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イギリス鉄道関係資料への - 東京大学 経済学図書館・経済学部資料室
序文 小 野 塚 知 二 東京大学経済学部資料室の所蔵するイギリス鉄道関係資料が、その詳細な目録とともに公開されるは こびとなった。これらの資料を整理・同定し、解題を執筆してくださった内田麻里奈氏の労に感謝申し 上げたい。 19世紀初頭の草創期から、20世紀前半の英国鉄道業の成熟期にいたる多種多様な資料の概要と内容に ついては、内田氏による緻密な解題「イギリス鉄道関係資料の公開にあたって」をご覧いただきたいが、 以下では、これらの資料から何を読み取りうるかについてひとこと、ふたこと述べることにしよう。 第一に、世界に、本資料に含まれるものしか存在しないという希少性という点では、解題が指摘する とおり、第1巻から第4巻までの、鉄道会社の現場で用いられた運賃表、貨物分類、乗客数集計などが 注目される。残念ながら、系統的・網羅的な収集物ではないため、それだけで20世紀前半のイギリス鉄 道業の現場の仕事や管理のあり方を再構成するのは困難であろう。だが、これらを4冊を手に取りあれ これ眺めるなら、それは、現在のわれわれが慣れ親しんでいる電子的な運賃計算システムや鉄道管理シ ステムの根底に、こうした紙ベースの、加除式、書き込み式の方法があったことを教えてくれるであろ う。いかなる事業の現場も、ほぼ1980年代まではこうした方法を併用しながら営まれていたのであるが、 そうした現場の雰囲気を伝えるまたとない史料である。 わが国では、すでに19世紀末から諸種の鉄道時刻表が編集、販売され、殊に国有化以降は、私鉄を除 けば、日本全国が同一の運賃規則によって運営されたから、鉄道利用者はわざわざ駅や旅行代理店に赴 かなくても、鉄道の運行時刻と運賃を知ることができた。これは現在でもJR各社に関しては同様であ る。こうした日本の時刻表がイギリスのそれを範にとったことから知られるように、イギリスにも鉄道 時刻表は19世紀から存在しているが、稠密に張り巡らされた全路線の全時刻と運賃表を網羅する情報量 は膨大なものとなり、日本と同種の時刻表は大判で、分厚く、広く普及し愛用されるものとはならなか った。したがって、20世紀のイギリスで鉄道利用者は、日本のように、自宅ないし勤め先で時刻表と首 っ引きで旅程と運賃を知るのではなく、じかに駅に赴き出札窓口で、時刻、経路、運賃などにつき駅員 と長々と相談しながら乗車券を買い求めるという行動様式が定着していた。第1巻はそうしたことを物 語る史料である。運賃額は駅員に尋ねなければわからないというのであれば、逆に、曜日、時間帯、経 路などによって運賃をこまめに変えて、繁忙期と閑散期の輸送需要を均し、また低運賃旅客を掘り起こ すなどの営業戦略も可能となったのである。 第2に、イギリスの鉄道は基本的に民間企業の事業として生成発展してきたのだが、第1~4巻の現 場文書が鉄道法などの規定に基づき整備された文書であり、また、第5巻以降の議会文書等の継続的な 存在からも、鉄道が民間事業ではあっても初発から規制と公開性原則の下に置かれていたことがわか る。ヨーロッパ大陸諸国や日本とは異なり、民間事業として発展した英国鉄道業の公共性がいかに、ま た何を根拠にして、担保され続けたのかを知るのにも本資料は役に立つだろう。 第3に、イギリスは鉄道という近代的な輸送システムを生み出し、定着させ、また世界に輸出した国 であるが、現在では日本やヨーロッパ大陸に比べて、鉄道システムが全般的に衰退していることでも知 られている。ロンドンの地下鉄は運転間隔が長いだけでなく、不意の運休、駅の通過、駅の封鎖など信 頼性は低いし、長距離の鉄道網もサッチャー期の民営化以降、諸種の運行会社が参入したものの、ヴァ ージン・グループが撤退を決定するなど、その将来は決して明るくない。こうした衰退の原因はさまざ まに議論されているが、多くの論者が指摘するのは、鉄道業が他国に先駆けて早くに成熟したために、 20世紀の電化、高速化、信号・運転制御システムの革新などのための新規投資が行われにくかったこと、 また、イングランド北部やスコットランドを中心に重厚長大産業の衰退とともに旅客・貨物ともに輸送 需要が低迷し、鉄道企業側にそもそも鉄道システム全体を革新して、道路交通に対する競争力を確保す るだけの余力が失われ、さらにこうした低迷状況の中で、遅延や事故の頻発、運転頻度の低下、路線廃 止などにより「鉄道離れ」の悪循環に陥ったことである。 イギリスの鉄道の衰退がいつ、いかにして始まったかは、産業衰退の始期や原因とともに簡単に確定 できないことではあるが、本資料に含まれる鉄道成熟期の文書から発見できることもあるのではないか と予想している。第1巻はミドルズブラ駅常備の運賃表であるが、同地は、鉄鋼業として19世紀中葉に 急速に発展したものの、世紀末には衰微の兆しが覆いがたく現れ始めた、イギリスの産業衰退を象徴す る都市でもある。この街の盛衰を扱った歴史研究(たとえば、William Lillie, The history of Middlesbrough : an illustration of the evolution of English industry, 1968, Florence Eveleen Eleanore Olliffe Bell,At the works : a study of a manufacturing town (Middlesbrough), 1969, 安元稔『製鉄工業都市の誕生 : ヴィクトリア朝 における都市社会の勃興と地域工業化』、2009年、Minoru Yasumoto, The rise of a Victorian ironopolis : Middlesbrough and regional industrialisation, 2011)と併せて用いるなら、イギリスの鉄道衰退の微細な局 面に思いを馳せることもできるであろう。 本資料がさまざまな仕方で用いられ、鉄道史、イギリス史の研究に活かされることを期待したい。 (東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)