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第29回 修道院の発展
福音学校 第Ⅲ期 教会の歴史ー5 第29回 修道院の発展 芦田 道夫 1.概説 修 道 院 ( Monastery) と は 、 修 道 誓 願 を お こ な っ た 修 道 士 が イ エ ス ・ キ リ ス ト の 精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設です。 修道士(ブラザー)は一般的には男性を指し、女性の場合は修道女(シスター) と呼んでいます。また聖公会では「修士」と呼ばれます。 ヌ ル シ ア ( イ タ リ ア 半 島 中 央 部 ) の ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス が 、「 す べ て 労 働 は 祈 り につながる」と言ったように中世以来の修道院では自給自足の生活を行い、農業 か ら 印 刷 、医 療 、大 工 仕 事 ま で す べ て 修 道 会 の 一 員 が 手 分 け し て 行 っ て い ま し た 。 そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれてきたのです。ヨーロッパに古くか らある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよくみられるのはそのためで、 ヨーロッパのビール、ワインは今でも修道院で醸造されているものも多くありま す。また、医療、病院もそのルーツは修道院にあり、旅人を宿泊させる巡礼者を 歓 待 す る 修 道 院 、 巡 礼 教 会 を 意 味 す る ホ ス ピ ス ( hospice) が 、 が ん で 余 命 い く ば くもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したので す 。 さ ら に 歓 待 す る ( hospitality) は 、 病 院 ( hospital) の 語 源 で も あ り ま す 。 世 界 的 に 有 名 な 修 道 院 と し て は 、 カ ト リ ッ ク 教 会 の モ ン テ ・ カ ッ シ ー ノ (ベ ネ デ ィ ク ト 会 )、 東 方 正 教 会 の ア ト ス 山 、 メ テ オ ラ な ど が あ り 、 日 本 で は カ ト リ ッ ク教会のトラピスト修道院が大分や函館にあります。 修道士を表す英語の「MONK」はギリシャ語のMONAKOS、つまり「一 人」とか「孤独」を語源にしています。漢字の意味する「道を修める」=修行と は少しニュアンスが異なります。 2.なぜ修道院が発生したのか (1)時代背景 長く続いた迫害時代の後、313年のミラノの勅令によってもたらされたキリ スト教会の平和と繁栄の時代は、かならずしもすべてのキリスト者に歓迎された わけではありません。カイザリアのエウセビオス(有名な「教会史」の著者)の ような人には、キリスト教の勝利でありまるで神の国の到来であるかのように受 けとめられましたが、別の人たちにはキリスト教の堕落、嘆くべき信仰の退廃と 思われました。教会に殺到した人たちの中には洗礼の意味や十字架の下での生活 について深く求めることもなく、特権や地位を獲得するためにキリスト教徒にな ろうとする者まであったからです。キリスト教的生活が、いつ棄教か殉教死かを 迫られるかわからない迫害時代を危機感をもって生きてきた人たちにとって、司 教たちさえもが栄誉ある地位に就こうとして競い合い、金持ちや権力者が教会を 支配する事態は嘆かわしく思われました。 そのため安全で快適で、平和が保証された時代が来たとき、その反動として、 どのようにすればこのような環境の中で、真のキリスト者であり続けることがで きるのかと真剣に考える人々が出てきたのです。教会が人であふれ、世の権力と -1- 手を結び、教会が裏通りの場末から町の中心、大通りに立派な大会堂を構えるよ うになったとき、それをサタンの罠と考えたのです。 その多くの人たちは、人であふれる都市の教会を離れ、一人孤独にさまざまな 誘惑と闘い、神に近づこうと砂漠や荒れ野での隠遁生活に向かったのです。 (2)修道院の起原 いろいろな説はあるのですが、はっきりと最初の修道士がだれであったのかを 決めることはできません。古来最初の修道士としてパウロスやアントニオスの名 が揚げられてきましたが、今日ではそれらの人々によって初期の典型的な修道生 活を知ることができるという意味で重要性が与えられています。 今日では修道生活というものが、誰かが始めてそれが拡大していったというよ り、むしろ上で記したような状況の中で、エジプトやシリア、さらに小アジアの 地域で自然発生的にはじまったと考えられるようになりました。 そ の 中 で も ア タ ナ シ オ ス ( 295-373) の 「 ア ン ト ニ オ ス 伝 」 は 初 期 の 修 道 士 の 姿 を伝える貴重なもので、それは今日邦訳で読むこともできます。 「中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父」767頁以下 平凡社 「キリスト教神秘思想史1 教父と東方の霊性」222頁以下 平凡社 ここには翻訳ではなく詳細な解説がなされています 「キリスト教史 上」153頁以下 フスト・ゴンサレツ 新教出版 ここも翻訳ではなく詳細な解説 アントニオス(251年頃~356年)はコプト人(古代エジプト人)で、エ ジ プ ト の 裕 福 な 農 家 で し た が 、福 音 書 に し た が っ て 財 産 を 貧 し い 人 々 に 分 け 与 え 、 他の修業者たちから教えを受けながら、やがて一人砂漠でサタンの誘惑と闘う修 道士となり20年を過ごしました。多くの人がアントニオスに教えを請おうとし て や っ て き て 、「 砂 漠 の 師 父 」 と し て 崇 敬 さ れ ま し た が 、 ア ン ト ニ オ ス は 修 道 者 たちを組織化せず、どれだけ多くの人が集まろうとそれは孤独な隠修者の生活と し て ま も り ま し た 。( 独 住 修 道 制 ) しかし、後の西方教会における修道院制度に大きな影響を与えることとなった のがパコミオス(290年~346年)の共住的修道制でした。パコミオスは、 エジプト南端の地に生まれ、兵役に就いていた時、キリスト者の愛の行為に感動 して、退役後の307年頃に受洗し、隠修士パラモンのもとで学びました。 320年頃から、ナイル川右岸のテバイのデンデラに近いタベンネシで共住制 の修道生活を始めました。そこでは、修道院に入るにあたって財産を放棄し、貞 節を遵守する、長上に対して絶対的服従をするなどを約束し、手仕事によってそ れぞれの家に住み、朝昼晩、就寝前、深夜にそれぞれの家で共同の祈り、聖体拝 領 の た め に は 村 の 教 会 に 通 う と い う 生 活 が 行 わ れ ま し た 。コ プ ト 語 で 書 か れ た『 修 道規定』が残されましたが、これがギリシア語・ラテン語に訳されて東西の修道 院制の発展と、その後の修道規定に大きな影響を与えました。340年頃にはパ コミオスの妹によって女子修道院が開かれました。 後に西方教会ではパコミオスのはじめた共住修道制へと完全に移行しました が、東方教会ではアントニオスの孤独な隠修者の生活を基本に置く修道院とパコ ミオスの共住修道院が並行して存続することになりました。私たちの知っている 修道院の多くはローマ・カトリック教会、すなわち西方教会のパコミオスの修道 制を源流とするものです。 -2- (3)もう一つの修道制 アントニオスの独住修道制でもパコミオスの共住修道制でもない、もう一つの 修道制がやはり4世紀後半にカッパドキア(トルコ南東部)で発展します。それ は形の上では完全な共住修道院なのですが、その思想的基盤がパコミオスの共住 修 道 制 と 異 な る か ら で す 。こ の 修 道 制 を 発 展 さ せ た の は 正 統 信 仰( 三 位 一 体 信 仰 ) の確立に大きな役割をはたしたカッパドキアの三星と呼ばれる大バシレイオス、 ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス(バシレイオスの弟)の 三 人 で す 。 特 に バ シ レ イ オ ス は 「 修 道 士 大 規 定 」「 修 道 士 小 規 定 」 を あ ら わ し て 実際的な基礎を築きました。 バシレイオスにおいては、真のキリスト教的霊性は共同体の中での訓練によっ て培われるとし、教会への統合(教会からの脱出によってではなく)と共に、社 会的事業に踏み出すのです。