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複数世界のキロ - タテ書き小説ネット

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複数世界のキロ - タテ書き小説ネット
複数世界のキロ
氷純
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
複数世界のキロ
︻Nコード︼
N8660CA
︻作者名︼
氷純
︻あらすじ︼
自分そっくりな何者かによって異世界に放り込まれた主人公キロ
は、日銭を稼ぐために冒険者をしながら、元の世界へ帰る魔法を探
し始める。
︱︱帰りたい理由?
奨学金を返済し終えてないからです。
1
プロローグ
彼は携帯電話を耳に当てつつ、バイト先の店長に目礼して扉をく
ぐった。
暖かさなど微塵も感じない冬の外気に包まれて、身震いする。
道路を挟んだ向かいの歩道に視線を転じれば、毛皮のマフラーを
巻いた人影を見つけて羨ましくなった。
髪も肌も真っ白なその人物は、マフラーで口元を隠していて性別
がよく分からない。高校生くらいだと見当はついたが、年齢にして
は上等な毛皮のマフラーがどうにも不釣合いだ。
︱︱外人さんか。
少し気になりはしたものの、あまりじろじろと眺めるのも失礼だ
と思い直す。
何より、右手に握った携帯電話で通話中なのだ。
﹁︱︱見つけたのはついさっきだ。もう冷たくなっていたよ﹂
﹁⋮⋮そうか。歳だったもんな﹂
携帯電話の向こうにいる父親代わりの言葉に返した。
耳に当てた携帯から、泣きじゃくる子供の声が微かに聞こえてき
て、苦笑する。
︱︱年少組の子か。
﹁俺が施設に入ったのとほとんど同時だろ? 十三歳くらいか﹂
﹁十五歳は超えていたよ。犬にしては長生きな方だ。お前もこっち
に来い。お前にだけは良く懐いていたんだから﹂
﹁あぁ、いま向かうよ﹂
2
通話を切り、数年前まで住んでいた児童養護施設に足を向けた。
幼いころは嫌悪感すら抱いた場所だった。
逃げるように勉強し、奨学金を得て全寮制の高校へ進みバイトを
しつつ卒業したものの、就職活動は身元保証人が空白の履歴書の影
響で難航している。
時間だけはあるというのに、最近はあまり構ってやれなかったな
と、牙を剥いて威嚇ばかりしていた犬の顔を思い出す。
やたら強気なくせに、彼にだけは懐いていた。段ボール箱から拾
い上げて最初に餌をやった人間だからだろう。
施設への道筋を思い出していると、耳慣れない名前が耳に飛び込
んできた。
横に目を向ければ、家電量販店の店頭に置かれた液晶テレビが視
界に入る。
どうやら、しばらく前から行方が分からなくなった女性に関する
報道らしい。
女性の名前が日本史の教科書で最初に出てくる女性と同じ読みな
のだ。
気になった事といえばただそれだけ、すぐに記憶の中から消える
ような些末事だ。
﹁︱︱自分には関係ない﹂
この言葉が自分と社会とを隔てる壁を作り始めた時期は何時だろ
うか。
昔は捨て犬を拾うくらいの優しさを持ち合わせていた癖に、今と
なってはただ一言で切って捨てる。
そうやって、自分と自分の居場所をリスクから守っている。
牙を剥いている方がまだ救いがあるかもしれない。少なくとも外
に対して積極的に行動しているのだから。
つらつらとそんな事を考えていたからだろう。
3
彼は裏道に落ちていた手袋に目を留めた。
﹁毎度思うけど、なんで手袋って片方しか落ちてないんだろうな﹂
苦笑しつつ、誰にともなく呟いた。
拾って目立つところに掲げておけば、落とし主の目にも付きやす
いだろう。
牙を剥くより健全だ。
自嘲気味に考えて、彼は手袋に歩み寄る。
男物の丈夫そうな革の手袋だ。少し年季がいっているようにも見
える。
彼が手袋を拾おうと屈むと同時に、背後から駆け込んでくる足音
が聞こえた。
タイミングよく持ち主が現れたのかと、拾おうとしていた手を止
める。
その瞬間、革の手袋が光を放ち、彼の前に正体不明の黒い長方形
の空間を生み出した。
驚いて手袋から飛びのこうとした彼だったが、背後から駆けてく
る足音は速度を緩める様子がない。
空気を読めと文句を言う前に、駆けてきた勢いごと彼にぶつかっ
てくる。
背中に与えられた衝撃で彼は前へと押し出され、黒い長方形の一
歩手前で何とか踏み止まった。
﹁おい、何するんだ︱︱﹂
文句を言おうとした彼は体を反転させ、体当たりしてきた人物の
顔を見て絶句した。
毎日のように鏡に映す顔が、そこにあったからだ。
4
﹁⋮⋮行って来い。そして、救ってくれ﹂
短く、台本を読み上げるような抑揚のなさで彼にそっくりな男は
囁く。
まるで、録音した自分の声を聴いているような感覚に襲われた。
﹁お前、誰だ?﹂
﹁︱︱忘れるな。今は一月二十日、二十時だ﹂
男は何故か時間を告げた。
ますます混乱したが、この状況に答えを出す時間は与えられなか
った。
男が音もなく流麗な足捌きで彼我の距離を詰めたのだ。
咄嗟の事で反応できないでいる彼の胸へ、男が掌底を放つ。
怪我をさせる意思はなく、ただ突き飛ばしたと表現するべき柔ら
かい一撃だった。
しかし、その細い腕からは想像もできない力が込められていたら
しい。
彼の靴底からコンクリートの感触が消えた。
﹁︱︱なっ⁉﹂
男の姿が遠ざかる。いや、男は動いていない。
彼が遠ざかっているのだ。
そう理解した直後、革の手袋が生み出した黒い長方形の空間へと、
彼は吸い込まれた。
5
第一話 羊飼いの少女
数瞬の間、水中にいるような鈍い浮遊感に襲われた彼だったが、
気が付けば背中に地面の感触があった。
慌てて跳ね起きて、周囲を見回す。
人の手が入っていない自然林の中のようだ。湿った地面に転がる
岩には苔が生え、木々は歪な幹からグネグネした枝を伸ばしている。
頭上には密生した枝葉が陽光を受け、緑色に透けていた。
見覚えのない場所だ。少なくとも彼の地元ではない。
体のあちこちを触り、異常がないかを確かめる。
ついでに携帯電話を取り出したが、画面には圏外の文字が躍って
いた。
﹁今時、圏外って⋮⋮地図機能も使えないのか﹂
ため息を吐いて、服についた汚れを払って立ち上がる。
携帯電話のメモ帳機能を開き、一月二十日二十時、と打ち込んだ。
その時、気付く。
﹁⋮⋮太陽が出てる﹂
彼は頭上を覆う葉に陽光を透かしながら、呟いた。
記憶は二十時で途切れている。
携帯電話の画面に表示された時間も二十時、日付も変わっていな
い。
彼を昏倒させて携帯電話の時間を弄るなどというマメな事をする
人物が太陽の運行に気を払わないとは思えない。
さらに言えば、彼が目を覚ます時間を正確に予測できなければ携
6
帯電話の時間を弄っても誤差が出てしまう。
つまり、どうやってこの森の中に彼を送り込んだのかといえば、
﹁瞬間移動⋮⋮俺はいま、光速を超えた︱︱まぁ、言ってみたかっ
ただけなんだけど﹂
ポリポリと頭を掻くと、先ほどまで地面に寝転んでいたからか指
先に泥が付いた。
不快感を我慢して、今後の方策を考える。
森の中ということ以外、現在地も分からない。状況だけ見れば遭
難している。
しかし、彼を突き飛ばした男は言っていた。
﹁⋮⋮救ってくれ、か﹂
誰かを救う必要があり、そのために送り込まれたというのなら、
この場を動かなければ救う対象である誰かと遭遇するのではないか。
少なくとも、この場に送られた事に意味があると考えるべきだ。
彼はすぐに決断した。
﹁よし、逃げよう﹂
救わなければいけない誰かが来るのなら、高確率で面倒事もやっ
てくる。
そして、﹁救ってくれ﹂といった彼にそっくりなあの男の手に負
えない規模だった事が想像に難くない。そうでなければ、誰かに救
いは求めないからだ。
他人にできない事をやってのける自信など、彼にはない。自分に
そっくりな誰かが失敗したとなれば、なおさらだ。
7
﹁⋮⋮自分には関係ない﹂
関係を持とうとして、今の状況がある。親切心を出してもろくな
目に合わないと証明された直後で、厄介事に首を突っ込む勇気はな
い。
彼は携帯電話をポケットに収め、駆けだす。
しかし、三歩目を踏み出した瞬間、大木の太い幹で出来た死角か
ら白い毛に覆われた生き物が飛び出してきた。
横合いからの衝撃に跳ね飛ばされながら、彼は視線を向ける。
﹁︱︱羊?﹂
無様に湿った地面の上を転がった彼は、不意打ちを食らわせてき
た羊を見た。
モコモコと大量の毛を纏った羊が彼を睨みながら一歩、二歩と後
退していく。
その動作が意味するところに気付き、彼は慌てて地面に手を突い
て体を起こす。
彼が体勢を立て直す気配を感じたのだろう、羊は三歩目を正面に
打ち下ろし、一気に加速する。
﹁やっぱり助走をつけてたのかよ!﹂
突っ込みを入れつつ地面を強く蹴り、前転の要領で羊の突進から
逃れた。
躱された事を知った羊は忌々しそうに向き直り、再び助走距離を
稼ぎ始める。
羊が頭を下げ、もう一度突進の構えをとった。
次の瞬間、羊は後ろ足を滑らせたようにズッコケる。
8
﹁⋮⋮え?﹂
羊が唐突に見せた渾身のギャグに反応できずにいると、今度は羊
が体ごとひっくり返り、腹を空に向けた。
事ここに至って、ようやく羊の体に押し付けられた杖を見つける
事ができた。
端がかぎ状に湾曲している杖だ。
杖の逆端は大木の裏に繋がっている。
続いて、大木の裏からひょっこりと顔を見せている少女に気付い
た。
自然な色の明るい茶髪に群青色のきれいな瞳、歳は十七、八だろ
うか。
丈夫そうだがややくたびれたコートを羽織り、先端が湾曲した木
の杖を持つ少女の姿は、童話の挿絵に見る羊飼いそのものだった。
茶髪には小さなモザイクガラスがあしらわれたヘアピンを付けて
いる。
﹁jytdcvjkl;?﹂
︱︱何語だよ。高卒に唐突な異文化交流はハードル高いって。
わけのわからない言葉で話しかけられ、彼は焦る。
少女が首を傾げたため、質問されたのだと辛うじて理解できた。
﹁⋮⋮怪我はないけど﹂
状況から怪我の有無を訪ねているのだろうと見当をつけて、言葉
と共に手を振って無事をアピールする。
少女は彼の言葉に首肯した。
﹁o;sbfzsl;dgossk﹂
9
飼い犬に待てと指示でもするように、開いた手を突きだし、少女
はコートのポケットを漁って腕輪を取り出した。
少女は右腕の袖を捲り、自分の腕にはまっている同じ腕輪を見せ
ると、ポケットから取り出した方の腕輪を差し出してくる。
どうしたものかと思いながら、腕輪を見つめた。
﹁⋮⋮受け取ればいいのか?﹂
山道で人とすれ違う時には会釈するという。同じように、腕輪の
受け渡しは森で人と出会った時の儀式なのだろうかと思いつつ、腕
輪に触れる。
﹁tdfかりますか?﹂
﹁え?﹂
﹁言葉が分かりますか?﹂
腕輪から顔を上げると、少女は微笑みながら口を開いた。
﹁言葉が分かりますよね?﹂
﹁⋮⋮分かる、みたいだ﹂
少女の口から紡がれる言葉は未だに聞き取れなかったが、頭の中
で強制的に日本語へ翻訳されているように、彼は内容を理解できて
いた。
少女が満足そうに頷く。
﹁この腕輪に触れていれば、異国の言葉でもある程度は理解できる
ようになります。仕事柄、異国からの旅人と話す機会もあるので教
会から支給されるんですよ。分かりますか? uyvtoy教会﹂
10
﹁教会の名前だけ聞き取れない﹂
彼が素直に答えると、少女は難しい顔をする。
﹁使用者が親しんだ言語に存在しない単語は変換されなかったりし
ますからね。教会の名前だけでも、音で覚えてください﹂
布教活動も義務なので、と少女は悪戯っぽく笑った。
彼は曖昧に笑い返しながら、意識は腕輪にくぎ付けだった。
こんなものが地球上に存在していたなら、英語の授業で悩む学生
などいなくなる。
時代錯誤な少女の服装も相まって、一つの可能性を意識せざるを
得なかった。
すなわち、ここが異世界である可能性だ。
瞬間移動と異世界転移のどちらがよりリアリティーがあるかと考
えているうちに、少女は羊を起こして追い立て始めた。
不満そうにのしのしと歩く羊を監視しながら、少女が声をかけて
くる。
﹁一緒に来ませんか? 魔物に牧羊犬が殺されてしまって、手が足
りないんです。できれば手伝っていただけると嬉しいんですけど⋮
⋮﹂
魔物、という単語が自然と発せられて、彼は内心ため息を吐いた。
︱︱異世界で決定かな。
﹁役に立つかはわからないけど、それでよければ﹂
彼の返事を聞き、少女は安堵したように笑った。
11
﹁私はクローナ。あなたは?﹂
﹁規路史隆だ。よろしく﹂
一緒に歩き出しながら、自己紹介を交わす。
﹁キロフミタカさんですか?﹂
﹁⋮⋮キロでいい﹂
言い難そうなクローナを見かねて、キロは妥協する。
太い木々に視界を遮られて気が付かなかっただけで、羊の群れは
すぐそばにいた。
地面から飛び出している木の根を跨ぎながら、キロは羊の群れを
見た。
数は十頭ほど。クローナはざっと眺めただけで数が揃っているか
を確かめたようだった。
﹁羊を挟んだ向こう側を歩いてください。それだけで結構です﹂
キロは頷いて、クローナの指示に従う。
羊が放つ強烈な獣臭さを我慢して歩きながら、キロはクローナを
盗み見た。
出くわしたタイミングから考えて、救う対象はクローナではない
だろうかと思ったのだ。
しかし、すぐに思い直す。
確かにクローナは牧羊犬を失って困っている。しかし、是が非で
も助けがいる状況とは思えない。
もしも、これからクローナが助けを必要とする立場に追いつめら
れるとすれば、その未来を知っていた男は何者なのか。
﹁分からない事だらけだな⋮⋮﹂
12
キロはため息とともに小さく呟いた。
いずれにせよ、言葉が通じないこの土地で、今のところ頼れる相
手といえばクローナだけだ。
そう思ってもう一度クローナに目を向けると、視線が合った。
﹁キロさんの故郷はどこですか?﹂
質問をぶつけられて、キロは内心の動揺を悟られないように小さ
く深呼吸する。
違和感を持たれない程度の間を開けて、キロが口を開こうとした
時、クローナはくすりと笑った。
﹁︱︱なんて、言われても分からないんですけどね﹂
クローナは自らが出した質問の意義を否定して、クスクスと笑っ
た。
﹁大陸に冠たるuyvtoy教会の名前だけが腕輪で翻訳されない
なんて、そんな事、まずありえませんから﹂
腕輪は使用者の母語から合致する単語を抽出する。
クローナが言う教会がもし、キロが歩いている土地の大部分を宗
教圏に収めているのなら、キロはどこかで見知っているはず。
宗教圏の外から来たのなら、クローナと出会うまでの旅はどうし
ていたのかという話になる。
﹁着ている服も綺麗ですけど、この辺りでは売ってない様式です﹂
指摘されるまでもなく、キロだって気付いていた。
13
様式が云々という以前に、化学合成素材が使われている。
苦い顔をするキロに、クローナは楽しげな笑みを向けた。
﹁あなたにとっての異世界にようこそ、キロさん﹂
14
第二話 冒険者へのお誘い
クローナに案内されてたどり着いたのは、石の防壁で囲まれた町
だった。
防壁は全体的に曲線で構成されており、武骨ながら機能美を有し
た外観だ。
門を潜り、町の中に入る。
キロの服装が珍しいからだろう、すれ違いざまに無遠慮な視線を
向けられた。
﹁これでも、羊が人の邪魔にならないように人通りの少ない道を歩
いているんですけど⋮⋮﹂
クローナは言うが、本人もこんなに人とすれ違うとは思っていな
かったらしい。
申し訳なさそうな顔で先を急いでくれた。
﹁無理しないでいいよ。焦って羊を逃がしたら大変だ﹂
キロはさりげなく街の様子を観察する。
︱︱石作りの建物ばかりだな。
丈夫そうな石作りの建物が並ぶ街並みが、キロには少し新鮮だっ
た。
同時に、馬車が現役で活躍している光景も見受けられ、改めて現
代世界ではないと実感する。
︱︱こんな腕輪作れるのに科学技術がこのレベル。魔物もいるら
しいし、やっぱり、異世界だよな。
右腕にはめた腕輪を見て、キロはため息を吐いた。
15
クローナ曰く、異世界から物や人がやってくる事例は珍しいもの
の、文献にも記述があるという。
ただ、キロとクローナが出会った時のような状況でない限り、異
世界人と遠方からの旅人は見分けがつかない。
だから、堂々と町を眺めていれば、初めて訪れた町に興味津々な
旅人だと勘違いしてくれるだろう。
幸いというべきか、出会い頭の羊に転がされた際に付いた泥が程
よく乾き、キロは汚れていた。
注意深く見られない限り、違和感を持たれないだろう。
キロがあちこちに視線を転じていると、身長二メートルに達しよ
うかという筋肉質な男の集団が歩いてきた。
幅広の長剣や分厚い盾を持つその集団は鬱陶しそうに羊の群れを
避けて防壁へ向かっていく。
キロはクローナに視線で問う。
﹁冒険者ですね﹂
﹁⋮⋮魔物退治したりするのか?﹂
まさかと思いつつ、キロは問う。
クローナが目を輝かせながら振り返った。
﹁キロさんの世界にも冒険者がいたんですか?﹂
﹁いや、冒険者はいなかったよ﹂
キロも未開の地に挑む冒険者ならば聞いた事があるが、魔物なる
ものを倒す物騒な冒険者の存在は知らない。
クローナが首を傾げる。
﹁それなら何故、冒険者って単語が腕輪で翻訳されるんですか?﹂
16
鋭い指摘だった。
キロが異世界人だと看破した事もそうだが、頭の回転が速いのだ
ろう。
﹁物語の中に出てくるからな﹂
あまり読んだ事はなかったが、知識だけはあった。
︱︱往年の謎、スライムに水溶き片栗粉をぶち込んだらどうなる
かも、この世界なら答えが出るんだろうか。
元いた世界で実験バカの巣窟、科学部の友人が熱弁していた机上
の空論を思い出す。
いわく、スライムをダイラタンシー流体化させれば、打撃も斬撃
も効くんじゃね?
この世界に来る前はどうでもよすぎてまともに聞かなかったが、
友人はほかにもファンタジー生物の変わった倒し方を模索していた。
仲間内では紙一重バカとして有名だった友人の顔を思い出しつつ、
キロは腕輪を眺める。
︱︱なにはともあれ、ファンタジーだな。
常識外れな事ばかりだ、とキロはため息を吐く。
そして、ふと思いついた。
﹁この腕輪って魔法の道具だよな?﹂
キロの質問に、クローナはきょとんとして頷いた。
いまさら何を聞くのか、とでも言いたげだったが、キロにとって
は重要な質問につなげるための足場に過ぎない。
﹁異世界に行くための魔法道具ってある?﹂
キロは期待を込めて、本命の質問を口にした。
17
﹁聞いた事はないですね。文献に残るような異世界から来た英雄達
も、帰ったという話は聞きません﹂
クローナは首を振りつつ、無情に告げる。
そうか、と肩を落とすキロを見て、クローナが困ったような顔を
した。
﹁⋮⋮家族を残して来ているんですか?﹂
心配そうに、クローナはキロの顔を覗き込む。
一瞬、児童養護施設の人々の顔が脳裏をよぎったが、キロは首を
振った。
﹁家族は、ずいぶん前に死んだ。ただ、奨学金を返済しきってない
んだ﹂
﹁ショウガ⋮⋮?﹂
﹁奨学金、借金みたいなもんだ﹂
単語が翻訳されなかったらしく、首を傾げるクローナを見て、キ
ロは言い直した。
今度は翻訳されたらしく、クローナは眉を寄せた。
﹁借金を返すために元の世界に帰るんですか? いえ、立派な心掛
けだとは思うんですけど⋮⋮﹂
異世界に迷い込んでまで借金返済を考えるキロに共感できなかっ
たらしい。
逆の立場なら自分も同じ反応をしただろう、とキロは苦笑した。
18
﹁俺が返済しないと迷惑する知り合いがいるんだ﹂
キロが奨学金を返済しなければ、施設長に迷惑がかかるばかりで
なく、同じ施設の子供達も奨学金の審査に影響が出かねない。
自分には関係ない、と割り切れるほど薄い関係ではなかった。
クローナも納得したように頷く。
﹁あまり夢を見せるような事は言わない方がいいのでしょうけど、
キロさんと同じように元の世界へ帰ろうとした人が何か残している
かもしれませんね﹂
﹁その方向で探すべきだろうな。その前にこっちの世界の言葉を覚
えないといけないけど﹂
腕輪の効果は一方的で、使用者が発した言葉は翻訳されない。
話し相手にいちいち腕輪を渡す事でしか意思疎通ができないので
は、面倒がられて話してくれないかもしれない。
﹁言葉も大事ですけど、まずは生計を立てないといけないのでは?﹂
クローナに指摘されて、キロは深刻な表情で頷いた。
すぐに帰還する方法が見つかるとは思えない以上、この世界で生
活基盤を築かなければならない。
︱︱手に職でもあればよかったんだけどな。
そんなものがあれば、現世でも就職活動が難航したりはしなかっ
た。
キロの表情から察したらしく、クローナが目を輝かせて口を開い
た。
﹁私と一緒に冒険者になりませんか?﹂
19
すぐ隣を歩きながら、クローナはキロに期待を込めた視線を向け
る。
突然の誘いにキロは面喰ったが、前を歩く羊を指差した。
﹁羊飼いの仕事はどうするんだ?﹂
﹁牧羊犬もなしに続けられる仕事ではないので、廃業です﹂
言われてみればその通りだ、とキロも納得せざるを得ない。
しかし、もっと安全な仕事を選べばよいものを、何故冒険者なの
だろうか。
キロはクローナを見て、内心でため息を吐いた。
クローナの容姿は平均以上だ。
羊飼いという仕事柄、少し汚れてはいるが、身ぎれいにすれば小
料理屋で雇ってもらう事も出来るだろうと思う。
キロが疑問に思っていると、クローナは遠慮がちに口を開く。
﹁⋮⋮もう五年以上前になりますけど、冒険者の人達に助けてもら
った事があるんです。村がパーンヤンクシュという魔物の群れに襲
われた時、五人の凄腕の冒険者さん達に﹂
もう顔も覚えていませんけど、とクローナははにかんで笑った。
﹁この髪飾りも、助けてくれた冒険者の方がくれたんです﹂
モザイクガラスがあしらわれたヘアピンを大事そうに撫でて、ク
ローナは懐かしそうに目を細めた。
どうやら、昔助けてもらった冒険者達に憧れているらしい。
キロが返答に窮している内に、羊を入れる柵が見えてきた。
キロはクローナの指示を受けつつ羊の逃げ道を塞ぎ、ときおり頭
突きされながらも、なんとか柵の中へと追い込んだ。
20
服に付いた泥を払いながら、キロは周囲を見回す。
芝生を囲んだ柵の隣には鶏小屋があり、その隣には教会が建って
いた。
さほど大きな建物ではない。キロが中学卒業まで住んでいた児童
養護施設の方が大きいくらいだ。
教会を眺めていると、裏口の扉が開き、四十代くらいの男性が出
てくる。
﹁司祭様、ただ今戻りました﹂
クローナが男性に声をかける。
司祭と呼ばれた男性はクローナを見つけると、柔和な顔で微笑ん
だ。
﹁よく戻ったね。羊はどうだい?﹂
﹁十頭きちんとお返しします。それで、その⋮⋮少しお話がありま
して﹂
クローナが報告もそこそこに切り出すが、司祭は笑顔で手を突き
だし、さえぎった。
﹁先に日誌をつけてきてくれないか。私は羊の確認があるから、話
は後にしよう﹂
有無を言わせぬ口調でそう言うと、司祭はクローナを教会へ押し
やった。
クローナは心配そうに振り返るが、司祭が軽く手を振って見送る。
クローナが教会に入るまで見送って、司祭は寂しそうな顔をキロ
に向けた。
21
﹁⋮⋮クローナには聞き辛くてね。牧羊犬のシスの姿が見えないの
だが、君は何か知らないかい?﹂
問われたキロは右腕にはめた腕輪を見せる。
すると、司祭は苦笑して左腕にはめた腕輪を見せた。
クローナが教会から貸し出された腕輪を持っていた事から、司祭
も持っているとキロも予想していたが、まさかはめていると思わな
かった。
﹁教会の中からここが見えるんだよ。君が旅人なのは一目でわかる。
服装が独特だからね﹂
﹁⋮⋮なるほど。牧羊犬は魔物と出くわして死んでしまったそうで
す﹂
異世界人ではなく旅人だと勘違いされているようだが、キロは訂
正しなかった。
キロの言葉に司祭は痛ましそうな顔をして空を仰いだ。
﹁そうか。頭の良い犬だったのだが⋮⋮﹂
司祭は辛そうに呟くと、キロに向き直る。
﹁ここまでクローナや羊を守ってくれたのだろう? 感謝するよ﹂
真摯に頭を下げられて、キロは慌てた。
森の中で遭難していた所を助け、ここまで連れてきてくれたクロ
ーナに感謝するのはキロの方だ。
﹁俺は何もしてません。羊の事も、ただ横を歩いていただけですか
ら﹂
22
﹁そうだとしても、シスを失ってクローナも心細かったろう。君が
傍に居てくれるだけで、あの子は安心できたと思うよ。表情を作る
のが上手い子だから、気付かなかったかもしれないけどね﹂
何を言っても感謝されそうな気配にキロは弱り、救いを求めて教
会を見る。
神の威光を期待したのではなく、何かの拍子にクローナが顔を出
さないかと思ったのだ。
もちろん、そんなに都合よく事は運ばなかった。
﹁クローナは羊飼いをやめて冒険者になるそうです﹂
キロは仕方なく、クローナをダシに話題の転換を図る。
司祭は眉を寄せて難しそうな顔をした。
﹁そうか。シスがいないのでは、仕方がないね﹂
﹁牧羊犬を新しく貰ってきて、羊飼いを再開すればいいんじゃ?﹂
﹁剣や槍とは違うんだ。そう簡単に手に入るモノではないよ﹂
︱︱剣や槍なら簡単に手に入るのかよ。
キロが軽いカルチャーギャップを受けている事には気付かず、司
祭は続ける。
﹁仕事を斡旋する事も出来ない自分が不甲斐ないよ。せめて、最後
の報酬くらいは色を付けるしかないね﹂
司祭は力なく首を振った。
しばらく羊を眺めていたかと思うと、再び口を開く。
﹁クローナは羊飼いとして近隣を渡り歩いていた﹂
23
﹁⋮⋮はぁ﹂
会話の流れについていけず、キロは曖昧に相槌を打つ。
司祭は特に気にした様子もなく、続ける。
﹁魔物の縄張りだとか、水源の位置だとかの土地勘はそこらの冒険
者より上だろうし、ある程度の魔物なら逃げ方を心得ているだろう﹂
司祭はつらつらと述べた後、空を仰いだ。
﹁しかし、年頃のか弱い娘だ。荒事となれば手に余るし、侮られも
するだろう。せめて、男手があればよいのだが⋮⋮﹂
﹁そ、そうですねぇ﹂
司祭が言いたい事を察し、キロは引きつった笑みで同意する。
司祭はキロの顔を横目でちらりと見た。
キロの肩を軽く叩き、無言のまま何かを託すと羊のいる柵へと歩
いていく。
残されたキロは俯いて額を押さえた。
﹁⋮⋮どうしよう﹂
出会ってさえいなければ、あるいは町まで一緒に歩いてこなけれ
ば、いつものように自分には関係ないと切り捨てる事ができただろ
う。
だが、クローナが冒険者に憧れる理由を聞いてしまったし、クロ
ーナを心配する司祭の心も理解できてしまう。
︱︱けど、魔物退治をするなら、冒険者は命がけの仕事だよな⋮
⋮。
利益もなく、命を張れるかといえば、断じて否だ。そこまでの義
24
理はない、とキロはそう思った。
そんなキロの心を読んだわけでもないだろうが、司祭が柵の向こ
うから声をかけてくる。
﹁しばらくは教会に泊まると良い。粗末ではあるが、食事も出そう﹂
クローナと一緒に冒険者をやる事と引き換えに、そんな言葉が裏
に隠れている。
それでも︱︱
﹁よろしくお願いします!﹂
キロは快諾した。
25
第三話 冒険者と魔法講義
教会の礼拝堂を掃除しながら、キロはため息を吐いた。
当面の寝床と食事は確保できたが、一文無しである事に変わりは
ない。
冒険者をやるにしても、まさか丸腰というわけにはいかない。
﹁私が無理を言ったのだから、初期費用くらいは出そう﹂
床を箒で掃きながら、司祭がそう言ってくれる。
﹁ありがとうございます﹂
︱︱世話になりっぱなしだな。
キロは早くひとり立ちできるよう、心の中で神様に祈っておいた。
﹁それにしても、キロ君は武器もなしにどこから旅をしてきたんだ
ね?﹂
不思議そうに訊ねてくる司祭から目を逸らし、キロはクローナを
見た。
クローナは視線がぶつかると、何も言わずにキロを見つめた。
キロの判断に任せるという意思表示だろう。
﹁⋮⋮色々ありまして﹂
キロは言葉を濁して司祭に背中を向け、それ以上は聞かないでく
れと無言で懇願した。
26
司祭も深く訊ねるつもりはなかったらしく、ふむ、と一つ頷くだ
けで済ませた。
司祭は礼拝堂をぐるりと見回すと、口を開く。
﹁夕食の準備をしたいから、後は任せるよ﹂
そう言って、司祭は礼拝堂を出て行った。
司祭を見送ったキロは掃除を再開しながら、クローナに話しかけ
る。
﹁俺は戦いの心得がないから、あまり当てにしないでくれ﹂
﹁最初はみんなそうですよ。いくら冒険者でも、最初は戦闘が想定
される依頼を受けられません﹂
﹁そうなのか?﹂
意外な答えを聞いて、キロは思わず問い返す。
それでも掃除の手は止まっていない。施設や高校の寮生活で培わ
れた手際の良さをいかんなく発揮していた。
﹁そもそも、冒険者は都市同盟が共同管理する兵力です。死亡率が
極端に高かったり依頼達成率が低かったりすると、あの都市は冒険
者を管理できていない、と陰口を叩かれ、罰則を受けてしまいます﹂
憧れているだけあって、クローナは饒舌に冒険者を取り巻く状況
を話してくれた。
それによれば、冒険者とは都市国家群が管理する兵力として、普
段は魔物を討伐したり、行商人の護衛を行うという。
これとは別に都市国家が各々で管理する騎士団が存在しており、
こちらはもっぱら都市防衛を仕事にし、普段は治安維持にあたるそ
うだ。
27
一都市国家に所属する戦力である騎士団では人数が足りなかった
ために、都市国家を行き来できる遊撃部隊的な冒険者が台頭を始め
たのだろう。
キロは冒険者と傭兵は何が違うのかと思ったが、傭兵は世界規模
で通用する職業で、冒険者は都市国家群に所属する戦力として他国
からは見られているとクローナは教えてくれた。
存外、複雑な事情があるらしい。
冒険者の位置づけが、都市国家群が共同管理する戦力である事か
ら、高い損耗率を出した都市は罰則を受けてしまう。
罰則を受けないよう、新人の冒険者には戦闘を極力避けさせる方
針なのだ。
﹁よほど上位の冒険者であれば別ですけど、冒険者自体は一定額を
ギルドに納める事でいつでも辞める事が出来ます。元冒険者という
肩書は一定の質を保証するので、傭兵に転職する方もいるそうです
よ﹂
退職金を貰うのではなく、払うのかと、キロは少し笑ってしまう。
転職による人材流出を防ぐための規則なのかもしれない。
キロは掃き掃除を終え、集めた塵を取る。
﹁それでも結局、いつかは戦う事になるんだろ? 武器の類はどう
すればいい?﹂
キロは脱線していた話を軌道修正した。
クローナは顎に手を当てて少し考えた後、口を開く。
﹁キロさんに魔法の素養がどれくらいあるかによると思います。後
で試してみましょう﹂
28
魔法ときいて、キロの手が一瞬止まった。
すぐに何食わぬ顔で塵取りを再開する。よくよく見れば、口元が
にやけている。
︱︱魔法、魔法か。
キロの様子にクローナが気付かぬうちに掃除は終わり、夕食前の
時間を使ってキロとクローナは教会の裏手に出た。
羊と鶏が喚き散らしているが、キロは気にも留めない。
まずは実演するというクローナが羊を入れていない柵の中に手を
かざした。
﹁では、水球の魔法を使います﹂
言った傍から、クローナがかざした手の正面に拳大の水の塊が出
現した。
キロは目を輝かせる。
呪文の類は必要ないらしく、クローナは水の塊を押し出すように
手を動かした。
すると、水球は柵の中に向かって飛んでいき、少しずつ速度を落
としたかと思うと芝生に着弾した。
そして、何故か着弾地点を凍りつかせた。
﹁あ、また⋮⋮﹂
﹁また?﹂
キロがおうむ返しに続きを促すと、クローナは気まずそうに視線
を逸らせた。
﹁なんで凍ったの?﹂
﹁⋮⋮えっと﹂
﹁水球の魔法って、相手を凍らせるものなのか?﹂
29
﹁⋮⋮うるさいですね。失敗したんですよ!﹂
ねちねちと問い詰めるキロに嫌気が差したのか、クローナは両耳
を塞いで首を振った。
﹁まぁ、そうじゃないかと思ったけどさ。こういう失敗ってよくあ
るのか?﹂
キロはクローナを弄る事をやめて、真面目に質問する。
クローナは両耳から手を離し、少しすねたような顔で答えた。
﹁普通の人は、こんな形で失敗はしません。私は大量に特殊魔力を
持っているので、変な作用をして稀にこうなります。後は熱くない
火球とか、ボロボロ崩れる石壁とか⋮⋮﹂
失敗談を悔しそうに話しながら、クローナは両手の人差し指を突
き合わせ、唇を尖らせた。
すねた仕草がちょっと可愛いな、とキロは思ったが、それより気
になる言葉があった。
﹁特殊魔力ってなんだ?﹂
失敗談を穿り返す気だと勘違いしたのか、クローナはジトッとし
た目で睨んでくる。
キロの表情から他意はないと判断したのか、やがて説明を再開し
た。
﹁魔力は二つに大別されるんです。誰でも持っていて変化させる事
ができる普遍魔力と、限られた人が持っていて普遍魔力では再現で
きない能力を持っている代わりに変化させられない特殊魔力です﹂
30
特殊魔力の能力は本人にもわからない事が多く、クローナも自身
の特殊魔力の能力については詳しく知らないらしい。
普遍魔力では回復魔法が使用できないため、治癒の特殊魔力持ち
は一生食うに困らないなど、能力によっては利用価値が高いそうだ。
残念な事に、クローナの特殊魔力が回復魔法でない事は確からし
い。
クローナは説明する内に機嫌を直したのか、キロに魔法を使うよ
う指示してきた。
﹁とりあえず、私みたいに水球の魔法をお願いします。何回放てる
かで魔力の多寡が分かるので﹂
﹁お願いしますと言われても、やり方が全く想像つかないんだが﹂
キロが言い返すと、クローナは呆れたようにため息を吐いた。
﹁まず、普遍魔力を集めて、それを動作魔力と現象魔力に分けて︱
︱﹂
﹁まてまて、初っ端から意味不明だから。動作? 現象?﹂
こいつ実はバカなんじゃないの、と言いたげな視線を向けてくる
クローナを、キロは睨み返す。
︱︱表情を作るのが上手いって、絶対ウソだろ。
クローナの態度がだんだんとあからさまになってきているのは、
打ち解けたと解釈すべきか、舐められていると解釈すべきか。
﹁現象魔力は水や火を生み出す魔力で、動作魔力はそれを動かす魔
力です。同じ魔力の量でも、現象魔力が多ければ規模や威力が上が
って、動作魔力が多ければ速度や飛距離が伸びます﹂
﹁なるほど、動作魔力って運動エネルギーの事か﹂
31
︱︱魔力で代わりができるのか。
他にも応用できそうだなと考えつつ、キロはクローナに普遍魔力
の集め方から教わった。
ようやく水球の魔法を発動できるようになった頃、司祭が夕食に
呼び来たため、素養を図るまでに至らなかった。
教会の奥にある居住スペースに置かれた机に料理が並べられてい
た。
使われずに仕舞い込まれていた椅子を納屋から引っ張り出してき
たキロは、机の大きさに目を見張る。
教会の規模に不釣り合いなほど大きかったのだ。
﹁お偉方や旅の信者がやってくる事があるから、教会には少し大き
めの机が用意されているんだよ﹂
司祭が優しそうにまなじりを下げ、説明した。
納得して、キロは席に着く。
机には小さなパンと豆のスープ、薄く切った生ハムが置かれてい
た。
居候なので贅沢は言えない。キロは大人しくパンを千切った。
﹁明日はギルドに行くのかい?﹂
司祭がパンをスープに浸しながら、クローナに問いかける。
生ハムを大事そうに齧っていたクローナが慌てて顔を上げ、頷い
た。
司祭が苦笑して、懐から革袋を取り出した。
32
﹁なら、武器も買うだろう。今の内にこれを渡しておくよ﹂
革袋を受け取ったクローナが、中を見て目を丸くする。
キロが横から覗き込んでみると、中には銀貨が数枚とかなりの枚
数の銅貨が入っていた。
キロにはいまいち価値が分からないが、大金なのだろう。
司祭がニコニコとほほ笑む。
﹁初期資金は大事だよ。それに、クローナには後任の羊飼いに周辺
の情報を教えて貰わないといけない。その手付金と思えばいい﹂
クローナが付けているという業務日誌を読めば周辺の情報とやら
もわかるのではないかとキロは思ったが、野暮な事は言うまいと口
を閉ざした。
クローナはしばらく悩んでいたが、やがて司祭に頭を下げ、大事
そうに革袋をしまった。
そして、クローナは急いで食事を再開する。
︱︱生き急いでるなぁ。
キロは苦笑しながら、さっさと料理を平らげた。
クローナは司祭の好意を無駄にしないためにも、ギルドに入るた
めの準備を今日中に済ませてしまうつもりだろう。
案の定、パンの最後の一欠けを口に含んだ瞬間、キロはクローナ
に袖を引っ張られ、無理やり立たされた。
そのままずるずると裏手へ引っ張られてしまう。
﹁司祭、夕食を馳走様でした﹂
引っ立てられながらキロが感謝の言葉を述べると、司祭は苦笑交
じりに手を振った。
33
﹁頑張ってきなさい﹂
ばたん、と裏口が閉まる。
﹁さぁ、キロさん、水球を撃ってみてください。連続で、ですよ﹂
﹁はいはい﹂
張り切っているクローナに苦笑しつつ、キロは羊のいない柵の中
へ手を向ける。
この際だから、と現象魔力と動作魔力の比率を変えて、威力の違
いを確かめながら打ち続ける。
二十発ほど撃った頃だろうか、キロは普遍魔力を集められなくな
った。
﹁魔力切れみたいだ﹂
﹁⋮⋮気分は悪くないですか?﹂
クローナが小首を傾げながら聞いてくる。
キロは軽くストレッチして胸焼けなどがないかを確かめた。
﹁いつも通りだな﹂
﹁キロさん、特殊魔力持ちですよ。しかも結構な量を持ってそうで
す﹂
クローナは困ったように告げた。
言われてみれば、普遍魔力ではない別の魔力があるのをキロは感
じた。
クローナは水球の魔法が着弾した柵の中に入っていく。
キロが後ろからついていくと、クローナは周りの様子を確かめて
腕を組んだ。
34
﹁特に変化はないですね。特殊魔力だけを外に出せますか?﹂
﹁割と簡単に﹂
キロは言いながら手のひらを誰もいない空間に向けた。
目には見えない魔力の塊が手の前に浮かぶ。
﹁魔力単体で何か起こるわけではないみたいですね。私と同じで正
体不明で⋮⋮これでキロさんは私を笑えませんね!﹂
やーいやーい、と囃し立ててくるクローナを無視して、キロは特
殊魔力を振り回してみるが、何も起こらない。
正体を突き止めるのはまた後日と割り切って、キロはクローナに
視線を向けた。
﹁結局、俺には魔法の素養があるのか?﹂
﹁普通の人よりはあると思いますよ。水球十発で気絶する人もいる
そうですから。ちなみに、普遍魔力を使い切っても気絶しないのは
特殊魔力があるからです﹂
﹁気絶って、そういう物騒な事は先に言ってくれよ﹂
﹁大丈夫ですよ。森の中じゃないですし、よほど鈍感でない限りは
気分が悪くなったところでやめます。気絶するまで全力疾走するく
らい根性がありますか?﹂
そういう問題じゃないとキロは思うが、この世界の住人にとって
は魔力切れによる体調変化が運動過多の症状と同じくらいの常識な
のだろう。
キロは文句を言うのを諦めて、実利的な話に戻す。
﹁普通よりはあるって話なら、向いてるとも言えないんだな﹂
35
﹁魔法はあくまでも補助にした方がいいと思います。やっぱり、武
器を買わないとだめですね﹂
クローナは腕を組んであれこれと考えているようだった。
﹁とりあえず、今日のところは魔法の練習をしましょう。私が実演
しますから、魔力が回復したら真似してください﹂
もうすっかり日も落ちているのだが、クローナは明かりの魔法を
使い始める。
明日にはあこがれの冒険者になれるからか、眠気などまるで感じ
ていないらしい。
キロはバイト疲れの残る体で一晩中クローナに付き合わされるの
だった。
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第四話 冒険者登録
夜が明けてからのクローナの行動は早かった。
司祭が起き出す前に礼拝堂の掃除を済ませ、鶏達に餌をやるつい
でに卵を回収、起き出してきた司祭に渡す。
キロは徹夜明けでうつらうつらとしながら、クローナの後をつい
て回る。
朝食の準備をする司祭の傍で、クローナは銅貨と銀貨を選り分け、
金額を計算し始めた。
キロは隣で座ったまま夢の世界へ船を漕いでいた。
パンとスクランブルエッグで朝食を済ませ、クローナはキロの腕
を取って立ち上がった。
﹁行ってきます!﹂
﹁⋮⋮行ってきます﹂
溌剌とした声のクローナとは違い、目の下にクマを作ったキロの
声に力はない。
力が抜けたキロの様子に不安そうな顔で、司祭が見送る。
クローナは司祭に手を振っていたが、キロは朝の光に目を焼かれ
手を振るほどの気力がなかった。
﹁キビキビ歩いてください﹂
見かねたクローナがキロの手を取りながら指摘する。
キロは寝不足の目をクローナに向けた。
﹁なんでそんなに元気なんだよ﹂
37
一晩中起きていたのはクローナも同じはずだ。
彼我の差が理不尽に思えてしょうがないキロだった。
連れて行かれた場所は街の端にある店だった。
武器や盾が置かれており、店の裏手には簡単な工房があるようだ。
カウンターに頬杖を突いていた中年男性がキロ達を見て眉を寄せ
る。
﹁見世物じゃないぞ﹂
﹁この人の武器を買いに来ました﹂
クローナがキロを指差すと、中年男性はますます眉を寄せる。
キロを上から下まで眺めると、盛大にため息を吐いた。
﹁そのひょっろい奴が何するってんだ﹂
﹁もちろん冒険者です﹂
拳を掲げて、クローナが宣言する。
自分の事だというのにキロは我関せずとばかり、店の中を見回し
ていた。
︱︱メイスに大剣、重量級の武器ばかりだな。
中年男性がキロを見て、鼻を鳴らした。
﹁嬢ちゃんよりそいつの方がよほど現実的みたいだな。お前、この
店の武器を持ち上げられそうか?﹂
﹁︱︱無理でしょうね﹂
﹁だろうな﹂
男同士で頷きあっていると、クローナが唇を尖らせる。
38
﹁私が知っている冒険者はキロさんくらいの細腕で総金属製の槍を
振り回してましたよ﹂
﹁おおかた、動作魔力で筋力を底上げしてたか、何らかの高級軽金
属であつらえた槍だろ﹂
クローナが持ち出した証言に中年男性はすぐに反論した。
﹁高級軽金属の武器ならあそこにも一本あるぞ。お前らには買えな
いだろうけどな﹂
中年男性は店の奥の壁に掛けられている大剣を指差す。
全体に青みがかった金属で作られた大剣には泡のような白い斑点
がいくつも浮き出ている。
キロはこちらの文字を知らないため、値段が読み取れない。
しかし、クローナの表情を見れば手が届かない代物だとすぐに分
かった。
﹁軽くて安い武器なら斜向かいの店に行け。中古も扱ってる﹂
﹁⋮⋮そうします﹂
クローナも流石に折れて、再びキロの腕を引っ張った。
揃って店を出て、斜め向かいの店に足を運ぶ。
キロは先ほどの中年男性の言葉を思い出し、引っ掛かりを覚えて
クローナに声をかける。
﹁中古って事は、元の持ち主は⋮⋮﹂
﹁考えない方が幸せになれる事は考えません﹂
︱︱事故物件かよ。
げんなりしつつ教えられた店に入る。
39
中古品でも手入れはしてあるらしく、すぐに使う事が出来るもの
ばかりだった。
しかし、柄や鞘を見れば使い込まれている事が分かる。
使い込まれていない中古品は、キロもクローナもあえて見ないふ
りをした。
﹁キロさんはどんな武器を使いたいですか? やっぱり槍ですか﹂
比較的軽そうな武器を探し出しながら、クローナが訊いてくる。
﹁クローナの武器はどうするんだ?﹂
一緒に活動する事になるのだから、戦術の幅が広がる組み合わせ
にしようと思い、キロはクローナに問い返した。
クローナは羊飼いの杖を目線の高さに持ち上げた。
﹁私は魔法で補助しつつ、この杖で殴ります。結構丈夫なんですよ。
それより、槍はいかがですか?﹂
クローナが掲げた杖は木製で、両端が湾曲している。
羊相手に見せた杖術が魔物にも通用するのなら、最適な武器だろ
う。
キロは細身の剣を持って重さを量る。
﹁さっき、動作魔力で筋力を底上げするとか言ってたけど、身体強
化の魔法とかあるのか?﹂
﹁動作魔力はモノを動かしたりする際にも使えるので、その要領で
体を動かす武術があるそうです。経験を積んだ冒険者や傭兵の多く
が自然と身に付ける技能だそうですよ。それより、この槍︱︱﹂
﹁あぁもう、さっきから槍、槍、うるさいな﹂
40
﹁だって、カッコいいじゃないですか!﹂
﹁クローナの好みを押し付けんなよ︱︱ってこの槍、軽いな﹂
棚に戻そうと思いクローナから槍を奪い取ったキロは、その軽さ
に驚いた。
乳白色の柄は長く、両端には片刃の穂先がついている。全体の長
さはキロの身長ほどもあった。
しかし、体積から想像もつかないほど軽い。キロの感覚では長期
休暇前の学生が持つ鞄の方が重いくらいだった。
中身が空洞じゃないかと勘繰るキロを余所に、クローナが店主を
呼んで質問してきた。
︱︱行動力がすごいな。
余程、キロに槍を使ってもらいたいらしい。
顔も覚えていない恩人の冒険者の中に槍を使う者がいたのだろう。
﹁聞いてきました。店主さんのお話では、鳥型の魔物の骨を使って
作られた安物だろうとの事です。冒険者になり立てなら、資金が貯
まるまでの間に合わせに最適なので、結構出回っているみたいです
よ。この槍で決まりですね﹂
勝手に購入を決定するクローナの腕をキロは慌てて掴んだ。
﹁まてまて、命を預けるんだから、もっとじっくりと考えさせてく
れ﹂
﹁お金があまりないんですよ。それに、キロさんは武術の心得がな
いんですよね? それなら、相手との距離を広くとれる槍の方が恐
怖心は少なくて済むと思います﹂
﹁⋮⋮確かに、そうだな﹂
特にこだわりもないキロとしては、利点を挙げられると反論でき
41
なかった。
クローナは少しすねたような顔でキロを横目に睨む。
﹁いくら私でも、憧れだけで大事なパートナーの武器を決めたりし
ませんよ﹂
﹁あぁ、悪かった﹂
キロが素直に謝ると、クローナは頷いて槍をカウンターに持って
いく。
クローナが会計を済ませる間に、キロは棚に並べられた杖を眺め
る。
金属板で補強されている物が多かった。
︱︱金が貯まったらクローナの杖も金属で補強する方がいいのか
もな。
しばらく眺めていると、クローナが隣に立っていた。
﹁次はいよいよギルドですよ﹂
﹁はいはい。張り切り過ぎて変に思われないようにしておけよ﹂
﹁張り切ってなんていませんよ。私はもう子供じゃないんですから﹂
そう反論するクローナだったが、きらきらと期待に瞳を輝かせた
表情はまるきり子供だ。
指摘するとまたへそを曲げかねないので、キロは大人しくクロー
ナの後について行った。
ギルドは街の中央部にあった。
レンガ造りで大きな窓がいくつも取り付けられており、明るく開
放感のあるたたずまいだ。
場末の酒場のようなものを想像していたキロは面喰った。
クローナの話では、依頼人を威圧するような建物ではギルドの収
益が落ち込んでしまうため、あえて親しみやすい建物にしていると
42
いう。
﹁夢のない話だな﹂
﹁場末の酒場に夢があるとは思いませんけど﹂
﹁求めるモノの違いだ﹂
首を傾げるクローナは無視して、開けっ放しの入り口をくぐる。
中は広々として、窓から入ってきた太陽光が隅々まで照らしてい
た。
床はきれいに掃き清められている。
キロは市役所を思い浮かべた。
受付には若い男性が座っている。
﹁ご依頼、ではなさそうですね﹂
キロが持つ槍に目を留めて、受付の男性が一人で答えを出す。
﹁クローナ、頼んだ﹂
キロはクローナを見て、自分の腕輪を指差す。
この世界の言語を話せないキロは、腕輪を身に着けていない相手
と会話ができない。
︱︱人が集まるギルドの職員なら腕輪をつけていると思ったんだ
けどな。
当てが外れて、仕方なくキロはクローナに後を託した。
クローナが受け付けの対面に座る。
﹁冒険者になりに来ました﹂
﹁そんな事だろうと思いました。特に検査の類はありませんが、と
りあえず規約を読んでください﹂
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受付の男性は机の下から薄い冊子を取り出した。
内容はクローナから事前に聞いたものと同じであるらしい。
手続きを済ませようと、キロは申請書に名前を書こうとして手を
止めた。
﹁名前の代筆、頼む﹂
﹁⋮⋮後で文字のお勉強ですね﹂
クローナに代筆してもらい、キロフミタカで登録を完了する。
不備がないかをチェックしながら受付の男は口を開く。
﹁しばらくは街での依頼をこなしてください。有事の際には住民の
避難誘導をお願いする場合があるので、依頼を通して街の地理を頭
に叩き込んでください﹂
地図です、と受付の男が差し出した紙には大まかな道路や避難所
に使用できる建物の位置が記されていた。
﹁この地図にはいくつか間違っている部分があります。その場所の
住人は引退した元冒険者ですから、事情を話して修正印を貰ってき
てください。これが最初の依頼です。完了すれば、街中での依頼を
自由に受けて頂いて結構です﹂
受付の男は申請書に不備はなしと判断して、カードを渡してきた。
冒険者である事を証明するものだという。
﹁冒険者の遺体を発見した際は、可能な限り亡くなった冒険者のカ
ードを最寄りのギルドに持ち込んでください。死亡確認がスムーズ
に進みます﹂
44
いきなり血なまぐさい話になってキロは辟易しつつ、クローナと
一緒に頷いた。
﹁では、ご武運を。次の方、どうぞ﹂
受付の男性はキロ達に手を振って、並んでいた冒険者に声をかけ
た。
地図を持ったクローナと一緒に、キロはギルドを後にする。
﹁今日中に片付けてしまいますね﹂
クローナが地図を示しながら、宣言する。
﹁そうだな。お金も欲しいし﹂
︱︱元冒険者なら、元の世界に帰る方法を聞いた事があるかもし
れないし。
わずかな打算を胸に秘めつつ、キロはクローナと一緒に街を見て
回る。
観光がてら散策しながら、地図の間違いを探し、見つけ出した元
冒険者に修正印を貰う。
太陽が中天に差し掛かる頃になって、地図の修正印を貰い終えた
キロ達はギルドに戻った。
﹁結局、元の世界に帰る方法は見つかりませんでしたね﹂
﹁取っ掛かりになりそうな情報もなかったな。人脈豊富な人を見つ
けて情報を広く募らないと難しそうだ﹂
﹁ギルドに依頼を出してみましょうか?﹂
﹁お金が貯まったらな﹂
45
武器の代金で随分と資金が目減りしてしまっている。
依頼を出せるほどの金銭的な余裕はなかった。
受付の男性はキロ達を見て意外そうな顔をした。
﹁早かったですね。お二人とも、この町の人ではないから時間が必
要かと思いましたよ﹂
キロはもちろん、クローナも旅から旅への羊飼いという事で、町
の地理には明るくない。
道に迷ったりして時間がかかると思っていたのだろう。
実際、キロだけなら道に迷っていた。
クローナが少し誇らしげに胸を張る。
﹁方向感覚には自信がありますから﹂
﹁そうか、元羊飼いだから⋮⋮。それなら町の外の方が詳しいくら
いですか?﹂
﹁仕事場ですから﹂
自信たっぷりなクローナの言葉に、受付の男性は思案顔をした。
﹁魔物に追われた行商人から失せモノ探しの依頼が入っています。
がむしゃらに逃げたせいで場所が特定できずに困っているとか。受
けてみませんか?﹂
報酬は銀貨二枚だという。
素人の冒険者といえば銅貨数枚でこき使われて夜は木賃宿に泊ま
るのが当たり前と聞けば、銀貨が出てくるだけでも割の良い依頼だ、
﹁もちろん、受けま︱︱﹂
46
﹁待て、クローナ﹂
勢い込んで受けようとしたクローナを、キロは慌てて止めた。
話が美味すぎる気がしたのだ。
﹁話に穴があるだろ。捜索範囲が分からない上に、何日かかるかも
分からないのに報酬は銀貨二枚で固定だぞ﹂
キロが突っ込みを入れるとクローナも話の胡散臭さに気付いたら
しい。
クローナはキロを見て感心したようにつぶやく。
﹁私が気付かなかった事にキロさんが気付くなんて、驚きました﹂
﹁⋮⋮俺をなんだと思ってんだ﹂
認識を改めてもらいたかったが、キロは先に依頼について受付の
男に聞くようクローナに勧めた。
言葉が理解できても話せないというのは、これはこれで不便だと
キロは再認識する。
クローナを通して依頼について質問すると、今回の依頼はキロの
懸念通りの理由で誰も受けたがらないらしい。
捜索範囲は森全体だが、行商人は魔物から逃げる際に体を軽くし
ようと物を置いてきたとの事で、周囲の光景だけははっきりと記憶
していた。
元羊飼いで地理に明るいクローナならば、行商人の記憶にある景
色から場所を特定できるのではないか。
受付の男性はそう考えたらしい。
﹁アカガリの木が生えていて、根は岩を抱えていたとの事です。近
くには赤い花がまばらに生えていた、と聞いています﹂
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﹁それだけの情報で分かるはずないだろ﹂
キロは呆れて呟いたが、クローナはきょとんとした顔で口を開く。
﹁分かりますよ、その場所。今からのんびりと行っても夕方には帰
って来れます﹂
﹁分かるのかよ﹂
キロはクローナの言葉に素早く突っ込んだ。
クローナは相変わらずきょとんとしている。
﹁この辺りではアカガリの木が三十本くらいしかありませんから。
見分けられる人ならそんなに難しくないかと思います﹂
﹁三十本の位置まで全部を覚えている人なら、そうだろうな。何人
いるか知らないが﹂
クローナの呆れた記憶力に、キロはため息を吐いた。
受付の男性も、即座に場所を特定されるとは予想していなかった
のだろう。苦笑混じりに口を開く。
﹁失せモノは鉄製の籠手が三組入った鞄だそうです﹂
﹁盗まれてるって事はないのか?﹂
キロの言葉をクローナが通訳する。
受付の男性も、クローナよりキロの方が具体的な話に向いている
と判断したのか、煩わしそうな顔もせずに真摯に答えてくれた。
﹁現場になければ、こちらで判断します。盗まれている場合は半額
の銀貨一枚をお支払いしますよ﹂
48
どちらにしても銀貨がもらえるならば受けても損はなさそうだと
判断して、キロはクローナの背中を押した。
こうして、キロ達は行商人の失せモノ探しの依頼を受けた。
49
第五話 遠慮と引け目
依頼人である行商人は、端的に言って筋肉ダルマだった。
︱︱金属製の籠手三組を運んでたって言うから、想像はしてたけ
ど⋮⋮。
あまりの大きさにクローナ共々キロが気圧されていると、依頼人
はニカリと白い歯を見せた。
﹁行商人をしているカルロです。道案内をよろしく頼みます﹂
良い笑顔でサムズアップするカルロはメイスを背負っていた。
キロの視線に気付いたのだろう、カルロはメイスを指差して、再
びニカリと笑う。
﹁自衛用の武器ですよ。グリンブル、まぁ猪みたいなアレに追われ
ている時は割れ物もあったんで戦えませんでしたが︱︱次に出会っ
たらミンチにしようと決めてましてね﹂
ドスの利いた声で抱負を語り、カルロは街の入り口に視線を向け
る。
クローナがキロの耳に口を寄せた。
﹁⋮⋮なんか、私達は必要なさそうなんですけど﹂
﹁あぁ、多分、俺達よりよっぽど腕が立つぞ﹂
内緒話していたキロ達は、カルロが顔を動かした瞬間、何事もな
かったように体を離す。
50
﹁では、さっそく行きましょうか﹂
カルロが音頭を取り、率先して歩き出す。
キロ達は慌てて後に続いた。
街の防壁を抜けると、昨日も歩いた芝生と、少し先に鬱蒼とした
森が見える。
クローナが先頭になり、迷いない足取りで森に向かう。
︱︱本当に覚えてるんだな。
周りをいちいち確認する事もないクローナの自信に、キロは改め
て感心した。
﹁いやはや、お二人が依頼を受けてくださって助かりました。どう
にも諦めきれなくてね﹂
カルロは周囲を警戒するキロに笑いかける。
﹁受付の人に聞きましたよ。お二人とも今日冒険者になられたばか
りだとか。初日から街の外に出してもらえるなんて、お二人は将来
有望ですなぁ﹂
話しかけられても、言葉を話せないキロは返事のしようがない。
﹁⋮⋮クローナ、俺の代わりに話し相手を頼む。無視したら失礼だ
ろうから﹂
﹁わ、わかりました﹂
︱︱クローナの奴、緊張してるな。
クローナの声の硬さに、キロは苦笑する。
クローナとカルロとの会話を聞いているうちに、目的地に着いた。
51
﹁おぉ、あった。ありましたよ﹂
カルロが木の裏を覗き込んで声を上げる。
続いてカルロは鞄を持ち上げ、中身を確かめた。
﹁きちんと三組あるようです。いやはや、これは幸運。さぁ、早い
とこ帰りましょう﹂
カルロは鞄を背負い、街の方角を指差した。
キロはつられて街へ視線を向ける。遠くにうっすらと街の防壁が
見えた。
この様子なら、クローナの言葉通り夕方までに帰りつけそうだ。
三人は帰り道を歩きだす。
依頼の失せモノが無事に見つかったからか、カルロの機嫌が良い。
街に近い事もあり、野生動物はちらほらと見かけたが、魔物とは
遭遇しないまま帰り着いた。
武器の槍を持っているとはいえ、まだ碌に振るってすらいないキ
ロはほっと安堵の息を吐く。
ギルドで依頼達成の認可を受け、初報酬としては破格の銀貨二枚
を受け取った。
﹁クローナさんの土地勘は頼りになりそうですね。冒険者としては
少し変則的に経験を積む事になりますが、街中での依頼より外に行
く依頼を多く回す事になると思います﹂
今回の依頼でクローナの有用性が認識されたらしい。
キロとしては、槍をまともに扱えるようになるまで街での依頼を
中心に受けたいところだった。
しかし、今回のような依頼がいくつか溜まっていると言われると、
無下にも出来ない。
52
キロは元の世界に帰る見込みができ次第、冒険者を廃業するつも
りだが、クローナはキロが帰った後も冒険者を続けていくのだ。
初期から街の外での依頼をいくつも達成しておけば、箔がついて
一人でも活動しやすくなるだろう。
︱︱魔物には遭わなかったし、街から離れすぎないよう注意して
おけばいいか。
キロは一瞬そう考えたが、脳裏を〝フラグ〟の三文字が横ぎった。
キロはクローナに声をかける。
﹁受付に槍の扱い方を教えてくれる人に心当たりがないか、聞いて
くれ﹂
自衛手段はしっかり確保しておこう、そう決意するキロだった。
受付の男性は手近な紙に簡単な地図を書きつけると、キロに渡し
てくる。
﹁訓練場への地図です。クローナさんは貴重な人材なので、しっか
り守ってあげて下さい﹂
俺はどうなの、とキロは口にしかけて、中断した。
現状、何の役にも立っていない事は自覚しているからだ。
ギルドを出て、キロ達は受付に教えられた訓練場に向かった。
大きな広場に屋根だけ付けたような訓練場では、数人の冒険者達
が鍛錬に励んでいた。
引退した冒険者だろうか、七十歳ほどの大柄な老人が注意深く冒
険者達を見回している。
キロに気付いた老人が目を細めた。
﹁そこの細いの、入ってくるな。邪魔だ﹂
53
老人はキロに向けて虫を払うような仕草をする。
︱︱俺ってそんなに細いのか。
少し自信を無くしつつ、キロは槍を見せながら口を開く。
﹁今日、冒険者になった者です。槍の稽古をつけてもらいたいので
すが﹂
クローナがキロの後について翻訳するが、老人は全てを聞く前に
鼻で笑った。
﹁お前みたいのが混ざっても邪魔になるだけだ。大人しく町中の仕
事だけ受けてろ﹂
老人の態度はあまりにも悪かったが、キロはこっそり吐いた溜息
一つで水に流す。
﹁端の方だけでも貸してくれませんか?﹂
﹁しつこいな。邪魔だから失せろ。俺が訓練した奴から死人が出た
ら後味悪いだろうが﹂
︱︱死ぬ事が前提なら、死なないように鍛えてくれよ。
取りつく島のない老人の態度に諦めて、キロは訓練場に背を向け
た。
クローナを連れて教会への帰り道を歩く。
クローナは俯いてキロの隣を歩いていたが、ぽつりと言葉を落と
した。
﹁⋮⋮キロさん、すみません﹂
唐突な謝罪の言葉に、キロは横目でクローナを見る。
54
﹁武器があっても修練が積めないと命にかかわりますし、安易に冒
険者稼業に巻き込むべきじゃありませんでした﹂
﹁他に金策の当てもなかったし、最後に決めたのは俺だからクロー
ナが謝る事じゃない。とりあえず、明日は地図の修正印を貰った元
冒険者達に頼んでみるよ﹂
だから気にするな、とキロはクローナに笑いかけた。
教会に到着したキロは司祭に挨拶した後、裏手に出た。
︱︱たとえ独学でも、訓練しないよりましだろう。
キロは槍を構え、縦や横に振りぬいてみる。
魔物とはいえ鳥の骨で作られているだけあって、槍は軽い割に丈
夫だった。
思い切り振りぬいても慣性に引っ張られる事はなく、少しのブレ
で止める事が出来る。
案外、良い買い物だったのかもしれない。
夕食が出来たとクローナが呼びに来るまで、キロは鍛錬を続けた。
母が事故死したと聞いた時、ほっとしたキロは、次の瞬間には自
分自身にぞっとした。
キロの母は恋人とのデート中、車でがけ下に転落して死亡したと
の事だった。
キロが小学校に上がる直前に離婚した両親は、すぐに別の相手と
交際を始めていた。
母に引き取られていたキロは、母が家に招いた見知らぬ男性に幼
いながらも気を使って生活していた。
事故死したと聞いて、これでもう気を使う必要はない、と無意識
のうちにほっとしてしまったのだ。
実父はそんなキロの性格を見抜いていたのか、それとも単なる言
い訳だったのか、母の葬儀が終わった後でこう言った。
55
﹁俺にはもう新しい家庭がある。お前の居場所を作ってやる余裕は
ない。俺の家族に気を使って生活するより、施設にいた方がお前も
気楽だろう﹂
そうして、施設に入れられたキロは結局、施設の人々に気を使い
ながら過ごす事になる。
優しくされようと厳しくされようと、気を使って返事をする自分
自身に嫌気が差したキロは逃げるように全寮制の高校へと進学し、
施設を出た。
小鳥の鳴き声に意識を呼び起こされて、キロはベッドから身体を
起こした。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
額を押さえて、キロは思わず呟く。
幼い頃の記憶をなぞるような夢をこのタイミングで見た自分に、
心底嫌気が差したのだ。
自己嫌悪に頭を抱えていると、扉がノックされた。
﹁キロさん、ギルドに行きましょう﹂
クローナの声だ。
﹁⋮⋮あぁ、すぐ用意する﹂
感情が声に出ないように注意して、キロは言葉を返す。
言葉通り手早く準備を整えたキロは、クローナと共にギルドへ向
かった。
56
午前中に依頼を片付けて、午後は師匠を探そうとクローナと話し
合う。
早朝だったためか、ギルドの中は閑散としていた。
受付の男性がキロ達を見つけて片手を振る。
﹁昨日と同じで早いね。熱心なのはいい事です﹂
﹁依頼はありますか?﹂
クローナが急かすと、受付の男性はすぐに一枚の依頼書を掲げた。
事前に準備してあったのだろう。
依頼内容はとある種類の木の樹液を探して持ち帰って欲しいとい
うものだった。
﹁樹液なんて何に使うんだ﹂
﹁香料になったはずです﹂
クローナがうろ覚えの知識を披露すると、受付の男が頷いた。
森に点在する原木から、樹液を採取して回るのが依頼の内容らし
い。
今までこの依頼を受けていた冒険者が別の街へ行ってしまったた
めに、受ける者がいなかったそうだ。
原木の位置を記した地図すらないらしい。前任者は独占するため
にわざと作らなかったのだろう。
やはりというべきか、クローナは原木の位置をすべて知っていた。
昼までに終わらせてしまいましょうというクローナに付いて、森
を歩き回る。
街の方角を覚えておくだけで精いっぱいのキロなどお構いなしに、
クローナは次々と原木を渡り歩いた。
最後の原木から樹液を採取して、キロは空を見上げた。
57
﹁街に帰っても昼になってなさそうだな﹂
︱︱これで銀貨一枚か。
運が悪ければ魔物に出くわす事もあるとはいえ、依頼人は自分で
取りに行ったりしないのだろうかと、キロは思う。
﹁この手の依頼は冒険者を育てるためでもあるって聞きますよ。せ
んこうとうし⋮⋮ってやつです﹂
﹁無理して難しい言葉を使わなくていいぞ﹂
﹁さらりと翻訳してますけど、キロさんが使っている言語は語彙が
豊富ですね﹂
言葉を交わしながら、キロは街へと足を向け、動きを止めた。
クローナも同じく動きを止め、注意深く耳を澄ませる。
﹁虫の音が止みましたね﹂
﹁隠れよう。戦闘は可能な限り避けたい﹂
キロとクローナは頷きあい、近くの木の根元に身を隠す。
周囲を見回し、耳を澄ませながら隠れていると、遠くで藪を掻き
分ける音がした。
音の方向を見て、キロの背筋に悪寒が走った。
︱︱風下かよ!
藪を掻き分ける音が急速に迫ってくる。
﹁やばい、ばれてる!﹂
キロは声を上げ、クローナと共に立ち上がった。
キロは槍を、クローナは杖を構える。
58
﹁この辺りは特定の魔物の縄張りじゃありません。相手は徘徊する
タイプです﹂
﹁逃げられないか?﹂
﹁多分、逃げられます。種類が特定できれば、ですけど﹂
言葉を交わす間にも、藪を掻き分ける音は大きくなっていく。
やがて、姿を現したのは体高一メートル程の鳥だった。
発達した足でしっかりと地面を踏みしめ、やや太い胴体には何か
の返り血がべっとりと付着していた。
太いくちばしには何故か歯が生えている。
姿を見た瞬間、クローナが叫ぶ。
﹁この魔物は空を飛べません! 木の上へ逃げて下さいッ!﹂
言うが早いか、クローナは正面に魔法で石の壁を生み出した。
足場にして素早く樹上へ逃げるのだろう。
クローナが自ら生み出した壁の上面に手を掛け、飛び乗る。
キロも同時に壁へ上がった。
すぐに近くの木へ移ろうとした時、キロは足元の壁が崩れる音を
聞いた気がした。
﹁︱︱えっ?﹂
図らずもクローナと声が重なる。
困惑しつつ足元の石壁を見れば、鳥型の魔物がつるはしよろしく
くちばしを壁に突き込んでいた。
キロは教会の裏手で聞いたクローナの言葉を思いだす。
︱︱私は大量に特殊魔力を持っているので、変な作用をして稀に
こうなります。熱くない火球とか︱︱
59
﹁ボロボロ崩れる石壁、とか﹂
言葉を反芻し、キロは何が起こったかを悟る。
︱︱この石壁、クローナの特殊魔力で脆くなってやがる⁉
崩れる前に木へ飛び移ろうかとも思ったが、鳥型の魔物がくちば
しによる第二撃を壁に見舞った。
ただでさえ脆い壁だ。木に移るために思い切り蹴り付けたなら、
その時点で瓦解しかねない。そうなれば、十分な推進力を得られず、
木に届かないだろう。
﹁ちっ、鳥が壁へ三度目の攻撃をしたら槍で上から切りつける。怯
んでいるうちにクローナは新しい壁を頼む!﹂
槍の穂先を壁の下にいる魔物へ向けて、キロはクローナに指示す
る。
﹁わ、分かりました!﹂
クローナが返事をした瞬間、魔物がくちばしを壁に叩き込んだ。
反動で止まった魔物の頭をめがけて、キロは飛び降り様に思い切
り槍で突く。
金属同士がぶつかるような、動物の頭を槍で突いたとは思えない
音が鳴った。
︱︱硬すぎだろ、この石頭!
キロは内心で毒吐く。
﹁キロさん、壁を作りました!﹂
クローナの声に振り返れば、新しい石壁が生み出されていた。
キロは魔物が怯んでいる内に急いで石壁を登る。
60
魔物は二、三度頭を振って、新しい石壁にくちばしを叩きつけた。
今度の石壁は頑丈だったようで、魔物はふらふらと後ろに下がる。
その間に、キロとクローナは木の上へと避難した。
魔物は未練がましくキロ達を見上げ木の周りをくるくる回ってい
たが、やがて諦めたのか藪の中へと姿を消した。
﹁⋮⋮流石に焦ったぞ﹂
﹁すみません﹂
太い枝に腰かけ、木の幹を背もたれにしながらキロが呟くと、ク
ローナが頭を下げた。
﹁慌ててたので、特殊魔力を混ぜてしまったみたいです﹂
﹁何事もなかったし、経験を積めたと考えよう。それより、槍の刃
が全く役に立たなかったんだが、あの魔物は胴体を狙った方が良か
ったのか?﹂
キロは先ほどの戦闘を思い出しながら、クローナに問う。
体重をかけて槍の穂先を魔物の頭に叩き込んだにもかかわらず、
効果がなかった。
クローナは困ったように首を傾げた。
﹁基本的に逃げるか追い払うかしかしてこなかったので、魔物の弱
点まではわからないです⋮⋮﹂
﹁羊も見ないといけないもんな。むしろ、よくあんなの相手に羊を
守り通せたもんだよ﹂
武器で攻撃しても大したダメージが与えられない生物が襲ってく
る世界で、羊を守りながら旅をする。
想像するだけで精神が削られる仕事だ。
61
クローナがキロから顔を背け、魔物が去って行った茂みの向こう
に目を凝らす。
﹁魔物の縄張りとかは前任者から聞いていましたし、ほとんどは逃
げるだけでしたから﹂
﹁それでも凄いと思うけどな﹂
時間をおいて、安全を確認し、キロ達は木から降りた。
樹液の採取は済んでいるため、さっさと森からの脱出を図る。
途中、野生のウサギが不意に飛び出してきて驚かされたものの、
何事もなくギルドに到着した。
集めてきた樹液を受付に併設された引取所に渡す。
依頼の品は倉庫に一時保管し、後ほど依頼人に引き渡されるとい
う。
引換券を渡されて、キロ達は受付の男性の元に向かった。
﹁報酬です。この依頼はできれば定期的に受けてほしいですね。時
期が来たらお知らせしますから﹂
﹁収入が安定するので助かります﹂
銀貨一枚を受け取り、クローナは財布に収めた。
時計を見て一人頷いた受付の男性が机の下をごそごそと漁り始め
たので、キロはクローナの肩を叩く。
﹁このままだと次の依頼を受ける事になるぞ﹂
財布を覗き込んで何事かを思案していたクローナが弾かれたよう
に顔を上げた。
﹁あの、午後からはキロさんの師匠を探しに行くので、依頼は明日
62
お受けします﹂
クローナの言葉に受付の男性はキロを見た。
﹁昨日、修練場への地図をお渡ししましたよね。場所が分かりませ
んでしたか?﹂
﹁⋮⋮教えたくないと言われちゃいまして﹂
クローナが困ったようにキロを見る。
視線を向けられても、キロにはどうしようもない。
受付の男性は苦い顔で頭を掻いた。
﹁参りましたね。修練場の教官の給料は訓練生から死者が出ると減
らされるので、見込みがない方は断られるんです。死亡率を上げな
いための防止策なんですが、キロさんは、その⋮⋮﹂
︱︱才能なし、か。
受付の男性は言葉を濁したが、キロは察する。
困り顔でキロを見た後、受付の男性はクローナに視線を移す。
﹁ギルドとしても、無駄に死んで欲しくないので町での仕事をお勧
めするんですが⋮⋮しかし、うぅん﹂
不幸な可能性と実利を天秤にかけているらしい。
受付の男性は腕を組んでしばらく唸った。
﹁クローナさんが他の腕が立つ冒険者と組めば解決するんですが︱
︱﹂
﹁私が無理を言ってキロさんを冒険者稼業に引っ張り込んだので、
そういう不義理はしたくないです﹂
63
受付の男性に最後まで言わせず、クローナは却下する。
キロを見て、受付の男性はため息を吐いた。
またしばらく悩んでいたが、やがて、結論を出した。
﹁とにかく、近いうちに師匠が見つかればいいんですよね。こちら
からも暇そうな冒険者に声をかけてみます﹂
﹁お願いします﹂
クローナと共に、キロは頭を下げる。
︱︱俺、足を引っ張ってるな。
ギルドを後にして、引退した冒険者の家に向かいながら、キロは
一人嘆息した。
その日、師匠を見つける事は叶わなかった。
翌早朝、キロ達はギルドに赴いた。
受付の男性を見つけて、軽く挨拶を交わす。
﹁︱︱私の方でも幾人かに声をかけてみたのですが、空振りに終わ
りました﹂
依頼書を引っ張り出しながら、受付の男性はそう告げた。
クローナが依頼内容を聞いている間、キロはぼんやりと昨日会っ
た元冒険者達の言葉を思い出す。
曰く、腕力が足りず、成長期も過ぎていて伸びが悪い。
曰く、武器の扱い方の基礎すらできていない。
曰く、考えてばかりで動きに反映されるまでが遅い。
つい先日まで平和な日本に住んでいたのだから当たり前だ、と言
い返したいが、何の解決にもならない。
鍛えるだけ時間の無駄、大人しく町の仕事を受けていろ、と昨日
64
だけで耳にタコができるほど聞かされた。
︱︱まさか、武術の才能がない、と嘆く羽目になるとは。
依頼の詳細を聞いたクローナが立ち上がる。
いつのまにか、ギルドには冒険者が集まりつつある。
建物を出る際、何人かに後ろ指を指された事がキロは気になった。
町の外に向かいながら、キロはクローナに声をかける。
﹁新しくパーティーメンバーを増やすっていうのはどうだ?﹂
﹁三人で報酬を分けたら暮らしていけませんよ。司祭様にこれ以上
迷惑を掛けたくありませんし﹂
小さな教会はキロ達が居候するだけで精いっぱいだ。
司祭の好意に甘えすぎるのもよくないだろう。
町の防壁をくぐり、森に入る。
今日の依頼は川の傍に建てられている、町が管理する小屋から逃
げ出した動物を探し出す仕事だ。
鳴き声が騒々しい動物であるため、町の中で飼う事が出来ないと
いうその動物が森の中へ三匹ほど逃げ出したという。
一匹に付き銅貨五枚の依頼だ。
森に詳しくない冒険者が下手に探し回ると強力な魔物の縄張りに
入って殺されかねないため、縄張りを熟知するクローナに仕事が回
されたのである。
﹁魔物の縄張りには入らなくて良いそうです﹂
﹁それを言う時、受付は渋い顔をしてなかったか?﹂
﹁いえ、特には﹂
キロの質問にクローナは平然と答えた。
︱︱表情を作るのが上手い、か。
クローナに寄せる司祭の評価を思い出して、キロは心の中で嘆息
65
した。
﹁なぁ、クローナ、俺よりもっと使える奴と組んだ方がいいと思う
ぞ﹂
キロが勧めると、クローナは足を止めた。
周りに魔物の気配はない。川の方からカエルの鳴き声が聞こえて
くるだけだ。
キロは安全を確認して、再度口を開く。
﹁俺に遠慮するのはクローナの今後を考えるとよくない。俺は町で
の仕事を受けるよ。司祭に腕輪を借りれば、なんとかなるから︱︱﹂
﹁だめです﹂
クローナは一言で切って捨て、キロに向き直った。
怒っているのか、頬には赤みが差し、杖を強く握っている。
﹁冒険者としてパーティーを組んだんです。私はキロさんに命を預
ける覚悟をしているんですよ。キロさんが町の中での依頼を受けた
いなら、私も一緒に受けます。遠慮しているのはキロさんの方じゃ
ないですか!﹂
クローナは怒鳴り、指先をキロに突き付けた。
﹁もっと私を信頼してください。遠慮しなくても、もっと図々しく
ても、私はキロさんと冒険者やりますよ!﹂
クローナは言い切ると、腰に手を当ててキロの言葉を待った。
如何にも、私は憤慨しています、といった表情のクローナに、キ
ロは苦笑した。
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クローナが頬を膨らませる。
﹁笑う所じゃありません﹂
﹁あぁ、そうだな﹂
キロはクローナの頭に手を置いて、軽く撫でた。
クローナがますます頬を膨らませた。
﹁なんで撫でてるんですか。手が重いですよ﹂
クローナが暴れ出すまで頭を撫でつつ、キロは決意を固めていた。
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第六話 二人だけの秘密
川の水を飲む白い生き物がいた。
羊ではない。キロが見た事のない生き物だった。
耳の後ろと眉間に螺旋状の短い角を持ち、全身から垂れ下がった
白い体毛が足元まで伸びて、すだれの様になっていた。
依頼にあった、逃げ出した動物である。
クローナと二手に分かれ、キロは生き物の気を引こうと風上に立
ち、手を鳴らした。
生き物はおもむろに顔を上げると、興味深そうにキロを見つめて
いた。
その背後に、クローナが静かに近づき、愛用の杖の先端で生き物
の後ろ脚を引っ掛けた。
ここまでくれば慣れたものだ。
クローナは抵抗もさせずに生き物をひっくり返した。
﹁⋮⋮まずは一頭、捕獲ですね﹂
﹁毛を刈るために育ててるのか?﹂
﹁はい。五年に一度刈り取るんです。防水性に優れているんですよ﹂
高価ですけどね、とクローナは付け足す。
五年に一度しか取れないのなら、高価なのも頷ける。
羊と違って外に出さず、専用の小屋で育てている事からも、町に
とっては大事な商品なのだと分かった。
﹁この調子で他の子も見つかるといいんですけど﹂
クローナは心配そうに言って、周囲を見回す。
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キロもつられて視線をあちこちに飛ばしていたが、遠くに見える
大木の上に何かがいるのを見つけて、目を凝らした。
﹁クローナ、あの木の上にいるのって⋮⋮﹂
キロが指差すと、クローナも気付いたらしい。
青い顔を見合わせ、大木に向かってキロ達は走り出した。
﹁なんであんなところで黄昏れてるんだよ、あの毛むくじゃら﹂
﹁知りませんよ。あの辺りは魔物の縄張りではないですけど、目立
ちすぎです。早く連れ帰らないと!﹂
全力疾走の末、たどり着いた大木の上で、問題の生き物は空の彼
方を見つめていた。
﹁⋮⋮木を揺らして落とすか?﹂
﹁虫取りじゃないんですけど﹂
ジトッとした目で睨んでくるクローナに、冗談だと返し、キロは
大木の枝に手を掛ける。
﹁一度上まで登って、魔法で壁を生み出しつつ下へ追い立てよう。
誘導を頼む﹂
クローナと共に大木に上り、キロは生き物を少しずつ下へと追い
立て、地面に降ろした。
遠くから生き物を見つけた魔物が来ないとも限らないため、キロ
達は休む間もなく移動を開始した。
無事に飼育小屋まで送り届け、キロ達は最後の一頭を探す。
昼を過ぎて、ようやく見つけた最後の一頭は、崖の中腹で立ち往
69
生していた。
しかし、その姿からは焦燥も悲壮も感じない。
﹁⋮⋮我はここで漫然と死を待とう﹂
﹁気持ちを代弁してないで、早く助け出しますよ﹂
クローナに急かされ、キロはクローナと共に魔法の壁を伝って最
後の一頭を救出した。
魔法の壁の作り方ばかりに習熟している気がした。
キロ達は最後の一頭を飼育小屋に連れ帰り、街へと走り出す。
日が落ちるまではまだ時間があるが、キロ達には他に用事がある
のだ。
ギルドに到着したキロ達は午後の依頼は後日に回し、受付の男性
への別れの挨拶もそこそこに、修練場へと駆け出した。
︱︱教えてくれないなら、見て覚えてやる!
修練場にたどり着いたキロ達は、遠巻きにしながら注意深く観察
する。
槍の構え方や振るい方、次の動きへの繫げ方など、片端から記憶
に刻みつけていった。
最初の内はキロ達を訝しげに見ていた老齢の教官は、キロ達の視
線から狙いを悟ると顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。
﹁ひょろいの、技を盗んでんじゃねえ!﹂
キロ達はすぐさま立ち上がり、脱兎の如く逃げ出した。
教官は途中まで追いかけてきたが、仕事場から離れすぎるわけに
はいかなかったのだろう、途中で足を止める。
﹁見よう見まねで出来るもんじゃねえ。舐めた真似は二度とすんな
よ!﹂
70
捨て台詞を吐いて、教官は修練場へと帰っていく。
その背中に向けて、キロは一枚の銀貨を思い切り投げつけた。
﹁代金だ。受け取れ!﹂
狙いがわずかに上方へ逸れ、教官の後頭部に追突した銀貨が地面
に落ちる。
﹁︱︱あ、やばい﹂
﹁⋮⋮ひょろいの、覚悟はできてんだろうな﹂
鬼の形相で振り返った教官を無視して、キロ達は再び駆け出した。
教会に帰り着いた二人は、さっそく裏手で練習を始める。
キロは見てきたばかりの構えを取り、クローナの記憶と照らし合
わせる。
構えを終えると次はゆっくりと槍を振り、動きを確認する。
夕方まで延々と反復練習を繰り返し、キロ達は教会の中へ戻った。
礼拝堂の掃除を始め、細々とした家事手伝いを終えると、再び裏
手に出て練習を繰り返す。
日が落ちて、辺りが闇に閉ざされれば、クローナと代わる代わる
魔法で明りを確保して続ける。
気が付けば、日が昇っていた。
睡眠不足のまま森に行く依頼を受けるのは危険だと判断して、キ
ロ達は教会で仮眠を取り、昼ごろにギルドへと向かう。
早めに依頼を終えた冒険者や依頼を出しに来た行商人などの一般
人で、ギルドは賑わっていた。
複数ある受付の内、もはや顔馴染みとなった男性の元へと向かう。
キロ達の顔を見るなり、受付の男性は苦い顔をした。
71
﹁昨日、修練場の教官に喧嘩を売ったでしょう?﹂
キロとクローナはそろって首を傾げ、知らんふりをする。
﹁まったく⋮⋮今朝から噂になってますよ﹂
促されて、耳を澄ませば、ギルドのそこかしこから小声でキロ達
の噂話をする声が聞こえてきた。
才能なしの落ちこぼれが身の程もわきまえずに教官を敵に回した、
そんな内容だった。
クローナが腕を組み、受付の男性に面と向かって反論する。
﹁教えて貰えないから、自力で強くなろうとしているだけです﹂
﹁︱︱言うじゃねぇか、ガキが﹂
不意に怒気を含んだ声が聞こえてきて、キロは反射的にクローナ
を突き飛ばした。
後ろから伸ばされた手が、先ほどまでクローナの首があった空間
を掴んだ。
﹁キロさん!﹂
注意を促すクローナの声を聴き、キロはその場を飛び退く。
床すれすれをローキックがかすめていった。
︱︱足払いか。
キロは空中で上半身をよじり、後ろを見る。
立っていた人物は老齢の教官だった。後ろには訓練用の槍を持っ
た若い冒険者が二人付いている。
﹁付け焼刃の癖に逃げ方だけは一人前か﹂
72
教官はキロを睨みつけ、後ろに立つ若い冒険者を指差した。
﹁俺が教えている冒険者の若造だ。表に出ろ、間近で技を見せてや
るよ﹂
﹁⋮⋮ずいぶん堂々とした半殺し宣言だな﹂
﹁何を言ってるか分からねぇよ。おい、通訳しろ﹂
腕輪を身に着けていない教官にはキロの日本語が理解できなかっ
たらしく、クローナに通訳を命じる。
クローナがキロに視線を向けた。
キロは頷いて、言葉を紡ぐ。
﹁︱︱仕事の邪魔しないでください﹂
キロの言葉を聞いて、クローナが目を丸くした。
続いて、顔の前で激しく手を振る。
﹁いやいやいや、ちょっと待ってください。おかしいですよ。なん
でこの場面で仕事を気にするんですか⁉﹂
﹁あぁ? 仕事だと?﹂
クローナの言葉尻を捕えて、教官が眉を寄せる。
キロは教官を気にせず、クローナに顔を向けた。
﹁仕事をしないと司祭に恩返しできないし、お金もたまらない。俺
がこの教官と喧嘩してもどうせ勝てないし、怪我をするだけ無駄だ
ろ﹂
﹁それは、そうですけど⋮⋮そうなんですけど﹂
﹁おい、仕事ってどういう事だ、こら﹂
73
いらいらした口調で言葉を挟む教官を無視して、クローナはキロ
に反論しようと言葉を探す。
混沌とし始めた場に終止符を打ったのは、受付の男性だった。
﹁ギルド内で喧嘩はしないでください。あなたも、教官でしょう。
いちいち生意気だからという理由で冒険者を、貴重な労働力を痛め
つけるおつもりですか? 彼らの代わりに依頼を受けてくれるんで
すか? なんなら治療費も払ってもらいますよ?﹂
次々に畳み掛ける受付の男性に、教官は舌打ちした。
教官はキロを睨み、口を開く。
﹁二度と舐めた真似すんじゃねえ﹂
警告を残して、教官はギルドを出ていった。
受付の男性が盛大なため息を吐く。
﹁本当に、二度と喧嘩を売らないでください。教官が舐められたら、
訓練場へ行く冒険者が減ってしまう﹂
訓練場は冒険者の生存率を底上げするために作られた施設だ。
利用者が減れば冒険者の生存率が低下しかねない。
キロもここまでの騒ぎになるとは思わなかったため、素直に頷い
た。
受付の男性は嘆息し、キロを眺める。
﹁そもそも、どうしてそこまでして強くなりたいんですか。この間
も言いましたけど、解散して個々に活動する選択もあるでしょう﹂
74
キロはクローナを見た後、口を開く。
﹁頼られたら、応えたくなるだろ﹂
キロの言葉は腕輪をつけているクローナ以外に理解できない。
例にもれず、理解できなかった受付の男性はクローナに視線で翻
訳を頼んだ。
クローナはキロを一瞬だけ見て、照れたように笑う。
﹁︱︱私とキロさんだけの、秘密です﹂
75
第七話 初戦闘
教官との一幕のせいで、ギルド内は少し騒々しい。
受付の男性もキロ達がいると騒々しさが増す一方だと考えたのか、
依頼書を押し付けてきた。
﹁この間、樹液を採取した樹にこも巻をお願いします﹂
大雑把に依頼内容を告げて、受付の男性は業務に戻った。
こも巻に使う藁束は、ギルドにあらかじめ納品されたものを使え
ばいいらしい。
支給された藁束を台車に乗せ、クローナと共にギルドの外に出た。
念のため、道を見回す。
どうやら、教官達は待ち伏せをしていないらしい。
鉢合わせすると面倒なので、キロ達は依頼を達成すべく早足で町
を後にした。
防壁を潜って、森へと歩く。
キロ達同様に依頼を受けたのか、何人かの冒険者が追い抜いて行
った。
クローナを先頭に森の中へと入る。
ついこの間来たばかりだというのに、どこに樹があるのかキロに
はよく分からない。
﹁方向音痴さん、こっちですよ﹂
﹁外付け方向感覚さん、そっちですか﹂
ちょいちょいと手招きするクローナと軽口を交わし、木の根をま
たいで歩く。
76
﹁元の世界でもよく迷子になったんですか?﹂
﹁幸いにも人生と女の子には迷わないでいられたよ﹂
気の利いたセリフを言い返そうとでもしたのか、知恵熱が出そう
な赤い顔で考えた後、クローナは言い返した。
﹁⋮⋮妙な答えを返さないでください﹂
クローナの後ろをついて歩き、一本目の樹にたどり着く。
樹の幹にぐるりと藁を括り付けた。
腰巻のようになった藁の中に虫達が集まるのを待って、焼き捨て
る事になるだろう。
﹁外す時にも依頼が出されそうだな﹂
﹁この手の依頼は連続しているので、助かりますね﹂
次の樹へと移動しながら、言葉を交わす。
森の入り口近くであるせいか、魔物はおろか動物すら見かけない。
台車が根っこに乗り上げ、藁束を落としたりしながらも、キロ達
は樹に藁を巻きつけていく。
最後の樹へと向かう途中、クローナが足を止めた。
﹁この間、鳥の魔物に襲われた場所に向かいます。一応、注意して
おいてください﹂
杖の握りを確かめながら、クローナが注意を促す。
﹁万が一、出くわしたら木の上に逃げるって事でいいな?﹂
﹁藁束を忘れないでくださいね﹂
77
随分と少なくなった藁束をクローナが指差した。
依頼を達成するためには、藁束を紛失するわけにはいかない。
周囲により一層気を配りながら進み、最後の樹に到着したキロ達
は作業に入った。
キロから藁を受け取ったクローナが樹の反対側に回り込む。
抱きつくようにして藁を樹の幹に固定し、キロがロープで縛る。
作業を終えたキロは持ち運びやすいように予備のロープを袈裟懸
けにした。
﹁よし、帰るか﹂
台車を押しながら、キロはクローナに声をかけた。
しかし、クローナに服の裾を掴まれ、止められる。
振り返ってみれば、クローナが難しい顔で茂みを見つめていた。
﹁⋮⋮縄張りになってます﹂
クローナが茂みを指差す。
キロは首を傾げつつ、茂みを観察した。
深緑色の葉が手入れを怠った生垣の様になっている。よくよく見
れば、地面が掘り返されている事に気付いた。
﹁鳥の魔物か?﹂
﹁あれは徘徊するだけで、縄張りを持ちません。主張の仕方から見
て、グリンブルだと思います﹂
種類を言われても、キロには全く分からない。
翻訳されないのだから当然だ。
78
﹁その、ぐりんぶる? っていう魔物はどんな奴なんだ?﹂
﹁グリンブル、猪に似た魔物です。全身が金色に光っていて、飛ぶ
ように走ります。草食ですけど、木の皮を食べてしまうので⋮⋮﹂
こも巻を施した樹を見て、クローナが言葉を濁す。
縄張りにこの樹がある以上、食べられてしまいかねない、と言い
たいのだろう。
﹁討伐した方がいいんだろうな。だけど、勝てないだろ﹂
﹁ですね、ギルドに報告して、判断を仰ぎましょう﹂
命あっての物種だと、キロ達は撤退を決めた。
魔物が戻ってくる前に離れようと、キロ達は移動を開始する。
﹁グリンブルって魔物は強いのか?﹂
﹁魔物ですから強いですよ。動作魔力を使って身体能力を上げるく
らいしかしませんけど、普通の動物とは比べ物になりません﹂
クローナの話では、グリンブルは動作魔力を用いた破壊力のある
突進や牙を高速で振り回すなどの攻撃をするらしい。
現象魔力を用いた火球などの魔法を使用しない、体術一辺倒の魔
物だという。
﹁魔力溜りから生じて何年も経っている古い個体は体毛が銀色にな
るそうです。手間をかけて処理すると上質な敷物になるとか、なら
ないとか﹂
﹁曖昧だな﹂
﹁雲の上のお話ですから。キロさんのその槍を一万本は買える程の
値が付くはずです﹂
﹁⋮⋮討伐して皮を売れば︱︱﹂
79
﹁専門の職人さんがいる街でないと買い取ってくれませんよ。半日
以内に処理を始めないとボロボロになるそうです﹂
︱︱ちっ、一攫千金かと思ったのに。
当てが外れて、キロは舌打ちした。
未練がましく縄張りを振り返った時、木々の合間から何かが転が
り出てきた。
ギュウともキュウともつかない鳴き声をあげたその生き物は、混
乱した様に羽をばたつかせる。
いつか見た、鳥型の魔物だった。
﹁クローナ!﹂
名を呼ぶと共に、キロは魔法で壁を生み出す。
クローナが壁の上へと上がった瞬間、慌てたように転がり落ちた。
﹁︱︱って、おい!﹂
下にいたキロは既のところでクローナを受け止める。
しかし、クローナは礼を言う時間も惜しいとばかり、藪を指差し
た。
﹁キロさん、グリンブルが突進してきます。屈んでください!﹂
﹁︱︱屈む?﹂
﹁あぁ、もう!﹂
屈んだ体勢では咄嗟に避けられない、と反論しようとしたキロの
頭を、クローナが押さえつける。
無理矢理に屈まされたキロは見た。
木の幹を足場にして飛ぶように突進する、体長二メートル近い金
80
色の猪の姿を。
︱︱飛ぶようにというか、滑空してないか、あれ⁉
ムササビの様に木々の間を飛んできたグリンブルが鳥型の魔物に
頭突きし、着地した瞬間に頭を一振り、下顎から上に向かって突き
出た牙で突き刺した。
鳥型の魔物は胸を牙に突き破られ、血を流しながらもがいている。
グリンブルはもがき苦しむ鳥型の魔物を鬱陶しそうに木の幹に叩
きつけた。
鳥型の魔物の体から力が抜け、絶命する。
グリンブルは思い切り頭を振り、牙から鳥型の魔物を振り落した。
べちゃり、と湿った音を立てて鳥型の魔物の死体が地面に落ちた。
死体に興味はないのだろう、グリンブルはキロ達を次の獲物と定
めたらしく、じろりと睨む。
﹁⋮⋮なぁ、逃げ切れる気がしないんだが﹂
﹁同感です。本来は逃げる相手を追いかけたりはしない魔物なんで
すけど、殺気立ってますね﹂
鳥型の魔物との戦闘が終わったばかりだからだろう、グリンブル
は据わった眼をして鼻息荒くキロ達を睨んでいる。
背中を見せたが最後、牙を突き立てられる未来しか見えなかった。
﹁倒すか、追い払うかしないとだめだな﹂
腹をくくって、キロは槍を構えた。
柄の中心に左手を添え、やや後ろを右手で握る。
﹁胴体を狙ってください。頭はかなり硬いはずです﹂
クローナはキロに助言しつつ、魔法を放つ準備をしているようだ
81
った。
︱︱注意をひきつけるのが俺の役目か。
キロはグリンブルを見据えながら、少しずつ横に移動する。
グリンブルの注意をクローナから少しでも移すためだ。
グリンブルと目が合うと、キロの心臓が早鐘を打ち始めた。
鳥型の魔物に一撃を食らわせた時とは違う、正面切っての対決に
緊張しているのだ。
手にかいた汗を服で拭った瞬間、グリンブルがキロに向かって突
進してきた。
槍からキロの片手が離れた事を隙と取ったのだろう。
グリンブルにありったけの注意を払っていたキロは、すぐに突進
を避けようと、横にステップを踏む。
急な方向転換は利かないのか、グリンブルはキロの横を駆け抜け
た。
至近距離を軽自動車が横切ったような威圧感を、キロは感じた。
額に嫌な汗が流れる。
グリンブルが地面を四肢で抉りながら減速した。
そこへ、クローナの水球が襲いかかる。
減速中でバランスが悪かったのか、グリンブルの体がぐらつき、
横倒しになった。
﹁キロさん、今です!﹂
﹁わかってる!﹂
案外すんなり仕留められそうだと思いながら、キロは槍の穂先を
グリンブル目掛けて構え、全力で駆けだした。
グリンブルが体を起こすが、キロが槍の間合いに捉える方が早か
った。
キロは槍を抜く手間も考えず、駆けてきた勢いのまま全力でグリ
ンブルを突く。
82
白い骨の先に付いた鉄の穂先がグリンブルの横腹へと吸い込まれ、
皮を破り、わずかに肉を切り裂いた刹那、動きを止めた。
押し固めた土の塊でも刺したような硬い感触に、キロは頬を引き
つらせた。
﹁槍が刺さらない⋮⋮っ⁉﹂
グリンブルが完全に体勢を立て直した事に気付き、キロは口を閉
ざしてその場を飛び退いた。
キロは槍を手放さなかった自分をほめたいくらいだった。
グリンブルはキロを追おうとせず、クローナの方へと視線を移す。
キロの槍は脅威ではないと考えたのだろう。
﹁⋮⋮キロさん、魔法で援護をお願いします﹂
クローナも、自分が狙われている事に気付いて役割の交代を告げ
た。
クローナが構える木製の杖は、グリンブルの相手をするには心も
とない。
キロは手元に魔力を集めつつ、この危機を乗り切る方法はないか
と考える。
︱︱まずい、ダメージを与える手がない。
全力で突き込んだ槍さえ通さない頑丈さを備えたグリンブルを相
手に有効打を与える術を思いつかず、キロは歯ぎしりする。
キロはグリンブルと間合いを測りあうクローナに声をかける。
﹁クローナ、前みたいに水球の魔法でグリンブルを凍らせて逃げら
れないか?﹂
﹁狙って失敗できないんです﹂
83
︱︱まぁ、そうだよな。
至極もっともなクローナの言い分に納得せざるを得ず、キロは別
の手を考え始める。
グリンブルに唯一与えた傷から、ほんの僅かに血が滲んでいるの
が見える。
注意してみなければわからないほど、本当に些細な傷だ。
︱︱俺が非力だから掠り傷しか負わせられなかった。
街にいた教官や元冒険者、武器屋にさえ言われた事だ。
裏を返せば、腕力が十分なら先の一撃で勝負は決していた。
助走をつけた全力の一撃でさえ駄目だったのだから、心得のある
者が才能なしと判断するのも当然だったのだろう。
︱︱それでも、命を預けられたんだから、仕方ない。
クローナ本人はもちろんの事、教会の司祭もキロを頼ったのだ。
﹁自分には関係ない、とは言えないよな⋮⋮﹂
未だにクローナと睨み合いを続けるグリンブルに、キロは動作魔
力を多めに込めて速度を上げた水球を放つ。
水球はグリンブルの胴体に当たったが、よろめきすらしない。
しかし、注意すら向けられないのは少し癪に障った。
再び邪魔が入る前にクローナを仕留めようと考えたのか、グリン
ブルが頭を下げ、牙の先を正面に突きだした。
クローナが息を飲み、いつでも避けられるように身構える。
グリンブルが突撃の第一歩を踏みしめる。
次の瞬間、キロが横合いからグリンブルの首筋に槍を突き立てた。
しかし、槍の刃はグリンブルの肉を浅く傷つけるだけだ。
﹁キロさん、何やってるんですか⁉﹂
クローナが驚いて怒鳴るが、キロは返事をせず、次の動作に移る。
84
槍の柄に魔法で土の鍔を付けたのだ。
同時に、キロは真後ろに土壁を生み出し、背中を付ける。
﹁シャベルもこっちの方が力を入れやすいよな﹂
言うが早いか、キロは柄に付けた魔法で作った鍔を片足で踏み付
けた。
ガンと鈍い打撃音が響いた直後、グリンブルがよろめき、苦痛に
うめき声を上げた。
見れば、槍の穂先は先ほどよりも深く突き立っている。
それでも、まだ致命傷にはほど遠いようだった。
︱︱刺した直後だから、筋肉が硬直してたのか。
キロは素早く原因を突き止め、動作魔力の比率を極端に高くした
水球を生み出す。
怒りに染まったグリンブルの眼が、キロを映す。
しかし、グリンブルが体勢を立て直すより早く、キロは水球を槍
に付けた魔法の鍔へ打ち込んだ。
ありったけ込められた動作魔力の影響で小さいながらも高速で打
ち出された水球は、狙い過たず鍔に激突し、槍をグリンブルの首筋
に打ち付けた。
キロの蹴りとは比較にならない威力が、グリンブルの筋肉を破る
推進力となって槍を進ませる。
深く突き立った槍は、グリンブルに致命傷を与えていた。
首を深く切りつけられたグリンブルが血を吐く。食道を傷つけた
のかもしれない。
痛みに呻き、首を振り回したグリンブルは、四肢に力を込められ
なくなったのか地面に横倒しになり、痙攣した後、絶命した。
﹁た、倒しちゃいましたね⋮⋮﹂
85
いつのまにか、キロの横に立ってグリンブルの臨終を見届けたク
ローナがポツリと呟いた。
グリンブルの瞳から力が失われるまで待って、キロは突然に足の
力が抜けてその場に座り込んだ。
﹁︱︱死ぬかと思った﹂
思い返せば、幸運の連続だった。
グリンブルの意識が完全にクローナに注がれていたからこそ、最
初の奇襲が成功し、グリンブルがキロの非力さに高を括っていたか
らこそ、反応が遅れたのだ。
事前に水球を放ってグリンブルの意識の在処を確かめたからこそ、
攻撃に踏み切ったのだが、いつ注意が移行してくるかと気が気でな
かった。
キロは安堵の吐息をこぼす。
﹁⋮⋮やりました。これで受付の人には何も言わせませんよ!﹂
目の前の状況が信じられない様子だったクローナは、次第に現実
を認識すると興奮気味に握った拳を空へと突き上げる。
パーティの解散を促された事が腹に据えかねていたのだろう。
嬉しそうに口元をほころばせていたクローナだったが、ふと気付
いた様子でグリンブルに刺さった槍を見つめた。
クローナが心配そうな顔でグリンブルの死骸を指差す。
﹁かなり深く刺さっちゃってますけど、あの槍は抜けるんですか?﹂
﹁腕でも脚でも刺さらなかった槍なんだから、抜けるわけがないだ
ろ﹂
キロが肩をすくめて見せると、クローナが青い顔をする。
86
﹁何を偉そうに言ってるんですか! いくら安物でも、今の私達に
は高い買い物なんですよ⁉﹂
銀貨が飛んでいっちゃう、と泣きながら、クローナは槍を引き抜
こうとするが、びくともしない。
キロがやったように、魔法で土の鍔を付けて逆方向へ衝撃を与え
ようとするが、土の鍔と水球の魔法を併用できずに失敗する。
﹁なんで戦闘中にこんな器用な魔法を使えるんですか⁉﹂
クローナが地団太を踏んでキロに文句を言った。
キロは頬を掻く。それほど難しいとは思えなかったのだ。
﹁クローナが不器用なだけじゃないのか?﹂
﹁キロさんよりも魔法使った経験は豊富ですよ! それより早くこ
の槍を抜いてくださいッ!﹂
﹁魔力切れだから無理﹂
キロの返答に、クローナは地面に手を突いて大げさに落胆した。
﹁どうするんですか、これ。どうしたらいいんですか、これ⋮⋮﹂
クローナは俯いたままぶつぶつ言っていたが、何かに気付いては
っと顔を上げる。
﹁藁束を運んだ台車がありますよね?﹂
﹁まて、死体ごと持って帰る気か? 毛皮は買い取ってもらえない
んだろ?﹂
﹁大丈夫です。森の出口までそんなにかかりません。槍を失うより
87
肉体労働の方がずっとマシです。マシなんです!﹂
まるで自身に言い聞かせるようにしながら、クローナはグリンブ
ルの前足を持つ。
しかし、体長二メートルの大猪の死体だ。元羊飼いの少女に持ち
上げられるはずもない。
悔しそうに下唇を噛むクローナの肩に手を置いて宥めながら、キ
ロは提案する。
﹁ギルドに依頼しよう。死体を運ぶだけだし、銀貨一枚でいけるだ
ろ﹂
﹁⋮⋮ここもグリンブルの縄張りですから、半日くらいは他の魔物
に死体を持っていかれたりしないですよね?﹂
﹁いや、知らないけど﹂
﹁大丈夫なんです!﹂
根拠なく結論を出して自己解決すると、クローナはキロの袖を引
っ張って走り出す。
﹁槍がなくなったら赤字になっちゃいます。早く帰って依頼を出し
ましょう。もしかしたらギルドで便宜を図ってくれるかもしれませ
んし!﹂
﹁ひとまず、助かった事を喜べばいいと思うんだけど﹂
先を急ぐクローナを追いながら、キロは苦笑した。
88
第八話 動作魔力の活用法
キロは教会の裏手で貝殻を砕いていた。
世話になっている教会が飼育している鶏のカルシウム不足を改善
するためだ。
作業をしていると、裏口が開き、司祭が顔を覗かせた。
司祭はキロの作業を微笑ましそうに眺めている。
﹁助かるよ。私も歳で、そういった力のいる作業が難しくてね﹂
﹁いえいえ、こちらもお世話になっていますから﹂
言葉を返すキロの隣に、司祭は腰を下ろした。
﹁グリンブルを倒した、とクローナに聞いたよ﹂
司祭はくすりと笑った。
きっと、クローナが勢い込んで今日のキロの雄姿を語ったのだろ
う。
容易に想像がついて、キロは背中がむず痒くなった。
﹁君の雄姿を支えた槍はどこにあるのかな?﹂
﹁グリンブルに刺さったまま抜けなかったので、ギルドに回収依頼
を出しました﹂
あたりを見回す司祭の姿に、キロは答えた。
受付の男性は討伐報告に懐疑的だったが、銀貨一枚を前払いする
と文句を言わずに依頼書を作成してくれた。
︱︱お役所仕事に感謝だな。
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明日の朝一番で依頼を受けた冒険者と共に回収に行く手筈が整っ
ている。
﹁珍しい依頼だと言われましたよ﹂
﹁自分で刺した武器が抜けない、なんて事態はまずないからね﹂
司祭もおかしそうに笑った。
ひとしきり笑うと、司祭は柵の中の羊に視線を移した。
﹁明日の昼にクローナの後任を務める羊飼いが来る事になっている﹂
︱︱引き継ぎの件か。
クローナが知る周辺の地理について、後任の羊飼いに教えるのだ。
今日のように魔物の縄張りが変化する事もあるが、ゼロから調べ
るよりも効率がいい。
﹁到着したら、ギルドに依頼を出そうと思う。受けてくれるね?﹂
﹁クローナ次第ですが、受けたいと思います﹂
キロが色よい返事すると、司祭は嬉しそうに頷いた。
司祭の用事はそれだけだったのか、口を閉ざしてニコニコとキロ
の作業を眺めている。
見られていると少し落ち着かないキロは、話題を探した。
﹁⋮⋮クローナはいま何をしてるんですか?﹂
共通の話題といえばクローナの事しか思いつかず、キロは訊ねた。
司祭は教会を振り返ると、明かりのついている二階の部屋を指差
す。
90
﹁日記をつけているよ。羊飼い時代の癖で、記録を残しておかない
と落ち着かないそうだ﹂
キロは司祭が指差している部屋を見上げた。
︱︱日記か。
あまり付けたくないな、とキロは思う。
異世界にやってきてからの日を指折り数える行為に思えたのだ。
早く元の世界に帰りたい身としては、この異世界での日々を記録
して情が湧いては困る。
﹁︱︱旅人の中には、現地での思い出作りを嫌がる者もいる﹂
司祭が唐突に語る。
キロをまっすぐに見つめながらの言葉は、明らかにキロに当てた
ものだ。
どうやら、キロの心中は司祭に見透かされているらしい。
﹁確かに、情が湧いて旅立てなくなるという話も聞く。だが、いつ
か旅を振り返った時にむなしい気持ちにならないためにも、思い出
といえなくとも何かを経験する事が大事だと思うよ﹂
﹁⋮⋮考えておきます﹂
︱︱司祭には敵いそうにないな。
キロは諦めてため息を吐く。
キロが諦めた事さえも見透かしているのだろう、司祭はクスクス
と笑っていた。
翌朝、キロ達はギルドに足を運んだ。
昨日の内に依頼を受けたらしい強面の冒険者が二人、キロ達を待
91
っていた。
どちらも身長二メートル越え、両手用の斧を武器として使うよう
だ。
キロは金剛力士像を思い浮かべた。
金剛力士像の片方、阿形の方がキロを見てにやにやと笑みを浮か
べた。
﹁お前だろ、教官に喧嘩売った奴﹂
キロの頭をガシガシと撫でながら、阿形が大口を開けて笑う。
﹁俺もあの爺さん気に食わなかったんだ。筋肉に柔軟性がないから
教えないとか言われてな﹂
そんな断られ方もあるのかと、キロは少し感心する。
他にもバリエーションがありそうだ。
それまで口を引き結んでいた吽形が相棒の手をキロの頭から引き
離す。
﹁失礼だっていうんだろ。分かってるって﹂
吽形は何も言っていないのだが、阿形の方は言葉にされずとも意
思疎通が図れるらしい。
︱︱完璧に金剛力士だな。阿吽の呼吸か。
クローナがキラキラした瞳で阿吽の冒険者を観察している。
求めていた冒険者像が目の前にあるからだろう。
クローナはキロの隣に来ると、耳打ちする。
﹁冒険者のパーティはああいう信頼で結ばれるべきなんです!﹂
﹁はいはい、分かったから槍を取りに行こうね﹂
92
キロは受け流し、阿吽を促してギルドを出た。
話してみると、阿吽は冒険者歴十年以上のベテランだった。
そんな腕の立つ者達が銀貨一枚の依頼をよく受けてくれたものだ。
キロが不思議に思い、クローナを通して聞いてみると、阿形が豪
快に笑い声をあげる。
﹁教官に喧嘩を売った新入りって奴に興味が出てな。暇だったから
受けてみたんだ﹂
変なところに効果があったらしい。
﹁誰かに喧嘩を売って損をしなかったのは初めてかもしれない﹂
﹁それはお前が弱いからだな﹂
︱︱弱肉強食の脳筋異世界だ。
さらりと阿形が返した言葉に、キロは嘆息した。
クローナの相変わらずの土地勘でグリンブルの死体にたどり着い
たキロは、死体の状態に鼻を押さえた。
﹁もう腐ってる﹂
﹁半日放置したグリンブルなんてこんなもんだ。食い荒らされてい
ないだけ、まだ綺麗な方だぜ﹂
ぐるりとグリンブルの死体を一周した吽形が、無言で首を振る。
何を伝えたいのか、キロとクローナにはさっぱりわからない。
﹁売れる部分はなしか。死体は放置で槍だけ引っこ抜いて帰るか﹂
阿形が吽形の意思をくみ取り、翻訳してくれた。
93
阿形はつかつかとグリンブルに刺さった槍に歩み寄り、片手で引
っこ抜く。
あまりにもあっさりと抜けたため、阿形は拍子抜けした顔でキロ
を振り返った。
﹁お前、本当に非力だな⋮⋮﹂
一言でキロの心を抉った阿形は、キロの槍を眺めて目を細める。
阿形が視線を向けると、吽形もキロの槍を検分し始めた。
そして、揃って首をひねる。
﹁おい、こんな安物の槍をどうやってグリンブルに刺したんだ?﹂
実演してみろ、と阿形が槍をキロに返す。
受け取ったキロは、グリンブルの死体を相手に実演して見せた。
シャベルキックまでは眉を寄せるだけだった金剛力士達は、キロ
が魔法を併用して槍を差し込んだのを見て納得する。
﹁器用だが回りくどい真似をするな﹂
阿形は顎を撫でながら、キロの攻撃方法を評した。
どういう意味かとキロが問う前に、吽形がグリンブルの死体に向
けて斧を軽く一振りする。
虫でも払うような適当な振り方であったにもかかわらず、グリン
ブルの死体は両断されていた。
呆気にとられるキロとクローナに、阿形は大笑いする。
﹁動作魔力で動きを補佐したんだ。まぁ、死体だから真っ二つにな
ったんだけどな﹂
94
説明に納得しつつ、キロは両断されたグリンブルの死体を見て息
を飲む。
︱︱こんなに違うのか。
﹁⋮⋮俺にもできますか?﹂
キロの目を見て、阿形はにやりと笑みを浮かべる。
﹁お前にもできるぜ。お前なら戦闘中でも咄嗟に使えるだろ。こん
な回りくどい真似するよりよっぽど簡単だからな﹂
グリンブルの首筋にキロが付けた刺し傷を指差し、阿形は笑う。
そして、にやりと獰猛な笑みを浮かべた。
﹁俺はあのくそ教官に吠え面かかせたい。槍の扱い方はさっぱりだ
が、動作魔力くらいなら教えてやれるぜ﹂
﹁⋮⋮なんか、私怨が混ざってませんか?﹂
クローナが恐る恐る訊ねると、阿形は目の前で腕まくりして、力
こぶしを作って見せた。
どうだ、と言わんばかりの華麗なポージングである。
キロの感想はただ一言、むさ苦しい、だった。
もちろん口には出さなかった。
阿形はひとしきり肉体美をアピールすると、怒りの形相で町の方
角を見た。
﹁俺の筋肉が不完全だと抜かしたあの爺さんは絶対許さんッ!﹂
︱︱うわぁ、本当にこんな奴いるんだ⋮⋮。
キロはげんなりしつつ、クローナを見る。
95
クローナならば、なんとなく阿形のキャラを受け入れそうな気が
したのだ。
しかし、クローナは馬車にひき潰されたカエルでも見るような冷
たい視線を阿形に注いでいた。
﹁うわぁ⋮⋮気持ちわる︱︱んぐ﹂
キロとは違って素直だったか、言葉にしようとしたクローナの口
を慌てて抑えたキロは、阿形達に向けて愛想笑いでごまかした。
せっかく稽古をつけてもらえるかもしれないのだ。クローナの失
言でお流れになったら二度とこんな機会には恵まれない。
︱︱表情を作るのが上手いなら愛想笑いぐらいしてくれよ!
司祭の言葉にますます疑惑を深めつつ、キロは阿形達の反応をう
かがう。
幸いにして、阿形の察しの良さは対吽形限定らしい。
クローナが言いかけた言葉の全容は悟られなかったようだ。
阿形は自身の斧を構え、実演しながら説明を開始する。
﹁理屈としては簡単だ。普段は現象魔力を動かすために使う動作魔
力で武器そのものを動かすだけの話だ﹂
阿形はまず動作魔力を使わずにグリンブルの死体を切りつける。
刃は死体の半ばまでを断ち切って止まった。
﹁次に動作魔力で斧全体を覆い、魔力に指向性をつけて動かす﹂
言うが早いか。阿形は動作魔力で覆った斧を振り、グリンブルの
死体を両断した。刃は死体の下の地面すら抉っている。
目の前で比較検証されると、キロは改めて威力の差に驚いた。
これができるかどうかが、冒険者としての質の違いに直結するの
96
だろう。
キロはクローナを解放し、取り戻したばかりの槍を動作魔力で覆
う。
グリンブルの死体に突きを入れようと動作魔力に指向性を与えた
瞬間、キロはつんのめった。
急発進した車に掴まっているような感覚だ。
予想以上の反動を制御できず、キロは顔から地面に引き倒された。
阿形が腹を抱えて大笑いする。
﹁最初にしては上出来だ。やっぱり器用だな、お前﹂
体を起こしたキロの背中をばしばしと叩く阿形。
聞けば、大概の者は武器に動作魔力を纏わせる事から練習するら
しい。
阿形や吽形のようなベテラン冒険者ともなると、動作魔力による
補佐を体にまで広げるため、桁違いの威力を発揮するという。
やはり、足で地を踏みしめているのといないのとでは威力が変わ
るのだろう。
もっと練習したかったが、今日の午後にはクローナの後任を務め
る羊飼いがやってくる。
仕方なく町へと帰り、阿形と吽形に礼を言って、解散した。
また教官に喧嘩を売る時は誘え、と本気か冗談か判断できない言
葉を残し、阿形と吽形は町の雑踏に姿を消した。
﹁教会に戻りましょうか﹂
クローナの提案にキロは頷いた。
何か依頼を受ける時間的な余裕はないが、昼まではまだ少し時間
がある。
教会の裏で、教わったばかりの動作魔力を使った練習くらいはで
97
きそうだ。
教会への道を歩いていると、向こうから司祭が歩いてくる姿が見
えた。
司祭もキロ達に気付いたらしく、朗らかに手を振ってくる。
﹁槍は無くさずに済んだようだね。よかった、よかった﹂
キロの手に握られた槍を見て、司祭が自分の事のように喜んだ。
キロは司祭が誰も伴っていない事を確認して、首を傾げる。
てっきり、後任の羊飼いが到着したから迎えに来たのだと思った
のだ。
クローナも同じ事を考えていたのか、首を傾げつつ口を開く。
﹁羊飼いの方は教会にいらっしゃるんですか?﹂
クローナの質問に、司祭は首を振った。
﹁いや、到着が遅れると連絡があってね。薬草の備蓄がなくなった
から、道中で摘んでくるそうだ。こちらでも用意しておいてほしい
と言われたよ﹂
待ち合わせに遅れる理由が薬草摘みという点に、キロは胸の内に
モヤモヤしたものを覚えた。
日本人的な感覚か、時間通りに進めてほしいと願うのだ。
しかし、この世界ではよくある事なのか、クローナは納得した様
に頷いた。
﹁なんの薬草が足りないんですか?﹂
﹁シキリアだよ。キロ君は知らないか。羊を興奮させる効果のある
薬草で、魔物と遭遇して怖気づいてしまった羊を動かすために使う﹂
98
︱︱羊飼いの商売道具か。
なら仕方ないな、とキロも思う。
危険な魔物が跋扈する世界で大切な羊を守るため、完璧な仕事を
するために準備する、と言われては反論する気はない。
しかし、とキロの脳裏に疑問が浮かんだ。
﹁人間用ならともかく、羊用の薬草が売っているんですか?﹂
﹁売ってないね。ギルドで依頼を出そうかと思っていたんだよ﹂
司祭は言葉を切り、キロとクローナを交互に見て笑みを浮かべた。
﹁︱︱できれば二人に受けてほしいね﹂
99
第九話 ゴブリンの森
司祭様の頼みとあっては断れません。
そう意気込み、二つ返事で承諾したクローナに苦笑しつつも、キ
ロは反対しなかった。
引き継ぎを円滑に進めるためにも、必要な準備だと分かっている
からだ。
他の冒険者への依頼であれば薬草の捜索期間分も上乗せした依頼
料がかかるところを、群生地を知るクローナにかかれば移動にかか
る日数分で済む。
司祭は費用が削減でき、キロとしてもお金を貰える以上否やはな
い。
﹁では、お願いしようか。どれくらいの期間が必要かな?﹂
ギルドへと足を向けながら、司祭がクローナに問いかける。
﹁隣町まで行かないといけないので、三日くらいですね﹂
クローナは悩む素振りもなくすぐに答えた。
司祭は思案するように腕を組む。
﹁後任の羊飼いがやってくる時期もちょうどそれくらいだよ。羊達
もそろそろ出したいから、三日で帰ってきてくれるなら助かるね﹂
キロは羊を入れていた柵の中の光景を思い出す。
︱︱草はほとんど食べられてたな。
食欲旺盛な羊達のおかげで、当分は草刈りの必要もないだろう。
100
同時に、羊達の食糧が残り少ない事を意味している。
クローナもキロと同じ光景を頭に浮かべていたらしく、深刻な表
情をしていた。その真剣なまなざしときたら、流石は元プロである。
﹁必ず三日で戻ります﹂
﹁あまり気負ってはいけないよ。いざとなれば、私が防壁の外で草
を刈って運ぶから﹂
笑いながらの司祭の言葉に、キロは内心で苦笑する。
︱︱力のいる作業が難しいんじゃなかったのかよ。
クローナが無茶をしないよう、司祭は気を使ったのだ。
言葉を交わしていると、ギルドに到着した。
受付に事情を話すとすぐに依頼の手続きが済んだ。
グリンブルを討伐した事実が証明されたため、遠出しても問題な
しと判断されたのだろう。
ギルドを出ると、司祭はキロの服装を眺めた後、身に着けていた
外套を差し出した。
﹁隣町では木賃宿に泊まる事になるだろう。毛布代わりに使うとい
い﹂
﹁ありがとうございます﹂
差し出された外套を受け取り、キロは袖を通した。少し丈が大き
かったが、毛布に使うならちょうどいいくらいだ。
﹁それでは、よろしく頼むよ﹂
教会へ帰るという司祭とギルドの前で別れて、キロとクローナは
防壁に向かう。
クローナは空を見上げ、太陽の高さから時間を計っていた。
101
﹁多分、夕方か少し暗くなった頃に向こうの街へ着くはずです﹂
﹁案外、距離が近いんだな﹂
﹁道を進めば、明日の昼頃になると思いますけど﹂
﹁⋮⋮おい、まて﹂
おかしな返答を聞き流しそうになりつつも、キロは時効を迎える
寸前で気が付いた。
﹁道以外のどこを進む気だよ?﹂
﹁森の中ですけど?﹂
何かおかしな事を言っていますか、とばかりにクローナは首を傾
げた。
あまりに自然な態度であったため、キロは自分の感覚がおかしい
のかもしれないと思い直す。
整備された道ではなく、森を突っ切るというクローナの考え方が
この世界での標準なのかもしれない。
﹁︱︱って、そんなわけあるか。道が整備されてるんだから使えよ
!﹂
﹁道なりに行ったら、時間に余裕がなくなっちゃいます。それに街
道の途中で野宿できますか? ぐっすり眠ったりできませんよ?﹂
クローナに反論され、キロは口を閉ざした。
日本とは違うのだ。積極的に襲いかかってくる魔物という脅威が
存在するこの世界で頼りない星明りの下、周囲を警戒して一晩過ご
すなど考えたくもない。
野宿するくらいなら、まだ明るいうちに森を突っ切ってしまう方
が安全なのだ。
102
何しろ、森を熟知しているクローナがいるのだから。
﹁なるほど、クローナの言い分はわかった。ただな︱︱﹂
防壁を潜りぬけて、キロはクローナに言い含めるように声のトー
ンを落とした。
﹁今度から依頼を受ける時に、街道を使っても時間的余裕があるか
どうかを判断基準にしてくれ﹂
キロの言葉に、クローナは視線を逸らした。
時間を考えずに安請け合いした自覚はあったらしい。
キロはため息を吐いて空を見上げる。
﹁まだまだ、冒険者の仕事に慣れていないから、これからもいろい
ろ失敗するだろうけどさ﹂
﹁槍が抜けなくなったりですか?﹂
﹁雑ぜ返すな。まぁ、何が言いたいかっていうと、失敗するたびに
相談しようって事﹂
ホウレンソウは大事だからな、とキロは元の世界のバイト先で言
われた事をそのまま口にした。
︱︱そろそろ、行方不明扱いになってるんだろうな⋮⋮。
脳裏を過った心配事を、頭を振って追い出した。
帰ってから考えればいい、とキロは自分に言い聞かせる。
道を外れて森へと入り、まっすぐ突き進む。
本当にまっすぐ進んでいるのか分からなくなりそうな、獣道すら
ない森を抜けるのは、なかなかの苦行だった。
今まで依頼を受けて森に入った事は何度もあるが、あんな場所で
も最低限の枝や藪を払ってあったらしい。
103
街の近くという事で、冒険者がよく入るおかげだったのだろう。
﹁この辺りは討伐依頼を受けた冒険者がたまにやってくるだけです
から、穴場ですよ。あちこちに山菜や薬草が生えてるんです﹂
観光案内でもするような軽い口調で、クローナが説明する。
少し地面に視線を落とせば、食べられるかどうかも分からないキ
ノコが生えていた。
﹁魔物も多そうだな⋮⋮﹂
人跡未踏、とまで言うと大げさではあるが、人が来ない事に変わ
りはない。
しかし、キロの呟きにクローナは首を振った。
﹁そうでもないです。この辺りはいくつかのゴブリンの群れが縄張
りにしていて、年中争っている地域なので、他の魔物は避けている
んですよ﹂
﹁そのゴブリンは危険じゃないのか?﹂
﹁腕の立つ冒険者が依頼を受けて、不定期に各群れのボスを倒して
回るんです。この辺りのゴブリンは何度もボスを倒す人間に怯えて、
襲ってこないんですよ﹂
﹁⋮⋮なんという恐怖政治﹂
安全とは、時に恐怖から作り出されるものだと知るキロだった。
人間には怯えるゴブリン達だが、群れとして動けばなかなかの戦
闘能力を発揮するそうで、グリンブルですらも倒してしまうという。
二足歩行する人型の魔物でしわくちゃのわし鼻を特徴とするゴブ
リンは、手先が器用で粗末ながら武器さえ作る。
しかし、器用な反面、頭の方はお粗末で本能よりであるため、天
104
敵とみなすと襲ってこなくなる。
この世界の人々がゴブリンの徹底駆除に乗り出さない理由も、他
の魔物を追い払ってくれるからだそうだ。
さしずめ防波堤である。
少し気の毒に思わないでもなかったが、キロは気にしない事にし
た。
実際、出くわしたゴブリンはキロ達の姿を見つけると猛獣にでも
遭ったように怯えて一目散に逃げ出していく。
転んで逃げ遅れたゴブリンがガタガタと震えながら、ムンクの叫
びを思い起こさせる形相で泡吹き、気絶する始末だ。
よほど猟奇的な手段でボスを殺されたのか、尋常ではない怯え方
を見ていると、キロ達まで気が滅入ってくる。
早々に森を抜けてしまおうと、キロ達は足を速めた。
川に差し掛かった頃、ゴブリンの鳴き声が聞こえてきた。
またか、とげんなりしたキロだったが、鳴き声の数が多い。
︱︱まさか、待ち伏せ?
クローナと顔を見合わせ、戦闘に備えた。
ゴブリン達の姿が見えてくる。
数は十ほど、内の一匹は蔦で編んだ頭飾りをつけて妙に着飾って
いた。
ゴブリン達はキロ達の遥か前方で立ち止まり、着飾ったゴブリン
と代わる代わる抱き合い、土下座した。
そして、着飾ったゴブリンだけが粛々とキロ達の元へ歩いてくる。
﹁⋮⋮キロさん、これってなんだと思いますか?﹂
﹁生贄、じゃないかな﹂
頭痛を覚えながら、キロはクローナに返答する。
目の前で首を垂れる着飾ったゴブリンを見下ろしながら、クロー
ナが困った顔をした。
105
どうしたらいいのか分からない、そんな顔だ。
﹁無視でいいのでしょうか?﹂
﹁殺すのも忍びないし、他に手はないだろ﹂
キロが一歩進んだ瞬間、着飾ったゴブリンがびくりと震えた。
キロは苦笑して、着飾ったゴブリンの横を通り抜けざま頭を撫で
てやる。
キロとクローナが着飾ったゴブリンに何もせず歩いていくと、ゴ
ブリンの群れが慌てて立ち上がり、左右に分かれて再び土下座した。
一応、奇襲を警戒しつつゴブリンの群れを無視して進む。
何事もなく通り抜け、ゴブリンの群れとの距離が離れるとクロー
ナがほっと息を吐いた。
予想外の状況に出くわしたため、気を張っていたのだろう。
﹁それにしても、何だったんでしょう。初めてですよ、ゴブリンが
生贄を差し出してくるなんて﹂
後ろを振り返りながら、クローナが不思議そうに呟いた。
ゴブリン自体が初見のキロに原因が分かるはずもない。
﹁神にもすがりたい何かがあったのかもな﹂
キロは適当に言ったつもりだったが、予想に反してクローナは真
剣な顔で考え込んだ。
ふと顔を上げたかと思うと、クローナは枝や雑草を杖で退けて地
面を観察したり、樹の幹を検分する。
一連の行動から、クローナが何を調べているのか察しが付いたキ
ロは地面を注意深く見まわした。
106
﹁⋮⋮あった﹂
キロが発見したのは掘り返された地面、昨日見たのと同じグリン
ブルのマーキングである。
クローナが駆け寄ってきて、キロの指差す先を見て眉を寄せる。
﹁グリンブルです。それも、大物ですよ﹂
杖で穴の大きさを大まかに測りながら、クローナが教えてくれる。
キロは苦い顔でゴブリンの群れがいた方向を振り返った。
﹁群れたゴブリンならグリンブルを倒せるって話じゃなかったっけ
?﹂
﹁群れでも手に負えないって事ですね﹂
キロはクローナと顔を見合わせ、揃ってため息を吐いた。
﹁ゴブリンのためにグリンブルの駆除をしようなんて言い出さない
よな?﹂
﹁当然です﹂
きっぱりとクローナが言い返してくれたので、キロは安心した。
クローナは少し考える素振りを見せる。
﹁このまま森を突っ切るよりは道に出た方がいいと思います。グリ
ンブルの縄張りを抜けたくはありませんから﹂
﹁同感だ。多少遠回りになっても安全第一で行こう﹂
すぐに方針は決まり、進行方向を変更して歩き出す。
注意深く地面や木の様子を観察し、縄張りを主張した痕跡や木の
107
皮を食べた跡があれば避けて通る。
警戒しながらも足早に森を抜け、最短距離で街道に辿り着いた。
無事に整備された道に出る事が出来たキロ達は緊張を解く。
街道周辺にはグリンブルの縄張りもないらしく、ここまでくれば
安全だと判断したのだ。
クローナが空を見上げる。
﹁多分、到着は夜になりますね。野宿は避けられると思いますけど、
かなり歩くので覚悟してください﹂
そんな脅し文句を言って、クローナが歩き出す。
暗くなったら明かりはどうするんだと言いかけたキロは、魔法の
存在を思い出して口を閉ざした。
︱︱改めて、魔法って便利だな。
クローナの後を追いながら、キロは街道の様子を観察する。
前後に人影はないが、むき出しの地面には馬車が通った跡があり、
畝のようになった道の中央には雑草がまばらに生えている。
道幅はキロとクローナが並んで歩いても十分に余裕がある。馬車
同士ですれ違えるように幅を広く取っているのだろう。
アスファルト舗装に慣れたキロには少し不満が残る歩き心地だが、
先ほどまで歩いていた森の中に比べれば随分と歩きやすい。
前後の見通しが利くため、警戒も左右のみで済む事が一番ありが
たかった。
﹁それにしても、昨日といい今日といいグリンブルが縄張りを移し
すぎだろ。よくある事なのか?﹂
キロが訊ねると、クローナは首を振った。
﹁昨日のグリンブルは小さかったので、魔力溜りから発生してすぐ
108
の個体がやってきたんだと思います。でも、今回はちょっと大きす
ぎますね﹂
クローナの見立てでは、ゴブリンの縄張りに割り込んだ今回のグ
リンブルは体長がキロの倍近いという。
︱︱三メートル以上か。でかすぎだろ。
クローナの口ぶりから察するに、グリンブルとしても大きな部類
なのだろう。
それだけに、住み慣れた縄張りを離れた事に疑問が残る。
﹁大きな身体が災いして餌を食べ尽くした、とか﹂
﹁縄張りを広げるならともかく移り住むとなると、何らかの原因で
住めなくなったと考えるべきですね﹂
クローナに正論を返され、キロは考える。
﹁グリンブルって、天敵はいるのか?﹂
クローナは首を振った。
﹁知りません。ゴブリンが怯えるくらいの巨躯を誇るなら並の魔物
には負けません﹂
キロは昨日のグリンブルを思い起こす。
クローナ曰く小さな個体だったが、鳥型の魔物を瞬殺していた。
元々頑丈な身体を持っているだけあって、そう簡単に殺される魔
物ではないのだろう。
﹁あれこれと考えていても仕方がないな。街に着いたらギルドに報
告するんだろ?﹂
109
﹁そうですね。ゴブリンと違って、縄張りに入ると襲ってきますか
ら︱︱﹂
クローナが不意に口を閉ざし、眉を寄せる。
キロが怪訝に思う間もなく、森の中からゴブリンの群れが転がり
出てきた。
すぐさま武器に手を掛けたキロとクローナだったが、どうにもゴ
ブリン達の様子がおかしい。
街道に転がり出てきたゴブリンはキロ達を指差したかと思うと、
手を取り合って喜んでいるのである。
今まで怯えて逃げ惑っていたゴブリンが、キロ達を見て喜んでい
る。
︱︱どうなってるんだ。
キロ達が戸惑っている間に、ゴブリンは次々と森から転げ出てく
る。
そして、一様にキロ達を見て喜んでいた。
注意深く観察していると、ゴブリンの群れの中に焦げた草を持っ
ている個体がいることに気付く。
︱︱頭が楽しくなるような、おクスリか?
キロが観察していると、クローナも視線を追ってゴブリンが持つ
草に目を凝らす。
あ、と何かに気付いたように小さく呟いた。
﹁あれ、シキリアです﹂
﹁シキリアって、依頼のあった羊用の薬草か﹂
なんでゴブリンが持っているのか、とキロはクローナと顔を見合
わせて首を傾げる。
そして、今度はキロが先に気が付いた。
以前、テレビで見た口蹄疫に関する情報を思い出したのだ。
110
偶蹄目が罹患する家畜伝染病で、対象となるのは豚や牛、羊など。
中には猪も含まれる。
そして、ゴブリンを脅かすグリンブルは猪のような魔物だ。
キロは体中の血が一気に下がったような気がした。
﹁なぁ、シキリアの効果ってなんだっけ?﹂
﹁えっと、興奮作用ですけど⋮⋮キロさん、大丈夫ですか?﹂
青い顔をしているキロを心配したクローナが気遣う。
クローナに構わず、キロはゴブリンの群れが出てきた森の奥に目
を凝らした。
そして、見つけてしまう。
︱︱森の奥に光るぎらついた猪の瞳を。
111
第九話 ゴブリンの森︵後書き︶
﹁MPK最高﹂byゴブリンズ
112
第十話 銀色グリンブル
﹁どうなってるんですか⁉﹂
涙目になりながら、クローナが怒鳴る。
眼前ではシキリアを放り出したゴブリンが逃走を開始し、飛び出
してきたグリンブルを攪乱していた。
グリンブルは周囲のゴブリンを忌々しそうに睨みながら牙を振り
回している。
キロはクローナと共に街道脇に生えていた大木の根元に身を隠し
ていた。
グリンブルの動きを気にしつつ、キロは説明する。
﹁ゴブリンがシキリアを使って、興奮させたグリンブルをここまで
誘導してきたんだ。手に負えないから人間の力を借りようとしてる
んだろうさ﹂
﹁あんなの私達の手に負えるわけがないじゃないですか。体毛が銀
色になってるんですよ? 長生きした百戦練磨の個体ですよ、きっ
と!﹂
クローナの言葉通り、街道で暴れまわるグリンブルは銀色に輝き、
体長はキロの倍以上、振り回している牙ときたら成人男性の太もも
くらいの太さである。
周囲のゴブリンと合わせると、マンモスから原始人が逃げ惑って
いるように見えてくる。
︱︱神に縋りたくなるのも分かるな。
他人事のように考えるが、神様役を押し付けられた身としては笑
えない状況だ。
113
﹁逃げたいけど、さっきから目が合ってるんだよなぁ⋮⋮﹂
ゴブリンよりも体格が良いキロ達を警戒しているのだろう、グリ
ンブルは周囲のゴブリンに当たり散らしつつ、キロ達に注意を向け
ている。
仮にここから逃げ出したとしても、興奮状態にあるグリンブルが
見逃してくれるとは思えなかった。
隠れ続けていれば注意が逸れるかと期待していたが、望み薄であ
る。
事実、キロが少しでも動けばグリンブルが牙の先を向けてくる。
戦闘は避けられないだろう。
﹁クローナ、向こうさんはやる気満々だけど、逃げる方法は何かな
いか?﹂
﹁⋮⋮あったら昨日のグリンブルとあった時にやってますよ﹂
もうゴブリンなんて大っ嫌いです、とクローナは涙を拭いながら
覚悟を決めたように杖を強く握りしめた。
﹁ゴブリンごと魔法の餌食にしてやります⋮⋮﹂
﹁開き直りすぎだろ。敵を増やすようなまねはするな﹂
クローナの暴走にくぎを刺し、キロも槍を片手に立ち上がる。
キロ達の交戦の意思に気付いたのか、グリンブルがゴブリンを無
視して向き直った。
キロはクローナの一歩前に立ち、槍の穂先をやや上方に向けて構
えた。
︱︱さて、どうしたものかな。
戦う覚悟は決めたものの、昨日と同じくただ槍を振るっただけで
114
は文字通り歯が立たないだろう。
動作魔力を使った戦い方は教わったばかりで碌に練習もできてお
らず、実戦で使うには心もとない。
こんな時に思い浮かぶのは、町で引退した冒険者達にさんざん言
われた言葉だった。
曰く、考えてばかりで行動に反映されるまでが遅い。
一分一秒、時には一瞬で勝負が決まる戦いにおいては致命的と言
われた癖だ。
︱︱でも、考えないよりましだって思うんだよな。
自分の考えに一人苦笑しつつ、キロは槍の穂先をグリンブルに向
けたまま、少しづつ横に移動する。
グリンブルが突進してきてもクローナを巻き込まない位置まで移
動し終えたキロは、足元からパキッと軽い音がしたことに気付いて、
一瞬だけ視線を下に向ける。
﹁枯れ枝か﹂
森からグリンブルが飛び出した時にでも、一緒に転がり出てきた
のだろう。
ふと思いついて、キロは器用に足先から放出した魔力で枯れ枝を
覆う。
キロは薄く魔力で覆った枯枝を爪先で空に跳ね上げた。
グリンブルが小さく身じろぎするように一歩後退し、キロの足元
から突然飛び出したものの正体を見極めるように空を仰いだ。
爪先だけで蹴りあげたにもかかわらず、枯れ枝は空へと舞いあが
る。枯れ枝を覆った動作魔力により、力がかかっているのだ。
枯れ枝は放物線を描いてグリンブルの目の前に落下した。
﹁⋮⋮なるほど、重力の影響は受けるんだな﹂
115
動作魔力を使っても物理現象を完全に無視できるわけではないら
しい。
あくまでも、腕力の代わりを魔力で行うだけなのだ。
枯れ枝の動きから冷静に分析したキロは、さらに思考を進める。
︱︱借り物だから粗末に扱いたくはなかったけど。
キロは司祭に渡された外套の片袖を握り、作戦を決めた。
いつのまにか、攪乱するように逃げ惑っていたゴブリンは姿を消
している。
これで戦いやすくなったとばかり、グリンブルがおもむろに頭を
下げ、突撃体勢を作った。
狙いは明らかに、キロだ。
グリンブルの巨体が放つ威圧感に気圧されそうになりながら、キ
ロはいつでも避けられるように身構える。
鼻息荒く前足を踏み出した瞬間、グリンブルの巨躯が加速する。
前回のグリンブル戦を踏まえて突進を警戒していた事もあり、キ
ロは大きく横に跳び、余裕を持ってグリンブルの突進を回避できた。
走り抜けていくグリンブルを目で追いながら、キロは素早く外套
を脱いだ。
外套の中央あたりに動作魔力を集中させ、グリンブルの顔を狙っ
て打ち出す。
石を包んだ布を勢いよく投げたように、外套はグリンブル目がけ
て飛んでいく。
そして、突進の勢いを殺して振り返ったグリンブルの顔に衝突し
た外套は、慣性に従って広がり、グリンブルの視界を塞いだ。
﹁︱︱クローナ、やれ!﹂
キロはクローナに魔法による攻撃を促す。
自らも魔法による攻撃を行うべく、外套を打ち出したばかりの手
の先に魔力を集める。
116
キロは現象魔力で作り出した拳大の石を放とうとグリンブルに狙
いを定めようとして、違和感を覚えて眉を寄せる。
︱︱こんなに距離があったか⋮⋮?
キロが躊躇した瞬間、クローナの声が飛んだ。
﹁このグリンブル、怯んでません!﹂
クローナの言葉で、キロは理解する。
グリンブルは外套で覆われた視界を気にせず、突進するつもりな
のだ。
︱︱だとしたら、離れたように見えたのは目の錯覚じゃなく、助
走距離を稼いだからか!
理解が及んだ瞬間、グリンブルが加速する。
顔に外套を張り付けたまま、砲弾の様に飛び出したグリンブルが
キロに向かってくる。
外套で覆われる直前に見たキロの位置を覚えているのだろう。
キロは準備していた石つぶての魔法を中断し、全力で横に跳んだ。
キロのすれすれをグリンブルの牙がすり抜けていく。
冷や汗を流しながらも回避に成功したキロは、跳んだ勢いのまま
に地面にスライディングし、すぐに地面に手をついて立ち上がる。
振り返れば、頭突きの体勢で止まったグリンブルと、衝撃で折れ
倒れていく樹が瞳に映った。
︱︱突進するだけで木をへし折るって⋮⋮。
ゴクリと喉を鳴らしたキロを後目に、グリンブルは悠々と振り返
る。外套は突進の最中に剥がれたのだろう、獰猛な顔がありありと
視認できる。
直後、グリンブルの胴体にバスケットボール大の石つぶてがぶち
当たった。
肉を叩く鈍い音が響き、流石のグリンブルもよろめいた。
石つぶてが飛んできた方向を見れば、クローナが次弾を打ち出す
117
ところだった。
かなりの動作魔力を込めたらしく、二発目は高速でグリンブルに
向かう。
忌々しげにクローナを見ていたグリンブルは、頭を下げた。
グリンブルが二発目を避けたのだと考えたのか、クローナが苦々
しい顔をする。
しかし、グリンブルの牙が倒れた樹の下に差し込まれたる様子が、
キロには見えていた。
キロの世界であれば到底持ち上がらない大きさの樹だ。
それでも、動作魔力で補佐すれば、持ち上がらないとは限らない
のがこの世界。
三発目を準備し始めたクローナに、キロは怒鳴る。
﹁倒れた樹を投げてくる、気を付けろ!﹂
キロが言い終わらないうちに、グリンブルが牙を振り上げる。
同時に、倒れていた樹が投げ飛ばされた。
地面と水平に飛ばされた樹は屈んでもジャンプしても避ける事を
許さない絶妙な高さでキロ達へ迫ってくる。
そう、素の身体能力では避ける事が出来なかっただろう。
だが、キロは散々グリンブルの動きを見ていた。
﹁クローナ、跳べ!﹂
キロは叫ぶと同時に動作魔力で全身を覆い、膝を軽く曲げ、ジャ
ンプする。
動作魔力の補助を受けた身体が、単なるジャンプでは不可能な高
さを実現する。
しかし、無理な動きに筋肉が付いて行かなかったか、脚や腰に鈍
い痛みが走った。
118
キロは思わず顔をしかめる。
ちらりとクローナを横目で確認するが、動作魔力で体を動かす事
に不慣れなためか、樹を避けるには高さが足りなかった。
クローナの高さが足りない事態も想定していたキロは空中で槍に
動作魔力を纏わせ、思い切り振りおろす。
再びの急激な動きで腕の筋肉が軋むが、痛みに耐えただけの価値
はあった。
振り下ろされたキロの槍によって樹は叩き落とされ、地面に衝突
してゴロゴロと転がったのだ。
クローナが空中で慌てて足を引っ込め、転がってくる樹を避ける。
キロより低く飛んだクローナが先に地面に足を付けた。
クローナの無事を確認して安堵したキロは着地する寸前、地面を
叩き割るような異質な音を聞いた。
正面を見れば、グリンブルが牙を突き出して突進を開始していた。
樹を投げ飛ばした目的は攻撃ではなく、キロ達の隙を作るためだ
ったのだと、遅ればせながら気付く。
着地したばかりで体勢が整っていないキロは足で地面を蹴る事も
出来ず、舌打ちした。
動作魔力で緊急回避すべく魔力を集めようとするが、間に合いそ
うもなかった。
︱︱避けらんねぇ⋮⋮っ!
一か八か、迎え撃とうとしたキロは、押し出すような衝撃を横腹
に感じる。
これ幸いと、勢いに逆らわずキロは衝撃を利用して横に飛んだ。
衝撃のおかげでグリンブルの突進を回避したキロは、地面を転が
り、受け身を取って立ち上がる。
横腹を見れば、服が凍っていた。
クローナが水球の魔法でキロの体を横から突き飛ばしたのだ。
咄嗟の事だったため、特殊魔力を混ぜて水球を打ち出してしまっ
たのだろう。
119
﹁キロさん、無事ですか⁉﹂
焦った声でクローナが確認する。
キロは片手をあげて無事をアピールしつつ、口を開く。
﹁あぁ、助かった﹂
キロの言葉に安心したのか、クローナは胸に手を当てて小さく息
を付くと、グリンブルを睨みつけた。
グリンブルは鼻息荒く振り返り、前足で地面を掻いている。何度
も突進を避けられてイライラしているようだ。
キロは槍を構えようとして、あまりの軽さに二度見した。
﹁⋮⋮折れてる﹂
﹁えっ⁉﹂
キロの呟きを聞きつけたクローナが慌てて視線を向けてくる。
キロは半ばから折れた槍を掲げた。
グリンブルに注意しつつ周囲を探せば、折れた槍の先端が倒れた
樹の側に落ちていた。
樹を叩き落とした時に折れたようだ。
︱︱武器なしでどうすればいいんだよ。
口元が引きつるが、グリンブルが待ってくれるはずもない。
倒れた樹を利用するほど賢いグリンブルは、キロの手元にある折
れた槍を見つめていた。
無力になったキロに狙いを定めたグリンブルが頭を下げる。もう
何度も見た突撃の体勢だ。
武器がない以上、いつかは体力の限界を迎えて避ける事さえ叶わ
なくなる。
120
キロは必死に頭を働かせ、打開策を練った。
︱︱いや、武器ならあるか。
グリンブルが一歩を踏み出し、地面を蹴る。
瞬時に最高速に達したグリンブルが風切音さえ伴いながら突進し
てきた。
今までは反撃を警戒して抑えていたのだろう、間違いなく全力で
殺しに来ている速度だ。
キロはすぐに動作魔力を併用して、クローナのいる方向とは逆に
駆ける。
足腰がズキズキと痛むが、グリンブルの突進を正面から受けるよ
りは遥かにマシだ。
しかし、グリンブルが突進の途中で前足を地面に打ち付け、前足
を軸に急旋回する。
︱︱追撃できるのかよ!
初めて見せた動きに肝を冷やしながら、キロは折れた槍に動作魔
力を込め、グリンブルの目を狙って投げつけた。
流石に頑丈なグリンブルといえども目を狙われては無視できない
らしく、地面に四足を付いて速度を落とし、牙で折れた槍を弾き飛
ばした。
その隙を狙って、クローナが石つぶてを立て続けにグリンブルへ
叩き込む。
しかし、キロを逃がす隙を作るために乱造された石つぶては、グ
リンブルをわずかにひるませるだけでダメージを与えていないよう
だった。
キロはひたすら一方向に駆け、同時に動作魔力を大量に練り上げ
る。
︱︱もっと尖った物か、大きくて重い物をぶつけないと無理だ。
だが、魔法で作り出す石の形や大きさに拘るには、相応に魔力で
練る時間が必要になる。
だからこそ、人は武器を使うのだから。
121
そう、例えば︱︱
﹁倒木とか、な!﹂
グリンブルが突進で倒し、あまつさえ牙で放り投げて見せた樹。
グリンブルが使えるのだから、人が使えない道理はない。
キロは練っていた動作魔力をありったけ倒木に注ぎ込み、グリン
ブル目がけて撃ち出した。
迫る倒木を見たグリンブルが初めて逃げようとするが、クローナ
の石つぶてがそれを許さない。
キロが残りの魔力を全て注ぎ込んだだけあって、倒木は異常な速
度でグリンブルに衝突し、さらには街道の脇に生えた木々へとグリ
ンブルを叩きつけた。
﹁クローナ、やれッ!﹂
﹁分かってます、よ!﹂
倒木と街道脇の木に挟まれて動けないグリンブルに、クローナが
尖らせた石つぶてを高速で射出した。
グリンブルが頭を動かして牙で弾こうと試みるが、クローナの石
つぶては見越したように牙が届かない後ろ脚の付け根に突き刺さっ
た。
肉が穿たれ、血飛沫が上がり、骨が折れる音までが聞こえてくる。
乱造した石つぶてとは桁違いの殺傷力を示した石つぶては、グリ
ンブルの下半身を深く抉り取り、街道脇の木に穴をあけてようやく
消滅した。
グリンブルは前足だけで立ち上がろうとしたが、身体を起こす前
にあえなくくずおれた。
122
第十一話 ゴブリンズからの報酬
﹁⋮⋮もう、動かないよな?﹂
倒木と一緒に地面に倒れ伏すグリンブルの銀色の死体を遠巻きに
して、キロは恐る恐る口を開く。
一応、グリンブルの復活を警戒し、折れて二つになった槍を両手
に持っていた。
キロの隣で恐々とグリンブルの死体を見つめていたクローナが頷
く。
﹁倒したとは思うんですけど、さっきより危ない状況かもしれませ
ん⋮⋮ゴブリンが集まってきてます﹂
クローナの言葉通り、いつの間にか逃げ散っていたはずのゴブリ
ンが森の中から様子をうかがっていた。
﹁⋮⋮キロさん、魔力は残ってますか?﹂
﹁使い道の分からない特殊魔力だけなら⋮⋮。クローナは?﹂
キロが問い返すと、クローナは弱弱しく首を振った。
キロと同じく、最後の一撃で汎用魔力を使い切ったらしい。
言葉を交わしている内に、ゴブリンが森からぞろぞろと出てくる。
グリンブルの死体を枝でつついたりしていたゴブリン達は、キロ
達に向き直ると一斉にひれ伏した。
平伏するゴブリンの群れを眺め、どうやら戦闘にはならないらし
いと判断したキロ達はほっと溜息を付く。
平伏するゴブリンの群れの中から、頭飾りを付けたゴブリンが静
123
々と進み出てきた。
頭飾りのゴブリンは両手に一杯の花を持っている。
感謝か、貢物か、そういった類の物だろう。
キロは苦笑していたが、クローナが肘で脇腹をつついてくる。
目を向ければ、クローナは真剣な顔で囁く。
﹁ほとんどはただの雑草ですけど、向かって右端の黄色い斑点のあ
る花は高級香辛料ですよ﹂
﹁⋮⋮マジか?﹂
クローナがこくりと頷いた。キロの槍を指差した後、指を五本立
てる。
魔物の骨で作られた安物の槍五本分という事だろう。
問題の花は八輪ほど、クローナの言葉が事実なら破格の値段だ。
キロは慎重にゴブリンに近づき、花束を受け取る。
キロが花を受け取った事を確認すると、ゴブリン達はそそくさと
退散していった。
キロがゴブリンを見送りがてら小さく手を振ってやると、ちらち
ら振り返っていたゴブリンが首を傾げた後で手を振り返してきた。
﹁なんか、愛着湧いてきたんだけど﹂
﹁私はあんなの大嫌いです。死にかけたって事もう忘れたんですか
?﹂
﹁報酬は貰ってる﹂
﹁事後承諾じゃないですか。しかも、ゴブリンはこの花の価値を知
らないと思いますよ﹂
唇を尖らせながら不機嫌に言い返してくるクローナに、キロは肩
を竦めた。
クローナに花を選り分けてもらい、価値がある物だけを鞄に入れ
124
る。中には止血薬になる草もあった。
﹁この赤い花は?﹂
﹁それはゴミです﹂
バッサリと切って捨てたクローナは、もはや見向きもしない。
﹁土によって赤か青の花を咲かせる面白い花ですけど、薬効とかは
ないのでそこらに捨てといてください﹂
︱︱アジサイみたいなものか。
クローナの言葉から、土が酸性かアルカリ性かで色を変える花の
姿をキロは思い出す。
綺麗な花ではあったが、クローナの言葉に従って道の脇へ放り捨
てておいた。
ギルドへ報告する時に使うだろうから、とグリンブルの毛皮の一
部をはぎ取る。
ついでに外套も拾っておこうと周囲を見回すが、何故か見当たら
ない。
グリンブルとの戦闘で無くしてしまったのだと諦めて、キロ達は
再び出発した。
ゴブリンにまた巻き込まれては堪らないという思いは同じらしく、
どちらが言い出すまでもなく駆け足だった。
辺りがすっかり暗くなった頃、キロ達は目的地である隣町に到着
した。
外壁が月明かりに浮かび上がる。
すでに門は閉ざされていたが、冒険者専用の通用門を見つけ、キ
ロ達は併設されていた守衛小屋の扉を叩く。
125
夜番の冒険者らしい男にカードを見せると、すんなり通用口を開
けてくれた。
礼を言って通用口を潜り抜け、キロ達はまっすぐ冒険者ギルドに
向かう。
﹁規模も街並みもあまり変わらないんだな﹂
石作り建物は未だに新鮮味を覚えるキロだったが、建築様式は司
祭のいる街と違いが見られない。
クローナは道順を覚えようと目印になりそうなものを探して歩い
ている。
﹁ここも衛星都市ですから。大きな街が見たいなら、北にあるラッ
ペンが一番近いですね﹂
﹁見たいというか、大きな街なら元の世界に帰る方法が見つかるか
もしれないだろ﹂
クローナがキロを横目に見た。
思い悩むような少しの間を挟んで、クローナは口を開く。
﹁明日、キロさんはこの町で情報収集してください。シキリアの採
取は私一人で大丈夫ですから﹂
気を使っているのかとキロは思ったが、クローナが折れた槍を見
つめている事に気付いて嘆息する。
今回の依頼には三日間の期限がある。
移動に片道で半日、余裕を持って行動するならば一日欲しい。
シキリアの採集に明日一日を当てるとすると、別行動しないと期
限までに帰れないかもしれない。
126
﹁幸い、臨時収入もありましたから、槍も少しは良い物が買えるは
ずです﹂
﹁折った事を怒らないんだな﹂
グリンブルに刺さって抜けなくなった時は涙目になって騒いでい
たクローナを思い出し、キロは水を向ける。
クローナは悔しげな顔をした。
﹁折れてしまったら騒いでも仕方ないです。きっと武器は消耗品な
んですよ﹂
﹁思い切った割り切り方したなぁ﹂
﹁思い切らないと身銭も切れません。私も諦めますよ。でも、粗末
に扱っていいわけじゃないですからね?﹂
ジトッとした横目で睨んでくるクローナの迫力に、キロは思わず
頷いた。
ギルドの建物はこの町でも清潔感と解放感にあふれていた。
夢を追うのは諦めよう、とクローナを見習って割り切りつつ、キ
ロは扉を潜る。
冒険者は都市同盟が所有する戦力であるため、ギルドの建物は常
に開いているという。
深夜は依頼の受理が行われないなど、一部の業務が停止している
が、キロ達の様に報告をする際には関係がない。
何より、冒険者がもたらす情報は都市防衛の即応性を高める上で
大きな価値を持っている。
キロとクローナが閑散としたギルドに足を踏み入れると、受付に
いた中年女性と目があった。
腕に覚えのありそうな冒険者が何人か、ギルドのソファで欠伸を
噛み殺している。緊急時に備えた人員配置なのだろう。
受付の前に立ったキロは鞄からグリンブルの毛皮を取り出す。
127
銀色に輝く毛皮を見て、受付の女性は目を丸くした。
﹁グリンブルの毛皮、それも銀色⋮⋮﹂
受付の女性が呟くと、暇そうにしていた幾人かの職員が視線を向
けてきた。
一様に驚いた顔をして、まじまじと銀色の毛皮を眺めている。
腕の立ちそうな冒険者はどうだろうかとキロは振り返ってみたが、
一瞥くれた後で口笛を短く吹いただけだった。
やるじゃん、お前、くらいのノリである。
︱︱妙に温度差があるな。
キロは内心首を傾げた。
﹁ゴブリンの縄張りを脅かしていたグリンブルに襲われたので、討
伐しました﹂
クローナがグリンブルの毛皮を渡しながら報告する。
受付の女性は思案顔で毛皮の状態を確認し始めた。
グリンブルの毛皮は傷みやすい。状態を見れば、はぎ取られてど
れくらいの時間が経っているか、大まかに判断できるのだろう。
﹁ゴブリンの森に移動していたんですか。見つからない筈です﹂
﹁⋮⋮倒してはダメでしたか?﹂
クローナが不安そうに訊ねる。
討伐してはまずい魔物だったのだろうかと、キロもドキリとした
が、受付の女性は苦笑交じりに首を振った。
﹁おそらく、あなた方が討伐した銀色のグリンブルはこの辺りの森
を縄張りにしていた個体です。第二の月の初め頃から姿が見えなく
128
なっていて、森に何かあったのではないかと調査をしていたんです
よ﹂
第二の月、という表現が分からず、キロはクローナに視線で問う。
クローナはキロの耳元で一月前だと囁いた。ちなみに今はベイト
歴二千三百十九年、第三の月らしい。
︱︱流石、日記をつけているだけはある。
受付の女性はグリンブルの毛皮を検分した結果を書類に記してい
る。
﹁実は、グリンブルが縄張りを移動した原因は目星がついているん
ですよ﹂
世間話をするように、女性が書類を作りながら口を開いた。
クローナが興味をそそられた様に身を乗り出す。
少々子供っぽい仕草をしたクローナに、受付の女性が微笑んだ。
﹁森の中で病に罹った木がいくつか見つかりましてね。グリンブル
の餌は木の皮ですから、病を嫌ったのだろうと︱︱﹂
﹁だから、それはあり得ないって言ってんだろ!﹂
突如として後ろから聞こえた怒鳴り声に、キロはクローナ共々肩
を跳ねさせた。
慌てて振り向くと、不機嫌そうな顔の冒険者が受付の女性を睨ん
でいた。
﹁あのグリンブルは頭が良かったんだよ。縄張りから外れた樹が病
に罹ったくらいで危険を冒してまで縄張りを変えたりはしねぇ。事
実、今までは縄張りの変更なんかしなかっただろうが﹂
129
冒険者はいらいらした口調で持論を展開する。
とばっちりを受けないようにと、キロはクローナの腕を引いて冒
険者の視界から出た。
受付の女性は冒険者を見て呆れたようにため息を吐く。
﹁⋮⋮それならなぜ縄張りを移動したんですか?﹂
﹁それを調べるためにももっと調査範囲を広げるべきなんだ。何か
起こってからじゃ遅いんだぞ﹂
冒険者は受付へと歩いてくる。
受付の女性は面倒くさそうに肩を竦め、再度ため息を吐いた。
﹁調査費用もばかにならないんですよ。それとも、あなたが無償で
やってくれるんですか?﹂
受付の女性に言葉を返されると、冒険者は苦々しい顔で舌打ちし
た。
﹁⋮⋮こっちだって生活がある。無償ではやれるわけないだろ。だ
がな、現場の意見も聞いてくれねぇと︱︱﹂
﹁冒険者の勘、ですか? せめて、根拠の一つでもない事にはギル
ド依頼なんて出せませんよ﹂
冒険者の言葉を途中で遮って、受付の女性は意見をはね付けた。
なおも言いつのろうとする冒険者を受付にいた別の職員が宥め、
備え付けのソファへと引っ張っていく。
ようやく事は収まったようだと、キロはほっと胸を撫で下ろした。
﹁⋮⋮キロさん、その、離してほしいんです、けど﹂
130
か細い声が聞こえて視線を向ければ、クローナの顔が耳まで赤く
なっていた。
クローナの視線を追えば、冒険者の視界から外れるためにキロが
掴んだ腕がある。
﹁お、おう﹂
キロが手を離すと、クローナは腕を摩りながら、赤い顔を俯けた。
︱︱ヤダ、この子ったら免疫なさすぎ。
心の中で茶化して精神の平衡を保とうとするあたり、自分も他人
の事は言えない、とキロは思い直す。
その時、間近で舌打ちが聞こえた。
恐る恐る目を向ければ、受付の女性が親の仇でも見るような目で
キロ達を睨んでいた。
何故か居た堪れなくなって、キロは目を逸らす。
逸らした先には先ほど受付の女性と口論していた冒険者がいた。
﹁⋮⋮ウッゼェ﹂
キロと目があった冒険者がボソッと洩らした声が届く。
冒険者の声が聞こえたのだろう、受付の女性は大きく頷いた。
あまつさえ、受付の女性は冒険者に声をかける。
﹁後で飲みましょう、馬鹿馬鹿しくなったわ﹂
﹁だな、飲まなきゃやってられねえよ﹂
おぉ熱い熱い、とキロ達を見ながら受付の女性と冒険者が声を合
わせる。
︱︱なんで息ピッタリなんだよ。
若い二人をからかって遊びつつ、先ほどの喧嘩を後腐れない物に
131
しようとしているのだと分かってはいるが、獲物にされると落ち着
かない。
耐えきれなくなったクローナがキロの背中に顔を埋めている。
﹁⋮⋮キロさん、すみません﹂
クローナは小声で謝り、腕輪を差し出してくる。代わりに話を進
めて欲しいようだ。
本当に免疫がないらしい。
キロが冒険者と受付の女性に咎める視線を向けると、二人はさっ
と目を逸らして口を閉ざした。
やりすぎた自覚はあるらしい。
キロは受付の女性に腕輪を渡す。
﹁報告書も出来上がったみたいですから、俺達はお暇します。それ
と、買取カウンターはどこですか?﹂
ゴブリンにもらった、香辛料になるという黄色い花の換金もして
しまおうと考えて、キロはギルドを見回す。文字が読めないので、
買取カウンターと書いてあっても分からない。
受付の女性はばつが悪そうにギルドの壁際を指差した。
﹁奥の方にある、白い立札がかかっている窓口﹂
﹁ありがとうございます。それと、申し訳なく思うなら一つ、頼ん
でもいいですか? いいですよね?﹂
キロはこれ見よがしにクローナをちらちらと気にする素振りをす
る。
受付の女性はあぁ、とうめき声にも似た曖昧な返事した。
キロは了承と受け取って、さっさと話を進める。
132
﹁明日、羊に使うシキリアという薬草を森へ取りに行きます。ただ、
俺の武器はグリンブルとの戦いで壊れてしまったので、護衛を雇い
たいんです。急いでいるので今の内に依頼を出しておきたいんです
けど、構いませんか? 構いませんね。依頼書をください﹂
受付の女性が言葉を挟む前に捲し立てたキロは、手を差し出して
依頼書を催促する。
困り顔をする受付の女性に対し、キロは再度、クローナを心配す
るように見た。
ため息を吐いた受付の女性が依頼書を引っ張り出す。
﹁本来、この時間は依頼の受付をしていないので、秘密ですよ?﹂
﹁もちろんです。ご厚意に感謝します﹂
キロはにっこり笑った後、白紙の依頼書を指差す。
﹁代筆、お願いします﹂
133
第十二話 初めての宿探し
グリンブルについて詳しい話を聞きたいという受付の女性に明日
またギルドを訪ねる約束をして、キロとクローナは外に出た。
冷たい風に身震いして、キロ達は歩き出す。
羞恥心をようやく乗り越えたクローナの顔色が戻っていくのをキ
ロは眺めた。
﹁ああいう話は苦手なのかもしれないけど、反応すると余計に面白
がられるだけだぞ﹂
﹁分かっているんですけど、経験がなくて⋮⋮。羊かシスと結婚す
るつもりか、と司祭様にも言われた事があるくらいで﹂
︱︱シス、確か死んだ牧羊犬だったな。
以前、司祭の口から出た名前だったと思い出し、キロは苦笑した。
﹁筋金入りだな﹂
旅から旅への羊飼いという職業柄、人と関わる機会があまりなか
ったのだろう。
魔物という脅威が存在するこの世界で、安全な町から出たがる人
間は多くない。
クローナはあまりこの話題を続けたくないようで、別の話のタネ
はないかと辺りを見回している。
キロとしても、クローナをからかうつもりはない。高校時代の寮
生活では男友達と恋バナと下ネタで一晩話し込んだりもしたが、年
頃の女の子であるクローナ相手には憚られた。
しばらく視線を彷徨わせていたクローナは話のタネを見つけて口
134
を開く。
﹁実は私、宿に泊まるのは初めてなんですよ﹂
﹁もしかして、羊飼いの頃はずっと野宿してたのか?﹂
にわかに信じられずにキロは訊ねるが、クローナは何でもない事
のように頷いた。
﹁いつも町の防壁沿いに野宿ですね。防壁の傍まではめったに魔物
もやってきませんし、万が一にも魔物が近付いて来たらシスが吠え
てくれました﹂
﹁優秀な牧羊犬だったんだな﹂
キロが見た事もない牧羊犬に感心すると、クローナが自分の事の
ように照れた。
少し寂しそうな顔して、クローナは夜空を見上げる。
﹁心強い相棒でしたよ。話しかけたら言葉を返してくれるんじゃな
いかと思うくらい、頭のいい子でした﹂
遠い目で語った後、クローナははっとした様にキロを見る。
﹁キロさんも心強いですから!﹂
﹁いや、別に嫉妬とかしないから﹂
変なフォローをしてくるクローナに突っ込みを入れる。
﹁嫉妬⋮⋮あ、はい⋮⋮﹂
一部の単語に反応して、クローナが顔を赤くする。
135
﹁この程度で反応するのはさすがにどうかと思うな﹂
﹁すみません、なんか変に意識してしまいまして⋮⋮﹂
結局、振出しに戻ってしまい、キロとクローナは気恥ずかしさを
抱えたまま押し黙った。
クローナの赤い顔を眺め続けても回復に余計な時間がかかってし
まうだろうと、キロは夜空を見上げる。
少し赤みがかって見える月といくらかの雲が浮かんでいた。
沈黙の中でしばらく夜道を歩いているうちに、クローナの顔色が
戻ってくる。
﹁その、何が言いたかったかというとですね。初めて宿に泊まるの
でちょっと楽しみなわけです﹂
﹁気持ちはわかる。寝る場所が違うってだけで妙にワクワクしたり
するよな﹂
キロの通っていた高校は全寮制だ。どうせ学校の敷地内で寝るの
だからと、文化祭の準備では校舎で寝泊まりした事もある。
修学旅行は言うに及ばず、普段とは違う環境で寝るのはなぜか楽
しい。
一晩中、友達と話し込んで結局は一睡もしなかった経験しかない
事にはこの際、目をつむるキロである。
防壁に近い場所に見つけた木賃宿を覗いてみると、雑魚寝してい
る幾人かの男の姿があった。横に放り出されている荷物に武器が混
ざっている。
︱︱駆け出しの冒険者か。
お金がないのは誰でも同じらしい。
小さな建物だったが、クローナと二人分なら寝る場所も確保でき
そうだ。
136
やっと休めると思い、歩き続けて疲れた足を中に入れようとした
ところ、出入り口横の親父に呼び止められた。
﹁お前さんら、まさか二人で泊まるつもりか?﹂
宿の主らしき親父は怪訝な顔でクローナをジロジロと眺めている。
キロはクローナと顔を見合わせた。
﹁そのつもりですけど、もう空きがないんですか?﹂
クローナが不思議そうに宿の中を見回して、親父に問う。
親父は頭をぼりぼりと掻いて、呆れたような顔をした。
親父はキロを見て、宿の中、正確には雑魚寝している男達を指差
す。
﹁ずいぶんと美味そうな餌をぶら下げて入るんだな﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
親父の言葉が聞こえたのか、視線を逸らす泊り客の男達を見て、
キロは合点がいった。
﹁なるほどって、何がですか?﹂
経験不足で理解が及んでいないクローナの質問を聞いて、宿の主
と一緒にため息を吐いた。
﹁お邪魔しました﹂
﹁おう、夜はその嬢ちゃんから目を離すなよ﹂
﹁︱︱キロさん、何がなるほどなんですか?﹂
137
なおも問いかけてくるクローナの背中を押して、キロは木賃宿を
出た。
クローナは答えを返さないキロに不満そうな顔をする。
どうしたものかと思いつつ、このままでは木賃宿に踵を返しかね
ないクローナの態度をみて、キロは仕方なく説明する。
﹁男共に襲われても知らないって話だよ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
赤い顔で固まったクローナに、キロはため息を吐く。
﹁どこか安宿を探して泊まるしかないな。女性冒険者が少ない理由
が分かったよ﹂
下積み時代に木賃宿にも安心して止まれないのでは利益を上げに
くい。必然的に女性冒険者は男性冒険者よりも金銭的なやりくりが
難しく、なり手が少ないのだろう。
︱︱需要はあると思うんだけど。
グリンブルとの戦闘の疲れもあり、キロは重さを増してくる瞼に
抗いながら安宿を探して回る。
少しガタがきている建物を見つけて、軒先に下がった看板の文字
をクローナに読んでもらい、宿である事を確認する。
これでようやく眠れる、とキロ達は宿に入った。
男女二人組のキロ達を見て、宿の主が下卑た笑みを浮かべる。
﹁銅貨三枚だ。素泊まりだろ?﹂
クローナが頷いて、財布代わりの革袋を覗き、悩み始めた。
お金が足りないのかと思ったが、どうやらクローナは一部屋だけ
借りて節約するか、きちんと二部屋借りて別々に泊まるかで悩んで
138
いるらしかった。
クローナはキロを横目で窺って赤い顔をした後、恐る恐るといっ
た風に銅貨三枚を宿の主の手に落とした。
部屋のカギを受け取り、キロの顔を見ないように背を向けて階段
を上り始める。
後ろから見ても耳が赤い。
︱︱完全に意識してるな。
ギルドでも木賃宿でもからかわれたため、クローナはキロを男性
として意識しすぎている。
部屋は別だったにせよ、教会ではひとつ屋根の下だったのだが、
部屋を同じくするとなるとハードルが上がるらしい。
キロも緊張しないわけではなかったが、クローナの様子を見てい
ると冷静さが働いてくる。
二階突き当りが割り当てられた部屋らしい。
安宿らしいオンボロ具合ではあったが、掃除はきちんと行き届い
ており、埃一つ落ちていない。
部屋の隅には場違いに新しい箪笥が一つ置かれている。壊れた備
品だけを新調する経営方針なのだろう。
ただし、案の定ベッドは一つだった。
赤い顔を向けてきたクローナは緊張の面持ちで胸の前に持ってき
た拳を固く握る。
﹁だ、大丈夫です!﹂
﹁何がだ?﹂
間髪入れずに聞き返すと、クローナは酸欠の金魚のように口をパ
クパクと開閉し、決意した瞳を向けてくる。
﹁覚悟はできてます!﹂
﹁⋮⋮は?﹂
139
先ほどまで恥ずかしがっていた少女の言葉とは思えず、キロはつ
い変な声を上げてしまう。
キロが反応に困っていると、クローナは赤い顔でプルプルと震え
だした。
﹁冗談なので、突っ込んでください⋮⋮﹂
どうやら、慣れる努力をし始めたらしい。
﹁この状況で突っ込んでくださいとか言うなよ﹂
適当に軽口を返してみると、クローナは首を傾げた。
﹁なんで冗談を指摘してもらったらだめなんですか?﹂
﹁⋮⋮翻訳のせいで掛詞が伝わらないのか﹂
キロが呟くと、クローナが納得顔で頷いた。
掛詞に類する言葉はクローナの使う言語にもあるようだ。
﹁もう寝よう。クローナも疲れただろう?﹂
面倒臭くなってキロは提案する。
一つしかないベッドを見てため息を吐いたキロは、ベッドの横に
荷物を置き、それを枕に寝転がった。
クローナはベッドから枕と布団を剥がすと、キロの隣で横になる。
キロにもかかるようにクローナが布団を掛けようとした時、キロ
は上半身を起こした。
﹁︱︱ベッドで寝ろよ!﹂
140
﹁だってキロさんは床で寝ようとしてるじゃないですか。私だけベ
ッドに入れません!﹂
﹁律儀だな! 百歩譲って床に寝るとしても、なんで一緒の布団で
寝ようとしてんだよ﹂
﹁大事なパートナーに寒い思いをさせるわけにはいきません。司祭
様に渡された外套も無くしてしまったキロさんが悪いんです。大人
しく寝てください!﹂
﹁なんで俺が怒られてんの⁉﹂
﹁︱︱お客さん、夜も遅いんで静かに〝して〟くれ﹂
階下から宿の親父の声が聞こえ、キロとクローナは口を閉ざす。
﹁⋮⋮寝ようか﹂
﹁⋮⋮寝ましょう﹂
結局、羞恥心よりも疲労と睡魔の方が勝り、キロとクローナは二
人で横になった。
141
第十三話 遺物潜り
朝、キロは布団に包まったまま寝ぼけ眼を擦り、横を見た。
そこには仕事仲間の娘がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
まつ毛長いな、と思いながらもキロは上半身を起こす。
︱︱疲れていたとはいえ、こんなおいしい状況で何もしなかった
俺って紳士だよな。
﹁そう、紳士だ。紳士的に一夜を過ごしたはずなんだ。なのに何故、
腰が痛いんだ⋮⋮﹂
キロは腰を摩り、続いて腕を摩る。
原因には気付いていた。
﹁筋肉痛か⋮⋮﹂
思い返せば、昨日は無茶をし過ぎた。特にグリンブルとの戦いで
は肉体的に無茶な動きを動作魔力で無理やり行っていた。
反動が来るなど、簡単に予想できることだ。
キロは腕や足を揉み、気休めにしかならないと見切りをつける。
﹁クローナ、朝だ。そろそろ起きろ﹂
隣で未だに寝息を立てているクローナの肩を軽く叩いて、呼びか
けた。
身じろぎした後、クローナは目を擦って欠伸した。
﹁おはようございます﹂
142
寝起きの良いクローナは猫のように伸びをすると身体を起こした。
キロは太陽が出たばかりの外の明るさに目を細める。
﹁素泊まりだから食事は出ないし、外でパンでも買うか?﹂
昨日、夕食を食べていない事を思い出して、キロは腹をさすった。
夕食を食べようと考えもしなかったのだから、余程疲れていたの
だろう。
うーん、と悩むような声が聞こえてくる。横を見れば、財布を覗
いているクローナがいた。
﹁⋮⋮木の実入りとかの高いパンは無理ですよ?﹂
﹁種類は任せる﹂
キロ達は身支度を整え、部屋を出た。
一階に下りるとすでに宿の親父が仕事を始めていた。
クローナがカギを渡している間、キロは筋肉痛を訴える腰を軽く
叩いてほぐす。
キロがふと視線を感じて目を向けると、宿の親父がにんまりと下
品な笑みを浮かべていた。
﹁ずいぶん楽しんだようで﹂
﹁︱︱クローナ、早く行こう﹂
クローナの理解が追いつく前に、キロはさっさと宿を出る決意を
して、促した。
この世界の人は朝が早いのか、街の大通りはすでにたくさんの人
が行きかっていた。
中でも、朝食にパンを買い求める人は多いらしく、パン屋の前に
143
は短いながらも行列ができている。
食欲をそそる香ばしい匂いと共にパンを口に含んだキロは、焼き
たてのおいしさに驚いた。
硬い食感のパンは表面に歯を通すとパリッと音がする。
パンを齧りながらギルドに入ると、キロ達と同じように朝食を食
べながら受付で依頼を聞いている冒険者の姿が多々あった。
全体的に若く、武器もキロが使っていた槍と同じ骨製の者がいる。
皮を張った盾を身に着けている者もいた。
昨夜の受付の女性を見つけ、クローナが声をかける。
﹁護衛依頼を受けてくれた人はいますか?﹂
受付の女性は依頼書を引っ張り出し、ナンバーを確かめるとギル
ド全体に響く声で冒険者の名前を呼んだ。
﹁ゼンドルさん、ティーダさん、依頼人がいらっしゃいましたよ!﹂
キロもギルドを見回すと、壁際で談笑していた男女二人組の冒険
者が手を上げた。
﹁ほいほい、御呼ばれしましたよっと﹂
軽い調子で答えた若い男、ゼンドルがクローナを見て小さく口笛
を吹いた。
﹁かわいい子じゃん︱︱﹂
ゼンドルに最後まで言わせず、短髪の女性、ティーダが肘鉄を食
らわせた。
珍しい女冒険者だが、性格はなかなか男勝りであるらしい。
144
﹁依頼人に失礼でしょう。でもかわいい子。しかも、すっぴんだし﹂
仲が良さそうな二人組の冒険者を手で示し、受付の女性が口を開
く。
﹁今回、この二人は護衛依頼を初めて受けます﹂
初めてと聞いて、キロは少し心配になるが、受付の女性は苦笑す
る。
﹁誰でも最初は経験がありません。しかし、クローナさんとキロさ
んは銀色になったグリンブルを討伐する腕前ですから、彼らの経験
を積むためにもどうかご了承ください。代わりに報酬の三分の一は
ギルドが負担します﹂
戦闘技能のある護衛対象であるため、素人に経験を積ませる算段
らしい。
聞けば、ゼンドルとティーダもそれなりに腕が立つらしく、動作
魔力を使った戦い方にも心得があるとの事だった。
クローナはギルドが報酬を一部負担してくれると聞いて目を輝か
せている。
護衛対象のクローナが納得している事もあり、正式に契約を結ん
だ。
クローナがキロに腕輪と新しい槍を買うための資金を差し出して
くる。
﹁無駄使いしちゃだめですからね?﹂
﹁大丈夫だよ。用事が済んだらギルドでグリンブルについての報告
をしているから、間に合ったら付き合ってくれ﹂
145
キロはギルドから渡された地図を眺め、武器屋や元冒険者の家を
回る順序を考える。
面白がったゼンドルがキロの肩越しに地図を覗いた。
﹁新しくできた武器屋があってさ、元冒険者が運営してるから、も
しかしたらおまけしてくれるかもしれないぜ﹂
ほら、ここだ、とゼンドルが地図の一点を指差す。だが、そこは
空き地と記されていた。
開店したばかりという事で、まだ地図に載っていないのだろう。
キロは情報をくれたゼンドルに礼を言った。
﹁それじゃあ、気を付けて行けよ﹂
﹁キロさんも、客引きに掴まってもついて行ったりしたらダメです
からね?
