験をしたがその一回目は失敗し、そ 地方でどのような音楽活動を行なったのかということ の後、熊本師範専攻科に入学して受験の準備を行い、 は、甲種師範科で学んだことがどのように地方に浸透 次の年に東京音楽学校甲種師範科に入学している。 していったのかという道筋を明らかにすることにも繋 甲種師範科卒業後は、福島や大阪の師範学校で教諭 がると考える。 を務め、その後故郷に帰り、熊本師範学校の教諭と 鈴木(2004)が述べているように、教員養成として なっている。 ― 11 ― 国府 華子 《略歴》 歌曲)と、既存の歌曲を合唱曲にしたり、合奏用の行 明治43年 8 月11日生 進曲にしたりといった編曲が見られる。中でも一番作 大正14年 4 月 熊本県第一師範学校入学 品が多いのが校歌である。 昭和 5 年 3 月 熊本県第一師範学校卒 校歌は、主に学校の行事で歌われる機会が多い曲で 昭和 5 年 3 月 熊本市立健軍尋常高等小学校訓導 ある。音楽の授業では全く扱われない場合もあるかも 昭和 7 年 4 月 熊本県第一師範学校専攻科入学 しれない。しかし、小学校では 6 年間、中学校や高等 昭和 8 年 3 月 熊本県第一師範学校専攻科 終了 学校では3年間うたわれる校歌は、子どもたちにとっ 昭和 8 年 4 月 東京音楽学校甲種師範科入学 て心に残る歌となるはずである。この校歌について宮 昭和11年 3 月 東京音楽学校甲種師範科卒 島(2012)は、 「在学中は『うたわされる歌』卒業後は 昭和11年 3 月〜 福島県師範学校 教諭 『うたってみたくなる歌』が校歌の役割」 (p. 108)で 昭和12年 3 月〜 福島県女子師範学校 教諭 あると述べている。このような存在である校歌を、し 昭和14年 3 月〜 大阪府天王寺師範学校教諭 教諭 かも熊本県下の校歌を数多く手がけているということ 昭和20年 6 月〜 第二高等女学校 教諭 は、それだけの依頼があったということでもあり、地 昭和21年 3 月〜 熊本師範学校 教諭 域の人々に求められていたと考えられる。 昭和25年 4 月〜 熊本大学教授 助教授 昭和43年11月〜 熊本大学 教授 2 梅澤信一が作曲した校歌について 昭和47年 熊本大学附属中学校校長 昭和51年 熊本大学退官 今回取り扱った校歌は、梅澤家に保管されていた 昭和51年 4 月〜 九州女学院短期大学教授 『校歌Ⅰ』『校歌Ⅱ』の楽譜の中に収められている、手 昭和61年10月 九州女学院短期大学退官 書きの楽譜と、 『校歌』と書かれたスクラップブックに 平成13年 6 月25日没 貼られていた楽譜である。『校歌Ⅰ』の表紙には「玉名 郡・鹿本郡・熊本市・飽託郡・菊池郡・阿蘇郡」、『校 熊本での音楽活動は多岐にわたっている。熊本師範 歌Ⅱ』の表紙には「宇土郡・葦北郡・上下益城郡・八 学校・熊本大学での音楽教育はもちろんだが、 「日本教 代郡・球ナ郡(ママ) ・天草郡」と記されており、地 育音楽協会熊本県支部長」 「熊本県中学校音楽教育研究 会会長」 「熊本県音楽教育研究会会長(昭 47〜49 年) 」 域ごとにまとめて清書したものと見られる。『校歌Ⅰ』 『校歌Ⅱ』に清書されている校歌はすべてに伴奏がつけ 「第 13 回九州音楽教育研究大会 熊本大会委員長(幼小 られているが、スクラップブックに収められている校 中高校参加) (昭 47 年) 」などを務めており、大学内だ 歌の中には、伴奏がないものもある。また、スクラッ けでなく熊本全体の音楽教育をまとめる立場にあった プブックにある校歌の中には、『校歌Ⅰ』『校歌Ⅱ』と と言えるだろう。この他、 「マミーコール設立」 「熊本 重なって保管されているものも多く見られた。収めら 県合唱連盟会長」 「第九を歌う会設立」 など、合唱にか れている校歌はすべて熊本県下の学校のものであり、 かわる活動にも積極的にかかわっていた。