そのため身を寄せてくるあらゆる客人を快く迎える バシレイオスの修道院では孤児院や学校をもつようになります。修道士達は社会 のさまざまな分野で中心的役割を担うようになり、厳しい規則の下に共住しなが らもあくまで個人の霊性の問題を中心にしたパコミオスの修道制とは、本質的に 対極的な姿を示しています。 しかしバシレイオスの目指した修道制は、東方では受け継がれずに西方教会の 修道院で花開くことになります。 3.西方教会の修道院の発展と改革 (1)ベネディクトゥス(480年頃~548年)の修道院制度 上で見たように西方教会では、自己否定のために肉体を痛めつける個人的な修 道ではなく、バシレイオスが目指した社会的、宣教的な目的を持つ実践的な修道 院へと発展していきましたが、その発展の中心的役割を果たしたのが、ヌルシア のベネディクトゥスです。ベネディクトゥスはイタリア半島中部の小さな町ヌル シアで生まれますが、ローマで教育を受け、成人すると隠修者となるため洞窟生 活を始めます。次第に名声が広がり多くの追従者が集まったためローマの南方1 30キロほどのモンテ・カッシーノ(カッシーノ山)に修道院を建てました。ま もなく妹がスコラスティカが近くに女子修道院を創設。以後モンテ・カッシーノ 修道院は「労働と祈り」を旨とする西方教会の修道院の中心となります。 特にベネディクトゥスがモンテ・カッシーノ修道院のために作った「会則」は 以 後 の 修 道 院 規 則 の 原 型 と な り ま し た 。(「 中 世 思 想 原 典 集 成 5 」 2 4 0 頁 以 下 ) ベネディクトゥスの「会則」の特徴 ①最初に入った修道院にとどまること(定住) ②修道院長、長上への心からの服従 ③厳格且つ過酷でない生活の保障・・・一日2回の食事(2皿)と寝具 ④更正のための戒規 ⑤全員肉体労働従事と労働の公平 ⑥規則的な祈り・・・朝課、賛課、一時課、三時課、六時課、九時課、終課 これらの聖務日課(時祷)では詩篇の朗唱と聖書の朗読がなされる ベネディクトゥス自身は特に学問を奨励したわけではありませんが、聖務日課 をより深く守るために、聖書や有益な書物の書写は修道士の重要なつとめとなり ました。それは必然的に修道院を教育、学問の中心へと成長させることとなった -3- のです。修道士たちによって子供の教育が行われ、その中から修道士になる者も 起こされていきました。またさまざまな知識の蓄積と開発は、修道院の病院とし ての働きや、農地の開拓、農業技術の改良、道路や橋の建設など社会の指導的役 割を果たしていくようになりました。 (2)クリューニーの修道院改革 すべての体制がその成長発展が止まったときに退廃が始まるように、ベネディ クトゥスの「会則」によって基礎づけられ、発展してきた修道院も例外ではあり ませんでした。教皇の座をめぐる貴族や高位聖職者の争いだけでなく、地方の主 教座や修道院長の地位も勢力拡大や金銭売買の道具となっていきました。 修道院では修道士たちのすぐれた知識と能力によって、あるいは所有する農地 によって豊かな収入を得ていました。篤信な信徒からの寄進も増加をつづけ、修 道院からの収入を期待できる高位聖職者たちの贅沢はもちろん、修道士たちも修 道院が豊かになると、ベネディクトゥスが求めた「会則」も無視されるようにな っていきました。 ところでクリュニー修道院は909年にアキテーヌ公ギヨーム3世によって、 フランス・ブルゴーニュ地方クリュニーに創設されたベネディクト会の小さな修 道院でした。クリュニー修道院は聖ペテロと聖パウロに献げられたため、堕落し た教皇や高位聖職者の餌食になることから救われ、修道院改革に熱心であった修 道士ベルノを院長に迎えて、純粋にベネディクトゥスの「会則」に従おうとした のです。クリュニー修道院では以後約200年あまりにわたって高い理想と優れ た院長に指導され、改革はフランスのみにとどまらず西方教会全体に大きな影響 をおよぼしていきました。最盛期の10世紀から12世紀中期には管轄下の修道 院が1200、修道士2万人をかぞえました。 しかしクリュニー修道院改革では修道士たちはほとんど全ての時間を聖務のた めに使い、ベネディクトゥスにとって重要な役割を与えられた労働は軽視され、 壮麗な典礼儀式がおこなわれるようになりました。