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「数える」ことの一考察 - プール学院大学・プール学院短期大学部

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「数える」ことの一考察 - プール学院大学・プール学院短期大学部
プール学院大学研究紀要 第 56 号
2015 年,335 〜 350
「数える」ことの一考察
―ある特別支援学級での参与観察から―
野 崎 康 夫 1.はじめに
2014 年 5 月から、ある小学校の特別支援学級で障害を持つ子どもの数概念形成について参与観察
を行った。その学級では、数を量として把握させる(量概念の形成)という方向で授業が展開され
ており、数図やブロック(タイル)が主な教材として使われていた。いわゆる「水道方式」に類似
する教育方法だと思われる。そうした傾向の中でなのか、直観で量をとらえることが重視され、「数
える」ことについては比較的軽く扱われていた。
障害を持つ子の数概念形成という側面から考えるに、果たして「数える」ことはどのような意味
を持っているのだろうかという課題を設定し考察することとした。
2.身近な数
支援学級の子ども達の朝は「朝の会」からはじまる。そこでは今日の日付、天気、学習予定、当
番の確認などが行われるが、数に関わる事柄が思いのほか多くある。生活単元として設定される学
習においても、整列するときに「あなたは前から何番目よ」とか「積み木を二個おともだちにあげ
ましょう」などと数が使われる。また、時間で区切られた規則正しい生活リズムを持つように時計
も意識させられる。さらに給食やおやつを配ることも 1 対 1 対応として経験することになる。家庭
よりも学校や園で数を使う場面は多く、子どもはこのような経験を通して、無意識のうちに数の概
念を獲得し、使えるようになることが予定されている。
ところで、乳児が数を認識すること(量を区別すること)ができるかどうかというのは(発達)
心理学的な関心の的であり、様々な実験が行われた結果乳児はおおむね3から4までの数を区別す
ることができるということが現在では一般的な了解事項となっている。1)
子どもは、まずはじめに量の表象を持つのだけれども、「多い・少ない」や「長い・短い」などの
ことばと共に量の概念が形成されていくとされる。数学者の遠山啓は『歩きはじめの算数』(国土社
1972 年)のなかで、「量(未測量)が言語より根源的なものであり、言語能力のない子どもも量
は把握できる」といっている。しかし、そのことがただちに乳児が数概念を獲得しているといこと
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プール学院大学研究紀要第 56 号
を示すものではない。加えてこの場合の量は連続的な量で、未だ数にまで至っていない量(未測量)
である。その連続的な量が分節化され個物的な扱いを受けることから数の概念が生まれてくると数
学者の森毅は述べている2)。
つまり、未測量の経験は就学前に完結しているとして、当然のように小学校 1 年生でははじめか
ら分離量としての数が扱われるが、数というものの極めて高い抽象性を考えると、支援学級(算数
初学の1年生)では一考が必要なように思われる。例えば、「花」ということばの概念はその中にバ
ラやチューリップ、あるいは無花果の花も含まれるような広いカテゴリーを持つ。しかし、
「5(ご)」
という概念は、花であれ車であれ人間であってもすべてを「5(ご)」という数の中で表してしま
うという抽象性の一層の高さがある。子どもにとって数は身近であるものの、一方で複雑(抽象的)
であるということでもある。数概念の特異性故に、抽象的な思考を得意としない障害を持つ子ども
の困難もここにある。
3.数詞と数唱
数概念が十分形成されていない段階においても、なんでも「ひとつちょうだい」ということばの
使い方を覚えることもままある。子どもは、大人が使う「ことば」として数詞(数のことば “いち”、
“に”、“さん”など)に出会っていき、いくつかの数詞が使えるようになる。また、「百まで数えた
ら上がろうね」などの所謂「お風呂の算数」を経験し、数唱することを覚える。大人は子どもが数
を唱えられることを成長だと感じ、それに応えるかたちで子どもは数唱することに喜びを感じる。
どこまで(例えば“ひゃく”まで)たどれるかを自慢することにもなる。ただ、
“じゅう”の次が“じゅ
3
3
ういち”であるという数の10進構造については意識せず、“しち”、“はち”、“じゅう”といった誤
りにもほとんど頓着はしない。
数唱が比較的自由に操れるようになると、実際のものと数詞との対応が可能になり、ものと数詞
の間で 1 対1対応の操作が可能になる段階となる。すぐに 1 対1対応ができるとは限らず、数える
ものをとばしたり同じものを2度数えたりすることもたびたび見られる。支援学級の子ども達もこ
うした段階を現に経験しているさ中にあった。
こうして子どもは、数唱をつかいながらものの数を数える(計数する)ことができるようになるが、
この数えて得られた数は集合数(基数)と順序数(序数)という二つの概念を併せ持つことになっ
てしまう。ただ通常、この二つの区別は子どもが成長していく過程でいわばなんとなく区別されて
いくので取り立て意識されることないのだが 3)、支援学級の子ども達にとっては難題であると言える。
また、1 年生の学習においても集合数と順序数の区別を意識して指導することは稀である。