また、 「犬童 150 曲に及ぶ。内訳は以下の通りである。 球渓顕彰音楽祭」を始めとする、熊本で行われる様々 な音楽コンクールの審査員も務めている。 表 1 校歌の内訳 そして、本稿でとりあげる作曲がこの活動に加わ 小学校 63 小・中 1 人が語っている。下総皖一は、梅澤が甲種師範科に在 中学校 67 学中であった昭和 9 年 9 月に留学先から帰国し、その 高等学校 16 まま東京音楽学校教務嘱託となっており 、梅澤が在学 養護学校 1 していた時期と重なっている。当時の甲種師範科のカ 学院 1 リキュラムを見ると、 「修身」 「唱歌」 「器楽」 「音楽通 専門学校 る。作曲については、生前「下総皖一に習った」と本 7 計 論」「和声学」「音楽史」 「教育学」 「音楽教授法」 「國 1 150 語」「英語」「体操及遊戯」という科目が並んでいる 8。 作曲という科目はないので、 「和声学」の中で学んだも すべての校歌の作曲年がわかっているわけではない のと推測される。 が、楽譜の横に記されているメモを見ると、昭和 24 年 梅澤の作曲活動は、自身の創作意欲ということだけ から昭和62年の間に作曲されていることがわかる。こ でなく、昭和 23 年に県民体育祭行進曲の懸賞募集(県 れらの校歌を、調性、最高音と最低音、拍子という視 教育庁、県体育会、熊日選定)で一位入選したことに 点から分析を行う。 より、作曲依頼が増えたことによるものであった。そ の内容は、オリジナル曲の作曲(校歌、市歌、小唄、 ― 12 ― 梅澤信一の東京音楽学校甲種師範科卒業後の音楽活動の再評価 3-3 拍子 3 校歌の分析 拍子については、曲中に何度も拍子が変わる曲が 3-1 調性 非常に多く、一つの特徴となっている。一つの曲の 調性はすべて長調であり、圧倒的にト長調が多く なっている。この中で調号が多い、変ホ長調とイ長調 中で 6 回変わるというのが、一番多い変化である。 「4/4 → 2/4 → 4/4 → 2/4 → 4/4 → 2/4 → 4/4」 の よ う は、小学校の校歌には使用されていないところを見る に、4/4 と 2/4 を行ったり来たりしているものから、 と、小学校の子どもたちが歌うことを考え、なるべく 「4/4 → 2/4 → 3/4 → 4/4 → 2/4 → 3/4 → 4/4」のように、 調号が少ない調性を選択したと考えることもできる。 3 つの拍子が入り交じっているものまである。楽譜を 見る限り、非常に歌いにくいのではないかとも思える ような拍子の変化である。 表 2 校歌の調性 調性 拍子が変化するパターンの上位をあげると、表 4 の 曲数 ト長調 72 ヘ長調 28 ハ長調 25 変ロ長調 13 変ホ長調 6 ニ長調 5 イ長調 1 ようになる。 表 4 校歌の拍子 拍子 曲数 4/4 → 2/4 → 4/4 48 曲 4/4 36 曲 2/4 → 4/4 → 2/4 → 4/4 14 曲 2/4 → 4/4 7曲 3-2 メロディーの最高音と最低音 4/4 → 2/4 → 4/4 → 2/4 → 4/4 7曲 最高音と最低音はそのまま、歌の音域である。歌の 2/4 → 4/4 → 2/4 6曲 音域としてみると、最低音が「イ」や「ト」まで出て きており、非常に低いという印象を受ける。 曲中で拍子の変化がないものは、4/4 のみであった。 そして、その 4/4 よりも、 「4/4 → 2/4 → 4/4」の方が多 いのである。どのような効果をねらった拍子の変化な 表 3 校歌の最高音と最低音 最高音 曲数 最低音 のか、 「4/4 → 2/4 → 4/4」の曲を中心に見てみることに 曲数 二点ニ 82 ロ 56 する。 