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ポーランド= リトワ連合小史 (ミェルニクの連合まで)

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ポーランド= リトワ連合小史 (ミェルニクの連合まで)
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ポーランド=リトワ連合小史(ミェルニクの連合まで)
鳥山, 成人
スラヴ研究(Slavic Studies), 10: 1-26
1966
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/4978
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
KJ00000112875.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
ポーランド=リトワ連合小史
(ミェルニクの速合まで)
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序
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吐紀に念、に勃興して中位末に東ヨーロヅパ最大の範図を有する大国となった、
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、 19tH:紀以来主にロシアとポーラン
ト系のリトワ人を l
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ロシア人にとっては、その国土のた半が!日キエフ
=ロシアの範関で、住民の大半もロシア系(徒の自ロシア人とウクラ千ナ人、
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ロシア系の三語・芝化・法聾が擾越していたかつてのりトワ大公団の
歴史は、台;然ロシア史のー訴をなすものであった内
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,1959 が最新の研究書であり,これには支献日露も附載されているつ
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5世紀末において固有のリトワ入の罰住地は、 リトワ大公国の範図の十分の 口、下であった。 C
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) リトワ人の国家形成について辻、
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の大公 rr~ の範図 i今で、固有のりトワ系住民約 100 万 i こ対してロシア系の佳民を約 300 万と推定 L ている。
鳥山成人
;工「国史 i研 究 の 一 環 と し て 行 な わ れ て き た こ と に よ っ て 、 し か し な が ら 、 リ ト ワ 大 公 園
の歴史の研究には岳ら一定の眼界と編向がつきまとうことになった。
リトワ自身は第一
次六?で独立したが、文イヒ的にもおくれた小国で、おそらくすぐれた学者も少なかった
ため、
ロシア・ポーランド両国の学者による一定の額向をもったザトワ史解釈が、引続
き国際的に通用してきた。
しかし欧米の学界には近年一部に、
こうした従来の惰性すなわち小田の壁史の研究を
その菌と歴史的に特に利害関係の深い大国の学者にまかせておいて、その結論を無批判
に受入れることに対する反省が起ってきているかに思われる。
そしてリトワ大公菌の歴
史についていえば、最近の H
.Jablonowski と O.P.Backusの研究が、こうした点で、先
ず第ーに注目さるべきものである。
ほとんど相前後して現れたこの二人の学者の研究書
誌、その表題の示すように、ともに、中位末のりトワ大公圏内にお汁るロシア系住民の政
治的動向を扱ったものであるが,その結論もほぼ同じであるつ
クライナ人の歴史家の間では、
19世 紀 以 来 ロ シ ア 人 と ウ
リトワ大公園におけるリトワ入とロシア系住民の間の民
族 的 ・ 宗 教 的 ( カ ソ リ シ ズ ム と ギ リ シ ア 正 教 の 〉 対 立 の 契 機 を す で に 中 世 末 に 認 め 、 15位
紀以降のモスクワ大公開によるリトワ領ロシア j
司復運動の説明にも、この契機を大前提
とする傾向が強かった「
現在のソヴェト史学もこの額向をう:子つぎ、
リトワ大公園内で
のロシア住民に対する畏族的・宗教的抑圧を強調し、ロシア系住民の間には早くからそス
ク ワ 大 公 菌 へ の 統 合 = 復 帰 の 志 向 が 強 か っ た 、 と 説 い て い る 。 こ れ に 対 し て Jablonowski
と Backus は そ の 研 究 で 、 少 く と も 15世紀までは、
リトワ大公園の歴史についても明確
な畏族的岳覚について語ることは困難であること、
14世 紀 末 リ ト ワ 大 公 が カ ソ リ シ ズ ム
を国教として以来、初めはギリシア正教会とギりシア正教徒に対して法的・政治的な差
別 待 遇 が 行 な わ れ た が 、 宗 教 的 迫 害 の 事 実 は な く 、 差 別 得 遇 も 16
世紀までの間に解消の方
向にむかったこと、従って、中世末からめ世紀初めにかけて大公園の東部の一部諸公が
そスクワに鞍変えした事実も、
民族的・宗教的な原国によっては十分には説明できず、
国境紛争や大公権力の強化に対する反機、 '
[
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f職 を め ぐ る 偶 人 的 な 不 溝 な ど が 主 要 な 原 図
であったこと、を主張した行
Jahlollowski と共にその著書で、
従来主にロシア人の歴史家によってえがかれてきた
リ ト ワ = モ ス ク ワ 関 係 史 の 通 説 に 重 大 な 疑 問 を な げ か け た O. P. Backm; は、この後、こ
れまでポーランド人史家によって代表されてきた通説的なポーランド=リトワ関係史に
対 し て も 批 判 を 試 み た の こ の 批 判 が 展 開 さ れ た の は 、 “ Slavic Review" の 1963年 秋 季 号
(
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) リ ト ワ 民 族 主 義 の 立 場 か ら 書 か れ た り ト ワ 史 を 代 表 す る も の に 、 G.S
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ポーランド=リトワ連合小史〈ミェルニクの連合まで 1
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Lカミも、次に述べるように、
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Lか Lこれ;土問題提起と Lて よ り 重 要 で あ
現代的な問題関心ともある意味でつながりをもつもの
であった{
第一次大戦によるロシア・オーストリア両常国の崩壊の時期i
二、束中欧く Ostmittel-
europa,EastCentralEurope)の 諸 氏 挨 は 相 次 L、で念願の独立を達成 Lたぺ Lかしこれ;ヱ
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部分の同が政治i
切 に も 経 済 的i
こもうと全な自立のための条件を
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島 さ も 現 れ た が 成 功 ぜ ず 、 そ の た め に 生 じ た 東 中 欧 地 域 の 政 治 的 不 安 定 が 第 二 次 大f
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第二次大戦後、この地域のた't'::工ソ連邦の指導下に一時ある紅度の
政治的・経済的統f
?を 実 現 す る か に λ え だ が 、 ス タ ー リ ン の 売 後 ソ 連 の 指 J尊力はと λ;二
衰え、ソ連{員Ijの懸命の努力にもかかわらず¥関係諸国は統合より三分立の傾向をむしろ
強く Lてきた「
ところが一方丙ョーロヅパで;工、
E E Cを 中 心 と す る 経 済 的 統 f
?を 政 治
的 統 行 へ の 足 が か り に Lょ う と す る 勃 き も 特 に 小 問 の 間 で は 右 力 に な っ て き た 巧
の政治的・経済的自立達成の困難から、
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アフリカその抱のー忠新興再の問でも、;詩家連
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こ う し た 情 況 の な か で 学 界 の 一 部 に ほ 、 東t
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) の 伝 統 と い っ た も の を 、 改 め て 評 踊 Lょ う と す る 気 運 が 生 れ つ つ
あ る か に 思 わ れ る の そ Lて こ の 場 丘 、 現 段 階 で ほ 、 オ ー ス ト リ ア 奇 麗 に お げ る フ ェ デ ラ
リズムの問題に墜史学者の主な関心は向(十ちれているようであるが、一部の学者はさら
に崎:代をさかのぼらせ、中担:末と近匿のポーランドにみられたフェデラリズム、具体的に
;士、ポーランドを中心としたいわゆるヤゲロ連邦 C
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a区ellonianFederation) や 多 民 枝 の
T体と Lてのポーランド「共和員:にも注意をむ:子始めている( この
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1て L、るのは、 第一"(欠た戦後の東欧にお;トる連 )q~ 主義思想を投う大きな研究のけ;iii立
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こ丹践したが、 この│間 1440-44年と 1490-1ラ26年にハンデf
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6年ポーランド壬の支配下に入って 1
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ラリズムの取扱いは一一一オーストリア帝国におけるフェデラリズム研究の視角について
も 同 様 の こ と が L、 え る と 思 う が 一 一 、 過 去 の 連 邦 制 乃 至 は 連 邦 主 義 思 想 を 、 再 評 価 と い う
、
形で一面的に肯定的・好意的に扱う傾きをもちやすL
とりわけポーランドとリトワの
連合の壁史については、以下に述べるような事情でこの傾向が強く現れがちである。
ポーランドとリトワの連合の歴史は、
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t紀 以 来 ロ シ ア や そ の 抱 の 外 霞 の 学 者 に よ っ
ても研究されてきたが、研究の主流を占めたのはポーランドの学者で、そのうちでも特に
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.Halecki の研究が、
その影響力という点で重要なものであったっ
Halecki は 第 一 次
大戦後のポーランドにおける指導的な歴史学者の一人で、第二次大戦勃発後はフランス、
次いでアメリカに居住して、欧米におけるポーランド史研究者の間で大御所的な地位を
fき た 丹 彼 が 1933Ftこ フ ラ ン ス 語 で 書 い た ポ ー ラ ン ド 史 の 概 £ ま そ の 後 英 語 に も 訳
占宍
されて歌米で広く読まれ、ポーランド=リトワ連合の霊史も、この概説で展開されている
説明が通説的な地位を占めてきた。
現在一殺にもっともスタンダードなポーランド、通史
と さ れ て い る 二 巻 本 の Cambridge History of Polandにおいても、 Haleckiは そ の 監 修
者 の 一 人 で あ り 、 ポ ー ラ ン ド コ リ ト ワ 連 合 の 墜 史 に 関 す る 部 分 は 、 一 部 は Halecki 自身
によって、残りもほぼ披の解釈の線にそって書かれている。
と こ ろ で 、 ポ ー ラ ン ド = リ ト ワ 連 合 に 関 す る Halecki の 基 本 的 な 視 角 は 、 中 世 末 ・ 近
世初頭のポーランドの、議会を中心とする喜由な国制と文化的な先進性が、リトワ入を始
め近鱗諸民族をポーランドに惹きつけ、
リトワ大公国などのポーランド王国への自発的
な 結 合 を も た ら し た 、 と い う も の で あ っ たn
この自発的な結合という点は、
リトワ人な
どの東方諸民談に対するポーランドの「開化的使命」の強調と共に、 1
9世 紀 以 来 ポ ー ラ ン
ド史学の有力な傾向をなしていたが、
Halecki は こ の 傾 向 を 継 承 し つ つ さ ら に 発 展 さ せ
る役割を果したっこの点で恐らく注目すべきは、
一 次 大 戦 直 後 と L、う時期である。
Halecki の 上 記 の 研 究 が 発 表 さ れ た 第
というのは、第ーに、前記のように当時新生ポーラン
日帝制ロシアの西部地域(白ロシア、ウクライナ〉の領土権をソヴェト・ロシアと争
ドは i
っ て お り ( ソ 波 戦 争 入 こ れ が Haleckiの ポ ー ラ ン ド = リ ト ワ 関 係 史 の 取 扱 い に も 影 響 を
与えたであろうことは、
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か つ て ソ ヴ ェ ト の 暦 史 家 B .1
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fPoland,London
,1942(
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(
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) Halecki の こ の 概 説 は 最 近 ド イ ツ 語 に も 訳 さ れ た ( 0 . Halecki,Geschichte Polens,Frankfurtam
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) CambridgeHistoryofPolandfromtheOriginst
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I として引照する。
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. 267-68
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.
