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シニアの修学旅行(情熱の国スペイン 2013 年パート 1)

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シニアの修学旅行(情熱の国スペイン 2013 年パート 1)
シニアの修学旅行(情熱の国スペイン 2013 年パート 1)長田 成美
雪が庭に降り積もった真っ白な元朝、満 70 歳を迎える記念すべき年である。この年まで大
病もせず健康で仕事ができる幸せを私の家族、私の仲間玄海のメンバーに感謝。
今年の旅行は妻と二人だけで海外旅行に行くことにした。10 日間の休みをいただき、私の
「訪れたい国 No1―スペイン」に決定した。今年は日本・スペイン 修好 400 年の記念すべき
年でもある。
今から 400 年前 1613 年、仙台藩主伊達正宗の家来「支倉常長」一行約 30 名余りが仙台
を出般しスペイン国王フェリペ 3 世に謁見し、イタリアのローマ教皇「パウロ 5 世」に謁見した。
これは「慶長遣欧使節」と言われた。
それより以前、1582 年「天正遣欧使節」九州のキリシタン大名(大友宗麟、大村純忠、有馬
晴信)の名代として 4 人の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチ
ノ)がスペイン国王フェリペ 2 世に謁見、その後ローマにおもむきローマ教皇グレゴリウス 13
世に謁見した。
今回の航空会社は中国の「エアーチャイナ」、乗りたくなかったけど福岡発着のツアーが無
かったので仕方なく中国の航空会社にした。なんでも体験、乗ってから批評すべきだと思う。
飛行ルートは、福岡→大連→北京→マドリッドで北京からはロシアと中国の国境沿いに飛
びアルプス山脈の南側を飛行するルートである。
14:50 大連行きエアーチャイナに搭乗、小さい飛行機、横 6 列,80 人乗りくらい。
15:20 離陸、機内で出入国カードの記入、
16:20 大連着 外は寒い雪景色、
北京行へのトランジット
18:30 北京着 日本との時差はー1 時間、外は寒冷、
1 月 2 日 0:05 スペイン行き離陸、今から 12 時間 30 分のフライト、旅行は楽しいドキドキ、
わくわくするが機内の長時間の拘束は辛い。ビジネスだと楽だろう。
マドリッドに着くまでの間に「エアーチャイナ航空」の評価をした。
① 機内サービスが悪い、
② CA に笑顔が見られない、日本人だからとしたら問題だ、
③ 機内食が不味い、
④ 機内設備(トイレの設備の不備)
⑤ 座席の前後が狭い、かなりきつかった。
評価: 二度と乗りたくない、後進国の旅客機、日本人に対して悪印象を持っている感じ。
スペイン基本情報
立憲君主制国家、現国王は「ファン・カルロス1世」
面積:50、6万㎢(日本の1.3倍)
宗教はカトリックで94%
公用語はスペイン語
人口は4700万人(12の多民族国家)
世界遺産の数は43ある。
サッカーは強豪である。
1 月 2 日05:05 マドリード到着(日本―マドリッドの時差―8 時間)
真っ暗闇である。夜明けは 8:37 分とのこと。
05:40 入国検査、屋外は 2 度℃、
06:50 バス乗車、大型バスで背の高い高級そうな観光バスでドライバーはセーターにジン
ーズのラフなスタイルでガッシリしていた。
マドリードはスペインのほぼ中央に位置し、青森県と同じ緯度(北緯40度)にあり、人口31
3万人、
バスに乗車すると添乗員さんからのスペ
イン語講座の始まり。
かるい挨拶――オラ!
