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生命倫理と宗教
生命倫理と宗教 一一ー「バイオエシックス j の限界一一一 蔵田伸雄 1 .I 生命倫理における宗教の機能」を考える上での国難 開えば「バイオエシックス構築における宗教の機能j といった課題に答えることは 容易なことではない。たとえこの課題を「生命倫理における宗教の機能」と言い換え たとしても,それでもまだ以下のような問題が残る。まず「生命倫理j としづ語の意 味や,その指示する範囲は必ずしも明確ではない。それはある種の学際的な学聞を指 す諾として理解することもできるし,生命や毘療に隠するある種の「規範j を意味す る語として理解することもできる。また後に述べるように,英語留の議論で もi o e t h i c s’とし、う諾が用いられる場合には, 日本語の f 生命倫理j とし、う諾には必ず しも伴われてはいない,ある特定のニュアンスとともに用いられることが多し、 O B i o ε t h i c sとしづ諾には合理的で,哲学的,形式的,抽象的で,「世俗的( s e c u l a r )J つまり「非宗教的j な「生命倫理Jというニュアンスがある。また後に述べるように, f バイオエシシスト」とも呼ばれる人々には,「バイオエシックス」のこのような性 格に由来する,ある種の特殊なメンタリティが共有されている。それに対して日本語 生命倫理Jとしづ諾はもっと広い意味で用いられている。 の f また「生命倫理における宗教の機能」について考える際には,「宗教」の多様性も 無視することはできない。宗教の形態は多様であるため,その機能を普遍的な形でと りだそうとすることにはかなり無理がある。実際キリスト教,仏教,イスラム,ユダ こ共通する ヤ教,ヒンズー教,儒教,神道,そして捺々な「新宗教」や「新々宗教j t 要素を探すことはひどく菌難であるし,そもそもこれらをすべて同じ「宗教Jの名で 語ること自体が無理である 1)。ましてや,宗教一殺と,生命倫理との関わりについて 1 ) 宇都宮輝夫「スピリチュアル・ケアと宗教一宗教学の立場ーから− Jf 緩和医療学j / 4 8 容1 教大学総合研究所紀~J.11H11r 現代医療の諸問題 何らかの主張を述べることは決して容易なことではない。 勿論,~命倫理に関する諸問題について,あるいは終末期医療の現場で諸宗教が果 たしている機詫について,ある種の社会学的研究を行うことは可能で、ある。例えばホ スピスにおいてキリスト教の信仰が終末期の患者に対してどのような影響を与えてい るのか,あるいは「仏教ホスピス」でのスピリチュアルケアに涼して,仏教僧がどの ような「仏教的な j ケアを行っているのかを社会学的に,あるいは人類学的に記述す ることは可能である。あるいは宗教社会学的な観点から,韓留におけるホスピスの普 及に際してキリスト教が果たした役割について記述することも可能であろう。またこ ういった研究の成果をある程度一般的な形で述べることによって,「ホスピスにおい て仏教の来たしうる役割」などについて,何らかの積極的な主張をすることも可能で はあるだろう。 また「生命倫理j に関する陪題の一つをとりあげて,その問題に対する各宗教の意 見の分析を試みることもできる。剣えば人工妊娠中絶,体外受精,安楽死・尊厳死に 関する様々な議論に際して, f プロテスタント Jや「カトリック jがどのような主張 をしたのかを説明することもできる。例えばドゥオーキンの f ライフズ・ドミニオ などの著作でも,そのような説明はある程疫なされているお。あるいはクリント ン政権時代のアメリカで活動していた NBAC (NationalBioethicsAdvisoryCommis 叩 s i o n留家生命倫理諮問委員会)がまとめたクローン問題に関する報告書 3 )では,ク ローン技術の人間に対する使用に関する,各宗教の立場からの意見がまとめられてい る。確かにこのような試みも可能ではあるのだが, f 生命倫理の諾跨憩に対する宗教 一般の影響jについて述べることはまず不可能だと言ってよい。 このように,ある一定の場面で きても,「生命倫理j全般における f 宗教j一般の機能を語ることはひどく関難(あ るいは乱暴)である。本稿の目的は,このような「困難Jについてはある程度認めた 上で,(生命倫理の特定のスタイルとしての)「哲学的なバイオエシックス Jと宗教と の関連について瞥見し,「世俗的jかっ原理主義的な生命倫理だけでは不十分な場面 があることを指摘することである。 / v o l‘4n o .1 ,2 0 0 2年 , 31 1頁 , 3頁 2 ) R .Dworkin“ L i f e’ sD口取I 抗i o司” V i n t a g eB o o k s ,1 9 9 3( 邦訳 ロナルド・ドゥオーキン表,水 谷秀夫・小島妙子訳?