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ポーランド=リトワ連合小史〔ミェルニクの連合まで〉
分考えられるからであるの
事実、この時期に新生ポーランドが東部国境にi
返する自らの
主 張 を 裏 づ け る 目 的 で パ リ 講 和 会 議 む け に 準 詰 し た 文 書 も Halecki の 手 に よ る も の で 忘
っ た の で あ る 。 し か し こ れ と 並 ん で も う 一 つ 重 要 な 契 機 と 思 わ れ る も の が あ る c それは、
Haleckiの 国 際 連 盟 と の 関 認 で あ る う 第 一 次 大 戦 直 後 の こ の 時 期 に は 、 国 際 平 和 維 持 機 構
としての国際連盟への期待が、とりわけヨーロッパの小国の識者の間で強かったが、
Halecki も そ の 例 外 で は な か っ た 丹 彼 は 自 ら 初 期 の 国 際 連 盟 で 事 務 局 長 の 一 人 と し て 活
躍しているっすなわち、
Halecki に お け る ポ ー ラ ン ド = リ ト ワ 連 合 や ヤ ゲ ロ 連 邦 の 過 度
の理想化は、国際連盟に対する当時のこのような大きな期待とも無関係ではなカミったよ
うに思われるのである〔
Halecki を 含 む 小 国 の 指 j号;二者ーたちの国際連盟に対する過大な期待はやがて裏切られる
ことになり、また研究史の上でほ以前からロシア人やウクライナ人の歴史家の間に、ホー
ランド=リトワ連合をポーランドによるリトワ大公冨の強制的併合とみる見解があり、
大 戦 後 強 立 し た リ ト ワ 人 自 身 の 間 に も そ の 民 族 主 義 的 立 場 か ら Halecki 的 な 解 釈 に 対 す
る反騒が起ったが、内外の学界i
二おげる Halecki の 権 威 の 故 も あ っ て 、 学 界 の 大 勢 は
立a
lecki の 説 を 受 入 れ て き た 汽 ス タ ー リ ン 時 代 以 後 ソ 連 邦 の 樫 史 学 苔 i
、
主
ポーランド=
リトワ連合をポーランド、支配階級の伝統的な東 }j進 出 計 画 ("Drang nach Osten“ の ポ
ーランド抜)の一環と λ な し 、 戦 後 の ポ ー ラ ン ド 史 学 も あ る 程 度 こ の 解 釈 を 受 け 入 れ て い
る か に み え る が 、 欧 米 の 研 究 者 の 間 で は こ の 契 機 は 大 体 に お L、て無視乃至軽視されてき
このような事情から、東中欧におけるフェデラリズムの再評価といっても、ポーランド
史についてはそれは一一オーストリア帝国のフェテラリズムの扱いとは多分に異って一
- Halecki に 代 表 さ れ る 通 説 的 な 肯 定 的 評 緬 が そ の ま ま 継 承 さ れ 再 確 認 さ れ る と い う こ
と に な り が ち で あ る が 、 こ う し た な か で Halecki 的 評 極 に 正 面 か ら 挑 戦 し た の が 、 前 記
の Backusの 論 文 で あ る
Backus はその論文で、
一的諸要注l(unifyin宗 factors) の 存 在 を 認 め な が ら
ポーランド=リトワ連合における統
ι、 こ の 連 合 が 本 物 の
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)統 ー を も た ら し た と す る 見 解 に は 強 く 反 汁 し 、 ヤ ギ ェ ウ ォ ( ヤ ゲ ロ 〉 朝 は ポ ー
ラ ン ド と り ト ワ の 間 の 政 治 的 競 争 関 係 (politicalcompetitions) と 国 内 の 文 化 的 多 元 性 を
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的な取教いを民難にするようた時代的環境の i
、で主かれたものの多いことが、現在われわれがポーラ
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I I::lリトワ大公誌の尚喜I~ ヴィルニウス〈ヴィルノ)の領有企めぐる紛争で、
1920 年から 38 年まで両国は
外交関保をもたなかった。
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. 433-35 は そ の 代 表 的 な 部 で あ る つ
例 え ば I 1CTOpH
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最近の研究では、蔀記の D
ziewanowskiの論文と、 G.Rhode,
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ヘZeitschriftfurOstforschun必 IX,1960をその')三倒としてあげることができる。
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5
鳥山成人
克服できず、そのため絶討王制の確立にも失敗したとし、宗教改革運動と経済的諸困難、
E張したの この晶え
司じ雑誌の同じ号に
は先に述べたように討論のための問題提起として書かれたもので、 i
それにウグライナの喪失が両国の連合を決定的に掘りくずした、と
は
、
. Halecki と リ ト ワ 系 の 歴 史 家 J
.Jakstas の意見
Backusの 主 張 に 対 す る 問 題 の 人 O
が、両者に対する Backus の 「 解 ? 号 と 共 に の せ ら れ た (
この論争は非常に興味深いものであるが、その内脅に立入ることはここではしなし円
こ の た き な 問 題 に つ い て 思 い つ き 以 tの発言をする能力辻現在の筆者には欠けている〔
それにもともと本稿におげる筆者の関心も、
この論争における問題設定一一ポーランド
没 落 原 内 論 の 観 点 か ら λ たポーランドー=リトワ連合の性格ー
からある程度ずれている門
以 下 に お い て 筆 告 が 式 λ るのは、以上にみたような研究更の性格に由来する制約を¥-分
議 Lた 上 で 、 傾 く 限 ら れ た も の で あ る が 手 も と の 若 干 の 文 献 を 利 明 し て 、 ポ ー ラ ン ド =
意i
せ紀初頭まで筆者なりにあとづげてみること、そしてその間に可
リトワ連.合の歴史を 161
龍な範間内で多ィ}'とも問題の整理をすることである円
この歴実的概観と問題の整理はご
く大雑把なものであるが、これはもともと、ポーランド=リトワ連合史のピークで、同時
に こ の 主 題 に 関 す る 筆 者 自 身 の 関 心 の 焦 点 で も あ る ル プ リ ン の 連 合 (1569)を め ぐ る 諸 問
題を究明するための予備的作業として行なわれるもので、こうした目的に由来する限界
と制約をもっているの
I
ポーラ γ ドとリトワの連合の歴史ほ、 1385年 9月 14日 の い わ ゆ る 「 ク レ ヴ ォ の 連 合 j
に始まるつポーラ
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ドで、は10陛 紀 以 来 の 民 挨 主 朝 た る ピ ャ ス ト 朝 (
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)の 断 絶 (1370)
後 、 こ の 王 朝 の 最 後 の 国 主 カ ジ ミ ェ シ ュ 3世 (Kazimierz Uち の 甥 に 当 る ハ γ ガりー王
J
レドヴ、ィーク Ludwik 1世〉、この
ラヨジュ (Lajos= Louis) が ポ ー ラ ン ド 主 を 兼 ね (
ノレドヴ
f ークの死
(1382)後 そ の 娘 の 一 人 が ポ ー ラ ン ド の 貴 肢 に よ っ て 1384{
ド女王に迎え
られたが(ヤドヴィーガ工この女王の配偶 t;- にえらば、れて 1:~H6 年ポーランド王ヴワドケ
イスワフ 2
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(Waldyslaw 1ち と な っ た リ ト ワ 大 公 ヤ ギ ェ ウ 才 ( Ja以iello. リトワ f
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ガイラ Jogaila) は、これに先立ってその前年リトワの白府ヴィノレノの近くのクレヴ
4
(Krewo)に お け る 交 渉 で 、 彼 の 一 族 及 び 全 国 民 と 共 に ロ ー マ 教 会 の 信 仰 を 受 け 入 れ る こ
とと並んで、
リトワ大公国(リトワ本土とリトワ領ロシア〕を永久にポーランドの王冠に
加えること〈“ t
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) リトワ大公園のロシア系の在民はキエブ時代にキリスト教〈ギザシア I
E教 〉 を 受 入 れ て い た が 、 罰
有のリトワ人はなおキリスト教に帰依していなかった。
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ポーランドニジトソ連合小史〈ミェノレニクの連合まで〉
が
、
こ の 契 約 の 文 書 の “ applicare" と い う 言 葉 の 意 味 す る と こ ろ は 法 的 に は 明 か で な L、
ポ ー ラ ン ド で は こ の 後 、 こ れi
主 リ ト ワ 大 公 自 の ポ ー ラ ン ド 王 国 へ の 合 体 (incorporation)
を意味するものと理解され、大公冨の国家的独立の解消を伴う完全な合拡をポーランド
側 が 要 求 し 続 け る 張 拠 と な っ た 。 研 究 史 の 上 で も 、 ポ ー ラ ン ド 国 制 史 の 権 威 O.Balzerやリ
ト ワ 大 公 国 史 の 権 威 江 回 6aBCKH註を始め多くの学者が、
リ ト ワ 大 公 温 は 法 的 に 誌 1386年
ポーランド王国の一部になった、としてきた。そしてその場企、その証拠とされたのは、
1386-89年 に リ ト ワ と ロ シ ア ( リ ト ワ 領 ロ シ ア 〉 の 諸 公 が ヴ ワ ド ヮ ィ ス ワ フ 〈 ヤ ギ ェ ウ
ォ入ヤドヴィーガ及びポーランド王冠に対して臣従の誓をしている事実である。しかし
これは完全な合体を意味するものではなかった。
ての子描的な了解であっ
クレヴォの契約誌もともと連合につい
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ζ、その翌年現実に連合が成立
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をにこの連行の性格につい
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、
て具体的なことがとりきめられた治、とうカベヱ J
しかし L、ずれにせよりトワ大
公 園 は 1386年 後 も 事 実 上 独 立 を 保 持 し 、 独 自 の 外 交 政 策 を 展 開 し 続 げ た の
クレグォの連合をもたらした事情について辻、一般には、両国にとって共通の数たるド
イツ騎士出に対する共同動作の必要という契機が最も主主見されてきた〔
と 両 国 の 関 係 に つ い て 詳 述 す る こ と は で き な L、
が
、
ここでは騎上国
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、
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品 ニ 奪 わ れ た ポ モ ー ジ ェ (Pomorze= Pomerania) の 凶 告 を 国 家 的 課 題 と Lて お り 、 抱
11リトワも、パノレト海岸のジュムツィ
最も重要な課題としていたへ
(Zmudi= Samogitia) へ の 騎 土 自 の 侵 略 の 排 除 を