イタリア語でチ
ャオと同じ感覚、正式には ヴェナス・タル
デス
おはようございます、(ヴエノス・ディーアス)
ありがとう(グラシアス)
元気ですか?(コモ エスタス)
元気です (ムイ ビエーン)
イケメン
(グアンコ)
いい女
(グアンパス)
その他いろいろ教えてくれましたが、覚えていない忘れてしまった。
スペインの新年を迎えるイベントは、マドリードの「プエルタ・デル・ソル」という広場にある
時計台が除夜の鐘を鳴らします。この鐘の音はテレビで全国に生中継され、新年の 36 秒前
からカウントダウンが始まり、3 秒毎の鐘の音に合わせて一粒のブドウを食べる。1粒のブド
ウは新年の1ケ月を象徴しその月の幸運と健康を祈念する。計 12 粒のブドウを食べた時が
新年の始まりでお互い歓声を上げ、キスをする。という習慣だそうです。
スペインの名はギリシア語のエスパーニア(日の沈む国)、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し
ている。16世紀スペインは大航海時代の覇者となりラテンアメリカのアステカ文明、マヤ文
明、インカ文明を滅ぼし、植民地の冨を収奪し、スペインの黄金期を迎えた。まさに「太陽の
没することなき帝国」となった。
夜明け前の07:00頃は、全くの暗闇でバスのヘッドライトが闇を切り裂いて走っている。
08:30頃になると東の空が白み始め夜明けが間近となり、同時に霧が出てきて視界不良に
なった。
バスはマドリード近郊のチンチョンへ.約 44km、40 分の行程。高速道路は平原を切り開い
た道で道路の両側はフェンスで仕切られ斜面は赤土の状態で、お金の掛からない工法
だ。
チンチョンは小さな田舎町でこんなところに何があるのかと思った。道路上に駐車して町の
「マヨール広場」まで徒歩で行く。「所変われば品変わる」で路肩の郵便ポストは黄色でした。
石畳の道で砕石の小さな石を埋め込んでいる。道の先には直径50~70mの円形の広場
があり、その周囲には3階から4階建の緑のバルコニーを持った建物が建っている。スペインの
町ではほとんどの町に「マヨール広場」があり町の中心になっている。広場は市民の憩いの場
であり、町のイベントに欠かせないお祭り広場である。広場の
中心には後ろ足で立ち嘶いている馬の銅像があり、かなりの
大きさだ。ここは「ドン・キホーテの舞台」であるから、馬は当
然「ロシナンテ」に違いない。しかし、やせ馬ではなかった。朝
が早いせいか村人には遭遇しない。静かな広場だった。
10:00 路上駐車したバスに戻り、風車の村「コンスエグラ」
に向かう。距離105km、
「ラ・マンチャ」は乾いた大地という意味のアラビア語でマドリ
ードの南に広がる大平原をいう。標高が高く(海抜700m)風
の強い地方である。
11:30 コンスエグラ着
人口1万人の小さな町で小高い丘の北側にスペイン瓦を乗せた白い壁の連なる集落が広
がっていた。町中を抜け、観光バスの駐車場にパーキング。徒歩で約100m の高さの丘を目
指す。
「カルデリコの丘」は東西500m、南北1500m の細長い、高さ100m ほどで大平原に飛
び出た小さな丘なのに戦略上の重要な拠点として、古くから要塞が建てられた。8世紀ごろ
モロッコから進出してきたイスラム勢力が基礎を築き12世紀ごろ 「レコンキスタ」でイスラ
ム勢力が南に去った後、聖ヨハネ騎士団が増改築したものである。
19世紀にスペイン独立戦争でそのほとんどが破壊され廃墟と化した。近年修復への計画
があるとのこと。
丘の上には、11基の白い風車が風の通り道に重ならないように、細い尾根上に並んでい
る。高さは10m 余りの漆喰で円筒形、円錐
形の屋根がありそこから風車の羽根の軸が
出ている。屋根の部分から建物の尻尾のよう
に丸太が地面に伸びている。この丸太で屋
根を動かし風車の向きを変えることが出来
るそうです。今は観光用で稼働していない。