ところが、数概念の形成に関わってこの二つの区別は重要で、算数教育をどのように方向付ける
かというベーシックな議論を含んでおり、歴史的にも一つの論争なった。明治政府が西洋式の教育
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「数える」ことの一考察
を輸入し、和算ではなく洋算として算数教育を取り入れたことで、子どもにとって集合数が先か、
順序数か先かという算数教育の論争も同時に輸入された。そして算数教育の場面ではこれをどう扱
うのかということが大きな課題となった。そして、それは現在でも一定の影響を学校現場にもたら
しているのである。
4.「直観主義 vs 数え主義」論争
先に触れた論争は、
「直観主義 vs 数え主義」論争という形をとり一大論争となった4)。
「数える」こと
の意義を考える上で要となる論点などで、次にそれを検討していく。
「直観主義」は、
子どもの直観を大切にするというペスタロッチ
(1746-1827)の教育観から生まれた。当然、
算数教育の場面でも直観を重視することとなった。明治維新直後の日本の算数教育は「直観主義」に依
拠したものが流布するようになった。そこでいう「直観主義」とは、
「数図-具体物-数」の三角関係を軸
とする教育方法であり、直観でとらえられる具体的な数の大きさの基本を3であるとする。例えば4つの
●を3を基軸として「●●●と●」で表した数図、同じように 4 本のニンジンをならべた絵、
「4」という
数字の三つの関係を重視するというもので、今でいうところのフラッシュカードのような図表を直観的に読
み取ることが重視されたのである。
数図の例
一方の「数え主義」は、この直観主義への批判として『算術教授法真髄』で
知られるドイツのクニルリングによって開発された。そこでは、5まで数えてあ
と1つ数えると6、もう1つ数えると7になるという順序数的発想が重視される。
ご
ろく
しち
5+1+1の計算ができるという利点に着目したものである。日本では、ヨー
ロッパ留学を果たした理学博士の藤澤利喜太郎がこれまでの「直観主義」を誤
りとする論陣をはり、明治 38 年(1906 年)から国定教科書として使われた『尋
常小学算術書』
(いわゆる黒表紙)の中に取り入れられることとなったのである。
ただ、黒表紙が国定教科書となったことで「数え主義」が「直観主義」に勝利
したということではなく、学校現場ではその後も長い間、それなりの対立があっ
たとされている5)。
次に、
「緑表紙」とよばれる
『尋常小学算術』
(1935 年)が国定教科書となる。その編纂責任者塩野直道は、
「緑表紙」の刊行でこの対立図式を乗り越えることができたと胸をはった6)。塩野によればその根拠は、
「物
の数の多少を直観させ、一つ、一つ、・・・、の唱え方を用いて事物の数を数えることを知らせ、数の観
念を養」うという方法を採ったことであるとしている7)。この段階で「直観主義 vs 数え主義」論争は、折
衝的に一定の結論を見たということができるだろう。
しかし戦後、数学の「現代化」の流れの中で「数え主義」ということばが批判的に取り上げられ、再
び問題となることになる。そしてそれは教育の民主化というイデオロギーとともに現場に大きな影響を与え
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プール学院大学研究紀要第 56 号
た。
「数え主義」批判は、
「数える」ことを否定するものであるとの誤解が現場で生まれる契機ともなった
のである。
5.障害を持つ子の算数指導
障害を持つ子ども(実は同じように障害を持たない子ども)には、何のために「数」を学ぶのか。
また、なぜ学ばなければならないのか。という原理的な問いに答えるのは実に難しい問題であるし、
それに答える力量は筆者にはないことを断らざるを得ない。だが、それを不断に問う姿勢は必要で
あると考えている。
さて、支援学級では「大人になった時に自分で買い物ができるようになれば」という素朴な親の
願いを聞くことがある。生活とつながる学習としての意味をそこに見出そうとし、そのことによっ
て少しでも子どもとの生活における共通部分を見出したいとの願いでもある。だが、日々の大人の
努力が、大人の側だけの論理によることから、報われないことがあるという事実も見逃すことがで
きない。
「私も、今から十年ほど前に、調理学習の中で算数の指導をやろうと試みたことがある。しかし、
ある時間内で調理をも、食べられるものを作るという調理学習の第一の目的があるわけで、その中で、
算数の指導などがわかるようにじっくり指導できず「どうしてこんな事がわかってもらえないのか」
とイライラした経験がある」と遠山啓は書いている8)。また、そうしたあせりから計算ドリルを使
うことで機械的な計算の訓練だけが先行してしまったという苦い経験があったことも記している。
東京学芸大学付属養護学校の藤原鴻一郎も、時刻・時間や金銭の活動能力の「基本は、何といって
も数概念の形成であり、数詞や数字が、実際に数える対象と結びついてはじめて役に立つ数とな」
るが、「過去において、知的発達に遅れのある子の数量指導の第一歩に数概念の指導を試みた場合、
失敗することが多かった。この失敗によってこの子たちの算数・数学指導は無意味ではないかとい
う疑惑の生まれた」9)こともあったと書いている。
将来の生活に役立つ教育をという願いと、学校教育の枠内での障害児教育(今では特別支援教育)
での教育―つまり「読み書き算」を教えること―の狭間で揺れ動く現場の感覚を表現したものだと