ド、イツ騎土田とのたた方式、の成否は客観的には、両国、と
くにリトワにとってその国家としての存立にかかわる問題であり、
グレヴォの連合に捺
してワトワがカソリシズムを受入れたのも、!騎土白から異教徒征討の口実をうばうため
であった、と考えられる一面があるつ
し か し 、 ド イ ツ 騎 士 団 と の た た か L、の必要というこの契機は、この後の 1410年 の 騎 土 司
軍 に 対 す る ポ ー ラ ン ド ・ リ ト ワ 連 合 軍 の 大 勝 と Lづ 事 実 の 設 に 、 一 般 に 立 不 当 に 重 視 さ
れてきた惑があるのこの点で注昌すべきは、クレヴォの連合成立当時のポーランド王国と
ドfツ 騎 上 国 の 関 係 で 、 両 苫 の 間 に は 1
:
)
4
3年 の 条 約 以 来 平 和 が 保 た れ て お ワ 、 当 時 騎 士
ほ の Eな 攻 撃 呂 標 i主リトワ大立与国であった川
確保することは、
ポ モ ー ジ ェ を いi
復してノりレト海への出口を
ポーランドにとっての念願であったが、
この i
問題に特に深い利害関係
こ の 言 葉 の 法 的 意 味 を め ぐ る 研 究 史 に つ い て は 、 Rhode
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を も っ て い た の は 北 ポ ー ラ ン ド の 皇 族 で あ っ た ( これに対して、ノレドヴィーク王以後王
国 の 政 治 を 動 カ ミ し て い た 南 ポ ー ラ ン ド 付 、 ポ ー ラ ン ド Malopolska)
クライナ問題に最大の関心をもっていた巧
の貴族は、~f]時ウ
13世 紀 以 来 ポ ー ラ ン ド ほ 西 ウ ク ラ イ ナ の 支 配
権をめぐってリトワと激しく争っており、ピャスト朝の断絶後十ポーランドの政治家は、
ハンガリーとの向在連合によってこの問題でリトワに対して霞位に立とうとしたが、こ
れ が か え っ て ハ ン ガ リ ー の ハ リ チ (Halicz= faJIH的 支 配 を も た ら す と 、 今 夏 は リ ト ワ と
a= BOJIhIHh) に
の 連 合 で こ の ハ リ チ を 同 復 し 、 さ ら に は そ の 北 の ヴ ォ ウ ィ ニ ャ ( Wolyni
も進出をはカミろうとした n
すなわち、西ウクライナ問題の有利な解決ということが、
レヴォの連合に勺つてのホーランド側の重要な狙いであったのである司
ク
そして事実十ポ
ーランドの貴族は、連合の成立後間もなく、ヤギェウォとリトワ軍の協力を得てハリチを
同復し、そこで多くの官職と土地を獲得している n
ただし、ウクライナに対するポーラ
ン ド 、 特 に 小 ポ ー ラ ン ド の こ の よ う な 積 極 的 関 心i
工、この段階では、当時重要なものであ
った黒海沿岸都市を介する東方貿易の利害とも大いに関連しており、現在のソヴェト史
学のように、
ウクライナの沃野での土地の獲得がこの時代に既にポーランドの貴挨の関
心のすべてであったとするのは、後世の歴史事実からする不当な類推といわなけれぽな
らないっ
リ ト ワ と の 連 合 を も た ら し た ポ ー ラ ン ド 側 の 要 同 と Lては、この他に、ヨーロッパに残
った最後の異教の民をローマ教会の指導下に教化しようとする宗教的情熱といった契機
も考えられるが、このポーランドに対してリトワ側の要因としては、ドイツ鯖七間からの
脅威が決定的に重要なものであった内
なっていた治、らである丹
リトワ大公園は当時騎士団の直接の攻撃の対象に
Halecki は 、 当 時 従 弟 の ヴ ィ ト ル ト
(Witold. リトワ名ヴ、ィタ
ウタス Vytautas) に 国 内 で 支 配 権 を 脅 か さ れ て い た 大 公 ヤ ギ ェ ウ ォ が ポ ー ラ ン ド 王 設 の
獲得による自己の地位の強化を望んだことを、連合成立の最も重要な契機とみなしてお
り、瓦ぉ6aBCKH誌 も こ れ に 近 い 見 解 を と っ て い る が 、 こ の 要 国 は や は り 二 次 的 な も の と み
るべきであろう内
量i
与のロシア系住民に対
また現在ポーランドとソ連邦の宇t;-は、大公 i
する支配の強化と新興のモスクワ公i
廷に対する東部防告の必要の意識が、大公国の支配
層をポーランドとの連f
Tに 導 い た i
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l要 な 要 因 で あ っ た 、 と し て い る が 、 こ の 主 張 も 先 に ふ
れ た Jablonowski と Backus の研究などに照すと、
十 分 な 検 討 を 経 ず に は 認 め が た L、
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以前にあったヤギェウォとグィトノレトの支配権争いの単なる再発というふうに理解して、
両 国 の 連 合 の 不 安 定 性 の 原 因 を 専 ら リ ト ワ 大 公 家 〈 ゲ デ ィ ミ ナ ス Gedjminas家 〉 の 内 紛
に帰することも、これまた一つの行きすぎである。
ヴィトノレトに対する大公国の貴族の
支 持 の な か に 、 連 合 に 対 す る 反 援 と Lづ 契 機 も か な り の 程 度 存 在 し た で あ ろ う こ と は 、 ヴ
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ト ル ト に 対 す る ヤ ギ ェ ヴ ォ の 大 き な 譲 歩 に よ っ て 両 者 の 対 立 を 一 応 解 消 さ せ た 139:
2
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のオストルク
(Ostr6k)
の協定の内容やその後のヴィトルトの ~JJ ;
ぎ からも推測できるよ
うに思われるからであるつ
オストノレグの協定でヴィトノレトは、前任者のスキルギェヴォとは違って、本来のりトワ
ば か り で な く り ト ワ 大 公 園 全 体 に つ L、てヤギェウォの代理の地{立を認められ、この結県
1
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}復した門
大 公 国 は 一 つ の 統 治 単 位 と Lて の 統 一 性 を 1
オストルグの協定はヤギヱウォの
}-:.権を認めること以上の義務をヴ{ J、ノレトに課さず、このため事実上.リトワの大公とな
ったヴィトノレトは、この捺詞内の諸公から統治権を奪って行政の I
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'央 集 権 化 に 努 め た n
こ の 国 内 に お け る 支 配 権 の 強 化 と 並 行 Lて ヴ { J、/レト i
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の大公国のぷ本的対外政策たる東方政策を再開し、この政策の推進の過程に陵顧のう
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の 称 号 を お く ら れ た っ こ れ は 1 J86年 以 来 の ポ ー ラ ン ド と の 述 介 の Y
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j政策は平くもその翌年、
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ドニェフりしの支流〉河畔のタタール軍との戦いにおける大敗で挫折し、他方ポーランド程Ij
では反ヴィトルト勢力の中心であったヤドヴィーガがこれと相前後して死んだため、ヤ
ギェウォとヴ、ィトルトの間には新な妥協の可能性が生れ、
1401年 に な っ て ヴ ィ ル ノ = ラ
ドムの連合 (UniaWileIIsko・radom) が成立した。
この新な連合も、リトワ大公国に対する最高権はヤギェウォに留保したが、同時にヴィ
トノレトに対して法的にもりトワ i
二対する大公権力を認めた。
ヴィトノレトは今や法的にも
ヤギェウォの単なる代理者ではなく、数は少くなったがなお残っていた大公国内の諸公
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本来のリトワ」に限られ、「そのftl!の領土」は諸公一一
多 く は か つ て の リ ュ ー リ ク P泊予HK家 の も の に 代 っ た ゲ デ ィ ミ ナ ス 家 の 諸 公 一 ー の 半 ば 独 立 の 統 治 権
の下にあった。ヴィトルトの中央集権北政壊については、 H
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の新な妥協のさまたげになったとは考えず、逆に、このお?な妥協は彼女が生前に準備したものでふっ
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)。 こ れ は 、 [ 生 前 か ら 聖 者 と み な さ れ て い た こ の 寛 大 な 女 性 J(
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) という
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Halecki の ヤ ド ヴ ィ ー ガ 観 に よ る も の で 、 被 の 著 作 全 体 を 特 撮 づ け て い る カ ソ リ ッ ク 的 露 見 の ・ 併 と
いえる。
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その社会的地{立の強化と共に、│母の政治への参
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の連合でリトワの貴肢は獲得したう狭義のリトワ(ヴィノレノ・ト
ロキの:2,)十!)の行政面にポーランドの官~lJIJ が導入され、大公の百J 言機関たるラート (rad)
が正式の諮問機関として制度化され、さらに、
i
ーポーランド、王国とリトワ諸領の大貴族、
1es
高 僧 及 び 貴 族 が 参 加 の 権 利 を も っ 、 両 国 の 福 祉 と 利 益 の 審 議 jの た め の 集 会 (conventioi
1amenta) の関罷がきめられたの
et par
しかし 1413年 の 諸 特 権 の 亭 受 を 許 さ れ た の は 、
1387年 の 特 権 状 の 場 合 と 同 様 、 本 来 の リ ト ワ の カ ソ リ ッ ク 教 徒 だ け で 、 新 設 さ れ た 守 職
もロシア系のギリシア正教徒の貴援には開放されなかった("',
14日 年 の 特 権 状 i
主 、 連 合 に 対 す る リ 卜 ワ の 貴 族 の 支 持 の 強 化 を E的としていたが、
こ
れはその内谷志、らみて大公国の白膜屑内部の二つのグループの反擦を招く可能性をもっ
ていた《その
4
つはりトワの i
二層長族すなわちマグナートたちであった門
この時代リト
1小 貴 族 の 社 会 的 ・ 政 治 的 な 特
兄p
HH) とよ;工、れるようになった 1
ワ で ボ ヤ ー ル (bojar= 60
権 獲 得 は 、 マ グ ナ ー ト だ け の 特 権 と し て は 可 法 上 の そ れ Lヵ 、 残 さ な い こ と に な り 、 彼 等
は、ポーランドへの接近が大公圏内での自分たちの地位と影響力の椙対的低下を伴うこ
とに当然反援するはずであったっ現実にはこの後日世紀を通じてマグナートは引続き大
公 習 の 政 治 を 独 占 L、 彼 等 の 政 治 的 影 響 力 へ の ボ ヤ ー ル 層 の 挑 戦 は よ う や く 16世 紀 に な
って起るが、
141
:3
{rの 一 連 の 特 権 : 伏 が り ト ワ の マ グ ナ ー ト た む を Lて連合にみIして原 H
I
J
i
切 に 批 判 的 な 態!
