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イー・ネールとマンスター中世の南北アイルランド問

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イー・ネールとマンスター中世の南北アイルランド問
中世初期アイルランド国家形成の萌芽
―イー・ネールとマンスター中世の南北アイルランド問題―
大谷
祥一
関西大学
概要:中世アイルランドを区切る画期のひとつに、800 年前後、すなわちヴァイキングの侵入、が挙
げられる。その少し前、7世紀末頃から、アイルランド社会に変化がみられる。それは、それまでの
氏族共同体から王国の形成と繋がる変化である。その鍵となるのが、世俗法であり、王権と教会との
関係である。ヴァイキングの影響が大きすぎて見落とされがちだが、この、王国形成の動きをみるこ
とで、古代から中世へのアイルランド社会の変化を読みとることができるであろう。
キーワード:イー・ネール、マンスター、世俗法、復活祭論争
はじめに
1
従来考えられてきた中世初期アイルランド
社会の王家共同体モデル。
リー・コーゲト、アルドリーなど
リー・トゥアス
リー・トゥアス
リー・トゥアスとなり、さらに、より大きな集団
をまとめる上位の王がいるという、重層的な王国
概念。
アイルランドでは、アルスター・コナハト・ミ
ーズ・レンスター・マンスターという5つのコー
ゲドに分け、それぞれに上位の王がいるという概
念が伝統的にあった。
リー・トゥアス
2
王国の
王国の形成と
形成と発展
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
リー・トゥアセ
a.イー・ネールの勢力拡大と王位継承
アイルランド中央部の小王国にすぎなかっ
たイー・ネール家が、6世紀半ば頃から、アイ
ルランド北部への勢力拡大。ミーズとアルスタ
ーの大部分にコナハトの一部を勢力範囲に収
める。
リー・トゥアセ rí tuaithe:一つの部族 tuath の王。
→北イー・ネール家の成立。
リー・トゥアス rí tuath :いくつかの部族連合の
王。
b.複雑な王位継承
同一家系の親から子への王位の相続は
リー・コーゲド rí cócid:一つの地方(コーゲド
cócid)の王。
ほとんどど無し。
アルドリー ard rí :上王。すべての王の上に立
←数代間を置いて、結果的に以前の王の子が王
つという意味でアイルランド
全土の王位を指すが、単に上
位の王を指す場合もある。
トゥアス tuath
古代から中世のアイルランドの社会を構成する
基本単位。主に血縁からなる氏族共同体。ひとつ
のトゥアスの平均人口は 1800 人から 3000 人ほど
と推定されている。
いくつかのトゥアスをまとめた氏族連合の王が
位に就くことはある。
→このことから、王位継承の際に争いを避ける
システムがあったことを主張する先行研究。
(Byrne,
Binchy,
Charles-Edwards ら)
Hogan,
Jaski,
→一方で、同族による王殺しや同族争いが多発。
←相続争いを避けるためのシステムは存在し
ないか、あっても全く機能していない
→イー・ネール=「ニーアルの子孫」であるこ
とが各王家を結びつける紐帯であるが、同様の
理由で各王家の立場は同格。
8世紀から9世紀にかけて書かれた世俗法
c.王国の成長
年代記では、8世紀に入ると、強力な王権を持
集成『シェンハス・モール Senchas Mór』の序
つ、カリスマ的な王がみられるようになる。同
文に、パトリックのキリスト教布教のエピソー
時に、このころから世俗法の成文化が推し進め
ドがはさまれる。
られる。
→世俗法の権威付けにキリスト教の権威が必
→世俗法を成文化することによって、共同体内
要。
のルールを明確にできる。
←王国の権威付けにキリスト教会も一役買う。
←そのためには法を保証しうる強力な王が必
c.南北教会の分裂
要。
7世紀を通じて、アイルランド教会は復活祭
→王権の伸張と王国の整備が進められた時代。
の日付の決め方を巡る、いわゆる「復活祭論争」
によって、ローマ方式とアイルランド方式に分
d.イー・ネールの対立勢力としての南部王家
イー・ネールは南に接するレンスターと
裂する。
しばしば争う。
←南部教会(ローマ方式)と、北部教会(アイルラ
7世紀末の教会法、『アダムナーン法』
ンド方式)という図式。
に載る王のリストの中では南部のマンスター
→最も遅く 716 年までアイルランド方式を守
の王族がイー・ネールの王族に次いで多い。
っていたアイオナ修道院は、いわばイー・ネー
ル直系の修道院。
3
マンスターにおける世俗法の成文化。
→一方で、早くからローマ方式に転換した南部
→イー・ネールだけでなく、アイルランド南部
教会は、イー・ネールと対立していたマンスタ
の王家も、この時期に王家としての体裁を整え
ーやレンスターの勢力範囲。
ていった。
→復活祭論争は、純粋に教会内だけの問題とは
言えないのではないか。
教会との
教会との関
との関わり
a.王家と教会との関係
アイオナ修道院創設者コルム・キレ Colum
4
まとめ
Cille(コルンバ Columba,597 年没。デリー修道
中世初期のアイルランドにおける王国は、小
院の創設者でもある)は北イー・ネールのケネ
規模な氏族共同体の集合体と考えられていた。
ール・コニル家出身。以後、第9代修道院長ア
実際、中世初期のアイルランドでもっとも有力
ダムナーン(704 年没)まで、アイオナの修道院
な王家のひとつとされるイー・ネールでさえ、
長はケネール・コニルから輩出。
その王位継承をみると、いくつかの家系に分か
→中世初期アイルランドの修道院はそれを保
れて同族争いを繰り返しており、ひとつの王家
護する王家と密接な関係にあり、修道院創設者
と言うよりも、祖先を同じくする複数の王家の
や修道院長が王族、貴族であることもしばしば。
連合体とでもいうべき状態である。
→『アダムナーン法』の保証人にある 50 名の
しかし、7世紀半ばから9世紀初めの間に、
王族のリストでも、イー・ネールの王族のが最
アイルランドでは氏族共同体の枠を越えた王
も多くみられる。
国としての体裁を整えようとする動きが見え
始めた。その現れが、世俗法の成文化といえよ
b.成文法と教会
アイルランドにおける法の成文化は、教会法
う。そして、それを保証するものが、王権の伸
張とキリスト教の権威であるといえる。
に続いて世俗法においてもなされるようにな
一方で、その動きはひとりイー・ネールだけの
る。
ものではなく、アイルランド南部の王国でも同
→キリスト教以前の宗教や伝統(口承で知識を
様であった。また、7世紀を通じて、世俗の権
伝えるなど)に代わり、キリスト教を中心とし
力と密接な関係にあったアイルランドの教会
た新たな宗教・文化の伝統の形成と、その担い
が南北に分かれて対立したのも偶然ではない
手(知的専門職)としての修道士。
であろう。
また、年代記ではイー・ネールと南部の王国
の争いが頻繁にみられるが、それはまさに、氏
族連合から、王国への過程をたどるための争い
であったといえる。
Dublin, 1887.
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