ライフズ・ドミニオン ji { 言山社, 1998) C l o n i n gHuma日 B e i n g s , ”1 9 9 7 3 ) N a t i o n a lB i o e t h i c sAdvisoryCommission“ 生命倫理と家数 4 9 絞悶仲裁 2 . バイオエシックスの毘史 先に述べたように,英語でもioethics’と言う場合と,日本語で f 生命倫理j と言う 場合とでは,かなりニュアンスが異なっている。英語の bioethicsという語は,日本 芸療に関わる学際的な学問jを指すので 語の「生命倫理j と伺誌に「医療倫理や先端j はあるが,「生命倫理j に関するある特定の学派・スタイルを指す場合も多い。具体 的に言うと,バイオエシックスの f 本流j であり,「ジョージタウン・バイオエシッ クス j とも呼ばれているような,ジョージタウン大学のケネディ研究所を中心とした グループ,さらにヘイスティングス・センター(後述)に所罵するメンバー,そして ピーター・シンガーを編集主幹とした“ Bioethics”という雑誌に投稿する人々を中心 とした学問を示すことが多い。一言て、言えば「バイオエシックス」とは f 哲学的倫理 学」にもとづく「生命倫理j のことだと言ってよいだろう。 この「バイオエシックス」の歴史的展開について,簡単に確認しておこうめ。 1960 年代から 70年代の初頭にかけて,主に英米で,人工妊娠中絶の法的規鱗,インフォー ムド・コンセント,体外受精,阪実験,脳死,安楽死といったテーマが社会的にク ローズアップされ,関連する法的な係争も増加するにつれて,こういった問題の f 倫 理的j側面について議論する必要が社会的にも,政策的にも生じてきた。 ‘ b i o e t h i c s’とし、う諾は, 1971年にがんの研究者であるポッター( V .P o t t e r)に よって生み出されたと言われている 5)。しかしポッターの考える f バイオエシック スJは人間の健康に対する環境の影響等について学際的に研究することを意図する科 (学問)で、あった。そのためポッターの提唱した「パイ寸エシックス Jは現在の 「バイオエシックス J ,つまり医療現場でのジレンマについて検討し,先端医療技術 に関する倫理的・社会的・法的評儲などを皆様とする学際的研:究とは内容的にかなり 異なるもので、あった。 一方先にあげたような,「主流派Jの「バイオエシックス j は,自律:( autonomy), 4 ) 「バイオエシックス」の歴史展開について詳しく述べた文献は多いが,ここではj よ j 、下の文 献をあげておく。 W.T.R 日i c h TheWor ・ d・ B i o e t h i c s . ’TheStruggleoveri t sE a r l i e s tMeanings’KennedyI n s t i むt eo fE t h i c sJ o u r n a l ,v o l .5 ,N o .1 ,1 9 9 5 ,p p .1 9 3 4 t 大林雅之 5 事!?しいバイオエシックスに向かつて ゑ命・科学・倫理− j i と樹出版, 1993 年 香川知品?生命倫理の誕生j 効主主誉房, 2000年 小松美彦「バイオエシックスの成立とは何であったのかJ アソシヱj N o . 9,お茶の水 害房, 2002年 , 34-57Jl 5 ) R e i c h ,o p .c i t . 白 r 5 0 偽教大学総合研究所紀愛好開f Z 晃代医絞の諸問怒 功利原理,カント的な人格概念等を用いて,哲学的かつ非宗教的な立場から医療問題 について考察することをめざすものであった。このような主流派の f バイオエシック スjは,へイステイングス・センター( HastingsCenter)の設立,ジョージタウン大 ケネデイ倫理研究所での イ オ エ シ ッ ク ス 事 典 J (The Encyclopedia of B i o e t h i c s)の嬬纂などを続て成立したとされている。まずヘイステイングス・セン タ…は 1969年にニューヨークに設立された生命倫理に関する民間研究所である。ヘイ ステイングス・センターは, 1971年以降生命倫理に関する専門誌である f ヘイステイ ングス・センター・レポーけを刊行しているが,この雑誌は生命倫理に関する 論をリードしている。一方ジョージタウン大学では,ヘレガース(区ellegers)を中心 に生命倫理に関する「ジョージタウン学派jが形成され,ここには生命倫理に関する 研究機関であるケネデイ倫理研究所( KennedyInstituteofEthics)も設立された的。 