それと、数字の見方は覚えてますね?﹂
﹁覚えてるも何も、地図の裏に対応表を書いただろ﹂
心配性のクローナを軽くあしらって、キロはゼンドル達に改めて
クローナを頼むと頭を下げた。
ギルド前でクローナ達と別れたキロは地図を見ながら大通りを進
み、適当なところで道を曲がった。
いちばん近い目的地は、ゼンドルから教えられた武器屋だ。
真新しい建物と看板をすぐに見つけ、キロは店に入る。
扉の上部に着いた呼び鈴がカランカランと高い音を立てた。
店内は広く、武器や防具の類がずらりと並んでいる。
最奥にあるカウンターのさらに奥の扉が開き、前垂れを付けた筋
肉ダルマが現れた。
146
﹁ようこそいらっしゃいました︱︱おや、キロさん?﹂
﹁⋮⋮カルロさん?﹂
現れた筋肉ダルマは、キロ達にとって初めての依頼人、行商人の
カルロだった。
グリンブルに追い掛け回され、仕方なく森に金属製の籠手を置い
て逃げたものの場所が分からなくなって依頼を出した男である。
カルロはキロを見て嬉しそうに口元を緩めた。
﹁お久しぶりです、というほど時間は経ってませんがいやはや、こ
んなところで再会するとは予想外、嬉しい事です。本日はクローナ
さんの姿が見えないようですが⋮⋮言葉が通じないのでしたね﹂
いまさら思い出したのか、カルロは残念そうに俯いた。
キロは苦笑して、カルロに腕輪を貸す。
﹁これで、言葉が通じるはずですよ﹂
﹁⋮⋮おぉ、翻訳の腕輪! なるほど、必需品ですね。それで、今
日はどのようなご用向きで︱︱武器に決まってますね。以前会った
ときは槍を使っていたはずですが、お変わりなく?﹂
捲し立てられて、キロは苦笑を深めつつ頷いた。
前回、依頼を受けた時にも感じたが、カルロは話好きらしい。
折れた骨の槍を見せると、カルロは断面を観察して唸った。
﹁動作魔力で放った一撃に強度が足りず、折れましたね﹂
﹁分かるんですか?﹂
﹁行商人をやる前に冒険者稼業をしてまして、鉄のメイスを何本か
折りましてね。折れないようにメイスを特注する内に興味が出て、
武器屋に転職したんですよ﹂
147
︱︱鉄のメイスを折るってどんな馬鹿力だよ。
動作魔力の補助があるとしても、骨の槍を折るだけで筋肉を痛め
るキロとは体のつくりが違うとしか思えない。
正直にキロが言うと、カルロは腹を抱えて笑った。
﹁動作魔力を使った攻撃なんてものは、膨大な量の反復練習の末に
ようやく使えるようになるもんでしょう。動きを体に教え込めば、
動作魔力を使った素早い動きにも反射的についていけますよ。キロ
さんだって、今はそうでしょう?﹂
﹁⋮⋮いえ、動作魔力を使い始めたのは昨日からなので﹂
キロが答えると、カルロは固まった。
笑いを引っ込めると、再度槍の柄をつぶさに検分し、眉を寄せる。
﹁⋮⋮昨日から動作魔力を使い始めたというのは本当ですかね?﹂
疑うような視線を向けてくるカルロを不思議に思いつつ、キロは
頷く。
カルロは腕を組み、探るような目をキロに向けた。
﹁安物とはいえ、それなりに強度がある槍ですよ。戦闘中にこれを
折るくらい動作魔力を込める時間をどうやって稼いだんです?﹂
﹁稼いだりはしてないです。倒木を投げてきたのでさっと練って、
纏わせただけで﹂
キロの口調から嘘ではない事を感じ取ったのか、カルロは喉を唸
らせる。
﹁魔力の扱いが飛び切り上手なのか、それとも思考が早いのか。い
148
ずれにせよ、器用なもんです﹂
﹁考えてばかりで動きに反映されるまでが遅いと言われますけど﹂
キロが教官や元冒険者達にさんざん言われた言葉を継げると、カ
ルロは鼻で笑った。
﹁そんなもの、予め相手の動きや自分の動きを全部考えておけばよ
いでしょう﹂
無茶な事を言う、と思ったが、キロは指摘しなかった。
︱︱正論ではあるんだよな⋮⋮。普通は経験で補うんだろうけど。
キロは武器屋の中を見回して、槍が置かれた一角を指差す。
﹁適当に見てもいいですか?﹂
﹁半端な物ではまた折ってしまいますよ。予算は?﹂
カウンターから出てきたカルロは槍が置かれた一角に爪先を向け
て訊く。
キロが銀貨を数枚見せると、渋い顔をした。
﹁新人にしては奮発しているとは思いますけれども、動作魔力を使
うとなると⋮⋮﹂
言葉を濁し、カルロは槍を眺めて唸る。
安物で丈夫な槍は重量のある鉄などの金属製ばかりらしい。
少し値が張りますが、と前置きして、カルロが一本の槍を奥の棚
から取り出した。
象牙色の柄は少し長い気もしたが、持ってみるとやはり、ズッシ
リとした重みがあった。両端に着いた刃はどちらも折れてしまった
槍と代わらない形状である。
149
﹁グリンブルの牙を削り出した柄で拵えてあります。腕力だけで支
えるには少し重いですが、動作魔力を通すと強度が増す特徴があり
ましてね﹂
キロはグリンブルとの戦いを思い出し、納得する。
カルロに断って、物は試しと動作魔力を通してみる。
強度が上がるだけらしく、見た目の変化はない。
﹁鉄よりは軽いはずです。動作魔力を通せば強度は鉄にやや劣る程
度ですね﹂
値段を尋ねると、予算内にはギリギリ収まるようだ。
キロは槍を構えてみるが、下端が床にぶつかりそうになり、構え
を崩す。
﹁キロさんは小柄ですから、柄を詰める事も出来ますが、どうしま
すか?﹂
﹁明日の朝には街を出るので、それまでに仕上がるなら頼みたいで
す﹂
カルロは首を振った。
﹁流石に時間が短すぎます。拠点の町に帰った際、近所の武器屋に
頼んでみてください。快く引き受けてくれるはずですよ﹂
キロは少し考えて、購入を決める。
他の槍は高いか、重いか、あるいはどちらもか、の欠点があるた
め、悩むだけ無駄だ。
キロが購入の意思を伝えると、カルロは気前よく端数をおまけし
150
てくれる。
﹁ありがとうございます。助かります﹂
﹁柄詰めの分をおまけしているだけですから、御気になさらず。駆
け出しの冒険者は何かと物入りですから。自分にも経験があるので
ね﹂
カルロは昔を懐かしむような口調で言った。
代金を払いがてら、キロはもう一つの目的を達成しておこうと、
カルロに声をかける。
﹁冒険者時代に面白い魔法を見た事ってありますか?﹂
﹁面白い魔法、ですか?﹂
銀貨の枚数を数えながら、カルロは思い出すような素振りをした。
カルロの答えを待たず、キロは畳みかける。
﹁特殊魔力を使った魔法でもいいんですけど、例えば瞬間移動とか、
異世界に行ったりとか﹂
カルロは数え終えた銀貨を纏めて金庫に放り込みながら、短く笑
う。
﹁瞬間移動ですか。そんな特殊魔力があったら行商も楽でしょうけ
どね。あぁ、でも色々と目を付けられてしまうかな﹂
﹁⋮⋮それもそうですね。汎用魔力で再現できれば、戦術の幅が広
がりそうだと思ったんですけど﹂
︱︱空振りかな。
カルロの反応から、異世界に帰る方法は知らないらしいとみてキ
151
ロは話を切り上げようとしたが、先にカルロが言葉を続けた。
﹁ただ、面白い魔法というのなら遺物潜りって難解な魔法があると
は聞いた事がありますよ。失敗作だとは聞きますがね﹂
金庫を閉じ、カルロは新品の槍をキロに差し出してくる。
ついでとばかりに続けられた言葉は、キロには到底無視できない
モノだった。
﹁︱︱遺物潜りなら、異世界にも行けるんじゃないかと思いますよ﹂
152
第十四話 情報収集
キロは新品の槍とお釣りを持ってカルロの店を出た。
大通りから外れている事もあり、人通りはない。
キロは手元の地図の裏を見つめる。この世界の数字とアラビア数
字の対応表の横に、カッカラという街の名前を記してある。
遺物潜りと呼ばれる魔法について、カルロは詳しく知らなかった。
引退した冒険者が開発した難解な魔法で、遺品を媒介として発動
する高度な魔法だという。
キロにとって重要なのは、遺物潜りは媒介となる遺品の持ち主が
死亡した直後の世界への扉を開くための魔法である、という点だ。
この世界には少数ながら、異世界から来た人間についての文献が
ある。
人間がやって来る以上、物だけが単体でやってくる事例もあるは
ずだ。
キロはポケットに入れた携帯の感触を確かめた。
キロが住んでいた世界からやってきた遺品があれば、帰る事が出
来るのかもしれない。
︱︱カッカラに行ってその魔法使いに直接話を聞いてからでない
と何とも言えないけど。
残念な事に、カルロは遺物潜りを開発した元冒険者について詳し
い事を知らなかった。
名前さえ、分からないという。
︱︱冒険者について聞くなら、ギルドが一番だよな。
とにかく、帰還方法の手掛かりは見つけたのだから、とキロは前
向きに考えてギルドに向かった。
ギルド内は若手の冒険者で大賑わいだった。昨夜、木賃宿で見か
けた顔も多い。
153
受付の女性はキロと目が合うと受付の横にある椅子を指差した。
キロは素直に椅子に座り、ギルド内を見回す。
依頼を受けようとしている冒険者が受付前に列をなしていた。
ひっきりなしにやってくる冒険者の対応に追われるギルドの職員
も皆忙しそうに働いている。
︱︱早く来すぎたか。
丁度、依頼の受注が集中する時間だったらしい。
飲み物等のサービスもないため、ギルド内でただ一人暇を持て余
したキロは冒険者を眺めて時間を潰すしかない。
ぼんやり眺めていただけだったが、すぐに冒険者達の共通項に気
付いた。
全体的に若く、金のかかっていない装備の者ばかりなのだ。
先ほどまで武器屋にいた事もあり、冒険者達が身に着けている装
備の質の悪さがよく分かる。
キロも人の事をとやかく言える立場ではないが、駆けだしで資金
不足なのだろう。
しかし、駆け出しばかりが何故この時間に集中しているのかが気
になった。
見たところ、キロに動作魔力の使い方を教えてくれた阿吽達のよ
うな玄人に分類される冒険者は見当たらない。
受注待ちの冒険者の列がだいぶ短くなった頃、疲れた顔で受付の
女性がキロの座る椅子へ歩いてきた。
﹁お疲れ様です﹂
キロが腕輪を渡しがてら労うと、受付の女性は曖昧な顔で笑った。
﹁お待たせしました﹂
﹁いつもこんなに混むんですか?﹂
154
キロが訊ねると、受付の女性は向かいの椅子に腰を下ろしながら
首を振った。
﹁銀色のグリンブルは強力ですから、鉢合わせたら命はない、と警
戒して活動を控えていた駆け出しの冒険者が一斉に依頼を受けにき
たんですよ﹂
キロとクローナが銀色のグリンブルを討伐した事で、安心した冒
険者達が活動を再開した。
腕に覚えのある冒険者は、この状況を予想して早めに依頼の受注
を済ませたのだろう。
キロがなるほど、と頷くと、受付の女性は紙を机に広げてペンを
持った。
﹁それでは、昨日もお聞きしましたが、まずはグリンブルの大きさ
や色から報告をお願いします﹂
受付の女性に聞かれるまま、キロはグリンブルについて話す。
ゴブリンがシキリアを使って興奮状態にしていた事を話すと、受
付の女性は感心したような声を出す。
﹁シキリア、ですか。グリンブルにも効果があるとは知りませんで
した﹂
﹁羊飼いをしていたクローナも驚いていましたよ﹂
グリンブルは本来、逃げる相手を追うほど獰猛な魔物ではない。
羊飼いがグリンブルと出くわした場合、直ちに羊と共に逃げるの
が通常の対応である。
興味深そうに受付の女性は紙にシキリアとグリンブルの関係を記
載する。
155
グリンブルに関する情報を話し終えたキロは、次は自分の番だと
ばかり、話を振る。
﹁遺物潜りという魔法を知りませんか?﹂
キロが質問すると、受付の女性は首を振った。
﹁聞いた事がありませんね。誰の特殊魔法ですか?﹂
﹁特殊魔法かどうかはわかりません。カッカラという街の魔法使い
が開発したそうなんです。元冒険者だと聞いたので、ギルドなら何
かわかるかと思ったんですが﹂
﹁カッカラに住む魔法使いとなると⋮⋮シールズさんしか知りませ
んね﹂
﹁そのシールズってどんな人ですか?﹂
受付の女性が口にした名前に興味を惹かれて、キロは訊ねる。
引退していない現役の冒険者だと前置きして、受付の女性は答え
てくれた。
﹁どんな依頼も一人でこなす凄腕の魔法使いです。個人で活動する
魔法使いは珍しいですが、一匹狼ではなくむしろ親しみやすい性格
だとも聞いています﹂
︱︱同じ街に住む魔法使いなら横のつながりがあるかもしれない
な。
キロはシールズの名前を地図の裏にメモした。
キロの手元を見て、受付の女性がアラビア数字に首を傾げる。
受付の女性は頬に片手を当て、思い出したように口にした。
﹁そういえば、冒険者を寄越してほしい、とカッカラが付近の街に
156
要請してましたね﹂
キロが視線で問うと、受付の女性は理由を教えてくれた。
﹁最近、カッカラの街で連続失踪事件が起きていまして、街の騎士
団も捜査にあたっていますが、手がかりが掴めていないそうですよ﹂
八方塞がりの状況で、せめて次の失踪者を出さないよう、街を巡
回警備する人手を欲しているらしい。
クローナに相談した方が良さそうだ、とキロは失踪事件について
もメモする。
﹁単なる誘拐ではないんですか?﹂
誘拐事件、ではなく失踪事件と受付嬢が表現している事に気付き、
キロは訊ねる。
﹁失踪者に共通する特徴がないので、まだ何とも。奴隷市場に流さ
れているのではないかとも噂されましたが、未だに発見されていま
せん﹂
初期に失踪した者が、奴隷市場へ流す目的で誘拐されていたとす
れば、維持費の問題でとうに売り出されていなければならない、と
受付の女性は説明する。
足が付く事を恐れて遠方に運ぶならば、なおさらだろう。
何ともきな臭い話である。
︱︱虎穴に入らずんば虎児を得ずってことわざもあるけど、君子
危うきに近寄らずともいうんだよな。
失踪事件が解決するまで待ってから、カッカラの街に向かう事も
視野に入れる。
157
いずれにせよ、クローナに相談してから決める事になるだろう。
早く元の世界に帰りたいのはやまやまだが、クローナをむやみに
危険に巻き込む気はない。
﹁そういえば、クローナはまだ帰らないのか﹂
キロはギルドを見回す。
冒険者達は依頼を受けて出払っているため、ギルド内は朝の賑や
かさが嘘のように静まり返っている。
緊急時の戦力確保のために残っている冒険者がいてもいいはずだ
が、駆け出し風の男が三人ほどしか見当たらない。
不思議に思って受付の女性に訪ねれば、人差し指を向けられた。
そういえば自分も冒険者だったと思いだし、キロは頭を掻く。
冒険者としての自覚が希薄なキロに受付の女性はため息を吐いた。
﹁冒険者といっても、全員が毎日依頼を受けるわけではありません。
キロさんのように準備があったり、護衛の人員交換のために待機し
ている冒険者もいます。今日はグリンブルの一件で金欠になった駆
け出しの冒険者がみんな出払っている珍しい状況なだけですよ﹂
受付の女性は補足して、グリンブルに関する資料を持って立ち上
がった。
何も置かれていない机を見て、受付の女性は口を開く。
﹁そろそろ昼食の時間ですから、何か食べて来られてはいかがです
か? クローナさんが帰ってきたら私から話しておきますよ﹂
﹁無駄使いするな、と言い含められているので、帰りを待つことに
します。下半身に風穴開けられたくないので﹂
銀色のグリンブルの最後を思い出しつつ、キロは軽口を叩く。
158
受付の女性はクスクスと小さく笑った。
﹁資金不足は死活問題ですから、財布の紐は固く締めておくに越し
た事はないわ。しっかり者の彼女に感謝なさい﹂
軽口を返した受付の女性がキロに背を向けた時、ギルドの扉がけ
たたましい音を立てて開いた。
何事かと視線を向けると、息を切らして肩で息をする若い冒険者
の姿があった。
﹁ゼンドルさん?﹂
クローナの護衛依頼を受けたゼンドルがここにいるのなら、クロ
ーナが帰ってきたのだろうかと、キロはゼンドルの後ろに視線を移
すが、期待した姿は見当たらない。
尋常ではないゼンドルの様子も相まって、キロは嫌な予感を覚え、
腰を浮かせた。
ゼンドルはキロに気付いた様子もなく、ギルドの出入り口を体で
塞いだまま声を張り上げる。
﹁︱︱パーンヤンクシュが森に出た! 緊急討伐依頼を出してくれ
ッ!﹂
ゼンドルの怒鳴り声がギルド中に響き、一拍置いて居合わせた駆
け出し冒険者が顔を青ざめさせた。
受付の女性が険しい顔でキロを一瞬だけ振り返り、ゼンドルに視
線を戻す。
﹁ゼンドルさん、詳しい話を聞くので受付に来てください﹂
﹁悠長に話してる場合じゃねえんだ、仲間が︱︱﹂
159
反射的に抗議しようとしたゼンドルは、キロを見つけて口を閉ざ
した。
しかし、キロはゼンドルが言いかけた言葉に眉を寄せる。
﹁仲間が、なんだ?﹂
キロは鋭い目つきをゼンドルに向け、問いかける。
ゼンドルは一つ大きく息を吸い込み、努めて冷静な声を出す。
﹁ティーダが負傷した。クローナさんが応急処置をしてくれている。
俺は応援を呼びに別行動中だ﹂
ゼンドルは要点だけを手短に報告すると、受付に顔を向けた。
﹁さっきも言った通り、相手はパーンヤンクシュだ。あの銀色のグ
リンブルが縄張りを移したのも、恐らくはあいつのせいだ。魔法使
いを集めてくれ!﹂
総じて苦い顔をしたギルドの職員を見て、ゼンドルは怪訝な顔を
した。
受付の女性が苦い顔のまま、職員全員を代表して説明する。
﹁⋮⋮魔法使いどころか、腕の立つ冒険者は朝一で依頼を受けて出
払ってるのよ﹂
﹁おい、嘘だろ⋮⋮?﹂
ゼンドルは駆け出しばかりのギルド内を見回し、絶句する。
しかし、次の瞬間には見切りをつけて背を向けた。
160
﹁︱︱どこに行くつもり⁉﹂
受付の女性が引き留めようと声を掛ける。
﹁⋮⋮ッ、決まってんだろ︱︱﹂
ゼンドルが舌打ちして、肩越しに振り返った。
刹那、ゼンドルのすぐ横を風の様にキロが抜き去った。
一瞬呆気にとられたゼンドルが、慌てて後を追いかける。
遅れてギルドを出た受付の女性が声を張り上げる。
﹁止まりなさい、ゼンドル!﹂
声すら置いてきぼりにしようかという速度で遠ざかるゼンドル。
そして、ゼンドルのさらに前を走る青年を引き留めようと、受付
の女性は大声で名前を叫んだ。
﹁︱︱待ちなさい、キロ!﹂
161
第十五話 パーンヤンクシュ
﹁真っ先に飛び出してくるとは正直、意外だったよ﹂
キロに追いついたゼンドルが、言葉とは裏腹に軽い口調で言った。
冒険者である事を示すカードを防壁の門番に提示しつつ、門をく
ぐりぬける。
キロはゼンドルを横目に見た。
クローナ達との合流地点に案内するためだろう、ゼンドルは進行
方向を指差した後、再び口を開く。
﹁冒険者が仲間の護衛を依頼するんだぜ? 腕に自信がないと思う
だろ、普通。しかも、ひょろっちいし﹂
体格についての聞き飽きた評価に、キロは顔をしかめる。
腕に自信がないのは事実だ。
きっと、危機に陥っているのがクローナではなくティーダだけだ
ったなら、キロは動こうとしなかっただろう。
しかし、クローナを助けに行くために自然とキロの足は動いてい
た。
﹁⋮⋮もし、助けに行かなかったら、俺は負い目を感じて今後クロ
ーナに気を使わずにはいられなかった。でも、俺は考えるより先に
動けた。もう、本当の意味で気を使わずにクローナとやっていける
と思う﹂
キロは前を見据えながら、打ち明けた。
ゼンドルはキロを見て、にやりと笑う。
162
﹁お前の彼女な︱︱﹂
﹁彼女ではない﹂
﹁彼女にしちまえ﹂
間髪入れずに否定した瞬間に言い返され、キロは言葉に詰まる。
その隙に、ゼンドルは言葉を続けた。
﹁俺がギルドに応援を呼び行こうとしたら、クローナちゃんがすぐ
に言ったよ。キロさんが来るまでの辛抱ですね、とさ﹂
ゼンドルは茶化すように言って、真剣な顔に戻した。
目の前には森が迫ってきている。
ここから先はいつ戦闘が始まってもおかしくない、と気を引き締
めたのだろう。
キロも周囲を警戒しながら、走る。
ゼンドルは並走しながら、キロを見て眉を潜めた。
﹁パーンヤンクシュがどんな魔物か知らないのか?﹂
﹁クローナから名前を聞いた事があるだけだ﹂
クローナの村を群れで襲ったという魔物である。キロはそれ以上
の情報を持っていなかった。
やっぱりな、とゼンドルは呟き、頭上を指差した。
﹁パーンヤンクシュは蛇型の魔物だ。大概は樹を伝って移動する。
だから、視線は少し上に向けろ﹂
キロに警戒の仕方を教えて、ゼンドルは正面を指差す。
指差すはるか先には目立つ大木があった。
163
﹁あのアカガリの古木が合流地点だ。着く前にパーンヤンクシュの
事を少し教えておく。厄介な魔物だからな﹂
地面から飛び出した木の根を飛び越え、キロはゼンドルに頷いた。
無理に討伐する必要がないとしても、襲ってくるかもしれない相
手の情報は知っておくに越した事はない。
﹁パーンヤンクシュは町や村の周辺で存在が確認されると即日、ギ
ルドによる討伐依頼が出される魔物だ。夜行性で樹上生活するから
痕跡が見つかりにくいのが難点でな。存在が知られた頃には冒険者
が二、三人食われていたなんて事もざらにある﹂
嫌な話だ、とキロは舌打ちした。
グリンブルが縄張りを移すという予兆は見えていたのだから、ギ
ルドがもっと詳細な調査をしていれば事前に発見できていたかもし
れない。
ゼンドルも同じ気持ちらしく、苦い顔をしていた。
ゼンドルから出現情報がもたらされた事で、今頃はギルドも討伐
依頼を出しているのだろう。
キロはギルドでの一件を思い出して、ゼンドルに視線を向ける。
﹁魔法使いを集めろ、とか言ってたけど、なんでだ?﹂
﹁パーンヤンクシュは近接殺しの異名を持ってるんだよ。近接戦闘
ばかりのゴブリンが恐慌状態に陥るくらい、前衛には対処が難しい
魔物だ﹂
︱︱物騒な異名だな。
キロは口元が引きつるのを感じた。
体格と比較すると長めの槍が、少々心強く感じる。
164
ゼンドルの武器は何かと疑問が浮かび、ちらりと確認すれば、腕
の長さ程のサーベルを腰に下げていた。
間違いなく、近接武器である。
ゼンドルと視線がぶつかって、どちらからともなく口の端をひき
つらせて笑った。
﹁パーンヤンクシュが近接殺しと呼ばれるのは、グリンブルを超え
る、鱗に覆われた硬い身体も理由の一つだが、厄介な能力を持って
いるからでもある﹂
﹁能力?﹂
﹁尾の先端に角笛に似た器官を持っていてな。これを振動させて出
した音は平衡感覚を狂わせる。連続して聞いているときつい船酔い
みたいな状態なるんだ。だから、パーンヤンクシュを討伐する時に
は三人以上の魔法使いを集めて、遠距離から高威力の魔法を叩き込
む﹂
高威力の魔法と聞いてキロが思い浮かべるのは、銀色のグリンブ
ルを仕留めたクローナの魔法だ。
キロも魔力が全快ならば同じ魔法を数発は放てるだろう。
﹁ティーダは魔法を使えるのか?﹂
キロが戦力を確認するために質問すると、ゼンドルは首を振った。
﹁俺もティーダも、魔法はド下手なんだ。動作魔力だけ必死に練習
してようやく身に付けたんだよ﹂
そもそも、通常の魔法と動作魔力による近接攻撃の強化を両方と
も実戦レベルで使用できる冒険者は少ない、とゼンドルが断言する。
少ない冒険者に分類されるキロは、阿吽の冒険者に言われた器用、
165
という言葉の意味をいまさら理解した。
︱︱それでも魔法使い二人か。ティーダは負傷しているはずだか
ら、戦力は不足してるな。
キロは頭の中でパーンヤンクシュについての情報を整理する。
﹁パーンヤンクシュは夜行性だよな。今頃は寝床に帰ってるって可
能性は?﹂
太陽が昇って随分と時間が経つ。
明るい空を指差してキロが意見を聞くと、ゼンドルは難しい顔を
した。
﹁獲物を追いかける習性があるんだ。どういうわけか、見失う事無
く追いかけてくる﹂
︱︱グリンブルの例もあるし、パーンヤンクシュも蛇と同等の能
力を持ってるとすると赤外線か何かで追跡しているのか。
聞きかじりの知識しかないキロが考察している内に、合流地点が
間近に迫っていた。
ゼンドルが進む先にある古木を見て、怪訝な顔をした。
﹁木の洞が塞がれてる⋮⋮?﹂
大人三人でも囲みきれそうにない太さの古木、その根元には土の
壁で塞がれた洞があった。
ゼンドルが舌打ちして足を止め、すぐに頭上を見回した。
クローナ達が木の洞に隠れ、中から魔法で生み出した土の壁で蓋
をしたと仮定すれば、そうせざるを得なかった理由が近くに潜んで
いる可能性が高い。
ゼンドルに倣い、キロも樹上を観察する。
166
その時、視界の端にあった樹が︱︱動いた。
キロは反射的に視線を向ける。
﹁見つけた!﹂
︱︱けど、こいつはもう蛇って大きさじゃないだろ⋮⋮。
見つけた魔物、パーンヤンクシュの大きさにキロは心の中で愚痴
をこぼす。
人間が一人、体の中に納まっていても不思議ではない太さの茶色
い蛇。樹に擬態するためか、無数の鱗に覆われた表皮は樹皮のよう
に見える。
体長は八メートルほど、瞬きを必要としない藍色の瞳は無感動に
キロ達を見つめている。
幹から幹へ体を巻きつけるように移動するパーンヤンクシュは、
チロチロと二股に分かれた舌を出しては古木を窺っていた。
キロとゼンドルに気付いてなお、どちらが仕留めやすいか思案し
ているようだった。
キロはパーンヤンクシュから視線を外さないよう注意して、古木
を横目に見る。
洞を塞いでいる土壁に変化はない。
︱︱俺達が来たことに気付いてないのか
平衡感覚を狂わせるというパーンヤンクシュの音を警戒して、外
の音が聞こえないよう厳重にふさいだのだろう。
外の音が聞こえないために、クローナはキロの到着にも気付いて
いないのだ。
キロは槍を構え、魔力を練りつつ、ゼンドルに声をかける。
﹁クローナに俺達が来た事を知らせてくれ。俺はパーンヤンクシュ
の気を引く﹂
167
サーベルを抜いて構えようとしていたゼンドルがキロの言葉に頭
を振る。
﹁言っただろ、あいつは近接殺し︱︱﹂
ゼンドルの言葉を遮るように、パーンヤンクシュから鐘を鳴らす
ような甲高い音が響いた。
足元がぐらつく様な感覚に襲われ、ゼンドルが耳を塞ぐ、膝をつ
く。
﹁いきなりかよッ!﹂
ゼンドルが忌々しげに悪態を飛ばす。
しかし、パーンヤンクシュはすぐに音を止め、頭を樹の幹の裏に
隠した。
次の瞬間、パーンヤンクシュの頭があった空間を高速で飛ぶ石つ
ぶてが切り裂いた。
﹁避けたか。やっぱり正面から当てるのは難しそうだな﹂
﹁⋮⋮今の、キロが撃ったのか?﹂
呆気にとられているゼンドルを振り返り、キロは古木を指差す。
﹁早くクローナを呼んでくれ。そう何発も撃てないんだ﹂
キロの槍とパーンヤンクシュへ向けた手とを交互に見ていたゼン
ドルは乾いた笑い声を上げて古木に爪先を向けた。
﹁あぁもう、頼もしいな、馬鹿野郎﹂
168
投げやりな言葉を残して、ゼンドルは古木に向かう。
背中を向けたゼンドルを狙って、樹の裏から頭を出したパーンヤ
ンクシュだったが、キロが石つぶてを生み出した事に気付き、諦め
たようにキロへ顔を向けた。
キロを仕留めない限り食事にありつけないと悟ったのだろう。
にらみ合いは長くは続かなかった。
パーンヤンクシュは樹に巻き付けた胴体の末端部分に体を惹きつ
け、S字の攻撃姿勢を作る。
飛び掛かってくると考えていたキロは、パーンヤンクシュの尻尾
が樹の裏に隠れている事に気が付き、横にステップを踏んだ。
パーンヤンクシュの顔がキロの動きに合わせて動いたかと思うと、
甲高い音が響いた。
︱︱やっぱり平衡感覚を狂わせてから襲うやり方か!
立ち位置を変えた事で、パーンヤンクシュの尾の先端に付いた角
笛型の器官が振動しているのが見える。
音によって視界が傾く中、キロは石つぶてを放ち、パーンヤンク
シュの音を中断させた。
しかし、パーンヤンクシュは頭を下げて石つぶてを避けると、身
体のばねを利用して飛び掛かってくる。
﹁来ると思ったよ!﹂
キロは槍を逆袈裟に切り上げる。腕の動きを意識しながら動作魔
力を込め、槍を回す速度を上げる。
キロを飲み込むために開いていたパーンヤンクシュの口を下から
叩き上げ、強制的に閉じさせた。
丸見えになった喉へキロは渾身の突きを放つが、パーンヤンクシ
ュは身体を引き戻して避ける。
その俊敏な動きから見ても、槍の切り上げによるダメージはなさ
そうだった。
169
キロが腕の筋肉を労わって動作魔力を十分に込められていなかっ
たのだろう。
しかし、無理な動きをして戦闘中に腕や足を痛めれば、パーンヤ
ンクシュの格好の餌食だ。
一人で無理はできない、そう思った時だった。
ヒュン、と風を裂く音がした。
パーンヤンクシュはキロにばかり注意を払っていたのだろう、横
合いから飛んできた鋭い石つぶてへの反応が半瞬遅れていた。
鱗が数枚はじけ飛び、宙を舞う。
パーンヤンクシュを掠めた石つぶては進路上にあった樹を抉った
後、現象魔力切れで消滅した。
石つぶてが飛んできた方へ視線を向ければ、クローナが古木を背
に片手をパーンヤンクシュへ突き出していた。
﹁冬眠から覚めたばかりだと思いますけど、永眠してください﹂
クローナが啖呵を切り、くすりと笑う。
先ほどまで木の洞に引きこもっていたにしては、ずいぶんと威勢
のいい啖呵だ。
キロは苦笑して、パーンヤンクシュに視線を戻した。
﹁︱︱手荒な子守歌になりそうだ﹂
170
第十六話 対パーンヤンクシュ戦
クローナがキロを援護できる位置へ静かに移動しながら、声をか
ける。
﹁ティーダさんは動けないので樹の洞の中、ゼンドルさんは護衛に
付いています﹂
﹁重症なのか?﹂
﹁足に大きな裂傷を負ってます。止血はしてありますけど、あまり
動かしたい状態ではありません﹂
パーンヤンクシュが身じろぎして、キロとクローナは口を閉ざす。
︱︱ここで逃げるとティーダがこいつの餌になるのか。
槍の穂先を絶えずパーンヤンクシュの頭に向け、キロは逃走を諦
める。
自身の魔力量を勘案し、キロは作戦を考え始めた。
パーンヤンクシュは樹に身体を半分だけ巻き付け、頭を含む残り
を地面と水平に保っている。
おそらくは動作魔力を上部方向へ働かせる事で姿勢を維持してい
るのだろう。飛び掛かってくる際にも、身体は地面と水平に動いて
いた。
﹁クローナ、奴に水を掛けて体温を奪ってくれ﹂
︱︱蛇の特徴を維持しているなら、変温動物だろ。
水を掛けて体温を下げ、動きを鈍らせれば攻撃を当てやすくなる。
クローナも理解したらしく、魔法で生み出した水をパーンヤンク
シュに放射する。
171
微動だにせず水の直撃を受けたパーンヤンクシュの側に、二つの
火球が浮かんだ。
﹁⋮⋮魔法で自分の体温を上げられるのか﹂
﹁なんか、ずるいですね﹂
何食わぬ顔で体温を自己回復したパーンヤンクシュに、クローナ
は辟易した顔をするが、キロは少し感心してしまった。
︱︱しかし、あれは諸刃の剣じゃないのか?
一部の蛇には赤外線を見る能力がある事を思い出し、パーンヤン
クシュの顔を観察する。
目の下から鼻先にかけて、縦に細長い穴が左右四つずつ開いてい
た。
﹁なんて器官だったかな。パット?﹂
﹁パッド⋮⋮?﹂
呟き声に視線を向けると、自らの胸に手を当てるクローナと目が
あった。
﹁嵩増しはしてません! 楽しませるくらいにはあるつもりなので
ッ!﹂
﹁⋮⋮聞いてないから﹂
︱︱赤い顔するくらいなら言うなよ。
この状況でもなお、エロトークに免疫を作る事を諦めていないら
しい。
パッドごときで恥ずかしがっているようではまだまだ先は長そう
だ、とキロは俯いて盛大なため息を吐く。
再び顔を上げたキロはパーンヤンクシュを睨み、頭の位置を確認
172
してまっすぐ駆けだした。
パーンヤンクシュが反応し、キロに合わせて顔を動かす。
動きに釣られているパーンヤンクシュの頭と自身の体の間に、キ
ロは水の壁を横に広く生み出した。
衝立のような水の薄膜をキロが広げた途端、パーンヤンクシュの
顔の動きがキロの動きに追いつかなくなる。
赤外線が水の薄膜に吸収されたため、キロを見失ったのだ。
キロからは透明な水を通してパーンヤンクシュの動きを把握でき
る。
﹁︱︱クローナ、やるぞ!﹂
クローナとの射線が十字になる位置に陣取ったキロは声をかける。
クローナが一つ頷き、キロが動くと同時に準備していた石弾をパ
ーンヤンクシュの胴体に向けて打ち出した。
パーンヤンクシュが石弾を避けようと、胴体を引き寄せて身を縮
める。
クローナの石弾はかすりもせずにパーンヤンクシュの横を通り抜
けたが、小さくなった的に向けて、キロが追い打ちの石弾を放った。
限界まで小さくなっていたパーンヤンクシュに避ける術はない。
しかし、鋭い風切り音を伴ってパーンヤンクシュの胴を穿たんと
した石弾は突如出現した石の壁に阻まれ、砕け散った。
﹁火球以外の魔法も使えるのか⁉﹂
キロが驚いた瞬間、石の壁が消失する。
その向こうには身体をS字に曲げる、蛇独特の攻撃姿勢を取った
パーンヤンクシュがクローナに狙いを定めていた。
﹁⋮⋮ッ!﹂
173
狙われていると知ったクローナが土の壁を正面に展開する。
しかし、これは悪手だった。
パーンヤンクシュは土の壁など歯牙にもかけない攻撃方法を展開
する。
クローナが生み出した土壁の横へ飛び掛かり、地面に落ちる前に
横方向へ動作魔力を使用したのだ。
まるで鞭のように、パーンヤンクシュは自身の体を振り回し、土
壁を迂回してクローナに攻撃を仕掛ける。
クローナは慌てて杖を縦に構え、パーンヤンクシュの攻撃を受け
止めようとした。
攻撃がクローナに到達するかに思えたその時︱︱
﹁長い胴体ががら空きだ﹂
キロは動作魔力を使用して急接近し、横に伸びきったパーンヤン
クシュの下腹へと槍を掬い上げるように叩き込んだ。
石弾を打った直後のキロは、再攻撃前に魔力を練り直す時間が必
要だと油断していたのだろう。
〝器用〟なキロは一瞬で魔力を練り上げ、防御されていないパー
ンヤンクシュの胴体に一撃を加えたのだ。
不意打ちを受けたパーンヤンクシュの体が上下に波打つ。
胴体に打ち込まれた上方向の力は地面と水平に進んでいた末端で
ある頭まで伝わり、パーンヤンクシュは空を仰いだ。
直後、尻尾を巻きつけていた樹の幹がミシリと音を立て、パーン
ヤンクシュの体全体に力が入る。
全身の筋肉を使って身体を幹に引き寄せ、キロの追撃をかわすつ
もりだ。
キロは槍を叩き込んだパーンヤンクシュの腹を見て、顔をしかめ
る。
174
ほんの小さな切り傷しかできていなかったのだ。
︱︱もっと強い一撃を。
一瞬の思考、その起点となるのは武器屋でカルロから聞いた言葉
だった。
︱︱予め全部考えておけばいい。
槍を動かす。しかし、身体は極力動かさない。
キロは自分と槍の動きを脳裏に描き、描いた通りの動きを行い始
める。
先の一撃に込めた動作魔力の名残で素早く槍を反転させつつ、キ
ロはさらに動作魔力を上乗せする。
回転速度を上げるのと並行して、キロは槍を握る両手を中心へと
滑らせた。
中心を持つ事で、腕の回転運動を最小化し、手首の返しを動きに
組み込む事で動作魔力による速度上昇に対応する。
パーンヤンクシュの腹部に刃が当たった瞬間、キロはさらに動作
魔力を槍に込め、穂先を引く。
腕を痛める事無く放たれた一撃は、今までキロが放ったいかなる
攻撃をも凌駕する威力でパーンヤンクシュの胴体を切り裂いた。
だが、かわすために全身の筋肉を緊張させていたからだろう、パ
ーンヤンクシュは致命傷を免れていた。
キロは舌打ちして後ろへ飛び、パーンヤンクシュの胴体から距離
を取る。
直後、パーンヤンクシュが身体を幹へと引き寄せた。
パーンヤンクシュはキロの槍を警戒するように見つめた後、幹を
スルスルと登っていく。
﹁キロさんの槍が届かない高さまで逃げるつもりですね﹂
樹のてっぺんまで登り切ったパーンヤンクシュを見上げて、クロ
ーナが呟く。
175
パーンヤンクシュの重さに耐えている樹は、風が吹く度にゆらゆ
らと大きく揺れていた。
魔法で狙い撃とうにもパーンヤンクシュはキロ達を見下ろして攻
撃姿勢を取っている。
︱︱上から飛び掛かる気か。
キロは槍の持ち手を変える。
その時、腕に痛みが走らない事に気付いた。
パーンヤンクシュの体を切り裂くほど動作魔力を込めた攻撃を放
っても、筋肉を痛めなかった。
﹁そうか、槍は叩くんじゃなく切る物なんだよな⋮⋮﹂
﹁なに当たり前のことを言ってるんですか?﹂
クローナに素早く突っ込みを入れられて、キロは苦笑する。
訓練場で盗み見た槍の型では、どれも引き切る事をしていなかっ
たのだ。
身体が出来ている冒険者にとって、切り裂くより叩き込むという
単純な動きの方が性に合っているのだろう。
考えるばかりで動きに反映されるのが遅い、というキロに寄せら
れる評価も、裏を返せば考えるより先に動けという意味にとれる。
だからこそ、教官は叩き込んだ武器の反動に耐える筋力を持たな
いキロに教えようとしなかった。
動作魔力は習得が難しく、敵に武器を当てた後、さらに引く手間
を加えられる冒険者も少ないに違いない。
ゼンドルも必死に動作魔力だけを練習してようやく習得したと言
っていたのだから。
器用なキロや、一部の熟達した冒険者のみ動作魔力で複雑な動き
を行うのだろう。
︱︱そうと分かれば、動きの組み立てようもあるってもんだ。
キロは喉の奥でクックッと笑う。
176
槍の持ち手を調整し、訓練場で盗み見た型とは異なった構えを取
る。
槍を引く際に肩が大きく動かないように両手の距離を狭め、刃の
微細な動きが可能になるよう両手の握りを調整した。
キロは樹上に目を向け、狙いを定める。
﹁クローナ、牽制を頼む﹂
﹁どうするんですか?﹂
キロの構えを不思議そうに見ていたクローナの質問に、キロはに
やりと笑って答える。
﹁パーンヤンクシュを薙ぎ切る﹂
﹁薙ぎ切るって言われても⋮⋮﹂
クローナは反対しかけたが、パーンヤンクシュの腹部にできた切
り傷を見上げて考えを改めたようだ。
﹁どうやってパーンヤンクシュまで槍を届かせるんですか?﹂
﹁もちろん、登るんだよ。ちょっと前の依頼みたいにさ﹂
キロは魔力を練ると、樹の幹を支柱にして土壁を横向きに生み出
した。
それだけで、脱走した家畜を探した依頼を思い出したのだろう、
クローナが笑みを浮かべた。
﹁分かりました。︱︱やっちゃってください!﹂
クローナの掛け声と共に、キロは地面を蹴った。次の足を地面に
着くまでのわずかな浮遊時間に動作魔力を行使し、歩幅を長くする。
177
土壁を足場にして樹を駆け登る際には、一メートル近い高さに次
の段差を作っては、跳躍するような調子で軽々と駆け上る。
キロの接近を知ったパーンヤンクシュが尻尾で音を奏でようとす
るが、顔に向けて飛んできた石弾を察知して頭を逸らせた。
クローナが石弾を放って牽制したのだ。
パーンヤンクシュが尻尾を震わそうと動きを止めるたび、クロー
ナは石弾を放つ。
忌々しそうにパーンヤンクシュはクローナを見下ろすが、そのす
ぐ目の前にキロが飛び出した。
目前に獲物を捉えたパーンヤンクシュは反射的に口を開く。
しかし、キロはすでに土壁を蹴ってパーンヤンクシュの首元に回
り込んでいた。
首筋に狙いを定めたキロは、足元に生み出した土壁を左足で踏み
しめ、槍を頭上へ振りかぶる。
動作魔力を使って槍を高速で振り下ろし、パーンヤンクシュの首
に直撃すると同時、重心を置いた左足へ動作魔力を込めて身体ごと
後方へ滑らせた。
脚の筋肉を動かさず、キロはスケートでもするように後ろへ下が
り、右足を付いて動きを止める。
キロに引っ張られた槍がパーンヤンクシュの首を切り裂き、血を
噴き出させた。
首を半分近く切り裂かれたパーンヤンクシュの瞳からすぐに光が
消え、力を失った長大な身体から力が抜け、樹からずり落ちる。
﹁よし、成功︱︱﹂
喜びも束の間、キロは足元から土壁の感触が消えた事に驚愕し、
視線を下に向ける。
﹁あ、やばい﹂
178
間抜けな声を出したキロの足元には、生み出したはずの土壁がな
かった。
込めた現象魔力の量が足りず、短時間で消失したらしい。
しかも、キロはすでに魔力切れだった。
十メートル下にあった地面との距離が見る見るうちに短くなる。
迫ってくる地面を見ながら、キロが死を覚悟した時、
﹁⋮⋮まったく、なにやってるんですか﹂
下にいたクローナが魔法で生み出した大量の水でクッションを作
った。
ドボン、と派手な音を立ててキロは着水し、水の抵抗によって緩
やかに地面に降ろされる。
しかし、着水時に背中で受けた衝撃だけはどうにもならず、キロ
は地面の上で悶絶するのだった。
179
第十七話 一件落着
町に戻ったキロ達を出迎えたのは、完全武装した冒険者達だった。
無傷のキロとクローナ、ゼンドルに背負われている足を怪我した
ティーダの四人はすぐにギルドへ連れられ、事情聴取を受ける事に
なった。
キロ達がパーンヤンクシュを倒して帰ってきたとは考えていない
らしく、入れ替わりに討伐隊が出発しようとする。
ギスギスと緊迫した雰囲気から、口で言っても信じてくれないだ
ろうと思い、キロは持ってきたパーンヤンクシュの角笛状の器官を
掲げて見せる。
﹁え?﹂
キロが掲げたパーンヤンクシュの討伐証明部位を呆然と見上げて、
完全武装の冒険者達が揃って声を漏らす様はなかなか愉快だった。
﹁︱︱というわけで、倒してきました﹂
頭を抱える受付の女性を前にクローナが報告を締めくくると、重
々しいため息を吐かれた。
﹁魔法使い一人と槍使い一人の二人組でパーンヤンクシュを討伐す
るって、ベテランじゃあるまいし⋮⋮﹂
ベテランどころか、冒険者になってまだ一週間ほどしか経ってい
ない事は黙っておいた。
180
キロ達の証言通りの場所でパーンヤンクシュの死体が見つかった
事もあり、もはやキロ達の言葉を疑う者はいない。
﹁動作魔力を使えなかったら打つ手なしでしたよ﹂
﹁一撃ごとの身体の動きにまで動作魔力を使えるのがベテランの冒
険者と言われるくらい、習得が難しい物なんですけどね﹂
キロさんには当てはまらないようですが、と皮肉気に付け足した
後、受付の女性は調書をしまった。
﹁何はともあれ、ご無事で何よりです。しかし、今後は独断専行を
避けてください﹂
﹁そうですね。クローナが危険に巻き込まれる時は一緒に巻き込ま
れるようにします﹂
﹁そういう問題じゃないです⋮⋮⋮﹂
﹁︱︱キロさん、からかっちゃだめですよ﹂
横に座るクローナに肘で小突かれ、キロは肩を竦めた。
﹁本音を言ったんだ。心配して居ても立ってもいられなくなるより、
ずっとマシだから﹂
﹁あ、はい、ありがとうございます⋮⋮﹂
照れたクローナが赤い顔を俯かせ、消え入りそうな声で言う。
受付の女性がまた深々とため息を吐く。
﹁よくよく餌をぶら下げる人ですね。またからかってあげましょう
か?﹂
受付の女性が言葉の軽いジャブを放つと、クローナは昨夜の事を
181
思い出したのか耳まで赤くなった。
クローナの反応を楽しむでもなく、受付の女性は一度ギルドの奥
へ引っ込むと、革袋を持って帰ってきた。
﹁パーンヤンクシュの討伐報酬です﹂
﹁討伐報酬なんてもらえるんですか?﹂
グリンブルを倒した時にはなかったものだ。
受付の女性は何事か言いかけ、思い直したように首を振った。
﹁本当に冒険者になって日が浅いんですね。パーンヤンクシュは出
現と同時に即討伐対象になります。グリンブルは基本的に襲ってこ
ない魔物なので、ギルドから討伐依頼を出す事はまずありません﹂
説明しつつ、受付の女性は革袋から取り出した銀貨を机に六十枚
並べた。
多いのか少ないのか、キロにはいまいち掴み兼ねる。
隣を見れば、クローナが感動したような目で銀貨を見つめていた。
銀貨の輝きが特効薬となり、羞恥心から立ち直ったらしい。現金
なものだ。
受付の女性がクローナの様子に苦笑しながら、口を開く。
﹁パーンヤンクシュは本来、魔法使いを最低でも三人そろえて戦う
魔物です。討伐の基本報酬はこの人数に前衛を一人加えた頭数を前
提にしてあります﹂
︱︱つまり四人分の報酬、一人頭十五枚か。
素泊まり宿の値段が銅貨三枚、おおよそ銅貨十枚で銀貨一枚、と
キロは計算し結構な大金だと理解した。
だが、受付の女性は魔法使いを〝最低でも〟三人と言っていた。
182
実際はそれ以上の人数で臨む場合が多いのだろう。
それでも不満が出ない金額をクローナと二人でもらった事になる。
﹁⋮⋮キロさん、どうしましょう? お金持ちですよ?﹂
机に並んだ銀貨を震える指で示しながら、クローナが引きつった
笑顔を浮かべる。
﹁とりあえず、落ち着け﹂
キロはクローナの頭をポンポンと撫でて、大人しくさせる。
受付の女性は苦笑して、さらに革袋から銀貨十枚をとりだし、机
に並べた。
予期しない追加報酬を恐る恐る眺めたクローナが、キロの袖を引
っ張る。
﹁キロさん、どうしましょう、大金持ちで︱︱﹂
﹁だから、落ち着けと言ってるだろう﹂
クローナの言葉を遮り、キロは受付の女性に視線で問う。
追加報酬の出所は簡単だった。
﹁今回はパーンヤンクシュの鱗がほとんど完全な状態で手に入って
いますから、その買取報酬です。スケイルアーマーの素材になるん
ですよ。駆け出しに毛が生えたような冒険者の前衛が使いますね﹂
本来、魔法使い複数による高威力魔法で袋叩きにする討伐法を取
るため、パーンヤンクシュの鱗がまとまって取れる事はないという。
しかし、今回はキロが槍で切り殺しているため、大部分の鱗が無
事だったのだ。
183
魔法を当てなくてよかった、とクローナが胸を撫で下ろしている。
受付の女性曰く、ギルドにとっても、安い防具は死亡率の高い駆
け出し冒険者に需要があるため、嬉しい誤算だったという。
銀貨の枚数をもう一度数えなおして、クローナは革袋に銀貨を収
めた。
少しの間革袋の中身を見つめていたかと思うと、立ち上がりかけ
た受付の女性に声をかける。
﹁ティーダさんのいる治療院ってどこですか?﹂
ティーダを見舞いに治療院を訪れる頃には日が没していた。
ベッドに横になっていたティーダは、キロとクローナの姿を見て
上半身を起こす。
﹁見舞いに来てくれたんだ。律儀だね﹂
クスクスと笑いながら、ティーダはキロ達を交互に見る。
看病のためだろう、ベッド脇の椅子に座っていたゼンドルも笑顔
で迎えてくれた。
キロは見舞いがてら近くの酒場で包んでもらった惣菜を机に並べ
る。
ゼンドルが隣に来て、キロの手元を覗き込んだ。
﹁おぉ、助かる。さっきこれを買いに出たんだけど、食べ物は忘れ
ててさ﹂
ゼンドルは言いながら、翻訳の腕輪をキロの前で揺らした。キロ
のものと少しデザインが異なっている。
184
﹁この腕輪、かなり値が張るのな。お前ら駆け出しだろうに、よく
こんなもん二つも買ったもんだわ﹂
﹁教会から借りてるだけだよ。それより、ゼンドルこそなんで買っ
たんだ?﹂
﹁もちろん、助けてくれた礼を言うため。と言いたいところだけど、
もう一つ、俺達はあと数年くらい冒険者続けて実績を作ったら傭兵
団に入ろうと思ってるから、その時に翻訳の腕輪が必須なんだ﹂
本当に便利だなこれ、とゼンドルは翻訳の腕輪をしげしげと見つ
める。
︱︱道理で勇ましいデザインだと思った。
キロはゼンドルの翻訳の腕輪が獰猛そうな生き物をモチーフにし
ている理由がわかって、一人納得する。
生き物の正体は分からないが、この世界独特のものなのだろう。
男二人が会話する傍らで、クローナは紙に包んだ数枚の銀貨をテ
ィーダへ差し出した。
最初は笑顔で受け取ったティーダだったが、中身が銀貨だと知る
と目を丸くした。
﹁受け取れないよ! 護衛依頼を受けておいて怪我して役に立たな
くなったんだから、むしろこちらが慰謝料を払うくらいで﹂
﹁け、怪我の治療費だと思ってください!﹂
﹁だからって︱︱﹂
なおも銀貨を返そうとするティーダに翻訳の腕輪を投げ渡し、キ
ロは笑いながら声をかける。
﹁貰ってくれ。冒険者は続けるんだろう? お金の心配せずに治療
に専念してほしいんだ。今度は一緒に仕事したいからさ﹂
185
キロが笑顔で押し切ると、ティーダはゼンドルと顔を見合わせ、
諦めたように苦笑した。
﹁⋮⋮お人よしだね。分かった。今度会ったら一緒に依頼を受けよ
う﹂
嬉しそうに手を差し出すクローナとティーダが握手する。
キロとゼンドルは横から微笑ましい気持ちで見ていた。ちゃっか
り二人とも串揚げを手にしている。
キロを振り返ったクローナは、半分齧られた串揚げを見て眉を寄
せる。
﹁なんで先に食べてるんですか!﹂
﹁冷めると不味いから﹂
﹁料理は美味しく食べなきゃな﹂
意気投合する男二人に全て食べられては堪らない、とクローナは
ティーダと自分の取り分を皿に分けた。
キロはゼンドルと視線を交わし、互いに同じ事を考えていると悟
り口端を吊り上げる。
﹁クローナちゃん、一人っ子?﹂
﹁分けても意味ないんだよ。俺達みたいな奴には、な!﹂
キロとゼンドルが一斉にクローナ達の皿へと手を伸ばし、肉系の
串カツを奪い取ろうとする。
しかし、キロ達の手を遮るように松葉杖が現れた。
松葉杖の持ち手へ視線を滑らせると、ティーダが眼光鋭くキロと
ゼンドルを睨んでいた。
186
﹁こら、男共。食事中に遊ぶな、埃が舞うだろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ティーダの剣幕に、キロは高校時代の寮母の姿を幻視した。
大人しく手を戻したキロとゼンドルはちまちまと残された串カツ
を食べ始める。
そういえば、とキロはクローナを見た。
﹁シキリアは採って来れたのか?﹂
パーンヤンクシュの騒動で忘れてしまっていたが、本来は羊に効
く薬草シキリアを取りに行ったのだ。
クローナは足元に置いた鞄を指差す。
﹁抜かりなしです﹂
︱︱パーンヤンクシュに襲われたタイミングはシキリアを採取し
た後の帰り道だったんだな。
キロは納得して、窓の外を見る。
すっかり夜の空気だった。
﹁俺の魔力もないし、司祭のところへ帰るのは明日の朝にするか﹂
キロが提案すると、クローナは賛成した。
キロとクローナのやり取りを聞いて、ゼンドルが口を挟む。
﹁色々世話になったし、見送りに行くぜ。ティーダを背負ってさ﹂
﹁目当ては太ももの感触か?﹂
﹁流石はキロだ。察しが良いな﹂
187
イェーイ、とハイタッチを交わすキロとゼンドルを、ティーダが
呆れ顔で、クローナは赤い顔で、それぞれの相棒の頭を軽く叩いた。
﹁遠慮がないのと分別がないのは違うと思うんです﹂
﹁悪ふざけが許される間柄だと思うんだ。一緒に騒ぐのも礼儀の内
だよ﹂
キロに正論をぶつけるクローナは容易く言い返され、言葉が見つ
からずにおろおろする。
キロはクローナの反応を楽しみながら、追い打ちをかける。
﹁それに、覚悟はできてるらしいし︱︱﹂
﹁あ、言っちゃダメですよ、それ!﹂
慌ててキロの口を塞ぎにかかるクローナを見て、興味を惹かれた
ようにゼンドルとティーダが身を乗り出した。
﹁なんか面白そうな話だな﹂
﹁実は昨日の夜、宿でクローナがさ﹂
﹁待ってください! まだ人様に聞かれるほどの覚悟はできてない
ですッ!﹂
キロがわざと誤解を招くところで言葉を区切った事に気付かず、
クローナは赤い顔で遮る。
ゼンドルとティーダが顔を見合わせ、ニヤニヤした。
﹁夜、宿、覚悟⋮⋮ほぉ、なるほど﹂
ティーダが抽出した単語を聞いて、クローナは初めて誤解を招い
ている事に気付いたようだった。
188
﹁ち、違います。そこまではまだいってないです!﹂
﹁クローナ、その発言は自爆だ﹂
キロが素早く突っ込みを入れるが、ゼンドルはニヤけた顔でキロ
の肩を叩く。
﹁〝まだ〟だってよ。脈ありじゃん﹂
﹁そうみたいだな﹂
﹁おっと、キロは冷静だな。クローナちゃんをからかう方が楽しそ
うだ﹂
クローナを弄り倒す事で方向性が決まり、キロ達は笑顔を標的に
向ける。
﹁え⋮⋮三対一ですか?﹂
泣きそうな目でたじろぐクローナにスパルタ訓練という名の弄り
をさんざん展開して、お見舞いはお開きとなった。
189
第十八話 ささやかな送別会
帰り道はゴブリンに強敵を押し付けられることもなく、無事に司
祭のいる町が見えてきた。
キロは町を遠目に透かし見ながら、どんよりとした溜息を吐く。
﹁二日目に本格的な筋肉痛って、ご老人ですか?﹂
﹁うるさい。まだ動作魔力の使い方に慣れてないから、身体に負荷
がかかるんだよ﹂
﹁町に着いたら湿布を張ってあげますよ。本格的にご老人の仲間入
りです。司祭様とあるあるネタで盛り上がれますよ﹂
クローナがニコニコしながらキロの筋肉痛をからかう。
キロはクローナを横目に睨む。
﹁ちなみに羊飼いのあるあるネタは?﹂
﹁羊の体を枕にしようとして脂っぽさに泣く、とかですね﹂
クローナが眠気眼を擦りながら羊を枕にしようとする光景が、キ
ロの脳裏に容易く浮かぶ。
しかし、クローナ以外の羊飼いも同じ事をするのだろうかと疑問
に思う所ではあった。
町に入って最初に向かう場所はギルドだ。
町への帰還報告に加え、シキリアを取ってきた事を証明しておか
なくてはいけない。
相変わらず開放感のあるギルドの建物に入ると、見知った受付の
男がいた。
190
﹁お帰りなさい。初めての遠出はどうでしたか?﹂
受付の男性は世間話でも振るように質問して、シキリアの葉を数
え始める。
﹁散々でした。銀色のグリンブルを倒したり、パーンヤンクシュを
倒したり﹂
クローナが答えると、依頼書に完了の判を押そうとしていた受付
の男性の手が止まる。
疑うような視線をクローナに注いだ後、事実かどうかを問うよう
にキロを見た。
︱︱やっぱり信じてくれないよな。
苦笑しつつ、キロが答えようとした時、背後から馬鹿にするよう
に鼻で笑う音がした。
﹁姿を見ないと思ったら、大ぼら吹く準備してたのか﹂
振り返れば、若い冒険者が二人、見下すようにキロ達を見ていた。
キロはクローナに小声で訊く。
﹁⋮⋮知り合いか?﹂
﹁確か、訓練所の教官が連れていた教え子のはずです﹂
自信なさそうにクローナは若い冒険者二人をちらちら見る。
そんな奴もいたな、とキロも顔を思い出そうとするが、無駄だっ
た。
﹁どうでもいいか﹂
﹁ですね﹂
191
思い出す事はおろか、構う事すらしないと決めて、キロとクロー
ナは受付の男性に向き直った。
無視された事に舌打ちして、若い冒険者二人はギルドの壁際から
キロ達を睨んでいる。
﹁あの二人は先日教官からお墨付きを貰って、討伐依頼に成功した
ばかりなので気が大きくなっているのでしょう。お気になさらず。
話を戻しますが、本当にパーンヤンクシュを討伐したんですか?﹂
キロとクローナが同時に頷くと、受付の男性は苦笑する。
﹁キロさんの武器が新しくなっていましたから、道中で臨時収入が
あったのだろうとは思いましたが⋮⋮また無茶をしたものですね﹂
率直な評価に、今度はキロとクローナが苦笑する。
無茶したくてしたわけではないのだ。
事の顛末を話すと、受付の男性は苦笑を深めた。
﹁つくづく、運が悪いですね﹂
受付の男性は依頼書を片付けながら、机の上のシキリアの葉を指
差した。
﹁依頼品のシキリアはギルドで預かった後、依頼主にお渡しする事
も可能ですが、どうされますか?﹂
キロとクローナが依頼主である司祭の住む教会に居候しているた
め、手渡しした方が早い、と言外に告げられる。
事前に相談してあったため、クローナは迷いなく答えた。
192
﹁教会から独り立ちするための依頼なので、けじめをつけるために
も手渡しにしたいと思います﹂
事情はある程度把握しているからだろう、受付の男性は快くシキ
リアを返してくれた。
﹁しばらくはこの町に滞在しますか? 受けて欲しい依頼があるの
ですが﹂
受付の男性が机の上に取り出した依頼書を読み上げる。
ギルド提携の治療院で使う止血用の薬草が不足しており、緊急で
補充を願う内容だった。
問題の薬草の名前を聞いて、クローナがキロの袖を引く。
﹁ゴブリンから渡された花の中に混ざってたはずです﹂
﹁香辛料といい、地味に役立つな﹂
キロが鞄から薬草を取り出すと、受付の男性は状態を検分して、
頷いた。
﹁十分使用可能ですね。量は少し足りませんが、他の冒険者に依頼
を回す時間くらいは稼げるでしょう﹂
お預かりします、と受付の男性は薬草を受け取り、近くの職員を
呼んで手渡した。
出所がゴブリンでも問題ないらしい。
﹁他にはありますか?﹂
193
クローナが質問すると、受付の男性は少し考えた後で首を振った。
クローナはキロを見た後、翻訳の腕輪を受付の男性に手渡した。
キロが直接話しやすくするために配慮したのだ。
キロは受付の男性が腕輪に触れるのを待って、口を開く。
﹁俺達は数日後、カッカラの町に向かおうと考えています﹂
キロが切り出すと、受付の男性が渋い顔をした。
﹁カッカラ、ですか。行方不明事件が多発していますが、知り合い
の方が巻き込まれましたか?﹂
気遣うような質問に、キロは首を振る。
﹁遺物潜り、という魔法に興味があって、開発者である魔法使いを
訪ねたいんです。ご存じありませんか?﹂
﹁カッカラに住む魔法使いとなると、シールズさんくらいしか心当
たりがありませんね﹂
︱︱またシールズ、か。
カッカラに住む魔法使いについて訊くと必ず返ってくる名前だ。
余程有名なのだろう。
キロはカッカラに着いたら最初の聞き込みでシールズを訪ねる事
に決める。
﹁しかし、キロさん、いま行かなくても良いのでありませんか? あまりお勧めしませんよ﹂
受付の男性が渋い顔で引き止める。
キロの事情を知らない受付の男性としては、行方不明事件の解決
194
を待ってからでも遅くはないと考えたのだ。
異世界から来た事を唯一知るクローナが心配そうにキロを見る。
﹁俺にもいろいろと事情がありますから、近日中に訪ねたいんです﹂
キロの真剣な目を見て説得は無駄だと判断したのだろう、受付の
男性は困り顔で頭を掻いた。
﹁クローナさん、カッカラ周辺の地理についても詳しいんですか?﹂
﹁この町周辺と同じくらいには﹂
﹁即戦力ですね。カッカラに着いたらすぐに周辺の洞窟など、死体
を隠しておける場所を探す羽目になりますよ?﹂
死体、と聞いてクローナが息を飲む。
ギルドは行方不明者の命はすでにないと考えているのだ。
クローナは少し青ざめた顔をしつつも頷いた。
﹁⋮⋮冒険者になった時に、覚悟はしてあります﹂
﹁クローナさんも折れませんか⋮⋮﹂
受付の男性はますます困ったような顔をした。
﹁行方不明になった者の中には冒険者もいます。クローナさん達は
パーンヤンクシュを倒したそうですから腕は立つと思いますが、対
人戦は勝手が違いますので﹂
なんとしても引き留めたいらしい受付の男性は、暗に誘拐事件の
可能性を示唆する。
しかし、キロ達にとっては意外な方向から援護が入った。
195
﹁対人戦でも腕が立つって証明できればいいんだろ?﹂
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、壁際から先ほどの若い冒険者二
人組が声をかけてきた。
受付の男性が顔を顰めた。
﹁⋮⋮調子に乗りすぎですね﹂
ぼそりと、足元から冷気が昇ってくるような錯覚がするほど冷た
い声で呟いた受付の男性は、ふとキロに視線を移す。
一瞬考えた後、先ほどとは一転して友好的な明るい笑みを若い冒
険者二人へ向けた。
﹁確かに、証明できるならそれが一番ですね。キロさんと模擬戦を
してくれますか?﹂
︱︱ギルドで喧嘩はご法度って言ったのはあんただろ。
キロは突っ込みたい気持ちに駆られたが、受付の男性が提案した
のはあくまでも模擬戦だと思い直す。
おそらく、この模擬戦で対人戦におけるキロの実力を見るつもり
なのだろう。また、訓練所の出身ではないキロが善戦すれば、若い
冒険者二人の高くなった鼻も折れる。
訓練所の教官の面子が潰れるのではないかと思ったが、受付の男
性はキロが勝つとは思っていないらしい。
﹁︱︱それでは、明日の朝に訓練所で模擬戦を行います。私が立ち
会いますので、カッカラに行くかどうかは試合内容を見て決めまし
ょう﹂
強引に話を決めた受付の男性の顔からは、渋るような色が消えて
196
いた。
教会に帰り着くと、笑顔の司祭に出迎えられた。
﹁怪我は⋮⋮ないようだね。キロ君の槍が新しくなっているようだ
けれど﹂
夕食が出来ているとの事で、食堂に向かう。
キロ達が帰ってくる期限に合わせて、三人分の料理を用意したら
しい。
今までより少し豪華な気がするのは、送別会の意味合いが含まれ
ているからだろう。
ささやかな気遣いに嬉しさを抑えきれない様子で、クローナが土
産話を楽しげに話す。
パーンヤンクシュ討伐など、話が一通り終わった時、司祭は優し
げに眼を細めながら口を開いた。
﹁パーンヤンクシュを倒したのなら、もう冒険者としては一人前と
言ってもいいね﹂
クローナが押し黙る。
クローナの反応に司祭は苦笑して、それでも言葉を紡いだ。
﹁今日中に荷物を纏めなさい。分かったね?﹂
有無を言わせない司祭の口調に、クローナはしぶしぶ頷いた。
身体を洗ってくるというクローナが食堂を出ていくと、司祭はキ
ロに向き直った。
197
﹁⋮⋮私の事を厳しいと思うかい?﹂
﹁甘やかすかどうかの瀬戸際の優しさだと思いますよ﹂
キロが答えると、司祭は曖昧な笑顔を見せた。
﹁クローナは早くに両親を亡くしていてね。今も母親が身に着けて
いた物と同じ指輪を部屋に持っている。私はそれを見るたび、クロ
ーナを甘やかしたくなるよ﹂
キロはクローナの部屋がある二階を見上げた。
クローナの境遇は、キロには理解できないものだ。
なぜなら、キロはいつだって遠慮して人と距離を置いてきた。そ
んなキロを甘やかせば、不必要に遠慮させ気疲れさせてしまうと周
りの大人が悟っていたのかどうか、今となってはわからない。
しかし、司祭に適度に甘えられるクローナが少し眩しく見えた。
﹁クローナの面倒を見てくれて、ありがとう﹂
﹁持ちつ持たれつ、と言えるくらいには俺も役に立てるようになっ
たと思います﹂
キロが返すと、司祭は朗らかに笑う。
﹁まだまだ役に立ってもらえると嬉しいよ﹂
﹁⋮⋮⋮その事ですが﹂
キロは遺物潜りについて調べるため、カッカラに向かう事を告げ
る。
﹁場合によっては、そのまま異世界に向かい、クローナとはそこで
別れる事になります﹂
198
司祭はコップから水を飲むと、少し考える素振りをした。
﹁異世界に行きたい理由をわざとぼかしているね?﹂
︱︱あぁ、やっぱり、バレてる。
キロは無表情を取り繕った。
司祭は苦笑しつつ片手を左右に振った。
﹁良いんだ。誰にでも秘密はあるからね。けれど、クローナはつい
て行きたがるだろうね﹂
﹁その時はおいて行きます。ギルドで俺の代わりになる冒険者を探
しますから︱︱﹂
﹁ダメだね。誰か、ではなくキロ君と冒険者をすると決めたのだか
ら、クローナはついて行きたがるよ﹂
司祭は断言して、寂しそうな顔をした。
﹁もし迷惑でないのなら、連れて行ってあげてはくれないか?﹂
﹁いいんですか?﹂
司祭の言葉は意外性を持ってキロの耳朶を打った。
てっきり、クローナを置いていくつもりかと怒られると思ってい
たのだ。
司祭がクローナを大事にしている事を知っているからこそ、二度
と会えなくなる可能性がある異世界行きに許可を出すのは予想外だ
った。
司祭は寂しそうな顔のまま苦笑するという、難しい表情をして見
せる。
199
﹁良いも悪いも、クローナが決める事だ。もちろん、クローナが行
きたくないというのなら、腕の立つ冒険者に護衛させてこの教会に
向かわせてほしい。後の事は私がどうにかするから﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
︱︱クローナは本当に大事にされてるな。
心から礼を言って、もしもの時の後を託すキロに、司祭が優しい
声をかけた。
﹁私は君に会えなくなるのも寂しいんだ。異世界に行ってもこちら
に帰って来れるのなら、たまには会いに来てほしいね﹂
﹁⋮⋮本当、司祭には敵いませんよ﹂
キロが本音をぼかして伝えると、司祭は楽しげに笑った。
200
第十九話 対人戦
︱︱何の騒ぎだよ、これは。
早朝の訓練場には人だかりができていた。
ギルドで見かけた事のある顔ばかりである。
﹁申し訳ありません。口止めを忘れていました﹂
流石にこの事態は想定していなかったらしく、受付の男性は開口
一番に謝った。
どうやら、あの若い冒険者二人が触れ回ったらしく、面白がった
冒険者達が観戦しに集まったのだ。
たった一晩でよくここまで話が広まった物だと、キロはむしろ感
心してしまう。
観戦者の中から阿吽の冒険者が手を振っていた。
キロとクローナが気付いて手を振り返すと、おもちゃで遊ぶ子供
のような無邪気さが残る顔で歩いてくる。いい年をしたごつい男が
浮かべるにはシュールな笑みだ。
﹁ついにこの日が来たな!﹂
﹁ノリノリですね﹂
﹁おうよ。あの教官のひん曲がった鼻を明かしてやれるんだ。キロ、
鼻骨砕く勢いで暴れてやれよ﹂
﹁なんか微妙に限定的な暴れ方ですね﹂
試合に出るわけでもないのにずいぶんな意気込みだ。
クローナが言葉を返しつつ、苦笑する。
そもそも勝てるかどうかも分からないのに、とキロは思う。
201
たとえ負けても善戦したと認められるくらいがキロの目標だ。
﹁キロさん、防具つけておいてください﹂
クローナがキロに訓練用の防具を指差した。訓練用にもかかわら
ず、幾重にも皮を重ねた丈夫な物だ。
︱︱あ、汗クセェ⋮⋮。
すえたカビの臭いと汗の臭いが混然一体となった不快臭に、キロ
は思わず鼻を押さえた。
クローナはどうだろうと目を向けると、キロの反応に首を傾げて
いる。
不意に肩を叩かれて目を向けると、阿吽の冒険者の片方、阿形が
同情するような目を向けていた。
﹁女冒険者は少ないから、使用頻度の関係で女物の防具は臭わない
んだ﹂
﹁ずる過ぎる﹂
予想外の男女格差に、キロは思わず呟いた。
﹁使用直後の女物の防具がなくなる事もあるそうだ﹂
﹁⋮⋮うわぁ﹂
阿形からもたらされた知りたくない情報を記憶から抹消しつつ、
キロは防具を着込む。
終わったら何を置いても体を洗いに行く事を決めた。
着てみると防具の丈夫さが再確認できた。
丈夫さと比例して重量もあるため、キロは動きにくい身体を動か
してみる。
動きにくさに不満を募らせるキロを見て、受付の男性が口を開く。
202
﹁殺す気でいかない限り、魔法や動作魔力を使用した攻撃を受けて
も大丈夫です﹂
これは安全策ですよ、と付け足す受付の男性に、キロは頷きを返
した。
一番の不満は動きにくさではなく臭いだが、いまさら言っても仕
方がない。
渡された武器は木製の訓練槍だったが、キロは少し長めの物に替
えてもらった。
槍を構え動作魔力を使用せずに軽く振り、握りを確かめる。
クローナの武器はもともと木製の杖であるため、そのまま使用す
る事を許可されていた。
キロの素振りを眺めていたクローナが、口を開く。
﹁調子はどうですか?﹂
﹁柄が太くて握りが甘くなる。いつもより振る速度は遅くなりそう
だ﹂
﹁いつもより多めに私が魔法で援護して、キロさんの隙を埋めれば
いいわけですね﹂
簡単な打ち合わせを済ませて、クローナが片手を握り、胸の前に
掲げる。
﹁では、ボコボコにして目に物見せてやりましょう﹂
﹁クローナまで好戦的になるなよ﹂
キロはやる気満々のクローナを窘めるが、不服そうに睨まれた。
﹁キロさん、今回あの人たちと戦う事になった理由はわかってます
203
か?﹂
﹁対人戦での実力を見るためだろ﹂
何をいまさら言い出すのかと、キロは怪訝に思う。
しかし、クローナは子供のようにむくれた。
﹁そう、実力を見るためです。見せる必要があるんです。私達はパ
ーンヤンクシュだって倒したのに!﹂
我慢できなくなったように、クローナは声を大きくする。
阿吽の冒険者がクローナの言葉を疑って、受付の男性に確認する。
受付の男性がクローナの言葉を肯定すると、阿形はクローナに同
意するように大きく頷いた。
﹁それは怒るよな﹂
阿形の同意を得られたことで、クローナは勢いづく。
﹁私達は結構強いんですよ!﹂
﹁あんまり調子に乗らない方がいいと思うぞ。それに、今まで戦っ
た相手は全部魔物なんだ。武器を持った人間相手の経験が少ないの
も事実だし、良い機会だとも思う﹂
﹁⋮⋮まぁ、そうですけど﹂
キロに正論をぶつけられ、クローナはトーンダウンする。
﹁元の世界に帰る方法があるかもしれないって言ったのはキロさん
なのに⋮⋮﹂
唇を尖らせて、クローナは不満そうに呟いた。
204
キロは苦笑する。
﹁帰るのも大事だけど、身を守れないと困るんだろ。勝っても負け
ても損はない。全力を出すだけでいいから、あまり張り切りすぎる
な﹂
﹁キロさんが納得しているなら良いんですけど﹂
キロの言葉に、クローナは渋々納得する。
その時、キロとクローナのやり取りを横から眺めていた阿吽の冒
険者が興味深そうな目を向けてきている事に、キロは気が付いた。
不思議に思って見返すと、阿吽の冒険者は顔を見合わせた後でに
やりと笑った。
﹁お前らの距離が縮まってる気がしてな。随分とポンポン言葉を交
わすようになったじゃないか﹂
﹁そうですかね?﹂
同時に疑問を口にして、キロとクローナは横目で互いを確認する。
﹁そうかもしれませんね﹂
どちらからともなく口にして、声が揃った事に驚きもせず笑みを
浮かべた。
訓練場の端で拍手の音が鳴る。
振り返れば、若い冒険者二人の準備が整ったところだった。
キロとクローナの背を、阿吽の冒険者がそれぞれ押す。
﹁健闘を祈るぜ﹂
﹁そのセリフは私達が戦う相手を睨みながら言ってくださいよ﹂
205
クローナの突っ込みを聞いて、阿吽の冒険者の視線を追えば教官
に固定されていた。
背中を押されるままに、キロとクローナは訓練場の真ん中に歩み
出る。
周囲を冒険者とギルドの職員で囲まれた空間は、戦うのにはちょ
うど良い広さだった。
戦いに従事する冒険者達だけあって、間合いをよく理解している
らしい。
向かいから歩み出てくるのは若い冒険者が二人、どちらもキロと
同じ槍を持っている。
キロが前に、クローナは後衛として後方に控える形で構え、若い
冒険者二人は横並びで槍を構えた。
相手の切っ先はどちらもキロに向けられていた。
受付の男性は双方が構えたのを見て、片手を上げる。
﹁治癒の特殊魔力持ちに来て頂いています。殺されない限りはこち
らで治療しますので、気兼ねなく戦ってください。では︱︱始めッ
!﹂
受付の男性が言葉と共に手を振り下ろす。
直後、キロは動作魔力を練り、地面を強く蹴った。
重力に負けないよう正面やや上方に動作魔力を働かせ、キロは瞬
時に若手の冒険者二人の正面に辿り着く。
勢いのまま槍を両手で持ち、身体の前で横向きに構える。
刃ではなく、柄を若手の冒険者二人の腹へ同時に押し付け、動作
魔力を込めて弾き飛ばした。
﹁︱︱ッ⁉﹂
唐突に腹へ加えられた衝撃で若手二人の顔が苦悶に歪む。
206
動作魔力による弾き飛ばしは若手冒険者の体を同時に地面から浮
かせ、後ろ向きに吹き飛ばす。
若手冒険者達は地面に足を着け、威力を消そうと試みるも力負け
て後ろ向きに倒れ込んだ。
しかし、何度となく反復練習してきた受け身を使い、すぐに身体
を起こしている。自信を持つだけはある滑らかな動きだった。
体勢を立て直そうとした彼らの前に、キロが再び姿を現す。
今度は反応できた若い二人の冒険者は、どちらも槍を横から叩き
つけようとする。
だが、キロの刺突の方がはるかに速かった。
右の冒険者へ槍を繰り出し突き飛ばした直後、キロは水球の魔法
を左の冒険者へ叩き込む。
地面を転がった二人の冒険者へ、クローナが高速の水球を撃ち込
んだ。
地面に手をついて起き上がろうとしていた若い冒険者二人の顔面
に直撃し、彼らを仰け反らせる。
﹁︱︱止めッ、止めてください、試合終了です!﹂
受付の男性が慌てて止めに入った。
観戦していた冒険者達が揃って呆然としている。
当然だろう、クローナが撃ち込んだのが水球ではなく石弾であっ
たなら、死体が二つ転がっていたのだから。
誰の目にも勝敗は明らかだった。
キロは首を傾げた。
﹁⋮⋮手加減された?﹂
﹁いやいや、向こうは本気だったから!﹂
声に笑いをにじませながら、阿形がキロの予想を否定する。
207
﹁教官からお墨付き受けたばかりって事は、せいぜい武器に動作魔
力を纏わせられるようになっただけ、そんな奴に身体ごと動作魔力
で突っ込めば勝負にならねえよ。というか、お前に動作魔力を教え
たのって三日前だったはずだろ? なんでもう使いこなしてんだ﹂
阿形はキロを指差しながら豪快に笑っている。
﹁つまり、単純に動作魔力の差って事なのか?﹂
力量以前に、上乗せされる魔力の恩恵が違い過ぎて勝負にならな
かったのだ。
﹁⋮⋮それも実力だ。普通は習得にかなりの時間がかかるはずだが
な﹂
会話に横から声を挟まれ、キロは顔を向ける。
老齢の教官が苦虫をかみつぶしたような顔で歩いてくるところだ
った。
﹁ひょろいの、お前はとっさの動きにはまだ対応できねぇだろ?﹂
言うや否や、教官は素早く距離を詰め、キロの眼前で突きだした
拳を止めた。
キロは教官の動きが見えていたが、魔力を練り上げる暇がなく、
身動きが取れなかった。
教官はキロを殴らず、腕を引く。
﹁不意打ちへの対処だけは常に頭ん中で考えとけ。いつも先手を取
れるとは限らねぇんだからな﹂
208
ぼそっと助言を呟いて、教官は舌打ちする。
﹁大概の奴は考えてから動いても間に合わんはずなんだがな﹂
乱暴に頭を掻いて、教官はキロに背を向けた。
阿形がニヤニヤしながら何事か言いかけ、吽形に小突かれる。
おおかた、弟子をボコボコにされた感想でも聞いて煽るつもりだ
ったのだろう。
阿吽達のやり取りは見えなかったはずだが、教官が足を止め、不
機嫌そうな顔で振り返る。
﹁それからな、薙ぎ切るつもりならお前が新調したあの槍は不向き
だ。もっと良い物を見繕ってもらえ﹂
そう言って、今度こそ教官はキロ達の元を去った。
キロは受付の男性を見る。
﹁カッカラ行きの許可は?﹂
﹁⋮⋮出さざるを得ませんね﹂
盛大なため息をついて、受付の男性は鼻血を垂らして横たわる若
い冒険者を見た。
クローナの一撃が相当な威力だったらしく、若い冒険者二人は鼻
血が止まるまで地面に転がって天井を眺めるつもりらしい。
﹁少なくとも、高く伸びた鼻っ柱は折れたようですね﹂
片方の目的が達成されただけでも良しとするつもりらしい。
受付の男性はキロとクローナにギルドへ来るよう告げた。
209
﹁カッカラのギルドに紹介状を書きます。向こうに着いたらまず最
初に見せてください﹂
キロ達のカッカラ行きが決まった。
︱︱なんか、達成感ないな。クローナの言うとおり、自分は結構
強いのかもしれない。
キロの思考が表情からダダ漏れだったのだろう、阿形がニヤニヤ
しながらキロの頭に手を置いた。
﹁今度はこっちの鼻が高くなってら。ここは俺様が叩いてやろう﹂
紹介状ができたと受付の男性が呼びに来るまでのわずかな間に、
キロとクローナは阿形一人に五回ずつ地面へ転がされていた。
上には上がいると教え込まれた、貴重な一日だった。
210
第二十話 カッカラ
教会に新しく来た羊飼いへの引き継ぎを済ませたキロ達は、辻馬
車に揺られてカッカラへの街道を進んでいた。
阿吽の冒険者達が先に乗っているのを見て驚きはしたが、避ける
理由もないので共に揺られている。
﹁キロ達はカッカラに行くのか。あそこは良い所だ﹂
﹁知ってるんですか?﹂
﹁昔、拠点にしてたからな。この辺りの中央都市だけあって、依頼
も多い﹂
冒険者も多いから競争率が高いけどな、と阿形が笑う。
﹁⋮⋮遺物潜りって知ってますか?﹂
拠点にしていたなら、何か知ってるかもしれない、とキロは阿吽
達に質問する。
阿形は吽形に視線を移し、視線で会話した後で首を振った。
﹁聞いた覚えはないな。誰の特殊魔法だ?﹂
︱︱そういえば、特殊魔法の可能性もあるんだったな。
キロはいまさら思い至るが、どの道話を聞きに行かなくてはなら
ないのだから一緒だと思い直す。
﹁カッカラに住む魔法使いが開発したらしいんです﹂
﹁開発って言うからには汎用魔法っぽいな。カッカラにそんな事を
211
やりそうな魔法使いがいたか?﹂
阿形は思い出すように空を見上げて少し考えた後、諦めたのか吽
形に視線を移す。
吽形はただ瞼を閉じるだけだった。
キロには少し長めの瞬きにしか見えない吽形の反応に、阿形は唸
る。
﹁なんか引っかかる物があるとさ﹂
どうやって意思疎通しているのか分からないが、吽形が反論しな
いのだから阿形の解釈が正しいのだろう。
クローナがあこがれの視線を向けている事は無視して、キロはさ
らに情報を開示する。
﹁シールズって魔法使いがいるらしいんですが、知ってますか?﹂
遺物潜りの開発者は引退した元冒険者との事であるため、現役冒
険者のシールズではない可能性が高い。
そう理解していても、他に手掛かりはなかった。
﹁シールズ⋮⋮あぁ、街外れに住んでる魔法使いの弟子が確かそん
な名前だったな﹂
阿形が思い出して吽形を見る。
吽形の瞼は開かれていた。
﹁⋮⋮アンムナの弟子、何かを隠している﹂
﹁しゃべった⁉﹂
212
吽形が言葉を発した事に驚くキロとクローナに、阿形が苦笑する。
﹁こいつだって話す事くらいあるさ﹂
気分を害したのだろうか、吽形は口を閉ざして黙り込む。
阿形によれば、特に気にする必要はないとの事だった。
﹁それにしても、アンムナか。確かにそんな名前だったな。住所ま
では覚えてないが﹂
﹁シールズって人に直接聞いてみます。それより、何か隠してるっ
てどういう意味です?﹂
キロは吽形に水を向けてみるが、特に反応はなかった。
阿形が顎を撫でながら口を開く。
﹁どこか胡散臭いんだよな、あいつ。とはいえ、俺達の主観でしか
ないから、あんまり当てにするな﹂
﹁そんなこと言われても⋮⋮﹂
言葉を濁して、キロはクローナと顔を見合わせる。
行方不明事件の多発地域へ向かっているいま、住民の一人に関し
て、隠し事をしているとか、胡散臭いとか聞かされれば警戒するの
が人情である。
心配顔の二人に苦笑して、阿形がそもそも、と付け加える。
﹁俺達がカッカラを拠点にしていた三年前は行方不明事件なんか起
きてなかった。シールズが何か隠していたとしても、事件について
じゃないはずだ﹂
﹁それを最初に言ってくださいよ﹂
213
しかし、シールズに接触しても、誘拐犯に目を付けられることは
なさそうだと、キロは安心した。
御者が振り返り、道の先を指差す。
遠くにカッカラの街が見えた。
もはや、街というより都市といった趣である。
クローナからの事前情報によれば、カッカラは都市国家群に名を
連ねる街の一つであり、商人や工房長からなる議会を有するという。
特筆すべきはその規模で、都市国家群第二位の人口二十万を誇る。
莫大な人口を支えるのは周辺地域の魔物。何でも植物系の魔物や
グリンブルなどが豊富に取れるため、狩猟で人口を支えてしまえる
という。
魔物が絶滅しないのかと不思議でならないが、魔物は生殖活動の
他に魔力だまりと呼ばれる場所から自然発生するため、カッカラの
食糧はまず枯渇しない。
ファンタジー過ぎて理解が追いつかない話だ。
しかし弊害もあり、あふれかえる周辺の魔物は討伐が遅れると集
団でカッカラを襲うため、常に多数の冒険者を確保しておかねばな
らないという。
戦闘技能のある住民は一部の税金が免除されるというから、魔物
被害への警戒ぶりが窺える。
辻馬車に揺られて潜り抜ける防壁は分厚く、左右の壁には小さな
穴が開いている。
有事の際には門をくぐりぬける敵を魔法使いが穴から攻撃すると
いう。
防壁の中には青空市場が広がっていた。居住区画は奥にあるらし
い。
御者に礼を言って料金を払い、キロ達は馬車を降りた。
﹁それじゃ、ここでお別れだな﹂
214
阿形がキロの背中を無遠慮に叩きながら言う。
﹁二人はこれからどこへ?﹂
﹁カッカラには配達依頼できただけだからな。用事を済ませたらと
んぼ返りさ﹂
いまさら観光する場所もない、と阿形と吽形が揃って肩を竦める。
﹁というわけで、あばよ﹂
さっぱりとキロ達に背を向けて、阿形達は肩越しに手を振ると青
空市場に消えた。
阿形達の姿が消えるまで見送って、キロとクローナは歩き出す。
居住区画に入るとすぐに煉瓦の建物が見えた。ギルドの建物だと
一目で判る理由はやはり、出入りしている人間が堅気に見えないか
らだろう。
﹁意外と小さい建物だな﹂
ギルド館の前に立って、キロは建物を見上げる。
二階建ではあるが、今まで見たギルド館の中で一番小さい。カッ
カラの人口を考えるとなおさら小さく思えてしまう。
﹁東西南北に一軒づつ建物があるそうですよ。即応体制を作るには
中央に一つでは足りないそうです﹂
﹁これ四つなら、妥当か﹂
クローナの説明に納得し、キロ達は建物の中へと足を踏み入れる。
昼を過ぎているが、早めに依頼を達成したらしい冒険者の姿がち
らほら見える。
215
受付は一部が暇そうにしており、人探しが目的のキロ達は気兼ね
なく声をかける事が出来た。
茶髪をきっちりオールバックにした若い男性の受付はキロ達が提
示した冒険者カードを見て目元を緩ませた。その仕草だけで途端に
童顔の印象が強まる。
冒険者カードを見て、キロとクローナが冒険者になったばかりの
新米だと知り微笑ましくなったのだろう。
しかし、続けてクローナが出したギルドの紹介状を見て眉をきり
りと吊り上げる。
紹介状を真剣な目つきで読んだ後、オールバックの受付はクロー
ナを見た。
﹁周辺の森の捜索はある程度済んでいますが、あくまでも生存者が
いると仮定した場合の捜索しかしていません。死体を埋めやすい場
所、埋めても魔物に掘り返されない場所などに心当たりはあります
か?﹂
﹁ざっと十三カ所くらいです﹂
﹁こちらの地図に大まかな場所を記入してください﹂
オールバックの受付が地図を取り出すと、クローナは受け取る代
わりに腕輪を差し出した。
訝しみながらも腕輪を受け取ったオールバックの受付にキロが声
をかける。
﹁遺物潜りが使える魔法使いか、シールズという魔法使いの方を探
しています。連絡を取れませんか?﹂
オールバックの男性はキロに視線を移し、考え込む。
﹁遺物潜りという魔法は聞いた事がありませんね。シールズさんな
216
らここで今朝依頼を受けて森へ出かけました。夕方までにはここへ
帰ってくるかと思います﹂
カッカラにあるという四つのギルド館の中からいきなり当たりを
引いたらしい。
シールズがここに来るというなら待たせてもらおう、とキロはク
ローナと視線を交わし、頷きあった。
クローナへ腕輪が返される。
地図への記入が終わり、クローナはざっと見直した上で受付に手
渡した。
オールバックの受付はクローナが記入した位置を見ながら感心し
たような声を上げる。
﹁四カ所はすでに調査が終わっていますが、他はまだですね。この
南の川のそばが候補に挙がっているのは何故ですか?﹂
オールバックの受付はクローナが挙げた候補地について一つ一つ
質問し、裏に答えを書き込み始めた。
手持無沙汰のキロはクローナ達のやり取りをただ眺めていただけ
だったが、背後に人の気配を感じて振り返る。
そこには細身の男が立っていた。
亜麻色の髪は男にしてはやや長いが清潔感にあふれ、同じ色の眉
は細く緩やかな曲線を描いている。常に細めた眼は銅色で、口元は
楽しげな弧を描いている。
羽織ったローブは冒険者と思えないほど泥汚れはもちろん皺一つ
ない。しかし新品特有の光沢は薄れており、いままでさぞかし丁寧
に扱われていただろう事は想像に難くない。
男は興味深そうにキロを上から下まで眺め、予備動作なしに手を
伸ばした。
217
﹁良い色の髪だ。青にも見える光沢のある黒、調和のとれた黒目、
何よりこの黄色味がかった肌は珍しい。何処の出かな?﹂
キロの前髪を指先で摘み、男は楽しそうに喉の奥で笑う。
状況に遅ればせながら気付いて、キロは後ろに飛びのいた。
︱︱なんだ、このキモイ奴⁉
キロが飛びのいた事で前髪が指先から離れると、男は残念そうな
顔を浮かべた。
﹁そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。男に興味はないからね﹂
男が言うが、キロはまるで信用できなかった。
オールバックの受付が顔を向け、キロの前に立つ男を見て口元を
綻ばせた。
﹁シールズさん、早かったですね﹂
﹁シールズ⋮⋮この人が?﹂
受付の言葉でキロはシールズと呼ばれた男に疑惑の目を向ける。
クローナがキロの袖を引き、耳元に口を近づけて囁く。
﹁⋮⋮探し人相手に失礼ですよ﹂
注意されて、キロは態度を改める。
しかし、キロが無礼を詫びる前に、シールズは受付に声をかけて
いた。
﹁依頼の品だけど、物が物だから血が滴っていてね。早めに中へ運
び込んでくれないだろうか?﹂
218
シールズがギルドの入り口を指差す。
キロは開きっぱなしの扉の先、ギルド館の前の通りを見て目を見
開いた。
馬が繋がれていない馬車が二台、止められている。荷台には馬と
牛の特徴を併せ持つ魔物が三頭ほど積まれていた。
通行人の反応や視線の方向から察するに、ギルド館の壁が死角を
作っているだけで、同様の馬車が他にも数台あるようだ。
﹁群れていたからさくっと仕留めてきたんだ。肉屋に卸すんだろう
? 早めに処理してくれないかな。持ち込んでおいてなんだけど、
通行人の迷惑になってしまうから﹂
シールズがさらりと言うと、ギルドの職員の何人かが立ち上がり、
慣れた様子で馬車に向かって行った。
クローナがじっと馬車を見つめたまま、口を開く。
﹁馬もいないのに、どうやってあんなものを動かしたんですか?﹂
シールズは初めてクローナがいる事に気付いたのか少し驚いたよ
うな目を向けた後、少し誇らしげな声で言い返す。
﹁動作魔力で動かしたんだよ。魔力総量には自信があってね﹂
﹁ちなみに、どこからですか?﹂
﹁西側の広葉樹の森、柔らかい葉っぱが多い辺りだね﹂
クローナが更に質問を重ねると、シールズは快く答えた。
﹁そうですか⋮⋮。凄いですね。私だと全部の魔力を使っても二台
くらいしか動かせないと思います﹂
﹁二台動かせるだけでも凄いよ。効率よく動かせば四台くらい行け
219
るかもしれないね﹂
シールズはクローナを軽い口調で褒めた。
クローナが愛想笑いを浮かべ、キロに目を向けた。
﹁キロさん、聞かなくていいんですか?﹂
﹁︱︱あぁ、そうだった﹂
馬車を見た衝撃で本題が頭から消えていたが、キロはクローナの
言葉で思い出す。
﹁遺物潜りが使える魔法使いを探しています。心当たりはありませ
んか?﹂
今日だけで三回目の質問をシールズに投げると、今までとは違う
反応があった。
シールズは特に思い出す素振りもせず、頷いたのだ。
﹁僕の師匠のアンムナが完成させた魔法の一つだよ﹂
シールズがあまりにもあっさりと開発者と名前を言ってのけたた
め、キロの思考に一瞬の空白が生まれた。
呆気にとられたキロの思考が追いついた時、横からオールバック
の受付が口を挟んだ。
﹁︱︱墓場のアンムナ、ですか﹂
220
第二十一話 墓場のアンムナ
墓場のアンムナ、枕詞通りに墓場のすぐそばに住居を構えている
墓守であり、魔法使い。
数年前にふらりとやってきて周辺の魔物を倒し戦闘技能を証明し
た後すぐに引退、墓場のそばに引きこもった。
カッカラに来るまでの経歴が不明な事もあり、少々気味が悪い人
物、だと住民には思われていた。
しかし、アンムナの家に、透明なケースの中に入れられたあまり
にも精巧な人形がある事が訪ねた住民の口から広まると評価は〝少
々気味が悪い〟から〝大層気味が悪い〟にグレードアップしたとい
う。
問題のある行動はしておらず本人の身なりもきちんとしているた
め、立ち退き運動などは起きていない。
だが、積極的に関わりたがる者は稀だという。
そんな稀な人物の一人、シールズが師匠であるアンムナの家への
道案内を申し出てくれたが、クローナはギルド前に止められた馬車
を指差した。
﹁あのまま放置するのは問題があると思うので、遠慮します。幸い、
門前払いするような方ではないようですから﹂
﹁そうかい? それじゃあ地図だけでも持っていくといいよ﹂
シールズがオールバックの受付に声をかけると、カッカラの地図
が差し出された。先ほどクローナが記入していた物とは異なり、街
全体の様子が描きこまれたものだ。
礼を言って、キロ達はギルドを後にした。
ギルドから十分に離れた頃を見計らって、キロはクローナに声を
221
かける。
﹁なんで案内を断ったんだ?﹂
急ぐ用事ではない以上、シールズの準備が整うまで待つという選
択肢もあったのだ。
件の魔法使いアンムナが気難しい性格をしていないとしても、顔
見知りと一緒に訪ねる場合とそれ以外では警戒心が異なる。
キロがギルドで言いださなかった理由は、クローナに何か考えが
あると感じたからだ。
﹁シールズさんのローブの裾にカッカラの東にしかない植物の葉っ
ぱが付いていました。靴にも泥が少しついていました﹂
﹁⋮⋮それがどうかしたのか?﹂
﹁東側は湿地帯で、馬車なんて走らせたら泥が跳ねるはずです。で
も、馬車には泥汚れが付いてなかった﹂
︱︱よく見ているな。
クローナの指摘にキロは感心する。
阿吽の冒険者に言われた事もあって、クローナは最初からシール
ズを少し警戒していたのだろう。
キロとの初対面でも、服装などを指摘して異世界人だと看破して
いた。
キロはクローナの指摘の意味を少し考えた後、口を開く。
﹁カッカラに入る前、防壁の辺りで泥を落としたのかもしれない﹂
﹁泥を落としておいて、血は滴らせたままなのはおかしいです。ま
とめて洗い落とすべきだと思いますよ﹂
もっともな意見だった。
222
﹁つまり、シールズさんはカッカラの東に行く時は馬車を持ってい
かなかったけれど、西で獲物をしとめた時には馬車を持っていた。
いや、獲物を仕留めたから持って行った?﹂
これならば説明が付く、とキロは持論に一人納得する。
だが、クローナは首を振った。
﹁森の中に獲物だけを放置するとも思えません。一応、キロさんの
方法なら筋は通っていますけど⋮⋮﹂
﹁なにか隠していそう、か?﹂
﹁⋮⋮はい。誘拐事件の話もありますから、慎重になっても損はな
いと思います﹂
すでに見えなくなったギルドを振り返りながら、クローナは呟い
た。
キロ達は大通りを外れ、墓場に向かう。
場所柄、訪ねる人も少ないためだろう、すれ違う人も次第に減っ
ていった。
民家の数も減り、物置小屋に置き換わる。
掃き清められていた石畳も段々と汚れや欠けが目立ち始める。
しかし、墓場の目前まで来ると石畳は新品同様の綺麗な長方形が
互い違いに並んだものになった。
︱︱ちゃっかりしているというか、なんというか。
変化に気付いたキロとクローナは苦笑した。
石畳の先は墓場に繋がっていたが、墓場の入り口に隣接するよう
に一軒の家が建っていた。
﹁教会より大きいな﹂
﹁お参りする人の休憩場を兼ねているのかもしれませんね﹂
223
扉をノックしようとして、上から垂れ下がった鎖に気付く。
鎖の上には小さな鐘が付いており、鎖を引く事で鐘を鳴らし、来
訪を告げる呼び鈴のようだった。
用意されているなら使ってやるのが道具への愛情の示し方、とキ
ロは躊躇いなく鎖を引く。
パキッと小さな音がして、切れた鎖が降ってくる。あまりに軽い
感触を訝しんだキロの頭へ鎖が直撃した。
﹁︱︱痛った⋮⋮﹂
頭を押さえたキロは、小さく噴き出して笑いを堪えるクローナを
恨みがましく見つめた後、鎖を持ち上げる。
元々いい加減に作られた代物だったらしく、錆も浮いていないの
に綺麗な断面を残して切れている。
キロは呼び鈴を鳴らす事を諦めて、扉をノックした。
﹁アンムナさん、いらっしゃいますか?﹂
﹁はいはい、ちょっと待って下さ︱︱ってうわ!﹂
思いの外、親しみやすい調子の声が聞こえてきたかと思うと、家
の中から物を蹴倒す派手な音やら悲鳴やらが聞こえてきた。
鎖の事もあり、キロとクローナは身構えていたが、何事もなかっ
たように扉が開く。
﹁いや、すまない。人が来るなんてずいぶん久しぶりの事だから驚
いてしまったんだ。⋮⋮少し時間をくれ、小指の痛みが引くまでで
いい、から﹂
俯いて何事かに耐えていた若い男はそう言って、パタン、と扉を
224
閉めた。
左足を持ち上げていたのが印象的だった。
︱︱とりあえず、門前払いはないな。
頼りになるかは知らないが、とキロは遠い目で空を仰いだ。
クローナが不安そうな目をキロに向ける。
﹁新しい魔法を開発したすごい魔法使い、なんですよね?﹂
﹁⋮⋮本人とは限らないだろ﹂
頼りなくとも話を聞かない事には帰れないので、キロとクローナ
は辛抱強く待った。
やがて、再び扉が開かれる。
﹁いや、本当にすまない。僕がアンムナだよ。⋮⋮おや、珍しいお
客さんだ﹂
扉に手を掛けた状態で、若い男はキロとクローナを交互に見て、
他に人がいないか確かめるように外を見回した。
痩せぎすで背が高い。茶に近い金髪は縮れていて、大きめの碧眼
に掛かっている。日に焼けた褐色の肌は健康的だった。
引きこもりだと聞いていたが、身なりはきちんとしており、態度
も気さくな印象を受ける。
﹁人が訪ねてくる事自体が久しぶりって、さっき言ってましたよね
?﹂
話しかけやすい雰囲気も相まって、キロはつい指摘する。
﹁それとは別件さ。アシュリー、楽しいお客さんが来たよ﹂
225
家の中へと顔を向けて、アンムナが嬉しそうに報告する。
遠慮せずに上がってくれ、とアンムナに招かれてキロとクローナ
は家の中へと足を踏み入れる。
玄関からすぐの短い廊下を歩き、リビングへと到着する。
家の外が墓場という事もあってか、窓の類は明かりとりの用しか
なさない最小限の大きさで、しかもカーテンが閉じられていた。
薄暗いリビングの中、キロ達の訪問に慌てたアンムナが蹴倒して
しまったらしい小物入れが床に伏せていた。羽ペンが転がり、イン
ク壺が壁にキスマークを付けている。
しかし、キロとクローナの目を引いたのは部屋の惨状ではない。
リビング中央、皮張りのソファと机を挟んで向かい合う、ケース
に収められた女性の姿だった。
光の加減によるものか、桃色にも見える色素の薄い赤髪は揺り椅
子に座る女性の膝に届くほどの長さ。滑らかな白い肌は蝋で出来て
いるかのようで、口元の鮮烈な朱を際立たせる。
ため息が出るほどの美しさだった。
﹁︱︱アシュリーと言ってね。人形だよ﹂
背後から掛けられた囁き声にびくりとして、キロとクローナは見
惚れていた事に気が付いた。
アンムナがインク壺を拾い上げ、起こした小物入れに収めた。
﹁生きていないんだよ。残念な事にね﹂
悲しそうな声で言って、アンムナはキロ達にソファを勧める。
飲み物を用意してくる、とアンムナはリビングを出て行った。
︱︱これが人形って、そりゃあ気味悪がられるよな。
ソファに座るとどうしても対面に眠っているようにしか見えない
アシュリーがくる。
226
数少ないという訪問者相手にこんなもてなしをしていれば、気味
悪がられて当然だろう。
﹁⋮⋮アンムナさん、キロさんの言葉を聞き取ってましたね﹂
キロはクローナにささやかれて初めて気が付いた。
﹁そういえば、シールズさんも俺の言葉に驚きもせず、理解してた
よな﹂
腕輪をつけていたのだろうか、とキロは思いだそうとするが、記
憶の中のシールズは袖の長いローブを着ていたため、分からない。
何処の出かと聞かれた事を思い出し、キロに言葉が通じないと見
越していたのかもしれない。あらかじめ想定していたから、異質な
言語が飛び出しても当然の事と受け止めたのだ。
﹁アンムナさんが言っていた楽しい客っていうのは、俺が異世界か
ら来た人間だからか?﹂
もしキロの予想が正しいのなら、出身地について興味本位に根掘
り葉掘り聞かれるかもしれない。
﹁どうせ遺物潜りを知りたい理由を聞かれるんですから、同じだと
思いますよ?﹂
﹁それもそうか。嘘を吐くのも失礼だしな﹂
﹁そうだね、嘘をつかれるのは寂しいからね﹂
﹁⋮⋮いつからそこに居ました?﹂
クローナとの会話にいきなり割って入ってきた声に振り向けば、
アンムナが湯気が立つカップの載ったお盆を抱えてニコニコしてい
227
た。
﹁君が僕の言葉の真意に気付いたところから。やっぱり異世界から
来ていたんだねぇ﹂
しみじみと何かを思い出すように言って、アンムナは机の上にカ
ップを並べていく。
キロとクローナ、アンムナの分に加えて、物言わぬアシュリーの
前にもカップは置かれた。
不思議そうに見るキロとクローナの視線に気付いたのか、アンム
ナは肩を竦める。
﹁アシュリーにも出しておかないと、もし動き出した時に怒られて
しまうだろう? まぁ、怒られるのも嫌いじゃないけどね﹂
冗談めかしたアンムナの言葉にキロは愛想笑いを浮かべる。
魔法のある世界で人形が動き出した時の事を語られると洒落にな
らない気がするキロだった。
﹁さて、僕としては色々と聞いておきたいところなんだけれども、
まだ知らない方がいい気もするんだ。さしあたって、君は遺物潜り
について知りたいから僕を訪ねた、という認識でいいかな?﹂
アンムナが切り出すと、キロは頷いて肯定した。
﹁遺物潜りで俺が住んでいた世界に帰れるかを知りたいんです﹂
﹁⋮⋮へぇ、なるほど。そういう流れなのか﹂
アンムナは独り言を呟き、何かを思い出すような目をしながら言
葉を選ぶ。
228
言うべきこと、言わざるべきことの取捨選択をしているような、
そんな態度だった。
やがて、アンムナはキロ達へと視線を戻した。
﹁結論から言うと、君が住んでいた世界への帰還は理論上︱︱可能
だ﹂
アンムナが断言し、キロは思わず身を乗り出した。
隣でクローナがびくりと肩をはねさせた気がして、キロは目を向
けるが勘違いだったのか首を傾げられた。
アンムナが何やら苦笑する。
﹁ただ、理論上は可能というだけなんだ。ひとつ、難題が立ちふさ
がっているからね﹂
﹁難題、ですか?﹂
キロが反駁すると、アンムナは深刻な表情で頷いた。
﹁遺物潜りには媒介が︱︱その世界で死んだ者の遺品が必要なんだ﹂
229
第二十二話 ちょっと良い宿
キロとクローナはアンムナの家を辞し、宿を捜し歩いていた。
キロが遺物潜りを習いたいと申し出ると、アンムナは快諾してく
れたが、実際に教えるのは明日からだと言われたのだ。
キロとしても、焦ったところで意味がないと分かっている。
︱︱遺品、と言われてもなぁ。
遺物潜りの魔法を発動させるために必要な物は死者が何らかの念
を残した品物だという。
遺品に残された念を頼りに、念が宿った直後の世界への扉を開く
魔法なのだ。
しかし、キロに遺物潜りの情報をもたらした武器屋のカルロは失
敗作だと言っていた。
アンムナに問えば、苦笑交じりに答えが返ってきた。
遺物潜りは同一世界間の移動、つまりは時間移動が出来ないのだ。
世界Aから世界Bへ行く事は出来ても、世界Aから世界Aの前日
に行く事は出来ない。
この制約故に、アンムナは理論を完成させたものの実際に発動し
た経験がなかった。
この世界では別の世界から人や物がやってくる事例がいくつか報
告されているが、別の世界の遺品が簡単に手に入るほど豊富に転が
っているわけでもないからだ。
だが、キロは遺物潜りが理論だけの魔法ではないと考えていた。
︱︱俺がこの世界に来る時に拾おうとしていた手袋も誰かの遺品
だったんだろうな。
キロはこの世界へ、遺物潜りで送り込まれたのだと見当をつけて
いた。
だとすれば、キロをこの世界へ送り込んだあの男はやはり、自分
230
だと考えるのがしっくりくる。
年齢がさほど開いているようにも見えなかったことから、元の世
界へ帰還するための遺品は直に手に入る可能性が高いだろう。
︱︱この世界を迂回して、遺物潜りを使った時間移動を起こした、
って事なのか。
ややこしいな、とキロは頭を掻く。
﹁︱︱キロさん、ここにしませんか?﹂
考えに耽っていたキロは、クローナに問われて面を上げる。
クローナが指差していた建物は、少し立派な作りをした食堂併設
の宿だった。
高級とはとても言えないが、それでも値が張るだろう事は想像に
難くない。
倹約家のクローナが提案したとは思えない宿に、キロは内心で首
を傾げる。
﹁これだけ大きな街なんだから、もっと探せば素泊まりの宿が見つ
かるだろ。わざわざこんなところに泊まらなくても﹂
﹁キロさんの世界へ行く目途が付いたんですから、こんな時くらい
贅沢しましょう﹂
明るい声で言ったクローナはキロの腕を取り、半ば強引に宿へ連
れ込む。
財布の紐を握っているクローナが言い出した事なのだから、とキ
ロは特に抵抗もしなかった。
まだ夕方にもならない早い時間だからか、カウンターに人の姿は
ない。
併設されている食堂で机を拭いていた娘が振り向いた。
童顔ながら、右目の下にある泣きぼくろがちょっとしたアクセン
231
トになって心にさざ波を立たせる色気がある。珍しいほどすらりと
長く伸びた肢体も美しい。
娘はキロとクローナに気付き、慌てて厨房へ声をかけた。
﹁父ちゃん、お客さんが来たよ!﹂
﹁おう、いま行く﹂
厨房から野太い返事がしたかと思うと、やけにエプロンが似合う
中年の男性が顔を覗かせた。
﹁いらっしゃい。今、食事の準備で手が離せないんだ。部屋は空い
てるから、そこら辺の椅子へ適当に座って待っていてくれるか?﹂
中年男性の言葉に、食堂にいた娘がてきぱきと椅子を用意した。
﹁ほら、こっち座って。今なんか軽くつまめる物だすからさ。お酒
は日が落ちてからだけど﹂
娘はわざわざ椅子を引いてキロ達が座りやすいようにする。
礼を言って、キロとクローナは椅子に腰かけた。
娘が厨房を振り返り、声を張り上げる。
﹁父ちゃん、何してんの! 早くから来てくれたお客さんなんだか
ら、もてなしなよ!﹂
﹁うっせぇ、手が離せないって言ってんだろうが! お前がやれ、
気がきかねぇな!﹂
荒っぽく言葉を交わした後、娘は営業スマイルでキロとクローナ
を見る。
232
﹁つかぬ事をお聞きしますけどお二人さん、一緒の部屋に泊まる?﹂
娘は片手で口元を隠しつつ、冗談めかして問う。
クローナがピクリと肩を跳ねさせた後、俯き加減で赤い顔を頷か
せた。
クローナの返事に満足そうな顔をした娘は、ニコニコしながら厨
房へ歩き出す。
厨房へ姿を消す直前、娘はキロを振り返り、親指を立てた。
︱︱やっぱり、勘違いされてるな。
予想できた反応なので、キロは苦笑するにとどめた。
﹁本当に同じ部屋で良かったのか?﹂
﹁⋮⋮今後の事でお話もありますから﹂
ぼそりと呟いて、クローナは上目使いにキロを見る。
なるほど、とキロは納得する。
この宿ならば壁は厚く、異世界がどうのという話をしても外に漏
れる心配は少ないだろう。
クローナやアンムナのような理解ある人間ばかりではないのだ。
秘密にしておくに越した事はない。
︱︱今後の事か。
そう言われてキロが思い出すのは司祭の言葉だった。
クローナの口から直接聞かされたわけではないにしろ、司祭の言
葉なら大きく間違ってはいないだろう。
では、問題となるのは自分だ、とキロは考える。
現代社会は突如として現れた人間には優しくできていないのだか
ら。
﹁あの、いろいろと考えるのは部屋に案内されてからにしましょう﹂
233
キロが悩み始めた気配を感じ取って、クローナがストップをかけ
る。
﹁そうだな﹂
あっさり頷くと、クローナはほっとしたように胸を撫で下ろした。
厨房への通路から娘が顔を出した。
﹁お客さん達、運がいいよ。足が速いからこんな時間でもなければ
出せない料理なんだから﹂
はいどうぞ、と娘が料理の盛られた皿をテーブルに置く。
放射状に並べられた薄切り肉の真ん中にトマトのような黄色い野
菜が置かれていた。
薄桃色の肉は一瞬生かと思ったが、フォークで持ち上げてみた感
触から察するに火は通してあるらしい。
口へと運んでみれば舌の上でほどける肉の柔らかさが楽しめた。
少々臭みがあるが、野菜を食べると甘い香りに紛れてすぐに分から
なくなるほどのものだ。
﹁どうよ、料理への期待が高まったでしょう? それはサービスだ
からお金は取らないよ。はい、あれがメニュー﹂
壁にずらりと掲げられた料理名を指差して、娘は机の拭き掃除に
戻った。
︱︱さらっと無料にしてくれたけど、これかなり美味いんだが。
キロは皿へとフォークを伸ばしつつ、クローナを見る。
視線が合った。
﹁⋮⋮取り合いにならないうちに、半分にしませんか?﹂
234
﹁そうした方が良さそうだ﹂
クローナの提案にすぐさま同意したキロは、皿に盛られた肉を二
カ所に振り分ける。
後ろでクスクスと笑い声がして振り向けば、宿の娘がしてやった
りといった笑みを浮かべていた。
まるで悔しさが浮かんでこない。むしろこの料理と出会わせてく
れたことに感謝の念すら浮かんでくる。
﹁お客さん、昨日仕入れた美味しいチーズがあるんだ。柑橘系の果
実の皮をペースト状にして練り込んだやつでね。サラダに混ぜてみ
たいなって前々から考えててさ。どう?﹂
キロは反射的にクローナを見る。再び視線が合い、同時に頷いた。
﹁サラダを一皿﹂
﹁はいよ、すぐ用意するね﹂
埃を立てずに軽快な足取りで厨房へ引っ込んだ娘の代わりに、エ
プロン姿の中年男性が出てきた。
カウンターから宿泊名簿を取り出すと、キロ達の前に置く。
﹁待たせちまって悪かったね。部屋一つ、ベッドはどうする?﹂
﹁二つで﹂
流石にここで誤解を招きたくはない、とキロとクローナは声を合
わせて答えた。
間髪いれずに即答されて、エプロン中年はたじろぐが、すぐに気
を取り直して名簿に部屋などを記入した。
カウンターから鍵を取ってきて、クローナとキロを見比べる。
235
﹁キロさん、鍵を受け取ってください﹂
﹁俺の肉を虎視眈々と狙う奴の前で、フォークは手放せない﹂
﹁ちっ﹂
一足先にサービスの肉を食べきっていたクローナは、キロに見透
かされて舌打ちする。
料理を巡って牽制し合っていたと知ったエプロン中年は嬉しそう
に笑った。
﹁娘の創作料理でね。肉に特製の下味をつけたりして、なかなかだ
ろ?﹂
﹁︱︱父ちゃん、お客さんと話す暇なんかないでしょ!﹂
木の皿にサラダを入れて運んできた娘に叱られて、エプロン中年
はすごすごと厨房へ消えた。
運ばれてきたサラダもやはり、舌を楽しませてくれた。
日が落ちて、食堂が酒場の様相を呈してきた頃、キロとクローナ
は二階の客室へ上がった。
十畳ほどの広さの客室は余裕をもって家具が配置されている。む
ろん、ベッドも二つあった。
円机を挟んで二つ、編み椅子が置かれている。
キロ達は編み椅子に腰かけ、部屋に備え付けのコップに水差しか
ら水を注いだ。
﹁︱︱では、今後の事について話し合おうと思います﹂
おもむろに、クローナが切り出した。
236
﹁直近の課題としては、アンムナさんから遺物潜りを習う事、だな。
クローナはどうする?﹂
﹁私も一緒に習いたいです。ただ、行方不明者の捜索がありますか
ら⋮⋮﹂
﹁それは俺も一緒に探すよ。だとすると、捜索を終えた後にアンム
ナさんのところへ行く事になるな﹂
結構ハードなスケジュールになりそうだ、とキロは内心ため息を
吐く。
しかし、遺物潜りを習得できるまでの宿泊費などを考えれば、ギ
ルドの依頼を受けないわけにはいかない。
どうせ依頼を受けるのならば、クローナを一人にするより一緒に
いた方が良いとキロは思う。
パーンヤンクシュの騒動以来、心に決めていた事だ。
﹁キロさんも一緒に居てくれるなら心強いです。明日は朝一でギル
ドに行って、捜索依頼を終えた後でアンムナさんのところへ行きま
しょう。それで、遺物潜りを習い終えた後、ですけど﹂
クローナは言葉を切り、キロの荷物を見る。
﹁キロさんの世界の物をどうやって探すか、ですね﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
他に決めるべき事があるが、キロはあえてクローナの話題に乗る。
決めるべきではあるが、いま決めなくてはいけないものでもない、
とキロは自分に言い聞かせる。
たとえそれが問題の先送りにすぎないと分かっていても、キロは
まだ自分がどうしたいのか決めかねていた。
237
第二十三話 森の捜索
昨夜と同じく美味しい料理を食べ、キロ達は宿を出た。
すでに太陽は登っており、通りは賑わっている。
ギルドの入り口を潜ると、忙しなく行ったり来たりする人々に紛
れて統一された鎧を着込んだ集団の姿があった。
﹁⋮⋮カッカラ騎士団です﹂
クローナがキロに耳打ちする。
言われてみれば、鎧の肩に描かれたマークや羽織ったマントの刺
繍と同じ文様が防壁の門の上に刻まれていた気がする。
︱︱誘拐事件の関連で情報交換でもしてるのか。
騎士団を横目に、キロとクローナは受付にいたオールバックの男
性職員に声をかける。
﹁待っていましたよ。お二人には行方不明者の捜索を行ってもらい
ます。本来はもう二組は捜索に当てたいのですが、人手不足で⋮⋮﹂
苦い顔でオールバックの職員は言葉を濁す。
人手不足についてはキロ達も承知している。
近隣の町に応援を頼んでいるくらいなのだから、相当だろう。
﹁では、こちらの地図の印がついている地点を捜索してください。
こちらの紙には行方不明者について簡単に情報を纏めておきました。
詳細が知りたければ、騎士団の詰め所で冒険者カードを提示してく
ださい。ある程度の情報は開示されます﹂
238
オールバックの受付が差し出した地図を受け取り、クローナが眉
を寄せる。
キロが覗き込めば、昨日オールバックの男性から捜索済みだと聞
かされた地点にも印が付いていた。
︱︱これって、つまり⋮⋮。
キロは印の意味するところを瞬時に察したが、クローナは分から
なかったらしい。
﹁この印って︱︱﹂
﹁クローナが付けたところだな﹂
問いかけようとしたクローナの声に被せるように、キロは誤魔化
した。
クローナの手から地図を奪いながら、キロは続ける。
﹁早く終わらせよう。アンムナさんのところにも行かないといけな
いんだから、日が暮れる前に終わらせたい﹂
キロがさり気なくアイコンタクトを図ると、クローナも何かがあ
ると理解できたらしい。
クローナは小さく頷いて、オールバックの受付に向き直った。
﹁⋮⋮そうですね。日暮れまでには回り切れると思います。こちら
にも私用があるので、夜の捜索はできないんですけど、良いですか
?﹂
﹁構いませんよ。ただし、ご自分で言いだした以上、日暮れまでに
は必ず戻ってください。それまでに戻ってこなかった場合、行方不
明としてギルドが捜索に当たらなくてはなりませんから﹂
オールバックの受付に念を押されて、キロ達はギルドを後にした。
239
防壁へ向かいながら、キロはクローナに地図を返す。
クローナが物問いたげな視線を向けてきたが、ギルドの側には冒
険者が多いため無視する。
キロが口を開いたのは、防壁の門を潜って森に足を踏み入れてか
らだった。
﹁調査済みの場所をもう一度調べさせるって事は、前回までの調査
が信用できないって事だ。俺達が調べるよりもな﹂
﹁前回に調査したのは当然依頼を受けた冒険者ですよね。行方不明
者は誘拐されたと考えられていて、誘拐犯がギルドの冒険者って事
ですか?﹂
クローナに確認するように問われ、キロは頷く。
﹁ギルドはその線を疑ってるって事だろうな。俺達に日暮れまでの
刻限が決められたのも、口封じで消されたらすぐに動く準備がある
って事の示唆だよ﹂
︱︱きな臭くなってきたな。
キロは内心でため息を吐く。
クローナが少し考えた後、口を開いた。
﹁なんで私達の調査結果は信用されるんですか?﹂
﹁アリバイがあるからだろう。行方不明事件が起きている間、俺達
はカッカラに入っていない上に、別の町のギルドで依頼を受けてい
たんだから﹂
話している内に、第一の調査場所が見えてくる。
何の変哲もない森の中だが、地面を見回すと木の根がない。ここ
だけ少し開けているようだった。
240
﹁二年前にここにあった香木が倒れたんです。その時に根まで掘り
返されて回収されたんですけど、日当たりの悪い場所なので草もあ
まり生えないんですよ。掘り返して埋めるなら良い場所だと思いま
す﹂
何を、埋めるのかは明言せず、クローナは説明する。
キロは頭上を塞ぐ樹の葉を見上げた。少し太陽の光が漏れている
が、じめじめした空気を払拭するほどの力はない。
キロは視線を下げ、樹の幹を見る。
﹁特に違和感はないな。地面も掘り返されてない﹂
キロは感想を口にして、クローナを振り返る。
クローナは首を傾げて、地面を蹴っていた。
﹁硬いですね。ここはハズレです。次に行きましょう﹂
見切りをつけ、クローナは次の場所へ歩き出す。
キロもクローナの横に並んだ。
受付で渡された行方不明者の情報が書き込まれた紙に目を通す。
行方不明者は全部で七人、性別や年齢などに共通点はない。
行方不明者の中で唯一の冒険者は男性。戦闘経験が豊富だったよ
うだ。強盗団や盗賊団の討伐、捕縛を主に依頼として受けて生計を
立てていたらしく、経歴からは対人戦のスペシャリストといった印
象を受ける。
多発する行方不明者についての調査をしていたが、パン屋への聞
き込みを終えた後、忽然と姿を消した。
自分の意志で失踪したとは思えず、冒険者として腕も立つこの男
性がギルドに冒険者を疑うきっかけを与えたのだろう。
241
﹁誘拐か、殺人と死体遺棄か、犯罪の線が濃厚だな﹂
だからこそ、ギルドもキロとクローナにこうして死体探しをさせ
ている。
キロは他に分かる事はないかと資料を眺める。
しかし、無作為抽出したのではないかと疑いたくなるくらい、共
通点がなかった。
︱︱目についた人を適当にって事もないだろうし。
誘拐現場を押さえられた事例はないのだ。犯人はそれなりに気を
使って犯行に及んでいると考えられた。
昼間に買い出しへ出かけた青年が帰宅途中に消えた案件もあり、
昼間に人を密かに運搬できる乗り物や通路の存在が窺える。
﹁クローナ、この辺りって下水道や上水道はどうなってるんだ?﹂
﹁どちらもありますよ。騎士団の管轄だったはずです。でも、中は
頻繁に改められますよ。浮浪者のたまり場になったりしますから﹂
﹁いや、この場合は通路として使えるかどうかが問題なんだ。動作
魔力を使えば、人を運ぶのに腕力が関係ないとはいえ、昼間はどう
しても目立つ。人目につかない手段がどうしても必要になる﹂
クローナはキロの意見を理解して、首を振った。
﹁カッカラに戻ったら騎士団に問い合わせてみましょう。さしあた
って、あの場所の調査を始めます﹂
そう言ってクローナが指差したのは、五メートルほどの高さの崖、
その半ばに空いた洞穴だった。
地球であれば梯子などの道具が必要な高さだが、キロとクローナ
は特に相談する事もなく魔法で土の壁を作って足場にする。
242
中に入ってみると、少し下り坂になっていた。奥には水が溜まっ
ており、水溜りを越えれば上り坂になっているようだ。
クローナが魔法で明かりを灯し、洞穴の内部へと足を踏み入れる。
キロは入り口から外を眺め、魔物などが追ってこないかを確かめ
た。
クローナに続いて入った洞穴は並んで歩いても余裕があるほどの
広さだった。
水溜りはくるぶしが沈むほどの深さがある。
﹁絶妙に嫌な深さだな﹂
﹁パーンヤンクシュみたいに火の魔法で乾かしますか?﹂
﹁一酸化炭素中毒が怖いからやめておこう﹂
﹁いっさん⋮⋮?﹂
説明が面倒臭い、とキロは先を目指すが、クローナは不満そうに
頬を膨らませた。
﹁知らない言葉を使われるとすごく意味が気になるのは何故でしょ
うか?﹂
﹁言葉の意味より言葉に込められた意思の方が気になってるのかも
な﹂
﹁⋮⋮良い感じにまとめてはぐらかそうとしてませんか?﹂
﹁察しが良いな﹂
ぐぬぬ、と喉の奥から聞こえてきそうな顔で、クローナはキロを
睨む。
キロは肩を竦めた。
﹁愛を囁かれても気付けないから、知らない言葉の意味が知りたく
なるんだよ、きっと﹂
243
﹁話をそっち方面に持っていけば私がたじろぐと思ったら大間違い
です!﹂
もういいです、とクローナはそっぽを向く。
どうやら、からかわれていることに気付いたらしい。
キロは反省しつつ、クローナを宥めようと口を開く。
しかし、不意に足元の感触が変わった事に気付いて口を閉ざした。
クローナも怪訝な顔で足元を見て、魔法の光を強くした。
照らし出されたのは、骨だった。
転がっている頭骨は人の物ではなく、猪のようにキロには見えた。
﹁多分、グリンブルの骨ですね﹂
キロは記憶からグリンブルの姿を引っ張り出し、特徴的な牙が転
がっていないかと辺りを見回す。壁際に一対、それらしき尖った白
い物体を見つけた。
クローナは大腿骨らしき骨をじっと見つめ、小さな声でキロにさ
さやきかける。
﹁この骨、新しい上に齧った跡があります⋮⋮﹂
﹁⋮⋮顎でも鍛えてたんだろ。あいつが、さ﹂
キロは洞窟の奥を見つめながら、引きつった笑みを浮かべる。
クローナが強くした魔法の明かりが照らす洞窟の奥から、毛虫が
這いずってきていた。
人を頭から丸かじり出来そうな大きさではあったが、姿形は間違
いなく毛虫だ。
どうやら、この洞窟そのものが目の前の魔物の根城だったらしい。
毛虫が這いずる音を聞いてクローナが顔を上げ、硬直した。
毛虫のドギツイ色とクローナの反応から大体の予想はついていた
244
が、キロは確認の意味を込めて問いを発する。
﹁毒、ある?﹂
﹁毛に強烈なのがあります。普通は飛び散っても大丈夫なように、
遠くから仕留めます﹂
後退りしながらのクローナの答えに、キロは毛虫を見る。
接近戦を挑むには相性が悪い相手だ。体を覆う毒毛はキロの持つ
槍の長さ程もある。
下手に突きでも放とうものなら、毒毛に触れかねない。
﹁逃げようか﹂
﹁賛成です﹂
ズリズリと這ってくる毛虫はお世辞にも俊敏とは言えない。
キロとクローナは即座に毛虫に背を向け、走り出した。
無事に洞窟を出て、キロ達は背後を振り返る。
毛虫の派手な色はどこにも見えない。諦めが早いらしい。
その後もキロ達は夕方まで捜索を続けたが、何も発見できなかっ
た。
245
第二十四話 騎士団の捜査資料
﹁ははは、それは災難だったね﹂
膝を打って心の底から楽しそうに笑いながら、アンムナがキロと
クローナの話に同情した。
巨大な毛虫に追いかけられた話のどこが琴線に触れたのか、アン
ムナはしばらく腹を抱えて笑う。
アンムナの隣は相変わらず揺り椅子に座ったまま動く事のない女
性の姿、アシュリーがあった。
アシュリーが入った透明なガラスケースに寄りかかって笑うアン
ムナの姿は、どこか狂気染みて見える。
ひとしきり笑ったアンムナは目元に浮かんだ笑い涙を拭い、それ
にしても、と続けた。
﹁グリンブルの骨が崖の上の洞窟にあったというのは、奇妙だね﹂
﹁やっぱり、そう思いますか﹂
キロとクローナも森から帰る途中で不自然さに思い至り、意見を
交わしたのだ。
毛虫の魔物の動きは鈍く、グリンブルを仕留められるとは思えな
い。よしんば、毒で倒したのだとしても、崖の上まで引きずり上げ
るほどの力が毛虫にあるのだろうか。
動作魔力を使えば可能だが、毛虫の動きは動作魔力で補佐してい
たにしては鈍かった。
﹁君達が出会った毛虫の魔物だけど、毒に頼るから動作魔力を使わ
ないんだよ﹂
246
アンムナの言葉は、キロの予想を裏付ける。
残された可能性はグリンブル自らが崖に上ったか、毛虫以外の何
者かに運び込まれたかだ。
しかし、クローナと共に辺りを探索した結果、グリンブルが崖の
周囲を縄張りにしていた形跡はなかった。
それどころか、崖の周囲を縄張りにしている魔物自体が確認でき
なかった。毛虫が根城にしているくらいなのだから当然かもしれな
い。
では、何者かがグリンブルを運び込んだのか。
︱︱どんな理由で?