丘の上は風が強く風車の場所としては最
適なところである。そもそも、ここの風車は
16世紀、神聖ローマ皇帝カール5世(カルロ
ス1世)がネーデルラント(現在のオランダ、
ベルギー)の風車にヒントを得て建てさせた
と言われている。
景観は360度見渡すことが出来、中世の戦いではここに要塞を築けば圧倒的なアドバン
テージを得ることが出来る。冬なの
で作物は植えられてないが、ブドウ
の栽培面積は世界一であり、サフラ
ンは世界の生産量の70%を産する
と言われている。
サフラン、紀元前からヨーロッパで
は香辛料、染料、医薬品として利用。
サフランの雌しべを一つ一つ手つみ
で収穫し乾燥させて利用される。1グ
ラムの乾燥サフランは160個分の花に相当し1グラム当たり500~1000円で取引されている。
プロヴァンス地方のブイヤベース、スペイン料理のパエリア、イタリア料理のミラノ風リゾット、
モロッコ料理のクスクス、インドのサフランライス等、ヨーロッパでは欠かせない香辛料である。経
口的に摂取する量では安全であるが妊婦には子宮の働きを活性化させるので禁忌である。
風車と丘の上からの景観は素晴らしかったがなんせ、風が冷たいので写真を撮って早々に
バスに戻った。
11:50
バスに乗車しドン・キホーテのレストランへ移動、中庭にはドン・キホーテの銅像が立っており
痩せた細い体、顔も細く顎鬚、口髭を生やしたイメージどうりのドン・キホーテが甲冑に身を
包み槍を持って我々を迎えてくれた。
昼食のメニューは、野菜の煮物、パン、チキン、肉団子
のオデン風味、アイスクリーム、ここではビールをいただ
く。
13:15
バスに乗車、アルマグロに向けて出発、距離96㎞、通りすぎる風景は枯野である。
14:30アルマグロ着
光地としての価値があるのか?ただ単に時間稼ぎでしかないと思った。ここで1時間の散策。
強いて言えば、スペインでも有名なマヨール広場があるというだけ、
15:35 バス乗車、コルドバへ出発、230km(3時間20分)
18:50 コルドバ、ホテル着
19:45 ヴュフェ形式の夕食
ポテトの炒め物が美味しかった。豚肉の薄切りは固い。スパゲティ―は細麺でグチャ・グチャ、
ヒヨコマメのスープはチキンくさい。野菜サラダにはドレッシングがない(ヨーロッパでは普通)
自分でオリーブ・オイル、塩、胡椒を振り掛けていただく。極めて原始的なサラダ。
22:00
日記を書いていたが疲れで眠ってしまった。
1月3日 コルドバ観光、アンダルシア第3の都市、人口38万人、
早朝05:00に起床、昨日の日記を書きリンゴを食べて荷物整理。
7:30 朝食
ミルク、ジュース、紅茶、コーヒ、パン4~5種類、おまけにトーストできる。ベーコン、ハム2
~3種類、全部美味しい。野菜サラダにはドレッシングは無い。
8:30 バス乗車、コルドバ観光
スペイン・アンダルシア地方の中心、
紀元前にローマ帝国によって建設されたコルドバは、10世紀西カリフ帝国(後ウマイヤ朝)
の時代に全盛期を迎える。当時の人口は100万人で世界最大の都市であった。市内には3
00ものイスラム寺院があった。1236年フェルデナント3世によるレコンキスタでコルドバか
らイスラム勢力は駆逐されたが8世紀の建造物であるメスキータを中心とする旧市街にはイ
スラム風の建築物が数多く残されていた。
メスキータ
785年、後ウマイヤ朝を開いたアブデラマン一世によって建てられたモスクである。最大の
見どころは馬蹄型のアーチとそれを支える円柱が続く光景である。馬蹄型のアーチは白い化
粧漆喰と赤いレンガが交互にくさび状に並べられて美しい縞模様のアーチを作っている。
モスクの入り口から前方、左右へと続く円柱の森に圧倒される。最大時には1000本以上
あったと言われる。現在では854本であるがここの景観は何処にもない、ここでしか見られ
ない特別な景色でした。
1000本以上あった円柱が現在では854本、なぜ円柱が減少したのか?その理由は?