このケネデイ倫理研究所から,ライクの編集によって 1978年に f バイオエシックス事 .M.Hare)を中心とした,イギ が刊行されている。なお 1980年代からはヘア(R リスのオックスフォード大学等の哲学者たちも生命倫理に障する論文をさかんに発表 するようになる。 1987年にはオーストラリアのどーター・シンガーらを編集主幹とす る先述の雑誌“出oethics”が創刊されたが,ここには主にイギリスの哲学的な生命倫 理学者が寄稿することが多かった。なおシンガーは学詩的にはヘアに近く,へアの 「選好功利主義」の立場に立っている。 このような主流派の「バイオエシックス」は,植物状態の人の治療停止・安楽死, i [ ! i位の決定,あるいは体外受 髄死状患の人からの臓器移植,人工透析器の使揺の優先J 精といった, 60・70年代から生じてきた,「新しい医療技術に伴う倫理的・社会的問 題Jに対して哲学的な返答を試みるもので、あった。一方 1960年代の公民権運動や女性 解放運動に見られる人権意識の高まりとともに, 1960年代以降は「患者の権利jが強 く主張されるようになってきた。こういった仁患者の権利Jと「インフォームド・コ ンセント j の基礎づけは「バイオエシックス j における主要な問題の一つであった。 またアメリカでは人工妊娠中絶の法的規制の是非が,ある穫の政治的障題にもなって おり,女性の自己決定権や,プライパシー権との関連で議論されたことも見逃せな バイオエシックス j の普及と制度化は,このような社会的 いの。「学問」としての f 6 ) Reにh ,o p .c i t . ;L .W a l t e r s' R e l i g i o nand t h eR e n a i s s a n c eo fM e d i c a lE t h i c si nt h eU n i t e d S t a t e s :1 9 6 5 1 9 7 5’i nE a r lE .S h e l p ,( e d) “T heologyandB i o e t h i c s”D .R e i d e lP u b l i s h i n gC o r n 0 ) ,1 9 8 5 ,p p .3 1 6 pany( P h i l o s o p h ya n dM e d i c i n e2 7 ) アメリカにおける人工妊娠中絶の法的規制に関する議論については,以下の文献等に詳し 0 0 1 く述べられている。荻野美穂;中絶論争とアメリカ社会j宕淡設店, 2 生命倫理と宗教 絞f l ] 仲 裁 一 5 1 動向と平行していた。 f バイオエシックス jは学問的には「ある種の権利に濁する哲 学的な正当化の試みJであるが,同時に患者の権利運動の政治的正当化という側面も あったのて、おる。そしてそこでは主に哲学的な倫理学が重要な役割を果たしており, 宗教は必ずしも重要な役割を果たしてはいなかった。 3 . バイオエシックスの世俗性 先に挙げたような生命倫理の諮問題について,意見の一致を見ることは容易なこと ではない。特にアメリカは,宗教を始めとした道徳的・社会的価値観に関して言えば, 複数の価傍観が併存する多元的な社会である。そのような社会では,人間の生命の儲 僚に関わる諸問題について,意見の一致を見ることは必ずしも容易なことではない。 だが生命論理に関する意見の相違について,「個人の価値観や信条,宗教の相違があ る以上,意克の一致合見ることは不可能だ」として,議論を打ち止めにするわけには いかない。そのようなことをすれば,少なくとも理念的には普通的原理にもとづく合 意を想、定している法的・倫理的な議論が不可能になってしまう。そのため特にアメリ カでは,「生命倫玉里J に関する諸問題について議論する際に,倫理的価値や原則をで きるだけ哲学的,つまり捨象的・普遍的・原理的な形でとりだして,合理的・普遍妥 当的な原期にもとづいて議論する必要が生じたのである。米英において「bioethics ーバイオエシックス」が「世俗性j をめざしたのは,議論の客観性,つまり宗教的錨 値観に対する中立性を確保するためだったのである。例えばバイオエシックスの代表 バイオエシックスの基礎づ 的な研究者の一人であるエンゲルハートがその主著 f 8 )で意思していたのは,非宗教的( secular)な生命倫理学を哲学的な基盤の上で 麗関することて府あった。エンゲルハートは様々な伝統(特に宗教)や価値観が対立す る現代社会(特にアメリカ)において,生命倫理に関する中立的一一特に諾宗教に 対して中立的一ーで普遍的な原理を提示することをめざしている。 