考え込むキロとクローナだったが、唐突にアンムナが手を打ち合
わせて注意を引く。
﹁さぁ、考えるのは後にして、遺物潜りについて教えようか﹂
本来の目的を忘れていた事に、キロとクローナはばつの悪さを感
じて視線を泳がせた。
特に小言を口にせず、アンムナは説明を始める。
﹁まず、遺物潜りに必要な物は普遍魔力と渡る世界への道を繋ぐ媒
介の遺品。死者の念と遺品の記憶から世界を特定し、道を繋ぐ魔法
だからね﹂
昨日聞いた基本を復習しながら、アンムナは小物入れからインク
壺を取り出した。
﹁遺品には異世界へ送る人数の容量があってね。どんな物でも四人
が限度なんだけど、君達二人くらいなら大丈夫だろう﹂
247
アンムナがキロとクローナを順に見て、一つ頷いた。
キロはメモを取りつつ、疑問を口にする。
﹁遺品ならどんな物でも使えるんですか?﹂
キロにとってはかなり重要な事柄だ。
せっかく元の世界の品を手に入れても、遺品でなければ発動しな
いというのに、遺品であっても他に条件があるならば媒介の入手は
非常に困難を伴うだろう。
キロの願いとは裏腹に、アンムナは無情にも首を振った。
﹁物は人の手を渡る物だからね。一番強い念が優先されるから、異
世界から流れてきたものでもこの世界の所有者の念を宿して使い物
にならなくなる場合もある。それに、死者が必ずしも念を込めると
は限らない﹂
発動させてみればわかるけどね、とアンムナは続けた。
念が込められているかどうかを調べる方法は発動させる以外にも
あるらしく、後日教えてくれるとの事だった。
クローナが一杯一杯になっているが、キロがメモを取っている事
もあってアンムナは容赦なく説明を続ける。
﹁遺物潜りは世界を渡った後、遺品に込められた念を何らかの形で
晴らす事で帰還の道を開く事が出来る﹂
アンムナの言葉に、クローナがぴくりと反応を示す。
﹁この世界に帰って来れるんですか?﹂
身を乗り出し勢い込んで訊ねたクローナに、アンムナが思わず仰
248
け反る。
﹁帰って来れるよ。例えば、お墓に花を供えて欲しい、という念が
遺品に込められていたなら、墓を建てて花を供えてあげれば帰還の
道が開く。そういう風に、この魔法陣を組み立ててあるからね﹂
アンムナはそう言って、魔法陣が描かれた一枚の紙を取り出した。
何本の線で構成されているのか分からない複雑怪奇な魔法陣だ。
キロとクローナは魔法陣を一目見て、戦慄する。
﹁⋮⋮まさか、その魔法陣を覚えないといけない、なんて事は︱︱﹂
﹁あるよ﹂
当然だろう、とばかりにアンムナはにっこりと微笑んだ。
異世界行きの扉に掘られた文様は努力しない者を拒む方針らしい。
キロ達は仕方なく、魔法陣習得のための書き取りを始めるのだっ
た。
礼を言って翌日の訪問許可を取ると、キロとクローナはアンムナ
の家を後にした。
まっすぐ宿に向かう事も考えたが、少し道を逸れて騎士団の詰め
所に向かう。
行方不明者についての情報が欲しかったのだ。
﹁宿代をギルドが負担って、高待遇ですよね﹂
クローナがしみじみと言う。お金の心配から解放されて嬉しそう
だ。
キロ達は森での調査報告をギルドにした際、オールバックの受付
249
からギルドが宿代を負担すると聞かされた。
無論、ただでそんな高待遇を受けられるはずもない。
﹁危険手当みたいなものだろ。それに、下手な宿に泊まられて口封
じされるより、完全に居場所を把握しておいて誘拐された直後から
捜査を開始できる体制を整えたほうが、ギルドにとっても都合がい
い﹂
いうなれば、キロ達は囮なのだ。
待遇を見るに、調査にあたっていた冒険者が消えた事実はギルド
に重く受け止められているらしい。
キロの推理はなかなかの説得力を持っていたが、クローナのお気
に召さなかったらしい。
不服そうに唇を尖らせて、クローナがキロを横目に睨む。
﹁もっと好意的に受け止めましょうよ。ギルドの予想以上の早さで
調査を終えた私達の有用性が評価された、とか﹂
﹁確かにクローナのおかげで迷わなかったから調査は早く済んだけ
ど、調査が時間の大部分を占めてるんだから誤差の範囲だろ﹂
キロは真っ当な意見を口にするが、クローナの機嫌をますます損
ねるだけだった。
もういいです、とそっぽを向くクローナに、キロは頭を掻く。
︱︱好意的に捉えて周りへの警戒が薄れるよりはましか。
クローナへのフォローはせず、キロは目の前に見えてきた騎士団
の詰め所を観察する。
歩哨に立つ鎧を着込んだ騎士は勇ましく、ともすると厳めしい。
だが、道に迷ったらしいお婆さんに地図を提示して道順を教えて
いる姿は親しみやすさを覚える。
日本でいう所の交番のような役割があるのかもしれないな、とキ
250
ロは自身の感覚に照らし合わせる。
お婆さんが騎士へ礼を言って道を歩き出したのを見計らって、ク
ローナが騎士へ声をかける。
﹁ギルド所属の冒険者です。連続失踪事件に関しての情報を閲覧し
たいのですが、構いませんか?﹂
冒険者カードを提示すると、すんなりと詰め所の中へと通された。
ギルドとの連携は案外しっかりしているのだろう。
詰め所の中の一室に案内され、分厚い資料を目の前の机にどさり
と置かれる。
難解な魔法陣の書き取りをした後だ。キロ達は資料を見ただけで
目がちかちかしてくる。
資料の盗難を防ぐためなのか、キロ達の対面の椅子に初老の騎士
が腰を下ろす。
白い顎鬚を蓄えた老騎士は紳士的な手振りで資料の閲覧を促した。
ここまで来て帰るわけにもいかないため、キロ達は資料を捲り、
目を通す。
クローナから少しずつこの世界の文字を学んでいるキロと欠かさ
ず日記をつけているクローナの読む速さには雲泥の差があった。
見かねた初老の騎士がキロのために資料を読み上げてくれる。
﹁︱︱それで、何か気付きましたかな?﹂
資料をいくらか読み終えて、初老の騎士がキロ達の意見を訊く。
資料の大半は失踪者達の暮らしぶりや交友関係だ。
﹁聞いた限りでは失踪する動機がなさそうですね﹂
クローナが資料をぺらぺらとめくりながら呟く。
251
キロも同じ意見だった。
生きていれば悩みの一つや二つある物だが、逆に楽しみの一つや
二つもある物だ。
失踪者は皆、深く思い悩んでいたようには思えない。
﹁お二人もそう思われますか﹂
初老の騎士もまた、キロ達の意見に賛同する。
キロは資料を捲り、カッカラの地図に赤い線が書き込まれたペー
ジを開く。
﹁失踪した冒険者の足跡が妙ですよね﹂
﹁普通に捜査しているだけに見えますけど?﹂
キロが赤い線をなぞりながら指摘すると、初老の騎士へ通訳した
後でクローナが首を傾げた。
しかし、初老の騎士は心当たりがあったらしく、腕を組んで頷い
た。
キロは初老の騎士と基礎事項を摺合せつつ、クローナにも理解で
きるように言葉を選ぶ。
﹁失踪した冒険者は、一連の失踪事件から殺人の可能性を除外して
捜査していた節があるんだ。でも、この段階ではまだ失踪か誘拐か、
はたまた殺人と死体遺棄なのか、判断する材料が足りなかったはず﹂
キロは赤い線上のいくつかの点を指先で叩く。
﹁この時点では森の調査もろくに行われていなかった。なのに、冒
険者はどうしてかパン屋への集中的な聞き込みを行っている﹂
252
キロが叩いた場所は全てパン屋だ。カッカラは人口が多いだけあ
って、パン屋も複数存在している。
死体が食べ物を必要とするはずもなく、食べ物屋への重点的な聞
き込みは失踪者が生きていると冒険者が考えていた事を窺わせる。
キロが冒険者の思考を推理すると、クローナが片手をあげて発言
を求めた。
﹁可能性を一つ一つ潰していたのかもしれませんよ?﹂
﹁それにしては無駄が多い﹂
キロは最初の失踪者の家を指差す。
キロが二番目の失踪者の家を指そうと場所を探すと、初老の騎士
が先にここだ、と指を置いた。
どちらの家も、冒険者が失踪当日に聞き込みをしていた道の上に
ある。
﹁なんで冒険者はこの二軒に立ち寄って聞き込みをしなかったんだ
ろうな﹂
そう、冒険者は失踪事件を捜査していたにもかかわらず、失踪者
の家に訪問していないのだ。
クローナは少し考えた後、口を開く。
﹁騎士団の聞き込み報告を見れば十分だと思った、とか?﹂
﹁それはないよ。家族から話を聞く手間を惜しむような人なら、路
地裏のパン屋まで足を伸ばしたりはしない。捜査は足で稼ぐもの、
って考え方を地で行ってるんだ、この人は﹂
キロが言うまでもなく、地図上の赤線を見れば冒険者のマメさが
よく分かる。
253
カッカラ中のパン屋を巡る旅でもしているのかと思うほど、あち
こちに足を伸ばしていた。
初老の騎士が面白い物を見るような目をキロに向ける。
﹁捜査は足で稼ぐもの、ですか。なかなかお詳しいですな。罪を犯
した経験がおありで?﹂
﹁⋮⋮普通、捜査に加わった経験の方を聞きませんか?﹂
悪趣味な冗談を飛ばす初老の騎士に、キロは白い目を向ける。
キロの視線をまるで意に介さず、初老の騎士は楽しげに口元を綻
ばせた。
﹁何かほかに気付いた事はありませんか?﹂
﹁何でパン屋だけを調べていたのか、ですね﹂
初老の騎士の質問に答え、キロは地図に視線を落とす。
誘拐しても、生かしておくためには食事が必要だ。主食としての
パンを調べるのは理に適っている、ように見える。
だが、生かしておくだけならばパンである必要はない。豆のスー
プでも食べさせておけば、金もかからず栄養の補給をさせる事が出
来る。
仮に栄養状態を気にしているなら、パンだけでなく肉や野菜も食
べさせるのが自然だろう。
失踪した冒険者の調べ方にはムラがあるのだ。
しかし、キロはカッカラに入る前にクローナから聞いていた。
カッカラの人口を支えている食料の大半は周辺に発生する魔物で
ある、と。
﹁失踪したこの冒険者、連続失踪の真相は冒険者による誘拐事件で、
犯人は被害者へ与える肉や野菜を周辺地域の魔物を狩る事で賄って
254
いる、と考えていたのでは?﹂
キロの推察にクローナが眉を寄せ、初老の騎士が大きく首を上下
させる。
だが、キロはここまでの推理に大きな穴がある事にも気付いてい
た。
キロが言及する前に、クローナが口を開く。
﹁なぜ、失踪した冒険者は犯人が被害者の栄養状態を保っている、
と考えていたのでしょうか?﹂
台詞をクローナに奪われた形になったが、キロは気にせず初老の
騎士を見る。
いま目の前に提示された資料から読み取れる範囲からできる推理
はここまでだ。
もし、推理が正解ならば、失踪した冒険者の考えの根幹にある情
報を騎士団が秘匿しているのではないか、とキロは邪推していた。
初老の騎士は﹁参ったな﹂と肩を竦める。
﹁実は、捜査資料は⋮⋮これがすべてでしてね﹂
﹁隠してはいない、と﹂
﹁えぇ、失踪した冒険者がまとめていたであろう資料さえ、ここに
はありません。犯人が持ち去った、と考えるべきですな。誘拐事件
の可能性が高い事はまだ他言無用に願います﹂
初老の騎士が嘘を吐いているようには見えなかった。
255
第二十五話 宿の夜
初老の騎士に礼を言って、キロ達は騎士団の詰め所を出た。
すでに夜更けと言っていい時間である。
すっかり出来上がった酔っ払いに絡まれそうになりつつ、キロ達
は宿に到着した。
昨夜と同じ宿だが、今回の料金はギルド持ちである。
入り口を潜ると、宿の娘が振り返った。
キロとクローナを視界に収めるや否や、宿の娘は待ってましたと
ばかりに厨房へ声をかける。
﹁キロ君とクローナちゃんだよ!﹂
宿泊者名簿を見て名前を覚えたのだろう、娘は厨房にいる宿の主
へ伝えた。
娘はキロとクローナに向き直り、その珍しいほど長く美しい腕を
伸ばす。
﹁聞いてるよ。ギルドが宿代負担してくれるって? 大物だね!﹂
すでに連絡が届いていたらしい。キロ達は調査を終えて戻ってき
た夕方頃にギルドで聞かされたが、その前から準備そのものは進ん
でいたのだろう。
宿代を踏み倒される心配はなく、失踪事件の調査が終わるまでは
宿に泊まる上客だ。娘がキロとクローナに向ける視線は獲物を逃が
すまいとする肉食獣のそれだった。
﹁部屋の準備するからさ、なんか食べちゃいな。サービスするよ﹂
256
娘はキロとクローナの腕を取り、食堂へと引っ張り込む。
夜も遅い時間だけあって、残っている客は少ない。おかげで座る
席には事欠かないが、キロは手前のテーブルに知った顔を見つけた。
﹁⋮⋮シールズさん?﹂
パスタをフォークに絡めていたシールズがキロの声に顔を上げる。
キロの姿を目に留めると、おぉ、と小さく感嘆するような声を漏
らした。
﹁キロ君か。この宿に泊まるとはお目が高い。というより、良い舌
をしているね﹂
パスタを口に持っていくシールズとキロを見比べて、娘が意外そ
うな顔をする。
﹁なになに、キロ君とクローナちゃんってシールズさんの知り合い
?﹂
﹁昨日、ギルドで少し話した程度です﹂
クローナが娘の問いに答える。まだシールズを警戒しているのか、
わずかに声が硬かった。
クローナの様子には気付かなかったのか、娘はほほぅ、とわざと
らしく感心するような声を出す。
﹁ギルドの有望株同士、惹かれあうものがあったわけだね。これも
似た者同士ってくくりに入るのかな?﹂
娘はシールズに視線を移した。正確には、シールズが食べている
257
パスタを見ていたようだが、何かを企むようにニンマリと笑う。
﹁似た者同士、食べ物の趣味もあうかもしれないね。シールズさん、
キロ君とクローナちゃんにお薦めを教えてあげてよ﹂
﹁そんな事を言って、キロ君たちに付き合うために僕が追加の料理
を頼むのを期待しているんだろう?﹂
﹁ばれたか﹂
シールズが楽しげに企みを見抜くと、娘は笑顔で肩を竦めた。
企みを見抜かれようとお構いなしで、娘はシールズの隣の席へキ
ロとクローナを案内する。
シールズは笑いながら娘の行動を見守りつつ、キロとクローナに
壁のメニューの一つを指差して見せる。
﹁美味しい魚が入っているそうでね。僕のお薦めはムニエルだよ﹂
娘の企みに乗って見せるつもりらしい。
昨夜は選ばなかった料理でもあったので、キロとクローナはムニ
エルを二人分頼み、スープとパンを追加した。
娘がキロとクローナの注文をメモし終えたのを見計らって、シー
ルズが声をかける。
﹁僕はサラダを貰おうかな。後、明日の朝食にしたいから持ち帰り
で何か作って欲しい﹂
﹁シールズさん、そろそろ料理を覚えたら? まぁ、儲かるからい
いんだけど﹂
﹁君が作りに来てくれると嬉しいかな﹂
﹁︱︱娘はやらん。俺が作りに行ってやろう!﹂
シールズが娘を軽い調子で口説くと、厨房から怒鳴り声が飛んだ。
258
﹁やっぱり遠慮しておくよ。ここに来ないと君の顔を見れないらし
いから﹂
シールズが肩を竦めると、食堂に残っていた客が一斉に笑う。
娘が注文を伝えに厨房へ消えると、シールズがキロに視線を移す。
﹁相変わらず、綺麗な髪に珍しい肌の色だね。日に焼けているわけ
でもなさそうなのに﹂
皿に残ったパスタを食べながら、シールズがキロの外見に言及す
る。
異世界から来たことを暴露する羽目になりかねないため、キロは
別の話題に逸らしてしまおうと口を開いた。
﹁この宿にはよく来るんですか?﹂
﹁顔馴染みではあるかな。一昨年に家を買った時、引っ越し祝いに
どこかで食べようと思って立ち寄ったのが切っ掛けだよ﹂
親しみやすい笑みを浮かべてシールズは答え、一昨年に買ったと
いう家がある方角を指差す。
よかったら今度遊びに来てくれ、というシールズにキロとクロー
ナは愛想笑いを返した。
シールズとしても社交辞令の一種で口にしたのだろう、無理に誘
う事はせずパスタを食べきる。
直後、シールズのテーブルにサラダと包みが置かれた。
﹁はい、追加だよ。こっちは明日の朝食ね﹂
娘がウインクして、キロとクローナの前にもパンとスープ、ムニ
259
エルを置いた。
﹁それじゃ、私は部屋の準備をしてくるよ﹂
ビシッと片手を挙げ、冗談めかして宣言した娘は階段に向かう。
その背中に、クローナが声をかけた。
﹁あの、部屋は二つお願いします﹂
娘の足が止まり、不思議そうな顔でクローナを振り返った後、キ
ロに視線を移す。
しばし逡巡した後で、娘は何かに気付いてわずかに目を見開く。
娘は踵を返し、キロの近くに歩み寄ると耳打ちした。
﹁フォローするからさ。喧嘩したのか、失敗したのか、どっちか教
えて?﹂
﹁︱︱どっちも違う﹂
キロの呟きを、クローナが首を傾げつつも翻訳して娘に伝える。
娘は顎に手を当てて考えた後、ひらめいた、という顔をして再び
キロに耳打ちする。
﹁使い物にならなかったの?﹂
﹁︱︱宿の人間ってそういう事ばっかり考えてんのか?﹂
﹁キロさん、何の話をしてるですか?﹂
困惑顔でクローナが問うと、娘はニンマリと笑った。
﹁部屋で教えて貰いなよ﹂
260
フォローするどころか思いっきり投げっぱなしにして、娘はキロ
の呼び止める声を無視して階段を上がっていった。
蚊帳の外に置かれたクローナが不満そうに唇を尖らせる。
﹁何の話をしてたんですか?﹂
﹁⋮⋮部屋は一つでいいのか、俺の意見を聞かれたんだ﹂
視線を逸らしつつ答えると、クローナは疑うような目を向けてく
る。
しかし、徐々に疑うような目つきが何かを思案するようなものに
変わった。
キロが視線を逸らし続けていた事で何か裏があると感じ取ったの
だろう。
キロとしては奥手なクローナに配慮して言葉を濁したため、あま
り深く考えて欲しくはないのだが⋮⋮。
︱︱あぁ、あの顔は気付いたな。
クローナの顔が見る見るうちに朱く染まるのを見て、キロは内心
ため息を吐いた。
その時、隣のテーブルでサラダを突いていたシールズが声を上げ
る。
﹁僕はそろそろ帰るとしようかな。キロ君達も捜査の方、がんばっ
てね﹂
シールズはキロの肩を親しげにポンと叩き、包みを持って食堂を
出ていった。
キロはクローナと共にシールズの背中を見送り、ふと湧いた疑問
に首を傾げる。
﹁シールズさんが持っていた包み、大きすぎないか?﹂
261
﹁三人前くらいあるように見えましたね﹂
キロとクローナが首を傾げていると、食堂に残っていた客の一人
が酒を片手に説明してくれた。
なんでも、明日の朝食と言いつつ、昼食も含んでいるらしい。
﹁シールズの奴、いつも森へ狩りに行くんだが、朝早くに出かける
せいで昼食を取らない事が多いんだと。それで、心配した宿の親父
さんが多めに作って渡してるんだ。ああすれば、食べきれなかった
分を弁当に出来るだろ﹂
キロは手元の料理を見る。
﹁頼めばお弁当を作ってくれたりしますかね?﹂
明日は失踪した冒険者の足跡を辿る事に決まっており、カッカラ
の外に出る予定はない。
どこかで見つけた屋台で何かを買う事も考えていたが、目の前の
おいしい料理を作る宿の主謹製の弁当にも興味があった。
キロが対面に座るクローナに相談しようとした時、すでにクロー
ナは席を立って厨房を覗いていた。
﹁お弁当って、作ってもらえますか?﹂
﹁おう、前払いで頼むぞ﹂
クローナは厨房から出てきたエプロンの似合う宿の主に銀貨を一
枚渡し、二人前を頼んで席に戻ってきた。
相変わらず素晴らしい行動力だ、とキロは感心する。
明日の弁当を楽しみにしているのだろう、上機嫌のクローナは階
段から降りてきた宿の娘のセリフに硬直する。
262
﹁ベッドは一つでいいの?﹂
すでに引いていたはずの朱色が、クローナの顔に戻ってくる様子
に苦笑しながら、キロは二つ用意して貰えるように頼んだ。
濡らした布で体を洗った後、キロは部屋へ戻った。
結局、部屋は一つのままだ。
ギルドが宿代を負担してくれている以上、あまり贅沢をするのは
良くないという事と、失踪した冒険者の二例目にはなりたくないと
いう理由からだ。
理由を二つともクローナが言い出した事にキロは少し驚いたが、
朱い顔で微塵の余裕もないクローナをからかうのは控えた。
どの道、クローナに手を出す気はないのだ。
元の世界に帰る目的がある以上、クローナに手を出しても責任が
持てないのだから。
﹁クローナ、入るぞ﹂
部屋の扉をノックして、キロは中へ声をかける。
少し時間をおいて、クローナがどうぞと返事をした。
扉を開けて部屋に入る。
﹁もう寝るのか?﹂
キロは後ろ手に扉を閉めつつ、クローナに問う。
クローナが、大事にしているモザイクガラスをあしらった髪飾り
を外していたからだ。
しかし、外された髪飾りはクローナの手元にあった。
263
クローナは髪飾りをランプの光にかざし、モザイクガラスの色を
楽しんでいる。
﹁キロさんの世界にはどんなアクセサリーがあるんですか?﹂
﹁あんまり詳しくないな。ピアスとか、腕輪とか、指輪とか、マニ
キュア⋮⋮は化粧の一種か﹂
キロが大雑把なくくりで羅列すると、クローナは興味を惹かれた
ように顔を向けた。
﹁似たような物はどの世界にもあるんですね。私の指輪、見てみま
すか?﹂
質問口調で言いつつ、クローナは鞄の中から小箱を取り出した。
見せびらかす気満々らしい。
︱︱司祭が言っていた、クローナの母親の指輪か。
クローナが小箱を開けると、中には緑色の石がはめ込まれた指輪
が鎮座していた。
石の奥には色の濃い部分があり、美しさという点では劣るものの
洒落た華やかさがあった。
カットの仕方や台座のデザインも単純な物で、恐らくあまり価値
のある指輪ではない。
しかし、大事そうに指輪が収まった小箱を両手で包むクローナの
笑顔は、指輪の値段など些細な物だと感じさせてくれる。
﹁いつの間にか無くなっていた母の指輪とそっくりなんですよ﹂
﹁無くなってた?﹂
キロがおうむ返しに問うと、クローナは頷いた。
264
﹁母が亡くなってすぐ、パーンヤンクシュの群れが襲ってきて、そ
の時のゴタゴタで無くなってしまったんです﹂
︱︱という事は形見その物ではないのか。
司祭の言葉と食い違うと一瞬考えたキロは、形見とは一度も言っ
ていないと気付く。
キロの早とちりだったらしい。
﹁その指輪はどうやって手に入れたんだ?﹂
﹁髪飾りの冒険者さんから貰いました﹂
モザイクガラスをあしらった髪飾りを指差し、クローナが答える。
キロは時系列を整理して、首を傾げた。
クローナの母が亡くなった後、パーンヤンクシュの群れが村を襲
い、パーンヤンクシュを撃退した冒険者が髪飾りと指輪をクローナ
に渡した。
髪飾りはともかく、指輪は冒険者が何らかの理由でクローナの母
の指輪を手に入れ、クローナに返したように思える。
キロの反応から考えを察したのだろう、クローナは首を振る。
﹁冒険者さんは母の指輪が無くなる前に同じ指輪を持っていました
よ﹂
つまり、クローナの村にはその当時、そっくりな指輪が二つ存在
していた事になる。
︱︱まさか、な。
キロは取り留めのない考えを浮かべた自分に苦笑した。
265
第二十六話 不動産リスト
朝を迎え、キロとクローナは部屋を出て一階に降りた。
カウンターで眠そうに目を擦っていた宿の娘が、キロ達を見るな
りピンと背筋を伸ばす。
客を気持ちよく送り出すのが仕事、と教育されているのだろう。
﹁おはようございます﹂
﹁おはようございます。お弁当は出来てるよ﹂
キロとクローナが挨拶すると、宿の娘はカウンター端に置かれて
いた包みに手を伸ばす。
届かないだろうとキロは一瞬思ったが、娘は持ち前の長い腕であ
っさりと包みに指先を届かせる。
︱︱テニスとか上手そうだな。
娘の長い腕を見つめてキロが考えていると、娘は何を勘違いした
のか腕を曲げて力こぶを作ろうとして見せる。健闘虚しく、二の腕
にはさしたる変化が見られない。
自身の貧弱な二の腕を見せつけた後、娘はクローナに横眼を投げ
る。
﹁キロ君は女の子の二の腕がお好き?﹂
﹁わ、私に訊かれても困ります﹂
クローナは少し赤い顔をして、胸の前で両腕を交差させ、バツ印
を作って見せる。
キロは女の子二人のやり取りに苦笑して、弁当の包みを受け取っ
た。
266
クローナを促して宿を出る。青空の高い所を白い雲が泳ぐ、良い
天気だった。
ギルドに向かって歩き出すと、キロはクローナが自分をちらちら
と窺っている事に気が付いた。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁⋮⋮ぷにぷにの方が好きですか?﹂
﹁ムニムニが好きだ﹂
適当に返すと、クローナは困り顔で﹁違いが分からない﹂と呟い
た。
ギルドに入ると、オールバックの受付が出迎える。
一体いつ休んでいるのだろうかと思う遭遇率だったが、この世界
に労働基準法があるかも分からない。
自由に働いて自由に休む世界であるなら、目の前の受付は間違い
なく仕事中毒だ。
クローナが昨夜騎士団の詰め所で情報を閲覧した事を報告し、失
踪した冒険者の足取りをたどる予定であると告げる。
オールバックの受付は少し考える素振りをしたが、結局は頷いて
許可を出した。
﹁ただし、くれぐれもご注意ください。⋮⋮犯人に狙われる可能性
が高いですから﹂
小声で注意を促され、キロとクローナは神妙な顔で頷いた。
昼頃に一度報告に戻る事を約束し、キロ達はギルドを出る。
賑わう通りを歩いていると、連続失踪事件が起こっているとは思
えない。
キロは昨夜作っておいたカッカラの地図を取り出す。聞き込みを
行う場所や相手を記してあるものだ。
267
大通りを抜け、最初のパン屋に入る。
朝の繁忙期は過ぎたためだろう、店内は客もまばらで聞き込みを
行っても邪魔にならなそうだった。
店番をしていた少年に声をかける。家族経営らしく、すぐに母親
を呼んできてくれた。
﹁あぁ、あの冒険者ね。騎士団に話した以上の事は特にないんだけ
ど﹂
確認がてらに用意した質問をしてみるが、騎士団の詰め所で閲覧
した情報以上の事は得られない。
︱︱切り口を変えないと無駄足に終わりそうだな。
元々、捜査のプロである騎士団が調べた後なのだから、素人のキ
ロ達が同じように調べても新発見は期待できない。
キロは新しい切り口はないかと考えたが、何も思いつかなった。
カウンターで釣銭が足りなくなったらしく、少年が母を呼ぶ。
店の奥からすぐに銅貨を補充して、母親は少年に銀貨を渡し、両
替して来いとお使いに送り出す。
カウンターには代わりに母親が立つ事になるようだ。
これ以上の聞き込みは店の邪魔になりそうだと思い、キロ達が礼
を言って店を出ようとした時だった。
少年がキロとクローナを交互に見ると、何か納得した様に大きく
頷く。
﹁シールズさんと違って彼女の尻に敷かれてなさそうだね﹂
一人納得したように何度も頷く少年が放った言葉にクローナが赤
くなる。
奇襲による一撃必殺、少年は将来大物になるだろう。
キロは無責任に考えつつ、少年に声を掛ける。
268
﹁シールズさんに彼女がいるのか?﹂
﹁シールズさん、女物の服をこっそり買ってたんだよ。北の定期市
で。定期市ならカッカラの外の人しかいないからばれないと思った
んだね、きっと﹂
にしし、と悪ガキらしい笑みを浮かべる少年だったが、店の中か
ら母親の声が飛び、慌てて通りを駆けだした。
しかし、少年は途中で振り返るとキロ達に向けて声を張り上げる。
﹁化粧品も買ってたよ﹂
駆けていく少年を見送り、キロはクローナと顔を見合わせる。
﹁そういえば、キロさんの髪が綺麗だって褒めてましたよね﹂
﹁女装癖でもあったりして﹂
キロが呟くと、クローナがこらえきれずに噴出した。
﹁予想はしてたけど、このままだと今日一日無駄にしそうだな﹂
キロはクローナに声をかける。
収穫のない聞き込みを続け、昼を迎えてしまった。
﹁騎士団も捜査に慣れてるだけあって、私達が考え付く程度の質問
は全部しているみたいですね﹂
クローナも困ったように呟いた。
二人そろって疲れたため息を吐き、ギルドに入って受付に挨拶す
269
る。
ただ単に無事を知らせに来ただけなので、すぐにギルドの端のテ
ーブルに向かった。
宿で渡された包みをほどくと、魚のフライと葉っぱが挟まれた物
や卵を挟んだサンドイッチが小さな編みかごに入っていた。
︱︱この世界にもサンドイッチ伯みたいな物ぐさがいたんだな。
元の世界におけるサンドイッチ誕生の逸話を思い出しつつ、キロ
はかじりつく。
クローナがサンドイッチを齧るが、進展しない捜査が気になるの
か、あまり美味しそうに食べていない。
﹁午後はどうしましょうか?﹂
﹁捜査の切り口を変えるしかないだろうな﹂
失踪した冒険者が聞き込みをしたパン屋は回りつくしてしまった。
パン屋の位置にバツ印をつけた地図を見て、キロは思案する。
﹁犯人がパン屋以外で食料品を買ってるかもしれないし、不審な客
がいなかったか訊いてみるか﹂
﹁肉屋とかも回るって事ですよね。かなりの数になりますけど⋮⋮﹂
﹁捜査は足で稼ぐものだって、言っただろ﹂
キロの言葉に、クローナは渋々頷いた。彼女も他に良い案がある
わけではないらしい。
それにしても、とキロは地図を見ながら疑問に思う。
﹁誘拐しておいて、栄養状態を気にする理由ってなんだと思う?﹂
﹁奴隷として売る以外にありますか?﹂
クローナの答えはキロにとっては中途半端な物だった。
270
しかし、キロが言及するまでもなくクローナも思いついているら
しい。ただ言わないだけだ。
︱︱売春させるとかも可能性の一つなんだよな。
見目麗しければ高値が付く商売だ。いやな表現だとキロも思うが、
栄養状態の管理は商品価値の維持につながる。
だが、キロは失踪者のリストを思い浮かべてため息を吐く。
失踪者の中にはあまり見た目の良くない者も含まれているのだ。
男娼でも一部に需要があるだろうが、誘拐するなら見た目が綺麗な
者を狙うだろう。
︱︱誘拐された人と失踪した人が混ざってるのか。
だが、失踪したのだとしても、リストの中には失踪する動機を持
つ者がいない。
八方塞がりだった。
どこか味気ない食事を終えてキロ達は席を立ち、ギルドを出た。
﹁とりあえず、宿に戻って編みかごを返してこようか﹂
空の編み箱を持ち運ぶのが面倒という理由もあるが、夕方以降の
忙しい時間帯に編みかごを渡すのはいささか気が引ける。
クローナを促して宿へと歩きだすが、通りを曲がってすぐにキロ
は足を止めた。
二歩ほど歩いてキロが付いてこない事を不審に思ったクローナが
振り返る。
キロは道に面して建つ不動産屋を見つめていた。
﹁監禁場所って、森にはないよな?﹂
﹁あったら調査で見つかっていると思います。それに、初期ならと
もかく失踪事件が明るみに出てからだと防壁の外に被害者を連れ出
すのも難しいでしょうから︱︱入ってみますか?﹂
271
キロはこくりと頷き、率先して不動産屋に足を踏み入れた。
﹁ようこそ﹂
不動産屋の主が条件反射で歓迎し、キロ達を見て眉を寄せた。
当然だろう、家を買うには若すぎる二人だ。
少し申し訳ない気分になったが、入ってしまった以上いまさら出
ていくわけにもいかない。
手早く用事を済ませてしまおうと、キロはクローナに通訳しても
らいつつ不動産屋の主に質問を浴びせようとして、口籠った。
誘拐犯を探している事は騎士団に口止めされているのだ。
馬鹿正直に、監禁場所の候補を挙げてください、とは訊けない。
﹁⋮⋮失踪事件の調査をしているので、空き家の場所を教えてくれ
ませんか?﹂
﹁あぁ、そういう事か。きちんと管理してるから、行方眩ました奴
が忍び込む隙なんかねぇよ﹂
面倒臭そうに言いながら、不動産屋の主は棚から分厚い紙束を取
り出した。
キロの目の前へ乱雑に放ると、口を開いた。
﹁騎士団と一緒に空き家は回ったが、無駄足だった。うちで扱って
る物件は全部そこに載ってるから適当にやってくれ。調べ終わった
ら返せよ﹂
不動産屋の主は投げやりに言って、自分の席に戻る。テーブルに
は彫刻刀とよく分からない生き物を象りつつある木が転がっていた。
不動産屋の主が何を掘り出そうとしているのかはわからなかった
が、遺跡からでも掘り出されればオカルトチックな妄想を後世の人
272
が思い描くだろう事だけは想像に難くない。
子々孫々に夢溢れる妄想のタネをプレゼントする愉快な不動産屋
に礼を言って、キロとクローナは店を出た。
ぱらぱらと渡された物件のリストをめくってみる。
︱︱空き家だけ調べても意味はないんだけどな。
調べないよりはましだ、と思いつつ捲っていると、数ページ目で
キロの指が止まった。
﹁どうしたんですか?﹂
﹁数字は金額だと思うんだけど、この単語が分からなくてさ﹂
クローナに教わって日常の挨拶や数字の読み書き程度はできるよ
うになったキロも、まだ分からない単語が多い。
クローナはどれかね見せたまえと、芝居がかった教師口調で言っ
て、キロの手元を覗き込む。
途端に、クローナは眉根を寄せて困ったような顔をした。
﹁売却済みって書いてあります。うわぁ、購入者の名前と間取りま
で載ってますよ⋮⋮﹂
クローナはキロに文字の意味を教えて、何とも言えない顔をした。
個人情報保護法などないこの世界でも、泥棒に渡ったら危険な事
くらいわかっているだろうに、とキロはため息を吐く。
しかし、これは予想外の収穫だ。
キロは物件リストを虱潰しに眺めながら、人を監禁しても発覚し
にくい家を探す。
周囲から孤立した一軒家、または地下室のある家、単純に部屋数
の多い家⋮⋮。
いくつかの候補はあったが、全てに合致する家が一軒だけ存在し
た。
273
周囲に家が存在しない墓場という孤立した立地、司祭が住んでい
る教会よりさらに大きい建物、地下には埋葬前の遺体を一時保管す
る大きな空間が存在する、そんな建物が一軒だけ。
購入者は一人暮らしの元冒険者、弟子を取った経験もありその弟
子はカッカラのみならず周辺の町でも名前が知られている凄腕とな
っている。
物件リストに書かれた購入者の名前は︱︱アンムナだった。
274
第二十七話 夕食のお誘い
﹁どう思う?﹂
キロは宿への道を歩きながら、クローナに物件リストを渡して問
いかける。
クローナは思案顔をしていた。
﹁状況証拠だけはぴったり一致してますけど、アンムナさんが誘拐
なんてするでしょうか?﹂
﹁ちょっと想像できないよな﹂
︱︱変な人ではあるけど、他人に迷惑かけるタイプの変人じゃな
いし。
キロはアンムナの顔を思い浮かべつつ、頭を掻く。
そもそも、クローナの言う通り、手元にあるのはあくまでも状況
証拠でしかない。決め手となる証拠には欠けている。
曖昧な情報で犯人と断定しても、鼻で笑われるか魔女裁判を引き
起こすかのどちらかだ。ファンタジーなこの世界で後者はシャレに
ならない。
だが、万が一アンムナが誘拐犯だった場合は、少々面倒な事にな
る。
﹁⋮⋮アンムナさんが逮捕されたりしたら、遺物潜りを教えて貰え
なくなりますよね?﹂
クローナがキロを心配そうに見つめた。
キロも同様の懸念を抱いていたが、嫌な想像を払うように頭を振
275
った。
﹁とりあえず、遺物潜りを教わっている間、俺達は安全だろう。ア
ンムナさんの家に向かったまま帰って来ないとなれば、真っ先に疑
われるのはアンムナさん本人だから﹂
﹁裏を掻かれる心配は?﹂
﹁警戒はしておくさ。それとは別に、他に候補がいないかカッカラ
中の不動産屋を回ってみよう﹂
キロが提案すると、クローナは悩むように首を傾げる。
﹁騎士団は気付いていると思いますか?﹂
﹁多分、気付いてない。不動産屋は〝騎士団と空き家を回った〟ん
だから、売却済みのアンムナさんの家には寄らないし、誘拐事件の
可能性は内密だから、リストを見せてくれとも言えない﹂
キロが答えると、クローナは物件リストを目の前に掲げた。
嬉しそうにクローナの目が細められている気がしてキロは訝しむ
が、すぐに理由が本人の口からこぼれた。
﹁騎士団も知らない捜査情報ですよ、これ﹂
偶然の産物でしかないのだが、クローナの喜びに水を差す事もな
いかとキロは黙っておいた。
﹁一応、騎士団にも顔を出しておきましょう。情報は共有しておい
た方がいいですから﹂
クローナの提案は至極真っ当な物だったが、手柄を見せびらかし
たいだけにも感じられる。
276
キロは苦笑して、道の先を見る。
丁度、横道から知った顔が現れたところだった。
﹁︱︱シールズさん?﹂
キロが声をかけるまでもなく、シールズも気付いていたようで、
驚く事もなく右手を振ってくる。左手には軽そうな編みかごが握ら
れていた。
﹁奇遇だね。キロ君達も宿へかごを返しに来たのかな?﹂
シールズは編みかごを軽く持ち上げて、仲間だね、と微笑んだ。
クローナの手にある物件リストに視線を移し、興味を惹かれたよ
うに顔を近づける。
その時、シールズが口を小さく動かした。
﹁君達、後を付けられてるよ﹂
一瞬、キロは驚きで息を止めた。
振り返りたくなる気持ちを堪えて、キロはクローナと横目で意思
疎通を図る。
クローナは緊張した面持ちでキロの目を見つめ返してくる。
どうやら、クローナにもシールズの言葉は聞こえていたようだ。
キロ達の間に流れる緊迫感などどこ吹く風といった様子で、シー
ルズは楽しげな笑みを浮かべている。
﹁へぇ、物件のリストだね。こんなもの、どうするんだい?﹂
話題を振りながら、シールズは自然にキロとクローナへ合流する。
あまりにも自然体で合流されて、キロの反応が遅れるほどだった。
277
極力慌てないように歩きだし、シールズに並ぶ。
﹁⋮⋮失踪事件の捜査で、空き家を調べてみようと思ったんです﹂
クローナが小さく深呼吸した後で、シールズの質問に答えた。
﹁空き家か。騎士団が調べていたと思うけど⋮⋮少し見せてもらっ
てもいいかな?﹂
シールズは笑みさえ浮かべながら、物件リストに手を伸ばす。
だが、クローナは素早く物件リストをシールズから遠ざけた。
シールズが目を細めるが、誤解を招く前にキロが口を開く。
﹁売却済みの物件も書いてあるので、おいそれと見せるわけにはい
かないんですよ﹂
﹁なんだ、そんな事か。てっきり、嫌われているのかと思ったよ﹂
肩を竦めるシールズに苦笑を返しつつ、キロはクローナを横目に
見た。
クローナもまた苦笑を浮かべているが、キロは少し違和感を持っ
た。
何処となく表情が硬いのは後ろにいるらしい追跡者に対する緊張
が原因だと見当をつけるが、それを差し引いてもクローナの瞳に違
和感がある。
うまく取り繕っているが、警戒心がシールズに向けられているよ
うな気がしたのだ。
ここ数日の間、絶えず一緒にいるキロだからこそ分かる些細な変
化だったためか、シールズは気付いていない。
わざわざ暴露して険悪な空気を作る意味はないので、キロも黙っ
ておいた。
278
シールズがなおも物件リストを横目に見ながら、人のよさそうな
笑みを浮かべる。
﹁あれの原因だったりしないかな?﹂
尾行を代名詞で置き換えて、シールズが指摘する。外から見れば、
世間話をしているようにしか見えないだろう。
今の状況を面白がっているようでさえあって、キロは落ち着かな
い。
︱︱なんか、からかわれているような気がする。
後を付けられている事もあり、疑心暗鬼になっているのだろうと
キロは心を落ち着ける。
キロが答える前に、クローナがさらりと嘘を吐く。
﹁騎士団が空き家を見て回ったそうですけど、失踪者は見つからな
かったようです。だから、違うと思いますよ﹂
誘拐事件の可能性については騎士団から口止めされているため、
クローナはシールズの予想を否定した。
シールズはへぇ、と曖昧な声を出す。
﹁⋮⋮それなら、別件だろうね。心当たりがないなら、物を落とし
た振りでもしてさり気なく振り返ったらどうかな?﹂
小声で提案して、シールズは前を見て眉を寄せる。
話している内に宿のそばまで来ていたようだ。
このまま尾行者に宿を知られると問題が起こる気がして、キロは
シールズにどうするつもりかと視線で問う。
しかし、シールズが答えを返す前に、後ろから駆け足で迫る音が
聞こえてきた。
279
ぞっとして、キロはクローナと共に振り返ろうとするが、駆けて
きた人物が次の行動に移る方が数瞬早い。
﹁︱︱あたしの勝ち!﹂
嬉しそうな言葉と共に、キロとクローナに後ろから抱きついてき
た人物は︱︱宿の娘だった。
持ち前の長い腕をキロとクローナの肩に回しながら、娘は楽しげ
に笑う。
呆気にとられるキロとクローナにごめんね、と笑いかけた後、シ
ールズは宿の娘に対して肩を竦めた。
﹁まだ宿に入る前だったよ﹂
シールズが抗議すると宿の娘は舌を出した。
﹁もう勝負はついてたでしょ。それより、あたしなんかに尾行され
て気付かないなんて、キロ君もクローナちゃんも気を緩め過ぎだよ﹂
うりうり、と宿の娘は腕に比例して長い指でクローナの頬を突く。
件の尾行者は宿の娘だったらしい。
キロが視線で説明を求めると、シールズはばつが悪そうに頬を掻
いた。
﹁後をつけている事に気付いてキロ君達が振り返ったら僕の勝ち、
宿に着くまで振り返らなかったら彼女の勝ち。商品は今夜ここで出
される魚料理一品﹂
︱︱賭けてたのか。
困った人達だと、キロは苦笑するが、クローナはからかわれて面
280
白くなさそうに頬を膨らませる。
空気が入って弾力が増したクローナの頬は、それをつつく宿の娘
を楽しませるだけだった。
﹁ほらぁ、クローナちゃんが不機嫌になっちゃったよ。お詫びにシ
ールズさんが奢ってくれるよ﹂
﹁こらこら、反則をしたのは君だろう?﹂
シールズは呆れ交じりに言う。
クローナがますます頬を膨らませた。
﹁キロさんの分も含めて二人分です﹂
クローナがシールズと宿の娘を順番に指し、二人分、を強調する。
片方づつ受け持てと言いたいのだろう。
︱︱ちゃっかりしてるな。
夕飯を一品タダで二人分せしめようとしているクローナにキロは
内心苦笑する。
だが、財布を握っているのはクローナだ。キロも一品増えるなら
それに越した事はないので、便乗するべく口を開く。
﹁人をからかった罰です。それに、反則というならシールズさんが
先ですよね﹂
シールズはキロ達と合流してすぐに尾行されている事を暴露した。
尾行者の正体については何も言っていないが、道中では振り返っ
て確認するよう促してもいた。
宿の娘が咎めるような視線をシールズに送ると、シールズは知ら
ん振りで視線を逸らした。
キロとクローナも宿の娘に倣ってじっとシールズを見つめる。
281
最終的に折れたのはシールズだった。
参ったよ、とシールズは頭の後ろを掻く。
﹁夜にここへ来ればいいのかな?﹂
奢る事を前提とした問いに、クローナがガッツポーズをする。横
ではなぜか、宿の娘も同じ姿勢を取っていた。
疑問が顔に出ていたのだろう、宿の娘はキロを見てニヤリと口端
を吊り上げる。
﹁たった一品で満足するはずないからね。他の料理を頼んでもらえ
れば元は取れるんだよ﹂
もともと、反則して勝負に負けても元が取れる勝負だったらしい。
︱︱したたかだなぁ。
奢ってもらう側のキロは感心するだけだったが、してやられたシ
ールズは空を仰いで苦笑いだ。
シールズと一緒に空っぽの編みかごを返し、キロ達は宿を出た。
宿の娘にしっかりと予約席を取らされたシールズが、キロとクロ
ーナに声をかける。
﹁僕も失踪事件の捜査に駆り出されてね。これから騎士団の詰め所
へ行くんだ﹂
﹁それじゃあ、ここでお別れですね。私達は不動産屋を虱潰しに回
ってみます﹂
事前の相談とは異なる予定をクローナが口にして、シールズとは
別行動を選択する。
シールズが捜査にどこまで踏み込んでいるのか分からないため、
誘拐犯探しをしている事を隠そうとしたのだろう。
282
キロはそう考えたが、クローナの瞳に依然として浮かぶ警戒の色
を見て、考えを改める。
︱︱シールズさんの何かを疑ってるのか?
シールズがクローナの口にした予定を聞くなり、不思議そうに首
を傾げる。
﹁騎士団が空き家を回ったのに、まだ調べるのかい?﹂
﹁捜査の素人だからこそ、基礎からやっていこうと思うんです﹂
キロは愛想笑いを浮かべてそれらしい嘘を吐いた。
﹁なるほどね。それなら仕方ないかな。では、夜に食堂で会おう﹂
残念そうな顔をしながらもシールズは言って、キロ達に背を向け
た。
楽しみにしています、とだけ返して、キロとクローナはシールズ
から遠ざかる方へ爪先を向けた。
﹁⋮⋮何を警戒してるんだ?﹂
シールズに盗み聞きされる心配のない位置まで歩いてから、キロ
はクローナに問いかける。
気付かれた事が意外だったのか、クローナは驚いたように瞬きし
た。
﹁キロさんって、人の表情を読むのが得意だったりします?﹂
クローナに問い返されて、キロは思わず渋い顔をしてしまう。
人の顔色を過剰に窺う癖がなければ、気を使いすぎる事も、それ
で気疲れする事もなかっただろうから。
283
触れられたくない部分をつついたと分かったのだろう、クローナ
はすぐに話を戻してくれた。
﹁シールズさん相手だと、初対面で嘘を吐かれた事がどうしても気
になってしまって⋮⋮。そういえば、シールズさんも家を持ってま
したよね?﹂
これには載ってませんけど、とクローナは物件リストを少し持ち
上げる。
﹁疑い始めるとキリがないよ。物的証拠がないとどうしようもない﹂
キロはため息を吐く。
シールズの家についても調べておこうと決めて、キロ達は不動産
屋を巡り始めた。
284
第二十八話 アンムナの奥義
不動産屋巡りを終えても、新発見は特になかった。
それというのも、売却済みの物件まで書かれているリストを渡す
ような危機管理能力がない不動産屋はそうそういないからだ。
見せてくれとも言い出せず、キロ達は不動産屋巡りを終えたので
ある。
唯一の収穫と言えば、冒険者が家を持つ例が珍しいという事、仮
に家を持つ場合は街への帰属意識から冒険者をやめて騎士団に籍を
置くという話だった。
シールズはかなり珍しい冒険者らしい。
﹁⋮⋮あれがシールズさんの家ですか﹂
道の先にある赤い屋根の建物を遠目に見物しながら、クローナが
呟く。
最後に回った不動産屋からアンムナの家に向かう途上にあったた
め、ついでに見て行こうとクローナが言い出したのだ。
﹁大きいと言えば大きいけど、地下室はないらしい。なにより、周
りがこれだとなぁ﹂
キロはシールズの家の周りを見回す。
大通りという事もあるが、すぐそばに広場があるため交通量はか
なりのものだ。
広場では昼に大道芸、夜には吟遊詩人や踊り子が集うとの事で、
昼夜を問わず人が集まる環境である。
誘拐してきても、人の目が多すぎて家の中に運び込めないだろう。
285
また、シールズは高い知名度ゆえに来訪者が多いらしい。
音がこもる地下室のような部屋がない限り誘拐されてきた人間が
騒げばすぐに事態が発覚するだろうし、物言わぬ骸と化していれば
臭いで周囲に悟られる。
そして、キロとクローナが不動産屋にそれとなく訊ねた限りでは、
シールズの家に地下室は作られていないらしい。
﹁ギルドも犯人の可能性が低いから、シールズさんを事件の捜査に
駆り出したんだろう﹂
まだ納得していない様子のクローナはシールズの家をじっと見つ
めていたが、やがて諦めたようにため息を吐いた。
空を見上げれば、太陽が低い所にあった。すでに夕暮れが近い。
アンムナが待ちくたびれているだろうから、とキロはクローナを
促して歩き出す。
例え状況証拠はアンムナが犯人だと示していても、証拠がない以
上は今までどおりに接するだけだ。
何より、キロもクローナもアンムナが犯人だとは思えなかった。
巡回中らしい騎士団と何度もすれ違う。
﹁警戒がまた強化されてないか?﹂
﹁近隣に応援要請していましたから、応えた冒険者が到着したのか
もしれませんね﹂
︱︱つまり、俺達みたいにアリバイを持ってる奴が捜査に加わっ
てくれるのか。
警戒の目が増えれば、誘拐も難しくなるはずだ。
騎士団の巡回と遭遇する頻度は墓場の傍まで来ても変わらなかっ
た。
墓場は相変わらず陰気な場所だった。
286
しかし、墓場のすぐそばにある家の扉をノックすると、陰気さが
すぐに霧散する。
﹁やぁ、二人とも遅かったね﹂
後ろから墓場に似合わない明るい声を掛けられて、キロとクロー
ナは振り返る。
そこにはアンムナが木製のジョーロを片手に立っていた。
﹁丁度、墓場の花壇に水をやっていた所なんだ﹂
アンムナの視線を辿ってキロも墓場に視線を移すと、彼岸花に似
た赤い花が咲いていた。
﹁ただ、底が抜けてしまってね。手作りはダメだね、やっぱり﹂
アンムナが持ち上げたジョーロは底がすっぽりと抜けてずいぶん
と風通しがよくなっている。陸に船幽霊はいないぞ、とツッコミを
入れたくなる豪快な底ぬけっぷりだ。
しかし、底を支えていただろう淵部分を見ると、腐って変色して
いるのが見て取れた。
キロは呆れたが同時に、アンムナらしいとも思う。
﹁使った後はきちんと乾かさないとダメですよ﹂
﹁⋮⋮あぁ、そうか。そういう事か﹂
キロの指摘で初めて気づいたらしく、アンムナはジョーロの底を
眺めて無念そうな顔をする。
キロとクローナの間を抜けて、アンムナは家の扉に鍵を差し込み、
開いた。
287
さぁ、どうぞ、と促されてキロ達は中に入る。
﹁︱︱あれ?﹂
リビングに入ってすぐ、クローナが小さく疑問の声を上げた。
後から入ったキロも、リビングを見回して首を傾げた。
﹁アシュリーは片付けたんですか?﹂
透明なガラスケースに収められ、その美しい姿も相俟って圧倒的
な存在感を放つアシュリーの姿がいまはリビングのどこにもない。
代わりに部屋の中央にだけ光源が足りないような酷い喪失感とも
どかしさがあった。
アンムナを振り返ると、底が抜けたジョーロとやかんとを見比べ
ていた。代用するつもりなのだろうか。
﹁昼過ぎに弟子が来てね。怖いからアシュリーには地下室へ隠れて
もらったんだ﹂
アンムナが床を指差して苦笑する。
︱︱怖いと言えば怖いよな。等身大の人形だし。
アシュリーの姿を思い出して、キロはさもありなんと納得する。
しかし、クローナは別の事が気にかかったらしく、小首を傾げた。
﹁弟子って、シールズさんですよね?﹂
﹁おや、知ってるのかい?﹂
アンムナが意外そうな顔で訊き返してくる。
言ってなかっただろうか、とキロは昨日までを振り返ってみるが、
確かに記憶にない。
288
アンムナの様子からすると、シールズも言わなかったのだろう。
アンムナの意外そうな顔は、キロを視界に収めると変化し、納得
顔になる。
﹁あぁ、キロ君が声を掛けられたのか。災難だったね﹂
クスクスと笑いながら、アンムナがキロに同情の言葉を投げる。
確かに、初対面でシールズに掛けられた言葉は気色の悪い物だっ
た。会うたびに同じような事を言われている。
キロが何とも言えない顔をすると、アンムナがますます笑う。
﹁シールズ君は珍しい容姿の人に目が無くてね。キロ君みたいな子
は喉から手が出るほど欲しがるよ﹂
シールズに今まで掛けられた言葉の気色悪さに証言が付いて、キ
ロはげんなりした。
実害はないとはいえ、好奇の目で見られるのはあまり気分が良い
物ではない。
︱︱この後、食事するんだよな⋮⋮。
シールズと宿の娘に約束してしまった事を悔やんでも、後の祭り
だ。
仕方がないと諦めて、キロはクローナを見る。
シールズに対してあまり良い感情を抱いていないらしいクローナ
に、好奇の目で見られている事について怒らないよう言っておこう
と思ったのだ。
しかし、クローナはすでに唇を引き結んで不機嫌になっていた。
﹁俺の髪や肌がこの辺りで珍しいのは事実なんだから、あんまり怒
るなよ﹂
﹁もちろんそっちにも怒ってますけど︱︱キロさんは私のパートナ
289
ーだから絶対にシールズさんなんかにあげません!﹂
﹁そっちか﹂
独占欲からくる怒りだったらしい。
クローナの宣言を聞いて、アンムナがクスクス笑う。
﹁そう、怖いよね。だから、僕もアシュリーに隠れてもらったんだ﹂
﹁アンムナさんまで⋮⋮﹂
意外なところにクローナとアンムナの共通点が隠されていたよう
だ。
アンムナはジョーロとやかんを小物入れの上に置く。
そして、何かを思いついたような顔でキロを振り返った。
﹁キロ君も僕の弟子なんだから、動作魔力の使い方を教えないとい
けないね﹂
﹁動作魔力での戦闘なら、少しはできますよ﹂
キロは言いながら動作魔力を練り、すっと横に滑って見せる。
アンムナが目を瞬かせる。
﹁もう誰かに教わっていたんだね。それにしても相変わらず練るの
が早い⋮⋮﹂
感心するアンムナの言葉の一部に、キロは違和感を覚えた。
︱︱相変わらず?
アンムナの前で魔力を練った事はない。昨夜も延々と魔法陣の書
き取りをしただけだ。
しかし、キロが言葉の意味を問う前に、アンムナは小物入れの上
に置いたばかりの壊れたジョーロを手に取り、家の奥に伸びる廊下
290
へ歩き出す。
﹁二人とも、付いておいで。君達なら訓練次第で出来るようになる
はずだから、教えておくよ﹂
﹁魔法ですか?﹂
魔法使いのクローナが興味を惹かれたようにアンムナの後に続き
ながら問う。
アンムナは肩越しに振り返り、悪戯っぽく笑った。
﹁単純にして困難な、奥義だよ﹂
奥義と聞いて、クローナの目が輝くのをキロは見逃さなかった。
先を行くアンムナは廊下の奥にある階段を降り始め、キロとクロ
ーナを手招いた。
どうやら、地下へ案内してくれるらしい。
︱︱アンムナさんが犯人なら、地下は見せたくないはずだけど。
誘拐した被害者を別の場所へ移動させた可能性もあるため、すぐ
に容疑が晴れるわけではなかったが、キロはほっと安堵の息を吐い
た。
せっかく地下に入る機会を得たのだ。手掛りを探しておけばよい。
被害者の物が何か落ちていればそれまでだが、なければひと安心で
きる。
キロはクローナに視線で協力を頼もうとするが、奥義を教えて貰
えることに浮かれている彼女は前ばかり見ていて、なかなか視線が
合わない。
子供っぽさが可愛いと感じる事もあるが、今はひたすらにもどか
しい。
さりげなくクローナの肩にぶつかり、無理やり視線を向けさせた。
クローナが不思議そうに見つめ返してくる。まだ気付かないらし
291
い。
キロはポケットから携帯電話を取り出してクローナに見せた後、
手品の要領で袖口に隠して見せる。
動作魔力を使えば簡単に携帯電話を袖口に滑り込ませる事が出来
た。
クローナは目の前で携帯電話が消えるまでを見届けて、キロが何
を言いたいかを察したらしい。
慌ててコクコクと頷いて、小さくガッツポーズをした。
死体安置所を兼ねる地下から臭いが上がって来ないようにするた
めだろう、長い階段を降りた先には木扉があった。
アンムナが木扉を押して中へ入り、魔法で光源を生み出す。
二十畳はあろうかという広い地下室だ。端にはガラスケースに収
められたアシュリーが揺り椅子に座っている。
﹁アシュリー、すぐに上へ連れて行ってあげるから、少し待ってい
てくれ﹂
アンムナがにこやかに声を掛け、キロ達を振り返る。
﹁ではさっそく、実演してみようか﹂
アンムナが壊れたジョーロを軽く上に放り上げた。
重力に従って落下してくるジョーロの側面を人差し指でトンと突
く。
その瞬間、破裂音と共にジョーロの側面に小さな穴が開いた。
ヒュン、という風を切る音がした直後、後ろから衝突音がして、
キロは恐る恐る振り返る。
壁に銃弾を撃ち込んだような跡が残っていた。床には小さな木片
が散らばっている。おそらくはジョーロの穴から飛び出た破片だろ
う。
292
呆気にとられるキロ達を余所に、アンムナはにっこりと笑う。
﹁動作魔力を凝縮して対象物の一部にだけ力を作用させ、破断させ
る。単純だろう?﹂
確かに、理屈は単純だった。
だが、クローナもキロもこの奥義がいかに困難か、予想できた。
物体を破断させるほどの動作魔力を練るだけでも時間がかかり、
それを凝縮する時間も必要となる。
しかし、時間を掛けて物体を破断させ、飛ばした欠片で攻撃する
くらいならば、始めから小さな破片を動作魔力で飛ばした方が効率
的だ。
つまり、アンムナの奥義の本質は、対象物の瞬間破壊にこそある。
﹁この奥義を発動できるようになれば、触れた瞬間にどんな物でも
穴をあけられるよ。キロ君も男の子なら、これを風呂屋や娼館での
ぞき穴を作るのに使いたくなるだろうけど、音で気付かれるからや
めた方がいいよ﹂
﹁⋮⋮やりませんよ、そんな事︱︱クローナ、本当にやらないから、
その目をやめろ﹂
横目で睨んでくるクローナに抗議する。
なんだ、やらないのか、とアンムナが少し残念そうに呟いた。
﹁⋮⋮アンムナさんはやったんですか?﹂
クローナに要らぬ誤解を与える原因を作ったアンムナに仕返しを
しようと、キロは問う。
﹁昔ちょっとね。酷い目にあったよ。キロ君もじきに経験するだろ
293
うさ﹂
懐かしむように、アンムナはクスクスと笑った。
ちなみに、冒険者をやめた今この奥義は無用の長物となり、羊皮
紙の束に穴をあける時くらいにしか使い道がないらしい。
294
第二十九話 新たな失踪者
アンムナの奥義を練習したり、遺物潜りの魔法陣の書き取りをす
るうちにすっかり夜も更けていた。
書き取りに悪戦苦闘するキロ達から視線を逸らしたアンムナが、
窓の外を見て口を開く。
﹁夕食⋮⋮もう夜食かな。うちで食べていくかい?﹂
﹁いえ、宿の食堂で奢ってもらう約束をしているので、遠慮してお
きます﹂
キロが答えると、アンムナはキッチンに視線を移し、悩むような
素振りをした。
﹁奢ってもらうって、誰に?﹂
さほど興味はなさそうに、アンムナが訊いてくる。
キロはアンムナの考えている事がなんとなくわかった気がした。
元の世界では高校を卒業した後、一人暮らしをしていた。キロは
一人暮らしの経験から、調理の面倒さを知っている。
おそらくはアンムナもそうなのだろう。
ただ外で食べる言い訳が欲しいだけなのだ。
﹁シールズさんと宿の娘さんの賭けに付き合わされまして、そのお
詫びに﹂
キロが簡単に経緯を話すと、アンムナの眉がピクリと動き、面白
い話を聞いたとばかりに笑みを浮かべる。
295
﹁弟子達の食事会か。師匠としては気になるね﹂
﹁一緒に食べますか?﹂
アンムナに期待するような流し目を送られて、キロとクローナは
苦笑しながら食事に誘う。
﹁では、一緒に食べるとしよう。アシュリーには悪いけれど﹂
リビング中央に置かれたアシュリーを労わるように見た後、アン
ムナは財布を取ってくると言って部屋を出て行った。
弟子に奢らせる気はないらしい。
今日の修業は終わりとなり、キロとクローナは練習した魔法陣の
束をまとめる。
回を追うごとに上手に描けるようになっているが、アンムナの設
定した合格点は何も見ずに一から魔法陣を完成させる事だ。
元々が複雑な図であるだけに、少し手が滑ると失敗してしまう。
失敗に気付かず魔法陣を使用しないよう完全に暗記しろ、とキロ達
はアンムナに釘を刺されていた。
アンムナが用意してくれていた紅茶を飲み、キロは一休みする。
︱︱地下にもリビングにも、物的証拠はないんだよなぁ。
さりげなくリビングを見回した後、キロは瞼を閉ざして外の情報
を遮断する。
︱︱アンムナさんが白と断言はできないけど、証拠がない以上は
悪魔の証明だ。
また一から容疑者を絞り込もう、と今後の方針を決めてキロは瞼
を開いた。
クローナが額に片手を当てて天井を見上げている。細い喉と白い
鎖骨が無防備に晒されていた。
キロは慌てて目を逸らしたが、視線を上に向けていたクローナが
296
気付くはずはないと思い至る。
かといって、凝視する勇気はなかった。
﹁知恵熱が⋮⋮﹂
天井を仰いだまま、クローナが呻く。
自称楽しませるくらいにはある胸が体の反りに合わせて強調され
ていた。
キロは目のやり場に困って、部屋を見回しながら視線の避難場所
を探す。
すると、扉の側で財布を片手にニヤニヤしているアンムナと目が
合った。
﹁キロ君もちゃんと男の子じゃないか﹂
一部始終を盗み見ていたらしい。
何のことかわからずに首を傾げているクローナの手前、アンムナ
に反論しても墓穴を掘るだけだ。
墓守の家で墓穴を掘り、地中の死者達に囲まれて笑いものにされ
るくらいなら、ここは口を閉ざしているべきだろう。
せめてもの抵抗に睨んでみるが、アンムナは堪えた様子もない。
﹁さぁ、行こうか﹂
率先して玄関に向かうアンムナは、小物入れの上に置いてあった
やかんをすれ違いざまに持ち上げ、玄関横の靴箱の上に置いた。
やかんは正式にガーデニンググッズとしての道を歩き始めるよう
だ。
やかんを複雑な表情で見つめるキロに、クローナが口を開く。
297
﹁きっと、火炙りにされるよりマシですよ﹂
﹁そういう見方もあるか﹂
新たな視点で見たやかんは、刑場から救い出され明日への希望に
光輝いて見える。もちろん、金属光沢のなせる業だ。
アンムナの家を出ると、墓場へ続く道や墓場の中にランプを持っ
た人影がちらほらと見えた。
アンムナは一瞬眉を顰めたが、人影の正体が分かると今度は不思
議そうな顔でキロを振り返る。
﹁騎士団がうろついているのは失踪事件の捜査だと思うけれど、失
踪者の他殺体でも見つかったのかい?﹂
事故死でも自殺でもなく、他殺の可能性を真っ先に出してきたア
ンムナに、キロはどきりとした。
キロはそっとアンムナの表情を窺う。
﹁なんで死体が見つかった事が前提なんですか?﹂
﹁なんでって、この辺りには隠れられる場所はないから、失踪者だ
って寄り付かないよ。自殺の可能性も考えたけれど、それなら以前
の捜索で死体が見つかるだろう? わざわざ調べ直すなんて、死体
が埋められたかもしれないから、程度の理由しか思いつかないね﹂
肩を竦めて、アンムナが推理を披露する。
説得力もあり、キロは納得した。
﹁俺達も騎士団がここにいる理由は分かりません。失踪者が何らか
の形で見つかったという話も聞いてません。単なる巡回だと思いま
すよ﹂
﹁巡回にしては数が多いけれど⋮⋮。まぁ、良いか。留守にするな
298
ら、家の周りに人がいるのはむしろありがたい﹂
﹁警備員じゃないんだから﹂
﹁治安を守るのが彼らの仕事、何の問題もないよ﹂
キロは突っ込みを入れるが、アンムナにさらりと切り返されてし
まう。
言ってる事は極めて正論なため、キロも言い返せない。何より、
カッカラに税金を払っていないキロがとやかく口を挟む事ではない。
クスクスと笑う声が聞こえて横を見れば、クローナがキロとアン
ムナのやり取りに笑っていた。
このまま続けても笑いを提供し続ける事になるだろう。
﹁そういえば、キロ君達に教えたあの奥義、シールズは結局会得で
きなかったんだよ﹂
﹁シールズさんが?﹂
問い返したのはクローナだ。
たった一人で大量の魔物を狩ってきたり、複数台の馬車を動作魔
力で動かしたりする、魔法使いとしてはかなりの腕を持つだろうシ
ールズが会得できなかった。
魔法使いとしてクローナが興味を持つのは当然だった。
アンムナはまるで夜空に当時の光景が広がっているかのように、
顔を上に向ける。
﹁今でも巧妙に隠しているようだけれどね。シールズ君は多分、特
殊魔力持ちだよ﹂
キロはクローナと顔を見合わせる。
キロ達もまた、特殊魔力の持ち主だ。シールズが特殊魔力のせい
で奥義を会得できなかったのなら、キロ達にも適性がない可能性が
299
出てくる。
﹁⋮⋮どうして、シールズさんが特殊魔力持ちだと分かったんです
か?﹂
クローナが訪ねると、アンムナは左の人差し指と親指で輪を作っ
て見せる。
﹁僕の奥義は円状に張った動作魔力を外側に拡散させ、円の中心を
通るように垂直方向の動作魔力を同時に発動させる。上下左右にぴ
んと張った布に杭を打ち込むような感覚だね。シールズは特殊魔力
が混じった場合に紙がどこかに飛んだり、裂けるんだ﹂
︱︱特殊魔力での失敗の仕方もいろいろあるんだな。
クローナは凍る水球や脆い土壁といった形で失敗するが、シール
ズの失敗は物体の動きという形で現れるらしい。
﹁特殊魔力持ちは大変だよね。使い方さえ思いつけば人に出来ない
事が出来るんだけど。悪臭を発する特殊魔力なんて面白い物を聞い
た事があるけれど、強力な魔物に縄張りを移させるのに活躍してた﹂
思い出し笑いをしながら、アンムナは気楽に言う。
話をしている内に宿の近くまでやってきていた。
宿の前には心配そうな顔で通りを見回すエプロン姿の宿の主がい
た。
帰りが遅いキロ達を心配して待っていてくれたのかと思ったが、
どうにも様子がおかしい。
﹁︱︱どうかしたんですか?﹂
300
クローナが声を掛けると、宿の主は固い生地で出来ているエプロ
ンが翻るほど勢いよく振り返る。
﹁お前さんら、うちの娘を見なかったか?﹂
勢いに任せて詰め寄ってくる宿の主に驚いて、クローナが後退る。
キロが宿の主との間に割って入ると、クローナはほっとした顔をし
た。
宿の主も自身の失態に気付き、申し訳なさそうに頭を下げる。
しかし、娘の事が気がかりなのか、すぐに顔を挙げて質問の答え
を聞きたがった。
﹁アンムナさんと一緒に墓場からここまで来ましたけど、見てませ
んね。何時頃から姿が見えないんですか?﹂
連続失踪事件が起きている真っ最中だ。娘の姿が長時間見えない
のでは不安にもなるだろう。
キロもクローナと共に真剣な顔つきとなり、宿の主から詳しい話
を聞く。
それによれば、キロ達の編みかごを厨房にいた宿の主に渡した後、
食材の買い出しに出かけたきり戻らないという。
﹁昼過ぎからって⋮⋮騎士団への届けは?﹂
﹁日が暮れるちょっと前に出した。俺も探しに行きたいんだが、娘
が帰ってきた時に誰もいないと困る、と騎士団に止められちまって
⋮⋮﹂
そわそわと通りの向こうを窺いながら、宿の主は腕を組む。
︱︱日暮れ前⋮⋮騎士団をよく見かけた理由はそれか。
301
﹁クローナ、俺達も探そう。奢ってもらうどころじゃないからな﹂
宿の娘とは何度か言葉を交わした。名前も聞いてはいないが、自
分には関係ない、と割り切れはしない。
何より、とキロは思う。
︱︱約束をすっぽかすとは思えない。
確かに、奢り、とだけ聞けば一見宿の娘に不利な約束に思えるが、
彼女自身が他の料理で利益を出すと息巻いていたのだ。
失踪する動機がないどころか、帰ってくる理由がある。
キロはクローナを促す。もともと捜索に加わるつもりだったらし
いクローナは即座に頷いた。
﹁私達も探してきます。食事をおごってもらう約束をしているので、
シールズさんに伝言を頼めますか?﹂
クローナが宿の主に心当たりを聞いている内に、キロはアンムナ
を振り返る。
何かを思案するように難しい顔を俯かせていたアンムナは、キロ
の視線に気付いて顔を上げる。
﹁アンムナさん、食事は今度という事でお願いできますか?﹂
﹁こんな状況では、仕方がないね。僕も捜索に加わりたいから、特
徴を教えて貰えるかな?﹂
︱︱特徴、か。
キロは宿の娘の姿を思い起こす。童顔ではあるが可もなく不可も
なく、凡庸な作りだ。
﹁腕と足がスラリ長くて、泣きぼくろがあります。色っぽい感じの
子で︱︱﹂
302
﹁キロ君、今の発言は周りを見てからの方がいいと思うよ﹂
苦笑いを浮かべるアンムナに注意され、キロは眉を寄せる。
︱︱真面目な話をするのに、周りに注意する事なんて⋮⋮。
むしろ聞いてもらえれば捜索してくれる人が増えるかもしれない
とさえ、キロは思った。
だが、アンムナの指先に導かれるままに振り返って、キロは己の
迂闊さを悟る。
﹁うちの娘が可愛いのも色っぽいのも認めるが、手を出したらどう
なるか分かってるな?﹂
宿の主が警戒するような目でキロを睨んでいた。
娘が帰って来ないだけでも気が立っているのに、その娘に色目を
向ける男が目の前にいれば神経を逆撫でされるだろう。
慌ててクローナに救いを求めようとするが、彼女は不機嫌そうな
顔でそっぽを向いていた。
﹁私には何もしない癖に⋮⋮なんか、納得いかないです﹂
︱︱クローナが気付かないだけで、ついさっきも目のやり場に困
ったよ!
抗議の言葉がのど元までせり上がってきたが、さらに収拾がつか
なくなるだけだと、キロは無理やり飲み下した。
アンムナが苦笑を浮かべたまま、キロ達へ声を掛ける。
﹁そこまでにしておいたらどうだい? 今はいなくなったその娘を
見つけるのが先決だろう?﹂
﹁︱︱その通りだね、アンムナさん﹂
303
アンムナに答えた声は、キロの物でもなければ、クローナでもま
してや宿の主の物でもなかった。
アンムナのさらに後ろから聞こえてきたのだと、キロが方向を特
定して振り返ろうとした時、宿や向かい家の屋根の上から複数の黒
い影が通りに降り立ち、一斉に剣をアンムナに向けた。
︱︱なんだ、こいつら⁉
キロが槍を構えようとした時、黒い影の内の二人が地面を小さく
えぐるほど強く踏み込み、キロに向けて飛び込んだ。
その加速は明らかに動作魔力を使ったものだ。
二つの黒い影はキロに向けて左右から同時に手を伸ばし、キロを
捕えようとする。
しかし、キロは黒い影達の手が服を掴んだ直後、槍の穂先を夜空
に向け右足を軸に反転した。
﹁︱︱ッ⁉﹂
黒い影達が息を飲む微かな音が漏れた数瞬後に、キロは動作魔力
を用いた高速回転で黒い影達を引きはがした。
キロの唐突な回転に反応が遅れ、黒い影達は飛び掛かった力に遠
心力を上乗せされて吹き飛び、地面を転がった。
破れた服に構わず、キロはクローナを守れる位置に着く。
そして、アンムナの後ろを見て眉を寄せた。
﹁あんた、騎士団の⋮⋮?﹂
アンムナの後ろには騎士団の詰め所で失踪事件の資料を見せてく
れた初老の騎士が立っていた。
初老の騎士はキロを見て目を丸くしていたが、転がった黒い服の
騎士に視線を移す。
304
﹁夜闇に紛れて接近するための服だったのだが、一目で騎士とわか
らないのが玉に瑕でね。とはいえ、この者達は騎士の卵ではなくひ
よっこだから、傷付いても割れる心配はないだろう﹂
﹁⋮⋮騎士団がこんなところで何を?﹂
初老の騎士の冗談に微妙な顔をしながら、キロは油断なく問う。
クローナも杖を構えたものの騎士団の目的が分からず対応に困っ
ているようだった。
アンムナはと思い見てみれば、黒い服を着た騎士達に剣を突きつ
けられていた。五つの切っ先を突きつけられてもなお、アンムナは
頬を掻きながら困ったように笑うだけで、緊張感の欠片もない。
キロにさえ振り払われた新米騎士とは違い、アンムナを囲むのは
一目でそれとわかる手練れだったが、小型犬に吠え付かれたような
困り顔でアンムナが初老の騎士を振り返る。
﹁よく分からないけれど、もしかして僕は逮捕されるのかな?﹂
﹁日が落ちたばかりの頃、騎士団に垂れ込みがありましてね。アン
ムナさんの家にこの宿の娘が持っていた買い物かごがあった、と﹂
初老の騎士は真剣な眼差しをアンムナに注ぎ、言葉を続ける。
﹁失礼とは思いましたが、さきほどあなたの家を窓から覗かせても
らいました。証言通り、リビングの小物入れの上に買い物かごがあ
りましたよ﹂
︱︱それはおかしい。
キロは証言の矛盾に気付く。
キロ達がアンムナと共にリビングを出る時、小物入れの上に唯一
あったやかんをアンムナが玄関に持って行ったのだ。
小物入れの上には何も置かれていない筈である。
305
﹁ちょっとま︱︱﹂
﹁キロ君、待ちなさい﹂
キロが抗議しようとすると、他ならぬアンムナから待ったが掛か
った。
アンムナはキロを見て、首を振る。
﹁ここで無実を訴えても意味はない。分かるだろう?﹂
肩を竦めて、アンムナは飄々と告げた。
﹁︱︱僕は嵌められたんだ﹂
306
第三十話 食い違う証言
﹁詳しい話は詰所の方で聞く。抵抗はしないでもらえるかな、アン
ムナさん﹂
初老の騎士が部下達に顎で騎士団詰所の方角を指す。
連れて行け、という意味だろう。
その時、アンムナの表情に初めて影が差した。
﹁ちょっと待ってくれないかな。大丈夫、逃げ出す気はないよ﹂
﹁そうしてくれると助かるね。⋮⋮正直、アンムナさんをこの人数
で抑えきれるとは思ってないんだ﹂
アンムナの冒険者時代を知っているのだろう、初老の騎士は苦い
顔で答える。
二人の会話を見守っているキロとクローナに、アンムナが突然声
を掛けた。
﹁キロ君、それに、クローナ君も、依頼を出していいかな? 報酬
は僕が冒険者時代に買ったとある金属板。クローナ君の杖を補強す
るのに使えるはずだよ﹂
言われて、キロはクローナが持つ杖をちらりと見る。
羊飼い時代からクローナに愛用されている杖は傷んでこそいない
が、ところどころに傷が目立つ。
今までの魔物との戦いを思い出すと、魔物の力に耐えるほどの強
度がクローナの杖にあるか疑問が浮かぶ。
迷うキロとクローナの気配を察したのか、アンムナが言葉を続け
307
た。
﹁ただの金属板じゃない。キロ君が使ってるグリンブルの牙製の槍
と同じで魔力との親和性が高い物だ。丸一日、魔力を充填しておけ
る﹂
金属板の特徴を聞いて、初老の騎士が目を見開いた。他の騎士達
も驚愕の表情でアンムナを見つめている。
騎士達の反応だけで、アンムナが出してきた報酬がどれだけの価
値を秘めているのか察する事が出来た。
しかし、高額の依頼料を出すからには、それに見合った仕事の内
容だと考えるべきだ。二つ返事で受けるわけにはいかない。
﹁依頼内容を先に訊いても?﹂
﹁アシュリーが誰にも触れられないよう、見張っていてくれないか
な。彼女に触れる者がいたら、牢を破ってでも殺しに行きたくなる
だろうから﹂
真顔で言ってのけたアンムナに、初老の騎士が顔を青ざめさせた。
﹁アンムナさんはあくまでも容疑者だ。牢に入れるわけじゃない。
あの人形が気がかりなら詰め所に運ぶから、暴れるのだけはやめて
くれ﹂
初老の騎士が慌てて譲歩すると、キロに吹き飛ばされた新米騎士
達が顔を顰める。
墓場のアンムナ、などと気味悪がられるだけの男になぜ下手に出
なければいけないのか、そんな不満げな表情だった。
﹁詰め所には先輩の騎士もいるんですから、魔法使い一人が暴れて
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もすぐに取り押さえられるでしょう﹂
こらえきれなくなって不満を吐き出す新米騎士を、初老の騎士は
鋭い視線で射貫いた。
﹁建物の中でアンムナとの戦闘なんか御免だ。倒壊しちまう﹂
新米騎士はなおも腑に落ちない顔をしていたが、大先輩にあたる
だろう初老の騎士に睨まれて口を閉ざす。
﹁運んでくれるらしいから、キロ君達には詰め所までアシュリーの
護衛を頼むよ。その後は真犯人を探してくれ﹂
アンムナは騎士達の仲違いに一切興味がないらしい、キロ達を振
り返ると依頼内容を変更した。
元々、キロ達は失踪事件の捜査をしていたのだから、アンムナに
言われずとも犯人捜しをするつもりだ。
それじゃあ行こうか、とアンムナが騎士達を促して歩き出す。
何故か主導権を握っているアンムナを見ていると、心配するだけ
損をする気がして、キロは苦笑した。
アシュリーを運び出すのは明日に決まり、アンムナを連行する騎
士達と共にキロ達も詰所へ向かう。
キロ達は直前までアンムナの家にいたため、事情聴取がしたいら
しい。
﹁⋮⋮あんた、逃げようとか思うなよ?﹂
新米騎士二人が警戒心を込めた目でキロを睨む。
二人がかりで取り押さえようとして返り討ちにあったからだろう。
先ほどは咄嗟の事でよく見えなかったが、新米騎士はキロと同じ
309
くらいの年齢だった。
﹁逃げないよ。それより、さっきは振り払ったりして悪かった﹂
キロが素直に謝罪し、クローナがそれを通訳する。
キロが使う日本語に一瞬だけ奇異の目を向けた新米騎士達はジロ
ジロと無遠慮な視線を注ぎ始める。
新米騎士達の失礼な態度にキロは苦笑を返すだけに留めたが、ク
ローナは機嫌を悪くしていく。
﹁あんたみたいなひょろい奴、油断しなければ簡単に捕まえられる
んだからな﹂
余程プライドを傷つけられたのだろう、新米騎士が悔しそうに呟
いた。
﹁⋮⋮実戦で油断する方がどうかしてますよ﹂
ポツリとクローナが呟く。
新米騎士がむっとしてキロを睨んだ。
︱︱えぇ⋮⋮こっちかよ。
キロの言葉を翻訳したのだと思ったらしい。
言い訳しようにもクローナがいなければ通訳もままならない。腕
輪を渡せば解決するが、敵意満々の新米騎士に渡してしまうとどん
なふうに扱われるか心配だ。
キロはなすすべなく睨まれるしかない。
しかし、クローナがますます不機嫌になっていった。
﹁私のパートナーを睨まないでくださいよ。見た目はちょっと細い
ですけど、あなたたち二人を倒すくらい頼りになるんですからね﹂
310
︱︱細い事は否定しないんだな。
たくましいとはお世辞にも言えないが、平均的な体型を自負する
キロにとっては文句の一つも言いたくなる評価だ。
クローナが売り言葉を口にしたことで、新米騎士達も口げんかの
相手を定めたようだ。視線の向きがキロからクローナに変わる。
だが、新米騎士達がクローナに視線を定めた直後、キロは片手を
挙げてクローナと新米騎士の間に仕切りを作る。
﹁⋮⋮クローナ﹂
叱る調子で名前だけを呼ぶと、クローナは頬を膨らませて口をつ
ぐんだ。
アンムナを囲んでいた騎士の一人がキロ達を振り返る。険悪な空
気に気付いたのだろう。
騎士はクローナと新米騎士の睨み合いをみて、顔を顰める。
﹁おい、ひよっこ共、向上心は結構だが、自分の実力を考えろ。そ
この二人はお前らとは比べ物にならん。ギルドの紹介状持参でカッ
カラに来たんだからな﹂
﹁え、紹介状⁉﹂
新米騎士達のキロを見る目が変わった。
しかし、キロは何に驚いているのかよく分からなかった。クロー
ナを見ても、新米騎士達の態度の変化についていけず、きょとんと
している。
キロ達の間が抜けた反応に毒気を抜かれたのか、新米騎士達は呆
れが混じった声で説明する。
﹁ギルドが紹介状を出して送り出すって事は、行く先の町で必ず役
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に立つ人材だって太鼓判を押してるのと同じだろ。実力を認められ
ないと紹介状なんて出してもらえないんだよ﹂
﹁その紹介状、クローナの土地勘でもらったものだから、俺には関
係ないと思う﹂
キロは言うが、新米騎士は大げさに呆れのため息を吐いた。
﹁確かに評価の上乗せはされるだろうけど、土地勘だけでもらえる
わけないだろ。冒険者は戦力なんだ。戦闘技能の比重が一番大きい。
紹介状をもらう前になんかしなかったか? 手強い魔物を倒したと
か、決闘か何かで戦闘力を計られた、とか﹂
︱︱どっちも当てはまるな。
嫌味になりそうだったのでキロは言葉に詰まるが、クローナはこ
こぞとばかりに胸を張って答えた。
﹁パーンヤンクシュを倒して、冒険者二人を相手に決闘して圧勝し
ました!﹂
﹁圧勝は言いすぎだろ﹂
キロは即座に突っ込みを入れるが、新米騎士達はやっぱりな、と
納得したように頷くだけだった。
﹁パーンヤンクシュってみたことないんだけど、どんな魔物なんだ
?﹂
興味津々に新米騎士が訊ねてくる。
クローナはまんざらでもなさそうな様子でパーンヤンクシュ戦を
語り始めた。
一度司祭に話したからだろうか、それとも日記にまとめた経験か
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らだろうか、クローナの語り口は臨場感をたっぷりと含みつつも要
点を押さえていて、当事者であるキロも感心するくらい面白い話に
なっていた。
時折、新米騎士達がキロの視点から見た戦闘の様子も聞きたがる
ので、逐一答えていく。
なし崩し的に打ち解けてきた辺りで、騎士団の詰め所に到着した。
当然のように、容疑者であるアンムナとは違う部屋へ案内される。
キロ達の話を聞くのは新米騎士達を窘めた先ほどの騎士だった。
﹁座ってくれ。あまり時間は取らせない﹂
騎士が腰かけた椅子が軋み、耳障りな音を立てる。
キロとクローナが席に着くと、騎士は紙を準備する。調書を作成
するのだろう。
﹁アンムナさんとの関係から、話してもらおうか﹂
騎士は友好的な笑みを浮かべて、キロ達にいくつか質問する。
キロ達は質問に可能な限り丁寧に答えていく。
アンムナとの関係から始まり、今日一日何処にいて何をしていた
のかといったアリバイ、アンムナの様子や失踪した宿の娘の様子に
も触れた。
質問は次々と移り変わり、ついにアンムナが捕まった原因ともい
える買い物かごについての話に入る。
﹁君達がアンムナの家を出た時、小物入れの上には本当に何もなか
ったんだね?﹂
﹁間違いありません﹂
キロとクローナが声を揃えて答える。
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すると、騎士は椅子の背もたれに体重を預けて深々とため息を吐
いた。
﹁それは、ありえないんだよ﹂
確固たる記憶に基づく証言を真っ向から否定されると思わなかっ
たキロ達は目を白黒させた。
徐々に理解が追いつくと、クローナが机に手をついて身を乗り出
す。
﹁ありえないってなんですか。私達が嘘ついているとでも言うんで
すか?﹂
﹁そこが分からん。嘘を吐く理由があるようには見えないし、そも
そも嘘を吐くならもっとましな嘘を吐くだろう。君達はアンムナの
家の周りを我々騎士団が張っていた事を知っていたようだから﹂
嘘を吐いている事を前提とした騎士の言葉に、クローナが攻撃的
な視線を騎士に注ぎつつ、落ち着いた口調で問いただす。
﹁私達が嘘を吐いていると思う、その根拠はなんですか?﹂
﹁君達がアンムナの家を出て、戻ってこないと見た我々はアンムナ
の家を窓から覗いた﹂
振り返るように目を閉じ、騎士は腕を組む。
キロは話のオチが見えて、天井を仰いだ。
天井を仰いで投げ出したいのはこちらの方だとばかり、騎士は深
々とため息を吐く。
﹁我々が張り込んでいる間、アンムナの家はおろか墓場に近づく人
影さえ︱︱なかったんだよ﹂
314
クローナが身を引き、キロとは反対に額を押さえて俯いた。
﹁お墓なんかに住むから怪奇現象が起きるんですよ﹂
︱︱魔法のあるファンタジー世界も大概だけどな。
キロは心の中で思ったが、口にはしなかった。
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第三十一話 容疑者
事情聴取を終えた後、キロとクローナは宿の娘の捜索に出た。
﹁どこに行きましょうか?﹂
クローナが周囲を見回しながら、キロに捜索場所の候補を訊く。
﹁アンムナさんの家だろ﹂
﹁キロさんまでアンムナさんを疑うんですか?﹂
﹁⋮⋮分かってて訊いてるだろ?﹂
﹁一応、お互いの考えをすり合わせておきましょうよ。新しい発見
があるかもしれません﹂
キロはため息を吐き、アンムナの家へ足を向ける。
﹁俺達がアンムナさんの家を出た時、小物入れの上には何もなかっ
た。俺達が出払った後で騎士団がアンムナさんの家の中を覗いて小
物入れの上に買い物かごを見つけた。それなら、誰かがアンムナさ
んの家の中に入って買い物かごを小物入れの上に置いたって事にな
る﹂
張り込んでいた騎士の目をかいくぐって、という前提条件がある
ものの、キロもクローナも小物入れの上に何もなかったという事実
を知っている。
真偽の判断が必要な騎士団とはスタート地点が違うのだ。
キロは小物入れの上に何も置かれていなかった事を念頭に置いて
考えており、クローナも疑問を挟んでこなかった。
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﹁動機はやっぱりアンムナさんに濡れ衣を着せるため、ですよね?﹂
﹁そこは少し引っかかる。物証がなくて捜査に行き詰っていた所だ
ったんだから、わざわざ濡れ衣を着せる意味があまりない。犯人を
絞り込めないなら、物的証拠を提供して公然と誘拐事件として捜査
する口実を与えるのは犯人にとっても不利だ﹂
キロ達も不動産屋から物件リストを手に入れる際に苦労した。秘
密捜査だからこその苦労だ。
しかし、誘拐事件としての捜査ができるようになった今、制約の
大部分が解除される。
﹁犯人の動機が他にあるって事ですか?﹂
﹁それはまだ分からないけど、今回の件で重要なのは犯人の動きが
分かっている事だ。おかげで容疑者の絞り込みが容易になる﹂
アンムナの家から買い物かごが見つかった以上、犯人はアンムナ
の家に一度侵入する必要がある。
そして、侵入した時間はキロ達が家を出てから騎士団が中を覗く
までの限られた時間だ。
﹁しかも、アンムナさんの家の周りには騎士団が張っていた。誰か
が犯人の姿を見ている可能性がある﹂
﹁でも、騎士団は人影を見ていませんよ?﹂
﹁その場にいたらおかしい人物という括りの中での話だ。アンムナ
さんの家の側にいてもおかしくない人物がいるだろ﹂
﹁張り込んでいた騎士団と情報提供をした人物、ですね﹂
騎士団員犯人説を大通りで公言するのは憚られ、クローナが声を
落とす。
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キロも小さく頷いて返した。
﹁どちらによるものかで対応は変わってくるけど、俺は情報提供し
た人物が犯人の可能性が高いと思う﹂
キロ達の記憶と矛盾した証言をした人物だ。
嘘の証言をするからには目的があるはずで、実際に宿の娘の買い
物かごが出てきた事を踏まえると行方を知っている可能性が高い。
クローナも同じ意見なのだろう、反論はなかった。
クローナが夜空を仰ぐ。すでに深夜と言っていい時間、満点の星
空が広がっている。
男女二人で夜空を見ているというのに、微妙な空気が漂っていた。
﹁問題の情報提供した人物ですけど⋮⋮﹂
﹁順当に考えて、シールズさん、だよな﹂
アンムナの家を訪れる人間は少ない。遺物潜りを習いに行ってい
るキロとクローナ、シールズの三人を除いて近寄ろうともしないだ
ろう。
昼頃にシールズが家に来たとアンムナも発言している。
﹁アンムナさん、弟子のシールズさんの罠にかかったなんて知った
ら、どう思うでしょうか﹂
クローナが心配そうに呟く。
﹁言わないわけもいかないけど、まだ確証はない。それに、俺達が
考え付く程度の事はアンムナさんも分かってるよ﹂
そうですね、とクローナはため息を吐き、正面を見据えた。
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キロもまた前を見る。墓場はすぐそこだった。
普段は明かりもないだろう墓場周辺には煌々と魔法による明かり
が灯っている。
騎士達が周囲に目を光らせているのが見えた。
﹁︱︱君達、何をしている?﹂
騎士の一人がキロ達を見つけて怪訝な顔で声を掛けた。
関係者以外立ち入り禁止といった雰囲気だ。
騎士の声を聴きつけた幾人かの騎士がキロとクローナに視線を向
け、あ、と何かに気付いたような声を上げる。
﹁君達、アンムナと一緒に家から出てきた⋮⋮どうして、ここへ?﹂
騎士の目が容疑者を見るような物に変わる。
キロは愛想笑いを浮かべながら片手を挙げた。
﹁事情聴取が終わったので、様子を見に来ました。それと、いくつ
か聞きたい事がありまして﹂
クローナがキロの言葉を翻訳して伝える。
騎士は首を振った。
﹁だめだ。君達には捜査から外れてもらう。追って、ギルドからも
通達があるだろう﹂
騎士は片手を突き出し、それ以上近寄るなと身振りで示す。
︱︱アンムナさんの関係者だからか。当然と言えば当然だな。
キロ達が共犯でなくても、容疑者と師弟関係にある以上は捜査に
個人の感情が加わりかねない。
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未だに誘拐された人々が見つかっていない切迫した状況下で、捜
査をかき回されては騎士達も堪らないだろう。
キロはクローナと一瞬だけ視線を交わす。
﹁せめて、家の扉や窓が開いていなかったかどうかだけ、確認でき
ないか?﹂
クローナは頷いて、騎士に訊ねるが、首を振られてしまった。
捜査情報を一切漏らすつもりがないようだ。
キロはこめかみに指を当てて少し考えた後、重苦しいため息を吐
く。
︱︱やりたくないけど、仕方ないかな。
﹁クローナ、騎士に腕輪を貸してくれ﹂
﹁良いですけど、無駄だと思いますよ?﹂
クローナに腕輪を渡された騎士は訝しげにキロを見る。
﹁何かな。我々も忙しいのだが﹂
﹁まぁ、そう言わずに。師匠が捕まってしまって、俺達としても肩
身が狭いんですよ﹂
﹁⋮⋮それは気の毒に。だが、それならなおさら君達に捜査情報を
漏らすわけにはいかないんだ﹂
騎士は心苦しそうに目を逸らす。根はやさしい性格なのだろう。
キロは罪悪感を覚えたが、いまさら引くわけにもいかない。
﹁捜査情報を外部に漏らさないという方針にはむしろ賛成なんです
よ。タレこみの件があるので、シールズさんに関しては師匠を売っ
たとさえ思われるかもしれません。飛び火するかもしれないから、
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俺達も他人事じゃない﹂
同意を求めるように、キロは愛想笑いを浮かべたままわずかに肩
を竦める。
﹁捜査情報に関しては諦めます。ただ、せめてシールズさんが情報
を提供したことは捜査に加わるほかの冒険者の皆さんにも内密にお
願いできませんか?﹂
キロが小さく頭を下げると、騎士は頭の後ろを掻いた。
﹁我々としても、最初からそのつもりだ。シールズさん自身、苦渋
の決断だったろうからな﹂
﹁ありがとうございます﹂
キロはもう一度頭を下げた。
﹁︱︱ところで、窓や扉は開いていませんでしたか? 情報提供者
がシールズさんなのは分かりましたけど、他にも聞きたい事がある
んです﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
鎌を掛けられていた事に気付き、騎士は呻くような声を出して空
を仰いだ。
﹁⋮⋮君、それは卑怯だろう﹂
﹁肩身が狭いのは本当ですよ。今日いなくなってしまった子は俺達
が泊まっていた宿の娘さんなので、帰るわけにもいかないです﹂
﹁普段の行いが悪いからこんなことに巻き込まれるのではないかな
?﹂
321
﹁悪を憎む善良な心がこんなことに首を突っ込む原動力です﹂
皮肉にひるまず、キロは即座に言い返した。
口の減らないキロに対して何かを言う気も失せたのだろう、騎士
は額を押さえる。
﹁とにかく、これ以上は話せないよ。君達の立場には同情するが、
我々も仕事だからな﹂
キロは礼を言って腕輪をクローナに返してもらい、アンムナの家
に背を向けた。
騎士の雰囲気でキロが情報を引き出した事に気付いたらしいクロ
ーナが、話を促すように首を傾げる。
﹁情報提供者はシールズさんだ。アンムナさんの証言と俺達が見た
事実、シールズさんの証言、やっぱり時系列がおかしいな﹂
﹁シールズさんの事、調べますか?﹂
﹁悟られないように調べよう。動機も含めて、何もかも分からない
んだからな﹂
キロが何から調べようかと考え始めた時、クローナが首を傾げる。
﹁動機ならありますよ﹂
キロはつい足を止め、クローナを見つめてしまう。
夜の通り、星空の下で見つめ合う男女というシチュエーションを
台無しにする、こいつ何言ってんの、という表情のキロにクローナ
がむくれた。
﹁ちょっと考えればわかるじゃないですか。アンムナさんも言って
322
ましたけど、シールズさんは珍しい特徴を持つ人が欲しいんですよ。
老若男女問わず、珍しければ誰でもいいんです﹂
キロは記憶にある失踪者の特徴を振り返る。
︱︱そういえば、目の色が左右で違う人がいたな。
失踪者を探す際の手掛かりとして提供された情報に、珍しい特徴
を持つ人がいた事を思い出す。
失踪者がすべて珍しい特徴を持っていたわけではなかったが、情
報漏れの可能性もある。
﹁質の悪いコレクターだな﹂
﹁でも、誘拐された人達が生存している可能性は高まりましたよ﹂
﹁剥製にでもされてなければな﹂
﹁うわぁ⋮⋮﹂
キロの発想にクローナがドン引きした。
その時、キロは捜査中に失踪してしまった冒険者の事を思い出す。
﹁失踪した冒険者が食品関係を調べてた理由は、シールズさんが誘
拐した人の栄養を管理して、生かしているって思ったからか﹂
﹁眼は剥製に出来ませんからね﹂
﹁悪かったよ、変なこと言って﹂
︱︱言った自分でも気持ち悪いって思ったくらいだし。
とはいえ、失踪者の生存が望めるのなら、やる気も増してくる。
キロは誘拐現場を直接押さえる事は出来ないだろうかと考えて、
はたと思い至る。
﹁もし、珍しい身体的特徴を持っている人を誘拐しているなら、次
の標的って⋮⋮﹂
323
﹁キロさん、かもしれませんね。髪も肌の色も珍しいですから﹂
クローナはキロを指差しつつ、何も心配はいらないとばかりの明
るい笑顔で言ってのける。
﹁その時は、返り討ちにしちゃいましょう﹂
324
第三十二話 証拠はいずこ
シールズ犯人説を突き詰めていくと、被害者の監禁場所という問
題が出てくる。
シールズの家はキロとクローナも遠目で見ただけだが、調べでは
地下室がなく周辺は人通りが多い。
﹁個人で地下室を掘った可能性もあります﹂
とクローナは意見を口にするものの、あまり現実的な見方ではな
いとキロは思う。
﹁掘るのは良いとしても、土砂は何処に捨てるんだ?﹂
地下室を作れるほどの空間を掘り抜けば大量の土砂が出てくる。
防壁の内側で捨てれば人目に付き、防壁の外へ持ち出そうとすれば
衛兵の目をかいくぐる必要がある。
キロの疑問にクローナは明確な回答を用意していなかったらしい。
腕を組んで困り顔をすると周囲を見回してヒントを探し始める。
キロは何か見落としていないかと記憶を探っている内に、初めて
シールズと会った時の事を思い出した。
﹁⋮⋮東の湿地帯﹂
ぼそっと呟いたキロを見て、クローナは何かを閃いたようだった。
﹁そうです、シールズさんは防壁の外へ狩りに行く時は馬車を複数
用意します。荷台の床板を二重にして土を入れれば、少量ずつです
325
けど持ち出せますよ﹂
名案とばかりにクローナは機嫌良さそうに笑う。
﹁そういえば、馬車には泥汚れが付いていませんでしたね。悟られ
ないように洗い流したと考えれば辻褄が合います﹂
﹁けど、証拠はない﹂
キロはため息交じりに呟く。
シールズの家に地下室が出来ているなら、直接乗り込むという最
終手段もある。しかし、証拠もなしに大胆な行動に出るのは難しい。
犯人扱いしておいて、間違いでした、では済まされない。捜査か
ら外されているのだからなおさらだ。
水を差されたクローナが微妙な顔をする。
﹁とにかく朝になったら東の湿地帯へ行ってみましょうよ﹂
何か分かるかもしれません、とクローナはやる気満々で拳を握る。
やる気満々とはいえ、夜の闇の中で湿地に行こうとは言い出さな
いらしい。
ぬかるみにはまって身動きが取れなくなると簡単に予想できるか
らだろう。
動作魔力を使えば抜け出せるとは思うが、魔物との戦闘中にぬか
るみに嵌ったらと考えるとぞっとする。
﹁朝まではシールズさんの動きを追うか﹂
尻尾を出すとは思えないが、朝までは他にする事もない。
娘の無事を心配する宿の主を気にせず部屋で眠れるほど、キロや
クローナの神経は図太くなかった。
326
﹁食事の約束があるので、宿に顔を出すはずです﹂
シールズの行動を予想して、クローナが爪先を宿へ向ける。
シールズが来ていなくとも、捜査の進捗状況を被害者の家族であ
る宿の主は教えられているかもしれない。
キロはクローナを追って道を曲がる。
宿へと向かう道すがら、クローナはそっとキロに近寄って、小さ
く囁く。
﹁私達に共犯の容疑がかかっているなら、騎士に尾行されていたり
するでしょうか?﹂
騎士団に泳がされている可能性について、キロも考えていた。
しかし、やましい所もないので放置でも構わないと判断したのだ。
むしろ、無実を証言してくれるのだからありがたいくらいである。
キロはクローナを横目に見て、口を開く。
﹁気になるなら後ろを向いて、こう言えばいい。その程度で闇に紛
れているつもりか。ほら、リピートアフタミー﹂
キロが適当なセリフを教えて煽ると、クローナは悩むように眉根
を寄せる。
﹁そのセリフ、誰も尾行してきてなかったらすごく恥ずかしいと思
うんですけど﹂
︱︱ばれたか。
キロは内心で舌を出したが、口から出た言葉は別の物だ。
327
﹁誰も尾行してきていないなら目撃者は俺だけだろ。台詞を考えた
本人を前に恥ずかしいもないと思うんだ﹂
﹁⋮⋮確かに、そうですね﹂
キロに言いくるめられたクローナは意を決して後ろを振り向く。
﹁その程度で闇に紛れているつもりか、姿を現せ!﹂
更に言葉を付け足して、クローナはビシッと道の先を指差した。
﹁︱︱なんて、言ってみたり﹂
威勢よく言い切ったものの、恥ずかしくなったらしいクローナは
照れ笑いをキロに向けた。
﹁貫き通せばおもしろかったのに﹂
﹁無理ですよ。やってみればわかります﹂
﹁やらなくても分かる﹂
肩を竦めるキロの腕を軽く叩いて、クローナは照れて赤くなった
頬を隠すように俯いた。
﹁人がいなくてよかったですよ﹂
クローナがクスクスと笑う。
キロの耳には出鼻を挫かれてたたらを踏む足音が聞こえていたが、
口には出さなかった。
宿の前には宿の主がまだ立っていた。
328
宿の主はキロとクローナを見つけると、その後ろに娘の姿がない
事を確認して落胆のため息を吐く。
﹁まだ見つからないんですね﹂
﹁あぁ、騎士団が頑張ってくれていると分かっているんだが⋮⋮﹂
自分の足を動かしていないと不安なのだろう、宿の主の視線は落
ち着かない。
︱︱ずっとこの調子なら、かなり疲れてるだろうな。
あまり無理はさせたくないものだと思いながらも、キロはクロー
ナの背中を軽く押して促す。
クローナは宿の主を心配そうに見ていたが、ここに来た目的を果
たすために口を開く。
﹁シールズさんには伝えてくれましたか?﹂
騎士の事情聴取を受けに行く前に、頼んだ伝言についてクローナ
が訊くと、宿の主は頷きを返した。
﹁奢ってもらう約束をしてたんだろ? すまんな、中止にしてしま
って﹂
﹁いえ、それは別にいいんです。シールズさんは何か言ってました
か?﹂
﹁自分も探してみる、とさ。夜が明けたらもう一度ここに来るそう
だ﹂
宿の主は再度ため息を吐いて通りを隅々まで見回した後、キロ達
に視線を向ける。
﹁腹は空いてないか? なんか作ってやれるが﹂
329
﹁良いんですか⋮⋮?﹂
ありがたい申し出だったが、宿の主を気遣ってクローナが心配そ
うに言葉を返す。
宿の主はコリをほぐすように肩を回した。
﹁仕事でもしてないと悪い方向にばかり考えるからな。それに、お
前さんらは捜索に出てくれるんだろ。腹に何か入れておけば長く捜
索に加わってくれそうだ﹂
冗談めかして言うと、宿の主は厨房へ足を向けた。
宿の主の足取りから、無理をしている事が分かった。
クローナは眉を八の字にしてキロを見る。
﹁食べて行こう。その代わりというのもおかしいけど、必ず探し出
すぞ﹂
キロの言葉に、クローナは頷いた。
食堂には誰一人いないだろうと思っていたが、キロの予想に反し
て何人かの常連らしい客の姿と、近所の家の住人がやってきていた。
宿の主を心配して顔を出したのだろう。
キロとクローナは軽く挨拶を交わして席に着いた。
厨房から何かを炒める音が聞こえてくる。香ばしくも甘い香りは
香辛料とハーブを混ぜた物だろうか。
ほどなくして運ばれてきたのはパンをかなり細かくちぎって数種
類の野菜や肉と一緒に炒めた料理だった。コメがパンに変わっただ
けのピラフに見える。
スプーンで掬って口元に運べば、立ち昇る湯気が甘辛い。
実際、食べてみればパンの塩気に合わせて野菜の甘みが広がり、
肉のうま味と香辛料の辛みが後を追いかける。
330
甘さは後を引かず、気付けば次の一口を求めてスプーンを動かし
ていた。
﹁少し塩を入れ過ぎたかと思ったが、気に入ってくれたみたいだな﹂
﹁ちょうどいい塩加減ですよ。今日一日歩いてばかりだったのもあ
ると思いますけど﹂
クローナの言葉に、キロは全力で頷いた。
︱︱お世辞抜きに、これは美味い。
肉汁を吸ったパンが肉と野菜との橋渡しも兼ねており、スプーン
の上で掬った具材の組み合わせにハズレがない。
﹁それ、娘が考えたんだ﹂
﹁絶対に見つけ出す﹂
﹁キロさん、目の色が変わり過ぎです﹂
完全に胃袋を掴まれたキロは決意する。
頭脳はすでに回転を始め、カッカラに来てからの事を片端から思
い出しては何かヒントになる物はないかと探していた。
﹁クローナ、以前ゴブリンから渡された花の中に、土次第で色を変
える花があったよな?﹂
﹁そういえばありましたね﹂
ゴブリンと聞いて眉を潜めたクローナは、キロの言葉に首を傾げ
る。
キロはクローナの反応には頓着せず、さらに質問する。
﹁カッカラの中と東の湿地帯で花の色はどうなる?﹂
﹁⋮⋮カッカラの中では赤、湿地帯では色の濃さが変わりますけど
331
必ず青です﹂
何かに気付いたように、クローナの目が細められる。
キロは小さく頷いた後、問いかけた。
﹁咲いてるか?﹂
﹁咲いてます﹂
キロとクローナはしばらく見つめ合った後、料理に視線を落とす。
直後、スプーンがひらめいたかと思うと、宿の主や常連客達が思
わず拍手してしまうほどの無駄のなさで料理を平らげていた。
拍手を受けて立ち上がった二人は、宿の主に向き直る。
﹁シールズさんが来たら、情報交換したいからここで待っていてほ
しいと伝えてください。ギルドではなく、ここです﹂
﹁構わないが、お前さんらは何処に行くんだ?﹂
﹁証拠を探しに今から湿地帯へ﹂
﹁おい、外は真っ暗だぞ?﹂
宿の主の制止も聞かず、キロとクローナは宿を飛び出す。
防壁への道を走り出す直前、キロは通りの隅に声を掛ける。
﹁見張るのは構わないけど、遅れるなよ!﹂
動揺するような気配と共に数人の騎士が出てくる。
キロとクローナはすでに走り出していた。
クローナがキロに並走しながら、一つだけ心配があると切り出す。
﹁シールズさんが土を長期間ばら撒いていれば、花の色が変わるか
もしれません。けど、変わってなかったら?﹂
332
﹁普段の行いの良さを見せつけるとするさ﹂
キロは不敵に笑った。
333
第三十三話 鎌をかける
朝日が昇ったばかりの頃、キロ達は防壁を潜り、カッカラの中へ
と戻ってきた。
パン屋が朝の支度を始め、良い香りが鼻腔をくすぐる。
今はまだ閑散とした通りも、じきに仕事を始める人々や朝の食事
を買い求める人で溢れかえる事だろう。
薄く霧が立ち込めていたが、キロ達の方向感覚を狂わせるほどで
はない。
白くかすみがかった道の先に目指す宿が見えてきた。
霧で顔が隠れた人物が小さくキロ達へ手を振る。
﹁⋮⋮二人とも無事だったみたいだね﹂
﹁ナメクジみたいな魔物に襲われましたけど、沼に沈めてきました﹂
手を降ろした人物、シールズにキロは答える。
シールズは右斜め上に視線をあげて記憶を探ると、あれか、と口
にした。
キロ達を襲った魔物の姿を思い浮かべたらしい。少し不愉快そう
に眉を寄せている。
キロ達も初めて見たときは嫌悪感が湧いた魔物なので、気持ちは
分かる。
﹁災難だったね。朝食はまだなんだろう?﹂
シールズが家に招くような自然な手振りで宿の食堂にキロ達を誘
う。
宿を飛び出してからというものなにも口にしていないキロだった
334
が、緊張が先に立って腹を減らすどころではなかった。
それでも、シールズが逃げない様にキロ達は誘いに乗って宿へ足
を踏み入れた。
﹁親父さん、キロ君達が帰ってきたよ﹂
厨房から顔を出した宿の主がキロ達の無事な姿を見てほっとした
ようにため息を吐く。
﹁ひとまず無事で安心したぞ。いま飲み物もってくから、席につい
てな﹂
﹁助かります﹂
キロとクローナは口をそろえて宿の主に返事をし、席に着く。
キロ達の対面に腰かけて、シールズがにこりと愛想笑いを浮かべ
て見せた。
﹁それで、東の湿地に行ったらしいけど、何か見つかったのかい?﹂
キロはシールズに負けず劣らずの綺麗な愛想笑いを浮かべて、顎
を引いた。
﹁見つかりましたよ﹂
端的に答えるキロに、シールズが目を細める。
無言で先を促すシールズを無視して、キロは宿の主が持ってきた
よく冷えた水でのどを潤した。
クローナが壁に掛かったメニューを指差しながら、宿の主に注文
する。
335
﹁野菜がいっぱいのパスタと、何か適当にスープを二人分ください﹂
﹁僕の分は無しかい?﹂
﹁自分で頼んでください。大丈夫です、私達の分は自分で払います﹂
クローナの冷たい言葉に、シールズは肩を竦めた。
宿の主にキロ達と同じものを頼んだシールズがまた無言でキロ達
を見る。
しばらく無言のまま水を飲んでいたが、やがてシールズが苦笑す
る。
﹁僕も忙しいんだけどな﹂
机に肘をついたシールズがキロ達を急かす。
キロは笑みを浮かべた。
﹁︱︱クローナ﹂
小さく名前を呼ぶと、クローナは鞄から一輪の花を取り出した。
藍色の花にはわずかに泥が付いていた。
シールズが訝しげに片眉を上げる。
﹁その花は?﹂
﹁湿地帯で取ってきました。土によって赤か青の花を咲かせます﹂
キロが質問に答えると、シールズはますますわからないといった
風に眉を寄せる。
次にクローナが取り出したのは鮮やかな紅色を呈する同じ花。カ
ッカラの防壁内で育てられたこの花は、キロとクローナが早朝、植
物に水をやっている園芸家から一輪譲ってもらったものだ。
クローナが二色の花を並べると、シールズはほぉ、と感心するよ
336
うな声を上げた。
話が見えてきたらしいシールズの反応を窺いながら、クローナが
最後の一輪を取り出す。
﹁これは昨夜、湿地帯を回って手に入れた物です﹂
薄い赤色の花をテーブルの上に置き、クローナはシールズを見る。
シールズはキロへ視線を移した。
﹁この花がどうかしたのかな?﹂
﹁湿地帯の花は必ず青系の色で咲くんですよ。しかし、今朝取って
きたこの花の色はごらんのとおり、薄い赤。土が変わった事に他な
りません﹂
言い切って、キロはシールズを見つめる。
シールズは花に視線を落とし、記憶を探るように目を細めた。
花の色を見比べながら、シールズは口を開く。
﹁それで、この花の色がどうかしたのかな?﹂
﹁土が変わった、つまり誰かが湿地に別の土をばら撒いたって事で
す。大量に、そう、地下室でも作れるくらい大量に﹂
キロはシールズを睨みながら告げる。
しかし、シールズは愛想笑いを浮かべたままだ。
﹁つまり、誘拐犯が地下室を作った後、処分に困った土を防壁の外
の湿地まで行って捨てた、とそう言いたいのかい?﹂
シールズはクスクスと笑いだす。
椅子の背もたれに体重を預け、腕を組んだシールズは、はっきり
337
と首を振った。
﹁犯人だって、土を捨てた場所くらい確認しに行くだろう。花の色
が変わっていたら何かに気付くと思うね﹂
﹁花が咲いた時期にだけ土を捨てていたらそうでしょうね。この花
が咲く前からずっと土をばら撒いていたのだと思いますよ。少量の
土を数回に分けてしか運べなかったから﹂
地下室を作るほどの大量の土砂だ。秘密裏に処分するためには少
しずつ地下室を掘り進め、そのたびに土砂を外へと運び出すしかな
い。
先に地下室だけ作るという方法は、土砂の置き場に困るために使
えない。
キロはクローナと共に推理した事柄を脳内で再検証しつつ、シー
ルズの表情を窺う。
シールズの愛想笑いが崩れ、わずかに嘲笑するような色が混じり
始めていた。
よくよく見なければ気付かない、あまりにもわずかな変化だ。
﹁面白い仮説だね。でも、僕にだけ教える理由がいまいち分からな
いかな﹂
シールズは口端を吊り上げ、探るような目をキロに向ける。
キロは真っ向から見つめ返し、不意打ち気味に微笑んだ。
﹁俺達は捜査を外されてしまいましたから、ギルドや騎士団に信頼
されているシールズさんから話してもらいたいな、と思ったんです
よ﹂
﹁そういう嘘は好きじゃないよ。キロ君達は捜査から外すという通
知をまだ貰ってはいないだろう?﹂
338
騎士団から事情聴取を受けた後、キロ達はギルドに顔を出すこと
なく東の湿地へ向かった。通知を受ける暇はなかったため、キロ達
はまだ正式に捜査から外されてはいない。
事実を突かれても、キロはひるまずに微笑み続けた。
﹁シールズさんと、俺達とでは立ち位置が違うでしょう?﹂
﹁⋮⋮どういう意味かな?﹂
﹁買い物かご﹂
単語で返すと、シールズは小さくため息を吐いた。
捜査から外されることが内々に決定しているキロとクローナとは
違い、シールズはアンムナの家に買い物かごがあると騎士団に垂れ
込んで捜査に貢献している。
発言力の違いを、キロは指摘したのだ。
﹁それとも、シールズさんは東の湿地に土を捨てている誰かについ
て、ギルドや騎士に報告できない理由があるんですか?﹂
﹁こらこら、話が逸れているだろう﹂
キロが皮肉を口にすると、シールズは話を軌道修正した。
シールズは組んだ手をテーブルに置いて、キロに視線を注ぐ。
﹁僕の発言力を使わないとギルドや騎士団が取り合ってくれない、
それくらい根拠が弱いのかな、と聞いているんだよ﹂
テーブルに置かれた花を顎で示し、シールズはキロを見つめる。
︱︱ばれたか。
キロはテーブルの花をちらりと見る。
三つの花の内、クローナが最後に取り出した薄赤色の一輪、実は
339
カッカラ内で取れたものなのだ。
夜の湿地で魔物の脅威にさらされながら、キロとクローナは魔法
の明かりを灯して散々探し回った。
しかし、赤色の花は結局見つからなかった。
広範囲に薄く土をばら撒いたのか、長期間少量ずつばら撒いたが
ために降雨や微生物の影響で酸性度が変わらなかったのか。
いずれにせよ、赤色の花が無くては話にならないため、キロとク
ローナはカッカラに戻るなり薄赤色の花を一輪調達してシールズに
鎌をかけたのである。
キロ達に鎌をかけられている事をシールズが見抜いているのかど
うか、キロは表情を窺う。
ちょうど宿の主が料理を運んできたため、キロ達は一斉に口を閉
ざした。
宿の主は何か言いたそうにキロやクローナを見たが、場の緊迫し
た空気に遠慮して厨房へ戻っていった。
﹁キロ君達の仮説はなかなか面白いと思うよ。その仮説が事実なら、
カッカラに存在する家は全て捜査対象になる。根拠があるならきち
んとギルドへ報告するといい。君達自身で、ね﹂
にっこりと笑ってシールズは締めくくった。
フォークを取って、シールズが料理に手を伸ばす。
キロとクローナも同じようにフォークを取り、パスタをからめ捕
る。
シールズが口にパスタを運ぼうとしたタイミングを見計らい、キ
ロは独り言のようにぽつりと呟いた。
﹁女装って楽しいのか?﹂
シールズの手が止まった。
340
﹁何の話︱︱﹂
﹁化粧品は定期市で買うのが良いらしいですよ﹂
シールズの言葉を遮るように、クローナがキロの呟きに答える。
ここに至って、シールズもキロ達が事前に示し合せた会話をして
いることに気付いたらしい。
鋭い目つきでキロとクローナのやり取りを見つめ始める。
視線に気付いていたが、キロもクローナも茶番をやめるつもりは
なかった。
﹁人形に着せる服なんかも売ってるって話だったな﹂
﹁アンムナさんが聞いたら喜ぶかもしれませんね。後は、アシュリ
ーを欲しがっている人とか⋮⋮もしもそんな人がいたら、ですけど﹂
クローナがシールズに一瞬だけ視線を向ける。
険しい顔をしていたシールズが取り繕うように咳払いをして愛想
笑いを顔に張り付けた。
﹁二人とも、いきなり話題を変え過ぎだよ﹂
キロはクローナと顔を見合わせて笑いあうと、そのまま笑顔をシ
ールズに向けた。
﹁話題は変わってませんよ?﹂
﹁明日の捜査予定を話し合ってるんです﹂
シールズの愛想笑いは剥がれない。
それでも、シールズを追いつめている感触がキロにはあった。
341
﹁明日は午前中に定期市で女物の服や化粧品を買った客について調
べて、午後は湿地に向かおうと思ってます﹂
﹁⋮⋮そうか。気をつけていくんだよ﹂
シールズはぞっとするほど抑揚のない声で注意を促すと、食事を
再開する。
キロはパスタを絡めるためにフォークをくるくると回しながら、
口を開いた。
﹁えぇ、気を付けておきます。湿地では特に﹂
342
第三十四話 明かされる動機
食事を終えてシールズが宿を出ていくと、キロとクローナは午後
に備えて仮眠をとるため、部屋に戻った。
扉を閉めてきっちりと施錠すると、クローナがベッドに倒れ込む。
﹁暴れられたらどうしようかと思いました⋮⋮﹂
枕に顔を埋めてクローナが呟く。
﹁同感。心臓がねじり上げられる気分だったよ﹂
キロもベッドに横になり、呟いた。
花の色で押し切れなかった時の切り札として繰り出した女物の服
と化粧品の話。
パン屋で聞き込みをしていた際に少年から聞いた話だったが、当
初は深く考えなかった。
だが、誘拐された者達に共通する特徴と、そこから予想されるシ
ールズの犯行動機が絡んでくると、少年の話はキロ達に一つの疑問
を提示した。
シールズは被害者を飾りたてるために、服や化粧品を選んでいた
のではないか。
見た目が珍しいから手元に置いておきたい、と誘拐したにもかか
わらず、服も何も汚れるに任せていては本末転倒だ。
証拠になるかもしれない証言なら鎌をかけてみよう、とキロはク
ローナと相談し、泥臭い演技までしたのだが︱︱当たりだったよう
だ。
343
﹁明日、シールズさんが追いかけてくると思いますか?﹂
枕に埋めていた顔を横にしてキロを見ながら、クローナが問う。
現状では外堀を埋める事しかできておらず、決定的な証拠は掴ん
でいない。
シールズとしては、キロ達を放置しておいても大きな脅威にはな
りえないだろう。
だが、キロは確信を持って頷いた。
﹁来る。アンムナさんを罠にはめたのも、多分俺達を捜査から外す
ためだ﹂
﹁自惚れじゃないですか?﹂
自信なさそうに、クローナは言う。
キロは苦笑した。
﹁シールズさんは俺達が不動産屋の物件リストを持っていた時にも
出くわした。クローナの視線や態度も合わせて疑われていると悟っ
たんだろう。それに、アンムナさんからシールズさんの好みが俺達
に漏れるのを恐れたんだ﹂
遅かったけどな、とキロは締めくくり、ベッドから身体を起こし
た。
今頃、アンムナは騎士団にもシールズが珍しい特徴を持つ人間が
好きな事を証言しているだろう。
タレこみされた逆恨みなどで証言が疑われない事を祈るばかりだ。
机に置いてある水差しからコップに水を注ぐ。
コップに口をつけて部屋の中を向くと、クローナが自分にも寄越
せとばかり手を伸ばしてくる。
キロは殊更ゆっくりと水を飲み干し、コップを机に置く。
344
そして、水差しを持ち上げて逆さにした。
﹁見ての通り、空っぽだ﹂
﹁水差しの中が空ならコップの水を飲み干さなくてもいいじゃない
ですか﹂
頬を膨らませて抗議するクローナの前で、キロは再び水差しをコ
ップに近づけ、中の水を注いで見せた。
クローナが目を丸くする。
﹁動作魔力で中の水を回転させてみた﹂
手品のタネを明かすと、からかわれた事を知ったクローナが唇を
尖らせる。
﹁くだらない事やってないで早くお水を下さい﹂
﹁はいはい﹂
水を満たしたコップを渡すと、クローナは両手で持って傾ける。
クローナは一息吐いて、欠伸を噛み殺した。
昨夜は一睡もせず湿地で魔物を警戒しながら花を探していたため、
疲れが溜まっているのだろう。
キロは空のコップを受け取って、机に置く。
ベッドに再び横になるキロに、クローナが声を掛ける。
﹁結局、アンムナさんの家にどうやって買い物かごを置いたんでし
ょうね?﹂
﹁そこだけわからないんだよな﹂
︱︱何しろ、この世界はファンタジーだし。
345
未知の魔法でも使われたらお手上げだと考えながら、キロは布団
をかぶった。
午後になって、キロとクローナは東の湿地帯に出向いた。
膝丈の植物が生え、ところどころに沼がある。
ちらほらと見える藍色の花が冬風に揺れている。
辺りを見回すが、人影は後方に着いてきている騎士が二人だけだ。
昨夜、キロ達が尾行してもいいと宣言した事と、湿地帯では見晴
らしが良すぎてすぐに尾行がばれてしまう事から開き直ったらしい。
シールズに襲撃されるかもしれない、と騎士に伝えてあるが、信
じた様子はなかった。
﹁騎士がいたら、シールズさんが襲ってこないかもしれませんけど
?﹂
﹁かといって、尾行を撒くわけにもいかないだろ。それに、戦力は
多い方がいい︱︱﹂
キロがクローナに言い返した直後、重たい物がぬかるみに叩きつ
けられるような音が響いた。
慌てて騎士に視線をやると、二人同時に倒れ伏している。
﹁ダメじゃないか、僕に襲われることを教えておかなくちゃ﹂
倒れた二人の騎士を両足で踏みつけ、シールズが笑っていた。
声を上げる暇もなく倒された騎士達はピクリとも動かない。
その早業にも驚いたが、見晴らしが良いこの湿地で奇襲を難なく
やってのけた事に、キロは驚愕した。
キロ達の警告を半信半疑とはいえ聞いていた騎士達が、シールズ
を発見する前に倒されたのだ。
346
キロは槍を構えつつ、クローナの前に出た。
﹁教えてあったんですけどね﹂
﹁そうかい、最近の騎士は不甲斐ないね﹂
シールズはやれやれとばかりに肩を竦める。口元は嫌味に吊り上
げられていた。
騎士から足を降ろし、地面に着地したシールズはキロを見る。
﹁僕がここに来た理由について、キロ君達は誤解してると思うんだ﹂
﹁⋮⋮誤解?﹂
油断なく槍を構えるキロがオウム返しに問うと、シールズは深く
頷きを返す。
静かにキロ達へ歩み寄りながら、シールズは嘲笑に歪む口を滑ら
かに動かした。
﹁キロ君達の捜査は確かに僕へつながる状況証拠を発見している。
けれど、それだけで僕を捕えられはしないだろう。だからこうして
僕をここに連れ出した。そして、僕はキロ君達の誘いに乗ってノコ
ノコと姿を現した﹂
キロの間合いに入るギリギリのところで、シールズは足を止める。
立てた人差し指を左右に振りながら、シールズは喉の奥からくぐ
もった笑い声を出した。
﹁これが間違いだよ。僕はキロ君達の思惑に乗ってはいないんだ﹂
シールズが腰のベルトから短剣を鞘ごと抜く。
怪訝な顔をするキロを指差し、シールズは獲物を狙う猛禽のよう
347
に目を細め、舌なめずりした。
﹁キロ君達もアンムナさんに弟子入りしたなら、アシュリーさんを
見ただろう?﹂
キロはすぐさまアンムナの家のガラスケースに収められた美しい
女性の姿を思い浮かべる。
﹁その顔は見た事がある顔だね。あの人は美しかっただろう?﹂
シールズの顔に恍惚とした笑みが浮かぶ。
アシュリーの姿を思い出してでもいるのか、遠い目をして楽しそ
うに、嬉しそうに、笑みを浮かべている。
シールズの笑みはあまりにもいやらしかった。
﹁気持ち悪い人ですね⋮⋮﹂
クローナが嫌悪感を充填した声で呟くと、シールズはすっと真顔
に戻った。
﹁人の嗜好を否定するのは良くないな。それに、アンムナさんも大
概だよ?﹂
﹁あなたと一緒にしないでくださいよ。確かに変人ですけど、気持
ち悪い人ではないです﹂
﹁君達の誤解はそれさ﹂
クローナが否定すると、シールズは嫌味な笑みを浮かべ、クック
ッと喉の奥を鳴らした。
シールズは右手で自らの右わき腹を指す。
348
﹁アシュリーさんのここに、魔物に刺された傷があるんだよ﹂
シールズは笑みを深め、更に言葉を連ねる。
﹁アシュリーさんを近くでよく見てみればすぐにわかる。等身大の
人形? 継ぎ目もないのに? あの肌の質感を陶器で出せるかい?
妙なる色彩の移ろいが人の手で可能だとでも? 断言しよう﹂
シールズは大きく息を吸い込み、ギラつく瞳をキロに向けた。
﹁アシュリーさんは正真正銘、人間の女性、その死蝋化した遺体だ
よ﹂
シールズは強く言い切った。
クローナが後ろで呆気にとられる気配を感じながら、キロは思い
出す。
シールズの指摘は確かに頷ける物ばかりだった。
アンムナに等身大の人形と紹介されたアシュリーには、継ぎ目が
存在していない。
普通、人形と言えば頭や手足、胴体などの部品に分けて制作され
る。当然、完成させるには各部品を繋ぎ合わせる事になり、継ぎ目
ができる。
化粧などでごまかす事はできるが、近くで見ればそれとわかって
しまう。
また、シールズの証言が事実なら脇腹にあるという傷の修復はし
ていない事になる。
あれほどアシュリーを大事に扱うアンムナが修繕をしないとは考
えにくかった。
それに、とキロは思い出す。
アンムナの異常な接し方が、アシュリーが生きていた人間であっ
349
たなによりの証拠に思えてならなかった。
シールズがこの場面で嘘を吐く理由もない。
﹁キロさん⋮⋮﹂
キロと同じ考えに至ったのだろう、クローナが不安そうにキロの
名前を呼ぶ。
﹁気にするな。後でアンムナさん本人に訊けばいい事だ。本題はア
シュリーが人間の死体か人形かって話でもないみたいだしな﹂
キロがシールズを睨んでいうと、クローナもシールズに視線を向
ける。
シールズはご明察、と手を打った。
﹁アシュリーさんは美しい。死してなお美しい。いや、死して更に
美しい。彼女は死ぬことで、永遠に美しさをこの世に留める権利を
得た、自然美の頂点だ!﹂
歪んだ思想を垂れ流しながら、シールズは大げさな身振りで両手
を空に掲げた。
﹁君達の最大の誤解は僕の動機だよ。僕はアシュリーさんのような
芸術品を作り出したい。そのための材料が欲しい。美しく、珍しく、
人目を引くような材料だ﹂
シールズが語る動機に、キロは目を見開いた。
︱︱愛でるためとは思ってたけど、死体にするのが前提かよ!
﹁あぁ、誘拐したさ。材料が欲しくてね。誘拐した後、きちんと食
350
事を与えて万全な状態にしてから綺麗に殺すんだ。アシュリーさん
のような汚点は残さない。死んでしまったら傷は治らないからね。
痩せすぎていてはいけない、太り過ぎていてはいけない、髪に艶が
無くてはいけない、爪はきれいに整えなければいけない、目が充血
しているなんて論外、やる事は山積みさ﹂
滔々と語り、シールズは心の底から楽しそうに笑った。
そして、キャンパスに向かう芸術家のような瞳をキロに向ける。
﹁僕は君をコレクションに加えに来たんだよ、キロ君﹂
351
第三十五話 シールズの特殊魔力
﹁︱︱キロさん!﹂
クローナが名前を呼んだ瞬間、キロは反射的に槍を横に薙いだ。
間合いギリギリから半歩踏み込んだところにいたシールズが上半
身を仰け反らせ、キロの槍を避ける。
︱︱気持ち悪い犯行声明をだしたと思ったら、いきなりかよ。
キロは前方で上体を起こしたシールズを見て舌打ちする。
クローナが追撃の水球を放つと、シールズは土の壁を生み出して
防ぐと共に、槍を振り抜いたキロに向けて再度踏み込んだ。
足元のぬかるみをものともしない加速は動作魔力によるものだろ
う。
伸ばされたシールズの右手がキロに達する直前、キロは槍を反転
させ逆袈裟に切り上げる。
右手を狙った攻撃が届くより先にシールズは腕を引き、キロの攻
撃をかわした。
しかし、攻撃をかわしながらシールズは踏み込みキロに密着する
ように体ごと飛び込んだ。
至近距離ならキロは存分に槍を振り回せない、そう踏んだのだろ
う。
キロはすぐに槍の持ち手を穂先近くに持ち替えようとするが、シ
ールズの手がキロを掴む方がわずかに早い。
判断を下したキロはシールズと自分との間に水の塊を発生させる。
攻撃に使用するには威力が弱い水の塊を見てシールズが訝しむよ
うに眉を寄せつつ、右手をそのまま水の中へ突き込んだ。
動作魔力で加速したシールズの腕は水の抵抗でわずかに減速する
が、まだ槍よりも早い。
352
しかし、キロはその水の塊に動作魔力を作用させ、うねりを作り
だし、シールズの腕をからめ取って弾き飛ばした。
シールズが一瞬目を見開き、すぐに槍を避けるために後方へ飛ん
だ。
かすめるようにキロの槍が空を裂く。
﹁いや、驚いた。器用だね、キロ君⋮⋮﹂
弾かれた右手を握ったり開いたりしながら、シールズが感心した
様に呟く。
﹁よく言われますよ﹂
キロは軽い口調で返したが、心臓は早鐘を打っていた。
咄嗟に魔法で弾く事が出来たが、それはキロが前衛でありながら
魔法を使用できるとシールズが考えていなかったから成功しただけ
だ。
二度目が通用するかはわからない。
キロは槍の持ち手を調整して間合いを短く、近接戦に対応できる
ようにあらかじめ準備する。
︱︱そりゃあ、強いだろうとは思ってたけどさ。
シールズの動きを脳内で再生すると、その無駄のない動きに妙な
笑いがこぼれる。
相手が誘拐犯でさえなければ教えを請いたいほどのものだった。
シールズは短剣の鞘を捨てると、切れ味を確認するように二度振
った。
﹁ギルドでは冒険者になって日が浅いと聞いていたんだけど、紹介
状を託されるだけはあるって事だね。連携もなかなかだ﹂
353
シールズが先ほどの攻防を分析しながら感想を口にする。
キロは飛び込むタイミングを計っていたが、シールズの動きを思
い出すと攻撃がかわされる未来予想しか浮かばない。
仕方なくカウンター狙いで心構えを作り、シールズが動く時を待
った。
キロがいつまでも動かないため、狙いを悟ったのだろう、シール
ズは短剣を手元でくるくると回して挑発する。
﹁あくまでも仕掛けてこないつもりかな?﹂
﹁お先にどうぞ﹂
キロが軽口を返すとシールズは腰に片手を当てる。
待ちの姿勢かとキロが思った瞬間、シールズの周囲に水の塊が浮
かんだ。
一つ、二つ、三つと増えていくバスケットボール大の水球は最終
的に七つとなり、シールズを囲む。
水球を警戒するキロ達に向けて、シールズは笑みを浮かべた。
﹁人間相手の戦いは慣れていないみたいだね。準備させちゃダメだ
よ﹂
言うや否や、シールズは水球の一つを破裂させ一瞬の霧を作り出
す。
ぬかるみを踏む湿った足音がしたかと思うと、霧の中からシール
ズが姿を現し、別の水球を破裂させて再び姿を隠した。
水球を次々に破裂させて姿をくらましながら、シールズが距離を
詰めてくる。
姿が見えなくては、キロも攻撃のタイミングが分からない。
カウンターを狙うどころの話ではなかった。
354
﹁︱︱キロさん、下がって!﹂
クローナの声が飛び、キロは動作魔力を使用して後方にステップ
を踏む。
すれ違ったクローナの魔法が視界に入る。
地面と水平に左右へ伸びる薄い石の刃が宙に浮いている。切れ味
は悪そうだが、威力は射出速度によるだろう。
しかし、クローナは石の薄刃をシールズが隠れている霧に向けず、
地面に向かって斜めに突き刺さるように撃ち出した。
元々ぬかるんでいた地面は打ち出された石の薄刃に容易く抉られ、
シールズが隠れた霧の中へ泥の波を被せた。
霧が泥に飲まれた直後、シールズが水の塊を破裂させて新たな霧
を生み出そうとする。
しかし、破裂した水の塊は泥の塊を周囲に飛び散らせるだけで、
霧のように広範囲に散らばる事はなかった。
粘度の高い泥を正面からぶつけられ、シールズの周りに浮かんで
いた水球に泥が混じり、破裂してもさほど飛び散らなくなったのだ。
霧を生み出せない今、シールズの姿を見失う事はない。
キロは動作魔力を身体に作用させ、シールズに向かって駆ける。
槍を持つ手の位置を変え、シールズにいち早く届くように調整し、
勢いを上乗せした突きを放つ。
霧を出す魔法に自信があったのか、無力化された事に驚いていた
シールズはキロが放った突きに気付いて短剣を構える。
シールズの短剣に槍の柄を横から叩かれて軌道を逸らされたキロ
は、シールズとの間に水球を生み出した。
シールズ同様、水球を破裂させて一瞬の霧を生み出し、キロは手
元で槍を回転させる。
回転させた勢いのままシールズの肩を狙って振り下ろした。
霧で視界を奪われたシールズは危険を察して後方へ退いていたが、
キロの槍の切っ先がわずかに届き、シールズのローブを切り裂いた。
355
シールズが裂けたローブの切れ端を手に取り、顔を顰める。
﹁酷いな、お気に入りだったのに﹂
﹁もっとズタボロにされたくなかったら降参して捕まってくれませ
んか?﹂
﹁もちろん、お断りだね﹂
軽い口調で返したシールズが再び水の塊を生み出す。
二度も同じ手を食うものか、とキロは身構える。
しかし、生み出される水の塊は今までと様子が違った。
﹁⋮⋮どんな魔力だよ﹂
キロは驚きを通り越してあきれてしまう。
シールズが生み出す水の塊は徐々に巨大化し、小さな家ならすっ
ぽり収まるほどになっていた。
かなりの魔力を消費していると一目で判るが、シールズは顔色一
つ変えていない。
﹁冒険者を傷一つ付けずに生け捕りにするのはやはり難しいね﹂
巨大な水の塊を動かすための動作魔力を練りながら、シールズは
しみじみと言って、嘆息した。
﹁大事な素材に消えない傷を付けてしまっては大変だから、僕もい
ろいろと考えたんだ。その一つがこれ﹂
シールズが水の塊を指差す。
魔法の規模にも驚きはしたが、キロは耳ざとくシールズの言葉の
裏を探り当てる。
356
﹁手加減してるって事ですか?﹂
﹁当然だろう?﹂
気付いていなかったのか、と言いたげにシールズは首を傾げる。
人の神経を逆撫でするような素振りだったが、キロは冷静に受け
止めた。
シールズが話しながら生み出した巨大な水の塊を見るだけでも、
力の差は歴然としている。
︱︱その慢心に付け込んでやる。
水の塊を投げつけられても対処できるよう、キロは魔力を練りつ
つクローナのそばに近寄る。
いざという時は動作魔力を使用して緊急離脱するつもりだった。
その時、無言でシールズを観察していたクローナが唐突に口を開
く。
﹁特殊魔力持ちですね﹂
﹁残念。僕はただ魔力が人より多いだけさ﹂
シールズが肩を竦め、小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
しかし、クローナは見立てに自信があるのか、一歩も引かずに言
葉を続けた。
﹁特殊魔力を使って尾行の騎士を巻いてきた。その効果時間もそろ
そろ切れるから、シールズさんは勝負を焦ってそんな大技を出した。
私達がもう少し時間を稼ぐだけで、騎士が事態に気付いてしまうか
ら。⋮⋮違いますか?﹂
﹁大した妄想、いや、願望だね﹂
シールズはあくまでも特殊魔力持ちである事を認める気がないら
357
しい。
だが、クローナの指摘にはキロも頷けるところがあった。
キロ達に尾行が付いていたのだから、同じくアンムナの弟子であ
るシールズに尾行が付いていてもおかしくはない。
騎士団へ買い物かごの情報提供をしているシールズだが、キロ達
との証言の食い違いもある。
︱︱そうだ、買い物かご⋮⋮。
騎士団の監視の目を搔い潜ってアンムナの家の中へと侵入し、買
い物かごを小物入れの上に置いた方法も、特殊魔力によるものでは
ないかとキロは思いつく。
焦っているというクローナの指摘を証明したくないからか、シー
ルズは余裕の表情で一歩を踏み出した。
シールズの動きに合わせるように、巨大な水の塊が前進を開始す
る。
︱︱あるはずのない場所に買い物かご⋮⋮。
﹁幻覚?﹂
クローナがポツリと呟くが、シールズはクスクスと笑うだけだっ
た。
﹁ない物を当てようなんて無理な話だよ。もう満足したかな?﹂
シールズが手を水の塊に押し当て、動作魔力を追加し始める。
キロはアンムナが語っていたシールズの失敗談を思い出していた。
特殊魔力が原因と思われる失敗談に、何らかのヒントはないかと
考えたのだ。
紙が飛んだり裂けたりといった失敗からは動作に関係する何かに
思える。
しかし、単純に動作させる魔力であるのなら買い物かごをアンム
358
ナの家の中に入れる事は難しい。
︱︱買い物かごが突然現れる⋮⋮。
﹁⋮⋮空間転移?﹂
キロが呟いた瞬間、シールズの歩調がわずかに乱れた。
歩調の乱れを自覚したのだろう、シールズは諦めたように足を止
め、キロを見た。
嘲笑するような笑みは、消えていた。
﹁キロ君⋮⋮少し黙ろうか﹂
鋭い視線をキロに注いだ瞬間、シールズが手にしていた短剣をキ
ロ達の頭上へと放り投げた。
勢いから考えて頭上を通り過ぎると考えたのか、クローナは見向
きもしない。
だが、キロは短剣が頭上を通過した直後、クローナの腰に手を回
し、横に大きく跳んだ。
﹁えっ⁉﹂
驚くクローナの肩口を短剣が〝横合い〟から切り裂いた。
キロが抱えて飛んでいなければ、短剣は左胸に突き立っていた事
だろう。
︱︱空間転移なんて当てずっぽうだったのに!
ぬかるみに足を取られそうになりながらもなんとかバランスを崩
さずに着地したキロはシールズを見る。
さっきまでシールズの横に浮かんでいた水の塊が無くなっていた。
︱︱また転移させやがった⁉
キロは慌てて周囲を見回すが、水の塊は何処にもない。
359
﹁キロさん、上です!﹂
クローナの声に促されて空を仰げば、巨大な水の塊が落下を始め
ていた。
﹁安心しなよ、殺すつもりはないから﹂
冷たく告げるシールズの声がキロの耳に滑り込む。
逃げようにも短剣を避けるために動作魔力を使った直後だ。練り
直している時間もない。
﹁キロさん、動かないで!﹂
クローナがキロに抱きつき、土のドームで周囲を覆う。
クローナの魔法で生み出された土が頭上を覆う直前、落下してき
た巨大な水塊がキロの視界いっぱいに広がる。
滴がキロの額を濡らした。
360
第三十六話 空間転移
﹁⋮⋮キロさん、大丈夫ですか?﹂
真っ暗闇の中で、クローナが問う。
息遣いが間近で聞こえた。
﹁大丈夫、だけど、この状況はどうにかならないのか?﹂
キロが暗闇の中で身じろぎすると、クローナがきゃっ、と小さな
悲鳴を上げる。
﹁どうにかと言われても、ちょっと、動かないでください!﹂
﹁分かったから、せめて、手を退けろ。どこ触ってんだ﹂
﹁え? 私、変なところ触ってますか?﹂
﹁尻を触るな!﹂
﹁⋮⋮柔らかいですね﹂
﹁言うに事欠いて、それか﹂
キロとクローナは狭い土のドームの中で悪戦苦闘するが、あまり
に狭すぎて腕も満足に動かせない。
クローナは咄嗟にキロと密着する事により土で覆う範囲を少なく
し、ドームを分厚くする事に魔力を割いたのだろう。
緊急時に良く頭が回った物だと感心することしきりだが、狭すぎ
て身体の大部分が密着していた。
クローナの吐息がキロの耳に吹きかけられ、ラズベリーに似た甘
酸っぱい香りが鼻先をくすぐる。
361
﹁ちょっ、頭を退けろ、匂いが⋮⋮﹂
﹁え⁉ 香水付けたのに!﹂
﹁いつの間にそんな物﹂
﹁お、乙女のたしなみだって司祭様が!﹂
﹁この状況は想定してなかっただろうよ﹂
ああでもないこうでもないと言い合った後、キロは我慢できずに
口を開く。
﹁このドームを消して外に出れば万事解決だから!﹂
﹁⋮⋮消せません﹂
困ったようにクローナが呟く。
キロは怪訝な顔をするが、この暗闇ではクローナには見えていな
いだろう。
﹁シールズさんは多分、私達がこのドームをいつ解いても大丈夫な
ように水球で周りを覆ってるはずです﹂
︱︱ドームを消した瞬間、水の中、というわけだ。
キロは背中に回されているクローナの腕や上腹部に押し付けられ
る胸の感触を極力頭から追い出しながら、口を開く。
﹁で、どうすんの?﹂
﹁キロさんも考えてください﹂
﹁この状況で、男に、考えろと? 何を? 責任の取り方?﹂
﹁混乱しすぎです。いつもの冷静なキロさんに戻ってください!﹂
はい、深呼吸して、とクローナに促されても、従うわけにはいか
ない。
362
クローナの匂いを肺一杯に吸い込む事になるからだ。
﹁とにかく、ドームを解いてすぐに水から脱出できればいいのか?﹂
胸元でクローナが頷く気配。
一瞬、このままドームに引き籠っていれば騎士団が駆けつけてく
るのではないかとも思ったが、ドーム内の酸素が持つか分からない。
そもそも、シールズに逃げられてしまう恐れもあった。
﹁アンムナさんの奥義みたいに動作魔力で吹っ飛ばすか﹂
﹁まだ成功した事ないんですけど﹂
キロの提案にクローナが自信なさそうに答える。
昨夜、教わったばかりで奥義を発動できたら苦労はしないだろう。
しかし、キロは奥義をそのまま模倣する気はなかった。
﹁あくまで〝奥義みたいなもの〟だ。あらかじめ動作魔力を練って
手元で凝縮しておけば後は放つだけだから、何とかなる﹂
﹁凝縮するのも難しいです⋮⋮﹂
沈黙が落ちる。
キロはドームが完成する直前に見た水の量を思い出しつつ、残っ
た魔力と相談する。
︱︱俺一人でもできない事はないけど、吹っ飛ばした直後に攻撃
されたら動けそうにないな。
﹁俺が水を吹き飛ばすから、クローナはシールズさんを牽制してく
れ﹂
﹁シールズさんが同じところにいるとは限りません。背後を取られ
てるかもしれませんから、一時的に離脱する事にしましょう﹂
363
クローナの作戦にキロは了解と返した。
キロは動作魔力を練りながら、比較的自由な方の腕を頭上に挙げ
る。
クローナも魔力を練っているようだ。こちらは凝縮させず、脱出
する時に使うのだろう。
﹁シールズさんの特殊魔力、結局どんな効果なんですか?﹂
準備しながらのクローナの質問に、キロは口を開く。
﹁瞬間的に物を別の場所へ移動させる効果があるんだと思う。身体
の中へ直接移動させたりはできないんだろうな。なんか条件がある
はずだ﹂
﹁どこから攻撃が飛んでくるか分からないって事ですか⋮⋮?﹂
﹁そういう事だ。多分、シールズは尾行の騎士も空間転移の魔法で
撒いてきてる﹂
騎士が昏倒する直前、キロとクローナは周囲を見回し、誰の姿も
ない事を確かめていた。シールズが空間転移で飛んできたのはキロ
とクローナが視線を外したすぐ後だったのだろう。
キロの推理にクローナが納得したように頷く。
キロは言葉を続けた。
﹁ただし、傷付けるような攻撃は正面からしか来ないようにできる。
クローナはずっと俺の前に居ろ。そうすれば少なくとも後ろから攻
撃は飛んでこない﹂
﹁その作戦だとキロさんが危ないです﹂
咎めるような声を出すクローナに、キロは頭を振った。
364
﹁俺は一番安全だ。シールズさんは俺を傷付けずに生け捕りにした
い。つまり、俺を背後から刺したりはできないんだよ。シールズさ
んの気が変わらないうちは、な﹂
︱︱背後から特殊魔力で拉致される可能性はあるけど。
キロは内心で考えるものの、口にはしなかった。
﹁準備できたか?﹂
﹁大丈夫です﹂
動作魔力を練り終わり、キロはせーの、と掛け声とともにドーム
の天井部分へ一気に放出する。
分厚い天井が砂で出来ていたかのようにあっけなく吹き飛び、そ
の上にあった水さえもまとめて天高く打ち上げる。
即席の噴水を作り上げたキロに抱き着いたままだったクローナが、
動作魔力を使用したジャンプで脱出を図る。
動作魔力を使用する事にまだ慣れていないらしいクローナだった
が、事前に十分な時間が与えられていた事もあって脱出に成功する。
足元に水の塊が残っていたが、キロは構わずシールズの姿を探し
た。
シールズは倒れた騎士へ爪先を向けていたが、肩越しに振り返っ
てキロ達を見つめている。
﹁動作魔力を凝集しての一点突破か。本当に器用な事をする。アン
ムナさんの奥義まで使えたりしないだろうね?﹂
地面に着地したキロ達を見て、シールズがため息交じりに語りか
ける。
365
﹁試してみますか?﹂
キロが挑発交じりに口にすると、シールズは盛大なため息を吐い
て空を仰いだ。
﹁試してみたいけれど、時間切れだね﹂
﹁時間切れ?﹂
キロが聞き返すと、シールズは苦笑しながらカッカラを指差した。
太陽光を反射する何かが近付いてきているのが分かる。
﹁カッカラ騎士団さ。キロ君が派手に水をぶち上げるから、様子を
見に来たんだろうね﹂
シールズは頭を乱暴に掻き毟り、いつの間に拾っていたのか、短
剣を手元で弄んだ。
ちらりと迫りくる騎士団を見たシールズは再度ため息を吐く。
﹁仕方ないから、ここはひかせてもらうよ。僕は今ここに居てはい
けない人間だか︱︱﹂
﹁クローナ!﹂
﹁分かってますよ!﹂
キロが名を呼ぶと、クローナは即座に呼応し、水球を撃ち出した。
しかし、シールズは涼しい顔で避ける。
﹁見逃してあげようというんだから、おとなしくしておけばいいも
のを﹂
﹁こっちは見逃す気がないんですよ!﹂
366
クローナがシールズに言い返した。
この戦闘をカッカラ騎士団に目撃されれば、事情聴取は確実だ。
騎士団からの信頼の違いもあり、一時的にキロとクローナは疑わ
れるだろう。
だが、空間転移で飛んできたためにアリバイがないシールズと昏
倒させられた騎士に、騎士団が気付かない筈がない。
騎士団がシールズを調べるきっかけさえ作れば、キロ達の証言も
考慮されるだろう。
﹁騎士団の視界に入るまで、なんとしてでも足止めするぞ!﹂
﹁言われなくても、そのつもりです!﹂
クローナが放つ大小、速度も様々な水球は精度よりもシールズの
余裕を奪う事に重点を置いていた。
シールズは面倒くさそうに手をかざし、土壁を生み出す。
土壁の裏に隠れる直前、シールズが短剣をキロへ向けて放った。
﹁キロさん!﹂
キロを傷付ける攻撃は来ない、そう思い込んでいたクローナが悲
鳴交じりに名を呼び、注意を促した。
しかし、キロは槍を構えて短剣を弾く準備をしつつ、水球の魔法
を放つ。
︱︱昏倒している騎士に向けて。
キロの数メートル前方で短剣が掻き消え、昏倒している騎士の頭
上に出現する。
重力を受けて加速しながら昏倒した騎士へ迫る短剣に、キロの水
球が直撃した。
ちっ、と短い舌打ちが土壁の向こうから聞こえる。
367
﹁口封じなんて、いかにも犯罪者が考えそうな事だからな﹂
キロは笑みを浮かべ、カッカラ騎士団に見えるように空へと火球
の魔法を放つ。
答えるようにカッカラ騎士団側からも火球が撃ちあがった。
カッカラ騎士団の登場で勢いづいたクローナが魔力の残量を気に
せず水球を放ち続けている。
そろそろ、視界に入る頃だろう。
シールズの前にあった土壁が崩れ、姿があらわになる。
クローナの後先考えない水球の乱射が予想より早く土壁を崩した
のだろう、シールズが驚いた顔をしていた。
すぐに代わりの土壁が張られると思いきや、シールズは苦い顔で
ぬかるみを踏みつけ、昏倒している騎士に向かって駆けだした。
カッカラ騎士団が間近に迫るこの状況下で逃走よりも口封じを選
ぶとは考えにくい。
︱︱騎士を守って戦っているように見せる気か!
シールズの意図に気付いて、キロは動作魔力を練り駆けだすが、
間に合わない。
クローナの放った水球がシールズの前方に着弾する。
泥を跳ねさせるだけだと思ったのだろう、シールズが加速したそ
の時、脚を取られたようにバランスを大きく崩した。
クローナの水球が着弾した地面が凍っていたため、滑ったのだ。
﹁あ、失敗しました﹂
クローナが呟く。
特殊魔力を混ぜてしまい、水球の魔法が失敗作の凍結魔法になっ
たらしい。
﹁むしろ、よくやった!﹂
368
体勢を立て直すために減速を強いられるシールズを横目に、キロ
は走り抜ける。
昏倒している騎士の元に辿り着き、キロは騎士を背後にかばいな
がらシールズと対峙する。
﹁︱︱お前達、何をしている⁉﹂
ついにカッカラ騎士団が到着し、声を張り上げる。
シールズが忌々しげに騎士団を睨んだ。
少しでも自分に有利になるよう、疑惑の目を向けられないような
言い訳を考えているのだろう。
シールズの言い訳が始まるより先に、クローナが口を開く。
﹁昨夜と同様、この辺りの土を調べていたらシールズさんが︱︱﹂
クローナが事情を説明するためにカッカラ騎士団に顔を向けた時
だった。
シールズの手元から短剣が消えている事にキロが気付いたのは⋮
⋮。
︱︱なんでこの状況で攻撃を⁉
騎士団の前で攻撃を行えば、いかに信頼のあるシールズでも言い
逃れはできない。
キロは周囲に視線を走らせる。
この状況で攻撃を仕掛けるなら、シールズの特殊魔力を知らない
カッカラ騎士団だと考えたが、短剣の影も形も見当たらない。
焦るキロの手元で何かが光る。
反射的に視線を向ければ、空中から短剣が姿を現したところだっ
た。
︱︱やられた!
369
短剣の切っ先を見て、キロは悟る。
キロの手元から現れた短剣の切っ先はクローナに向いていた。
キロの側から攻撃が来るなど、想像すらしていないクローナに向
いているのだ。
クローナがキロに寄せる信頼を逆手に取られていた。
また、シールズが空間転移の特殊魔力を持っている事を知らない
騎士団からは、キロがクローナへ短剣を投げたように見える事だろ
う。
キロは槍を振り抜いて短剣を叩き落とそうと試みるが、事前に動
作魔力で加速させてから転移したらしく、短剣はキロの必死さをあ
ざ笑うように槍の間合いを抜けていく。
﹁︱︱クローナッ!﹂
名前を呼んで注意を促すが、クローナが咄嗟に警戒を向けて振り
返った先はシールズだった。
シールズが会心の笑みを浮かべる。
キロは届かないと知りつつ、クローナへと手を伸ばす。
シールズの笑みに違和感を抱いたらしいクローナが眉を寄せ、意
見を窺うようにキロへ横眼を向けた。
﹁⋮⋮え?﹂
クローナの口からこぼれたのは、小さな、それはそれは小さな、
疑問の声だった。
服越しに血をにじませる腹部と、突き立っている短剣、それが飛
んできたキロの方へと順に視線を転じた後、クローナは困ったよう
な、痛みをこらえるような、そんな曖昧な笑みと共にキロに手を伸
ばした。
キロが手を掴むより先に、クローナは脚の力が抜けたようにその
370
場でゆっくりと倒れ始める。
キロはクローナの体を支えるためになおも手を伸ばしたが、その
指先を掠めるように剣が振り下ろされた。
剣を振り下ろしたカッカラの騎士団員と目が合う。
﹁止めは刺させんよ﹂
︱︱誤解だ。
キロが叫ぶ間もなく、他の騎士達がキロの肩を、腕を掴み、クロ
ーナから遠ざける。
遠ざけられるキロを見たクローナの眼が残念そうに涙で光り、閉
じられていく様を、キロは見逃さなかった。
手を握ってやれれば、少なくとも安心させる事はできたはずなの
に。
そう考えるだけで、視界が歪んだ。
﹁⋮⋮シールズ﹂
騎士に抑えられながら、キロは静かに呼びかける。
睨んだ先にいたシールズは騎士に向けて好青年ぶった笑みを浮か
べていた。
キロを押さえつける騎士達の力が強くなる。
キロの動きを完全に封じるつもりなのだ。
だが、キロは動作魔力を練り上げ、槍に纏わせた直後、手放した。
重力に従って地面に落ちる槍が、動作魔力の影響で回転する。
﹁︱︱は?﹂
間抜けな声を上げた騎士達の足は動作魔力で回転する槍に薙ぎ払
われた。
371
驚愕して倒れ行く騎士達の目の前に、空中にあるキロの足が見え
る。
槍を手放してすぐ、キロは小さくジャンプして槍の回転をかわし
ていたのだ。
地面に足を着いていない騎士達にキロを押さえ切れるはずもない。
キロは器用に槍を踏みつけて回転を止めると同時に、動作魔力を
練ってぬかるみを踏みつける。
泥が周囲に飛び散り、キロは莫大な推進力を得た。
槍を手放したままのキロはシールズに向けて疾駆し、右手を突き
出す。
騎士を薙ぎ払い殺意を込めて睨むキロを見て、流石のシールズも
身の危険を感じたのか目を見開いて頑丈な石の壁を作り出す。
突き出していたキロの右手が触れた瞬間、石の壁が弾け飛んだ。
尋常ではない破壊力だったが、当の本人は不満げに舌打ちする。
僅かの減速もなく壁の向こうへ右手を届かせたキロだったが、そ
の手は空を掴んでいた。
﹁見事だよ、キロ君⋮⋮﹂
壁の向こう、キロの手が触れるか否かのギリギリのところで、シ
ールズが空間に溶けるように消えながらキロを褒め称えた。
﹁逃げんな、ド屑野郎﹂
キロの罵声に、特殊魔力で転移しつつあるシールズが笑みを浮か
べる。
からかうように歪められたシールズの口元は、チェシャ猫のよう
に最後まで残っていた。
372
第三十七話 昔話
カッカラ冒険者ギルドと提携している治療所の一室でキロはクロ
ーナが横たわるベッドの隣に腰かけていた。
右手に巻かれた包帯を見て、キロは舌打ちする。
シールズの石壁を壊す際に破片で付いた切り傷だ。
キロはシールズの石壁を壊す際、アンムナの奥義を発動しようと
したが、凝縮が間に合わずに大量の動作魔力が石壁を四方八方へ飛
び散らせていた。
もし、キロが奥義を発動させていれば、撃ち出された破片は石壁
の向こうにいたシールズを撃ち抜いていたはずだ。
︱︱そうなればこんな面倒な事にならなかったんだけどな。
キロは心の中で嘆息して、部屋の中へと視線を走らせた。
部屋の中には女性騎士が二人立っている。
部屋の扉がコンコンと二度ノックされると、キロは鋭い視線を扉
に注いだ。
﹁誰だ?﹂
﹁おっかないですな。ずっとその調子ですか?﹂
名乗らずに扉を開けた初老の騎士は向けられた槍の穂先に肩を竦
めた。
キロは構えを解き、槍を壁に立てかける。
青い顔をしている女性騎士に初老の騎士は心配するなと声を掛け、
キロの隣に椅子を持ってきて座り込んだ。
キロはクローナの翻訳の腕輪を初老の騎士に貸そうとするが、す
でに持っていると断られた。
騎士団の備品らしい翻訳の腕輪には、カッカラの紋章が入ってい
373
る。
﹁お嬢さんの容体は?﹂
﹁さっき目を覚まして水を飲んだ。動くと痛いらしいから、寝かせ
てる﹂
初老の騎士の質問にキロは答え、腕を組んだ。
﹁シールズは捕まったのか⋮⋮捕まったんですか?﹂
﹁いまさら言葉を改められましてもね。まぁ、いいか。シールズは
逃げたようですな。家の中を改めたところ、地下室と誘拐された被
害者が全て見つかりました。疲労はありますが、健康体です。キロ
さんの言う通り、栄養を管理されていたようです﹂
初老の騎士がまだ報告書も作られていない情報をキロに話す。
キロは眉を寄せた。
﹁⋮⋮本当に、被害者が全員そろっていたんですか?﹂
﹁何か疑問でも?﹂
﹁シールズは空間転移の魔法で俺達の前から消えました。あの魔法
を使えば被害者を秘密裏にカッカラの外へ連れ出すなんて造作もな
い﹂
﹁神出鬼没の厄介極まりない魔法のようですからな。しかしながら、
逃走前にシールズが被害者を閉じ込めていた地下室へ現れたそうで
すよ。被害者の話では、連れ出しても管理できないから今回は諦め
る、とシールズが言っていたそうです﹂
︱︱つまり足手まといだから置いて行ったのか。
キロの攻撃から逃れるために空間転移の魔法を衆目にさらしてし
まったため、シールズは拠点にしていたカッカラに住めなくなった。
374
風雨を凌げる家がなければ〝材料〟を誘拐してきても体調管理が
できない。
せっかくの〝材料〟を無駄にするよりは次の拠点作りに集中する
つもりなのだろう。
初老の騎士が部屋にいた女性騎士二人に視線を移しながら口を開
く。
﹁事がここまで大きくなった以上、シールズもキロさん達を殺して
口封じをしようとは考えんでしょう。護衛は外しても構いませんか
ね?﹂
﹁そうですね。怯えているくらいですから、連れて帰ってください。
邪魔です﹂
キロは女性騎士を一瞥して、辛辣な言葉を吐く。
びくりと肩を跳ねさせた二人の女性騎士は悔しそうに視線を逸ら
した。
﹁気が立ってますなぁ。彼女らが怯えているのはキロさんに対して
です。キロさんに本気で暴れられたら、この二人では抑えきれそう
にない﹂
初老の騎士は顎を撫でながら、しみじみと言う。
﹁聞きましたよ。湿地で騎士の囲みをあっさり突破してシールズの
石壁を右拳一つで砕いたとか。見た目は細いのにとんでもない怪力
ですな﹂
﹁動作魔力を直接流し込んで壊しただけです。それと、護衛対象に
怯えてどうするんです。おおかた、俺が犯人だとか疑ってたんでし
ょう?﹂
﹁察しが良いですな﹂
375
あっけらかんとキロの予想を肯定して、初老の騎士は笑う。
︱︱隠す気があったかも疑わしいな。
キロが不審な物を見る目で睨むと、初老の騎士は笑いを引っ込め
た。
﹁しかしながら、動作魔力で駆けこんで壁に触れたら間髪入れずに
動作魔力を流し込む、そんな芸当ができるとは⋮⋮アンムナさんの
弟子なだけはありますな﹂
真面目な顔を作って話を逸らすからには、申し訳ないと思う気持
ちもあったのだろう。
騎士団も仕事なのだから、とキロは湿地での一件も含めて水に流
す事にした。
﹁アンムナさんは今どうしているんですか?﹂
キロの表情や声の変化に気付いたのだろう、女性騎士二人があか
らさまにほっとしたような顔をする。
女性騎士二人に初老の騎士が眉を顰めると、慌てて居住まいを正
す。
初老の騎士がため息を吐いた。
無言のやり取りにキロは苦笑する。
キロに軽く頭を下げた初老の騎士はアンムナの近況をキロに教え
るべく口を開いた。
﹁アンムナさんは一度に家に帰りましたよ。アシュリーとかいうあ
の人形を持ち帰るためにね﹂
後でこちらにも顔を出す、とアンムナからの言葉を初老の騎士が
376
伝える。
アシュリーの名前を聞いた時、キロはシールズの言葉を思い出し
た。
︱︱アシュリーは死蝋化した女性の死体、か。
アンムナについていろいろと知っていそうな初老の騎士に訊こう
かと、キロは考える。
しかし、アンムナはアシュリーを人形として紹介しているため、
要らぬ混乱を招く恐れがある。
アンムナには遺物潜りや奥義を教えて貰っている恩もあり、迷惑
を掛けたくはなかった。
アンムナ本人に直接聞く事を再度決意して、キロは適当に初老の
騎士と世間話を続ける。
﹁弟子が誘拐犯だったわけですけど、アンムナさんはこれからどう
なるんですか?﹂
﹁弟子の不始末は師匠の不始末、とアンムナさん本人が言ってまし
てね。ただ、カッカラを出て行かれるのは正直困るんですよ。それ
で、周辺の魔物をしばらく狩ってもらおうって話になってましてね﹂
初老の騎士の話によれば、アンムナほどの実力者を手放せるほど
カッカラは魔物の脅威を軽視しておらず、シールズがいなくなった
穴を埋めてもらう事になったらしい。
誘拐犯だったシールズだが、冒険者としての腕は確かだったため
代わりを務められる人間はなかなかいない。
しかし、師匠のアンムナならば過去の実績もあるため安心だろう
との事だった。
﹁今思えば、シールズの奴は特殊魔力で狩った獲物を運べる分、運
搬するための魔力を節約できたんでしょうな。一度に多くの魔物を
仕留めて運んで来れたのも、いつも一人で狩りに出ていたのも、そ
377
ういうからくりがあったんでしょう﹂
感心した様に初老の騎士は呟く。
そもそもなぜシールズの狩り方を怪しまなかったのかとキロは思
う。
だが、キロが疑問をぶつける前に初老の騎士はアンムナの狩り方
を口にした。
﹁アンムナさんはどんな魔物もすれ違いざまの一撃で倒してしまう
から魔力をほとんど使わないし、シールズも似たようなものだと思
ってたんですがね﹂
記憶を振り返るように遠い目をしながら、初老の騎士が呟いた。
そんな馬鹿な、と否定したくなるが、アンムナの奥義からして対
象の瞬間破壊だ。
︱︱平然とやってのけそうだな⋮⋮。
キロがアンムナの姿を思い浮かべた時、部屋の扉がノックされる。
シールズを警戒して反射的に槍へと手を伸ばしたキロだったが、
扉の向こうから知った声が聞こえてきて手を引っ込めた。
﹁キロ君、私だよ﹂
﹁どうぞ、入ってきてください﹂
治療所の人間に教わった言葉で入室を促すと扉を開いた宿の娘が
顔を覗かせる。
初老の騎士と目が合うと小さく会釈し、困り顔できょろきょろと
部屋を見回す。
騎士がいるため本当に部屋へ入っても良いのか迷っているらしい。
宿の娘の逡巡を察した初老の騎士が立ち上がる。
378
﹁では、我々はお暇しましょうか。またお話を聞きに参りますから、
顔を覚えておいてくださいよ。また槍を向けられたら老い先短い命
がここで消えかねませんから﹂
反応に困る冗談を残して、初老の騎士は二人の女性騎士と共に退
室した。
微妙な顔で初老の騎士を見送った宿の娘がキロに向き直る。
﹁なんかいろいろ大変だったみたいで⋮⋮﹂
誘拐された被害者がそれを言うのか、とキロは思わず苦笑した。
クローナの翻訳の腕輪を渡しながら、キロは口を開く。
﹁お互い様だろ。そっちこそ、大丈夫だったのか?﹂
﹁何ともないよ。あの変態いわく、生きている内は手を出さないっ
て﹂
含みのある言い方の裏を察して、キロは唖然とする。
﹁⋮⋮なんというか、想像を絶するな﹂
﹁おかげさまで何もされなかったんだけどね。地下はじめじめして
て住み心地は悪かったけど、食べ物は美味しかったし、何とも言え
ない環境だったよ﹂
宿の娘は両手を肩の高さに持ってきて、たはは、と曖昧に笑う。
初老の騎士が座っていた椅子に腰を下ろした宿の娘はクローナに
視線を移す。
﹁しばらく安静だけど、命に別状はない﹂
379
キロは宿の娘に問われる前に答えを口にする。
宿の娘はほっとしたように息を吐いた。
﹁傷は残らないの?﹂
﹁⋮⋮そういえば、聞いてない﹂
キロが正直に答えると、宿の娘は横目で睨んだ。
﹁重要な事だと思うよ、彼氏さん﹂
﹁彼氏じゃないから﹂
﹁⋮⋮責任は取ろうね?﹂
キロ達が同じ部屋に泊まっている事を知っている宿の娘は勘違い
したまま言う。
﹁はいはい、できたらとるよ﹂
キロは面倒臭くなって適当に受け流す。
﹁できてからだと遅いよ﹂
﹁︱︱責任を取る事が出来るなら、という意味だ﹂
余計ややこしくなった気がして、キロはため息を吐き、話題の転
換を図る。
﹁クローナに外出許可が下りたら宿へ食べに行くから、美味しい料
理を出してくれよ﹂
﹁もちろん、腕によりをかけて作るよ。それで、責任の取り方なん
だけど⋮⋮﹂
380
どうやら、逃がすつもりはないらしい。
すっかり外も暗くなった頃になって、アンムナが部屋に現れた。
﹁クローナ君は寝ているみたいだね。寝顔を覗いたら失礼かな﹂
﹁どうぞ座ってください。見舞いに来てくれた人を立たせていたら、
こちらこそ失礼になりますから﹂
アンムナが気を使ってベッドから離れた壁に寄りかかろうとする
のをキロは止め、椅子をすすめた。
アンムナは礼を言って椅子に座ると、持ち込んだ鞄の中から薄緑
色の金属板を取り出した。
﹁約束の報酬だよ。リーフトレージという金属だ。好きに使うとい
い﹂
﹁本当に良いんですか?﹂
﹁僕が持っていても宝の持ち腐れだからね。昔、やけ酒をしこたま
飲んだ時に勢いで買ってしまったものなんだ﹂
ありがたみのない由来を聞かされても、価値が下がるわけではな
い。
表情からキロの考えを読み取ったのか、アンムナはやれやれとば
かりに肩を竦める。
﹁短い昔話さ。冒険者をやっていた僕はとある女性と出会ってね。
当時はまだ中途半端だった僕の奥義と彼女の戦い方はあまりにも相
性が良かった。一緒に組んでいろいろやったよ。パーンヤンクシュ
を倒して鍋パーティーとかね﹂
﹁︱︱あの魔物、食べられるんですか?﹂
381
﹁あぁ、火で炙って酒の当てにすると二日酔いの防止になるよ。鍋
にすると程よく肉が崩れて美味い。クローナ君は経験があるはずだ
よ。まぁ、そのうち食べる機会もあるさ﹂
パーンヤンクシュの姿を瞼の裏に思い描くキロだったが、どうし
ても美味しそうには見えなかった。
衝撃を受けているキロは置いておいて、アンムナは昔話を続ける。
﹁さっきも言った通り、僕の奥義はまだ中途半端な物でね。動作魔
力の凝縮が間に合わずに手を怪我する事もあった。あの時も僕は前
日に失敗をやらかして手首を骨折していたんだ。そんな中、折り悪
くギルドが緊急討伐依頼を出した﹂
組んだ脚に頬杖を突きながら、アンムナは思い出すように瞼を閉
じた。
﹁ギルドが組んだ討伐チームには僕の相棒だった彼女がいてね。本
来は僕も参加するはずだったんだけれど手首を骨折していたから外
されたんだ。討伐は滞りなく成功したんだけれど、帰り道で毒のあ
る小型の魔物が群れていて、彼女は噛まれ、毒に蝕まれて亡くなっ
たんだ﹂
アンムナは薄緑色の金属板を軽く叩いた。
﹁彼女が死んだ夜にやけ酒を呷って、偶然入荷されていたこの金属
板をまとめ買いした。すぐにナックルを一組作って、彼女を殺した
魔物の群れを探し出して片端から奥義で殴ったんだ。魔力を貯めて
おけるから、一日中戦えたよ﹂
はい、おしまい、とアンムナは薄緑色の金属板をキロに押し付け
382
た。
﹁その金属板には魔力を貯めておける。貯めた魔力を使えば魔力を
練る過程を飛ばせるから、魔法の発動も素早くできるんだ。当時の
僕でもその金属で作ったナックルを使えば魔力の凝縮と放出だけに
意識が割けるから、奥義を完璧に発動できた。一日早く手に入れて
いれば、彼女も死なないで済んだのにね﹂
︱︱最後の言葉はずるいだろ。
眉を寄せるキロの肩にアンムナは手を置いた。
﹁今回は後悔の後に安堵が来た。でも、次は永遠に後悔するかもし
れない。そうならないように準備しておくべきだと思うよ。僕の教
訓を生かしてくれ﹂
押し切られる形でキロはアンムナから金属板を受け取る。
ためしに魔力を通してみると淡く光った。
夜も遅いから、とアンムナが立ち上がる。
部屋を出て行こうとするアンムナの背中へ、キロは声を掛けた。
﹁さっきの話に出てきた彼女って、アシュリーさんですか?﹂
アンムナは肩越しに振り返り、口に人差し指を当てる。
﹁︱︱誰にも言っちゃダメだよ?﹂
383
第三十八話 遺品探しの方針
夜も更けて、キロは左手にぬくもりを感じて目を覚ました。
﹁起こしちゃいましたか?﹂
﹁あぁ、寝ちゃってたのか﹂
クローナの声に寝ぼけ眼で答えつつ、キロは左手を見る。
クローナの両手が上下から包み込むようにキロの左手を挟んでい
た。
キロが視線で真意を問うと、クローナは頬を赤らめてほほ笑んだ。
﹁あの時は手が届かなかったので、取り戻してます⋮⋮﹂
ダメですか、と寂しそうに首を傾げられ、キロは首を横に振った。
﹁別にいいよ。それより、具合はどうだ?﹂
キロは軽く流したが、クローナは少し不満げに頬を膨らませた。
わざとらしく力を加えたり抜いたりしてキロの手を揉むが、キロ
は特に気にしない。
ただ心配そうにクローナを見るだけだった。
クローナは小さくため息を吐いて、そっぽを向く。
﹁安静にしていれば大丈夫です。話していると少し痛いですけど﹂
傷を押さえようとしたクローナの手がわずかにキロの左手から離
れるが、名残惜しくなったのか再びキロの左手に戻される。
384
窓の外には星が瞬き、家々の明かりは消えている。
寝静まったカッカラの風景を眺めていると、クローナがふとキロ
を見た。
﹁ずっとそばに付いていてくれたんですか?﹂
﹁事情聴取を受けた後からなら、ずっとな﹂
キロはシールズが逃げた後の事を説明する。
シールズが空間転移の魔力で湿地から消えた後、キロはすぐにク
ローナを抱えてカッカラに戻った。
動作魔力を使いつつ湿地を駆け抜けながら、追いかけてくる騎士
団に事情を説明、治療所へクローナを運び込み、騎士団から事情聴
取を受けた。
キロの証言に加えてシールズが実際に特殊魔力を使う所を見た騎
士団はキロに監視を付けてシールズの家宅捜索に踏み切った。
ここまではクローナが一時的に目を覚ました時に伝えた事だった
が、寝ぼけていて記憶にないらしい。
﹁キロさんに水を飲ませて貰ったのは覚えているんですけど⋮⋮﹂
﹁なんでそっちだけ覚えてるんだよ。記憶の割り振り方ミスってる
ぞ﹂
﹁ま、間違ってませんよ。思い出としていつまでも覚えていられる
大事な記憶なんです。私は長期的な視野というものを持ってるんで
す﹂
﹁あまり騒ぐな。傷が開くだろ﹂
むぅ、と不満げに唸るクローナを落ち着かせて、キロは話を戻す。
家宅捜査の結果や、宿の娘が見舞いに訪れた事などだ。
アンムナの昔話は秘密だと言われたが、クローナには話しておい
た。アシュリーの正体について、シールズの暴露話を聞いてしまっ
385
ているからだ。
一度に話したせいか、クローナは難しそうな顔をした。
﹁アシュリーさんが大事にされていた理由は、その過去があったか
らなんですね⋮⋮﹂
複雑そうな顔で呟いて、クローナはキロの左手を握りしめた。
﹁⋮⋮ちょっと羨ましいかもしれません﹂
クローナの呟きにキロはぎょっとする。
クローナが苦笑した。
﹁好きな人に大事にされたいというだけですよ。死にたくはないで
す﹂
﹁驚かすなよ。それはそうと、あれが例の金属板、リーフトレージ
だってさ﹂
キロが右手でアンムナから渡された金属板を指差すと、クローナ
は複雑そうな顔のまま杖と金属板を見比べる。
﹁使ってもいいんでしょうか?﹂
﹁むしろ、使うべきだと思う。それで、元気な顔を時々見せに行け
ばいいさ﹂
﹁司祭様みたいなこと言いますね﹂
クローナは苦笑したが、使う事に決めたようだった。
﹁入院中に杖の補強を済ませておきたいですね。キロさん、明日に
でも鍛冶屋さんに行ってもらえませんか?﹂
386
﹁分かった。クローナは傷を治す事に専念しろ。という事で、さっ
さと寝ろ﹂
枕の横をポンポンと叩き、キロは促す。
しかし、クローナは何かに気付いた様子で目を見開いた。
﹁そういえば、ここの治療費っていくらですか? 鍛冶屋さんに依
頼できるほど余裕ありましたっけ?﹂
﹁こんな時に金の心配かよ﹂
キロはため息を吐く。
クローナが眉を寄せ、入院している場合じゃないかもしれません、
と呟く。
行動力は人一倍にあるクローナの事、放っておくとギルドへ依頼
を受けに行きそうな雰囲気だったのでキロは慌てて口を開く。
﹁ギルドからの見舞金で治療費は払い込んであるから安心しろ。捜
査から外されている俺達に報酬という形で渡せないって受付が言っ
てたけど、誘拐された被害者や家族からの謝礼に混ぜて渡してくれ
るってさ﹂
キロが説明すると、クローナも落ち着いた様子でほっと息を吐い
た。
謝礼は後日払われるとの事だったが、治療費の心配さえなければ
手持ちのお金だけで鍛冶屋へ依頼ができるらしい。
﹁私達は一応、お金持ちなんですよ?﹂
とはクローナの弁だが、お金持ちなら治療費の心配もいらないと
思うキロだった。
387
︱︱医療保険とかないから仕方ないか。
日本とは違って治療には何かと金がかかるのだ。
見舞金として払い込んでくれたギルドは太っ腹らしい。
﹁お金の心配がなくなったところで、今後どうするかを話し合いま
しょうか?﹂
﹁さっさと寝ろというのに﹂
﹁お昼から寝てたので眠くありません﹂
意地でも寝る気はないらしく、クローナはキロが反論する前に質
問を浴びせてくる。
﹁シールズさんが拠点を作ったら、私達を狙ってくるかもしれませ
ん。早めにカッカラを出た方が良いと思います﹂
キロはクローナを寝かしつける事を諦めて、口を開く。
﹁俺も同じことを考えてた。俺達を狙うかはともかく、地理を把握
しているカッカラに戻ってきてまた誘拐事件を起こす可能性はある﹂
カッカラ騎士団と冒険者ギルドはシールズを指名手配して警戒を
強めており、周辺の町や村にも通達を出している。
数日中にカッカラの衛星都市内で指名手配が完了し、ひと月もす
れば都市同盟全体に警戒網が敷かれるという。
いくらシールズが空間転移の特殊魔力を持つといっても、人の目
から完全に逃れる事は難しい。
シールズの拠点作りは難航すると思われた。
﹁ギルドや騎士団はシールズが密輸関係の犯罪組織に加担すると予
想して追跡を開始したみたいだ。悪用されたら害が大きい特殊魔力
388
だからな﹂
実際、誘拐に悪用されてこれほどの大事に発展したのだが、シー
ルズは特殊魔力を隠すために自重していた節がある。
特殊魔力が明るみに出た今、シールズはこれまで以上に特殊魔力
を活用するだろう。
﹁懸賞金もかけられるみたいだけど、俺は捕まえようとは考えてな
い。危険すぎるからな。クローナもそれでいいだろ?﹂
﹁⋮⋮そうですね。手強すぎますし、今はキロさんの世界へ行く方
法を考えた方がいいです﹂
無理にでも捕まえに行こう、とクローナが言い出さなかった事に
キロは内心で安堵する。
シールズの顔面へ二、三回、拳をフルスイングで叩き込みたいと
キロは今も思うが、安全を優先するべきだと頭で判っている。
﹁遺物潜りを習い終えたらすぐにカッカラを出て、俺の世界から来
た遺品を探しに行こうと思ってる﹂
﹁当てはあるんですか?﹂
クローナの問いにキロは首を振った。
ただ、とキロは口を開く。
﹁この世界に存在しないけれど、俺がいた世界には普及していた物
がある。例えばこれだ﹂
キロは右手でポケットから携帯電話を取り出した。
度々目にしていたからだろう、クローナは特に珍しがることはな
い。
389
しかし、キロが電源を入れると携帯電話から起動音が鳴り、クロ
ーナは驚いたように瞬きした。
﹁今の音、なんですか﹂
﹁電子音だ。気にするな﹂
キロは携帯電話の画面をクローナに向ける。
夜の病室には月明かりしかなかったが、携帯電話の画面が明るく
なると、クローナが眩しそうに目を細める。
﹁魔法の光じゃないですね。これがキロさんの世界にしかない物で
すか?﹂
﹁少なくともこの世界にはない物だ。この世界では電気が使われて
ないからな﹂
キロは電池残量を気にして携帯電話の電源を切る。
﹁携帯電話なら、メールの着信履歴を見てこの世界にやってきた時
間にも大体の見当がつけられる。メールの内容次第で持ち主が死亡
しているかも分かるかもしれない。⋮⋮勝手に見るのは気が引ける
けどな﹂
携帯電話に限らず、電気を使う道具ならば高確率でこの世界の外
からやってきた品だと断定できる。
﹁それから、この外装だ。少し触ってみろ﹂
キロは携帯電話をクローナに渡す。
キロの左手から名残惜しそうに片手を離したクローナは、携帯電
話の表面を撫でて首かしげる。
390
﹁金属でも木でも皮でもないですね。なんですか、これ?﹂
﹁プラスチックだ。これもこの世界にはない﹂
遺品、という括りでは探すのも一苦労だが、プラスチックの外装
で覆われた携帯電話はこの世界では異物である。
そして最後に、キロは荷物の入った鞄を指差す。
﹁俺とクローナが初めて会った時に来ていた服があるだろ。あれの
素材もこの世界には存在しない。見つけるのは少し難しくなるけど、
大量に血でもついていれば高確率で持ち主が大怪我してる。場合に
よっては⋮⋮死亡してる﹂
普段着に大量の血を付けての死亡であれば不慮の死である可能性
が高く、着用者の無念が宿っている可能性も高い。
遺物潜りの媒体になりやすいだろう。
﹁とりあえずこんなものだ。骨董品屋とか好事家を当たってみよう
と思う﹂
﹁キロさんなら一目で判るんですね。だいぶ探しやすくなります﹂
クローナがこめかみに手を当てて何事か考え、首を振る。
﹁骨董品が集まりそうなところはちょっと思いつかないですね。可
能性があるとすればラッペンのオークションでしょうか﹂
﹁ラッペン、前に聞いた事があるような⋮⋮﹂
キロは記憶を遡り、パーンヤンクシュを討伐した町でクローナに
聞いた事を思い出す。
391
﹁確か、北にある大きな街だったか?﹂
﹁ここからだとやや東寄りですけど、まぁおおよそ北です﹂
クローナが曖昧な表現をして、ラッペンがある方角を指差した。
﹁ただ、ラッペンのオークションに出るような品物だと落札するに
も大金が必要なので、私達ではちょっと⋮⋮﹂
言葉を濁すクローナに、キロは頭を掻いた。
︱︱まさか盗むわけにもいかないよな。
オークションに参加する資金を捻出するためにも、まだしばらく
は冒険者稼業を続ける事になりそうだ。
﹁司祭様に良い案がないか訊いてみましょうよ。教会の伝手で何か
聞いた事があるかもしれません﹂
︱︱聖遺物とかになってたらどうしよう⋮⋮。
ふいに浮かんだ嫌な考えが杞憂に終わればいいと願いつつ、クロ
ーナの提案にキロは頷いた。
392
第三十九話 送別会inカッカラ
﹁はい、お疲れ様。ここまでよく頑張ったね﹂
アンムナが拍手しながら、ぐったりしているキロとクローナを褒
める。
ここはクローナが入院する前からキロ達がお世話になっている宿
だ。
﹁さぁさぁ、疲れてるなら精が付く物を食べてね﹂
手の上にそれぞれ一皿、長い腕を生かして左右にそれぞれ二皿、
計六皿の料理を一度に運んできて、宿の娘はご機嫌に言う。
その表情だけで、利益率が高い料理なのだと知れた。
肉中心の料理がテーブルに並べられる。
﹁今日は卒業祝いに僕の奢りだから、遠慮なく食べるといい。ギル
ドの依頼でだいぶ稼いでいるから、好きに飲み食いするといいよ﹂
アンムナがニコニコしながら気前の良いセリフを言う。
今日はキロとクローナが遺物潜りの魔法を学び終えた祝いの席で
ある。
すでに日は没しており、外の通りは酔客が千鳥足で歩く時間帯だ。
しかし、宿併設の食堂にはここ数日で顔馴染みになった常連客が
多数詰めかけ、賑わっていた。
﹁クローナちゃんが退院してからずっとアンムナさんの家に通い詰
めてたけど、そんなに難しい魔法なの?﹂
393
料理並べ終えた宿の娘が椅子を持ってきて訊ねる。
キロはクローナと顔を見合わせ、右手を天井に向けた。
見る見るうちに石で魔法陣が形造られていく。
ちょっとした一発芸になりそうな器用な魔法の使い方に食堂の客
が拍手する。
クローナがキロの右手の上にある魔法陣を指差した。
﹁この魔法陣を覚えさせられました﹂
﹁⋮⋮過労死したかったの?﹂
宿の娘から憐れむような視線を向けられて、キロはうなだれる。
クローナも疲れた顔をして首を振った。
﹁最後の方はもうわけがわからなくなってました。書き取りしてい
る手が勝手に動いてるような感覚で⋮⋮﹂
震える利き手を眺めながら、クローナが暗い笑みを浮かべた。
とはいえ、そんなスパルタ教育のおかげでキロ達は遺物潜りの魔
法陣を完全に暗記する事が出来ていた。
シールズが活動を再開する前に遺物潜りの魔法陣を覚えられた事
をアンムナに感謝するべきだろう。
﹁これでキロ君達も旅に出ちゃうのかぁ。お得意様だったのに﹂
ちぇっ、と不貞腐れたような声で宿の娘が言う。
誘拐事件を解決に導いた事もあり、宿の主の厚意で宿泊代はタダ
になっているのだが、それでも食堂での料金だけでお得意様扱いら
しい。
宿と食堂のどちらが本業なのか、ぼやけてしまう発言である。
394
ステーキ肉をナイフで切り分け、自分とクローナの皿に割り振り
ながら、キロは苦笑した。
疲れていても食べたいと思うのだから、食堂が本業でいい気がし
たのだ。
﹁キロ君達はこれからどこへ行くんだい? やっぱり、ラッペンか
な﹂
サラダサンドを片手にアンムナが訊ねる。
﹁先に拠点にしている町へ帰ろうかと思ってます。依頼も溜まって
そうですから、それを片付けつつ資金集めですね﹂
キロが答えると、アンムナがほぉ、と感心した。
﹁すごいね。指名で依頼が入るのかい?﹂
﹁クローナ宛ですけどね。周辺にある森の樹木の種類と配置をひと
つ残らず覚えてるんですよ﹂
﹁器用すぎるキロ君もそうだけど、人間離れしているね﹂
その器用なキロでさえなかなか真似できないでいる奥義を使いこ
なす自分を棚にあげ、アンムナは呟いた。
キロは苦笑して、横に座るクローナと顔を見合わせる。
その時、キロは後ろから頭を長い腕に抱え込まれ、耳元に息を吐
きかけられた。
﹁ねぇ、本当に行っちゃうの? カッカラで依頼を受ければいいの
にさ﹂
耳元で囁くように宿の娘が勧める。
395
︱︱そんなに手放したくない客だと自分では思えないんだけどな。
キロは後頭部に感じる弾力のある双丘を極力意識しないようにし
て口を開いた。
﹁会いたい人もいますから﹂
キロは頭を固定している宿の娘の腕に自分の翻訳の腕輪を触れさ
せつつ、宿の娘にやんわりと断りを入れる。
﹁えぇ⋮⋮ならさ、すぐに帰ってき︱︱﹂
宿の娘は恋人が駄々をこねるように言いかけて、何かに気付いた
ように突然口を閉ざした。
まじまじと宿の娘が見つめる先にクローナがいることに気付き、
キロは顔を向けようとするが、宿の娘はがっちりとキロの頭を両腕
でロックした。
ニンマリと悪い笑みを浮かべる宿の娘が口を開く。
﹁おやおやぁ、クローナちゃんが何か言いたげだよ。彼氏じゃない
男の言動に不満があるみたいだよ。彼氏じゃないのにね﹂
彼氏じゃない、と強調して宿の娘はクローナに聞こえるよう意地
悪な独り言を呟いた。
頭を動かせないキロには宿の娘の言葉が事実かを確認できなかっ
たが、クローナが慌てた気配はした。
﹁そっぽ向いてもダメだよ。耳が赤いから︱︱髪で隠しても遅いよ、
クローナちゃん﹂
クローナの様子を確認できないでいるキロに状況を報告しながら、
396
宿の娘はからかい始める。
しかし、キロはよくよく考えて違和感に気付いた。
クローナをからかいたいなら、キロの頭を動かないように抑え込
む意味はない。
むしろ、クローナの状況をキロに確認させた方がより面白いはず
だ。
︱︱俺の反応を見るための嘘か。
ニヤニヤしていた宿の娘がキロを見た。
しかし、キロが思った通りの反応をしていなかったからか、少し
つまらなそうな顔をする。
キロに嘘を見抜かれた、と宿の娘も気付いたのだろう。
沈黙して見詰め合った後、宿の娘は目を細め、今まで以上の悪い
笑みを浮かべた。
﹁キロ君としてはクローナちゃんの反応が嬉しかったりするのかな
?﹂
肯定すれば囃し立てられ、否定すればクローナとの間に角が立つ、
そんな宿の娘のキラーパスを受けたキロはすかさず返す。
﹁もちろん、嬉しいよ﹂
間髪に入れずに肯定されるとは思わなかったのか、宿の娘が大袈
裟に仰け反った。
クローナがむせる音が聞こえたが、キロは無視する。
宿の娘が二の句を告げずにいると、食堂の客が口々に囃し立てた。
﹁言い負かされていやがんの﹂
﹁即答だもんな﹂
﹁キロの方が一枚上手だ﹂
397
宿の娘が両手を腰に当て、食堂の客達を見回す。
﹁えい、うるさいぞ、酔っ払いども。アンムナさん、今のキロ君の
言葉、聞きました? どう思いますよ?﹂
﹁君はクローナちゃんに勝てないだろうね﹂
アンムナが平然と新たな燃料を投下し、クローナの様子を横目で
窺う。
当然、宿の娘がキロに恋心など抱いているはずもなく、食堂の全
員がそれを知っている。
だが、この手の話に免疫がないクローナは愕然とした顔で宿の娘
を見つめていた。
キロはクローナのあからさまな反応に内心苦笑する。からかって
くださいと言わんばかりだ。
︱︱って待て、クローナがショックを受けるという事はつまり⋮
⋮?
