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長野市ロータリークラブ
ⅣヨミKLr 人類に 奉仕する ロータリー ttPORT 長野市ロ ー タリークラブ ‐ ,1 ‐ │‐ 1' │ ― │ : ● = ` : ‐ │ ‐ `│ : │ ″ /∂ ― ″ /7 会 長 藤 本 幹 事 真 島 会 報委 員 長 中 島 回 2016. 9. 12 会長挨拶 藤本 ' 世雄三 1605 ‐ ‐ む 光英泰 第 ^ : 光世君 ● L 皆 さん こんにちは。本 日は藤 屋御本陳 の藤井様 をお迎え して たくさんの方に参加 して頂 き例 会が出来ます ことを有難 く感謝 いた します。 あ りがとうござい ます。 最近、北朝鮮 が 5回 目の核実 験を行 い大きなニ ュースにな り ま した。今回の ものはこれまで の最大級 で した。ミサイ ル 発射技術 が進 歩 して 、移動 式発射 台や 、潜水艦 か らの発射 によ り予 測不 可能 な 場所 か ら、核 を積載 した ミサイ ル を発射 で きる こと を思 うと核 戦争 の怖 さを感 じます。 国連安保理 の 緊 急理事会 で制裁決 議 がな され て 日本 も追加 の制裁 を 計画 しています。効果 は どの程度 かは分 か りませ ん。 北朝鮮 問題 は大東亜戦争 で 日本 が負 けて、朝鮮 が 日本 の 統治 か ら独 立 した 時 にア メ リカ とソ連 の力 の 均衡 に よつ て南北 に分裂 され た ことか ら発 生 しま し た。そ の後、北朝鮮 が 半島を共産化す ることを もくろ んで始 めた朝鮮 戦争 を経 て 38度 線 の 分断 が確 定 し て約 60年 が経 ちま した。深志 に勤 めていた平成 14 年 に鳥取県 の倉 吉東 高校 が鳥 取県 の援助 を得 て高校 生 国際 フ ォー ラ ム を主催 し、全 国 の進学校 を呼んで テー マ を決 めたプ レゼ ン大 会 を開催 しま した。 大会 には松本深志、鹿児 島 甲南 、浜松北、松江北、岡 山操 山な どの進 学校 が 参加 しま した。 ある年 の フ ォー ラ ム で韓 国 の 安養 高校 が 招待 され て南北問題 につい て 発表 しま した。長 い年 月 の経過 によ り、南北間では意 識 が違 った の と同時 に言葉 まで違 つ て しま ってい る と問 い て 、統 一の難 しさを感 じま した。 日本 の敗戦後 に勝者 が敗者 を裁 い た東京裁判 が あ りま した。裁判 で 東条英機 の弁護 士 を務 めた 菅原裕 氏が「東京裁判 の 正 体」を書 いてい ます 。裁判 の最終 陳述 で東条英機 は 日本 の 国民 に対 しては 、何度死 ん で もお詫び しきれ な い 、然 し連合軍 に対 しては、この 戦争 は 自衛 の た めの 戦争 であ り、無罪 で ある と弁ず る とともに朝鮮 の 分断 に触れ て この こ とは必ず 将来 の禍根 を残す だ ろ うと遺言 しています。 現状 を見 る と東条 英機 の 予言 が的 中 して 、北朝鮮 問題 は世界 の忌 々 しき問題 に発展 してい る と思い ま す。本 日はあ りが と うございま した。 例会報告 Yleekly Meeting Report 藤本 光世君 それで こそ□ ―タ リー 國江 清美君 倉島 明君 点鐘 ソ ング SAA O出 席報告 33名 26名 ベー ス 本 日の出席 出席率 前回欠席 メーク 訂正出席率 三L三 二赫 小山 敦 子君 中嶋 君忠君 竪岩 恵行君 山岸 B召 ― 郎君 平林員輝男君 藤本 光世君 大島 英行君 市川 浩 ― 郎君 星野 博文君 7879% 10名 7名 9118% ・ 讐 11話 は 「 ・ 倉島 : 昭君 10日 男声合 0昌 団 ZENの コンサ ー トに 行 つて きま した。 