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:
2
2を と ら せ る 1
1
m
主性をもっていたことは,-分考えられる η
ことりきめられた、
ドウォの連合の際i
そ Lて、ホロ
I
!
!
j
)I
量の名門貴族の問の養子関係の設定という有名
な事実も、恐らくはこの点を考慮することで始めてその意義が正しく理解されるように
思われる円
当 時 ポ ー ラ ン ド の 貴 族 は 、 そ れ ぞ れ 一 定 の 紋 章 と 名 称 を も っ た 氏 族 (rod) に 組 織 さ れ
ていたが、
ホロドウォの連合の際の両国の代表のとりきめの結果、
47の ポ ー ラ ン ド の 氏
(
1
) 日目可eTa
,JIHTOBCKO・IIOJIbCKHeyHHH• • • ...• CTp.528-29
(
2
) TaM )Ke,C
T
p
. 529; Wojciechowski,o
p
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.,p
. 127; Backus,"Die Rechtsstellung.
S
. 15-17; Ba
ckus,お1
0
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. 37
(
3
) CHP,1
,p
. 217; nH可eTa
,JIHTOBCKO・
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H
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T
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.529;五回6aBCKH
,
益 YKa3.
CO
'
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, CTp.58-59;Ba
ckus,Motiv
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s......,p
. 37; H
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,s
. 570
(
4
) Jablonowski,A.a
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. 39-40;CHP,1
,p
. 217;日H
l
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T
a,
瓦HTOBCKO・
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,
.p
. 37
C
T
p
.529; Ba
(
ラ
) リトワ大公留のボヤールについては、 O. P
. Ba
ckus の二つの論文 ("Die R
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c
h
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n 1387-1506
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s,VI,1958; “Problem o
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Feudalismi
nLithuania,1506-48,
"S
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c Review
,XXI,1962) が詳 L くJ
茂っている。他に、 H
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,572; K
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.257-61;Vernadsky o
p
.c
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,
.
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p
. 196-200 をも参
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(
6
) 日目可eTa,
JIHTOBCKO・I
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C
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p
.529
(
7
) 刀ぉ6aBCKH九 YKa3.CO
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.
, C
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. 75;訂
波
可eTa,JIHTOBCKO・
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,. CTp.529-30
(
8
) この点については、 H
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s
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i
apanstwa......,1
,s
. 232
,425;Wojciechowski,o
p
.c
i
t
.,p
p
.175-8
を参照 c
1
2
ポーランド=リトソ述合才、史{ミェ 1
:
-ニクの述令まで
肢が I
l
i
J亡数の
1
)
j
1
、ヮの名 I
I
I
J'~It 扶全長!\二迎え人.tLたへこ,h iこよ-)てそれぞれ養家元の紋
市:を使うことになった,'17の
1
)
I
、l} uHC;佐.工、そのほとんどがこの│ヰ代の史料にも名前の
つであった
出てくるリトワの主主 I斗の名 i
片言史上極めて珍ら Lい こ の よ う な 養
f関係の;没
J
足
t来、│ド尚
山
I
M
可
1
国 の 支 配i
階:潜昔級椙白互;の人的 i
関
男f
係 系の強化による連合の恒久化と L、づう積砂極~(的,ミ刊;均ヲな t討i
定;工、;従
f
的
内
iせをもつたものと理理.解さ
5
分上たちの政治力を J
i
己
:
いけ)くずして行くことを恐 れ
jLる大公!国君のマグナ一トたちのう分士離 i
七
L義 的
な酎動jき を 弱 め よ う と す る 、 い わ ぽ
i
ど消
J
f
向
i
捧
傾
;
的
;
な
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性全格のものであつ f
たニ、とする方が、 よ り 真 実 に
長
街
婦
完
語
詰
B
近いように忠われるへ
このよ主命点、らの離脱の動きが単なる可能性にとどまらなカミったこ
とは、ホロト、ウォーの連 f
T後 の 歴 史 が 物 語 っ て L、る" Halecki (
1, 'このような異常な 1
1
¥
来
事 ( 養 子 関 係 の 1立定のこと
烏1
[1
):
1
;
臼く評価されすぎることはなし二として、
f? の後の I~jj[五の協力関係の進展を JJJえしているが、
この述
これはホーランド=リトワ連f
?のJlH
,
1
l
!( と と い う 伎 の 発 想 の 焦 ら し め る と こ ろ で あ り 、 現 実 に 辻 、 ヴ ィ ト ル ト と た 公 園 の マ グ ナ
Tに 消 極 的 で あ り 、 そ の 内 外 政 策 で 、 ヤ ギ ヱ ウ ォ =
ートたち(之この後も概 Lて 王 国 と の 遥 f
ホーランドの利益に反してまで独自の政策を展開した「
、ルト晩年の、
な宇のが、ウ{ 1
ドウ
1
)
そしてそのような政策の民点を
I
、ワを独立の主 i
云にしようとする什両で、あった「ホロ
4の述(i-(土、大公!司のマグイートの自覚的な分離七義 1足止の契機をな
Lた、と L、わな
{
ト
,
!
((f/
i
:
,
ら
な l',-;
重
ホロ F ウ 4 の j主 fTi ニ ιI ずる!五段 i 之、第二;二、
1387 年と 14L~ 年の特権状において作権の
宇:受から捻件されたロシア系=ギリシア正教徒の;白:族から起,)f
守るものであったう
L/
)
.
し作権をカソリァケ教徒に|哀ることによる、ロシア系の貴族に対するこのような il~ (jヲノ忠
明jが
、
ただちに民底的・宗教的対立をリトワ大公毘l
今に惹き起すことはなく、
1
6
1
H
:紀 に
之って始めてロシア系住民の自覚的な民族=宗教運動が起っていること辻、先i
こ Jablonowski と Backusの 研 究 書 に ふ れ た 際 i
二述べた通りであるつもっとも、民候意識や宗派
的吋立感信と i
白:誌にはか/).わりのな L、ものにせよ、
ロシア系去勢;の政治下j不 満 が 法 的 J
7
2
}
}
I
J待 遇 に よ っ て 発 生 Lたことは事実であり、この契機辻、,)'、{ I
、ル i
、の死(14
30) 後シ lン
1
"
1/
1
- {ギェウォー
た♂シヴィドノレ
獲得したっ
CSwidryεieBo) が り ト ワ 大 公 に 選 出 さ れ る 際 に も 電 要 な 役 割 を 思 し
f ギェウ寸;工大公
i
司 の 貴 族 、 特 に ロ シ ア 系 の そ れ の 強 L、支持で大公 f
立を
彼はヤギェウォの弟で告らほカソリッケ教徒であったが、永年大公国のロシ
(
1
) CHP,,
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. 217;H
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(
2
) 例えば、 CHP
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.217; H
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・
・
奄 1
,s
. 570
(
到 なお、徒にみる 1440-47年の連合関採の中絶と両日4の関係の緊張の時期 iこ、大公国の一部マグナー
:、はポーランドの紋章な放棄 L て以 HÍjヅヲ紋京~~.: 使Jt
J1た
(G,
Rohde
,
.
.
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4
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(
4
) CHP,1
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. 217-18
(
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, C
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2
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1 p
. 225-27 で こ の 事 件 に つ
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:
'Lて L、
る ノ
いて独自の解釈 '
(
6
) こ ハ 点 に つ し て ; ヱ 立 106aBCKH長
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Ka3.CO可
.