なお多様な価値観の対立をはらんだ現代社会の中で,普遍的に妥当する生命倫理の 諸原理を世俗的一非宗教的一哲学的な立場で模索するエンゲルハートの碁本姿勢は, どーチャムとチルドレスにも共有されている。ピーチャムとチルドレスとの共著?生 命医学倫理j は,哲学的生命倫理学に関する代表的な教科書とされている 9)。著者の 8 ) H .T .E n g e l h a r d t .J r .1 9 8 6“ The F o u n d a t i o n so fB i o e t h i c s”O x f o r dU n i v e r s i t yP r e s s ,1 9 8 6 (邦訳日・トリストラム・エンゲルハート著加藤尚武・飯田亙之監訳 5 バイオエシック スの基礎づけ;朝日出版社, 1989年 ) 官i ;数大学総合研究所紀' i l '別官r I現代医療の諸問j 怒 5 2 一人のチルドレス自身はキリスト教的な立場から生命倫滋に関する議論を展開するこ とが多いにも拘わらず,この書では f 世俗的」な立場を貫いている。ピーチャムとチ ルドレスが採用したのは,基本的な倫理原期( principle)を照いて生命倫理に関する 諸問題や,霞療従事者が直面するジレンマを分析して,規範的判断を下すという「原 0)。なおピーチャムとチルドレス 期中心主義」的で「応荊倫理学j 的な方法である 1 生命医学倫理iの中で用いている「原則j とは,「患者の自律性の重視( respect が f 無危害一患者に危害を加えない( nonmaleficence)」仁恩恵…患者の f o rautonomy)J I 正義と公王子一患者を公平に扱う(justice and 利 援 を 増 進 す る ( benefic巴nee)J I e q u a l i t y )J という四つの深部である。これらはカントやアリストテレス, ミル,ロー ルズといった西洋の伝統的な倫理学者たちが採用した原理を洗練させたものである。 このように「バイオエシックス Jにおいて議論が深刻主義的・抽象的な内容に傾き がちだったのは,「バイオエシックス j に携わった研究者の多くが「専門的倫理学者j ( p r o f e s s i o n a le t h i c i s t),つまり大学の哲学科で「哲学j の専門教育を受け,アカデ ミックな哲学者として活動していた人々て、あったことによる。 だが「バイオエシックス」には意図的にスピリチュアルな,あるいは形而上学的な 需題を無設ないしは閉避しようとする姿勢があった。例えば上記のエンゲルハートの I . f i こ議論されているにも拘わらず, 書では,末期患者の治療拒否や安楽死に関しては詳車l 死にゆく患者のケアに関する議論は全くない。当然のことながら,そこにはスピリチ ユアルなケアに関する議論も全くなし、。ピーチャムとチルドレスの書でも,ターミナ ルケアにおけるスピリチュアル・ケアの議論の比重は小さし、。 また f バイオエシックス jでは,宗教的な規範も i ま俗的な規範に置き換えられた上 で理解されることになる。たとえば f バイオエシックス jでは隣人愛(あるいは f 蕃 きサマリア人」であること)というキリスト教的な価笹や,それに基づく行為を命じ る規範もある韓の理性的な道穂原理として,「正義」などの一般的な倫理原則に置き 1)。おそらくそれはカトリック,プロテスタント, 換えられて理解されることになる 1 9 ) Beauchamp,T .L .& C h i l d r e s s ,J .F .“P r i n c i p l e so fお1 0 m e d i c a lE t h i c s( 5 t he d . ” )O x f o r d :Oxf o r dU n i v e r s i t yP r e s s ,2001 (邦訳 トム.L・どーチャム/ジェイムス・ F・チルドレス務 永安幸正/立木敦夫監訳;生命医学倫理j 成文堂, 1997 邦訳は原務第三版から)。初!援は 1979年に出版されたが,}波を重ねるたびこーとに生命倫理学 r e関する新しい動向を踏まえて改 波が出版されている。 訂を加えられ, 2001年には第 5I 1 0 ) なおピーチヤムとチルドレスがあえて b i o e t h i c sという諮を用いず, b i o m e d i c a le t h i c sとい ヨ分たちの立場は f i ; t . 崎倫理学 appliedethicsJ の立場で為ることを強 う諾を用いるのは, E 調するためだと思われる。 