小岩丼さん、須田さん が出演さ れて いま した 。そ して今 朝、 中 嶋さ んの 写真展 に行 つて きま した 。素直 な作品がた くさん展示されて いま す。 前回欠席。私の写真展 に ご来 場 いただ き あ りがとうございます。 誕生祝あ りが とう。保険証が変わ り後期 高齢者にな りま した。 前回欠席 しま した 。 前回欠席。今 日は藤丼女 1晋 、卓話よろ し <お 願 い致 します。 藤丼様あ りが とうございます。 早退 します。 本 国もよろ し<。 卓話、藤丼さんよろ しくお願 い します。 本 日は藤丼 様よろ し<お 願 い致 します。 合計 13,OOO円 ニ コニコ BO× 今回までの合計 315,∞ O円 今年度 目標予算 1,059,OOO円 今年度上期 目標予算 529,500円 上期達成率 5949% ´ 才 一――― =ご :11 ` i_.FT雪寧_キ 讐!理 ° .ぜ :響 t._.: 真島 英雄君 ※ RCよ り IMの ご案内をいただ きま した。 11月 6日 (日 )上 山田温泉 笹屋 ホテル にて 開催 され ま 更埴 す。今回 の IMで は信州ブ レイブ ウォ リアーズの試 合観戦 があ ります の で奮 って ご参加 くだ さい。 ※ 北信第 1グ ルー プ福 上ガバ ナ ー補佐 よ り、次期ガバ ナ ー 補 佐 推薦 委 員会 開催 の ご案 内 を い ただ きま し た。 9月 29日 (木 )長 野 ホテル犀北館 にて開催 され ます。 「ロー タ リー財団 ニ ※ 国際 ロー タ リー第 2ゾ ー ンよ り、 ュース」 をお送 りい ただきま した。 会員増強●員長よι この虐、会員増強特31Jク ′ ι-7を 結成しきした。 山岸グ′ ι-7長 をはじめとして藤本・真島・佐藤僚六 郎・竪者・中島秦三・佐藤幸男・平林・竹中の計 9名 で毎 ι-7会 を開催す 日第2o"第 3週 日の例会終了饉にグ′ ι る暮か決き :審 した。 メンバーの皆様けようしくanll致 しきす。 参た、会員の皆様には結果の報告をしなから会員増強 に対するこ協力をお願いしたいこ思い手すのでようしく a願 い致し春す。 : ☆ クラ 7行 事 予 定 の変 更 ★ 10月 3日 米山真学生の卓話浴し 10月 副会長の卓話へ変更 10月 31日 '7日 米山翼学生の卓露へ変更 1月 23日 不二趣機械工業へ職場例会 ≪ 今後 の 予定 ≫ 10月 16日 地区大会 軽井沢プリンス 10月 16日 秋のゴミゼロ 10月 24日 第 4回 クラフ協議会 ガバナ ー補佐事前訪問 11月 6日 lM ささやホテル 11月 7日 ガバナ ー/AN式 訪問 とて も良か つたよ うで狂 いが あ りません。 70∼ 80年 経 つた頃か らは艶 も出て き て 今 では とて も良 い感 じ に な つてい ます。また この 建物 は平成 9年 に 国の 有形 文化財 に長野市で初めて登録 され ま した。 「 50年 、旅館 の女将 として思う事」 明治・大正の頃は政治家や皇族のほか伊藤博文 や福 沢諭吉 な ど各界の名士が お泊 りいただ いてい ま した。 こんに ちは。 平成 10年 の 長野オ リン ピックの開幕に伴 い前年 よ り 皆 さま ご した、本陳藤屋 きま 交通 の 便 が 良 くな り道路 も舗装 され ホテル も少 しず ただ今 紹介 を頂 つ 建 つて きま した。その頃 よ り宿泊施設の供給過剰や の 藤井奎子 です。