しかし、遅ればせながらクローナが愕然とした理由に気付き、キ
ロはさっと顔を背けた。
幸いにして、クローナの分かりやすすぎる反応に全員が注目して
いたため、キロの反応には誰も気付かなかった。
宿の娘が楽しげにクローナに歩み寄り、キロにしたのと同じよう
に頭を腕で固定する。
﹁安心しなよ、キロ君を取ったりしないからさ﹂
うりうりと宿の娘はクローナの頬を指でつつく。
﹁⋮⋮ウザいです﹂
﹁︱︱あれ?﹂
398
予想外の言葉が返ってきて、宿の娘が不思議そうな顔でクローナ
の顔を覗きこむ。
赤い顔ではあるのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮酒の匂いがするような?﹂
宿の娘が困惑しながら呟き、クローナの手元のコップを奪い取る。
匂いを嗅いで眉を寄せる。
﹁これじゃない⋮⋮﹂
宿の娘が困惑を深めてテーブルを見回した時、クローナの手が伸
びた。
クローナはその手につかんだ愛用の杖でキロの身体を引き寄せる。
体重差をものともしないその力の源は、杖の全体を覆う薄緑色の
金属板リーフトレージに蓄積された動作魔力だろう。
ぐいっと引き寄せられ、キロは慌てて料理が乗った皿をテーブル
に置き、椅子の淵を掴む。
椅子ごとズリズリとクローナの近くまで引き寄せられたキロは、
クローナの行儀悪さを注意しようと口を開きかけた。
しかし、キロが言葉を紡ぐより先にクローナが抱き着いて、宿の
娘に対して舌を出す。
﹁キロさんは私のです。誰にも渡しません﹂
素面ならば絶対に口にしない宣言をして、クローナはキロを抱き
しめた。
そうこうしている内に宿の娘はクローナが酔った原因を突き止め
たらしい。
399
空になっているグラスの中に混ざっている木のコップを持ち上げ
て少し匂いを嗅ぐと、厨房から覗いている宿の主に声を掛ける。
﹁今日は酒を瓶で出さないで、クローナちゃんが自分で注いで飲ん
だみたい﹂
﹁いつの間に⋮⋮﹂
﹁冷えてたからね。酔いが後から来たんだと思う﹂
どうする、と宿の娘がクローナを指差す。
喧嘩っ早い猫さながらに毛を逆立てて宿の娘を威嚇するクローナ
を見て、キロはどうしたものかとため息を吐く。
﹁たった一杯だし、すぐに覚めるよ﹂
クローナに横から抱きしめられたまま、キロは諦めて答えた。
この手の酔っぱらいは無理に言う事を聞かせようとしても無駄だ
と知っていた。
賢明だね、とアンムナがクスクスと笑う。
しかし、宿の娘は木のコップとガラス瓶に入ってる酒の量を見比
べ、うぅんと小さく唸った。
﹁一杯だけじゃないっぽいんだよねぇ。でも偶然に飲むような量と
も思えないし、やっぱりお酒との区別がついてない? 結構キレの
あるやつなのに⋮⋮﹂
ぶつぶつと宿の娘が考察する。
威嚇を続けているクローナの肩を引き寄せて落ち着かせつつ、キ
ロは料理を適当に選んで皿に盛り、クローナの前に置く。
料理で気を引いて、抱き着いてきているクローナの腕を剥がす作
戦だった。
400
だが、考えを読まれたのか、クローナが腕を離す事はなかった。
流石に酔っ払いを煽っても面倒事が増えるだけと経験則で理解し
ている宿の娘は、クローナをからかう事をやめて杖を指差す。
﹁その杖、役に立ってるの?﹂
﹁戦闘時間が伸びても大丈夫っていうのは結構心強いですよ。すぐ
に魔法を出せるようにもなって、戦闘も楽になります﹂
宿の娘の質問にクローナが警戒を解いて答える。だが、依然とし
てキロを抱きしめていた。
︱︱この事を覚えていたら、クローナは明日どんな顔をするんだ
ろうな。
言葉を交わす女の子二人を見ながら、キロはくすりと笑う。
カッカラを発つことになるが、キロは少し明日が楽しみに思えた。
401
第四十話 革手袋の持ち主
︱︱余程の衝撃だったんだな。
真っ赤な顔を俯かせて隣を歩くクローナを横目に、キロは他人事
のように考えた。
カッカラを出てから半日以上、クローナはずっとこの調子だ。
運悪く辻馬車は近くの村までしかなかったため、今は徒歩で司祭
の住む町へ向かっている。
辻馬車の中でもクローナは真っ赤な顔で俯き、キロに声を掛けら
れるたびに挙動不審になっていた。
それというのも、カッカラを出発する直前、つまりは今朝、クロ
ーナが目を覚ました場所が問題だった。
キロが寝ているベッドの上だったのだ。
結局、昨夜は寝るまで酔いがさめなかったクローナが、キロが寝
入った後にベッドへ潜り込んだらしい。
酔いに加えて眠気と昨夜の冷え込みが重なって、猫よろしく温も
りを求めたのだろう。
今朝のキロが起きた理由からして、クローナに毛布をはぎ取られ
た寒気からだった。
自分だけ毛布にくるまり、キロの肩のあたりを枕にしてすやすや
眠っているクローナを見て、キロはとりあえずベッドから蹴落とそ
うかと考えた。
昨夜の送別会が長引いたため、キロは眠かったのだ。
キロが低血圧ゆえのだるい身体を動かして自らの肩を救出した時、
支えを失った頭が落下した軽い衝撃でクローナは目を覚ましたらし
い。
肩を救出するために現場、クローナの顔のあたりを眺めていたキ
ロと正面から目があって、クローナは見る見るうちに朱くなってい
402
った。
酔ってからの記憶は辛うじて忘れていなかったらしく、何事もな
かった事をクローナ自身も分かっているようだ。
しかし、同じベッドで目を覚ましたという事実だけで頭がいっぱ
いになってしまったらしい。
﹁クローナ、そろそろ司祭のいる町に着くけど、その赤い顔で通り
を歩くのか?﹂
キロが声を掛けると、クローナは無言で首を振った。
阿吽の冒険者にでも出会えば十中八九、からかわれるとキロも分
かっている。
﹁少し遠回りするから、頭切り替えろ﹂
﹁⋮⋮ま、周りは人気のない森ですけど﹂
﹁なぜ、人気がない事を強調したかは聞かないでおいてやるよ。俺
とクローナが初めて会った場所にちょっと用があるんだ﹂
﹁お、思い出の場所ですか?﹂
﹁本格的にどうかしてるな﹂
キロは呆れるが、クローナは心外だと言わんばかりに頬を膨らま
せる。
﹁なんでキロさんはあんなことがあったのに平気なんですか? 理
不尽じゃあないですか!﹂
理不尽なのはクローナの怒りの方だったが、キロは無視して話を
戻す。
﹁結論から話すと、俺がこの世界に来た方法が遺物潜りだった可能
403
性があるんだ。それを確かめに行く﹂
と、キロは切り出して、この世界に来た経緯をクローナに話す。
バイトから養護施設へ向かう途中、丈夫そうな革手袋が片方だけ
落ちているのを見つけた事、革手袋を拾おうとして自分にそっくり
な何者かに黒い長方形の空間へ突き飛ばされた事、目が覚めたら森
の中にいた事などだ。
自分そっくりの何者かに言われた、救ってくれという言葉につい
ては迷った上で伝える事にした。
クローナに話す事でタイムパラドクスが起こり、何か、もしくは
何者かが救われるのならよし、救われないとしても気をつける事に
変わりはない。
クローナも重要な話だと気付いたのか、顔から段々と赤みが引い
ていく。
真剣な顔で話を聞き終えたクローナが森へ足を向ける。
﹁よく分かりませんけど、とりあえずその革手袋を見つければいい
んですね﹂
すっかり赤みが引いた顔で、クローナが先導して森を歩き出す。
初めからこうすればよかったと思いつつ、キロはクローナの後に
続いた。
キロはクローナの隣に並び、周囲に気を配る。
いつもは依頼のために入っている森とは町を挟んだ反対側にある
森だが、キロには違いがよく分からない。
相変わらず、まるで自宅の庭を行くようにすいすいと進むクロー
ナがキロを横目に見て口を開いた。
﹁革手袋が遺物潜りの媒介になるとしたら、持ち主は亡くなってい
るはずです。キロさんがこの世界に来てかなり時間が経ってますか
404
ら、魔物や動物に荒らされている可能性もありますね﹂
﹁あまり見たくはないけど、死体を確認する必要はありそうだよな﹂
遺物潜りの媒体であるかを確認するには持ち主の死体が存在する
かを調べるのが手っ取り早い。
キロは暗鬱なため息を吐くが、必要な事だと自分に言い聞かせ、
重い足を動かした。
﹁一度遺物潜りを発動した遺品でも、検査魔法に引っかかるといい
んだけど﹂
遺物潜りの媒体として使えるかどうかを調べる検査魔法を思い出
す。
遺物潜り同様、アンムナにしっかり教わった魔法だ。
複雑すぎて好んで描きたくはない魔法陣が頭の中にこびりついて
いる。
﹁着きましたよ﹂
﹁結構近かったな﹂
キロは来た道を振り返るが、街道は影も形もなかった。
この世界に来たばかりの頃から冒険者稼業で身体が鍛えられたた
め、歩く速度も速くなっていただけだと気付き、キロは喜ぶべきか
どうか複雑な思いを抱いた。
見覚えのある古木を見つけ、キロは歩み寄る。
︱︱ここからクローナが顔を出したんだったな。
感慨深く木の幹に手を当て、キロは周囲を見回した。
﹁⋮⋮見当たりませんね﹂
405
同じように辺りを見回していたクローナが首を傾げる。
﹁もしかしたら、キロさんのいた世界に残っているのかもしれませ
んね﹂
﹁もしそうなら革手袋に宿った願いを成就させる事も出来ないのか﹂
もし、キロが遺物潜りで異世界にやってきたのなら、媒体である
革手袋に宿っている願いを成就させれば、元の世界への帰還の道が
開く。
期待を裏切られてキロは落胆するが、まだ諦めるには早いと考え
直す。
﹁周辺を捜索しよう。革手袋の持ち主の死体や遺品から何か手がか
りが見つかるかもしれない。それに、俺が見たのは革手袋の片方だ
けだった﹂
キロはおぼろげながら革手袋の形も覚えている。
持ち主が片方の手袋だけをはめている状態であれば、記憶と照ら
し合わせる事が出来る。
キロの意見にクローナが頷き、魔物の襲撃を警戒しながら捜索を
開始した。
日が傾き始め、暗くなる前に切り上げて明日にまた来ようかと提
案しかけた頃、キロは一本の木の根元に転がる骨を見つけた。
﹁クローナ、こっちに来てくれ。骨がある﹂
骨一本からどんな生き物かを特定できる観察眼や知識がないキロ
はクローナを呼ぶ。
406
流石のクローナも分からなかったようで首を傾げた。
﹁風化してはいませんね。不自然に削れている部分がありますから、
魔物か動物に食い荒らされたんだと思います﹂
クローナの分析を聞いて、キロは周囲の茂みを掻き分け始める。
すぐに別の骨を見つけた。
﹁頭蓋骨だな﹂
素人目に見ても人間の骨だと分かる部位が転がっていた。
壊れた装備品が転がっている所から察するに、魔物か何かに襲わ
れた冒険者だろう。
キロは黙祷を捧げた後、遺体を調べる。
完全に白骨化しているため、覚悟したほどの生々しさはない。
﹁この革手袋、たぶん同じデザインだ。しかも片方だけか﹂
遺体が右手にはめている革手袋はキロが元の世界で拾おうとした
ものと似ていた。
少し古ぼけた男物の革手袋だ。
キロは周囲を見回す。キロがこの世界で目覚めた場所が目視でき
る範囲にある。
すぐそばに死体が転がっていた事実に、キロはぞっとした。
︱︱この冒険者を殺した何かがすぐそばに居たって事かよ。
よく襲われなかったものだ。キロは背中に嫌な汗が流れるのを感
じた。
︱︱そういえば、ここに来てすぐ、走り出したんだよな⋮⋮。
その時に革手袋を蹴り飛ばしたのかもしれないと思い、キロは適
当に藪の中を探す。
407
根元ではなく、藪の中に入り込んでいるのではないかと思ったの
だ。
﹁よし、あった﹂
キロは藪の中に革手袋を見つけ、腕を伸ばして拾い上げる。
クローナがキロの手元を覗き込み、首を傾げた。
﹁こうしてみると普通の革手袋ですね﹂
﹁遺品の見分けなんかそう簡単につかないさ。血も付いていないか
らな﹂
もし血が付いていれば、キロも元の世界で拾おうなどとは思わな
かっただろう。
︱︱あとはこれが遺物潜りの媒体に使えるかを確かめて、願いを
叶えれば帰れる。
ようやく帰還のめどが付き、キロは口元を綻ばせた。
それにしても、とキロは空を仰ぐ。
︱︱あいつが〝救いたかった何か〟は結局、クローナだったのか?
確かに、シールズとの戦いでは一歩間違えれば死んでいたが、キ
ロは意識して何かを行った記憶がない。
キロがこの世界に来る事も含めてこの世界の未来が決まっている
のなら、キロが意識して何かをしないとタイムパラドクスは起こら
ず〝救いたかった何か〟も助からないのではないか。
この世界にキロが突き飛ばされた瞬間に運命が変わったのかもし
れないとは思う。
キロは掌底で突き飛ばされてこの世界にやってきたが、救えなか
ったキロにそっくりな誰かは蹴り飛ばされてきたのかもしれない。
そんな些細な差から、例えば革手袋の冒険者を殺した何かにクロ
ーナが殺されたと考える事も出来る。
408
そして、助けられなかった事を悔やんで遺物潜りを使ってまでタ
イムパラドクスを起こした。
話として筋が通っている気はする。
︱︱けど、どうにも腑に落ちないんだよな。
キロの性格からして、見ず知らずの女性が死んだとしても助けよ
うとはしないだろう。
自分には関係ない、そう切って捨てるはずだ。
︱︱俺を庇って死んだ、とかか?
想像してみるが、悔やみこそしてもタイムパラドクスを起こそう
と考えるかはわからなかった。
あれこれ考えていても埒が明かない、とキロは冒険者の亡骸に向
き直って一礼し、悪いとは思いつつ革手袋を鞄に入れる。
﹁後は冒険者カードだけど﹂
死亡確認がスムーズに進む、と冒険者になった際にギルドで受付
の男性に言われた言葉を思い出す。
﹁鞄の中にありました﹂
すでに調べ終えていたらしく、クローナが亡くなった冒険者の鞄
を片手に答えた。
用事を済ませたキロ達は司祭のいる町へと足を向けた。
409
第四十一話 極秘依頼
町への帰還と遺体発見の報告をしにギルドに顔を出したキロは、
建物内部のぴりぴりした様子をみて明日また出直そうかと考えた。
しかし、冒険者は都市同盟所有の戦力であるため、町の出入りに
際して報告義務が課せられている。
仕方なく、キロはクローナと共にギルドの中へと足を踏み入れた。
一瞬、ギルドにいた人という人から鋭い視線を向けられるが、キ
ロ達だと気付くと幾分視線は和らいだ。
馴染みの受付の男性を見つけ、クローナが声を掛ける。
﹁ただ今戻りました。失踪事件の顛末は報告した方がいいですか?﹂
﹁いえ、事情はこちらも把握しています。お疲れ様でした﹂
クローナが入院している間やアンムナに遺物潜りを教わっている
間に連絡が回っていたのだろう。
ギルドの目立つところに貼ってある手配書一覧に目をやると、シ
ールズの似顔絵が張り出されていた。
ついでのようにさりげなく、キロはギルドの中を見回す。
︱︱いつもより人が多いような⋮⋮。
人数が二割増しに増えている気がして、キロはざっと頭数を数え、
気のせいでない事を確かめる。
数人の冒険者が腕に赤い布を巻いている事に気付き、キロは良く
観察する。
赤い布には単純なマークが染め抜かれている。チームの腕章のよ
うにも見えた。
﹁何となく、いつもと雰囲気が違う気がするんですけど、何かあっ
410
たんですか?﹂
クローナがギルドの中を横目で見て、受付の男性に訪ねる。
受付の男性はキロとクローナが町に在留する旨を記した書類を作
成しながら、深々と頷いた。
﹁厄介事の最中でしてね。説明しましょう﹂
﹁待ってください。その前にこの冒険者の死亡確認をしたいので︱
︱﹂
依頼内容を語ろうとした受付の男性の言葉を遮り、クローナが先
に用件を済ませようとする。
しかし、死亡確認、の単語が出た瞬間ギルド中の注目を浴びてし
まい、クローナは委縮して口を閉ざした。
耳をそばだてている気配もして、報告を続けるべきかを悩むクロ
ーナに受付の男性が無言で続きを促した。
不安そうに視線を向けてくるクローナにキロは頷き、背中を押す。
﹁森の中で白骨化した遺体を見つけました。カードはこちらです﹂
﹁お預かりします﹂
受付の男性はクローナからカードを受け取り、名簿に照らし合わ
せもせずにギルド最奥へ声を掛ける。
﹁例の件です。部屋を使わせてもらいますよ﹂
有無を言わせずそう言って、受付の男性は立ち上がる。
﹁こちらへ来てください﹂
411
顔を見合わせたキロとクローナは受付の男性がさっさと歩き始め
たのを見て後を追う。
案内されるままに辿り着いたのは、入り口や窓などからは死角に
なった廊下のさらに奥の部屋だった。
物々しい雰囲気にクローナがますます委縮し、キロの袖を掴む。
家具一つない殺風景な部屋だった。窓さえなく、どこか黴臭い空
気がキロ達を出迎える。
部屋の奥にはキロ達が入ってきたものとは違う扉があった。
受付の男性は壁に背中を預け、腕を組む。
﹁キロさん達が防壁を潜った時点で関係者に話が回っているはずで
す。すぐに集まると思いますので、辛抱してください﹂
﹁︱︱すぐ、どころか、いま来たぜ﹂
キロ達が入ってきたのとは別の扉が開き、男女一組の冒険者が入
ってくる。
入ってきた男女には見覚えがあった。
﹁ゼンドル、ティーダも⋮⋮どうしてここに?﹂
キロの問いに、ゼンドルが親しげに片手を挙げる。
﹁仕事の都合でこっち方面に来てな。キロ達の顔を見ようと思って
足を運んだらそこの受付に捕まった﹂
要領を得ない返答をするゼンドルの横腹を相棒のティーダが肘で
突く。
﹁無駄口叩くな。やばい仕事なんだからさ﹂
412
ティーダの言葉に、キロは受付の男性を見る。
帰ってきたばかりの自分たちに一体どんな無理難題を吹っ掛ける
つもりなのか、とキロが問いただすより先に、再びゼンドル達が出
てきた扉が開かれる。
﹁遅くなりました。いやはや、申し訳ない﹂
﹁今度はカルロさんですか﹂
キロが槍を新調する際にも顔を合わせた武器屋のカルロは、キロ
達を見てにこやかに頭を下げる。
﹁お久しぶりです。相変わらずのご活躍のようで、うちの武器屋も
パーンヤンクシュを倒した良質な武器が買えると評判になってます
よ。ありがとうございます﹂
心底嬉しそうにぺこぺこと頭を下げるカルロだったが、ふと険し
い顔つきとなって受付の男性に視線を移した。
つられてキロ達も受付の男性を見る。
受付の男性は集まった五人を順に見まわし、おもむろに口を開い
た。
﹁最初から話しましょう。半年前、とある窃盗組織によるオークシ
ョンが始まりました﹂
窃盗組織はたった半年の間に規模を拡大し、大小それぞれ年に数
回のオークションを開くようになる。
並べられる商品は当然、組織が盗み出した品。しかし、規模の拡
大とともに一部の富裕層や資金繰りに困った商人などがこのオーク
ションに参加するようになってしまった。
オークション自体は禁止されていないが、窃盗は当然の如く犯罪
413
行為だ。盗品の売却も同様である。
盗品の出品者を検挙しようと騎士団や冒険者ギルドは度々動いた
が、窃盗組織は騎士団員や冒険者の顔を把握しているらしく、オー
クション会場への入場を断られてしまう。
それでも隙を探して窃盗組織を追っていた冒険者が⋮⋮。
﹁キロさんとクローナさんにより、遺体で発見されました。現在、
現場に人を派遣して調査中ですが、おそらく窃盗組織の手に掛かっ
たのでしょう。追って情報をお伝えします﹂
ここまでで質問はありませんか、と受付の男性が一同を見回す。
キロは片手を挙げて注目を集める。
﹁遺体しか見ていないので分からないんですが、亡くなった冒険者
は強かったんですか?﹂
キロの問いを、翻訳の腕輪を持たない受付の男性やカルロのため
にクローナが通訳する。
受付の男性は頷いて答える。
﹁動作魔力に関してはかなりの物だったと聞いています。それだけ
に、相手もかなりの腕前とみていいでしょう﹂
他に質問はありませんかと聞かれたが、キロは首を振った。
残りはひとまず話を最後まで聞いてからにした方が良いと判断し
たのだ。
受付の男性は質問がない事を再度全員に確認すると、説明を続け
た。
﹁組織を追っている幾人かの冒険者の情報を総合すると、ここを含
414
む三つの町で同時にオークションが開催されるとの事です。あなた
方にはこのオークションへ潜入し、盗品の出品者に接触、場合によ
って捕縛してもらいます﹂
やはりそう来たか、とキロはため息を吐く。
受付の男性がゼンドルとティーダに向き直り、作戦指示を飛ばす。
﹁ゼンドルさん、ティーダさんのお二人が冒険者であるとまだ町の
住民は知りません。今のまま身分を偽り、出品者として潜入するカ
ルロさんの護衛をお願いします。カルロさんは八年前まで冒険者を
していましたし、経験も豊富です。現場ではカルロさんの指示に従
って行動してください。カルロさんの顔が割れている可能性は低い
ですが、注意は怠らない様にお願いします﹂
敵の真っただ中に飛び込む役割を言い渡され、ゼンドル達の顔に
緊張が走る。
次に、受付の男性はキロ達を振り返り、重々しく告げる。
﹁お二人にはオークション会場へ客に紛れ込んで潜入して頂きます﹂
無茶振りだ、とキロはため息を吐いて片手を挙げ、質問する許可
を求める。
受付の男性はどうぞと相変わらず重苦しい口調で質問を許可した。
﹁俺達はゼンドルさん達とは違って冒険者だってばれてる。入場を
断られるはずだ﹂
拠点にしている町であり、訓練所の教官に喧嘩を売ったりもして
いる。
窃盗組織が見逃すはずがないだろう、とキロは指摘したのだが、
415
受付の男性は首を振った。
﹁あなた方は教官といさかいを起こし、弟子を正面からボコボコに
したためにギルド内で恨みを買い、仕方なくカッカラに逃げた。そ
ういう噂を流してあります。この部屋に招いた事は窃盗組織にも伝
わるでしょうから、事情聴取と説教を受け追い出されたという体で
一度町を出てください。その後はキロさんに女装して頂き、再度町
へ戻って︱︱﹂
﹁おい、待てよ、こら!﹂
聞き捨てならない単語が聞こえて、キロは思わず乱暴な口調で受
付の言葉を遮る。
翻訳すべきか悩んでいるクローナとキロの語調からおおよその意
味を理解したらしく、受付の男性が盛大なため息を吐いた。
﹁今町にいる腕の立つ冒険者で性別ごと偽れるひょろい人がキロさ
んしかいないんですよ﹂
﹁ひょろいとか言うな﹂
﹁キロ、ざまぁ﹂
﹁ゼンドルはちょっと黙ってろ﹂
腹を抱えてキロを指差し笑うゼンドルは、ティーダの拳骨一つで
黙らされる。
キロは深呼吸して気を落ち着けた後、受付の男性に向き直る。
﹁そこまでして俺達を使う必要があるんですか?﹂
﹁取り逃がしたとはいえ名うての魔法使いであるシールズを追い詰
めた腕を持ち、いま町を出ても怪しまれない動機があり︱︱﹂
﹁動機を作った犯人はあんただけどな﹂
416
キロの指摘もどこ吹く風で受付の男性は続ける。
﹁さらには変装してもばれないほどこの町で馴染みが薄く、体型か
らも冒険者には見えない。打って付けなんですよ。カッカラから戻
って来なかったらどうしようかと思いましたが、間に合ってくれま
したし﹂
﹁あんたらのためじゃないけどな﹂
﹁キロさん、皮肉はやめましょうよ﹂
クローナが苦笑しつつ、キロの手を握って宥める。
キロは舌打ちして、意見を述べる。
﹁女装する必要はないと思う。仕草で違和感を持たれたら、墓穴を
掘る事になりかねないだろ﹂
﹁いえ、女装はして頂きます。キロさんは髪も肌も珍しいので、男
のままでは変装でごまかしきれません。ウイッグ等も用意してあり
ますので、ご安心ください﹂
﹁準備良いな、畜生⋮⋮﹂
どうあっても女装は免れないらしい。
床に突っ伏して笑いを堪えているゼンドルに蹴りの一つでも入れ
たくなる。
どうにかして断れないだろうかと考えるキロだったが、クローナ
に耳打ちされて考えを改める事になる。
﹁主催者はともかく、オークションはオークションです。遺物潜り
の媒体が出品される可能性もありますよ﹂
﹁⋮⋮それもそうだな﹂
この世界に来た原因らしき革手袋を手に入れはしたが、込められ
417
た願いを叶えられるかは分からないのだ。
キロが参加を前向きに検討し始めた事を察したのだろう、受付の
男性が報酬額を提示する。
クローナを始め、一同がぽかんと大口を開けるほど、高額な成功
報酬だった。
﹁これに加え、キロさん達には別途、オークション参加のための費
用がギルドより支給されます。こちらで落札した品はギルドに所有
権がありますので、注意してください。怪しまれないよう、盗品だ
けを落札するのではなく目立たない程度に他の物を落札して頂きま
す﹂
かなりの好条件だ。
クローナが息を飲む音がする。
キロもまた、提示された金額に絶句してしまった。
だが裏を返せば、高額の報酬を払うほどの危険があるという事な
のだ。
顔を見合わせるキロ達とは異なり、ゼンドルとティーダはやる気
らしい。
︱︱そういえば、一緒に仕事する約束もしているんだよな。
関係ない、と割り切るには少々胸につかえる物がある。
﹁クローナ、どうする?﹂
﹁⋮⋮受けようと思います。この町には司祭様もいますから﹂
クローナと頷きあい、キロ達は参加を表明した。
418
第四十二話 変装の感想
オークションは二日後に開かれるとの事だった。
それまでの間、怪しまれないようにキロとクローナは変装して適
当な宿に逗留し、オークションの開催日を待つようにと指示を受け
る。
結局、キロは必ず女装しなくてはいけないらしい。
クローナにはあれこれとフォローしてもらわなければいけないだ
ろう。
﹁大丈夫だってきっと似合うから。見たかったなぁ﹂
ゼンドルが笑いを堪えながらキロの背中を叩き、心にもないこと
を言う。
キロ達はギルドとの関係を疑われないよう、オークションの日ま
で冒険者との接触は原則禁止される。
同様に、出品者であるカルロやその護衛として潜入するゼンドル、
ティーダの三人とも接触できない。
キロは今のうちに肘を打ち込んでおこうとするが、ゼンドルに軽
々と避けられた。
﹁武器の類はどうするんですか?﹂
じゃれ合うキロとゼンドルを気にしつつ、クローナが受付の男性
に訊ねる。
オークションの客として紛れ込むキロとクローナが武器を携帯し
ていては不自然だろう。
キロの槍もクローナの杖もかさばるため、隠して持ち込む事は出
419
来ない。
﹁ナイフ等で武装してください。オークション会場には一般客も多
くいますので、基本的に戦闘は避ける方針です。槍と杖はギルドが
責任を持ってお預かりします﹂
﹁窃盗犯を捕まえなくていいんですか?﹂
﹁出品者が窃盗犯であるとは限りません。あくまでも容疑者です。
逃げ出した場合には捕縛を優先して頂きますが、基本的には接触に
留めてください。オークション会場を出たところを尾行し、人気の
ない所で〝事情聴取〟します﹂
なぜ人気のない所を選ぶのかは、訊かぬが花だろう。
今後の連絡には別に雇った協力者を使うとの事で、合言葉を覚え
させられた。
解散してよいとの事で、キロとクローナはギルドに通じる扉へ、
ゼンドルとティーダ、カルロは別の扉から帰る。
ゼンドル達の扉は三代前の先祖が冒険者をしていたとある店に繋
がっているらしい。
ギルドへの秘密経路の一つらしく、今回のようにメンバーを知ら
れたくない仕事で使われるという。
﹁それじゃ、オークション会場で会おうぜ。しくじるなよ?﹂
﹁ゼンドルこそ、会場で俺に手を振ったりするなよ?﹂
軽口を叩きあって、キロはクローナと共に背を向ける。
受付の男性の後について廊下を渡り、見慣れたギルドの広間に出
る。
そのまま打ち合わせ通りに入り口まで案内され、外へ出るよう促
された。
420
﹁ほとぼりが冷めた頃に来なさい﹂
これもまた打ち合わせ通りのセリフを受付の男性が口にし、キロ
は不本意そうに肩を竦める演技をして、まっすぐ防壁に向かった。
尾行者がいても気にしないようにと言われているため、キロ達は
振り返らずに防壁に辿り着き、町の外に出た。
しばらく街道を歩いて、キロ達は振り返る。
尾行者はいないようだ。
﹁さて、クローナの出番だな﹂
﹁ちゃんと覚えておいてくださいよ﹂
クローナは苦笑して、街道を逸れて森に入る。
町にもう一度入るために変装しなければならないが、心得のない
キロ達がやっても逆にぼろが出る。そんな事百も承知、とギルドは
変装の達人を用意しているらしい。
変装の達人との合流場所は、かつて依頼でも足を運んだ飼育小屋
だ。
鳴き声がうるさいために町中では飼えない、防水性に優れた毛を
持つ高級な家畜の飼育小屋である。
今日は逃げ出していないらしく、小屋の中で白い毛がすだれの様
になった生き物が鳴いている。
その鳴き声は凄まじく、ここで働くならば騒音性難聴まっしぐら
の環境だ。
小屋の奥には一人の中年女性が待っていた。
﹁可愛くなりたいですか?﹂
耳にしっとりと馴染む艶のある声で中年女性が合言葉を確認する。
騒々しい飼育小屋ならば、外から合言葉を盗み聞きされる心配も
421
ない。
キロはこらえきれずにため息を吐き、クローナに合言葉を言うよ
う促した。
﹁えっと、枠組みを超えて﹂
考案者の悪意が見え隠れする合言葉だと、キロは改めて思った。
中年女性はゆっくりと頷くと飼育小屋の奥へとキロ達を導いた。
分厚い扉が三重に設けられた部屋は仮眠室を兼ねているようだ。
扉のおかげで家畜の鳴き声はかすかにしか聞こえない。
矢面に立たされた第一の扉は嫌がるようにびりびりと震えていた
が、仮眠室に一番近い扉は揺るがない立場に胡坐をかく様にどっし
りと構えている。
あれが格差社会か、とキロは取り留めもない事を考えた。
これから女装をさせられることを考えたくなかっただけである。
﹁キロさんはそちらの椅子に座ってください。クローナさんの服は
タンスの中に入っています﹂
中年女性が化粧道具などを出しながら、キロに椅子へ座るよう促
す。
躊躇するキロの背中をクローナが軽く叩いた。逃がすつもりはな
いらしい。
キロが椅子に座ると、中年女性は木綿を二つ差し出してくる。
﹁頬に入れてください。顔の輪郭が変わります﹂
︱︱あ、この人ほんとにプロだ。
化粧とは別方面のアプローチから始められ、キロは一人感心する。
422
﹁眉と髪も弄っておきますね。後、骨格を変えたいので関節外して
ください﹂
﹁⋮⋮無茶言っている自覚はありますよね?﹂
﹁外せない方のための肩パッドです﹂
はいどうぞ、と笑顔で渡された肩パッドを付けるキロの周りをて
きぱきと中年女性が動き回る。
肩パッドを付け終えたキロに動くなと厳命して、中年女性は化粧
道具を手に持った。
しかし、顔つきは化粧を施そうとしている女性というより、芸術
を追求する画家のようだった。
キロに化粧をしつつ、中年女性はいくつかの注意をしてくれる。
﹁絶えずやや俯き気味でいてください。ただし、顔の角度で俯くの
ではなく前屈みになるように上半身で調整します﹂
顔を正面から見られると顎の大きさや顔の凹凸で見抜かれやすい
という。
自分より身長が低い相手、特に女性には気を付けろと念を押され
た。
﹁明るい所に出てはいけません。顔の凹凸が陰ではっきり出てしま
うと高確率で見抜かれます﹂
化粧でごまかすとはいえ過信してはいけない、と告げられる。
もとより、キロに女装したままで歩く趣味などない。ましてや日
中の明るいうちに外出など心の奥深くから叫びだしたくなるほど願
い下げだ。
﹁顎を引いて隠しておかないと喉仏で見抜かれ︱︱キロさんには当
423
てはまりませんね。忘れてください﹂
中年女性はキロを見て小さく唸る。
﹁細いけど骨が出てない。これが若さか⋮⋮﹂
逸材だわ、と呟かれた気がしたが、キロは聞こえなかった振りを
した。
中年女性が語る諸注意を聞きながら、されるがままに女装させら
れる。
遂に完成とやり切ったような満足顔の中年女性に言われて、キロ
は立ち上がる。
口をぽかんとあけたクローナがいた。
﹁似合うとか、似合わないとか、どっちも言わないでくれよ﹂
キロが疲れた声で言うと、クローナはごくりと息を飲んだ後、中
年女性に視線を移す。
﹁もっと野暮ったくしてください! キロさんが女の子に興味なく
なったらどうするんですか⁉﹂
鏡を準備していた中年女性がきょとんとした顔で首を傾げる。
﹁あなたが男装した上で女装すれば丸く収まるんじゃないかしら?﹂
﹁倒錯しすぎてわけわかりませんよ! あと鏡なんか今のキロさん
に見せないでくださいッ!﹂
﹁もう遅いわよ﹂
中年女性の言葉にハッとして、クローナがキロを振り返る。
424
キロはばっちり自分の姿が映った鏡を見ていた。
整えられた細い眉、長めにひかれたアイラインの効果により目は
はっきりとしているがきつい印象を受けない。
木綿が入って丸みを帯びた顔の輪郭に同じく丸みを帯びた黒縁メ
ガネの影響で普段よりも顔が丸く、幼く見える。
焦げ茶色のウイッグは顎に視線がいかないよう神経質なまでに形
が整えられていた。
服はそのまま、肩パッドを入れているとはいえほとんど体型を誤
魔化していない現段階でさえ、キロの記憶の中で上位に位置する可
愛らしい少女の姿。
それが、今の自分の姿だと思うと、
﹁⋮⋮きもい﹂
キロは小さく、しかし、はっきりとした声で呟いた。
クローナがほっと胸を撫で下ろし、中年女性が舌打ちする。
キロは手渡された身体のラインが出ないゆったりした女性服を着
せられ、ますます気持ち悪いと思うのだった。
中年女性が白けたように椅子の上で不貞腐れながら、キロ達に次
の指示を出す。
﹁夕方になったら町に入って、適当な宿に泊まってもらいます。明
日の朝、私が部屋を訪ねて化粧を施しますので、それまでは部屋を
出ないようにしてください﹂
﹁頼まれても出ないけどな﹂
﹁キロさんは口を利かないでください。声でばれますので﹂
指示は終わり、と中年女性は天井を仰いでため息を吐く。
﹁旦那の仲間を増やせると思ってこの仕事受けたのですけどねぇ﹂
425
つまらなそうに言う中年女性を極力無視して、キロはクローナを
見る。
クローナの性別を偽る計画はないらしく、どこにでもいそうな町
娘の格好をしている。
髪はキロ同様にウイッグをつけ、色も長さも誤魔化していた。
﹁髪が長くても可愛いな﹂
キロが褒めると、クローナの顔が赤く染まる。
クローナの反応に、やっぱり、とキロは苦笑する。
︱︱誰かの前でこの手のやり取りをしたら一発で女装がばれるな。
クローナにキロが男性である事を意識させないよう気を配らなけ
ればならない。
何かにつけて気疲れする依頼になりそうだ、とキロは重いため息
を吐いた。
426
第四十三話 盗品オークション
﹁器用なのは知ってましたけど、女装の技術まで身に付けるのはど
うかと思います﹂
鏡を支えながら、クローナがキロを見てため息を吐く。
クローナの意見に頷きたいところだが、キロはやむにやまれぬ事
情を汲んでほしいと思い、口を開く。
﹁自分で直せないと何かと不便なんだ。俺だって、こんな技術は身
につけたくなかったよ﹂
そう言いながらも、キロは見事な色の強弱で顔を〝女〟に近づけ
ていく。
簡単そうに見えて、眉の隆起を誤魔化したり頬の色味を絶妙な配
分で足したりしており、かなりの技術水準に達していた。
それというのもオークションが開催されるまでのこの二日間、女
装で外を出歩くなどという蛮勇染みた勇気を奮い起こす事ができず、
宿の一室にこもり暇に飽かせて学んだ結果である。
クローナは呆れ交じりの半眼をキロに向ける。
﹁薄化粧に見えるのに、こうして過程を見ていると盛るところは盛
ってますね﹂
﹁クローナにも化粧してやろうか?﹂
﹁⋮⋮仕事が終わったら教えてください﹂
若干悔しそうに、クローナが呟いた。
キロは机の上に置かれた紙束に視線を移す。
427
ギルドの協力者を名乗る女性から渡されたものだ。
﹁盗品リストはちゃんと暗記したか?﹂
﹁一応暗記しましたけど、用途不明の骨董品なんかはどうやって見
分けるんでしょうね﹂
クローナもキロの視線を追って紙束を見る。
絵画や珍しい織物などは説明文さえ読めばなんとなく思い描ける
物だったが、中には意味不明の品もあった。
材質の研究中に盗まれた三角形の黒い骨組、などどうやって見分
ければよいのか。そもそも誰が欲しがるのかもわからない。
﹁どこにでも物好きはいますから、案外高値が付くのかもしれませ
んよ?﹂
﹁窃盗組織もそう考えてガラクタを盗んだのかもな﹂
変装を終えたキロ達は宿を出る。
二日間ほとんど外出しなかったキロの姿を見て、宿の若旦那が口
笛を吹いた。
﹁陰気くさい可愛い子ちゃんのお出かけか。雨が降るのかな?﹂
キロは愛想笑いをしてやり過ごし、クローナの後ろに隠れる。
声を出せば必ずばれてしまうため、キロは一切口を利かないのだ。
そもそも、翻訳の腕輪を持っていない若旦那はキロの言葉を理解
できないため、女装していなくても話す意味はあまりない。
﹁悪かったよ、陰気くさいなんて言って。可愛いんだから俯いてな
いで、お出かけ楽しんでおいで﹂
428
︱︱人の気も知らないでふざけんな。楽しめるわけないだろ。女
にしてやろうか。
罵詈雑言をぐっと飲み込み、クローナに支払いを任せてキロは先
に外へ出た。
瞬間、キロは己の迂闊さを呪った。
太陽は高く上り、人通りは多い。
明るいというより眩しいと感じるほどの太陽光が二日間引き籠っ
たキロの網膜を容赦なく攻撃する。
すれ違う人々の視線がキロに一瞬だけ向く。
視線を向けられるたび、わずかな時間が何倍にも引き伸ばされ、
女装をいつ見破られるだろうかとハラハラしてしまう。
精神が擦り切れる。
キロに女装を教えた中年女性は俯いていろと言っていたが、まと
もな神経をしていたら面を上げて歩くことなど不可能だとキロは思
った。
クローナが宿の支払いを済ませてキロの隣に並び、さりげなく道
の端へキロを誘導する。
左には民家の壁、右にはクローナがおり、通りを歩く人の視線を
遮っていた。
︱︱クローナさん、マジイケメンっす。
キロは心の底からの感謝を視線に込めて、クローナに伝える。
﹁そ、そんな目で見ないでください⋮⋮﹂
クローナが頬を赤らめて顔を背けた。
オークション会場は町の中央から少し北に外れた場所にある倉庫
だった。
元は商会が所有していた物らしく、倉庫の出入り口付近には錆び
429
ついた鉄の看板が掛かっている。
しかし、壁などは造りがしっかりしていてみすぼらしい印象は受
けなかった。
︱︱結構人が多いな。
行商人や物見遊山気分の旅人を中心に、ざっと五十人近く。
キロは倉庫を見上げ、収容人数を超えているのではないかと勘繰
った。
しかし、入場料を支払って中に入るとキロの懸念は杞憂だったと
判明する。
﹁⋮⋮床が掘り抜かれてますね﹂
クローナが呟き、訝しむように目を細める。
倉庫の床が斜めに傾斜が付くように掘られ、ひな壇の様になって
いた。
最奥かつ最深の場所だけが開けており、大きめの木の机が置かれ
ている。おそらく、ステージだろう。
五十人の客程度なら問題なく入る事ができそうだ。
どうやって掘り抜いたのかは少し気にかかるが、客が多ければ多
いほど紛れ込むのも容易になる。
︱︱ひとまずは第一関門クリアってところかな。
キロはさり気なく背後の入り口を振り返る。
客を威圧しない人選なのか、窃盗組織の人間とは思えない人当た
りの良い青年が席番号の書かれた木札を配っていた。
今頃はゼンドル達も出品者とその護衛として別の入り口から紛れ
込んでいるはずだ。
キロとクローナは木札の番号を確認して、椅子に座る。
入り口に近い列のもっとも右に位置する席だ。
女装を見破られる危険性のあるキロは通路に面する席、クローナ
がその隣に腰かける。
430
会場全体は薄暗いが、ステージの左右には二人の魔法使いらしき
男が立っていた。照明係だろう。
出品一覧など気の利いたものはないらしく、手持無沙汰に待たさ
れる。
盗品の特徴は頭に叩き込んでいるため心配ないが、怪しまれない
ように他の物も落札しろと言われていた。
しかし、ギルドの資金でゴミを落札しようものなら、後々小言を
言われかねない。
何を落札するかは考え物だった。
出入り口の扉が閉められる音がして、会場全体がうす暗くなる。
続いて建物に設けられた明り取り用の窓のカーテンが閉められ、真
っ暗になった。
しかし、すぐにステージの左右に魔法の明かりが灯される。
﹁ようこそおいで下さいました。本日ご紹介いたします商品は総数
二十三、いずれも選りすぐりの品々でございます﹂
司会進行役らしい若い女が口上を述べ始める。
正装に身を包み、身振り手振りは大仰ながらもどこか愛嬌がある。
口上の端々に挟まれるちょっとした言い回しにも遊び心があり、
会場から小さな笑い声が起こった。
︱︱オークションに参加するだけじゃ主催が窃盗組織だなんて思
わないだろうな。
裏を知るキロとクローナは見事な偽装に苦笑した。
かくいうキロも性別を偽っているのだが、自分の事は棚に上げて
いる。
﹁それでは、記念すべき第一の品です! 北の渓谷に住む少数部族、
スリカ族伝統の織物。皆さん、拍手でお迎えください!﹂
431
商品の真贋については触れず、司会がステージの端を手で示す。
木の車輪が付いた移動式の衝立に掛けられた、幅一メートル、長
さ二メートルほどの織物が登場した。一緒に出てきた髭の大男が出
品者なのだろう。
客が小規模な拍手をし、司会が売り口上を述べて入札が開始され
る。
客の一人が手を挙げるが、即座に別の客によって価格が更新され
た。
キロは価格を更新した客を見て目を細める。
入札のタイミングに違和感を覚えたのだ。
最初の客が再び入札を表明し、価格が更新される。だが、同じ客
によってまた価格が吊り上げられた。
そう、吊り上げられたのだ。
渋々といった様子で最初の客が価格を更新し、織物が落札された。
価格を釣り上げた張本人は悔しそうな素振り一つ見せない。
︱︱サクラが混じってそうだな。
キロは注意しておこうと客の位置を覚える。
落札された品はオークション終了後に引き渡されるらしく、席番
号が書かれた木札と共に織物は舞台袖へ運ばれていった。
続いて運ばれてきた品は一輪の花が植わった鉢植えと、五つの球
根だった。
西の孤島にしか咲かない珍しい品種との事だ。
キロはクローナに視線を向けて事実かを確認するが、首を傾げら
れた。
﹁⋮⋮見た事のない花なのは確かです﹂
クローナでさえ見た記憶がないのなら、この地域において珍しい
事は間違いなさそうだ。
︱︱案外、良心的な経営方針らしいな。
432
サクラくらいどこでも使っているだろうし、と偏見に満ちた考え
でキロはオークションのやり方に少し感心する。
もっとも、盗んだ物を出品しなければ、という前提の上での話だ。
﹁⋮⋮出ました﹂
運ばれてきた三つ目の商品を見て、クローナが小さく呟く。
頂点に真っ赤な宝石があしらわれたランプシェードだ。
側面にくり抜かれた大小さまざまな図形が適切な距離にある壁に
一枚の絵を描き出すという。
気を利かせたつもりなのか、司会役がランプシェードの中に三本
一組の蝋燭を入れ、左右の魔法使いに明かりを消すよう手振りで指
示する。
従った二人の魔法使いが同時に明かりを消すと、ステージ奥の壁
にランプシェードが投影する一枚の影絵が現れた。
数本の太く巨大な柱が天井を支える広大な空間と、そこに住んで
いるらしい人々の姿が克明に描かれている。
作者は不明、制作年代さえも分からない品。影絵で描かれた街が
実在するかどうかさえ分からないという。
キロは暗記した盗品リスト一つの説明文を思い出し、確信する。
︱︱盗品だ。
キロはクローナと一瞬だけ視線を交差させる。
素人目にも価値の高い芸術的な品だからか、即座に入札を希望す
る声が上がった。
慌てて参加しようとするクローナをキロはさり気なく押しとどめ
る。
﹁勢いが鈍った瞬間、一気に吊り上げて突き放せ。その後必ず一人、
入札を図ってくる。そうしたら困ったふりをして俺の肩を叩け﹂
433
キロは周りに聞こえない小さな声で指示を出す。
キロの瞳を見つめ返し、クローナは落ち着きを取り戻して頷いた。
その間にも価格は上がり続けるが、入札希望者は反比例して減っ
ていく。
そして、最初の提示額の三倍に達した時、わずかな沈黙が挟まれ
た。
瞬間、クローナが片手を挙げ、現在の価格の五割増しを提示した。
急激な吊り上げに面食らった会場がどよめくが、すかさず入札を
希望する声が割って入った。
見るまでもない、とキロは内心で笑みを浮かべる。
声の方向から察するに、主催者側が用意したサクラと見当をつけ
た男が食いついたのだ。
入札を希望する声が完全に止んだ。
クローナがキロに言われた通り、困った振りをしてキロの肩を叩
く。
キロは少しの間をおいて、クローナに耳打ちした。
﹁一割増しでいい。弱気な振りをしろ﹂
クローナが頷き、ゆっくりと片手を挙げ、歯切れ悪く入札を希望
する。
続く入札希望者はいなかった。
クローナが演技ではなくほっと息を吐く。
笑みを浮かべてくるクローナに、キロも微笑んでハイタッチを交
わした。
仲の良い娘の二人組に見えているのだろう、周囲の客が微笑まし
そうに眺めている。
クローナが席の番号を告げると、控えの札を渡された。
︱︱これで出品者との接触ができそうだな。
舞台袖へ消えていくランプシェードと出品者らしき細面の男を見
434
送って、キロは安堵する。
しかし、次の出品物を目にした瞬間、キロは自身の心臓が跳ねあ
がる音を聞いた。
﹁次の品は⋮⋮おやおや、材質も作者も不明な置物のようです。確
かに見た事のない素材ですね﹂
司会が興味深そうに運ばれてきた出品物を眺める。
︱︱あぁ、置物だよ。この世界では、な⋮⋮ッ!
キロはステージを見据え、クローナに耳打ちする。
﹁必ず落札してくれ﹂
﹁良いですけど、あれが何か知ってるんですか?﹂
﹁知ってるさ。俺がいた世界の物だからな﹂
そして、この世界ではおそらく使う事が出来ない代物。
﹁︱︱あれは懐中電灯だ﹂
435
第四十四話 懐中電灯の持ち主
キロはステージ中央の机に置かれた懐中電灯を見て眉を顰める。
筒状の懐中電灯は長さ三十センチほど、持ちやすいように上部に
は取っ手が付いている。大きさからして単一形乾電池を複数本使う
ものだろう。
︱︱落札しようにもタイミングが悪いな。
ギルドから渡された資金で購入してしまうと、所有権がギルドに
移ってしまう。
つまり、キロが懐中電灯の所有権を手に入れるには個人資産での
落札が必須条件である。
﹁どこまで出せる?﹂
﹁⋮⋮開始価格の三倍ちょっとまでなら﹂
財布と相談してのクローナの言葉。
キロは内心歯噛みしながら会場を見回した。
先のランプシェードを巡る取引で会場は盛り上がっており、落札
者であるキロ達は注目されている。
この状況で懐中電灯の落札に動けば、釣られる客が出かねない。
ランプシェードを高額落札した事もあり、資金不足と侮られる可
能性もある。
かといって、初めに高値を付ければ購入意欲旺盛とみられ、サク
ラに付け込まれるだろう。
落札するためには駆け引きが必要になる。
︱︱まずは様子見だな。
正体不明の置物としか見られていない懐中電灯は、会場の客には
受けが悪いようだ。
436
盛り上がっているはずの会場の中でも落札を希望する声は散発的
で、急激な価格上昇は起こっていない。
﹁⋮⋮どうしますか?﹂
この手の駆け引きは任せるとばかり、クローナがキロの指示を仰
ぐ。
キロは価格の上昇率を暗算しつつ、違和感を持たれない程度に客
を振い落しにかかる。
﹁一割五分、上乗せで﹂
キロの小声による指示にクローナは小さく頷いて片手を挙げる。
落札を希望していた客達が一瞬怯む気配がした。
しかし、値を付けたのがクローナだと分かると安堵した様に入札
価格を引き上げてくる。
︱︱開始価格の二倍弱か。
現在の価格を聞き取り、キロは落札のための戦略を練る。
クローナがキロを横目で窺った。
﹁同額で吊り上げろ。サクラがこっちを窺ってるから、弱気な態度
でいけ﹂
キロはちらりと会場に配置されているサクラに視線を移す。
サクラは腕を組み、会場全体を見回すような素振りでキロ達の動
きを窺っていた。
︱︱ここで全額吐き出させるべきか考えてそうだな。
今回のオークションで出品される二十三個の商品の内、懐中電灯
は四つ目の品。オークション全体で見ればまだ序盤と言っていい。
早々に資金を吐き出させては、今後の盛り上がりに上限を設ける
437
事になりかねない。
主催者側としては、序盤には盛り上がり過ぎない程度に盛りあが
って欲しいはずだ。
キロは主催者側の心理、それを踏まえたサクラの動きを予想し、
慎重に価格の上昇を図る。
︱︱二倍強⋮⋮一気に引き離したいけど、熱が入ると困る。
会場が盛り上がらない様に、かといって盛り下がらない様に、ギ
リギリの値付けを計っていく。
なんとしてでも手に入れたいという本心は悟られないよう、時に
はわざと入札のタイミングを遅らせる。
サクラは動かなかった。結局、価格の吊り上げを諦めたようだ。
﹁もういらっしゃいませんか? ⋮⋮では、これにて落札という事
で、続けざまのお買い上げ、ありがとうございます!﹂
そして、クローナの入札を最後に懐中電灯は開始価格の三倍弱で
落札された。
キロはニヤけそうになるのを堪え、小さくガッツポーズする。
子供じみたキロの喜びように苦笑して、クローナが口を開く。
﹁キロさん、あのかいちゅうなんとかってどういう道具なんですか
?﹂
﹁照明器具だよ。電池がないと使えないけどな﹂
置物として出品されるくらいだから電池切れを起こしているだろ
うと見当を付けつつ、キロは説明する。
クローナは頬に手を当て、首を傾げた。
﹁念が宿るほど身近な物だとは思えないんですけど﹂
﹁それでも確かめないよりマシだろ。それに、俺がいた世界から俺
438
が持ち込んでない物がこの世界に来ているって証拠が見つかっただ
けでも収穫だ﹂
帰れるかもしれない、その希望だけでキロは胸がいっぱいになっ
た。
︱︱革手袋も結局込められた念が分からなかったし。
森で拾った冒険者の革手袋は遺物潜りの媒介として使える事が分
かっていたが、込められた念については判明していない。
墓を作ってみたり、遺族を調べたりはしているが、どうすれば念
が解除できるのか見当がついていなかった。
︱︱まさか込められた念を探り当てるのがこんなに大変だとは思
わなかった。
しかし、懐中電灯を手に入れた事で念さえ宿っていればキロは元
の世界に帰る事が出来る。
早くオークションが終わらないだろうか、そうすれば懐中電灯を
この手にできるのに。
そわそわするキロにクローナが苦笑を深めた。
﹁仕事中なのを忘れちゃダメですよ?﹂
﹁わ、わかってるよ﹂
珍しくクローナに窘められ、キロはばつが悪くなって視線を逸ら
した。
その後のオークションでも盗品はいくつか出品されたが、入札は
しても落札はしなかった。
盗品ばかり落札しては怪しまれる。かといって盗品ばかり入札し
ないのも怪しまれる。
慎重に、一般客に紛れるようにオークションに参加した。
﹁︱︱それでは、本日お集まりいただきました皆々様へあらためて
439
感謝を!﹂
最後の品が落札され、オークションの閉会を告げる司会に惜しみ
ない拍手が贈られる。
︱︱本当に見た目だけはまともなオークションなんだよな。
キロは苦笑しつつ、席を立つ。
倉庫の裏手で落札品が主催者監視の下で受け渡されるらしい。
一般客を戦闘に巻き込まないよう、落札品は素直に受け取るよう
にと指示を受けているが、窃盗組織の人間との距離が最も縮まる瞬
間であるため、キロは気を引き締めた。
クローナと共に倉庫を出て、キロは倉庫の裏手へ回る。
キロとクローナの他にも商品を落札した客が三十人ほどいる。キ
ロ達と同じく、複数人で資金を持ち寄り共同落札した者がいるらし
い。
案内をするのはステージで照明係をしていた二人の魔法使いだ。
やや顔色が悪いのは、オークションの間ずっと魔法で明かりを提
供していたため、魔力欠乏を起こしたからだろう。
倉庫の裏手には出品者とその護衛が集い、楽しげに談笑していた。
談笑する出品者の中央に、裕福そうな商人と会話の花を咲かせて
いるカルロを見つけた。
︱︱溶け込んでるなぁ。
秘密依頼を受けた元冒険者だなどと、誰も思わないだろう自然体
でカルロは楽しげに会話に興じている。
そのそばにはゼンドルとティーダの姿がある。どちらも護衛とし
て紛れ込んでいるため、キロやクローナとは違って完全武装である。
もしも戦闘が始まったなら、ゼンドルとティーダに頼る事になる
だろう。
ゼンドルと目があって、キロは軽く会釈した。
ゼンドルは笑顔で応じるが、キロの隣を歩くクローナを見て目を
丸くし、キロを二度見する。
440
そして、空が落ちてきたとでも言いたげな驚愕の面持ちで視線を
逸らした。
ゼンドルの反応にうすら寒い物を感じつつ、キロもまた顔を背け
る。
﹁⋮⋮キロさんだって気付かなかったみたいですね﹂
﹁言うなよ。考えないようにしてたんだから﹂
クローナにクスクスと笑いながら指摘され、キロは苦い顔をした。
キロは出品者達を見回し、懐中電灯を探す。
会話に加われず所在なさそうにしている老人を端に見つけた。懐
中電灯を手に持っている。
キロはクローナを促して老人に歩み寄った。
﹁すみません、落札した者ですけど﹂
クローナが老人に声を掛けると、救われた様に老人は顔を挙げる。
﹁おぉ、御嬢さん方が落札してくれたのか﹂
老人はクローナとキロを交互に見て、顔をほころばせる。
﹁お二人のようなかわいらしい御嬢さんの家に飾られるならこれも
本望だろうよ﹂
老人は言いながら、懐中電灯を差し出してくる。
キロは手袋をはめた手で懐中電灯を受け取り大事に抱えた。
︱︱大当たりだ。
某有名家電会社のロゴが描かれている懐中電灯を抱えたキロは心
の底から喜び、笑みを浮かべる。
441
少なくとも日本製である事は間違いなさそうだ。
キロの喜び様に老人が嬉しそうに頷いた。
﹁あの、これをどこで手に入れたんですか?﹂
クローナが老人に来歴を訊ねる。
︱︱そうか、元の持ち主について聞けるかも知れないのか。
頭がいっぱいになっていたキロははっとしてクローナを見る。
クローナは、気付かなかったでしょう、と少し自慢げに胸を反ら
した。
老人は懐中電灯を見て、困ったように頬を掻く。
﹁それが三年ほど前に村の畑の隣にある森で拾ったものでな。持ち
主がいるかもしれんと森も近くの村や町も探したんだが見つからな
かった。ほれ、置物に精巧な似顔絵が張ってあるだろう。絶対高価
な物だから無くした者も困っていると思ったんだがなぁ﹂
老人に言われ、キロは懐中電灯を調べる。
﹁ほれ、そこが外れるようになっていてな、ふたの裏を見てみなさ
い﹂
まさかと思い、キロは懐中電灯の電池が入っているだろう部分を
探し、ふたをスライドさせた。
中には液漏れを起こした電池が二本、そして、ふたには⋮⋮。
︱︱プリクラ。しかもこの顔、どこかで⋮⋮。
プリクラに写っているのは高校生くらいの少女だった。典型的な
日本人の容姿だが、目は少し吊り上がり気味できつい印象の美人だ。
﹁⋮⋮すごくきれいな絵ですね。実物を閉じ込めたみたいです﹂
442
プリクラを見てクローナが感嘆の声を上げる。
写真機がないこの世界でなら、かなり高い芸術的価値を認められ
るだろう。
﹁そうだろう。しかし、ほうぼう訪ねて回ったが黒髪黒目の女の子
なんて見たことないそうでな。御嬢さん方も、もしその絵の女の子
を見つけたら置物の事を教えてやってくれ﹂
キロはふたを戻して、老人に頭を下げる。
女装がばれないよう声を出せないキロに代わり、クローナが礼を
言う。
老人はもうこの場に用はない、とさっさと帰ってしまった。
キロ達は老人を見送った後、カバンの中へ懐中電灯を入れつつ辺
りを見回す。
盗品を持ち込んだ出品者との接触を図る、本来の目的を達成する
ためだ。
カルロやゼンドル、ティーダがキロ達の動きをさり気なく観察し
ている。
出品者として紛れ込んだ彼らはオークション会場を見たわけでは
ないため、出品された複数の盗品の内、キロ達がどれを落札したか
分からないためだろう。
キロはランプシェードを持つ紳士然とした髭の男性に目を留める。
知らなければ盗品を抱えているなどとは思わないだろう、泰然自
若として堂に入った立ち居振る舞いだ。
オークションの出品者として足元を見られない人選をしたのだろ
う。
魔法使いや司会役といい、窃盗組織は適材適所を可能とするだけ
の人員を持っている事が窺える。
キロはクローナと視線を合わせ、小さく頷く。
443
悟られない程度に警戒しながら髭の紳士に歩み寄り、クローナが
声を掛けようとした瞬間、紳士の傍に居た護衛が振り返った。
︱︱おい、聞いてないぞ⋮⋮ッ!
護衛の顔を認識した瞬間、キロとクローナは足を止めた。
護衛がクローナを見て眉を寄せ、続いてキロに視線を移して口端
を吊り上げる。
﹁キロ君、こんなところで会うとは奇遇だね。女装に目覚めたのか
い?﹂
親しげに声を掛けながら、護衛が片手を挙げ、キロを指差す。
訝しみながら紳士と他の護衛がキロを見た。
全身が泡立つほどの危機感に襲われ、キロは反射的に魔力を練る。
﹁なんで冒険者のキロ君達がこんなところにいるんだい?﹂
護衛の言葉が放たれた瞬間、いくつかの視線に敵意が宿る。
紳士が眉を寄せ、険しい顔を護衛に向けた。
﹁それは本当か?﹂
確認の言葉に続き、嘘を吐いたのならタダでは済まさないという
気迫を込めて、紳士が護衛の名を呼ぶ。
﹁︱︱シールズ﹂
と。
444
第四十五話 殺人者
キロは反射的に戦闘態勢を取りそうになる体を押さえつけ、周囲
に視線を巡らせる。
この場にいるのは窃盗組織の人間に加えて一般客、カルロ達を含
めた総勢五十名。
窃盗組織やカルロ達はともかく、一般客がいる場での戦闘は避け
たいところだ。
︱︱正体がばれたのは俺とクローナのみ、カルロさんにゼンドル、
ティーダの三人はまだ紛れ込んでる。
今回の依頼の目的は窃盗組織の人間の捕縛と情報を聞き出す事だ。
究極的には、依頼に参加したキロ達五人の内、たった一人でも紛
れ込んでいられれば目的の達成は可能である。
つまり、今キロ達に出来る事は素早くこの場を離脱し、仲間がぼ
ろを出さずに済むようにする事。
︱︱だけど、シールズを野放しにしておくのは危険すぎる。
シールズの特殊魔力は汎用性が高く、初見では対応が難しい能力
だ。
なにより、窃盗組織の人間ごと空間転移されては元も子もない。
紳士風の男がキロとクローナへ視線を向け、正体を見破ろうとす
るように目を細める。
﹁前衛にしてはどちらも細い⋮⋮魔法使いか。あんたら、この場で
暴れようなんて思ってないだろうな?﹂
紳士の言葉は、客を巻き込む荒事を避けたい本心の表れだった。
キロ達が一般客に被害が出ないように立ち回る確信があるのだろ
う、紳士風の男には余裕がある。
445
﹁シールズ、ここでその二人を捕まえろ。大事の前だからな、破綻
の芽は確実に摘んでおきたい。お前ら、早々に撤収準備に掛かれ。
ギルドの連中が乗り込んでくるかもしれん﹂
紳士風の男はシールズをキロ達へけしかけつつ、周囲の仲間に指
示を飛ばす。
状況について行けずにきょとんとしている一般客の中をシールズ
が悠然と歩いてくる。
﹁会いに来てくれたところ悪いんだけど、僕は仕事中なんだ。キロ
君は欲しいけれど、準備が整うまで大人しく待っていてほしいな﹂
シールズの言葉の真意に気付いたのは、キロとクローナだけだっ
ただろう。
シールズはキロ達にさっさと逃げろと言っているのだ。
キロが大事な素材であるがゆえに、ここで捕まえて窃盗組織の手
に渡したくはないのだろう。
キロはクローナと視線を交わし、頷きあう。
直後、キロはクローナと共に動作魔力を使って後方へ逃れた。
紳士風の男が舌打ちと共にシールズへ視線を向ける。
﹁わざと逃がしたな? まぁいい、撤収を手伝え。魔法を使える奴
はさっきの二人を捕まえて来い﹂
撤収のために力仕事を任せられる者を残し、他の者にはキロ達を
追わせる指示を出し、紳士風の男はシールズを別段咎めもしない。
それどころか、気安くシールズの肩を叩いて倉庫へ足を向けた。
﹁お前は使える奴だ。多少のわがままは目をつむってやるが、相談
446
くらいはしろ﹂
︱︱信じないけど用いる上司か。あれも厄介そうだな。
離脱間際に聞こえた紳士風の男の言葉に、キロは警戒を強めた。
客の輪を抜け、キロ達はギルドに向かって走り出す。
肩越しに振り返れば十人の男達が後を追いかけてきていた。中に
は照明係をしていた二人の男も含まれている。
﹁キロさん、大通りは避けないとダメです﹂
時刻は昼過ぎ、通りには町の住人が多数、出歩いている事だろう。
オークションの客ではない一般人に、後ろの男達がどこまで配慮
するかはわからない。
キロは並走するクローナを横目に見て、口を開く。
﹁裏通りを使ってギルドに駆け込めるか?﹂
﹁一切誰ともすれ違わずに、なんて無茶な条件でなければ、行ける
かもしれませんね!﹂
自分で言った皮肉に苦笑するクローナにつられて、キロも口端を
吊り上げる。
ギルドに駆け込めない以上、逃げ続けても魔力の使いすぎにより
戦わずして戦闘不能になるだけだ。
後ろから追いかけてくる十人の男は曲がりなりにも魔法使い、魔
力総量ではキロと同等以上と考えられる。
︱︱せめて、開けた場所さえあれば。
風を切り、狭い路地を縫うように駆け抜けながら、キロは町の地
理を思い浮かべる。
開けた場所と言えば、広場か訓練場になるだろう。
しかし、どちらも人通りの多い道に面しているため使う事は出来
447
ない。
﹁キロさん、後ろ!﹂
クローナの声にキロは振り返る。
照明係をしていた魔法使い二人が石弾を準備している所だった。
走りながら準備している石弾は歪だったが、ありったけの魔力を
込めて放つつもりらしく、直径一メートル近い大きさがある。
︱︱殺す気かよ!
そういえば、生きて捕えろとは言ってなかったよな、と頭の中の
冷静な部分は振り返るが、今は放たれた石弾の対処が先だった。
路地の幅いっぱいになるように考えて作られた石弾は避けられそ
うにない。
仮に避けたとしても民家に被害が出るだろう。
思案するキロより先にクローナが動く。
﹁頭を下げてください﹂
率先して重心を落としながら、クローナは石壁を斜めに生み出し
た。
飛来する歪な石弾はクローナの壁にあたり、いなされるように上
空へ飛びあがる。
キロは飛んで行った石弾を見送って、ひらめく。
︱︱開けた場所、見っけ。
﹁クローナ、屋根の上に行くぞ!﹂
キロは足場になるよう石の階段を作り、駆けあがる。
魔力を使い果たしてうずくまる照明係たちを置き去りに、八人の
男が次の攻撃を仕掛けようとするが、キロが屋根の上に着地する方
448
が早い。
キロは振り返りながら魔力で水を生み出す。
キロに遅れてクローナが屋根に上がった事を確認すると、キロは
生み出した水を勢いよく追手に向けて放った。
嫌がらせのような攻撃を片手で顔を庇いながら凌ぐ追手に対し、
キロは背を向けて再び駆け出す。
しかし、今度は進行方向が限定される路地とは違い、屋根に飛び
移りさえすればいくらでも道を短縮できる。
距離が離れるにしたがって、追手は諦めたのか、速度を緩め始め
ていた。
そろそろギルドに向かおうかと考え始めた時だった。
屋根から屋根に飛び移り、両足を付けてバランスを取った瞬間、
轟音と共に地面が揺れる。
﹁なんだ⁉﹂
追手の攻撃かと思い、振り返ったキロが見たものは︱︱
屋根が吹き飛び天高く火柱を挙げている、オークション会場の倉
庫だった。
追手達も呆気にとられ、倉庫を眺めながら大口を開けている。
﹁⋮⋮あらあら、旦那さんったら派手好きなんですから﹂
不意に、場違いなほどのんびりとした声が聞こえてきて、キロは
振り返る。
屋根の上に、口に手を当ててクスクスと笑う女がいた。
動きにくそうな正装に身を包んでいるにもかかわらず、水が流れ
るように優雅な足運びで屋根の上を歩いてくる。
﹁オークションの司会?﹂
449
キロの呟きが聞こえたのか、女はニコリと笑い、恭しく腰を折る。
﹁キアラと申します﹂
正装の女、キアラはキロとクローナを交互に見て、残念そうな吐
息を漏らす。
﹁冒険者になられたんですね。残念です。羊飼いを続けていればこ
こで殺されることもなかったでしょうに﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
愛用している羊飼いの杖をギルドに預けているクローナを一目見
て、元羊飼いだと看破したのかと思いキロは眉を寄せる。
キアラはふと思い出したように、防壁の外の森を指差す。
﹁わたくし、あちらの森にごみを転がしておいた者です。キロさん、
とおっしゃいましたか、あなたが突然降ってきた時には見逃しまし
たけど、こんな事ならあの時、首を掻っ切っておけばよかったです
ね﹂
晴れやかな笑顔のまま、淀みなく言ってのけたキアラの言葉を聞
いて、キロは全身に怖気が走った。
﹁まさか、窃盗組織を追っていた冒険者を殺したのって﹂
﹁はい、わたくしです。あの頃はそうでもなかったのですが、最近
は冒険者という人種が大嫌いでして、あなた方もゴミに変えて差し
上げようかと思い、はせ参じた次第です﹂
笑顔のまま毒を吐き、キアラが路地の魔法使い達を見る。
450
﹁会場に三人、冒険者が紛れていました。もう片付いている頃でし
ょう。あなた達はこのまま町に紛れ込み、ほとぼりが冷めたら外に
出なさい﹂
魔法使い達はキアラの言葉に異論をはさむ事もなく、素直に路地
を抜けて通りの方へ走って行く。
まるで、猛獣の前から我先にと逃げ出す小動物のようだった。
﹁もしかして、組織のお偉いさんだったりするのか?﹂
逃げ出した魔法使い達から意識を外し、キロはキアラに声を掛け
る。
キアラは笑顔のまま両腕で自らを抱いた。
﹁あぁ、気持ち悪いですね。気色悪い趣味のシールズと同じ冒険者、
心の底から言わせてもらいましょう。話しかけないでください、気
持ち悪いので﹂
辛辣に言葉を連ねるキアラにクローナが食って掛かる。
﹁あんなのと一緒にしないでほしいです。シールズさんはそれはも
う気持ち悪い趣味の持ち主ですし、弁護の余地はありませんけど、
私達はまともです!﹂
﹁女装男とその相方なのに? 冗談でしょう?﹂
﹁⋮⋮っく﹂
キアラの言葉にクローナが悔しそうに俯いた。
﹁言い負かされんなよ﹂
451
﹁オークション開始以来、女装キロさんに違和感が無くなっていた
自分の順応性の高さに絶望しました﹂
クローナは本心から言っているらしく、しばしの間俯いていたが、
それでも、と言葉を繋いで顔を挙げた。
﹁シールズさんみたいな純正の変態じゃないです! キロさんは仕
事上仕方なくやってるだけですから﹂
﹁あら、そうなの? 確かにシールズみたいな極端な変態がごろご
ろしてるわけもないですよね﹂
﹁お前ら、シールズの悪口言いたいだけだろ⋮⋮﹂
キロもシールズが嫌いだが、罵倒合戦に参加する気はなかった。
キロは魔法使い達が走り去った方向にちらりと視線をやり、キア
ラに向き直る。
﹁お仲間の避難も済んだみたいだから、時間稼ぎは終わりだろ。ど
うするんだ?﹂
﹁あら、察しが良いんですね﹂
キアラは笑い、ギルドの方角を見る。
﹁旦那さんには仲間の回収だけでよいと言われてますから、ここで
失礼させていただきましょう﹂
そう言って、キアラはとんっ、と軽い調子で足元の屋根を蹴る。
キロは遠ざかるキアラに声を掛ける。
﹁森で殺した冒険者、最後の言葉はなんだった?﹂
452
音もなく路地に着地したキアラはニコリと笑って、手を振った。
﹁死にたくない、と﹂
キアラが答えた直後、魔法による砂煙が姿を覆った。
攻撃を警戒して、キロはクローナと共に身構える。
案の定、行きがけの駄賃とばかりに投げナイフが飛んできた。
︱︱四方八方から。
﹁おいおい⁉﹂
ナイフの柄の下部に取り付けられた鉄線により円を描いて飛んで
くる投げナイフは上、ななめ下、左右から襲いかかる。
動作魔力で軌道を制御しているのだろう。
一目でわかるほど高度な魔力の運用法だ。
﹁クローナは上下を頼む!﹂
キロは指示を出しながら、左右に土の壁を生じさせる。
幸い、投げナイフに込められた魔力は多くないようで、威力は低
く、土壁を壊せるほどではない。
クローナが上下一帯に外側へ湾曲した土壁を作り出して投げナイ
フを受け止めた。
ほっとしたのも束の間、クローナの土壁が爆ぜた。
石弾を叩き込まれたのだと認識するより早く、キロはクローナの
袖を思い切り手前に引き倒す。
掠めるように、風切音を伴って先の鋭い石弾が空へと打ちあがっ
た。
﹁あら、残念⋮⋮﹂
453
上品な声が聞こえ、キロは路地に目を向ける。
しかし、そこにキアラの姿はすでになく、路地には地下水道へ通
じる穴が口を開けていた。
︱︱翻訳の腕輪といい、準備のいい事で。
キロが地下水道の入り口を屋根から見下ろしていると、クローナ
に腕を掴まれた。
﹁早く倉庫に行かないとティーダさん達が︱︱﹂
﹁落ち着け。ギルドの応援と合流する方が先だ。情報を持ってるの
は俺達だけなんだからな﹂
︱︱あのキアラって女も危ないし。
クローナを押し留め、キロはギルドへ足を向けた。
454
第四十六話 依頼失敗
ギルドへ向かう道すがら、阿吽の冒険者を見つけてキロとクロー
ナは足を止めた。
未だに屋根の上を走っていたキロ達はかなり目立っていたらしく、
阿吽の冒険者が身振りで降りてこいと示す。
﹁クローナ、久しぶり、と世間話してる暇はなさそうだな。キロは
何処だ?﹂
阿形が真面目な顔をしているのは初めてかもしれない、と少々失
礼な事を思いつつ、キロはおずおずと片手を挙げる。
﹁⋮⋮ここにいます﹂
﹁⋮⋮性別の変わる特殊魔力か、潜入捜査向きだな﹂
何とも言えない顔を見合わせて呟いた阿吽に、キロは口を閉ざす。
特殊魔力という事にしておいた方が、八方丸く収まりそうだから
だ。
キロは倉庫の方角を指差す。
﹁窃盗組織のオークションに潜入していたところ、窃盗組織に加わ
っていたシールズという元冒険者に見破られ、俺とクローナは現場
から離脱しました。その時点ではまだ他の潜入組は見破られてませ
んでしたが、俺達が出て行った後、ばれたようです﹂
阿形が翻訳の腕輪を持っている事は知っていたため、キロは手短
に状況を伝える。
455
場慣れしているのか、静かに聞いていた阿吽は一つ頷いて、ギル
ドから倉庫へ向かう道へ顎をしゃくった。
﹁俺達はキロやクローナと合流して連れて来いと言われていてな。
このまま倉庫に向かっている連中と合流するぞ。事情を知っている
奴がいた方が動きやすいからな﹂
阿吽が同時に走り出し、キロ達も後を追う。
倉庫がある方角を確認すると、火柱はすでに収まっているようだ
った。しかし、周囲の建物に燃え移ったのか幾筋かの煙が見える。
クローナがキロの視線を追って、口を開く。
﹁倉庫の周辺は無人です。すぐに消火すれば被害も大きくなりませ
んよ﹂
クローナの言葉にキロは戸惑いがちに頷いた。
例え無人でも、一気に被害地域が拡大するのが火事の怖い所だか
らだ。
しかし、この世界は水を持ち運ばなくても魔法で消火ができる。
火事の危険度が違うのだろう。
キロが視線を通りの先へ向ければ、冒険者らしき一団が倉庫の方
角へ駆けていく姿が見えた。中には町を出る前に訓練所で勝負した
二人の若手冒険者もいる。
冒険者の集団の先頭を行く訓練所の教官に、阿形が片手を挙げる。
﹁キロ達を見つけた。後の三人は倉庫にいるそうだ﹂
教官を嫌っているはずの阿形だが、公私混同はしないらしい。
さらりと告げて冒険者の一行に合流する阿形を見て教官が隣を指
差した。
456
﹁その三人はこっちで回収した。道中、偶然見つけてな﹂
キロが教官の横を見ると、ゼンドルと目があった。隣にはティー
ダとカルロもいる。
﹁マジでキロだったのか⋮⋮﹂
﹁せめて笑ってほしいんだけど、この状況だと無理だよなぁ﹂
﹁この状況じゃなくても無理だろ。娼館で働けよ、お前﹂
﹁うるせぇよ﹂
シャレにならない冗談を飛ばすゼンドルに毒吐いて、キロはティ
ーダを見る。
ティーダのそばにはクローナが付いていた。
互いの無事を喜んでいる様子で、走りながらハイタッチを交わし
ている。
カルロも五体満足で並走している事から、全員が怪我一つ負わず
に現場を切り抜けられたのだろう。
キロはゼンドルに視線を戻し、口を開く。
﹁俺達が抜けた後、倉庫はどうなったんだ?﹂
﹁出品者と客の交流時間を省略して、商品の受け渡しのみを簡潔に
済ませた後で即時解散。ただ、カルロさんがシールズの手配書の内
容を覚えててさ﹂
﹁空間転移で窃盗組織の人間に逃げられる前に仕掛けたのか?﹂
﹁その通り﹂
キロが驚きつつ問うと、ゼンドルはあっさり肯定した。
﹁客が帰った後で次回の開催は何時か訊きに行くふりして仕掛けた﹂
457
なるほど、とキロはゼンドル達の作戦に感心する。
しかし、ゼンドルは浮かない顔で首を振った。
﹁でもダメだった。シールズって奴が強すぎる。火柱をキロ達も見
ただろ? カルロさんが早く見切りつけてくれたから焼き殺されず
に逃げ切れたけどさ﹂
ゼンドルは続けて戦闘の様子を教えてくれたが、それによるとシ
ールズは特殊魔力を使用していなかったらしい。
︱︱俺達との戦いでも全力は出してなかったんだよな⋮⋮。
〝素材〟であるキロを傷つけないよう全力を出していなかったシ
ールズを思い出し、キロはゼンドル達の顔を見る。
シールズの趣味までは知らないのか、キロの険しい視線に首を傾
げるゼンドル達とは違い、クローナがキロの懸念を打ち消す。
﹁ティーダさん達を誘拐しようとしたわけじゃないと思います。多
分、撤収する時に特殊魔力を使えるよう、温存したんですよ﹂
クローナの推測にキロは納得する。
﹁それじゃあ、このまま倉庫に到着しても窃盗組織は逃げ出した後
かも知れないな﹂
シールズの特殊魔力がどれほどの量か分からないが、キアラのよ
うに街に潜伏してから脱出する方法もある。
現場にいつまでもいるとは思えなかった。
その日、無人となった倉庫周辺での消火活動を行っている間に町
の防壁が窃盗組織により突破されたとの報告を受け、キロ達に仕事
の終了が告げられた。
458
夕方となり、確認のために町中をくまなく探したものの残党は見
つからず、キロ達はギルドに呼び出された。
受付の男性はキロを一瞥して、つまらなそうにため息を吐いた。
﹁私もキロさんの女装姿を見ておきたかったですね。今後も潜入捜
査を頼めるかもしれませんから﹂
﹁勘弁してくださいよ⋮⋮﹂
流石に女装したままでは何かと不便だったため、キロは一度宿へ
戻って変装を解いていた。
隣でゼンドルがニヤニヤしていたが、今回はティーダも笑いを堪
えるのに精いっぱいらしく肘鉄は飛んでいない。
救いを求めてクローナに目を向けるが、小さく呟かれた、
﹁似合ってましたよ⋮⋮﹂
の一言でキロは全てを諦めた。
話が変な方向に転がって雪玉式に膨れ上がる前に、キロは話題を
元に戻す。
﹁今回の依頼は失敗という事ですよね?﹂
騎士団から借り受けたという腕輪の表面を撫でながら、受付の男
性は頷いた。
﹁相手が悪かった、というべきでしょうね。シールズに加えてキア
ラまでいたのですから﹂
﹁あのキアラって女の人、有名なんですか?﹂
459
クローナが首を傾げると、受付の男性は頭を掻いた。
﹁証拠がないため賞金がかかっていないだけで、凄腕の殺し屋です
よ。あなた方が無事だったのは奇跡ですね﹂
怖い事を言う受付の男性に、キロとクローナは顔を見合わせた。
受付の男性は溜息を一つ吐いて再度口を開く。
﹁キアラが町に入ったという情報があれば、尾行させていました。
ですが、今回はその報告がない。つまりは密入ですね。シールズの
特殊魔力で入ったのでしょうが⋮⋮本当にここまで厄介な事になる
とは﹂
キロ達の手前、頭を抱える事はしなかったが、受付の男性は苦い
顔でまたため息を吐いた。
いくらでも強力な人材を壁の中に送り込めるシールズの能力は、
治安維持をつかさどる騎士団やギルドにとって頭の痛い話だろう。
キロとしては関わりたくないのが本音だった。
﹁そういえば、ランプシェードの出品者が言ってましたよね。大事
の前だからなんとかって﹂
クローナが思い出したように言うと、そういえば、という顔でゼ
ンドル達が頷いた。
キロも記憶を探ると、確かに紳士風の男が言っていた。
﹁大事の前だから破綻の芽は摘んでおきたい、だったか。だけど、
倉庫を派手に吹き飛ばしたんだから、もう破綻したかもしれないだ
ろ﹂
460
﹁それはギルドが調査しましょう﹂
受付の男性が割って入り、調査を請け負った。
﹁調査の結果次第ですが、皆さんにまた依頼を出すかもしれません。
もしくは、今回の一件についての証言を求める場合がありますので、
所在を明確にしておいていただきたいのですが﹂
﹁それについてはちょっと⋮⋮﹂
受付の男性の言葉を遮って、クローナが口を挟む。
クローナは意見を求めるようにキロを見た。
異世界に行く可能性があるため、所在確認ができない可能性があ
る事を、受付の男性に伝えるべきかで悩んでいるようだ。
キロに決定権を委ねるつもりらしく、クローナはキロを無言で促
した。
キロは少し考えた後で口を開く。
﹁こちらにも事情があるので、連絡が取れなくなる可能性がありま
す。一応、ギルドには連絡がつかなくなる前に教えますけど﹂
受付の男性はキロをじっと見て考え込んだ後、渋々といった様子
で頷いた。
﹁分かりました。キロさん達は実績もありますので、別件で潜入調
査を依頼されるかもしれませんからね。女にしか見えなかったとい
う証言も多数ありますし﹂
﹁それは忘れてください﹂
﹁調査報告書にして上に挙げているので、いまさら隠蔽は無理です
よ。汎用性のある特殊性癖⋮⋮技能ですから、なおさら秘匿は難し
いかと﹂
461
﹁おい、聞き捨てならない単語が聞こえたぞ﹂
﹁では、話が済んだところで報酬の話に移りますが﹂
言い間違いをなかった事として押し切るつもりらしく、受付の男
性は報酬の話に移った。
依頼は失敗という事で報酬は支払われなかったが、依頼期間中の
給料という形で銀貨数枚を渡された。
命がけだった事を考えると安い給料だったが、失敗した手前文句
も言えない。
唯一、現役の冒険者ではないカルロには協力報酬という形で上乗
せがあった。
カルロは協力報酬を眺めた後、キロ達に向き直り口を開いた。
﹁自分だけもらうのは心苦しいので、皆さんでこれから食事でもど
うですか? 私がこれで払うのでパァッと飲みましょう﹂
カルロの提案にキロとゼンドルは顔を見合わせ、続いてそれぞれ
の相棒を見る。
ティーダは申し訳なさそうにしていたが、カルロの厚意をむげに
するつもりはないらしい。
しかし、クローナは赤い顔で狼狽えだす。
﹁お酒、ですか⋮⋮﹂
︱︱あぁ、思い出したんだな。
赤い顔でキロを気にしだすクローナの心中を察して、苦笑する。
﹁お酒は飲めませんけど、食事には付き合いたいです。良いですか
?﹂
﹁もちろん、構いませんよ﹂
462
カルロ達はクローナの反応でおおよその事情を察したらしく、楽
しげに笑いながら了承してくれた。
463
第四十七話 自己嫌悪
﹁大丈夫か?﹂
階段を上がりながら、キロは背中に乗るクローナに声を掛ける。
﹁お酒は二回目から強くなるって言った人、馬鹿だと思います⋮⋮﹂
﹁クローナって酔うと口が悪くなるよな﹂
つい先ほどカルロ主催の食事会がお開きになり、キロが止めるの
も聞かずティーダに誘われるまま酒を飲んだクローナはまっすぐ歩
けなくなっていた。
仕方なく、キロはクローナを背負って宿の階段を上り、部屋に向
かっている。
クローナが酒に手を付け始めた時にこの事態を想定していたキロ
は一切酒を飲んでいないため、足取りはしっかりしている。
この世界に来てからというもの鍛えられっぱなしの足腰ではクロ
ーナの体重など苦にならなかった。
﹁ほら、部屋に着いたから、鍵を出せ﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
情けない声を出して唸るクローナに、キロはため息を吐く。
﹁鍵は何処だ。ポケットか?﹂
一度クローナを床に降ろして問いかけると、こくりと頷かれる。
動く気配のないクローナに再度ため息を吐いて、キロは彼女のポ
464
ケットを漁って鍵を取り出した。
扉を開いてクローナを振り向くが、立ち上がる気配はない、
キロは荷物を壁際において、クローナを抱え上げた。
﹁少しは酒に懲りたか?﹂
﹁⋮⋮次は失敗しません﹂
﹁次があるのかよ⋮⋮﹂
耳元でだるそうに呟かれて、キロは半眼を向ける。
ベッドにクローナを座らせて、キロはコップに水を用意して手渡
した。
クローナはキロを上目使いに見上げながら、水をちびちび飲み始
める。
キロは水を飲み終えたクローナに手渡された空のコップと水差し
を机に戻す。
自分のベッドの横に置いてある鞄に目を留めて、キロは中の懐中
電灯を取り出した。
︱︱確かめるか。
緊張に喉をごくりと鳴らし、キロは魔法陣を紙に描く。
アンムナの厳しい特訓のおかげもあってか、曲線だろうとお構い
なしに筆一本で描き上げた。
クローナが深刻そうな顔で見つめる中、キロは一つ深呼吸した後
で魔法陣を発動させる。
発動した魔法陣は上に置かれた懐中電灯を淡い光で包み込んだ。
光は明滅しながら徐々に魔法陣へと戻っていき、魔法陣を淡く赤
い色で光らせた。
︱︱赤く光れば媒介に使う事が出来る。
アンムナに教わった通りの光景に、キロは一瞬笑みを浮かべたが、
すぐに我に返って黙祷を捧げた。
電池カバーの裏に貼られていたプリクラの少女が持ち主とは限ら
465
ないが、この懐中電灯の本来の持ち主はなくなっているのだ。
キロが黙祷を捧げ終えた時、クローナが声を掛けてきた。
﹁キロさん、ここに座ってください﹂
クローナが自分の隣をぺしぺしと叩く。
なんでわざわざ隣に呼ぶのかと、キロはクローナの対面にある自
分のベッドを見る。
どうせ酔っている人間に正常な判断や思考力など求めるだけ無駄
だ、とキロはクローナの言う通り隣に腰かける。
﹁さて、キロさん、お話があるんですけどその前に︱︱﹂
言葉を不自然に区切ったクローナを訝しんだ直後、キロはクロー
ナに押し倒された。
一瞬何が起こっているのか分からなかったキロだったが、クロー
ナがキロの両肩を押さえつけて顔を覗きこむに至り状況を把握する。
クローナの群青色の瞳が真正面にあった。
﹁⋮⋮乙女が何のつもりだ﹂
﹁逃げられない様にしようかなって。では、お話ししましょう﹂
﹁この状態で?﹂
﹁はい、この状態で﹂
即答され、キロは眉を寄せる。
﹁これをやる勢いが欲しくて酒飲んだのか?﹂
﹁飲みすぎましたけど、前回は記憶が飛んだりもしなかったので、
大丈夫だと思います﹂
466
何が大丈夫なのか、とキロが聞き返す前に、クローナが告げる。
﹁私もキロさんの世界に連れて行ってください﹂
キロは開きかけた口を閉ざし、クローナを見つめた。
キロがいつまでも沈黙を守っていると、クローナが口を開く。
﹁そのままだんまりを決め込むつもりなら、襲って既成事実を作り
ましょうか?﹂
言いながら、真剣な目で見つめてくるクローナの顔を見つめ返し、
キロは考える。
︱︱無駄に行動力あるんだよな、こいつ。
そもそも、キロを押し倒しているこの状況からして、素面のクロ
ーナではできない行動だ。
自覚があるからこそ、クローナも酒を飲んで勢いをつけたのだろ
うし、理性のタガが外れかけている今なら行くとこまで行きそうで
はある。
脅しとしてはそれなりの効力を発揮している、とキロは評価しつ
つ、果たしてこれは脅しなのかと疑問にも思った。
連れて行かないと答えれば〝既成事実〟を作られるわけだが、連
れて行くなら〝事実〟が作られるのではないだろうか。
︱︱逃げ場がないような⋮⋮。
とりあえず、とキロは思考を切り替え、説得するように口を開く。
﹁クローナにとっての異世界に行くんだ。言葉なんて通じないし、
魔法だって使うわけにはいかなくなる。こっちに帰って来れる保証
もない﹂
﹁私はキロさんと一緒に異世界に行くんです。言葉が通じなくても
翻訳の腕輪で聞き取るだけはできますし、キロさんに言葉を教えて
467
貰えます。それに、遺物潜りで帰って来られます﹂
﹁この世界に帰還できるかは限らない。革手袋を媒介して帰還でき
るのは俺とクローナが出会う直前の世界だ。この時間じゃない。懐
中電灯に込められた念を解消すればこの時間に帰還できるけど、解
消できる念かどうかも分からない﹂
﹁革手袋の念みたいに、ですか?﹂
クローナの質問に、キロは頷いた。
革手袋の持ち主を殺したというキアラによれば、持ち主であった
冒険者の最後の言葉は死にたくない、だ。
革手袋に宿った念が死にたくない、だとすると、生き返らせる以
外に念を解消する方法がない。
キロをこの世界に放り込んだ男も、偶然に念が解消されてしまう
事のない媒体を選んだのだろう。
﹁それなら、最近お亡くなりになった見ず知らずの誰かの形見を分
けてくださいって無神経なお願いして回ればいいんですか?﹂
潤んだ瞳を見られまいとしたか、クローナがキロの胸に顔を埋め
る。
﹁⋮⋮そうすればキロさんともっと一緒に居られますか?﹂
そこまでしてついて行きたいと思ってくれている事にキロの心は
傾きかけるが、頭は冷静に反論を組み立てる。
どちらにせよクローナが知らないキロの世界の事情について話し
ておかなければ、本当の覚悟ができないだろう。
キロは自分が元いた世界を思い出しながら、口を開く
﹁クローナが考えているほど、俺の世界は甘くないんだよ。人が一
468
人、減っても増えても大騒ぎする世界だ。現に、俺がこの世界に来
る前にも女子高生が失踪し、て︱︱﹂
言った瞬間、キロは顔を青ざめさせた。
怪訝な顔をするクローナに構わず、キロは自分の鞄を見る。
懐中電灯の電池カバーに貼ってあったプリクラと、この世界に来
る直前に見たニュース報道の顔写真が脳裏で一致したのだ。
﹁⋮⋮キロさん?﹂
ただならぬ様子のキロに気付き、クローナが呼びかける。
︱︱あのニュースの子、死んだのか⋮⋮。
一瞬、助けるべき相手が懐中電灯の持ち主である彼女なのかと疑
うが、時系列的には三年以上前にこの世界に懐中電灯が存在し、老
人の手に渡っている。
この世界のどこかですれ違ったのかもしれないと考えるが、記憶
にない。
しかし、死体を見ていない以上はいつ死んだのか分からない。キ
ロが魔法を発動させる直前に死亡した可能性すらある。
だが、出会っていない相手を救えというのは無茶ぶりが過ぎる、
とキロは思う。
考え過ぎだとキロは頭を振って否定した。
不安そうな顔をしているクローナに気付き、キロは何でもないと
いうように微笑みかける。
クローナが瞬きし、顔をさらに赤らめた。
︱︱酔いがさめてきたんだな。
クローナの反応から推測し。キロは構わず口を開く。
﹁なぁ、クローナはどうして俺についてきたいんだ?﹂
﹁それ、言わなきゃだめですか⋮⋮?﹂
469
口籠るクローナに、キロは大きく頷いた。
クローナは視線を右往左往させ、ぼそりと呟く。
﹁キロさんは私の相棒ですから﹂
﹁そうか﹂
キロはため息を吐く。安堵か、落胆なのか、自分でも判断ができ
なかった。
キロは意を決して、告げる。
﹁クローナは連れて行けない。俺の住んでいる世界に魔物はいない
し、冒険者もいないんだ。あちらの世界に行ったら、冒険者はでき
なくなるし、クローナと相棒でもいられない﹂
キロの言葉に、クローナがきょとんとした顔をする。
すぐに困惑したように視線をさまよわせるクローナの心の中を知
りながら、キロはわざと的外れな言葉を連ねる。
﹁クローナはすぐに次の仕事仲間を探せ。ティーダと仲が良かった
し、しばらく組むのもありだと思う。俺は明日にでもギルドに行っ
て冒険者をやめてくる﹂
クローナが何か言いかけ、しかし、言葉にならなかったのか下唇
を噛む。
﹁⋮⋮最低です﹂
辛うじてそれだけ言って、クローナはキロを解放して立ち上がっ
た。
470
キロの読み通り酔いはすでに冷めてきたらしく、クローナはしっ
かりした足取りでベッド脇の自分の荷物を持ち上げた。
﹁⋮⋮ティーダさんの所に行きます。この宿の料金は一泊分しか払
ってませんから、明日には引き払ってください。それから、今日ま
での報酬を折半して、革袋に詰めておきます。ギルドに預けるので、
そこで受け取ってください﹂
矢継ぎ早に告げて、クローナはキロを見ずに部屋の扉へ向かう。
扉を開ける直前、クローナが呟くように問いかける。
﹁なんて答えればついて行けたんですか⋮⋮?﹂
﹁相棒とか関係なく、そばに居たいって言うなら連れて行ってた﹂
キロの答えに、クローナが振り返る。
目に涙を浮かべて苦笑しながら、クローナは小さく言葉を返した。
﹁そんなの、私に言えるわけがないですよ﹂
直後、クローナは扉を開けて走り去っていった。
︱︱言えないだろうから、質問したんだよ。
勝手に閉まっていく扉から天井へと視線を移し、キロは右手の甲
を額に当てる。
﹁マジ、最低だな⋮⋮﹂
自己嫌悪さえ含めて、キロは自分を罵った。
471
第四十八話 旅立ちの前に
隣のベッドに誰もいない部屋で、キロは朝日に眼を細めた。
誰かにおはようと言わないで起き出す朝はこの世界に来てからは
初めてだと思い至り、キロはため息を吐く。
鬱々とした気分をはぎ取るように毛布を退けて、キロは重たい肩
を回した。
忘れ物がないかを確認しようと部屋の中を見回すと、机の上にク
ローナの髪飾りを見つけた。
モザイクガラスの複雑な模様を眺めて、キロはどうしたものかと
頭を掻く。
昨夜の一件もあり、クローナと顔を合わせるのは気まずい。
しかし、クローナが大事にしている品だというのは知っている。
︱︱まったく、なんで置き忘れてるんだよ⋮⋮。
キロはモザイクガラスがあしらわれた髪飾りを手に取り、部屋を
出た。
一階に下りてカウンターにいた若旦那に声を掛ける。
﹁俺と一緒に泊まっていた女の子が探し物をしに来るかもしれませ
ん。司祭様に預けてあると伝言を頼めますか?﹂
腕輪を貸して頼むと、若旦那は快く請け負ってくれた。
感謝を伝えて、キロは宿を引き払う。
︱︱これも返さないといけないな。
腕輪を見て、キロはひとまず冒険者をやめるべくギルドへ足を向
けた。
472
ギルドに入ると受付の男性が腕を組んで渋い顔をしていた。
不機嫌さ全開の受付の男性に近付く者は依頼に来た一般人はもち
ろん荒事慣れしている冒険者にさえいないようで、彼の前にだけぽ
っかりと無人スペースが出来ていた。
扉を潜ったキロをぎろりと睨んだ受付の男性は、無言で手招きす
る。
キロが受付に近付くと、受付の男性は開口一番に言う。
﹁痴話喧嘩で冒険者をやめる気ですか?﹂
成り行きを窺っていた冒険者達が受付の男性の言葉にざわつく。
キロは口元を引きつらせつつも、口調だけは冷静に言い返す。
﹁クローナを見て痴話喧嘩と判断したんでしょうけど、冒険者をや
める理由は別ですよ﹂
﹁痴話喧嘩をした事については否定しないんですね﹂
﹁個人的には喧嘩とさえ呼べないと思いますけどね﹂
キロはため息交じりに言い返す。
受付の男性は疲れたように眉の間を揉んだ。
﹁なんで面倒事を増やすんですか。いつのまにかあなた達の面倒は
私が見る暗黙の了解ができている始末ですよ﹂
背もたれの上に肘を掛けながら、受付の男性が愚痴る。
︱︱冒険者ごとに受付が決まってるわけじゃなかったのか。
いつも同じ受付としか話していなかったため、キロはいまさら事
実を知る。
しかし、もう意味のない事だ。
473
﹁クローナからお金を預かっているはずです。冒険者を廃業するの
で差し引いて渡してください﹂
﹁⋮⋮出来ません﹂
受付の男性が小さく、しかしはっきりと言い切った。
上目使いにキロを睨みながら、受付の男性は口を開く。
﹁ギルド上層部にあなたを上位陣の冒険者として指定してもらえる
よう申請を出しています。少なくとも結果が出るまで、あなたは冒
険者をやめられません﹂
︱︱傭兵への転職をできなくするアレか。
都市同盟の共有戦力である冒険者の内、実力者を手元において戦
力を確保しておく方法である。
この世界に来た初日、教会の掃除をしている時にクローナから聞
かされた事だ。
キロは、自分には関係ないと高を括っていたのだが。
﹁⋮⋮それってつまり、人材流出を防ぐために飼殺すための規定で
すよね。俺なんか指定されないと思いすけど﹂
﹁そんなもの、やってみないと分かりません﹂
﹁⋮⋮あんた、申請が通らないと分かっててやっただろ?﹂
﹁どうとでも言ってください。私は仕事をしているだけです﹂
白々しく言い切って、受付の男性はクローナから預かったという
金が入った革袋を差し出した。
﹁そういうわけですので、今後も冒険者をやっていくだろうキロさ
んに全額お渡しします。なお、都市同盟の外へ行く事はできません
ので、ご了承ください﹂
474
﹁まるで指名手配犯みたいな扱いですね﹂
﹁ご高名な冒険者であるキロさんにご滞在頂き、一市民として嬉し
く思います﹂
キロの皮肉にもにこやかに切り返し、睨み合いの末、受付の男性
はため息を吐く。
﹁強引な手だというのは分かっていますよ。しかし、クローナさん
まで冒険者をやめると言い出すし、そうでなくてもキロさんはもう
駆け出しとは呼べない立派な冒険者です。簡単に辞められたら困る
んですよ﹂
﹁⋮⋮ちょっと待ってください。クローナも冒険者をやめる?﹂
キロが聞き返すと、受付の男性はいかにも深刻そうに頷いた。
﹁自分一人では続けていけないから、と。なんとか引き留めました
けど、クローナさんの中では保留扱いになっただけで、キロさんが
冒険者を廃業したら後に続くでしょうね﹂
︱︱クローナの奴、ティーダの所に行ったんじゃなかったのかよ。
クローナの実力やティーダとの仲の良さなどを考えると、一緒に
冒険者をやろうと持ちかけて断られたとは考えにくい。
ティーダに説得されたのだとしたら、冒険者をやめるとは言い出
さないだろう。再びキロとの話し合いの場を設けるはずだ。
腑に落ちないながらも、キロは受付の男性から金を受け取る。
﹁都市同盟の外には出ませんけど、俺との連絡は取れなくなるもの
と思ってください。里帰りするので﹂
﹁里はどちらです?﹂
﹁隠れ里なんですよ﹂
475
キロの言葉を嫌がらせと取ったのか、受付の男性は眼を細めて睨
んでくる。
キロは肩を竦め、はぐらかした。
﹁それじゃ、さようなら﹂
キロは鞄の中にお金を入れ、ギルドを後にする。
朝食を取っていなかった事を思いだして、キロは教会への道を適
当にぶらつく。
この世界で食べる食事も最後だが、考えてみれば文字が読めない
ためメニューが分からない。
最後の最後で不味い飯を食う羽目になると癪に障るので、キロは
朝食を諦めた。
教会への道を歩きながら、空を見上げる。
高く澄んだ青空だ。東京の色の薄い空とは違う、綺麗な色だった。
﹁この世界の方がいいと思うんだけどなぁ⋮⋮﹂
奨学金の返済予定を思い出しながら、キロは呟いた。
道の先に教会が見えてくると、キロは深呼吸して気を引き締める。
﹁こんにちは﹂
礼拝堂の窓ガラスを拭いている司祭を見つけて、キロは手を振っ
た。
司祭はキロを振り返り、笑顔を浮かべる。
しかし、すぐに周囲を見回して首を傾げた。
﹁クローナの姿が見えないが、どうかしたのかな?﹂
476
﹁少々喧嘩をしまして⋮⋮司祭には詳しい事情を話しておこうと思
い、訪ねました。掃除を手伝いましょうか?﹂
﹁いや、もう終わるところだから大丈夫だよ。中に入りなさい。お
茶を入れよう﹂
招かれるままにキロは教会の居住スペースへと入る。
食堂の椅子はキロ達が出て行った時そのままの配置だった。
住んでいる間に定位置になりつつあった席にキロは座り、お湯を
沸かす司祭に経緯を話す。
司祭はときおり相槌を挟みながら、静かに聞いてくれた。
﹁︱︱というわけです。それと、これはクローナが出て行った部屋
に忘れていた髪飾りです﹂
﹁預かろう。しかし、何というか⋮⋮﹂
司祭はキロからモザイクガラスの髪飾りを受け取りながら、苦笑
を禁じえない様子で頬を掻く。
しばし、言葉を選んでいた司祭は苦笑したまま口を開く。
﹁キロ君は気負い過ぎだと思うね。選択に伴う責任は選んだ者だけ
が負うべき物だという事を分かっていないようだ﹂
﹁いえ、責任感がどうという話ではないんです。俺は単に自分が悪
者になりたくないだけで﹂
﹁クローナを諦めさせようとして自己嫌悪に陥っている君がかい?
君はクローナが素直になれない事を見越して質問したというが、
それ以前にクローナの感情を逆手にとる行為だと気付いていたはず
だろう。自己嫌悪に陥る事も事前に理解した上で、君はそれでも質
問した。何故だい?﹂
﹁向こうの世界にクローナが付いて来たらきっと密入国者扱いで捕
まるからです⋮⋮﹂
477
﹁それはクローナの選択した結果だろう。事前に考えていた危険に
襲われる可能性も、事前に考えていなかった危険に襲われる可能性
も、選択する際に全部飲み込むべきものだ。こんな事になるなんて
思わなかった、などという言葉は、考えなかった選択者が悪い﹂
﹁ば、ばっさり切りますね⋮⋮﹂
とはいえ、司祭の言う言葉に一理あるとキロは思う。
だが、キロにも選択する権利があるのだ。
﹁クローナを連れて行く事を選んだら、俺にも責任が生じると思う
んですけど﹂
﹁クローナの身の安全の全てを保証する事が責任だと思うのなら、
それが気負い過ぎというものだ﹂
司祭は沸騰したお湯で茶を入れる。適温に冷ます等の工夫はしな
いらしい。
キロの前にお茶が入った陶器のコップを置き、司祭は苦笑交じり
に口を開いた。
﹁クローナは大騒ぎになると聞かされても君と一緒に行きたいと言
ったんだろう? 大騒ぎになった時の危険性も考慮しているという
事だよ。まぁ、理屈は置いておいて、単刀直入に訊こうか﹂
司祭は一口お茶を飲み、コップを片手にしたままキロに問いかけ
た。
﹁君はクローナと一緒にいるのが嫌かい?﹂
﹁いえ、クローナと一緒にいるのは楽しいですし、遠慮なく付き合
える数少ない︱︱﹂
478
キロが質問に答えている途中で、司祭はキロの前にあったコップ
を持ち上げる。
直後、キロは後ろから勢いよく抱き着かれた。
あまりの勢いに、キロは机に両手を突き、反動を殺す。司祭がコ
ップを没収したのはこれが原因かと思う間もなく、耳元ではっきり
とクローナの声が聞こえた。
﹁押しかけ女房上等という事で、キロさんの世界に連れて行ってく
れるまで離しませんから﹂
驚いて振り返ると、キロの肩に顎を載せるようにしてクローナが
微笑んでいる。
﹁どうしてここに⋮⋮﹂
﹁何のために大事な髪飾りを置いてきたと思ってるんですか? 責
任論は理解しましたよね? 言質も取りましたし、これで心置きな
く私はキロさんについて行けます!﹂
﹁言質って、まさかさっきの質問⋮⋮?﹂
キロが司祭に視線を移すと、苦笑交じりに肩を竦められた。
﹁もう瀬戸際の優しさではないと理解しているが、最後かもしれな
いんだ。ちょっと甘やかすくらい構わないだろう?﹂
︱︱やられた⋮⋮。
大事な髪飾りを置いておけば、キロが司祭の元に来るだろうと予
想していたのだろう。
狙い通りノコノコやってきたキロに真意を聞き出す企みに司祭が
乗ったという事だ。
479
﹁もしギルドに髪飾りを預けてたらどうするつもりだったんだよ﹂
﹁受け取り拒否してもらえるように頼んでおきました。キロさんが
髪飾りを持って宿を出たかどうかもティーダさんやゼンドルさんに
確認してもらいましたし、カルロさんにキロさんが遺物潜りを発動
しないよう尾行してもらってました。皆さん、どうぞ入ってきてく
ださい﹂
クローナが食堂の入り口に声を掛けると、受付の男性にティーダ
とゼンドルやカルロ、何故か阿吽の姿まである。
﹁キロさんがカルロさんに止められても遺物潜りを使いそうな時に
は止めてもらうよう頼んでました。流石のキロさんでも三人がかり
なら抑えられる、と思うので⋮⋮多分﹂
﹁なんで自信なさそうなんだよ。失礼だろうが﹂
キロはクローナにデコピンを見舞い、嘆息する。
随分と大事になったものだ、とキロは食堂の面々を見回す。
ティーダがキロとクローナを見てにやにやしていた。
﹁素直になれなかった私は最低です、とか泣きながらやってきた時
はどうなるかと思ったけど、まぁ丸く収まったんじゃないの?﹂
﹁素直に気持ちを伝えてキロに拒絶されるのが怖い、だっけか。乙
女だよなぁ、ティーダと大違い︱︱ぐふっ﹂
余計なことを口走ったゼンドルがティーダに肘打ちされて横腹を
押さえた。
ゼンドル達の言葉が事実か、クローナに確認しようとしたキロは
首を押さえられた。
﹁さぁ、キロさん、遺物潜りを発動してください。ついて行くので、
480
何があろうと﹂
﹁⋮⋮時々、クローナの行動力が恐ろしくなるよ﹂
半分ストーカーじゃないか、とキロは嘆息する。
降参とばかりに、キロはあらかじめ書いてあった遺物潜りの魔法
陣を鞄から取り出した。
︱︱ここまでされたんだ。腹くくるか。
﹁なぁ、クローナ、キスしないか?﹂
﹁え⋮⋮今なんて︱︱﹂
聞き返そうとしたクローナの唇を素早く奪い、キロは椅子から立
ち上がる、
そして、赤い顔のまま呆然としているクローナを放っておいて、
何事もなかったかのように遺物潜りの準備を始めた。
何のことはない、キロは覚悟を決める儀式と共に、クローナに小
さな復讐をしたのだった。
481
第四十九話 別の世界へ
キロは遺物潜りの魔法陣に懐中電灯を置き、発動させる。
すると、懐中電灯が光りだし、見覚えのある黒い長方形の空間が
出現した。
やはり、という顔のキロとは違い、初めて見る怪しげな黒い長方
形の空間に一同は興味深そうな視線を注ぐ。
触れて良い物かどうか悩むように腕を組みながら、受付の男性が
首を傾げる。
﹁これが遺物潜りですか。地味ですね﹂
ストレートな物言いに全員が同意した。
しかし、演出に拘る物でもないだろう。
キロにとって重要なのは、この長方形の空間の先に生まれ故郷が
あるという事なのだから。
キロは懐中電灯を手に取り、鞄に入れる。あくまでも媒体である
ため、もう魔法陣の上に置いておく必要はないのだ。
しかし、キロは長方形に入る前にクローナに視線を移す。
﹁そろそろ、硬直が解けてもいいと思うんだけどな﹂
いきなりキスされたのがよほどの衝撃だったのだろう、クローナ
は完全に行動を停止していた。
﹁もう一回キスすりゃ治るんじゃねぇの?﹂
ゼンドルが無責任に煽るが、キロは首を振る。
482
もう一度キスをしても再起動までの時間が伸びるだけだ。
キロは司祭に向き直り、口を開く。
﹁紙と筆を貰えますか? 向こうの世界に行った時、クローナが俺
とはぐれても大丈夫なように色々と注意事項を書いて渡しておきた
いので﹂
クローナが復活するまでの時間を有効に使おうと、キロは司祭に
頼んで用意してもらう。
司祭が自室から持ってきた紙にキロは自宅の住所と携帯番号を記
す。
他にも日本語で道案内を頼む一文や、公衆電話でキロの携帯電話
にかけてもらえるよう頼む一文を記す。
同じ内容の文章を綴り等が間違いだらけながらも意味が通じない
事もない下手くそな英語で書き上げた時、クローナがようやく動き
出した。
キロを見て顔を真っ赤にしたクローナはあたふたと左右を見回し、
自分でも何をしたいのか分からない様子で視線をさまよわせる。
見かねたティーダが、司祭が入れたお茶をコップに注いでクロー
ナに差し出した。
﹁これで飲んで落ち着きな。キロもキロだよ、雰囲気作りとか考え
ないか、普通﹂
遅ればせながら咎めるティーダに、キロは肩を竦めた後、クロー
ナのコップを指差す。
﹁それ、俺がさっき使ったコップだから、間接キスだな﹂
﹁⋮⋮っ⁉﹂
483
クローナがむせる。
﹁こら、キロ!﹂
ティーダが名前を呼んで叱責するが、キロはクスクス笑いながら
書き上げた紙を片手に立ち上がる。
紙をクローナに渡して、キロは説明する。
﹁向こうの世界では魔法を使うな。それから、今のクローナの格好
はかなり浮くから、じろじろ見られると思うけど、あまり気にしな
くていい。それから、車⋮⋮鉄の塊が走ってるけど︱︱﹂
細々とした注意点を一気に教えて、キロは一息つく。
あらかた説明し終えたかと考えて、キロは一つ思い出した。
﹁最後になるけど、向こうに行ったらまず遺体を探すぞ﹂
﹁遺体?﹂
遺物潜りについて詳しく知らない司祭が怪訝そうに聞き返す。
キロは遺物潜りの媒体が遺品である事、向かう先は持ち主が死ん
だ直後の世界である事を説明する。
司祭を含めた一同は静かに耳を傾けていた。
キロが念の解消で帰還への扉が開かれることに言及すると、得心
が入ったように阿吽が頷く。
﹁帰還する方法を予め探っておくために遺体の状態を見ておこうっ
て事か。殺しだったらどうするんだ?﹂
﹁問題はそれです。俺がいた世界は例え殺人犯でも可能な限り怪我
をさせないようにしないといけない。相手に戦う意思がなかったら、
こっちが攻撃してはいけないなどの法律があるので﹂
484
キロは正当防衛についてのうろ覚えの知識を教える。
クローナが難しい顔をした。
﹁魔法を使わず、無傷で捕えるって事ですか?﹂
﹁動作魔力で体を動かす分には気付かれないと思うけど、火を出し
たり水を出したりするのは避けてくれ﹂
﹁私はほとんど役に立たないじゃないですか。向こうが魔法を使っ
て来たら⋮⋮使えないんでしたっけ。なら、棒術だけでも大丈夫で
しょうか?﹂
キロはクローナの杖を見る。元は木製のシンプルな杖だったが、
今や魔力を蓄積する金属リーフトレージに覆われて、立派な鈍器と
化していた。
キロの槍とは違ってすぐに問題になるとは思えないが、打撃武器
として使えば骨を折る事も出来るだろう。
﹁足を引っ掛けて転ばせるくらいならたぶん大丈夫だと思うけど、
基本的には逃げる方向で考えよう﹂
キロはそう言って、司祭に自分の槍と借りていた翻訳の腕輪を渡
す。
﹁あちらでは刃物の持ち歩きが規制されているので、これは置いて
行きます。それと、腕輪を貸してくれてありがとうございました。
お返しします﹂
司祭は差し出された槍を受け取ったが、翻訳の腕輪は受け取らず
に首を振った。
485
﹁それは餞別にしておこう﹂
﹁良いんですか? 高価な物だって聞いたんですけど﹂
キロはゼンドルとティーダに横眼を投げる。
司祭はにこやかに頷いた。
﹁確かに高価ではあるが、私個人で買える程度の物だからね。大げ
さに捉えなくていいよ﹂
﹁それでは、ありがたくいただきます﹂
キロは礼を言って、腕輪を自分の右腕にはめる。
その時、クローナに左袖を引っ張られた。
顔を向けると、クローナは両手に二つの翻訳の腕輪を持っていた。
﹁必要になるかなって思って買ってきちゃったんですけど⋮⋮﹂
司祭に借りていたクローナとキロの腕輪を返しても大丈夫なよう
に、宿を出た後で買っていたのだろう。
あまりの間の悪さに阿吽が噴き出す。
どうしましょう、という顔でクローナは司祭とキロを見比べる。
司祭は苦笑して、口を開いた。
﹁壊れた時に替えがないと不便だろう、持っていきなさい﹂
クローナはぺこりと司祭に頭を下げて、腕輪を鞄に入れた。
キロはクローナに言い残した事はないか視線で問う。
クローナが大丈夫、と頷いたのを確認して、集まった一同に向き
直った。
﹁いろいろお世話になりました﹂
486
キロは深々と頭を下げ、感謝を表す。
この世界に来てから、胡散臭い自分に良くしてくれた人達だ。
﹁よせよ、湿っぽいだろうが﹂
阿形がキロの背中を叩く。
﹁またこっちに戻ってきたら、お前の世界の話を詳しく聞かせろ。
突拍子もなくていまいち理解できないからさ﹂
ゼンドルが阿形に続いて背中を叩いた。
横目でクローナを窺うと、ティーダや司祭に肩を叩かれていた。
﹁異世界に行くのでは連絡手段がないのも頷けますね。正直、惜し
い人材ですが⋮⋮まぁ、ここに四人いる事ですし⋮⋮﹂
受付の男性が阿吽やゼンドル、ティーダを見て呟いている。
︱︱やっぱり、この人は仕事中毒だな。
キロは苦笑した。
別れのあいさつを済ませ、キロとクローナは黒い長方形の空間の
前に立つ。
﹁それじゃ、行ってきます﹂
﹁行ってきます﹂
はぐれないよう手を繋いで、キロはクローナと共に最後の挨拶を
する。
お元気で、と司祭達それぞれの違う、しかし、同じ意味の言葉を
掛けられつつ、キロ達は別の世界に旅立った。
487
浮遊感も何もなく、あっさりと地面の感触がキロとクローナを出
迎える。
本当に世界を渡ったのか、確証が持てないほど自然な移動だった。
しかし、辺りは真っ暗で、教会の中でない事は明らかだ。
﹁クローナ、いるか?﹂
﹁ここにいますよ﹂
キロが手を少し強く握ると、応えるように強く握り返される感触
があった。
キロは自由な方の手をポケットに入れ、携帯電話を取り出す。
携帯電話を起動すると、聞きなれた電子音と共に画面に明かりが
灯った。
﹁圏外か。まぁ、予想できてたけど。時間は⋮⋮ずれてなければ昼
の三時だな﹂
足元を照らすとむき出しの地面、左右は長く伸びており光が届か
ないが、前後は三メートルほど先に壁があるようだ。
壁に歩み寄り、携帯電話の明かりで照らすと土壁が姿を現す。
﹁洞窟ですか?﹂
クローナがキロに身体を寄せて問う。
﹁そうみたいだ。いきなり海の上とかよりマシだけど、さて、どう
したものかな﹂
488
キロは左右に伸びる洞窟を見て思案する。
耳を澄ましてみるが、人の足音などは聞こえない。
﹁誰にも見られなければ大丈夫だろ。魔法で光を作ってくれ、弱め
で頼む﹂
まずは遺体を見つける事が最優先だと思い、キロはクローナに頼
む。
すぐに魔法の光がクローナの手元に出現した。
照らし出されたのはやはり洞窟だった。
幅は六メートルほど、高さは十メートル近い。左右に伸びる洞窟
の先は見通す事が出来なかった。
かなりの規模のようだが、石筍が見当たらない。削り取られたよ
うに滑らかな地面と壁、天井を見上げても綺麗なアーチを描いてい
る。
﹁人工物?﹂
自然にできたとは思えない洞窟の姿にキロは眉根を寄せる。
︱︱妙だ。
仮に人工物だとすれば、土を露出させておくとは考えにくい。コ
ンクリートなどで補強されるはずだ。
そもそもこの規模の洞窟を何に使うのか、廃坑道だとすると天井
までが高すぎるように感じた。
﹁⋮⋮キロさん、遺体が見当たりませんよ﹂
クローナが不審そうに周囲を見回しながら報告する。
キロも周囲を見回すが、遺体はおろか物一つ落ちていない。
クローナの世界に来た時、媒体である革手袋の持ち主はキアラに
489
よって茂みに運ばれていた事を思い出す。
︱︱遺体を持ち去られた?
キロは動作魔力を練りながら警戒態勢を取る。
﹁クローナ、明かりをもう少し強くしてくれ。ばれても口八丁で何
とかする﹂
犯人が明かりもなしに息を殺してキロ達を窺っている光景を想像
して、キロは視界の確保を優先する。
クローナがキロの言葉に応えて魔法の光を強くした。
暗闇が遠ざけられ、視界が広がる。
広がった視界の端に、人が居た。
真っ白な髪は肩口に切りそろえられ、日に当たった事のなさそう
な白い肌に灰色の瞳、まるで雪で出来ているようだった。
背は低く、キロの胸のあたりまでしかない。首にはフカフカした
毛皮のマフラーらしきモノを巻いている。
﹁⋮⋮男の子?﹂
クローナがポツリと呟き、はっとした様に相手の手元を凝視する。
手に使い込まれた刃渡り三十センチほどの小剣が握られていたの
だ。
﹁︱︱クローナ!﹂
すぐにキロはクローナを背中にかばい、槍を持ってきていない事
を思い出す。
直後、相手は動きだしていた。
トン、と軽い音と共に地面を蹴り、壁を蹴り、素早くキロの横を
取ったのだ。
490
人間離れした動き、しかし、︱︱魔法なら可能な動き。
﹁嘘だろ、ここも異世界なのかよ﹂
驚きに目を見張るキロにむけて、小剣が突きだされた。
491
第四十九話 別の世界へ︵後書き︶
これにて一章終了となります。
一週間ほど書き溜めをしておきたいので、二章、第一話の更新は5
月26日となります。
492
第一話 地図師と尾光イタチ
動作魔力を使って接近された事には驚いたが、キロは冷静に迫る
小剣の軌道を見極めた。
冒険者としていくつかの死線を潜ってきたおかげで身に付いた度
胸が、小剣を直視させる。
キロはすでに練っていた動作魔力で右腕を振るい、小剣を持つ腕
を上に弾いた。
後手に回っても冷静に対処して見せたキロに、今度は相手が驚き、
目を見張る。
その隙を突き、キロは動作魔力を使わずに左手で相手の胸に掌底
を放つ。
慌てたように相手が片腕を胸の前に持ってきて防御姿勢を取った。
しかし、キロは防御に回された相手の腕を取り、今度は動作魔力
を用いて足払いを掛けた。
片腕を上に弾かれ、もう一方の腕は掴まれている状態で足を払わ
れては満足に受け身も取れない。
地面へうつ伏せに倒れ込んだ相手の背にキロは片膝を着き、腕を
抑え込んで動きを封じる。
完全に無力化したとキロが一息ついた時、相手の首に巻かれてい
たマフラーらしきモノがピクリと動いた。
﹁︱︱やれやれ、世話の焼ける奴であるな﹂
マフラーらしきモノからしわがれ声が聞こえてきてキロが訝しん
だ瞬間、マフラーらしきモノが牙を剥いて飛び掛かってきた。
﹁生きてんのかよ!﹂
493
ツッコミを入れつつ、キロは動作魔力を込め、お辞儀の要領でマ
フラーらしきモノに頭突きした。
﹁グッ⋮⋮﹂
マフラーらしきモノがキロの頭突きの直撃を受け、地面を転がる。
獣らしい俊敏な動きで体勢を立て直したマフラーらしきモノは、
イタチのような生き物だった。フカフカした褐色の体毛を持ち、長
く太く発達した尻尾を垂らしている。
再度キロに飛び掛かろうとしたその生き物は、クローナが無慈悲
に尻尾を踏みつけた事でつんのめり、首根っこを押さえつけられて
無力化された。
﹁⋮⋮無念であるな﹂
生き物がしわがれ声で呟いた。
︱︱動物がしゃべるって事は、やっぱり異世界か。
キロはため息を吐いて、クローナを見る。
﹁どうにも状況がつかめないけど、ここは俺が住んでいた世界じゃ
なさそうだ﹂
﹁違うんですか? こんな生き物、私は見たことないですけど﹂
クローナは困惑顔でマフラーに擬態していた生き物を持ち上げる。
首根っこを掴まれて空中に吊り下げられても、生き物はもはや抵
抗しなかった。
しかし、生き物は興味深そうにキロとクローナを見る。
﹁上層の言語か? 先ほどから言葉が聞き取れぬのだが﹂
494
キロはクローナと顔を見合わせる。
キロが腕輪を指差すと、クローナは心得たようにポケットから腕
輪を一つ取り出し、悩んだ末、生き物の首にかける。
﹁動物にも効くかはわかりませんけど、言葉、分かりますか?﹂
クローナが問いかけると、生き物はしげしげと首に掛かった腕輪
を見つめる。
﹁驚きであるな。これが魔法具か。上層の盗賊はかように高価な物
を持っておるのか﹂
﹁盗賊ってあなた達の方でしょう⋮⋮﹂
﹁我らは地図師である。盗賊などではないぞ﹂
生き物の言葉にクローナが困ったように首を傾げる。
どうやら、双方の認識に食い違いがあったらしいと判断して、キ
ロはクローナに声を掛ける。
﹁こっちにも予備の腕輪を貸してくれ。話し合いで解決できそうだ﹂
クローナに軽く放られた腕輪を空中で捕まえて、キロは襲いかか
ってきた足元の相手を見る。
捕まえていた手に腕輪を握らせ、キロは声を掛けた。
﹁これで言葉が通じるようになったはずだけど、分かるか?﹂
言葉が理解できたのだろう、驚きに目を見開く相手の反応に満足
して、キロは問う。
495
﹁なんでいきなり襲いかかってきたのか、教えてくれ。それと、こ
の辺りで死体を見なかったか?﹂
懐中電灯の持ち主の死体を見て、近くにいたキロ達を犯人だと勘
違いしている可能性を踏まえて問いかける。
次いでとばかり、キロは続けて質問した。
﹁後、なんで男装してるの?﹂
白髪の男装少女はこれまでにないほど大きく目を見開いた。
﹁な、なんで分かった?﹂
﹁仕草とか、顔のつくりとか、むしろなんで騙し通せると思ったん
だよ。ばればれだったぞ﹂
そうだろ、とキロはクローナに同意を求めるが、男装をしている
と初めて気づいたのか、クローナは白髪の少女をまじまじと見つめ
ていた。
クローナにぶら下げられている生き物がクスクスと笑いながら、
キロに話しかける。
﹁ミュトの男装を一目で見抜くとは中々の観察眼だな。下手くそな
男装だと我も思うが、一目で見破った者はお前が初めてだ﹂
キロは生き物の言葉を聞き、ミュトという名前らしい少女を見る。
﹁で、質問の答えは?﹂
キロが促すと、ミュトは渋々と言った様子で口を開く。
496
﹁明かりも持たずにこんなところにいる時点で、盗賊としか思えな
い。死体とやらも見てないよ﹂
キロは少女が現れた方向を見て、クローナに照らしてもらえるよ
う頼む。
クローナが魔法の光で照らすと、何もない一本道が続いていた。
続いて逆方向を照らしてみるが、こちらにも何一つ落ちていない。
﹁死体がない。参ったな⋮⋮﹂
キロが頭を掻くと、ミュトが怪訝そうに眉根を寄せる。
﹁なんで死体なんか探してるの?﹂
﹁色々と事情があってね。俺はキロ、向こうはクローナだ。よろし
く﹂
﹁地面に抑えつけておいてよろしくってどういう神経してるの?﹂
﹁まともな神経してたら、突然襲い掛かってきた相手をすぐに解放
したりはしないだろ﹂
すぐに言い返すと、ミュトは舌打ちした。
キロは苦笑しつつ、口を開く。
﹁とりあえず、誤解を解きたいんだけど、何か聞きたい事はないか
?﹂
キロが質問を促すと、ミュトは怪しむように目を細める。
﹁あんたらが何者で、ここで何をしてるのか。それになんで明かり
を持っていないの︱︱﹂
﹁ミュトよ﹂
497
唐突に、ミュトの言葉をクローナにぶら下げられたままの生き物
が遮った。
﹁我の自己紹介がまだである﹂
抗議の意味があるのか、尻尾を一振りして生き物は言葉を続けた。
﹁我が名はガロン・ゴラン・ギレン・ゲリン・グールーン三世、由
緒正しき五つ名持ちの尾光イタチである。敬意を込めて呼ぶがいい、
人間ども。覚えの悪いお前達にもう一度名乗ろう、我が名は︱︱﹂
﹁フカフカでいい﹂
今度はミュトが生き物、フカフカの言葉を遮った。
フカフカが抗議を込めて尻尾を振り回す。
﹁その名で呼ぶなと何度言えば分かるのだ!﹂
﹁フカフカ、本名より呼びやすいな﹂
﹁名は体を表すって奴ですね﹂
振り回される尻尾を捕まえて感触を確かめながら、クローナが呟
く。
﹁おい、尻尾は触るでない。手入れが大変なのだ﹂
﹁あ、すみません。さわり心地が良くって、つい﹂
フカフカに抗議されて、クローナが慌てて尻尾から手を離す。
毛足の長い尻尾はキロから見てもさわり心地が良さそうだった。
足元のミュトから、ため息が聞こえる。
498
﹁フカフカは尾光イタチで、魔力食動物。ついでに、全生物中で最
大光量を誇る発光生物でもある。一応、ボクのパートナー﹂
フカフカとクローナのやり取りに毒気を抜かれたのか、疲れたよ
うな声でミュトが紹介する。
キロはミュトに同情しつつ、彼女の質問に答えるべく口を開く。
﹁信じられるとは思わないけど、俺達は異世界から来たんだ﹂
﹁馬鹿にしてるの?﹂
﹁まぁ、そう思うよな、普通﹂
とても正常な反応に、キロは思わず苦笑した。
しかし、ミュトが続けた言葉にキロは苦笑を収める事になる。
﹁︱︱空のある場所から来たと言われた方がまだ信じられる﹂
ミュトが鼻で笑うように言った台詞に、キロはクローナと顔を見
合わせた。
互いの顔に同じ疑問が浮かんでいた。
すなわち、この世界には空がないのか、と。
﹁⋮⋮おい、ミュトよ、こやつ等﹂
﹁あぁ、どうやら空を知っているみたいだね﹂
フカフカとミュトが短く言葉を交わす。
キロがミュトに視線を転じれば、飛び切りの宝物を前にした探検
家のような輝きを灰色の瞳に宿し、キロを見上げていた。
鎌を掛けられていたのだと、いまさら気付く。
ミュトはキロを見上げ、してやったりと言いたげに笑みを浮かべ
る。
499
﹁さぁ、空がどこにあるか答えてもらうよ﹂
絶対に逃がさない、という強い意志が窺える瞳でキロを見据えて、
ミュトが言う。
﹁上だろ。ここがどこだか知らないけど、地上に出ればあるんじゃ
ないか?﹂
キロが天井を指差してあっさりと答えると、ミュトは拍子抜けし
た様に何度も瞬きする。
﹁⋮⋮えっと、聞いておいてなんだけど、そんなに簡単に教えて良
いものなの?﹂
恐る恐る、嘘を吐いているんじゃないのか、と疑うような色を滲
ませてミュトが聞いてくる。
それに対し、キロはクローナと共に肩を竦めた。
﹁この世界ではどうだか知らないけど、俺達はついさっきまで空の
下、太陽に照らされながら生きてきたんだ。別に隠すような事じゃ
ないんだ、けど⋮⋮?﹂
キロの言葉に、今度は呆気にとられて口を半開きにするミュトを
見て、キロはまずい事を言ったのかと言葉の半ばで口を閉ざす。
ミュトの反応に戸惑って、キロはクローナに捕まっているフカフ
カに視線を移す。
キロの視線を受けて、フカフカがため息交じりに答えた。
﹁我らは最下層より空を求めて旅をしてきた者だ。ミュトが女だて
500
らに地図師になったのも、世界中の地図を閲覧できれば空の在処が
分かるかもしれないという期待からなのだ。それをついさっきまで
見ていたなどと言われてはなぁ﹂
︱︱マジでこの世界は空がないのかよ。
キロは口元が引き攣らせつつミュトを見ると、彼女の灰色の瞳と
視線がぶつかった。
日焼けを知らなそうな純白の肌と色素のない白髪を見て、キロは
理解する。
﹁もしかして、俺達の髪と瞳に色があるから、空を知っていると思
ったのか?﹂
﹁そ、そうだよ。昔話にはいろいろな髪と瞳を持つ人が居たって書
いてあったから⋮⋮﹂
未だ動揺から立ち直れないのか、ミュトが困惑気味に答えた。
︱︱洞窟での生活に適応して人から色素が抜けてるのか。
ミュトの言葉からキロは推察する。
この世界の人間は適応するほどの長い時間、空から隔絶した歴史
を歩んでいる事になる。
︱︱くる病とかどうなってるんだ?
キロは疑問に思うが、フカフカを見て、発光生物などが太陽光の
代わりをしているのだろうと見当をつける。
なんとなく気まずい空気が流れる。
﹁なぁ、とりあえずこんなところで話し込むのもなんだし、近くの
街とかに行かないか?﹂
キロが提案すると、ミュトが小さく頷きを返した。
501
第二話 地図の更新任務
ミュトに案内されるまま、キロとクローナは洞窟を歩く。
ミュトの首︱︱定位置らしい︱︱にマフラーよろしく巻き付いて
いるフカフカの尻尾が発光しており、足元と周囲を照らしてくれて
いる。
フカフカの尻尾が放つ光はかなり強く、本を読む事さえできそう
だ。
生物が自然に発するにしては強すぎる光だが、どうやら魔法の一
種らしい。
尾光イタチに特有の魔法であるとの事で、地図師をするミュトは
重宝しているようだ。
﹁それが地図なのか?﹂
ミュトが片手に持っている紙を指差して、キロは訊く。
フカフカがミュトの代わりに答えた。
﹁中層から上層までの地図である。今はミュトが更新任務中だ﹂
﹁更新?﹂
﹁本当に何も知らないのだな﹂
呆れ交じりに言って、フカフカは尻尾で器用に壁を照らす。
﹁よく見てみるがよい。苔は生えておらず、虫が開けた穴もほとん
どない。ここは新たに掘削型魔物が開けた洞窟道だ﹂
﹁こんな大穴あける魔物が潜んでるのかよ⋮⋮﹂
502
ぞっとしてキロが呟くと、ミュトが頷いた。
﹁ここは上層だからね。下層に行くほど地盤が固くなって、掘削型
魔物は小さくなっていく。逆もまたしかり、というわけ﹂
ミュトは地図をキロの前で左右に振る。
﹁ボクら地図師の仕事は日々移り変わる各地の洞窟道を記録し、更
新する事。落盤、水没、毒ガスの発生、洞窟道は簡単に使用できな
くなるし、この道みたいに新たな洞窟道が作られることもある﹂
仕事の説明をしながら、ミュトが地図に何かを書き込んだ。
キロはちらりと地図を見せてもらうが、どのように読むのかさっ
ぱりわからなかった。
辛うじて等高線らしきものと街の配置だけは読み取れるが、道の
どことどこが繋がっているのかはさっぱりだ。
︱︱高さの基準値が分からないと読めないな、この地図。
キロは立体迷路を脳裏に浮かべる。
クローナもミュトの横から地図を覗き込み、感心したような声を
出す。
﹁測量器具も使わずにこんな複雑な地図が描けるんですか?﹂
﹁養成校を出ているからね。距離や角度を正確に目視するのは地図
師の必須技能なのさ﹂
少し自信ありげに平たい胸を反らすミュト。
事実なら確かに凄い技能である。
おぉ、と感嘆の声を挙げながら、クローナが拍手する。
﹁魔物に襲われても、ずっと地図の事を考えながら戦わないといけ
503
ないんですね。私一人だと無理そうです﹂
クローナが更に持ち上げたが、ミュトの自信が途端にしぼんだの
が表情から分かった。
予想外の反応にクローナが困惑し、理由を問うような視線をフカ
フカに向ける。
フカフカは欠伸交じりに口を開く。
﹁本来、地図師は荷物持ち兼戦闘員として護衛を数人、連れて歩く
のだ。だが、ミュトは女だからな。暗がりばかりの洞窟道を男連れ
というわけにもいくまいよ﹂
﹁なるほど﹂
﹁なるほど、は良いけど、クローナは何で俺を見るんだ? 襲った
事なんか一度もないだろ﹂
﹁無理やりキスしたじゃないですか!﹂
﹁大変柔らかかったです﹂
キロは肩を竦めつつ、おどけて返した。
真っ赤な顔で二の句が継げなくなっているクローナを放っておい
て、キロはフカフカを見る。
﹁女の護衛はいないのか?﹂
﹁もちろんいる。さっき我が話したのは単なる建前だからな﹂
﹁こら、フカフカ!﹂
建前、という単語に顔色を変えたミュトがフカフカの口を塞ごう
とする。
しかし、すでにフカフカはミュトの首からキロの肩へ飛び移って
いた。
504
﹁やっぱり、他に理由があるのか﹂
ミュトの自信がしぼんだ事から察しが付いていたキロは、フカフ
カを見る。
﹁うむ、やはりなかなかの観察眼であるな。さよう、本当の理由は
単純だ。ミュトは人との付き合いが苦手なのだ。養成校時代も、グ
ループをあちこち渡るうちに孤立してな﹂
﹁あぁ、いるなぁ、そういう奴。あぶれた奴だけで少数グループ作
ったりするんだよな﹂
キロは小中高と歩んできた学校時代を振り返り、感慨深く頷く。
だが、まだミュトの自信がしぼんだ理由がよく分からなかった。
﹁もしかして、孤立したまま養成校を卒業したのか?﹂
キロが問うと、ミュトは唇を尖らせて小さく頷いた。
フカフカがため息を吐く。
﹁こやつときたら、他人と衝突する気配を少しでも感じるとグルー
プを逃げ出すのだ﹂
フカフカによれば、グループ内で些細な衝突が起こる寸前、ミュ
トは決まってグループを抜け出していた。
少しでも居心地が悪くなるとグループを抜け出していたためだが、
ミュトは段々と疫病神のように見なされ始める。
肝心な時にいない薄情者は、外部の敵として設定しやすかったの
だろう。
悪い噂はあっという間に広まり、地図師養成校でささやかれ、後
ろ指を指され始める。
505
噂は卒業した同期から護衛へも回りだし、孤立は今でも続いてい
る、との事だった。
同情する要素はあるが、グループへの帰属意識が低い人間と命を
掛けた仕事ができないという考えには頷けるところがある。
ミュトとフカフカも自覚があり、改善しようと試みてきたが⋮⋮。
﹁時すでに遅くてな。修復不可能な状態である﹂
﹁フカフカ、あんまり余計な事を言わないで﹂
キロの肩に手を伸ばしたミュトはフカフカを捕まえ、自身の肩に
乗せる。
イタチにしては長い尻尾を舐めて毛繕いをしながら、フカフカは
鼻を鳴らす。
﹁先に我らから聞いておいた方がよかろう。こやつらの言葉が事実
なら、生計を立てる必要が出てくるはずだ。そうであろう?﹂
フカフカに水を向けられ、キロは頷く。クローナの方はとみてみ
れば、いまさら考えに至ったようにはっとした表情で手持ちの硬貨
を出し始めた。
キロは呆れてクローナを止める。
﹁この世界で通用する貨幣じゃないだろ﹂
﹁⋮⋮どうしましょう?﹂
クローナが困り顔でいい案はないかと問うようにミュトを見る。
ミュトは視線を逸らしかけたが、フカフカに軽く頭突きされた。
﹁こやつらの腕が立つのは経験済みであろう。良い機会だ、雇って
しまえ﹂
506
フカフカがミュトに発破を掛ける様子を見ながら、キロは頬を掻
く。
﹁俺もクローナも、怪しい人間だと思うんだけど、そんな簡単に雇
っていいのか?﹂
﹁それに、あまり強くないですよ?﹂
キロの意見にクローナが上乗せすると、フカフカとミュトが驚い
たような視線を向けてきた。
そんなに驚くような事だろうか、とキロはクローナと顔を見合わ
せて首をかしげる。
キロ達の反応にフカフカが半眼を向けてきた。
﹁ミュトは最下層からここ、上層までやってきた生粋の叩き上げな
のだぞ。加えて、我の奇襲もあったというのに、キロはあっさり無
力化して見せたではないか。十分に上層で通用する腕前である。誇
ってよい﹂
フカフカにお墨付きをもらい、キロはどうしたものかと考える。
他に金策の当てはなく、クローナがいた世界に帰ろうにも懐中電
灯には一切の反応がない。
持ち主の遺体すら発見していない現状では、帰り方も見当がつか
ない。
革手袋を媒体にクローナの世界に帰る事は可能だが、時間軸の問
題がある。クローナと出会う前の世界に戻って、キロとクローナが
同じ世界に二人ずつ存在してしまうのだ。
タイムパラドクスを起こさないようにするためには、必然的に冒
険者としての活動も制限される。
また、革手袋を媒体にして二重に遺物潜りを起動してしまうと、
507
出発地点がキロの住んでいた元の世界から、このミュトがいる地下
世界に書き換えられてしまう。
懐中電灯が空振りに終わった今、革手袋は元の世界に帰るための
唯一のカギだ。失いたくはなかった。
﹁分かった。戦闘員の仕事、受けてもいい﹂
あれこれと考えたキロは、当面の生活費を稼ぐ手段としてフカフ
カの話に乗る事を決める。
キロの決定にクローナは異を唱えなかったが、思案顔で口を開く。
﹁でも、キロさん、いまは槍を持ってませんよね。買わないといけ
ませんか?﹂
買うにもお金がありませんけど、とクローナは付け加えながら苦
笑する。
﹁中古品でよいならミュトが買ってやろう﹂
﹁フカフカ、また勝手に!﹂
甲斐性なしのフカフカが支払いをミュトに任せつつ提案する。
ミュトが抗議するが、フカフカは鼻で笑って棄却する。
﹁今までにも何度か危険な目に遭ったが、仲間がいれば簡単に切り
抜けられたものばかりだ。こやつらには生活の手立てがなく、我ら
はそれを提供する側。人付き合いの苦手なミュトにお似合いの関係
ではないか。それに、我は空を見る前にミュトと心中する気はない
ぞ﹂
﹁⋮⋮僕だってフカフカと心中する気なんかない﹂
﹁決まりだな。キロ、クローナ、よろしく頼むぞ﹂
508
フカフカが既成事実を作りにかかったのを察して、キロはミュト
を窺う。
不服そうに唇を尖らせるミュトの表情の裏にある僅かな期待を見
逃さず、キロはクローナ共々頷いた。
﹁よろしく、ミュト、フカフカ﹂
﹁よろしくお願いします﹂
キロとクローナが挨拶すると、フカフカを加えた三対の瞳がミュ
トに向けられる。
﹁よ、よろしく﹂
ミュトは視線を逸らしつつ、ぼそりと呟いた。
509
第三話 嫌われ者
︱︱地底都市ってこうなるのか。
ミュトの案内でたどり着いた街の威容にキロは舌を巻く。
ドーム状の広大な空間に石の建物が乱立していた。天井に届く太
い石柱の中をくりぬいて住居にしたものも見受けられる。
レンガ作りの建物は少ない。ほとんどが切り出した石を隙間なく
積み上げて作られている。窓ガラスはなく、網目状にくり抜かれた
鍾乳石が窓代わりのようだ。
どの家も小さくこじんまりとしていて、庭は存在しない。屋根の
上に雪が積もる心配のない環境だけあって、平屋根が多い。
細い道の両脇には街灯が並んでいる。光っているのは灯火ではな
く、羽虫のようだった。
街灯の整備中なのか、餌らしき葉っぱと土を街灯に入れている作
業着姿の女がいる。
足元に視線を落とす。
むき出しの地面ではあるが、規則的に細く深い溝が掘られている。
少し湿っていても足を滑らせずに済んでいる理由だろう。
独特の町並みはキロに新鮮味と異世界に来た実感を与えてくれた。
道行く人々は皆ミュトと同じ白髪だった。瞳の色は赤が多く、青
色もちらほら見受けられる。全体的に色素が薄いのだ。
しかし、ミュトと同じ灰色の瞳はあまり見かけない。
︱︱ミュトの色が色素量の上限か。
クローナもキロと同じく物珍しそうに街の様子を観察していた。
﹁⋮⋮この街並み、オークションで落札したランプシェードの影絵
とそっくりだと思いませんか?﹂
510
クローナがキロに視線を向けずに意見を聞く。
丁度キロも同じ感想を抱いたところだった。
﹁細部は違うけど、この世界の街がみんなこんな建築様式なら、ど
こかにあの影絵の景色があるかもしれないな﹂
キロがクローナに言葉を返す。
すると、会話を聞きつけたフカフカが口を挟んできた。
﹁お前達が見たのは工芸品の類であろうな。街並みを影絵で再現す
る美術品は何処の町でも売られておる﹂
噂をすれば影という事か、キロは道の端に出ている雑貨屋の店頭
にランプシェードを見つけた。しかし、製作者の腕の違いか、街並
みの再現度は低いように思える。
改めて街のあちこちを見てみれば、看板の類にも影絵が使われて
いた。
もともと色に対する興味がないのか、それとも塗料が手に入らな
いのか、建物や道は自然そのままの色合いで、素朴な印象を受ける。
通りを行く人が着ている服もかなり地味か暗めの色で、髪や肌の
白さが際立っていた。
異世界である事を加味しても、独特の文化を形成しているように
見えた。
キロとクローナの服装はあまり華美ではないものの、帯やボタン
の色合いだけで人目を引いている。
特に、クローナの髪飾りと杖はかなり注目されていた。
キロはミュトに視線を向け、質問する。
﹁こんな場所だと火を起こしたりはできないよな。料理とかどうし
てるんだ?﹂
511
﹁専用の構造をした建物を持っている料理屋だけが火を使える。で
も、基本的にはサラダとか干し肉を食べているよ。後は燻製都市か
ら輸入した食べ物﹂
街では一酸化炭素中毒の危険性から、火気厳禁らしい。
ちなみに、とミュトはつけ加える。
﹁さっきまで歩いていた洞窟道でなら、小さな火を使っても大丈夫
だよ﹂
キロはミュトの説明に納得して、クローナに声を掛ける。
﹁注目されてるのは髪飾りそのものじゃなく、モザイクガラスの方
だ。もっと言えば、ガラスだ﹂
﹁ガラス、ですか?﹂
キロの指摘の意味が分からない様子で、クローナが首を傾げる。
キロは頭を掻き、ミュトに確認を取る。
﹁ミュト、この世界ってガラスやレンガ、金属製品の扱いってどう
なってる? 高級品じゃないのか?﹂
キロの質問に対し、ミュトは怪訝な顔をしつつ頷いた。
﹁当たり前だよ。職人都市でしか作られてないんだから。僕の小剣
だって金属製のこれを買うまでどれだけかかったか﹂
やはり、とキロはため息を吐く。
どれも製造に火を必要とする品々であるため、閉鎖空間に住むこ
の世界では高級品になるのだ。
512
ガラスが使われているクローナの髪飾りやリーフトレージの金属
板で補強された杖がこの世界では立派な財産となる。
﹁盗まれないように注意しておけよ﹂
﹁売れとは言わないんですね﹂
﹁大事にしてる事くらい知ってるからな﹂
言いながら、キロは長らく使っていなかった財布を取り出す。
日本にいた頃に使用していたその財布から、キロは千円札を取り
出した。
﹁羊皮紙じゃない、植物繊維の紙はどうなんだ?﹂
千円札を差し出して質問すると、ミュトはまじまじと千円札を見
つめる。
﹁あるにはあるけどかなり高価な物だよ。それ以前に、この絵⋮⋮﹂
﹁なんですか、この絵⋮⋮﹂
ミュトの驚き様に興味を惹かれたクローナが千円札を覗き込み、
絶句する。
キロは一瞬首を傾げたが、すぐ理由に思い至った。
紙に描かれた絵というだけで、地下世界では高価な美術品だ。
加えて、紙幣に印刷されている絵は政府に認められるほどの腕前
を持つ彫師によるもの。その技術は国内随一、名実ともに日本最高
峰の天才による作品となる。
偽造防止のための複雑な透かしまで入っているのだから、版画を
見た事のあるクローナが絶句するのも頷ける。
あまりにも身近すぎて気付かなかったが、キロが持っている紙幣
はどれも異世界では美術的な価値を持っているのだ。
513
いまさらながらその事実に思い至り、キロは唯一動じていないフ
カフカに問う。
﹁この紙で槍が買えると思うか?﹂
﹁間違いなく、な。交渉は我がやってやろう﹂
﹁任せた。これでしばらくは凌げそうだな﹂
思わぬ臨時収入に感謝しつつ、キロは財布を覗いて悩む。
︱︱猫であるの人にしようか細菌学者にしようか。
いまいち何をやったか知らない細菌学者にしようとキロは決めて、
財布から一枚抜き取った。
﹁本当に良いのか? しかるべきところで売れば家が建つやも知れ
んぞ?﹂
﹁まだ何枚かあるからな﹂
﹁⋮⋮お前のいた世界は物々交換が主流なのか﹂
フカフカの感想にキロは肩を竦めてはぐらかした。
話がまとまった事を察したのか、ミュトは少し考えた後で道の先
を指差した。
﹁この先に地図師協会の建物があるはずだから、街の地図を貰おう。
武器を買いに行くのはその後でいいかな?﹂
﹁地図師の仲間になるには登録とか必要じゃないのか?﹂
登録が必要なら装備を整えてからの方が円滑に進むと思い、キロ
は質問する。
﹁必要だけど、多分、槍を持っていくより手ぶらの方がいいと思う
よ﹂
514
﹁細いですから、魔法使いに見せかけようって魂胆ですね﹂
ミュトがわざわざ言葉を選んだというのに、クローナが努力を無
に帰す。
キロの様子をちらりと疑った後、ミュトが戸惑いがちにクローナ
を見た。
ミュトの反応にキロは内心ため息を吐く。
︱︱衝突が苦手、か。なるほどね。
おそらく、ミュトが衝突を苦手とする理由は解消する方法を知ら
ないからなのだろう、とキロは判断する。
さらに、衝突を避け続けていたために場を収める経験が足りず、
苦手意識が肥大化していく負のスパイラルも起こしている。
気を使い、人の顔色を窺い、遠慮しながら生きてきたキロとして
は親近感を抱くところである。
クローナの発言は単なる軽口で、この程度はじゃれているだけだ
と見せなければ、ミュトは今までと同じように逃げだすのだろう。
キロの出方を窺うようなフカフカの視線を感じつつ、口を開く。
﹁鍛えてみようか?﹂
﹁いえ、キロさんは今のままの方がバランスとれてますし、抱き着
いた時もいい感じで⋮⋮﹂
シールズとの戦闘中、土のドームの中で抱き着いた時の事を思い
出して言いかけたクローナは、自分の話している内容の際どさに気
付いて赤面する。
キロはクスクスと笑いながら、追い打ちをかけた。
﹁クローナのために頑張ってみようかと思ったんだけど、今のまま
が良いならやめておくよ﹂
﹁そ、そうしてください﹂
515
羞恥なのか照れなのか、クローナは曖昧に笑いつつ赤面した顔を
俯かせる。
成り行きを窺っていたミュトが小さくほっと息を吐く。同じくや
り取りを聞いていたフカフカは、これくらいできなくては困る、と
言いたげに鼻を鳴らした。
たどり着いた地図師協会の建物は入り口にレンガがあしらわれた
建物だった。
協会の建物は一目で判るよう入り口にレンガが使われるらしい。
ミュトと共に建物に入ると、図書館のように立派な本棚の列が出
迎える。革装丁の本はどれもこの辺りの地図であるらしく、描かれ
た年代が背表紙に記されている。
﹁この辺りだと、一番古い地図は喪失歴七千年頃かな﹂
﹁七千年⋮⋮﹂
途方もない歴史を誇る暦にキロはクローナ共々呆気にとられる。
﹁ちなみに、今は何年?﹂
﹁喪失歴八千五百年、春の二番月三十日だね﹂
この町が出来てからおおよそ千五百年が経過している計算になる。
恐々と建物を見回すクローナにミュトが微笑む。
﹁ちゃんと定期的に建て替えてるから、倒壊する心配はないよ﹂
キロは地図師の歴史であり資料でもある本棚の地図を眺めながら、
ミュトに問う。
516
﹁職員はいないのか?﹂
﹁奥の方にいるはず。だけど、ボクは先に最新の地図を見て、ボク
の描いてきた地図との違いを説明できるようにしておかないといけ
ないから、その⋮⋮少し待っていてくれるかな?﹂
︱︱他人に頼み事する事にも慣れていないのか。
キロは内心苦笑する。
頼み事は断られても断っても気まずさが残るものだ。ある程度関
係が進めばどうという事もないのだが、ミュトはそこまで親密な付
き合いをする前に逃げだしてきたのだろう。
﹁分かった。待ってる︱︱﹂
答えを最後まで言う前に、キロは後ろから肩を叩かれる。
振り返ると、眉間に傷のある大男が険しい顔で睨んでいた。
騒がしくし過ぎただろうかと思い、謝ろうとするキロを押し留め
るように大男はミュトに向けて顎をしゃくる。
﹁灰眼で尾光イタチを連れてる小男、そいつミュトって疫病神だろ。
一緒に仕事するのはやめとけ。背中を預けられる奴と組んだ方が良
いぞ﹂
キロはクローナと顔を見合わせ、大男がミュトを指して言ってい
る事を確かめる。
ミュトが大男の言葉を無視して本棚の地図に手を伸ばした。
関わらないように無視し、去る者は追わずの体勢を作っているの
だ。
キロは大男に向き直り言葉を返そうとしたが、先にクローナが言
い返していた。
517
﹁自分の背中を預ける相手くらい自分で決めます﹂
クローナが腰に手を当てて言い放ち、舌を出す。
言葉が分からずともおおよその意味を察したのか、大男は舌打ち
を一つ残して去って行った。
キロは大男を見送りつつ、呟く。
﹁⋮⋮噂って怖いな﹂
﹁なまじ、命をかけている分、他人の評価には敏感なのだ。あれも
身を守る術であろうよ﹂
フカフカがキロに答え、尻尾を揺らした。
518
第四話 ミュトの逃げ癖
資料を確かめたミュトが地図を片手に建物の奥を目指す。
キロ達はその後ろをついて歩くが、建物内のあちこちから視線を
感じた。
︱︱有名人だな、とか茶化すと不味いよなぁ。
どうやら、ミュトの顔を知っている者は少ないようだが、灰色の
瞳と尾光イタチの組み合わせで警戒されているらしい。
﹁尾光イタチって珍しいのか?﹂
﹁人と行動を共にする者は少ないぞ。何せ我らは貴様ら人間に協力
してやっている立場だからな﹂
偉そうに鼻を鳴らしてフカフカが答える。
しかし、ミュトが呆れ交じりに口を挟んだ。
﹁尾光イタチは魔力食動物、つまり魔力を食べないと生きられない。
人間とは魔力と光を交換する協力関係だから、どちらが上という事
もないよ。でも、数が少ないのは事実﹂
ミュトの言葉を聞き、クローナが向けられる視線を気にしながら
口を開く。
﹁珍しい尾光イタチを連れているから、ミュトさんが個人特定され
ているわけですね﹂
﹁そういう事であるな。だが、この世話の焼ける娘を放っておけん
のだ﹂
519
一人娘を思う父親のような台詞を口にするフカフカに、ミュトが
ため息を吐く。
﹁よく言うよ。ボクの魔力が美味しいからついて来てるだけの癖に﹂
フカフカが逃げるように自らの尻尾で顔を隠した。
﹁仕方なかろう。ミュトの魔力は病み付きになるのだ﹂
﹁⋮⋮良い話風だったのに、台無しだな﹂
キロとクローナが半眼を向けるが、フカフカは顔を隠したままだ
った。
視線でフカフカをなじりつつ協会の奥に赴くと、石に刻まれた巨
大な街の地図とその下に作られた受付カウンターがあった。
灰色がかった石作りの机に向かう石製の椅子には動物の革らしき
ものが張ってある。
受付に座るのはメガネを掛けたキツネ顔の若い女だ。
複数の地図を纏める編纂作業中らしく、細長い机の上に所狭しと
羊皮紙が並べられ、中央の石灰岩に何かを描いている。
︱︱美大に行った奴が同じ事やってたな。リトグラフって言った
っけ。
版画技法のひとつだが、木板が乏しいこの世界では石を使うリト
グラフが一般的なのだろう。
クローナは何をしているのか分からないらしく、しきりに首を傾
げている。
キロも説明できるほど詳しくはないので黙っておいた。
絵の具や固着剤は受付の後ろにある作業台に置かれていた。
受付の前に立つと、若い女はミュトを一瞥する。
﹁⋮⋮なんでミュトが上層にいるのよ﹂
520
若い女は石灰岩の板を持ち上げて作業台に移動させながら、はっ
きりと呟いた。
侮蔑混じりのその声にキロはクローナと共に眉根を寄せる。
︱︱ミュトの知り合いなのか?
﹁クローナ、いま食って掛かると逆効果だ﹂
仲間思いのクローナが暴走しないよう、キロは釘を刺す。
﹁分かってますよ﹂
クローナが頬を膨らませてそっぽを向いた。
キロは取り繕うように愛想笑いを浮かべて受付の若い女を見る。
聞き覚えのない言語を操るキロとクローナに怪訝な顔をした受付
の若い女は、すぐに合点が入ったように嫌味な顔をしてミュトを見
た。
﹁言葉が通じなければ騙せるってわけね。卑怯なミュト﹂
キロでさえ不快感を覚える言葉だったが、言われたミュトは気に
した様子もなく地図を差し出した。
﹁中層から上層まで間層を含めた地図﹂
マフラー代わりのフカフカに顎を埋め、ミュトは声をくぐもらせ
て地図の説明をする。
﹁上層探索の認可を貰いに来た﹂
﹁あぁ、上層級昇格任務中って事ね。 それにしても随分早いけど、
521
どんなズルしたの? 他の地図師から成果をパクった? その地図
も本当にあんたが描いたか怪しいもんだわ﹂
根拠もなく疑義を吹っ掛ける受付の若い女を止める者はいない。
段々とキロも愛想笑いを浮かべていられなくなるが、怒りだして
は相手の思うつぼだ、と感情を押さえつける。
﹁認可を﹂
ミュトは淡々と繰り返す。
面白くなさそうな顔で受付の若い女は腕を組み、ミュトを睨んだ。
続いてキロとクローナを見たかと思うと、上から下まで不躾な視
線で観察する。
﹁認可って言われてもさ。実力がない奴を上層で活動させるわけが
ないって、ミュトみたいな馬鹿でも分かるでしょう?﹂
﹁実力を証明するための昇格任務。達成もしてる﹂
ミュトは地図を突き出すが、受付の若い女は地図を軽く手で払い
のける。
﹁地図ぐらい最下層の駆け出し連中でも描けるわよ。わたしが言っ
てんのは戦闘能力よ、落ちこぼれ﹂
受付の若い女は虫でも払うように手を振り、馬鹿にしたように笑
う。
﹁ミュトの特殊魔力は知ってるよ? 確かに凄い防御力だわ。でも、
攻撃力は皆無よね。後ろの魔法使い二人も若すぎて頼りないし、戦
闘力が足りないから認可は出せないわ。はい、ネズミよろしく中層
522
に戻って逃げ惑ってなさい﹂
﹁︱︱小娘、いい加減にしろ﹂
しわがれ声が若い女の言葉を遮る。
声の主、フカフカがマフラーの擬態を解いてミュトの肩に移動し
た。
﹁先ほどから聞いておれば頭の悪い戯言ばかり並べおって、はっき
り物を言う事も出来ぬほど語彙が少ないのか。お前の戯言を我が要
約してやろう﹂
心して聞け、とフカフカは鼻を鳴らし言い切る。
﹁相手の力量も分からぬ愚か者ゆえ、目利きの出来るまともな職員
とお話ください、ほれ、言ってみるがよい。一度では覚えきれんか
?﹂
不機嫌に尻尾を揺らすフカフカの首根っこを、キロは後ろから掴
む。
﹁そこまでだ。まとまる話もまとまらなくなるだろ﹂
︱︱おかげですっきりしたけど。
内心はおくびにも出さず、キロはフカフカをクローナに預ける。
ついでにフカフカの首輪代わりにしていた腕輪を返してもらい、
受付の若い女に向き直った。
腕輪を差し出し、自分の腕に嵌っている腕輪と同じものである事
を示す。
﹁⋮⋮こんな腕輪をどうしろと﹂
523
怪訝な顔をする受付が腕輪に触れた瞬間、キロは声を掛ける。
﹁気持ちよくストレス解消している所をうちの獣が邪魔してごめん
ね﹂
にこやかに皮肉をぶつけたキロは、絶句している受付に続ける。
﹁正直、俺達も自分がどれくらいやれるのか分からなくてさ。腕試
しがてら試験してもらえないかな。内容はそっちで決めていいよ。
いやぁ、目利きの出来る優秀な受付さんを疑うわけじゃないんだけ
どね﹂
皮肉を織り交ぜながら捲し立てたキロは、試験内容を問うように
首を傾げる。
キロは柄にもなく怒っていた。
仲間同士の衝突を事前に察知していながら、それを解消しようと
せずにグループを抜け、我関せずを決め込んでいたミュトは確かに
悪い。
だが、それはそれ、これはこれ、だ。
﹁独断と偏見で人の努力を笑うなよ﹂
キロは受付に顔を近づけて小さく囁いた。
受付の若い女はむっとした顔をして、キロとミュトを見比べる。
﹁分かったわ。ずいぶん自信があるようだから、お望み通り試して
あげるわよ﹂
挑発的に口元を歪めて、机の上から一枚の地図を取り上げる。
524
﹁一昨年に見つかった守魔が潜む広間の調査よ﹂
︱︱守魔?