二点ホ 58 一点ハ 43 この拍子の入れかわりは、中間の 2/4 の部分の小節 二点変ホ 5 一点二 18 数によって大きく2つに分けることができると考える。 二点ハ 4 変ロ 17 1 つ目は、2/4 の部分が 4 小節、8 小節といった、所謂 二点嬰ハ 1 イ 15 基本的なフレーズのまとまりの小節数のものである。 ト 1 これらは、最初の 4/4 の箇所が四分音符や付点四分音 符などが中心となった、のびやかな感じがするメロ また、この最高音は曲の構成として見ると、その曲 ディーとなっている(楽譜 1、1〜8 小節) 。4 小節プラ の山場をとして見ることもできる。梅澤の師であった 下総(1948)は、自身の『作曲法入門』の中で、旋律 楽譜 1 川口小学校校歌 の頂点について 「旋律のうち一番高い音を頂点とする。 その頂点に達するためには大抵下の低いところからの ぼつて行くのである」 (p. 143) と述べている。また、頂 点の位置については、ゆるやかに上っていき、下りは 早くというように、真ん中ではなく後ろの方に頂点を もっていくのが自然な形であるとも述べている(1935、 p. 74) 。 この教えによるものかどうかはわからないが、ほと んどの曲で最高音が登場するのは、曲の最後の方、つ まり歌詞としても母校の名前が出てくるなど、一番強 調したい場面となっている。そして、最低音が登場す るのは、曲の最初の方がほとんどである。下の音域か ら始まり、最後の山場に向かっていくという形ができ ているように思われる。 (『校歌Ⅰ』より旋律のみ転載) ― 13 ― 国府 華子 ス 4 小節のフレーズでできているものが多く、フレー の歌詞を高らかに歌うために、言葉のリズム感を大切 ズとしてもまとまっているように感じられる。 にするために挟み込んだ 2/4 ではなかっただろうか。 そして、中間部となる 2/4 になると、付点 8 分音符 菊鹿中央小学校校歌のように、頻繁に拍子が入れか や 8 分音符中心の元気なリズムへと変化する(楽譜 1、 わる曲になると、 「4/4 → 2/4 → 4/4」の拍子で見てき 9〜16 小節) 。テンポそのものは変わらないのだが、拍 た 2 つの特徴が両方とも見られる(楽譜 3) 。始まりの 子が変わり、リズムが変わったことにより、勢いのあ 4/4(1〜8 小節)は 4 小節ずつのフレーズとなっており、 る感じに捉えられるかもしれない。 四分音符中心の、のびやかなメロディーである。そし 再び 4/4 に戻ったところからは曲の終わりの部分と て 2/4 になると、付点八分音符と 16 分音符主体の弾む なり、前述したように、曲の山場となって締めくくら リズムとなる(9〜15 小節)。そして 2 小節だけ 4/4 に れている。このような変化は、 「2/4 → 4/4 → 2/4」のよ 戻り、次は 1 小節ずつ 2/4 → 3/4 と慌ただしく変わり、 うな拍子の曲でも見られる。これらの拍子の移り変わ 最後は4/4で終わる。メロディーのみを追っていくと、 りは、曲調の変化をより強調させるためのものであっ 非常にわかりにくい拍子である。しかし、これも歌詞 たと考えられる。小節の割り振りとしては、2/4 の部 の言葉のリズムから考えたのだと見れば、不自然さが 分は、そのまま 4/4 であっても成り立つ。しかし、そ なくなる。最後の歌詞「菊鹿中央あふるる光」の箇所 れが4/4なのか2/4なのかで、感じる音楽の流れの勢い は、ここに 1 小節だけ 2/4 の小節を入れ、付点 8 分音符 は異なるのである。作曲者は、このような拍子とリズ と 16 分音符のリズム主体にすることで、軽やかな前向 ムが持つ特徴を活かして作曲したと考えられる。 きの流れを表すことができているように思われる。 