思えると同時に、現在にも通じる課題である。教える側のこの揺らぎを幾分かでも解消したいとい
うのがこの考察のテーマでもある。
6.教科書以前の算数
数概念の形成にあたって、集合数(基数)と順序数(序数)の区別は重要なのだが、それがなか
なか厄介な課題であるということは先に触れた。しかし、障害を持たない多くの子どもはこのハー
「数える」ことの一考察
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ドルを意識せずに乗り越えていけるが、障害を持つ子どもの場合のように、それが高いハードルと
なってしまう子どももいる。支援学級の算数教育では小学校 1 年生の教科書以前の取組みが必要で
あるとこれまでにも考えられてきた歴史は長い。
八王子養護学校の「原数学」10)と、東京学芸大学付属養護学校(藤原鴻一郎)の「準数概念」11)
という考え方にその典型例を見ることができる。
前者の「原数学」という考え方は、障害を持たない子どもたちは入学する前に地域や家庭で自然
に教科の基礎になるものを身に付けてきているが、「ちえ遅れの子どもの教科の教育を考えるとき、
この自然のうちに得られてきたものの中から、教科の基礎になるものを教育の中に、意図的にとり
あげていかなくてはならない」12)として、①未測量②位置の表象③概念形成の方法を算数教育の基
礎(すなわち「原数学」)に位置付けている。
「原数学」の三つの要素を大雑把に言えば、未測量は、量を表象できる力を育てることが重要であり、
その量を「大きい、小さい、長い、短い等」のことばとのつながりで理解する(概念化)ことが大
切であるとしている 13)。位置の表象では、空間を正しくとらえさせることにあるとして平面図形上
で「右から 2 番目」や「上から 3 番目」などという場合を例示している 14)。そして、マトリックス
を利用して、四角や丸の色板から、赤色だけを抽出することや緑の色と四角を総合して「緑の四角」
というものを概念化する概念形成の方法へと続く。
支援学級の子ども達は、いわゆる健常児とは異なり、就学前の経験が乏しいところに困難があり、
その密度も個々に大きなばらつきがあることを認めた上で、その点を意識的に取り上げようとした
のが「原数学」であり、後で触れるところの「準数概念」という考え方だともいえる。
7.「数える」こと
では、「原数学」や「準数概念」という考え方の中で「数える」ことはどう位置付けられているの
だろうか。「量」を把握するためには「数える」ことを排除することが必要なのか、むしろ「量」を
把握するためには「数える」ことが有効なのかが焦点になる。
「数える」とは、① 1 対 1 対応ができること、一つのものと数詞が一致すること②安定した順序、
いつでも同じ順に(誤っていても)数詞が言えること③基数性、数え終わった最後の数詞が集合数
を示すこと④順序無関連、どの個物からでも数え始めることができること⑤抽象性、どんなもので
も数えることができると、吉田甫は説明している 15)。ピアジェの発達研究では、6才未満の幼児に
は数量の保存がでず、その段階での数概念の形成は難しいとされているのだが、吉田によればゲル
マンとガリステルの計数活動の研究からは、それ以前においても子どもは数の概念をある程度獲得
することができるという。また、数概念の形成においても「数える」ことは重要な役割を持ってい
るとしている 16)。
340
プール学院大学研究紀要第 56 号
ものの集まりと対応して数詞
前出の藤原鴻一郎も、数えることを集合数の指導の一環として表1の
が分かる
ような位置付けをしている 17)。まず集合数として数詞を位置付けること。
そして次に、それに対応した数字を理解すること。その上で、個数を「数
ものの集まりや数詞と対応し
える」というプログラムを想定している。つまり、いきなり「数える」
て数字が分かる
ことからはじめるのではなく、量として数をとらえることを基本にして
いる。
個数を数える
「数え主義」の最も先鋭的な批判者である数学者の銀林浩は、
「黒表紙」
の「《数え主義》が量を追放することによって最悪の注入主義に陥った
数の大小を比較する
ことはよく知られています。それを克服すると称して『緑表紙』が採り
入れた《直観主義》もまた大間違いを犯した」という 18)。ここでの銀林
数系列を理解する
の批判は、「直観主義」への批判というよりもむしろ量的な扱いをして
いるように見えながら実は数的な操作のみに目を向けてしまっているこ
数の合成・分解ができる
表 1
とへの批判と理解することが適切である。同時に、「直観主義の「つま
ずき」は、この、ほんの補助的な確認の手続きである無意識的な分解 ‐
合成を、独立した意識的な《演算》にまで肥大化させてしまった点にあります」と言っている。つ
づいて一度に認識できる数が3までであるという「直観主義」的な考え方から4や5についても「3
と1」や「2と3」などの合成分解を無意識に行っているが「この手続きは、元来 4 なり 5 なりと
いうその数を確認できればよいのであって、1、2、3、4、5 とかぞえたって何らさしつかえはないは
ずです。」と数えることを一概に否定していない 19)。この指摘は注目に値するものと思われる。
8.「さんじゅう」と「じゅうさん」
量を中心にすえるという指導法がオーソドックスなものであることはすでに議論の余地がないと
考えられる。しかし、数概念の形成にあたって「数える」ことはの役割はいかなるものであるのか
という疑問がここまで議論を引きずってきたことも否めない。改めてここでその疑問を解きほぐし