1 1 ) J .F .C h i l d r e s s‘ Love and J u s t i c ei nC h r i s t i a nB i o m e d i c a lE t h i c s’ i nE a r lE .S h e l p( e d ) “T heologyandB i o e t h i c s”pp.225-244を参照のこと。 生命倫理主と宗教 絞 問 。t f 雄 5 3 ユダヤ教などの特定の宗教にコミットすることによって,バイオエシックスの「中立 性jが損なわれることを恐れたためであろう。 4 . バイオエシックスと宗教 さて,このような「バイオエシックス jが成立する中で,宗教はどのような機能を 来たしたのであろうか。 ここで英米において「バイオエシックス jは,キリスト教的な立場からの主張に対 する反論の展開としづ形で構築されてきたことを確認しておかなければならない。確 かに f バイオエシックス j の成立当初は「医の倫理j に関するキリスト教的な立場か ら,多くの論文が発表されてきた 1 2)。だが「バイオエシックス」が講築されるにあ たって,宗教(特にキリスト教)的な価値観に基づく発言は,「バイオエシックス j を構成する要素のーっとなったと言うよりも,批判の対象であることが多かった。そ のため「バイオエシックス」の一部には,伝統的な宗教的髄値観(主主体的にはキリス ト教的死生観・倫理観)とあえて対決するという姿勢があった。 例えば保守的なキリスト教的(カトリックの,あるいは原理主義的プロテスタント の)倫理観ではゐらゆる中絶は反倫理的であり,人工妊娠中絶は法的に規帝J i するべき だとされていた。一方 f バイオエシックス」に与する人々は,「パーソン論」等の道 具立てを沼いて,人工妊娠中総の法的規制に反対し,人工妊娠中絶の権手j lを擁護する ことをめざしていた。また現在ではよと較的普及した人工生殖技術で、ある体外受精に関 しても,それが実現された当初は,それは「卒中を演じる j ことだとするキリスト教的 な立場からの批判が多かった。しかし「バイオエシシスト Jたちの多くはそのような キリスト教的見解を批判し 体外受精技術の捷用を擁護することになった。そして 「 死Jに関して言えば,「バイオエシシスりたちは安楽死や尊厳死を積極的に認め る議論を展開することになるが,このような議論には,キリスト教的な f 延命至上主 義j,つまり打、かなる治療停止にも反対し,一刻でも長く延命を求める立場j に 対 ー する批判とし、う側面があった。 そしてこのような状況には現在でもあまり変化はない。「非宗教的一世俗的Jな 「バイオエシックス j は,その「非宗教性jを強調しようとするあまりに,時として 極端な主張を導くことがある。例えば欧米の哲学的な「バイオエシシスト jたちの多 1 2 ) L .W a l t e r s ,o p .c i t .を参照のこと。 5 4 19ll教大学総合研究所紀喜~)JIJ 和T Z 晃代医絞の諸問菜室 くはクローン技術の人への使用を脊定している 1 3)。それは「(体細鞄核移植クローン 技術の人間への応用だけでなく)粧を用いた ES細胞等の研究までも,キリスト教的 見地から否定しようとする立場j との対立点を明確にするためである。例えばカトリ ックは人工妊娠中絶の法的規制に対して肯定的な立場をとることが多い。それは(少 なくともカトリックの「公的j立場では)胎児は受胎の線開から魂を持ち,尊厳を持 っと考えられているからである。結果としてカトリックの立場にある研究者たちは, 今でも肱研究を批判している。だが現在も「哲学的倫理学」に基づく「バイオエシッ クス j の立場では,そのような立場に対抗することが目的のーっとされているので ある。 例えば生物学者のドーキンスは「バイオエシシスト」ではない。しかしクローン技 術の人への慣用に関する論考を集めた舎である f クローン是か非かj に収録された 4)に現れているメンタリテイは,「バイオエシシスト Jの基本的 ドーキンスの議文 1 なメンタリテイと閉じものである。ドーキンスの論文は,クローン技術の法的規制を 批判するものであるが,これは明らかに「宗教批判」の立場で脅かれている。ド…キ ンスから見れば,クローン技術の法的規艇は宗教的偏見にもとづくものでしかないの である。 5 . 宗教の機能 このように「バイオエシックス」の宗教批判は,本来は人工妊娠中絶を一切否定す るような,缶統的価値観を批判し,そのような舗値観からの解放を意留していた。だ がバイオエシックスのこのような姿勢は,時として過激な主張を導くこともある。確 かにわれわれは霞療に関わる接々な倫理問題について議論するにあたって, f バイオ エシックス Jの合理性・科学性,世俗性(非宗教性)つまり宗教的儲値観に対する中 立性といった姿勢を学ぶ必要がある。