2 つ目は、中間部の 2/4 の部分が 1 小節、3 小節、6 小 梅澤がどのような思いで校歌を作曲していたのかに 節のように中途半端な小節数のものである。これらの ついて、高平台小学校校歌について書いているものが 曲の中にも、1 つ目の特徴と同じく、4/4 は少しのびや ある。 かな感じで始まり、2/4 になると 8 分音符主体の元気 な感じになる、という曲調の変化を持っている曲もあ 作曲にあたりましては歌詞の気持を味わい、そして る。しかし、拍子の変化が曲調の変化に影響を与えて 元気いっぱいの高平台小学校の皆さんのようすを思い いないと見られる曲も多い。つまり、全体を通して曲 うかべながら作りましたので、でき上がりました曲は 調が変わらないのである。また、拍子が変わるまでの 全体として活発な感じのものになりました。歌詞も少 4/4 のフレーズも、4 小節という形をとっていない曲が し長いし、曲も自然に長いものになりましたので覚え 多い。 にくい所もあるかと思います。よく練習して機会ある 例えば桜木小学校校歌は、13 小節という曲の短さ 毎に歌っていただきたいものと思います。テンポもお もあるかもしれないが、曲調は途中で変わることはな そくならないよう元気よく歌ってください。今年入学 い。4/4の部分は、付点8分音符と16分音符によるリズ する人たちにもそしてその次に入学される方々にもい ムが主体となる、弾む感じの曲想となっている(楽譜 つまでも歌い継がれるようお願いします 9。 2)。そして最後の「豊かな学園」という歌詞のところ で、1 小節のみ 2/4 となっている。明らかにここでは、 この文章からは、歌詞を大切にしていたこと、子ど 曲調を変えるという意図はないものと思われる。最後 楽譜 3 菊鹿中央小学校校歌 楽譜 2 桜木小学校校歌 (『校歌Ⅰ』より旋律のみ転載) ― 14 ― (『校歌Ⅰ』より旋律のみ転載) 梅澤信一の東京音楽学校甲種師範科卒業後の音楽活動の再評価 もたちに合った元気な曲を書こうとしていたことが読 師範学校における音楽教育実践に関する史的研究」博士論文 (兵庫教育大学大学院)。財団法人芸術研究振興財団 東京芸 み取れる。 術大学百年史編集委員会編(2003)『東京芸術大学百年史東 京音楽学校篇第二巻』音楽之友社。 まとめ 4 坂本(2000)が明治時代の東京音楽学校の卒業生が、全国の 師範学校の音楽教員としてどのように配置されたについて 甲種師範科を卒業し、故郷に音楽の教員として赴任 論述している。これにより、どのように東京音楽学校の西洋 音楽が全国へ広まったのかが明らかとなっている。しかし、 した梅澤信一は、多数の校歌を作曲するという活動を ここでは実際の音楽活動にまでは触れられていない。 通して、師範学校・大学での音楽教育だけでなく、作 5 筆者は梅澤信一の孫にあたる。本文中の生前の言葉等は、筆 曲という領域においても地域に大きな貢献をしたと言 者が聞いたものである。 えるだろう。 6 勇知之のインタビューの中で語っている。 『熊本文化』第216 校歌の一番の特徴とも言える頻繁に入れ替わる拍子 号 平成 4 年 7 月 1 日 pp. 6-7。 は、曲調の変化をより効果的にするためと、歌詞の言 7 下総皖一は別名であり、本名は下総覚三である。略歴は、 『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第二巻』 (財団法人芸術 葉のリズムを大切にし、言葉が自然に聞こえるメロ 研究振興財団 東京芸術大学百年史編集委員会編、2003 年、 ディーとリズムを与えるためという目的があったと考 音楽之友社)の 1346-1347 頁に掲載されている。また、専門 えられる。