ていくことにしよう。また支援学級での参与観察から実例を挙げながら算数教育の方法を考えてい
きたい。
「
(基数と序数の概念化の)両体系は本来、お互いに異なった発生的基盤に発し、それぞれが独自
な操作体系として成長を遂げるとはいえ、その成長過程では、それらは暗に弁証法的な相互関係を
保ち、最終的にいっそう統合的な論理操作の形成へ発展する(つまり分離量に関する真の数概念が
形づくられる)ということになろう」との指摘 20)を待つまでも無く、基数(集合数)と序数(順序数)
は実際の生活の中では相互の関係を持っていることはすでに明らかになった。
ひとつの例を見ることにする。支援学級に学ぶ 3 年生の H さんは、1 ~10までの数唱をこなす
341
「数える」ことの一考察
ことが出来、直観的に20コのタイルを「にじゅ」、30コのタイルを「さんじゅう」などというこ
とが出来る。けれども「1つふえる」とか「2 つふえる」という加算の概念はまだ獲得していない。
図3A のようなブロックを H さんに見せて「いくつありますか」と問うと、
「じゅう・さん」と答える。
また、図 3B を見せて同じように問えば、再び「じゅう・さん」との答えが返ってくる。
異なる図を見て同じように答えるのはなぜなのだ
ろうか。同じような課題に取り組んでいる様子を暫
く観察していると H さんの考えがおぼろげながら見
えてくる。おそらく頭の中では、図3A のほうは「10
3
3
が 3」であって、図3B は「10と 3」であると考
えているように思えた。なるほど「が」と「と」が
内言化されていなければ、ことばとしても表に出て
くることはないだろうし、両方のブロックは「じゅ
うさん」になってしまうのも納得できる。具体物を
通して「数」を一定理解することはできるが、場面に応じてそれを使い分ける方略がないと考えら
じゅう
にじゅう
さんじゅう
れる。この場合、「10、20、30でさんじゅう」と10単位となっているブロックを数えること
を積極的に教えてもよいはずである。もちろん10進構造を意識しながら取り組むことが前提とな
じゅう
いち
に
さん
るのだが。その上で「10、(と)、1、2、3でじゅうさん」と端数を数える方略との区別ができ
ることにつながっていくはずである。
この様に、実際の場面では数えないと先へすすめないという事態がまま見受けられた。
9.「数え主義」批判の忘れ物
ところが、算数の学習で子どもが数を数えるとそれを「数え主義」だとして批判する傾向が学校
現場には未だに見受けられる。子どもが数を数えるのは直観でとらえることができない大きな数を
認識するためのある意味で必然的な行為だといえるが、「数え主義」を批判する人たちは、数えるこ
とで学習に大きな問題をもたらすと考えているように感じる。「数え主義」から早く脱却しないと、
いつまでも指に頼って計算する、量の概念が育たないなどとする批判がその根拠になっている。
常に例示される批判の例として象徴的なものに、仮に23+38という形の問題がある。2位数
同士の足し算で1位数での繰り上がりがある形である。「数え主義」では常に指を使う傾向にあるか
ら指の数がたりなくなるとか、いつもノートの端に○をたくさん描くことになってしまう(23個
と38個を描いて1から61まで数えることになる)といった子どもの計数活動が引き合いに出さ
れる(確かにそうしたケースは筆者の経験でもあるのだが)。
参与観察で出会ったひとつの事例を検討してみよう。N さんはある程度(30くらいまで)の数
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プール学院大学研究紀要第 56 号
唱はできるが正確ではない。プリント学習で「21+7」などの形の学習をするときには、数表(1
から50までを10に区切り並べた表)を使う。例えば「21、22,23…、28」と指差ししな
がら計数をし、プリントに答えを書き込んでいく。いわゆる「数え主義」での加算の方法である。
ところが、被加数と加数を入れかえた「7+21」の問題では途中で数え間違い(飛ばす、重複)
があってなかなか「28」の正解にはたどり着かない。確かに「数え主義」的な方略での限界はこ
こにあるといえる。だから、「数え主義」は良くないのだと言われる所以でもあるし、現場で指導に
あたる先生の理解もおおむねそのようだ。
しかしよく考えてみると、ここには「数え主義」への批判の陰に隠れて見過ごされている問題が
いくつかあるのではないか。23+38の計算に取り組む前に、10進位取法が理解できていない、
数の合成分解(5までの合成分解と10までの合成分解とに分けて教えることもふくめて)に不慣
れ、または数の系列化ができていないなどの問題が指摘できるのではあるまいか。そのことへの取
り組みが、あるいは学習が積み上げられていない(強いていえば数の概念形成が十分に育っていな
い)から、ノートに○(図形のマル)を描かなくてはならないのである。また、数表を使わなけれ
ばならいともいえる。数概念が十分に獲得できていない子どもが、なんとか問題を解決しようとす
るなかで見つけた方略の一つであって「数える」ことの問題ではない。問題の答えにマルをあげたい、
目に見える形で成果をあげたいという大人の側の問題を子どもの内在的な問題として片付けてしま
うという過ちを犯しているように見える。
10.数えることと数系列
量的な把握と同時に数の系列化も数概念の形成には欠かせないことである。系列化と「数える」
ことの関係についても考えてみたい。