用語が分からないキロはミュトにちらりと視線を向ける。
ミュトの肩からキロの肩へ、フカフカが飛び移り、耳元で小さく
説明する。
﹁村や町の建設が可能なほど広い洞を縄張りにする魔物の総称であ
る。いずれも体が大きく、周辺に比肩する者のない強力な個体だ。
この娘、条件を吹っ掛けてこちらが折れるのを待っておるぞ﹂
︱︱そういう魂胆か。
啖呵を切っておいて厳しい条件にしり込みしたとなれば、腕に自
信がないと取られる。
それを殊更に大きくあげつらって優位に立とうという腹だろう。
﹁⋮⋮調査というのは、具体的に何を?﹂
キロと同じく受付の態度が腹に据えかねていたクローナが、条件
の詳細を訊ねる。
ミュトが協会に入ってから初めて慌て、キロとクローナの袖を掴
んだ。
﹁乗せられたらダメ。条件が悪すぎる。一度中層から昇格任務を受
け直せば済む話だから、ここは折れて︱︱﹂
ミュトの提案をフカフカが頭突きして止めた。
ミュトは茫然とした顔で、キロの肩に戻ったフカフカを見つめる。
525
﹁折れて、またここで追い返されるのか? 我は御免こうむるぞ。
今までミュトの逃げ癖に目を瞑ってきたのは逃げるが上策だったか
らだ。だが、今回は違うであろう。この二人と協力すれば守魔の討
伐は叶わずとも調査は可能だ﹂
﹁⋮⋮だけど、危険だ﹂
フカフカの説得を聞いても、ミュトはあくまで調査依頼を断るつ
もりのようだ。
キロは肩に乗っているフカフカを横目で見る。
︱︱わざと喧嘩せざるを得ない状況にしてるな。
依頼にかこつけてミュトの逃げ癖を直してしまおうという算段ら
しい。
だが、失敗するとキロにはわかった。
付き合いが長いらしいフカフカに今後の展開が読めない筈がない
事も、フカフカがキロとクローナに求める役割も、おおよそ見当が
ついた。
﹁それに、この依頼を受けなくてもフカフカには願いを叶える方法
がある﹂
ミュトが感情を悟らせないよう僅かに顔を俯かせながら、普段通
りの口調に〝似せて〟声を出し、ただ事実を述べる。
キロが想像した通りの表情、口調、そして言葉だ。
続く言葉も、また、キロの想像通りだった。
﹁フカフカがボク以外の地図師と組んで上層も、最上層も、未踏破
層だって登ればいい。尾光イタチは引く手数多だから、何も難しい
事はないよ。ボクは一人で中層からやり直す﹂
脅しではなく、本気で言っている事はミュトの瞳を見ればわかる。
526
受付の若い女との軋轢からも、養成校時代、あるいはそれ以前か
らの長い付き合いがあるフカフカとの考えの違いからも、ミュトは
逃げようとしている。
筋金入りの逃げ癖だった。
ミュトの死角で、フカフカの尻尾がキロの背中を叩く。バトンタ
ッチという意味だろう。
キロは事前説明なしで振られた役割を全うすべく、フカフカとミ
ュトの間に片手を割り込ませる。
﹁そこまでだ。とりあえず意志の統一ができるまで依頼は保留、今
日は宿でもとって話し合おう﹂
﹁⋮⋮ボクはもう中層に向かうよ。ここに居ても仕方がないから﹂
すでに結論は出ているとばかりに、ミュトはキロとフカフカに背
を向ける。
しかし、ミュトの行く手をクローナが塞いだ。
﹁今までがどうだったのかは知りませんけど、今回は逃げたら一生
悔やむと思いますよ?﹂
顔だけで優しく笑ったクローナは、逃がす気はないとばかりにミ
ュトの腕を強く掴んだ。
527
第五話 一時的な仲直り
宿泊している三階の部屋から町を見渡す。
効率的に町を照らせるよう並べられた街灯と、家々の明かりが本
来は暗い洞窟を明るく照らしている。
生物による明かりであるからか、光は一定の幅で揺らめき、町の
全体像をおぼろげに美しく見せていた。
万年夜景状態の町並みはこの世界の人々にとっての日常だが、キ
ロにとってはそれなりにムード溢れる景色だ。
︱︱部屋に獣と二人きりでなければ、だけど。
キロは同室のフカフカを見て、クローナとミュトが泊まっている
隣の部屋とを隔てる壁を見る。
喧嘩状態のミュトとフカフカを同室にする事も、キロとミュトを
同室にする事も、どちらも問題が出てきてしまうため、男女で部屋
を分けたのだ。
どうやら、フカフカはオスの個体であるらしい。
﹁出会ったばかりの俺達に任せるにしては、少し荒っぽすぎないか﹂
キロはフカフカを咎める。
キロとクローナがきちんと仲裁しなければ、ミュトは他人との衝
突にますます苦手意識を抱いていたはずだ。
フカフカは窓際で尻尾を揺らす。
﹁事前に問題点は教えてあったのだ、まともな人間性の持ち主なら
仲裁に動くであろうよ。うまくとりなせるかは賭けであったが、賭
けなければならなかったのだ﹂
528
フカフカは窓の外、街の入り口にあたる洞窟道へ視線を向ける。
﹁上層の魔物はミュトと我だけでは手に余る。仲間を募ろうにもあ
の性格を直さねば破綻するだろう。荒療治でも、いま直すべきなの
だ﹂
﹁そう簡単には直らないよ、あれは﹂
キロが実感を込めて呟くと、フカフカは分かっている、とばかり
不機嫌に尻尾で窓枠を叩く。
﹁クローナと言ったか。あの娘に任せて本当に大丈夫なのか? 我
はキロに任せたかったのだが﹂
フカフカが尻尾の先から光を放ち、隣の部屋とを仕切る壁を照ら
して示す。
壁の向こうではクローナがミュトを説得している事だろう。
キロも壁を見つめて、机に頬杖を突く。
﹁俺よりよっぽど頼りになるよ。けど、逃げ癖を直す事まではでき
ないと思う。あの手の性格は時間をかけて、絶対に失いたくないっ
てくらい親密な関係を築かないと本人も直そうとは思わないからな﹂
性格を直さない事による既知のリスクなら対処が容易く、直した
後の未知のリスクは対処が難しい。
リスクを抱え込むほどの価値を人間関係に見出さなければ、ミュ
トはずっと逃げ続けるだろう。
﹁でも、問題点を浮き彫りにする事には成功してる。今後はミュト
の動き次第だな﹂
529
それより、とキロはフカフカに向き直る。
﹁この世界の事についていろいろ質問したい﹂
この地下世界についての知識が致命的に足りない事を、キロは受
付の若い女との会話で痛感していた。
一酸化炭素中毒の危険性から火が制限されることなど、いくらか
は知識から類推できるものの、魔物や世界の成り立ちについてはさ
っぱりだ。
﹁まず、本当に空を見た経験がないのか?﹂
﹁空など、おとぎ話だからな﹂
﹁存在するかはともかく、どういうものかっていう知識はあるんだ
な?﹂
翻訳の腕輪は装着者の母国語に存在しない単語を訳せない。裏を
返せば、単語の意味が通じている時点で概念が存在する事になる。
フカフカはこくりと頷いた。
﹁どのような手段を用いても触れる事が出来ないほどに高く、支柱
もなしに見渡す限り続く、美しく青い天井であると聞いている。⋮
⋮いや、見ている﹂
﹁見た事はないって言わなかったか?﹂
フカフカが言い直した言葉にキロは眉根を寄せる。
﹁うむ、実物を見た事はない﹂
フカフカがキロの指摘を肯定した。
思い出すように瞼を閉ざしたフカフカは語りだす。
530
﹁ミュトの生家は最下層にある小さな村であった。水を輸出する裕
福な村であったのだが、崩落の危険性が指摘され廃村となった﹂
水を輸出するという感覚がいまいち分からないキロだったが、地
下世界で飲み水を得るには地下水脈を掘り当てるしかない。
平面を歩き回って探せる地上とは異なり、地下世界では立体的に
探す必要もあり、水脈に出会う確率は極めて低い。
水脈があるというだけで、その地域は経済的に優位に立てる。
フカフカはこんな事も知らんのか、という呆れ声で説明してくれ
るが、日本とは環境が違いすぎるのだから仕方ない。
﹁水の事などどうでもよい。ミュトの生家がある村の歴史は古く、
喪失歴五千年の文献さえ出てくるほどの物だった﹂
﹁五千年って、この世界って一年は何日あるんだよ﹂
﹁三百日で一区切りとされておる。何の意味があるかはわからんが、
慣例なのだろうな﹂
地下世界では四季の移ろいが感じられないため、暦は日にちを定
める以外の意味が形骸化しているらしい。
︱︱田植えの季節、とか桜の季節、とか通じないのか。
﹁もう話の腰を折るでないぞ?﹂
﹁あぁ、悪かった。続けてくれ﹂
度々本筋とは関係ない上に常識を問うような質問をされて、フカ
フカが不機嫌に鼻を鳴らす。
キロの謝罪を受け入れ、フカフカが話を再開する。
﹁我はミュトが生まれた頃から村に出入りをしていたが﹂
531
﹁︱︱お前何歳だよ﹂
キロはついツッコミを入れ、フカフカに睨まれた。
﹁二十年生きておる。ミュトは十七歳だ。もう口を開くなよ?﹂
﹁あぁ、すまん﹂
︱︱一年で六十五日の差が出てくるから、フカフカの実年齢は俺
の一つ下くらいか。
キロはざっと計算し直しつつ、フカフカの話に耳を傾ける。
﹁ミュトの住む家の裏手には美しい壁画があってな。広大にして奥
行きのある青い天井に霧が固まったような白い物が浮いており、地
面には濃い緑の草と花々が咲き誇り、信じられぬほど大きな木々が
乱立する夢のような景色が描かれていた。だいぶ色褪せておったが
な。事実、村の者は皆単なる絵と思っておったし、我らも地図師養
成校に通うまでは夢だと思っておった﹂
だが、地図師養成校の書庫深くに収められた古い資料に空につい
ての記述があった。
﹁世界のあちこちで語り継がれる空という天井の話をまとめた物で
あったが、どれも驚くほど酷似している事が分かった。それでもな
お、誰しもが夢物語だと思っておる。だが、我らは見てみたいと思
ったのだ。あの絵に描かれた景色をこの目で、な﹂
﹁⋮⋮空がどんなものか、聞きたいか?﹂
﹁必要ない。我らはこの目で見るのだから﹂
フカフカの答えにキロは微笑んだ。
おそらく、フカフカは無意識に言葉を選んだのだろう。だが〝我
532
〟ではなく〝我ら〟とミュトと共に空を見る事を前提とした物言い
をしている。
今回の喧嘩も、したくてした訳ではないのだと再確認できて、キ
ロは少しほっとした。
その時、部屋の扉が叩かれた。
﹁皆でお昼を食べませんか?﹂
扉の向こうから、クローナが誘う。
ミュトの気配もする事から、説得が終わったのだとキロは悟った。
﹁いま行く﹂
キロはフカフカを促して部屋を出た。
この世界の人間にとっては極めて珍しい色素の濃い髪と瞳を有す
るキロとクローナに料理屋の客達からの視線が突き刺さる。
しかし、キロ達の食卓を気まずい空気がつつんでいることに気付
くと、客達も遠慮したのか目を逸らしていた。
気まずい空気の元凶はミュトとフカフカにある。
ミュトはサラダを小皿に取り分けてキロとクローナの前に置きな
がら、フカフカと言葉を交わす事を避けている。
喧嘩を吹っ掛けたとはいえ正論をぶつけたフカフカからは声を掛
ける事が出来ないでいるようだ。
一向に改善が見えないミュトとフカフカの様子を見て、キロは隣
に座るクローナの耳に顔を近づける。
﹁⋮⋮なんて言って説得したんだ?﹂
﹁目の前の物さえ手から零れるのに空を見つけられるはずがないと
533
⋮⋮。空を見たい気持ちは本物みたいなので﹂
小声のキロに同じく小声でクローナが返す。
︱︱煽ったのか。効果はあったみたいだけど⋮⋮。
キロはさり気なくミュトを観察する。
フカフカを気にしつつも声を掛けられずにいるミュトを見て、キ
ロは内心でため息を吐いた。
︱︱不器用すぎるだろ。
キロもあまり人間関係の構築が器用ではないが、それでも不器用
と断言できるほどミュトの対応はお粗末だった。
﹁⋮⋮それで、これからどうするのだ?﹂
痺れを切らしたフカフカが訊ねる。
ミュトは困り顔をした後、助けを求めるようにクローナを見た。
視線を受けたクローナだったが、代わりに答えるような事はせず、
ただ勇気づけるように頷いた。
ミュトは仕方なくフカフカに答える。
﹁クローナに言われて、守魔の調査を引き受ける事にした﹂
︱︱おかしな言い回しだな。
逃げ道を用意した答えを聞き、キロはフカフカに視線を向ける。
﹁⋮⋮そうか﹂
フカフカは何か言いたそうな間を開けたが、結局何も言わずに口
を閉ざした。
ミュトは逃げ道を用意した事を咎められなかった事にほっとして
いるようだった。
534
︱︱さっきの言い回しだと、衝突を回避したというより自分の意
見を言うのを避けたように聞こえるけど。
キロは違和感を抱えつつ、食事を再開する。
﹁フカフカは何か食べないのか?﹂
サラダやパンを食べるキロ達を眺めているだけのフカフカにキロ
は問う。
フカフカは意味ありげにミュトに顔を向け、不機嫌に尻尾で机を
叩いた。
﹁︱︱いまは要らぬ。不味そうだからな﹂
535
第六話 新たな武器
昼食を食べ終えたキロ達は料理屋を出て美術品を扱っていそうな
店を探す。
店頭に置いてあるランプシェードから高額の品を扱っていそうな
店を見つけ、キロ達は中に入った。
若い男女三人に尾光イタチという美術品とは縁のなさそうなキロ
達を見ても、店の主人はにこやかに出迎えた。
﹁いらっしゃい、どのような物をお探しですか?﹂
﹁買取を頼みたいのだ。とりあえず見てくれ﹂
キロの肩に乗っていたフカフカが代表して答える。
キロが財布から千円札を取りだし、店の主人の前に提示する。
一瞬怪訝な顔をした店の主人だったが、すぐに目を丸くした。
﹁これは新作、いや、同門の画家によるものですかね﹂
まるで同じ物を見た経験があるような物言いに、キロは目を細め
た。
店の主人に嘘を吐いているような気配はない。
フカフカが警戒するように尻尾を小さく一振りする。
﹁見た事があるのか?﹂
﹁えぇ、半年ほど前に珍しい黒髪黒目の、丁度そちらの青年と同じ
ような風貌の少女が訪ねてきまして、一枚売ってくれました﹂
︱︱半年前?
536
クローナの世界で懐中電灯が発見されたのは三年前だ。
︱︱時間がずれてるのは異世界だからか⋮⋮?
内心で首を傾げるが、それよりも黒髪黒目の少女の方が気になっ
た。
キロはフカフカに耳打ちする。
﹁⋮⋮少女について詳しく聞いてくれ。俺がその兄で、家出した妹
を探している事にすればいい﹂
﹁あい分かった。任せよ﹂
フカフカは自信ありげにキロの肩の上に後ろ足だけで立つ。
﹁その娘が売った絵を拝見したい。それと、娘の行方についても聞
かせてくれ。この男の妹かも知れんのでな﹂
客の情報を訊ねられた店の主人は少し悩む素振りがあったが、キ
ロと少女が黒髪黒目という地下世界では珍しい特徴を共に有してい
る事から、兄妹設定の信ぴょう性を認めたらしい。
ここだけの話だと前置きして、教えてくれた。
﹁行方について詳しい事は知りません。この街を出て上に向かった
事は確かですね。行商人が紙に描いた素晴らしい絵を売っている黒
髪黒目の娘を最上層で見かけたそうですから﹂
﹁その目撃証言は何時頃の話なのだ?﹂
﹁行商の順序を考えると二月前ですかね﹂
質問に答えた店の主人はカウンターの奥から千円札を取り出して
きた。
描かれているのは猫であるの人だ。
︱︱日本人と見てよさそうだな。
537
キロは鞄を漁り、懐中電灯を取り出す。電池カバーを取り外し、
店の主人に見せた。
﹁おぉ、見事な肖像画ですね。この子ですよ、来店したのは!﹂
﹁これは売り物じゃないので﹂
瞳を輝かせる店の主人にキロがフカフカを通して告げる。
店の主人はあからさまにがっかりして肩を落とした。
﹁ですよね。妹さんの手掛かりですもんね⋮⋮﹂
未練たらたらで視線を向けてくる店の主人を無視して、キロはプ
リクラ付きの電池カバーごと懐中電灯を鞄に戻した。
﹁その娘と言葉は交わしたのか?﹂
フカフカが訊ねると店の主人は首を振る。
﹁首を振ったり頷いたりはしてましたが、言葉は交わしませんでし
たね。声が出ない、と身振り手振りで伝えてきましたけど、いま思
うと家出しているから出身地を知られたくなかったんでしょうね﹂
︱︱決まりだな。
懐中電灯の持ち主であり、念の主はプリクラに写っている女子高
生だ。
この地下世界で亡くなったのだろう彼女の遺体がどこにあるのか
はわからないが、足取りを追って行けば何かが見つかるだろう。最
悪、遺体が見つからなくても込められている念さえ判明すれば帰還
の道は開く。
最上層での目撃証言について店の主人に訊ねると、最上層下端の
538
町トットでの目撃証言だと分かった。
﹁その、妹さんが心配なのは分かるんですけれども、そちらの絵は
売って頂けるので⋮⋮?﹂
痺れを切らしたように店の主人がキロの持つ千円札を指差す。
愛想笑いを浮かべているが、欲しくて欲しくてたまらない様子が
見て取れた。
﹁もちろんそのつもりだが、いくら出すのだ?﹂
フカフカが意地悪そうに口をゆがめる。
一切金額を提示せずに聞いた事で、価値に自信ありと思わせたら
しい。
店の主人はキロ達を図るように眺めた後、そろそろと青い宝石を
二十個、カウンターに積み上げた。親指大の宝石はかなりの価値を
秘めているように見えた。
しかし、フカフカが鼻を鳴らす。
﹁なんだそれは。この絵を破いて一部を渡せとでも言うつもりか?﹂
︱︱鬼畜か、いや、家畜か!
さらりと酷い折衷案を出すフカフカにキロは心の中で突っ込みを
入れる。
店の主人は慌てて首を振った。
﹁いえいえ、とんでもない。何しろ金額が金額ですので、残りは貨
幣でお支払いしようと思う次第でして、えぇ⋮⋮﹂
脂汗をたらたらと流す店の主人が銀貨を二枚、カウンターに乗せ
539
る。
どうやらこの世界では宝石よりも貨幣の方が、支払い時の信用が
上位に位置するらしい。
金属はごく一部の町での少量生産に頼るしかないため貨幣改鋳が
容易にはできず、また市場に金属自体が出回りにくいためだろう。
金属の急激な価格変動が起きにくい環境なのだ。
﹁キロよ、その絵を半分に裂いてほしいようであるが、どうする?﹂
﹁待ってください、もう二枚、どうです?﹂
﹁うむ、まぁ妥当なところか。下層の富裕層に売るにしても輸送費
がかかるであろうからな﹂
決まりでよいか、と視線を向けてくるフカフカにキロは頷いた。
貨幣価値がよく分からないのだから仕方ない。
ミュトの反応からするにかなりの大金なのは間違いなさそうだっ
た。
代金を受け取り、キロ達は店を出て槍を買いに行く。
﹁最上層のトットって町に向かいたいんだけど、ミュト達には何か
計画とかあるのか?﹂
キロが訊ねると、ミュトは首を振った。
﹁ボクらは空を探していただけだから、特に予定はないよ。ただ、
最上層に行くなら昇格任務を受けて認可を貰わないとダメだけど⋮
⋮﹂
なんでも、最下層、下層、中層、上層、最上層、未踏破層の六階
層に区分されるこの世界では、上の層に行くほど強力な魔物が出現
する傾向にあるため、認可を貰わなければ上の層へ行く事が出来な
540
いらしい。
﹁それで上層探索の認可がどうこうって話になるのか。あの受付、
職権乱用じゃないのかよ﹂
﹁間違いなく職権乱用ですよ。調査依頼だか何だか知りませんけど、
早く終わらせてしまいましょう。あの顔は早く見納めにしたいので﹂
キロの言葉にクローナが同意したが、被害者であるはずのミュト
はあいまいに笑う。
町唯一の武器屋に入店すると、キロは店内を見回して困惑する。
︱︱金属製が少ないな。
石を削り出した粗末な物や魔物の骨で作られた物が多い。
予想はしていたが、品数の少なさにキロは困惑しつつ店内を見て
回る。
﹁キロさん、槍はこっちですよ﹂
先に槍が並べられた一角を見つけたクローナが店の端から手招き
してくる。
足を向けたキロは槍を見回して腕を組んだ。
長さは三メートルから、長い物では五メートルを超える。石を円
錐状に削り出したそれは馬上槍を彷彿とさせた。
だが、円錐の底面にあたる部分の直径は一メートル近い。
﹁⋮⋮こんなもの振り回せる奴がいるのか?﹂
いくら動作魔力を使っても支えているだけで精いっぱいだろうそ
れは、武器と呼ぶのもおこがましい本末転倒な代物に思えた。
キロはミュトに視線を向ける。
541
﹁基本的に、槍は数人で槍衾を作って、その後ろから魔法使いが攻
撃を加える物だと思うよ?﹂
キロは額に手を当てる。
ここは地下世界、地上の常識が通用しないのだ。
確かに、左右を壁で囲まれた洞窟道では側面攻撃を受ける心配は
なく、敵との距離を広く保てる槍衾は有効な戦術だ。
太い円錐形の馬上槍は折られる心配が少なく、接近されるに伴っ
て円錐に沿って敵が密集する事になり魔法も当てやすくなる。
振り回す必要なんて欠片もない、ただ壁を作ればいいのだから。
地上との運用法の違いにキロはため息を吐いた。
どうしたものかと馬上槍を端から眺めていると、一本の槍を見つ
けた。
長さは約三メートルとキロにとって長すぎるのは相変わらずだっ
たが、一本の骨に螺旋状に二種類の金属が巻かれて補強されている。
馬上槍のように円錐形ではなく、細長い素槍で地下世界では珍し
く刃が鉄製である。
半月状の刃は明らかに切り払う事を目的とした造りをしており、
石突は刺突が可能な円錐形となっている。
柄に巻かれた金属には滑り止めを兼ねているらしい彫り物がされ
ていた。
﹁珍しい形状であるな﹂
﹁これが普通だと思いますけど﹂
フカフカとクローナがそれぞれの常識を語る中、ミュトが槍を見
つめた後、店の外を振り返った。
﹁⋮⋮開拓者が使っていた槍と同種みたいだね﹂
542
ミュトの視線を追ったキロは、広場に立つ石像を見つけた。
ひげを蓄えた老人が素槍を手に仁王立ちした石像だ。仲間らしき
数人の男の姿も削り出されている。
﹁この町を開拓した人の石像か?﹂
キロが問うと、ミュトはこくりと頷いた。
﹁オラン・リークス、地図師養成校でも真っ先に習う地図師の一人
だよ。最上層の探索中に消息を絶ったけどね﹂
オラン・リークスという名らしい石像の老人を眺めながら、ミュ
トは続ける。
﹁守魔を倒した地図師やその仲間は功績を称えて像が立つんだ。地
図師が目指す到達点の一つだよ﹂
﹁守魔を倒すのって像が建てられるほど大変な事なのか﹂
購入を決めて素槍を手にしながら、キロはこれから受ける調査依
頼の成功を祈った。
543
第七話 ミュトの特殊魔力
本当に調査依頼を受けるとは思っていなかったらしい受付の若い
女が不快感もあらわに眉間にしわを作る。
﹁見栄を張るのはやめてさっさと帰りなさいよ。第一、そっちの男
は素槍なんか持って何のつもり? オラン・リークスの真似事して
るなら張り倒すわよ?﹂
有名な地図師かつこの町の開拓者であり誇りでもあるらしいオラ
ン・リークスと同じ形状の槍を、嫌われ者のミュトの仲間であるキ
ロが持っている事が不快で堪らないらしい。
協会内にいる地図師やその護衛達も不愉快そうにキロを見ている。
﹁どのような武器を使おうが我らの勝手であろう。それより調査内
容を早く言え﹂
フカフカが不愉快そうに急かす。
険悪な空気にミュトが縮こまっているが、知った事ではないとば
かりにフカフカは受付の若い女を睨み据えた。
受付は不愉快さを隠そうともせずに顔を顰めたまま、口を開く。
﹁調査内容は守魔が縄張にしている広間への出入り口である四つの
洞窟道の状態を検分し、入り口近くにある広間の支柱の摩耗状況の
調査、以上よ﹂
︱︱案外、簡単そうだけど。
キロは思うが、ミュトとフカフカは何か覚悟を決めたような顔で
544
ゴクリと喉を鳴らす。
ミュトとフカフカの反応を見て、キロは考えを改めた。
﹁それで、報酬はどうなるんですか?﹂
クローナが口を挟む。
受付の若い女は言葉が分からずにミュトを見た。
しかし、ミュトは険悪な空気に委縮していて口を開かない。
口を閉ざすミュトの代わりにフカフカがクローナの言葉を伝える
と、受付は盛大に舌打ちした。
﹁上層探索許可が報酬でしょう。何を言ってるの?﹂
喧嘩を売るような言い方に怯んだクローナの代わりに、キロがに
こやかに返す。
﹁あなたこそ、何を言っているんだ? こちらは昇格任務を完遂し
ているのにあなたのわがままに付き合って必要のない依頼を受けよ
うとしている。それに、金銭的なやり取りを行った証拠がないと、
またあなたが難癖をつけるかもしれないだろ。証書に起こして、俺
達が依頼を達成した事を〝協会職員として正式に〟認めざる得ない
状況を作るのが、俺達、あなたのわがままに付き合っている被害者
が取れる保険の掛け方だと思うぞ?﹂
キロの長広舌を一字一句間違わずに通訳するフカフカは楽しげに
尻尾を揺らしている。
要約すれば、お前が信用できないから証拠を作らせろ、という要
求に対し、受付の若い女は至極嫌そうな顔をした。
しかし、キロの言っている事ももっともな話だ。散々馬鹿にされ
て信用しろという方が無理である。
545
渋い顔で受付は依頼書の作成に入った。
渡された依頼書に不備がないかを確認して、キロ達は協会を後に
した。
﹁結局、喧嘩を売るような形になっちゃって、ごめんな﹂
疲れた顔のミュトを気遣いつつ、キロは謝る。
ミュトは力なく首を振った。
﹁ボクのためにやってくれているのは分かってるから⋮⋮﹂
町がある広間を抜けて洞窟道に入り、キロは足を止めた。
﹁ちょっと素振りをさせてくれ﹂
買ったばかりの槍であるため握り等を確認しておこうと思い、キ
ロはクローナやミュトから離れて槍を振るう。
重量はあったが動作魔力を使えば気にならない程度だ。柄の彫り
物のおかげで握りも安定しており、突きも繰り出しやすい。
欠点を挙げるならば、長大さだろう。
斜めへの振り抜きが難しく、持ち手の調整が必要になる。動作魔
力を使って無理な挙動をすると筋肉を痛めてしまうため、持ち手を
変えてから振り抜くという二つの動作を複合して行えない。
︱︱斜めの振り抜きはしばらく封印するか。
槍を肩に担いだ時、キロは洞窟道の壁を見て、ふと思いつく。
︱︱動作魔力使えばできそうだけど⋮⋮。
試してみようかとも思ったが、倒せば像が立つほど危険な魔物の
縄張りにこれから出向くのだから魔力を温存しておこうと考え、断
546
念した。
﹁どうですか?﹂
素振りを終えた事を感じ取ったのか、クローナが聞いてくる。
﹁いつもより間合いが広くなってるから、しばらくはクローナも巻
き添えを食らわないように注意してくれ﹂
槍の柄で自らの肩をトントンと叩きながら、キロは返す。
キロが素振りをしている間に目的地までの道順を地図で確認して
いたミュトが顔をあげる。
町を出るまでは少々頼りなかった顔が嘘のように、ミュトは真剣
な顔で歩き出す。
﹁ついてきて。北側の入り口が一番近いみたいだから。後、町の方
角だけは覚えておいて。崩落に巻き込まれたりしてボクとはぐれて
も自力で帰って来れるようにね﹂
さらりと嫌な可能性を提示するミュトの言葉に頷きを返し、キロ
達は守魔の縄張りである広間へ向かう。
本来は真っ暗な洞窟道を歩いていると、明かりを提供してくれて
いるフカフカのありがたみがよく分かった。
長く発達した尻尾で煌々と辺りを照らすフカフカはミュトの首に
巻き付いている。
カンテラの様に手がふさがる事もなく、言葉を理解しているため
光を強くすることも弱くすることも声を掛けるだけで可能だ。
﹁協会にいた地図師の方達は尾光イタチを連れてませんでしたけど、
あの人達の光源ってなんですか?﹂
547
クローナが不思議そうに訊ねると、ミュトはちらりと首に巻き付
いているフカフカを見た。
﹁大体は護衛や荷物持ちがカンテラを持ってる。町でも見たと思う
けど、街灯に使われている虫が詰まった物だよ﹂
﹁⋮⋮あまり持ち歩きたくないと思うのは文化の違いでしょうか?﹂
明かり代わりに虫かごを持ち歩くという他の地図師達の姿を想像
したらしいクローナが複雑そうな顔をする。
﹁我がどれほど有益な存在か理解できたようであるな﹂
﹁尻尾を揺らさないで。明かりがぶれる﹂
誇らしげに尻尾を揺らすフカフカにミュトの注意が飛ぶ。
しかし、フカフカはミュトの言葉を無視して口を開く。
﹁我の有用性を示す特技をもう一つ見せてやろう﹂
フカフカが宣言した瞬間、ミュトの顔がこわばった。
﹁魔物だ。次の十字路の右側からくるぞ。足音からして数は七、ホ
ラオオカミであるな﹂
︱︱音で索敵できるのか。
キロはフカフカの特技に感心しながら、槍を構える。
しかし、前に出ようとしたキロをフカフカが止めた。
﹁良い機会だ。ミュト、二人にお前の魔法を見せておけ﹂
548
訝しむキロの前にミュトが立つ。
フカフカが明かりを道の先に向けると、体高一メートルほどのオ
オカミが現れた。目は退化しているらしく名残のような浅いくぼみ
になっているが、他はキロの知るオオカミそのままだ。
︱︱でかすぎる気もするけど。
現れた七頭のオオカミの中にはキロのへそよりも高い位置に頭が
ある個体もいる。
キロ達を見つけたらしく、ホラオオカミは一斉に駆け出した。
一気に距離をつめられるが、ミュトが冷静に片腕を突き出した途
端、ホラオオカミが何かを察したのか急に減速する。
地面を削りながら減速するホラオオカミ達は、ミュトのそばまで
来た瞬間、ガンッと鈍い音を立ててつんのめった。
まるで、見えない壁にでもぶつかったような挙動だ。
すぐにミュトが小剣を抜き放ち、近くにいたホラオオカミの首を
切り落とす。居合の要領で振り抜いた小剣を翻し、別の一頭の首を
切り落としたミュトは素早く後方へ逃れた。
追いかけてくるホラオオカミ達に向けてミュトが再び腕を突き出
すと、先ほどの再現をするようにガンッと鈍い音が鳴り響き、ホラ
オオカミがよろめく。
その隙にミュトが小剣で一頭の首を切り払い、別の一頭の首を貫
く。
二頭仕留めたミュトはまた後方へ飛び退くと、ホラオオカミ達へ
腕を突き出した。
半数以下に減ったホラオオカミは恐れをなしたのか、反転して逃
げていく。
クローナがすかさず石弾を放ち、残っていた三頭を瞬く間に撃ち
殺した。
戦闘の終了を告げるように、ミュトは突き出していた腕を降ろす。
﹁︱︱いま、何をやったんだ?﹂
549
キロが先ほどの戦闘を思い出しながら訊ねると、ミュトはキロに
向かって腕を突き出した。
﹁手を合わせてみて﹂
言われるままに、キロはミュトと手を合わせようとして、首を傾
げる。
ミュトの手と自分の手の間に硬い何かがあったのだ。
かなり力を込めて押しても微動だにしない、見えない壁。
よくよく見てみると、先ほどまで見えていたミュトの手が見えな
くなっていた。
不思議に思って壁の裏を覗き込めば、ミュトの手は確かに存在し
ている。
どうやら、壁を通すと姿さえ消せるらしい。
﹁ボクの特殊魔力だよ﹂
﹁ミュトの特殊魔力は干渉不可の見えない壁を作り出すものでな。
たとえ守魔の攻撃であっても壊れる事がない、絶対の防御力を誇る
のだ。一人と一匹で上層まで来る事ができたカラクリである﹂
フカフカがミュトの言葉を補足する。
﹁絶対防御って⋮⋮反則だろ﹂
﹁先ほどのクローナの魔法もなかなかだと思うのだがな﹂
フカフカがクローナに視線を向けると、ミュトが同意した。
﹁発動速度も精度もかなり高かった。慣れてるの?﹂
﹁キロさんと危ない橋を何度か渡りましたから。それに、リーフト
550
レージに蓄積している魔力を使えばもっと早く撃てますよ﹂
﹁リーフなんとかって、その杖?﹂
照れたように杖を抱きしめるクローナにミュトが訊ねる。
クローナがリーフトレージの性質を説明している間に、キロはミ
ュトが作り出した壁に動作魔力を加えて破断させようと試みるが、
見えない壁は動作魔力を通さない。
︱︱魔力での干渉もできないのか。
物理でも魔法でも、一切の影響を受けないらしいその壁は確かに
高い防御力を誇るのだろう。
動かす事も出来ないのかと思い、キロが壁を力一杯に押した瞬間
︱︱手が突き抜けた。
﹁あれ?﹂
いきなり壁が消えた事で支えを失ったキロはバランスを崩し、ミ
ュトに向かって倒れ込む。
︱︱あ、これ漫画で見たことのある展開だ。
暢気な思考が現実逃避気味の感想を垂れ流す中、キロの手がミュ
トに触れた。
ミュトの、胸に触れた。
﹁え?﹂
とミュトとクローナが呟く。
﹁いや、ごめん。壁がいきなり消えて﹂
キロはすぐに手を引っ込めて弁解する。
ミュトが反応に困ったように視線をさまよわせる。
551
他人との衝突を避けるミュトは胸を触られても怒り出す事はない
らしい。
危険と隣り合わせの洞窟道での仕事中でもあり、キロのそばから
逃げ出す事も出来ないミュトは、ただ時間が過ぎるのを待つように
顔を俯かせた。
ミュトが何も言いださないので、クローナも何も言う事が出来ず、
頬を膨らませている。
気まずい沈黙の中、フカフカが口を開く。
﹁ミュトの魔法は持続時間が短いのだ。注意しておくべきだったな﹂
他人事のように呟いた後、フカフカは楽しげに口元を歪める。
﹁人間の感覚はよく分からんから後学のために訊ねよう。鍾乳石よ
り硬いミュトの胸でも、触ると楽しいものなのか?﹂
意地悪なフカフカの質問に、キロは黙秘権を行使した。
552
第八話 ムカデの守魔
洞窟道の先にうっすらとした明かりが見えた。
点滅しない蛍のように、光はあちこちに飛び回っている。
蛍と違って光は強く、周辺を照らしていた。
街灯にも使われる虫が野生化したものらしい。
﹁あれがいるという事は近くに水場がある証拠だよ。今回は守魔の
縄張りの中にあるみたいだけど﹂
地図を確認しながら、ミュトが説明してくれる。
しかし、キロはミュトの説明を暢気に聞いている余裕がない。
なぜなら、飛び回る光に照らされた巨大な魔物とばっちり目が合
ったからだ。
ムカデに似たその魔物は灰色がかった甲殻を持ち、無数の足を地
面につけている。
頭部の幅だけで三メートル近く、触覚も合わせればさらに三倍の
幅があるだろう。
かつて相手にしたパーンヤンクシュですら丸呑みに出来そうな巨
大さと長大さを併せ持つその魔物は、支柱に阻まれて巨体を入れる
事の出来ない洞窟道にいるキロ達を今か今かと待ち受けている。
﹁大丈夫だよ。あの守魔はここまで来れないから﹂
﹁分かっていても、怖い物は怖いですよ﹂
安心させようとするミュトに言葉を掛けられても、クローナは怯
えたように杖をぎゅっと両手で握った。
キロは守魔の様子を観察しつつ、ミュトに訊ねる。
553
﹁別の入り口の調査から始めるか?﹂
﹁そうした方がいいね。反対側へ回り込もう﹂
地図を描きながら、ミュトが頷き、踵を返す。
﹁無駄だと思うのだがな⋮⋮﹂
フカフカがミュトの背後を警戒しながら呟いた。
フカフカの言葉通り、広間に通じる四つの道のどこから侵入を試
みても、守魔が待ち構えていた。
音か、匂いか、何らかの方法でキロ達の接近を察知しているらし
い。
﹁広間内部の地図がないから、おかしいと思ったよ⋮⋮﹂
ミュトが困り顔で呟く。
今まで調査に来た地図師達も、守魔を恐れて内部に足を踏み入れ
る事が出来なかったのだろう。
今回の調査項目の内、洞窟道の調査自体はすでに終えている。
問題は入り口付近にある支柱の摩耗状態の調査だ。
守魔であるムカデの魔物の甲殻は左右に平たく鋭くなっており、
移動するたびに支柱を傷付けているらしい。
支柱の状態次第では広間が崩落する恐れもあり、連鎖的に周辺の
洞窟道にも影響が出かねない。
重要な調査のはずだが、今回のような形でミュトに仕事が回され
るからには誰もやりたがらなかったのだろう。
︱︱あんな凶悪な面構えで出待ちされたら当然か。
554
﹁俺とクローナで守魔の注意を惹きつけるとして、支柱の調査にど
れくらいかかる?﹂
守魔と周辺の支柱の配置、地面の様子などを頭に入れながら、キ
ロはミュトに訊ねる。
﹁支柱を一周、ぐるりと回る時間があれば大丈夫、かな。一目見れ
ば太さや高さは判るから﹂
﹁一体、どういう訓練をしたらそんな事できるようになるんですか
⋮⋮﹂
クローナが感心を通り越して呆れたように呟いた。
支柱を一周する時間をおおよそ五秒と考えて、キロは作戦を練る。
﹁クローナはここから魔法で援護してくれ。俺は守魔を支柱から引
き離す﹂
心配そうな目を向けてくるミュトに微笑みかけて、キロは槍を構
えた。
﹁それじゃ、行こうか!﹂
掛け声をかけ、キロは動作魔力を練って広間に飛び込む。
守魔はすぐさま迎撃態勢を作った。発達した大あごが、頭部の下
から伸びていた。
わざわざ飛び込む必要はない。
キロは槍の石突で地面を穿ち、槍を支点に方向を転換、守魔の側
面に移動する。
守魔が反応し、キロを追って顔を動かそうとする。
555
しかし、キロが横に動いた事で射線を確保したクローナが石弾を
撃ち込んでいた。
空気を切り裂く音を数瞬だけ響かせ、守魔の顎先に石弾が激突す
る。
キロの方を向いていた守魔の顔が石弾の直撃を受けて逸れ、キロ
を視界から外したそのわずかの間に、キロは再度方向を転換する。
守魔へ正面から仕掛けたのだ。
﹁︱︱ミュトさん、早くこっちへ﹂
クローナの声が聞こえ、キロは視界の端にいるミュトとクローナ
を確認する。
ミュトが驚いた顔で足を止めていた。
正面対決を仕掛けたキロの行動が無謀に思えたのだろう。
しかし、クローナはキロを特に心配した様子もなく、ミュトを急
かした。
ミュトの事はクローナに任せておけば大丈夫だろうと判断して、
キロは守魔を見る。
体勢を立て直しかけている守魔だったが、視線を外した隙に方向
転換したキロの姿を見失っていた。
キロは動作魔力を纏わせた槍で守魔の左足を払うよう切り付ける。
一本一本が人間大の太さと長さを持つ守魔の足の関節に、キロは
槍の刃を突き立てた。
ガリガリと硬質な音を立てながら、キロの槍が守魔の足を薙ぎ、
切り落とす。
足を切り落とされた事でようやくキロの姿を発見し、顔を向けた
守魔に半径二メートルほどの水の塊が叩きつけられた。
クローナによる一撃ではあったが、まとまった水量であるにもか
かわらず威力はほとんどない。
守魔も脅威を感じなかったらしくキロに集中しようとするが、先
556
にキロが動いていた。
水の塊に片腕を突き込み、動作魔力を通したのだ。
守魔の顔、正確には触覚に当たる部分をキロの動作魔力で生み出
された水の乱流がかき回す。
目を回した守魔が暴れ出す前に、キロは後方へ逃れながら槍で守
魔の足をさらに二本、切り落としていた。
﹁キロさん、撤退です!﹂
﹁分かった!﹂
身をひるがえし、キロは動作魔力を身体に纏わせ広間を離脱、洞
窟道へ滑り込んだ。
守魔が混乱している内に、キロはクローナとミュト、フカフカを
連れて洞窟道を走り、広間から距離を取る。
しばらく走って十分に距離を取り、キロ達はその場に腰を下ろし
た。
肩で息をしながら、ミュトが広間の方向を振り返る。
﹁守魔の足を三本、切り落とした⋮⋮?﹂
キロ達に視線を移し、ゆっくりと事実を認識する。
理解がなかなか追いつかない様子のミュトは置いて、キロは新品
の槍を見る。
﹁刃こぼれはなし、とかなりの切れ味だな。あの足を叩き折ろうと
したのに、まさか切り落とせるとは思わなかったよ。あんなに動作
魔力を込めなくてよかったな﹂
﹁試し切りしておけばよかったですね﹂
キロの反省を聞いたクローナがホラオオカミを思い出しながら言
557
う。
何もおかしなことはなかったように、平然と言葉を交わしている
キロとクローナを見て、ミュトがフカフカに声を掛ける。
﹁ボクの見間違いだったのかな? キロが守魔の足を切り落として
いたように見えたんだけど⋮⋮?﹂
﹁にわかには信じがたいが、我にもそう見えた。短時間の戦闘では
あったが、守魔を相手に善戦しているようにも見えたな⋮⋮﹂
互いに見た物が事実だったと確かめて、フカフカはキロに声を掛
ける。
﹁強いとは思っていたが、これほどとはな﹂
キロは肩を竦めた。
﹁クローナの援護があったからな。一人だったら近付く事も出来な
い﹂
﹁集団でも容易には勝てないからこそ、倒せば像が立つ偉業なのだ﹂
﹁倒すのは無理そうだけどな﹂
足を落とすだけならばともかく、幅三メートルの胴体となると刃
がどこまで通るか分からない。
せいぜい、切り裂く程度で、切り落とす事が出来るとは思えなか
った。
﹁それに、次からは警戒されてると思う﹂
﹁依頼は調査だけですから、守魔を倒す必要はありませんよ。支柱
の調査だけきちんと終えて帰りましょう﹂
558
無理は禁物、とクローナは釘をさす。
もしも守魔を倒せば、ミュトに上層探索の許可を出さない、など
という受付のわがままも通らないだろう。
だが、依頼書がある以上、支柱の調査を終えるだけで目的を達成
できる。
﹁後三カ所だろ。すぐに終わらせよう﹂
キロはミュトを促し、次の地点への案内を頼んだ。
二つ目の入り口はすぐ目の前に支柱があった。
守魔の姿はない。
﹁フカフカ、守魔の位置は分かる?﹂
ミュトの問いかけに、フカフカは目を閉じて耳を澄ませる。
﹁足を切り落とした場所で暴れておるようだ。よほど腹に据えかね
たのだろう。胴が長い割に気の短い奴であるな﹂
愉快そうに尻尾を揺らして、フカフカはミュトを促す。
﹁今の内にここの調査を済ませてしまえ﹂
念のためキロとクローナが周囲を警戒する中、ミュトが支柱を上
から下まで眺め、ついでとばかりに周囲に視線を巡らせては視界が
利く範囲の地図を描く。
﹁その地図、高く買い取ってもらえそうだよな﹂
559
守魔の縄張りであり、誰もが存在を知りながらも内部に侵入した
事のない場所の地図だ。
フカフカがミュトの顔の向きに合わせて器用に尻尾を動かし、サ
ーチライトの様に周囲を照らす。
﹁守魔を倒して一山当てようと目論む輩も多い。一部とはいえ縄張
り内部の様子が描かれたこの地図には高値が付くであろうな﹂
﹁協会に買い取ってもらうんですか?﹂
クローナが魔法の光で視界を確保しながら問うと、ミュトが頷い
た。
﹁地図師から協会が買い取って、他の地図師や行商人に売るんだよ。
守魔の縄張りの地図だと行商人は買わないけど、私兵を持っている
ような貴族なら買うかも﹂
今まで縁がなかったから詳しくは知らない、とミュトは困ったよ
うに笑う。
守魔の縄張りに潜入調査など、いままでは夢にも考えなかったら
しい。
フカフカが耳をピクリと動かし、口を開く。
﹁守魔が大人しくなったぞ。そろそろ移動した方が良さそうである
な﹂
﹁この辺りの地形は覚えたから、洞窟道へ戻ろう。キロとクローナ
も﹂
ミュトに呼ばれて、キロとクローナも洞窟道へ戻る。
広間を振り返るが、虫達がそこかしこで光っているだけで守魔の
560
姿は見えなかった。
かなりの広大な空間であるらしい。
その後の二つの調査でも守魔は現れなかった。
どうやら、広間の中央で傷を癒しているらしく、キロ達の侵入に
は反応しているものの動く気配がない、とフカフカは言う。
﹁足を三本切り落とされただけでそんなに堪えたんでしょうか?﹂
クローナが広間の中央に顔を向けながら首を傾げる。
﹁二百本くらいありそうなのにな﹂
切り落とした張本人が不思議そうに呟くと、フカフカとミュトが
横目で見る。
﹁数の問題ではなかろう﹂
フカフカのツッコミにミュトが頷いた。
調査がやり易いため、守魔が動かないに越した事はない。
二つの入り口を調査し、守魔が襲ってこないのをいい事に周辺の
測量も済ませてしまう。
どうせなら最初の地点も地図を作成しておこう、とキロ達は再び
足を運んだ。
﹁⋮⋮切り落とした足がない﹂
守魔との戦闘があった地点で、ミュトが眉を寄せて周囲を見回し
た。
561
キロが切り落としたはずの守魔の足が三本とも無くなっていた。
協会に持ち帰って度肝を抜いてやろうと思っていただけに、キロ
は小さく舌打ちする。
﹁タコみたいに自分の足でもお構いなしで食うのか?﹂
無くなった物は仕方がない、と諦めて地図を作製する。
足を切り落とされた直後に守魔が暴れた影響もあり、支柱の状態
を再び調査して、キロ達は町へと引き返した。
562
第九話 盗人
資料が詰まった書棚が並ぶ地図師協会の内部、知の殿堂ともいう
べきその場に似つかわしくない喧騒が満ちていた。
あまりの騒々しさに眉を顰めたキロ達は、原因であるらしい男達
の言葉を聞き取って唖然とする。
﹁︱︱それで切り飛ばした守魔の足がこれだ﹂
満を持して、といった様子でお披露目されたのはキロが切り落と
した三本の守魔の足だった。
誇らしげに胸を張るのは五人の男達。
一様に丸盾と幅広の剣を持ち、背中には顎ずれをした赤いクワガ
タの紋を背負っている。
統一された装いから何らかの組織に所属していると分かった。
﹁ランバル護衛団だね﹂
﹁厄介な奴らに手柄を取られたな﹂
鋭い視線を向けるミュトとフカフカは男達の組織に心当たりがあ
るらしい。
キロがクローナの肩に手を置き、引き寄せる。
キロさんの戦果なのに、と頬を膨らませていたクローナが暴走し
ないように抑えたのだ。
キロはミュト達に視線で説明を求める。
目立たないように書棚の裏へ隠れ、ミュトが口を開いた。
﹁ランバル護衛団は中層から上層で地図師や行商人の護衛を目的に
563
活動する傭兵集団だよ。団員数は五百を超えると言われている大き
な組織で、戦闘実績で報酬額が厳密に決められてる﹂
﹁それで守魔の足を横取りして報酬額の割り増しを狙っている、と
セコイな﹂
身も蓋もないキロの感想にミュトが困ったような顔をする。
﹁⋮⋮怒らないの?﹂
﹁放っておけば自滅するからな。守魔の足を切り落としたあなた方
ならこれくらいできるでしょう、とか言われて断り切れずに無理な
仕事をして痛い目を見るのがオチだ﹂
キロが受付の若い女の口調を真似して言うと、クローナが堪えき
れずに噴き出した。
クローナはキロの肩に顔を埋めて笑いをかみ殺している。笑いの
ツボに入ったらしい。
﹁い、今のセリフ、今度女装した時にもう一度お願いします﹂
﹁女装の話は持ち出すな﹂
﹁キロにはそんな趣味が⋮⋮?﹂
﹁断じてない﹂
一歩引きながらのミュトの言葉を否定して、キロはコホンとわざ
とらしく咳払いをする。
﹁足の件は放っておくとして、早く調査報告に行こう﹂
手柄が横取りされても、今回の調査自体は完遂しているのだから、
上層探索の許可は得られるはずだ。
キロの言葉に頷いたミュトは恐る恐るクローナを横目で窺う。
564
手柄を取られた事に怒っていたため、ランバル護衛団と喧嘩しな
いか不安だったのだろう。
クローナはミュトの視線を受けて苦笑した。
﹁腹は立ちますけど、キロさんが良いというなら仕方ありませんよ。
それに、キロさんの言う通り自滅するでしょうから﹂
ちらりと男達を見ると、頭上高く守魔の足を掲げ、周りから囃し
立てられていた。
引くに引けなくなっている様子が表情からも窺える。
﹁さぁ、行きましょう﹂
クローナがミュトの手を取り、受付へ歩き出した。
受付の若い女は楽しそうにランバル護衛団の自慢話を聞いていた
が、ミュトを見つけて顔を顰めた。
﹁ランバル護衛団が守魔を引き付けている間に調査を終えたのかし
ら? 本当に卑怯ね﹂
﹁上層探索の認可を﹂
受付の嘲りには取り合わず、ミュトは調査結果を書いた紙を差し
出す。
嫌々ながらも依頼書を出して受付は判を押した。
﹁ほら、さっさとこの町から消えてちょうだい。まともな地図師が
寄り付かなくなったら困るから﹂
ゴミでも捨てるように認可証を放り投げ、受付は席を立ってラン
バル護衛団へ歩いて行く。
565
﹁あなた達のおかげで地図師が一人と護衛が二人、死なずに済んだ
みたいよ﹂
ランバル護衛団に声を掛けた受付は嫌味な顔でミュトを振り返る。
キロがそっとミュトの前に立ち、集まる視線の盾となった。
驚いたように目を開き、キロを見上げるミュトの手をクローナが
引っ張る。
﹁早くこの町を出た方が良さそうです。今日中に準備して明日には
次の町へ向かいましょう﹂
入り口に向けて歩き出すミュトとクローナの後を追いながら、キ
ロはランバル護衛団に向かって笑顔で手を振った。
受付の若い女が舌打ちする。
嫌味をあしらわれた事が気に食わないのだろう。
先に外へ出ていたクローナとミュトに続き、キロは協会を後にす
る。
街灯に詰められた虫が放つ薄黄緑色の光が通りを明るく照らして
いる。
キロが上を見上げると、崩落防止の白い塗材が塗り込められた天
井が目に入った。
︱︱だんだんと気が滅入ってきそうだな。
太陽の明かりが届かない地下都市だけあって、目がくらむほど明
るい自然光が欲しくなる。
天井を見上げるキロの肩にフカフカが飛び移った。
﹁物憂げな顔をしておるが、何か気になる事でもあるのか?﹂
﹁空が恋しくなったんだよ﹂
﹁自慢話か。聞くだけ損であったな﹂
566
鼻を鳴らすフカフカにキロは笑いかける。
﹁自慢話を聞けば聞くほど、期待が高まるんじゃないか?﹂
キロの意見を吟味するように沈黙したフカフカは、フンと鼻を鳴
らした。
﹁我らが夢想する空よりも魅力的に語れるというのなら、聞いてや
ろう﹂
﹁止めておこう。空の魅力は言葉で言い表せないからな﹂
﹁上手い逃げ口上であるな。より一層、期待しておこう﹂
口端を吊り上げて、フカフカは愉快そうに尻尾を揺らす。
フカフカは器用にキロの肩を左から右へと渡って助走を付け、ミ
ュトの肩へと飛び移る。
﹁ミュトよ、早々にこの町を出るぞ。最上層級地図師への昇格には
何が必要なのだ?﹂
フカフカの質問に、クローナが興味津々な顔をミュトに向ける。
キロも興味を惹かれてミュトを見る。
﹁地図師の階級ってまだ上があるのか?﹂
﹁うん、探索許可がもらえる場所によって、下の階層から最下層級、
下層級、中層級、上層級、最上層級になるんだ。最上層級の上には
未踏破層の探索許可がもらえる、特層級っていう特別な階級があっ
て、いま特層級の地図師は全部で八人しかいない﹂
ミュトが大雑把に説明する。
567
︱︱段階的に上げて実力以上の階層には行かせないのか。死亡率
を下げたいんだろうな。
仕事中に死亡されると困るのはどこの世界も同じか、とキロは世
界を超えた共通点を見出す。
﹁それで、最上層級への昇格条件は?﹂
二人と一匹から注目されたミュトは眉を八の字にして口を開いた。
﹁五十本以上の新洞窟道発見に相当する実績か、上層地域の村一つ
からの推薦と担当地区の地図師協会による実技検査﹂
ミュトが昇格条件を説明すると、フカフカがため息を吐いた。
クローナが心配そうな顔をする。
﹁難しいんですか?﹂
﹁後者は諦めるべきだろうな。協会の実技検査で嫌がらせをされる
のが目に見えておる。しかし、新洞窟道五十本の発見もなかなか厳
しい条件であるな﹂
フカフカによれば、一人の地図師が見つける新洞窟道の数は年平
均で五、六本、条件を満たすためには十年以上の歳月が必要になる
という。
厳しい条件に眉を寄せるキロとクローナを見て、ミュトが安心さ
せるように微笑んだ。
﹁けど、わざわざ新洞窟道を見つける必要はないよ。崩落で道が閉
ざされていたりしても、実績として数えられるから五年もすれば昇
格試験を受けられる﹂
568
︱︱五年、気長な話だな。
時間がかかり過ぎると思ったのはキロだけではないようで、クロ
ーナも難しい顔をする。
キロとクローナの芳しくない反応にミュトが慌てるが、キロは心
配するなと肩を竦めた。
﹁守魔の縄張りの地図は実績に入るのか?﹂
高値が付くという守魔の縄張りを記した地図の話題に触れると、
クローナが思い出したように協会を振り返る。
﹁さっき、地図を渡してませんでしたよね?﹂
フカフカが愉快気に尻尾を揺らす。
﹁足元を見られるに決まっておるからな。別の協会支部へ持ち込む
べきであろう。それに、あの場で出せば余計な軋轢を生む﹂
ただでさえ、ランバル護衛団と守魔が争っている間に調査したと
思われているのだ。
更に高値が付く地図の買い取りを頼めば、漁夫の利を得るのも大
概にしろと理不尽な怒りが飛んでくるだろう。
ミュトはそれを見越して地図を出さなかったのだ。
キロはミュトの考えを理解して、感心する。
﹁良い判断だな﹂
﹁こと衝突の回避に関して、ミュトの対処法は年季が入っているか
らな。この程度は造作もない﹂
褒めているのか貶しているのか判断が付かないフカフカの言葉に、
569
ミュトは反応に困っている。
何か言って藪蛇になる事を嫌ったのか、ミュトはキロの質問に答
える事にしたようだ。
﹁守魔の縄張りの地図は人の居住が可能な広間に分類されるから、
新洞窟道発見より高い評価になるよ。今回は一部だけしか描いてな
いけど、十分な価値になるはず﹂
居住空間が限られる地下世界では、町の建設ができるほどの広さ
を有する空間は貴重であり、地図の価値も跳ね上がる。
﹁それなら、まずはその地図を売り払える町へ移動した方がいいな。
できれば地図師の少ない地域に行って道中で新洞窟道の発見ができ
れば御の字だ﹂
キロはざっと今後の予定を組み立て、クローナを見る。
他に何か良い案はないかと訊ねるためだったのだが、クローナは
何やら難しい表情をしていた。
﹁これから一緒に活動していくに当たり、決めなければいけない重
要事項を思い出しました﹂
﹁⋮⋮重要事項?﹂
キロがおうむ返しに問い返すと、クローナは深々と頷く。
ミュトとフカフカが何事かと視線を向ける中、クローナは厳粛な
空気さえ纏って口を開く。
﹁宿の部屋割りについて、です﹂
﹁︱︱すごくどうでもいいんだけど﹂
570
キロが即座に呆れ声で応じるが、他の面々はそうではなかったら
しい。
ミュトが困ったように発言する。
﹁ボクはほら、地図の買い取りとかでもよく足元を見られて買いた
たかれるから、あんまり手持ちがないんだよ﹂
申し訳なさそうに言って、ミュトは財布を取り出して中を見せる。
小さな宝石がいくつかと、秘蔵の品ですと言わんばかりに内ポケ
ットの中へ隔離された銅貨が二枚入っている。
フカフカがミュトの肩から財布を覗き込む。
﹁この人数で泊まるとなると二部屋でならば三泊、一部屋ならば七
泊できるかどうかといったところか。銅貨を使えば別だろうが、も
しものための貯蓄であるし、使いたくはなかろう?﹂
フカフカがミュトに確認すると、ミュトは視線を逸らして困り顔
をする。
キロ達のために貯蓄を崩す事は出来ない、と言ってしまうと喧嘩
になるかもしれないと考えたのだろう。
︱︱どちらが大事か、なんて問題でもないだろうに。
キロは苦笑しつつ、考える。
﹁地図以外での収入がなければジリ貧って事だな。護衛を雇ってい
る他の地図師はどうやって稼いでるんだ?﹂
﹁方法はいくつかあるけど、多いのは魔物の討伐と素材の売却かな﹂
ミュトは天井を指差す。
キロとクローナもつられて天井を仰ぎ見る。
571
﹁天井の崩落防止の塗材も一部の魔物から採取するんだ﹂
﹁ミュトは防御に関しては高い能力を持つが、攻撃力は劣る。一人
で活動していた事もあって戦闘は避けてきたのだが⋮⋮今はキロと
クローナがおる。魔物の討伐も選択肢の一つであるな﹂
危険が伴うぞ、と付け足すフカフカと、心配そうなミュトを見て、
キロはクローナと顔を見合わせる。
﹁他にないならやるしかないか。どうする?﹂
﹁キロさんとなら何でもして見せますよ﹂
そう豪語して、クローナは小さな花が咲く様に微笑んだ。
572
第十話 彼女が抱えるジレンマ
︱︱もっとジメジメしていると思ったんだけどな。
洞窟の中であるため湿気が気になっていたキロは、意外にも快適
な湿度を保つ部屋に首を傾げていた。
ミュトとフカフカの喧嘩もあり、男女で別れて部屋を取ってあっ
たためキロは一人用の小さな客室に泊まっている。
部屋を見回すと四隅に多数の穴が開けられた石の箱があった。
気になって覗いてみると、二層構造になった箱の上には白い粉、
下には水が入っている。
どうやら、吸湿剤らしい。
﹁フカフカ、これも魔物から取れるのか?﹂
窓際で尻尾の毛繕いをしていたフカフカが顔を向ける。
﹁ある種の魔物が甲羅の中に蓄えていると聞いたな﹂
﹁何でもアリだな﹂
半ば呆れつつキロは呟く。
白い粉は高い吸湿性を有しているらしく、会話をしてる間にも水
滴が下の層に落ちていた。
毛繕いを終えたフカフカが窓の格子を潜り抜けて外へ出る。
﹁そろそろミュトの所へ行くとしよう。喧嘩の仲裁を押し付けて悪
かったな。借りにしておこう﹂
﹁貸しとくよ。今度は事前に相談してくれ﹂
﹁あまり手を煩わせるのもどうかと思っておったが、今の言葉を聞
573
いて安心した。また頼むぞ﹂
フカフカは礼を言うように尻尾を一振りすると窓の外の出っ張り
を伝って隣の部屋へ歩いて行った。
フカフカを見送ったキロは、鞄に目を向ける。
︱︱懐中電灯がなんで大事なのか疑問だったけど、こんな世界じ
ゃ仕方ないか。
鞄に入っている懐中電灯の持ち主がこの地下世界に来たのなら、
故郷の品であると同時に貴重な明かりを提供してくれる懐中電灯に
は相当の思い入れがあった事だろう。
地下世界では非常に実用的な品物でもあり、肌身離さず持ってい
た事は想像に難くない。
しかし、遺物潜りで転移してきた場所に、持ち主の遺体はなかっ
た。
キロは窓の桟に肘を突き、遺体の在処を考える。
現場は洞窟道であり、左右はおろか上下さえも土でできている。
しかし、遺体が埋まっているとは考えにくい。
地面には掘り起こしたような痕跡がなく、死亡直後の世界に転移
する遺物潜りの性質上埋める時間があるかも疑わしい。
持ち去られた可能性が一番高いと思うものの、遺体を持ち去る動
機が分からない。
魔物に食べられた、と考えるのが一番納得できる可能性なのだが
⋮⋮。
︱︱最上層での目撃証言が気になるんだよなぁ。
地下世界では上の階層へ行くほど大型で強力な魔物が出現する。
最上層で目撃された懐中電灯の持ち主が上層の魔物に食われると
は考えにくい。
また、懐中電灯の持ち主が最上層からわざわざ上層に戻ってくる
とは、キロには思えなかった。
考えに耽っていると、部屋の扉がノックされる。
574
﹁キロさん、いますか?﹂
﹁いるよ。どうかしたのか?﹂
扉の向こうから呼びかけるクローナの声に、キロは答えた。
扉が開き、クローナがひょっこりと顔を出す。
﹁フカフカさんが私達の部屋に来たので、キロさんが一人で寂しが
ってないかなって﹂
悪戯っぽく笑いながら、クローナが部屋に入ってくる。
なし崩し的に矛を収めたフカフカと気まずそうにしているミュト
が二人きりで話し合う時間を作るため、部屋を出てきたのが真相だ
ろう。
軽い足取りでキロのそばまで来たクローナは窓の桟に手をついて
やや前屈みになりながら、町の風景を眺め始める。
前屈みになった事でクローナの胸が目の前に来たキロはさっと窓
の外へ視線を逃がした。
﹁明るくて綺麗な町ですけど、やっぱり太陽の光が恋しくなります
ね﹂
クローナが町の明かりに目を細めて呟いた。
幻想的に揺れ動く町の明かりは太陽と比べると弱く、温かみも薄
い。
薄黄緑色の光はむしろ冷たさを感じるほどで、洞窟内のやや低い
温度も相まって長時間眺めていると肌寒さを感じた。
﹁懐中電灯の持ち主も太陽が見たくて上を目指したんだと思う﹂
575
半年前にこの町を訪れた懐中電灯の持ち主は、キロと同様に日本
円札を売り払い、資金を得た。
そして、二か月前には最上層の街で目撃されている。
魔物ひしめく地下世界、しかも、逃げ道はほとんどない洞窟道を
片手に持った懐中電灯を頼りに進み、ひたすら上を目指す。
キロとは違って翻訳の腕輪を持たなかっただろう彼女がどのよう
に魔物との戦いを潜り抜けたのか、具体的には分からずとも想像を
絶する苦労を味わった事だけは分かる。
キロの予想を聞いてクローナも同意するように頷いた。
﹁でも、何で懐中電灯で着いた先が上層なのかが分からない﹂
目撃証言は最上層、空を目指すのならひたすら上に向かうはずで、
下の上層に来るとは思えない。
諦めたのか、ともキロは考えたが、クローナが首を振った。
﹁もしかすると、懐中電灯を上層で落としてしまって、そのまま仕
方なく上を目指したのかもしれません﹂
﹁遺物潜りで辿れた遺品の記憶が上層で途切れてるって事か? 持
ち主だけ最上層に向かって、そこで亡くなった﹂
遺物潜りは開発者であるアンムナさえ実際に発動した事のない魔
法だ。
原理を詳しく知るアンムナならともかく、発動させる事しかでき
ないキロ達には推測を証明する手立てはなかった。
﹁それにしても、あの懐中電灯も数奇な運命を辿ってますね。持ち
主と一緒に地下世界に来て、持ち主と離れたら今度は私達の世界の
森に落ちて、今度はキロさんと私と一緒に持ち主を捜しに地下世界
へ戻ってきて﹂
576
﹁確かに、俺達よりよっぽど異世界トリップを経験してる先輩にな
るな。言葉を交わせるならいろいろご意見を伺いたいところだ﹂
キロは鞄の中の懐中電灯を思い出して苦笑する。
元の持ち主についていろいろと尋ねる事が出来ればどれほど楽か。
﹁︱︱ところでキロさん﹂
話題を変える枕詞とともに、クローナがキロの名を呼ぶ。
不思議に思ってキロは町の景色から視線を外してクローナを見た。
いつのまにか、クローナはキロに向き直っていた。
﹁私は今、一つのジレンマを抱えています﹂
藪から棒にそう切り出して、クローナはじっとキロを見つめる。
真剣な相談事だろうかと、場合によってはフカフカに早速借りを
返してもらう事も考えて、キロは無言で先を促す。
クローナの真剣な顔に少しづつ赤みが差し始めた。
﹁お金を稼ぎます﹂
﹁魔物を狩って、という事だよな。それで?﹂
︱︱きちんと武器も整えたし、問題はないと思うけど。
首を傾げるキロを見つめながら、クローナが続ける。
﹁けど、お金を稼ぎすぎると宿は二部屋借りる事になります﹂
﹁むしろそれを目指すべきだと思うんだけど。ミュトもいる事だし﹂
﹁そうなんです。女の子のミュトさんがいるから二部屋借りないと
いけません。この世界の人に通訳を頼む都合上、私はミュトさんと、
キロさんはフカフカさんと一緒に泊まるのが正しい形になります﹂
577
会話相手と腕輪を共有すれば通訳はいらないが、意思疎通は面倒
になる。
クローナの意見は正しく、実際、今夜に借りた二部屋の客室にお
ける部屋割りも男女で分かれている。
﹁倫理的にも一番いい形で収まっていると思うんだけど、不満なの
か?﹂
﹁キロさんと二人っきりの時間がないじゃないですか﹂
頬を膨らませ、なんで分からないのかと言いたげな顔をするクロ
ーナに、キロはそっと視線を逸らす。
﹁⋮⋮考えてなかった、とか言いませんよね?﹂
﹁予想外の事が多すぎたから、ついそっちに思考が持ってかれて︱
︱﹂
最後まで言わせず、クローナがキロの頬を両手で挟む。
﹁いま考えてください﹂
キロの瞳を覗き込んで、クローナが有無を言わせぬ口調で命令す
る。
︱︱考えろと言われても、二人きりの時間の作り方なんて⋮⋮。
見知らぬ地下世界でどのように二人きりの時間を作るというのか。
そもそも、二人きりでは咄嗟の事態に対応も出来ない。
言い訳を考え始めた事を気配から悟ったか、クローナがますます
頬を膨らませる。
キロは一時しのぎに自らの膝を軽く叩く。
578
﹁ひとまず、座れ﹂
個室であるため部屋に椅子はキロが座る一脚だけ。
甘えさせて時間稼ぎをしようという魂胆だったが、この手のやり
取りに慣れていないクローナには効果覿面だったらしく、彼女は慌
て始めた。
赤く染まった顔を両手で挟んで冷ましつつ、クローナは逡巡する。
﹁し、失礼します﹂
悩んだ末、キロの膝の上に座る事にしたらしいクローナが覚悟を
決めた顔で呟いた時、
﹁︱︱何をしておるのだ、お前達﹂
面白がるような響きを含ませて、フカフカが窓の外から声を掛け
た。
クローナが窓の外のフカフカを見て、硬直する。
クローナの反応すら楽しんでいる様子のフカフカは、窓の格子を
抜けて部屋に入ってくると尻尾を揺らす。
﹁ミュトもいつか伴侶を見つけて今のようなやり取りをするのだと
思うと、なかなか感慨深いものがあるな。このような時、我はどう
いった行動をとるのが正解なのであろうか﹂
自問自答しながらクローナとキロを観察するフカフカに、キロは
半眼を向ける。
﹁少なくとも、いきなり声を掛けるのは厳禁だ﹂
﹁ふむ、次回からは気を付けよう。しかし、我にもやむを得ぬ事情
579
があってな﹂
悪びれもせずにフカフカは部屋の扉を見る。
﹁夕食の時間だからとミュトと共に呼びに来たのだが、いくら声を
掛けても反応がない。仕方なく我が外から回り込んだ次第だ﹂
フカフカの視線を追って、キロは扉を見る。
︱︱鍵が掛けられてる?
最後に扉を開いたのはクローナであり、鍵を掛けるとすれば彼女
しかいない。
キロが視線を向けると、真っ赤な顔でクローナが扉に駆けだした。
キロの肩に飛び乗ったフカフカが、愉快そうに尻尾を揺らす。
﹁鍵まで掛けて、いったい何をするつもりだったのだ?﹂
﹁⋮⋮さぁね﹂
キロは誤魔化しつつ、席を立った。
580
第十一話 滝壺の街
翌日︱︱空が見えないため本当に翌日なのかはわからなかったが
︱︱キロ達は町を出発した。
キロ達と同時にランバル護衛団の五人が町を出るようだった。
見送りに地図師協会の職員が数人と、町を拠点にしている地図師
が来ていたが、キロ達には目もくれない。
予想通りではあったので、キロ達は特に気にする事もなく洞窟道
へ足を踏み入れた。
ランバル護衛団の五人が途中まで後ろを付いてきていたが、途中
で道を曲がり姿を消した。
闇討ちを警戒していたフカフカが吐息を漏らす。
﹁奴ら、守魔の足を切り落としたのがキロだと知らぬようだな﹂
﹁戦闘中でも近くに誰かが居たらフカフカが気付いているだろ﹂
﹁普段なら気付くが、あの時はキロとクローナの戦いぶりに意識が
逸れていたのでな。自信がない﹂
フカフカでも自信を持てない事があるのか、とキロは思ったが口
には出さない。
代わりに、ミュトに声を掛けた。
﹁いま向かってる街はどんなところなんだ?﹂
﹁水の産出地だよ。近くに野菜を育てている村もある﹂
野菜、と聞いてクローナがフカフカの尻尾に注目する。
視線から逃がすように尻尾を曲げたフカフカがミュトの言葉を補
足する。
581
﹁野菜を育てる際の光源は二本足でずんぐりむっくりした歪な生き
物だ。我ら尾光イタチのような優雅な生き物と一緒にしないでもら
おうか﹂
﹁それはそれで見てみたい気もしますね。さわり心地も気になりま
すし﹂
﹁我の尻尾は至高の手触りだ。比較にならん﹂
自慢するように尻尾を揺らしながら、フカフカはミュトに顔を向
ける。
﹁街の近くでは魔物を狩って資金の足しにするぞ。我が耳を澄ませ
ば発見もたやすい﹂
ミュトが意見を窺うようにキロとクローナを見る。
しかし、器用に尻尾を持ち上げたフカフカがミュトの視線を遮っ
た。
﹁まずはお前の意見を言うのだ、ミュトよ﹂
ミュトが困ったように俯く。
しかし、キロもクローナも助け舟は出さなかった。
少しずつでも慣れていくしかないのだ。まだ関係が固定されてい
ないうちに自分の意見を言う事と通す事を覚えた方がいいという判
断だった。
﹁⋮⋮ボクは、街に入って最新の地図で周辺の洞窟道を確認してか
らの方がいいと思う﹂
恐る恐る、と言った風にミュトが意見を口にする。
582
あぁそうか、と呟きながら、キロはミュトに笑いかける。
﹁洞窟道は変化するって事を忘れてた。確かに、先に地理を調べて
おかないと迷うよな﹂
通った道を引き返せば必ず帰る事が出来るとは限らない。落盤で
塞がれていれば迂回しなくてはいけないのだから。
﹁俺もクローナも、まだこの世界の考え方というか、常識に疎い所
があるからさ。いろいろ助言してくれるとありがたい﹂
地下世界と今まで生きてきた世界との違いを痛感しながら、キロ
はミュトに頼む。
あっさりと意見が通った事はもちろん、感謝までされるとは思わ
なかったらしく、ミュトは驚いたように瞬きを繰り返した。
フカフカが愉快そうに尻尾を揺らすが、クローナは心配そうに眉
を寄せてキロを見た。
付き合いが浅いミュトやフカフカに分からないだろうクローナの
表情の変化に、キロは内心で苦笑する。
︱︱ミュトに気を使った、と思ってるな。
遠慮ばかりして気疲れするキロの不器用さを知っているクローナ
は、フカフカによるミュトの対人訓練を手伝う内に、キロが疲れな
いかと心配になったのだろう。
﹁修練所を覗きに行く必要はないから﹂
キロがクローナにだけ分かるように言葉を選ぶ。
言葉の意味を理解したクローナがくすりと笑った。
﹁これじゃあべこべじゃないですか。意地悪ですね﹂
583
﹁意地悪できるくらい、成長したと自負してるんだけど?﹂
﹁分かってますよ﹂
クスクスと笑いあうキロとクローナを、ミュトが不思議そうに眺
めていた。
ミュトに対して、フカフカはキロとクローナのやり取りに思う所
があったらしく、ミュトをちらりと見る。
﹁当たり前の事であるが、キロとクローナの間には積み重ねがある
のだな﹂
小さな溜息を落として、フカフカがミュトの肩を尻尾で軽く叩く。
﹁キロとクローナは何年一緒にいるのだ?﹂
キロは異世界での生活を思い出しながら日にちを数える。
﹁一か月くらいだな﹂
﹁⋮⋮一か月、か﹂
フカフカはキロの言葉を繰り返すと、ミュトの首に巻き付いて眠
り始めた。
不思議そうに首を傾げるミュトとは違い、フカフカの心中を察し
たキロは頬を掻く。
︱︱今後の関係発展に期待していいと思うんだけどな。
一カ月で築いたキロとクローナの関係に比べるとふて寝したくな
るほど、ミュトとの間に築いた関係が薄いと感じたのだろう。
だが、今はキロとクローナがいる。
仲裁に入れる者がいれば、意見のすり合わせも容易になるだろう。
キロはフカフカをひとまず寝かせたままにして前を向く。
584
閉ざされた洞窟道の先は真っ暗だった。
﹁︱︱何か落ちてますね﹂
キロより夜目が効くのか、クローナが道の先を指差す。
地図から顔を上げ、クローナが指差す先に視線を向けたミュトが
首を傾げた。
﹁財布かな?﹂
ミュトが地図に顔を戻した後、周囲に目を凝らす。
すぐに天井の一部に視線を固定させ、手元の地図と見比べた。
﹁あの穴から落ちてきたみたいだね﹂
ミュトの視線を追うと、天井の一部に握り拳一つ分ほどの直径の
小さな穴が開いていた。
ネズミのような小動物が開けた穴だろうと見当がつくが、周囲に
それらしい生き物はいない。
ミュトは地図を見て首を傾げる。
﹁あの小さな穴がどこに繋がっているかはわからないけど、地図を
見る限り、近くにある道は全部僕らが向かっている街に繋がってる
ね﹂
財布の持ち主が街にいる可能性がある事を示唆しつつ、ミュトは
キロを横目に見る。
そのまま、ミュトはキロを窺いながら口を閉ざした。
キロは苦笑してミュトの額を人差し指で軽く突く。
585
﹁良い事するんだから堂々としろ。届けるんだろ?﹂
ミュトは小さく頷くが、困ったように眉を八の字にする。
﹁届けたいけど、ボクが持っていくと怪しまれるから、キロかクロ
ーナに頼みたいんだよ﹂
申し訳なさそうにするミュトに、今度はクローナが苦笑する。
﹁善行に遠慮はいりませんよ。ついでに私達にも遠慮はいりません﹂
クローナが財布を拾って、ミュトに笑いかける。
﹁さぁ、早く街へ行きましょう。財布を落とした人が困っているで
しょうから﹂
クローナがミュトに手を伸ばす。
ミュトは差し出された手を見つめた後、おずおずとクローナの手
を握った。
手を繋いで歩き出すクローナとミュトについて歩き出したキロは、
フカフカの尻尾が機嫌良さそうに揺れたのを見逃さなかった。
街に近付くにつれて湿度が上がり始め、水音が聞こえ始めた。
同時に気温も下がり、肌寒くなってくる。
キロはマフラー代わりにフカフカを巻いているミュトを羨ましく
思い、目を向けた瞬間、何か記憶に引っかかるものを感じた。
ミュトの姿をどこかで見たような気がしたのだ。
しかし、記憶から該当する者を見つけるより先に、キロはたどり
着いた街の威容に目を奪われる。
586
自分が蟻にでもなったような錯覚に陥るほど、非常に広い空間だ
った。
球状の空洞の中央に浮島の如く存在する平らな地面に石造りの建
物が乱立し、街灯が怪しく光る。
浮島へと渡る橋がいくつかの洞窟道から伸びている。石灰分が洗
い流されてできた天然の物らしく、歪ながらも重厚感のある橋だ。
特筆すべきは球状の壁のあちこちから流れ落ちる滝の存在だろう。
地下世界である事を忘れさせるような、美しくたなびく雄大な滝
の数々が球状の空洞に反響する水音を奏でている。
守魔の縄張りにもいた光る虫が滝の周囲を飛び回り、より一層の
怪しさと、なにより幻想的な美しさを添えていた。
︱︱凄いとしか言いようがないな。
ゴクリと喉を鳴らしたキロはミュトを見る。
﹁上層でも一、二を争う特殊な景観を持つ街だよ。主に水の輸出を
しているんだけど、地図師や行商人が仕事抜きで観光に来る事もあ
る。理由は見ればわかるよね﹂
﹁あぁ、偶然とはいえ、この世界に来てよかったって思った﹂
嘘偽らざる本心を吐露するキロに、クローナも頷いた。
﹁こんな景色を見たら、誰だって自慢したくなりますよ﹂
キロは携帯電話を取り出し、街の景色を撮影する。
虫や街灯の光があるとは言え、暗さが心配ではあったが、どうに
か街の風景を取る事が出来た。
キロが持つ携帯電話を不思議そうに見つめているミュトとフカフ
カ、携帯電話自体は知っていても機能を詳しく知らないクローナの
視線を受けつつ、キロは撮影したばかりの写真を保存して電源を切
った。
587
﹁何をしたんですか?﹂
説明せずに携帯電話をしまうキロを見て、堪えきれなくなったク
ローナが問う。
﹁秘密だ。忘れた頃に見せるよ﹂
飛び切りの悪戯を仕掛けた顔でキロは笑い、街へ向けて歩き出す。
街へと渡る橋には落下防止の手すりが設けられており、手すりの
外側には滝に削られて形造られた奈落が待っている。
高く設けられた手すりと、何より橋の頑丈さのおかげで歩いても
不安はない。
街の中は落ち着いた空気が流れていた。
水の産出地は経済的にも潤うとフカフカに聞いてはいたが、人間
は懐と同時に心も温まるらしい。
キロやクローナが持つ金属をふんだんに使った武器もこの街では
注目に値しないようで、向けられる視線は皆無だ。
逃れようのない湿気にさえ目を瞑れば、過ごしやすい街である。
水が豊富な環境だけあって、地図師協会の前には水時計が置かれ
ていた。
キロはミュトに先立って協会に入る。
湿気を警戒しているのか、あちこちに吸湿剤が置かれた建物の中
には予想通りに大量の資料が詰まった本棚があった。
︱︱少しカビ臭い気もするな。
目につく範囲にはカビが生えた資料は見当たらない。
﹁ボクは資料を確かめているから﹂
ミュトが教会内の地図師の視線を気にしながら呟き、キロとクロ
588
ーナから距離を取る。
資料を調べている内に財布を届けてほしい、という意味だろう。
キロはクローナと共に協会奥の受付へ向かうのだった。
589
第十二話 迷路状の新洞窟道
協会に財布を預け、続けてミュトが守魔の縄張りを記した地図を
売り払うとキロ達は早々に協会を出た。
この街にもミュトの噂は届いていたようだが、胡散臭そうな目を
向けられるだけで嫌味を言われることはなかった。
長居して正体がばれるのを嫌ったミュトが白紙に起点となる座標
を書き込みつつ口を開く。
﹁まとまったお金が手に入ったんだけど⋮⋮どうする?﹂
守魔の縄張りを記した地図が高額で売れたため、魔物を無理して
狩る必要はないらしい。
しかし、長期的には資金不足に陥る事が目に見えている。守魔の
地図はあくまで臨時収入だ。
フカフカが尻尾でミュトの頬を軽くはたく。
﹁先にミュト自身の考えを言うのだ。キロ達にこの世界の常識がな
いのだから、ミュトが方向性を示してやらんでどうする﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁︱︱早く意見を言え﹂
反論を許さずにフカフカが促すと、ミュトは困り顔でキロを見た。
キロは安心させるように頷いて促す。
ミュトは視線を泳がせた後、おずおずと口を開く。
﹁この街は人の流入が激しくて、ボクの知り合いと出くわす可能性
も高いんだ。だから、近くの村へ移動しようと思う。地図の更新も
590
遅れているみたいだから、新洞窟道が見つかるかもしれないんだけ
ど⋮⋮﹂
煮え切らない態度のミュトが最後の最後で口籠る。
フカフカが呆れたようにため息を吐いた。
﹁それで、村へ行こうとミュトは考えているのだな?﹂
ミュトが小さく頷いた。
ミュトとフカフカのやり取りに苦笑しながら、キロはクローナの
意見を窺うべく顔を向ける。
キロの視線を受けて、クローナはリーフトレージに覆われた愛用
の杖を掲げた。
﹁今日は一度も戦ってませんから、魔力は満タンですよ﹂
﹁なら、行こうか﹂
今日中に村へ到着するとの事で、キロ達はすぐに街の外へ足を向
ける。
奈落を横目に橋を渡り、洞窟道に入る。
すれ違う人間も多かったが、ほとんどは馬車を操る行商人だ。
街灯とは違って赤い色の光を放つ虫が詰まったカンテラを馬に似
た生き物の首に掛けている。
荷台にはほぼ例外なく水瓶が積まれていた。
街で買い取った水を運ぶ一団らしい。
﹁水質保全とかはあるんだろうけど、街としてはぼろい商売だよな﹂
自然にわき出る水を売りさばくのだから、利益率が高いのだろう。
裕福になるのも頷ける。
591
泥棒しようにも洞窟という関係上、進入路が限定されており、監
視も容易だ。
フカフカがキロに顔を向けた。
﹁護衛団を雇う他、周辺で討伐した魔物の死骸による水質汚染の防
止など、手間はかかっているようであるぞ﹂
﹁そっか、水を求めて魔物が襲ってくる事もあるのか。案外、大変
なんだな﹂
という事は、とキロは続ける。
﹁この辺りで魔物を倒したら、死体を放置するわけにはいかないよ
な。村に持っていくのか?﹂
﹁それには及ばぬ。この辺りに生息する魔物はマッドトロル、泥で
出来た身体を魔力で動かす大型の虫なのだ。魔力を供給する虫さえ
殺せば泥に帰る﹂
ミュトがフカフカの後を引き取って説明を続ける。
﹁虫は拳くらいの大きさで、泥の体のどこかに埋まってるんだ。殺
した虫は、細かく砕いて光虫の餌にするから、高い需要があるんだ
よ﹂
﹁︱︱言っているそばから、来たようであるな﹂
フカフカが耳を動かし、音源を探る。
キロ達は武器を構えながら、フカフカの索敵結果を待つ。
しかし、フカフカは耳をせわしなく動かしながら、不可解そうに
口を開く。
﹁どうやら、逃げたようだ⋮⋮﹂
592
﹁逃げた? マッドトロルが?﹂
フカフカに続き、ミュトも不可解そうに首を傾げる。
戦闘態勢は解いていいというフカフカの言葉に、キロとクローナ
は釈然としないものを抱えながら武器を降ろす。
ミュトが小剣を鞘に収めながら、フカフカを見た。
﹁マッドトロルはこっちに気付いたの?﹂
﹁うむ、突然に身をひるがえし遠ざかった。あの動きは我らに気付
いたとしか思えぬが⋮⋮マッドトロルに相手を選ぶような知能はな
いはずだな?﹂
マッドトロルの正体は中に隠れている虫だとフカフカから聞かさ
れたばかりだ。
虫に本能以外の知能があるとは思えず、キロもまた首を傾げる。
︱︱イタチがしゃべるのに虫に知能はないのか。
ミュト達とは異なる方向に思考を割きながら、キロは一つの可能
性を提示する。
﹁俺達以外の獲物を見つけた、とかは?﹂
﹁我の索敵範囲外にマッドトロルの獲物がいたとは考えにくいが、
他に理由も思いつかぬな﹂
腑に落ちないと言いたげだったが、フカフカはキロの推測に賛成
票を投じる。
現実としてマッドトロルが逃げ出した以上、あれこれと推論を述
べても水掛け論にしかならない。
気になるなら確かめればいいとばかり、ミュトが地図を見つめな
がらフカフカに問いかける。
593
﹁マッドトロルの数と逃げた方角を教えて﹂
﹁数は三、二つ先の曲がり角を右に曲がった先からの音だ。すでに
我の索敵範囲からは出ておる﹂
﹁⋮⋮新洞窟道だ﹂
ミュトが街でメモしてきたらしい簡易地図と照らし合わせて、呟
く。
マッドトロルを逃がしたとはいえ、新洞窟道の発見は実績になる。
﹁測量に行くか?﹂
キロが問うと、ミュトはこくりと頷いて歩き出した。
マッドトロルの待ち伏せを警戒しつつ、洞窟道を進む。
新しい洞窟道はすぐに見つかった。
キロは目の前の新しい洞窟道の広さを目測し、顔を顰める。
洞窟道の幅が約二メートルと、槍を振るうには狭かったのだ。
高さはどうかとフカフカに頼んで光を少し上に持っていけば、五
メートルほど上に天井があった。
﹁俺が前を歩くけど、いいか?﹂
幅が狭いため咄嗟に前後の交代ができない事を見越して、キロが
申し出る。
フカフカがミュトの顔を見た後、キロに答える。
﹁槍を満足に振るえぬキロより、小剣を扱うミュトが前に出た方が
良かろう。特殊魔力もある﹂
﹁いや、ミュトの特殊魔力はあくまでも撤退時の切り札に残してお
きたい。狭いとはいえ、この幅を塞ぐだけの透明な壁をすぐに展開
できないだろ?﹂
594
それに、主に攻撃するのは自分じゃない、とキロはクローナに視
線を向ける。
﹁俺が槍を使って敵との間合いを維持するから、クローナが魔法で
片付けてくれ﹂
﹁任せてください﹂
クローナが杖を掲げてにっこり笑う。
心強い態度にキロも笑みを浮かべ、ミュトとフカフカを見る。
ミュトは困ったような顔をしたが、キロとクローナの連携は守魔
との戦いで見ているため、異論はないようだ。
キロ達を魔物との戦いで矢面に立たせることに抵抗はあるようだ
が、嫌々やっているわけではないとキロ達を見ていてわかったのだ
ろう、ミュトはクローナの後ろについた。
﹁進む方向の指示はボクが、索敵はフカフカがやるよ﹂
﹁あぁ、頼んだ﹂
各々の役割が決まったところで、キロを先頭にクローナ、ミュト
の順で隊列を組み、新しい洞窟道を歩き始める。
槍の間合いを確保できるよう、キロとクローナの距離は少し離れ
ていた。
︱︱他と比べて壁の凹凸が激しいな。
今まで見てきた洞窟道よりも、壁が荒く削り取られている。
ごつごつした壁は結露してできた水滴が幾筋かの流れを作ってい
た。
流れ落ちる水滴を飲んでいたらしいネズミがキロに気付いて道の
奥へと走り去る。
しばらくの直進の後、道が左右に分かれた。
595
キロはミュトを振り返る。
﹁左の道は行き止まりである﹂
音による判断か、フカフカが進言し、頷いたミュトが左の道を指
差した。
﹁先に左の道の地図を作るよ。魔物はいないようだから、僕が先行
する。後ろから来た魔物に挟み撃ちにされるかもしれないから、警
戒してね﹂
キロは頷き、隊列を入れ替えて道を進んだ。
何事もなく行き止まりまでの地図を作り終え、挟み撃ちされない
ようすぐに分かれ道へと戻る。
そしてまた別の道へと歩きだした。
幾度となく分かれ道を発見し、次第にキロは道が分からなくなっ
てくる。
﹁次は右だね。行き止まりになってるはずだから﹂
﹁その通りだ。右の道は七歩ほど進んだ先で左折できるが、行き止
まりになっておる﹂
しかし、ミュトは長年の勘によるものか、フカフカより先に地形
を把握し始めたようだ。
クローナが不思議そうにミュトを振り返る。
﹁どうしてわかるんですか?﹂
キロの抱いていた疑問をそっくりそのままクローナがミュトへぶ
つける。
596
ミュトは手元の地図を振った。
﹁壁の向こうにすでに僕らが歩いた道があるんだよ。この辺りはか
なり密に道ができているみたいなんだ﹂
﹁迷路状になってるのか。しかも、立体の﹂
﹁立体以外の迷路なんてできようがないよ?﹂
﹁地下世界だもんなぁ⋮⋮﹂
カルチャーギャップを覚えつつ、キロは呟く。
ミュトが右の道へ早足で進み、さっと地図を描き上げて戻ってき
た。
ミュトの肩の上から地図を覗き込んでいたフカフカが不意に顔を
あげる。
﹁どうかしたのか?﹂
キロの問いかけに対し、フカフカは無言のまま耳を動かし、目を
見開いた。
﹁︱︱お前達、逃げるぞ!﹂
突然、フカフカが叫んだ。
今まで一切の戦闘がなかったこともあって、キロは一瞬反応が遅
れたが、ミュトはすぐに身をひるがえした。
﹁付いて来て、はぐれないように!﹂
﹁待て、ミュト、お前は特殊魔力を練るのだ。急げ!﹂
走るために踏み出していた右足を軸に、ミュトが再度反転して片
腕を道の先に突きだす。
597
﹁キロ、クローナ、お前達はミュトの後ろへ付け。いつでも逃げだ
せるようにするのだ﹂
言われた通りにミュトの後ろへ付きながら、キロはフカフカに目
を向ける。
﹁何が起こってるんだ、フカフカ﹂
﹁マッドトロルが大挙して押し寄せてくる。我でも数の判断が付か
ん。逃げるより他にない﹂
﹁それなら、今すぐ逃げるべきじゃないですか?﹂
クローナが首を傾げるが、フカフカは不機嫌に尻尾を揺らす。
﹁ここから避難するなら村しかない。だが、村の戦力なんぞたかが
知れておる。あの群れが相手では必ず押しつぶされるだろう。我と
て好かんが、下種でも武器を持つ以上は戦力だ。ほれ、見えたぞ、
下種どもが﹂
見えない何者かをののしるフカフカに怪訝な顔をするキロ達だっ
たが、洞窟道の先からけたたましい足音が聞こえてきて気を引き締
めた。
フカフカが尻尾の明かりを強くし、道の先を照らす。
光にうっすらと浮かび上がった五つの人影には見覚えがあった。
︱︱ランバル護衛団か。っておい、後ろの⋮⋮ッ!
﹁アレが魔物なのかよ!﹂
うねる泥の津波と表現した方が妥当と思えるマッドトロルの群れ
を見て、キロは口元が引きつった。
598
第十三話 逃走劇
守魔の足を横取りしたランバル護衛団の五人がキロ達を見つけ、
絶望の中に一筋の光明を見つけたとばかりに瞳を輝かせる。
ランバル護衛団の後ろにはうねり迫る泥の波、キロはフカフカが
ミュトに特殊魔力を準備させた理由を理解し、動作魔力を練った。
フカフカがランバル護衛団へ怒鳴る。
﹁そこの五人、我が照らす場所を行け。さもなければ見えぬ壁に阻
まれ、死ぬぞ!﹂
フカフカの尻尾の光がスポットライトのように照らす範囲を狭め、
道の一部を照らす。
続いて、ミュトが特殊魔力を発動させ、見えない壁を生み出した
事を空気の流れが閉ざされた事でキロは知った。
﹁た、助かる!﹂
ランバル護衛団の一人がほっとした様に言葉を返し、直後に足を
もつれさせた。
何とか転倒は免れたものの、後方から迫る泥の波を振り返り絶望
したような表情を浮かべる。
だが、クローナが翻訳を頼むようにフカフカを一瞥した後、ラン
バル護衛団へ向けて声を張り上げた。
﹁そのまま、まっすぐ走ってください!﹂
ほのかに光を放っていたリーフトレージの光が弱まり、クローナ
599
の前に複数の石礫が出現する。
﹁⋮⋮当たりませんように﹂
背筋が寒くなるような呟きと共に、クローナが石礫を放つ。
足をもつれさせた護衛団の男が前から迫りくる石礫を見て目を瞑
る。
石礫は男の真横を飛び抜け、泥の波に炸裂した。
かなりの威力だったのか、泥の波の勢いが一瞬弱まる。
その隙をついて、ランバル護衛団がキロ達の目前まで来た。
﹁撤退する。ミュト、村への最短距離を行くぞ﹂
﹁分かってる﹂
一斉に泥の波に背を向けたキロとクローナの前にミュトが躍り出
て、道先案内を務める。
キロは疾走してきたランバル護衛団の誰かがまた転んだ時に助け
られるよう、集団の後ろについて様子を見る。
かなりの距離を逃げ回ったのか、息は荒く、多量の汗をかいてい
た。
ランバル護衛団の男の一人が先頭のミュトに呼びかける。
﹁この辺りは迷路になってやがる。俺達は完全に迷っちまった。あ
んたらは道が分かるのか?﹂
﹁ボクは地図師だ。ここまでの道は全部描いてある。そっちこそ、
体力は大丈夫?﹂
次に曲がる道を示しているのか、ミュトが右手を挙げつつランバ
ル護衛団に問いかける。
600
﹁体力的にはギリギリだが、動作魔力で補ってる﹂
﹁なら、切らさないようにね。もう助けている余裕はないから﹂
﹁⋮⋮おい、あんた、もしかしてミュトって地図師か?﹂
ランバル護衛団の別の男が眉を寄せてミュトを見る。
フカフカが警戒するように振り返った。
﹁信用できぬというのなら、好きな時に道を逸れるがよい。助ける
ために待ち受けておった我らを信じられぬ、というならな﹂
フカフカの言葉に、眉を寄せた男は舌打ちして背後のキロとクロ
ーナを見る。
﹁あんたら、組む相手は選んだ方がいいと思うぜ。この状況でわざ
と道を間違えるとは思わねぇけどよ﹂
男の言葉に、キロは舌打ちする。
︱︱助ける必要が本当にあったか疑わしいな。
キロは背後のマッドトロルの群れを見た後、前に顔を向ける。
元々道幅が狭いため、ランバル護衛団の五人にキロは道を塞がれ
た状態だ。
ただ一人の後衛であるクローナは動作魔力の使い方が下手である
ため、徐々に集団に後れを取り始めている。
このままでは、真っ先にマッドトロルの餌食となるのはキロかク
ローナだろう。
キロは先頭を走るミュトに向けて声を張り上げる。
﹁おい、ミュト、いまから先頭に出るから驚くなよ﹂
道幅一杯に走っていたランバル護衛団の面々が怪訝な顔でキロを
601
振り返る。言葉が理解できないからだろう。
しかし、翻訳の腕輪で言葉が理解できるはずのミュトとフカフカ
まで、ランバル護衛団と同じような顔で振り返った。
集団は密になっているため、追い抜く事は出来ないと思ったのだ
ろう。
﹁クローナ、ちょっと我慢しろよ﹂
唐突に声を掛けてきたキロに、集団について行くのがやっとだっ
たクローナが余裕のない瞳を向ける。
﹁な、何を我慢しろって︱︱きゃっ⁉﹂
キロは走りながらクローナの腰に手を回すと、動作魔力を使って
抱え上げた。
マッドトロルが迫るこの状況で人一人の重量を抱え込むキロの行
動を全員が訝しむ中、
﹁それじゃあ、行きますか﹂
トン、と軽くジャンプしたキロは洞窟道の壁に足をつけ、身体全
体に動作魔力を作用させる。
方向は、天井および足をつけた壁。
キロの行動にランバル護衛団が唖然として口を開く。
﹁嘘だろ⋮⋮?﹂
キロは洞窟道の壁を〝走って〟いた。
天井方向に作用させた動作魔力で姿勢を維持し、壁に向けて作用
させた動作魔力を重力の代わりとする。
602
常軌を逸した曲芸に目を疑うランバル護衛団の頭上を壁伝いに走
り抜けたキロは、ミュトさえ追い越して集団の先頭に躍り出る。
それは、キロが進行方向に対しても動作魔力を作用させていたの
だとキロを除く全員に錯覚させた。
実際には三方向のベクトルを一つに束ねて動作魔力を作用させて
いたのだが、走りながらその煩雑な作業を行うのも、三方向に動作
魔力を作用させるのと同様に難しい行為だ。
軽く壁を蹴って正しく地面に降り立ったキロは、抱えていたクロ
ーナを地面にゆっくりと下ろす。
クローナが着地の際に転ばないよう速度を落としていたため、ミ
ュトが追いついてきていた。
﹁器用という言葉で片付けるのも気が引けるよ﹂
﹁やろうと思えば案外できるもんだ﹂
﹁キロさん、やろうと思う所からすでにおかしいんですよ﹂
クローナに突っ込まれ、キロは肩を竦める。
キロは後ろのランバル護衛団を振り返り、壁を指差した。
﹁真似するのは構わないけど、結露していて滑りやすいから気を付
けろよ?﹂
ランバル護衛団は苦い顔をする。言葉が分からずとも、おおよそ
の意味を察する事が出来たらしい。
やりたくてもできないのだと、ランバル護衛団の表情が語ってい
た。
キロとクローナが先頭に出た事で、マッドトロルに一番近いのは
ランバル護衛団となった。
しかし、キロと同じように壁を走る事が出来ない以上、ランバル
護衛団は前に出る事が出来ない。
603
悔しそうな顔をするランバル護衛団を見て、キロは目を細める。
︱︱やっぱり、いざという時には囮にするつもりだったな。
ランバル護衛団の考えを見抜いて、キロはミュトを見る。
﹁このまま村に避難するとマッドトロルまでついて来る事になるけ
ど、良いのか?﹂
進行方向を指示するべく右手を挙げたミュトが口を開く。
﹁もちろん、引き離すよ。緊急避難用の経路がどの町や村にも用意
されてるから、そこを通る﹂
言葉を交わすうちに迷路状の新洞窟道を抜け、広い道に出た。奥
には左右に伸びる分かれ道が見える。
よし、と後ろを走るランバル護衛団が声を上げた。
﹁ここからなら俺達にも道が分かる。先に行かせてもらうぜ﹂
言うや否や、ランバル護衛団が速度を上げる。
動作魔力を使い、限界まで速度を上げているらしいランバル護衛
団はキロ達を引き離し、分かれ道を左に曲がった。
ミュトが慌てたようにランバル護衛団へ声を張り上げる。
﹁待って、避難通路は逆だよ。そのまま言ったら村に出ちゃう!﹂
引き留めるミュトの言葉に、ランバル護衛団の男達は舌打ちする。
﹁ずっと走ってて俺達は魔力に余裕がないんだよ。村に最短距離で
行かせてもらう﹂
﹁あんたには悪い噂もあるからな。命預けた長距離走なんかここで
604
終わりだ﹂
﹁村が心配だって言うなら勝手に囮役でもやってろ﹂
口々に身勝手な捨て台詞を残し、ランバル護衛団が村への道を駆
け出す。
︱︱あいつら⋮⋮ッ!
キロは内心で歯ぎしりしながらも、分かれ道を見る。
﹁ミュト、指示を頼む!﹂
キロがミュトを促す。
ミュトは一瞬ランバル護衛団を見たが、すぐ後ろに迫るマッドト
ロルを振り返り、焦りの表情を浮かべた。
﹁⋮⋮キロ、クローナ、左に行って。ボクが囮になる﹂
﹁分かった、全員で右だな﹂
﹁え⋮⋮?﹂
呆気にとられるミュトを無視して、キロはクローナに声を掛ける。
﹁左の道を土壁で塞いでくれ。俺達の方に全部引き付ける﹂
﹁そういう所が大好きですよ!﹂
クローナが笑みを浮かべ、分かれ道に着くや否や杖の魔力を使っ
て左の道を即座に塞ぐ。
込められた魔力が切れて土壁が消えた頃には、マッドトロルはキ
ロ達を追って分かれ道からいなくなっている事だろう。
ミュトが信じられない物を見るような目をキロとクローナへ向け
るが、フカフカが愉快そうに笑う。
605
﹁お前達のような人間がおる事、我は嬉しく思うぞ!﹂
﹁キロ、クローナも、何でこっちに来るの⁉﹂
全く違う言葉を掛けてくるミュトとフカフカに、キロは苦笑する。
﹁ついてこないと思う方がどうかしてる﹂
﹁で、でも︱︱﹂
ミュトが言い返そうとするが、フカフカが遮った。
﹁問答は後だ、愚か者。今は走る事に集中しろ﹂
尻尾で道の先を照らして促すフカフカの言葉にキロ達は頷き、洞
窟道を駆ける。
マッドトロル達は塞がれた左の道には目もくれず、キロ達を追っ
て右の道に侵入してくる。
振り返ってマッドトロル達が追いかけてきている事を確認し、ミ
ュトが少しずつ速度を上げ始める。
﹁この先の道を左折後、すぐの十字路を右折、その後は直進して。
ボクは先行して道を開けてくる﹂
﹁隠し扉でもついてるのか?﹂
﹁避難通路は魔物の侵入を防ぐために偽装してあるのだ。知恵のあ
る魔物もおるからな﹂
フカフカの説明にキロは納得し、ミュトを送り出す。
ミュトが心配そうにキロ達を振り返りつつ、先に道を左折する。
キロとクローナが続いて道を曲がった時、ミュトはすでに十字路
を右折していた。丁寧な事に、曲がった先からフカフカが一瞬だけ
十字路を照らしてくれた。
606
クローナがフカフカの代わりに足元を照らそうと、魔法の光を生
み出そうとするが、動作魔力を使って走っている事もあって四苦八
苦している。
キロが代わりに魔法の光を灯すと、クローナは申し訳なさそうに
軽く頭を下げた。
十字路を右折すると、はるか先にフカフカとミュトがいた。
ミュトがキロ達へ手を振り、フカフカが尻尾の光でキロ達の足元
を照らす。
キロは背後を振り返り、マッドトロルとの距離を測る。
﹁クローナ、もう一回運ばせてもらうぞ﹂
﹁⋮⋮変なところは触らないでくださいね﹂
﹁この状況で軽口を叩けるんだから大物だよ﹂
キロは苦笑して、クローナの腰に腕を回す。
動作魔力を練り、クローナを抱えた瞬間、キロは急加速した。
移動をキロに任せて、クローナが残った魔力で背後のマッドトロ
ルに向けて数発の石弾を撃ち込む。
泥の波と化していたマッドトロルはクローナの石弾を受けて前面
が弾け飛び、速度をわずかに緩めていく。
ミュトが洞窟道の壁に開いた、人が二人ほど入れる程度の大きさ
の穴を指差す。
﹁先に入って!﹂
ミュトの言葉に頷き、キロはクローナを抱えたまま穴へ飛び込む。
続けて入ったミュトが穴の壁に手を触れると、動作魔力を通した
のか、横からせり出た壁によって入り口が塞がれた。
︱︱閉まれ、ごまってやつか。
ひとまずマッドトロルから逃げおおせたらしい、とキロがほっと
607
した直後、壁の向こうにいたマッドトロル達が入り口をこじ開けよ
うと体当たりしてきた。
本体は虫であっても、魔力を使って身体に纏う泥の質量はバカに
できない。
入り口をふさぐ壁が揺れる。
﹁ミュト、特殊魔力を使ってこちら側から壁を固定するのだ﹂
冷静にフカフカが指示し、ミュトが右手を突き出して透明な壁を
作る。
直後、あれほど頼りなく揺れていた入口の壁が微動だにしなくな
った。
フカフカがキロとクローナに視線を向ける。
﹁今の内に奥へ進むぞ。別の隔壁があるのでな﹂
休む間もなく、キロ達は避難通路の奥へと駆け出した。
608
第十四話 誤解
二つの隔壁を開け閉めして、キロ達は避難通路の先に明かりを見
つけた。
狭い避難通路を抜け出たキロ達は、待ち構えていた武装した村人
の集団を見て足を止める。
統一されてはおらず、思い思いの武装ではあったがどの人物も構
えは立派で、連携が取れるように陣を組んでいた。
集団の統率者らしき年かさの女が構えていた弓を降ろしてキロ達
を手招く。
背後の避難通路を振り返ったキロ達だったが、年かさの女の指示
に従って集団の前に進み出た。
﹁マッドトロルを引き連れてきたというのはお前達か?﹂
年かさの女がキロ達を順繰りに眺め、目を細める。
マッドトロルの情報が伝わっているという事は、ランバル護衛団
の五人は無事村に到着したのだろう。
だが、年かさの女が言った、引き連れてきた、という言葉がキロ
は気になった。
キロはミュトに耳打ちする。
﹁多分、ランバル護衛団が事実を捻じ曲げて伝えてる﹂
ミュトが頷いて、年かさの女に事情を説明した。
誤解を解くためにランバル護衛団と出会ってからの事を詳細に話
すが、年かさの女は全て聞き終わっても懐疑的な視線をキロ達へ向
けていた。
609
﹁話が食い違ってるねぇ﹂
面倒臭そうに頭を掻いた年かさの女は鋭い目つきで背後の村を振
り返る。
﹁だけど、守魔の足を切り落とした実績もある事だし、ランバル護
衛団の連中の方が信用できるかねぇ﹂
呟かれた言葉にキロはため息を吐いた。
年かさの女の誤解を解こうとしても、もう無駄だろうと判断して、
キロはフカフカだけが聞き取れる程度の小さな声で呟く。
﹁とにかく、避難通路を封鎖するよう言ってくれ。隔壁を壊してマ
ッドトロルが村に乗り込んできたら、苦労が水の泡だ﹂
フカフカがキロを見て、了解とばかりに尻尾を振り、ミュトの肩
の上で立ち上がった。
﹁ランバル護衛団の嘘などどうでもよいが、マッドトロルに襲撃さ
れた事だけは我らの話と同じであろう? 避難通路を塞ぎ、襲撃に
備えるべきだ﹂
一瞬驚いたようにフカフカを見た年かさの女は、それもそうかと
頷いて武装した村人達に向き直った。
﹁土嚢を積んで避難通路を封鎖、数人の見張りを立てて、他は村入
口に防護柵を張りな。魔力は使うんじゃないよ!﹂
矢継ぎ早に指示を飛ばした年かさの女が手を叩くと、村人たちが
610
一斉に動き出した。
普段から訓練しているのか、流れるような動きだ。
年かさの女は村人達の動きを満足げに眺めまわし、キロ達に向き
直った。
﹁そこの尾光イタチはどうでもいいと言ったが、あたしらにとって
は避難通路を使わず村へ直に来ようとした馬鹿どもを無視できない
んだよ。下手をすりゃ、村ごと全滅だったんだからね。そんな自分
本位な奴には背中を預けられない﹂
腕を組んで断言した年かさの女は、しかし、とため息を吐き出し
た。
﹁ランバル護衛団の連中にしろ、あんたたちにしろ、戦力になる事
は確かだ。村の防衛戦に組み込ませてもらうよ﹂
詳しい配置は地図師協会で話す、と年かさの女はキロ達に背を向
けた。
ついて行くしかないのだろう。
避難通路に土嚢を運び込む村人の冷たい視線に背中を刺されなが
ら、キロ達は歩き出した。
地図師協会はこじんまりした建物だった。
入り口そばに大量の資料が収まった本棚が鎮座しているのはこの
村でも同じだったが、建物全体の小ささに反比例して圧迫感が大き
い。
年かさの女がキロ達を振り返り、奥へと誘導しながら口を開く。
﹁新洞窟道の調査をしていたって話だけど、どれくらいできてるん
611
だい?﹂
﹁避難通路込みで滝壺の街からここまでは確認済み。マッドトロル
がいた迷路状の場所はまだ完全ではないけど﹂
﹁迷路状ね。マッドトロルは巣を作らない筈なんだけどねぇ﹂
疑うように言って、年かさの女はミュトを見る。
﹁見ますか?﹂
﹁⋮⋮疑って悪かったよ﹂
しかし、ミュトが地図を掲げて見せると素直に謝った。
地図そのものが偽造であるとは思わないらしい。
協会の奥にはランバル護衛団の五人が待っていた。他に老婆が一
人と中年の男女が二人ずつ、椅子に腰かけている。
﹁噂の地図師が来たよ﹂
年かさの女が紹介すると、中年の男女による鋭い視線がキロ達に
注がれた。
しかし、老婆だけはキロ達ではなく中年の男女を睨み、真っ先に
口を開く。
﹁客人になんて目を向けるんだい! これから戦う相手はそこの客
人じゃなくマッドトロルだろう。謝りな!﹂
老婆に一喝された中年の男女四人が狼狽える。
しかし、老婆はさっと立ち上がるとキロ達へ深々と頭を下げた。
﹁疑心暗鬼になっているんだ。申し訳ない﹂
612
この世界で初めて見たかもしれない真摯な対応に、キロはクロー
ナと顔を見合わせた。
椅子を進められ、キロ達は老婆の横に腰を下ろす。
﹁マッドトロルが群れているって話は本当なんだね?﹂
老婆がミュトに問う。
ミュトが証言しようとすると、ランバル護衛団の一人が立ち上が
り、ミュトを指差した。
﹁こいつには良い噂がねぇんだ。単なる噂だと俺達は高を括ってた
が、今回の件ではっきりした。こいつは平気で自分以外の奴を見殺
しにする屑野郎だ!﹂
立ち上がった者が叫ぶと、すぐに他の者が同調して騒ぎ出す。
ランバル護衛団の罵声を聞きながら、キロはフカフカにだけ聞こ
える声で、呟く。
﹁︱︱俺の言葉を翻訳してこいつらに伝えてくれ﹂
フカフカがキロを見て、了解と答えるように尻尾を揺らした。
﹁そこの五人は守魔の足を切り落とすほどの腕前の持ち主だ。最前
線に配置するべきだと思う﹂
フカフカがキロの肩に乗り、翻訳して告げると、あれほど騒いで
いたランバル護衛団が顔を青くして口を閉ざした。
﹁俺達みたいに〝平気で自分以外の奴を見捨てる奴〟よりも役に立
つさ。士気の向上にもつながる。いやぁ、心強い限りだな﹂
613
﹁⋮⋮今の話、本当かい?﹂
老婆が問うと、一同の視線がランバル護衛団に向かう。
目を泳がせるランバル護衛団を見て、老婆が目を細めた。
﹁否定しないんだね。否定しても、肯定しても、この騒動が収まっ
たらそこらの街へ問い合わせるが、どうなんだい?﹂
﹁⋮⋮あ、足は切り落とした。だが、守魔を倒したわけではなくて
だな。あまり当てにしてもらっても困る、というか﹂
しどろもどろに老婆の質問に答えつつ、ランバル護衛団が忌々し
そうにキロを見る。
キロは無視した。
老婆は眉を寄せ、年かさの女を見る。
﹁マッドトロルの群れを食い止める。最前線にはランバル護衛団と
そこの地図師達を配置する。連携も取れそうにないからね﹂
真実を突き止めるのは無理と判断したのか、老婆は一方的に通告
する。
双方を最前線に置いたのは、仮に逃げ出してもすぐに対応ができ
るからだろう。
もっとも、村を襲われる以上、逃げ場があるかは疑問だった。
しかし、ミュトが困ったようにキロを見た。
何か言いたそうではあるが、険悪な雰囲気に気圧されて口が利け
ずにいるらしい。
キロはさりげなくミュトの口元に耳を寄せた。
ほっとしたように、ミュトがキロの耳に囁く。
﹁救援を呼び行くべきだと思うんだけど、この辺りの地図は最近更
614
新されてないから⋮⋮﹂
当然の意見に、キロはフカフカに翻訳を頼みつつ挙手して発言許
可を得る。
﹁救援依頼は出しましたか? 出していないなら、こちらには地図
を提供する用意もあります﹂
老婆がキロを見て、微笑んだ。
﹁助かるよ。この村には長らく地図師が来なかったものだから、街
までの道が分からないんだ﹂
﹁信用できる地図かは疑問だけどな﹂
ランバル護衛団が口を挟むが、老婆は無視した。
ミュトが縮こまりながら地図を老婆へ差し出す。
老婆は地図を一目見て、頷いた。
﹁迷いのない線で描かれた良い地図だ。これだけ自信を持って描い
た地図なら疑う余地はないよ﹂
ミュトの描いた地図は本物だと太鼓判を押して、老婆は年かさの
女へ地図を渡した。
﹁すぐに人を走らせな。隠密行動の出来る足が速い奴を見繕うんだ﹂
老婆の指示を受け、年かさの女は地図を片手に協会を出て行った。
老婆はランバル護衛団とキロ達を見回し、口を開く。
﹁戦いに備えて体を休めておきなさい。防衛戦になる以上、死体が
615
出ると処理に困るんだ。死ぬんじゃないよ?﹂
中年女性二人が老婆の目配せを受けて立ち上がる。
宿に案内してくれるらしい。
老婆と中年男性二人が作戦を話し合っているのを聞きながら、キ
ロ達は協会を出た。
ランバル護衛団が睨んでくるが、キロはクローナとミュトを庇う
ように視線を遮って歩く。
案内されたのは小さな宿だった。部屋も二部屋しかないらしい。
﹁男女で泊まる部屋を分ける事も出来ますが⋮⋮﹂
中年女性がキロ達とランバル護衛団を取り巻く空気を気にして口
籠る。
クローナがミュトに相談するような視線を向ける。
﹁多分、キロさんならあの五人を返り討ちに出来ますけど、どうし
ます?﹂
﹁⋮⋮出来るの?﹂
﹁いやいや、無理だから。せめて廊下で寝かせろ﹂
クローナの過大な評価を否定して、キロは代替案を提示する。
ランバル護衛団もキロと同じ部屋に泊まりたくはないらしく、嫌
そうに口を開いた。
﹁何人部屋だかしらないが、七人で泊まれるような部屋なのかよ﹂
︱︱七人?
ランバル護衛団が提示した人数に違和感を覚えたキロはすぐに思
い至る。
616
ミュトは男装しているのだ。
男に含められたミュトが焦りの表情を浮かべた。
﹁クローナ、キロとボクも同じ部屋でいいよね?﹂
﹁⋮⋮そうですね。キロさんは私が見張っていればいいですし﹂
﹁クローナは俺の何を警戒してるんだ﹂
げんなりしたキロが訊ねると、クローナは唇を尖らせた。
﹁⋮⋮だって胸触ったじゃないですか﹂
クローナの呟きを拾って、それまで黙っていたフカフカが楽しげ
に尻尾を揺らす。
﹁ミュトに嫉妬しておるのか﹂
クローナがキロとミュトの関係に嫉妬していると聞いて、ランバ
ル護衛団がキロから距離を取る。
﹁こいつ、そっちの趣味かよ﹂
﹁おいおい、勘弁しろよ﹂
フカフカの発言を誤解したランバル護衛団の言葉に、キロは頭を
抱えた。
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第十五話 魔力の味
キロ達が通された客室に置かれたベッドは二つだけだった。
誰からとなく顔を見合わせる。
﹁男女で分かれて眠ればよいだろう。疲れを取るのが最優先である
からな﹂
フカフカの鶴の一声で割り振りが決まり、キロは荷物を置いてベ
ッドに腰掛けた。
向かい合わせにもう一つのベッドに腰掛けたクローナとミュトを
見て、キロは声を掛ける。
﹁前にも聞いたけど、なんで男装してるんだ?﹂
初対面でもぶつけた質問ではあったが、答えを貰っていなかった。
ミュトが男装していなければ、誤解を招くこともなかったのだと
思うと自然と恨み節になる。
ミュトが視線を彷徨わせた。
﹁女は地図が読めない方向音痴だって偏見を持ってる人が居るんだ
よ﹂
﹁︱︱という建前で?﹂
キロは再び問う。
ミュトが男装を始めた時期は判らないが、養成校を出ている以上
は実力が証明されているはずだ。
地図師協会でも女性が受付をやっていたため、偏見が根強い物と
618
は考えにくい。
また、ここは上層であり、実力を認められたものだけが探索を許
可される階層だ。
偏見もだいぶ緩いだろうと思えた。
ミュトは力なく笑う。
﹁うん。今のは建前だよ。一応、養成校時代から地図師を目指す女
性は男装するけどね。どうしても人気のない暗がりを歩く事になる
仕事だから、ほとんど義務みたいなものなんだ﹂
﹁ミュトは味方もいないのでな。襲われればひとたまりもない﹂
フカフカが呟き、ミュトは眉を八の字にする。
﹁もっとも、襲う物好きがいるのか、我には疑問であるがな﹂
一言多いフカフカに、ミュトが微妙な顔をする。
その時、ぐぅ、と誰かの腹が鳴った。
自分が音の出所でない事を知るキロはクローナとミュトに視線を
向ける。
﹁腹が減ったのである﹂
意外にも、自首してきたのはフカフカだった。
﹁ミュトよ、魔力を寄越せ﹂
フカフカがミュトに期待のまなざしを向けてねだる。
先ほど余計なひと言を呟いたというのに、フカフカには悪びれる
様子が微塵もない。
ミュトは特に怒った様子もなかったが、フカフカの期待を袖にし
619
た。
﹁マッドトロルから逃げる時に特殊魔力を使い切っちゃったんだよ﹂
﹁なんと⋮⋮なんという事だ⋮⋮﹂
絶望の色さえ滲ませて、フカフカが呟く。
︱︱そういえば、魔力食動物とか言ってたな。
フカフカはしょんぼりと尻尾を垂らし、頭を下げる。
﹁⋮⋮いたしかたない。普遍魔力でもよい。寄越せ﹂
顔を挙げて再度ねだるフカフカに、ミュトは首を振った。
﹁普遍魔力もほとんど残ってないよ。気絶するからダメ﹂
﹁⋮⋮ランバル護衛団め、つくづく恩をあだで返す輩だ。耳を齧り
取ってやろうか﹂
不穏な発言をするフカフカに苦笑して、キロは声を掛ける。
﹁特殊魔力なら俺も持ってるけど﹂
直後、フカフカが身をひるがえし、キロに向かって跳躍した。
毛並みの良い尻尾がはためき、宙を駆けてキロの肩に降り立った
フカフカはすぐさまキロの髪の毛を一本引き抜いて飛び降りた。
髪を引き抜かれた痛みにキロが顔を顰め、文句を言おうとフカフ
カを振り返る。
﹁おい、いきなり何し⋮⋮ふかふか、何してんだ?﹂
引き抜いたキロの髪の毛の先を口に含み、フカフカが首を傾げる。
620
﹁むろん、食事である﹂
キロの髪の毛の先をちゅるちゅると吸いながら、フカフカが答え
る。
キロがドン引きしていると、ミュトが困ったように笑いながら説
明した。
﹁髪の毛の残留魔力を吸ってるんだよ。味見みたいなものだね﹂
﹁味見って言われても、正直な話、気色が悪いんだけど﹂
自分の髪を吸っている生き物というのは、見ていて楽しいはずも
ない。
キロとミュトが言葉を交わしている内に〝味見〟が済んだらしい。
フカフカがキロの髪から口を離し、舌を出した。
﹁⋮⋮うぇっぷ。なんだこれは。新鮮さに満ち満ちておる。まるで
生き返るようだ。だが、何か大切な物が抜けておるせいでとんでも
なく不味い。栄養過多だ。太るぞ、これは﹂
はっきり不味いと言われ、キロは頭を掻く。
クローナが興味を惹かれたようにフカフカへ身を乗り出す。
﹁魔力に味があるんですか?﹂
﹁普遍魔力にはない。だが、特殊魔力は味ものど越しも様々だ。キ
ロの魔力はかなり不味いが、のど越しは悪くないな﹂
喜んでいいのかよく分からない評価にキロは戸惑うが、ふと思い
出してフカフカに顔を向ける。
621
﹁クローナも特殊魔力持ちだ﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
フカフカの目が光る。
瞬時に防御姿勢を取ったクローナの横を走り抜け、フカフカは背
後からクローナの背中に飛びついた。
例のごとく一本の髪を抜いたフカフカは、クローナの反撃を避け
てベッドの下へと潜り込んだ。
反撃が届かないと知って、クローナがゆらりと立ち上がる。
ミュトが慌てて袖を掴んで引きとめるが、クローナは不敵な笑み
を浮かべるだけで眼もくれない。
﹁キロさん、私の方にけしかけるのはどうかと思いますよ?﹂
﹁いや、どんな評価が下されるのか少し興味が⋮⋮って、お前、ち
ょっとやめ︱︱﹂
いきなり飛び掛かったクローナがキロをそのままベッドに押し倒
し、わきの下をくすぐり始めた。
キロは笑い転げながら逃れようとするが、クローナに完全に抑え
込まれていて思うように動けない。
﹁⋮⋮えっと﹂
じゃれ合うキロとクローナを前に、喧嘩が起こるかとハラハラし
ていたミュトは反応に困っていた。
フカフカがベッドの下から顔を出す。
﹁何を遊んでおるのだ、お前達は﹂
呆れたように言うフカフカに、キロはくすぐり地獄に耐えながら
622
クローナの魔力の味について尋ねる。
フカフカはうぅむ、と唸り、言葉を選ぶような間を開けた。
﹁美味いような、不味いような。味があるようで、ないような。味
の天秤がグラグラしておる。どうにも判断が付かぬ﹂
本当に評価を下しかねている様子で、フカフカは唸りながら天井
を仰ぐ。
﹁キロの魔力よりはマシだがな﹂
フカフカの最後の呟きを聞いたクローナはキロに向き直り、微笑
んだ。
﹁許してあげます﹂
﹁現金だな、おい﹂
くすぐり地獄から解放されて、キロは身体を起こす。
クスクスと忍び笑いが聞こえて顔を向ければ、ミュトが口に片手
を当てて笑いをかみ殺していた。
クローナがキロをちらりと見た後、立ち上がってミュトに向かう。
﹁何を笑ってるんですか。もとはと言えばミュトさんが魔力を使い
果たすからいけないんですよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
対岸の火事だと思っていたミュトがクローナの言葉にきょとんと
する。
しかし、手を不審な動きで握ったり開いたりしながら近づいてく
るクローナを見て、飛び火してきた事を悟ったらしい。
623
ミュトは慌てて腰を浮かすが、クローナの動きの方が早かった。
﹁ま、待って、クローナ、そういうの苦手だから︱︱﹂
最後は言葉にならず、ミュトはクローナにくすぐられて身動きが
できなくなっていた。
一線を引いてばかりいるミュト相手にはちょうどいいスキンシッ
プだろう。
キロはじゃれあう二人を眺めていたが、ふと肩に重みを感じて目
を向ける。
いつの間にかフカフカが肩に乗っていた。
﹁⋮⋮ミュトを笑わせた事、誉めてやろう﹂
﹁お前、保護者みたいだよな﹂
囁きかけてくるフカフカに横眼を投げて、キロは呟いた。
フカフカが尻尾を揺らす。
﹁おぬしの心配もしてやろうか?﹂
﹁自分の事くらい自分でできる﹂
﹁子供は皆、その言葉を口にするものだ﹂
﹁大人の振りするなら自分の手が届く範囲にだけ気を配れよ。手を
広げ過ぎると逆に心配されるだろ﹂
﹁生意気な﹂
キロが言い返すと、フカフカは満更でもなさそうに鼻を鳴らす。
コンコンと扉がノックされて、中年の女が顔を出した。
盆の上に野菜のスープやパン、チーズが置かれている。
﹁状況が状況ですから、簡単な物しか出せませんが、よろしければ
624
どうぞ﹂
お盆を置いて、中年の女は廊下へと戻っていった。
開いた扉の隙間から料理を載せたカートが見え、上に置かれた肉
や干した果物も視界に入る。
︱︱格差だなぁ。
村としても、実績のない若い地図師とさして強そうに見えない細
い体格の若い護衛二人より、曲がりなりにも中層および上層で活動
する大規模な護衛団に所属している五人の方を優遇するだろう。
﹁期待されてなさそうですね﹂
キロと同じものを見たのだろう、クローナがパンを齧りつつ言う。
クローナの横ではミュトがぐったりとベッドに突っ伏していた。
のろのろと身体を起こしたミュトは、クローナからさり気なく距
離を取る。
クローナの動きを警戒しつつ、お盆の上からパンを取ったミュト
が口を開いた。
﹁期待されてないならそっちの方がいいよ。マッドトロルがあんな
にいたんじゃ勝てっこないから﹂
﹁実物を見て思ったんですけど、マッドトロルってどうやって倒す
んですか? 本体の虫がどこにいるのか、皆目見当がつかないんで
すけど﹂
クローナが顔を向けて質問すると、ミュトは一瞬怯えたように身
をすくませて答える。
﹁泥ごと吹き飛ばして飛び出た本体を駆除するか、本体である虫の
魔力が切れるまで戦い続けるかの二択だよ。本来、あんな風に群れ
625
る魔物じゃないから、この方法で対処できるんだけど、今回は⋮⋮﹂
マッドトロルの数が多すぎて泥ごと吹き飛ばす事さえ困難を極め
る。
﹁本体の虫を駆除しない限り、何度でも泥を纏い直すから厄介なん
だ﹂
﹁火か何かで泥を乾かして動けなくしてしまえばいい気がしますけ
ど﹂
﹁火はダメだよ。ボク達まで煙に巻かれて窒息するから﹂
一酸化炭素中毒の事を言っているのだろう。
クローナはよく分からなそうだったが、火を使ってはいけない事
だけは理解したらしく、困ったように眉を寄せる。
﹁どうするんです?﹂
﹁街から応援が来るまで堪えるしかないんじゃないかなぁ﹂
消極的だが現実的な意見を口にして、ミュトはパンを頬張った。
それが甘い見通しだと知るまで、そう長くはかからなかった。
626
第十六話 防衛戦
食事を終えて仮眠を取っていたキロ達は、部屋の扉を激しくノッ
クされて目を覚ました。
キロは槍をひっつかんでベッドから飛び起き、扉を開け放つ。
額に汗を浮かべた年かさの女が立っていた。
﹁すぐに村の入り口へ向かって。マッドトロルが押し寄せてくるか
ら﹂
﹁︱︱待て、まだ襲来してはおらんのか?﹂
キロの肩に飛び乗ったフカフカが、年かさの女の言葉に突っ込む。
年かさの女は苦い顔で眉を寄せた。
﹁街へ救援を呼びに行かせた者達がマッドトロルと遭遇して、引き
返してきたんだよ。数が多すぎて突破できない、と﹂
それだけ言い残して、年かさの女は隣の部屋へと向かう。ランバ
ル護衛団が泊まっている部屋だ。
キロは部屋を振り返る。
クローナが杖を片手に、準備は万端だと示す。
ミュトも小剣を佩き、頷いてきた。
﹁戸締りはしておけよ。前科のある輩もいるのだからな﹂
フカフカが隣の部屋に視線を向けながら注意を促す。
クローナが苦笑した。
ミュトが扉の鍵をかける頃には、ランバル護衛団がぞろぞろと出
627
てくる。
キロと目が合うと、ランバル護衛団の一人が鼻を鳴らす。
﹁⋮⋮足は引っ張るなよ﹂
﹁お互い、助ける余裕はなさそうだからな﹂
キロが肩を竦めて放った言葉をフカフカが翻訳する。
ランバル護衛団は舌打ちして宿の外へと出て行った。
キロ達も宿を出て、村の入り口へと向かう。
野菜を育てている村らしく、入り口近くには畑が広がっていた。
入り口となる洞窟道の近くに第一防衛線となる浅い掘りと土嚢、
畑の真ん中に第二防衛線となる高く積まれた土嚢、畑の終わりであ
り民家が乱立する部分との境には今まさに土嚢を積み上げている最
終防衛線がある。
キロ達の担当は第一防衛線である洞窟道の近くだ。
前を行くランバル護衛団が丸盾を構え、幅広の剣を肩に担ぐよう
に振りかぶる。
狡い真似ばかりしていたにしては、なかなかの連携だった。
五人横一列となって正面を向いたまま互いの速度をぴったり合わ
せている。
しかし、フカフカがミュトの肩で舌打ちする。
﹁連中、開けた場所での戦闘は経験が無いようだな﹂
﹁なんで分かるんだ?﹂
﹁側面への警戒を一切しておらん。左右が壁の洞窟道ならいざ知ら
ず、ここで左右を見ないのでは囲まれて終わりだ﹂
ランバル護衛団への助言も含んでいるのだろう、フカフカが大声
で説明する。
ランバル護衛団は肩越しにフカフカを睨んだが、すぐに左右への
628
警戒を始めた。
﹁つくづく世話のかかる阿呆共であるな﹂
呆れたようにフカフカが呟く。
そうしている内に第一防衛線である土嚢と堀が見えてきた。
すでに武装した村人が何人かマッドトロルを相手に戦闘を開始し
ている。
﹁⋮⋮数が増えてないか?﹂
キロは堀の向こうにいるマッドトロルの群れを見て眉を寄せる。
地面からキロの肩くらいの高さまで伸びる流動する泥の円柱が目
視できるだけで二十体以上、洞窟道の奥からは今もひっきりなしに
侵入している。
洞窟道で迎え撃たず、村に引き込んだのはこれが理由だろう。
洞窟道ではマッドトロル同士が融合してしまい、泥の量が増えて
しまうのだ。
しかし、村に引き込み一匹ずつ処理しようにも、数が多すぎた。
今も剣を持った村人がマッドトロルを何度も突き刺しては泥を弾
き飛ばし、本体である虫を探している。
主戦力となる魔法使い達が村に侵入したマッドトロルを少しずつ
倒しているものの、中の虫が無事だったためか、復活する場合があ
るようだ。
本体の虫を確実に殺していかなければ、数の暴力を前になすすべ
なく飲み込まれる事だろう。
ランバル護衛団が戦線に加わる。
次の瞬間、ランバル護衛団は前線にいたマッドトロルを丸盾で弾
き飛ばした。
動作魔力を込めて放たれた、突き上げるような一撃はマッドトロ
629
ルが纏っていた泥を高く打ち上げ、中にいた虫を露出させた。
コガネムシに似た青い虫は、話に聞いたマッドトロルの本体だろ
う。
羽は退化しているらしく、重力に従って落ちてきた本体の虫を踏
み殺し、ランバル護衛団はすぐさま前進を再開した。
﹁あれ、あの人達、強くないですか?﹂
意外な物を見た、という顔でクローナが同意を求めてくる。
刹那の邂逅で踏み殺されたマッドトロルは五匹、護衛団各人が一
匹ずつ殺した計算だ。
﹁きっと、洞窟道ではあの技が使えなかったんだよ。マッドトロル
の数が多すぎて、泥を弾き飛ばして処理できなかったんだ﹂
ミュトが予想を口にする。
奥行きのある洞窟道でマッドトロルが群れてしまうと、正面の一
体を弾き飛ばした直後に後ろの一体が出てきてしまうため、殺す暇
がない。
だが、マッドトロルが分散している今ならば盾で弾き飛ばす攻撃
が有効となる。
ランバル護衛団が次々にマッドトロルを踏み殺していき、村人達
が歓声を上げた。
前線が押し上げられ、村人が安堵し始めたのが分かる。
キロ達が到着しても、誰一人目もくれなかった。
気にしても仕方がない、とキロは駆けながら槍を脇に挟んで構え、
左手を自由にする。
自由にした左手に魔力を集中、正面に突きだした瞬間に魔法を発
動させた。
生み出されたのは半開きにした傘のような、円錐形の石弾。
630
動作魔力を込めて打ち出された石弾は正面にいたマッドトロル三
体を次々に打ち抜き、その特異な形状を持って泥を周囲に弾き飛ば
す。
直後、キロは動作魔力を自身の身体に作用させて急加速する。
泥を吹き飛ばされ、露わになった本体の虫をすれ違いざまに槍で
切り、両断して払い落とす。
一瞬にして三匹のマッドトロルを切り殺したキロは上半身を軸に
槍を半回転させ、動作魔力を使わずに槍の柄で四匹目を逆袈裟に叩
き上げる。
キロが与えた衝撃に抵抗するように、マッドトロルが動作魔力で
泥のうねりを作り出し、形を保とうとする。
キロは躊躇なくマッドトロルの身体に左手を押し当てた。
マッドトロルが生み出した泥のうねりに自らの動作魔力を加え、
マッドトロルの身体へ直に流し込む。
キロが動作魔力を上乗せしたために、マッドトロルの泥のうねり
は急加速し、斜め下の地面へと一気に流出した。
泥と共に地面へと叩きつけられた本体の虫が周囲の泥を集めよう
とするが、キロは槍の石突で突き殺す。
︱︱泥で隠れてるのは面倒だけど、維持する力は強くないな。
泥を固く維持してしまうと衝撃が全体に回ってしまうため、衝撃
をいなせるように弱くしているのだろう。
与えられた衝撃が弱ければ形状維持のために動作魔力で抵抗し、
強ければ抵抗せずに泥を弾けるままに任せる。そういう生態らしい。
感触を確かめたキロが、次の獲物を探すべく視線を巡らせた時、
上から落ちてきた石の板が固まっていたマッドトロル五匹を一度に
下敷きにした。
マッドトロルは突然降ってきた石板に押し潰されまいと抵抗する
が、すぐに押し負け、湿った音を立てて圧死した。
﹁クローナ、いくらなんでも力任せすぎないか?﹂
631
石板の上に立っていたクローナが腰に片手を当てる。
﹁いまは戦線を押し上げる方が大事です。十匹くらいまでならまと
めて潰せると思いますよ﹂
頼もしいセリフを口にして、クローナが視線を逸らす。
クローナの視線を追った先にはミュトがいた。
マッドトロルの一部分をフカフカが尻尾の先で照らし、ミュトが
小剣を一閃する。
一文字の線が走った直後、支えを失ったように泥の塊は自壊した。
ミュトの周りには同様にして作り出されたらしい泥の小山が三つ
出来ていた。
どうやら、本体の虫の位置を特定して切り殺しているらしい。
視線に気付いたミュトがキロ達の元へ駆け寄ってくる。
﹁虫の位置が分かるのか?﹂
キロが問うと、ミュトは首に巻き付いているフカフカを指差した。
﹁ボクじゃなくてフカフカが分かるんだよ﹂
﹁正確には、虫ではなく泥に込められた動作魔力の流れが見えるの
だがな﹂
フカフカが顔を挙げ、キロに告げる。
﹁自らが食す物だ。見えぬわけが無かろう﹂
﹁水は見えませんけど?﹂
﹁︱︱我らはどうやら高威力の遊撃部隊となった方がいいようだな。
マッドトロルが集まっている所へ出向き、数を減らすべきであろう﹂
632
クローナが挙げた例を聞き不利を悟ったのか、フカフカが素早く
話題を変える。
キロも戦場で悠長に雑談する気は無い。
周囲を見渡せば、堀と土嚢で構築した防衛線に陣取ってマッドト
ロルの進行を食い止める村人達と、連携しながら正面のマッドトロ
ルを踏み潰していくランバル護衛団が見える。
どちらも継戦能力は高そうだが、単位時間当たりの撃破数は少な
い。
キロ達の場合、個々人で複数のマッドトロルを撃破する戦闘能力
があるが、その分多くの魔力を使うため長時間は戦えない。
そして、未だにマッドトロルは洞窟道から湧いて出てきており、
処理が追いつかず、数は増える一方だ。
﹁防衛線に向かうマッドトロルを優先的に撃破して、村人の負担を
減らそう。適度に防衛線の裏に引き返して休憩を取りつつ、粘る﹂
キロが槍を脇に挟んで構え直し、作戦を伝える。
クローナがフカフカを見た。
﹁全体の把握と撤退指示はフカフカさんが良さそうですね﹂
﹁任せるがよい﹂
フカフカが請け負い、キロ達は顔を見合わせて互いに異論がない
事を確かめる。
﹁フカフカ、標的の選択をお願い﹂
ミュトが頼むと、フカフカは尻尾の光をスポットライトのように
して、十匹近くのマッドトロルの集団を照らした。
633
キロが動き、クローナとミュトが続く。
即席と言ってよい三人と一匹の組が数倍の数のマッドトロルを蹴
散らし始める。
しかし、キロ達の働きに村人が気付く前に事は起こった。
634
第十七話 集合体
マッドトロルの残骸である泥がぬかるみを作り始めても、キロ達
は足場の悪さをものともせずに討伐を続けていた。
目の前の敵を食い止めるのに精一杯の村人達は、キロ達の動きに
まで気を配ってはいない。
しかし、すぐそばで着々とマッドトロルを仕留めるランバル護衛
団の仕事ぶりは嫌でも目に入るらしく、ちらほらとランバル護衛団
への感謝の声が聞こえていた。
村人の声に気を良くしたのだろう、ランバル護衛団の動きがあか
らさまに攻撃的になる。
より多くのマッドトロルを撃破するための動きだ。
キロはランバル護衛団の動きに気付き、フカフカへ目を向ける。
ランバル護衛団は拠点防御に適した戦術を取っている。反面、横
列であるため、敵陣に飛び込んでも囲い込まれて押し潰されてしま
うだろう。
ランバル護衛団の攻撃方法は歩調を合わせて正面の敵を倒す戦法
だ。
キロのように直線状の敵を一掃する攻撃でも、クローナのように
一面を巻き込む広範囲の攻撃でも、ミュトのように止まる事なく流
れるように切り殺すわけでもない。
どちらが優れているとは断じる事が出来ないが、ランバル護衛団
には防衛線から離れて敵に飛び込む戦法は不向きだ。
指摘して注意を促すべきではないかとキロは思ったのだが、フカ
フカは首を振った。
﹁功を焦った連中に、敵愾心を抱かれた我らの助言は届かぬ。それ
に、余所の心配をしておる場合でもなくなったようだぞ﹂
635
フカフカの言葉に眉を寄せたキロだったが、問い返す前にフカフ
カが尻尾の光を洞窟道へと向ける。
﹁⋮⋮なんか、大きいのが来ましたね﹂
洞窟道の奥の影を見て、クローナが呟く。
通常の五倍近い大きさがあるマッドトロルが洞窟道から侵入して
きた。
﹁大きすぎる気がするんだけど。ボスか﹂
﹁群れない魔物だからボスっていう概念はないと思うよ﹂
キロの言葉に真面目な返答をして、ミュトがフカフカに目を向け
る。
目を細めて巨大なマッドトロルを見つめていたフカフカが、そう
か、と何かに納得する。
﹁あの中に五つの魔力源がある。つまり、あの中には五匹の本体が
入っておる﹂
﹁ばらけるのを待てば普通の大きさに戻るって事か﹂
﹁ばらけるのは当分先であろうな。あれは交尾中だ﹂
﹁⋮⋮近づきたくないなぁ﹂
お楽しみ中の虫達は放っておこうと思ったキロだったが、フカフ
カが呼び止める。
﹁待て、産卵前には栄養を求めて狂暴になる。あの図体で襲われて
は防衛線が破壊されかねん﹂
636
どうやら、無視は許されないらしい。
キロは仕方なく五匹の集合体に目を向けるが、大きさはそのまま
に二体目が現れていた。
﹁増えてるぞ、おい﹂
﹁誰が集合体は一体だと言った。洞窟道の奥にまだ七体控えておる﹂
︱︱あの大きさのマッドトロルが七体かよ。
キロは眉を寄せる。
泥の質量が五倍になっているため、中の虫を出すために吹き飛ば
す泥も多くなる。つまりは倒す際の魔力が多く必要になるのだ。
それが、九体もいるとなれば、残っている魔力を使い果たしてし
まうかもしれない。
﹁もう少しこちら側に引き寄せよう。デカブツを倒した後で防衛線
まで戻れないと困る﹂
キロの提案にクローナとミュトも賛成し、集合体の動きに注意し
つつ近くにいた通常サイズを始末する。
集合体がやってきても戦闘が可能なように開けた場所を作ろうと
したのだが、通常のマッドトロルが隙間を埋めるように続々と押し
寄せてきた。
もっとも討伐速度が速いはずのキロ達でさえ、処理が追いつかな
くなってきているのだ。
集合体が、その巨体をのっそりと動かしながら、村人が守る防衛
線へと向かっていく。
︱︱このままだと間に合わないな。
キロはクローナ達へ目配せする。
﹁俺が道を作る。二人は時間稼ぎを頼んだ﹂
637
﹁分かりました!﹂
言うや否やクローナが水球を浴びせ、流動性が増したマッドトロ
ルの中の虫をミュトが素早く一刀両断する。
その隙に魔力を貯めたキロは石弾を撃ち出し、集合体への道を切
り開いた。
﹁よし、いまだ!﹂
そう掛け声とともに飛び出したのは、キロ達ではなかった。
キロが作った道をいつのまにか近くに来ていたランバル護衛団が
走り出したのだ。
驚くキロ達を置いて、ランバル護衛団は通常のマッドトロルには
脇目も振らずに集合体へと向かっていく。
ランバル護衛団の動きに気付いた村人から歓声が上がった。
通常のマッドトロルを蹴散らしながら防衛線を守っていたランバ
ル護衛団が攻勢に打って出た。しかも、狙いは通常の五倍の大きさ
を持つ集合体。
勇敢な進軍に見えた事だろう。
だが、戦略的には愚の骨頂だった。
歓声を挙げる村人の中に苦い顔をする人物がいる。指揮を取って
いた年かさの女だ。
ランバル護衛団の戦い方は動作魔力を用いた体当たりで泥を弾き
飛ばし、露出した虫を踏み潰すというもの。
五倍の泥を纏った集合体は重量があり、五匹の虫によって供給さ
れる魔力は泥を使った衝撃緩和の能力を強化する。
ランバル護衛団とは相性が悪いのだ。
マッドトロルを蹴散らすほどの戦闘力で士気向上を担っていたラ
ンバル護衛団が、手も足も出ずに負けてしまっては村人達が集合体
に恐怖してしまう。
638
戦略的に見て、士気降下に繋がるランバル護衛団の敗北は許され
ない。
年かさの女はキロと目が合うと無言で顎をランバル護衛団へとし
ゃくる。意味はキロにも察せられた。
︱︱助けろって言いたいんだろ。でも⋮⋮。
キロは自らの視線を使って、年かさの女の視線をランバル護衛団
が走ってきた方向へ誘導する。
キロの視線を辿った年かさの女がすぐに顔を顰めた。
﹁キロさん、来ます!﹂
クローナが杖を掲げつつ注意を促す。
功を焦ったランバル護衛団が引き連れてきたマッドトロルが、キ
ロ達に標的を変更したのだ。
︱︱雑魚をなすりつけて行きやがって!
キロは槍を構え、マッドトロルを迎え討つ。
しかし、フカフカが声を張り上げた。
﹁無理に戦うでない。一時撤退するぞ!﹂
﹁⋮⋮でも、ボク達が逃げたら、ランバル護衛団の退路が無くなる。
無理にでもボク達が抑えるしかないよ﹂
フカフカの指示にミュトが小さな声で反対する。
フカフカが驚き、目を見張る。
反対された事に対してではない。
意見を衝突させてもなお、一人で戦う、という逃げの選択ではな
く、キロやクローナを含めた全員で戦う、という意見をミュトが提
案した事に驚いたのだ。
なぜなら、意見がぶつかっても共に居ようという考えが前提に存
在しなければ、出てこない提案だから。
639
衝突を嫌って逃げてばかりいたミュトがするには、異例の提案。
キロはクローナと共にミュトを見つめる。
一世一代の告白をしたような緊張の面持ちで、ミュトはキロとク
ローナを見つめ返した。
キロはミュトに背を向ける。
撤退しなければ自分達の命が危ない事はフカフカ同様、キロも理
解している。自らが助かるために、ランバル護衛団を見捨てるのは
仕方がない事だと、割り切る事も出来る。
だが、村人のヒーローとなりつつあるランバル護衛団を見捨てる
選択は、村人に非難されるだろう。
ミュトへの偏見に具体的な証拠が出来てしまう。
︱︱それだけは絶対に避けるべきだ。
自分には関係ないと割り切るには、ミュトを取り巻く環境をキロ
は肌で感じ過ぎた。
あまりにも利己的な形で自分への言い訳を完成させ、キロは苦笑
する。
本音はもっと、簡単なのだ。
キロの隣にクローナが立ち、水球を準備する。
﹁さぁ、ミュトさんの成長を祝福して、一暴れしましょうか﹂
﹁クローナの、自分に素直なところは尊敬するよ﹂
キロが石弾を準備した瞬間、クローナの水球がマッドトロル達に
向けて打ち出され、炸裂する。
水分を追加されたマッドトロル達の纏っていた泥が緩くなった直
後、キロの放った石弾がマッドトロル達の泥をまとめて弾き飛ばす。
キロとクローナの連続攻撃を見つめて、フカフカが呟く。
﹁まったく、そう言われては逃げられぬであろうが⋮⋮﹂
640
泥と共に外へ放り出された虫達をフカフカが尻尾の光で指し示す。
﹁居心地が良すぎて、怖くなるよ﹂
ミュトが呟き、駆け抜けざまに小剣の振り回しやすさを生かした
連撃で虫達を切り裂いていった。
ミュトの呟きを聞き取ったキロは笑みを浮かべる。
﹁衝突してでも意見をすり合わせて行けば、もっと居心地良くなる
よ。俺も最近気づいたばかりだけどさ﹂
ミュトがキロを振り返り、はにかむように笑った。
八体ほどのマッドトロルを三人の連続攻撃で仕留めたキロ達は、
驕る事無く次に迫るマッドトロルへと目を向ける。
﹁ランバル護衛団の退路を維持する。きつくなったら言えよ﹂
キロが槍を下段に構えながら宣言する。
集合体に体当たり戦法が通用しないと分かれば、功を焦ったラン
バル護衛団でも撤退を選択するだろう。
キロ達は退路を維持し、ランバル護衛団と合流後に防衛線まで一
時的に退けばいい。
しかし、キロ達の見通しの甘さを突きつけるように、事態は暗転
する。
﹁︱︱ちくっしょう!﹂
罵声が聞こえて顔を向ければ、集合体と対峙するランバル護衛団
の姿があった。
体当たり戦法が効かないとようやく理解したのだろう、とキロは
641
視線を戻しかけ、慌てて再度ランバル護衛団を見た。
再び目に入った光景に、思わずキロは舌打ちする。
﹁この期に及んで手の掛かる奴らだ﹂
ランバル護衛団のうち二人が、マッドトロルに顔へ圧し掛かられ
ていた。
無事な三人は周囲から迫りくるマッドトロルを捌くのに必死で、
窒息寸前の仲間を助ける余裕がないようだ。
︱︱助けられるか?
キロは自問する。
助ける事自体は可能だと思えた。
だが、恐らく気を失っているだろう窒息寸前の二人を担いで防衛
線まで撤退するのは非常に困難である。
村人達が落胆を含んだ悲鳴を上げる。
キロが村人を振り返った時、年かさの女と目があった。
まずい、と思う間もなく、年かさの女がキロ達を指差す。
﹁地図師、ランバル護衛団を助け出しなさい!﹂
申し訳なさに眉を下げながら、それでも年かさの女はキロ達へ命
令を下した。
642
第十八話 撤退援護
キロは思わず年かさの女を睨む。
︱︱博打に出たな。
ランバル護衛団を失って村人の士気が大幅に低下すれば、やがて
押し潰されると判断したのだろう。
キロ達を失ってでもランバル護衛団を助け出す賭け。
掛け金にされる身としては、悪態の一つも吐きたいところだ。
﹁ミュト、特殊魔力を使ってこの場所を維持できるか?﹂
キロがマッドトロルに石弾を撃ち込みながら問いかける。
キロの石弾を受けて飛び散った泥の中から正確に虫を見つけ出し
て切り殺したミュトは、周囲を見回して頷いた。
﹁キロがランバル護衛団との間を往復するくらいなら、普遍魔力も
合わせて使えば時間を稼げると思うよ﹂
﹁キロさん、あの人達を助けに行くつもりですか?﹂
クローナが咎めるようにキロに声を掛ける。
しかし、防衛線へちらりと視線を向けて、眉根を寄せた。
キロ達がランバル護衛団を助け出せるとは思えない、そんな懐疑
的な目を向けている村人達に気付いたのだ。
﹁ランバル護衛団を見捨てると、今度は俺達が村人に見捨てられる。
一か八か、助けに行くしかない。悠長に話している場合でもない﹂
キロはランバル護衛団に目を向ける。
643
顔に圧し掛かられて窒息させられそうなランバル護衛団の二人は
まだ抵抗を続けている。
力の入っていない拳で顔に乗ったマッドトロルを殴りつけるだけ
の虚しい抵抗だったが、生きている証拠にはなった。
﹁ミュトはこの空間の維持、クローナはここから遠距離で撤退の援
護を頼む。俺はランバル護衛団の周りにいるマッドトロルを蹴散ら
す﹂
﹁ちゃんと生きて帰ってきてくださいよ!﹂
そう言って、クローナがランバル護衛団との直線状にいたマッド
トロル数体を石弾で吹き飛ばす。
﹁当たり前だ。あんな奴らのために死ぬのはごめんだからな﹂
キロは動作魔力を身体に作用させ、加速した。
クローナが石弾でこじ開けたランバル護衛団への道をキロは駆け
抜け、槍を脇に挟む。
自由になった左手で、ランバル護衛団の二人の顔に圧し掛かって
いるマッドトロルに動作魔力を叩き込んだ。
泥が波打ち、キロの動作魔力に抵抗しようとうねる。
うねりを見極めて、キロは泥へ別方向の動作魔力を通し、泥の流
れを自分の制御下に置く。
左手を泥の中へと突き込み、泥の流れを左手にぶつけ、異物の感
触を見つけ出して掴み取った。
左手を引き抜くと案の定、掴み取っていた本体の虫を地面にたた
きつけ、踏み潰す。
キロはすぐに左手に魔力を集め、戦闘中のランバル護衛団へ声を
張り上げる。
644
﹁俺が仲間と援護する、この二人を連れてさっさと撤退しろ!﹂
ランバル護衛団が戦闘中だったマッドトロルに横合いから石弾を
浴びせ、キロは地面を蹴った。
目の前で四散したマッドトロルに硬直せず、飛び出した虫を剣で
払い落として突き殺したランバル護衛団がキロに目を向ける。
キロは槍を振り、集合体のマッドトロルに逆袈裟の斬撃を浴びせ
ると、すぐに離脱した。
︱︱硬いな。
五匹分の魔力で泥を維持しているためか、通常のマッドトロルよ
りも泥の密度が高く、感触は硬かった。
倒すためには高威力の魔法を打ち込む必要があると判断して、キ
ロは放置を決める。
今はあくまで撤退戦、魔力の無駄使いをするべきではない。
ランバル護衛団に向かうマッドトロルの前に立ちはだかり、腰を
落とすと同時に右手に槍の重心を載せて頭上に掲げる。
槍に動作魔力を通して右手の上で回転させると、マッドトロルを
下から上へ、槍の回転に合わせて何度も切り裂いた。
槍がマッドトロルを寸刻みにし、頂上付近で中に潜んでいた虫を
切り殺す。
魔力を失って泥が崩れ落ちる間際、キロは左手で泥に触れる。
そして、動作魔力で泥の塊を別のマッドトロルに向けて撃ちだし
た。
唐突に泥を追加されたマッドトロルの動きが鈍る。
本能的に追加の泥へも動作魔力を通そうとしたのだろう。
キロは動きの鈍ったマッドトロルを無視して更に別の獲物を探す。
その時、視界に収めたランバル護衛団の様子に、キロは顔を歪め
た。
﹁おい、息をしろよ!﹂
645
﹁泥が喉に詰まってんだ。吐かせろ!﹂
先ほどマッドトロルに圧し掛かられて窒息死しかけていた二人が、
泥を喉に詰まらせているらしい。
蘇生術を施そうとしているランバル護衛団に、キロは舌打ちした。
今、マッドトロルと戦闘しているのはキロ一人、蘇生術を施す時
間を稼げると豪語するほど、キロは自分の腕を過信してはいない。
キロはランバル護衛団に大声で命令する。
﹁早く防衛線に引っ込め、動作魔力で駆け抜ければ時間もかからな
い。このままここに居たら全滅するだろうが!﹂
仲間の危機を前にして正常な判断力を欠いているらしいランバル
護衛団に苛々しながら、キロは防衛線を指差す。
キロに一喝されたランバル護衛団が、周囲をマッドトロルに囲ま
れている事をいまさらながら思い出して、慌てて仲間を担ぎ上げて
防衛線に走る。
キロも後を追おうとするが、ランバル護衛団がもたついたせいで
クローナとミュトがいる場所までの道にマッドトロルが押し寄せて
きていた。
奥に目を向けると、特殊魔力を使い果たしたらしいミュトが必死
に石壁を生み出して退路を確保し、クローナも補助に回っている。
援護射撃は期待できないだろう。
ランバル護衛団も五人のうち二人は意識がなく、その二人を担い
でいる二人は戦力にならない。唯一、先頭でマッドトロルを倒して
道を切り開いている者がいたが、左右までは手が回っていない。
マッドトロルの包囲網を抜けるには圧倒的に人数が足りなかった。
キロはランバル護衛団に追いつき、意識を失っている二人の手か
ら盾をひったくる。
646
﹁おい、俺達の盾をどうする気だ⁉﹂
﹁盾二枚で命が助かるなら儲けものだろ、黙ってろ!﹂
咎めるランバル護衛団に罵声を返し、キロは盾のうち一枚を左手
で持つ。
しかし、盾の裏にある持ち手ではなく、盾の縁を持っていた。
キロは縁を持った盾をフリスビーの要領でマッドトロルに投げつ
け、めり込ませる。
すぐさま盾に蹴りを入れてマッドトロルの中へ埋没させると、身
体をひねりながら槍の石突きをマッドトロルの中、盾の下に突き刺
した。
動作魔力を通し、キロは石突きを上に跳ね上げる。
跳ね上げられた石突きは上にあった盾ごとマッドトロルの半ばか
ら上を天井高く打ち上げた。
泥の半分以上を打ち上げられたマッドトロルは、打ち上げた泥の
中に本体である虫が含まれていたらしく崩れ去る。
︱︱よし、できる。
実験の成功を確かめて、キロはもう一枚の盾の持ち手に槍の穂先
を差し込んだ。
穂先の面積を大幅に増した代わりに重心が崩れるが、もはや振り
回す事を諦めたキロは気にしない。
キロが槍を改造する様を怪訝な顔で見ていたランバル護衛団を無
視して、キロは駆け抜けざま動作魔力でマッドトロルに槍の先の盾
をめり込ませ、上に跳ね上げた。
盾により面積を増大させた槍の先は、泥を大きく跳ね上げる。
一撃ごとに吹き飛ばせる泥の量を増やしたのだ。
キロは即席の改造槍の感触を確かめ、ランバル護衛団の間を器用
に縫いながら左右から迫るマッドトロルに一撃離脱を繰り返す。
本体の虫を倒す事より、泥ごと吹き飛ばす事で時間を稼ぐ手法は、
全体的なマッドトロルの数を減らせない。
647
しかし、ランバル護衛団の周辺にいるマッドトロルの数を減らす
事には貢献していた。
吹き飛ばされた虫が再び泥を纏う頃にはキロ達は走り抜けている。
しかし、キロ達が走り抜けられるのだから、背後のマッドトロル
もまた動きやすい。
仲間を背負ったランバル護衛団の一人が背後を確認し、顔を青ざ
めさせる。
﹁デカいのが追って来てるぞ!﹂
集合体が横幅の狭い泥の波の如く、うねりながらキロ達に追いす
がる。
正面のマッドトロルを跳ねのけ、左右のマッドトロルを吹き飛ば
しながら進むキロ達とは違い、ただ進むだけのマッドトロルは早い。
︱︱追い付かれる⋮⋮。
顔を歪めて背後のマッドトロルを睨みつけた時、クローナの叫び
声が聞こえて、キロは慌てて視線を向ける。
特殊魔力はおろか普遍魔力さえ使い切ったらしいミュトが、魔力
欠乏で地面に手を突いて吐き気を堪えていた。
直前にミュトが生み出した壁がマッドトロルの侵攻から退路を守
ってはいたが、すでにひびが入り始めている。
クローナがミュトを気にしつつ、判断を仰ぐようにキロを見た。
キロは覚悟を決め、クローナに指示を出す。
﹁退路を捨てて撤退しろ!﹂
クローナが歯を食いしばり、ミュトを抱き起こす。
﹁キロさん、早くこっちに!﹂
﹁俺はマッドトロルを食い止める﹂
648
キロの返答を聞き、クローナが泣きそうな顔をする。
﹁何を言ってるんですか、早くこっちに来てください!﹂
ミュトを介抱しながらの撤退では、確実にマッドトロルに追いつ
かれ、ランバル護衛団共々、全滅する。
クローナも理解しているはずだが、キロを置いて逃げだせば退路
にまでマッドトロルが侵攻してキロが孤立する。
﹁一人ならぎりぎり逃げ切れる﹂
キロは強い口調で断言し、右手を挙げて、ある場所を指差した。
それだけでキロが何を考えているかを察したのだろう、クローナ
は口を閉ざす。
荒い呼吸を繰り返すミュトを見て、クローナは悔しそうな顔をし
た。
﹁⋮⋮ちゃんと帰ってこないと、怒りますからね!﹂
キロに怒鳴ったクローナはミュトに肩を貸して防衛線に向かう。
クローナの決断の速さに感謝しながら、キロはランバル護衛団の
先頭を走る男に声を掛けた。
﹁仲間を連れて防衛線へ走れ、背後は気にするな!﹂
クローナとミュトが退路を確保していたため、ここから先にマッ
ドトロルはほとんどいない。
ランバル護衛団が走る事に集中できれば、無事に防衛線まで逃げ
られるだろう。
649
︱︱後ろのデカブツに追いつかれなければ、だけど。
キロは背後の集合体を振り返り、槍を強く握る。
前に踏み出した右足を軸に、キロは反転した。
途端にランバル護衛団やクローナ達との距離が開く。
正面に立ちはだかったキロに、集合体が勢いをそのままに体当た
りしてくる。
押し倒して窒息させる腹積りだろう。
キロは横に立ち位置をずらしながら、槍の先に付けた盾を集合体
にめり込ませた。
しかし、集合体は泥に飛び込んできた異物である盾を、動作魔力
で生み出した泥のうねりですぐに弾き出した。
盾による攻撃は効果が薄いらしいと判断して、キロは槍の先に付
けた盾に動作魔力を作用させ、取り外すついでに集合体へと撃ち出
した。
撃ち込まれた盾をまたもすぐに弾き出す集合体に、キロは動作魔
力による強力な突きを放つ。
少量の泥が飛び散るが、キロは気にせず槍を横へ振り抜いた。
異物を吐き出そうとする泥のうねりが加わり、槍は抵抗なく泥の
塊から抜け出す。
直後、キロは槍を振り抜いた勢いのまま身体の向きを変え、走り
出す。
﹁付き合ってらんないんだよ、このデカブツ!﹂
キロには、集合体を倒す気など最初からなかった。
ただクローナ達が逃げ出す僅かな時間を稼ぎさえすればよかった
のだ。
キロはクローナ達が走って行った退路を見るが、すでにマッドト
ロルが侵入していて走り抜けられそうにない。
防衛線からの援護射撃はあるが、マッドトロルが間近まで迫って
650
いるために弾幕を張って寄せ付けないように変化しつつある。
キロに構っていられるほどの余裕はなさそうだ。
予想の範囲内だと思いつつ、キロは全力で走り出す。
向かう先は防衛線ではなく︱︱地下世界ではもはや見慣れた、壁
だ。
行く手に塞がるマッドトロルに石弾を撃ちこみ、四散させる。
さらに出てきた二体のマッドトロルの前に魔法で背の低い石壁を
生み出し、足を掛けて跳躍してマッドトロルの頭上を越える。
着地点にいた別の一体の天辺に槍を突き入れて身体を捻り、着地
点をずらしつつ槍を振り抜けば、マッドトロルが天辺から両断され
た。
左右に両断された泥の塊の内、本体の虫が含まれていなかった左
側が崩れ去るが、キロは眼も向けず走り出す。
壁に到着した瞬間、キロは地面を蹴り、壁に足を着けた。
繊細に動作魔力を作用させ、体勢を保ちつつマッドトロルの攻撃
が届かない高さまで避難し、槍を壁に突き刺す。
天地を無視した挙動を実現するキロに防衛線の村人が目を見張る
中、キロは壁を走り、防衛線に差し掛かる直前、魔力切れを起こし
た。
︱︱やばい⋮⋮ッ!