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p
.60-61 ~参照 σ
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1
3
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jて、生活してロシア系氏族の I
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の ~j: 権を与えるであろうことが期待されたのであった「
ホロドウォのj
主{i(i、 1
) トワ大公の選任がポーランド、リトワlI
'
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j
[
誌の代表との協議のJ
:
でポーランド国王によって行わるべきことを定めていたが、
公園のマグナートたちだけの手で、大公に選ぼれた。
シヴィドルィギェウォは大
これは、王国との連合に対する大公
園のマグナートたちの敵意を公けにしたものであったが、ヤギェウォ l
工この決定に対し
てただちに事後承認を与えた。
ヤギェウォ l
土、これよりも先晩年のヴィトルトが王冠を
いただこうとした時にも、これに暗黙の是認を与えており、このヤギェウォの不思議な態
度は、恐らいま、自分の一族による陛襲的なリトワ王朝の確立を、法的になお不安定なポ
ーランドにおける自分とその子孫の地位の強化に役立てようとしてのことであった、
と
解されているが、実弟シヴィドルィギェウォの大公{立を承認した場合にも、同様な王朝
的配慮、が働いていた、と考えられるの
王朝が独自の利害をもっていたことが、
ポーランド=リトワ連合の歴史過程を複雑な
ものに Lた こ と は 、 以 下 の 記 述 の な か で も がJ
I司 か 確 証 さ れ る は ず で あ る が 、 こ の 場 合 に
もポーランド王とポーランド貴族の利害は一致しなかったっ
1
4
1
:
1年 の と り き め に も か か
わらずりトワ大公の選任に際して協議にあずからなかったポーランドのマグサートは、
ヴィトルトと河本芸大公留の自主主tを維持しようとするシヴ、ィドル
f
ギェウォには当然反
接 Lた 。 そ し て こ れ に 両 同 の 南 諸 国 境 地 帯 の ポ ド ー レ (Podole= Podolia) と zグォウィニ
をめぐる領土争いが加わることで、
関採は急速に悪化したっ
ポーランドのマグヲートとシヴ、ィド‘ノレィギェウォーの
司か調停者の立場に立
こ の 間 に 特 徴 的 な こ と は ヤ ギ ェ ウ ォ が 何i
っ て い る こ と で あ る が 、 こ れ も 結 局 法 成 功 せ ず 、 ポ ー ラ ン ド の マ グ ナ ー ト は 1432年 9月 大
公雨内の反シヴィ下、ノレィギェウ
ムント
(Zygmunt)
4 勢力を助げてケーデタを全て、
ヴ
f
トノレトの弟ズ
f
グ
を大公の地 f\~( につげたの
このグーデタの産後にヤギェウけ主、 1
:
3
8
7年と 1413年にリトワのカソリ、ソク系貴族に
だけ認めた特権をロシア系の貴族にも拡張する特権状をた公開に与えたのこの特権状辻、
大 公 習 の ロ シ ア 系 = ギ リ シ ア 正 教 徒 の 貴 族i
こ対する宥和を犯し、としたもので、この点は、
この特権状が同時に、リトワ系の貴族に、ポーランドの河族=養家の承認を得た上で、ロシ
(
1
) 1
4
3
1年 i丹 3
1日 付 の ド イ ツ 騎 士 団 長 宛 の 手 萩 で リ ヴ ォ ニ ア 騎 士 団 長 は 、 シ ヴ ィ ド ル ィ ギ ェ ウ ォ を 倒
すものは全ロシア人と仲違いをすることになろう,と述べている
く
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Russland von denAnf
丞n
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) 瓦ぉ6aBCKH九 YKa3.CO
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.62;CHP,1
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. 228; H
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Wiesbaden
,1963,S
. 34
lp
. 226;Wojciechowski,o
p
.c
i
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.,p
.1
1
7
(
3
) CHP,,
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p
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3
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院先 y
KpaHHcKO負
(
5
) こ の 時 期 の 両 面 の 額 土 紛 争 に つ い て は 、 Hrushevsky,op,c
CCP,1
,C
T
p
. 157;CHP,1
,p
. 228
O
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.,C
T
p
.63-4;CHP,1
,p
p
. 228-9;Jablonowski,A.a.O S
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6
) 江 106aBCKH九 YKa3.C
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,s
. 571
九 YKa3. CO
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, C
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p
. 64; Jablonowski, A. a
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.41; Backus,Motives.....
(
7
) 江路6aBCKH
p
. 38; nHqeTa,
JIHTOBCKO・nOJlbCKHeyHHH......,C
T
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認めた事'支に端的に表現
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策にもカゆるわらず、
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K,
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) トリでしか認められず、
f ギェウ
4 を 2.
1
:
JL、
クーデタで即位し
ロシア系;氏族は J
rI
続きシ,;/ 1
このため 1
I
I
I
j告の!日J; こは内乱(1 4~t2~:38) が起った σ これは恐ら
く、純粋の王朝的利害 i
ニ導かれてとられたヤギェウォの宥和1&策が、王函と大公国のカソ
リメク系支族から支持されず、?をに学界で問題になるように、 1432年 の 特 権 状 の 実 効 性 す
らが疑わしいことに有力な原!ながあったように忠われるの
日目可 e
Ta やその抱若「の学長のいうように、
1
4
:
3
2年 の 狩 権 状 に よ る ロ シ ア 系 貴 族 へ の 特
権 払 大 は 、 ロ シ ア 系 と い っ て も カ ソ リ ァ ク に 改 宗 Lた も の に 限 ら れ た と す る な ら ; え ヤ ギ
ヱウォの宥和策はもともと意義の少いものであったことになり、これが、シヴィドルィギ
ェウォを引続きロシア系貴族が支持した主な理由とも考えられる 3
には、特権をカソリヅク教徒に!哀る之;言は見当らないっ
しかし問題の特権状
とすればやはり、両揮のカソリ
の王朝的利害の不一致という点に若 l
iす る の が 、 よ り 正
Lいよう i
二思われる〔そ Lて ま た 、 こ の よ う に 考 え な け れ i
え こ の 2年 後 の 1
4
:
3
41
j
ての特権
ソク系貴族の科書とヤギヱウ
4
状が、適用範関に関する J1~ 1
)完全に凡じであるにもかヵ、わらず、
ア系貴族のシヴ
f
後にみるように、
ロシ
ド
ノ!-.i ¥
0
ゴ ェ ウ 守 支 持 に 慢 を 打 ち こ む 役 割 を 果 Lた f
里由もわからなくな
る円 14~32 年の特権状と 14:H 年のそれの大きな違いは、後二重;ーがヤギェウォではなくズィグ
ムントによって、しかも恐らくカソリ
として l
Hされている点であり、
y
グ系貴長の河童、をも得て、行 i
i
f
iっ た 内 乱 の 打 開 策
この 1434年 の 特 権 状 に つ い て は 、 そ の 実 効 性 も 学 界 で 問
題 と さ れ て は L、ないのである内
き て 、 ズ ィ グ ム ン ト は 大 公 に 推 さ れ た 直 後 グ ロ ド ノ (Grodno) で ポ ー ラ ン ド の 代 表 と
の間に新な連合のとりきめを行った(翌 1
4
3
:
3年と 34年 に も 確 認 さ れ た こ の グ ロ ド ノ の 述
{
i (Unia Grodzienska) 、
土
い て リ ト ワ 全 Lは ズ
しい大公は王│母
f
ズィグムントに伊:襲的な所領として年えられたトロキを除
グムン i
、の死後ヤギェウす乃弓そその子孫の子に妹すべきこと、
新
.k公 国 涙 }jの マ グ ナ ー ト に よ っ て 一 致 し て 選 任 さ る べ き こ と を I
守容と
しており、この点で、
リトワ大公園の白立性を一時的なものと
への復帰を志向するものであったう
これは、ポーラン
に Lたズィグムントの言弘、立場を反映していた今
Lt
ニ1401年 の 連 合 の 原 則
1
"0)マ グ ナ ー ト の 力 で 大 公 位 を 子
大公圏内では、シヴ、ィドルィギェウ
4
を 擁 す る ロ シ ア 系 貴 族 のj
輩出によって政治上の独占的地位を脅かされることを恐れる本
来のリトワのカソリック貴族だけが、
このグロドノの連合を確認したっ
グロドノの連合と同時にズィクムントとポーランドの代表の間には、両国の領土争い
(
1
) Cf
.Jablonowski,A.a
.0
.,S
. 41-42
(
2
) 口u可e
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a
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lHTOBCKO
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I
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J
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b
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K
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T
p
.531
.Jablonowski,A. a
. 0.,S
. 42-43
(
3
) Cf
(
4
引
) Ba
じk
t
出
1
廷
,
路
ら
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ら "Di
陀
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俗
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. 253
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(
7
) CHP,I
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.571;O W
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lHTOBCKO
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OJIbCKHeyHHH....
..•
C
T
p