ものの量的な大小を理解するためには「3よりも5が大きい」とか「5よりも4は小さい」など
の概念化が必要となる。1 対 1 対応で二つの集合を比べどちらが「多い・少ない」かどうか、ある
いは未測量を比較しどちらが「長い・短い」をことばで表現することは量を表象するためには大切
な活動であった。ここから 1 歩進んで「どれだけ多いか少ないか」を量的に考えるためには、数の
系列化が必要となる。集合 A と集合 B の間に生まれた「差」は、数(量)として扱わなければなら
ず、立式するに当たってはマイナスの概念が獲得されていない以上 A―B はA>Bという概念が確
立されている必要が生まれてくる。
図4では、「くまよりも金魚が 2 匹多い」とことばで表現できることは、ある種の概念化にむけた
活動である。また、「3よりも5が大きい」と抽象化された数系列でもって表現することも概念化だ
と言える。この場合、くまを1・2・3と数えて、今度はのこりの金魚を改めて1・2と数えるこ
とになる。あるいは、1 対 1 対応を行い、その残りを数えることになる。
「数える」ことの一考察
343
「ひとつ前はいくつですか」や「次の数は
いくつになりますか」などの問いも、順序
数を扱うもので系列化は不可欠な要素であ
る。A + 1 やA-1という計数とも関連す
ることは言うまでもない。これをもって「数
え主義だ。」として批判されることもある
のだが、この場合は順序数を扱っているのであり「批判」は該当しない。むしろ、「数える」ことが
方略として使われなければならない場面である。
生活単元と関わってよく使われる「スゴロク遊び」も数系列の学習要素を持った遊びだと見るこ
とができる。賽の目に従って現在の位置からいくつか前後にコマを進める遊びである。数唱ができ
ることが前提になる。それ故に、数の系列化の学習として利用できるものでもある。
T さんは、スゴロク遊びをする時に賽の目を読むことは出来るが、自分のコマのある場所をどう
しても「1」と考えてしまう。T さんには「0」の概念を把握することが大層難しいことだったよ
うに思われる。和算の世界では、「1」を起点とするものが多くあり、例えば「子 ( ね ) の刻」は 0
時ではなかったことを思い出せば、むしろ日常生活では T さんのような考え方が普通だろう。起点
を「0」と考えるのは算数教育では常識のように思えるが、それは数学的な世界の考え方であって、
子どもの日常感覚からはかけ離れていて理解することは難しい。「0」を起点とすることは数直線的
な概念=系列化が必要だと言える。時間と時刻においても数直線的な概念を必要とし、「あと 2 時間
たつと何時ですか」という生活に密接な問いとなる、長さも「0」を起点とすることにおいては同
じである。
いずれの場合についても、「数える」ことが重要な操作の一環となることは間違いない。
11.ノイズ(集合数と順序数の混同)の除去
このように、数概念の形成を量や系列化など多元的な方面から考えていくことが必要なことはい
うまでもない。そのためには、集合数と順序数の関係をきちっと分けて理解することがどうしても
必要になってくる。子どもにとって、とりわけ支援学級の子ども達には難しい課題であることは、
繰り返しになるが、これまでに確認してきた。指導する側はそのことを十分理解した上で指導法や
教材を作り出さなければならない。しかも、そのことを子どもの側の未熟さとしてはならないので
ある。
指導法研究や教材開発に際して、障害を持つ子どもの学習場面でのノイズを低減することがいか
に必要なことであるかを筆者は参与観察の中で教えられた。ここでいうノイズとはコミュニケーショ
ンを行う際に、不可避な意思の疎通を妨げるものとして考えている。算数教育におけるノイズの低
344
プール学院大学研究紀要第 56 号
減とは、目標を達成するために手の操作が不自由であればそれをアシストするような方法をとるこ
とや、集中することが得意でない子どもに小さな空間を保障するなども含め、目的が理解しやすい
方法を意味するものとする。
ノイズを含んだ一つの例を挙げてみることにし
よう。順序数を教えるために図4のようなブロッ
クの階段作りが使われることがよくある。また、
量を指導するとしてブロックを順に並べさせるこ
とがある。矢印のところが示しているのは左右い
ずれのブロックにおいても、「4 個のブロックのか
たまり」でもあり、「1.2.3.4番目」でもある
とも、考えられる。指導する側は、一定の目的を
もっているのだからそこにノイズが介在しているとは思ってもいない。ところが子どもから見れば、
1 のブロックから 5 に至るブロックまでが、量を表す階段の高さであるのか、順序であるのかが明確
に区別できない表現になってしまっている。
「2より 1 つ多いのが3」と理解することも「2の次が3」
であると理解することも子どもの側の自由?ということになりはしないかとの疑念をはさむところ
である。この区別が曖昧である教材は、子どもに「ノイズ」を与えてしまう不適切な教材だと評価
しなければならないと筆者は考えている。たとえ指導者が、最良だと考えた教材であっても知らぬ
間に「ノイズ」を孕んでしまうことがあるという実例のように思われる。
参与観察中にこのノイズを低減するものとして、「ス
ゴロク」を試作してみた。下の図は、量と順序の混同
を避けるために、順序だけが表面化すること、また手
先の不器用さをもカバーできることを考慮した教具で
ある。
厚紙の箱を利用しその底に小さなコマが入る程度の
穴をあけコマを進めようとするものだ。順序数を学習