修道士たちの聖なる生活に憧 れた多くの人々が土地や財産を修道院に献げたため、クリュニー修道院には莫大 な富が蓄えられ、礼拝堂は金や宝石で飾られ、もはや修道士たちは労働によって 自給する必要はなくなったからです。そうしてベネディクトゥスが理想とした単 純な生活はクリュニーから失われたのです。 (3)シトー修道会 このようなクリュニー修道院の在り方に対して、厳格な禁欲主義を掲げた改革 運動が内部から起こります。1098年クリュニーの修道士ロベルトゥス(ロベ ール)がフランス・ブルゴーニュ地方シトーに新しい修道院を設立し、初期のク リュニーの理想を実現しようとしました。この改革運動の偉大な指導者となった のが、シトー会クレルヴォー修道院の院長となったベルナルドゥスです。彼はそ の卓越した説教と神学者としての学識、その名声によってシトー会を中心とした 修道院改革の中心となりました。 余談ながら、フランスではフランス革命によって修道院が強制的に解散、破壊 され修道士たちは海外に亡命するなど散り散りになりましたが、19世紀後半フ ランスに戻って修道院を再建する人たちが出てきました。シトー会修道士たちの う ち で よ り 厳 格 に 戒 律 (「 会 則 」) を 守 ろ う と す る 人 た ち が パ リ 西 方 の ト ラ ッ プ -4- に修道院を設立し、1896年正式に「厳律シトー修道会」として世界に広がっ ていきました。 この厳律シトー修道会に属する修道士はトラップ修道院に因ん で「トラピスト」と呼ぶようになったのです。現在日本で最もよく知られている 修道院と言えば、函館のトラピスト修道院でしょうが、正式名称は厳律シトー会 「灯台の聖母トラピスト大修道院」と言います。 シトー会には厳律運動に加わらなかった「寛律シトー会」もあります。 4.修道院の果たした役割と問題点 これまで見てきたように一口に修道院と言っても、さまざまな歴史的変遷と考 え方の違いがあります。しかし共通して修道士の目指したものは「使徒に倣う」 ということでした。あるものは「使徒に倣う」ということを自分自身の霊性にお いて見ようとし、またある者は他者との関係において、あるいは社会への奉仕に おいて見ようとしたのです。 そしてまた修道院も、絶えず内的な改革なしに「使徒に倣う」ということがで きなかったことに目を向けて、私たち自身にも当てはめて考えてみなければなら ないと思われます。 4世紀にはじまる修道院がキリスト教と世界に対して果たした役割のいくつかを 掲げてみましょう。 ①使徒的霊性とは何かを実践を通じて問い続けた。 ②社会的動乱の中で、キリスト教信仰と文化を守る砦となった。 ③聖書の書写はじめ貴重な文書、学問を伝承した。 ④修道士はカトリックの福音宣教の先頭に立ってきた。 ⑤農業技術、開拓、土木建築技術、その他科学技術の発展に貢献した。 ⑥教育、医療、社会福祉事業に大きな貢献を果たしてきた。 ⑦ 女 性 や 孤 児 、旅 人 な ど の 社 会 的 弱 者 に 対 す る 教 育 や 生 活 保 障 に 貢 献 し て き た 。 この逆にその歴史の中での修道院制度の問題を揚げてみると、 ①この世とは異なる基準で生きる(独身制など)別の社会を形成した。 ②優れた人々が修道院を目指したため、この世は優れた指導者を失った。 ③しかも独身制をとったため、社会全体としては劣勢となった。 ④閉じられた修道院社会は苦行そのものを自己目的化するようになった。 ⑤社会の富が修道院を経由して教皇に集中した。 ⑥ 修 道 の 手 段 で あ っ た 長 上 へ の 絶 対 服 従 は 、極 端 な 中 央 集 権 社 会 を も た ら し た 。 ⑦救いを心の信仰よりも、業によるものへと向けることとなった。 ※その他の修道会 ド ミ ニ コ 会 = 1206年 ドミニクス が 創 設 。 トマス・アクィナス 、 シ エ ナ の カ タ リ ナ フ ラ ン シ ス コ 会 = 1210年 ア ッ シ ジ の フランチェスコ の 創 設 、 ボナヴェントゥラ 、 ドゥンス・スコトゥス 、 オッカムのウィリアム イ エ ズ ス 会 = 1534年 イグナチオ・デ・ロヨラ ら が 創 設 。 フランシスコ・ザビエル 【課題】なぜプロテスタントは修道院制を廃したと思いますか。 次 回 7月8日 第2日曜日 -5- 「カトリックの信仰」