.532
署
リ
ラ
i
鳥山成人
についても協定が成立したっしカミしポドーレをポーランド領と L、ヴーヰウィニをズィグム
ントの在位期!日i
に限って大公領としたこの決定は
こ れ 主 た 大 公 国 側 に 不 平J
Iな も の で あ
り、しかもこの協定すらがポーランド側ですぐには承認されず、これが大公園の内乱の解
決 を 引 き の ば す ー 悶 と な っ た っ ズ ィ グ ム ン ト は 大 公 園 の 中 心 部 を 支 配 し 、 1432年
、 33年と
相次し、でシヴィドルィギェウォを破ったが、大公園高部のロシア系地域に根強い地盤を
もっシヴィド、ノレィギェウォーの支配をくつがえすことはできなかったわ
このようにして大
公 国 が 事 実 上 二 つ の 国 に 分 裂 Lた形勢のなかで出されたのが、 1434年の特権状であったれ
こ の 年 5月 に ズ ィ グ ム ン ト の 与 え た こ の 新 し い 特 権 状 は 、 従 来 の 貴 族 の 諸 特 権 を 確 認
Lつ っ さ ら に こ れ を 強 化 す る も の で あ っ た が 、 内 容 的 に み て こ の 特 権 状 の 新 ら し い 点 は 、
i
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i jure victum" の 原 則
ポ ー ラ ン ド で 実 現 さ れ た ば か り の “ neminemcaptivabimus n
の 影 響 下 に 、 大 公 は 、 裁 判 に よ ら ず 告 発 と 嫌 疑 だ げ で は 何 人 を も 罰 Lて は な ら な い 、 と い
う 条 項 を と り 入 れ た こ と 、 そ れ か ら こ れ ま た ポ ー ラ ン ド の 影 響 で 、 1413年の特権状で、も
な お 要 求 さ れ て い た 租 税 か ら 貴 - 族 を 解 放 し た こ と で あ っ た n この 1434年の特権状は、
シ ア 系 の 地 )Jも含めて大公園の全土を主主象として出された最初の特権状であり、
ロ
1413年
に在I
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没された最高の有職と大公政府(ラーダ)への参加の権利は引続きカソリック教徒に
鼠採しつつも、
1387年 以 来 狭 義 の リ ト ワ の カ ソ リ ッ ク 系 貴 族 に 限 ら れ て い た 員 - 族 の 諸 特
権 を ロ シ ア 系 の 貴 族 に も 拡 大 し た 。 2年 前 の ヤ ギ ェ ウ ォ の 特 権 状 は 実 効 を も た な か っ た
ので、
このズィグムントの特権状で姶めてロシア系貴族主ギリシア正教徒の法的手手が
実現されることになったが、ミれは明かi
こシグィドノレィギェウォの権力の基盤を掘りく
ず そ う と し た も の で あ り 、 翌 1435年 の ズ ィ グ ム ン ト の 決 定 的 な 勝 科 の 前 提 と な っ た 門
1435年以後もシヴ、ィド/レィギェウォはたたかいをやめなかったが、
この勝手 IJで ズ ィ グ
ムントの地位は確立し、彼法この後ポーランドi
こ対する自主性の強化を考え始めた♂内
外 の 情 勢 は ズ ィ グ ム ン ト の IH-画の実現を詳さず、 1437年と :
1
9年 に も 彼 は 、 領 土 問 題 を 合 む
1432~34年のとりきめを再薩認せざるを得なかったが、このような彼のポーランドから
(
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2年 と 34年 の 特 権 状 は 、 大 公 国 の ロ シ ア 系 の 業 地 方 の う ち 一 部 i
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2年 ー の 特 惨 状 を カ ソ リ ヅ ク 教 徒 に だ け 適 用 さ れ た も の と す る nH可eT3 は じ め 若 干 の 学 者 は 、
1
4
3
4年 の 特 権 状 に つ い て も 同 様 の 主 張 を 行 っ て い る が 、 学 界 の 大 勢 は 、 : つ の 特 権 状 は と も に 、 カ ソ
E教 徒 を 医 別 し て い な い 、 と Lて い る (C
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. Jablonowski,A.a
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の自主性強化のぶ向;之、
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ミ公菌のマグナートの伝統的な分離主義を表現したものであっ
た《大公園のマグナート;之、大公国の政治におけるその独占的地位をシヴ千ドルィギェ
ニ役される恐れのあった間は、
ウ 寸 派 の ロ シ ア 系 賓 族t
ポーランドのマグナートの協 }
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丹るため大公園の王菌に討する従属を認めることもあえてしたが、この危険が去ると、王
i
重 か ら の 自 主 性 の 強 化 と い う 伝 統 的 な 政 策 に 復 増 し 始 め た の で あ っ た っ そ Lて こ の 故 策
を実現する機会は、
1440年 5丹 ズ ィ グ ム ン ト 大 公 が 暗 殺 さ れ る こ と で 、 意 外 に 早 く I訪れ
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ズィグムントが陪殺されると、大公国のマグナートの-i)i
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を大公におそうと L たが、他のものはポーランド国王ヴワドゥィスワフ:~
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34-44) を 大 公 に 迎 え よ う と
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ー 遠 征 計 画 に 忙 殺 さ れ て い た ヴ ワ ド ゥ ィ ス ワ フ 3世は、
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の 弟 で 当 時 13哉 の カ ジ ミ ェ シ ュ (Kazimierz) をヴィノレノ乙送りこんだ門大公賓にお:十る
工費を国王の代理 (
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うとしたが、大公園のマグナート;土ヤン・ガシュトノレト(J
anGasztold、 リ ト ワ 名 ガ シ ュ
め の 指 導 下 に 、 同 年 6月 カ ジ ミ ェ シ ュ を 大 公 に 選 ん だ っ こ れ は 、 ポ ー
タウタス Gastauta
Iだ;子で、行われた大公の選出で、あり、かつて
ラ ン ド 側 と の 協 議 を 経 る こ と な し に 、 リ ト ワ 積J
シヴィドノレィギェウ寸の選出によって鼓られたホロドウィの連会のとりきめは、ここに
再び破られた内
L点、も今度;主ポーランド側が、 1
4
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2年 に や っ た よ う に は 連 合 の 再 建 を あ
え て 強 行 Lな か っ た た め 、 事 実 上 . 両 国 の 連 合 間 保 ほ 一 時 中 絶 す る に い た っ た 司
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1440年以降ーウラスロ- Ulaszlo 1I
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称してハンガリ一王を兼ねていた)がトルコ軍とのヴ
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(Varna) の 戦 い で 敗 死
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1447.-;ドカジミェシュがリトワ大公の地位を{呆 t
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) この暗殺の事捕については、
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、
1445年ワトワ大公カジミェシュを国王に違える方針をきめたが、
大公属のマグナートは、これによって自分たちが大公を失って王習に従属せしめられ、両
国の永年の係争地たるヴォウィニとポドーレの問題でも、ポーランドのマグナートの影
響でカジミェシュが大公園{離に不利な決定を下すようになることを恐れ、オレシニツキ
の構想、に反対したっ内乱とこれに続いた年少のカジミェシュ大公の統治時代に大公園の
マグナートの政治的発言権は強化されており、彼等の反対意見は無視できないものがあ
った。こうした情況のなかでカジミェシュ自身も当然動揺を重ねたが、この時には彼は
既に経験を積んだ政治家であり、再冨が共に自分を必要としている事実を利用して、リト
ワ大公の地位を保持したままポーランド国王になることを考え始めた。
雨扇の連合の従
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来のたてまえからすると、ポーランド国王になった場合彼法大公国に代理 (
送るか、別に大公を選をするかしなけれぽならないはずで、あったが、カジミェシュは自ら
両 国 の 君 主 を 兼 ね よ う と Lたのであった。
この場合カジミェシュの計画の基礎にあった
まり王朝的な利害の考慮であったうポーランドの王位はピャスト朝の断
のは、恐らくやi
絶後世襲制ではなくなっていたので、
カジミェシュはヤギェウォ家による大公{立の世襲
が可能なリトワ大公留をポーランド王権の基盤として確保しようとしたので、あった。大
公を別に任命する場-合には、これに伴って当然解決をせまられる雨留の領土争いについ
て、当面決断を留保できることも、カジミェシュが両国の君主を兼ねること考えた一つの
理由であったっ
大公留のマグナートの反対とカジミェシュの政治的引延し政策は、ポーランド冨内
に ど ャ ス ト 朝 務 系 の マ ゾ フ シ ェ (Mazowsze=Mazovia) 公ボレスワフ (Boleslaw) を菌
王に選ぼうとする動きを生ぜしめたっ
ていたので、
ボレスワフはりトワに敵意、をもっ公として知られ
この動きは大公菌のマグナートに妥協を決意させ、
カジミェシュは 1446年
9月ポーランドの{吏第団とプレシチ=リテフスキ (Bre
記 -Litewski) で 会 い 、 ポ ー ラ ン
ドの王冠を受けることを約束した。
しかしその際カジミェシュは、
ポーランドによるリ
ト ヲ の 吸 収 に 反 対 し て 両 国 の 関 係 を 対 等 な も の に す る こ と を 条 件 と し 、 翌 1447年 6月 彼
が り ト ワ 大 公 の ま ま ポ ー ラ ン ド 王 冠 を い た だ L、たことで、
ここに両国は同君連合の形を
とることになったっ
ポーランド=リトワ連合の歴史については、
1569年のノレプリンの連合を境にこれを大
き く 二 つ の 時 期 に 分 け 、 前 者 を 同 君 連 合 (uniaosobista=pe主sonalunion) の時期とする
のが、ごく常識的な理解であるが、厳密にいうならば、
1447年 ま で は 両 国 は 同 君 連 合 の
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形をとったことがなかった《太公国にはポーラン下回王の代理、
またはポーランド凶 E
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認める大公が存在二、大公園l
工法的にはポーランド王冠 (Corona 1
ミegni PO
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loniae) の ー 構 成 部 分 で あ っ た っ 国 王 の 代 理 ま た i
主国王の宗主権下のリトワ大公;主常にポ
ーランド国王の一族であったから、
これは、
広 い 意 味 で は 一 種 の 王 朝 的 連 合 (dynastic
union) で あ っ た ペ し か し 両 国 の 法 的 関 係 が 平 等 で な L、点で、厳密にはやはり王朝的連合