だがわれわれの道語的直観に著しく反するよう な過激な結論(例えばクローン人簡の作成までも認めるような)を導く姿勢までも ぶ必要はない。 さらに「バイオエシックス」が諸宗教に対して中立的でt i t俗的な,さらにはそれら 1 3 ) N世 ssbaum,M.C .& S u n s t e i n ,C .R ( e d s .) “C l o n e s and C l o n e s " W. ¥ V .N orton & Company, 1 9 9 8 (邦訳 M ・C ・ ナスパウム,キャス.R・スタイン編 中村校予, i 度会主主子訳?ク ローン,;是か非かj 産業図書, 1 9 9 9 ) 1 4 ) リチヤード・ドーキンス「クローニング,何が悪いj ナスバウム,サンスタイン編, j二 掲 ~:, 4 2 5 7頁 生命倫務!と宗教 夜間 f ! f l主 5 5 に対して批判的な立場をとるとしても,ターミナルケアを始めとした多くの場面で, 宗教が何らかの実践的な機能を果たしうることを否定することはできない。例えばシ シリー・ソンダースらによるホスピスの提唱と普及に捺しても,その動機付けという 点で,キリスト教が果たした役割を燕視することはできない。またターミナルケアの 現場において,宗教が一定の役割を来たしていることも否定できない。慨えば臨終を 前にした患者が,宗教と信仰とを通じて,白分の死を受け入れることは,決して珍し いことではないお)。 f 中立的j で「毘療に関する規範的判断j を提示する世 バイオエシックス」が有効でな 俗的一哲学的一原知主義的な「応、用倫理学Jである f 哲学的倫理学は,なぜ い場合が多い。エンゲルハートは以下のように述べている。 f 一方そのような場面では, 患者のインフォームド・コンセントを得なければならないのか,あるいはなぜ陸療に 対する一定レベルのアクセス権を提供しなければならないのか,といったことについ ては説明を与えてくれる。しかし哲学的倫理学は患者の苦しみ,衰弱,死について深 い意味を与えることはできないJ16)エンゲルハートは,哲学的倫理学をその方法論 とする「バイオエシックス j についても同様のことが言えると考えているが,これは 多くの「バイオエシシスト jが認める見解でもあるだろう。 f バイオエシックス」は終末期医療の現場で患者に対, f ちするには何の役にも 立たなし、。そもそも「バイオエシックス Jは f 人工妊娠中絶の法的規制の是非Jとい 例えば った規範的な判断(それは先に述べたように,ある麓の法的一政治的判断でもある) を下すことを自的としているのであり,終末期医療の現場ではそのような規範的判訴 は必ずしも必要ではない(もっとも治療停止の可百に関する法的判臨は必要とされる であろうが)。終末期医療の現場では,医師と患者が死の理不尽さや「運命j に向か い合い,それを合理化するための言葉が必要である。だが先に述べように,「バイオ こは意閤的にスピリチュアルな,あるいは形市上学的な問題を無視しよ エシックス Jv うとする姿勢があった。しかし死にゆく患者とその家族に誠実に向かし、合うためには, 生と死に意味と自的とを与えるような言葉,告分の人生を統一的に把握するための 7)。少なくとも宗教的な,あ 「物語J(narrative/story)を与える言葉が必要である 1 1 5 ) そのような苓例については改めて例をあげるまでもないが,たとえば以下の著作にそのよ うな事例が見られる。柏木哲夫?死を看取る医学JNHK出 版 , 1997年 , 6 8 1 ' [ 0 1 6 ) 巳昭e l h a r d t ,o p .c i t . ,p8 3 . 1 7 ) 生命倫理に対する物語的アブローチの意義について論じた文紋としては以下のものがゐる。 : b l '弁殺史 f 生命倫理学への物話的アプローチについて」(日本医学哲学・倫礎学会 5 医学官 学医学倫理j第 1 8号 , 2 0 0 0 ,p p .ト 1 1 ) 刷 5 6 世i ;教大家総合研究所紀姿) J I )情現代医療の務問題 るいはスピリチュアルなボキャブラリーはそのような f 物 語Jを与えうる可能性が ある。 人の健康にとっては,スピリチュアルな苦痛から自由であることが必要であること f スピリチュアル」なものとは 健康J ・の定義に 伺かとしづ問題が生じることになるのだが)問。事実 WHOでも f は,ある程度認められている(もっともその場合には 「スピリチュアル j な要素を加えることが検討されている 1 9)。また QOL評価に「ス ピ 1)チュアルJな要素を導入するための試みもなされているお)。 だが仏教を始め,日本における諸宗教は,そのようなスピリチュアルな機能を果た しうるのだろうか。そして仏教やその他の宗教は,死を語る言葉を与えることができ るのだろうか。