する場合に、サイコロの目だけ進むというルールに十
図5
3
3
分馴染んでいない子どもに、じゃんけんで勝てば「1
3
つすすむ」ということばと同時にコマ(携帯用の醤油入れ)を動かすことに慣れることができるよ
うにと考案した。手先の器用さを持っていない子どもには、普通のスゴロクではコマを「置く」こ
ともある種のノイズになると思われたので、穴の中にコマを入れることでノイズの低減をはかろう
とした一例である。
「数える」ことの一考察
345
12.むすび
障害を持つ子の数概念形成について、ひとつの支援学級をフィールドにして考えてきた。加えて、
「数える」ことの積極的な意味が見つけられないだろうかと思いながら論をすすめてきたと考えてい
る。
現場の算数教育ではかつての「直観主義 VS 数え主義」で浮かび上がってきた論点は未整理のまま、
「数える」ことを取り上げるか、取り上げないかは個々の先生方の「信念」に依存しているのだとさ
え思えてくる。「数える」ことの可否を論ずるよりも、足し算や引き算が出来ること、プリント学習
として目に見える形として残ることが教育の「成果」であると暗黙裡に前提されているように見える。
教員の多忙化が指摘される中で、子どもの数概念がどのようにして形成されているかを考えている
余裕さえも現場にはないのだと思えてくる。「数える」ことを否定するにしろ肯定するにしろその議
論を避けて安易な方向で結論付けようとする傾向が伺えるのである。「数える」ことは、量概念を明
確なものとして子どもの中に作り上げるために、また数の系列化を獲得するために、意識的に扱う
ことが必要だということをこれまで論じてきた。支援学級の子ども達は、参与観察を通して筆者に、
そのことを教えてくれたと思うのである。
【補論】 「水道方式」の歴史的な位置
本論では「直観主義 VS 数え主義」論争として「数える」ことについて考察してきた。その背景には「水
道方式」が示す数概念の形成の検討を試みるということが別の課題としてあった。「直観主義 VS 数
え主義」論争の背景にはどのような教育観が潜んでいたのか、歴史的背景が何であったかに目を向
けさせるものである。ここでは、その歴史を補論として見て考えてみたい。
問題意識は、最初の国定教科書として登場したいわゆる「黒表紙」の成立過程にまで遡ることに
○ ○ ○
○ ○ ○
図6
なる。編集者の藤澤利喜太郎は、順序数を基礎にした独自の数学論
を教科書にあてはめることを目的とし、それ「数え主義」として強
引に具体化し「黒表紙」を纏めた。そこに「直観主義 vs 数え主義」
論争といわれる事態が起った。加えてその論争にはもう一つ大きな
対立点が隠されていた。四則併進説と四則単進説と呼ばれる教育方
法がそれである。
四則併進説は、一度に加減乗除を教えるというものだが、いきなり120÷15などを教えるの
ではなく、例示すれば「6」という数に関わる加減乗除を一度に学ぶというものだ。つまり、加算(破
線での区切り)としては1+5=6、2+4=6.減算としては6-1=5、6-2=4.乗法(実
線での区切り)として2×3=6、3×2=6.除法で6÷2=3、6÷3=2.というように一
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プール学院大学研究紀要第 56 号
つの数を多面的に取扱う教育方法である。本文でとりあげたペスタロッチの数図も、区切り方によっ
て様々な演算を表すことが出来るため、四則併進を主張する教育法にとっては大変重要なものであっ
た。一方の単進説では、加法の次に減法、そして乗除に進んでいくという今ではオーソドックスな
方法をとるものである。
藤澤利喜太郎の『黒表紙』刊行の本来の目的は、当時主流であった四則併進説を締め出すことにあっ
たのではないかといわれている。数学教育協議会の『数学教室』の執筆者中谷太郎は、藤澤の編集
意図を「算術教育を統制するための新兵器として数え主義が利用された」のではないかと推測して
いる 21)。そのためにあえてクニルリングの「数え主義」を導入したと考えてもまんざら的外れでも
なさそうだ。蛇足だが当時、算数教育は四則併進が主流だったということは今からすれば意外なこ
とではある。
その後、「緑表紙」、「水色表紙」と国定教科書は敗戦までつながっていくのだがそれぞれに、文部
省の図書監修官であった塩野直道が関わっていたことは戦後の算数教科書の作成にまで尾を引くこ
とになる。
敗戦後これまでの国定教科書は廃止され、学習指導要領も「試案」であり現場を拘束するもので
はなくなり、教育も民主主義の時代になったといわれた。J・デューイの考え方を柱とし、戦後
の民主主義教育を牽引するものと期待された生活単元学習(コアカリキュラム)が登場した。し
かし、深刻な学力低下の前に「這い回る経験主義」として批判され教育現場の支持も次第に薄れ、
1953年にはコアカリキュラムを担ってきた「コア ・ カリキュラム連盟」はついに解散に追い込
まれることとなった。57年にはソ連による人類初の人工衛星が打ち上げられ、西側は「スプートニッ
ク・ショック」に見舞われた。にわかに教育の現代化が叫ばれるような情勢となったことも生活単
元学習の終息を早めたのである。戦後民主主義のシンボルがなくなってしまったと感じた人たちも
いた。58年にはこれまで「試案」とされてきた学習指導要領が「官報掲載」という形で法的拘束
力を持ったものに変えられていき、朝鮮戦争に続き自衛隊創設という政治的な状況も大きく変化し
た。いわゆる「55年体制」が成立し、教育界では文部省対日教組の構図が出来上がったのもこの