でさえなかった司王冒と大公国の君主が同一人物て¥ しかも両国が対等な関係におかれ
ることで合合めて、
ここに厳密な意味での同君連合が成立したのであるう
L点
、 L、ポーランドに対する大公園の自主性の確立法、し ;iLぽ 暗 黙 の う ち に 能 提 さ れ
っ
るように、大公団の社会・政治制度のポーランドイヒと必ずしも矛属するものではな b、
た(この二つの契機、即ちリトワ側の独立への志向(分離主義〕とリトワの社会・国家の
ポーランド{とをあたかも矛属するものであるかのように扱ってきた点に、従来の多くの
研究に共通する大きな欠陥があるように思われる今
このことは、
両国の連合関係更のピ
ーグたるんプリンの連合を扱う別稿で詳述するつもりであるが、カジミェシュがクラク
フ で 戴 冠 す る 直 前 1447年 5月 に ヴ
f ノレノで大公国の貴族に与えた特権
i
たが既にこの二つ
の 契 機 の 並 存 を 示 Lていた門
この特権状は第一に、
1434年 ま で の 諸 特 権 を 確 認 ・ 拡 大 Lて
、
ポーランドの実勢ミが享
こ弓却ち、
受 Lて い た す べ て の 特 権 を 大 公 園 の 貴 族 に も 与 え よ う と Lt
田;襲地に関する特
譲 渡 地 に も 拡 大 し “ neminem captivabimus" の 原 期 を 強 化 Lて 親
権 を 1440年 以 前 の 被 i
ころまた財政上のイン
族 の 犯 Lた 罪 に 対 す る 同 族 の 責 任 を た 逆 罪 の 場 合 を 除 い て 解 除 Lf
ムニテートを拡大し、司法[-.のそれを導入 Lた 勺 こ の 特 権 状 も 1434年 の そ れ と 同 様 、 ギ
リシア正教徒に特権の享受を拒否¥なかったが、大公国の重要な官職と大公の諮問機関
= ラ ー ダ へ の 参 加 の 権 剥 を カ ソ リ ヅ ク 教 徒 に 留 保 し た 1413年 の 決 定 を 廃 止 す る こ と は L
な/ふった" Lヵ
、 L この特権状 i工第二に、
大公雷のすべての官職を外国人にとざすことを
きめ、同時に、グィトノレト時代の大公国の国境の維持を約束したの後者の点 i
士、王国との係
争地たるゲォウィニの法持とポドーレの回復を意味し、
このためポーランド側がこれを
議認、 Lなカ‘ったので、問題の実質的解決は引廷;王されたべしかし大公揮の領土探全のこの
決意;は、大公国の守殺からのすべての外国人一
事実七主ポーランド人一一ーの排除と共
i
ニ、リトワのマグナートの、ポーランドに対する自主性確立の志向を示すものであったヘ
王国との連行に対する大公国のマグナートのこのような竺戒・数意と対照させて、大
公開のボヤール!脅=シュラフタ (szlachta) 土 、 王 同 の シ ュ ラ フ タ と 同 様 の 社 会 的 ・ 政 治
的縁寺 1] を整作しようとする立場方、ら、連 f? の強化を I~':I 自j
Lた、としうのが、これ主た I
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の述 f? の~を史に !xl する通 i誌の--~つであり、IlWleTa の立1I き;之、大公国のポヤーレの ìl ¥
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先に 15t
笠 紀 前 半 に 連 合 強 化 へ の 強 L、希望が存在し、 1447年 の 特 権 状 は こ れ を 決 定 的 な も
の に し た の で 、 こ の 時 点 で 既 に 、 後 1569年 に 実 現 す る 再 国 の 実 費 的 な 連 合 Creal union)
の方向もきめられていた
と し て い る 。 し か し 15世 紀 中 葉 に 既 に 大 公 園 の ボ ヤ ー レ 〈 シ
ュラフタ〉が積極的な政治的役割を果し得たとするのは行きすぎであり、その上、大公園
のボヤーレ〈シュラフタ〉を単純に連合支持勢力とみなすこと自体、多分に危険である。
この点も詳しくは別稿で扱う予定であるが、王国のシュラフタと同ーの社会的・政治的
権利の獲得を志向する大公園のボヤーレが、そのために王国との連合の強化を支持した
ということが考えられるとするならば、論理的には同じ程度に、王国のシュラフタとの同
権が実現されればされるほど、大公園のポヤーレにとって連合を維持乃至強化すること
の意味は稀薄になっていったということも考えられる。そればかりでなく、王国との密
接な連合関係の維持が、大公国の貴族によるポーランド的諸特権獲得の必要条件で必ず
し も な か っ た こ と は 、 上 に み た 1447年 の 特 権 状 が 既 に 物 語 っ て い る つ こ の 1447年 の 特 権
状の場合、大公園のマグナートは、恐らく、王国に対する自国の形式上の対等性に実質的
な基礎を与えるため、ボヤールを含む全支配措級の政治的統合の一手段として、大公園の
貴族の社会的・政治的権利の王冨のそれへの水準化を行おうとしたのであり、こうした
契機は、この後の大公園のボヤーレ〈シュラフタ)の社会的・政治的権利の向上の過程に
も何回かみられるのである。
V
1447年 の 特 権 状 の 反 ポ ー ラ ン ド 的 註 格 に も か か わ ら ず 、
この後も大公園のマグナート
の間では連合に対して批判的な空気が強く、カジミェシュの政策は王冨の利益を優先さ
れるものとして評判が悪かったの
カジミェシュの暗殺さえ企て
ポーランドからの分離を求める大公冨のマグナートは
こ れ が 失 敗 す る と 1478年 、 ポ ー ラ ン ド に い る こ と の 多 い
カジミェシュにその息子のうち一人をリトワ大公に指名すべきことを要請したっ
ェシュ l
主これをおんだが、
1492年 彼 の 死 に よ っ て そ の 永 い 統 治 が 終 る と 、
は、ポーランド国王とは別に、
カジミ
リトワ大公に
カ ジ ミ ェ シ ュ の 息 子 の 一 人 た る ア レ ク サ ン デ ル CAlek-
f主によって統治されることになったゥ
sander) が え ら ぽ れ 、 大 公 園 は 王 国 と は 加 の i
工
、
アレクサンデルの即位に当ってリトワのマグナート i
1447年 の カ ジ ミ ェ シ ュ の 特 権
状の│勾'存を確認・強化する新な特権状を獲得したのこの特権状は、
外交の自主性と大公
lの強化など、リトワの分離主義の}Jf
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Jを さ ら に 強 め る と 共 に 、 マ グ
│量生れの,(1'吏採用原 W
(1)口sqeTa,JIsTOBCKO・nOJlbCKseyHss......,C
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、 リトワのシュラプタの政治的登場の時期については、 1
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0年代を考えており、 日ぉqeTa 自身 i
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Iの 鋼 所 (
JIsTOBCKO・nOJIbCKseyHss.....
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) で は 、 五 回6aBCKs首 と ほ ぼ 時 様 に 考 え て い る 。
(
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) 1
4
4
7年 の 特 権 状 は 都 市 、 郎 ち 都 市 貴 族 に 対 し て も 特 権 を 与 え た 。
(
4
) カジミェシュの不評の主霞をなした彼の時代のポーランド、
リトワ両国の争点、特に領土問題につ
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班
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) ポーランド国王にはアレクサンデルの兄ヤン・オノレプラフト C
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かがえらばれた。
20
ポーランド=リトソ連合小tJ:. (ミェノレニクの連合まで)
ナートの構成するラー夕、、に、外国への使臣の派遣、官吏特に辺境のそれの指名、大公の関
税・罰金などの収入の捷途、重要な国事の決定について大きな発言権を認め、大公の主権
を著しく制限したの大公国のラーダはポーランドのセナト
(senat) に相当するもので、
前者の制度化ももともとは後者の影響下に 1
5世 紀 を 通 じ て 進 ん で き た も の で あ っ た が 、
1492年 の 特 権 状 に よ っ て 前 走 の 権 限 は 後 者 の そ れ を 上 回 る も の に な っ た σ こ れ は 、 一 つ
には、この時点のポーランドにおけるマグナートとシュラフタの力関係と、りトワにおけ
るマグナートとシュラフタ=ボヤール層のそれの違い一一リトワの段階的な後進註一ー
H:紀までは、
を示すものであり、こうした点カゐらも 15l
た2
ミi
司におけるシュラフタの政治
力を過;大評{面できないことがわ方通るつ
このように、
アレクサンデノしの即位に!禁 Lて 大 企 国 の マ ク ナ ー ト は そ の 芳 離 主 義 の 方
皮等によるアレアサ
向を議底させ、同時に自らの政治的地位を高めることに成功したが、 j
ンデノレの選出は、もともとは、カジミェシュ大公=王が生前に行った指名を単に確認した
多 分 に 形 式 的 な も の で あ っ た ぺ そ Lて こ の 前 任 者 に よ る そ の 怠 子 の 指 名 と 選 挙 の 形 を と
ったその確認という方式は、ポーランドでもピャスト朝の時代には行われていたもので、
とを表現していたへ
リ ト ワ の た 公 位 の ヤ ギ ェ ウ 守 朝 に よ る 事 実 土 の 世 襲f
ェウォ朝の下でも
しかし同じヤギ
土より実質的な選挙王制の方向に進んでいたっこの点が
ポーランドi
両国の連合関孫に対するヤギェウォ家独自の利害を生んだこと辻、先に述べた通りであ
立 の 継 承 方 式 の 相 違i
工、連合関係の安
る が 、 そ れ と 同 時 に 、 こ の よ う な 再 国 の 王 位 と た 公f
定性を脅かすー要問でもあった勺
これはとりわけ、再開の間に連合についての格別のと
りきめがない場合にそうであったっ
1447年 に リ ト ワ 大 公 カ ジ ミ ェ シ ュ が ポ ー ラ ン ド 国 王 を 兼 ね た 時 両 国 の 間 に は 、 そ れ 以
前のように連合についての特別なとりきめは交されなかった「
そしてこのためカジミェ
シュの在位中雨量の連合関係は法的に不安定なものであったっしかしカジミヱシュの時
代には、
彼が両国の君主を兼ねていることで、
この不安定性も表面化しないですんでき
たっところが彼の死後両国が刻々の打主をもつようになると
を表現するのは、
両国の形式的なつながり
ポ ー ラ ン ド 王 ヤ ン ・ オ ノL ブ ラ フ ト ( Jan 01bracht) の 帯 び て い る 伝 統
的 な 「 リ ト ワ の 最 高 の 公 ! (supremus dux Lithuaniae) と い う 形 式 的 な 称 号 だ け と い う
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1 上、ポーランドご会ュラプタ司法治的発言権か彼等の支配す
る地方議会 (
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) た通 lて 著 I く向上 Lた 時 期 で 、 中 央 議 会 (
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) の下段(izbaposlow) の 躍
、 北 大 史 学 理 、 昭 和3
5年 金 参 照 ) カ ジ ミ
ンュは
玄 期 で も あ っ た っ ( 拙 稿 [ ポ ー ラ ン ド の 費 扶 共 和 制u
I斥l
Lて あ る f
f:註マグナート勢 J
J~::おさえることができた。
こ の シ ュ ラ プ タ の 進 出 を 千J
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) 大 公 誕 の 議 会 に お け る ア レ ク サ ン デ ノ レ 指 名 の ぷ情 i
こ っ し て は 、 立 ぉ6
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) 中世後期のポーランドにおける選挙王制については、 H