1236年レコンキスタでメスキータがキリスト教の建築物になると、コルドバ市議会はメスキ
ータの芸術性と歴史的遺産としての価値を認め改修しないことを決議していた。しかし、そ
の反対派が神聖ローマ帝国皇帝カール5世を動かし改修の許可をとったのちに、メスキータ
の一部分を破壊し、キリスト教
の礼拝堂を設けたカテドラル
を新設した。そのため、イスラ
ム教とキリスト教、二つの宗教
が同居する世にも珍しい建築
物となった。
その後、許可したカール5世
は「もし、前もってメスキータ
の事を知っていたなら決して
許可を与えなかっただろう。ど
こにでもあるキリスト教会のた
めに世界で一つしかない建物を壊してしまった」と嘆いたと言われる。それほど素晴らしいモ
スクでした。どのような思考、感性を有する人間がデザインしたのか不思議な建築物でした。
花の小道
観光スポットと言うほどの事もない
小道で狭い道の両側に花を飾っただ
けの長さ20m余りの行き止まりの道、
昔からあるユダヤ人街の小道でし
た。
11:20 バス乗車、ミハス(白い町)
距離240㎞、に向かうが途中で
昼食、
13:05 レストラン
コロッケとポテト、パン、アサリのスープ、ビーフ・ステーキ、デザート(バナナ、梨、柿)
ステーキ以外は美味でした。肉は硬い、日本人は顎が弱いので硬い肉は駄目。
《世界のあちこちの町をうろつく時に、その町の食べ物を食べ、その町の飲み物を飲むんでな
かったら、旅の意味が薄れるだろう。》(檀 一男、漂蕩の自由)
14:35 バス乗車、ミハスへ
何もない冬枯れの畑の中を走り、山地へ向かう。標高400m の山間に住宅街が出現。赤い
屋根、白い壁の住宅街。シェラ・ネバタ山脈にあるミハスは、ヨーロッパ各地の金持ちの別荘
地だそうです。町からの眺めは、冬でも地中海の陽光がきらめきリッチな気分にさせる。
「太陽の国」と言われるスペイン=青い空、黄色のひまわり畑、赤いスペイン瓦、白い壁、闘
牛、フラメンコ等スペインらしい光景が広がっているのはアンダルシア地方です。今回、冬に
訪れたために強烈なアンダルシアの太陽を浴びることが出来なかった。誠に残念!!アンダ
ルシア地方の地中海の海岸を「コスタ・デル・ソル」日本語で「太陽海岸」という言葉が全てを
表している。フランスの海岸では「コート・ダジュール」、日本語では「紺碧海岸」、イタリアの海
岸では「リヴィエラ」と呼んでいる。いずれにして
も、美しい海と砂浜、保養地として北部ヨーロ
ッパからの観光客が押しかけてくる。
17:00 バス乗車、グラダナに向かう。距離1
60㎞、2:15の行程、
ミハス~マラガまでの行程は「コスタ・デル・
ソル」に沿って走る。右手には地球儀でしか知
らない青い地中海が広がっていた。
マラガ
ピカソの出生地で10歳まで育ったところ、産まれたときは仮死状態で蘇生しなかったので
19:10 グラダナのホテル着
21:00 洞窟フラメンコ・ショウの観賞
スペイン・グラダナに来たらフラメンコを見なくて何の観光か?という訳で「洞窟フラメンコ」
オプショナル・ツアーに申し込んだ。料金は1万円なり「ワンドリンク・送迎付き」おまけにアル
ハンブラ宮殿の夜景観賞がついていました。
ミニバンに乗り込む。サクラモンテは、イスラム教徒の居住区だったアルバイシンの東側の
丘一帯であり、ロマ人(ジプシー、スペイン語でヒターナ)が住んでいた洞窟住居(クエバ)でフ
ラメンコ・ショウが行われていた。ホテルからサクラモンテの丘まで細い、曲がりくねった道を
フルスピードで走るミニバンのスリルは別格のおまけでした。衝突に備えて筋肉を強張らせて
いたので疲れてしまった。
間口4~5m の建物の中に入ると、かまぼこ
型のトンネル状で壁にはフラメンコの写真がベ
タベタ張っていた。壁は白い漆喰で奥に高さ1
m くらいの舞台がある。観客は真ん中の通路か
ら左右の壁際の椅子に座り開演を待っていると
いう感じである。早く来たので2番目の席で舞
台のすぐそば、所謂かぶりつきという場所であ
る。ソフトドリンクをいただき開演を待つ。
ステージに7人も上がってきた。女性4人はフ
ラメンコの衣装を着け、カスタネットを持ち椅
子に腰かけて出番を待っている。場末の演芸
場のようである。一番手の赤いドレスを着たバ
イレがステージの中央に出てきてポーズを決めるとカンテがフラメンコ独特の深い声で歌いだ
し、ギターがかき鳴らされた。それから、次々とバイレが入れ替わり、つま先や踵を踏み鳴ら
しリズムを刻む。上半身はそらし、ねじり、手指のしなやかな動きが感情を伝える。狭い空間
にギターの弦のはじける音色、カンテの歌声、バイレの手拍子、靴音が響きあっと言う間の異
次元空間でした。初めてフラメンコを五感で感じた感激の時間でした。
スペインパート1
終わり
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