頃だった。
この時期に、算数教育の「現代化」を旗印に遠山啓が「水道方式」を提案し、文部省(当時)の
検定教科書を批判した。遠山は「緑表紙」を批判して「これは黒表紙の欠陥を直したと称している
けれども、いま考えると直していないどころか、改悪しているところがかなりある」と厳しく批判
した 22)。そして、旧来の教育方法を改め量概念を中心にしたものを算数・数学教育の現代化である
とした。その中核として打ち出した教育方法が「水道方式」と呼ばれるものであった。あわせて「緑
表紙」の編集者の塩野直道が、戦後再び啓林館の教科書作りに関わっていることもあって、遠山の
批判は国家が教育内容を決めていくという「文部省検定教科書」への批判として強く打ち出されも
したのである。
「数える」ことの一考察
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とりわけ、「水道方式」が「数え主義」批判と「タイル」の使用という分かりやすさをともなたっ
たことで、中流家庭の保護者や日教組に近い教員・学者に支持さるようになった。雑誌『暮らしの手帳』
は 49 号(1959 年)から数学者矢野健太郎の文章「お母さまのさんすう」シリーズを掲載した。次い
で 1962 年には毎日新聞で『算数に強くなるーおかあさんの算数教室ー』が連載され 23)、「水道方式」
が教育関係者以外の人々の目にも触れるようになったことは「数え主義」批判が市民運動的な側面
を持つに至ったといえる。「このとき京都市教委は、水道方式は組合の算数だから禁止という通達を
9月に出したんです」と銀林浩は後の対談で話している 24)。
「数え主義」批判ということが確かに量を排除したことへの批判であり、数の操作を中心に置く暗
算重視への批判であることは理解できる。ところが、水道方式が一定の広がりを見せるに従って、
「数
える」こと自体の忌避と半具体物としてのタイルの使用が水道方式の実践であるとする安易な取組
みが教室実践として見られるようになり、検定教科書を使わずに『わかるさんすう』(むぎ書房)を
使うことが民主的な教員であるというラベリングも行われた。タイルは使っているけれどもほとん
ど量を扱うことが無い授業(計算ドリルの多用やソロバンの代替物としての使用など)、集合数と順
序数の混同や具体から抽象へのステップ的操作の軽視などが見られ、水道方式という算数の教授法
がどこまで現場で理解されたのかについては疑問が残る実践がまかり通った時代でもあったといえ
る。
今では、教科書使用を強く指導する方針を行政はとるようになり、その時代の空気を感じていた
教員(いわゆる団塊の世代)も大量退職することになった。同時にそれぞれの教科書も半具体物と
してタイル様のものを扱うようになり児童の個人持ちの教具(お道具セット)にもブロック(立体
的なタイル)が標準でセット販売されている。そうした環境変化のもとで、水道方式への支持、批
判も次第に下火になってきたといえる。
一方、支援学級においては水道方式への支持、批判の動きはあまり表面化しなかったようだ。た
だ「数え主義」への批判だけが未だに根強く残っていると思える。
ある公開授業でのケースで考えて見よう。図に示したような3枚のカード 25)を使って、量を意識
させながら計算をするという目的の学習である。水道方式で使われている「タイル(ブロック)」で
30と13が表示されそれを見て、「30+13」の答えを出すことが求められた。問題を前にした
A さんはカードを暫く見つめた後に、一度目は誤答。促されて2度目は「43」と正解。参観者一
同は A さんの能力とこの教授法に目を見張った。
ところで、このときに A さんはどのような流れで計数を行ったのか考えてみたい。1つは、30
に「1,2,3…13」といわゆる「数え足し」をした。2つ目は、10のブッロクと10のブッロ
クをあわせて40を得てその後に3を加えた、いわゆる「暗算重視」の計数。最後は、ブロック全
てを心象化して43を直感的に得た。当の子どもに聞いてみたわけではないので実際のところは不
明なのだが、おおよそこういうことになるだろうか。「水道方式」は10進構造を重視しむしろ筆算
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プール学院大学研究紀要第 56 号
で問題を解決しようとするものだが、このよう
なフラッシュカードから数(量)をとらえ計算
するという教授法は、子どもが覚えておかなけ
ればならない数(量)が多く(ワーキングメモ
リーの容量を越えることで)、負担の多い学習で
はないかと推測する。思考するためのシェマを
明確するためにこそ「タイル」を使う意味があ
るのであって、
「タイル」から数を読み取ること
がその目的ではないはずなのだから、主客が転倒しているようにも見える授業であったと思う。
「水道方式」の果たしてきた役割は教科指導法としても教育論としても大きな意味があり、現在で
はその成果は一定の水準で標準化されている。「約二〇%の正答率の上昇と、約三分の二の時間の短
縮をもたらす、という水道方式それ自体の力はもちろん、「子どもたちに賢く丈夫に育ってほしい」
という教師や父母の素朴な願いを尊重する遠山の姿勢が、その進展を支えた。」26)と評されたことも
分かるところである。しかし、先ような現実が支援学級において一定の広がりとしてあるのならば
果たして、遠山らがめざした算数教育が現場で着実に根をおろしているといえるのだろうかという
疑問は残る。
<註>
1)吉田甫『子どもは数をどのように理解しているか』 新曜社 57p