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) リ ト ワ 「 大 公 j の方は、“ magnusdux
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鳥山成人
ことに主り、
しかもこの弥号をおび、ていることすらが大公屋慎]
1の
f解を得た上で、のこと
ではなかったゥそしてこのために生じた雨量の関係の新な法的とりきめの必要が、
1499
年のヴイ/レノの連合〔むniaWilen誌 a
) 成立の一国となった。
グィノレノの連会はしかし、ポーランド冨王が引続き「リトワの最高の公 jの 称 号 を お び
ることを認めながら、王国と大公園の対等な関係はくずさず、両国がそれぞれ抱方の君主
の決定に発言権をもつことを認めるにとどまったの
両菌の関係は法的には一応、基礎づけ
られたが、連会関係の内容は実質的には誌とんど変らなかったり
たらしたのは、
これに大きな変化をも
1501年 の ヤ ン ・ オ ル ブ ラ フ ト 王 死 後 の 同 君 連 合 の 再 建 、 即 ち ア レ ク サ ン
デル大公のポーランド国王への選出であったっ
トワ大公の選出というこのやり方i
、
土
選挙制のポーランドー国王への世襲的なり
両国の i
;
i
a二七の継承方式の相違が両国の連合関係の
避する便宜的な方法であった。
維 持 に と っ て も つ 難 点 を や1
アレクサンデルが正式にポ
ーランド王を兼ねるに先立って締結されたミェノレニク (Mielnik) の 連 合 は 、 後 に み る よ
うに、ヤギェウォ家によるリトワ大公位の位襲を否認するものであったが、このミェルニ
クの連合 (Unia Mielnicka) は 4年 後 に 破 棄 さ れ 、 こ の 後 1569年 の ル プ リ ン の 連 合 の i
宣
言号室で、両国法ヤギェウォ家の位襲的なりトワ大公がポーランド国王を兼ねることで、
同君連合の形によるゆるい連合関孫をつづげることになるつ
可
I
15t
世紀末・ 16世紀初頭のポーランド=リトワ連合の新な発展、具体的には、 1499年 の
ヴィルノの連合と 1501年のミヱノレニクの連合は、
カジミェシュ 4
t
f
tの 時 代 に 起 っ た 東 方
とを背景にもっていた("¥ 14世 紀 末 の ポ ー ラ ン ド と り ト ワ の 譲 近 の 重 要
か ら の 危 機 の 深 刻f
な 一 閃 と な っ た ド イ ツ 騎 士 団 の 慎J
Iからの脅威は、
1410年のグノレンヴアルトの戦勝の後も
続き、ポーランド・リトワ関係に絶えず複雑な彰響を与えたが、一般的な傾向としては次
第に弱まって行った門カジミェシュはし、わゆる r13年 戦 争 J(
1454-66) で ド イ ツ 騎 士 団
に決定的な打撃を与え、彼の時代の大公園のマグナートの分離主義も、対外的危機のこの
ような後退を一つの条件としていた丹
しかしカジミェシュの時代には、抱面では、やが
て深刻なものになる新な方向からの脅威、即ち一つは新興のモスクワ大公園、もう一つは
トルコ帝国とその勢力下のクリミアのタタールの{掛からの脅威が現れ始めていた n
この東方からの危機について詳述することは本稿の課題ではないので、必要な譲りで
その大要を述べると、先ずモスクワ大公園については、
カ ジ ミ ェ シ ュ は 1449年モスクワ
大公ヴァシーリ - 2位 (BaCHJI凶 I
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) と条約を結んだが、これによって達成されたリト
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4年 ズ ィ グ ム ン ト ・ ア ウ グ ム ス (ZygmuntAugust)王 京 大 公 辻 、 河 田 の r
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ヴィ ルノの連合に先立って、大公園のマグナートは
をみなかった。
る!J的で、ヤギェウォ家によるリトワ大公位世襲轄を放棄する。
22
ポーランド=リトワ連合小史〔ミェルニクの連合まで〉
ワ・モスクワ両国の力関係の一応の均禽は、
1462年 t
ニヴァシーリーのあとをついだイヴ
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,1462-1505) の下でくずれた..., 1ヴ、アンは
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めようとしたノヴゴロドに圧力を加えてこれを併せ、
カジミェシュの援場を求
また 1487年 以 降 、 モ ス ク ワ 大 公 園
に隣接するリトワ額オカ河上流地方の諸公のりトワ大公に対する政治的不満を利用して、
一部の小公のモスクワへの鞍変えを実現したゥ
Lかしカジミェシュの時代には、
モスクワの測からの脅或はなお大きなものではなか
ったっカジミェシュにとって最も大きな脅威はトルコとクリミアの側からのものであっ
た。カジミェシュは初めクリミア汗と友交関係を保持し、
クリミア半島の古いジェノヴ
ァ植民市カッファ CkaHa) を も ポ ー ラ ン ド 玉 の 録 護 下 に お い て い た っ し か し や が て ト ル
コ が こ こ に 進 出 し て 1475年 カ ッ フ ァ を う ば い 、 同 時 に ク リ ミ ア 汗 国 に 対 し て 宗 主 権 を 認
めさせた。ポーランドはそんダヴ
f
アにも以前から再三宗主権を認めさせていたが、
のそん夕、、ヴィアについてもカジミヱシュは、
こ
トノレコ軍の征服からこれを守ることができ
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)
トルコは 1484年モル夕、、ヴィアの二つの重要な港、即ちドナウ河口のキリア (
ず
、
と ド ニ ェ ス ト ル 河 口 の ア ッ ケ ル マ ン (Akkerman、 ポーランド名ヴィァウォグノレト B
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-
logr6d) を 奪 っ た っ こ の よ う に し て カ ジ ミ ェ シ ュ 治 下 の ポ ー ラ ン ド と り ト ワ は と も に 、
黒海の岸からしめ出されてその東方貿易に大きな打撃を受け、その上領内のウクライナ
をクリミアのタタールの執搬な侵意にゆだねることになったっ
カ ジ ミ ェ シ ュ は そ の 晩 年 ポ ー ラ ン ド ・ リ ト ワ 両 国 に よ る 対 ト ル コ 共 同 作 戦 を 計 画 しfこ
が果さず、黒海岸への再進出法彼の死後その息子たち、即ちポヘミア王兼ハンガリー王ヴ
ワドゥィスワフ、ポーランド王ヤン・オノレプラフト
リトワ大公アレクサンデルの共通の
課題となった。しかし、キリア、アッケノレマン、さらにはカッファの回復を呼号して開始
された 1497年 の ヤ ン 王 の 黒 海 岸 遠 征 は 、 予 想 外 の モ ル ダ ヴ ィ ア 軍 と の 衝 突 で 完 全 に 失 敗
し、これに呼応して行われたアレクサンデ、ノレ大公の遠征もタターノレに対する若干の勝利
に 終 っ て 、 ポ ー ラ ン ド 軍 の 全 滅 を 救 う 役 割 し か 果 さ えEかった。
そ し て こ の 2年 後 に ポ ー
ランドとリトワはヴィルノの連合を締結したっ
1499年のヴィノレノの連合が、
トノレコ・タタールの{賠からの脅威の増大とそれに対する
反 攻 作 戦 の 失 敗 と Lづ 背 景 の 下 に 或 立 し た と す る な ら 手 、
1501年
、
リトワ大公アレクサ
工、この前年に
ンデノレがポーランドの王位に即くに先立って締結したミェノレニクの連合 i
おけるヲトワ軍のモスクワ軍に対する大敗の生々しい印象の下で成立した。
アレクサン
デノレはリトワ大公になった直後にイヴァン 3設 の 攻 撃 を 受 げ 、 こ の た め モ ス ク ワ に 対 す
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討を妃に追えたが、これは
る宥和策と Lて 1494年l'':/ァンの娘ヘレナ (Helena,E
そ ス ク ワ 艇 に 、 結 婚 の 条 件 に 反 Lてへレナにローマ教会への改宗が強制された、とし、う口
実で、
1500年 攻 撃 を 再 開 す る こ と を 詩 : す 結 束 と な っ た っ こ の 戦 争 で リ ト ワ は 、 ス モ レ ン
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1年ボヘミア王〈ヴラディスラフ V
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年ハ γ ガリ
一王(ウラスロー U
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o2世〉となり、両国を fヤギヱウォ連合 J~こ加えた。ハンガヲーも伝統的
に黒謀北西岸のそノレダヴィアと菖ウクライナ方面に関心をもっており、この点でポーランドの競争者
であったが、 トルコの進出に対してはポーランドと科害を共にした。
(
1
)
イヴァン 3 世時代のモスクワの外政については、 K.3.6a3H~eBHq, BHe回日完匁 nO~HTHKa
ueHTpa~H3oBaHHoro
2
3
鳥山或人
スクの防衛には成功したが、広い地域〈リトワ領ロシアの三分のー)を占撰され、
1503~tと
の休戦で後占領地の放棄を強いられた(
トルコ・タタールの側からの脅威がポーランド・リトワ両国にいわポ共通のものであっ
た の に 対 Lて 、 こ の モ ス ク ワ の 側 か ら の 脅 威 i
工、少くともこの詩点では、
リトワが誌とん
ど 単 独 で 対 処 し な げ れ ば な ら な い も の で あ っ た 巧 14佐紀末・ 15世 紀 初 頭 の ポ ー ラ ン ド =
リトワ連合の新な発展を、ソヴヱト史学は、ポーランド貴族の「東方膨張計画 jの 現 れ で あ
り、これによってポーランドはモスクワとのたたかいに直接関与しようとした、と主張し
ているが、当時ポーランド側には明確な「東方膨張討画 j といった覆極的なものは勿論、モ
輩出を自国にとっても危険なものとみる消極的な意味での危機意識すらほとん
スクワのj
ど存在しなかった『少くとも、ポーランド側には、大公園の対モスクワ戦に積極的に参加
寸る意志はなかったろ 1499年のヴィノレノの連合は両国の相互援助を規定したが、翌 1500
年 の モ ス ク ワ の 侵 略 に 擦 し て 、 ポ ー ヲ γ ド側はリトワに外交上の援助しか与えなかったっ
1501年のミェノレニクの連合 l
主
、
リトワの立場からは、
ポーランドの実質的な援助を期待
して結ぼれたものであったが、この新な連合の締結後も、ポーランドは軍事援助の義務を
誌 と ん ど 果 き な か っ た っ ポ ー ヲ ン ド は た だ 一 度 1502年 春 に 援 軍 を リ ト ワ に 送 っ た が 、 こ
の援軍は戦場に姿を現しただけですぐ本冨に引き島げた門
ミェノレニクの連合は 1505年 の プ ジ ェ シ チ (Brzese) の リ ト ワ 議 会 で 承 認 を 得 る こ と が
できず、破棄されたが、リトワ傑の破棄の一つの理由;土、モスクワとの戦争におし、てポー
ラ ン ド が 十 分 な 援 助 を 行 わ な か っ た こ と で あ っ た 門 当 時 ポ ー ラ ン ド 側 は 、 む Lろ、リトワ
大公園の苦境に乗じて、
を紀以来の念願たる王国への大公留の実質的な吸収を一挙に
14t
実 現 Lょうと考えたのであり、
その或果がミェルニクの連合であったの
ミヱノレニクの連
合 成 立 の こ の よ う な 契 機 に Haleckiなどポーランド‘系の学者は類してふれたがらないが、
と れ は ミ ヱ ル ニ ク の 連 含 に 「 東 方 膨 張 計 画 jの 表 現 を み る ソ ヴ ェ ト 史 学 の 規 点 と 共 に 、 問
題の存するところである。
ミェルニクの連合の文書は、ポーランド王関とりトワ大公国が含体して単一不可分の
国家をつくり、共通の忍-主を共同で、選 1
1
1L、裁判官と'庁棋は加と Lて 、 共 通 の 議 会 と 単 一
の 貨 瞥 を も つ べ き こ と を 堤 定 し た 「 こ の 連 会 の と り き め は 、 後 の 1569年のノレプリンの連
合のそれとほとんど達わず、その政治的意味あいも、これまたルプリンの連合と同様、対
等な合体と L、う形式の -f~ 二、実質的にはポーランド王国へのりトワ大公国の吸収をもた
らす性質のものであったっ
大公留のラー夕、の代表たちが王国の政治家たちとの交渉でこ
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