楽譜としては、その拍子の変化のために、非 と担当は、 「音楽理論、和声学、作曲、教授法、音声研究部、 常に読譜が難しいと思われる曲もあるが、おそらく、 楽語調査掛」(p. 1561)であった。 校歌で子どもに楽譜を読む、読譜させるという意識は 8 『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第二巻』(前掲書)の なかったのであろう。実は、筆者の卒業した小学校の 73-74頁に師範科のカリキュラム表が掲載されている。昭和 4 年度のものであるが、昭和 11 年度までの間に大きな改正は 校歌も梅澤が作曲したものである。歌詞を活かすため 見られない。「和声学」は 2-3 年で学ぶ授業となっている。 に拍子の変化を活用したと思われる校歌であったのだ 9 高平台小学校の校歌の楽譜と、作詞者、作曲者のコメントが が、在学中はそんなことは知らないまま歌っていた記 書かれたパンフレットのようなものが、梅澤家に保管され 憶がある。これらの校歌が子どもたちにどのように歌 ている。表紙には「校歌」と書かれてある。 われ、受け止められているのかも今後明らかにしてい きたい。 今回取り上げた校歌の作曲は、梅澤の音楽活動の一 端でしかない。これらの校歌についても、その後、合 唱曲や合奏曲に編曲されているものもある。今後は、 他の作曲や編曲の活動も明らかにしていくとともに、 師範学校・大学での音楽教育や地域に根ざした合唱指 導の活動も取り上げていきたい。 引用文献 坂本麻実子(2000)「明治時代の師範学校への音楽教員の配置」 『富山大学教育学部紀要』54 号、pp. 49-61。 坂本麻実子(2006)『明治中等音楽教員の研究―『田舎教師』と その時代―』風間書房。 坂本麻実子(2012)「東京音楽学校甲種師範科のピアノ教育とそ の成果―生徒が出演した演奏会から―」 『桐朋学園大学研究 (本論文は、平成 26 年度の「日本音楽教育学会東海 地区例会」において口頭発表したもの基に、まとめな おしたものである。 ) 紀要』38 号、pp. 75-87。 下総皖一(1935)『作曲法』昭和 10 年、共益商社書店。 下総皖一(1948)『作曲法入門』昭和 23 年、好楽社。 鈴木慎一郎(2004)「東京音楽学校甲種師範科の実態 ―長坂幸 子氏からの聞き取りを通して―」『関西楽理研究』第 21 巻、 pp. 43-56。 注 宮島幸子(2012)「音楽アイデンティティを考える」『京都文京 1 坂本(2006)によれば、近代日本の中等教育の教員養成は高 短期大学研究紀要』51 号、pp. 101-108。 等師範学校・女子校等師範学校で行われたが、音楽の教員養 成に鍵値、東京音楽学校(現東京芸術大学)の「甲種師範 科」で行われた。教員養成機関としての東京音楽学校の変遷 については、中山裕一郎(1976)「わが国における音楽教員 養成の歴史」『季刊音楽教育研究』音楽之友社、春号、第 19 巻第 2 号、pp. 78-87 と佐野靖(1988)「東京音楽学校と教員 養成―その教育内容と変遷をめぐって―」『季刊音楽教育研 究』音楽之友社、春号、第 31 巻第 2 号、pp. 24-40 に詳しい。 楽譜資料(梅澤家保管の手書きの楽譜) 『校歌Ⅰ』「玉名郡・鹿本郡・熊本市・飽託郡・菊池郡・阿蘇郡」 『校歌Ⅱ』「宇土郡・葦北郡・上下益城郡・八代郡・球ナ郡(マ マ)・天草郡」 『校歌』スクラップブック 2『東京音楽学校一覧 自明治三十三年至明治三十四年』三九 頁。 3 山住正巳(1967)『唱歌教育成立過程の研究』東京大学出版 会。田甫桂三編(1980)『近代日本音楽教育史 1』学文社。坂 本麻実子(2006)『明治中等音楽教員の研究―『田舎教師』 とその時代―』風間書房。鈴木慎一郎(2006)「昭和前期の ― 15 ― (2015 年 9 月 24 日受理)