今 日はよろ しくお願 い します 。 日帰 り客 の 増加 によ り大 きな打撃 にな つて きま した。 ていま では「女将 と呼 ばれ 私 は今 」 そ の 中で 17代 目当主 とな りま した 息子 が旅館 業 を休 50年 つていた 「女 や すが、旅館 を 間は 業 しレス トラ ンと ウ エ デ ィ ングヘ の事 業転 換 を決 断 将」 とは呼ばれ ていませんで した。 ブ ラ しま した 。私 は 2年 くらい賛成で きませんで したがだ イ ダル ・ レス トラ ンヘ 事 業替 えを した時にス タ ッフが んだん と納 得 し平成 18年 に『 The Fu」 iya Gohonjin』 に 改称 しま した 。 若返 り女将 さん と呼 ばれ るよ うにな りま した。 藤屋 の 特徴 と しては、建物が古 く歴史が あるとい う 古 くか らの建物・庭園 を極 力残 して も らうよ うにお 点です。歴史 とい う事 か ら話 したいと思います。 願 い し半年か けて今の様 に しても らいま した 。完成 し の と ていま が は秀吉の頃 藤屋 先祖 言われ す 、京都 よ た時は とて も うれ しく思 いま した。 り大本願 の お上人様 が善光寺 にい ら した 時 に連れ て き 改装の際 に 3階 の天 丼裏 の 板 を全 て剥 が し天丼裏の た お供 の 一 人が 藤井家 の本家 とな つて い ます 。 よ しの 梁 を見せ るよ うに しま した。その 時 に剥 が した 板は結 や酒店です。その時 に連れ て きた子供 が 今の藤屋の地 婚式場 の 床 に使用 しま した 。 で商売 を始 めた と言われ て います。 私 はい ろいろな方にお世 話 にな つたわ けですが、永 藤屋 は初 めか ら宿屋 をや つていたわ けではあ りません 六輔 さん には大変 お世話 にな りま した。50年 前 にち が 、江戸 に入 つてか ら宿 を始 めた と聞 いています 。 旧 ょ つと した こ とで知 り合 い ま してその後 は毎 年 い ら 北国街道 に善光寺 の宿が置 かれ そ の 時 に藤屋 は加賀藩 していただいていま した。本陳小劇場 とい う こともや 前 田家 の 本陳 を務 め るよ うにな りま した。初代平五郎 つていただ き、年 に何 回 も来ても らいま した。 が 本陳 を務 めてお ります。現在 の社長 は 17代 日にな リ 今ま でいろいろな方の ご縁 で私 も 50年 間旅館 をや つて 参 りま した けれ ども本 当に楽 しく有意 義 な時期 ます。 建て替 えが何 回 か あ り、今の藤屋の建物は大正 12年 を過 ご して きた と思 い ます。 これ か らも歴 史 を大事 に しなが ら今の 藤 屋 をよ く に長野 中央通 りの拡 張 工事 の 際 に洋風建築の 建 て替 え にす る こ とを決心 しま した。大正 7年 の善光寺仁王 門 していって くれれ ば良い と思 います。また皆 さま今後 再建 を担 つた宮大 工・ 師 田庄 左衛 門 が 手掛 けた建物 で もよ ろ しくお願 い致 します。 す が 、外観 はアールデ コ調 で内部 は木造数寄屋造 とい 本 日は あ りが と う ござ いま した。 う和魂洋才 の 建物 にな つて います 。 けや きをふんだん に使 つた 木造 3階 建 てで とて も珍 しい建物だ とい う事 注 :な お、藤 屋 で は「本 陣 」を 「本 陳 」 と表記 して い ます で今 まで残 つています 。 100年 が経 ちま したが材 料 が 卓話 The Fujiya Gohonjin 女将 藤井 奎子様 ,