キロは咄嗟に壁を蹴り、防衛線に飛び込んだ。
前回り受け身を取って防衛線の内側に入った事を確認したキロは、
すぐに立ち上がってクローナとミュトを探す。
丁度、クローナがキロに駆け寄ってくるところだった。
﹁無事ですか⁉﹂
クローナがキロの身体をぺたぺたと触りだす。
﹁大丈夫だ。それより、ミュトはどうした?﹂
651
﹁ボクもなんとか、平気だよ﹂
クローナの後からミュトが歩いてきた。肩にはフカフカが乗って
いる。
ミュトの顔色はかなり悪いが、怪我はないようだ。
キロは安堵のため息を吐き出す。
﹁賭けに勝ったか﹂
﹁辛勝だがな﹂
キロの肩に飛び乗ったフカフカが言い返した言葉にキロ達は、違
いない、と苦笑した。
652
第十九話 救援要請の作戦
魔力を回復するための休息を言い渡され、キロ達は戦線を離れた。
村は第一防衛線が粘っているうちに少しでも第二防衛線を強化し
ようと躍起になっているようだ。
キロ達は土嚢を運ぶ村人を横目に宿へと向かう。
﹁ミュト、具合はどうだ?﹂
キロは背中のミュトに声をかける。
魔力欠乏で足元が覚束なかったミュトを見かねて背負っているの
だ。
未だに顔色の悪いミュトが、すれ違う村人から隠すように顔をキ
ロの背中に埋める。
﹁⋮⋮大丈夫って言っても降ろさないんでしょう?﹂
﹁明らかに嘘だからな。少しは良くなったか?﹂
﹁吐き気はおさまったけど、クローナが⋮⋮﹂
ミュトが身じろぎする気配を背中越しに感じ、キロは首をかしげ
つつクローナを見る。
﹁ミュトさん、良いなぁ。ズルいなぁ﹂
﹁クローナ⋮⋮﹂
羨むようにミュトを見つめながら呟くクローナに呆れを込めた視
線を向けて、キロはため息をつく。
653
﹁今度お姫様抱っこでも何でもしてやるから、体調が悪い奴にそん
な顔を向けるな﹂
﹁︱︱言質取りましたからね!﹂
ぐっと両手を握って、クローナが嬉しそうに言う。
ミュトが苦笑する気配がした。
﹁二人は本当に仲がいいね﹂
今度はミュトが羨むように呟く。
キロは機嫌よく歩を運ぶクローナを見ながら、ミュトに言葉を返
す。
﹁色々あったからな。この世界に来る直前も喧嘩したし﹂
﹁⋮⋮喧嘩したんだ﹂
戸惑うように、ミュトがキロの言葉を繰り返す。
ミュトの反応に、キロはくすくすと笑う。
﹁あぁ、喧嘩もしたし、キスもした︱︱クローナ、何もないところ
で転ぶなよ﹂
キロはニヤニヤしながら、クローナに声をかける。
クローナは赤い顔でキロを睨んだ。
﹁羞恥心が転がってたんですよ。でっかい羞恥心が!﹂
﹁ちゃんと拾っておけよ。からかい甲斐がなくなったら困るから﹂
﹁キロさんにも分けてあげたい、この思い﹂
﹁すでに愛でいっぱいだから、入る余地はないかなぁ﹂
654
背中がかゆくなるような気障な台詞をキロが返すと、免疫のない
クローナが真っ赤な顔で悔しそうに唸る。
フカフカがうんざりした様子で尻尾を一振りし、キロの頭をはた
く。毛足の長い尻尾はポフッと軽い音を立ててキロの頭に弱い衝撃
を与えた。
﹁お前達、バカであろう?﹂
﹁否定はしない﹂
キロはあっさりと認める。
落ちないように首に回されたミュトの腕が少し強く絞められた気
がして、キロは肩越しに振り返る。
﹁⋮⋮キロ達でも喧嘩、するんだ﹂
少し安心したように呟いたミュトは、キロの視線に気付いて顔を
上げる。
キロは肩に乗っていたフカフカの首を片手で摘み、ミュトの顔の
前に持っていく。
﹁ほら、今のうちに言っておく事があるだろ﹂
抵抗せずにプランと提げられたフカフカをミュトの前で揺らしな
がら、キロは促す。
ミュトは戸惑いがちに視線を泳がせたが、すぐに意を決したよう
にフカフカを見つめた。
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹁今更であるが、許してやろう。我は懐の広い尾光イタチであるか
らな﹂
655
偉そうに鼻を鳴らして、フカフカが身じろぎする。
キロが摘まんでいた首根っこを放してやると、フカフカはミュト
の頭の上で丸くなった。
︱︱雨降って地固まる、と。
地下世界では通用する見込みのない慣用句を思い浮かべつつ、キ
ロはミュトを背負いなおす。
前方に見えてきた宿の前に年かさの女が立っているのを見て、キ
ロは眉を寄せた。
﹁キロさん、気持ちは分かりますけど、堪えてください﹂
露骨に嫌そうな顔をするキロをクローナが肘で突いて諌めた。
しかし、年かさの女はすでにキロの表情を見た後だったらしく、
申し訳なさそうに頭を下げた。
﹁何の用?﹂
ミュトがキロの首筋に顎を埋めながら、年かさの女に訊ねる。
吐息が首筋をくすぐってキロとしては落ち着かないが、ミュトは
声をくぐもらせて性別を偽ろうとしているだけだ。
年かさの女は申し訳なさそうな顔のまま、村の奥を指さす。
﹁長老があなた達を呼ぶように言っていてね。付き合ってくれ﹂
喜んで、と二つ返事で了承するほど、キロ達は年かさの女を信用
していない。
懐疑的な視線を向けるキロ達に、年かさの女は再度頭を下げる。
﹁さっきは無理をさせて済まなかった。ランバル護衛団は厳重注意
656
の後、私の指揮下に組み込んで無理をさせないようにする﹂
言いたいことはあったが、下げられた頭を見てキロ達は言葉を飲
み込んだ。
代わりに、年かさの女が先ほど指差した村の奥へと足を向ける。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
すれ違う瞬間、年かさの女が呟いた。
村の奥に足を運ぶと、老婆が待っていた。
﹁よく来てくれたね。入っとくれ﹂
どうやら、この老婆が長老らしい。
老婆に促されるまま家の中に入る。
クロスが掛けられた石のテーブルを囲む人影はない。
老婆が奥の椅子に座り、背筋をピンと伸ばした。
﹁話は聞いたよ。素晴らしい戦いぶりだったそうだね﹂
﹁愚か者の後始末で死にかけたがな﹂
フカフカが言い返すと、老婆は無言でただ頷きを返した。
﹁その話も聞いている。迷惑をかけて済まないね。だけれども、こ
のままだと迷惑をかける事さえできなくなるんだよ﹂
深刻な顔で告げて、老婆は一枚の地図をテーブルの上に置く。
端に泥が付いた地図は、キロの記憶が確かならミュトが作成した
657
ものだ。
︱︱そうか、救援を呼びに行った村人がマッドトロルに鉢合わせ
して逃げ帰ってきたんだったな。
キロの背中から降りて椅子に座ったミュトが、地図を見つめた。
﹁不備が?﹂
﹁いや、地図通りだったそうだよ。途中まではね﹂
老婆が地図上の一点を指して、続ける。
﹁落盤事故、よくある話さ。マッドトロルが泥を補充したせいで天
井が薄くなったらしくてね。道が塞がれている上にマッドトロルが
たむろしていて近寄る事もできなかったそうだよ﹂
書き込むよ、と断って、ミュトが地図に落盤事故の地点を書き記
す。
顎に手を当てて何事かを思い出そうとしていたミュトは、やがて
記憶の照合を終えて口を開く。
﹁この道の上に、細い洞窟道があるはず。確か、水没して使用でき
なくなってる﹂
ミュトが描かれていない細い洞窟道を大まかになぞると、老婆は
満足げに頷く。
﹁若いのに、大したもんだ。二十年前に発見されて、四年前に入り
口が水没するまで使用された細い洞窟道があるよ。当時の地図を引
っ張り出してきた﹂
老婆が古びた地図をテーブルに置く。
658
キロの目には全く別の場所を記した地図にしか見えなかったが、
ミュトは地図上の文字をなぞり、自らが作成した地図と照らし合わ
せ始めた。
﹁水没原因となった水脈はこの村の畑にも水を供給してるはず。ま
だ枯れてないということは、入り口は水没したまま⋮⋮﹂
地図を睨みながら呟き、ミュトは何かに気付いたように目を見開
く。
ミュトがキロを振り返り、老婆に視線を戻す。
﹁ボク達に救援を呼んで来いと?﹂
﹁現状、手元にある資料だとこれ以外の道がなくてね。そこの槍使
い君がいなけりゃあ、村は全滅一直線だよ﹂
いきなり話の俎上に挙げられて、キロは首をかしげる。
クローナを見るが、同様に話についていけておらず、首をかしげ
ていた。
フカフカがミュトの肩を尻尾でたたく。
﹁キロ達に説明してやれ﹂
フカフカに促され、ミュトはキロとクローナに向き直る。
﹁ボク達がこの村に来る時に通った洞窟道が落盤事故で塞がってい
て、その上を通る古い洞窟道と連結したんだ﹂
ミュトの説明を聞きつつ、キロは頭の中で洞窟道の配置を組み立
てる。
話によれば、連結した古い洞窟道は一部が水没しているものの、
659
水没地点を超えていけば滝壺の街へとつながる道であるらしい。
村にある資料では救援を呼び行ける洞窟道は他にもあるものの、
行き来に時間がかかりすぎるため、救援を呼んで来ても村は手遅れ
となっている可能性が高いという。
救援を呼び行く際の問題点は大きく二つ、道中にたむろするマッ
ドトロルの群れと水没地点を越える方法だ。
そして、この二つの問題を解決できる人材として、キロ達が選ば
れた。
﹁︱︱理由を聞いてもいいか?﹂
キロが頭を掻きつつ訊ねると、ミュトが老婆に目を向けた。
年の功か、ミュトの視線だけでキロの言葉の内容を察したらしい
老婆が口を開く。
﹁第一に、いま村にいる人間で最も機動力と突破力に優れる者であ
る点。第二に水没地点の状況だね﹂
﹁水没地点の状況って、どういう事ですか?﹂
クローナがミュトに問うと、ミュトは地図の裏にさっと図を描い
た。
﹁胸まで浸かる水深で、渡り切るまでかなり時間が掛かるんだ。マ
ッドトロルが周囲にいる可能性も高いから、迂闊に近づくと殺され
る。けど、キロなら︱︱﹂
﹁壁、ですか﹂
クローナがミュトの言葉を先取りしつつ呟く。
水没地点だからといって、わざわざ泳いで渡る必要はない。
キロならば水没地点の壁を走って移動ができ、水中ではないため
660
マッドトロルの攻撃に対しても対処が可能となる。
ランバル護衛団を助け出した際、キロが壁を走ってマッドトロル
の囲みを突破したため、老婆は作戦を考え付いたのだろう。
フカフカが古びた地図を見て、老婆に訊ねる。
﹁水没した洞窟道がいまだに使える確証はあるのだろうな?﹂
﹁⋮⋮ないね﹂
﹁ミュトよ、見立てを聞かせろ﹂
フカフカに水を向けられて、ミュトは少し考えた後、はっきりと
答える。
﹁使えるよ﹂
﹁ならば、我はこの作戦に賛成である。このまま村に居ってもマッ
ドトロルに押し切られるであろう﹂
フカフカの賛同を得て、ミュトはキロとクローナに顔を向ける。
﹁一緒に来てくれる?﹂
キロはミュトの額を人差し指で弾いた。
﹁行くに決まってるだろ﹂
キロが笑いかけると、ミュトは嬉しそうに笑った。
661
第二十話 包囲突破
救援を呼びに行く前に半日の休息を設け、魔力の回復を図る。
戦線は第二防衛線まで退いたが、年かさの女にこってり絞られた
ランバル護衛団の働きにより一進一退の攻防が続いている。
泥で喉を詰まらせ窒息していた二人が意識を取り戻し、第二防衛
線へと走り出す直前、宿の二階を見上げた。
職人技の光る鍾乳石の窓を横滑りさせ、通りを眺めていたキロに
ランバル護衛団の二人は手を振った。
﹁お前らが助けてくれたって聞いた。助けられておいてこんな事を
聞くのは礼儀を欠くんだが⋮⋮﹂
口ごもったランバル護衛団を、キロは無表情に見下ろして先を促
す。
キロの視線にたじろいだランバル護衛団は、諦めたように首を振
った。
﹁いや、済まない。助けてくれてありがとう。ミュトって奴にも謝
っといてくれ﹂
キロは傍らのフカフカの首筋をつまみ、窓のそばに吊り下げた。
ランバル護衛団への返答を囁くと、フカフカが翻訳する。
﹁︱︱後で直接本人に謝れ、とこの者は言っておる﹂
﹁合わせる顔がない﹂
﹁下げる頭はあるだろう﹂
662
間髪はさまずにフカフカに言い返され、ランバル護衛団は苦しげ
な顔をした。
﹁⋮⋮分かった。それまでお互い死ねないな﹂
ランバル護衛団が宿に背を向け、第二防衛線へと駆け出す。
︱︱お互い死ねない、か。
キロは第二防衛線を透かし見て、芳しくない戦況にため息をつく。
休憩に入る人員、補充の人員、幸いにしてまだ死者は出ていない
が魔力を消費しすぎて気絶する者がちらほらと出始めている。
戦術もマッドトロルの本体である虫の駆除から泥を剥離させ続け
る事で虫の魔力を枯渇させ、魔力が回復するまで一時的に戦闘不能
に追い込む方法を取り始めていた。
虫にとどめを刺す暇もなく別のマッドトロルが押し寄せているた
め、消耗戦を強いられているのだ。
未だに洞窟道からマッドトロルが侵入している様子を見ると、戦
況は絶望的とさえ言えた。
﹁おい、キロ、我を便利な翻訳装置か何かと勘違いしてはおらんか
?﹂
窓の桟に降り立ったフカフカが抗議する。
﹁そりゃあ、手頃な大きさで有能だし、感謝してるよ﹂
﹁ならばなんだ、さっきのぞんざいな扱い方は﹂
﹁手頃な大きさだったから﹂
﹁答えになっとらんぞ﹂
﹁︱︱二人とも、ミュトさんが寝ているんですから、静かにしてく
ださい﹂
663
クローナに叱られて、キロとフカフカは口を閉ざす。
しかし、すでに手遅れだったらしくミュトが身じろぎし、目元を
こすりながら体を起こした。
もともと小柄な体躯な上に、少しでもゆっくり休んで魔力を回復
しようとして着崩した服のせいで肩はおろか脇まで見えている。
首回りが広すぎるだろう、と突っ込みを入れたくなるありさまだ
ったが、どうやら紐で首回りを調節できるデザインらしい。
普段はフカフカが首周りを覆っている事もあって、キロはいまさ
ら紐の存在に気が付いた。
﹁洞窟道の場所によっては氷嚢を使うこともあるのでな。地図師が
着る服は大概あの形だ﹂
﹁解説どうも。確かに、氷嚢の入れ替えとかも楽そうだな﹂
フカフカと言葉を交わすキロの隣で、クローナが顔を洗う水をも
らってくると言って部屋の外へ出て行った。ミュトの腕輪を持って
行ったようだ。
ミュトがうつらうつらしながら紐を引っ張るが、絞られた襟首が
肩口に引っかかった。
ミュトは肩口に引っかかった襟首に視線をやると、両手で無造作
に引っ張る。
一度襟首を緩めたうえで再び紐で調節するつもりなのだろう。
キロはさっと窓の外へ視線をそらす。
緩められた襟首から、かなり際どい部分まで肌色が覗いていたの
だ。
﹁ミュトよ、男がいる部屋であるのだがな﹂
﹁⋮⋮フカフカは人間じゃないから別に見られても︱︱﹂
欠伸を噛み殺しながら言い返そうとしたミュトは、フカフカのそ
664
ばで窓の外を眺めているキロを見つけて硬直する。
﹁そ、粗末なものを見せたね﹂
﹁いや、見てないよ﹂
平静を装ってキロは返答するが、フカフカは面白そうに尻尾を左
右に振る。
﹁見ても胸と認識できるほど体積がない、だそうだ。キロにとって
は背中と変わらんようだな﹂
フカフカの言葉に一瞬怪訝な顔をしたキロは、ミュトの腕輪をク
ローナが持っていった事を遅れて思い出す。
ミュトにキロの言葉は理解できていない。タイミングから考えて、
フカフカがキロの言葉を訳したように聞こえるはずだ。
慌ててミュトを見ると、少しふてくされたような顔で自身の平ら
な胸を見下ろしていた。
﹁フカフカ、どういうつもりだ?﹂
﹁便利な翻訳装置として働いたまでだ﹂
悪びれもせずに言い返すフカフカに、キロはすぐさま手を伸ばす。
予想していたように、キロの手をひらりと躱したフカフカは、後
ろ足で立って首にかかっている翻訳の腕輪を前足で弾いた。
﹁欲しいか? うん? これが欲しいのであろう?﹂
フカフカがからかうように尻尾で床をポフポフと叩く。
﹁あぁ、欲しいな。それがないとミュトに弁解もできないからな!﹂
665
再び腕を伸ばすキロだったが、フカフカはまたひらりと躱す。
互いに魔力を使わない条件では、フカフカが有利だった。
︱︱救援を呼びに行くための魔力は使えない、となると⋮⋮。
キロは人間らしく道具に頼る方法を模索し、ベッドから毛布をは
ぎ取った。
﹁ほう、悪知恵が働くようであるな﹂
﹁ベッドの下には逃がさないからな?﹂
﹁我がキロごときに逃げの手など打つわけがなかろう﹂
﹁いい度胸だな﹂
出方を窺って睨み合うキロとフカフカを見つつ、ミュトが困惑し
ている。
﹁喧嘩、なのかな?﹂
キロもフカフカも楽しそうに笑っているため、ミュトには判断が
付かないでいるらしい。
キロもフカフカも警戒して動けないでいると、部屋の扉が開いた。
﹁お水を持ってきましたよ﹂
言葉通り、水が入った桶を抱えたクローナだ。
クローナの右手にはミュトの分の腕輪が握られている。
﹁⋮⋮ふむ、引き分けのようであるな﹂
﹁やるな、フカフカ﹂
﹁お互い様であろう﹂
666
何やら互いを認め合ったキロとフカフカを見て、クローナが首を
かしげる。
﹁何の話ですか?﹂
部屋にいたミュトなら何かわかるだろうとクローナが問う。
︱︱あ、やばい。
キロとフカフカの動きが固まるが、ミュトは気付かず口を開く。
﹁僕の胸を見た後、キロとフカフカが喧嘩みたいなものを始めて︱
︱﹂
﹁キロさん、ちょっと外に出ましょうか﹂
ミュトのそばに桶を置いて、クローナがキロの手首をつかむ。
﹁待て、誤解だ。見てない!﹂
﹁キロの言う通りである。我がからかっただけだ﹂
フカフカも弁護に加わると、クローナは納得してくれたらしい。
しかし、今度はミュトが頬を膨らませた。
﹁⋮⋮フカフカ、からかったの?﹂
ミュトの咎めるような声を、キロは意外に思う。
胸を触られても顔を俯かせるだけだった少女と同一人物とは思え
ない反応だった。
フカフカも同じことを思ったのだろう、キロと視線を合わせた。
キロはわずかな笑みを浮かべてフカフカを見る。フカフカが答え
るように小さく尻尾を振った。
上機嫌に、ふわり、と。
667
宿を出て、キロ達は長老から託された救援要請の書類を胸に防衛
線に向かう。
避難通路を通ることも考えたが、狭い通路上でマッドトロルに出
くわすと身動きが取れなくなるため、村の入り口である洞窟道を正
面突破する作戦となっていた。
この時のために魔力を温存していた五人の魔法使いが魔力切れで
倒れることも覚悟の上で大規模な魔法を準備する。
三人が無数の石弾を用意し、残る二人が動作魔力を込めるのだ。
﹁では、武運を祈る﹂
年かさの女が言って、準備を整えた魔法使い達に向き直る。
キロは槍を構えた。
今回、先頭に水先案内を務めるミュト、中に後方援護を行うクロ
ーナ、最後にキロという順序となっている。
水没地点に到達した際、速やかにクローナとミュトを後方から抱
え上げ、壁を走って渡るための魔力を温存するためだ。
年かさの女が片手を高く挙げる。
最終確認をしているのか、魔法使いとキロ達をぐるりと見回し、
大きく息を吸い込んだ。
﹁作戦開始!﹂
強く宣言された瞬間、魔法使い達が一斉に石弾を放つ。
無数の石弾は散弾銃のように洞窟道までの一直線上にいたマッド
トロルを粉微塵に吹き飛ばす。
﹁︱︱行くよ!﹂
668
掛け声と共に、ミュトが洞窟道を睨んで駆け出した。
無数の石弾は本体の虫さえまとめて撃ち砕いたらしく、再生する
マッドトロルはごくわずかだ。
死んだ仲間が遺した泥もあり、生き残った数少ないマッドトロル
の再生は早い。
しかし、ミュトの首に巻かれたフカフカの目は誤魔化せなかった。
﹁ミュトよ、速度は緩めるでないぞ﹂
注意しながら、フカフカが尻尾の光でマッドトロルの一部を照ら
す。
ミュトがすれ違いざまに照らされたマッドトロルの一部を小剣で
切り裂けば、断ち切られた本体と共に呆気なくマッドトロルは地面
に崩れる。
その鮮やかな手並みは、魔力の消費も極端に少なく洗練されてい
た。
︱︱これが最下層から上層まで一人と一匹で登ってきた、ボッチ
の力か。
キロは、本人が聞けば涙目になりそうな事を考える。
進路上の敵をミュトが片端から処理していくため、後ろにいるク
ローナやキロには走る以外にすることがない。
だが、近付くにつれて見えてきた洞窟道の奥の光景は、これから
の道のりの険しさを想起させるに十分だった。
﹁集まって談笑に興じるほど、虫けらは優雅でないと見えるな﹂
前を行くミュト、その肩の上で洞窟道を睨みながら、フカフカが
忌々しそうに呟く。
洞窟道の奥には集合体がひしめき合っていた。
669
第二十一話 水没地点
洞窟道にひしめく集合体を前に、ミュトが速度を緩めた。
小剣を用いた一撃必殺を得意とするミュトは、本体である虫が数
匹で泥を維持している集合体のマッドトロルと相性が悪い。
﹁ミュトさん、交代です﹂
速度を緩めたミュトを抜き去り、クローナが走りながら石弾を複
数用意する。
フカフカがクローナの肩へと華麗に飛び移り、本体である虫が潜
んでいる集合体マッドトロルの各部を尻尾で照らし出した。
照らし出された各部にクローナが狙い定めた石弾を放ち、撃ち貫
く。
潜んでいた虫をすべて撃ち貫かれたマッドトロルは、魔力の支え
を失いただの泥に戻った。
地面に泥が広がる頃には、クローナはすでに次弾を撃ち出してい
た。
集合体のマッドトロルが次々に泥へと帰る。
走りながらそれをやってのける魔法の発動速度と狙いの正確さは、
平凡な魔法使いには到底真似できないだろう。
キロはクローナの杖に目を向ける。
︱︱まだ蓄積した魔力に余裕はありそうだな。
クローナが素早く魔法を展開できる理由は、杖を補強するリーフ
トレージの蓄積魔力だ。
普遍魔力を動作魔力や現象魔力に振り分ける工程を省き、魔法を
即時展開できる。
裏を返せば、リーフトレージに蓄積した魔力が枯渇した瞬間、魔
670
法の即時展開はできなくなる。
クローナも慎重にリーフトレージから引き出す魔力の量を調整し
ているようだが、集合体の数が多すぎて最後まで持つのかどうか、
キロは不安だった。
ミュトが道の先に目を凝らしながら、クローナに声をかける。
﹁右の壁に寄って、マッドトロルの処理は最小限に留めよう﹂
道の真ん中を走るより、右に壁を置くことで敵と接触する面積を
少なくする策だ。
マッドトロルがひしめく洞窟道では壁と挟み撃ちにされるかもし
れないため事前に却下されていた策だが、魔力消費を少なくするた
めに多少のリスクはやむを得ない。
クローナが右側の壁すれすれを走り始める。
その時、クローナの石弾で処理されるだけだったマッドトロルか
ら初めて反撃があった。
石弾ならぬ泥弾が撃ち出されたのだ。
石弾を撃ち出した直後のクローナに防ぐ術はない。
﹁︱︱甘いな、虫けらめ﹂
フカフカがクローナの肩から飛び出し、泥弾を尻尾で叩き落とす。
地面に着地したフカフカはすぐに飛び上がり、クローナの後ろを
走っていたミュトが差し出した手を踏み台にクローナの肩へと戻っ
た。
﹁あの尻尾、武器にもなるのか﹂
﹁魔力を纏いやすいから、動作魔力の効率も良いんだよ﹂
キロの独り言にミュトが返す。
671
フカフカがキロをちらりと振り返った。
﹁あまり何度もやれる事ではないのだ。泥が付いては光を放てぬか
らな﹂
マッドトロルの本体が隠れている個所を的確に照らし出しながら、
フカフカが期待するなと念を押す。
ミュトが道の先を指さした。
﹁そこの曲がり角を右へ﹂
昨日も見た曲がり角が目前に迫っていた。
ランバル護衛団と別れたあの曲がり角だ。
クローナが二十数個の石弾を準備しつつ、道を曲がった瞬間に撃
ち出す。
曲がり角の死角に潜んでいたマッドトロルが、クローナに反応す
る暇もなく大量の石弾を浴びせられ、風穴をあけられた。
曲がり角の先にいたマッドトロルを排除するために足を止めたク
ローナの横を、ミュトがすり抜ける。
石弾の射程内にいたマッドトロルが壊滅してできた空白地帯を維
持するように、ミュトが特殊魔力による透明な壁を張った。
クローナとキロが曲がり角を曲がり切ったことを確認したミュト
は、特殊魔力の壁を消す。
すぐさま、フカフカが進路上にいたマッドトロルを照らし出し、
クローナの石弾が飛ぶ。
クローナが再びミュトを抜き去り、石弾を撃ち始める。
散発的に飛んでくる泥弾はミュトが小剣で切り落とし、間に合わ
なければフカフカが尻尾で叩き落としていく。
二人と一匹の見事な連携だが、次第に走る速度が落ちてきていた。
洞窟道に対するマッドトロルの密度が増し、集合体と個体とが混
672
在し始めたことで、対処が難しくなってきたのだ。
さらに、リーフトレージに蓄積していた魔力も残量が乏しくなっ
ていた。
クローナが合間を縫って自身の魔力を練り、リーフトレージに少
しずつ供給しているようだが、消費量とは到底釣り合っていない。
﹁もう少しで落盤のあった地点だよ。頑張って!﹂
ミュトが荒い呼吸をしながら伝える。
戦闘しながら走っているため、魔力だけでなく体力も奪われてい
るのだ。
後ろを振り返れば、討ち漏らしたマッドトロルが体勢を整えて追
いかけてきていた。
このままでは挟み撃ちにされてしまう。
︱︱俺も戦闘に加わるか?
魔力の温存も大事だが、マッドトロルに殺されては本末転倒だ。
キロが戦闘に加わるべく走る速度を上げようとした時、フカフカ
が声を上げ、洞窟道の奥を照らす。
﹁見えたぞ、落盤地点だ﹂
フカフカの尻尾の明かりで照らし出されたのは天井が崩れて塞が
った道と、上にぽっかりと空いた穴から続く別の洞窟道だった。
しかし、集合体のマッドトロルが多くひしめき合っている。どう
やら、落盤で生じた柔らかい土を目当てに群がっているようだ。
天井に空いた穴から続く洞窟道へ行くためには、穴の下から真上
に跳躍する必要がある。
クローナとミュトが群がるマッドトロルを排除しようと各々の武
器を構える。
673
﹁数が多すぎますね﹂
﹁仕方がないよ。一時停止してでも、完全に排除してからでないと
上に登れないんだから﹂
眉を寄せるクローナの言葉に、苦い顔をしながらミュトが返す。
クローナとミュトが速度を緩めるが、キロは反対に魔力を練りな
がら速度を上げた。
﹁排除する必要はない﹂
キロが前を行く二人に声をかけると、クローナとミュトに加え、
フカフカまでもが不思議そうに振り返った。
﹁利用すればいいんだよ﹂
にやりと笑って、キロはクローナとミュトの前へと出る。
練っていた魔力で石壁を作り出してすぐにそれを押し倒し、マッ
ドトロルを支柱代わりに天井の穴へと届く橋を作り上げる。
集合体は泥を維持し形状を保つ力が個体よりも強い。突然天辺に
落とされた石壁にも潰されることはなく形状を維持し、石橋の支え
として機能していた。
即席の橋を作り出したキロが率先して穴へと駆け上がる。
石壁が邪魔で攻撃できずにいる集合体のマッドトロルを橋ごしに
踏みつけながら、クローナとミュトも続いた。
﹁ちょっと気分いいかも﹂
ミュトが口元に手を当ててくすくすと笑う。
﹁うむ、お楽しみ中に頭を踏みつけられるなど、虫けら共も思わな
674
かったであろうな﹂
フカフカが尻尾を左右に振る。
意趣返しができて胸がすっとした一同だったが、すぐに気を引き
締めて前を睨む。
マッドトロルの個体がいくつか、ずるずると近付いてきていた。
﹁こっちの道にも群れてるんだな﹂
﹁数は少ないみたいですけどね。ミュトさん、前をお願いします。
ここから先は道が全く分からないので﹂
クローナが道を譲ると、ミュトが前に出る。フカフカがクローナ
の肩からミュトへと飛び移った。
﹁やはりここが一番しっくりくるな﹂
﹁ボクは肩こりに悩まされそうだよ﹂
機嫌よさそうに言うフカフカに苦笑を返したミュトが、まっすぐ
正面を見る。
﹁水没地点までは細かい分かれ道がいくつかあるから、はぐれない
ように気を付けてね﹂
キロとクローナに方向感覚を失わないように、と注意してミュト
は走り出す。
すぐ近くまで迫っていたマッドトロルをミュトが切り裂き、文字
通り道を切り開く。
ミュトは地図を持っていなかったが、道は事前に暗記してあるよ
うだ。
クローナとは異なり、最小限の動きでマッドトロルを処理するミ
675
ュトは魔力に余裕があるのか、速度を落とさずマッドトロルを始末
していく。
ミュトの後ろを行くクローナは、次の戦闘に備えて杖に魔力を込
めているようだ。リーフトレージに蓄積した魔力は使い切っても、
体内に保有する魔力にはまだ余裕があるらしい。
ミュトが右手を挙げる。右折の合図だ。
クローナが石の散弾を放つ用意をしながら走る速度を上げて、ミ
ュトの右隣に並ぶ。
右折路に差し掛かった瞬間、クローナが曲がり角へ石の散弾を放
った。
一拍おいてミュトが石の散弾に続いて右折路へ侵入、泥から飛び
出した無傷の虫を切り落として走り抜ける。
左折、右折、また右折、グルグルと同じ所を回っているような感
覚がしてくるが、曲がる度にミュトとクローナの連携が洗練されて
いく。
いつしか、ミュトもクローナも速度を一切緩めることなく曲がり
角における処理をこなしていた。
互いの動きと攻撃範囲を把握し始めたのだ。
そして、最後の曲がり角を流れるような連携技で左折した時、フ
カフカがキロを振り返った。
﹁出番であるぞ﹂
﹁やっとか﹂
フカフカがミュトの肩からクローナの肩へ、さらにキロの肩へと
飛び渡る。
キロの肩に飛び移ったフカフカは、尻尾の光をスポットライトの
ように一点を照らすものから周囲一帯を照らす物へと変化させる。
キロは背後からマッドトロルが来ていない事を確認し、クローナ
とミュトの間に入る。
676
二人の腰に手をまわして動作魔力で持ち上げ、壁へと跳躍した。
フカフカの光で照らし出される壁の凹凸を見極めつつ、キロは動
作魔力をクローナとミュトに作用させ、体勢を維持する。
﹁フカフカになった気分⋮⋮﹂
﹁扱いが女の子に対するモノじゃないですよね﹂
﹁しゃべるな、舌を噛むぞ﹂
ミュトとクローナが口々に感想を述べるが、フカフカが黙らせる。
キロは壁を走りながら、内心で焦っていた。
︱︱動作魔力を使っても、さすがに二人はきつい⋮⋮ッ!
水没している区画は長かった。
分かれ道がないのは救いだが、魔力より先に腕が持ちそうにない。
︱︱腕が痛い。
引き攣り始めた口元を悟られないように取り繕っている内に、水
没地点の先が見えてくる。
水没地点の端にマッドトロルが待ち構えていた。個体と集合体が
混在している。
﹁クローナ、魔力は?﹂
﹁もうあんまり残ってません﹂
﹁わかった、ここからは俺が先頭を走る。討ち漏らしをミュトが片
付けてくれ﹂
キロは壁を蹴り、魔法で石の壁を生み出して足場にするとクロー
ナとミュトを降ろす。
水際からマッドトロルの群れが泥弾を撃ち出してくるが、距離が
あるために躱すのはたやすい。
﹁それじゃあ、後半戦と行きますか﹂
677
キロは槍を構え、足場にしていた石の壁からマッドトロルの集団
が待ち構える水際へと跳んだ。
678
第二十二話 特別地味な人
水際に着地したキロは、フカフカが照らすマッドトロルの上端に
突きを放つ。
泥とは違う固い手ごたえを感じた瞬間、槍を右へと振り抜き、別
のマッドトロルを本体ごと両断する。
その時には左手に魔力を集め終わり、石弾を放っていた。
三体目のマッドトロルが石弾に撃ち貫かれるまでを視界の端に収
め、キロは振り抜いた槍の勢いを利用して右腕を軸に槍を半回転さ
せながら、左足を踏み込んだ。
踏み込んだ左足へと体重を移動させつつ、槍をさらに半回転、刃
を正面に持ってきた瞬間、動作魔力を作用させる。
ヒュンと風を切る鋭い音を奏でて、キロの槍がマッドトロルを二
体両断する。
反撃とばかりに奥のマッドトロルから放たれた泥弾は槍の石突き
側の柄で叩き落とし、槍の持ち手を右から左へ、自由になった右手
に残しておいた動作魔力で、マッドトロルを触れた瞬間に爆発四散
させる。
アンムナの奥義に似ていたが、動作魔力をあらかじめ準備してお
く簡易技だ。
シールズの石壁へ放った時とは異なり、マッドトロルは泥である
ため失敗しても手を痛める可能性は低いと見て、キロは躊躇なく練
習台にした。
キロは飛び散る泥の向こうに集合体を見つけて目を細める。
﹁デカブツはクローナの獲物であるな﹂
﹁︱︱いや、このまま俺が倒す﹂
679
宣言するや否や、キロは集合体へと走り寄る。
フカフカが照らす集合体内部の虫は五匹だ。
キロは魔法で右手に小さな石の釘を生み出し、動作魔力を込めて
撃ち出した。
見事に虫の一匹を貫き、キロはさらに左から右斜め下へ集合体を
槍で切り払う。
槍の間合いギリギリでの一撃だったが、狙いは逸れることなく、袈
裟懸けにされた集合体の内部で二匹の虫が切り殺された。
キロは槍を右手だけで半回転させながらも走る速度を緩めない。
走り込みながら半回転させた槍を腋に挟んで固定すると、石突き
を高速で集合体へ突き刺し、本体の虫を一匹刺し殺す。
速度をまるで落とさずに集合体の横を走り抜けながら、キロは槍
を腋から放して両手で支えた。
直後、キロは動作魔力を自身の体に作用させて加速、集合体の内
部にいた最後の一匹を槍と一緒に泥の外へと飛び出させる。
泥から槍ではじき出された本体の虫は、哀れにもキロの左足に踏
みつけられて絶命した。
足元で小さな命の灯を一つ消しておきながら、キロは目も向けず
次の集合体に意識を移していた。
槍を振るい、石釘や石弾を撃ち込み、時には動作魔力を直接流し
て四散させる。
槍の一振るいでより多くの虫を切れるよう、道の中央を走り、奥
行きがある場合には壁すら足場にする。
全長三メートルの槍を突き刺せば、マッドトロルを二体貫く事も
ざら、道の中央にいる限り左右の端までキロの槍の間合いに捉えら
れる。
左右に逃げ場のない洞窟道という特性上、キロは側面攻撃を気に
する必要がなく、正面から飛んでくる泥弾も叩き落とし、あるいは
最小限の動きで避ける。
独壇場だった。
680
﹁おい、速度を落とさんか。虫の位置を知らせるそばから切り殺し
おって、指示が追い付かぬ﹂
ついにはフカフカが音を上げるが、抗議しつつもきちんと本体の
虫が潜む箇所を照らしている。
﹁⋮⋮ボクとクローナが二人でやってた事を一人でこなしてる計算
になるよね?﹂
後ろからミュトの自信が打ち砕かれる音が聞こえてくる。
﹁キロさんの場合、魔力量がそこまで多くないので長くは続けられ
ませんよ。それに、私達が体力や魔力の回復に専念できるよう、頑
張ってくれてるんですよ﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
クローナの言葉に納得したのか、ミュトは口を閉ざした。
キロが戦闘を全て引き受けているとはいえ、今は滝壺の街へ走っ
て向かっているのだ。
無駄口を叩いていては息切れしてしまう。
何より、マッドトロルを蹴散らしながら進むキロは、ミュトとク
ローナに戦闘の疲れが残っている事を加味しても、全力疾走に近い
速度を維持している。
気を抜くと置いて行かれそうな速さなのだ。
来た道を振り返れば、虫の死骸が累々となっているだろう。
キロは壁を足場にした突きで集合体の天辺から内部の虫をまとめ
て串刺しにし、崩れ行く泥の塊の向こうに降り立つ。
﹁数が減ってきたな﹂
681
キロの肩の上で、フカフカが顔についた泥を前足で拭いながら呟
く。
マッドトロルの密度は村を出た直後の洞窟道と比較して四割ほど
にまで下がっていた。
キロはクローナとミュトが追い付くまで待ちながら、槍についた
泥を指で落とす。
﹁滝壺の街が襲われていたらどうしようかと思ってたけど、心配は
いらないみたいだな﹂
﹁まだ距離がある。ここからは魔力勝負ではなく、体力と時間の勝
負であろう。苦しくなった者は遠慮なく言うがよい。我が心温まる
励ましを送ろう﹂
﹁それ、効果あるのか?﹂
﹁乗せて走れなどと、か弱い我に命じるつもりか? 励ます以外に
できぬであろう﹂
イタチらしいスラリとした小動物のフカフカは、柔らかな尻尾で
キロの首筋を叩く。激励のつもりらしかった。
クローナとミュトが少し息を整える時間を挟み、キロ達は再び移
動を開始した。
道を進むほどに、マッドトロルの数が減っていく。
代わりに増してくるのはじっとりと肌を撫でる湿気だ。
﹁次の曲がり角を左、後は直進すれば街に着くよ!﹂
ミュトの方向指示にキロは頷き、速度を緩めて左折する。
果たして、暗い洞窟道の先に街の明かりが見えた。
朝もやのようにうっすら立ち込める湿気が明かりをおぼろげにし、
輪郭も距離感もつかめないが、ゴールは近い。
682
ついに洞窟道を抜け、街へと繋がる橋に出る。
キロ達はなおも走り続けながら、ミュトを先頭にするべく順番を
入れ替える。
ミュトが地図師協会への最短距離を思い出し、近道さえ使って通
りを走り抜けた。
すれ違う通行人が迷惑そうな顔をするが、緊急だからと自分に言
い訳して無視した。
たどり着いた地図師協会へ、ミュトが走り込む。
一斉に向けられる迷惑そうな視線、息を切らしている三人を見て
怪訝なものに変わったそれは、キロの肩から飛び移ったフカフカと
飛び移られたミュトを認識すると嫌そうな色が混じった。
ミュトが視線に怯み、足を止める。
嫌悪の視線には慣れているはずのミュトだが、キロ達との交流を
通して他者から嫌われる事への忌避感を思い出したのだろう。
キロとクローナがミュトの左右に立ち、同時にミュトの背中を押
した。
﹁行きますよ。仕事の最中なんですから、毅然としましょう﹂
﹁恥じる事もやましい事もないからな。いくら見られても放ってお
け﹂
﹁︱︱うん﹂
クローナとキロが発破をかけると、ミュトは深呼吸を一つして受
付へ歩く。
歩きながら懐から出した救援要請の書類を、ミュトは受付に着く
なり机の上に置いた。
大きな街の協会職員だけあってミュトを見ても顔色一つ変えなか
った受付の男が、救援要請の書類を見て目を見開く。
﹁拝見します。ミュトさん、ですよね? ここまでの地図の作成を
683
お願いします﹂
やはりミュトの噂は聞いていたらしいが、救援要請の方が圧倒的
に重要度が上らしく、受付の男は書類をざっと見て眉を寄せる。
﹁人手を募っている時間はなさそうですね。順次派遣するしか⋮⋮﹂
受付の男が苦い顔をして、机の横に置かれていた小さなベルを手
に取り、鳴らす。
地下世界では珍しい金属製品である事から、ベルの音の重要度は
何となくキロにも察せられた。
書棚に向かい合っていた地図師が受付に視線を注ぐ。
﹁救援要請が来ています。相手は大規模なマッドトロルの群れ。地
図師の皆さんは護衛を連れてきてください﹂
受付の男性がミュトの手元に視線を向ける。
﹁⋮⋮綺麗な地図ですね﹂
囁くように褒めて、受付の男は他の職員を呼びに行った。
﹁︱︱集まらないってどういう事ですか⁉﹂
受付の男が別の職員に食って掛かる。
職員は苦い顔をしながら、ミュトをちらりと見た。
﹁現場までの地図が信用できない。マッドトロルの群れがひしめく
洞窟道をこの短時間のうちにたった三人でどうやって抜けてきた?
684
水没地点まであるんだ。救援要請の書類も一切濡れていない。地
図が信用できないのに命を張れるか、と護衛連中が取り合わないん
だ﹂
苦い顔をする協会職員の視線に、ミュトが俯いて服の裾を両手で
握りしめた。
﹁ちっ⋮⋮仕事くらいしろってんだ、脳筋共。名簿作ってあちこち
の街に回して仕事できなくさせてやるからな﹂
忌々しげに呟いた受付の男は、直接掛け合いに行くつもりなのか
カウンターを出て協会の出口へ向かう。
受付の男が両開きの扉に手を伸ばした瞬間、扉が内側へ音も立て
ずに開いた。
衝突を避けるために受付の男が半歩下がる。
扉をくぐってきたのは、白髪赤目、痩せすぎず太すぎず、鼻の大
きさ眉の太さや角度、唇の厚さに弧の描き方まで、どこを見ても次
の瞬間に忘れてしまいそうな、地味が服着て歩いているような男だ
った。
男は緊迫した協会の空気に触れて挙動不審に視線を彷徨わせた後、
身を縮こまらせて中へ入ってくる。
そして、ミュトに目を止めると、おぉ、と小さく呟いた。
﹁君達だね。財布を届けてくれた地図師達は﹂
﹁⋮⋮財布?﹂
キロは呟き、思い出す。
初めてこの滝壺の街を訪れた際、道中で拾った財布をこの協会に
届けていた。
どうやら財布の持ち主らしい地味な男に誰一人として注意を向け
685
ていない。
今はそれどころではないから出て行け、とさえ言われない存在感
のなさは特徴というものが抜け落ちた男の容姿に起因するのかもし
れない。
﹁いや、助かったよ。落し物を届けてくれた人なんて生まれて初め
てだよ。自分はどうにも地味らしくて、荷物まで地味だから落ちて
いても気に留められないらしいんだ。ぜひ、礼を言いたいと思って
待っていたんだよ。いや嬉しいなぁ﹂
心の底から嬉しそうに、地味な男はミュト、キロ、クローナの手
を順番にとって固く握手する。
﹁あぁ、そうだ。自分とした事が名乗ってなかったね﹂
そして、地味な男は、注意していないと右から左に聞き流してし
まいそうなほど特徴のない声で名乗る。
﹁自分はラビル。特層級の地図師だよ﹂
686
第二十三話 帰り道は地味な人と共に
地味な男が特層級地図師ラビルを名乗った瞬間、協会内の空気が
一変した。
グルン、と音がしそうな勢いで顔を向けた地図師達の顔には、一
様に驚愕の二文字が張り付いている。
ミュトもまた、唖然とした顔でラビルを上から下まで見つめ、呟
く。
﹁想像よりすごく地味⋮⋮﹂
ミュトの独り言が聞こえたらしい地図師達が一斉に頷いた。ミュ
トが発信地とは思えない一体感だ。
﹁どうせ、地味だよ⋮⋮﹂
ラビルが肩を落とし、俯いた。
︱︱気にしてるのかよ。
自ら地味だと言っていたのは、否定してもらいたい気持ちの裏返
しだったらしい。
面倒くさい奴が出てきた、とキロは思うが、それよりもラビルが
名乗った特層級という肩書が問題だった。
最上層のさらに上、前人未到の領域を探索する許可を得た、たっ
た八人しかいない最高位の階級なのだから。
﹁なぁ、ミュト、特層級ってどれくらい強いんだ?﹂
﹁単独で守魔を討伐してきましたと言っても、現実味を帯びるくら
い﹂
687
ミュトの返答を聞いて、キロはクローナと顔を見合わせる。
共通して思い浮かべるのはムカデ型の守魔だ。
﹁あれを単独で討伐できるなら、かなりの戦力だな﹂
﹁協力してもらえるんでしょうか?﹂
﹁問題はそこだけど⋮⋮﹂
大事そうに財布を懐へ入れるラビルを見つつ、キロはフカフカに
視線を送る。
フカフカが任せろとばかりに頷き、ラビルに声をかける。
﹁時に、ラビル殿、救援願いについては聞いておられるのか?﹂
珍しく丁寧な口調となったフカフカが協会全体を代表するように
訊ねた。
ラビルはきょとんとして首を傾げた後、協会を見まわして合点が
入ったようにあぁ、と小さく吐息を漏らす。
﹁また、地味過ぎて声をかけられなかったんだね⋮⋮﹂
存在すら地味過ぎて認識されないらしいラビルは深く重い、暗鬱
なため息をつく。
頼りなさが滲み出る発言だったが、特層級の肩書は伊達ではない
らしく、すぐに頭を切り替えて受付を見る。
受付の男はすでに外へ傭兵を説得しに出かけているため、カウン
ターには別の職員が立っていた。
﹁状況の報告と現場周辺の地図を過去十年分、救援願いを届けた人
にも会いたい。特層級地図師ラビルの名を使ってもいい。すぐに用
688
意を﹂
﹁あ、はい!﹂
カウンターに立っていた職員がラビルの指示を受けて動き出す。
ミュトが報告を持ってきた時とは、協会内の空気が違った。
どれほど荒唐無稽な話であっても信憑性を与えるほどの力が、特
層級という肩書に備わっているのだ。
﹁救援願いの届け人は我らである﹂
フカフカがラビルに申告する。
ラビルはフカフカとミュトを見て、にっこりとほほ笑んだ。
﹁災難だったね。詳しい話を聞かせてくれ﹂
トントン拍子に話が進んだ。
ミュトとフカフカが現場の地図を指さしながら状況を語ると、ラ
ビルは感心しながらいくつかの質問し、協会内の地図師を見まわし
た。
﹁まさかと思うけど、君達はこの話を聞いて虚偽の報告だと思った
のかい?﹂
地図師達が視線をそらし、ラビルは首をかしげる。
﹁噂に踊らされてミュトさんの話を真に受けず、護衛を説得しに動
こうともしないで村一つを滅ぼすつもりなのかい? 今すぐ全員上
層級の肩書を協会に返上した方がいいと思うよ﹂
689
さもなければ、とラビルは協会の入り口を指さす。
﹁早く仲間や護衛を呼んできなよ﹂
地図師達が青い顔をして協会の外へ駆けだした。
あまりにも素直にラビルの指示に従う地図師達を眺めながら、キ
ロはミュトに耳打ちする。
﹁⋮⋮特層級って、他の地図師の階級を剥奪できるのか?﹂
﹁各地の協会の監査員も兼ねているから、一応、権限を拡大すれば
できるかな。滅多に最上層から下へ降りてこない人達だから、ボク
もよく知らないけど﹂
滅多に降りてこない特層級地図師がなぜ、上層の下方に位置する
この街にいるのか、ミュトも疑問に思っているようだった。
必要な情報はそろった、とラビルが立ち上がり、協会の職員を呼
んだ。
﹁事態は切迫しているようだから、自分とミュトさん達で先に村へ
向かうとするよ。自分の名前が必要になるだろうから、これを渡し
ておくね﹂
そういって、ラビルは首に下げていた金のメダルを協会の職員に
投げ渡す。
無造作に投げ渡された金のメダルには地図師を表す紙とペンの意
匠が掘り抜かれ、年号と名前らしきモノが縁に刻印されている。
協会の職員が金メダルを一目見て顔面蒼白となり、万が一にも落
とすことはないようにと両手で包んだ。
﹁こ、これは肌身離さず持っておくべきものではないんですか?﹂
690
﹁緊急事態だからしょうがないよ。後で取りに戻るから、保管して
おいて﹂
職員の態度を見る限りメダルは貴重品としか思えないが、ラビル
は軽い調子で託すとミュト達に向き直る。
﹁疲れていると思うけど、一緒に来てもらえないかな。自分一人だ
と、ほら、無視されちゃうかも、しれないから﹂
自分で言っているうちに気落ちし始めたラビルがとぼとぼと協会
を出て行こうとする。
不安になる背中だが、一人で行かせるとなると良心が痛む。ある
意味、質の悪い背中だ。
キロは立ち上がり、ミュトとフカフカを見る。
﹁魔力はどうだ?﹂
﹁ボクはあまり魔力を使わない戦い方だから大丈夫だけど、クロー
ナは?﹂
﹁私はリーフトレージに蓄積しておきました。体内の方はもうほと
んど残ってないですね。村まで走るくらいの動作魔力ならあります
けど、どうしましょう。ここで待っていた方がいいんでしょうか?﹂
キロ達の会話が聞こえたのか、ラビルが振り返り、意外そうな顔
をする。
﹁君達は後ろを走っているだけでいいよ。マッドトロルは自分が全
て片付けるから、村に着いた時に救援願いが受理された事を伝えて
くれればいい﹂
﹁すごい自信ですね﹂
691
ひしめき合うマッドトロルを見た事がないからだろうか、とキロ
は疑うが、ラビルは肩を落とす。
﹁どうせ地味だよ。地味過ぎて誰も自分の力を信じてくれないんだ
よ。分かってるんだよ、地味なことは⋮⋮﹂
ラビルはポケットからハンカチを取り出して広げると、キロに向
かって軽い動作で投げつけた。
しかし、動作の軽さとは裏腹にハンカチは高速でキロに迫る。
動作魔力を通してあるのだろう。
もはや見慣れた状況に、キロはハンカチを避けるべく左足を引く。
完全に見切っていた。
しかし、迫りくるハンカチを見つめるキロは違和感を覚え、左足
を引いた直後、とっさに右足で後方に飛び退いた。
上半身を捻り、ハンカチを避ける。
体の横を通り過ぎたハンカチを見送りかけて、キロは驚きに目を
見張る。
ハンカチが、風の抵抗や重力を無視して〝一直線に速度を落とさ
ず〟飛んでいる事実に気付いたのだ。
本来、広げたハンカチを投げつけても風の影響を受けて即座に失
速する。
しかし、ラビルが投げたハンカチは広がったまま速度を維持して
キロの横を通り過ぎたのだ。
︱︱動作魔力じゃない、特殊魔力か?
文字通り一直線に空中を飛んだハンカチがついには壁に当たり、
張り付いた。
その異常性を理解できる者は少ない。
ただ動作魔力を込めて投げつけたと解釈した者がほとんどだ。
だが、キロの反応にラビルは満足げに笑った。
692
﹁一目で気付く人は少ないんだよ。ほら、地味だからさ﹂
﹁⋮⋮等速直線運動の特殊魔力?﹂
キロがラビルに確認を取る。
フカフカがキロの言葉に首を傾げながら通訳すると、ラビルは感
心して手を打った。
﹁訂正しよう。一目で見抜いた人は君が初めてだよ﹂
派手さはない、本人の言う通りに地味な特殊魔力だ。
﹁正確には、初速を維持し、何に衝突しても七割以上の破損がない
限り障害物を破壊して進み続ける特殊魔力なんだけどね。マッドト
ロル相手に、この特殊魔力を込めた盾を投げつけたらどうなるか、
想像はつくだろう?﹂
本体の虫以外は泥で構成されるマッドトロルに盾を投げつければ、
泥を押しのけて進み続けるのだろう。
戦闘の必要すらない。盾で轢き殺すようなものだ。
︱︱ほんと、特殊魔力は何でもかんでも反則みたいな性能しやが
って。
キロはシールズやミュトの特殊魔力を思い出してため息をつく。
キロも特殊魔力を持ってはいるが、いまだに能力がわからないの
がもどかしかった。
何が凄いのが分からず困った顔をするミュトとクローナを促して、
キロはラビルと共に協会を後にする。
ミュトから借り受けた地図を一瞥したラビルはすぐに洞窟道へと
歩きだす。
橋を渡り、洞窟道にたどり着くとカバンの中から光る虫が入った
籠を取り出した。
693
頭の高さに掲げ、三歩ほど歩くと虫かごから手を放す。等速運動
の動作魔力を込められた虫かごは空中を進み始めた。
﹁便利ですね、地味ですけど﹂
﹁クローナ、それ禁句だよ﹂
ミュトが窘めるが、ラビルは項垂れながら洞窟道を進み始めた。
クローナの言葉は理解できずとも、それを咎めるミュトの言葉か
ら何を言われた分かってしまったのだろう。
水没した洞窟道へと続く曲がり角に差し掛かると、ラビルは虫か
ごを手に取り、魔法の発動を中断する。
﹁ここから先は人もいないはずだし、急ごうか。遅れないようにつ
いてきてね﹂
そう言って、ラビルが走り出す。
走る速度に合わせて虫かごに等速運動の魔力を込めて空中に浮か
せた後、腰に下げた長剣を抜き放った。
盾は構えていない、というより所持してさえいない。
代わりに、カバンから金属塊をいくつか取り出した。
ラビルが何をするつもりか、キロは手に取るようにわかる。
同時に思うのだ。反則だ、と。
水没地点に近づくとマッドトロルが見えてきた。
キロに蹴散らされたはずだが、殲滅まではされていない。水没地
点を超えてきた個体も合わせて、元通りの環境に戻っていた。
だが、ラビルは走る速度を緩めない。
金属塊に特殊魔力を込めると、次々に目の前へと放っていく。
すると、金属塊はラビルの正面を固める移動する盾となり、かつ、
矛となった。
速度を維持したままマッドトロルにめり込んだ金属塊は、泥の抵
694
抗を完全に無視してマッドトロルを貫通する。
﹁⋮⋮え?﹂
初めてラビルの特殊魔力の有用性を理解したクローナが驚きより
も困惑の色を多く含んだ声を上げる。
破損しない限り、速度を維持して進み続ける盾であり、矛となっ
た金属塊は洞窟道にひしめくマッドトロルを次々に貫通していく。
中にいた虫は泥の流れで必死の抵抗をしているはずだが、特殊魔
力による等速運動は物理の壁すら突き抜けて、虫ごと泥を貫通する
ありさまだ。
時折貫通されずに済んだ虫も、ラビルが手に持った長剣を軽く振
るって切り裂いてしまう。
ラビルの細腕と長剣にはやはり、等速運動の魔力が込められてい
るらしい。
さして力を込めているようには見えない。握りも緩い。
だが、空気や泥の抵抗を無視し、慣性や重力に逆らう等速運動の
一振りはラビルの筋肉を傷めることなく最小限度の力で虫を切り裂
いていた。
﹁地味ではあるが、汎用性が高いようであるな﹂
﹁フカフカまでそういう事を言わないでよ﹂
フカフカの感想をミュトは大声で塗りつぶすが、時すでに遅い。
ラビルは目尻に涙さえ浮かべながら、マッドトロルを蹴散らして
いく。
余裕をもってマッドトロルを倒し続けるラビルを追いかけながら、
キロは思う。
︱︱やっぱり地味だな。
と。
695
第二十四話 挟撃
水没地点にたどり着くと、ラビルは遠すぎて見えない対岸へ目を
細めて頬を掻く。
﹁よく渡って来れたね。壁を走ったって聞いたけど、どこかに休憩
できる浅瀬でもあるのかと思っていたよ﹂
ミュトがキロに横目を投げる。
﹁特層級から見てもキロは異常なんだね﹂
﹁異常とか言うな。せめて、器用と言え﹂
キロは抗議するが、ミュトはクスクスと笑うだけで取り合わない。
キロ達のやり取りの横で、ラビルが石壁を横向きに生み出した。
ラビルがキロ達を手招き、石壁の上に乗るよう促す。
﹁では、行こうか﹂
足元の石壁に手を置いたラビルが言うと同時、石壁が水面を滑る
ように動き出す。
キロ達は空飛ぶ絨毯と化した石壁に揺られて水面を進み、曲がり
角に差し掛かる度に新たに生み出した石壁へと乗り移る。
来た時とは段違いの快適さだった。
キロは腕を摩りつつ、明かりの中に浮かび始めた対岸を睨む。
クローナがキロと同じく対岸を睨み、ため息をつく。
﹁増えてますね﹂
696
キロ達を獲物と認識して追いかけてきたものの、水没地点で立ち
往生したらしいマッドトロルの群れがいた。
石壁の上で胡坐をかいていたラビルが面倒臭そうに小さく唸る。
﹁村での防衛戦に備えて魔力を残しておきたいから、高度を上げて
このまま進んでしまいたいな﹂
天井の高さを目測したラビルが悩むように進行方向のマッドトロ
ルを見る。
個体はともかく、集合体となると纏う泥の量が豊富だ。
乗り物となっている石壁の高度を上げても、泥を調節して行く手
を塞がれてしまう可能性があった。
﹁集合体だけなら、私が魔法で片付けましょうか?﹂
﹁いや、クローナは魔力を温存した方がいい。広範囲の攻撃方法を
持ってるのはクローナだけだからな﹂
クローナが杖を片手に立ち上がろうとするのを止めて、キロは槍
を構える。
ラビルが意外そうにキロを見上げた。
﹁槍だけじゃなく魔法も使えるのかい?﹂
フカフカがキロの肩に飛び乗り、ラビルを見下ろす。
﹁こやつは器用なのだ。まぁ、見ておれ﹂
キロは体に動作魔力を作用させると、マッドトロルがうごめく洞
窟道へと飛び降りた。
697
着地と同時に正面にいたマッドトロルの個体を貫き、キロは集合
体の位置を確認する。
﹁フカフカ、頼んだ﹂
﹁心得ておる。任せよ﹂
フカフカが尻尾の明かりで集合体の虫の位置だけを知らせる。
キロは地面を蹴り、壁を使って通常のマッドトロルを避けながら
集合体だけを狙い討った。
中の虫の数を減らすだけで、余分な泥を維持できなくなり集合体
は小さくなる。
キロは二、三匹の虫を切るとすぐに次の獲物へと狙いを変更し、
ラビル達に追いつかれないよう先行する。
フカフカによる索敵があるとはいえ、手際よく集合体を排除して
いくキロをラビルは興味深そうに眺めていた。
キロ達がたどり着いた時、村はマッドトロルに蹂躙される一歩手
前の状態にあった。
最終防衛線まで下がった戦線を維持するべく、村人とランバル護
衛団が必死に抵抗している。
しかし、圧倒的な物量差を前に屈服寸前まで追い詰められている。
村の入り口である洞窟道から畑を超えた先にある最終防衛線を眺
め、キロ達は視線を交わす。
﹁魔法で弾幕を張ってるみたいだね。迂闊に近付くとマッドトロル
の巻き添えになりそう﹂
キロ達の帰還を知っても、弾幕を薄くする余裕はなさそうだ。
弾幕を薄くした瞬間にマッドトロルに戦線へ取りつかれ兼ねない。
698
ラビルが周囲を見回して、第一、第二防衛線に取り残された土嚢
を見つけ、腕を組む。
しばし黙考した後で、ラビルはキロに声をかけた。
﹁君なら壁を使って防衛線の裏へたどり着けるだろう?﹂
キロが答えるより先に、クローナとミュトが大きく頷く。
ランバル護衛団を救出した際にも同じ事をしているため、できる
と踏んだのだろう。
キロは魔法が飛び交う最終防衛線を見る。
﹁流れ弾を避け切れるかどうか、自信ないんだけど﹂
魔法による弾幕は前回の比ではない。村人総出で放っているとし
か思えない激しい魔法の嵐だ。
マッドトロルを貫通した先で石弾同士が衝突し、壁に向かう事も
多い。
すでに壁にはとばっちりを受けた証が散見されて、激しい凹凸が
できていた。
ラビルが頬を掻く。
﹁自分はここから土嚢を動作魔力で撃ち出してマッドトロルを制圧
しようと思うんだ。だから、防衛線側で本体の虫を始末したり、土
嚢を撃ち返してくれる人がいると助かるんだけど﹂
マッドトロルの前後から土嚢を射出する攻撃で挟み撃ちにする作
戦らしい。
防衛線側で土嚢を受け損なえば、後ろの民家に土嚢が激突して大
損害となりかねない。
︱︱危ないな。
699
キロは思わず眉を顰めるが、ラビルが提案した危険な作戦でもな
ければ最終防衛線まで押し込まれた戦況を打開できそうになかった。
他に良案が浮かばないキロはため息をつく。
﹁ミュト、一緒に来てくれ。ミュトの壁を使えば俺が失敗しても被
害は防げるはずだ。クローナ、俺がミュトを抱えて壁を走ってる間
でいいから流れ弾を撃ち落とせるか?﹂
杖の補助を受けたクローナの発動速度ならば、後手に回らざるを
得ない流れ弾への対処も可能だと思い、キロは訊ねる。
クローナは渋い顔をしていた。
﹁発動速度に自信があるのかもしれないけど、無理だと思うよ?﹂
事情を知らないラビルが苦笑するが、クローナが渋い顔をする理
由は別にあった。
﹁ミュトさんばっかり、キロさんと密着できるのはなんかズルいで
す⋮⋮﹂
唇を尖らせて不機嫌さをアピールするクローナに、キロを除く全
員が絶句する。
︱︱そんな事だろうと思ったよ。
キロは苦笑する。
クローナの事だ。わがままを言っている自覚はきちんとあるのだ
ろう。
自覚している証拠に、クローナの周りには流れ弾迎撃用の石弾が
形成され始めている。
﹁お姫様抱っこ以外の要求は後で聞くから、頼んだよ﹂
700
﹁はい、頼まれましたよ﹂
一転して機嫌よさそうに請け負って、クローナは杖を掲げる。
茶番を見せられたフカフカが、目が腐ると言わんばかりに尻尾で
顔を覆った。
反応に困っているミュトの前でしゃがんだキロは背中に乗るよう
指示する。
ミュトがクローナをちらりと窺った。
﹁早くしてください。時間がないですから﹂
クローナに促されて、ミュトはキロの背中におぶさる。
フカフカがキロの首回りへ移りながら、口を開く。
﹁時間がないだと? いけしゃあしゃあと、よく言えたものだな。
お前もだ、キロよ。状況が分かっておるのか﹂
﹁分かってるよ。だから、こうやって息を合わせたんだからさ﹂
キロはフカフカに言い返して、壁に向かって駆け出した。
その瞬間、キロの左右を石弾が通り抜け、進路上の邪魔なマッド
トロルを吹き飛ばす。
マッドトロルの数が多い場所を避けようと、キロが進路を変える
ためにわずかに減速すれば、後ろから全体を見ていたクローナが方
向を指示するように石弾でマッドトロルを吹き飛ばす。
キロはクローナが吹き飛ばしたマッドトロルがいた方向へ駆けれ
ばよかった。
クローナの援護もあって滞りなく壁へと到達したキロは、動作魔
力を体に作用させて跳ぶ。
壁に足をつけ、キロは再び走り出した。
流れ弾は事前にクローナが石弾で撃ち落とす。
701
壁を走るキロをちらりと視界に収めたらしい村人が、驚愕の表情
で二度見する。
ランバル護衛団を助け出した時には防衛線にいなかったのだろう。
キロの着地点が自分のすぐ後ろだと気付いた村人は慌てて頭を下
げる。
キロは動作魔力を使って地面とは垂直方向に高く跳び、村人の頭
が元あった位置より上を通って最終防衛線の後ろに着地した。
﹁やっぱり乗り心地はあまりよくないかな﹂
﹁ほっとけ﹂
背中から降りるミュトの憎まれ口に気安く返して、キロは立ち上
がる。
キロ達を見つけた年かさの女が駆け寄ってくる姿が見えた。
﹁︱︱救援は⁉﹂
﹁呼んできた。本隊の到着までまだ時間がかかるけど、特層級の地
図師がマッドトロルの向こうに来てる﹂
ミュトが年かさの女に説明している間に、キロは無事に最終防衛
線の後ろに到着したことを知らせるべく、頭上に魔法の光を放った。
応えるようにクローナの物らしき魔法の光がマッドトロルの向こ
う側に撃ちあがる。
続けざまに作戦準備が整ったことを知らせる二つ目の魔法の光が
撃ちあがる。
キロはミュトを振り返った。
﹁説明は後だ。作戦を開始しよう﹂
クローナは魔法による広範囲の攻撃ができるが、いつまでもマッ
702
ドトロルの群れの中に置いておくわけにはいかない。
素早く戦線を立て直して、クローナやラビルと合流する必要があ
った。
ミュトが年かさの女に向き直り、大まかに作戦を伝える。
年かさの女は心配そうに村を振り返ったが、仕方ないと割り切っ
たのか頭を振った。
キロ達は防衛線の端へと走り、準備が整ったことを知らせるべく
魔法の光を打ち上げる。
マッドトロルの群れの向こうで、作戦開始を告げる光の玉が撃ち
あがった。
直後、光の玉が撃ちあがった地点からキロ達の元へ、一直線に土
嚢が飛んでくる。
成人男性二人くらいならば簡単に入りそうな、魔物の皮で作った
袋に土を破裂寸前まで詰め込んだ重量のある土嚢が高速で飛来する。
進路上にいたマッドトロルは水風船のように破裂して泥をまき散
らしていく。
悲鳴を上げて村人が避難する中、キロは槍に動作魔力を込める。
土嚢の射線の横に立ち、キロは間近に迫った土嚢へ槍を大上段か
ら叩きつけた。
腹に響く鈍い音が周囲にいた村人の肝を冷やす。
周囲の反応は気にも留めず、キロは槍で叩き落とした土嚢に片手
を添え、動作魔力を込めて再度マッドトロルへと撃ち出した。
射線にいたマッドトロルにとっては堪ったものではない。
湿った音を立てて破裂するマッドトロルが泥弾で土嚢を撃ち落と
す。
キロはすかさず光の魔法を空へ打ち上げた。
次弾を撃て、の合図である。
間を置かず、群れの奥、クローナやラビルがいる地点からマッド
トロルの破裂が再開する。
泥弾で抵抗するマッドトロルだったが、第一、第二防衛線に残さ
703
れた土嚢の数は多く、替えの弾に不自由しなかった。
泥弾が飛んでくる度に村人が万一に備えて逃げ惑い、年かさの女
が精一杯に統制を取っている。
土嚢の往復が二十を数えた時だった。
﹁なんだ?﹂
クローナ側から不測の事態が発生した事を知らせる火球が天井に
向かって撃ちあがっていた。
キロはマッドトロルに視線を向け、舌打ちする。
﹁散開、いや、撤退か﹂
マッドトロルが土嚢を避けるように散らばり、洞窟道へと移動を
開始していた。
泥の波が引いていくような光景の最中、土嚢が一体のマッドトロ
ルへ飛んでいくのを視界にとらえ、キロは射線の先で撃ち返すべく
走り出す。
しかし、キロの努力をあざ笑うように、マッドトロルに衝突した
土嚢が唐突に軌道を変えた。
︱︱泥の流れでいなしたのか⁉
仲間の死を無駄にしない心がけは立派だが、何もこの土壇場で対
応してこなくてもいいだろう、とキロは歯噛みする。
靴で地面を削って急制動をかけるが、土嚢が防衛線に届く方がは
るかに速い。
︱︱間に合わないッ!
キロが焦り、一か八か槍を投げつけて止めようとした時、小柄な
影が軌道を変えた土嚢の射線上に飛び出した。
キロの撃ち漏らしを回収するべく待機していたミュトだ。
ぎりぎりのところで土嚢の前に躍り出たミュトが手を突き出す。
704
土嚢が鈍い音を立ててミュトの手前に生み出された不可視の壁に
衝突し、勢いを止めた。
﹁よくやった、ミュトよ。誉めてやろう﹂
相棒のファインプレーを称賛するように、フカフカが光る尾をく
るくると回す。
﹁鬱陶しいから尻尾をまわさないでよ﹂
﹁なんだ、気に入らんのか。我に褒められる事などそうないだろう
に、贅沢な奴であるな﹂
ミュトとフカフカが言葉を交わしている様子を見て、キロはほっ
と溜息をつく。
そして、マッドトロルの群れに視線を戻した。
洞窟道へと進むマッドトロルを、クローナがラビルと共に迎え撃
っている。
しかし、連携がうまく行かないらしく互いの攻撃を邪魔してしま
いマッドトロルの数を減らせていない。土嚢を使った攻撃を行う余
裕はもうないだろう。
キロとクローナ達を結ぶ線上に、マッドトロルは少ない。土嚢に
よって片付けられたのだ。
﹁作戦は変更だな。クローナ達を助けに行く﹂
キロはミュトを促し、クローナとラビルの元へ駆けだした。
最終防衛線の裏から戦況を見ていた年かさの女の命令がキロ達に
遅れて響く。
﹁余裕のある者はマッドトロルを追え! これより、追討戦に移る、
705
今日中に根絶やしにしてやれッ!﹂
706
第二十五話 防衛戦の終わり
キロとミュトの後に、年かさの女の号令を受けたランバル護衛団
を先頭に村人達が続く。
最終防衛線まで押し込まれた反動か、村人達はあっという間にマ
ッドトロルに追いすがり討伐を開始した。
キロとミュトは村人達を置いてきぼりにして、洞窟道へ向かうマ
ッドトロルの群れに踏み込んだ。
フカフカを肩に乗せたミュトが小剣を閃かせ、マッドトロルの個
体を素早く切り殺して進む。
集合体が目の前に立ちはだかると、ミュトは手を突き出して特殊
魔力の壁を張る。
﹁キロ、お願い﹂
﹁おう、任せろ﹂
ミュトが後ろに控えていたキロに声をかければ、キロは透明な壁
の横を走り抜けて集合体の側面に回り込む。
キロが側面に回ったことを横目で確認したミュトが特殊魔力の壁
を解除する。
すぐさま、集合体の本体の位置を見抜いたフカフカが尻尾の光で
暴き出した。
キロの槍が集合体を側面から突き破り、中にいた二匹の虫を突き
殺す。さらに動作魔力で集合体の背後へ振り抜かれた槍は三匹目を
仕留めていた。
同様に、キロの槍が届かない位置に潜んでいた虫をミュトの小剣
が二つに裂く。
集合体を構成していた泥が地面に広がり切る前に、キロとミュト
707
はさらに奥へと駆け出した。
キロとミュトを脅威と見なしたのか、マッドトロルが迎撃するよ
うに動きを止める。
行く手を遮る二体のマッドトロルに、キロとミュトが横並びにな
り、走りながら突きの体勢を作った。
走り込んだ勢いを載せて、マッドトロルの本体である虫へ各々の
武器を突き刺し、左右に分かれてマッドトロルだった泥の塊を避け
て進む。
その時、キロは違和感を覚えて背後を肩越しに振り返った。
︱︱仕留めきれてない?
ミュトが小剣を突き刺したマッドトロルがいまだ泥に還らず、反
撃の泥弾を撃ち出す。
﹁︱︱ッ!﹂
キロは右足で地面を強く蹴り、横向きに飛びざま槍を正面で横倒
しに構えた。
ミュトに向かっていた泥弾はキロが構えた槍の柄に衝突し、砕け
散る。
キロは横倒しにしていた槍を繰り、持ち手を長くして地面と水平
に薙いだ。
遠心力が十分に乗った槍の横薙ぎがマッドトロルを半ばまで断ち
切る。
中央近くに潜んでいた虫が深手を負ったのか、マッドトロルは中
途半端に泥を維持した状態で静止した。
キロは反転してミュトを追う。
﹁⋮⋮ごめん。助かったよ﹂
横に並んだキロに、ミュトが謝る。
708
息は荒く、走る速度も落ちていた。
無理もない。
救援を呼びに街まで往復した後で続けざまに戦闘しているのだ。
溜まった疲れが出始めていた。
﹁クローナと合流したら、追討戦には参加せず撤退しよう。それま
で、何とか頑張ってくれ﹂
ミュトはただ頷いた。口を利く余裕もないらしい。
キロは限界が近い様子のミュトを心配するが、クローナとラビル
が戦っている場所はもう目と鼻の先だ。
合流すればミュトの負担も減ると判断して、キロはミュトの前に
出る。
キロの考えを悟ったフカフカがキロの肩へと飛び移った。
﹁少しでもミュトの負担を減らそうというのだろう? 協力するぞ﹂
フカフカはキロの槍が届く範囲のマッドトロルを照らし出す。
救援を呼びに行く際にはキロの素早い動きに音をあげていたにも
拘らず、今回はさらに広い範囲を照らしている。
ここが正念場だ、とフカフカも腹を括ったらしい。
﹁ミュトがあの調子だと、魔力の補充は先になるだろ?﹂
﹁その時は貴様の魔力で我慢してやろう。ありがたく思え﹂
フカフカの言葉にキロはにやりと口端を吊り上げる。
﹁腹を壊しても知らないからな!﹂
言葉と共に、踏み下ろした左足に動作魔力を込めたキロは加速し、
709
マッドトロルの頭上に飛び上がる。
刃を下に突き出した槍が、泥の塊の天辺にいた虫を二つに切断し
た。
手ごたえを感じたキロは槍をわずかに動かし、右斜め前に突きを
繰り出す。
三匹で構成される小さめの集合体が、内部の虫を二体貫かれて個
体に戻った瞬間、右足を支点に梃子の原理で振り抜かれたキロの槍
によって、ただの泥に戻った。
ミュトが付いてきているか、振り向いて確かめようとしたキロの
肩を、フカフカが前足でぽんぽんと叩く。
﹁ミュトの事ならば我が見ておる。キロは戦いに集中しておれ。他
に気を回している余裕はキロにもないのだろう?﹂
ミュトに疲れが溜まっている以上、当然キロにも疲労が蓄積して
いると読まれたらしい。
事実、キロも魔力や体力が心許無くなっていた。集中力が切れ始
めている事も、自覚している。
それでも致命的なミスをしないのは、キロが器用であること以上
に、マッドトロルが逃げに入っている事が大きい。
﹁キロさん!﹂
クローナの声が聞こえて、キロは目の前にいたマッドトロルに攻
撃を加えず飛び退く。
直後、石壁が出現してマッドトロルを押し潰した。
マッドトロルを押し潰した石壁の向こうにクローナが立っている。
﹁クローナ、無事みたいだな﹂
710
服に泥が跳ねてはいたが、怪我はない様子のクローナの姿にキロ
はほっとする。
﹁キロさんもミュトさんも、大丈夫みたいですね﹂
キロとミュトが無事と分かってクローナも一安心したのか、胸を
撫で下ろした。
ミュトが見ていることに気付き、クローナは首をかしげる。
﹁⋮⋮他意はないですよ?﹂
﹁⋮⋮大丈夫、分かってる﹂
少女二人のやり取りに首を傾げつつ、キロはラビルを見た。
﹁俺達は撤退しようと思います。連れてきておいて心苦しいんです
が、魔力も体力もそろそろ限界なので﹂
﹁そうだろうね。むしろ、ずいぶん持つなと感心していたところだ
ったんだ﹂
後は任せてくれ、とラビルは自らの胸を叩く。
フカフカがミュトの肩を尻尾で軽く叩いている。労っているわけ
ではないようだ。
﹁安心するがよい、流石にあれには負けぬ﹂
﹁⋮⋮うるさいよ﹂
洞窟道へ向かうというラビルと別れ、キロ達は最終防衛線に引き
返す。
すでにマッドトロルの群れは洞窟道に殺到しているため、キロ達
と最終防衛線との間に残っているマッドトロルは少ない。
711
その少ないマッドトロルも、追討戦に参加する村人達が順次処理
して回っているため、キロ達の行く手を阻むものはなかった。
戦闘を避けて最終防衛線の裏に到着したキロ達は棒のようになっ
た足に鞭打って宿に向かう。
早く部屋に帰って泥のように眠りたかった。
戦闘から解放された事で、空気が弛緩していた。
村人のほとんどが最終防衛線に出払っている事もあり、村に残っ
ているのは長老をはじめとした老人と子供だけのようだ。
すでにマッドトロルが逃走を開始したことが伝わったらしく、子
供達は遊び始めている。
畑が荒らされたため、老人達は今後の生活をどうするか相談し合
っているようだ。
生活を守るという点では間に合わなかったのだと思うと、やるせ
なくなった。
﹁ミュトよ、少し待て﹂
キロの表情に気付いて、フカフカがミュトの足を止めさせた。
疲労困憊の様子で何度も欠伸を噛み殺していたミュトが、目をこ
すりながら足を止める。
円座になって相談し合っている老人達へ、フカフカが声をかける。
﹁いま畑に行けば虫どもの死骸が大量に手に入るはずである。あれ
を売ればしばらくは生活できるのではないか?﹂
︱︱そういえば、光虫の餌にするって言ってたな。
フカフカの言葉に老人達が顔を見合わせる。
﹁⋮⋮あの虫は売れるのか?﹂
﹁知らんのか? この村でも光源に光虫を飼っておるだろう?﹂
712
フカフカが不思議そうに訊くと、老人達はあぁ、と小さく呟いた。
﹁この村では光虫を飼っていないんだよ。この村の光源は、ほら、
あそこにいるだろう﹂
老人が指差した先には五歳ほどの少女に追いかけられる、くちば
しが大きく発達した鳥がいた。
でっぷりと太った胴体には逞しい足が二本付いており、くしゃく
しゃに丸めたような不恰好で小さな羽をもっている。
明らかに飛べない鳥だ。フカフカの尻尾ほどではないが、くちば
しが強く発光している。
﹁出よったな、ずんぐりむっくり﹂
フカフカが不機嫌そうに尻尾を乱暴に振り回す。
ミュトが飛べない鳥を見て納得したように頷く。
﹁畑があるんだから、光量が多い動物を飼っているのは当然だね﹂
どうやら、地下世界において太陽の代わりに植物の光合成に使わ
れるほどの光を放つ生き物らしい。
クローナがふらふらと鳥へと歩いてき、五歳くらいの少女と腕輪
を交換し合いながら、二言三言会話する。
クローナが何かを質問すると、満面の笑みで頷いた少女が鳥を抱
え上げた。
鳥は暴れることもなく、足を体に引き寄せて折り畳むと微動だに
しなくなった。
訓練されているのか、もともと大人しい動物なのかは判断が付か
ない。
713
だが、クローナにとってそんなことはどうでもよかったらしい。
﹁キロさん、キロさん、この鳥、私達も飼いましょうよ。フワッフ
ワしてますよ。綿みたいですよ!﹂
鳥の触り心地に感極まったクローナがピョンピョン跳ねる。
激しい上下移動にも、鳥は全く動じていない。
﹁なんであんなに元気なんだろ﹂
キロは疲れの溜まった肩を回しながらため息をつく。
﹁そんなかさ張る生き物連れて歩けないだろ。フカフカで我慢しと
け﹂
﹁おい、キロ、至高の生き物である我を捕まえて何たる言い草だ﹂
キロの言い方が気に食わなかったのか、フカフカが不機嫌に抗議
する。
﹁⋮⋮何でもいいから早く帰って寝ようよ﹂
ミュトが額を抑えて呟いた。
714
第二十六話 追討戦
﹁︱︱逃げられた?﹂
宿の部屋で川の字になって眠りこけていたキロは、部屋の扉を壊
れんばかりに叩いて自分達の眠りを妨げた訪問者をじろりと睨む。
左右の肩にはクローナとミュトが頭を預けて舟を漕いでおり、フ
カフカはキロの魔力を吸いながらしきりに不味い、と繰り返してい
る。
﹁段々癖になってくる不味さであるな。うむ、生き返る﹂
コアな一言を口にして、フカフカはキロの人差し指に吸い付いた。
疲れた顔のキロ見て、訪問者である長老が眉間の皺を揉みほぐす。
﹁⋮⋮色男は大変だね﹂
﹁疲れてるんですよ。分かってるでしょう?﹂
ミュトの腕輪を借り受けている長老は、キロの言葉に苦い顔をし
た。
﹁それを言われると弱いんだよねぇ。しかしながら、お前さん方の
力添えが欲しいんだよ﹂
長老がキロの前に地図を広げる。ミュトが作成した地図だ。
長老は地図の一点、複雑に入り組んだ立体迷路状の地点を指さす。
﹁マッドトロルが逃げ込んだのはこの入り組んだ場所だ。下手に足
715
を踏み入れると挟み撃ちにされかねない。一度この中に入った地図
師であるお前さん方なら、地形の把握もしているだろう?﹂
キロはミュトに視線を向けるが、キロの肩を枕にして寝息を立て
ていた。
長老もミュトを見て、苦笑する。
﹁もちろん、休息は取ってくれて構わない。もう半日ほどあればい
いだろう?﹂
︱︱半日か。
短いとは思ったが、追討戦の最中の半日であると考えるとかなり
譲歩してくれていることが分かる。
ミュトもクローナも寝入ってしまっているため、キロは意見をう
かがえる唯一の相手であるフカフカに視線を移す。
いつの間にか食事を終えたフカフカは、尻尾の毛繕いをしていた。
﹁良いではないか。我らだけを送り込むという話でもないのだろう
?﹂
﹁当然だ。特層級地図師のラビルさんにランバル護衛団を加えた計
十名でお願いしたい﹂
長老が人間ではないフカフカも頭数に入れた事が嬉しかったのか、
フカフカは尻尾を左右に揺らした。
﹁良かろう。殲滅は無理であろうが、地図を完成させ次第、村に戻
ってくる。後はお前達で片付けるがよい﹂
保留にするでもなく、クローナやミュトの意見も聞かずにフカフ
カが決定した。
716
﹁︱︱という話があったんだ﹂
勝手に予定を決めたフカフカにクローナとミュトの視線が突き刺
さる。
決めたものは仕方がない、と村を出て洞窟道を進んでいるところ
であり、納得してなくとも仕事をする気はあるようだ。
フカフカもミュト達に相談もなしに決めた事に後ろめたさはある
ようだが、きちんと理由がある、と抗議する。
﹁報酬も出るそうであるし、何より、あの道は新洞窟道だ。ミュト
の実績を積むのにも役立つではないか﹂
﹁それはそうだけど⋮⋮﹂
フカフカの正論を前にミュトは口を閉ざす。
キロは洞窟道の先を見る。
もうすぐ迷路状になった洞窟道が見えてくる頃だ。
キロの後ろから、ランバル護衛団が声をかけてくる。
﹁俺達は迷い込んじまっただけだからあの道に詳しくはないが、奥
に広い空間がありそうだったぞ﹂
一度地図に視線を落としたミュトがランバル護衛団を振り返る。
﹁奥から風でも吹いてきたの?﹂
﹁あぁ、風が吹いてきて、村が近いんだと思ったらマッドトロルが
ぞろぞろと出てきやがってな。慌てて逃げたんだよ﹂
﹁︱︱あれ? マッドトロルに追いかけられていたのは俺達で、あ
んたらはとばっちりを受けただけじゃなかったっけ?﹂
717
キロが入れた茶々を面白がったフカフカが翻訳すると、ランバル
護衛団は降参とばかりに両手を肩の高さに挙げた。
﹁悪かったよ。その件については謝る。村の方にも事情をちゃんと
説明しておいた﹂
キロは肩越しに振りかえってランバル護衛団を一瞥した。
ミュトがキロの服を軽く引っ張る。
﹁反省しているみたいだからあまりいじめなくても⋮⋮﹂
﹁反省しているかどうかはこれから分かるんだよ。それに、一つ忘
れてるだろ﹂
守魔の足、とキロは小声で指摘する。
ランバル護衛団は守魔の足を切り落としたと嘘を吐いていた事を
まだ誰にも話していない。
本当に反省しているのなら自分達から話すはずだ。
︱︱まだ信用できないんだよな。
特層級地図師のラビルも作戦に参加しているため、ランバル護衛
団も逃げ出したりはできないはずだが、キロはいまだに警戒を解い
ていない。
歩いていると、行き止まりが見えてきた。
ミュトが地図を見て、首を傾げる。
﹁この先が迷路のはずなんだけど﹂
崩落で埋まったにしてはずいぶんとすっきりした行き止まりだ。
埋まったというよりも塞がれたと考えた方がしっくりくる。
首を傾げていると、ラビルが進み出て行き止まりの壁を観察する。
718
﹁マッドトロルが纏っていた泥を残して塞いだ跡だね。天敵から逃
げる時によくやる手だけど、この規模は初めて見たなぁ﹂
ラビルは説明しながら壁をつぶさに観察し、暢気に感心した。
︱︱あの泥ってこんな事にも使えるのか。
キロも感心しつつ、壁を軽くノックする。感触から察するに、か
なり分厚く作られているらしい。
﹁穴を開けるから、みんな後ろへ下がってくれるかい﹂
ラビルが螺旋状の石弾を出現させ、動作魔力で回転させながら特
殊魔力を用い一定の速度で掘削を開始する。
﹁おぉ!﹂
壁に穴を開けていくラビルのドリル魔法にランバル護衛団が拍手
する。
﹁地味だが便利な魔法だな!﹂
ラビルが肩を落とした。
ラビルのドリル魔法は地味な見た目に反して効果は抜群だった。
すぐに壁を貫通し、キロ達は穴を広げて洞窟道を元通りの広さに整
え、迷路に足を踏み入れる。
壁のすぐそばに虫の死骸がいくつか転がっていた。
村で深手を負ってこまで逃げてきたものの、力尽きたらしい。
まだ息のある虫にとどめを刺して、キロ達は奥へと進む。
行き止まりへと続く道には分岐点にキロ達が残り、ラビルとラン
バル護衛団が行き止まりまでのマッドトロルを始末する。
719
前回はキロとクローナ、ミュトの三人とフカフカしかいなかった
ため取れなかった方法だが、人数が増えた事で挟み撃ちにされる危
険性は格段に減っていた。
ラビルとランバル護衛団が戻ってくるまで、壁に背中を預けて休
憩してキロはフカフカに声をかける。
﹁迷路の奥にマッドトロルはいるのか?﹂
﹁うむ、かなりの数がおる。洞窟道が入り組んでおるから、音が反
響して実数はつかめないがな﹂
せわしなく耳を動かしながら、フカフカは時おり頭も動かして音
の方角を探る。
﹁風の音も聞こえるが、妙に響きに幅があるな﹂
﹁風の強弱じゃなくて、音の強弱なのか?﹂
﹁分からん﹂
分析を諦めたのか、フカフカは一言で投げ出した。
ちょうど戻ってきたラビルやランバル護衛団と共に、キロ達は再
び移動を開始する。
ミュトが地図に記した部分が終わり、先頭をランバル護衛団と交
代する前に簡単な腹ごしらえをする。
行き止まりも虱潰しに制圧していたため、予想よりも時間がかか
ってしまい、予定よりはるかに遅い昼食だった。
﹁あんまりお腹空きませんね﹂
クローナが困り顔でキロに同意を求める。
﹁俺もだ。というか、もう昼なんだな﹂
720
太陽がないため体内時間が狂いがちのキロとクローナとは違い、
ミュト達はよほど空腹だったらしく言葉数少なく昼食の準備を始め
る。
話す暇があるなら手を動かせ、という地下世界人の無言の圧力に
押されて、キロとクローナも無言で準備を手伝った。
村を出る際に渡された簡素な弁当を食べ終え、ランバル護衛団を
先頭に奥へと進む。
ミュトが描く地図を後ろから眺め、間違いを探していたラビルが
面白いものを見たように笑っていた。
不快感を覚える笑い方ではなく、成長を喜ぶような明るい笑い方
だ。
背後に目などついてないミュトは気付かなかったようだが、フカ
フカはちらりとラビルを振り返り、娘の自慢でもするように得意げ
に鼻を鳴らした。
キロの視線に気付いたラビルが歩くペースを落としてキロの隣に
並ぶ。
﹁君達はミュトさんとは長いのかい?﹂
﹁出会って三日くらいか﹂
﹁四日じゃありませんか?﹂
キロはクローナと顔を見合わせ、体内時間の狂いっぷりを再認識
する。
ラビルはキロ達の言葉を理解できずに首を傾げた。
﹁自分は色々なところを巡ったはずだけど、聞いたことのない言葉
だね。このあたりの人じゃないんだろう?﹂
キロが頷くと、ラビルはミュトを見る。
721
﹁⋮⋮まぁ、いいかな。実力があることに変わりないんだから﹂
独り言のように呟いて、ラビルはミュトの地図を改める作業に戻
った。
その時、先頭を行くランバル護衛団から声が上がる。
﹁出やがったぞ。団体さんだ!﹂
一斉に盾を構えたランバル護衛団の後ろから、キロはクローナ、
ラビルの二人と共に石弾を放つ。
狭い通路であるため狙いが逸れる心配もない。
石弾がランバル護衛団の頭上を抜けてマッドトロルに衝突、泥を
周囲にまき散らす。
ランバル護衛団が前進し、飛び出した虫を踏み、あるいは切り殺
す。
拍子抜けするほどあっさりと戦闘が終わり、一瞬走った緊迫感に
気恥ずかしさを覚えてしまう。
魔力の残量にさえ注意していれば、窮地に立たされることはない
だろう。
気を取り直してさらに奥へと進む。
長い一本道が続き、マッドトロルの数は増える一方だったが前衛
にいるランバル護衛団が盾を構え、後ろからキロ達が魔法攻撃を加
える戦法の前になす術もなく泥に還っていく。
弱い者いじめをしている気分だが、安全に進めるならそれに越し
た事もないだろう、とキロは考えないようにした。
最後尾で地図を描いているミュトの肩でしきりに耳を動かしてい
たフカフカが、唐突に声を発する。
﹁お前達、止まれ﹂
722
焦りはないが有無を言わせぬ響きを持つ声で号令をかけたフカフ
カは、一同を見回した。
理由を窺う視線を受けて、フカフカは口を開く。
﹁この先に、村が一つ収まる程度の広い空間がある﹂
フカフカの報告を受け、ラビルを除く全員が目を見開いた。
フカフカはラビルに顔を向ける。
﹁知っておったのか?﹂
﹁あるといいな、と思うぐらいには。自分が上層に降りてきた目的
でもあるからね﹂
ラビルは肩を竦めて薄ら笑いを浮かべる。
﹁その広間に守魔はいるかい?﹂
﹁⋮⋮おらぬようだ。しかし、何らかの構造物が鎮座しておる。お
かげで音がかき回され、発見が遅れた﹂
不愉快そうに尻尾を揺らすフカフカを見て、ラビルが笑みを深め
た。
広間に何があるのか、知っていそうな素振りを見せるラビルに自
然と視線が集まる。
ラビルは場の面々を見回して、びっくり箱を差し出す子供のよう
な笑みで問いかけた。
﹁︱︱君達は空の実在を信じるかい?﹂
723
第二十七話 古代遺跡と壁画
空の実在を信じるか。
ラビルの問いに対する反応は三通りだった。
一つは、バカにして取り合わない者たち。
﹁そんなおとぎ話、いまどき信じる奴はいないって﹂
そう言って、ランバル護衛団が笑い出す。
広間と聞いて警戒したところで守魔はいないと聞き、気が緩んだ
直後に冗談を聞かされた。ランバル護衛団はそう解釈していた。
ランバル護衛団の隣で、別の反応を見せたのはミュトとフカフカ
だ。
探し求める空の話が地図師として最前線を走るラビルの口から出
た事で、期待と警戒がないまぜになった表情をしている。
いまどきおとぎ話を信じている一人と一匹はランバル護衛団から
距離を置いた。
ミュトとフカフカが移動した先では三つ目の反応が見られた。
ラビルが目を細め、三つ目の反応を示すキロとクローナを見つめ
る。
キロとクローナだけは一瞬だけ上を見た後、顔を見合わせて困っ
た顔をしたのだ。
空の実在を信じるどころか、実際に見た事があるキロとクローナ
にとっては反応に困る質問だったのである。
唯一の証拠であるキロとクローナを守るように、ミュトがラビル
との間に立つ。
キロとクローナに変わってラビルを見つめ返しながら、フカフカ
が問い返す。
724
﹁なぜ、空の話が出てくるのだ?﹂
ラビルは笑っているランバル護衛団を無視して道の先を指さした。
﹁この先の広間には遺跡があるからだよ。空を知る当時の人々が住
んでいた遺跡がね﹂
ランバル護衛団の笑い声がぴたりと止んだ。
冗談の類ではないと気付いたのだろう。
一転して困惑の表情を浮かべるランバル護衛団に笑いかけたラビ
ルが、今度は頭上を指さした。
﹁自分は特層級地図師だからね。普段は未踏破層を探索しているん
だ﹂
語りながら、ラビルが歩き出す。
ランバル護衛団の横を通り抜け、洞窟道の先へと歩き出したラビ
ルを追って、キロ達も動き出した。
ラビルは全員が付いてきている事を確かめると、話を続ける。
﹁未踏破層には遺跡がいっぱいある。自分が数か月前に見つけた遺
跡には丹念に保護された石に掘られた地図があってね。地図の表記
を信じるなら、作成年代は喪失歴六十年だ﹂
︱︱いまは喪失歴八千五百年だったか。
キロは以前に聞いた年号を思い浮かべながら、逆算する。
︱︱ピラミッドより古い建造物か。
ランバル護衛団の一人が口笛を吹いた。
725
﹁六十年ってマジかよ。よく残ってたな﹂
﹁ヒビが入っていたり、欠けていたり、酷い状態だったけどね。復
元すらできない部分が多かった。でも、辛うじて読み取れる部分に
はこの地点が載っていたんだ﹂
﹁この先にある遺跡は喪失歴六十年には存在していた、という事?﹂
真剣に耳を傾けていたミュトが質問すると、ラビルは深々と頷い
た。
﹁本来、自分は遺跡の調査のために上層に来たんだよ﹂
未踏破層に活動拠点を置く特層級地図師のラビルが上層にいたこ
とを不思議に思っていたキロ達は、理由を聞いて納得する。
キロは洞窟道の先を見た。古代の遺跡、というのはたとえ異世界
のそれでも心惹かれるものがある。
﹁⋮⋮なんか冒険している感じですね﹂
クローナがキロのそばまで来て囁いた。口元がにやけているよう
に見えるのは気のせいではないだろう。
フカフカの尻尾で照らされた洞窟道の先に、開けた空間が見えて
きた。
いよいよ、遺跡とご対面らしい。
﹁崩れやすくなっているはずだから、あまり触らないように注意し
てね﹂
事前にラビルが注意を飛ばす。
マッドトロルの奇襲を警戒しつつ、キロは広間に入って周囲を見
回した。
726
野球ができるかどうか、といった広さだろうか。
床、壁、天井のすべてが石で囲われている。石には深く溝が掘り
込まれ血のように赤い金属が流し込まれていた。鉄筋コンクリート
のようなものなのだろう。
鍾乳石が垂れ下がっているようなこともなく、八千年以上昔の物
とは思えないほど保存状態がいい。
マッドトロルも見当たらず、泥も落ちていなかった。何らかの方
法で遠ざけているのだろう。
﹁⋮⋮これは、ずいぶんと手が込んでいるな﹂
フカフカが石に囲まれた広間を見渡して呟く。
ランバル護衛団が石に流し込まれている赤い金属を熱が入ったま
なざしで見つめていた。
ラビルがランバル護衛団を振り返り、口元だけで笑う。
﹁遺跡荒らしは重罪だから、勘違いされないように気を付けた方が
いいよ?﹂
ランバル護衛団の五人が一斉に背筋を伸ばした。
広間を見回しては熱心に地図を描いていたミュトが、広間中央に
鎮座する石の建物に視線を飛ばす。
キロも中央の建物を見るが、いかなる目的のために建てられたの
か外観だけでは推し量れなかった。
特殊な石を使っているらしく、八千年放置されても苔ひとつ生え
ていない。
半透明で琥珀色の表面は高級感があるが、同時にうすら寒い無機
質さを持っていた。
建物自体はあまり大きくない。縦、横、高さがそれぞれ七メート
ル程度だろう。
727
だが、地下世界の建物にしては珍しく、見慣れた三角屋根を被っ
ており、床は一メートルほど地面から離してあった。
﹁あれが遺跡、なんだよね。もっと人が住んでいた名残みたいなも
のがあると思ってたんだけど⋮⋮﹂
ミュトの発言にフカフカは同意するように頷く。
だが、キロとクローナには見慣れた家の形だ。
﹁お墓だったりしませんよね?﹂
クローナがキロの袖を掴みつつ、遺跡を観察する。
為政者の墓と言われれば、そう見えないこともない。
ランバル護衛団にくぎを刺し終わったラビルがキロ達の元へ歩い
てくる。
﹁中を見てみるかい?﹂
﹁良いの?﹂
ミュトが不安そうに訊ねる。
怖がらせちゃったかな、とラビルは頬を掻いた。
﹁さっきも言ったとおり、自分は遺跡の調査に来たんだ。中を検め
ない事には始まらないんだよ﹂
遠慮する必要はないらしいと判断して、キロ達はラビルについて
遺跡に歩み寄る。
入口らしい入口は見当たらない。
どうするのかとラビルを見ると、壁に顔を近づけてつぶさに観察
している。
728
やがて、壁を形成する石の継ぎ目を指先でなぞったラビルが息を
吐いた。
﹁ここが入口だね﹂
ラビルが指差した場所は、キロの目にはただの壁に見えた。
しかし、よくよく見てみると石の継ぎ目が他と違って互い違いに
なっておらず、長方形に走っていた。
﹁フカフカ、どう思う?﹂
﹁しばし待て﹂
キロが意見を聞くと、フカフカはミュトの肩から飛び降りて壁に
顔を近づける。
﹁中から空気が漏れておる﹂
ぴくぴくと耳を動かして、フカフカはラビルの見立てを保証した。
ラビルが壁に手を当てる。
﹁少し離れていてくれ﹂
全員で押し開けた方がいいのではないかと思ったが、ラビルは動
作魔力でこじ開けるつもりらしい。
ラビルが手を当てたまま足を引くと同時、ゴリゴリと音を立てて
長方形の継ぎ目に合わせて石壁がせり出してきた。
中に何があるかわからないため、押し開けるのではなく引き開け
る方法を選んだらしい。
︱︱動作魔力って本当に便利だな。
しみじみと非現実的な光景を眺めていると、せり出した石壁が止
729
まる。
出てきた壁を横から見てみると、二等辺三角形を縦に切断したよ
うな形をしている。倒れないように重心を下げてあるらしい。
︱︱これじゃ下手に押し開けたら中を傷つけてたな。
図らずも、動作魔力で引き開けるのが正しかったらしい。
ミュトの肩に戻ったフカフカが建物中を照らし出す。
いつの間にかそばに来ていたランバル護衛団が建物の中をのぞい
て眉を顰めた。
﹁なんだこれ﹂
途端に興味なくして、ランバル護衛団は建物に背を向けた。
﹁俺らは洞窟道を見張ってる。魔物が来ないと限らないしな﹂
五人がぞろぞろと連れ立って、つまらなそうに洞窟道へと向かう
中、ミュトとフカフカ、ラビルは真剣な顔で建物内部へと誘われる
ように入っていく。
対照的な二つの集団の様子に興味をそそられて、キロも建物の中
をのぞいた。
広くはない。せいぜい六畳ほどだろう。金銀宝石などの宝物や棺
が安置されているわけでもない。床には塵一つ落ちていなかった。
だが、床に何も置いていないのは当然の事なのだと、壁を見れば
わかる。
ギュッと手を握られた感触に、キロは隣に横目を投げる。
クローナが魅入られたように壁を見つめていた。
壁には外と同じく半透明で琥珀色の石が使われている。
だが、注目すべきは石を透かした先に見える、壁画だ。
古代の壁画と聞いて思い浮かべるような技術的に未熟な絵ではな
い。遠近や光源の位置を踏まえて描かれたものだ。
730
表面を覆う琥珀色の石は壁画を保護するためにあったらしく、退
色や剥離も起こっていない。
﹁怖い絵ですね⋮⋮﹂
クローナがポツリとつぶやく。
キロは無言で頷きを返した。
入り口から向かって左の壁に、地面の下で飢えや病で次々と死ん
でいく痩せ衰えた人々の姿が描かれている。人々の中には地面を一
心不乱に掘り続けている者もいた。
痩せた人々の上には描かれていない地上を睨む巨大な女神像が描
かれている。
正面の壁は何らかの研究所を描いたものらしい。キロも学生の頃
によく見た実験器具と同じような形状の物がいくつかあった。
研究所では生物関係の研究をしているらしい事が、壁画内の黒板
に書かれた二重螺旋や生物の系統図から読み取れた。魔法陣らしき
ものや、発光生物も描かれている。
研究内容を書いたらしき文章が壁画の下に綴られていた。ミュト
とラビルが文章の解読を始めていた。
﹁過去は不変、未来は⋮⋮﹂
﹁千変万化、だね。それにしても文字が古い。手間取るよ、これは﹂
地下世界の文字は読めないキロはミュト達の解読結果を後で聞く
ことにして、クローナが見つめる、右の壁を見た。
太陽と雲が浮かぶ空の下、大地の上を人々が逃げている姿が描か
れている。
胸の奥を鷲掴みにされる錯覚さえ覚える怯えた表情で人々が見上
げる先には︱︱何もない。
琥珀色の石を透かした先に壁画がないのだ。
731
もともと、意図があって描いていないのだろう。
なぜなら、とキロは視線を上げ、頭上を見る。
竜がいた。
闇を練り固めたような真っ黒な石で形作られたその竜は口を開き、
すべての壁画を飲み込もうとしている。
竜だけは絵ではない。黒い石でできた巨大な彫像なのだ。
鱗の一枚一枚まで丹念に表現された黒い竜の彫像は、琥珀色の石
の中に埋め込まれている。
角度を維持し、形を維持し、この遺跡の中へ足を踏み入れた者に
危機感を与えるためだろう。
壁画の内容よりも、この竜の存在と恐怖を伝えたかったのだ。
ミュトの肩から壁画の研究内容を読んでいたフカフカが、天井の
竜を見上げてポツリと呟く。
﹁⋮⋮悪食の竜﹂
732
第二十八話 喪失の過程
いくら保存状態がよくとも八千年前の文章となると解読に時間が
かかるとのことで、キロ達は一度村へと引き返した。
迷路状の洞窟道を出てすぐにラビルと別れる。
遺跡の発見報告と調査団の派遣など、やることが山積しているた
め、人手の多い街へと戻るらしい。
﹁ミュトさん達も後で顔を出してね。遺跡の発見は実績として数え
られるから﹂
悪戯を仕掛けた子供のようにくすくすと笑いながら、ラビルは街
へと去って行った。
キロ達はランバル護衛団と共に村へと向かい、到着後すぐに待ち
受けていた長老にマッドトロルの掃討が終了した事を告げる。
続いて遺跡の発見を報告すると、長老は驚き、慌てて村の大人を
集め始めた。
調査団が滞在する場所が村になる可能性が高いため、寝床の確保
が必要らしい。
キロ達に提供している宿も使うと言われ、一晩過ごしたら街へ出
立する事に決まった。
﹁追い出すような形になって申し訳ないんだけど⋮⋮﹂
伝えに来た年かさの女が平身低頭しながら、心ばかりの礼だと言
って宝石を差し出してくる。
ミュトはちょっと困ったようにキロとクローナをそばに手招く。
733
﹁⋮⋮畑があんな状態になっているから、村に余裕なんてないと思
うんだ。受け取るのは心苦しいんだけど﹂
﹁でも、受け取らないと報酬なしですよ?﹂
﹁一応、ボク達はまだ蓄えがあるんだよ﹂
﹁そんな事を言っておるから貯金ができぬのだ﹂
小言を繰りながらも、フカフカは少し満足そうだった。
キロは少し考えて、代替案を出す。
﹁この村に最上層地図師への推薦をしてもらえばいいだろ﹂
﹁ほぉ、名案であるな。足元を見ておる気がしないでもないが﹂
﹁どっちも得するんだから、人聞きの悪いことを言うなよ﹂
話はまとまった、とミュトが恐る恐る報酬の変更を願い出ると、
年かさの女は困り顔をする。
﹁長老がすでに推薦状をしたためているんだ。命がけでランバル護
衛団を救い出したり、救援を呼び行ったりした姿勢を気に入った、
と。腕も申し分ないと防衛線に詰めていた村人は満場一致だよ﹂
推薦したうえで、別途報酬を渡したい、という事らしい。
ますます困った顔でミュトがキロとクローナを振り返った時、隣
の部屋からランバル護衛団が報酬額に文句を言う声が聞こえてきた。
廊下から顔を覗かせてみると、中年女性が頭を下げながら村に余
裕がないことを説明している。
キロとクローナを見てくるミュトに、頷きを返した。
﹁ボク達の報酬は推薦状だけで十分なので、ランバル護衛団の報酬
に上乗せしておいてください﹂
﹁あのバカ共を黙らせるのが追加報酬という意味だ。ぬかるでない
734
ぞ?﹂
﹁フカフカ、余計なこと言わなくていいから﹂
ミュトが口を塞ぎにかかるが、フカフカはひらりと肩から降りて
窓際へ走って行った。
まったく、とミュトは頬を膨らませてフカフカを睨んだ後、年か
さの女に頭を下げる。
ミュトの気遣いに年かさの女は礼を言い、推薦状が書き上がり次
第持ってくると言って部屋の扉を閉めた。
しばらくして、騒いでいたランバル護衛団の声が聞こえなくなる。
報酬額に折り合いがついたらしい。
キロはベッドに座り、背筋のコリをほぐす。
﹁これでひと段落ついたな。調査に加わる必要はないんだろ?﹂
﹁専門家の邪魔になるだけだからね。推薦状をもらえるとは思わな
かったけど、これで最上層も目の前だよ﹂
ミュトが窓際で捕まえたフカフカの柔らかな頬を左右に伸ばす。
余計なことを言う口を左右に引き伸ばされて変な顔になったフカフ
カが尻尾でミュトの太ももをタップする。
﹁ミュトよ、離せ。我は代弁しただけであろう﹂
﹁頼んでないだろ。まったく、変に波風立てないでよ﹂
﹁考えていたことは否定しないのだな﹂
﹁⋮⋮まだ言うか﹂
フカフカの口がさらに伸びる。
私も混ぜてください、とクローナが満面の笑みでフカフカの尻尾
をいじり始める。
救いを求めるフカフカの視線を受け流して、キロはベッドに寝転
735
んだ。
﹁推薦があっても実技試験みたいな事をするんだろ?﹂
﹁内容は分からないけどね﹂
内容次第では対策を立てておこうと考えていたキロは、ミュトの
答えに出鼻をくじかれる。
少女二人に玩具にされているフカフカを眺めながら、キロは遺跡
の壁画を思い起こす。
﹁あの壁画の内容って史実だと思うか?﹂
文字の解読こそできなかったが、断片的に読み取れた文章と壁画
からおおよその意味が推測できていた。
フカフカがキロの目を見つめ返し、口を開く。
﹁突如現れた竜により空が食われ、人々は我々尾光イタチを含む有
用な生物を生み出し、地下へと逃れた、か。聞いたこともない話で
あるな﹂
﹁おとぎ話とかも残ってないのか?﹂
キロの問いには答えず、フカフカはミュトを見る。人間の言い伝
えならばミュトの方が詳しいのだろう。
フカフカの頬を伸ばしていたミュトは首を振る。
﹁ボクも聞いたことないよ﹂
フカフカの尻尾の感触を楽しんでいたクローナがキロを見て首を
傾げる。
736
﹁そもそも、空を食べるというのが想像つきませんよね。比喩表現
だと思うんですけど﹂
﹁掛詞は伝わらないはずなんだけどな。クローナを食べてしまいた
い、とか言っても意味は通じない⋮⋮はずなんだけど﹂
キロは適当に思いついた比喩表現を口にしただけだったが、クロ
ーナの顔が一瞬で真っ赤に染まったのを見て口ごもる。
︱︱伝わってる?
キロは慌ててミュトを見る。
キロと目があったミュトは口を半開きにして、耳まで赤くなって
いた。
どうやら、ミュトにも伝わっているらしい。
なぜ、とキロは慌てて記憶を探る。
そもそも、どうして掛詞が伝わらないと判断したのか。
︱︱あれは確か宿でクローナがエロい会話に慣れようとして⋮⋮。
額に手を当てて記憶を探っていたキロの脳裏に一つの違和感があ
った。
なぜ、クローナと同じ部屋に泊まることになったのか。
木賃宿に泊まろうとした際、宿の主人に言われたからだ。
︱︱美味そうな餌をぶら下げて⋮⋮これ比喩表現で掛詞だろ。
それが宿の主人からキロに伝わった、という事実が何を示唆して
いるのか。
︱︱思い返せば、日常会話の中にも注意していないだけで、似た
ような表現があった気がする。
直近で思い浮かぶのはクローナがシールズに刺された際、見舞い
に来た宿の娘との会話。
︱︱できたら責任取る、とか。
キロは頭を抱えたくなった。
からくりに気付いたのだ。
︱︱この翻訳の腕輪、発言者が掛詞として発すればきちんとそう
737
伝わるのか!
キロは記憶から仮説を導き出し、確かめるためにクローナに鎌を
掛ける。
﹁⋮⋮突っ込むとか言うなよ﹂
ぼそっとキロが呟いた瞬間、クローナが耳を塞いだ。その反応だ
けで、キロの仮説が証明される。
﹁あの時、宿で俺の言った言葉の意味が通じていたのにしらばっく
れたろ⁉﹂
﹁だって仕方ないじゃないですか! 会ったばかりの男の人にそん
な際どいこと言われて誤魔化す以外の選択肢があったら教えてくだ
さいよッ!﹂
クローナが真っ赤な顔で言い返す。
ミュトが赤い顔を俯かせ、部屋の外へ逃げ出す隙を窺っている。
しかし、
﹁ミュトさんもそう思いますよね⁉﹂
﹁ボクに訊くの⁉﹂
クローナに容赦なく巻き込まれて、ミュトは肩を跳ねさせた。
ミュトが視線を彷徨わせる。混乱の極致にあることはせわしなく
動く目から察しがついた。
︱︱ミュトもこの手の話に免疫がないのか?
嫌われ者として対人関係の経験値を積んでいないミュトの事、十
分にありうる話だ。
フカフカは面白がって事の成り行きを見守っていたが、場の収拾
がつかなくなり始めた事を察して尻尾で床を叩き、全員の気を引い
738
た。
﹁話が脱線しておるぞ。掛詞も比喩表現も通じることが分かった以
上、元の話を進めるべきではないか?﹂
﹁そ、そうだね、そうするべきだよ! えっと、何の話をしてたん
だっけ⋮⋮﹂
耳まで染まった顔を覆い、ミュトは床に突っ伏した。
﹁もう無理、堪えられない﹂
ミュトの背中を左手で撫でながら、クローナが右手でキロを指さ
す。
﹁キロさんのせいです!﹂
糾弾されたキロは咳払いを一つして、真顔になった。
﹁さて、話を戻そう。翻訳の腕輪は発言者が意識する言葉の意味を
優先して、装着者の母語から該当する単語を選定するみたいなんだ﹂
﹁さらっと流されましたよ。もてあそばれた気分です⋮⋮﹂
今度はクローナまでも床に突っ伏した。
﹁どう違うのだ?﹂
フカフカは構わず話を続ける。
﹁その前に、フカフカは遺跡で天井の竜を見て〝悪食の竜〟と言っ
たよな?﹂
739
キロの問いに、フカフカは素直に頷く。
やはり、とキロは納得する。
﹁俺達の間に比喩表現や掛詞による認識の違いが発生していない。
つまり、悪食の竜は言葉通りの意味で悪食、普通は食べないものを
食べる存在ってことになる。この場合は〝比喩ではなく実際に〟空
を食べた存在だ﹂
﹁最初からそう壁画に書いてあっただろう﹂
フカフカが進まない話にいら立つように尻尾で床を叩き始める。
そこで、キロはフカフカに一つ質問を投げかけた。
﹁空は天井じゃないって知ってたか?﹂
﹁青い天井だろう?﹂
﹁空は天井ではなく、空間の呼び名だ。土や石でできているわけじ
ゃないし、空間である以上、どれほど手を伸ばしても空間を突き抜
けるだけで触ることはできない。まして、食べる事なんてできない。
知ってたか?﹂
﹁⋮⋮知らぬ﹂
しきりに床を叩いていたフカフカの尻尾が止まる。
﹁食べる事が可能な物質と定義しておった我と、食べるという行為
が不可能な空間概念と定義するキロやクローナとの間にある認識の
違いが、我らの会話の中で問題として表面化していないのがおかし
い、と言いたいのだな?﹂
キロは首を振って否定する。
740
﹁違う。問題にならないという事は言葉の認識は双方ともに正解と
いう事だ。つまり〝悪食の竜〟は空間である空を食べた、と壁画に
書かれていたと考えるのが正しい﹂
﹁こんがらがってくるな﹂
フカフカが目を細めて天井を仰ぐ。
空の定義を一からやり直しているのだ。混乱して当然である。
フカフカは考えを整理したのか、ふむ、と鼻を鳴らす。
﹁それでは壁画に書かれていた事が正しい証拠にはならんな。キロ
の翻訳の腕輪が訳したのはあくまでも我の意思や常識が反映された
言葉だ。壁画を描いた者と我との意思や常識に齟齬があれば、キロ
の分析は無意味となる﹂
キロは床に突っ伏しているクローナとミュトを見る。髪から覗い
ている耳の赤身は引いているが、顔を上げる気配はない。
話についていけてないのだろう。
キロは一つ息を吐いて、端的に結論を告げる事にした。
﹁俺の分析が外れていない証拠が壁画の絵、そのものだ。あの壁画
は地上で逃げ惑う人々が、描かれていない場所に怯えていた。あの
場所だけ壁画がなかったのは〝悪食の竜〟に空を食べられてしまっ
て何もない光景を表現したんだと思う﹂
﹁そこに〝何もない〟があるのか。実にややこしい話であるな﹂
言葉とは裏腹に、フカフカは得心がいったように尻尾を揺らす。
キロは腕を組んで天井を見上げた。
﹁古代の人々は〝悪食の竜〟に空を食われて地上を追われ、有用な
動物を生み出して地下に生活拠点を移した。空を食われ、喪失した
741
からこの世界では喪失歴なんて暦の呼び方をしているんだろう﹂
フカフカが耳をピクリと動かし、口を開こうとした時、ミュトが
跳ね起きた。
目を見開いて、キロを見つめたミュトは、震える声で問いかける。
﹁︱︱空はもう無くなったって事?﹂
742
第二十九話 ラビルの失敗したプレゼント
まだ空が無くなったと決まったわけではない、そうミュトを励ま
しながら、キロは覚悟した方がいいとも感じていた。
︱︱もし、懐中電灯の持ち主が空を求めてひたすら上を目指して
いたら⋮⋮。
食べられてしまった空を見て、無念を抱かないはずがない。
そして、無念を抱えたまま死亡したのなら、懐中電灯に宿ってい
る念の正体は⋮⋮。
キロは嫌な想像を払おうと頭を振る。
心配そうにミュトを見上げていたフカフカが口を開く。
﹁この目で見て、確かめるより他にないであろうな﹂
やることは変わらない、とフカフカが結論付ける。
何とも言えない嫌な空気が部屋に停滞しだした時、部屋の扉が叩
かれた。
これ幸いと、キロは部屋の扉を開ける。
年かさの女が立っていた。
﹁推薦状が書き上がったので、持ってきた。食事の用意もできてい
たから、一緒に持ってきたよ。酒はどうする?﹂
料理が乗ったカートを指さして、年かさの女が聞いてくる。
キロが部屋を振り向いて意見を聞く前に、クローナが後ろからキ
ロに抱き着き、肩越しにカートを見る。
﹁程よく酔えるお酒があれば嬉しいです﹂
743
﹁飲む気かよ﹂
﹁キロさんにさっきの仕返しをしなくてはいけません。これは義務
です。戦いです。つまり武器が必要なんです﹂
﹁張り合い方がおかしいだろ﹂
キロとクローナの言葉が分からない年かさの女は、ミュトに視線
を向ける。
ミュトはキロとクローナの会話に苦笑しながら、質問に答えた。
﹁飲むそうです﹂
翌朝、キロが目を覚ました時、体が動かなかった。
頭の後ろには枕の感触、背中には少々固いながらもベッドの感触
がある。
﹁キロ、起きたか?﹂
寝転がるキロの額に前足をついたフカフカが顔を覗き込む。
キロは視線を下げ、自らの胸のあたりを見る。
明るい茶髪が視界に入る。クローナがキロの胸を枕に寝入ってい
るのだ。
覆い被さって寝ているわけではなく、キロの右隣に寝転びながら、
頭だけをキロの体に乗せている。キロの右腕はクローナに抱き着か
れていてピクリとも動かせなかった。
﹁昨日の晩から状況が全く変わってないんだけど﹂
﹁まだ当分はこのままであろうよ。人間は酒に酔うと独占欲が強く
なるのだな﹂
﹁クローナはそうだけど、人間全般に当てはまるわけじゃない﹂
744
フカフカの認識を正しながら、キロは昨夜の出来事を思い出す。
干し肉や少量の干した果物、洞窟らしい目の退化した魚を焼いた
物など、質素ながらも品数は豊富でささやかな宴会といった状態だ
った。
窓から外を覗けば、ずんぐりむっくりした鳥を籠に入れて集まっ
た村人達が同じような料理を囲んで騒いでいた。
命がけで戦った後くらい、少しの贅沢をしようというのだろう。
酒を飲む度に座りなおすクローナの位置が、徐々にキロへと近づ
いていく。
にじり寄るクローナに意地悪しようとキロが席を立つと、クロー
ナは頬を膨らませる。
二人の無言のやり取りを、苦笑しながらミュトが眺めていた。
キロを捕まえた頃には、クローナは飲み過ぎて立ち上がれなくな
っていた。
それでもキロを横から抱きしめたまま放さず、最終的にそのまま
寝てしまう。
仕方なく、キロもそのまま寝たのだが⋮⋮。
キロはクローナとは反対側、左を見る。
﹁なんでミュトまで同じベッドにいるんだ?﹂
キロの左腕を下敷きにして、なぜかミュトまで同じベッドにいた。
フカフカがにやりと口をゆがめる。
﹁昨夜、キロとクローナが寝入った後に村人が来てな。街から救援
隊が到着したは良いが寝具が足らぬから貸してくれ、と﹂
キロはミュトの向こうにあるもう一つのベッドを見る。
毛布も枕も回収された後だった。
745
﹁それで、寒さに耐えかねたミュトがこのベッドに?﹂
﹁さよう。キロに襲われないよう左腕を抑えておけと助言したのは
我だ﹂
面白がるように尻尾を振りながら、フカフカはミュトを見る。
﹁最初は恥ずかしがっておったが、キロやクローナより先に起こし
てやると我が言えば素直にこの通りである﹂
﹁それで、俺が先に目覚めたんだけど、どうすればいい? 二度寝
すればいいのか?﹂
﹁何を言う。起きていろ。ミュトの反応を見てみたいのでな﹂
﹁⋮⋮お前、楽しんでるだろ﹂
キロは呆れて半眼を向けるが、フカフカは機嫌よく尻尾を二度振
った。
﹁ミュトが誰かのベッドに潜り込み、安心して寝顔をさらしておる
のだ。楽しまぬわけがなかろう﹂
﹁良い性格してるな﹂
キロが苦笑した時、右隣でクローナが身じろぎした。
﹁⋮⋮おはようございます﹂
﹁あぁ、おはよう。右手を解放してくれるとありがたい﹂
クローナが目を擦りながらキロから離れ、ミュトを見つける。
眠気を払う以外の目的で再び目を擦ったクローナは、ミュトを指
さしてキロに詰め寄った。
しかし、言葉が出てこないらしく、口をパクパク開け閉めしてい
746
る。
﹁救援隊に寝具を提供したそうだ。それで、こっちに潜り込んだん
だとさ﹂
﹁⋮⋮何もなかったんですよね?﹂
﹁クローナに抱き着かれたままで何かできるわけないだろ﹂
﹁キロさんは器用ですから﹂
﹁雑技団じゃないんだけどな﹂
キロはクローナに言い返して体を起こし、ミュトを揺り起こす。
ミュトはキロの声を聴いてすぐにぱちりと目を見開いた。
寝転んだままキロを見上げ、肩越しに覗き込んでいたクローナを
視界に収めたミュトは飛び起きた。
﹁︱︱フカフカ、起こすって言ったくせに!﹂
﹁疲れた娘の眠りを妨げることなど、この紳士にできようか﹂
﹁このッ⋮⋮﹂
伸ばした手を躱され、ミュトは歯ぎしりする。
フカフカはキロの腕を伝って肩へとよじ登る。ミュトの視線をキ
ロとクローナへ誘導するためだろう。
フカフカの計画通り、キロ達へ視線を移したミュトは、ばつが悪
そうに視線を彷徨わせる。
﹁あの、これには理由があって⋮⋮﹂
﹁フカフカから聞いたよ。寝具を提供したんだってな﹂
﹁︱︱え?﹂
キロの言葉に目を瞬いたミュトは、背後のベッドを振り返る。
向き直ったミュトはキロの肩に乗るフカフカを見つめた後、何か
747
に気付いたように視線を逸らした。
﹁まぁ、そんな感じ、かな﹂
ミュトの曖昧な言葉に、クローナが目を細める。
﹁⋮⋮怪しいです﹂
﹁︱︱早く村を出発しよう。街にも行かなきゃいけないし、忙しく
なるからね!﹂
クローナに質問されるのを恐れるように、ミュトはそそくさと立
ち上がる。
キロはフカフカに視線を向けるが、意味ありげに尻尾を一振りし
たフカフカは肩から飛び降りてミュトのそばへ歩いて行った。
準備を整えたキロ達は村を出発する。
ランバル護衛団は調査団に護衛として雇われるとの事で、街まで
ついてくるようだ。
無駄足を踏まされた救援隊の面々からの視線が痛かったが、キロ
達は安全のため救援隊と共に街へ向かう。
落盤があった地点は救援隊が開通させたとの事で、水没地点を通
らずに済んだ。
街に到着し、滝壺を眺めながら橋を渡る。
街はマッドトロルに襲われた村などなかったかのように高そうな
服を着た人々や行商人でにぎわっていた。
地図師協会に赴き、長老の推薦状片手に受付へ行こうとしたミュ
トをキロは呼び止める。
協会の端、本棚の陰になった場所で膝を抱えて落ち込んでいるラ
ビルがいた。
748
﹁⋮⋮何してるの?﹂
﹁⋮⋮自分は受付のそばで君達を待っていただけだったんだよ。そ
れなのに、皆して、そこの地味な奴退け、地味な奴が邪魔だ、地味
な奴が、地味な奴が地味な奴が⋮⋮﹂
︱︱面倒くさい人だなぁ。
地味な奴、とうわごとのように繰り返すラビルにキロと同じ感想
を持ったのか、クローナは他人の振りをしている。
﹁ボク達を待ってたの?﹂
﹁そうだよ。君達を最上級地図師に推薦しようと思って︱︱そうだ、
君達を推薦すれば、おのずと自分が特層級だと喧伝することになる
! もう地味とは言わせない!﹂
ラビルが張り切って立ち上がり、ミュトの手を取って受付に向か
おうとした時、推薦状に気付いた。
すでに出番はないのだと知ったラビルがとぼとぼと壁際へ戻って
いく。
引き止めず、キロ達は受付へと向かった。
受付の男はキロ達を見て目礼した。
﹁村は無事だったと聞きました。予想以上にお三方の腕が立ったそ
うで﹂
﹁村の人達が総出で戦ったから、数で押せただけ﹂
ミュトは首に巻きついているフカフカに顎をうずめ、短く言った。
推薦状を渡すと、受付の男は中身を一読する。
﹁まぁ、当然と言えば当然ですね。実技試験を受けて頂きますので、
749
明日またお越しください。今回の件で色々と見直さないといけない
んです﹂
鋭い視線を協会の地図師達へ注ぎ、受付の男はため息を吐いた。
﹁噂に踊らされるバカ共が多くて、手を焼きましたから﹂
750
第三十話 最上層級地図師への昇格試験
翌日、実技試験が開始された。
午前中は地図の作成能力を見る試験だったが、ミュトは難なく合
格してみせる。
もともと、上層級以上の地図師では作成の速さや正確さに差はほ
とんどないため、この試験で落第する者は稀だという。
しかし、午後の試験は戦闘技術を見るモノだった。
最上層の魔物は魔法を使うものが多く、巨大である。生半可な戦
闘能力ではせっかく作成した地図ごと魔物の腹に収まってしまうた
め、戦闘能力が重視されるのだ。
ただし、見るのはあくまで地図師個人の戦闘能力である。
雇い入れた傭兵と何らかの形ではぐれた場合でも地図を持ち帰る
義務があるからだ。
そして今、ミュトの戦闘技能を見るための試験が開始されようと
しているのだが︱︱
﹁どこかで見た光景ですね﹂
﹁既視感にあふれてるよな﹂
クローナがしみじみと口にした言葉にキロは同意する。
場所は少し広めの洞窟道だが、左右は当然として前後も土で塞が
れている。
洞窟道を取り囲むように、壁の上部には観客席があった。キロ達
がいるのもまた、観客席である。
本来は稀にやってくる旅芸人に解放されているスペースであり、
街の住人が楽しむために用意されている施設だ。
しかし、キロ達の目的は旅芸人の洗練された芸を見る事ではもち
751
ろんない。
キロは観客席に座り、あるいは立っている地図師や傭兵達の顔を
見回し、洞窟道へ顔を向けた。
洞窟道には二人の地図師がいる。
片方はミュトだ。地図師ギルドで用意された刃を潰した小剣を抜
き、肩に乗っているフカフカと何事かを相談しているらしい。
これから行われるのは戦闘技能の試験である。フカフカは地図師
としてなくてはならない光源としての役割を担っているため、ミュ
トが連れ込むことも許可されていた。
相談が終わったのか、ミュトが対戦相手を見る。
キロもつられて視線を向ければ、そこには地味な男がいた。
﹁なんでラビルさんなんだよ⋮⋮﹂
キロはミュトの対戦相手を再確認して、ため息を吐く。
大方、ミュトの試験官を務めれば特層級地図師であることが認知
されるとでも思ったのだろう。
実際、ラビルの企みは一定の効果を上げていた。
観客席に集まった地図師や傭兵はたった八人しかいない特層級地
図師の戦いぶりを見学するために足を運んでいた。
キロは隣をちらりと見る。
キロの視線に気付いた受付の男がわざとらしく作り笑いを浮かべ
た。
今日の試験を地図師や傭兵に広めたのはおそらくこの受付の男だ。
特層級の戦いがみられる、などと言って呼び込んだのだろう。
︱︱さて、何のことやら。皆さん噂好きですからね。なんて、は
ぐらかされるに決まってるよな。
キロは問い詰めたい気持ちを抑え込む。
﹁キロさん﹂
752
クローナがキロの袖を引く。
﹁合格祝いはどうしましょうか?﹂
﹁合格してから買いに行けばいいだろ。幸い、活気のある街だから、
選ぶ物には困らない﹂
﹁本人の前で決めるのは合格できるかどうか疑っていたみたいで感
じ悪いです﹂
そういうものか、とキロは首を傾げる。高校に進学する際の合格
祝いを遠慮したキロにはあまり分からない感覚だ。
考え過ぎじゃないかとも思ったが、先に何を贈るかを決めておけ
ば後で慌てる事もなくて済む。
︱︱長い買い物に付き合わされるのも嫌だしな。
﹁あまりかさ張るものだと邪魔になるだろうから、アクセサリーと
か⋮⋮そういえば、男装してるんだよな﹂
男でも装飾品を付ける文化があるだろうか、とキロが観客席の男
達を観察しようとした時、背後に気配を感じた。
濃密な気配の源が重たい足音だと気付いて、キロは振り向く。
︱︱でかいな。
身長二メートルを優に超える、肩幅の広い男が洞窟道を歩いてく
る。
鎧は身に着けず、武器も持っていない。しかし、荒事に従事する
人間であると左右に持った大盾で主張していた。
飾り気のないシンプルな大盾は縦二メートル、幅一メートルほど、
重量は想像もできない。
男は誰かを探すように観客席を周回し始める。
男のあまりに圧倒的な存在感に、観客達はこれから始まる特層級
753
の戦いも忘れて恐々と男の動きを窺っていた。
ふと、ミュト達がいる洞窟道を見下ろすと、ラビルが情けない顔
をしていた。
酷いや、という心の声がダダ漏れである。せっかくの大舞台を観
客に奪われたラビルには同情を禁じ得ない。
﹁せっかく空を見つけたとしても、長い間地下生活でしたから目を
やられてしまいますよね。サングラスとかどうでしょう?﹂
﹁⋮⋮クローナ、あの男を見てなんとも思わないのか?﹂
大盾の男をまるで気にせずミュトの合格祝いを提案してくるクロ
ーナに、キロは問う。
クローナはキロが指差す大盾の男をちらりと見る。
﹁あんな人をプレゼントしても、かさ張るだけだと思いますよ?﹂
﹁うん、もういいや。サングラスね。売ってるとはちょっと思えな
いし、作ってもらうか﹂
素材はどうしようかと考え始めたキロは、隣にいた受付の男が試
験の開始を告げる声で洞窟道に視線を向けた。
はじめ、という合図と共に駆けだしたのはミュトだ。
小剣を使った近接攻撃が得意なミュトは距離を詰めるしかなかっ
たのだろう。
たとえ地味でもラビルは特層級、得意な間合いで立ち回らなけれ
ば勝ちはない。
格上を相手に躊躇なく仕掛けたミュトに、ほぉ、と感心するよう
な声が上がる。
大盾の男だ。彼はいまだに観客席をゆっくりと周回しながら、ミ
ュトとラビルの一戦を片手間に見学していた。
ミュトの接近を阻むことなく、ラビルは待ち受けている。
754
ラビルの手には手のひら大の金属板が数枚、用意されていた。
投擲武器にしては形が悪く盾にしては小さすぎる、そんな金属板
をラビルが片手で扇のように広げる。
ミュトが小剣で袈裟懸けに切り付ける直前、ラビルは金属板の扇
を手放した。
手放された金属板の扇は空中で静止し、ミュトの小剣を受け止め
て微動だにしない。
ラビルは数歩下がりながら新しい金属板を左右の手に用意する。
﹁あの扇、どうなってるんですか?﹂
クローナがミュトの小剣を受け止めた宙に浮く扇へ、不思議そう
に目を凝らす。
﹁初速ゼロの等速運動だろ。特殊魔力を込めてあるんだよ﹂
ラビルの特殊魔力は等速運動の魔力だ。
金属板の扇は特殊魔力を込められ、七割以上破壊されない限り、
込められた魔力が切れるまで静止し続けるのだ。
いわば障害物である。
ミュトは動作魔力を込めた突きを扇に繰り出すが、金属製である
ため容易には破壊できない。
﹁ミュトよ、扇にかまう必要はどこにもないのだぞ?﹂
﹁試してみただけ﹂
フカフカの助言に答えたミュトは、小剣を右手に構え、左手を横
に突き出した。
﹁フカフカ、やるよ﹂
755
﹁やれやれ、さっそくか﹂
面倒臭そうに呟いたフカフカがミュトの首から腕を伝って左手に
移る。
何をするつもりか興味があるのか、ラビルは腕を組んで成り行き
を見守っていた。
大盾の男から視線を移した観客達がいぶかしむ中、フカフカはミ
ュトの左人差し指を甘噛みする。
次の瞬間、眩い閃光が洞窟道を照らし出した。
色素の薄い地下世界人のみならず、クローナやキロでさえも思わ
ず目を庇うほどの強い光だ。
︱︱フカフカの本気ってこんなに眩しいのかよ!
光は一瞬だったが、特殊な構えとフカフカの動きを取り入れた視
線誘導に騙された者達は暗順応まで時間がかかる。
フカフカの役割を事前に予想し対処していたキロとクローナはい
ち早く視覚を取り戻し、ミュトとラビルを見る。
ミュトは動いていなかった。
一瞬の閃光の中、ラビルが正面にいくつもの金属板を張り巡らせ
たからだ。
糸で数珠つなぎになった金属板はラビルを中心にして正面に八本
の帯を作り、支えもなしに空中で静止している。
糸で吊られた即席の鉄柵には特殊魔力が通っており、ラビルへの
接近を阻む強固な盾となっていた。
﹁スゲェ⋮⋮﹂
観客席で誰かが呟いた声に、ラビルがにやりと笑う。
確かに、一瞬で展開する技術力は素晴らしいものだった。
﹁でも地味だな﹂
756
﹁あぁ、地味だな。音もないし﹂
初速ゼロの等速運動中という即席鉄柵は、完全に静止しているた
めに音が出ない。
地味だという声がそこかしこから上がり、ラビルの肩が下がって
いく。
居た堪れなくなったのか、ラビルは八本の即席鉄柵の端をつまみ、
特殊魔法を解除して引き寄せる。再利用できるのだろう。
﹁回収するのかよ﹂
﹁地味な上にせこいな﹂
観客席から散々な評価を降らされて、ラビルが泣きそうな顔をし
た。
気を取り直すように頭を振ったラビルは、洞窟道をぐるりと見回
す。
﹁さて、ミュトさんはどこかな?﹂
姿が見えない相手へ問いかけるようにラビルが言うと、地味だの、
せこいだの、と言っていた観客席が一斉に静まり返った。
何を言っているのか、という顔で観客達は口を閉ざして顔を見合
わせたのだ。
ミュトは閃光の前と後で場所を移動していないのだから。
観客の反応を怪訝な表情で見上げたラビルが、眉を寄せて洞窟道
を見回す。
︱︱ミュトの奴、初めからこっちが狙いか。
キロとクローナだけはからくりに気付き、笑みを浮かべて顔を見
合わせる。
ミュトが正面に特殊魔力を張っている事に気付いたのだ。
757
ミュトの特殊魔力で生み出された透明な壁は、後ろに立つ人物を
認識できなくする効果もある。
消えるところさえ見られなければ、潜む場所には事欠かないのだ。
ミュトが腕を引き戻すと、フカフカがミュトの首に巻きつく。
仕掛ける気だ。
一つ深呼吸して、ミュトが天井を仰ぎ、跳躍した。
ラビルの視界に入ったはずだが、ミュトは跳躍しながら特殊魔力
で壁を生み出しているらしく、気付かれた様子はない。
地面から三メートルほどのところでミュトは足を引き、下に手を
突き出す。
落下はしなかった。
ミュトは空中でしゃがむような体勢のまま、浮いていたのだ。
特殊魔力で透明な足場を作ったのである。
ミュトの高い隠密能力に観客達が呆気にとられている。
ラビルもまさか対戦相手が宙に身を潜めているとは思っていない
のだろう、いつまでも姿を見せないミュトを探して周囲をつぶさに
観察している。
不意打ちを避けるためなのか、ラビルは金属板を周囲にばらまい
て空中に静止させていた。
ミュトが空中を走り出す。特殊魔力で生み出された透明な壁は振
動しないために高い静粛性でミュトの隠密行動を支えていた。
音もなく、姿も見せず、ミュトはラビルの頭上を取った。
ミュトが下向きに小剣を構え、特殊魔力の壁を消す。足場を無く
したミュトは重力に従ってラビルに小剣を突きつける︱︱かに見え
た。
それまでミュトの姿を探していたラビルが、瞬時に飛び退いたの
だ。
ミュトの攻撃を察知していたとしか思えないタイミングだった。
隠密行動からの不可避の一撃、そう自信を持っていたらしいミュ
トは地面に着地して目を見開く。
758
ラビルが困り顔で頬を掻いていた。
﹁︱︱面白い能力だと思うけど、ここでは向かないね﹂
ラビルが観客席を指さす。
遅ればせながらキロも気付き、苦い顔をした。
いくらラビルから姿を隠しても、観客の視線でばれていたのだ。
ミュトは舌打ちし、ラビルから一歩離れて仕切りなおそうとする。
だが、ミュトは行く手を阻む硬い感触に顔をしかめた。
観客席から俯瞰しているキロには見える。ラビルがばらまいて空
中に制止させた金属板が、ミュトの退路を断っていた。
ラビルはミュトの奇襲に気付かない振りをして、誘い込んでいた
のである。
﹁また隠れられると面倒だからね﹂
ラビルが金属板が連なった糸を天井に向けて投げる。
空中で静止した鉄柵がミュトの逃げ場を限定した。
﹁さぁ、正面対決といこう﹂
ラビルが金属板を扇状に開き、ミュトに向けた。
分が悪い勝負に思えたが、ミュトはラビルの誘いに乗り、無言で
小剣を構えた。
先に仕掛けたのは、やはりミュトだった。
先手を取ることで少しでも優位に立とうとしたのだろう。
だが、ラビルの攻撃範囲の方がはるかに大きかった。
扇状にした金属板をミュトに飛ばしたのだ。
特殊魔力を込められて等速運動をする金属板の中に、動作魔力を
込められて加速する金属板がある。
759
別々の速さで飛んでくる上に、等速と加速とが入り混じる数枚の
金属板は感覚を狂わせる。
素直に避けようとしても、左右には静止した金属板が無数に浮い
ており、立ちはだかっている。
﹁フカフカ!﹂
﹁分かっておる﹂
ミュトの呼びかけに答えたフカフカが尻尾の光で等速運動をする
金属板だけを照らし出した。
動作魔力が込められた金属板だけをミュトは小剣で弾き、等速運
動する金属板は最小限の動きで避けていく。
フカフカとミュトの連携は見事の一言で、観客達が感心するよう
に唸る。
ラビルもまた、満足げな笑みを浮かべていた。
金属板を避けながらラビルとの距離を詰めたミュトが小剣で突き
を繰り出す。
しかし、体格差から生じる間合いの違いがラビルに先手を許した。
ラビルが素早く抜き放ったのは糸に金属板が連なったもの。
まだ隠し持っていたのかと、ミュトが眉を寄せる。
鞭のように振るのかと思えば、ラビルは動作魔力を用いて正面に
飛ばした。
ミュトは上半身を捻ってこれを避け、小剣の突きを軌道修正する。
バランスを崩しているミュトに、ラビルが空いた手でもう一本の
金属板が連なった糸を繰り出した。
最後の最後まで温存していたらしい。
バランスを崩したミュトに避けるすべはない。
善戦していただけに、ラビルの勝利を決めるようなこの攻撃に観
客達がため息を漏らす。
だが、ミュトは動作魔力を自身の体にまとわせて左へ跳んだ。
760
キロとクローナを除く誰もが思う。
悪あがきだ、と。
しかし、ミュトの左にあったはずの金属板が地面に落ちている事
に気付くと、観客達は目を見張った。
ラビルもこれは予想外だったのか、目を見開いてミュトの動きを
追う。
ミュトが着地した瞬間、いまだに浮いている金属板を足場にして
フカフカがミュトの肩へと着地する。
﹁拾い食いは良くないのだがな﹂
﹁黙って﹂
フカフカが尻尾を一振りして、ラビルを見る。
﹁お前の魔力は不味い。味が単調に過ぎるぞ﹂
金属板に込められたラビルの特殊魔力を〝拾い食い〟したらしい
フカフカが評価を下す。
髪の残存魔力を食せるフカフカにかかれば、金属に込められた魔
力を食べる事などお手の物らしい。
﹁参ったな。そんな対処法をされたのは初めてだよ﹂
ラビルが苦笑する。
ミュトが再度突きの構えを取ったのを見て、ラビルは気を引き締
めて糸に付いた金属板の束を引き戻す。
ミュトが動作魔力を込め、今までにない速度で駆けだした。
タン、と地面を踏む音は軽妙だが、ミュトは風のように走る。
ラビルが左手を捻りながら突き出す。すると、金属板が螺旋を描
いて飛びだした。
761
動作魔力で加速させつつ、フカフカに食べられるのを警戒し金属
板を回転させて跳びつけないようにしたのだ。
ミュトは小剣の切っ先をラビルに向けたまま、斜め前に右足を踏
み出して金属板を回避する。
避けられる事を前提で繰り出していたのか、ラビルはあっさりと
左手の金属板を手放しながら、右手の糸突き金属板を飛ばす。
動作魔力による一瞬の加速の後で特殊魔力を込められ、等速運動
を開始した糸に連なる金属板は緩やかに回転しながらミュトの右側
を塞ぎにかかる。
左右の逃げ道を塞がれたミュトは、それでも引かずにラビルへ踏
み込んだ。
ミュトが最後の踏込をする直前、ラビルは右手を動かす。
ラビルの右手から放たれたのは一枚の金属板。
しかし、ミュトの肩から飛び出したフカフカが金属板を上から押
さえつけ、共に地面へ落下した。
一瞬で動作魔力が込められていると判断できたのは魔力食生物ゆ
えだろう。
どうだ、とばかりにフカフカが見上げた直後、ラビルは右足を振
り上げていた。
﹁仕込み靴⁉﹂
靴の裏に、金属板が張られていたのだ。
足を振り上げた速度を維持してラビルの靴から金属板がミュトへ
飛ぶ。
フカフカが再度とびかかろうとするが間に合わない。
だが、ミュトは避けようとあがく事もなく、小剣をそのまま突き
出した。
ラビルの金属板が自らに届く事はないと確信するようだった。
そして、試験の終了を告げる受付の男の声が響く。
762
﹁⋮⋮そこまで!﹂
小剣の切っ先がラビルの喉元へ突き付けられていた。
小剣を突き出した体勢のまま制止するミュトの腹の前で、込めら
れた特殊魔力を失った金属板が落ちる。
﹁すごい防御力だね﹂
﹁そういう特殊魔力だから﹂
小剣を引き戻しながら、ミュトは仕込み靴から飛び出した金属板
を防ぐために展開した透明な壁を解除した。
763
第三十一話 ランバル・リークス
試験がミュトの合格で終わり、場の空気が緩んだ瞬間、大盾の男
が観客席から洞窟道を見下ろした。
﹁︱︱おい、ラビル、終わりか?﹂
声をかけられたラビルが不満そうな顔で大盾の男を見上げた。
﹁ランバル、酷いじゃないか。大舞台が台無しだよ﹂
ラビルが呼んだ名前を聞き、キロは大盾の男を見る。
キロに続いてクローナも驚きの表情でランバルと呼ばれた大盾の
男を見た。 キロとクローナの反応からランバルを知らないのだろうと見当を
つけた受付の男が小さな声で紹介する。
﹁ランバル・リークス、オラン・リークスのひ孫にあたる人物です。
もっとも、オラン・リークスの名を出さずに護衛団を作り、瞬く間
に今の規模にまで大きくした傑物ですから、比較しない方がいいで
すよ﹂
キロはランバル・リークスを観察する。
鎧は纏っていないというのに、重装甲という言葉がぴったりとあ
てはまるような男だ。
ランバルはラビルの抗議を鼻を鳴らして一蹴する。
﹁ラビルは何やったって地味だろうが。それより、受け取れ﹂
764
観客席からラビルに向けてランバルが放り投げたのは、人だった。
ラビルが慌てて金属板が連なる糸を展開し、即席の網を作って投
げ落とされた人物を受け止める。
ラビルが受け止めたのを見て取ると、ランバルはさらに四人、小
枝でも扱うように投げ入れた。
最後には自らが観客席から飛び降り、洞窟道へ着地する。数メー
トルの高さがあるはずだが、平然としていた。
﹁ランバル、どうしたんだい。団員を粗末に扱うなんて君らしくな
いじゃないか﹂
受け止めた五人を地面に降ろしながら、ラビルが不思議そうな顔
でランバルに問う。
観客席で成り行きを見舞っていたキロは、クローナに袖を引かれ
て、無言のまま頷いた。
ランバルによって洞窟道へ投げ込まれた五人は、守魔の足を盗み
出した護衛団の面々だった。
︱︱盗み出したとバレたのか。
自業自得だ、とキロはミュトに手を振って、観客席に上がってく
るよう促す。
ランバルを恐々と見ていたミュトは、キロに気付いてほっとした
ように手を振りかえし、壁に備え付けの梯子へ向かう。
ランバルは肩を回すと、投げ込んだ五人を鋭い眼光で射貫いた。
﹁聞きたい事はいくつかあるが、まず最初に︱︱﹂
細めていた眼を見開くと、ランバルは鬼の形相で五人へ一歩踏み
出す。
まるで巨大な壁が動き出したような圧迫感が洞窟道の空気を動か
765
し、観客席へ風となって吹き抜けた。
﹁よくも儂らに恥を掻かせたな﹂
地の底から響くような重低音がランバルの喉から溢れ出る。
﹁お前らが切り落としたという守魔の足を見させてもらった。お前
らの腕であんな芸当ができるわけないが、一応試してやる﹂
言うや否や、ランバルは両肩に下げていた大盾を降ろす。地面が
揺れ、大盾がめり込んだ。
二枚の大盾にはわずかな隙間がある。
ランバルは大盾の隙間を指さし、護衛団の五人を睨んだ。
﹁この隙間に剣を通してみろ。動作魔力を使った全力の素振りでだ。
守魔の足を、関節部分だけ狙い澄まして切り落とした奴なら造作も
ないだろ。動かないんだからな﹂
大盾を岩石のように筋張った拳でごつごつと叩き、失敗したなら
大盾の代わりに殴り飛ばすと無言でアピールする。
怯えて動けないでいる五人組に苛立ったランバルが急かすと、五
人組はへっぴり腰で立ち上がった。
観客達が白けた視線を五人組に送る。
人間相手に怖がっているようでは、守魔の足を切り落とすことな
ど到底不可能だからだ。
すでに五人組が嘘を吐いている事は見抜かれていた。
それでも、ランバルはチャンスを与えるつもりらしく、大盾を示
す。
五人組のうち一人が剣を構え、大盾の隙間を狙って振り下ろす。
ガンッと音を立てて、剣が大盾に弾かれた。
766
﹁︱︱次!﹂
失敗した団員を殴り飛ばして、ランバルは残りを睨む。
次々に失敗しては殴り飛ばされ、開き直った最後の一人の一振り
が大盾の側面を削りながらも隙間を通った。
しかし、ランバルはこめかみに青筋を浮かべる。
﹁全力で振れって言ってんだろうが! ごまかしが通じると思って
んなら守魔の縄張りに放り込むぞ⁉﹂
隙間を通すために動作魔力を十分にこめていなかったことを見抜
かれて、最後の団員はもう一度大盾の隙間に挑戦する。
鈍い音を奏でて剣が弾かれ、最後の団員は手の痺れに堪えかね、
剣を取り落とす。
ランバルの鉄拳制裁が最後の団員を殴り飛ばした。
﹁バカ共が、こうすんだよ﹂
ランバルは落ちていた剣を片手で掴むと、無造作に振る。
動作魔力が込められた全力の斬撃は、空気に悲鳴を上げさせなが
ら大盾の隙間を通った。
大盾の隙間を縫った剣が地面を深くえぐる。威力の程が知れた。
自らが出した試験とはいえ、決して弱くはないはずの五人ができ
なかった事を造作もなくやってのけたランバルに観客達がおぉ、と
感嘆する。
ランバルはつまらなそうに剣を五人組に投げ渡し、腕を組む。
﹁お前らの処分は後程決める。それはそれとして、守魔の足を切り
落とした奴の顔は見たか?﹂
767
ランバルの声は大きく、質問は観客席まで聞こえた。
クローナがピクリと肩を跳ねさせる。
ラビルが首を傾げた。
﹁ランバル、もしかして気付かなかったのかい?﹂
﹁⋮⋮何の話だ?﹂
ランバルが眉を寄せてラビルに問う。
ラビルは観客席のキロ達を見上げた。
﹁守魔の足を切り落としそうな使い手なんて限られるだろう?﹂
ラビルと目があったキロは、さっと目をそらして梯子をあがって
きたばかりのミュトの手を取る。
退散した方がよさそうだ、と判断したのだ。
しかし、時すでに遅く、ランバルがキロ達を見つけて声を張り上
げる。
﹁そこの三人、話を聞きたいから降りて来い!﹂
キロが苦い顔でラビルを見ると、にこやかに手を振りかえされた。
仕方なく、キロはクローナとミュトを連れて洞窟道に降りようと
する。
しかし、梯子の手すりに手をかけたキロに、ラビルが声をかけた。
﹁回りくどい事をしてないで壁を走って降りてきなよ﹂
キロは深々とため息を吐く。
面白い見世物を見るように、集まった傭兵や地図師がキロに注目
768
しだした。
ランバルが怪訝な顔でキロを見上げている。
ラビルは口元だけにこにこと笑っているが、目には何かを企むよ
うな光があった。
クローナがキロの背中に手を当てる。
﹁たぶん、私達が守魔の足を切り落としたって気付かれてますよ﹂
﹁そうみたいだな⋮⋮﹂
キロは梯子の手すりから手を放し、観客席から飛び降りざま体を
捻って壁に足をつける。
驚きに目を見張る傭兵や地図師の注目を浴びながら、キロは壁を
軽く走って、地面に降り立った。
まばらに拍手が上がり、キロはげんなりする。
キロの連れであるクローナに注目が移った。
﹁あれ、私も何かやらないといけない流れですか?﹂
曲芸染みたキロの動きを前座と受け取った観客達の視線を受けて、
クローナは少し戸惑った後、杖を掲げる。
観客席から洞窟道へ跳躍したクローナは、瞬時に巨大な水球を生
み出し、動作魔力で水流を作ると同時に石壁を出現させて水流に浮
かべる。
石壁をサーフボードのようにして、クローナは流麗に洞窟道へ降
り立った。
魔法を使った派手な着地に喝采が上がる。まんざらでもないのか、
クローナは子犬のような顔をキロに向けた。
﹁はいはい、すごいすごい﹂
﹁そんな投げやりに褒めてもらっても嬉しくないですよ!﹂
769
クローナがキロの胸をポカポカ叩く。
視線がクローナに集中している内にこっそりと梯子を伝って下り
てきたミュトがキロ達に苦笑する。
ランバルはキロと壁を交互に見て、小さく唸った。
﹁器用な事しやがる﹂
ランバルはキロを上から下まで眺め、ラビルに不審そうな目を向
ける。
﹁このひょろいのが守魔の足を三本切り落としたってのか?﹂
﹁人は見かけによらないものだよ。自分が証明しているだろう?﹂
そういって自身の胸を叩くラビルに、ランバルは深々と頷く。
﹁地味なラビルが言うと説得力があるな﹂
﹁地味じゃないよ!﹂
﹁お前が言ったんだろうが﹂
﹁そうだった⋮⋮!﹂
言葉の応酬の結果、落ち込んだラビルを放っておいてランバルが
キロを見る。
物は試しだ、とランバルは大盾を指さした。
﹁その槍の刃を通せるか?﹂
︱︱簡単に通せそうなんだけど。
キロは護衛団五人組を横目に見る。
︱︱これだけの幅があって失敗するとは思えないし、緊張してい
770
たんじゃないか?
後ろめたいところもなく緊張とは無縁のキロは、槍を片手で構え、
脇で挟んで固定する。
右足を踏み出して上半身を捻りながら、動作魔力を通した槍を突
き出せば、大盾の隙間を貫いた。
即座に槍の柄を開いていた手で握り、半回転させる。
大盾の隙間を下から上に切り裂いた槍の穂先はヒュンと風を鳴ら
しながらキロの背後へと回る。
槍を回転させながら、キロは左足を踏み込んで跳躍した。
動作魔力を使った跳躍は素早く、大盾の上を飛び越える軌道を描
く。
キロは後ろへ回った槍の穂先をさらに回転させ、跳躍しながら大
盾の隙間を上から下に切り裂いた。
着地したキロは槍を半回転させて威力を殺し、肩に担いで振り返
る。
ぽかんと口を開けるランバルと、五人の護衛団、ニヤニヤとラン
バルを見て笑っているラビルがいた。
ミュトとクローナは特に反応もない。簡単にやってのけるだろう
と最初から予想していたからだ。フカフカなど最初から見もしない
でミュトの首に巻き付いて、寝に入っている。
ランバルが額に手を当て、天井を仰いだ後、盛大なため息を吐く。
﹁守魔の足を三本、切り落とすくらいはやってのけそうだな。文句
なしに最上層でやっていける腕だろ。なんで今まで噂になってなか
ったんだよ、お前さん、今までどこにいた?﹂
異世界にいました、と素直に告白する気もないキロは、曖昧に笑
っておくに留めた。
ランバルは腕を組み、真剣な目でキロを見つめる。
そして、ランバルはラビルやミュト、クローナを見回した後、瞼
771
を閉じて黙考した。
しばらくして、意を決したようにランバルは切り出す。
﹁守魔の討伐隊に加わらないか?﹂
772
第三十二話 ロウヒ討伐隊
﹁自殺志願者じゃないんで﹂
﹁お断りですよね﹂
﹁ボクも嫌だなぁ﹂
キロ、クローナ、ミュトが口々にランバルの提案を一刀両断する。
ミュトの首に巻き付いたまま、話だけは聞いていたらしいフカフ
カの尻尾が揺れた。
﹁満場一致であるな﹂
﹁おいおい、ちょっと待て!﹂
ミュトとフカフカの言葉からキロとクローナの言葉の内容まで類
推したらしいランバルが慌てて引き止める。
﹁地図師だろ。守魔を倒して名を挙げようとか思わないのか?﹂
守魔を倒せば、功績を称えて像が立つ。
ミュトも、地図師が目指す到達点の一つだとキロに語っていたが、
あくまでも地図師全体の傾向としての話だ。
ミュトが困り顔でキロ達を見た後、ランバルに向き直る。
﹁名を挙げようと思ってないから﹂
﹁最近の若い奴は欲がないんだな﹂
ランバルがミュトの答えに落胆する。
護衛団の五人組を横目に見た後、ランバルはため息を吐いた。こ
773
いつらは使い物にならない、と顔に書いてある。
﹁せめて、話くらいは聞いてくれ﹂
それでも諦め切れないのか、ランバルは切り出した。
気乗りしなさそうなキロ達を見て、ラビルが苦笑いを浮かべる。
﹁ランバルが言っているのは、ムカデの守魔ではないんだ﹂
﹁あいつは縄張りに出向いても姿が見えなかったからな、どちらに
せよ討伐なんかできねぇよ﹂
つまらなそうにランバルは愚痴る。
クローナがキロを見てくすりと笑った。
﹁あの魔物さん、足を切られてまだ不貞腐れてるんですね﹂
﹁みたいだな﹂
キロはクローナと笑いあう。
ラビルが話を戻す。
﹁ランバルが討伐計画を立てたのは、最上層と未踏破層の境に住ま
う守魔。確認できる最古の魔物だよ﹂
最古の枕詞が付くと途端にロマンの香り漂うのは何故だろう、と
キロは湧き出した好奇心に言い訳する。
クローナも例外ではないようで、興味が無さそうな振りをしつつ
耳を傾けているのが分かった。
唯一興味が無さそうなミュトの様子を窺いながら、ラビルは追加
情報を提示する。
774
﹁なぜ最古の魔物だと断言できるかと言えば、一昨日の遺跡の壁画
に絵があったからだよ。つまり、八千年以上の長きに渡り広間を縄
張りにしている個体という事だね﹂
ミュトの関心が向いたのが分かる。
キロは空の喪失と人類が地下へ移住するまでの経緯を描いた壁画
を思い出す。
壁画にあった魔物らしきモノといえば、悪食の竜が真っ先に思い
浮かぶ。
しかし、ラビルが口にしたのは別の名前だった。
﹁各地の壁画にも姿が描かれている魔物でね。名前はロウヒ、遺跡
の左側の壁に描かれていた女神のような魔物だよ﹂
地上を睨んでいた女神像はロウヒというらしい。
魔物だった事も驚きだが、描かれていたモノが実在するという事
は壁画の内容も真実味を帯びてくる。
ミュトとフカフカが揃ってため息を吐いた。
空の喪失が史実かもしれないとわかって、気落ちしたのだろう。
クローナが何かを思い出すように顎に手を当てる。
﹁でも、壁画の女神像は上を睨んでましたよね﹂
﹁あぁ、上を睨んでた。それにあの壁画は人類が地下に潜ったばか
りの頃を描いているように見えた﹂
キロも記憶を探り、クローナの言葉を肯定する。
︱︱喪失歴が空を喪失してからの暦だとすると、今よりも浅いと
ころで人間が生活していたんじゃないのか?