葬式仏教とも榔撤され,商業化し,形骸化しつつある呂本の仏教界は 来たしてどの程度の役割を来たしうるのだろうか。確かにヨーロッパにおけるホスピ スの普及にあたって,キリスト教がそこでのスピリチュアルケアのために一定の役割 を演じたことは否定できない(これは韓国においてもおそらく両様であろう)。また 台湾においてはホスピスの普及にあたって,仏教(具体的には慈演会)が大きな役割 を果たしている。だが欧米社会や韓国におけるキリスト教の影響力の大きさ及び,韓 国や台湾における仏教の影響の大きさと,日本における仏教の影響力との違いを考え るなら,日本社会において,宗教が終末期患療の現場などで十分な役割を来たすこと はあまり期待できない。少なくとも日本で用いられているスピリチュアリテイに関す 1 )0 る言葉は,必ずしもイム教のそれではないのである 2 6 . 親しい者の死と自分の死について語るための物語 ここで跨患になることは,来たして仏教や諸宗教は親しい者や自分の死について意 味を与え,それを理解可能にして,その死を受容することを可能にするような言葉を 与えてくれるのだろうか,ということである。ここで先ほど提示した「物語j という 概念について確認しておきたい。 n a r r a t i v eまたは s t o r v)という概念は,近年の英語圏の哲学界で広く流布 「物語J( 1 8 ) この点については宇都宮前掲論文を見よ。 1 9 ) それは主にイスラム閣からの妥裂による。臼泊覚・玉城英彦・河野公一「WHO~ぷ家の健 1 友定義が改正にヨさらなかった経緯J(;日本公衆衛生雑誌j 第 47巻 第 12号 , 2000年 , 1013-1017頁 ) 2 0 ) 岡崎美弥子・松岡正 5 ・中根允文「スビリチュアリテイに関する笈的言語査の試みー健康 r日本怪奇主新報JN o .4 0 3 6 ,2 0 0 l i [ , 三 24-32頁 ) および QOLの概念のからみの中で− J( 2 1 ) 沼崎{也前掲論文 生命f 命現と宗教 草案問手l j 雄 5 7 しているが,この披念は A.マツキンタイア( AlasdairMacintyre)が,その著書 2 2)で提起したものである。マッキンタイアによれば,人生におけるす 籍なき時代j べての符為や出来事はある「物語的な涯史( anarrativehistory)」の一部である。人 は一つの歴史,あるいは物語の主体である。人生における大小さまざまな出来事ーはそ れぞれが何らかの f 物語Jの一部であり,「物語的な歴史Jの 仁p でのみ,人生にはあ る種の統一が可能になる。マッキンタイアは人間を原子論的な個人として捉える西洋 近代的な偶人主義的人間続を批判し,各人の人生と行為の意味を物語という観点から 捉えることによって,生にテロス 目的をとり庚すことを試みている。それは原則主 義的な倫理学に対するマッキンタイアの批判と平行している。 このようなマッキンタイアの「物語j 概念を借りるならば,私の死も他人の死も何 らかの f 物語J(narrative/storv)の中で,意味と連関とを与えられるということに なる。そして自他の死を理解するためには,それが何らかの物語(つまり文脈)の中 に定位されなければならない。 自他の死は一つの f 物語jあるいは f 歴史j の終わりである。私たちは自 f 慢の死を, 一つの物詩的な歴史の終わりとして理解している。自己の死を,そして自己と親しい 者の死をある一つの物語のなかに埋め込むことによって,それを受容しようとするこ とは安らかな死を迎えるために,そして親しい者の犯を原器とする人生の危機を乗り 越える上で,きわめて重要なことである。自分が死ぬにあたって何をなすべきかとい うことも,自分の人生の物語における自分の役割を通じて見いだされる。死に際して icの死をめぐる物語の iニドで,私はどのよ 「私は何をなすべきか」としづ関いは,「 E 3 。 ) うな自分の役割を見つけるかJとしづ間いになるのである 2 確かに人は生まれ,成長し,成人し,独立し,子をもち,子を育て,仕事をやめ, やがて年老いて死ぬ。だがすべての人がこのような人生の諸段階を生き抜いた末に死 ぬわけではない。人は常に自分の死期を知ることができるわけでもなく,自分の死の ための準備ができるわけで、もない。人は自分が予期しないときに死ななければならな 2 2 ) M a c i n t y r e .A ." A f t e rV i r t u e”s e c o n de d i t i o n,じ n i v e r s i t vo fN o t r eDameP r e s s ,1 9 8 4 : (邦訳 アラスデア・マッキンタイア者篠崎栄訳?