2)森毅『数の現象学』(朝日選書 1989 35p):「< 連続 > が分節化されて < 離散 > の相貌を見せるとき、そ
れは < 数 > となる。」
3)アレックス・ベロス『素晴らしき数学世界』(早川書房 2012 40 p):「われわれは学校で基数と序数の考
えを一緒に教えられ、両者のあいだにするりとすべりこんでいく」
4)手島勝朗『算数教育の論争に学ぶ』(明治図書 1988)
5)手島勝朗『算数教育の論争に学ぶ』(明治図書 1988)
6)松宮哲夫『伝説の算数教科書“緑表紙”―塩野直道の考えたこと』(岩波科学ライブラリー 2007)
7)上垣渉『尋常小学算術』における数概念形成の教授法に関する考察』
(岐阜聖徳学園大学紀要第 52 集 2013 年)
8)遠山啓『歩きはじめの算数』(国土社 1972 24 p)
9)藤原鴻一郎『ちえ遅れの子どもの算数・数学 段階式 1 数と計算編』(学習研究社 1978)(新版として『段階
式 発達に遅れがある子どもの算数・数学』学習研究社 1995)
10)小島 靖子 小福田史男『八王子養護学校の思想と実践』(明治図書 1984)
11)藤原鴻一郎『ちえ遅れの子どもの算数・数学 段階式 1 数と計算編』(学習研究社 1978)
12)小島 靖子 小福田史男『八王子養護学校の思想と実践』(明治図書 1984 44P)
13)「数量の基盤には、数値化しない段階の量(大きい、小さい、長い、短い等)があり、このような数値化し
てない量があいまいなところでは、数の指導をしてみても意味のない数だけを操作するようなものになって
「数える」ことの一考察
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しまう。数量指導を積みあげていくためには、この数値化してない段階の量の指導が欠かせないことになり、
算数教育の基礎の一つとして考えられる」(同上)
14)
「初期の段階では、物(形)ののっている二次元空間(平面空間)をとらえることであるわけで、平面での物(形)
の存在している位置関係を知ることが空間をとらえる基礎になってくるであろう。空間・図形指導を系統的
に積みあげていくためには、「位置」を正しくとらえることがこの基礎にあると考える」(同上)
15)吉田甫『認知心理学からみた数の理解』(北大路書房 1995)
16)吉田甫『子どもは数をどのように理解しているか 』(新曜社 1991)
17)藤原鴻一郎『ちえ遅れの子どもの算数・数学 段階式 1 数と計算編』(学習研究社 1978 53p)
18)銀林浩『子どもはどこでつまずくか』(国土社 1975 45 p)
19)銀林浩『子どもはどこでつまずくか』(国土社 1975 43 p)
20)『講座「障害児の発達と教育」第 6 巻 発達と指導Ⅳ 概念形成』(学苑社 1982)
21)上垣渉編『日本数学教育史』(亀書房 2010)
22)遠山啓『数学の学び方・教え方』(岩波新書 1972)
23)毎日新聞社『算数に強くなる―おかあさんの算数教室』(1962):後日単行本として発行されるがこの編集に
毎日新聞の論客松村喬と藤田恭平がかかわっている。
24)数学教育研究会『コトバと数学の教育を考える : 科学的・体系的な教育とは何か ?』(数学教育研究会 2009
p210)
25)支援学級では比較的良く使われるフラッシュカード。一目で数を言い当てる訓練として使われる。
26)田中耕治・編著 『時代を拓いた教師たち』(日本標準 2005 112 p)
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(ABSTRACT)
The meaning of "counting" to the child
NOZAKI Yasuo This paper asks, how does the child understand the meaning of "to count"? It takes as its
premise that the trend in Japanese primary schools is to emphasise the concept of numbers
meaning quantity. As a result of this trend, the meaning behind "counting numbers" is not given
a great deal of consideration. This paper argues that an education system that purely emphasises
"correct" and "incorrect" answers to mathematical problems has weaknesses that need addressing.
The paper identifies a new interpretation of the importance of "counting", based on the author's
observations in special needs classes. Further, the paper considers the historical meaning of Suido
Hoshiki mathematics education in Japan.
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