憶測に過ぎないが、実際にロウヒは未踏破層と呼ばれるかなり上
の層に縄張りを持っている。
775
上の層、つまり地上に近い場所だ。
﹁ロウヒって守魔に興味はないけど、ロウヒの縄張りを越えた先に
何があるのかは気になるな﹂
﹁でも、倒す必要はないんじゃないかな?﹂
わざわざ守魔であるロウヒを倒さずとも、縄張りを迂回してしま
えば上を目指すことができる、とミュトは言いたいらしい。
確かに、とキロは頷きつつ、ラビルを見る。
﹁特層級でなくとも未踏破層の探索ができるなら、迂回するのも選
択肢の一つだな﹂
キロの指摘に、ミュトは困ったように眉を寄せ、ラビルに視線を
移す。
キロとクローナの言葉が分からないラビルやランバルは、キロ達
の間でどんな言葉が交わされているのか、断片的にしかわからない。
ミュトはバカにされないよう空を探している事は伏せて、ラビル
に問う。
﹁ロウヒの討伐に成功したら、未踏破層の探索許可がもらえるの?﹂
﹁貢献度次第ではあるけど、評価はかなり高いね。逆に失敗しても
評価が下がることはないから安心していいよ﹂
成功時のメリットが無視できなかったのか、ミュトは思案顔をす
る。
しばらく悩んだ後、ミュトは首を振った。
﹁やっぱり駄目だよ。危険すぎる。ボク達は参加しない。キロ達も
それでいいよね?﹂
776
珍しく確固とした意思を伝えるミュトに、キロとクローナは笑み
を浮かべた。
﹁急がば回れともいうからな。トットにもいかないといけないんだ。
参加する必要もないな﹂
﹁五年かかるはずの最上層級昇進も数日で終わりましたからね。上
を目指すのも大事ですけど、今は一休みしつつ懐中電灯の持ち主を
探しましょう﹂
方針が決まり、ミュトはランバルに向き直って頭を下げた。
﹁参加はお断りします﹂
下げられたミュトの頭を見下ろして、ランバルは悔しそうな顔を
した。
﹁無理に参加しろとは言わないが、気が変わったら来てくれ。討伐
戦は十日後だ﹂
ランバルは名残惜しそうにキロとクローナに視線をやった後、五
人組に声をかける。
﹁鍛えなおしてやる。ついてこい﹂
びくりと震えた五人組が大慌てで立ち上がる。
ランバルはラビルに視線を向けた。
﹁お前はどうすんだ?﹂
﹁自分はここに遺跡調査の仕事で来てるんだ。気の荒い女神様を口
777
説き落としに行く時間はないね﹂
ランバルは舌打ちする。
﹁それなら、儂らが女神様を落としてやるよ。強引にな﹂
勇ましい啖呵を切ってランバル護衛団は観客席へ向かっていく。
おっかなびっくり、といった調子で五人組がランバルについてい
く。
五人組の一人はミュトと目が合うと口を開いた。
﹁俺達が地図師協会で守魔の足を出した時、守魔の縄張り調査を受
けてたよな⋮⋮?﹂
ミュトがこくりと頷く。
﹁なら、守魔の足を切り落としたのは本当に︱︱﹂
ランバル護衛団の視線に、キロは肩を竦めてはぐらかした。
﹁証拠はお前達が持って行ったのでな。キロはただ働きだ﹂
フカフカがつまらなそうに呟く。
ランバル護衛団は頭を下げ、ランバルの後を追って逃げ去った。
ラビルが五人組の後ろ姿を見送ってクスクスといじわるに笑う。
ミュトに視線を戻したラビルは、微笑を浮かべた。
﹁空を目指しているのかな、と思っていたから、断ったのは正直意
外だったよ。余計な事をしてしまったね﹂
778
フカフカが顔を上げる。
﹁いや、少なくともここにいる地図師や傭兵連中はミュト達を見直
しただろう。我らから言い出したところで嘘つきと呼ばれるだけで
あるからな。よい機会を提供してくれた。感謝する﹂
﹁そう言ってもらえると嬉しいよ。自分はしばらくあの遺跡の調査
でこのあたりに滞在しているから、何か聞きたいことがあった遠慮
なくおいで﹂
ラビルは気さくにそう言って、観客席を見上げる。
いくつかの視線が洞窟道を見下ろしている事を確認したラビルは
大仰に腰を取って一礼し、石板を生み出したかと思うと特殊魔力を
用いて即席の飛行機を作り、梯子を使わずに観客席へと飛んで行っ
た。
観客席に降り立ったラビルは、芸を披露した後の礼儀とばかりに
一礼する。
しかし、誰一人注意を払っていないことに気付き、顔を俯かせな
がら去って行った。
︱︱つくづく地味で締まらない人だな。
本人が聞けば泣き出しそうな感想を抱いて、キロは苦笑した。
キロ達が観客席に上がると、受付の男が腕を組んで待っていた。
﹁余計な時間を取らせないでください。まだ手続きが残っているん
ですから﹂
小言を口にしつつ受付の男は街へと歩き出す。
キロはクローナに目くばせした。
﹁ミュト、俺とクローナは街で買い物してくる。フカフカの腕輪を
貸してくれ﹂
779
手続きでミュトが動けない間に合格祝いを用意してしまう作戦で
ある。
ミュトは首を傾げる。
﹁別にいいけど、今日は街に泊まった方がいいんじゃないかな?﹂
どうやら、キロ達が旅の食糧等を買い出しに行くのだと思ったら
しく、ミュトは見当違いな事を言う。
今まで誰かに昇進を祝ってもらったことなどないのだろう。
フカフカがキロを振り返り、尻尾を一振りする。
機嫌が良い時の振り方だな、とキロはフカフカの心理状態を読み
取った。
聴覚に優れたフカフカは、キロとクローナが観客席でしていた合
格祝いの話を聞き取っていたのだろう。
﹁好きにするがよい。この街でなら、もうミュトにちょっかいをか
ける不届き者はおらんだろうからな﹂
試験のために手を抜いていたとはいえ、特層級であるラビルから
一本取ったミュトの戦闘技術は高い。
また、ランバルに腕を買われたキロやクローナが護衛である以上、
並みの腕では怖気づくだろう。
街に着いたキロはフカフカの首輪代わりになっていた翻訳の腕輪
を受け取ってミュトと別れる。
クローナと共に街をぶらつきながら、サングラスを探す。
太陽光とは無縁の地下世界でサングラスは見つからず、キロは休
憩がてら民家の壁に背中を預けて代替案を思案する。
﹁やっぱり、一から作るしかないみたいだな﹂
780
クローナは通りを眺めながら、キロの言葉に頷く。
﹁材料が問題ですよね﹂
﹁サングラスの材料、思いつかないな﹂
︱︱プラスチックだと手に入らないし、曇りガラスとか。
そう考えて、地下世界ではガラスが高級品だったと思い至る。
手持ちの金で足りるだろうか、とキロは財布を覗いた。
﹁⋮⋮材料見つけた﹂
﹁財布の中に、ですか?﹂
何を言い出すのか、と怪訝な顔をするクローナに、キロは財布か
ら宝石を取り出した。
煙水晶である。
財布に入っていただけあって小さなものだが、地下世界では貨幣
の代わりに使われる宝石だ。
貨幣代わりに使用されるため、地下世界では簡単に入る。
﹁大きい物と両替して、加工すればいいと思う﹂
﹁時間があるといいですけど﹂
クローナは地図師協会の方角を気にするが、材料だけでも手に入
れようとキロ達は行動を開始した。
781
第三十三話 追跡者
ご機嫌なミュトが先頭になって洞窟道を歩く。
キロとクローナはミュトの後ろを歩きながら笑いあう。
手頃な煙水晶を手に入れたキロ達はいぶかしむ加工屋の主に頼み
込んでサングラスを制作してもらった。
流石というべきか、宝石が出回る地下世界だけあって加工技術は
極めて高く、あっという間に出来上がった。
専用の加工魔法があるらしいが、門外不出という事で作業工程を
見学できなかった事が悔やまれる。
出来上がったサングラスを宿で待っていたミュトに渡して、使い
方を説明したのが昨夜の事。
それ以来、ミュトは終始ご機嫌で、にやけた口元を隠そうともし
ない。
フカフカも尻尾が小刻みに揺れていて、機嫌の良さが見て取れた。
﹁足元に気を付けて歩けよ?﹂
﹁大丈夫だよ。地図もきちんと描いてる﹂
にこにこした顔で振り返り、ミュトは再び歩き出す。
﹁目的地は最上層下端の街トット、そのあとは新洞窟道を見つけつ
つ、黒髪の女の子探し。やる事が一杯あるね﹂
ミュトは山積する予定に嫌な顔一つせず、むしろ、楽しげに優先
順位を決めていく。
キロは歩く速度を上げてミュトの隣に並ぶ。
782
﹁トットまではどれくらいかかるんだ?﹂
地図をなぞり、ミュトは必要な日数を試算する。
﹁最短距離で進んでるから、早ければ四日後の夜か、五日後のお昼
くらいかな﹂
掘削型魔物が好き勝手に掘っているだけあって、目的地まで直通
できる洞窟道はないらしい。
道中で魔物を狩り、地図を作製して資金を確保しつつ上を目指す
ため、時間もかかる。
﹁どこかの町や村に寄って行くんだろ?﹂
﹁そうだよ。地図の換金や更新もしていかないといけないからね﹂
野宿する必要はなさそうだ、とキロは少し安心する。
落盤等で道を引き返す場合もあるため、旅の日数を多めに見積も
って食料を準備しているが、ベッドの上と地面の上では寝心地が違
う。
ミュトは地図の一点を指さす。
﹁いまはこの町に向かってるんだよ。鍾乳石の産出地なんだけど、
少し交通が不便で魔物も多く生息している地域。資金調達するには
いい環境だと思うよ﹂
﹁あの辺りには硬い甲殻を持つ動きが鈍い魔物が多いのが特徴であ
るな﹂
フカフカが魔物についての補足を加える。
︱︱鍾乳石のカルシウムが目当ての魔物が集まるのか。
ミュトとフカフカの説明から分析して、キロはクローナを見る。
783
﹁魔物の討伐はクローナが主体になりそうだな﹂
﹁キロさんもミュトさんも刃物ですからね﹂
編成について軽く意見を交わしていると、鍾乳窟が見えてきた。
なめらかな乳白色の石が、天井や地面から伸びている。
時折響く水音が広い洞窟道に木霊しては溶けていく。
多種多様な形の鍾乳石が複雑な景観を作り出し、今まで歩いてき
た単調な洞窟道とは違って飽きが来ない。
変わった形の鍾乳石を見つけては形が似ている別の物を連想して
遊びながらキロ達は鍾乳窟を進んでいたが、道の先にロープが張ら
れているのを見て足を止めた。
キロの手首ほどの太さがあるロープは道を塞ぐように左右に渡し
てある。
何かのまじないかと首を傾げるキロやクローナとは違い、地下世
界の住人であるミュトとフカフカは深刻な顔で眉を寄せた。
﹁町で疫病が発生した印だ。引き返すよ﹂
ミュトはポケットから赤く染められた糸を取り出し、ロープに結
び付ける。
ロープに背を向けたミュトは来た道を戻り始めた。
後を追いながら、キロはロープを振り返る。
﹁町の様子を見に行かなくていいのか?﹂
﹁ロープが張られていたら進入禁止なんだよ。疫病が拡大すると大
惨事だからね﹂
限られた場所に人が密集し、洞窟という閉鎖空間である関係上、
空気が淀みやすいため疫病の発生と拡大は深刻に受け止められる。
784
防疫のため、疫病が発生した村や町は隔離されるのだろう。
ミュトは地図に何かを記載し、ため息を吐く。
﹁近くの村に疫病の発生を報告に行かないと﹂
予期しない寄り道を強いられて、ミュトはキロとクローナを申し
訳なさそうに振り返った。
クローナは心配そうにロープの先に目を凝らしていた。
﹁人命優先ですよ。それより、私達は隔離されたりしないんですか
?﹂
﹁近付いただけで一々隔離していたらきりがないからね。ただ、し
ばらくは居住区に寝泊まりできなくなる﹂
疫病の潜伏期間を洞窟道で過ごし、罹患していないか確かめなけ
ればいけないらしい。
ミュトは足早に村への道を進む。
鍾乳窟を抜け、洞窟道を進んでいると、またロープに出くわした。
﹁遅かったようであるな﹂
フカフカがミュトの肩からロープを見下ろしながら呟く。
疫病が蔓延している証拠であり、感染力の高さを示唆している。
﹁少々遠くとも、感染していないだろう土地まで足を延ばすのも手
であるが﹂
フカフカの提案に、ミュトは首を振った。
﹁近い順に回ってみよう。感染地の特定をしておいた方が救援物資
785
も送りやすいはずだから﹂
ミュトはキロとクローナに向き直る。
﹁少し急ぐよ﹂
二つの村を回ったもののロープに追い返され、感染していない町
を見つけた頃には日付を跨いでいた。
ミュトは新しい紙を取り出して手早く地図を複製した。
洞窟道から通りがかりの町の住人に声をかけ、複製した地図を手
渡す。
通常の地図とは違い赤い糸を上部に結び付けられたその地図を、
町の住人は気味悪そうに受け取って地図師協会へ走り去った。
歩き続けて疲れていたが、キロ達自身も疫病にかかっているかも
しれないため町で休むこともできず、仕方なく町に背を向けて歩き
出す。
﹁さすがに疲れましたね﹂
クローナが杖を右手から左手に持ち替えながら呟く。
﹁丸一日歩き通しだからな。野宿するにしても、町からどれくらい
遠ざかればいいんだ?﹂
勾配の急な上り坂を見上げて、キロはミュトに訊ねる。
ミュトは歩きながら太ももをトントンと叩いていた。
﹁早く休みたいけど、この辺りだと人通りもあるから、少し奥まっ
たところに行こうか﹂
786
洞窟を歩きなれているミュトでも堪えたらしく、声に張りがなか
った。
唯一、ミュトの肩の上にいるために疲れずに済んでいるフカフカ
が顔を上げる。
﹁我が疲れの吹き飛ぶ話をしてやろう。寝ずの番の効果も上がる優
れた話だ﹂
﹁フカフカ、何か企んでるでしょ?﹂
ミュトが肩のフカフカを横目で睨む。
フカフカは得意げに鼻を鳴らし、後ろ足で立ち上がる。
﹁話は百年前に遡る﹂
ミュトの疑惑の目を意に介さず、フカフカは語り出す。
﹁とある地図師と護衛二人が疫病で全滅した村を発見したことから
話は始まる﹂
フカフカの尻尾がゆらりと左右に振れた。
﹁地図師達は規則に倣い、付近の町へ疫病の発生を伝えた後、人里
離れた洞窟道へと向かったのだ﹂
︱︱今の俺達と同じ状況か。
キロはフカフカの話と自分達とを照らし合わせつつ、話に耳を傾
ける。
﹁人里離れた洞窟道の奥で迎える二日目の事である。地図師達は一
787
斉に発症し、体力の消費を極力抑えるべく寝て過ごすと決めた。人
里への移動も考えたのだが、発生元である村は全滅しておる。おい
それと町へ疫病を持ち込むわけにもいかぬ、と﹂
話の先が暗くなった。
キロは右手を握られて、顔を向ける。クローナが赤い顔をしてい
た。
怖い話にかこつけて手を繋いだのだ。
フカフカがキロとクローナのつながれた手を見て、つまらなそう
に尻尾を一振りする。
﹁発症した翌日の事だ。病で体力の落ちた地図師達の前に魔物がひ
っきりなしに現れた。当初こそ、弱った獲物を狙いに来たのだと地
図師達は考えたが、どうにも様子がおかしいと昼頃になって気が付
いたのだ﹂
フカフカはにやりと笑う。
心なしか周囲が暗くなった気がして、キロは足元を見る。
︱︱フカフカの奴、雰囲気を出すために光量を絞ったな。
﹁魔物達は地図師達を見ると警戒するように唸った後、じりじりと
後退して逃げ出すのだ。夜になっても魔物達の行動は変わらなかっ
た。地図師達は車座となり、明かりを中央に吊るして相談を始めた。
相談といっても、皆で憶測を並べるだけの気晴らしだがな。何しろ
体調は刻一刻と悪化していた﹂
クローナが段々とキロに近付いてくる。
気が付けば、ミュトもキロのそばを歩き始めていた。
フカフカが笑いを堪えるように尻尾を持ち上げ、制止させる。
788
﹁思いつきをあらかた並べ終わったころだ。地図師は頭痛を覚えて
俯いたのだが、その時おかしな事に気が付いたのだ。地図師は護衛
の一人に問いかけた﹂
話が終わりに差し掛かり、フカフカの尻尾の光があからさまに弱
まった。
ためを作るフカフカを不安そうな目で見る少女二人の視線を心地
よさそうに受け止めて、フカフカは口を開く。
﹁〝なぜ、影が光源の下を走っている〟とな﹂
車座となり、中央に明かりを吊るしたなら座の中心に影は伸びな
い。
オチにしては弱い、と思ったのはキロだけではなかったらしく、
クローナとミュトもほっとしたようにキロから離れた。
フカフカが続ける。
﹁さて、影が光源の下に伸びていたという事は護衛の後ろに別の光
源があったことになるのだが﹂
まだ続けるのか、とミュトとクローナが苦笑してフカフカを見る。
フカフカは楽しげに尻尾を揺らすと、誰もいないはずの洞窟道を
振り返った。
﹁光源とはたとえば、後ろからついてきておるあの人魂であったり
するかもしれんな﹂
キロとクローナ、ミュトの足が一斉に止まった。
咄嗟に振り返った洞窟道は下り坂となっている。先ほどまで登っ
てきていたのだから当然だ。
789
キロ達が目を凝らせば、洞窟道を下った先の壁際に、ぼんやりと
浮かぶ光の球があった。
光虫の明かりではない、松明の類でもない、青みがかってぼやけ
た明かりがふらふらと上下しながら、キロ達に向かってくる。
キロ達が目を見開いて凝視していると、光がぴたりと静止した。
耳が痛くなるような静寂が洞窟道に舞い降りる。
ミュトが口元を引き攣らせながら、恐る恐る光へ声をかける。
﹁⋮⋮あの、誰ですか?﹂
次の瞬間、光は猛烈な速度で洞窟道を駆け上がってきた。
光は上下運動をやめている。
人が洞窟道を駆け上がっているのだとすれば、手に持った光は上
下に動くはずだ。
キロ達の間に言葉は交わされなかった。
一糸乱れぬ動きで身をひるがえし、キロ達は動作魔力さえ使いな
がら洞窟道を駆け上がる。
フカフカの言葉通り、疲れは吹き飛んでいた。
﹁なんですか、なんなんですか、アレ⁉﹂
﹁知るか、走れ!﹂
﹁フカフカが変な話をするから変なのが出てきたじゃないか!﹂
口々に言い合いながら、キロ達は洞窟道を駆け上がる。
背後から追ってくる光は素早く、フカフカの明かりに段々と青白
い色が混じり始めた。
﹁⋮め⋮し﹂
︱︱恨めしいとか言ってる⁉
790
言葉を断片的に拾い上げて再構築したキロは速度を上げかけたが、
ミュトとクローナが突然、速度を落として立ち止まった。
ミュトとクローナは毒気を抜かれたような顔で光を振り返り、意
図せず声を合わせて問いかける。
﹁︱︱食事?﹂
キロは転んだ。
791
第三十四話 尾光イタチの証言
﹁癖になる味じゃ。あぁ、生き返る﹂
尻尾をぶんぶんと振りながら、青みがかった黒い体毛を持つ尾光
イタチがキロの人差し指に吸い付いている。
同じく尾光イタチだが褐色の体毛を持つフカフカとは違い、さら
さらした体毛を持つその尾光イタチはキロ達を追いかけていた人魂
の正体だ。
フカフカが正体に気付いていなかったはずはなく、いまはからか
った罰としてミュトに頬を伸ばされている。
キロは人差し指に吸い付いて恍惚の表情をしている尾光イタチを
見下ろして、ため息を吐く。
しばらく食事をしていなかったために魔力が足りず、省エネモー
ドで光っていたところにキロ達が通りかかり、追いかけてきたらし
い。
人魂のような青白い光は省エネモード故との話だった。
﹁ちなみに我のような五つ名持ちは白色光のままで魔力や光量を調
整できるのだ。我の技術を褒め称え︱︱ミュトよ、それ以上我が頬
を伸ばすな。ダンディズムの権化たる我の顔が台無しになるではな
いか﹂
フカフカの抗議を無視して、ミュトはキロの指にむしゃぶりつい
ている尾光イタチに声をかける。
﹁そもそも、なんで行き倒れたりしたの?﹂
792
キロも気になっていた事だ。
野生の尾光イタチが何を食べているのかは知らないが、人語を介
する以上、緊急避難的に人里に下りる事も可能だろう。
キロの指から口を放した尾光イタチは、良い質問じゃ、と教師然
とした偉そうな口調で返す。
﹁もう四か月前になるか。黒い魔女がこの道を通ったのじゃ﹂
︱︱黒い魔女ってなんだ?
知らない単語が出てきて、キロはミュトに視線で問う。
しかし、ミュトも聞いたことがないのか、首を傾げていた。
キロ達の反応が不可解だとばかり、尾光イタチは尻尾で地面を叩
く。
﹁知らぬわけではあるまい? この男と同じ黒髪の女だ。目が眩む
ほどの魔力を纏った特殊魔力の使い手じゃ﹂
黒髪の女と聞いて、キロの鞄に視線が集まった。鞄の中には懐中
電灯が入っている。
キロは懐中電灯を取り出し、電池カバーを外して裏面を尾光イタ
チに見せた。
カバー裏に張られたプリクラをまじまじと見つめた尾光イタチは、
目を細める。
﹁猫を被っておるが、確かにこの娘じゃ﹂
必要のない情報を頭に付けつつ、尾光イタチが証言する。
最上層の街トットで目撃された懐中電灯の持ち主がこの道を通っ
たらしい。
ミュトが地図を広げ、眉を寄せる。
793
﹁四か月前の地図だと、この洞窟道はまだ発見されてないよ。ここ
が発見されたのは二か月前だね﹂
﹁四か月前に掘削型魔物が開けたのだ。直後に黒い魔女が殺してい
きおった﹂
掘削型魔物が殺された光景を思い出したのか、尾光イタチはぶる
りと身を震わせる。
フカフカが鼻先を洞窟道の先に向けた。
﹁この坂を上り切ったところにある死骸がその掘削型魔物か?﹂
﹁うむ。勝負にならんかった。たった一人の人間が上層の掘削型魔
物を即死させるなど、今でも信じられん﹂
﹁え、一人?﹂
キロは耳を疑った。
尾光イタチは翻訳を頼むようにフカフカを見る。
﹁その娘について詳しく聞かせろ﹂
尾光イタチが前足で顔を洗う。
﹁思い出せるような、思い出せないような。あぁ、腹が減ったのじ
ゃ﹂
﹁その男の魔力ならばいくらでも食うがよい。このゲテ物好きめ﹂
﹁儂もこれほど不味い魔力は食べたくないのじゃ。だがな、これほ
ど栄養が豊富となると空きっ腹には格別じゃからなぁ﹂
キロの魔力を貶しながら、尾光イタチは〝不味い魔力〟をむさぼ
り始める。
794
﹁黒い魔女は一人でこの道に現れたのじゃ。常人の数十倍の魔力を
纏い、魔力に引き寄せられた無数の光虫が魔女の周りを照らしてお
った。魔女は気持ち悪そうに光虫を睨み、ときおり追い払っておっ
た﹂
喉を潤すようにキロの魔力を口にしながら、尾光イタチは話し出
した。
﹁ほとんどの魔力は特殊魔力で確保したようじゃ﹂
﹁どんな特殊魔力だったの?﹂
ミュトが口を挟むと、尾光イタチは困ったように首を傾げた。体
が硬いのか、上半身まで若干傾いている。
﹁儂の見立てでは特殊魔力に触れた魔力を制御下に置く効果がある
ようじゃ﹂
﹁つまり、どういう事ですか?﹂
いまいち効果が分からなかったのか、クローナがミュトに訊ねる。
ミュトがクローナの言葉を翻訳すると、尾光イタチはクローナに
向き直った。
﹁マッドトロルという魔物は知っておるかの?﹂
少し前に死闘を繰り広げたばかりだ。知らないはずはなかった。
クローナが肯定の意を込めて頷く。
﹁黒い魔女の特殊魔力は、マッドトロルを覆う泥に込められた動作
魔力を触れただけで根こそぎ奪い取れるのじゃ﹂
795
マッドトロルを覆う泥は動作魔力で保持されている。動作魔力を
奪われた場合、泥を維持できずに崩れ去り、本体の虫は無防備とな
る。
村の防衛戦に懐中電灯の持ち主がいれば、キロ達が苦労する事も
なかっただろう。
丸裸にされたマッドトロルを思い浮かべながら、キロは呟く。
﹁⋮⋮反則的な効果だな﹂
特殊魔力の多くは反則的な強さを誇り普遍魔力では再現できない。
だが、触れただけで魔法を無効化して魔力ごと奪い去るという懐
中電灯の持ち主の特殊魔力はえげつなさが群を抜いている。
﹁光虫から魔力を奪っていなかった事から察するに、体外に放出さ
れた魔力しか奪えないようじゃがな﹂
ふむ、とフカフカが鼻を鳴らす。
﹁魔法が一切効かぬという事か。キロよ、その肖像画の娘が死んで
おるとは思えぬぞ﹂
﹁いや、物理的な攻撃、たとえば剣で斬られたりすれば死ぬだろ﹂
﹁常人の数十倍の魔力を操れる娘が殺し合いで後れを取るとは考え
にくいが⋮⋮罠にかかって死ぬことはあるかもしれんな﹂
納得がいかない様子のフカフカを見下ろして、ミュトが口を挟む。
﹁一人でいたって事は、道に迷って餓死した可能性もあると思うよ﹂
﹁ありうる話であるな。キロと同じく言葉が話せぬのでは、地図を
手に入れる事は出来ぬだろうし、読み方を教わる事も出来ぬ﹂
796
ミュトの予想に信憑性を認めて、フカフカは口を閉ざした。
そんなことより、と尾光イタチが尻尾で地面をぺしぺしと叩く。
﹁貴様、黒い魔女の身内か? おかげで儂はひどい目にあったのじ
ゃ﹂
﹁いまの話を聞く限り、酷い目には合ってないようですけど?﹂
唐突に抗議を始めた尾光イタチに、クローナが今までの話を思い
出しながら問い返す。
尾光イタチはいつの間にか白色光となった尻尾の光で洞窟道を端
から端まで照らす。
﹁見てみるがよい。魔物はおろか、虫すらおらんじゃろう!﹂
﹁そういえば、魔物が多い地域と聞いたのに、全く見ませんね﹂
クローナが尾光イタチの光を追いかけて洞窟道を見渡し、首を傾
げた。
鍾乳窟の町でミュトが魔物の多い地域だと言っていたが、疫病に
かかっていない町を探すために移動している間も一度も魔物と遭遇
していないことにキロは気付く。
尾光イタチは我が意を得たり、と怒りで尻尾の毛を逆立てる。
﹁黒い魔女が光虫を引き連れていったせいで儂の獲物がいなくなっ
たのじゃ!﹂
フカフカが胡乱な者を見る目で尾光イタチを見た。
﹁おぬし、光虫なんぞを食しておるのか? ゲテモノ好きも度が過
ぎれば腹を壊すぞ﹂
797
尾光イタチは信じられない言葉を聞いたようにフカフカに視線を
移す。
﹁すべてが明るみに出るかのようなはっきりと主張する光虫の魔力
ほど美味い物はなかろう?﹂
﹁⋮⋮舌の調子でも狂っておるのではないか?﹂
﹁⋮⋮貴殿こそ、胃でも患っとるんじゃないか?﹂
互いを心配そうに見つめた二匹は、ふっと勝ち誇ったように鼻を
鳴らす。
そして、声をそろえて独り言を呟いた。
﹁哀れな奴め﹂
実は気が合うのではないかと疑いつつ、キロはミュトに翻訳を頼
んで尾光イタチに質問を投げかけた。
﹁その女の子がここを通ったのは一度きりか?﹂
懐中電灯を媒体にこの世界に来た時、キロとクローナは上層の下
端に出た。
死体は結局見つかっていないため、懐中電灯の持ち主の死体が食
われた可能性は未だに消えていない。
懐中電灯の持ち主が二度ここを通ったのであれば、最上層から引
き返して上層で死亡した可能性が出てくる。
しかし、キロの推理を否定するように、尾光イタチは首を振った。
﹁四か月前の一度きりじゃ。あれほどの魔力を纏った者が通れば嫌
でも気付く。見逃しはせぬ﹂
798
尾光イタチが断言する。
キロはため息をつき、上を向いた。
︱︱トットに行くしかないか。
799
第三十五話 トット
﹁やっと町に入れる⋮⋮﹂
十日もの間トットの近くで野宿していたキロ達は疲れた声で呟き
ながら、洞窟道を出た。
キロ達が発見し、報告した村で流行っていた疫病は潜伏期間が長
い物だったらしく、連絡が回っていたトットで町に入るのを拒まれ
たのだ。
見捨てるつもりはない、と食糧等の援助はされたが、洞窟道の寝
心地がいいはずもない。
﹁では、儂はこの辺りで失礼しようかの﹂
行き倒れていた尾光イタチがキロの肩から飛び降りる。
﹁世話になった。不味い魔力じゃったが、ごちそうさん﹂
﹁またね、サラサラ﹂
﹁その名で呼ぶな!﹂
ミュトが付けた愛称を拒みつつ、さらさらした毛を持つ尾光イタ
チは町の中へ去って行った。
キロは十日間肩にあった重みが無くなった事にささやかな違和感
を覚える。
寂しさと呼ぶには気怠いそれを、肩を回してほぐしつつ、キロは
少女二人に目を向けた。
﹁まずは宿に行くか?﹂
800
﹁⋮⋮そうですね﹂
﹁ずいぶん距離があるように思うのは気のせいか?﹂
キロは自身とクローナやミュトの位置を目測して、首を傾げる。
少女二人が揃って首を振った。
﹁気のせいですね!﹂
﹁気のせいだと思うよ!﹂
ミュトの肩に乗っているフカフカが尻尾を縦に一振りする。
﹁キロよ、十日であるぞ。湯浴みも出来ずに、十日だ﹂
﹁フカフカ、黙って﹂
﹁口は災いの元ですよ、フカフカさん﹂
フカフカがキロを見る。分かるだろう、と言いたげに歪められた
口元に、キロは頷きを返した。
︱︱臭いが気になるのはお互い様だと思うけどな。
年頃の女の子にいう事でもないな、とキロは町を見回す。
まず最初に目につくのは、町の外周を取り囲む石垣だろう。
隙間なく密に積まれた石はどれも一抱えはある大きなもので、防
壁というよりは障害物として機能させるために、上部に金属製の刃
が取り付けられていた。
崩落防止の塗材が塗られた天井に向けて、先を尖らせた家が立ち
並んでいる。掘削型魔物が天井に穴を開けてやってきた場合に備え
ているらしい。
今まで見てきた町とは違い、実に物々しい雰囲気だ。
それもそのはず、最上層には非戦闘員がほとんど存在しない。
戦闘技能を認められた地図師や傭兵はもちろんの事、彼らに物資
を供給し最上層の資源を上層以下へ輸送する行商人、町に住居を構
801
える町民でさえ元は傭兵や地図師だった者で構成されているのだ。
戦闘能力がなければたちまちの内に魔物の餌食となる、それほど
までに最上層の魔物は強力な種類が多いのである。
最上層の下端に位置するトットは腕に覚えのある者が下の階層か
ら集い賑わう場所でもある。
肥大化した自尊心と最上層という人間の領域の最前線に立った興
奮とで気が立っている者が多く、喧嘩が頻発する町だ。
そして、身の程をわきまえずに暴れた者は︱︱
キロは十字路に差し掛かった時、視界の端に移った布の切れ端に
反応して飛び退いた。
直後、大の男が二人揉みくちゃになりながら転がり出てくる。
男二人は地面に手を突き、受け身を取って立ち上がった。
動作魔力を用いた素早い体勢の立て直し方は、相応の腕を持って
いる事を窺わせた。
しかし、続いて路地から現れた細見の老人が走り込んだ勢いをそ
のままに跳びあがり、片方の男の胸に膝を打ち込み、蹴り飛ばす。
反応したもう一人の男は顎に掌底を叩きこまれ、道へ大の字に倒
れ込んだ。
﹁クソガキが、喧嘩は相手を選んでやりやがれ﹂
気絶した男達へ唾を吐きかけ、老人は肩を怒らせて来た道を戻っ
ていく。
老人はすれ違う際、キロの胸を軽く叩く。
﹁良い反応だった。長生きしろよ﹂
顔も見ずにキロを褒めた老人は道の先にあった酒場らしき場所へ
入っていった。
すぐに酒場から何事もなかったかのような笑い声が響き渡る。
802
﹁なんか、怖いところですね﹂
クローナが気絶している男二人を心配そうに眺めて、呟く。
道行く人は生ごみにするように男達を避け、目もくれない。
﹁捨て置け、あの二人から酒の臭いがする﹂
﹁酒の勢いで絡んだら追い出されたのか。凍死はしないだろうし、
しばらくああしてれば酔いも覚めるだろ。とにかく今は体を洗いた
い﹂
﹁フカフカもキロも、冷たいよ﹂
早くもトットの空気に馴染み始めた一人と一匹に、ミュトが唇を
尖らせる。
それでも、男達を介抱するつもりはないらしく、ミュトは心配そ
うに振り返りながらも歩き出した。
たとえ男達を起こしたとしても絡まれるのが目に見えている。
滝壺の街でのミュトの評価が早くも噂として広がっている、など
という楽観をミュト自身も抱いていないようだ。
宿はすぐに見つかった。
二十人を一度に泊める事が出来る大きな建物だ。
最上層ともなると訪れるような傭兵団の規模も大きく、まとまっ
た人数が一度に泊まるため、大きな施設になるらしい。
三人と一匹という小人数のキロ達を見て、宿の主は宿泊台帳をめ
くる。
﹁ロウヒ討伐の参加者なら安くするが、どうせ違うんだろう?﹂
﹁よくわかったね﹂
﹁弱そうだからな。ランバルが認めないだろうよ﹂
803
ランバルに誘われたうえで断った、などと今更言い出せず、ミュ
トが眉を下げてキロを見る。
﹁気にしなくていいから、早く部屋を借りよう。名声に興味がない
のは俺達も同じだからさ﹂
ミュトは苦笑してキロの言葉に頷き、宿を一部屋借りた。
残りの部屋はロウヒ討伐組が事前に貸し切っているらしい。
﹁金回りが良いようであるな﹂
﹁参加者は何人いるんでしょうね?﹂
言葉を交わしながら、廊下を歩く。
開きっぱなしの扉から覗く客室では強面の男が装備の点検をして
いた。
キロ達は借りた部屋に入る。
荷物を置いて、キロはフカフカと共に廊下へ出た。
クローナが扉を半開きにして、廊下の壁へ背中を預けるキロに声
をかける。
﹁終わったら呼びますけど、ミュトさんもいるので覗かないでくだ
さい﹂
﹁ミュトがいようといまいと覗かないから、早く体を洗って交代し
ろ﹂
絶対ですよ、と念を押して、クローナが扉を閉める。
キロはため息をついて、フカフカに横目を投げた。
﹁あんなこと言って、本当に覗かれたらしばらく口がきけなくなる
んだぜ?﹂
804
﹁惚気るな、やかましい。その口利けなくしてやろうか﹂
フカフカの尻尾で頬をはたかれ、キロは肩を竦める。
﹁フカフカは彼女が欲しいとか考えないのか?﹂
﹁そんなものは空を見てから、体験談を語ってメスをひっかければ
よいだけの事だ﹂
﹁何年かかるか分からないんだろ。マッドトロルの件もあって昇格
にかかる日数が年単位で縮まったくらいだしさ。空を見る頃には適
齢期を過ぎてないか、とか考えないのか?﹂
﹁我ら尾光イタチの寿命はおおよそ百年である。十年や二十年で慌
てるようなものでもないのだ﹂
﹁フカフカって百年も生きるのか﹂
キロが驚くと、フカフカは胸を張る。
﹁貴様ら人間のように粗末な食事をしておらんからな﹂
﹁その割には個体で味の好みに差があるよな﹂
﹁我の味覚が特別すぐれておるだけの事である﹂
﹁どっからくるんだよ、その自信﹂
雑談を続けていると、部屋の扉が開く。
体を洗い終えたクローナとミュトと入れ替わり、キロとフカフカ
は部屋に入った。
体を洗い終えてさっぱりしたキロ達は久々に晴れ晴れとした気分
だった。
この日のためだけに残していた、汚れていない服を着込んだキロ
達は町に繰り出す。
805
懐中電灯の持ち主について、証言を集めるためだ。
懐中電灯の持ち主が日本円札を売っていたという証言はすでに手
に入れているため、キロ達はまず骨董品や美術品を扱っている店を
探すが、見つからない。
通行人に訊ねてみるが、
﹁美術品を扱う店? そんなものあるわけないだろ。ここは最上層
だぞ。売りたい美術品があるなら行商人に掛け合え﹂
と、追い払われてしまう。
強力な魔物がいつ襲ってくるか分からない最上層で価値のある美
術品を保管しようと思う者はいない。
自然、最上層には美術品を扱う店は存在しなかった。
行商人が集まる場所を教えてもらい、足を運ぶ。
トットの北西にある広場に行商人達が魔物の皮を敷物にして店を
広げていた。
常設の市らしく、旅に必要な保存食や光虫の餌が店先に並んでい
る。
最上層の玄関口にあたる街だけあり、地図師や傭兵がひっきりな
しに広場に出入りして賑わっていた。
﹁美術品は置いてませんね﹂
﹁ランプシェードも売ってないんだね。職人がいないのかな﹂
陳列されている商品を見ながら、目利きができそうな行商人を探
す。
市の端まで辿り着いてしまい、こうなったら片端から声をかける
総当たり作戦に切り替えようとした時、新しく市に入ってきた行商
人がキロの頭をまじまじと見つめている事に気が付いた。
キロと目があった行商人が軽く会釈して歩いてくる。
806
﹁紙に描いた絵をお持ちではないですかね?﹂
開口一番、行商人はキロに問いかけ、行李箱を降ろした。
︱︱木製の箱なんて久しぶりに見たな。
行商人が地面に降ろした行李箱は、地下世界にしては珍しく木製
だった。
ミュトがごくりと喉を鳴らす。
行商人はキロとクローナが特に感動していないのを見て取るとに
やりと笑った。
﹁やはり、見慣れておいでですか。さぞ、ご高名な絵師のご親族と
お見受けします﹂
勘違いを自信たっぷりに口にして、行商人は人を見る目を誇る。
キロは曖昧に笑っておいた。
行商人が行李箱から大事そうに鍾乳石の小箱を取り出し、ふたを
開いて見せる。
﹁これと同じものをお持ちではありませんか?﹂
鍾乳石の小箱には、千円札が入っていた。
キロは財布を取り出し、猫であるの人が描かれた千円札を出して
目の前に掲げてみせる。
奇しくも、行商人が持っている千円札と同じものだ。
﹁おぉ、やはり﹂
行商人が目を輝かせる。
キロはミュトの肩に乗っているフカフカを手招いた。
807
心得ている、とフカフカはキロの肩へ跳び移る。
﹁通訳してやろう﹂
﹁頼んだ。話を聞くとして、報酬は二千円札一枚出すか﹂
千円札はすでに出回っている可能性があると考えて、キロはあえ
て二千円札を出す。
行商人の瞳に宿る光が強くなった。
キロの読み通り、二千円札はまだ市場に流れていないか、流通量
が少ないと見るべきだろう。
﹁その絵を売った者について話を聞きたい。この男の妹かもしれん
のでな﹂
二千円札を気にしている行商人へ、フカフカが切り出した。
808
第三十六話 次の目的地
﹁やっぱり、上を目指してたか﹂
行商人に二千円札を売り渡した後、キロ達は宿に戻って話を整理
した。
千円札を持ち込んだのは黒髪の少女であり、懐中電灯の持ち主で
ほぼ確定した。
行き倒れていた尾光イタチ、サラサラの証言通り、無数の光虫が
周囲を舞っていて怪しさ満点だったそうだ。
身振り手振りで千円札を売り渡した彼女はかなりの資産を持って
いた。
彼女の資産に目を付けた傭兵が雇われようと声をかけるも無視さ
れた話もある。
トットに到着した時点でも言葉は理解できず、無視するしかなか
ったのだろう。
無数の光虫を連れている黒髪の娘は目立つため、その後の足取り
もたどり易かった。
トットで日持ちする食料品と服を買いあさった彼女は宿にも泊ま
らずに出発している。
洞窟道で見かけた者の話では、登り道に差し掛かると行き止まり
が見えていても必ず登って何事かを確認していたという。
魔物に襲われて明かりを落とした者が彼女と出くわし、光虫を分
けてもらったという話もあった。
彼女の目撃情報は次第に最上層の上部に集中し始め、最後は未踏
破層との境をうろうろしているのを目撃されている。
最上層をたった一人でうろつく彼女は傭兵や地図師の間で噂にな
っているらしい。
809
おかげで後を追いかけるのに苦労しないで済んでいるが、一つ気
がかりなことがある。
﹁未踏破層に入っていないといいんだけど⋮⋮﹂
キロの懸念を読み取ったわけでもないだろうが、ミュトが呟く。
ミュトは最上層級の地図師であり、未踏破層には登る事が出来な
い。
未踏破層へ登るためにはラビルと同じ特層級になる必要がある。
﹁ミュトさんはラビルさんから一本取ったんですから、戦闘能力で
は合格ですよね?﹂
クローナが言う通り、ミュトは滝壺の街での昇格試験でラビルか
ら一本取っている。
だが、キロは首を振った。
﹁あれは。最上層級の昇格試験だから、ラビルさんが手加減してた
んだよ。その証拠に、ランバル護衛団の五人を受け止めるために展
開した即席の網をミュトに使っていれば、奇襲が失敗した時点で負
けが決まってた﹂
﹁確かに、そうですね﹂
キロの指摘に、クローナは引き下がる。
﹁ミュト、特層級になるには何が必要なんだ?﹂
﹁その事なんだけど、あまり気にしなくてもいいんじゃないかなっ
て、思うんだ﹂
キロの質問に、ミュトは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
810
﹁最上層と未踏破層って明確な区別がないんだよ。だから、間違っ
て足を踏み入れちゃう事もあるよねって事で﹂
内緒だよ、とミュトは唇に人差し指を当てる。
キロは苦笑した。
﹁そんなズルして良いのか?﹂
﹁ズルじゃないよ。もともと、特層級は未踏破層を専門に調査する
権利があるだけで、最上層級でも調査自体は可能なんだ。ただ、最
上層級になるような人は名誉欲の塊で未踏破層ばかり探索しがちだ
から、地図更新を促すために未踏破層に入りびたりになれないだけ
だよ﹂
ミュトは言い訳のように言葉を連ねるが、表情からは本音が見え
隠れしている。
最上層まで来た以上、一刻も早く空を見つけ出したいのだ。
違反にならないのであれば別にいいか、とキロは目を瞑る。
﹁そういう事なら、今は上を目指そうか。懐中電灯の持ち主も気に
なる事だし、空があるとしても上を目指さないといけないからな﹂
﹁問題は旅費であるな﹂
フカフカが口を挟み、隣の部屋とを仕切る壁を見る。
キロの記憶が正しければ、ロウヒ討伐組が予約した部屋があるは
ずだ。
﹁ロウヒ討伐組と道が被ると宿を取り難くなるうえ、食料品も品薄
となり高くつくであろう﹂
﹁遠回りしてロウヒ討伐組を避けながら上を目指すって事ですね﹂
811
クローナがフカフカの後を引き継いで結論を口にすると、ミュト
は眉を八の字にしてキロを横目で窺った。
困った顔のミュトに、遠回りする事に異論をはさむ気がないキロ
は首を傾げる。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁遠回りすると、町までは二、三日野宿するのが当たり前になると
思うんだ⋮⋮﹂
野宿と聞いて、キロは思わず苦い顔をする。
十日間野宿したばかりだ。不便は身に染みている。
しかし、金がないのも事実であり、手っ取り早く稼ぐ手段もあま
りない。
そもそも、金があってもロウヒ討伐組が各地で宿を予約している
事が予想される。宿をとれなければ、結局は野宿するしかない。
潔く諦めて、野宿に備える方が賢明だろう。
﹁干し肉と漬物と乾パン、後は飲み水を買わないとな﹂
キロがため息交じりに呟くと、野宿を受け入れたと悟ったのだろ
う、ミュトはほっと溜息をついた。
その時、クローナが難しい顔で挙手した。
﹁野宿する事が分かっているなら、食料品の他にお鍋とまな板と包
丁が欲しいです﹂
何を言い出すかと思えば、調理器具を欲しがるクローナに、キロ
は両腕を交差させてバツ印を作る。
812
﹁かさ張るから却下﹂
﹁いいえ、譲りません。譲りませんとも! 野宿の最中なら私がど
んなものを作ってもキロさんは食べてくれるはずですから!﹂
﹁何を食わせるつもりだ!﹂
手料理をふるまう人間の口から飛び出したとは思えない言葉にキ
ロはすぐさま突っ込みを入れる。
﹁もちろん、料理と呼ばれるものです。広い意味で﹂
﹁料理の定義に広いも狭いもあるか!﹂
﹁野草を使わない料理は自信がないんですよ。大丈夫です、食べら
れるはずなので﹂
﹁野草⋮⋮羊飼い時代の話か﹂
﹁いえ、子供の時、村にいた頃の話です﹂
クローナは昔村を救った冒険者に渡されたというモザイクガラス
の髪飾りを撫でながら、キロの予想を訂正する。
﹁ね、ねぇ、二人とも⋮⋮﹂
ぽんぽんと言葉を交わしていたキロとクローナだったが、話につ
いてこれていないミュトに声を掛けられ、顔を向ける。
ミュトは首を傾げて、不思議そうに二人に問う。
﹁野草って何?﹂
﹁⋮⋮あぁ、ここにもカルチャーギャップが潜んでた﹂
キロは額を抑えて天井を仰ぐ。
フカフカがミュトに振り向いた。
813
﹁人に育てられていない、野生の植物の事だ。我ら尾光イタチが住
処にしておるような小洞窟になら生えておるが、一般的には見かけ
ぬだろうな﹂
﹁へぇ⋮⋮。キロ達は物知りなんだね﹂
洞窟世界基準で尊敬の目を向けられて、キロはクローナともども
複雑な顔をした。
それはそれとして、とミュトは話を戻す。
﹁調理道具を持っていくのはボクも賛成かな。食事が味気ないと野
宿はつらいから﹂
﹁それもそうなんだが⋮⋮﹂
まともな料理を食べる事ができるならの話だろう、と喉まで出か
かった言葉を飲み込んで、キロはクローナを見る。
その時、キロは解決する方法を思いついた。
﹁︱︱俺も手伝えばいい話か﹂
﹁キロさん、料理なんてできたんですか?﹂
﹁一人暮らししてたからな。一通りはできる﹂
クローナが警戒するように身構える。
﹁キロさんは器用なので、油断なりません。一通りなんて言って料
亭並みの料理をずらりと並べるくらいやってのけそうです﹂
﹁それなら嬉しいな﹂
ミュトがニコニコと期待を込めた視線を向けてくるが、キロは首
を振った。
814
﹁金をかけない料理しか作った事がないから、あんまり期待するな﹂
調理器具を買う事を決め、キロ達は細々とした買い物計画を立て
る。
最後に、次の目的地を決める段階となり、ミュトが見に行きたい
場所があると言い出した。
﹁最上層は景観が優れた町がいくつかあるんだけど、最上層の中部
に氷穴があるんだ﹂
﹁氷穴ってなんですか?﹂
﹁水が流れ出て、凍り付いた氷がそこかしこにある洞窟である。氷
を砕き、糖蜜をかけて食す事ができると聞く。かなり高価なようだ
がな﹂
︱︱かき氷か。
キロは想像がついたが、クローナは首を傾げている。
ミュトはずいぶん楽しみにしているようだ。
﹁他に目的地もないし、いいんじゃないか。かき氷を食べに行くの
も﹂
﹁⋮⋮なんで、かき氷って料理名を知ってるの?﹂
ミュトが怪しむようにキロを見た。
﹁俺がいた世界でもあったから。毎年夏になると近所の祭りでも食
べられた﹂
ミュトがクローナの耳に口を寄せ、内緒話をする。
﹁キロ、料理に詳しいかもしれないよ?﹂
815
﹁そうみたいですね。気合を入れて作らないと、乙女としての尊厳
にかかわる問題に発展しそうです﹂
何やら覚悟を決めたように頷きあったクローナとミュトは、部屋
の端に歩いて行って協議を始める。
キロは困惑しつつ、フカフカに視線をやる。
﹁別に男が料理してもいいだろ?﹂
﹁お前が器用貧乏で料理だけが人より秀でているというのなら、そ
れも可愛げがあるだろうな﹂
フカフカは成り行きを楽しむように尻尾を振り、窓際に飛び移っ
て三人を眺め出すのだった。
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第三十七話 町への襲撃者
﹁さぁ、お昼の時間だよ!﹂
﹁今日こそは目にモノ見せて︱︱いえ、舌に良いもの食して貰いま
すからね!﹂
張り切りだしたミュトとクローナに、キロは苦笑する。
場所は最上層の洞窟道、氷穴近くの町まであと半日という地点だ。
地下世界は上に行くほど洞窟道が広くなる傾向がある。
最上層も例に漏れず、今まで歩いてきた上層の洞窟道の倍近い幅
と高さがあった。
魔物にはいまだ出くわしていないが、氷穴が近いため気温がかな
り低くなっている。
迂闊に寝ると凍死しかねないが、重ね着して洞窟道を歩き回れば
気にならない。
︱︱鍋とか良いと思うけど⋮⋮。
暖かい物が食べたい、とキロは考える。
ミュトとクローナがひそひそと相談し合っているのが見えた。
トットを出てから丸一日が立つ。
食事はその都度、各人が一品ずつ作っていた。
昼、夜、そして今朝の三回の食事で、各人の腕の差は歴然として
いた。
クローナの作った食事は料理としての形は保っていたが、味も見
た目も平凡としか言えず、取り立てて優れた所はない。
ミュトはと言えば、見た目は素朴ながらも味は食材ごとの調和が
取れ、飽きが来ない料理を作る。
トントンと軽快に食材を切る音が鳴る。
ミュトが包丁を片手に塩漬け野菜を細かく刻む音だ。
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その隣で、クローナが鍋に水を張り、魔法で起こした火を使って
湯を沸かしている。
町や村では専用の設備を持つ料理屋でしか火を使う事が許されな
いが、洞窟道では例外となるため、クローナも遠慮なく火を使って
いた。
少女二人が互いに目くばせして頷きあう。己の役割を全うし、二
人の力を合わせて強敵に臨む強い意志が込められた眼差しは一種の
感動を呼び起こす。
二人は共通の敵、キロを振り返る。
何かをこねていた。
クローナは眉を寄せる。キロがこねている食材に見覚えがなかっ
たから。
ミュトは目を見開く。キロがこねている食材の正体に気付いたか
ら。
﹁茹でて裏漉しした芋⋮⋮﹂
ミュトが正体を呟くと、クローナはハッとしてキロの手元を凝視
する。
キロにこねられ、裏漉しされて滑らかになった芋は徐々に形を整
えられていく。
最後に、乾燥させて日持ちをよくした赤く小さな果実を二つ浅く
埋め込んで、キロはこねた芋を皿に置いた。
赤い目の、芋で作られたウサギである。
中に刻んだ燻製肉と酸味のある赤いドライフルーツが入っており、
芋の仄かな甘さと相まって味は折り紙つきだ。
丹念に裏漉しされた芋は口に入れると同時に溶けるように崩れ、
甘さを広げながら肉の味と燻製の香りを引き立たせ、ドライフルー
ツの酸味がさっぱりと全てを流し去る。
食べた後に残るのは美味しかったという感想ともっと食べたいと
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いう欲求、そして、もうないのだという喪失感。
キロは手についた芋を洗い流し、一つ味見して呟く。
﹁まぁまぁかな﹂
﹁︱︱まぁまぁ、なわけあるか!﹂
珍しくミュトが声を荒げる。
﹁器用なのも大概にしなよ。いつもいつも手間暇かけて食感も見た
目も味もこだわって、今朝の飾り切りだって初めて聞いたよ! な
んだよ、松葉って!﹂
﹁程よい柔らかさの干し肉だったから、つい﹂
﹁程よい柔らかさにキロがしたんじゃないか! 出汁と酒を振りか
けて、揉みこんで!﹂
ミュトの突っ込みにクローナが何度も頷いている。
キロは救いを求めてフカフカを見るが、魔力を常食にする尾光イ
タチに料理の概念はないらしくそっぽを向かれた。
クローナがため息を吐く。
﹁私も飾り切り自体は知ってますけど、干し肉はそういう使い方し
ませんよ﹂
﹁だって、干し肉そのままは見た目が悪いだろ﹂
キロは言い返すが、クローナとミュトが揃ってため息を吐くだけ
だった。
納得いかない、と不満に思いつつ、キロは食卓を作るため地面に
布を敷く。
クローナ達も作り終えた料理を皿に盛りつけて持ってきた。
三人が作った料理が並ぶ。
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﹁ほら、キロさんの作った料理だけ明らかに浮いてるじゃないです
か﹂
﹁まて、俺が食卓に彩りを添えているんだ﹂
﹁共同作業なんですから全体の見た目も考えるべきです﹂
﹁ボクはキロに合わせたいから色々教わりたいかな﹂
煮物をつつきながら、ミュトがキロの作ったウサギを眺める。
﹁教えるくらい別にかまわないけど、今日中に着くんだろ?﹂
﹁どうだろう。ここに来るまでもそうだったけど、新しい洞窟道が
たくさんあって調査もしないといけないから﹂
トットを出てから一日経つが、キロ達はすでに新しい洞窟道を九
本見つけていた。
予定していた道が落盤事故で封鎖されている場合もあり、何度も
迂回を余儀なくされている。
﹁今日中に着いたとしたら、町を出た後に教えてよ﹂
そういう事なら、とキロは料理を教える事を了承し、視線を下に
向ける。
我関せず、とばかりフカフカがミュトの魔力を食べていた。
﹁そういえば、ミュトの魔力はどんな味がするんだ?﹂
﹁日替わりなのだ。今日の魔力は青臭く甘酸っぱい。青春の味であ
る﹂
﹁相変わらず、よくわからない味の評価だな﹂
キロは苦笑するが、フカフカは何故わからないのかと不満そうに
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鼻を鳴らした。
その時、フカフカが耳をピクリと動かし、顔を上げる。
﹁人が歩いて来るぞ﹂
フカフカが顔を向けた方向にはキロ達がこれから向かう町がある。
﹁地図師かな?﹂
ミュトが首を傾げながら、野盗だった場合に備えて立ち上がる。
キロが槍を、クローナが杖を、それぞれ構え、洞窟道の先に目を
凝らす。
︱︱明かりを持ってないのか?
いつまでも明かりが見えてこない事にキロは警戒を強めていく。
ミュトの肩に上ったフカフカが道の先を照らし出した。
照らし出されたのは二人の女だ。片方は細身の剣、もう片方はメ
イスを持っている。
どちらも防具らしい物は着けておらず、服装も旅に出るようなも
のではない。メイスを持った女は明らかに寝間着姿だ。
フカフカの光に眩しそうに目を細めた二人の女は、キロ達を見て
ほっと息を吐く。
﹁地図師か。助かった﹂
洞窟道で出くわすにはおかしな身なりの女二人に怪訝な顔をする
キロ達へ、メイスの女が声をかけた。
﹁少しでいい、食べ物を恵んでくれないか? それと、トットに救
援を出してもらいたいんだ。地図の複製を頼めないだろうか?﹂
﹁待って、先に事情を聞かせて﹂
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ミュトが遮ると、細身の剣を持った女が来た道を振り返った。
﹁町が魔物に襲われたんだ。上層にいたはずのムカデの守魔にね﹂
﹁⋮⋮右前脚が無くなってたりした?﹂
﹁左足が三本無くなってたけど、右足はあった。心当たりがあるの
か?﹂
キロ達は顔を見合わせる。
左足を三本切り落とされたムカデの魔物、心当たりがあるどころ
ではない。
︱︱なんでこんなところに?
キロの袖をミュトが引っ張った。
﹁ランバルが言ってた。守魔の姿が見えなかったって、もしかして
⋮⋮﹂
﹁縄張りを移したのか? でも洞窟道は狭すぎて通れないはず︱︱﹂
﹁通れる道が新たに出来たのかもしれませんよ?﹂
キロとミュトの話にクローナが割って入る。
キロはフカフカに通訳を頼み、メイスの女に問いかける。
﹁この辺りで新しい洞窟道ができてないか?﹂
﹁出来てる。二週間前に地図師が更新したばかりだってのに、新し
い洞窟道が私達が見つけただけで七本だ。おかげで救援を呼びに行
く道が分からなくなって困ってる﹂
メイスを持った女がキロ達に背を向けた。
﹁その様子だと、あんた達は町に向かう途中だったんだろ? 避難
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所に案内するから付いてきてくれ。地図の複製はそこで頼む。守魔
についても何か知ってるみたいだし、話してもらうよ﹂
有無を言わせぬ口調で言って、メイスの女は洞窟道の奥へ歩き出
す。
細身の剣を持った女が肩を竦めて、キロ達に軽く頭を下げた。
﹁怪我人が大勢出てね。誰も死ななかったのが奇跡的なくらいなん
だけど、イライラしてるみたい。悪く思わないでね﹂
﹁守魔は今、町に?﹂
ミュトが問うと、細身の剣を持った女は頷く。
﹁四日前の朝かな。洞窟道からいきなり入ってきて、逃げるので精
いっぱいだったんだ。襲撃だ、という声で武器だけ持ち出して来れ
た私みたいなのもいるけど、ほとんどは守魔が暴れた時の瓦礫やら
で怪我して、武器を持ち出して抵抗した奴はほとんどが重傷だよ﹂
あれには参った、とため息を吐いて、細身の剣の女は町の方角を
睨む。
﹁私達は元傭兵だったり地図師だったり、そんな連中ばかりだけど
さ。上層の魔物って言っても守魔が相手だと分が悪すぎる。地図さ
え持ち出せずに町を逃げ出したら⋮⋮あれがお出迎えだ﹂
洞窟道の先を指さした細身の女につられて、キロは視線を向ける。
体長五メートルはありそうなモグラの魔物の死骸が転がっていた。
胴体の半ばに大穴が開き、食われた跡がある。
モグラの死骸の奥には体長八メートルのトカゲらしき魔物の姿。
ワニと言われた方がしっくりくるトカゲの魔物は尻尾をかみ切られ
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ている。
﹁守魔の仕業だ。町の周辺で食い荒らしたようで、そこらじゅうに
転がってる﹂
舌打ちしたメイスの女が忌々しげに町の方角を睨む。
﹁早く討伐しないと土壌も水質もあいつの食べかすで汚染される。
でも、強すぎて手に負えない﹂
氷穴の近くだけあって気温が低く腐り方も緩やかではあるが、猶
予は残り少ない。
時間に背中を押されるように、女達は速足で洞窟道を進む。
つくづく面倒事に巻き込まれるな、と思いながら、キロ達は後を
ついて行った。
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第三十八話 トットへの避難
息が白くなり、周囲に氷が目につき始める。
洞窟道の奥に避難所はあった。
避難所とは言いつつ、ただ町を追い出された者が集まっているだ
けの場所だ。
生活道具を持ち出す余裕すらなかったため、むき出しの地面に座
り込み、魔物がやってこないか、数人の見張りを置いて警戒してい
る。
メイスの女が片手を振って帰ってきた事をアピールすると、町人
の中から一人の壮年の男が立ち上がって手を振った。
キロ達を見て、目を細めた壮年の男は紹介を促すようにメイスの
女を見る。
﹁地図師だよ。地図更新の途中で町に立ち寄るつもりだったらしい﹂
﹁本当か! 最新の地図を持ってるって事だよな⁉﹂
壮年の男がミュトに詰め寄ろうとしたため、キロは間に割って入
る。
キロに怯んだ壮年の男は両手を肩の高さに挙げる。
﹁すまん。驚かせるつもりはなかったんだ﹂
壮年の男の後ろにいる人々に目を細めて、キロは謝罪を受け入れ
静かに頷く。
四日間、低温の洞窟道に生活道具さえ持たずに避難を余儀なくさ
れた町人達は憔悴しきっていた。
怪我人も多く、魔物との戦闘に備えて魔力を温存しているため火
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も起こしておらず、凍えている。
クローナがカバンから包帯を取り出す。
﹁重症者の手当てを優先で始めますね。キロさん、お湯を沸かして
ください﹂
﹁ボクは地図の複製だね。フカフカ、周囲への警戒をお願い﹂
てきぱきと動き始めた三人と一匹に壮年の男が感謝の言葉を述べ
る。
キロは魔法で起こした火に水を張った鍋をかけながら、横目で町
人の人数を数える。
重傷を負っているらしく横たわっている者が七人、服を破って作
った包帯を巻かれている。
武器を持ってはいるものの、怪我を負っていて満足に戦えないだ
ろう者が十人ほど。
軽傷、または無傷の者が三十人を超えるだろうか。
︱︱一つの町にしては少ないな。
キロの隣に中年の男性が立つ。
﹁鍋代わりにこれも使ってくれ。水が足りなければ、そこらの氷柱
でも折ってくるから言ってくれ﹂
キロは軽く頭を下げ、中年男性が鍋代わりに、と差し出してきた
ヘルメットを受け取る。地下世界には珍しく金属製だ。
改めて町人達の装備を見てみると、金属製の武器が非常に多い。
キロの視線に気付いた中年男性が苦笑した。
﹁最上層に来たばかりか?﹂
キロが頷くと、中年男性は苦笑を深めた。
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﹁最上層に住んでるのは元地図師や傭兵だ。それも現役時代はそれ
なりに鳴らした奴らでな。武器も防具も、現役時代の良い物をその
まま使ってる。経験や腕があるから緊急時の対応も早いが、血の気
が多くてな。この様だ﹂
苦笑を自嘲気味な笑いに変えて、怪我人を指さす。
ろくに装備も整えないまま、緊急性の高さから守魔に戦いを挑み、
惨敗を喫したのだろう。
町を直接襲われたのだから、全員が生きて脱出しただけでも奇跡
と言える。
﹁無事な連中は早々に頭を切り替えて周辺の洞窟道を調査しつつ町
への道を探っていたんだが、あんたらのおかげで予想より早くトッ
トに避難できそうだ。本当、感謝してるよ﹂
言ってるそばから、武器だけを持った人影が避難所に歩いてくる
のが見えた。
中年男性が立ち上がって出迎えに行く。
キロ達が出会ったメイスや細身の剣を持った女達のように、周辺
を探索していた者が続々と帰ってくる。
お湯が沸いた事をクローナに伝えると、重症者が包帯代わりにし
ていた服の切れ端を渡された。
﹁煮てください。包帯が足りないので再利用します﹂
クローナとしても再利用はしたくないのだと表情から読み取れた
が、他にないのなら仕方がない。
︱︱かなり血が付いてるな。
火のそばで氷柱を溶かして作っておいた水で包帯を洗えば、見る
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見るうちに濁りだす。
手の空いた者がキロの元にやってきて、同じように包帯の洗濯を
始めた。
極力お湯を汚さないように水洗いしてから煮ても、すぐに濁って
しまう。
申し訳なさそうにする人々に笑いかけながら、キロは逐次お湯を
沸かしていく。
﹁この手の事をさせて文句を言わない傭兵男は珍しいね﹂
細長い鉄の板にいくつもの棘が付いた武器を持った若い女がキロ
の隣に腰かけた。
中年男性が置いて行ったヘルメットに入っていたお湯を入れ替え
て、武器をひょいと天井に向かって放り投げる。
動作魔力を纏っていたらしい武器はくるくると回転しながら天井
の氷柱を叩き折り、氷柱とともに落下してくる。
武器を片手で、氷柱はヘルメットで、それぞれ受け止めた若い女
はヘルメットを地面に置き、魔法の火で熱し始める。
﹁てめぇだって怪我するだろうに、怪我人の面倒を見たがらない傭
兵男が多くてね。あんたみたいな奴は貴重だよ﹂
鍋代わりのヘルメットの様子を見ながら、若い女はキロの背中を
乱暴に叩く。
﹁ところでさ、所帯を持つ気はないかい?﹂
﹁︱︱キロさん、キロさん、こっちにお湯を持ってきてください。
お湯が一か所に固まっていても作業動線が、えーと⋮⋮とにかくこ
っちに来てください﹂
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クローナが適当に理由をでっち上げようとして失敗しつつ、キロ
を呼ぶ。
キロは苦笑するものの、鍋を持って立ち上がった。
若い女が肩を竦める。
﹁彼女持ちか。残念だね﹂
どこまで本気なのか、キロには分からない。
だが、若い女はその場を動くことなく、お湯を使って包帯を煮始
めた。
クローナがほっと胸を撫で下ろす。
﹁お湯を持ってきたぞ﹂
﹁そこに置いてある包帯をお願いします。私は一通り終わったので、
飲み水を作ってきますね﹂
クローナは地面に皿を置き、愛用の杖の先端、湾曲した部分に魔
法で火球を生み出すと、天井から延びる氷柱をゆっくり溶かし始め
る。
受け皿に溶けた氷柱から滴る水がぽたぽたと溜まり始めた。
回りくどいと思ったが、地面に置かれた皿を見てキロは納得する。
皿が石製であるため、直接熱すると飲む前に冷やす必要が出来て
しまうのだ。
作った水を怪我人へ飲ませ、クローナは次を準備する。
キロが包帯の煮沸を終えた頃、ミュトが地図の複製を終えてやっ
てきた。
﹁ボクも一緒に⋮⋮することはないみたいだね﹂
すでに手伝う事はないと分かって、ミュトはしょんぼりする。
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ミュトが複製した地図は、元地図師の町民が集まってさらに模写
され、町民達へ配られるという。
全員そろった段階で移動すればいいだろうにと思うが、新しい洞
窟道が短い期間で増えすぎている事が気になるそうで、不測の事態
で町民の誰かがはぐれても一人でトットに着けるよう準備を整える
らしい。
﹁おかげで、ボクの持っていた紙がだいぶ減っちゃって⋮⋮。トッ
トで買い足さないとだね﹂
カバンの中を見たミュトが困ったように眉を下げる。
仕事道具の備蓄が残りわずかという状況が落ち着かないようだ。
壮年の男が全体に声をかけて注意を引いた。
﹁地図の複製が終わった。各自が受け取ったら、トットに向かう﹂
壮年の男の言葉に町人達は立ち上がり、地図を受け取る。
様子を眺めていたミュトの肩に、フカフカが飛び乗った。
﹁近隣に魔物はおらぬ。だが、複数の掘削型魔物が穴を開けて回っ
ておるようだ﹂
フカフカの報告を聞いて、ミュトが眉を寄せる。
壮年の男にミュトが声をかけ、フカフカの索敵結果を報告する。
﹁この地図もすぐに使用できなくなるかもしれないのか⋮⋮﹂
掘削型魔物が周囲の地形を今まさに変えている以上、新しい洞窟
道ができ、古い洞窟道は落盤等で使えなくなる。
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﹁急ぐとしよう﹂
壮年の男が手振りで簡単に指示を出すと、元傭兵だという男女が
五人、先頭を切って歩き出した。
キロが周囲を見渡せば、いつの間に集まったのか二百人近い町人
がいた。
幅十メートル以上の洞窟道を先頭の五人が広がって歩く。
それぞれの死角を潰しながら、前方や上方をくまなく警戒してい
る。
しばらくは地図通りに進んでいた。
しかし、半日ほど歩いた時、新しい洞窟道を発見する。
調査よりも重症者をトットに運び込むのが先決と結論し、位置を
記録するだけに留めて先を目指した。
元地図師だという町人の男女が複製したミュトの地図を見つつ、
時折り何かを書き込んでいた。裏へ熱心に何かを書いている姿も見
える。
不備があったのだろうか、と心配そうなミュトに気付いた彼らは
慌てて、何でもない、と首を振った。
ミュトと一緒に首を傾げた時、先頭の五人が足を止めた。
﹁これ、どうする?﹂
もう笑うしかない、という顔で五人が振り返って指さす先には地
盤沈下を起こした洞窟道があった。
地図上ではこの道をまっすぐ進む予定だったが、地盤沈下で開い
た大穴は広く、重症者を背負って飛び越えるのは難しそうだ。
クローナとミュトがキロを見て、壁を指さした。
重症者を背負っても、キロなら壁を走って向こう側へ渡れるだろ
う、そう言いたいのだ。
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﹁出来ない事はないと思うけど、魔力が持つか分からないな﹂
﹁そういえば、魔力量の問題もあったね﹂
﹁キロさんなら何でもできるものだとばかり⋮⋮。そうですよね、
キロさんも人間なんですよね﹂
﹁当然だ。人間が獣になるのはベッドの上と相場が決まっておる﹂
散々の評価にため息を吐いたキロは、とりあえずフカフカをとが
める。
﹁場所をわきまえて発言しろ﹂
朱が差した頬を隠すように俯くクローナに、何か言う気力も失せ
たキロは先頭の五人を見る。
深さを調べるため、五人の中から女が一人、大穴に歩み寄り適当
に折った氷柱を投げ込んだ。
数瞬の後、氷柱を投げ込んだ女は動作魔力を使って緊急離脱する。
間を置かず、穴の中から鱗を持った巨大な何かが跳び上がり、天
井にぶつかる鈍い音を響かせた後、穴の底へと戻って行った。
氷柱を投げ込んだ女は舌打ちして向き直る。
﹁魔物が待ち伏せしてる。下には他にも何かいるみたいだ﹂
﹁遅かったか﹂
壮年の男が地図を見下ろし、ため息を吐く。
﹁迂回路を行くぞ。じきに日付も変わる。一度道を戻って休憩しよ
う﹂
壮年の男の指示に異を唱える者はいなかった。
道を戻り、逃げ道を確保できる分かれ道に陣取り、交代で休息を
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取る。
切羽詰まった状況であるにもかかわらず、荒れる者はいない。そ
れどころか無駄口も叩かず、すぐに横になる者がほとんどだ。
キロ達も壁際に座って休息を取る。町人ではない三人だったが、
疎外感を覚える事はなかった。
見張りには立たなくてよいといわれたが、装備も整っていない町
人に無理をさせるわけにもいかない、とミュトが申し出たため、出
発前の最後の見張りを割り当ててもらう。
そうと決まれば少しでも睡眠時間を確保して備えておこうと思い、
キロは横になる。
地面に背中を付けた直後、キロは跳ね起きて槍を手に取った。
同時にフカフカが声を張り上げる。
﹁魔物である。北方の洞窟道および、地面からだ!﹂
地面、と聞いた町人の動きは早かった。
近くにいた重症者や怪我人の手を掴んだ瞬間、動作魔力で上方に
跳び上がる。
垂直跳びした彼らは洞窟道の壁を起点に魔法で石の足場を生み出
し、下を見る。
半歩遅れて跳び上がった者達に手を差し伸べ、自らが作った足場
に誘導する。
壁を正面から見れば、魔法で作った石の小棚が並んでいるように
見えた事だろう。
キロはクローナとミュトの腰を抱えて跳び上がり、ミュトが作っ
た特殊魔力の壁を足場に立ち、下を見た。
体長三メートルのトカゲのような魔物が北の洞窟道から走り出て
くる。
氷穴の低い気温に体温を奪われているのか、その動きは鈍い。
キロ達がいた地点で足を止めたトカゲの魔物は探るように顔を巡
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らせる。
直後、トカゲの下の地面がかすかに盛り上がった。
トカゲも足元の違和感に気付いて離脱を試みるが、遅い。
吹き飛ぶように、地面だった土砂が舞い上がったかと思うと体長
七メートルほどのモグラのような魔物がトカゲの胴体に噛みついて
いた。
暴れるトカゲの周囲に水球が浮かび、モグラへと叩き付けられる。
水球を受けた反動でトカゲを離したモグラは、体中に石の棘を生
み出し、トカゲに体当たりした。
トカゲの体から血が噴き出し、一撃で絶命する。
トカゲを仕留めたモグラが石の棘を解除した瞬間、音もなく上か
ら降ってきた町人達が首、目、鼻、背筋を各々の武器で貫いた。
落下速度を乗せた複数の攻撃が巨大なモグラの命を奪い去る。
声掛けもなく行われた、暗殺に近い波状攻撃。
早さもさる事ながら、狙いの正確さも目を見張るものだった。
最上層に登れるほどの実力者揃いなのだと再認識させられるとと
もに、不意打ちとはいえ彼らが惨敗を喫したムカデの守魔の強さに、
キロは疑問を抱く。
キロは守魔の足を三本切り落としているのだ。
キロに、町人達との実力差を埋める何かがあったとは思えなかっ
た。
考えられる可能性と言えば、守魔に原因があるのではないかとい
うもの。
﹁︱︱まさか、あの守魔、強くなってるのか?﹂
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第三十九話 ここで会ったが百年目
﹁地図を頼りに進むのはもう限界だな﹂
中年男性が腕組みして見つめた道の先は土砂で埋まっていた。
掘削型魔物が押しのけた土を押し込めたらしい。
キロ達がトットから歩いてきた道は崩れていたり、魔物が溜まっ
ていたりして進むことができなくなっていた。
迂回路を探して右往左往するうちに掘削型魔物が周辺の地形を完
全に作り変えてしまい、ミュトが描いた地図も用をなさない。
トットに通じる道が残っているのかどうかさえ、今となっては分
からなくなっていた。
﹁守魔の乱入で他の魔物が右往左往してやがるんだ。当分は収まら
ないだろうな﹂
中年男性がため息をついた。
町人の元地図師達とミュトが集まって、掘削型魔物の活動範囲を
予測しつつ道を割り出そうと躍起になっている。
道の割り出しは困難であるとの結論に達して、元地図師達が腕を
組んだ。
﹁余裕がないな﹂
町人達は深刻な表情で頷きあう。
水に関しては氷穴から確保できるが、食糧の不足は深刻で、もう
時間はいくらもない。
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﹁魔物は食べられないんですか?﹂
クローナがフカフカに問いかけるが、あっけなく首を振られてし
まう。
﹁毒のある魔物が多いのでな。よしんば、毒のない魔物を仕留めて
もこれだけの人数となると⋮⋮﹂
フカフカが言葉を濁す。
二百人からなる大所帯だ。食糧を調達するだけで一苦労だろう。
元地図師達も匙を投げたようで、壮年の男に声を掛けた。
﹁ここから先は探索しつつ進むしかない。直通の道があったとして
も、丸一日かかる距離だが、どうする?﹂
壮年の男は洞窟道の壁に背をつけて黙考する。
丸一日の距離とはいえ、洞窟道を探しながら進むことを考えると
到着までに何倍の時間が必要か見当もつかない。
壮年の男の頭の中では食糧問題の他にも重症者の手当てに必要な
物資、その他もろもろの諸問題が駆け巡っている事だろう。
やがて、壮年の男は決断する。
﹁町に引き返すぞ﹂
町人達がため息交じりに来た道を振り返った。
﹁それしかないか﹂
分かっていた事だとばかり、一切の反論が出ない。
クローナがキロの袖を引っ張った。
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顔を向けてみれば、町人達の様子を不思議そうに眺めている。
﹁どうして引き返すんです?﹂
﹁飢え死にする前にトットへの道を探せる保証がないのと、氷穴の
町には備蓄食料や生活道具に武器防具まで揃っているからだろ﹂
しかし、今まで町に引き返すという意見が出てこなかったのは、
待ち構えている守魔との戦闘が想定されるからだ。
壮年の男の決断は一か八かの賭けでもあった。
﹁守魔を引き付ける陽動部隊、町に潜入して物資を運び出す輸送部
隊、二つの部隊の撤退を援護する支援部隊の三つを作る。戦闘可能
な者は希望を言え﹂
怪我を負っている者は重症者の看護に付くことになるため、作戦
に参加できる人数はおのずと縛られてくる。
メイスや細身の剣を持った女、中年男性はすぐに陽動部隊に名乗
りを上げた。
一番人が集まりにくい役割だと思っていただけにキロは意外に思
ったが、壮年の男は自信のない者を最初から省くつもりだったらし
く、遅れて陽動部隊への参加を申し出た者は問答無用ではじき出し、
輸送部隊へと回していった。
人数が必要な輸送部隊には五十人ほど、支援部隊には二十人、陽
動部隊は十人の精鋭が配置された。
守魔を倒すのではなく、あくまで陽動を担う部隊ではあったが、
十人は少なすぎる。
追加で二十人ほどの遊撃部隊を組織し、陽動部隊との連携作戦が
練られた。
﹁ミュトだったか、あんたらはどうする?﹂
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壮年の男がミュトに顔を向け、問いかけてくる。
メイスの女がキロに視線を向けた。
﹁そういや、守魔の足が切り落とされている事を知ってたね。なん
か心当たりでもあんのかい?﹂
ミュトが困ったようにキロを見た。
どうしようか、と僅かに首を傾げ、無言で問いかけてくる。
﹁もう上層ではばれてるんだから、話してもいいだろ。信じてもら
えるかは別問題だけど﹂
守魔の足を切り落とした張本人であるキロから許しが出たため、
ミュトはメイスの女に向き直る。
キロの手を取り、ミュトは口を開いた。
﹁足を切り落としたのは彼、キロなんだ﹂
胡散臭そうな目が一斉にキロに向けられた。
︱︱ですよねぇ。
予想通りの反応に、キロは苦笑する。
﹁⋮⋮とりあえず、詳しく話してもらおうか﹂
話半分に聞いてやると言った口調で壮年の男が事情を説明するよ
う促してくる。
ミュトが上層級昇格までの経緯を一通り話すと、壮年の男は顎を
撫でた。
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﹁︱︱そいつは災難だったな﹂
半信半疑なのは相変わらずだったが、同情する気持ちは本当らし
い。
﹁実力は地図を見れば大体わかるだろうに。最近の職員は質が落ち
てんのか﹂
元地図師の誰かがため息を吐きながら言う。
壮年の男はミュトからキロに視線を移した。
﹁その槍で切り落としたんだな? ちょっと振って見せろ﹂
陽動部隊のメンバーを呼んだ壮年の男はキロに指示を飛ばす。
言われるままにキロは槍を上段から振り下ろした。
地面すれすれでピタリと槍の穂先を止めたキロに、壮年の男は腕
を組む。
﹁体格に見合わない長さだと思ったが、妙な癖が付いてんだな﹂
﹁癖なんて付いてるの?﹂
ミュトがキロに問う。
キロは肩を竦めた。
﹁見よう見真似で覚えた型を自分に合わせて改良した、我流だから
な。おかしな事になってるのは間違いないと思う﹂
﹁ちゃんと人に教わらないとだめじゃないか。命がかかってるんだ
から﹂
﹁事情があってな。そのうち教えるよ﹂
839
苦笑したキロは壮年の男を見る。
﹁俺の癖は不味いですかね?﹂
フカフカがキロの言葉を訳して伝えると、壮年の男は首を振った。
﹁筋肉を極力使わないよう体を動かさずに、慣性で振り回す。弟子
がやってたらぶん殴って筋肉付ける所からやらせるが、お前の場合
はそのままの方がいいだろ。かなり無理な体勢からでも全力で槍を
振れるんじゃないか?﹂
試しだ、と壮年の男は片足の踵だけで立つようにキロへ指示する。
言われた通りにしたキロを見て、壮年の男は拳大の土弾を作った。
﹁その体勢を維持したまま、この土弾を槍で斬ってみろ﹂
てっきり軽く放るくらいだろうと思っていたキロの予想に反して、
壮年の男は腕を大きく振りかぶって全力投球した。
﹁ちょっとまて!﹂
豪速で迫る土弾を見極め、キロは動作魔力を用い、右足踵を軸に
してコマのように一回転する。
土弾はキロの回転に合わせて振られた槍によって横から真っ二つ
にされ、地面に転がった。
﹁おぉ、曲芸みたい﹂
﹁トットに着いたら宴会に呼ぼうぜ﹂
﹁技を磨いとけよ﹂
840
拍手と共に飛んできた能天気な称賛にキロは複雑な思いを抱いた。
壮年の男が顎を撫でながらキロを上から下まで眺め、大きく頷く。
﹁遊撃部隊に参加してくれ。陽動役となると俺達と連携が取り難い
からな﹂
﹁奇抜すぎて、いざという時に手を貸すべきか判断付かないだろう
ね﹂
細身の剣の女が壮年の男の決定に同意して、陽動部隊の面々も頷
いた。
なぜかミュトまで頷いていたが、クローナを横目に見ても首を傾
げている。
クローナは不思議そうに陽動部隊のメンバーやミュトを眺めた後、
何かに気付いたように瞳を輝かせた。
﹁私はキロさんの動きが分かりますよ。信頼で結ばれているんです
よ!﹂
目をキラキラさせながら、クローナは楽しそうにキロの手を取っ
て上下に振る。
︱︱阿吽の冒険者に初めて会ったときにも似たようなこと言って
たな。
キロは苦笑しつつ、クローナにされるがままに手を振られていた。
掘削型魔物も守魔の縄張りには近づきたくないのか、氷穴の町へ
の道は来た時とほとんど変わっていなかった。
変化があるとすれば、不用意に守魔の縄張りへ近づいたらしい愚
かな魔物の亡骸が多くなっていることぐらいだろう。
キロ達が来るまで避難所として使っていた地点にたどり着き、重
841
症者や怪我人、護衛の町人を置いて、再び出発する。
気温は下がる一方だった。
魔物と言えば死骸だけという洞窟道を歩き続けると、道の先に明
かりが見えてくる。
氷柱に反射する光がキラキラと瞬いていた。
半径二キロほどの空洞ではあるが、そこかしこに氷柱が立ち並ん
でいるためスペースは狭い。
密集した家々の前には凍りついた地底湖らしきものが広がり、地
面には凍った水たまりが点在している。
キロは不安定な足場を見て、無理な体勢からの一撃を確認した壮
年の男の意図に気付いた。
ちらりと横目で窺った陽動部隊の面々は取り回しに優れた細身の
剣や、どの面を当てても問題なくダメージを与えられるメイスなど
を武器として持っている。
視線に気付いた陽動部隊の一人、棘の付いた鉄板を持った若い女
がニカりと白い歯を見せる。
﹁こんな町に住んでるんだ。自然と武器もこうなるんだよ。長物使
いがいないから、なおさら婿に欲しいんだけどねぇ?﹂
ウインクする若い女とキロの間にクローナが割って入り、キロの
腕に抱き着いた。
若い女に向けて警戒心むき出しの鋭い視線を向ける。
若い女はクローナの視線を受けてくすりと笑うと、お幸せに、と
短く告げて陽動部隊と共に、先に町へと入って行った。
フカフカが耳をそばだてているのを見て、キロは声をかける。
﹁守魔の動きはどうだ?﹂
﹁町の奥で食事中のようであるな﹂
﹁道理でお出迎えがないわけだ﹂
842
キロは深呼吸して動作魔力を練る。
陽動部隊がぞっとするほど静かに展開し、構えた。
氷穴内の冷たい空気が張り詰め、鋭い刃のような気迫が町へと向
けられる。
パキッと、薄氷を割る音が聞こえ、フカフカが顔を挙げる。
﹁来るぞ、守魔が﹂
町の中から、ムカデの守魔が現れる。
頭部の幅は三メートルを超え、左右に平たい甲殻の色は氷穴に映
える明るい灰色、無数の足の内、左前脚の三本は半ばから断ち切ら
れている。
甲殻に着いた大小さまざまな浅い傷は、町人によるものだろうか。
ムカデは待ち構えている陽動部隊を視界に収めると動きを止めた。
長い体の周囲に一瞬だけ火球が浮かび、甲殻を包むように広がる。
体温を上げたのだ。
顎先を陽動部隊に向けかけた守魔が再び動きを止める。
キロは守魔と目があった気がした。
守魔の長い触角が頭部に張り付く。巨大な顎は明確に狙いをキロ
へと移していた。
守魔の体勢が変わり、捕食者の傲慢さが抜け落ちる。
捕食でも蹂躙でもなく、強者との戦闘に備えた隙のない体勢、死
闘を演じるための構え。
守魔の頭部が急激に下がり、地面すれすれで止まったのを確認し
た瞬間、壮年の男が声を張り上げた。
﹁総員、散開しろ! 奴の狙いは︱︱﹂
地面が爆ぜる。
843
守魔が急加速する。
陽動部隊には目もくれず、ただ一直線に守魔は走った。
輸送部隊、支援部隊、遊撃部隊の全員が、迫りくる大質量の守魔
に戦慄し、動作魔力を使用して洞窟道を飛び出し、散開する。
だが、キロは動かなかった。
キロが動かない事を感じ取っていたクローナが一歩下がり、杖を
構える。
ミュトがキロの前に飛び出し、両手を前に突き出した。
刹那の後、守魔の突進がキロ達へと炸裂する。
氷穴に破壊音が鳴り響く。大量の土砂が守魔の飛び込んだ洞窟道
から吹き出し、氷穴全体がびりびりと震えた。
﹁⋮⋮キロ、根に持たれてるよ﹂
両手で生み出した特殊魔力の壁で守魔の突進を止めたミュトが呟
く。
﹁トラウマ克服するにしたって、乱暴すぎるだろ﹂
キロも呟いて、ミュトとクローナの腰を抱え、地面を蹴った。
洞窟道の壁を蹴り、ミュトが生み出した壁の横を通って守魔の横
を走り抜け、洞窟道を飛び出す。
町と凍った地底湖がある広間に降り立ったキロ達は守魔を振り返
る。
守魔も洞窟道から頭を引き抜き、振り返ったところだった。
まるで他は脅威ではないと言うように無視して、守魔はキロだけ
を見据えていた。
844
第四十話 前哨戦
壮年の男がキロに声を掛ける。
﹁お前ら、恨まれ過ぎだ。陽動部隊に来い。遊撃部隊、この三人貰
ってくぞ﹂
壮年の男が遊撃部隊に断わり、キロ達三人を陽動部隊へ強制編入
する。
守魔を町から遠ざけるため、凍りついた湖へと陽動部隊は走りだ
した。
﹁いきなり引っ掻き回しちゃって、すみません﹂
ミュトが申し訳なさそうに壮年の男に謝る。
キロとクローナも頭を下げた。
反応が遅れていれば、キロ達がいた遊撃部隊はおろか輸送部隊や
支援部隊まで守魔の攻撃に巻き込まれていた。
だが、キロ達の謝罪を壮年の男は笑い飛ばす。
﹁馬鹿言うな。逆に感謝してんだ。お前達三人が洞窟道から動かな
かったおかげで全員が躱せた。しかも、作戦直後から陽動部隊とし
ての役割が果たせている﹂
上出来だ、と壮年の男は笑い、背後の守魔を振り返る。
守魔はそこかしこに立ちふさがる氷柱を避けながら、キロ達を追
いかけてきていた。
動作魔力を使っているキロ達よりもはるかに速い。
845
壮年の男は一度前方を確認すると体の向きを反転する。バックス
テップの要領で氷湖へ進みながら、壮年の男は守魔を見据えた。
﹁射線を開けろ﹂
壮年の男の指示を受けて、陽動部隊は左右に分かれる。
守魔への射線を確保した壮年の男はバックステップの速度を維持
したまま、石弾を撃ち出した。
一直線に飛んだ石弾は守魔の甲殻に弾かれる。
目を細めた壮年の男は新たに石弾を撃ち出す。
守魔が頭の甲殻で石弾を弾き飛ばしたが、弾き飛ばされた石弾に
は亀裂が入り、中から水が噴き出した。
︱︱圧縮した水を薄い石で作った弾に閉じ込めてたのか。
氷穴内で水を被れば、体温を奪われる。
戦闘前に火で体を温めていた守魔への嫌がらせだ。
壮年の男は口端を歪めると、頭上に手をかざし、徐々に石弾を形
成する。
﹁人様の家で暴れやがって、頭冷やせよ、礼儀知らず﹂
壮年の男が作り出した石弾はもはや砲弾と呼ぶべき大きさだった。
直径二メートル近い石の砲弾は、壮年の男を左右から追い抜いた陽
動部隊のメンバー二人によって動作魔力を注ぎ込まれ、高速で射出
される。
守魔は水を被らないように速度を落としながら、石弾で撃墜を図
った。
守魔が撃ち出した石弾は壮年の男の石の砲弾に吸い込まれるよう
に向かっていき、破壊する。
しかし、砲弾の中から出てきたのは水ではなかった。
砲弾から飛び出たのは無数の小さな石弾だったのだ。
846
破壊された砲弾から飛び出した石弾が守魔に襲いかかる。
守魔は石弾を避けようと急加速した。
それでも躱しきれなかった石弾が守魔の甲殻に弾かれるが、三つ
の石弾が守魔の甲殻と甲殻の隙間に突き刺さった。
甲殻と挟まった石弾が擦りあうぎちぎちという不快音を奏でなが
ら、守魔がさらに加速した。
﹁ちっ、このままだと氷湖に先回りされるな﹂
壮年の男が守魔の動きを目で追いながら、舌打ちする。
氷柱を巧みに避けながら走る守魔を見ていたクローナが口を開く。
﹁キロさん、守魔を釣り出せませんか?﹂
﹁狙われてるから可能だろうけど、どうするんだ?﹂
﹁氷湖への先回りを食い止めます﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
キロは地面を蹴り、近くの氷柱に足をつけると壁走りの応用で駆
け昇る。
陽動部隊の面々が目を丸くしている姿を視界の端に収めつつ、キ
ロは守魔の位置を確認した。
槍を両手で持ち、肩に乗せるように振りかぶったキロは氷柱を蹴
り、別の氷柱に飛び移る。
槍を杖代わりに時々石突きで氷柱を突いてバランスを取りつつ、
キロは素早く守魔との距離を詰めた。
キロの接近に気付いた守魔が顔を上げ、進行方向を氷湖からキロ
に変えた。
守魔の周囲に七つの火球が浮かぶ。
︱︱上層の頃と違って魔法をよく使ってくるな。
キロは槍に現象魔力を纏わせ、氷柱を足場にした状態で守魔の火
847
球を迎え撃つ。
飛来する火球に槍の穂先を合わせ、瞬間的に現象魔力で水を生み
出す。
槍の周囲に生み出された水は飛来する火球を消火して蒸発、キロ
や金属製の槍へ熱が伝わるのを防いだ。
単なる火球でキロを仕留められるとは最初から考えていなかった
のだろう、守魔は無数の足で氷柱を削りながら、上にいるキロに向
かって駆け昇る。
︱︱列車の前に立ってる気分。
幅三メートルのムカデが自分へ走り込んでくる。背筋が凍る光景
だ。
だが、キロも度胸は付いていた。
氷柱を駆け上る守魔に対し、キロは姿勢を維持していた動作魔力
の作用を消し、氷柱から落下する。
落下しながら、クローナの位置を目視する。ミュトと一緒にいる
のを確認して、クローナの考えを理解した。
キロは笑みを浮かべ、氷柱を蹴る。
追いかけるように守魔は長い体の前方に付いた足を氷柱から離し、
キロの落下位置に自身の大あごが届くように仰け反った。
キロは笑みを深める。
槍にはまだ、現象魔力が残っていた。
キロは空中で、槍の穂先に幅一メートルほどの石壁を生み出し、
槍の柄を持つ石の鍬を形成する。
次の瞬間、キロは動作魔力を練り、槍から石壁へと伝達する。
守魔の大あご目がけて、石壁が射出された。
守魔が体を仰け反らせたまま、迫りくる石壁を大あごで挟み込み、
受け止めて見せた。
﹁すごい反射神経だな﹂
848
守魔を誉めつつ、キロは大あごで支えられた石壁に着地する。
動作魔力がキロの体を覆った。
守魔が大あごを石壁から離す直前、キロは石壁を蹴り抜く勢いで
踏み込むと守魔の大あごの横をすり抜け、頭部のわずかに上を通り、
氷柱に食い込んだ守魔の足に狙いを定めた。
守魔の頭部から数えて二つ目の甲殻に最後の踏み込みをして、キ
ロは槍に動作魔力を込め、守魔の右足の関節へ振り抜いた。
仰け反った頭部を支えるために動かす事のできない足の関節に槍
の穂先が届く寸前、キロは硬質な感触を感じ取り、咄嗟に槍に込め
ていた動作魔力を消す。
︱︱なんだ?
重力に従って地面へと落下しながら、キロは横目で斬ろうとした
守魔の足を見る。
守魔の足の関節部分を石の板が覆っていた。
﹁前回から学習して防御したのか﹂
舌打ちして、キロは未だに氷柱に張り付いている守魔の胴体を蹴
りつけ、別の氷柱に飛び移る。
守魔が氷柱を一周して頭部を下に向ける。
向かい側の氷柱にいたキロは警戒されているのを承知で小さな石
弾を守魔の触覚に向けて放ったが、あっさりと迎撃された。
キロは守魔の視界から外れないよう、次々に別の氷柱へ飛び移っ
て誘導する。
キロを追いかける守魔は動作魔力を纏っており、距離は見る見る
うちに縮まっていった。
真後ろに守魔の大あごが来た時、キロは地面に降り立ち、氷柱を
左手に曲がって守魔の視界から逃れる。
当然、仇敵を追いかける守魔も氷柱を曲がろうとする。
しかし、守魔はキロを追いかける事が出来なかった。
849
氷柱の陰に潜んでいたミュトが、特殊魔力の壁を展開して行く手
を塞いだのだ。
不可視の壁に激突し、守魔が動きを止める。
﹁心臓によくないよ⋮⋮﹂
守魔の巨体を特殊魔力の壁で真正面から受け止める役割をこなし
たミュトが目を潤ませる。
﹁でも、ミュトさんのおかげで一撃入れられますよ﹂
ミュトの後ろで、クローナが掲げていた杖を振り下ろす。
わずかな間に岩で形造られた巨大で薄刃の鉈が出現し、クローナ
の腕の動きに合わせて守魔の足へ叩き付けられた。
守魔は石の板で防御したが、キロの槍は防げても大質量の岩の鉈
には為す術もなく割られ、保護していた足は関節から叩き斬られた。
以前キロに切り落とされた左の前三本だけでなく、右の最前足ま
で失ったため、支えを失った守魔の頭が下がる。
頭が下がれば、頭部の甲殻と次の甲殻の隙間が開く。
トンッと頭上から響く軽い音は守魔に聞こえただろうか。
守魔の視界から逃れるために曲がった後、すぐさま氷柱を駆け上
ったキロが上から襲い掛かる小さな音だ。
守魔の頭が上がる前に、キロは甲殻の間へ動作魔力で加速した突
きを放つ。
落下による加速とキロの体重までもが乗った強烈な一撃は守魔の
甲殻の下にある強靭な筋肉をも断ち斬った。
痛みによる反射で守魔が頭を持ち上げた頃には、キロは動作魔力
で槍を引き抜き、右足を軸に一回転しながら守魔の右足を一本、付
け根から斬り落とす。
わずかに傾いた守魔を足場にしても、キロは自身の体にまとう動
850
作魔力を調整してバランスを崩す事無く槍を繰る。
槍の柄をキロの右手が滑り、石突きの直前を掴み、手首を返しな
がら槍の勢いを殺さず左肩に振りかぶる。
キロは守魔の頭に背を向け、左足を大きく踏み出した。
左足が守魔の甲殻を踏みしめ、キロは左に振りかぶった槍に動作
魔力を通す。
まかり間違って自らの左足を斬り落としかねないその体勢でも、
繊細に動作魔力を扱うキロは臆せず槍を打ち振る。
首筋に受けたキロの突きの痛みで防御が遅れている守魔の右足が、
根元から斬り払われる。
石突き近くを持つ事で間合いが最大まで伸びたキロの槍は根元か
ら落ちた足の次の足さえも斬り飛ばしていた。
振る度に速度も威力も増していくキロの槍の前に、守魔のむき出
しの関節は藁束と大差ない。
守魔がようやくキロが上に乗っている事に気付き、傍らの氷柱に
体当たりした衝撃で振り落とそうと試みる。
だが、守魔の頭部は動かなかった。尻尾の部分が左右に振れただ
けだ。
﹁キロ、顎を抑えたから、今のうちに離脱するよ﹂
守魔の大顎を特殊魔力の壁で挟み込んだミュトが、いち早く氷湖
へと駆け出す。
﹁右足三本落としたので、バランス取れちゃいましたね﹂
守魔を挑発して、くすりと笑い、クローナがミュトを追って走り
出す。
キロは槍を左手に持ち替え、脇で固定する。
851
﹁ちゃんと追って来いよ?﹂
︱︱そうしないと陽動にならないからさ。
ミュトの特殊魔力の壁から大あごを抜こうと躍起になっている守
魔の甲殻を踏み台にして、地面に着地したキロはミュトやクローナ
を追った。
852
第四十一話 討伐戦
キロ達が氷湖に到着した時、陽動部隊はすでに展開を完了してい
た。
キロ達の後ろに迫る守魔を見た陽動部隊は左右から襲い掛かる。
狙いは守魔の長い胴体、その中央付近の足だ。
かぎ爪のようになった守魔の足は凍りついた湖の上でも滑る事な
く推進力を確保していたが、しっかりと氷を踏みしめているために
狙いやすい。
跳びかかったのはメイスの女だ。
大上段に振りかぶったメイスを守魔の足の関節へと叩きつける。
メイスの女の接近に気付いていた守魔の関節は石の板で覆われて
いたため、足そのものにダメージは入っていない。
しかし、石の板にはひびが入り、金槌で杭を打ち込むように足は
氷の中にめり込んでいた。
自然と、氷の中へめり込んだ足の付け根の部分にわずかな隙間が
できる。
間髪入れず、細身の剣の女がわずかな隙間を縫うように足の付け
根に細剣を突き入れ、引き抜きざまに体を反転、もう一本の足の関
節を貫く。
細剣よりも足の方が太いため断ち切る事はかなわなかったが、そ
れでも深い傷を負わせている。二本とも動かす事は出来ないだろう。
﹁その足、全部飾りにしてやるよ﹂
獰猛な笑みを浮かべて、女がメイスを横に薙ぐ。
メイスで足払いを受けた守魔の足が氷の上を数センチ滑り、三度、
足の付け根に細身の剣が突き込まれた。
853
守魔が鬱陶しそうに足を振り上げて踏み殺そうとした時には、女
達は動作魔力で離脱していた。
守魔が苛立たしげに足を踏み降ろし、再び持ち上げた。
その場で足踏みを始めた守魔を怪訝な顔で見る陽動部隊へ、守魔
の意図に気付いた壮年の男が叫ぶ。
﹁足で削り出した氷を投擲してくるぞ!﹂
壮年の男の注意を聞いて、キロとクローナの前にミュトが立ち、
片手を正面に向ける。
直後、守魔の足元から大小様々な氷の破片が周囲へ飛び出した。
動作魔力で加速してあるらしい氷の破片は尖っている物も多く、
直撃すればただでは済まない。
しかし、精鋭で構成された陽動部隊は冷静に正面へ石壁を展開し、
防壁と為した。
石壁に氷の破片が当たる衝突音が響く。
フカフカの耳がピクリと動き、キロとクローナを振り返る。
﹁守魔が突撃してくる。備えよ!﹂
﹁この攻撃自体が目くらましか!﹂
氷を削る守魔の足音がキロの耳にも聞こえてくる。
ミュトの壁があるためキロ達の姿は見えないはずだが、氷の破片
を飛ばす前に位置を確認していたのだろう。
守魔の顔がミュトが作り出した透明な壁の上部から飛び出してく
る。
勢い任せに壁を乗り越えて、キロ達の上に圧し掛かるつもりなの
だ。
クローナがキロをミュトと挟むように押し込み、ミュトの壁に背
を向けて分厚い石の壁を作り出す。
854
透明な壁と石の壁の隙間にキロ達三人は避難し、守魔の体は二つ
の壁の上に橋のように渡る。
﹁︱︱がら空きだな﹂
キロは背伸びをして守魔の腹部に触れ、瞬間的に動作魔力を流し
込んだ。
パキ、と乾いた音がしたかと思うと、守魔の体が小さく上に吹き
飛んだ。
キロがアンムナの奥義を模倣して、守魔の腹部にあった甲殻を破
壊したのだ。
驚いたように守魔が体を横転させ、瞬時に起き上がると、キロ達
から距離を取る。
守魔の長い体が壁の横を通り過ぎ、冷たい風が後を追って行った。
ミュトとクローナが壁を解除する。
守魔が警戒心と闘志を宿した瞳をキロへ向けていた。
守魔の胴体に一か所、腹部が石の板で覆われている場所があった。
キロに破壊された甲殻の代わりとして石の板を纏ったのだ。
キロの横に壮年の男が立つ。
﹁お前、どうやって甲殻を割った?﹂
油断なく守魔を睨みながら、壮年の男がキロに問いかける。
フカフカを通して簡単に原理を説明すると、壮年の男は舌打ちし
た。
﹁俺達にも真似できればと思ったんだが⋮⋮﹂
一斉に襲い掛かって守魔の甲殻を片端から破壊するつもりだった
らしい。
855
キロ達を窺う守魔を尻尾で照らしながら、フカフカが首を傾げる。
﹁石の板で覆われて元通りであろう?﹂
﹁確実に守魔の魔力を削れる。何しろ、維持し続けなきゃならない
からな﹂
壮年の男は陽動部隊全員に声をかける。
﹁鈍器組、あの石板をぶっ壊せ。刃物を持ってるやつは下の肉を切
り刻め﹂
一斉に獰猛な笑みを浮かべた陽動部隊が鈍器と刃物のグループに
分かれる。
壮年の男が片手を挙げる。
﹁俺達の像を立てるぞ、覚悟はいいか、野郎ども﹂
大きく息を吸った壮年の男は片手を振り下ろし、陽動部隊に命令
を下す。
﹁︱︱殺せ!﹂
九か所で氷が弾け飛んだ。
陽動部隊が全力で守魔を殺しにかかったのだ。
短期決戦という言葉がよく似合う、魔力消費が激しい戦い方だ。
壮年の男はキロ達へ目を向ける。
﹁俺達で守魔の注意を引く。お前らは隙を見て奴の甲殻を破壊しろ﹂
壮年の男はキロ達へも指示して、上に向かって光の球を放った。
856
じきに、光の球の合図を見た遊撃部隊、支援部隊、輸送部隊のメ
ンバーがやってくるはずだ。
それまでに甲殻を破壊し標的となる個所を増やしておけば、数の
利を有効に使う事が出来る。
飛び出して言った壮年の男を見送って、キロはミュトとクローナ
に声をかける。
﹁本気で守魔を倒すつもりらしいな﹂
﹁命令には従うしかないと思いますよ。単独行動しても、逃げ道は
ないですから﹂
﹁逃げるための魔力を残しつつ、短期決戦を仕掛けるしかあるまい﹂
﹁フカフカ、それって矛盾してるよ﹂
ミュトが突っ込みを入れるが、矛盾している短期決戦をする以外
ないのも事実だ。
守魔の隙を窺いつつ、キロ達はミュトの特殊魔力の壁に隠れて息
を潜める。
陽動部隊の攻勢は苛烈を極め、繰り返す波状攻撃の中でたちまち
守魔の足を叩き折り、あるいは切り裂いていく。
守魔は防戦一方となっていた。しかし、足が失われるたびに他の
足の防御を堅くしているのか、次第に足を失わなくなっていった。
それでも、特殊魔力の壁で隠れて見えないはずのキロ達から視線
を外さない。
﹁ねぇ、あの女の人が切った守魔の足、動いてない?﹂
壁の横から顔を出して確認したミュトが、キロを振り返る。
キロもちらりと顔を覗かせて、守魔の足を観察する。
﹁動いてるな。どうなってるんだ?﹂
857
﹁足自体を物と考えて動作魔力で動かしているのかもしれませんね﹂
クローナが予想を口にすると、フカフカがしばし待て、と囁いて
透明な壁の上に上る。
体外の魔力を視認できるフカフカは、守魔の足を見つめて頷いた。
﹁クローナの予想通りだ。守魔もキロに負けず劣らず器用であるな﹂
﹁人を引き合いに出すなよ。それより、あんな事ができるなら体を
斬ってもあまり意味ないんじゃないか?﹂
筋肉を断ち切っても足を動かしているくらいだ。甲殻を破壊して
その中の筋肉を断ち切ったとしても動作魔力で体を動かすだろう。
﹁即死させないと戦い続けるって事ですか?﹂
﹁魔力が続く限り、な﹂
︱︱どうしたもんか。
キロは腕を組んで考える。
即死させるとなれば頭部を狙うしかないだろうが、甲殻に守られ
ている。
甲殻を破壊する事はできるが、破壊には動作魔力を注ぎ込む必要
があるため、キロは甲殻を破壊した直後に攻撃へ移る事が出来ない。
攻撃に移るには魔力を練る時間を確保しなければならない。もた
もたしている間に、守魔は破壊された甲殻の代わりに石の板で頭部
を覆うだろう。
キロは考えを巡らせ、ミュトを見る。
﹁考えがあるんだけど、付き合ってくれない?﹂
﹁なんか、すごく嫌な予感がするんだけど﹂
858
不安そうな顔をして渋るミュトにキロは笑いかけ、はっきりと頷
いた。
﹁︱︱その予感、当たってる﹂
でも断る権利はない、とキロは声の響きに込め、クローナとミュ
トに作戦を説明しながら守魔の様子を伺った。
守魔へ陽動部隊十人の攻撃が殺到している。
狙いは足から胴体半ばにある石の板で覆われた守魔の弱点へと移
ったようだ。
守魔は鬱陶しそうに大あごを振り回し、足を振り上げ、時には体
当たりで陽動部隊を遠ざける。
石弾が飛び交い、甲殻や石に金属の武器が振り下ろされる甲高い
音が鳴り響く。
壮年の男は焦っている。
キロが破壊した守魔の甲殻部分に狙いを定めていくら攻撃しても、
守魔も弱点を庇いながら戦っているため埒が明かない。
陽動部隊はあくまでも守魔の注意をひきつけ、キロ達が甲殻を破
壊するための隙を作るのが役割だ。
しかし、守魔はいつまでもミュトの特殊魔力の壁に隠れているキ
ロ達へ向けた視線を外さない。
陽動部隊はキロ達が攻撃する隙を作る事が出来ていないのだ。
だが、守魔をその場に釘付けにすることには成功していた。
︱︱好都合だな。
作戦の説明を終えたキロはにやりと笑う。
﹁⋮⋮その作戦、僕がかなり怖い目に遭う気がするんだけど﹂
作戦を聞いたミュトの腰が引けている。
859
﹁安心しろ、俺とフカフカも一緒だから﹂
﹁安心する要素がないよ。本当にやるの? ねぇ、クローナからも
止めてよ﹂
﹁キロさんと息があってないと危ないですけど﹂
確かに、タイミングが大事な作戦ではある。
キロは大丈夫だろ、と肩を竦めた。
﹁滝壺の街へ救援を呼び行った時、ミュトはクローナと息があって
たんだ。俺にも合わせられるだろ﹂
﹁根拠としては弱いと思うんだけど﹂
反論するミュトを見て、キロはふと思いついて口を開く。
﹁ミュト、せーの、で俺と一緒に片手を挙げてみろ﹂
首かしげるミュトに説明せず、キロはせーのと掛け声をかける。
﹁⋮⋮二人とも右手ですね﹂
﹁ぴったりだな。よし始めるか﹂
釈然としない顔をするミュトに背を向けて、キロは心の中で舌を
出す。
同じ手を挙げればそれでいい、違う手を挙げれば、補い合えるな、
と屁理屈をこねるつもりだったのだ。
﹁それじゃ、はじめようか﹂
キロが開始を告げた直後、クローナは魔法を発動する。
クローナの魔法を見て、守魔のみならず陽動部隊までもが一瞬動
860
きを止め、慌てて離脱を開始した。
当然だろう。ミュトの特殊魔力で作られた壁の裏から、突然巨大
な石の鉈が出現し、さらには天井をがりがりと削りながら巨大な石
の鉈が振り下ろされたのだから。
分厚い刃は切断というより殴りつけるためのもの、硬い甲殻を持
つ守魔であれば、関節に受けない限り問題ない。
初めは避けようとしていた守魔も、巨大な鉈が動作魔力でコント
ロールされ、守魔の頭部に向かっている事に気付いたらしい。
避けるのは困難と判断して、守魔が大あごを鉈に向ける。
大あごで巨大な鉈を挟み込んで受け止めるつもりだろう。
鉈が振り下ろされ、大あごが左右から鉈を挟む。大あごが鉈に食
い込み、穴を開けた。
次の瞬間、巨大な鉈が消滅した。
代わりに現れたのは、巨大な鉈の中に込めていた多量の水、そし
てキロとミュト、フカフカだった。
鉈の中に食い込んでいた大あごの上にいたミュトが、守魔の頭め
がけて飛び降りた。
鉈の中に水と共に潜んでいたミュトは、鉈を側面から食い破った
守魔の大あごに素早く近づき、特殊魔力の壁で固定していたのだ。
﹁これで頭を動かせないだろ?﹂
キロが笑みを浮かべ、鉈から溢れ出た多量の水に動作魔力を込め
てうねりを作る。
生み出した水流に乗って、キロは守魔の頭に着地し、上から飛び
降りてきたミュトを水流で受け止める。
ミュトの着地を確認したキロは、守魔の頭へ手を当てた。
キロが何をするつもりかを察した守魔が触角を振り回す前に、キ
ロは動作魔力を頭部の甲殻へ流し込む。
861
﹁悪く思うなよ﹂
守魔の頭部を保護する甲殻が弾け飛ぶ。
灰色の破片が飛び散り、フカフカの光を反射する。
直後、はじけ飛んだ甲殻の代わりとなる石板を守魔が形成し始め
る。
瞬く間に生み出された石の板は、キロとミュトの周囲だけぽっか
りと穴が開いていた。
ミュトの特殊魔力が展開しているのだ。
﹁キロ、とどめは任せたよ﹂
小剣の刃渡りでは致命傷を与えられないと見て、ミュトはキロに
とどめを譲る。
キロは槍の穂先を守魔の頭に向け、ミュトが特殊魔力の壁を消し
た瞬間、深く深く、突き刺した。
862
第四十二話 ロウヒ討伐隊の結果
キロが守魔にとどめを刺してから四日間、氷穴の町は大騒ぎだっ
た。
守魔の甲殻をはぎ取って洞窟道に置いておくと、掘削型魔物を含
む様々な魔物が面白いように逃げ始め、トットに通じる道探しは順
調に進み、ついにトットに道が通じた。
事態を説明されて訪れたトットの地図師協会の職員は守魔の亡骸
を見て口を半開きにしてしばし放心した。
﹁す、すぐに彫師を呼んできます!﹂
﹁その前に各方面への連絡と権利関係の確認があると思うのだがな﹂
慌ててトットに引き返そうとした職員にフカフカが指摘すると、
村人達が大きく頷く。
動揺してしまうのも無理はない、と村で一休みさせて落ち着かせ
た後、簡単な事情聴取を終える。
討伐の証明として守魔の甲殻を一つはぎ取って、各方面への情報
伝達などを行うため、職員はトットに帰って行った。
職員が戻ってきたのはそれから七日後の事。
守魔討伐のどんちゃん騒ぎがようやく落ち着いてきたころだ。
二日酔いの顔が並ぶ中、自重していたキロとクローナ、ミュトに
各種契約が任された。
契約書をミュトとフカフカが必死に確認しているが、地下世界の
文字が読めないキロとクローナは守魔の討伐の詳細を話していた。
守魔の縄張りだった大空洞に建設する街の各種権利、資材を搬入
する商会との交渉など様々な仕事があったが、氷穴の町には傭兵や
地図師として活躍していた者が多いため、滞りなく進んだ。
863
長として新設する街の中央に住む権利もあったが、空を目指すミ
ュトには必要ないため、氷穴の町に売り払った。
到着した彫師がデッサンしたいというので、キロ達は顔を見合わ
せる。
新設する街の広場に建てられる石像は守魔にとどめを刺したキロ
をはじめとしてクローナやミュト、陽動部隊のメンバー十名でデザ
インされるという。
﹁断るのは︱︱﹂
﹁無理、みたいだよ。これは権利じゃなくて義務なんだって﹂
眉を八の字にして、ミュトが頭を振る。
守魔の討伐に最も功績があったのは文句なしにキロ達であるため、
像の中央に大きく掘り出されるという。
﹁この世界の住人のミュトが中央だな。クローナもそう思うだろ?﹂
﹁はい、私達は端の方で縮こまっている感じで﹂
﹁二人ともズルいよ! 恥ずかしいのはボクも一緒なんだからね⁉﹂
ミュトが必死に抗議する。
そもそも、とミュトはキロを指さした。
﹁とどめを刺したのはキロじゃないか﹂
﹁俺が中央に立つとオラン・リークスって人の彫像と被っちゃうだ
ろ﹂
キロが使っている槍の形状は地下世界では珍しい物だ。オラン・
リークス以外の人間が使っているという話も聞かない。
キロの指摘はミュトの抗議を封じ込めるのに十分なものだった。
ぐぬぬ、とミュトが反論を練っていると、ノックもなしに部屋の
864
扉が開かれる。
﹁儂の曾爺さんがどうしたって?﹂
盗み聞きしていたことを隠しもせずに入ってきたのはオラン・リ
ークスのひ孫、ランバル・リークスだった。
ランバルはキロ達を眺めて腕を組む。
﹁守魔が討伐されたっていうから見に来てみれば、やっぱり、お前
達か﹂
ランバルはため息を吐き、手近にあった椅子を片手で引き寄せて
腰を降ろす。
﹁どこもかしこも大騒ぎになってるぞ。上層から、守魔の確認に協
会職員が来るそうだ。うちの馬鹿どもが足を持ち込んだ町の職員が
本物かどうか確かめに、な﹂
キロがランバルに気を取られている隙に、ミュトがさりげなくキ
ロを中央に立たせようとする。
キロは無言でミュトの腕を取り、引き寄せるとクローナに引き渡
した。
待ってました、とばかりにクローナがミュトを抱きすくめる。
くすくすと笑いながら、クローナはミュトをがっしり掴んで離さ
ない。
諦めたミュトは、キロが逃げないように自由な足をキロの右足に
絡めて逃げられないようにした。両手はフカフカを捕まえている。
じゃれあうミュト達へ呆れたような視線を向けたランバルは、彫
師に肩を竦めた。
865
﹁今のうちに下絵を完成させちまえ。こいつらの遊びに付き合って
いるといつまでかかるか分からんぞ﹂
彫師は苦笑しながらじゃれ合うキロ達を紙に描き始める。
そういえば、とミュトがランバルを振り返る。
﹁ロウヒ討伐に出たんじゃなかったの?﹂
ランバルは顔をしかめて、腕を組んだ。
﹁出たさ。総勢七十名、支援物資を運ぶ後方の人員を含めれば百人
超えの討伐隊でな﹂
ランバルはため息を吐いて天井を睨んだ。
﹁駄目だった。手も足も出なかった﹂
自嘲気味に鼻を鳴らしたランバルは、自らの肩を指さす。
﹁鋼鉄製の盾が一撃で粉微塵だ。一撃入れるどころか、近付く事さ
えできない。伊達に八千年、守魔として君臨してるわけじゃないな﹂
暗い顔をしたミュトに気付いて、ランバルは首を振る。
﹁安心しろ。死者は出てない。すぐに見切りをつけて引き返したん
でな。あんなもの、人にどうにかできる代物じゃない。人間は今以
上に上の層へ行くことができないって事だろう﹂
苦い顔で天井を睨むランバルの言葉に、キロは眉を寄せる。
ロウヒが倒せないとしても、縄張りを避ければ上に行くことはで
866
きるはずなのだ。
実際、ムカデの守魔は放置されたまま、最上層に人類の領域が広
がっている。
﹁︱︱上の層に行けないって、どういう事?﹂
キロと同じ疑問を持ったらしいミュトが首を傾げる。
ランバルは意外そうな顔でミュトを見た後、頭をポリポリと掻い
た。
﹁そっか、最上層に来たばかりだったな﹂
呟いた後、紙とペンを貸せ、と要求するランバルにミュトが仕事
道具を貸す。
ランバルは紙にサラサラとペンを走らせた後、書き終えた図をキ
ロ達の前に提示する。
﹁最上層上部の簡易地図だ。現在発見されている洞窟道は全て、ロ
ウヒが守る縄張りへと通じている。ロウヒの縄張りは儂らの頭に被
さってる馬鹿でかい蓋なんだよ﹂
ランバルが描いた乱雑な絵には二十本ほどの道が繋がる巨大な空
洞と、棒人間として描かれたロウヒの姿があった。
ロウヒの縄張りは広く、ランバルに聞く限りいくつもの巨大な柱
で支えられているらしい。
﹁柱はロウヒが修復して維持している事が確認されている。それか
ら、戦闘中はうわごとみたいな声を絶えず挙げている。悠長に聞い
ている余裕なんかないけどな﹂
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真剣な顔で簡易地図を見つめていたミュトは、意見を伺うように
キロを見る。
﹁柱と柱の間隔にもよるけど、それほどの大空洞が崩落しないのは
妙だな﹂
﹁そうですね。支柱がいくら巨大でも、限度があるはずです﹂
クローナと意見が一致したキロは、少し考えてミュトを見る。
﹁海水、塩水が洞窟道に流れ込んできた事例ってあるか?﹂
小さな島の地下に洞窟道が広がっている可能性を考慮したキロの
質問に、ミュトは首を振った。
﹁岩塩が水に溶けだして流れ出る事はあるけど、キロが言う海水?
っていうのは知らない﹂
フカフカが興味深そうに尻尾を揺らす。
﹁翻訳が機能しておる。海水、という概念が我らの言語にもあるの
だな﹂
ふと思いついて、キロは口を開く。
﹁︱︱遺伝子操作﹂
﹁いで⋮⋮なんですか、それ?﹂
﹁聞いたことない言葉だね。でも、翻訳が機能してるよ﹂
クローナとミュト、それぞれが別の反応を返す。
キロは続けて、雨や雪、夕日など、気象についての単語を口にす
868
る。
今度はクローナもミュトも翻訳が機能したが、ミュトは聞いたこ
とが無いようだった。
キロはこめかみを片手で押さえながら、遺跡の壁画を可能な限り
詳細に思い出す。
遺伝子操作で生物を生み出しているらしい光景、上を睨む女神像
のロウヒ、キロは断片的な情報を繋ぎ合わせた。
﹁⋮⋮なぁ、八千年も経っているんだから、発音が変わっていても
おかしくないよな?﹂
﹁文字も多少変わってるよ? 地図師は古い文献を読まないといけ
ないから養成校で習うけど﹂
﹁ランバルさんに、ロウヒが口にしていたうわごとを真似してもら
えないか頼んでくれ﹂
あい分かった、とフカフカがランバルに声をかけ、口真似をして
もらう。
ランバルは不可解そうに眉を寄せていたが、思い出しながらぼそ
ぼそとロウヒの口真似をする。
﹁adsagehnlと、こんな感じだな。下手な口真似になっち
まったが﹂
﹁⋮⋮いや、十分である﹂
フカフカの言葉にミュトとクローナも深く頷いた。
フカフカがキロを振り返る。
キロが何かを確かめようとしている事には気付いているのだろう、
次の指示を待っていた。
キロは腕輪を外してクローナに声をかける。
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﹁言語であれば俺が意味を理解せずに口真似しても翻訳が機能する
か確かめたい。何か適当に言ってくれ。俺が復唱して、ミュトとフ
カフカに意味が通じれば成功だ﹂
クローナは少し考えた後、コホンとわざとらしい咳払いをする。
深呼吸を一つしたクローナは、何かを期待するような光が宿った
瞳でキロを見ながら口を開いた。
﹁ezd9i,94tクローナ﹂
﹁ezd9i,94tクローナ﹂
クローナの発音を可能な限り真似して、キロは復唱する。
瞬時にクローナが耳まで真っ赤になり、両手を頬に当てて悶えた。
﹁おい、何を言わせた?﹂
キロは外していた腕輪を手に取りつつ、クローナを横目で睨む。
クローナは満面の笑みを浮かべ、首を振った。
﹁別に何でもありませんよ﹂
嬉しくて仕方がないという笑みを両手で隠し、クローナははぐら
かす。
キロはミュトを見る。
ミュトは苦笑していた。
﹁翻訳は機能しなかったけど、何となく意味は分かったかな﹂
フカフカが尻尾を軽く振りながら、言葉もないとため息を吐いた。
キロはクローナを睨む。
870
﹁まじめな話してるって分かってるだろうが。後でお仕置きな﹂
﹁やった﹂
﹁︱︱なぜ喜ぶ⁉﹂
﹁それはもちろん、話の流れで﹂
﹁本当に俺に何を言わせたんだ⋮⋮? いや、やっぱりいい﹂
軽い頭痛を覚えたキロは話を打ち切り、残念そうなクローナを無
視して話を戻した。
﹁ロウヒに直接会って確かめるしかないな。うわごとっていうのが
どうにも気になる﹂
それに、とキロは考える。
上に向かえば必ず通る事になるロウヒの縄張りにならば、懐中電
灯の持ち主の遺体がある可能性も高い。
何しろ、精鋭で構成された討伐隊が手も足も出なかったのだから。
キロはフカフカにロウヒの縄張りの様子を訊ねるよう促す。
﹁ランバル、ロウヒの縄張りに黒髪の娘はいなかったか?﹂
ランバルは目を細めてキロを見た。
﹁光虫の群れを率いてるっていう小娘か。ずいぶん前から姿が見え
ないが、ロウヒに殺されてるとしたら遺体の回収はあきらめた方が
いい﹂
なぜ、と問う前にランバルは答えを口にする。
﹁ロウヒの攻撃方法は超広範囲の魔法攻撃の連射、まともに食らえ
871
ば、まともな形で死体は残らない﹂
ランバルの答えに、キロ達は一斉に天井を仰いだ。
遺体の状態を想像したわけではない。
ロウヒの攻撃方法と、懐中電灯の持ち主の特殊魔力は最高の相性
だ。
﹁なんだ、その顔は﹂
﹁黒髪の娘の特殊魔力は、触れた魔力を制御する効果を持っておる
のだ。ロウヒがいかなる攻撃を使おうと、魔法である以上無効化、
もしくは逆に利用できる﹂
﹁⋮⋮何の冗談だ、それは﹂
ランバルの口元が引き攣る。
︱︱気持ちは分かる。
キロは内心でランバルに同情した。
七十人で挑みかかって手も足も出ないロウヒの攻撃の一切が通用
しない特殊魔力を持つ者がいると聞けば、誰でも頭を抱えたくなる
だろう。
おそらく、懐中電灯の持ち主はロウヒに殺されていない。
上を目指していた彼女の事、ロウヒの縄張りを避けて通れないと
知れば突っ切ろうとするだろう。
そして、彼女の特殊魔力を持ってすれば本当に通り抜けてしまい
かねない。
︱︱ロウヒの縄張りの先に行ったんだとしたら⋮⋮。
天井を睨みながら、キロはため息を吐いた。
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第四十三話 お金の使い道
﹁これ、どうするんだ?﹂
権利関係を売却した際の代金を眺めて、キロは呟いた。
新設の街の権利は商人達にとっては金のなる木と等価らしく、値
段は一気に吊り上った。
キロ達にとっては無用の長物でしかなかった権利は高額で取引さ
れる事になり、代金を受け取ったミュトは真っ青だった。
しかも、守魔の死骸も高額で取引されるという。
研究資料や甲殻を使った防具など、いろいろな需要があるのだそ
うだ。
氷穴の町は死骸の保存にもちょうど良い気温を有しているため、
取引期間も長くとる事が出来る。
まだまだ値段は吊り上るだろう、との事だった。
受け取ったお金のほとんどが銀貨や銅貨であり、地下世界では一
生遊んで暮らせる資産である。
﹁⋮⋮どうしよう﹂
ミュトは混乱が見え隠れする瞳をキロに向けた。
﹁旅の資金としていくらかは持ち歩く。あとはどこかに預けるか、
貸し付けるか﹂
﹁貸し付けていいと思いますよ。新しく街を一つ作るくらいですか
ら、今のうちに投資しておいても損はないと思いますし﹂
地下世界では人類がまとまって住める地域が限られている。
873
開発失敗で人が集まらない、という事態はまずないだろう。
﹁それが良いだろうな。地図師協会に貸し付け、新設の街に建てる
協会の人事を牛耳ってしまうのも面白いが﹂
フカフカがにやりと笑い、尻尾を一振りする。
腹黒い提案にクローナが呆れたような視線をフカフカに向けた。
しかし、キロはフカフカの提案に賛成票を投じる。
﹁無事に空を見つけて戻ってきたとしても、その後住む場所を探す
必要が出てくる。地図師協会の支部を牛耳るのは理にかなってるな﹂
﹁キロさんまでそんなこと言って⋮⋮。権利を売ったとはいえ、新
設の街に守魔を倒したミュトさんが住んだりしたら否応なく政治に
巻き込まれちゃいますよ。街ごと牛耳るのはさすがに無理だと思い
ますから、住むのは別の場所が順当です﹂
クローナの反論も一理ある、とキロは頷きつつ、ミュトを見る。
キロとクローナはいずれこの世界を立つ。最終的な決定権はミュ
トにあるのだ。
ミュトは難しい顔で銀貨を見つめ、立ち上がった。
﹁考えてみる。フカフカ、一緒に来て﹂
氷穴の町を散歩でもするつもりか、ミュトは重ね着して部屋を出
ていく。
フカフカがキロを振り返り、尻尾で床を軽く叩いた。
﹁人間とは面倒な生き物であるな﹂
唐突に悟ったようなセリフを聞かされて、キロは首を傾げる。
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キロが問い返す前に、フカフカはミュトを追って部屋を出て行っ
た。
取り残されたキロはクローナを見る。
ミュトが出て行った扉を見つめていたクローナはキロに見られて
いる事に気付き、悩むように瞼を閉じて首をひねった。
﹁二人きりになれましたけど⋮⋮﹂
名残惜しそうにキロを横目で見て、クローナはため息を吐く。
﹁ここでキロさんに迫るのはズルなんですよね﹂
クローナは呟くと、部屋に備え付けのベッドに歩み寄り、うつぶ
せに寝転がった。
悶々とするようにじたばたと足を動かし、膝から下でベッドを叩
く。
﹁クローナ、埃が立つからやめろ﹂
﹁キロさんは暢気ですよねぇ﹂
訝しむ様にクローナはキロを見る。
キロは苦笑した。
﹁暢気って、結局、俺の金じゃないからな﹂
﹁⋮⋮えっと、あれ?﹂
じたばたしていた足の動きを止めて、クローナは困惑する。
キロの顔をまじまじと見つめた後、クローナは枕に顔を伏せた。
﹁私の早とちり? あれ、でも⋮⋮いやいや、キロさんが気付かな
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いとはちょっと思えないし、あれ?﹂
﹁独り言なら静かに、会話なら相手の目を見てしろよ﹂
ベッドの縁に片手を突いて、キロはクローナの後頭部をつつく。
独り言だったらしく、クローナは静かになった。
枕に顔を埋めて、時々足をじたばたさせるクローナにキロは首を
傾げる。
﹁俺が気付かないって、何の話だ?﹂
﹁⋮⋮私の早とちりみたいです﹂
クローナは納得いかない様子で未だに足をばたつかせている。
何を一人で悩んでいるのか分からず、キロはクローナが相談を持
ちかけてくるのを待っていた。
しかし、クローナは枕から顔を上げると自分の荷物を漁り、日記
帳を取り出した。
クローナがぱらぱらと日記帳をめくり始める。
﹁地下世界に来てからも書いてたのか?﹂
﹁書いてますよ。街に着く度にそれまでの事を色々と書いてありま
す﹂
書かないと落ち着かないので、とクローナは苦笑する。
しきりに日記帳をめくっていた手が止まり、クローナはじっくり
と読み始める。
何が書いてあるのか気になるところだが、他人の日記を覗き込む
わけにもいかない。
恥ずかしがってミュトにも見せていないはずだ。
もっとも、覗き込んでみたところで、クローナの世界の文字を数
字程度しか読めないキロに内容が把握できるはずもないのだが。
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﹁早とちりだったみたいですけど、何もかも書いているわけでもな
いですし、うーん﹂
ひとしきり考えて、クローナはよし、と呟く。何かを決断したよ
うだ。
﹁考える事は諦めましょう﹂
﹁おい、諦めるな。何を考えてたか知らないけど、重要な事じゃな
いのか?﹂
いつ相談を持ちかけられても大丈夫なように気構えを作っていた
キロは、クローナの決断に拍子抜けして突っ込みを入れる。
クローナがちょろりと舌を出した。
﹁だって、私ばっかり悩んでも仕方がないですから。表面化してか
らでもいいかなって。それまではすこし自重します﹂
﹁何が何やら分からないんだけど﹂
﹁キロさんが分からない間は、考えなくてもいいって事ですよ﹂
くすくすと笑ってキロの疑問を受け流したクローナは、一転して
真面目な顔をして居住まいを正した。
﹁それより、一つだけ確認しておきたい事があります﹂
︱︱結局、相談はするのか。
キロは苦笑しかけたが、クローナの真剣な顔に押されて座りなお
す。
キロが聞く態勢に入ると、クローナは口を開く。
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﹁ミュトさんとフカフカさんをキロさんの世界に連れて行くことは
できますか?﹂
﹁またずいぶんと唐突だな﹂
﹁答えてください﹂
答えるまで口を開かないつもりか、クローナは真一文字に口を閉
ざしてキロを見つめる。
キロは少し考えた後、答える。
﹁遺物に込められている念の強さ次第だけど、連れて行く事はでき
ると思う﹂
しかし、とキロは続ける。
﹁クローナの時以上に責任が持てない﹂
﹁それはミュトさんとフカフカさんが考えるべき事ですから、今は
置いておきましょう﹂
﹁司祭さんと同じことを言うんだな﹂
クローナの言葉に既視感を覚えて、キロは苦笑する。
選択した者が負うべき責任だ、とキロの懸念を司祭がバッサリと
切り捨てた事を思い出したのだ。
キロは部屋の扉を振り返る。ミュトが帰ってくる様子はまだない。
﹁それで、いきなりそんな質問をしてきた理由は空が無くなってい
た時の保険か?﹂
﹁保険もありますけど、揉めない様に、ですね。ミュトさんの事で
すから、簡単に引いてしまいそうなので﹂
﹁フカフカが背中を押す気がするけどな。空を見たがっているのは
ミュトと変わらないけど、フカフカは方法が目の前にあるなら簡単
878
に引くような奴じゃないから﹂
キロが見立てを語ると、クローナは微妙な顔をした。
クローナの反応に疑問を抱きつつ、キロは話を続ける。
﹁問題は、空を見るためだけにこの世界に帰って来れない可能性に
目を瞑れるかだ﹂
クローナの場合はキロと一緒にいる事が目的だった。
しかし、ミュトとフカフカは空を見る事が出来れば目的が達成さ
れる。
空を見るための観光としてはあまりにもリスクが高すぎると、キ
ロには思えた。
クローナが頷く。
﹁気持ちの整理をつけておくのなら、いま話しておくのがいいと思
うんです。でも、空がなかった時のことを前提に話すのは少し気後
れしてしまって⋮⋮﹂
空を見るためだけに地図師養成校に入り、邪険にされながらも最
下層からついに最上層まで上がってきたミュトとフカフカに話すに
は、前提条件があまりにも酷だ。
キロにも話をする勇気がない。
顔を見合わせて、キロはクローナと共にため息を吐いた。
﹁俺にはちょっと荷が重いかな﹂
﹁ですよね。空の状態を見てからでも遅くはない気がしますけど、
その前に懐中電灯の念を解消できたらどうしましょうか?﹂
﹁その場合は帰還を見送って、ミュトとフカフカに付き合おう。俺
もこの世界の空がどうなっているのか気になる﹂
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キロは素直に好奇心を吐露して、クローナに視線を向ける。
クローナは困ったように笑っていた。
﹁そういう事なら、遺物潜りの話は空を見つけてからにしましょう
か﹂
﹁決まりだな﹂
意見の一致を受けて、クローナは窓を見る。
氷穴の町の低い気温に対抗した分厚い鍾乳石の窓は閉め切られて
いる。
クローナは閉じた窓を透かして町を見るように目を細めた。
﹁ミュトさんの出方次第ですね﹂
クローナが呟いた時、部屋の扉がノックされた。
込められた力が弱いらしくささやかな音ではあったが、会話が途
切れた直後であったため何とか聞き取れた。
﹁どうぞ﹂
フカフカに教わっておいた数少ない地下世界の言葉を、キロは片
言でノックの主に返す。
﹁キロよ、扉を開けろ﹂
扉の向こうから返ってきたのはフカフカの声だった。
扉が重たいため、尾光イタチには開けられないらしい。
︱︱こんなところにも防寒対策が施されてるんだな。
年中冷凍庫の中にいるようなものだから当然か、とキロは一人納
880
得しながら、扉を開けた。
﹁ご苦労であるな﹂
フカフカが偉そうに廊下の壁際で座っていた。
キロは廊下を見渡すが、フカフカと一緒に出て行ったはずのミュ
トの姿は見当たらない。
﹁ミュトとは別行動だ。それより、キロに聞きたいのだが、おぬし
の世界ではどのような物に価値があるのだ?﹂
﹁なんだよ、藪から棒に﹂
﹁銀貨の類にはさほど価値がないのだろう? キロの財布にも入っ
ておるようだからな﹂
キロの質問に答える気はないのか、フカフカはさっさと答えろ、
と促してくる。
フカフカの質問の意図を掴めないキロだったが、律儀に答えた。
﹁種類や大きさにもよるけど、宝石は結構高値で取引されるな﹂
﹁ほう、石ころに価値を見出すのか。世界が変われば価値観も変わ
るのだろうな﹂
興味深そうに尻尾を軽く振ったフカフカは、目を細めてクローナ
を見た。
﹁我は中立である。そもそも、ミュトはまだ自覚さえしておらぬか
らな﹂
何の話だ、とキロが口を挟む前に、部屋の中からクローナが笑い
をかみ殺す声が聞こえてきた。
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不思議に思ってクローナを振り返るキロを一瞥して、フカフカは
機嫌よさそうに尻尾を揺らす。
﹁︱︱人もまた、変われば変わるものであるな。感謝するぞ﹂
882
第四十四話 再び、トット
﹁お世話になりました﹂
キロとクローナは氷穴の町の人々に頭を下げる。
壮年の男をはじめとした陽動部隊の者はもちろん、町の人間が残
らず出てきたのではないかと思うほど、見送り人は多かった。
﹁像が完成した頃にもう一回顔出しなよ。からかってやるからさ﹂
メイスの女がにやにやと笑いながら言う。
現実よりも美化されて形造られるだろう像を本人と見比べて楽し
むつもりらしい。
からかうつもり満々のようだが、メイスの女も遊撃部隊のメンバ
ーであったため、像になる。
﹁その時はやり返しますよ﹂
キロの言葉をフカフカが翻訳すると、メイスの女は楽しそうに笑
った。
壮年の男が進み出て、餞別だ、とキロに紙束を差し出した。
キロは手が塞がっていたため、クローナに目くばせする。
こくりと頷いてクローナが受け取った紙束には、地図が描かれて
いた。
フカフカが地図を覗き込む。
﹁ミュトが複製した地図ではないか﹂
883
餞別に文句をつけるつもりはないが、意図が分からないとフカフ
カが首を傾げる。
壮年の男は手振りで地図を裏返すように促した。
クローナが受け取った地図の裏を見ると、文字や図が描かれてい
る。
地図の裏の図を見て、キロは中学時代の数学の授業を思い出す。
﹁手抜き作図のやり方か、これ﹂
キロが看破すると、フカフカが興味深そうに地図の裏を見つめる。
﹁そのようであるな。ふむ、らしいと言えばらしい餞別である﹂
元地図師達からちょっとした技術の贈り物だ。
︱︱トットに続く道を探して彷徨っている時に書いてたのはこれ
か。
ミュトの地図を見ながら、手が抜けそうな所を発見するたびに裏
へ書き記していたのだろう。
﹁怒られるから、試験では使うなよ﹂
元地図師の一人が口に立てた人差し指を当てる。秘密、という事
だろう。
実用的な餞別をありがたく受け取ってカバンに収めるクローナを
見届けて、陽動部隊の面々がミュトに視線を移す。
苦笑を浮かべて頬を掻きつつ、中年男性が口を開く。
﹁しかしまぁ⋮⋮悪いことしたね﹂
キロも苦笑を浮かべて、背中のミュトを振り返る。
884
﹁気分はどうだ?﹂
ミュトからの答えはなかった。
ミュトはキロに背負われた状態で身動ぎ一つしていない。
昨日、余剰資金の使い道を考えると言って外に出たミュトは陽動
部隊の宴会に捕まってしまい、断り切れずにつき合わされていた。
帰りが遅かったため心配したキロとクローナが見つけた時にはす
でに酔い潰れていたのだ。
現在、絶賛二日酔い中のミュトはキロの背中で大人しくしている。
﹁フカフカも止めろよ﹂
﹁昨日のミュトは酔わせた方が良いくらいであったのでな﹂
役に立たないお目付けは悪びれずに尻尾を振った。
﹁それに、キロに言われる筋合いもない﹂
﹁どういう意味だ、それ﹂
キロはフカフカに問い返すが、無視された。
クローナも我関せずとばかりにそっぽを向く。
蚊帳の外に置かれているような気がして、キロは眉を寄せた。
﹁そろそろ行くぞ﹂
トットまで同道するランバルがキロ達を促して洞窟道に足を向け
る。
キロ達はもう一度、氷穴の町の人々に頭を下げて、ランバルの背
中を追った。
トットに続く道は入り組んでいるが、魔物に不意打ちされる心配
885
はあまりない。
設置した守魔の甲殻の影響で魔物が逃げだしたためだが、ひと月
もすれば魔物達も守魔が死んでいる事に気付くため、効果が無くな
るという。
﹁ランバル、お主はこれからどうするのだ?﹂
暇を持て余したフカフカがランバルに声をかける。
ランバルは落ち着かない様子で肩を回した。
﹁新しい盾が完成するまで中層で新人教育だな。お前達にも迷惑か
けたあのバカ共みたいな奴が他にもいるかもしれねぇ。きっちり締
めてくる﹂
︱︱あの五人組、色々な人に迷惑かけてるな。
キロはとばっちりを受ける新人達に同情する。
﹁ロウヒ討伐隊は解散したんですよね。上の方の食糧事情はどうな
ってるんですか?﹂
キロに背負われたミュトの顔を覗き込んでいたクローナがランバ
ルに質問する。
キロの背中で、ミュトがほっと安堵の息をこぼした。
ランバルは曲がり角の先に目を凝らして安全を確認し、口を開く。
﹁普段とそう変わらねぇはずだ。ロウヒ討伐に出る前に食料を運び
こんでおいたんでな﹂
大規模な護衛団を率いるだけあって、大人数の移動による影響は
考慮していたらしい。
886
ロウヒ討伐隊には地図師も多く含まれていたため、現在、すべて
の層の中で最上層の地図がもっとも更新頻度が高いという。
また、ロウヒ討伐隊の中で武器等の破損がなかった者が魔物を倒
して回っている事から、魔物に出くわす確率も低い。
最上層を移動するには絶好の時期である。
︱︱トットでの食糧買い出しは最低限でよさそうだな。
﹁儂と一緒に下りてきた連中に地図師もいる。上を目指すんなら、
トットの地図師協会で最新の地図を閲覧するといい﹂
ランバルのアドバイスにフカフカが礼を言った。
翌日の午後、トットに到着した。
﹁これでキロの料理も食い納めか。お前、護衛団に入れよ。高待遇
で迎えるから﹂
胃袋を掴まれたランバルがキロをしつこく護衛団に誘う。
断固阻止の構えでクローナがキロの腕に抱き着いている。
朝方二日酔いから回復したミュトも、キロの服の裾を握っていた。
﹁二日酔いになってキロの料理のありがたさを再確認したんだ。絶
対に、絶対に渡さない﹂
固い決意がこもった瞳を向けられて、ランバルが怯んだ。
しかし、まだ諦め切れないのか、ランバルは待遇や報酬を並べだ
す。
﹁全員で入るってこともできるんだ。そう結論を急ぐ事でもないだ
887
ろ?﹂
﹁いや、お断りしますよ。団体に所属できない理由があるもので﹂
混乱を招くのが容易に想像できるため、元の世界に帰るための旅
の途中だとは教えずにキロはきっぱり断る。
本人に断わられては流石に引かざるを得ない。
ランバルは残念そうにため息を吐いた。
﹁気が変わったらいつでも来いよ﹂
いつかの台詞を再び口にして、ランバルはトットの町へ消えて行
った。
﹁よし、勝った﹂
﹁えぇ、勝ちましたね﹂
ミュトとクローナがガッツポーズする。
﹁何と戦ってるんだよ﹂
キロは苦笑して、地図師協会へ歩き出した。
地下世界では珍しい黒髪のキロや茶髪のクローナ、尾光イタチを
連れたミュトは目立つ。
すでに守魔を討伐したという噂は広まっており、キロ達は集まる
視線を振り切るように早足で地図師協会の建物へ入った。
協会の中では過去の地図などの資料が詰まった本棚が遮蔽物とな
り、視線から逃れる事が出来た。
ひそひそと噂話が聞こえてくるが、極力無視する。
﹁新設する街の権利を売り払ったのは英断であったな﹂
888
キロ達より聴覚が優れているフカフカには内緒話が筒抜けらしく、
鬱陶しそうに耳を動かす。
ミュトがフカフカの言葉に苦笑した。
﹁毎日これだと気が休まらないだろうね。オラン・リークスが最上
層に行った理由が分かった気がする﹂
ランバルからの情報通り、協会にはロウヒの縄張り近くまでの地
図があった。移動時間を踏まえれば、いま手に入る中で最新の地図
情報だろう。
ミュトは地図を手早く複写する。氷穴の町で貰った餞別が早くも
役に立っていた。
﹁ロウヒの近くにある街まで、五日もかからないかも。少し傾斜が
きついけど、途中に水や食料を補給できる町もあるみたいだね﹂
﹁その道にしましょう。たくさんの町を回ると監視されてる気分に
なりそうです﹂
クローナの言葉に、キロも同意した。
﹁荷物持ちに人を雇う事も出来るけど、五日分の食糧なら予備を含
めてもそんなに量はないだろ﹂
大雑把に重量を予想して、キロは内心で苦笑する。
癖のある動き
で問
︱︱軽いとは言えないけど、問題ないと言えるくらいには、俺も
体力が付いたんだな。
長すぎるはずの槍も、氷穴の町の住人曰く
題なく振るえるようになっている。
︱︱日本で生活する分には必要ない技能ばっかり増えていくのは
889
困りものだけど。
キロはクローナやミュト、フカフカを見て、笑みを浮かべる。
旅をするのも悪くないと思う自分に気付いたからだ。
地図の複写を終えたミュトが資料を片付ける。
﹁お金に余裕はあるし、魔物も少なくなっているみたいだから、ち
ょっと大きい買い物しようか﹂
﹁大きい買い物?﹂
おうむ返しにクローナが問うと、ミュトは教会の出口へ歩き出す。
﹁付いてきて﹂
ミュトに連れられて辿り着いたのはトットの市場だった。
市場の奥へ足を運ぶと、馬に似た大型の動物を商っている店の前
に立つ。
﹁荷運びに使う動物か?﹂
﹁そうだよ。未踏破層に入ったら買おうと思ってたんだ。その先に
人は住んでいないし、自然と荷物が増えるからね﹂
ミュトは店の奥を指さす。
﹁馬ですか?﹂
背中まで白いたてがみで覆われた、四本足の大型動物がいた。
キロの記憶にある馬より首が短く、足も太い。
﹁すごく高そうなんですけど﹂
890
資金は大丈夫かと心配するクローナに、ミュトは苦笑した。
﹁守魔の死骸を売り払った代金の半分もしないよ。ランバルさんも
護衛団名義で何頭か持ってると思う﹂
店主がミュトの言葉に反応して顔を上げ、キロとクローナを見つ
める。
﹁⋮⋮あんたら、まさか守魔を討伐したって言う﹂
﹁︱︱値段は?﹂
ミュトは店主の言葉を遮り、馬に似た動物を指さした。
店主は動物を振り返り、悩むようなそぶりを見せる。
フカフカが尻尾を揺らした。
﹁吹っかけようなどとは考えぬ方が良い。相場は心得ておる﹂
﹁英雄様を相手に吹っかけたりはしませんや﹂
苦笑して、店主は値段を提示する。
どうやら、妥当な値段らしく値引き交渉も行わずにミュトは代金
を支払った。
﹁ちょいと宣伝に使ってもいいですかね?﹂
商売人の笑みを浮かべての質問に、フカフカが尻尾を揺らす。
﹁必要なかろう。すでに店ごと注目を浴びておる﹂
キロが肩越しに振り返れば、周囲の人間が全く同じタイミングで
891
頭を動かした。
眺めていた事を悟られまいと視線を外したのだろうが、全員が一
斉に動いたため総じてバツの悪そうな顔を浮かべている。
︱︱だるまさんが転んだ、とか言いたくなるな。
店の奥から連れてこられた駄馬を受け取る。
﹁食う時はしっかり焼いてください。内臓も焼却後、撒いておけば
いいので﹂
店主の説明にキロは眉を寄せた。
﹁買ったばかりの客にする話なのか?﹂
﹁まぁ、大事な話ではありますよね﹂
クローナも苦笑している。
手綱を握ったミュトがキロとクローナの話に割って入る。
﹁食べなきゃいけない時には食べるでしょ?﹂
何がおかしいのか分からないと、ミュトは不思議そうにキロとク
ローナを交互に見た。
ミュトの肩に乗るフカフカも首を傾げている。
どうやら、地下世界にはシビアな価値観が蔓延しているようだ。
892
第四十五話 形作るモノ
五日分に予備まで加えた食料品と調理器具、三人分の着替えを積
んでも駄馬はのほほんとした顔で歩いている。
進んでいる洞窟道の傾斜は事前にミュトから聞かされた通りの急
角度だったが、平地であるトットの町中を歩いていた時と速度はま
るで変わらない。
旅は今までにないペースで順調に距離を稼げていた。
︱︱駄馬一頭でこんなに楽になるんだな。
キロは急角度の洞窟道を見上げて、感慨深く思う。
﹁人とすれ違いませんね﹂
﹁トットを出て、もう二日か。この道はあんまり利用されてないの
かもな﹂
地図とにらめっこしていたミュトが顔を上げる。
この二日間、地図を描く手は止まっていた。地図通りの洞窟道が
続いているため、更新の必要がないからだ。
﹁出来たばかりの洞窟道だから更新が必要にならないと思って地図
師が通らないんだよ。足場も角度があって戦いづらいから、傭兵も
避けてるんじゃないかな﹂
﹁こんな道を通る酔狂な奴は俺達だけって事か﹂
キロが混ぜっ返すと、ミュトはくすくすと笑う。
ミュトの肩で明かり役をこなしていたフカフカが鼻を鳴らす。
﹁空を見たがる者どもだ。自分に酔うか、夢に酔うか、いずれも粋
893
な事に変わりはあるまい﹂
﹁自分に酔っぱらう事が粋とは思えないな﹂
﹁哲学は嫌いか?﹂
﹁我思う、ゆえに我あり、とか? 確かに、酔っててもそうは出て
こない名句だ﹂
キロとフカフカの会話に、クローナが首を傾げる。
会話の流れに付いて来れていないのかとも思ったが、クローナは
自然と会話に混ざってきた。
﹁余分なものをそぎ落とした結果、自分を構成するのが自分を疑う
精神だったって話ですか?﹂
﹁⋮⋮司祭様に教わったのか?﹂
キロの予想をクローナが肯定する。
しかし、クローナは不思議そうに首を傾げた。
﹁ただ、司祭様は記憶の蓄積の上に自分が作られるのだから、根元
を掘り下げるより枝葉を広げなさい、とも言ってました。だから、
日記をつけなさい、とも﹂
記憶と経験の枝葉を日毎に記し、形作られた自分を見つめ直す、
司祭らしい理由付けだ。
キロは司祭の顔を思い出しながら、笑みを浮かべた。
﹁確かに、生きていくうえで根元を見る機会はあんまりないし、俺
も日記をつける方に賛成かな﹂
﹁キロさんも書きますか?﹂
クローナに問われ、キロは肩を竦める。
894
﹁俺はすでに大木だから、枝葉末節にはこだわらないんだ。幹がし
っかりしてればいいんだよ﹂
﹁またそういう事言って逃げる﹂
クローナが怒った振りをしてキロの腕をポカポカ叩いた。
クローナは日記仲間を増やそうとミュトを見た。
標的が自分に移ったと勘付いたミュトは、視線を彷徨わせる。
﹁ボクは⋮⋮自分じゃなくて夢に酔ってるから。これ以上別のもの
に手を出すとまたキロの背中のお世話になっちゃうよ﹂
体の良い逃げ口上を並べて、ミュトはクローナの視線をフカフカ
に誘導する。
フカフカは尻尾を丸め、全員を見回した。
﹁周りを見れば、枝葉の形もわかるというものである﹂
クローナがそっぽを向いた。
﹁もう良いですよ。近いうちに思い出話を振って覚えていないこと
を悔しがらせてあげますから﹂
﹁クローナとの思い出を忘れるはずがないだろ﹂
キロが切り返すと、赤い顔のクローナに腕を叩かれた。
﹁︱︱ボクとの思い出は?﹂
問いかけられて顔を向ければ、ミュトが地図を見る振りをしてキ
ロを横目でちらちらと窺っていた。
895
心細そうなミュトの視線を受けて、キロは笑いかける。
ポケットから携帯電話を取り出して起動し、画像ファイルを呼び
出すとミュトに画面を見せた。
﹁枝葉末節ならこうして残したりしないだろ。ちゃんと覚えてるよ﹂
携帯画面を見たミュトは目を見開く。
ミュトの反応を不審に思ったのか、クローナがキロの携帯画面を
覗き込んだ。
﹁いつの間にこんなもの⋮⋮﹂
キロが持つ携帯電話の画面には滝壺の街が写っている。
初めて滝壺の街を訪れた時に撮ったものだ。
キロは携帯電話を操作して、撮影モードを呼び出す。
﹁ちょっとそこに並んでくれ﹂
キロはクローナとミュトを洞窟道の壁際に立たせ、携帯で撮影す
る。
撮影時のフラッシュ機能は切っていたが、フカフカの明かりがあ
るため写真はきちんと取れていた。
キロは再び携帯電話の画面をクローナとミュトに見せる。
﹁こういう事も出来る道具なんだよ﹂
画面を覗き込んだクローナとミュトは互いの顔を確認した後、再
び画面を見つめる。
﹁ボク、こういう顔してるんだ⋮⋮﹂
896
少し不満そうに呟いたミュトに、クローナは唇を尖らせる。
﹁ミュトさんは可愛いからいいじゃないですか。私は目を細めちゃ
ったので⋮⋮﹂
二人とも自身の写真写りに不満のようだ。
フカフカだけが特に気にした様子もなく画面を見つめている。
﹁ふむ、ひげの角度がなってないな﹂
呟いたフカフカは前足で顔を洗うようにして髭の角度を整えだす。
三者とも不満があるようだ、とキロは苦笑し、携帯電話を操作す
る。
﹁もう一回撮るか?﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁電池はまだ余裕があるからな﹂
残量を気にしつつ、キロは答える。
ミュトと顔を見合わせたクローナは、キロの右に回り込んだ。左
にはミュトがいる。
左右からキロに抱き着いた二人は、キロを見上げた。
﹁では、お願いします﹂
﹁キロが入っていないと思い出としては片手落ちだからね﹂
意見の一致を喜ぶように、クローナとミュトはくすくすと笑う。
早く早くと促され、キロは携帯電話を持った手を正面に伸ばす。
画面を見ながら全員が収まるように調節する。フカフカだけ全身
897
が写っているのにはどことなく不公平な気がするが、目を瞑った。
キロがシャッターを切ると、電子音がして写真が撮られる。
画面の中には顔を寄せるキロとクローナ、ミュトの三人と、中央
に位置するキロの首に巻き付いたフカフカが写っていた。
画面を確認したクローナとミュトが眉を寄せる。
﹁角度、かな﹂
﹁キロさん、私達に化粧をお願いします﹂
﹁キリがないからまた今度な﹂
キロは苦笑して、画像を保存した携帯電話の電源を切った、
フカフカがキロの耳元でささやく。
﹁二人にあのようなおもちゃを渡せば、こうなる事は目に見えてお
っただろう﹂
﹁考えなかったわけではないけど、ここまでこだわるとは思わなか
った﹂
元の世界に帰ったらインスタントカメラでも渡してみよう、とキ
ロはひそかに計画を立てておく。
クローナと何事かを相談していたミュトがキロを見た。
﹁キロって、化粧までできるの?﹂
﹁あぁ⋮⋮依頼で無理やり仕込まれた﹂
あまり思い出したくない、とキロの顔には出ていたが、ミュトは
好奇心を抑えきれないのか、恐る恐る口を開く。
﹁それって、前に話してた女装の依頼⋮⋮?﹂
﹁正確には女装の依頼じゃないけど、女装しないといけない依頼だ
898
ったんだ﹂
苦い顔で答えるキロとは対照的に、クローナは満面の笑みで証言
する。
﹁十人いたら八人が振り返るくらいの美人さんでしたよ﹂
携帯電話が入ったキロのポケットに視線を移したクローナは笑み
を浮かべた口元を片手で隠す。
﹁次の機会があったら、携帯電話を使ってくださいね﹂
﹁女装なんか二度とやるか。それに、シールズには一目で見抜かれ
たんだから、そんなに効果はないだろ﹂
﹁あの時は私が隣にいたから気付かれたんですよ﹂
意見を交わすキロとクローナを横目に見たミュトは、どこか寂し
そうな顔で手元の地図に視線を落とした。
﹁ボク、男装やめようかな⋮⋮﹂
ポツリと呟いたミュトに、キロは首を傾げる。
クローナは驚いたようにミュトを見た後、納得したように小さく
頷いた。
キロは視線で説明を求めるが、クローナは赤い舌を出して拒絶す
る。
キロがむっとすると、クローナはすまし顔でミュトに声をかけた。
﹁男装をやめるつもりなら、早めに決断した方がいいと思いますよ。
引っ込みがつかなくなると困るのは将来の自分ですからね﹂
899
クローナが後押しすると、ミュトは神妙な顔で前を見た。
思い悩む素振りはあったが、ミュトはクローナの袖を掴むとキロ
から離れるように洞窟道の端に寄る。
﹁フカフカさんはキロさんのところに行って見張っていてください﹂
クローナがフカフカをキロに差し向ける。
フカフカは楽しそうに尻尾を一振りしてクローナの指示に従った。
﹁なんで俺が蚊帳の外なんだよ﹂
﹁むしろ、キロを中心に回っておる﹂
不貞腐れるキロに、フカフカは愉快そうに呟いた。
900
第四十六話 温泉
急な上り坂を上り切ったところに町があった。
多数の奇岩が支柱として天井を支える奇抜な外観の町だったが、
派手な見た目に反して閑静な町だった。
キロは通りを見渡して、人通りの少なさに気付く。
町に入ると高確率で面倒事に巻き込まれてきたため、つい身構え
てしまうキロとクローナを放っておいて、ミュトが通行人を呼びと
める。
﹁人が少ない気がするんだけど⋮⋮?﹂
﹁あぁ、崩落の危険があるって話で、町ごと閉鎖する予定なの。家
財道具に武器防具、資料の運び出しと結構忙しくてね。近隣の街に
順次運び出してる最中だから、人が出払ってるのよ﹂
手短に説明して、通行人は天井を見上げる。
少し寂しそうな横顔だった。
ミュトは頭を下げて礼を言う。
﹁ボク達も早めに出た方がよさそうだね﹂
聞けば、最新の地図等の資料はまだ地図師協会に保管されている
との事だった。
キロ達は地図師協会に足を運ぶ。
地図の複製に大わらわの職員達がミュト達に目を止め、まじまじ
と見つめる。守魔を討伐した話が伝わっているのだろう。
キロ達は声をかけられる前にそそくさと本棚の裏に隠れた。
901
﹁本当に、早めに出た方がよさそうだ﹂
﹁ですね﹂
あまり悪い気分ではないが、持ち上げられるのは性に合わない三
人は、本棚から最新の地図を探し出して複写する。
﹁武勇伝の一つでも語ればよいではないか﹂
フカフカだけは不満そうに、職員を振り返る。
﹁我が守魔との戦いを事細かく臨場感たっぷりの感動巨編にして語
って聞かせようか﹂
﹁フカフカ、調子に乗らないで﹂
首根っこを掴み、ミュトはキロにフカフカを渡す。
﹁キロ、フカフカを見張ってて﹂
﹁了解﹂
﹁つまらぬ奴らめ﹂
尻尾を強めに振って、フカフカが鼻を鳴らす。
地図の複写を終えて、キロ達は地図師協会を出た。
閑散とした町は洞窟内の暗さも相まって寂しさが募る。
宿は営業していたため、キロ達は一泊を願い出る。
しかし、店主は困り顔で頭を掻いた。
﹁すまん。寝具をあらかた運び出しちまって、客は二人しか取れな
いんだ。それもさっき埋まっちまって⋮⋮﹂
﹁他に宿は?﹂
﹁この町でまだやってるのはうちだけだね。すまないね。湯浴みだ
902
けでもしていくかい?﹂
無料でいいとの事なので、キロ達はありがたくお湯を貰って部屋
に入った。
ベッドや椅子などが運び出された後の客室は殺風景で、ずいぶん
と広く見える。
クローナとミュトは別の部屋に入っていったが、おそらく同じ状
態だろう。
﹁何となく、心細く感じるな﹂
﹁守魔の脳天を突き刺した男が何を言う﹂
﹁それとこれとは話が別だろ﹂
フカフカと言葉を交わしつつ、キロは服を脱いで布をお湯に浸す。
﹁そろそろ風呂に入りたいな﹂
濡らした布で体を拭くだけではどうしても満足できない。
しかし、フカフカはお湯を張った桶に悠々と浸かり、キロを見上
げた。
﹁でかい体は不便であろう?﹂
﹁心底むかつくな。俺相手に風呂で喧嘩を売るな。沸点低いんだぞ﹂
ここが氷穴の町だったなら、お湯と優越感に浸っているフカフカ
の桶に氷をいくらでも放り込めるのに、とキロは悔しがる。
念入りに体を洗い終えたキロは、フカフカに乾いたタオルを放り
投げた。
服を着て廊下に出ると、すでに待っていたクローナとミュトが顔
を寄せ合って真剣に話し合っている。
903
何の話だろうと首を傾げるキロに気付いて、クローナが手を振っ
た。
﹁ミュトさんの服を買おうかと思ったんですけど、この町だともう
品揃えが悪いらしくて﹂
﹁宿もここ一軒しか営業してないくらいだしな。これから向かうロ
ウヒのそばにある街なら、それなりに大きい店もあるんじゃないか
?﹂
人類の生存圏の中で最も上に位置する街だ。魔物の襲撃に備えて
人口も多いだろう、とキロは見当をつける。
ミュトが頷いて、口を開く。
﹁いまならロウヒ討伐隊が持ち込んだ物資も流れてそうだから、そ
こで服を揃えようかなって。キロは着替えとか大丈夫?﹂
﹁あと三日くらいだろ。我慢しておけば服を選べるっていうなら、
我慢するさ﹂
キロの答えで、服を買う機会は次の街に持ち越しと決まり、宿を
出る。
畜舎につながれていた駄馬がとぼけた顔でキロ達を見た。
旦那、もう行くんですかい、と声をかけてきそうな、渋さのある
声で駄馬は一鳴きする。
食料を買い足そうと店を探したが、物資を運び出す際の糧食とし
て提供されたため保存食は品切れらしい。
仕方なく、キロ達は町を出発した。
ミュトが説明してくれた道順を聞く限り、今日一日は長く緩やか
な下り坂が続き、次の二日は前日に下った分を取り戻すような急な
上りらしい。
904
﹁二泊三日の野宿の旅ですね﹂
﹁三日目には新品の服と美味い食事と暖かいベッドが待っているっ
て事で、気を取り直していくぞ﹂
クローナが不用意な発言で下げた気分を無理やり上げて、キロは
坂道を下りだす。
蛇行する下り道は死角が多かったが、フカフカの聴覚による索敵
が効果を発揮するため苦にならない。
しかし、魔物は全く出てこなかった。
トットを再出発してからというもの、一度の戦闘もしていない事
を思い出し、キロ達は拍子抜けする。
ロウヒを討伐できずに解散した傭兵達が憂さ晴らしに魔物を狩り
回っているとしか思えない。
戦闘のない快適な旅を続けて道を下り切り、キロは腰を降ろそう
として思いとどまる。
中腰のまま止まったキロを不思議そうに見ていたクローナも、地
面に手を着くなり固まった。
﹁かなり湿ってますね﹂
﹁俺の気のせいじゃなかったか。ちょっと天井を触ってくる﹂
キロが上を見上げると、気を利かせたフカフカが明かりを上に向
けた。
動作魔力を纏ったキロは壁を走って十メートルほどの高さにある
天井にたどり着くと、手で触るまでもないと判断して地面に降り立
った。
﹁水が漏ってるかと思ったんだが、天井付近の空気はやけに温度が
高い。もしかしたら、温泉かもしれない﹂
905
キロが報告すると、クローナが嬉しそうに両手を合わせた。
﹁久しぶりに温泉に入れますね﹂
﹁喜ぶところじゃないよ、クローナ﹂
ミュトが深刻な顔で告げる。
意味が分かっていないらしいクローナにフカフカが説明する。
﹁源泉は温度が高い。寝ている間に熱湯を浴びたくはなかろう?﹂
﹁有毒ガスが出るかもしれないから、ここだと安心して寝られない
ね。徹夜になるけど、もう少し進むしかないよ﹂
降ろそうとしていた荷物を再び駄馬に括り付け、ミュトが坂道を
見上げる。
﹁温泉、入れないんですか?﹂
名残惜しそうにクローナが天井を見上げる。
直後、目を見開いたクローナは杖を掲げ、声を張り上げた。
﹁走ってください!﹂
反射的にミュトは駄馬の手綱を引っ張り、キロはクローナの腰に
手を回して動作魔力を練った。
頭上に圧迫感を感じてキロが見上げると、クローナが生み出した
らしい岩の壁が斜めに頭上を覆っている。
坂道を駆け上がりながら、キロは背後から水音を聞いた。
﹁何が起きた⁉﹂
﹁天井が抜けました!﹂
906
キロの短い問いかけに答えたクローナが坂道を振り返る。
﹁水量にもよりますけど、あの勢いだとこの辺りが水没するかもし
れません﹂
キロも道を振り返り、目を凝らす。
クローナが生み出した岩の壁が天井から落ちてきた温泉の中に沈
んでいくのが見える。
﹁キロ、クローナ、隔壁を作るのだ。このままでは水流に呑まれる
!﹂
嫌な未来予想を告げるフカフカの声にキロは顔から血の気が引く
音を聞いた気がした。
﹁クローナは下から頼む。俺は上から石壁を出す﹂
﹁魔力は多めに込めた方がいいですよね﹂
クローナを地面に降ろし、キロは壁を駆け上がりながら道を封鎖
するように石壁を生み出していく。
クローナが地面から巨大で分厚い岩の壁を生み出している。
︱︱かなりの水量だな。
熱気が顔に当たり、汗が噴き出るのも構わずにキロは石壁を生み
出し続け、道を上から下まで完全に封鎖した。
地面に下りたキロに休息する暇を与えず、ミュトは坂道の上を指
さす。
﹁早く、高いところに避難するよ﹂
907
すでにクローナが駄馬の手綱をミュトから受け取って走り出して
いた。
キロもミュトと共にすぐに後を追う。
﹁崩落の危険って、まさかあの温泉のせいか?﹂
﹁多分、別件だよ。温泉が出るなんて最新の地図にも乗ってなかっ
たから﹂
キロは思わず舌打ちする。
最新の地図に温泉の事が乗っていなかったのなら、坂道をどこま
で登れば安全なのかもわからないという事だ。
ミュトの肩からフカフカがカバンの中へもぐりこみ、最新の地図
を口にくわえて出てきた。
ミュトはフカフカから地図を受け取り、素早く目を通す。
立体的に周囲を走る洞窟道から、温泉の規模等を割り出そうとし
ているのだ。
しかし、事態はさらに悪化する。
﹁ミュトさん!﹂
キロ達の前を走るクローナが洞窟道の先を指さした。
﹁道が塞がってますッ!﹂
クローナが指差す先、洞窟道の天井が崩れ、通行できなくなって
いた。
キロは地面の振動を感じ、背後を振り返る。
石壁が決壊したらしく、熱湯が洞窟道を急速に上ってくるのが見
えた。
908
﹁ミュト、時間がない。どうする?﹂
焼け石に水でも抵抗しないよりマシだと、キロは背後に石壁を生
み出す。
ミュトは地図を見て眉を寄せる。
﹁この辺りに並走する洞窟道が見当たらない﹂
壁や地面を壊しても、別の洞窟道に逃げ込めないと言外に告げた
ミュトは、地図を握り潰した。
その時、フカフカが耳を動かし、崩落した天井を見上げる。
﹁天井の先から風の音が聞こえておる。洞窟道があるぞ!﹂
キロはミュトと顔を見合わせた後、すぐに動作魔力を練って壁を
駆け上がった。
右手に動作魔力を集め、天井に触れると同時に流し込む。
天井がはじけ飛び、真っ暗な空洞が姿を現した。
重力に従って落下したキロは地面に降り立ち、クローナに声をか
ける。
﹁クローナ、階段を作れるか⁉﹂
﹁楽勝ですよ!﹂
クローナの杖から輝きが失われると同時、洞窟道の壁に天井へと
続く石の階段が姿を現した。
クローナとすれ違いざま、ミュトが駄馬の手綱を受け取って階段
を駆け上がる。
ミュトの後ろにいたキロはクローナの腰に手を回して壁を駆け上
った。
909
せり上がる熱湯はクローナが生み出した階段を徐々に飲み込んで
いく。
キロ達が上に避難し終えたとき、熱湯もまた満水に達して上って
来なくなった。
﹁⋮⋮間一髪だな﹂
キロは先ほどまで歩いていた洞窟道を見下ろして、ため息を吐く。
洞窟道は湯気を立てる泥で濁った熱湯の中へ完全に没していた。
910
第四十七話 遭難初日
ミュトが洞窟道と手元の地図とを見比べ、途方に暮れたように肩
を落とした。
下の洞窟道を見下ろしていたキロはミュトの様子に気付いて顔を
上げる。
﹁道は分かりそうか?﹂
ミュトは力なく首を振った。
﹁新しい洞窟道なんですね﹂
クローナが周囲を見下ろして、眉を寄せる。
キロはクローナの視線を追って、違和感を覚えた。
﹁苔が生えてるな﹂
﹁気付いたようであるな﹂
フカフカが鼻を鳴らし、尻尾の明かりで頭上を照らす。
誘われて視線を向けた先には、天井から下がる鍾乳石がいくつも
見えた。
﹁未発見の洞窟道ではあるが、出来上がってからかなりの歳月を経
ておる。厄介なことになったぞ﹂
﹁過去五年分の地図にこの道が載ってないから、どこの街にも通じ
ていない、袋小路の可能性があるんだよ﹂
911
ミュトが困り顔で地図を見つめるが、記載されていない洞窟道の
全容が浮きあがるような奇跡は起きなかった。
キロは洞窟道に目を凝らす。
左右に伸びる洞窟道は、左側が下り坂、右側が急角度の上り坂と
なっている。
左側の道は見える範囲だけでも三つの曲がり角があり、その全て
が行き止まりとは少し考えにくい。
しかし、五年もの間地図師達が見落としていたとも考えにくい。
天井の鍾乳石を見る限り、洞窟道が出来てからの歳月は五年以上に
なりそうだったが。
﹁救援が来る可能性は低いよな﹂
﹁下の道があの状態だからね﹂
ミュトが視線をもと来た洞窟道に移す。
町を出た後の下り坂、その下端にあたる部分で温泉が湧き出たた
め、キロ達がいる場所まで救援を送るとしても熱湯の中を泳いでこ
なければならない。
キロは洞窟道の先を指さした。
﹁この先で壁か地面を壊して別の洞窟道に繋げるのはどうだ?﹂
﹁温泉が何所から出てくるか分からない現状で、むやみに壁を壊し
たら二次被害が起きるよ﹂
ミュトは首を振り、新しい紙を取り出して手早く地図を作製し始
めた。
﹁とにかく、周辺の地形を調べよう。もしかしたら別の洞窟道に繋
がっているかもしれない﹂
912
基礎事項を書き込んだミュトがクローナを振り返る。
クローナは温泉を見つめていた。
﹁この温泉、汲み上げて冷ませば入れますよね⋮⋮?﹂
物欲しそうに温泉を見つめていた、クローナが呟く。
一瞬何を言われたのか分からず、キロはミュトと顔を見合わせた。
ミュトは唖然とした顔をした後、頭痛を覚えたようにこめかみを
抑える。
﹁クローナ、いまの状況を分かってるの?﹂
﹁遭難中です。でも、温泉ですよ?﹂
クローナが同意を求めるようにキロを見た。
キロはつい視線を彷徨わせる。
﹁入りたくないと言えば嘘になるかな﹂
﹁キロまで何を言い出すのさ﹂
頬を膨らませてミュトはキロを非難する。
しかし、キロはクローナの世界に行った日から今日まで、肩まで
湯に浸かったことがない。
濡れた布でかなり念入りに体を洗っているとは言っても、そろそ
ろ風呂に浸かりたいと思っていたのだ。
フカフカが愉快そうに尻尾を揺らす。
﹁ここは洞窟道である。二手に分かれるわけにもいかぬが、良いの
か?﹂
フカフカが言わんとする事を察して、クローナとミュトが顔を赤
913
らめた。
だが、クローナは震える拳を掲げた。
﹁こ、混浴上等です﹂
キロに顔を向ける事はなく、クローナは宣言する。
﹁クローナは良くても、ボクは⋮⋮﹂
ミュトがキロをちらちらと窺い、口籠った。
︱︱このままだと収拾がつかなくなるな。
キロは咳払いして、洞窟道を指さす。
﹁何はともあれ、周囲の探索をしよう。温泉に入るとしても、俺達
が知らないだけで実はこの洞窟道が町に繋がっていて人通りが多か
ったりしたら、困るだろ?﹂
キロが仮定の話を持ち出すと、ミュトが助け舟に感謝して乗っか
る。
﹁そ、そうだよ。食糧や水の問題もあるんだから、のんびりしてら
れないよ﹂
﹁食糧はともかく、水ならそこにたくさんありますよ﹂
クローナが温泉を指さす。
労せず、水の確保が完了していた。
﹁︱︱左から調査しようか﹂
クローナに会話の主導権を握られてはなし崩しに温泉に浸かる事
914
になりかねない。
ミュトが率先して歩きだした。
名残惜しそうに温泉を振り返りながら、クローナがミュトの後ろ
をついていく。
キロはクローナの横に並び、小声で話しかけた。
﹁深刻にならないようにするのはいいけど、やり過ぎだ﹂
﹁やっぱり、気付いちゃいましたか﹂
クローナが肩を竦める。
﹁でも、温泉に入りたいのは本音ですよ﹂
﹁それは我慢しろ﹂
﹁仕方ないですね。代わりに、キロさんにのぼせる事にします﹂
満面の笑みを浮かべて、クローナがキロの腕に抱き着く。
キロは苦笑した。
﹁頭茹ってるだろ?﹂
﹁その切り返しは酷いです﹂
唇を尖らせて、クローナはキロの腕を放すと、ミュトに駆け寄っ
た。
﹁下に向かっていますけど、毒ガスが溜まっていたりしませんか?﹂
クローナに質問され、ミュトが肩に乗るフカフカを見る。
フカフカは悠々と尻尾を左右に振った。
﹁毒ガスが溜まっていたならば、我が気付く。貴様ら人間どもより
915
鼻が利くのだ﹂
﹁つくづく便利な奴だな﹂
キロは後ろから声をかけると、フカフカはふん、と鼻を鳴らした。
﹁当然である。それはそうと、毒ガスの気配はない。安心して進む
がよい﹂
フカフカが安全を保証し、道の先を照らす。
いくつもの分かれ道が見えた。
探索を一度切り上げたキロ達は道を引き返し、温泉に沈んだ下の
洞窟道が見える場所まで戻ってきた。
﹁行き止まりしかありませんでしたね﹂
疲れた顔でクローナが呟く。
十を超える分かれ道があったが、その殆どがすぐに行き止まり、
あるいは別の分かれ道と連結して同じ場所をぐるぐる回るだけだっ
た。
町へと続く道は発見できず、キロ達は一度、引き返してきたのだ。
キロは温泉を背にして右側の道を見る。
左側の道は探索を終えていないが、ミュト曰くどこかの町へ通じ
ている可能性は低いとの事だった。
活路があるとすれば、右の道である。
しかし、徹夜で動き回ったため、キロ達は疲労困憊だった。
﹁はい、キロの分﹂
916
ミュトが差し出してきたのは干し肉一切れだ。
遭難中であるため食料を小分けにし、一回の食事の量も制限して
いる。
キロは地面に座って上を見上げた。
温泉から立ち上る蒸気が天井で冷やされ、滴となって落ちてくる。
顔に降りかかった滴を拭い、キロは壁際の駄馬に視線を投げた。
駄馬は鍾乳石で作った桶に顔を突っ込み、水を飲んでいる。
探索中に地面から生えていた手頃な鍾乳石を取り、桶として活用
しているのだ。
キロは干し肉を咀嚼しつつ、横目でクローナを見る。
天井から持ってきた鍾乳石を魔法で作りだした石のノミでちまち
まと割っていた。
﹁⋮⋮本当に、風呂を作るつもりか?﹂
キロが呆れ半分に問いかけると、クローナはノミを片手に頷く。
いくつかの大きな鍾乳石を削り、組み合わせる事で風呂桶を作る
試みらしい。
鍾乳石は柔らかい鉱物であるが、専門の技術もなく、手先も器用
とは言えないクローナが風呂桶を完成させるのはだいぶ先になる事
だろう。
ミュトは鍾乳石を縦に割ってテーブル状にし、地図を広げて悩ん
でいる。極力、クローナを見ないようにしていた。
クローナがキロにじっと熱い眼差しを送ってくる。
﹁キロさんは器用なんですから、手伝ってくださいよ﹂
﹁器用とか言う以前にさ。もっと効率的なやり方があるだろ﹂
キロはため息を吐く。
ミュトがキロを振り返った。
917
﹁キロ、言っちゃダメだよ﹂
両手を胸の前で交差させ、バツ印を作るミュト。
フカフカが机の上で尻尾の手入れをしながら、欠伸を噛み殺す。
﹁いつ気付くかと思ったが、このままでは湯に浸かる事が出来そう
にないからな。キロ、言ってしまえ﹂
﹁フカフカは黙ってて﹂
ミュトは再度キロを見る。
﹁絶対に教えちゃだめだからね﹂
一人だけ効率的な方法に気付けないでいるクローナが、眉を寄せ
て全員を見回す。
﹁効率的な方法ってなんですか?﹂
本当に気付いていないのか、とキロは呆れて口を開く。
﹁石のノミじゃなく、石の風呂を魔法で作ればいいだろ﹂
﹁︱︱あ﹂
クローナが手元のノミを見つめて、悔しそうな顔をする。
︱︱徹夜で歩き回ったから頭が働いてないな。
欠伸をするキロの横に、クローナは手早く魔法で石の風呂桶を作
り出す。
目元を擦ったキロはクローナの風呂桶を横目に見て、口を半開き
にして驚いた。
918
﹁大きすぎるだろ﹂
﹁三人で入るならこれくらいでないと﹂
クローナの返事を理解できず、キロが寝ぼけた頭で考えようとし
た時、ミュトが呟いた。
﹁だから、教えちゃダメって言ったのに﹂
ようやくキロも理解して、盛大なため息を吐いた。
﹁魔物が来るかもしれないんだから、誰かが見張ってる必要がある
だろ。先に入れ﹂
﹁キロも寝ぼけてるよね﹂
ミュトが半眼でキロを睨みつつ、フカフカに同意を求める。
﹁キロが寝ぼけている内にミュトも入ってしまえ。今なら裸になろ
うがキロは振り返らんだろう﹂
ミュトに答えて、フカフカはつまらなそうに手入れしたばかりの
尻尾を一振りした。
919
第四十八話 遭難二日目
キロが目を覚ました時、頭の下に柔らかく弾力を返す感触があっ
た。
いつも枕代わりにしている着替えが詰まった鞄にはこんな弾力は
なかったはずだ。
キロは違和感の正体を確かめようと瞼を開く。
﹁起きましたか?﹂
覗き込むようにして、クローナが問いかけてきた。
キロは上半身を起こし、頭の下にあった物を確認する。
﹁⋮⋮なんでクローナが俺に膝枕してたんだ?﹂
キロは疑問を投げかけつつ、ミュトの姿を探す。
ミュトは机の横ですやすやと寝息を立てていた。
ミュトの隣ではフカフカが丸くなっている。
クローナを焚き付けそうなフカフカが寝ているのなら、膝枕はク
ローナが自主的に動いたのだろう。
︱︱妙なところで行動力があるからな。
クローナに向き直ろうとした時、膝の上に重みを感じてキロは視
線を落とす。
キロを見上げるクローナと視線がぶつかった。
﹁これでお相子です﹂
感触を楽しむように頭をぐりぐりとキロの太ももにこすり付け、
920
クローナはくすくす笑う。
積極的にくっついてくるクローナに疑問を抱いて、キロは周囲に
原因を探す。
︱︱あぁ、温泉か。
寝ぼけていたキロは良く覚えていないが、クローナとミュトは昨
夜、温泉に浸かっていた。
しっかり体を洗ったため、キロにくっついても大丈夫という判断
なのだろう。
クローナの手が伸び、温泉を見つめているキロの頬をぺちぺちと
叩く。
﹁キロさん、詮索しちゃだめですよ﹂
﹁はいはい﹂
︱︱温泉にこだわってた理由はこれか。
昨夜、クローナが熱心に削っていた鍾乳石が地面に転がっている
のを見て、キロは苦笑した。
膝枕を楽しんでいるクローナの髪を手で梳いていると、ミュトが
起床した。
ミュトは寝ぼけ眼を擦り、服の襟を調節する。
﹁キロ、クローナ、そろそろ朝食に⋮⋮何してるの?﹂
欠伸を噛み殺したミュトがキロとクローナを振り返り、眉を寄せ
る。
クローナがキロの膝に頭を乗せたまま、ミュトを手招きした。
﹁ミュトさんもどうぞ﹂
クローナに誘われたミュトはキロをちらりと見た後、ため息を吐
921
いた。
﹁出来るはずないでしょ。朝食にするから、キロ達も準備して﹂
食料品が入った鞄から干し肉を取り出すミュトの背中を、クロー
ナがしばらく見つめる。
フカフカがミュトを見上げた後、鼻で笑った。
ミュトがフカフカを横目で睨む。
﹁何か言いたい事でもあるの?﹂
﹁言わずに見物する方が面白そうであるな﹂
パタリ、と尻尾で鍾乳石の即席机を叩いたフカフカは、意味あり
げにキロを見る。
首を傾げたキロは、視線をクローナに戻した。
﹁いつまで寝てるつもりだよ﹂
﹁キロさんが夢に出てくるまで﹂
﹁現実で見てればいいだろ﹂
﹁寝ても覚めても夢心地ですね﹂
言葉を交わしていると、ミュトが干し肉を片手にやってきた。
﹁ほら早く食べて。今日の内に左の道を調べ終えないといけないん
だから﹂
ミュトは呆れたようにため息を吐き、干し肉を差し出した。
食べている時間も惜しい、とキロは荷物を持ち、干し肉を齧りな
がら立ち上がる。
クローナが不満そうに見上げてくるが、キロは気にしない。
922
﹁食糧はあとどれくらい持つ?﹂
﹁三日くらいかな。途中で補給できなかったのが痛いね﹂
ミュトは食料品の入った鞄を駄馬に括り付ける。
キロは温泉を汲み上げ、水筒に入れた。
水の心配がないのだけは救いだと、改めて思う。
忘れ物がない事を確認して、キロ達は再度左の道を調査するべく
出発した。
前日に調査した部分を越えて、キロ達は未探査の部分に入る。
﹁そういえば、魔物がいませんよね﹂
クローナが洞窟道を見回して、思い出したように呟く。
当り前だろう、と返しそうになったキロは気付く。
未発見の洞窟道であるこの洞窟道は、ロウヒ討伐隊解散の影響を
受けていないはずなのだ。
﹁ボクも気になってたんだ。この洞窟道はかなり広いし、エサもあ
る。マッドトロルくらいならいてもおかしくないはずなんだけど﹂
ミュトは肩に乗るフカフカを見る。
フカフカは無言で首を振った。
魔物の気配はないという事だろう。
分かれ道を見つけて、ミュトが地図を描く。
キロの足元をダンゴ虫が横切った。
分かれ道の先へ消えていくダンゴ虫の後ろ姿を見送って、キロは
口を開く。
﹁実はどこかの町に通じていて、ロウヒ討伐組の影響を受けている、
923
とか﹂
﹁あまり期待できないけど、そうだったら嬉しいね﹂
ミュトが困ったように笑う。
ダンゴ虫が消えた方の道へ足を踏み入れると、緩やかな下り坂と
無数の分かれ道が姿を現した。
今日の調査も時間がかかりそうだ、とキロ達は顔を見合わせてた
め息を吐いた。
丸一日の調査を終えて、キロ達は得る物もなく温泉に戻ってきた。
︱︱あと二日分の食糧しかないってのに。
左側の洞窟道は入り組んでいて、場所によっては温泉に水没して
いた。
調査を終えても、別の洞窟道とは繋がっておらず、得たものと言
えば徒労感だけだった。
﹁明日中に町への道を見つけないと、危ないね﹂
地図を描きながら歩いていたミュトが呟く。疲労のあまり、顔色
が悪い。
食糧は二日分。しかし、道を見つけてもその日のうちに町へ到着
できるとは限らない。
いざという時は駄馬を潰すこともできるが、最後の手段であるた
め考えには含まずに予定を組むべきだろう。
ミュトが地図を広げ、赤いペンで地図に印をつけ始める。
何をしているのかと手元を覗き込んでみるが、地図の読み方が分
からないキロには見当がつかなかった。
キロは視線でフカフカに説明を求める。
924
﹁鍾乳石や苔の状態から、洞窟道ができた時期を割り出しておるの
だ。他と比べて鍾乳石の成長が遅い場所があるのならば、天井の上
を別の洞窟道が走っているやもしれん﹂
天井の上に別の洞窟道が走っているならば、鍾乳石の成分である
石灰が流れてこないため、下の洞窟道では鍾乳石の成長が遅くなる
か、止まってしまう。
それをヒントに、別の洞窟道を見つける作戦だろう。
難しい顔をするミュトはしきりにため息を吐いている。
ミュトの手が止まったのを見計らって、クローナが声をかける。
﹁ミュトさん、お風呂に入りませんか?﹂
いつの間にか魔法で作ったらしい石の風呂桶に、クローナがミュ
トを手招きする。
ミュトはクローナを振り返った後、キロに視線を移す。
フカフカがミュトの肩に飛び移り、口を歪める。
﹁キロよ、ミュトは混浴がしたいらしいぞ﹂
﹁そんなこと言ってない﹂
怒ったミュトがフカフカの首根っこを掴もうと手を伸ばす。
フカフカは巧みにミュトの手を躱し、キロの後ろに回ると背中を
よじ登った。
キロの肩に乗ったフカフカは尻尾を左右に小さく揺らす。機嫌が
いい時の振り方だ。
﹁キロも満更ではなかろう?﹂
﹁そういえば、俺は昨日風呂に入ったっけ?﹂
925
睡眠不足と疲労でふらふらしていたため、キロは良く覚えていな
かった。
﹁キロはボク達が入っている間に待ちくたびれて寝ちゃったよ﹂
﹁クローナとミュトは少し不満そうにしておったな。うら若き乙女
が一糸まとわぬ姿をさらしておるのに寝入ってしまうなど、貴様は
それでもオスか?﹂
﹁︱︱ボクは別に不満そうになんかしてないよ!﹂
口の減らないフカフカを強制的に黙らせようと、ミュトがキロの
肩へ手を伸ばす。
フカフカはひらりとキロの頭の上に飛び移り、跳躍した。
ミュトの肩を蹴りつけ、後ろに回り込んだフカフカは再度跳び上
がり、ミュトの背中を全力で蹴り飛ばす。
フカフカに蹴飛ばされたミュトはバランスを崩し、前のめりに倒
れ込む。
キロの胸に飛び込む形でミュトは倒れたが、勢いが強すぎて頭突
きのようになっていた。
悪意のない、事故のような頭突きでも入ったところが悪かった。
キロは鳩尾を片手で押さえる。
﹁︱︱キロ⁉﹂
ミュトが慌ててキロを抱き起こし、フカフカを睨む。
フカフカは舌打ちした。
﹁勢いが強すぎたようであるな。軟弱な奴め﹂
理不尽な罵倒をキロに浴びせ、フカフカは駄馬の元へ逃げて行っ
た。
926
﹁キロ、大丈夫?﹂
﹁⋮⋮なんとか。クローナと一緒に先に風呂に入れ。覗かないから、
心配するな﹂
ミュトに答えて、キロはフカフカを睨む。
のほほんと目を細める駄馬の頭の上で、フカフカは小ばかにする
ように尻尾を振った。
﹁どうした、かかってこんのか?﹂
﹁その手には乗るか。どうせクローナとミュトの方に視線を誘導す
るつもりだろ﹂
﹁頭だけは良く回る奴であるな。聞いたであろう、ミュトよ。こや
つは覗く勇気もない﹂
﹁ボクに話を振らないでよ!﹂
ミュトはフカフカに言い返し、キロの具合をもう一度確認した後、
クローナのいる風呂桶に歩いていく。
﹁キロさん、いまから服を脱ぐので、見るなら今の内ですよ?﹂
﹁クローナまで変な事を言い出さないでよ!﹂
﹁ミュトは疲れてるんだから、あまり突っ込みを入れさせるな。労
わってやれ﹂
キロは苦笑しつつ、昨夜クローナが削っていた鍾乳石を手に取る。
魔法で生み出した石のノミと動作魔力を使い、キロは手早く形を
整える。
歪な円筒状に削った鍾乳石の上部を可能な限り滑らかに整えて、
幾つかの窪みを掘り、別に用意した板状の鍾乳石を上から嵌め込ん
だ。
927
﹁手抜きではあるが、よく作れるな﹂
駄馬の頭の上から、フカフカが呆れ半分、感心半分に言葉を投げ
る。
キロはたった今、鍾乳石を削り出して作った即席の椅子に腰かけ
た。
﹁養護施設で椅子を直したりしてたからな。日曜大工程度にはでき
る。動作魔力があるから筋力に関係なく作業できるしな﹂
座る部分に嵌め込んだ板状の鍾乳石に背中を預け、キロは欠伸を
噛み殺す。
﹁︱︱振り返らないでよ?﹂
椅子作りが終わったキロが暇を持て余している気配に気付いたの
か、ミュトの声が後ろから掛けられる。
﹁いまは体を洗っているところなので、振り返られたら全身見られ
ちゃいますもんね﹂
﹁クローナ、何で状況を言っちゃうかな?﹂
﹁キロさんは振り返らないと言ったら絶対振り返りませんから﹂
﹁⋮⋮クローナがそう言うなら、そうなんだろうけど﹂
半信半疑なのか、ミュトがキロの背中をちらちら見ている。
ミュトがキロを振り返る度に、フカフカの尻尾が楽しげに揺れて
いた。
928
第四十九話 事故死
最低限の睡眠だけとって、キロ達は探索を再開した。
進むのは右の道、こちらも分かれ道はあるが、数は少ない。
フカフカが不機嫌そうに尻尾を振る。乱暴に一振りされた尻尾は
ミュトの背中にあたって音を立てた。
﹁どの分かれ道も長く続いておる。我の耳では行き止まりの判断が
つかぬ﹂
﹁文句を言っても仕方ない。一本づつ調査するしかないな﹂
キロの言葉に頷いて、ミュトが先頭を歩き出す。
昨夜、苔や鍾乳石の状態から洞窟道の成立年代を調べていたが、
空振りに終わったと聞いている。
いくつかの地点で鍾乳石の成長が遅れている事が分かったが、上
に別の洞窟道があるかどうかはこの右側の道を調べつくさないと分
からないのだ。
﹁ミュト、疲れているならちゃんと言えよ。背負ってやるから﹂
﹁そうですよ、ミュトさん。たまには甘えるのも大事です。遠慮な
く、キロさんの脚を使ってください﹂
﹁クローナのそれって、移動手段としてなの? それとも枕?﹂
﹁便利ですよねぇ﹂
ミュトの質問には答えをはぐらかして、クローナはキロの脚を片
手でトントンと叩く。
そういえば、とクローナが思い出したように面を上げる。
929
﹁キロさんは二の腕が好きなんでしたっけ?﹂
クローナの世界で宿の娘に二の腕好きの嫌疑をかけられたことが
あったな、とキロは思い出す。
ミュトが腕を摩るふりをして自らの二の腕の感触を確かめていた。
キロは苦笑して、頭を振る。
﹁そんな趣味はない﹂
﹁⋮⋮ムニムニが好きらしいですよ﹂
キロは否定するが、クローナはミュトに耳打ちしている。
﹁弾力が重要なのかな?﹂
﹁程よい柔らかさが必要なんですよ、きっと﹂
少女二人が意見を交わしている内に行き止まりが見え、キロ達は
道を引き返す。
魔物がいないのをいい事に雑談しながら調査を続け、半日が過ぎ
た頃だった。
そろそろ昼食にしようかとキロが考えていると、フカフカが分か
れ道の手前で全員を呼び止める。
﹁かすかだが、人の匂いがする。右の道からであるな﹂
﹁それって⋮⋮﹂
キロ達は顔を見合わせ、速足で右の道に入る。
普段より遠くを照らすフカフカの明かりを頼りに道を進む。
野生のものか、それとも人が放したものか、数匹の光虫がキロ達
の元へと飛んできた。
道の先、地面に置かれた虫かごがある。
930
フカフカが尾の角度を調整し、虫かごの付近を照らし出す。
キロ達の足が止まった。
﹁崩落事故か⋮⋮?﹂
土砂に埋まった道の先を見て、キロは呟く。
天井の先に道はない。
﹁︱︱人が埋まってます!﹂
クローナが土砂の下を指さした。
土砂に下半身が埋まった男の姿がある。
駆け寄って声をかけるが、返事はない。
首筋に指を当てて、ミュトが首を横に振った。
﹁亡くなってる。このままじゃかわいそうだから、掘り出してあげ
よう﹂
荷物を地面に降ろし、ミュトが土砂の様子を見て眉を寄せる。
﹁崩れて間もないみたい。少しずつ作業しないと危ないかな﹂
キロ達は手分けして土砂を崩し、男を救い出す。
土を少量ずつどけて様子を見ながら、キロはミュトに声をかける。
﹁この先はどこかに繋がってそうだけど、分かるか?﹂
﹁地図にはないよ。たぶん、新洞窟道じゃないかな。この男の人が
地図を持ってると思う﹂
キロは男に視線を向ける。
931
ミュトが着ている物と同じ、襟首の広さが調節できる構造の服を
着ていた。埋まっていた下半身には地図を作成するための道具を入
れたポシェットを身に着けている。
どうやら、この男は地図師だったようだ。
﹁地図師協会に捜索願とか出てなかったのか?﹂
﹁この人が亡くなって、まだそんなに経ってないと思う。捜索願が
出たとしても、ボク達が町をでた後だよ﹂
﹁俺達が先にこっちの道を探索していたら、助けられたかもしれな
いのか⋮⋮﹂
キロは手を休めて男の顔を見る。
しかし、フカフカが首を振った。
﹁この者を助ける事は出来なかったであろうな。助けを呼ぶ声がす
れば、我が気付かぬはずはない。仮に息があったとしても、動けぬ
ほどに弱っておったはずだ﹂
あまり気に病むな、とフカフカは呟き、キロと同じように男の顔
を見た。
﹁おい、この男、右手に何か持っておるぞ﹂
﹁失礼しますね﹂
遺体に声をかけ、クローナが右手を開く。すでに死後硬直が解け
ているのか、簡単に開いた。
右手に握られていたのは、文字が書かれた紙だ。
フカフカが紙を覗き込む。
﹁地図を協会に持ち帰れなかった事が心残りと書いておる。大発見
932
があるそうだぞ﹂
ちょうど、男を土砂から救い出した所だったため、ミュトが男の
鞄を漁る。
地図は七枚出てきたが、探索を開始する前に模写したものが五枚、
残り二枚が男の手による更新用の地図だ。
地図の一枚を手に取り、ミュトは自分の地図と照らし合わせる。
﹁この人、護衛を魔物に殺されて、逃げ回ったみたい。途中から地
図がおかしくなってる﹂
﹁地図は当てにならなくても、この土砂の先には町へ通じる道があ
るって事か﹂
キロは土砂に視線を向けるが、ミュトが首を振った。
﹁違うみたいだよ﹂
もう一枚の更新用の地図を手に取ったミュトはため息を吐く。
ミュトの肩に乗ったフカフカが地図を覗き込み、首を振った。
﹁この男は追ってくる魔物を振り切るため、あえてロウヒの縄張り
へ踏み込んだらしい。男の策は成功し、魔物を振り切る事は出来た
が、来た道を戻る事は出来ずに逃げ込んだ先が︱︱﹂
﹁この道、か﹂
ミュトが苦い顔で頷く。
﹁ロウヒの縄張りからここまでの地図が出来上がってる。ボク達が
歩いてきた分と合わせてこの袋小路は全部探索したことになるよ﹂
933
ミュトは土砂を振り返る。土砂の先も行き止まりらしい。
キロは腕を組み、天井を睨んだ。
﹁つまり、町にたどり着くにはロウヒの縄張りを抜けないといけな
いのか﹂
ランバル率いる討伐隊が手も足も出なかったというロウヒの縄張
りを抜ける、囮に使える魔物もいない。
無理とは言わないまでも、かなりの難題と思えた。
﹁ロウヒの縄張りのどこに向かえばいいんだ?﹂
キロが問うと、ミュトは深刻な面持ちで首を振る。
﹁ロウヒの縄張りに入ったら左側に向かえばいいみたいだけど、距
離は分からないんだ。ただ⋮⋮﹂
ミュトは言葉を切り、キロとクローナの前に地図を広げる。
地図の一点、現在地を指したミュトは、地図上の線を辿っていき、
空白地点で指を止めた。
﹁ここがロウヒの縄張りで、大きさは分からなかったみたい﹂
申し訳程度に存在する黒い丸は支柱を表しているらしく、縄張り
全体の大きさは分からなくとも、洞窟道から確認できる範囲は埋ま
っているようだった。
ミュトの指が動き、空白地帯を横切って別の線を叩く。
﹁この人が大発見って言ったのは、多分この道だと思う﹂
934
地下世界の地図が読めないキロとクローナには、何が大発見なの
かよくわからなかった。
﹁その口ぶりだと、新しい洞窟道ってだけじゃなさそうだな﹂
ミュトは頷き、口を開く。
﹁ランバルが言ってた人類は今より上に登れないって話、覚えてる
?﹂
キロは氷穴の町で聞いたランバルの話を思い出す。
﹁確か、ロウヒの縄張りを迂回できないから、その先に行けないっ
て話だったな﹂
まさか、とキロは地図に視線を落とす。
ミュトは静かに頷いた。
﹁この道はロウヒの縄張りの、天井から伸びてるんだ﹂
935
第五十話 ロウヒ
ロウヒの天井から伸びる新たな洞窟道。
つまり、ロウヒの縄張りより上、未踏破層へと延びる道である。
ひいては︱︱空へと続く道。
﹁この洞窟道から目視できる距離にあるのか?﹂
キロの問いに、ミュトは地図の縮尺から距離を導き出し、頷いた。
﹁ロウヒの縄張りのそばからなら、ぎりぎり目視できる距離だと思
う。ここからだと縄張りまで半日もかからないはず﹂
問題があるとすれば、ロウヒの縄張りの天井に開いた入口へ侵入
する方法と、食料品がない事だ。
クローナが口を開く。
﹁探索は後回しにして、町に続いてるらしい道へ進むことを優先す
るべきだと思います。食料品を買い足さないと、落ち着いて探索も
できませんから﹂
﹁町へ続く道は左側にあるらしいって事しか分からないから、ロウ
ヒの縄張りの天井に開いた新洞窟道から見下ろして、位置を確認し
たいんだ。それでも、目視できるかはわからないけど﹂
ミュトも探索を強行するつもりはないようだ。
﹁それに、未踏破層へ登れるかもしれないって話をすれば、ロウヒ
討伐隊を再招集して、探索隊を組めるかもしれない﹂
936
そのためにも一度新洞窟道へ入りたい、とミュトは言う。
キロは死亡した男が持っていたもう一枚の地図を指さす。
﹁町までの日数はどうだ?﹂
﹁ロウヒの縄張りを抜ければ、丸一日の距離だと思う。地図が当て
にならないから、正確な距離は分からないけど、食糧はぎりぎりで
保つよ﹂
キロは腕を組み、唸る。
死亡した男の地図と合わせた結果、今いる洞窟道が袋小路である
事は判明している。
脱出を図るか、救援を待つかの二択があるが、後者は望み薄だ。
脱出するためには八千年の長きに渡って守魔として君臨するロウ
ヒの縄張りを抜けるしかない。
ランバル率いる討伐隊が手も足も出なかった守魔だ。
﹁正直、うわ言とやらを確認するだけで、戦闘は避けるつもりだっ
たんだけど⋮⋮。そうも言っていられないな﹂
キロの言葉にクローナとミュトが頷き、フカフカが尻尾を揺らす。
フカフカがキロ達を見回した。
﹁決まりであるな。ひとまず、ロウヒの元へ向かい、現場の状況を
見て作戦を練るべきであろう﹂
フカフカの言葉にキロ達は立ち上がり、死亡した地図師の男の遺
体を火炎魔法で火葬した後、丁寧に埋める。
地図師の男が遺した地図を片手にキロ達はロウヒの縄張りに向か
った。
937
ロウヒの縄張りは向かいの壁はおろか、横の壁さえ見えない広大
な空間だった。
あちこちに立ち並ぶ柱が支える天井は高く、暗闇に霞んでよく見
えない。
発光生物の中でも最大の光量を誇るフカフカでさえ照らし出せな
い天井にある新洞窟道を、光虫を入れる虫かごしか持たなかった地
図師がどうやった発見したのか。
その答えはすぐに明らかとなった。
天井の一点から、大量の光虫が出入りしているのである。
無数の光虫に照らしだされた新洞窟道は支柱と天井とが接する場
所のすぐ近くに入り口を開いていた。
﹁高さは五十メートルくらいかな。高すぎるね⋮⋮﹂
﹁キロさん、登れますか?﹂
﹁動作魔力を使うにしても、二人を抱えて一息で登るのは厳しいな。
駄馬もいるし﹂
︱︱建物一階分の高さが三、四メートルだから、ざっと十三階建
て相当か。
キロは計算して高さを大まかに計る。
足場になりそうなのは、入り口のそばにある支柱だ。
﹁フカフカ、左を照らして﹂
﹁うむ、壁に沿って町への道を探すのだな﹂
ミュトがロウヒの縄張りに足を踏み入れ、肩に乗ったフカフカが
尻尾の光で壁を照らす。
見落とさないようにゆっくりと光を移動させていく。
938
光に照らし出された壁の様子に、ミュトが極度に緊張しているの
が分かった。
﹁ミュト、どうしたんだ?﹂
﹁壁に焼けた跡があるんだよ﹂
キロは縄張りに入り、ミュトの視線を追って壁を見る。
壁の内、高さ五十メートル、幅八メートルほどの面が高温の火の
柱をぶつけられた様に焼けて変色していた。
キロの隣に立ったクローナが絶句する。
魔法を度々使うキロでも、この規模の魔法は一度しか見た事がな
い。
﹁クローナの町で見た火柱並みだな﹂
オークション会場を吹き飛ばした魔法を思い出す。
遠目にしか見ていなかったキロ達だが、高さがやや足りないもの
の規模としては同等の火柱だった。
キロはミュトの肩に乗るフカフカに視線を移す。
視線に気付いたフカフカは壁を見つめ、頭を横に振った。
﹁魔力は残っておらぬ。特殊魔力もな﹂
魔力食生物のフカフカなら、残存魔力から何らかのヒントを得ら
れるのではないかと考えていたキロの当ては外れたようだ。
﹁ロウヒは大規模な魔法を使う守魔だと聞く。この壁の有様が単な
る余波によるモノなら、正面から戦って勝てる相手ではあるまい﹂
フカフカの分析に頷いて、さらに壁を照らしていく。
939
左にあるという町へ続く洞窟道はなかなか見つからない。
﹁地図師の男の人も光球を飛ばしたりして調べたかもしれません。
ここらだと死角になっていて見えないのかも﹂
クローナの予想を肯定するように、壁が縄張り側へとせり出し、
裏側の様子が見えなくなる。
縄張りへさらに踏み込み、壁の裏の死角を潰さなければならない
ようだ。
焦りのあまり舌打ちしそうになるのを深呼吸で堪え、キロ達は縄
張りへさらに踏み込む。
洞窟道から最も近い支柱を越えた直後、フカフカの尻尾が動き、
壁ではなく縄張りの中央を照らす。
キロ達は怪訝に思ってフカフカに視線を向けた。
フカフカはしきりに耳や目、尻尾の明かりを動かしている。
﹁キロ、クローナ、奥を照らすのだ。広すぎて我の耳でも音の出所
が分からぬが、重い何かが動く音がかすかに聞こえた﹂
︱︱ロウヒか?