美徳なき時代j みすず設房, 1993)。なおマッ : H稿も参照されたい。絞回伸雄「研究ノー キンタイアの物語概念の意味については,以下の t 5主主「諸 ト:マッキンタイアの「物語j概念について∼マァキンタイア?美徳なき時代j 第 1 徳,人生の統一位,伝統の概念j を読むー」(?物語としての思想 東泊の思想念物語の絞 1年度 平成 1 3年度科学研究費補助金(まま盤研究( C )(2))研究成 点から読み査す− J平成 1 条 報 告 書 諜 題 番 号 11610042 研究代表者小 J I!奨恩子, 2 0 0 2 : 4 , 三 6669頁 ) 2 3 ) 例えば終末期において死にゆく人が,自分の死と家族との隠わりについてどのように意味 づけ,それに対応するのかということについて諾った,熊沢健一氏による,実話に恭づく美 しい物語がらる。熊沢健− r 告知j マガジンハウス, 1 9 9 9 : f f 。 三 m 偽教大宇総合研究所紀姿B 日 時 5 8 現代医療の諸問題 いことも多い 2 4 。 ) 人は自分の死の時期やその死に方を選ぶことができるわけではなし、。だが人はただ 単に与えられた物語の中で虫分の役割を f 演じて Jいるだけではなく,他者との相互 行為を通じて,自分の物語をつくっている。人はいわば自分の人生を制作しているの であり,それは死ぬときも向じである。自分ががんで死ぬのか,交通事故で死ぬのか を選ぶことはできない。しかしたとえ同じがんで死ぬとしても,その際にどのような 死に方をするのか,それをどのような物語の中に定位させるのかを選ぶことはできる。 確かに自分の死は,自分の人生の「終わり jであり,われわれはそれに向かつてっ き進んでいる。だが「自分にとっての死j の意味,つまり自分はどのようにして死ぬ のかを需うことは,自己の人生に統一を与え,完成させるにはどうすればいいのか, を問うことでもある。 このように自他の苑について理解し,それを受容するためには,それをある種の物 語の中に定位する必要がある。だがそのような物語は必ずしも仏教によって与えられ るものである必要はない 2 5)。むしろわれわれに求められているのは,そのような f 新たな物語のためのボキャブラリー jを紡いでいくことであろう。 参考文献一覧(本稿執筆にあたり参考にしたもので,注にあげなかったもののみ記す) ・宇都宮線夫問ミと死の宗教社会学;ヨルダン社, 1989年 f 生命倫浬j 第 9号 , 1998年 , 58-62頁 ) ・尾形敬次「犯がもたらす恵みJ( ・カール・ベッカー編著?生と死のケアを考える j法蔵館, 2000年 ・歳出{市 t i l t「英語閣のバイオエシックスの中のカント一一英語閣の研究動向 井上義彦・王子田俊博編 5 カントと生命倫理j 晃i 科書房, 1996年 , 229-260頁 r mに対してどのような資献ができるのか」 ・蔵田伸雄「哲学・{命務学は使命倫: 土山秀夫・ 第 2 9号,上智哲学会, 2 0 0 1年,ト 3HO •i 古一水哲郎;医療現場に臨む哲学j 勤卒者房, 1 9 9 7年 2号 , ・鶴若麻理・限安大仁「スピリチュアルケアに隠する欧米文獄の動向」(?生命倫理j 第 1 2 0 0 1年 , 9 19 6 1 ' 0 叩 ・鶴若麻王監.I 潟安大仁 f 末期がん患者のスピリチュアル・ニーズについて」( f 生命倫理j 1 1号 , 2000 年 , 58-63頁 ) •H .T .E n g e l h a r d t ,J r .‘ LookingForGodandF i n d i n gt h eA b y s s :B i o e t h i c sandN a t u r a lTheology’ 2 4 ) われわれがえか、子どもの死に理不尽なもの宏感じるのは,物語が米完成なままに終わった ことに対してある穫の授折感をいだくからであろう。 r 'ゥオーキン前掲書, 138頁 。 2 5 ) 本稿で繰ワ返し述べたように,また田崎らの実証的研究の結果が示唆するところから考え ても,現夜の日本において仏教が十分な機能を来たしうるとは思えない。 主主命倫理と宗教 落語問手l l Q J t i nE a r lE .S h e l p( e d ) ,1 9 8 5 ,p p .7 9 9 1 ・ W.F .Frankena‘ TheP o t e n t i a lo fT h e o l o g yf o rE t h i c s 'i nE a r lE .S h e l p( e d ) ,p p .4 9 6 4 ・ピーター・シンガー著擦良j J 家訳;生と死の倫理;昭和室, 1998年 ・キユブラー・ロス著鈴木品訳?死ぬi 携関j 読売新陪社, 1999年 5 9