離脱準備を整えつつ、キロはクローナと共に魔法で生み出した光
球をいくつか、奥へと放つ。
支柱に遮られて霧散する光球も多かったが、偶然支柱の合間を縫
うように飛んだクローナの光球が縄張りの奥深くを照らし出す。
それでも、動くモノは見当たらなかった。
フカフカが耳を動かし音を探っている。
キロは追加の光球を飛ばしつつ、フカフカに訊ねる。
﹁まだ音はしてるのか?﹂
﹁分からぬ。風の音が邪魔で索敵が難しいのだ﹂
940
﹁風の音?﹂
キロはふと思いついて、光球を天井に向けて放った。
むなしく天井にぶつかる光球にかまわず、キロは角度を変えて次
々に光球を放つ。
光球が白い何かを照らし出した。
フカフカがすぐさま尻尾の光を向ける。
﹁⋮⋮音がせぬはずである﹂
光に照らされたのは雪で作られたような白い像。
美しい女の姿をしたその像は、高さ八メートルほどもあった。
自然と、壁画に描かれていた姿を思い出す。
﹁︱︱あれが、ロウヒ﹂
八千年の歴史を持つ守魔は石像の魔物だった。
途方もない重量があるはずの石像は、動作魔力を巧みに作用させ
て地面にゆっくりと離着陸を繰り返し、キロ達へ向かってくる。
﹁動作魔力を使えば重さも何も関係ないって、事か﹂
石でできた顔から、敵意は読み取れない。
︱︱マッドトロルの近縁で、泥の代わりに石を纏っているのか?
分析しつつ、キロはロウヒの出方を窺う。
ロウヒが地面に着地し、キロ達に向き直った。
次の瞬間、ロウヒの前に火球が浮かぶ。
火球の大きさを見た瞬間、キロは悟った。いや、キロだけでなく、
全員が悟っただろう。
︱︱敵わない!
941
﹁洞窟道へ逃げ込め!﹂
急に発せられたフカフカの指示にミュトが真っ先に動き出す。
ミュトはロウヒに向けて右手を突き出し、特殊魔力の壁を生み出
しながら来た道を駆け出した。
クローナがミュトの後に続き、キロがさらに追う。
キロが動き出してから数瞬置いて、ロウヒが魔法を放った。
強烈な熱波をまき散らしながら、ロウヒの全身を覆うほどの火球
から火炎の渦が放たれる。
体の正面に生み出した火球に対して、周囲の空気に動作魔力を通
して生み出した強風を吹き込み、横向きに火炎の渦を発生させてい
るのだ。
直径八メートルほどの火炎の渦が、キロ達が数瞬前までいた場所
を焼き尽くす。
︱︱わざと外した?
キロは振り返り、違和感を覚えた。
タイミングを考えれば、狙いを調整してキロ達に当てる事ができ
たはずだ。
吹き込む風の角度を変えたのか、火炎の渦がゆっくりと角度を変
え、キロ達を追い立てるように地面を焼いていく。
キロは確信した。
キロ達を焼き尽くすつもりなら、ゆっくりと角度を変える意味は
ない。
ロウヒはわざとキロ達に魔法を当てていないのだ。
だが、足を止めるわけにはいかなかった。
ロウヒがわざと攻撃を外す理由が不明であるため、いつ逆鱗に触
れるか分からないからだ。
逆鱗に触れることなく洞窟道へキロ達が逃げ込むと、火炎の渦が
消え去る。ロウヒが攻撃を中断したらしい。
942
直後、洞窟道の入り口にロウヒが降り立った。
キロは反射的に天井を見上げる。
天井の高さは二十メートルほど、ロウヒが侵入するには十分な高
さがある。
それ以前に、洞窟道へ火炎の渦を流し込まれたら?
﹁キロ!﹂
﹁キロさん!﹂
﹁二人とも、足を止めるな!﹂
答えながら、キロは全力で現象魔力を練り、洞窟道を塞ぐように
石壁を生み出す。
ロウヒは入り口に立ったまま、動かなかった。
入り口の七割方を塞いだキロは、走り出す。
底が見え始めた普遍魔力に歯噛みしながらも、キロは懸命に足を
動かす。
ふいに、ロウヒの縄張りから声が追いかけてきた。
その声は繰り返し、こう呟いていた。
﹁︱︱我らの空は失われた、引き返せ﹂
943
第五十一話 空へ続く選択肢
キロ達はロウヒの縄張りから遠ざかり、温泉のある地点まで引き
返していた。
態勢を立て直す意味もあったが、ロウヒのうわ言が耳にこびりつ
いて離れなかったのだ。
駄馬に冷ました温泉を飲み水として与えながら、キロはミュトに
問う。
﹁ロウヒの言葉、どう聞こえた?﹂
﹁我らの空は失われた、引き返せ﹂
壁際で膝を抱えたミュトが、膝に顔を埋めたまま返す。
心配そうにミュトを見上げていたフカフカが、キロを振り返った。
﹁キロよ、お前にも聞こえたのだろう?﹂
分かり切った質問でミュトを追い詰めるなと言外に含み、フカフ
カはキロを睨む。
だが、キロの質問の意図は別にあった。
キロは再び、口を開く。
﹁ロウヒが繰り返したうわ言に対して、翻訳の腕輪は作動したか?﹂
フカフカが尻尾で地面を強く叩く。
﹁作動した。それがどうかしたのか?﹂
944
キロはクローナを横目に見る。
﹁ロウヒに知性があると思うか?﹂
ロウヒに知性があるのなら、なぜ当てる気のない攻撃を行う前に
警告を発しなかったのか。
同じ言葉をうわ言のように繰り返すだけのロウヒに知性があると、
キロは思えなかった。
キロはポケットから携帯電話を取り出し、起動する。
起動音の後、キロが幾度かボタンを押すと、音楽が流れだした。
一年近く前に流行った曲だ。
キロは携帯電話のスピーカー部分をクローナやミュトに向ける。
﹁この曲の歌詞は翻訳されてるか?﹂
携帯電話を見つめていたクローナが戸惑いつつも頷いた。
﹁翻訳されてますけど⋮⋮。絵を描いたり歌ったり、キロさんみた
いに色々できるんですね﹂
﹁実際に歌ってるわけじゃない。これは録音だ﹂
キロは携帯電話の電源を切り、ポケットにしまう。
キロの実験の意味が分からなかったのだろう、クローナ達はそろ
って首を傾げた。
﹁録音ってなんですか?﹂
﹁音声を保存する技術だ。多分、ロウヒは録音された音声を繰り返
し再生しているんだと思う﹂
﹁︱︱待て、理解する時間を寄越せ﹂
945
キロが説明に入る前に、フカフカが遮った。
気付けば、ミュトも膝から顔を上げ、真剣な面持ちで考え込んで
いる。
原理が分からなくとも、何ができるかさえ分かればキロの実験の
本質が見えてくる。
クローナがいち早く答えを導き出した。
﹁ロウヒは人工物、という事ですか?﹂
クローナの質問にキロが頷くと、ミュトが口を開く。
﹁ロウヒにあの台詞を録音した誰かがいるってこと?﹂
キロが再び頷くと、フカフカが尻尾で地面をテンポ良く叩く。
﹁意味を理解せずに口をした言葉は翻訳されぬが、意味を理解して
いる者が発した言葉を録音すれば翻訳の腕輪が機能する。キロはそ
う言いたいのだな?﹂
﹁そうだ﹂
氷穴の町での実験結果も踏まえてフカフカが導き出した結論を、
キロは肯定した。
フカフカはしばらく考えた後、キロを睨む。
﹁それでは⋮⋮やはり空は失われておるのではないか﹂
ダメ押しをしてどうするつもりだ、と尻尾の振り方で咎めてくる
フカフカを無視して、キロはミュトを見る。
﹁空を見る方法がある﹂
946
キロの言葉に、沈みかけていたミュトの頭が跳ね上がる。
﹁⋮⋮それ、本当?﹂
キロはクローナを横目に見る。
クローナは微笑んだ。
﹁私も、話すならいまだと思いますよ﹂
キロは頷いて、地面に座る。
鞄から懐中電灯を取り出し、ミュトの前に置いた。
﹁俺やクローナのいた世界になら︱︱空がある﹂
前に置かれた懐中電灯を見て、ミュトが硬直する。
フカフカが懐中電灯とキロを交互に見て、口を開いた。
﹁キロ達の世界に我らがついて行けるのか?﹂
﹁おそらくな。考えてみてくれ﹂
﹁考えるまでもなかろう。我らはキロ達と共に空を見に行く﹂
﹁︱︱ちょっと、フカフカ⁉﹂
フカフカが即答すると、ミュトが慌てて手を伸ばす。
伸ばされた手をあっさりと避けたフカフカは、ミュトを振り返っ
た。
﹁異論があるのか? 各種権利の売却金を金属貨幣ではなく、大粒
の宝石に換えてきたのはこのためであろう﹂
947
フカフカが尻尾を大きく振り上げ、パンッと地面に叩き付ける。
怯んだミュトは視線を彷徨わせようとして、キロの視線とぶつか
った。
﹁あぅ⋮⋮﹂
悪戯を見つかった子供のように、ミュトは面を伏せた。
キロは頭を掻きつつ、考えをまとめる。
﹁もしかして、最初から付いて来るつもりだったのか?﹂
ミュトは顔を伏せたまま、コクリと頷く。
﹁だって、キロ達と別れるのは寂しいし⋮⋮﹂
﹁そう言ってもらえるのは嬉しいけど、帰って来れなくなる可能性
もかなり高いんだ。もう少し考えろ﹂
キロがリスクを強調すると、ミュトは鞄から取り出した小袋を開
いて見せる。
中には様々な宝石が入っていた。こすれ合って傷つかないよう、
紙に包んである。
準備は万端らしい。
﹁ボクは空を見たくて地図師になった。空を見つけた後、帰って来
れる保証なんて最初からないんだよ。覚悟なら、最初からできてる﹂
強い意志を込めて、ミュトは覚悟を語り、顔を上げた。
﹁連れてって﹂
948
フカフカが何か言いたそうにミュトを見つめたが、無言のままキ
ロに向き直った。
﹁決まりであるな﹂
﹁そうみたいだな﹂
思いの外あっさりと決まったことに拍子抜けして、キロは懐中電
灯をしまう。
クローナがポンと手を叩いた。
﹁話が決まったところで、当面の問題ですけど﹂
クローナは洞窟道を振り返る。道の先にはロウヒの縄張りがある
はずだ。
﹁あの、血も涙もない美人さんの縄張りをどうやって切り抜けまし
ょうか?﹂
キロは苦い顔をして口を開く。
﹁ロウヒについて今のところ分かっている事は、空を目指す人間を
追い返そうとする人工物で、縄張りに入ると洞窟道へ追い立ててく
る行動様式くらいか﹂
﹁ランバルが盾を壊されておるのだ。決して攻撃を当ててこないと
は言い切れぬ。条件によっては殺しに来るぞ﹂
キロの分析にフカフカが口を挟み、全員が頷いた。
取れる手段は多くない。
﹁ロウヒに対する直接攻撃は多分、フカフカが言った条件の一つだ
949
よね﹂
﹁人工物である以上、壊される心配をするであろうからな。抵抗す
るよう命じられていると見るべきである﹂
ミュトが挙げた条件にフカフカが賛同する。
ランバル率いる精鋭ぞろいの討伐隊が手も足も出なかったのだ。
最初から戦闘するつもりはない。
だが、牽制としての攻撃も避けるべきとなると、後手に回らざる
を得ない。
切り札となるのはミュトの特殊魔力だった。
作戦を煮詰めているとクローナが温泉を気にし始める。
キロはミュトと顔を見合わせて、苦笑し合った。
この数日、毎日入っている事もあってクローナはすっかり温泉の
虜になっていた。
ミュトがクローナに声をかける。
﹁一度話を終わらせて、温泉に入ろうか?﹂
見抜かれた事に気付き、クローナは照れたように視線を逸らした。
﹁全力で走って汗かいたので、入りたいです﹂
﹁というわけで、キロは壁を向いて﹂
﹁はいはい﹂
回れ右をしたキロの後ろで、クローナがさっさと浴槽を用意する。
ミュトとクローナが温泉を汲み上げる音を聞きながら、キロはフ
カフカを探した。
フカフカは即席机の上で尻尾の毛繕いをしている。
風呂の度にキロをからかってくるフカフカだが、今日は大人しく
しているつもりらしい、とキロは安心して眠たそうな顔をする駄馬
950
を見る。
﹁キロ、絶対に振り返らないでね﹂
﹁分かってるって﹂
ロウヒの縄張りを思い浮かべて自分の役割を考えていたキロは、
光源の位置が移動している事に気付いた。
ハッとしてフカフカがいたはずの即席机の上を見るが、姿がない。
かわりに、即席机の向こうにある壁に影ができていた。
ミュトとクローナが着替えている、シルエットである。
︱︱そう来たか。
普段はそれなりに厚手の服を着ているミュトやクローナの体型が
影になって晒されていた。
アウトかセーフか判断が付かない、グレーゾーンの覗きである。
李下に冠を正さず、瓜田に靴を履かず、とキロの脳裏で理性が警
告する。
キロは影から視線を逸らしたが、フカフカはキロの頭の動きに合
わせて移動し、ミュト達のシルエットの位置を調節する。
︱︱あいつ、わざとやってやがる⋮⋮!
機嫌よく振られる尻尾が目に見えるようだった。
キロは最後の手段として目を閉じた。
951
第五十二話 脱出
作戦を立て終えたキロが再び縄張りに赴くと、ロウヒは洞窟道の
出口で待ち構えていた。
﹁我らの空は失われた。引き返しなさい﹂
﹁本当か?﹂
ロウヒが繰り返すうわ言に、キロは無駄と知りつつ問い返す。
﹁我らの空は︱︱﹂
﹁やっぱダメか﹂
期待してなかったけど、と呟いて、キロは動作魔力を纏う。
さらに現象魔力を練り、手元と足元に光球を作り出した。
後ろは振り返らなかった。
︱︱まずは天井を目指す、
キロはロウヒが塞ぐ洞窟道の横を睨み、駆け出す。
ロウヒの縄張りへ、キロはただ一人で飛び込んだ。
﹁⋮⋮作戦開始﹂
洞窟道の奥でクローナやミュトと共に待っているフカフカにだけ
聞こえる小さな声で告げ、キロはロウヒの横を駆け抜ける。
直後、キロの目の前に巨大な石壁が現れた。
ロウヒがキロの行く手を魔法で塞いだのだ。
しかし、キロは意に介さず、目の前の壁に足をつけ、動作魔力を
調節して壁を登り始める。
952
石壁では効果が薄いと判断したのか、ロウヒは石壁の上部に水球
をぶつけ、キロを洗い流そうとした。
キロは素早く左右を確認し、近くにあった支柱に目を止める。
降りかかる水に足を取られるたびに槍を石壁に突き、バランスを
保つ。
キロが支柱にたどり着いた瞬間、ロウヒは洞窟道の入り口から動
き始めた。
キロが縄張りの奥へ侵入しないよう、正面に立ちはだかるためだ。
キロは自分の役割が成功しつつあるのを感じていた。
︱︱ロウヒを洞窟道から十分に遠ざけ、クローナとミュトが侵入
するチャンスを作る。
キロは支柱を駆け上る。
ロウヒを引きつけ、別の支柱に飛び移った時だった。
﹁おいおい、その魔法は反則だと思うんだけど﹂
ロウヒの体の正面に火柱が上がっていた。
天井を焼くような勢いでごうごうと燃え盛る火柱にロウヒが風を
吹き込む。
風にあおられた火柱の形が崩れ、火が広がる。
炎のカーテンがたなびく様にキロの行く手を遮った。
﹁これは確かに、登りようがないな﹂
確固とした足場になる石壁ならばともかく、炎のカーテンに足を
突っ込む勇気はない。
だが、キロの目的は縄張りの奥へ進むことではなく、ロウヒを洞
窟道から遠ざける事だ。
行く手を塞がれたなら、進む方向を変えればいい。
キロは支柱から飛び降り、地面に着地すると同時にロウヒに背を
953
向けて走り出す。
再びロウヒが追いかけてくる。
キロはロウヒの立ち位置を確認し、洞窟道にいるミュト達へ声を
かけた。
﹁今だ!﹂
キロの号令を聞いたミュトとクローナが洞窟道から飛び出した。
ミュトは肩にフカフカをのせ、左手はロウヒとの間に特殊魔力の
壁を作っている。右手には駄馬の手綱を握っていた。
ミュト達の目的地は天井に開いた洞窟道のそばにある支柱だ。
ロウヒがミュト達に反応する。
ミュト達とキロとの間に挟まれている事を知ったロウヒが一瞬動
きを止めた。
︱︱さぁ、どう出る。どちらかを追うか、両方攻撃するか。
出方を窺っていたキロは、ロウヒが動き出したのを見て声を張り
上げる。
﹁射線を斜めにとって魔法で挟み撃ちにしてくる。気をつけろ!﹂
ロウヒは壁から遠ざかり、キロ達の進行方向に自らが立つと同時
に魔法で左右を塞ぎにかかるつもりだ。
クローナやミュトと事前に予想していたロウヒの行動パターンの
一つである。
積極的に殺そうとしてこないロウヒの行動パターンは行く手を塞
ぐか、追い立てるかの二パターンに大別されると考え、キロ達は作
戦を立てていた。
作戦を立てている以上、対応策も練ってある。
ミュトが駄馬の手綱をクローナに投げ渡し、進路を変える。
向かう先はロウヒの後ろだ。
954
キロ、ミュト、クローナの三人でロウヒを三角形に囲む形である。
魔法は手元から放たれる関係上、この形になれば行く手を塞ぐパ
ターンを潰せる。
後は三角形の包囲を維持しつつ支柱に向かうだけだ。
そう思った矢先︱︱ロウヒが垂直に跳んだ。
三角形の中央からでは行く手を塞げなくとも、三角錐の頂点から
なら射線を確保できる。
﹁八千年の歳の功か﹂
ロウヒの対応力にキロは苦笑を浮かべる。
だが、三角錐を作るその対応も︱︱想定内だ。
﹁行きますよ﹂
クローナが杖を頭上に掲げた。
キロ、ミュトが動作魔力を使って一斉にクローナへ走り寄る。
クローナの掲げていた杖から光が急速に失われ、蓄積していた魔
力の大部分を本来の持ち主であるクローナへ供給する。
ロウヒが地面に降り立つより早く、クローナの杖の先から石壁が
広がる。
︱︱地面とは、平行に。
落下してきたロウヒはクローナが生み出した石壁に着地する。
キロ達は全員が石壁の下にいるため、ロウヒは進路妨害ができな
くなっていた。
﹁よし、狙い通り!﹂
﹁喜ぶのはまだ早い。洞窟道に逃げ込むまで安心するな﹂
喜ぶミュトに注意して、キロはクローナから駄馬の手綱を受け取
955
って走る。
予想より三角包囲へのロウヒの対応が早かったため、洞窟道に通
じる支柱まではまだ距離がある。
全力で駆け抜け、支柱まであと一歩まで迫った時、キロ達の頭上
にあったはずの石壁が突然消失した。
キロは反射的にクローナを見る。
クローナは唖然として頭上を見上げていた。
﹁まだ保つはずなのに⋮⋮﹂
クローナのつぶやきを聞き取って、フカフカがロウヒを振り返っ
た。
﹁奴め、魔力を食いおった!﹂
フカフカの言葉で、キロは壁画を想起する。
﹁ロウヒは魔力食生物なのかよ⁉﹂
︱︱誤算だった。
キロは歯噛みするが、ロウヒは考える時間を与えてはくれなかっ
た。
ロウヒの体の前に水球が形成されたかと思うと、パチパチと爆ぜ
るような音が聞こえてくる。
ロウヒの生み出した水球に紫電が舞っていた。
﹁何、あれ?﹂
﹁見た事はないが、攻撃魔法のようであるな﹂
ミュトとフカフカが初めて見る現象に困惑する。
956
だが、キロとクローナの青ざめた顔に気付いて、恐る恐るミュト
が口を開いた。
﹁あの魔法、知ってるの?﹂
﹁知ってるも何も、あれって⋮⋮﹂
﹁︱︱雷、ですよね﹂
緊張に乾く喉を湿らせるために言葉を切ったキロの後を引き継い
で、クローナが正体を告げる。
﹁強い魔法みたいだけど、対処法は?﹂
気象現象を知らないミュトとフカフカは首を傾げるが、キロとク
ローナの警戒振りから威力を推し量ったらしく、対策をキロに訊ね
る。
﹁魔法として使われているのは見た事ないから何とも。クローナは
知ってるか?﹂
﹁魔力消費が激しい上に誤射が怖いので誰も使わない魔法です。対
処法は分かりませんよ﹂
話している内に、ロウヒの手元に新たな水球が生み出される。
ロウヒが右腕を振りかぶり、新たに生み出した水球を近くの支柱
に投げつけた。
次の瞬間、眩い閃光と共に轟音が鳴り響き、水球を撃ち抜いた雷
が支柱に命中、焦げ跡を作った。
怯えた駄馬が興奮気味に嘶く。
回避不能としか思えない雷を初めて見たミュトとフカフカが絶句
し、キロとクローナは支柱に直撃させたロウヒの命中精度に言葉を
失った。
957
そして、ランバル率いる討伐隊が手も足も出なかったという理由
を理解した。
﹁気象現象を操るとか、冗談だろ⁉﹂
デモンストレーションは終わりばかりに、ロウヒが両手を広げて
右に紫電を纏った水球、左に狙いを定めるための水球を生み出す。
電気が弾ける音が無数に木霊し、比喩ではなく万雷の拍手となっ
ていた。
キロは天井の洞窟道を指さす。
﹁クローナ、魔法で足場を作って、駄馬を連れて先に行け。ミュト
はクローナの横で絶えず防御!﹂
﹁キロは⁉﹂
﹁ロウヒの攻撃を逸らすッ!﹂
言うや否や、キロは魔力を練って進路を変更する。
立ち止まったキロは水球を生み出し、ロウヒの動きを注視する。
ロウヒが水球を放つ。狙いは、クローナ達が向かう先にある支柱
だ。
﹁させるかよ!﹂
キロが水球に動作魔力を込めて放つ。
ロウヒが放った雷が先行する水球に吸い寄せられ、さらにキロが
放った水球に捻じ曲げられて地面を焼いた。
ロウヒが再び水球を放つ。
しかし、今度の狙いは︱︱キロだった。
咄嗟に動作魔力を練って、キロは横に跳ぶ。
だが、雷は放たれる事なく、水球が地面にぶつかった。
958
ぬかるんだ地面に着地したキロはぞっとして、近くの支柱に跳び
上がる。
ロウヒが水球を放ち、間髪を置かずに雷を撃ち放った。
雷は水球を貫き、ぬかるんだ地面に衝突する。
﹁感電させるのが狙いかよ。性格悪すぎるだろ﹂
悪態をつくが、石像であるロウヒに通じるはずもない。
キロはちらりとクローナ達の様子を見る。
支柱の下に辿り着いたクローナが石壁を生み出して支柱に螺旋階
段を作っていた。クローナが集中するためか、駄馬の手綱はミュト
に渡っている。
すでにクローナの杖から光は失われており、蓄積した魔力が枯渇
している事を知らせていた。
ミュトの特殊魔力もいつまで持つか分からない。
ロウヒが水球を支柱に向けて放つ。
キロは咄嗟に生み出した石弾で迎撃し、走り出した。
動作魔力で一息に加速し、キロは一直線に縄張りの奥を目指す。
︱︱奥を目指す俺と、天井を目指すクローナ達、どっちを優先す
る?
キロはロウヒの動きを確認する。
ロウヒはわずかに逡巡する気配を見せた後、キロに向けて水球を
放った。
キロは支柱を盾にして水球とそれに続く雷をやり過ごし、再び駆
け出す。
狙い通り、その後もロウヒは優先的にキロを狙ってきた。
だが、クローナが支柱から天井の洞窟道へと足場を作った途端、
ロウヒは弾かれたように体の向きを変え、狙いをキロからクローナ
達に変更する。
キロは舌打ちし、その場で反転した。
959
クローナ達は支柱をほぼ登り終え、天井に開いた洞窟道へ掛けた
石の橋を渡っている。
ミュトがキロを見て、問題ないというように頷いた。
特殊魔力の壁を生み出す余力がまだあるのだろう。
︱︱あとは俺が辿り着くだけって事か。
ロウヒが放った雷がミュトの特殊魔力に着弾する。
飛び散った水球の名残が光を反射しながら落ちていく。
キロが見上げれば、光虫がロウヒの攻撃に巻き込まれてぱらぱら
と落ちてきていた。
洞窟道に逃げ込んだクローナ達から視線を移し、ロウヒはキロを
見下ろす。
ロウヒの左手に残っていた水球が一斉に放たれ、キロの周囲を地
面のみならず支柱さえも濡らした。
逃げ場をなくして感電させるつもりなのだ。
﹁もうこれ、殺しに来てるだろ﹂
感電でも人は死ぬんだ、とキロはロウヒに教えてやりたくなるが、
聞く耳を持ってくれるとは思えない。
逃げ場をなくしたキロに向けて、ロウヒが右手をかざした瞬間、
天井から複数の石弾が降ってきた。
すべてがロウヒの右手側にあった帯電した水球を打ち抜き、破裂
させる。
石弾のやってきた方向を見ると、天井に開いた洞窟道の端に立つ、
クローナの姿があった。
﹁キロさん、早く!﹂
﹁流石、クローナ﹂
キロは残っている魔力を全て動作魔力に変換し、最高速で地面を
960
走り抜け、支柱に足をかける。
クローナが放った石弾を攻撃とみなしたのか、ロウヒが片手に水、
もう片手に炎を生み出した。
石像ゆえに熱さも関係がないらしく、ロウヒは両手を打ち合わせ、
水と炎を強引にぶつけて熱湯を作り出す。
ロウヒが熱湯を生み出したのを見て、ミュトがクローナを押しの
けて両腕を突き出す。
﹁クローナ、後ろに隠れて!﹂
特殊魔力の壁で熱湯を防ぐつもりなのだ。
キロはクローナをミュトに任せて支柱を登る。
ロウヒが熱湯を洞窟道の入り口へ放り投げ、ミュトが特殊魔力の
壁を形成した、その瞬間︱︱
ミュトが特殊魔力で張った透明なはずの壁が眩い光を放った。
﹁なッ⁉﹂
︱︱なんだよ、いきなり!
目標地点である洞窟道を見つめていたキロは、気構えもなく浴び
せられた閃光に対し、咄嗟に腕で目を庇う。
目が眩む事こそなかったが、キロはバランスを崩していた。
繊細に動作魔力を扱わなければならない壁走りの途中では、痛恨
のミスだった。
バランスを立て直そうとして速度が落ちたキロに、ロウヒが狙い
を定める。
ロウヒが火球に風を吹き込む炎の渦をキロに向けて放つ。
バランスを立て直しているキロには迎撃ができない。
﹁︱︱ミュト、よせ!﹂
961
フカフカの声が聞こえて、キロは洞窟道を見上げる。
ミュトが洞窟道を飛び出し、キロに抱き着いてきた。
バランスが決定的に崩れるが、キロは背中に酷く硬質な感触を感
じて振り返る。
キロに抱き着いた直後にミュトが張った特殊魔力の壁が、キロ達
を支えていた。
直後、ロウヒが放った炎の渦がキロ達に襲いかかる。
だが、ミュトが右手を突き出し、特殊魔力の壁で防いだ。
﹁ミュト、さっきの光はなんだ?﹂
﹁分からない。いつも通りに張っただけなのに⋮⋮いきなり。そん
なことより早く上に!﹂
ミュトに促され、キロはミュトの腰を抱え、洞窟道を見上げた。
﹁⋮⋮動作魔力が足りない﹂
元々ギリギリのペース配分で動いていただけに、ミュトを抱えて
支柱を登り切る余裕はなかった。
ロウヒが放つ炎の渦を食い止めながら、ミュトが青い顔でキロを
見る。
﹁キロさん、魔力を込めてありますから、使ってください!﹂
洞窟道からクローナの杖が落ちてくる。
キロは槍を腋とひじの内側で挟んで固定しクローナの杖を空中で
掴みとる。
それでも、支柱を登り切るには少し足りなかった。
962
﹁ロウヒの攻撃は俺が全力で避ける。だから、ミュト、合図したら
杖に動作魔力を補給し続けてくれ。頼めるか?﹂
遠回しに命を預けろという頼みに、ミュトは困ったように笑って、
杖に手を添えた。
﹁何を今さら。ボクはいつでもいいよ﹂
﹁︱︱行こうか﹂
キロは自らの動作魔力を使って跳び、支柱に足を付ける。
加速しながら動作魔力を使い切り、杖からクローナの魔力を引き
出しながら速度を維持し、支柱の裏へまわり込む。
﹁ミュト!﹂
キロが名前を呼ぶと、ミュトが杖を強く握りしめる。
杖を覆うリーフトレージにミュトの魔力が蓄積され始めた。
キロは杖からミュトの魔力を引き出し、支柱の表側、ロウヒが待
ち構える面へと回り込んだ。
直上に洞窟道がぽっかりと穴を開けている。入り口に立ってロウ
ヒを魔法でけん制しているクローナの肩から、フカフカがキロの足
元を照らしてくれている。
キロが昇ってきたことに気付いたクローナが場所を開けるために
洞窟道の奥へと下がる。
﹁︱︱キロ、ロウヒが!﹂
ミュトがロウヒを振り返って叫ぶ。
キロが横目で確認すると、ロウヒが特大の水球を両手に準備して
いた。片方は帯電している。
963
ロウヒにかまわず、キロは支柱を登り切り、洞窟道へと飛び込ん
だ。
すかさず、ミュトが洞窟道の入り口を特殊魔力の壁で覆う。
地を揺らす大轟音と共に、光が放たれる。
反射的に目を閉じたキロはゆっくりと瞼を持ち上げ、目を見張っ
た。
ミュトが張った特殊魔力の壁がまた光り輝いていた。
964
第五十三話 青空
光り輝く特殊魔力の壁を前に、一番驚いていたのはミュト本人だ
った。
﹁⋮⋮なんで?﹂
ミュトが呟く。原因に心当たりがないようだ。
長い間一緒に旅をしてきたフカフカにとっても初めての事らしく、
困惑した様子で首を傾げ、落ち着きなく尻尾を左右に振っている。
耳を澄ませたフカフカが顔を上げる。
﹁ロウヒが去っていく﹂
﹁ひとまず、やり過ごしたって事か﹂
だが、ロウヒが去っていくのなら、特殊魔力の壁を輝かせている
犯人はロウヒではないという事になる。
最初に気付いたのは、クローナだった。
﹁これ、光虫の光ですよ﹂
キロは壁を注意深く見る。
密集しているため良く分からなかったが、確かに光虫だ。
﹁どういう事だ?﹂
﹁ボクにもさっぱり﹂
申し訳なさそうに眉を八の字にして、ミュトが壁を見つめる。
965
その時、光虫が左右に割れた。
左右に割れた光虫が作る道の向こうに、人影が見える。
ゆっくりと歩いてくる人影へ横から炎の渦が襲い掛かるが、人影
に衝突した瞬間ただの風となって吹き抜けた。
次第に人影の詳細が見えてくる。
地下世界では珍しいスカート姿、首には赤い色のマフラーを巻い
ている。
近づいてくる人影の着ている服が女子制服だと気付いた瞬間、キ
ロは懐中電灯を取り出した。
人影が黒髪をかき分ける。その下から現れた顔を確認して、キロ
は懐中電灯に張られたプリクラと見比べる。
﹁⋮⋮懐中電灯の持ち主だ﹂
何が起きているのか、全く分からなかった。
しかし、壁が映し出していた光虫と女子高校生の姿は、特殊魔力
の壁が消失すると同時に消え去った。
ロウヒの縄張りを見下ろしながら、キロは思考を巡らせる。
﹁一つ言える事は⋮⋮﹂
ミュトが洞窟道の壁に手を突いてロウヒの縄張りに落ちている光
虫を見つめ、呟く。
﹁ボクの特殊魔力は、破壊不可の壁を生み出す効果以外に何かがあ
るって事、かな﹂
ミュトの言葉に、フカフカが静かに頷く。
キロはミュトとフカフカに視線を向けつつ、思考を巡らせ続けて
いた。
966
ミュトの特殊魔力の正体も確かに重要だ。
だが、さらに重要な事がある。
﹁⋮⋮フカフカ、水の音は聞こえるか?﹂
のどの渇きを覚えながら、キロはフカフカに訊ねる。
目的はのどを潤す水の確保ではない。
﹁いや、聞こえぬな。この洞窟道は一本道のようであるが⋮⋮妙で
ある。上からの音が完全に途絶えておる﹂
キロは立ち上がり、洞窟道の奥を見た。
そこかしこで光虫が羽を休めており、洞窟道には光が灯っていた。
奥に行くほど、光虫の数は増していくようだ。
﹁懐中電灯の持ち主は、光虫を大量に引き連れていたんだよな?﹂
キロが確認の意味を込めて全員に問うと、息をのむ音が返ってき
た。
﹁まさか、ここにいる光虫って﹂
﹁どういう理屈か知らないけど、さっきの光景を見ただろ。上を目
指していた懐中電灯の持ち主がこの道を通った可能性は低くない﹂
キロは懐中電灯を片手に歩き出す。
誰も止めはしなかった。
キロ達は洞窟道を登る。
ミュトの肩で耳を動かしていたフカフカが、怪訝そうに道の奥を
睨んだ。
967
﹁魔物の気配は一切ないが、奥から音が返ってこぬのが気にかかる﹂
﹁行き止まりじゃないの?﹂
ミュトが問うと、フカフカは尻尾を乱暴に振る。
﹁行き止まりならば音が反響するであろう。この道の奥はまるで音
を吸収しておるようだ﹂
不可解でならない、とフカフカは何度も首を傾げる。
奥に辿り着けば分かる事だ、とキロは率先して先を目指す。
進むにつれて、光虫の数が多くなる。
フカフカの尻尾の明かりさえ必要ないほど、光虫が群れていた。
しかし、光がある地点でぱったりと途絶えている。
洞窟道の先に、黒い空間があった。光虫の光を吸収しているよう
だった。
キロとクローナはつい足を止める。
﹁行き止まり、ではないみたいだね。なんだろう?﹂
﹁音を吸収していたのはこの壁であるな﹂
ミュトとフカフカが首を傾げる。
だが、キロとクローナは黒い壁に見覚えがあった。
﹁⋮⋮これ、遺物潜りと同じモノですよね?﹂
クローナが黒い壁を見つめて、キロに問う。
﹁悪食の竜に食われてこうなったのか、それとも懐中電灯の持ち主
が何らかの方法で作ったのか。さて、困ったな﹂
968
キロは腕を組んで黒い壁を見つめた。
どこに通じているか分からない以上、迂闊に飛びこむわけにはい
かない。
かといって、ロウヒの縄張りに戻ってもう一度命がけの逃走劇を
するのも怖い。
クローナに意見を聞こうとした時、ミュトがキロの持つ懐中電灯
を指さした。
﹁それ、少し光ってない?﹂
﹁え?﹂
電池はすでに無くなっていたはず、とキロは懐中電灯を見下ろす。
注意深く観察しなければわからないほど淡く、懐中電灯全体が光
を放っていた。
﹁念が解消されそうになってる﹂
近くに遺体があるのかとキロは周囲を見回すが、見当たらない。
﹁壁に埋まっているかもしれませんよ?﹂
﹁この辺りの壁はかなり古いから、多分、土の中じゃないよ﹂
﹁となると、この黒い空間の向こうに⋮⋮?﹂
全員の視線が黒い空間に向く。
﹁その懐中電灯だけを投げ入れればよいのではないか?﹂
フカフカが懐中電灯を照らし、黒い空間に放り込む仕草をする。
良い案に思えるが、キロは首を振った。
969
﹁懐中電灯の念を解消すれば帰還の道が開くけど、懐中電灯そのも
のを起点として開くんだ﹂
﹁扉が開いても、傍らに我らがいなくては意味がないのか﹂
フカフカはお手上げだというように尻尾から力を抜き、だらりと
下げる。
キロは黒い空間を睨み、深呼吸する。
﹁覚悟を決めるしかないか﹂
キロが呟くと、クローナがキロの片手を握った。
﹁もちろん付いて行きますからね﹂
にっこりと笑うクローナに、キロは苦笑する。
﹁分かってるよ。もう、置いていくなんて言わないから﹂
キロがミュトに顔を向けた時、
﹁えいっ﹂
という小さな掛け声と共に、ミュトがキロの腕に抱き着いた。
腕に抱き着いているミュトを見下ろすと、フカフカが見上げてく
る。ミュトの首に巻き付いている状態だ。
キロの視線を不可解そうに見つめ返し、フカフカが口を開く。
﹁我らも付いて行くと言ったではないか﹂
﹁抱き着く必要まではないんじゃないかと︱︱クローナまで抱き着
くな﹂
970
﹁ミュトさんが良くて私が駄目という事はないはずです﹂
﹁なんで張り合ってんだよ﹂
キロはため息を吐き、クローナとミュトを交互に見る。
﹁忘れ物がないなら、行くぞ?﹂
﹁地図を届けられなかった事だけが心残りかな﹂
ミュトが鞄に視線を落とす。
死亡した地図師の男の地図が入っているはずだ。
しかし、すでに割り切っているのか、ミュトは顔を上げた。
﹁︱︱行こう﹂
キロ達は黒い空間の中へ一歩を踏み出した。
体が全て黒い空間を通ると、視界は闇に染まっていた。
︱︱地面の感触がない?
﹁フカフカ、明かりを!﹂
落下するような感覚はなかったが、地面の感触がない異常に気付
いて、ミュトがいち早く叫ぶ。
ミュトの指示に答えてフカフカが尻尾を光らせた。
﹁何、これ⋮⋮﹂
ミュトが小さく呟いた。
フカフカの明かりで、キロ達は互いの顔を認識できる。
にもかかわらず、周囲には何もなかった。
空も、地面も、何もない。ただただ真っ暗な空間が広がっている。
971
どこまで続いているのか分からない。
﹁帰り道はないんだな﹂
キロは後ろを確認して、呟いた。
どうやら、遺物潜り同様の片道切符らしい。
﹁フカフカ、遠くを照らしてみてくれるか?﹂
﹁⋮⋮うむ﹂
流石のフカフカも動揺しているらしく、反応が鈍い。
尻尾を正面に向けるが、光の中には何も映らなかった。
少なくとも、フカフカの尻尾の明かりが届く範囲内には何もない
のだ。
月のない夜の海に立っているような感覚に不安を覚えたクローナ
がキロの腕を強く抱きしめる。
﹁キロさん、壁画の何も描かれてない空間って⋮⋮﹂
クローナに言われずとも、キロの頭の中には壁画の絵が駆け巡っ
ていた。
﹁悪食の竜に食べられたのか?﹂
何もない空間。真っ暗な、空虚な世界。
これが虚無なのだろうか、とキロが頭の片隅で考えた時、懐中電
灯の明かりが次第に強くなっている事に気が付いた。
﹁フカフカ、周りを照らしてくれ。遺体があるかもしれない﹂
972
フカフカが尻尾をゆっくりと巡らし周囲を照らすが、遺体は見つ
からない。
懐中電灯の明かりが強まり、フカフカの尻尾の明かりがなくても
互いの顔が認識できるようになる。
直後、懐中電灯を起点に黒い空間が開いた。
﹁念が解消された?﹂
なんで、とキロは口の中で呟く。
状況がまるで呑み込めなかった。
クローナが顎に手を当て、考え込む。
﹁考えられるとすれば、懐中電灯を取り返したい、というような願
いですけど﹂
周囲に遺体がないのが気になりますね、とクローナは眉を寄せる。
﹁空と一緒で距離の概念を食われてる、とか﹂
﹁我らが遠近を認識しておるのだ、それはなかろう﹂
キロの思い付きをフカフカが一瞬で否定する。
フカフカは鼻を鳴らし、ふむ、と一つ息を吐く。
﹁人の匂いがする。懐中電灯とやらも、持ち主の名残に反応したの
であろう﹂
﹁一番それらしい仮説だな﹂
悩んでいると、ミュトがキロの腕を引っ張った。
﹁それより、早く帰還の扉って言うのを潜ろうよ。ここにいたら餓
973
死しちゃう﹂
﹁⋮⋮餓死?﹂
︱︱そうか、死因は餓死か。
懐中電灯の持ち主の特殊魔力を考えれば、そう簡単に死ぬはずは
ない。
だが、帰り道のない状況でこの虚無の世界に放り出されたのなら、
餓死せざるを得ないだろう。
問題は、懐中電灯がなぜ虚無の世界に直通ではなかったのかとい
う点だ。
︱︱アンムナさんに聞くのが手っ取り早いか。
遺物潜りの開発者の顔を思い出しつつ、キロ達は帰還の扉へ向か
う。
﹁こんな短時間に二回も世界を渡る事になるとはな﹂
﹁この場合、帰り着くのは私の世界ですよね?﹂
クローナがキロに問う。
﹁多分、そうだ。俺達が地下世界に旅立って少し時間が経った後の
クローナの世界だな﹂
地下生活のせいで完全に体内時間が狂っているため、正確な日付
は分からない。
キロ達が帰還の扉を潜る際、クローナが小さな声で言った。
﹁ただいま、それとお帰りなさい、それから﹂
くすりと笑ったクローナは、ミュトとフカフカに視線を移す。
974
﹁︱︱空のある世界にようこそ﹂
懐中電灯を起点とした黒い空間に足を踏み入れた瞬間、ガタン、
と派手な音がして、キロは足を踏み外し、尻餅をついた。
打ち付けた尻を擦ろうとしたキロは、どこか懐かしい木の香りに
気付いて顔を上げる。
ひっくり返った木の机が転がる食堂で、見覚えのある司祭が口を
半開きにしてキロ達を見つめていた。
﹁⋮⋮お、おかえり、で良いのかね?﹂
困惑気味に挨拶してくる司祭は、キロとクローナを見回し、ミュ
トに目を止めて首を傾げた後、どうした物かと考えるように駄馬を
見つめて眉を寄せた。
﹁随分、仲間が増えたようだけれども︱︱﹂
司祭が言いかけた時、床にうちつけた額を片手で押さえながらミ
ュトが顔を上げ、キロに詰め寄った。
﹁キロ、空はどこ⁉﹂
﹁窓の外﹂
キロが指差した先にあるガラス窓を認識した直後、ミュトは駆け
出した。
すぐに窓に取り付き、勢いよく開いて上を見上げる。
﹁わぁ⋮⋮﹂
小さく呟いて、ミュトは青空を見上げたまま動かなくなった。
975
彼女の肩の上で同じように空を見上げているフカフカの尻尾が心
地よさそうに左右に揺れていた。
976
第五十三話 青空︵後書き︶
これにて第二章は終了となります。
第三章は、早ければ来月頭から開始できると思います。
977
第一話 一か月ぶりの世界
窓から空を見上げて固まるミュトとフカフカをよそに、キロは司
祭にどう説明した物かと頭を掻いた。
悩むキロの袖をクローナが掴み、駄馬を指さす。
﹁とりあえず、この駄馬を外に出した方がいいですね﹂
﹁そうするか﹂
司祭に断わりを入れて、駄馬を外に連れ出す。
元々地下世界にいた駄馬であるせいか、人間用に作られた小さな
扉も器用にくぐって見せた。
外に連れ出される駄馬を見て、ミュト達が慌てて付いて来る。
﹁サングラスを掛けておけよ﹂
キロが指摘すると、ミュトはポケットからサングラスを出して装
着した。
興味深そうに駄馬を眺めながら、司祭も後を付いて来る。
外に出ると、雲一つない快晴だった。
久しぶりに見る空に、キロとクローナはほっと安堵の息を吐く。
はるか遠くに見える山や、青々とした芝生、腕をいっぱいに伸ば
しても誰の迷惑にもならない広い世界。
﹁上をあんまり気にする必要がないのは楽だな﹂
﹁ですね。いきなり温泉が降ってくることもないですし﹂
﹁キロ君もクローナも、いったいどんな場所にいたんだい?﹂
978
事情を知らない司祭が不思議そうに首を傾げるので、キロはクロ
ーナと代わる代わる遺物潜りを成功させてからの地下世界生活を語
る。
羊と一緒に柵に入れても喧嘩する事はなさそうだ、と駄馬を入れ
てやる。
駄馬は足元の草をぼんやりと眺め、臭いを嗅いでフンっと鼻を鳴
らす。食べられる物かどうか調べているらしい。
︱︱地下世界には生えている草なんかほとんどないもんな。
駄馬は周りのヒツジが草を食べる様子を注意深く見つめ、恐る恐
る草をはむ。
気にいったのか、そのままむしゃむしゃと食べ始めた。
︱︱慣れない物食べて腹を壊さないといいけど。
キロは少し心配しつつ、もっと心配な一人と一匹に視線を移した。
ミュトはきょろきょろと左右を見回し、眉を寄せている。フカフ
カも同様に尻尾をせわしなく動かしていた。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁︱︱広すぎて目が回る﹂
﹁同感であるな。慣れるまで少しかかりそうだ。我らは家に引っ込
むとしよう﹂
頭を押さえたミュトがフカフカを肩に乗せたまま家の中に戻って
いく。
司祭がキロに歩み寄った。
﹁彼らは何者かな? イタチの方も喋っているようだったけれども﹂
﹁彼、じゃなくて彼女、です。ミュトと言って、地下世界で知り合
ったんですよ。肩に乗ってるのは尾光イタチのフカフカです﹂
紹介すると、司祭はミュト達を振り返る。
979
﹁キロ君と同じ異世界の人間、という事かな﹂
﹁俺とはまた別の世界なんですけどね﹂
﹁キロ君は元の世界に帰れなかったのか。またしばらくこちらの世
界で暮らすのかな?﹂
﹁そうなりますね。媒体になる遺品も見つけないと﹂
形としては振り出しに戻ったようなものだ。
キロはため息を吐くが、司祭は朗らかに笑ってキロの肩を叩いた。
﹁何にせよ、また会えてうれしいよ。今日は泊まっていきなさい。
土産話も聞きたいからね﹂
気安く誘う司祭に、キロは頭を下げる。
﹁お世話になります﹂
キロの言葉が聞こえていたのか、クローナも軽く頭を下げた。
教会に戻ると、ミュトは窓際に陣取って空を見上げていた。
司祭に土産話を語るクローナから離れて、キロはミュトの隣に椅
子を持って行く。
﹁どうだ、空の感想は﹂
﹁今までいた世界がとても小さく思えるよ。ボクの世界にも昔はこ
れがあったのかな﹂
残念そうに言うミュトに何と声を掛ければいいのか分からず、キ
ロは言いよどむ。
﹁⋮⋮悪食の竜にまつわる壁画の内容が事実なら、きっとあの世界
980
にも空があったんだと思う﹂
結局、真偽は分からずじまいだったが、ロウヒの言葉や翻訳の腕
輪の翻訳結果などを鑑みるに、壁画の信憑性はかなり高い。
だが、キロには一つ気になる事があった。
﹁悪食の竜に空を食われたんだとすれば、何で地下世界と虚無の世
界は分かれていたんだろうな﹂
﹁︱︱どういう意味?﹂
キロの言葉の意味が分からず、ミュトは首を傾げる。
﹁いくら悪食の竜に空を食われても、ミュトの世界での出来事だろ
う。悪食の竜に食われた空間が別世界になっているのがおかしい、
と思ったんだよ﹂
虚無の世界に移動する際、キロには確かに遺物潜りと同じ世界を
渡る感覚があった。
︱︱悪食の竜に、虚無の世界に、遺体の在り処、念の正体⋮⋮分
からないことだらけだな。
キロはクローナを振り返り、声をかける。
﹁クローナ、明日にでもアンムナさんを訪ねて報告しよう﹂
司祭に大ムカデ退治を話して聞かせていたクローナがキロに視線
を移す。
少し考えた後、クローナは困ったように司祭を見た。
﹁ギルドの方は何か言ってきてませんか?﹂
﹁キロ君達が帰ってきたら訪ねてくるように言ってくれ、と言伝を
981
預かってるよ。明日出発するつもりなら、いまからでも顔を出して
きなさい﹂
﹁なんか、慌ただしくてすみません﹂
キロが謝ると、司祭は軽く笑った。
﹁夕食の準備でもして待っているよ﹂
腰を上げたキロ達を不思議そうに見上げるミュトを促して、外に
出る。
﹁シールズの動きも気になるし、最新の情報は必要か。俺達が地下
世界に出かけてから、どれくらい経ってるんだ?﹂
﹁一ヶ月ほどだそうですよ。地下世界で過ごした時間と同じだけこ
ちらでも経ってるみたいですね﹂
司祭に確認したらしく、クローナからすぐに答えが返ってきた。
︱︱一ヶ月あればいろいろ状況が変わってそうだな。
積極的にシールズと戦うつもりはないが、情報は得ておいた方が
いいだろう。
﹁それはそれとして⋮⋮﹂
キロはクローナと共に左にいるミュトを見る。
﹁︱︱目、目が回る﹂
左右に壁がないため距離感がうまくつかめないらしく、ミュトが
ふらふらしていた。
フカフカはすでに慣れたらしく、呆れたようにミュトの後頭部を
982
尻尾で叩く。
﹁しっかりするのだ。まったく、距離を正確に目測できる特技があ
だになったようであるな﹂
見かねて、キロはミュトと手を繋ぐ。
﹁とりあえず、慣れるまでがんばれ﹂
﹁ごめん。じきになれるとは思うんだけど﹂
申し訳なさそうにミュトが返事をする。
キロの右にいたクローナがわざとらしく頭を押さえてふらついた。
﹁キロさん、私も久しぶりすぎて感覚が﹂
﹁気のせいだろ﹂
﹁気のせいだとしても手を繋ぎたいです﹂
﹁最初から素直にそう言え﹂
ほら、と開いた片手をかざすと、クローナはキロの手を取り、嬉
しそうに歩き出した。
ミュトとフカフカにギルドについての説明をしている内に、ギル
ドの建物の前に辿り着く。
すれ違った見覚えのない冒険者に舌打ちされつつ、キロはクロー
ナ、ミュトの二人を連れて中に入った。
ふらふら揺れるミュトの肩に嫌気がさしていつの間にかキロの肩
に移っていたフカフカが、尻尾を揺らす。
﹁これがギルドか。ふむ、良い面構えの輩が多いが、早い話が傭兵
であろう?﹂
983
﹁傭兵とは微妙に違って、都市国家の所属なんだとさ。その辺の仕
組みはクローナに聞いてくれ﹂
キロの姿を見つけたのか、受付の見慣れた男が慌てたように立ち
上がる。
受付の男に手招きされて、キロ達が進むとギルドにいた冒険者達
の視線が集まった。
黒髪のキロに加え、白髪のミュトの組み合わせが珍しいのだろう。
受付に辿り着いたキロ達に受付の男は椅子に座るよう促した。
﹁帰ってきたんですね﹂
﹁まぁ、いろいろありまして﹂
キロが返すと、受付の男は足元に置いてあった鞄から翻訳の腕輪
を取り出した。
久しぶりであるため、キロがクローナの世界の言葉を話せない事
を忘れていたらしい。
翻訳の腕輪を装着した受付の男は、キロとクローナを見てにっこ
りほほ笑んだ。
﹁とてもいいところに帰ってきてくれて、うれしい限りですよ﹂
受付の男の笑顔の裏に厄介ごとの気配を感じて、キロはため息を
吐いた。
984
第二話 女装の講義
受付の男性が深刻な顔で言うには、シールズの空間移動の特殊魔
力を用いた窃盗事件が相次いで起こっているという。
﹁好き放題やられて、ギルドも各街の騎士団も面目丸潰れです。盗
品の数からみて、近い内にオークションがいくつかの街で同時開催
される見込みで、犯罪組織の検挙に力を貸してくれる冒険者を探し
ていました﹂
﹁拒否権は?﹂
﹁ありますよ。別の形で協力してもらいますが﹂
キロはクローナと顔を見合わせる。
﹁お金はどれくらいあるんだ?﹂
﹁出発する時に翻訳の腕輪を買ったりしたので、残金は心許無いで
す。でも、アンムナさんのところに行ってから稼ぐことにしても遅
くはないと思いますよ﹂
余裕はあるらしい。
シールズはもともと腕の立つ冒険者であり、特殊魔力を隠し立て
しなくなった今ではキロ達の手に余る相手だ。
戦闘を回避するのが無難だろう、とキロは受付の男性を見て、別
の形の協力を申し出る。
すると、受付の男性はなぜか待ってましたと言わんばかりの笑顔
で頷いて、立ち上がった。
﹁それでは、キロさんと同じくオークション会場への潜入調査を依
985
頼しておいた何人かの冒険者に女装の仕方を教えてください﹂
﹁待て、何故そうなる﹂
キロはすかさず突っ込みを入れるが、受付の男性は明日また来て
くれと言ってギルドの奥へ消えて行った。女装させる冒険者に声を
掛けに行ったのだろう。
藪蛇だった、と額を抑えるキロに、クローナがくすくす笑う。
﹁久しぶりに可愛いキロさんが見れますね﹂
﹁俺は教える側だ。あぁ、もう、この際だからミュトも化粧の仕方
を覚えとけ。少し勝手が違うけど、応用は利くだろ﹂
開き直って、キロは自らの鞄からクローナの世界の貨幣が詰まっ
た皮袋を取り出す。
いくらか見繕って、当面の資金としてミュトに渡した。
﹁この依頼が終わり次第、別の街に向かうから、旅装を整えておこ
う。帽子も買った方がいい﹂
地下世界とは違って日差しがあるため、必要な物も異なるだろう。
どうせ町まで来たのだから、とキロはミュトの旅支度を整える事
に決めて、ギルドを出た。
フカフカがギルドを振り返り、鼻を鳴らす。
﹁キロよ、悪目立ちしておったようだが、昔何かしたのか﹂
﹁あぁ、訓練教官と喧嘩したり、実戦形式の試合でクローナと一緒
に相手の二人組を完封したり⋮⋮﹂
﹁それで睨まれておったのか﹂
納得するフカフカから視線を逸らし、キロはさりげなく背後のギ
986
ルドから出てくる男達の視線を気にする。
︱︱クローナと手を繋いで入ったのは失策だったな。
妬まれてそうだと思いつつ、キロは足を速めて退散する。
﹁男装はもうやめるんだろ? 服も新しく買い足さないとな﹂
あれこれと必要な物を思い浮かべつつ、キロ達はまず服屋に向か
う。
並べられた商品は古着ばかりで、新品は値が張るためあまり出回
らない。新品が欲しければ注文するのだろう。
しばらくは冒険者生活をすることになるため、動きにくい物や肌
の露出が多い物は避けなくてはならない。
自然と女性向けの物は数が限られてしまう。
しかし、現地で培った長年の経験か、クローナはミュトの体にあ
れこれと服を当てては似合いそうな物を選んでいく。
キロはキロで、服をクローナに任せて髪飾りなどの小物を見繕っ
た。
﹁ボクには似合わないと思うんだけど﹂
﹁鏡見てから言いましょうね﹂
﹁慣れれば可愛くなるって。後は髪型だな﹂
好き勝手に弄り回し、着せ替えたミュトを一回転させて確認した
キロとクローナは互いに頷きあう。
﹁流石に良い仕事するな﹂
﹁キロさんこそ、女装歴はだてではありませんね﹂
﹁うるさいぞ﹂
キロはクローナの頬を人差し指で両側から突いて黙らせる。
987
明日には女装のやり方を冒険者に教える事になるため、キロはい
くつかの化粧道具を買い直す。
また化粧道具を手にする日が来ようとは思わなかった、とキロは
ため息を吐いた。
﹁とりあえず眉毛だけでも整えておくか﹂
﹁キロ、なんだかんだで乗り気だね﹂
﹁だからこそ、あの受付に付け入られたのであろうな﹂
好き勝手に言葉を交わすミュト達を無視して、キロは教会への帰
り道を行くのだった。
翌朝、ギルドに出向いてみると何とか誤魔化せそうな体型の冒険
者を二十人ほど紹介された。
受付の男性が冒険者達を手で示す。
﹁潜入調査の実績はありますが、変装はあまり得意ではない者達で
す。腕は立つので、女装の仕方だけ教えていただければ、後はこち
らで何とかします﹂
キロは冒険者を見回して、腕を組む。
﹁全員に教えるのか?﹂
﹁三人ほどで結構なので、見込みがありそうな方を選んでください﹂
﹁それじゃあ、技術を身につけられるか分からないので余裕を持っ
て七人ほど﹂
選りすぐられた七人は複雑そうに互いの顔を見ていたが、キロは
武士の情けで何も言葉を掛けず、女装の講義を始める。
988
椅子に座らせたミュトと冒険者の一人を並んで座らせ、キロはて
きぱきと違いを解説していく。
なぜか目を輝かせている冒険者が二人いたが、キロは関わりを最
低限にしておこうと無視した。
相手の視線に注意する事や振る舞い方について説明してみると、
冒険者達は熱心にメモを取りはじめた。
潜入調査の心得にも通じるものがあるため、興味をひかれたのだ
ろう。
﹁師匠は女装して潜入調査した経験があるって聞きましたけど﹂
﹁誰が師匠だ﹂
瞳を輝かせている二人のうちの一人に師匠と呼ばれ、キロは突っ
込みを入れつつ振り返る。
﹁潜入調査をしたことはある。偶然顔見知りがいて、見破られたけ
どな﹂
﹁女装を過信しちゃダメって事なんですね﹂
﹁ばれたら破滅だと思え。いろんな意味で﹂
他の五人とは違って頷かない二人に突っ込んで聞く事をせず、キ
ロは講義を続けるのだった。
989
第三話 地下世界の考察
﹁悪食の竜、か。興味深いね﹂
キロが土産話に地下世界の旅の顛末を語ると、遺物潜りの考案者、
アンムナは顎を撫でながらミュトを見た。
視線を向けられたミュトは、揺り椅子に座るアシュリーの隣で窓
から空を見上げている。
アンムナからアシュリーを人形だと紹介されたミュトは疑問を覚
える事もなく、興味を持つ事もなく、青空を見上げ続けている。
クローナの世界に戻ってきて丸一日、女装についての講義を終え
たキロ達はいくつもの疑問を抱えて司祭がいる町を出発し、アンム
ナを訪ねた。
だが、一日程度で空を見飽きるはずもなく、ミュトは四六時中空
を見上げ続けている。
ひまわりだって時々は俯くだろうに、とキロは苦笑する事しきり
だ。
アンムナはミュトと、その肩に乗るフカフカを興味深そうに見つ
めて、くすりと笑う。
﹁地下で人々が暮らす世界とは⋮⋮色々な世界があるんだね﹂
行ってみたいな、としみじみ口にした後、アンムナはキロに向き
直る。
﹁さて、遺物潜り自体は成功したようだけど、何か疑問はあるかい
?﹂
990
アンムナに本題を切り出されて、キロは頷く。
遺物潜りは死亡した持ち主の念を媒体にして異世界への扉を開く
魔法であり、持ち主が死亡した直後の世界へ行くことができる。
しかし、キロとクローナが地下世界に赴いたところ、周辺に持ち
主の遺体は存在せず、地下世界の住人にとっては未知の場所である
未踏破層の先に存在した虚無の世界で、遺体もないのに念が解消さ
れた事を示す帰還の扉が開いた。
遺体が持ち去られたと考えても不自然な場所であり、何よりも懐
中電灯の持ち主である女子高生は自力でロウヒの縄張りを越えた形
跡がある。
改めて考えても、疑問がいくつか浮かび上がってきた。
疑問の一つをクローナが口にする。
﹁懐中電灯で潜った先が何故か地下世界の中層だった事が今回の発
端ですよね﹂
﹁最初からロウヒの縄張りの奥にあったあの虚無の世界に出ていれ
ば、面倒がなかったよな﹂
キロは塵一つない真っ暗な空間を思い出す。
手持ちの情報では、懐中電灯の持ち主である女子高生は虚無の世
界で餓死したと考えられる。
持ち主が死亡した直後の世界への扉が開くのであれば、女子高生
が餓死した直後の虚無の世界に出てこなければおかしい。
しかし、アンムナはすでにこの疑問に対する答えが出ていたらし
い。
﹁それは魔法の性質上、仕方がないと思うな﹂
﹁どういう事ですか?﹂
﹁遺物潜りは物に宿った念を媒体にする魔法だからね。今回の場合、
持ち主は懐中電灯と旅をしたかったという無念があったんだと推測
991
できる。そこで遺物に宿った無念を晴らす魔法である遺物潜りを発
動したのだから、無念を晴らすための行動が求められ、持ち主と同
じ虚無の世界まで懐中電灯と〝旅をする〟必要が出てきたんだ。そ
して、キロ君達が遺物を同じ虚無の世界に〝旅の果てに辿り着いた
〟から、無念が晴れて、遺物潜りの発動終了を告げる帰還の扉が開
いた﹂
流石は開発者と言うべきか、理路整然と持論を並べるアンムナに
キロは聞き入った。
少し間を置いて理解したキロは納得する。
﹁つまり、遺物潜りはあれで成功だった、という事ですか﹂
﹁そうなるね。持ち主の願いが、懐中電灯をこの手に持っていたか
った、なら直接虚無の世界に行けたかもしれない。懐中電灯そのも
のに虚無の世界の記憶がないから、相当念が強くないと難しいけど
ね﹂
﹁それなら、虚無の世界で懐中電灯をこの手に持っていたかった、
という無念なら位置情報も念に込められているから、虚無の世界に
直通ですか?﹂
﹁そうだと思うよ。何度も遺物潜りを行って確かめてみないと確か
な事は言えないけどね﹂
キロは頭の中で時系列を必死に思い浮かべ、納得する。
﹁それって、この世界で誰かが別の世界に行きたいと思って死んだ
ら、遺物潜りで別の世界に行けるってことになりますよね?﹂
﹁行けるだろうね。ただ、別の世界を強く想像して死ぬことができ
る人はまずいないと思うよ﹂
︱︱結局、俺と同じ世界から来たらしい遺品を探す以外に方法は
992
ないか。
媒体の幅が広がるかもと期待しただけに少し残念だった。
その時、キロの肩にフカフカが飛び乗った。
﹁アンムナと言ったな。悪食の竜に関しては何か分からぬか?﹂
フカフカの言葉を聞いて、ミュトが振り返った。
アンムナは困ったように天井を仰ぐ。
﹁話を聞く限り、空間を食べて虚無の世界にしてしまう竜みたいだ
けど、良く分からないな。僕は異世界の生物には詳しくないからね﹂
﹁そうか。それにしても、我が口を利いても驚かぬのだな。この世
界には人以外に言葉を話す生物はいないと聞いたのだが﹂
フカフカが尻尾を揺らし、訝しむ様にアンムナを見上げる。
アンムナはわざとらしく肩を竦めて、フカフカの首を指差した。
﹁君が翻訳の腕輪を首に掛けている時点で予想がついていたからね﹂
アンムナの答えを聞いたフカフカは首にかけた翻訳の腕輪に前足
を掛けて引っ張る。
﹁目敏い男であるな。観察されている気がしたのは我の早とちりで
あったか﹂
なおも怪しんでいる様子のフカフカに苦笑を返したアンムナは謝
る。
﹁気に障ったなら謝るよ。僕も人並みに異世界に興味があるんだ。
キロ君やミュト君は人間だからいまいち実感がなかったけど、君は
993
動物だからね。好奇心をそそられるんだよ。という事で、いくつか
質問してもいいかな?﹂
フカフカから尾光イタチの生態を聞き始めるアンムナを横目に、
キロは考えをまとめる。
隣で同じように考え事をしていたクローナがキロを肘で突く。
﹁終着点に旅の終わりを迎えた遺体がなかった理由ってわかります
か?﹂
﹁死後に誰かが持ち去った、と考えるのが妥当だろうな﹂
﹁その誰かはやっぱり﹂
口に出さず、キロはクローナと目を合わせ、頷いた。
﹁十中八九、悪食の竜だ﹂
994
第四話 アンムナへの奇襲
以前にも世話になった手足が長い娘のいる宿を訪ねると、ちょう
ど居合わせた顔見知りの常連客に大歓迎された。
声を聴き付けて何事かと店の奥から顔を出した宿の娘が慌てて厨
房に声をかけ、すぐに料理を用意させる。
﹁久しぶりだね。泊まり? 一部屋⋮⋮だとクローナちゃんにはつ
らいかな﹂
宿の娘はキロとクローナを見た後、傍らにいるミュトに目を止め
て首を傾げる。
﹁そっちの白い女の子はどっちの恋人?﹂
﹁旅の途中で知り合ったミュトさんです。恋人ではないですよ﹂
さらりとクローナが返したことに宿の娘は目を丸くする。
﹁クローナちゃんが顔を赤らめずにこの手の話題に付いて来るとは
⋮⋮。この一ヶ月に何があったのか聞きたいところだね﹂
宿の娘は探るような上目使いでクローナを見つめながら、台帳を
開いて差し出す。
クローナがキロを見た。
﹁私と二人で一部屋にしますか?﹂
﹁選択肢がおかしいだろ。とりあえず、二部屋空いてるなら二部屋
で。男女で分けよう﹂
995
﹁ミュトさんもそれでいいですか?﹂
クローナが水を向けると、ミュトは宿併設の酒場を横目に見てご
くりと喉を鳴らす。
﹁ここ、高い店じゃないの?﹂
﹁割と一般的な部類だと思いますよ﹂
なおも不安そうなミュトにクローナが首を傾げる。
キロはミュトの視線を追って、不安の正体を見抜き、苦笑する。
﹁道中に森を見ただろ。この世界では木製の家具は珍しくないんだ
よ﹂
草や木が限られた場所でしか産出しない地下世界人のミュトにと
って、木製の家具はどれも高級品に見えるらしい。
同様に豊富に野菜が使われた食事も高級に見えるらしく、司祭が
作った食事にも恐縮してばかりだった。
キロに説明されても染み込んだ価値観は簡単にぬぐえないらしく、
ミュトは不安そうにキロの服の裾を掴んでいる。
クローナがミュトの様子を見て、宿の娘に一部屋だけ借りる旨を
告げた。
﹁知らない場所で不安になる気持ちも分かるので、一番安心できる
人と寝泊まりした方がいいですよね﹂
二部屋借りてもクローナがミュトと一緒に寝泊まりするだろう、
とキロは言いかけたが、言葉を舌に乗せる前にフカフカの尻尾で叩
かれた。
キロ達のやり取りで関係性を察したのか、宿の娘はニマニマと笑
996
いながらクローナに何事か耳打ちする。
突然真っ赤になったクローナが飛び退き、警戒するように宿の娘
を見た。
カウンターに頬杖を突きながら、宿の娘はニマニマ笑う。
﹁まだ刺激が強すぎたかな?﹂
﹁⋮⋮そ、そういうことするお客さんもいるんですか?﹂
﹁年に一組か二組、ってところかな﹂
ちらちらとキロを窺うクローナの反応を楽しむ宿の娘は、台帳に
必要事項を記入し終えて立ち上がる。
部屋のカギを取ってくると言って厨房に引っ込んだ宿の娘と入れ
替わりに、宿の主が現れた。
キロ達を酒場のテーブルに手招き、宿の主はサラダを机に並べる。
﹁話は聞いてるぞ。シールズとやりあったんだろ?﹂
オークション会場での戦闘の事を言っているのだろう、とキロは
一つ頷いた。
宿の主はキロの前の椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
﹁また狙われるかもしれないから注意しろ、とこの店にも注意書き
が回ってきてる。今のところ誘拐はしてないらしいが、派手に盗み
をしてるらしいじゃないか﹂
クローナが申し訳なさそうに手を挙げ、宿の主の言葉を遮る。
﹁私達は一ヶ月ほど外にいたので、シールズさんの情報はあまり知
らないんです。ギルドで少しは聞きましたけど、捜査に加わってな
いので﹂
997
﹁そうなのか。まぁ、下手に首を突っ込めないよな。またキロが狙
われるかもしれないし、そっちの白いのも危ないだろうから﹂
話の矛先が向けられたことに気付いて、慎重にサラダを味わって
いたミュトが顔を上げる。
首を傾げる彼女に、キロはシールズの特殊な趣味を語り聞かせる。
見る見るうちに渋い顔になったミュトは、気味悪そうに店の外を
見た。
﹁どこの世界にも悪い人はいるんだね﹂
フカフカがミュトの肩の上で尻尾を揺らし、何をいまさらと言い
たげにミュトを見た。
﹁遺体を飾る酔狂な輩もいるのだ。趣味と性格は別であろう﹂
﹁誰の事?﹂
﹁気付いていなかったのか。アンムナの事である﹂
硬直したミュトがぜんまい仕掛けの人形のようにゆっくりとキロ
を見る。
気まずさを覚えて、キロは視線を逸らしながら頷いた。
﹁内緒な﹂
どう反応していいのか分からずおろおろするミュトに苦笑して、
キロはフカフカに視線を移す。
﹁アシュリーが本物の遺体だって、良く分かったな﹂
フカフカが鼻を鳴らした。
998
﹁これ見よがしに特殊魔力で囲ってあれば、我でなくとも怪しむ﹂
そういう事か、と納得しかけたキロは、パンに伸ばしかけた手を
止める。
︱︱特殊魔力で囲ってあった?
アンムナは特殊魔力を持っていないはずだ。
では、アシュリーを囲んでいた特殊魔力は誰の物なのか。
動きを止めたキロを見上げて、フカフカは首を傾げる。
﹁キロよ、何か気がかりな事でもあるのか?﹂
﹁アンムナさんは特殊魔力を持ってないはずだ﹂
﹁ほう、そうであったか。確かに体内にある魔力は見えぬから、我
でも判別は出来ぬが﹂
フカフカはなおも不思議そうにキロを見上げている。
アンムナの交友関係の狭さを知らなくては、疑問に思う事はない
だろう。
﹁だが、キロよ、アンムナ本人の魔力でないとすれば、あの特殊魔
力は誰が張ったものだ?﹂
︱︱アンムナさんの家に出入りできる特殊魔力持ちって言えば⋮
⋮。
脳裏をよぎった答えにキロは立ち上がる。
同時に、宿の入り口から見覚えのある青年が駆け込んできた。
﹁︱︱キロとクローナはいるか⁉﹂
名を呼ばれて振り返ったキロとクローナを見て、青年はほっとし
999
たように胸を撫で下ろした。
見覚えはあるが名前を思い出せず、キロは内心首を傾げるが、隣
にいたクローナが青年を指さして口を開く。
﹁キロさんに投げ飛ばされた新米騎士さんの片方!﹂
﹁あんた、相変わらず容赦なく抉ってくるな﹂
口元を引き攣らせた新米騎士は、キロを見た。
﹁こっちは無事みたいだな。付いてきてくれ﹂
キロはクローナと視線を交わす。
新米騎士は翻訳の腕輪を持っていないため、質問するのはクロー
ナの役目だ。
クローナはキロの視線を受けて頷くと、新米騎士に声をかける。
﹁何事ですか?﹂
新米騎士は躊躇する素振りを見せたが、すぐに広まるか、と何か
を諦めるように呟く。
﹁アンムナさんが何者かに襲撃された。特大の火球で家ごと吹き飛
ばされたらしい。アンムナさんは今、治療院に運ばれてる﹂
絶句したキロ達は、すぐに宿から飛び出した。
1000
第五話 襲撃現場
凄惨な現場だった。
家は屋根が吹き飛び、半壊している。あちこちに焦げ跡があるが、
消火が早かったらしく付近に類焼してはいないようだ。
もともと墓地の横に建てられた墓守の家であるため周囲に民家は
ないものの、墓地ごと囲むように広がっている林に燃え移れば大惨
事だっただろう。
﹁襲撃されたって聞きましたけど、この様子だと家の中から攻撃さ
れてますよね﹂
﹁そうみたいだね。壁の外側に目立った跡はないし、屋根だけ吹き
飛んでるから﹂
分析するクローナとミュトの言葉を聞きながら、キロはアンムナ
の家を眺める。
奇妙な事にミュトが言う通り壁の外側には争った形跡がない。焦
げ跡も屋根付近に集中しており、襲撃によって起きた火災の産物だ
と推測できる。
﹁アンムナさんが中に犯人を招き入れたのか⋮⋮?﹂
﹁︱︱そう考えるのが妥当だけども、いささか気になる点があって
ね﹂
横合いから声を掛けられて振り向くと、そこには初老の騎士がい
た。
家の周囲を探索してきたのか、靴には泥が付いている。
1001
﹁家の中央から少し窓に近付いたあたりが爆心地らしい。その辺り
だけ絨毯が丸々残ってたよ﹂
キロはアンムナの家の間取りを思い浮かべ、首を傾げる。
初老の騎士が証言した場所にはアシュリーが安置されている。ア
ンムナが最大の警戒を持って相手を注視する位置だ。
初老の騎士は家の扉を開けてキロ達を手招いた。
﹁今日、アンムナさんを訪ねただろう。アシュリーはどこに置かれ
ていたかな?﹂
キロは窓際を指さす。確かに、絨毯が丸々残っていた。
だが、部屋を見回してもアシュリーの姿はない。
初老の騎士はやはりか、と呟くと苦しげに呻いた。
﹁シールズの仕業だな、こりゃあ⋮⋮﹂
初老の騎士の言葉を聞いて、キロはすぐにフカフカに声をかける。
﹁フカフカ、部屋の中に張ってあったっていう特殊魔力はどうなっ
てる?﹂
フカフカが部屋をぐるりと見回し、首を振った。
﹁無くなっておる。使い切られた、と考えるのが正しいのであろう
な﹂
﹁どういう事ですか?﹂
キロとフカフカのやり取りに、クローナが疑問を挟む。
キロはアンムナの家に正体不明の特殊魔力が張ってあった事を告
1002
げた。
﹁誘拐事件の時も、シールズは一度アンムナさんの家を訪ねてから
籠を置いて行っただろ。シールズの特殊魔力は事前に出口を設定し
ておかないと使用できないんだと思う﹂
﹁フカフカさんが見たのはシールズが張った出口用の特殊魔力だっ
たって事ですか。それじゃあ、アシュリーさんがここにいないのは
⋮⋮﹂
﹁連れ去られたって事だろうな﹂
シールズが特殊魔力を用いた空間移動でアンムナに奇襲をかけ、
アシュリーを持ち去ったのだとすれば、シールズにはアシュリーを
保管しておける場所ができたという事だ。
シールズの犯行がアシュリーを持ち出すだけでおさまるとは思え
ない。またかつてのように誘拐事件を企てる事だろう。
悪い情報ではあるが、収穫もあった。
キロは収穫を確かめるべく、クローナに翻訳を頼んで初老の騎士
に向き直る。
﹁シールズが関与した疑いのある窃盗事件を洗って、事前にシール
ズ本人が下見に訪れていないかを調べる事はできますか?﹂
﹁調べるまでもないね。事前に下見に訪れているらしいとの報告は
上がってるから﹂
︱︱さすがに一ヶ月も経っているといろいろと調べがついてるん
だな。
だが、事前に特殊魔力を張っている事は知られていなかったらし
く、キロが説明すると、初老の騎士はフカフカを見て感心するよう
に頷いた。
1003
﹁シールズを捕える時には重宝しそうな情報ですな。まずは居場所
を掴まないといけないが⋮⋮﹂
これが難しい、と初老の騎士はため息を吐く。
﹁何はともあれ、アンムナさんから話を聞かないとダメですな﹂
﹁新米騎士さんに連れてこられたので治療院には寄れなかったんで
すけど、アンムナさんの容体はどうなんですか?﹂
クローナが心配そうに訊ねると、初老の騎士は苦い顔で首を振っ
た。
﹁酷いやけどを負っていてね。いま治療関係の特殊魔力を持ってる
者を呼びに行かせているけれども⋮⋮素直に治療を受けるとは思え
ない。君達を呼んだのもそのためだ﹂
アンムナがアシュリーに寄せる執着を知る初老の騎士が苦い顔を
外に向ける。
事情を知らないミュトが答えを求めるようにキロを見た。
しかし、キロがミュトの疑問に答えるより早く、ミュトの肩に乗
っていたフカフカが耳を動かし、顔を上げる。
﹁何やら、外が騒がしいな﹂
初老の騎士が苦い顔のまま家の外に出ていく。
キロはクローナと顔を見合わせ、ミュトの手を引いて外に向かっ
た。
すでに日は落ち、林に囲まれている事もあって周辺は暗い。
騎士達が視界を確保するために浮かべている魔法の光に照らされ
て、影を纏った黒い木々が揺れ動く。
1004
ざわつく騎士たちの視線の先に、キロは異様な風体の男を見つけ
た。
右腕と首から胸にかけて包帯が巻かれ、上半身には服を着ていな
い。厚手のズボンには焦げてできた穴が大きく空いている。
﹁⋮⋮アンムナさん?﹂
キロが名前を呼ぶと、異様な風体の男、アンムナは気安い調子で
片手を挙げた。
﹁やぁ、なんだか物々しいね。腕の立つ騎士ばかりこんな所でたむ
ろして、街の警備はどうなっているのかな?﹂
見るからに重症であるにもかかわらず、飄々とした態度で歩いて
くるアンムナの前に、初老の騎士が立ちふさがる。
﹁治療院を抜け出して来ましたかな?﹂
﹁アシュリーが気になってね。シールズ君はどこにいるのかな?﹂
アンムナは口元に笑みを浮かべながら周囲を睥睨する。口元に浮
かべた友好的な笑みとは裏腹に据わった目を向けられた騎士達が、
思わずたじろいだ。
﹁やはりシールズの仕業でしたか。こちらで行方を追いますんで、
アンムナさんは治療院に戻ってくれませんかな?﹂
﹁あぁ、分かったよ。でも、アシュリーを連れて行かないといけな
い。寂しがるからね﹂
アンムナがアシュリーの名前を口にするたび、徐々に空気が張り
詰めていく。
1005
ここにアシュリーがいない事を知られれば、アンムナがどう動く
のか、初老の騎士には想像がついているらしい。
アンムナの据わった目を見返しながら、キロは誘拐事件の最中に
聞いたアンムナの言葉を思い出す。
︱︱アシュリーが誰にも触れられないよう、見張っていてくれな
いかな。彼女に触れる者がいたら、牢を破ってでも殺しに行きたく
なるだろうから。
アシュリーを誘拐したシールズは確実にアンムナの逆鱗に触れて
いる。
自力で自宅まで歩いてきているとはいえ、満身創痍のアンムナと
シールズをぶつける事態は避けたいと初老の騎士は考えているのだ
ろう。
そう初老の騎士の思考を読んだキロだったが、事実はいささか異
なるようだった。
アンムナがゆっくりと首を振り、踵を返す。
すぐさま、初老の騎士は片手を肩の高さに挙げつつ、アンムナの
背中に声をかけた。
﹁どちらへ行かれるのですかな?﹂
アンムナが足を止め、肩越しに振り返る。
据わった目に明確な殺意を宿しながら、アンムナは形だけの笑み
を浮かべた口を開く。
﹁もちろん、シールズ君を殺しに行くんだよ。君達の反応を見れば、
アシュリーが誘拐された事くらい分かるからね﹂
いつも通りの口調で、近所へ買い物に行くように告げるアンムナ
に、初老の騎士が緊張を高める気配がした。
1006
﹁アンムナさん、シールズの居場所をご存じで?﹂
﹁まさか、知るはずないだろう。でもね、ここカッカラにも犯罪に
手を染めるグループはいるんだ。そいつらを殺して聞き出すよ。情
報が得られなかったら、ラッペンに向かおうかな。オークションと
いえばラッペンだからね﹂
乱暴な計画を語って、アンムナが顔を前に向けた直後、初老の騎
士が挙げていた片手を振り下ろす。
瞬時に騎士達がアンムナの行く手を塞いだ。
﹁⋮⋮何のつもりかな?﹂
アンムナが振り返らずに問う。
﹁アンムナさんに暴れられたら困るんでね。人死にだけで済むとも
思えん。冷静になって、治療院に戻ってくれませんか?﹂
﹁アシュリーが誘拐されたんだよ? もう少しっていうこの時に、
誘拐されたんだ。冷静に考えて、すぐにでも取り戻すべきだよ。邪
魔しないでくれるかな﹂
アンムナの返答に、初老の騎士はやれやれと首を振る。
成り行きを窺うしかないキロ達をちらりと見て、初老の騎士は部
下へ号令をかけた。
﹁アンムナさんを捕えろ。魔力切れを起こすまでの長丁場だ、心し
てかかれ﹂
騎士達が一斉に剣を抜き、構える。
それぞれが腕の立つ者だけあって隙もない。
ほう、とフカフカが感嘆するほどに、騎士達の実力は高かった。
1007
対するアンムナは構えるでもなく自然体のままだ。
ため息を吐いたアンムナが初老の騎士を振り返る。
﹁この場に僕を止められる実力者がいない事くらい、君ならわかる
だろう。クローナ君もまだまだのようだからね﹂
﹁え、私ですか?﹂
突然名前を出されたクローナがうろたえる。
アンムナが、ほらね、と肩を竦めた。
その瞬間、騎士達の中から三人が一斉にアンムナへ走り込んだ。
無力化を図ろうとする騎士達の三本の剣が腹を向けてアンムナへ
と吸い込まれる。
切るのではなく、叩く、相手を殺さず捕縛するための攻撃がアン
ムナに叩き付けられたかに見えた。
直後、金属質の高い音が鳴り響き、三本の剣が粉々に砕け散る。
目を剥く三人の騎士はアンムナの腕の動きに気付いて即座に離脱
を図った。
しかし、騎士達の動きはあまりにも遅かった。
アンムナの足元が弾け、石畳の道を構成していた石が破片となっ
て吹き上がる。
後方に飛び退いていたために直撃は避けられたものの、騎士達は
襲い来る石の破片から本能的に顔を庇った。
体に無数の石の破片を打ち付けられ、騎士達が地面を転がり呻く。
一瞬の攻防に、騎士達が息を呑む気配がした。
初老の騎士が剣を抜きながら、ため息と共に声を出す。
﹁今のがアンムナさんの奥義だ。物理攻撃は一切効かない。奥義が
使えなくなるまで魔力を削るぞ﹂
初老の騎士の言葉に、キロ達を連れてきた新米騎士がポツリと、
1008
反則だ、と呟いた。
1009
第六話 キロの提案
ガラス細工のように剣が砕け散る。
武器を失った騎士が撃ち出した石弾が風船のように破裂し、粉と
なって地面に積もる。
あまりの実力差に、この場の光景を戦闘と表現する者はいないだ
ろう。
﹁︱︱止めなくてよいのか?﹂
アンムナと騎士の戦いとも呼べない何かを眺めるだけのキロに、
フカフカが問いかける。
横を見れば、ミュトも困ったようにキロを見つめていた。
﹁あんなもの、俺に止められると思うのか?﹂
﹁お前が一番アンムナと親しいのであろう? キロの他に、誰が止
められるというのだ﹂
﹁いくら親しくてもアシュリーさんには敵わないからなぁ。それに、
親しいからこそ止めたくないとも思う﹂
キロの脳裏に浮かぶのはクローナが横たわる病室で聞いたアンム
ナの昔話だ。
あの時のアンムナの顔を思い出せば、アシュリーを取り戻したい
という気持ちを止める事が絶対に正しいとキロには思えなかった。
直接アンムナから聞かされていないクローナの意見はどうだろう
かとみてみれば、複雑そうにアンムナと騎士達を見つめている。
視線に気付いたクローナがキロに向き直った。
1010
﹁とりあえず、アンムナさんはやけどの治療を優先するべきだと思
います。アシュリーさんだって、大事に思われる事は嬉しくてもア
ンムナさんが無理をするのは喜ばないでしょうから﹂
キロは夜空を仰ぎ、ため息を吐き出す。
︱︱止めるにしても、戦って止めるのは無理だと思うんだけど。
それなりの実力を身に付けた自負はあるが、目の前の一方的な展
開に割り込んでいけるとは思えない。
だとすれば、戦う以外の方法でアンムナを止めるしかない。
考え付かないわけではなかったが、躊躇してしまう。
アンムナのために自らを危険にさらす義理があるのだろうか、と
思ってしまう。
︱︱いや、俺のためにもなるか。
キロはそれとなく頭を振って自らを無理やり納得させ、槍を片手
に動作魔力を練り、歩き出す。
不用意にアンムナへ近付いたために吹き飛ばされた騎士の一人を
受け止め、地面に降ろし、キロはアンムナを見据えた。
アンムナが肩を竦める。
﹁キロ君まで邪魔をするつもりかい? 参ったな。君なら僕の気持
ちもわかってくれるはずなんだけど﹂
﹁えぇ、分かっているつもりです。だから、邪魔はしませんよ﹂
キロが言葉を返すと、受け止められた騎士が慌ててキロから離れ、
剣を向ける。
砕けてしまっていた剣を見て苦い顔をした騎士は手元に残った剣
の柄を放り投げ、魔法を使う体勢を作った。
邪魔に入られると困る、とキロは足に魔力を込め、アンムナと同
様、地面に対して奥義を発動し石畳を爆散させる。
面食らった騎士が体勢を崩しながらも距離を取った。
1011
キロの行動を見て、アンムナがくすくす笑う。
﹁発動速度はまだまだ遅くて実戦では使えないだろうけど、及第点
かな﹂
﹁ありがとうございます。それはともかく、本題です。治療院に戻
ってくれませんか?﹂
キロの質問にアンムナは首を傾げる。
﹁邪魔をしないと言ったのはキロ君だろう。嘘はいけないよ﹂
﹁嘘はついてません。俺から提案があるんです。シールズを探して
闇雲に犯罪組織を潰すよりは効率的な提案です﹂
ほう、とアンムナは興味を引かれたように耳を傾ける。
やはり、アンムナが最優先しているのはアシュリーをいかに早く
取り戻すか、と言う一点なのだとキロは再確認しながら、提案を口
にする。
﹁俺が囮になって、シールズをおびき出します。具体的には、シー
ルズが所属する窃盗組織の捜査に俺が加わった事を喧伝し、窃盗組
織の面子を潰しつつシールズが俺のところに派遣されるように画策
します﹂
﹁そうか、一度シールズのいる組織とやりあったキロ君なら、そう
いう手が使えるのか﹂
思い付かなかったな、と感心するように何度も頷いたアンムナは
にっこりと笑った。
﹁では、キロ君はキロ君で動いてくれ。二手に分かれた方が効率が
いいからね﹂
1012
﹁それは通用しません。奇襲をかけてきた事からも分かる通り、シ
ールズはアンムナさんと正面切って戦うつもりがありません。アン
ムナさんがシールズを探して動いていると知られれば、雲隠れされ
てお仕舞いです﹂
実戦経験豊富な騎士達が手も足も出ないほどのアンムナの実力を、
弟子だったシールズが知らないはずはない。
だからこそ、問答無用で特大の火球を用いた奇襲を仕掛けたのだ。
物理攻撃をことごとく無効化するアンムナの奥義でも、熱までは
防ぎようがないと知っているからこそ、シールズは火球を選択して
いる。
キロに反論されたアンムナは口をつぐみ、吟味するように顎へ指
を当てた。
キロはその隙を逃さず、言葉を挟む。
﹁それに、俺達ではシールズの相手は荷が重い。シールズをおびき
出したら、アンムナさんに捕縛してもらいたいんです﹂
ここぞとばかりにアンムナの立ち位置を定めるキロに、アンムナ
は苦笑した。
﹁シールズを捕えたなら、あとは尋問してアシュリーの居場所を吐
かせる、と。概要は分かったけど、シールズの特殊魔力が勘定に入
ってないね。捕えても特殊魔力で逃げ出すだろうから、尋問する暇
はないよ﹂
話がまとまりかけていたところに根本的な問題をぶつけられ、騎
士達が落胆の溜息を吐きながら戦闘態勢を継続する。
しかし、キロはミュトの肩に乗るフカフカを指さした。
1013
﹁こっちにはフカフカがいますから、シールズが特殊魔力を使って
逃げだすことはできませんよ﹂
フカフカは魔力食動物である尾光イタチだ。シールズを捕縛した
後、特殊魔力を吸いだしてしまえば、空間転移を行う事はできなく
なる。
キロが説明すると、アンムナはフカフカに視線を向けて確認する。
ミュトの肩の上で尻尾を振ったフカフカは、鼻を鳴らした。
﹁不味ければ吐くぞ。我は美食家なのだ﹂
﹁無理矢理でも食べてくれ﹂
﹁高くつくぞ?﹂
﹁だそうです、アンムナさん﹂
﹁僕が払うのかい? まぁ、そういう事になるか﹂
苦笑を深めたアンムナは小さく唸ると、良いだろう、と小さく呟
いた。
﹁キロ君の提案に乗ろう。ただし、条件がある﹂
﹁条件、ですか?﹂
作戦の内容の確認ではなく、条件と言う言葉を出してきたことを
訝しみつつ、キロは問い返す。
アンムナは騎士達に離れているよう手振りで示し、キロに向き直
った。
﹁キロ君がシールズに捕まったり、ましてや殺されたりすると僕は
非常に困るんだ。加えて、シールズの特殊魔力は奇襲に向いた効果
を持っている。僕でさえこの様だからね﹂
1014
包帯が巻かれた右腕を擦り、アンムナは自嘲気味に笑う。その満
身創痍の体で手玉に取られた騎士達が苦い顔をした。
騎士達の反応などお構いなしに、アンムナは続ける。
﹁少し手合わせしよう。僕が助けに入るまでの短い間にキロ君がシ
ールズに倒されてしまう事がないよう、確かめるためにね﹂
そうなるのか、と内心で頭を抱えながら、キロは槍を構えた。
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第七話 模擬戦
癖で槍を構えたものの、アンムナに槍が通用しない事は分かり切
っていた。
アンムナの肌に触れた瞬間、騎士達の剣と同じように破壊される
のは目に見えている。
必然的に、魔法を使った中遠距離攻撃に頼る事になるだろう。
キロは現象魔力を練って水球を作り出すと、牽制を兼ねてアンム
ナに放った。
予想通り、アンムナは水球を防ぎもせずに受け、肌に触れた瞬間
に奥義で四方八方に散らした。
同時にキロは動作魔力を練りつつ走り出す。
槍を小脇に抱えて片手を自由にし、大きく踏み込むとともに横へ
跳ぶ。
アンムナの側面に回りながら、キロは石の壁で仕切りを作った。
両足で地面を削りながら急制動を掛け、石壁に手を触れた直後に
動作魔力を通す。
アンムナには遥かに劣る速度で奥義を発動し、石壁を爆散させ、
石の散弾として吹き飛ばす。
無数の石が時間差で襲って来ようとも、アンムナは慌てることな
く半身に構え、螺旋状に急回転する水の壁を生み出すと、石を全て
受けながしてしまった。
アンムナの受け方を見て、キロは目を細める。
︱︱数が多すぎるか、時間差があると対処できないのか。
予測を立て、キロは動作魔力を練り上げて加速、アンムナとの距
離を一気に詰めた。
半回転させて勢いをつけた槍を横一文字に振るう。
不思議そうに槍を見たアンムナは振るわれる槍を無視してキロに
1016
手を伸ばした。捕まえる気だろう。
キロは槍がアンムナに触れる直前、槍の周囲に現象魔力で水の膜
を生み出した。
アンムナの奥義が発動する。
驚いたのはアンムナだ。
キロの槍を破壊したのとは明らかに違う軽い水音に、アンムナが
すぐに二度目の奥義を発動する。
しかし、キロの槍がアンムナを襲う事はなかった。
即座に二度目が発動されると予想していたキロは、アンムナが一
度目の奥義で水の膜を弾き飛ばした勢いを逆に利用し、槍の方向を
百八十度変えていたのだ。
その時にはキロは片足立ちとなり、槍の勢いへさらに動作魔力に
よる体の回転を加えていた。
コマのように回転したキロは、アンムナを槍で逆袈裟に叩こうと
する。
長年の経験によるものか、アンムナはすでに奥義発動の体勢を整
えていたが、ここでキロの槍にまたもや水の膜が形造られる。
だが、二度目であれば対処は容易だと、アンムナは避けなかった。
避けたのは、キロの方だ。
逆袈裟にアンムナの腰を狙っていた槍が唐突に高さを変える。
アンムナの肩を狙えるほどの高さに急遽持ち上げられた槍の軌道
に、アンムナは面白がるように笑みを浮かべた。
しかし、アンムナは肩に触れたキロの槍に奥義の発動を間に合わ
せて見せた。
キロの槍を覆っていた水の膜がはじけ飛ぶ。
キロは舌打ちして後方に飛び退き、槍の安全を確保した。
距離を取って仕切り直しとなると、アンムナが軽い調子で拍手す
る。
﹁キロ君、腕を上げたね。最後、槍の高さを変えた時、動作魔力で
1017
無理やり跳んだだろう?﹂
見抜かれてたか、とキロは苦い顔をする。
コマのように回転した時点で、キロの脚は伸びきっており、人体
の構造上跳び上がる事は出来なかった。
キロは槍の高さが急に変わる事はないと見せかけるためにわざと
足を延ばし切っていたのだ。
油断を誘っておいて、体全体に動作魔力を作用させ、体全体を物
のように浮き上がらせる。筋肉をつかわずに動作魔力だけで飛んだ
のである。
﹁不意を打った自信があったんですけどね﹂
キロが言い返すと、アンムナは困ったように頬を掻いた。
﹁いや、流派によって呼び名は様々だけど、似た技はどこにでもあ
るから、不意打ちには向かないと思うな﹂
アンムナに歯切れ悪く告げられて、キロは新米騎士を見る。
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
キロの言葉が理解できずとも何を聴かれたかを察したらしい新米
騎士は、視線を逸らしつつ、直立不動のまま動作魔力で軽々と跳ん
で見せた。
どうやら、騎士団でも同じような技が学べるらしい。
少し前にどや顔をした自分が恥ずかしくなり、キロは俯いた。
﹁我流って本当だったんだ⋮⋮﹂
﹁そのようであるな﹂
1018
ミュトとフカフカの呟きを振り払うように、キロは魔力を練り直
してアンムナに向かって駆け出した。
︱︱これも似た技がありそうだな。
キロはアンムナに技を読まれているだろうと予想しつつ、試しに
繰り出してみる。
槍を持つ腕を引き、左足を踏み出したタイミングで腕ごと前に槍
を突き出す。
真正面から放つ突きであり、それだけならば避けるのも容易いだ
ろう。
だが、キロは手元に集中させた動作魔力を使い、槍を打ち出すよ
うに加速させた。
キロの手を砲台に見立てて射出された槍は、キロの腕の動きより
も圧倒的に速く突き出される。
腕の動きと槍の速度の差が生み出す錯覚にとらわれ、通常の突き
よりもはるかに対処が難しくなる。
しかし、アンムナは完ぺきなタイミングで奥義を発動させ、キロ
の槍を弾いた。壊さなかったのはアンムナなりの手加減なのだろう。
やはり読まれていた、とキロは内心歯噛みするが、同時に地下世
界でのクローナの言葉を思い出した。
キロは弾かれた勢いを利用して槍を回転させ、現象魔力を通す。
︱︱これなら見た事ないだろ。
キロが別の技を出す気配を感じ取ったか、アンムナが面白がるよ
うに槍を注視する。
発動した魔力が水を生み出し、回転するキロの槍を伝って、勢い
よくアンムナへと水の軌跡を伸ばす。
次の瞬間、キロは残った現象魔力を発動させ、槍から手を放した。
パチッと軽く弾ける音、そして紫がかった光がキロの槍を覆う。
アンムナが初めて顔色を変え、大きく跳び退った。
だが、それだけだった。
1019
﹁⋮⋮やっぱ見よう見まねは無理か﹂
カラン、と音を立てて地面に落ちた槍を拾い挙げて、キロは呟く。
あまりにも一瞬の事だったため、キロが何をしようとしたのか分
からなかったらしい騎士達とは正反対に、アンムナが胸を撫で下ろ
す。
﹁雷なんて非効率的な魔法、実戦で使おうとするとは思わなかった
よ﹂
アンムナの指摘で、遅ればせながらキロの槍に一瞬走った光の意
味に気付いた騎士達があきれ顔をする。
雷魔法は魔力を大きく消費する上に狙いが定まらないため、実戦
での使用は現実的ではないとされているからだ。
だが、アンムナの認識は違うようだった。
﹁キロ君、水魔法からの雷魔法は誰から教わったのかな?﹂
キロはちらりとミュトを見て、小声でアンムナの問いに答えを返
す。
﹁⋮⋮地下世界でロウヒという魔物が使ってきました﹂
﹁あぁ、未踏破層との境にいたって言っていた魔物か。とんでもな
い魔物がいたものだね⋮⋮﹂
アンムナの感想にキロは苦笑で応じる。
キロ自身、何度振り返ってもロウヒは危険な魔物に思えた。
アンムナが肩を回し、ため息を吐く。
1020
﹁合格だ。動作魔力を使った近接格闘ならそこにいる騎士達より少
し劣るだろうけど、通常の魔法で十分補えるみたいだし、二つの魔
法を同時に使いながら動作魔力を作用させる器用さを考えれば、戦
い方の幅も広い。シールズ相手にすぐやられるようなことはないよ
うだね﹂
手も足も出なかったキロでも、どうやら合格らしい。
少し悔しい気はしたが、今回はアンムナを止める事が目的なのだ
から、と自分に言い聞かせる。
﹁キロ君の作戦に参加が決まったところで、僕は治療院に戻ろうか。
詳しい話はあとで騎士団を通して伝えてくれ。僕は重傷を負ったこ
とにしておいた方がいいんだろう?﹂
そういって、アンムナが家に向かって歩き出す。
﹁⋮⋮アンムナさん、リーフトレージで作ったナックルはまだ持っ
てますか?﹂
キロが背中に声をかける、アンムナは肩越しに振り返った。
﹁そんなものもあったね。長い事使ってないから忘れてたよ。欲し
いかい?﹂
﹁図々しいとは自分でも思いますけど、貸してください﹂
キロが頭を下げると、アンムナはくすりと笑う。
﹁律儀だね。別にいいよ。今の僕が使ってもあまり意味がないから
ね。地下室の金庫に入ってる。カギは︱︱﹂
1021
第八話 作戦の準備
アンムナに言われた通り、地下室の金庫から緑色の金属、リーフ
トレージで作られたナックルが出てきた。
関節部分は上質な革で作られており、丁寧に整備だけはしていた
らしく傷みもない。
試しに着けて槍を握ってみるが、今までの戦闘スタイルを変える
必要はないようだ。
﹁少し大きい気もするけど、すぐに慣れるだろ﹂
素振りをして感触を確かめたキロは、金庫の扉を閉じ、鍵を掛け
る。
階段を下りてくる足音を聞き付けて、キロは振り返る。
肩にフカフカを乗せたミュトが下りてくるところだった。
﹁家の中を見て回ったが、特殊魔力は見つからぬ。シールズとやら、
目的を果たしたのだろうな﹂
﹁そうか。ありがとう﹂
キロはフカフカに礼を言って、立ち上がった。
アンムナの家での用事は済んだ。後は騎士団に任せておけばよい
だろう。
キロはナックルをはめたままミュトを連れて階段を上がり、地上
に出る。
クローナが初老の騎士に作戦を説明していた。
キロ達が捜査に加わった事とアンムナが重傷で意識不明という虚
偽の情報とを混ぜて喧伝し、油断させたシールズを誘き出す。
1022
シールズとの戦闘に入ったなら、さりげなく魔法で合図を飛ばし、
アンムナが到着するまでの時間稼ぎを行う。
アンムナの家に仕掛けられていた特殊魔力の例があるため、作戦
の内容は限られた者にしか公表せず、少数精鋭で作戦を実行する。
以上が作戦の概要だった。
アンムナの家から出てきたキロ達を見つけた初老の騎士に手招か
れ、キロはミュトと共に歩みよる。
待ちきれない様子でクローナが小走りにやってきて、キロの手を
取った。
﹁フカフカさんの事は秘密にしておいた方がいいんじゃないかって、
騎士さんが言ってます﹂
キロはフカフカに視線を移す。
シールズが張った特殊魔力を見破り、場合によっては魔力を〝拾
い食い〟して無効化できてしまうフカフカはシールズに対する切り
札となりうる存在だ。
フカフカ自身の意思はどうだろうか、と視線を向けると、ミュト
の肩の上に立ってふんぞり返っていた。
﹁作戦の成否を握る立場と言うのも悪くないものであるな﹂
上機嫌に鼻を鳴らして、フカフカは尻尾を大きく一振りする。
偉そうにキロ達を睥睨するフカフカに呆れたミュトが、大げさに
肩を上下させる。
バランスを崩したフカフカが肩から転げ落ち、ミュトが差し出し
た手のひらに着地した。
﹁︱︱何をする!﹂
﹁みんなで協力するんだから、フカフカが偉いわけじゃないでしょ﹂
1023
﹁百も承知である。そのうえで、我の役割の特殊性が︱︱﹂
はいはい、とフカフカの反論を受け流しながら、ミュトはフカフ
カが載った手を肩の高さに挙げる。
ミュト達の言葉が分からない初老の騎士が、困ったようにクロー
ナを見た。
﹁何やら揉めとるようですが、本当にそのイタチは役に立つんです
かな?﹂
初老の騎士の言葉に、ミュトが口を開く。
﹁大丈夫だよ。自信家だけど、自信に見合う働きはする奴だから﹂
ミュトの言葉を受けて、フカフカは満更でもなさそうに尻尾を一
振りして、ミュトの肩に戻る。
そして、ミュトの耳へ囁きかけるように指摘した。
﹁ミュトよ、我らの言葉はそこの騎士に通じぬぞ﹂
﹁⋮⋮そうだった﹂
クローナが苦笑しつつ、ミュトの言葉を初老の騎士へ伝える。
後頭部をポリポリと掻いた初老の騎士は、キロの顔を見て信用し
たらしい。
﹁それでは、明日にでも捜査資料を見に来たように装って、騎士団
詰所にシールズの特殊魔力が張られていないか調べてくださいます
かな﹂
今のままではおちおち情報交換もできないから、と初老の騎士が
1024
ため息を吐く。
いくつかの質問を受け、内容を詰めた後、キロ達は現場を離れた。
アンムナはすでに治療院に戻ったらしい。
林に挟まれた暗い道を歩きながら、クローナがそ知らぬふりでキ
ロの手を取り、握る。
キロは目を向け、手を繋いだ事を指摘しようとするが、その前に
クローナが口を開いた。
﹁シールズが本当に襲ってくると思いますか?﹂
﹁⋮⋮五分五分かな﹂
たとえ情報を流したとしても、シールズのいる組織に情報が届く
とは限らない。また、窃盗組織が動くとも限らないのだ。
シールズが動かなければ、アンムナが業を煮やして犯罪組織を虱
潰しにし始めるだろう。
結局、時間稼ぎの枠を出ていなかった。
﹁しばらくはこの街で情報収集をしつつ、様子を見るしかないな。
シールズだって、アンムナさんの容体は気にしているはずだから、
この街の情報を集めようとするだろ﹂
アンムナの報復を警戒しているだろうシールズの情報網に、キロ
達が捜査に加わったという情報を乗せる。
そのためには迅速な行動が求められた。
ミュトがキロの袖を掴みつつ、問う。
﹁宿はどうするの? シールズって奴の奇襲に巻き込まれて、アン
ムナさんの家みたいに吹き飛ばされるかもしれないよ?﹂
﹁引き払うしかないだろうな﹂
1025
キロは意見を述べつつ、クローナを見る。
キロと同じ意見だったらしいクローナも頷いた。
﹁奇襲の件がなかったとしても、前回の被害者ですから、巻き込ま
ないようにしないといけません。騎士さんには伝えておいたので、
すぐに護衛が派遣されますよ﹂
﹁用意がいいな﹂
キロが褒めると、クローナは口元をほころばせて頷いた。
手足の長い娘がいる宿で荷物を受け取り、部屋を引き払う。
シールズの捜査に加わるから、と言うと宿の娘は渋い顔をした。
﹁シールズは変態だけど、腕は確かだよ。大丈夫なの?﹂
シールズ変態説の支持率をかみしめながら、キロは曖昧に笑う。
﹁ギルドで寝泊まりするつもりだから、寝込みを襲われる心配はな
いと思う﹂
キロの言葉を翻訳したクローナに、宿の娘が笑みを浮かべた口元
を手で隠した。
﹁クローナちゃんの寝込みを襲うのはシールズじゃなくて︱︱﹂
ちらちらと意味ありげにキロを見てくる宿の娘に、クローナが少
し赤い顔をして笑う。
﹁卑怯者になりたくないので今は小休止です﹂
﹁⋮⋮悠長だね。本人がいいなら、いいけどさ﹂
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期待外れだったのか、唇を尖らせる宿の娘に苦笑して、キロ達は
宿に背を向ける。
入れ替わりにやってきた護衛の騎士に黙礼して、後を任せた。
1027
第九話 二転三転
ギルドへの道を歩き出すと、すぐにミュトが夜空を見上げる。
瞬く星を視界に収めて、ミュトが口を開いた。
﹁昨日と月の形が少し違う気がする﹂
﹁月は満ち欠けするんだ。そのうち丸い月になって、そこからまた
欠けていく﹂
キロがうろ覚えの現代知識で月の満ち欠けを太陽の位置などを踏
まえつつ説明すると、ミュトは良く分からない、と眉を寄せた。
話をしている内に記憶が呼び起こされたキロは、わざわざ魔法で
太陽に見立てた光球を作り出して二つの握り拳を惑星と衛星の代わ
りとしながら説明する。
﹁どうだ?﹂
ある程度説明を終えるたび、キロはミュトに問いかけながら手を
降ろす。クローナがもう一度手を繋ごうとして手を伸ばすが、すぐ
にまた説明に戻ったキロが手を挙げてしまう。
キロが気付かないまま三度目の空振りを経験したクローナが恨み
がましくキロを見上げた。
﹁⋮⋮これが星には手が届かないという事ですか﹂
﹁何の話だ?﹂
﹁別にいいですよ﹂
クローナは頬を膨らませてそっぽ向く。
1028
クローナがへそを曲げた理由が分からないキロは首を傾げるしか
ない。
機嫌を直してもらう方策を考えて、キロはミュトと同じように夜
空を見上げた。
二人きりなら元の世界の星座にまつわる話でもして興味を引きつ
つ、機嫌を直してもらえるようなロマンチックな話を振れるのだが、
隣にミュトがいたのでは効果がいまいちな気がした。
︱︱織姫と彦星とか、話題には事欠かないと思うんだけどな。
別の方法を考えている内にギルドが見えてきて、キロは思考を切
り替える。
ギルドに入ると、以前誘拐事件の捜査で訪ねた時にも見たオール
バックの受付が何やら書類を作成していた。
他の職員は出払っているらしく、オールバックの受付しかいない。
しかし、夜半であるにもかかわらず冒険者が六人、完全武装でロビ
ーに待機していた。
冒険者達が一斉にキロ達へ視線を注ぐ。わずかに重心を落とした
臨戦態勢だ。
油断なく観察してくる六人の冒険者達の視線を受け、キロ達はつ
い武器を持った手を動かし、迎撃態勢を取る。
一瞬で緊張したキロ達と冒険者達の間にオールバックの受付が声
を差し挟んだ。
﹁その方達はアンムナさんのお弟子さんですよ﹂
臨戦態勢を解いた冒険者の一人が片手を挙げ、キロに声をかける。
﹁すまん、こんな状況だから、他所の奴は警戒せざるを得ないんだ﹂
﹁分かってます。こっちもつい構えちゃって、すみません﹂
キロの代わりにクローナが言葉を返し、三人一緒に頭を下げる。
1029
冒険者達も軽く頭を下げて、お互いに水に流した。
︱︱かなりピリピリしてるな。
キロは改めてギルド内を見回して、張り詰めた空気を感じ取る。
シールズがいつ特殊魔力で奇襲をかけてくるか分からないため、
冒険者達も気を張ってるらしい。
シールズの空間転移を持ってすれば、ギルドの建物中央に突如現
れて攻撃してくる可能性もあるのだから、冒険者達の警戒も仕方が
ない事だ。
キロ達は冒険者達の間を縫って歩き、受付に辿り着く。
オールバックの受付は張りつめたギルド内の空気など意に介した
様子もない。
書類作成の手を休めず、オールバックの受付はちらりとキロ達を一
瞥する。
﹁キロさん、クローナさん、お久しぶりです。お二人とも、無事な
ようですね。⋮⋮そちらの白い方は?﹂
﹁ミュトさんです。今はパーティーを組んでます。冒険者登録はし
てませんけど﹂
冒険者登録をしていないと聞いて、オールバックの受付は眉を顰
めた。
﹁失礼を承知でお聞きしますが、信用できるんですか?﹂
﹁出来ますよ。シールズと知り合える可能性がゼロですから﹂
﹁断言しますね。理由をお聞きしても?﹂
クローナがキロとミュトに視線を向ける。ミュトが地下世界から
来たことを話すべきか、迷っているらしい。
キロは無言で首を振った。
異世界人である事は喧伝しない方が良い。何より、ミュトが異世
1030
界から来たとシールズに知られれば、肩に乗せているフカフカと合
わせて警戒の対象になりかねない。
どこから情報が拡散するか分からない以上、事実を知る人間は少
ないに越した事がないだろう。
フカフカも同じ意見らしく、尻尾を乱暴に振って否定的な意見を
表現した。口を開かず、首を振る事もない所を見ると、かなり神経
質に情報を扱うつもりらしい。
ミュトもまた、小さく首を振った。
三人の意見が一致したのを見て、クローナが小さく頷きを返し、
オールバックの受付に向き直る。
﹁事情があるのでお話しできません﹂
﹁⋮⋮了解しました。先ほど、カッカラ騎士団から連絡がありまし
て、作戦概要は伺いました。シールズに関する最新の資料は騎士団
と共有していますが、取り寄せなくてもよろしいですね?﹂
﹁明日騎士団詰所に出向きますから、結構です。朝まで休ませてい
ただいても?﹂
クローナが問いかけると、オールバックの受付は少し待ってほし
い、と言いながら書類の作成に集中する。
ほとんど完成していたらしい書類の作成を終えたオールバックの
受付は、不備がないかを確認した後で書類を糸で束ねる。
﹁職員用の休憩室を一つ割り当てます。⋮⋮いかがわしい事は控え
てくださいね﹂
﹁しませんよ!﹂
唐突にセクハラ染みた注意をされて、クローナが慌てて言い返す。
ギルド内にいた冒険者が笑いを噛み殺していた。
羞恥で真っ赤になったクローナと面を伏せるミュトを連れて、キ
1031
ロはさっさと割り当てられた休憩室へ退散する。
﹁︱︱もう、いきなりなんですか、アレ!﹂
休憩室に入るなり、クローナは床を踏み鳴らして怒る。
窓へと飛び移ったフカフカがうるさそうに耳を伏せた。
﹁冒険者共が緊張しすぎていた。解すための出汁にされたのだろう
よ﹂
フカフカがちらりと視線を向けた先でミュトがおろおろしていた。
キロは苦笑して、荷物を机の上に置く。休憩室には仮眠用の小さ
なベッドが一つと幅広のソファが設置されている。
キロはソファに腰を下ろし、クローナに声をかけた。
﹁ピリピリし続けるよりはましだろうから、目を瞑ろう。俺達が休
んでる間、あそこにいた冒険者達が守ってくれるんだ。緊張の連続
で倒れられたりしたら、困るのは俺達だろ?﹂
﹁それはそうですけど、なんか納得いかないです﹂
唇を尖らせるクローナに苦笑した時、キロはふと思いついて窓の
外を見る。
︱︱昨夜は疲れて寝てたし、ミュトも起きてなかったよな。
自らの思い付きに会心の笑みを浮かべたキロは、クローナを手招
いた。
首を傾げながらそばに来たクローナに、キロは思いつきを耳打ち
する。
不機嫌だったクローナの顔は一転して悪戯を楽しみにする子供の
ような明るさを宿した。
1032
﹁︱︱どうだ?﹂
思い付きを教えたキロは、短くクローナに問いかける。
﹁もちろん、賛成です﹂
先ほどまでの不機嫌はどこへやら、クローナはミュトを横目で見
つつ上機嫌に頷いた。
ミュトに内緒で思いつきをクローナと共有したキロはナックルを
はめたままソファに横になった。
キロとクローナの内緒話に疎外感を覚えたのか、ミュトが少し寂
しそうにしていたが、あえて無視する。
キロは窓際に寝転がるフカフカに声をかけた。
﹁シールズの特殊魔力を見つけたら耳打ちとかしてくれよ?﹂
﹁心得ておる。ギルド内に特殊魔力は張られておらぬようだ。安心
して寝るがよい﹂
フカフカが窓枠を尻尾で軽く叩きながら答える。
ミュトが寂しそうにしていても不機嫌にならないフカフカを見て、
キロは内心苦笑した。
︱︱内緒話でも、やっぱりフカフカには筒抜けだよな。
キロは明日以降の予定を組み立てつつ、瞼を閉じる。
部屋に備え付けの小さなベッドにクローナがミュトを引っ張り込
んで倒れ込む音がした。
内緒話で寂しい思いをさせた分、一晩中キロに聞かれないようガ
ールズトークに花を咲かせるつもりだろう。
キロが安心して布団代わりの外套を被ろうとした時、バタバタと
あわただしい足音が廊下から聞こえてきた。
フカフカが顔を上げ、一番近くにいたキロの元へと駆けてくる。
1033
廊下からの足音を聞き付けたクローナとミュトも体を起こし、枕
元の武器へ手を伸ばした。
﹁この足音、先ほど受付にいたオールバックの男であるな﹂
フカフカが足音の主を知らせつつ、ソファから降りたキロの肩へ
と飛び乗った。
﹁何事だ?﹂
﹁分からぬ。近隣での戦闘音があれば我が黙っておるはずなかろう
?﹂
﹁それもそうだな。何かあったなら、遠くの方だ﹂
キロが槍を片手に立ち上がると、クローナ達も窓や扉を警戒して
お互いの死角を埋める。
すぐに足音が部屋の前で止まり、扉が激しくノックされた。
﹁起きてください。シールズが出ました!﹂
扉越しにオールバックの受付が報告する。
素早く視線を交わしたキロ達は互いの準備が整っている事を確認
する。
クローナが扉越しにオールバックの受付に言葉を返す。
﹁入ってください﹂
入室許可を受けたオールバックの受付は扉を開き、休憩室内に異
常がない事を確かめて胸を撫で下ろした。
シールズの空間転移を使えば、直接休憩室を襲撃できると考えて
心配していたのだろう。
1034
実際には、フカフカが特殊魔力の有無で安全を確かめているのを
知らせていない事を、キロは少し申し訳なく思った。
オールバックの受付が口を開く。
﹁やられました。アンムナさんへの襲撃は騎士団に対する陽動だっ
たようです。街の東にある資産家の家に盗みに入られました。騎士
団が人を派遣して警備している家でしたが、アンムナさんへの襲撃
事件で出払っているところを狙われたようです﹂
窃盗組織としての活動を容易にするため、騎士団を街外れの墓地
の側に立つアンムナの家に誘導し、警備が手薄になった資産家の住
宅を狙う。
なるほど、理にかなっている、とキロは納得しつつ、油断なく武
器を構えた。
﹁それで、シールズの犯行だと断定できる根拠は?﹂
﹁警護に雇われている引退した冒険者が証言しています。現場に向
かう騎士団がここに立ち寄るそうなので、合流してください﹂
どうやら受付の嘘という事はなさそうだ、とキロは内心ほっとし
た。
しかし、いまだに疑問を抱えている者がキロの肩に乗っていた。
フカフカが訝しげに尻尾を揺らしながら、妙であるな、と呟く。
﹁シールズとやらは空間を自由に移動でき、それで盗みを働くと聞
く。ならば、シールズを目撃した元冒険者とやらは何故、口封じに
誘拐されておらぬのだ?﹂
﹁⋮⋮趣味じゃなかった、とか?﹂
キロが予想を口にすると、フカフカは憐れむような眼で一瞥する。
1035
﹁特殊魔力に何らかの制限があるか、時間に追われていたか、何れ
にせよ付け入る隙が︱︱﹂
フカフカが最後まで言葉を紡ぐ前に、廊下の向こう、ロビーの方
が騒がしくなった。
騎士団が来たのかと思ったが、何かが壊れる音と怒号が遅れて聞
こえてくる。
耳をわずかに動かしたフカフカが声を張り上げた。
﹁アンムナへ合図を送れ! シールズの襲撃だ!﹂
1036
第十話 閉所戦闘
︱︱シールズの襲撃。
フカフカの報告を聞いたキロ達の動きは早かった。
窓を開け放ったクローナが魔法で作り出した赤い光球を空に向か
って打ち上げる。
その間に、キロは槍を片手に走り出していた。
︱︱なんでこのタイミングでギルドに襲撃するんだよ!
アンムナに対する奇襲はアシュリーを持ち出し、続く資産家への
盗みをやりやすくするための陽動。
盗みを働いた今、シールズは一刻も早く街から逃げるべきだ。し
かし、わざわざ敵地のど真ん中であるギルドへの襲撃を図っている。
﹁あの野郎、何が目的だ﹂
﹁捜査資料⋮⋮ではなかろうな。戦闘人員を削る、とも考えにくい。
狙いが読めぬ﹂
フカフカも知恵を絞っているようだが、シールズの企みは見えな
いようだ。苛立たしげに尻尾でキロの背中を叩いている。
﹁本人に直接問いただすしかあるまい﹂
﹁それが手っ取り早いな﹂
廊下を走り抜け、ロビーへと飛び込む。
キロはつい足を止めてしまった。
足元に、短剣を握ったままの腕が転がってきたからだ。
断面から溢れた血液が床を濡らしていくのを見たキロは、慌てて
ロビーを見回した。
1037
六人いた冒険者が全員、血を流して倒れていた。
腕を失った者、腹や足に刺し傷がある者、怪我の箇所も程度も様
々だったが、誰一人として立ち上がれる者がいない。
夜番を任される冒険者は実力のある者ばかりのはずだ。それが、
戦闘音を聞き付けてすぐに駆け出したキロ達が辿り着くより早く全
滅している。
ロビーの中央に立っていた男がキロを見てにっこりとほほ笑んだ。
﹁いたいた。やはりここに来ていたんだね。再会を祝して⋮⋮と言
いたいけどこんな血生臭いところでは興ざめだね﹂
場に不釣り合いな明るい口調で、ロビー中央からシールズが声を
掛けてくる。
十年来の友人にでも会ったような、親しげで積年の思いを込めた
声だった。
怖気が走り、キロは槍を構えた。
シールズはおかしなものを見たように笑いながら、腕を広げた。
﹁こんな狭いところで槍なんか構えて、どうするつもりだい?﹂
民家などに比べれば遥かに広く、天井も高いギルドのロビーだが、
槍を振り回せるようには造られていない。
まさか、と言うキロの顔に気付いてか、シールズは笑いを噛み殺
した。
﹁思い通りに誘導されたのは騎士団だけ、そんな風に思っていたの
かい?﹂
予想が当たっていたらしいと気付き、キロは舌打ちした。
シールズによるアンムナ襲撃事件により、キロ達は宿を引き払っ
1038
てギルドにやってきた。
作戦を実行するのに当たり都合がよかったのはもちろんだが、シ
ールズに狙われた事のあるキロはどのみち迷惑を掛けないよう宿を
引き払うしかなかっただろう。
時刻は日も落ちた夜半であり、別の街へ移動するため魔物の生息
する外へ出るには危険が伴う暗さだ。
キロの行先は騎士団かギルドにしかなくなる。どちらも襲撃に備
えた建物ではあり内部での戦闘も行えるよう設計されている。
しかし、キロの得物である槍は通常、室内で振りまわすことがな
い。
キロにとっては不利な狭さ、シールズにとっては特殊魔力による
空間転移もあって有利な広さ。
︱︱嵌められたッ!
シールズはニヤニヤしながら、両手をさらに大きく広げた。
﹁無抵抗で捕まってくれると嬉しいね。怪我をさせたら治るまで我
慢しなくてはいけないから﹂
絶対的な有利を確信したシールズが余裕の表情で言う。
﹁誰が捕まるかよ、バカか﹂
﹁口が悪いなぁ。そんなに嫌われるようなことはしてないはずだけ
ど。もしかして、まだ食事を奢っていない事を根に持っているのか
な?﹂
﹁どの口で言ってんだ。人に奢る前にその二枚舌で料理が味わえる
のか試して来いよ﹂
キロが皮肉ると、シールズは肩を竦めて両手を降ろし、自然体で
歩いてくる。
1039
﹁二枚舌、面白い表現だね。故郷の言葉かい? 一ヶ月も雲隠れし
ていたから、どこに行ったのかと心配していたけど、里帰りだった
のかな?﹂
本当に心配そうに声を掛けてくるシールズの気持ち悪さに、キロ
は思わず頬をひきつらせた。
肩の上で、フカフカがうんざりしたようにため息を吐く。
﹁⋮⋮そこかしこに特殊魔力が少量ずつ張ってあるぞ﹂
ため息に乗せて、フカフカが小声で注意を促す。
キロは気を引き締めた。
キロのやる気を感じ取ったか、シールズは呆れたような顔をする。
﹁槍を捨てて殴りかかってくるかと思ったけど、こだわるんだね。
もう少し合理的に行動すると思っていたけど﹂
シールズの言葉に、キロは獰猛な笑みを返した。
﹁俺にとっては合理的な選択なんだよ﹂
︱︱何しろ、一か月間地下世界暮らしだったからな!
動作魔力を使った急加速、シールズが突きだした手を無視して、
キロは横に跳んだ。
横合いから攻める気だろう、とシールズが呆れの色を濃くした瞳
を向けた時、キロはすでにそこにはいなかった。
眉を寄せたシールズの頭上、天井に張り付いていたキロはありっ
たけの力を込めて天井を蹴りつけ、重力を味方につけて急速落下す
る。
顔を上げてキロの姿を確認したシールズが飛び退く。
1040
キロが振り下ろした槍の刃先はシールズの服をわずかに切り裂い
た。
反撃に移ろうとしたシールズの前に、キロは素早く石壁を出現さ
せる。
石壁越しに聞こえてきたシールズの舌打ちを無視して、キロはロ
ビーを走り回りながら次々に石壁を生み出した。
ただでさえ槍を振るうには向かない狭いロビーをさらに窮屈する
キロの行為を訝しがる声が聞こえる。
キロは肩に乗っているフカフカに目くばせした。
﹁次は右の壁際である。照らしてやろう﹂
﹁頼りにしてるよ﹂
フカフカが照らすシールズの特殊魔力が張られた位置をキロは石
壁で塞ぎ、転移できないようにする。
ダミーの石壁を織り交ぜつつ、ある程度特殊魔力をふさぎ終えた
キロは、槍を小脇に抱えて動作魔力を練り直し、走り出した。
まっすぐに突っ込むキロに、シールズが眉を寄せながら迎撃態勢
を作る。
しかし、キロは横に飛び退くとそこにあった石壁に足を付け、床
と水平に走り出す。
予想外の行動に、シールズが目を見張った。
キロは足元の石壁を思い切り蹴りつけ、天井へと跳び上がる。そ
のまま天井をわずかに走ってシールズの頭上を取ったキロは、まっ
さかさまに落下した。
冒険者達が抱えた槍の穂先が届かないよう、比較的高く作られた
天井からの振り降ろし、しかし二度目ならば避ける事も簡単だ。
シールズがキロの動きに感心するように口笛を吹きつつ跳び退る。
だが、キロはシールズに避けられるだろうことも読んでいた。
槍に通してあった現象魔力が発動し、槍の穂先から炎がほとばし
1041
る。
キロは振り降ろしの勢いを殺さずに槍を手元で一回転させながら、
さらに二つの魔法を発動する。
足元には自らの位置を高くするための石の台を、手元で操る槍に
は炎に加えてさらに水の魔法。
槍の回転に合わせて生み出された炎の熱を吸収して沸騰した水を、
キロはシールズに向かって槍を大きく一振りする事で飛ばす。
熱湯を飛ばされたシールズが眉を寄せた瞬間、熱湯が掻き消えた。
︱︱空間転移か。
キロは冷静に分析しつつ、足元の台を蹴りつけて近くにあった石
壁の裏へと回り、アンムナからもらったナックルから動作魔力を引
き出して素早く奥義を発動する。
石壁が吹き飛び、シールズへと石の散弾が襲い掛かった。
シールズがまた驚いたように目を見開く。しかし、度胆は抜けて
も石の散弾がシールズの防御を抜く事はなく、沸騰した水と同じく
掻き消えた。
だが、その時すでにキロは石壁を駆け上がり天井に到達、シール
ズの頭上を取っていた。
石の散弾を転移させたシールズがキロを苛立った表情で見上げる。
﹁さっきからちょこまかと﹂
狭いロビーをものともせずに動き回るキロに嫌気が差したのだろ
う。
見上げてくるシールズの苛立った瞳の色に、キロは会心の笑みを
浮かべて声を張り上げる。
﹁︱︱光!﹂
キロの一言に瞬時に呼応して、肩にしがみついていたフカフカが
1042
シールズの目へと強烈な光を放った。
1043
第十一話 罠へのお誘い
キロの頭越しに浴びせられたフカフカの光に、目をやられたシー
ルズが反射的に腕で顔を庇っている。
︱︱勝った!
キロは勝利を確信しつつ、天井からの落下の勢いを乗せて槍を振
り降ろす。
槍の穂先から柄の半ばまでを使ってシールズの背中から肩を大き
く打つ軌道だ。当たれば肩の関節が外れるだろうことは想像に難く
ない。
念には念を入れてキロはさらに動作魔力を作用させて槍を振り抜
いた。
しかし、キロの槍はシールズにあたる事がなかった。
なぜなら、シールズの体に衝突する寸前、槍が半ばから消えたか
らだ。
︱︱特殊魔力で槍を転移させやがった⁉
その時、キロは目の前で起きた事に気付き、咄嗟に槍を引く。
腕で庇ったシールズの顔に笑みが浮かんでいた。
引いた槍の重量に違和感を覚えたキロが目を向けると、槍は半ば
から消失していた。
特殊魔力の発動を終えて、槍の半ばまでをどこかへ転移させたの
だろう。
キロは舌打ちして床に足を付き、跳び退る。
ナックルから引き出した現象魔力でけん制の石弾を撃ち出すと、
シールズは初めて回避行動をとった。
キロは外へと通じる扉の前に立ち、反転させた槍を構える。穂先
の部分は失われたが、石突きを使えば鈍器として役に立たない事も
ない。
1044
︱︱回避行動をとったって事は、特殊魔力に余裕がなくなったの
か。
キロはわずかに肩を揺らす。
﹁シールズの特殊魔力もそろそろ尽きる頃であろう﹂
フカフカが小声でキロに耳打ちした。
アンムナが来る前に畳み掛けるべきとキロは悩むが、休憩室へと
通じる廊下から足音が聞こえてきた。
ミュトとクローナだ。
︱︱アンムナさんへの合図は届いたんだな。
シールズの姿を見つけたクローナが杖を構えながら口を開く。
﹁職員の避難は終わりました﹂
キロに遅れてきた理由をでっち上げ、シールズにアンムナが向か
っている事を悟らせないようにするクローナの言葉に、キロは頷き
を返した。
ミュトがギルド内を見回す。キロが作り出した石壁は込めた魔力
を使い切って掻き消えていたため、視界はかなり広い。
﹁冒険者の治療と避難をしないといけないね﹂
ミュトが小剣を抜き、シールズに刃先を向けた。
シールズはミュトを見て口を半開きにしていたが、すぐに見比べ
るようにキロとミュトの間で視線を行き来させ始める。
﹁おぉ⋮⋮これは素晴らしいな。白と黒の対比が美しい。背景に気
を使う事になりそうだけれど、きっと背景に悩む時間さえ楽しいだ
ろう。ぜひとも欲しい﹂
1045
涎でも垂らしそうな顔で鑑賞しはじめるシールズの視線に悪寒を
覚えながら、キロはクローナに目くばせする。
わずかに頷いたクローナが杖を構えたまま横にある受付カウンタ
ーの中へとゆっくりと動く。
クローナの動きに気付いたシールズが警戒するように目を細め、
短剣を抜いた。
﹁クローナさんはいらないんだ。あまり目障りな事をしないでくれ﹂
シールズの短剣を睨んでいたフカフカがキロの首の裏を尻尾で軽
く叩く。短剣にシールズの特殊魔力が込められているという合図だ。
﹁クローナ、転移に気をつけろ﹂
﹁分かってます﹂
キロに注意を促されたクローナが油断なく杖を構え、シールズを
睨んでいる。
シールズは短剣を構えたまま、なかなか動かなかった。
︱︱特殊魔力の残りを気にしてるのか?
キロは予想するが、シールズはあくまでも余裕の態度を崩さず、
短剣を手元でもてあそび始めた。
﹁良い事を教えてあげようか﹂
唐突に、シールズが切り出した。
﹁良い事? お前の余命とかか?﹂
﹁キロ君は本当に口が悪いなぁ。余命なんかではなく、キロ君の槍
の穂先が何所に行ったか、と言うお話さ﹂
1046
︱︱時間稼ぎ⋮⋮?
シールズの話の内容にキロは眉を顰める。
ギルドの異常に気付いた騎士団が向かってくるかもしれない現状
で、シールズが時間稼ぎをする意味はない。
キロは訝しむが、アンムナが到着するまでの時間稼ぎができるの
だからむしろ歓迎だ、と割り切る事にした。
話に耳を傾けているキロ達を見て、シールズは笑みを浮かべる。
﹁時間稼ぎではないよ、何しろ一言で終わるんだから。キロ君の槍
の穂先はこの街、カッカラの民家の屋根の上に落ちている。この意
味が分かるかな?﹂
シールズの謎かけにキロは首を傾げかけ、すぐに答えに気付いて
苦い顔をした。
屋根の上にキロの槍が落ちているという事は、そこに転移の出口
が設定されているという事だ。
転移した物が槍の穂先程度ならまだいい。
しかし︱︱
﹁大規模魔法を使ったら民家が消し飛ぶって言いたいのか﹂
﹁正解。相変わらず察しがいいね﹂
クローナに視線を向けると、困り顔で見つめ返してくる。
魔法主体で戦うクローナにとって、攻撃方法の大部分を禁止され
たようなものだ。大規模魔法はもちろんのこと、火災を起こしかね
ない火魔法やある程度の質量を持つ石等の魔法が使えなくなった。
キロはミュトに視線で合図を送り、クローナの護衛を頼む。
シールズは楽しげに笑みを浮かべ、短剣をキロに向けた。クロー
ナの攻撃を封じた以上、武器を破壊されたキロを集中的に狙えばよ
1047
いという判断だろう。
﹁投降してくれてもいいんだよ?﹂
﹁お断りだ。余裕がないのはシールズ、お前も一緒だろ。民家の上
に出口を作ってあるなら、クローナの大規模魔法を転移させてから
知らせてもいいはずだ。その方が心理的な揺さぶりを掛けられるん
だからな﹂
わざわざクローナの攻撃を封じにかかったのは、空間転移の特殊
魔力を無駄に使う事態を避けるため。
すでにアンムナに対する襲撃とアシュリーを持ち出すための空間
転移に加え、資産家の住宅への侵入と窃盗、ギルドにおける冒険者
との戦闘を行っており、特殊魔力が心許無いはずだ。
﹁図星みたいだな?﹂
顔色を読んだキロが畳みかけると、シールズは肩を竦めた。
﹁出口の事まで知っているとは、驚いたね。察しが良すぎるのも考
え物だ﹂
秘密を暴かれた不快感をわずかに含んだ声でシールズがキロの推
理を認めた。
それでも、有利を確信しているらしく余裕の態度は崩れていない。
キロは動作魔力を練りつつ、石突きしか残っていない槍を棍棒代
わりにして、正眼に構える。
﹁クローナ、派手に風を起こしてくれ﹂
キロはカウンターの内にいるクローナに指示を飛ばす。
1048
クローナは不思議そうな顔をした。
いくら風を起こしても、物を飛ばさない限り攻撃としての効果は
薄い。室内でもあり、砂埃で視界を奪う事も出来ないのだ。
キロは意図が伝わっていないとみて、ヒントを出す。
﹁ミュト、カバンに仕事道具は入ってるか?﹂
﹁⋮⋮入ってるよ。入れておかないと落ち着かないから﹂
ミュトにはキロの作戦が伝わったらしく、カウンター内に視線を
巡らせた。目的の物を見つけ出したらしく、軽く手を挙げて合図し
てきた。
クローナもミュトの仕事道具と言われてピンと来たらしく、杖の
魔力を使って風を起こし始める。
不愉快そうに振り返ったシールズは、クローナに向けて短剣を投
げるが、ミュトが一振りした小剣によって上に弾かれた。
風が強くなり、室内に風の音が響き始める。
直後、クローナが風の方向をカウンターの内側に収束させた。
風に煽られて、書類が次々に舞い上がる。
怪訝な顔をしていたシールズも狙いに気付き、舌打ちして手元に
火球を準備する。
﹁書類を燃やすのは勝手ですけど、自分の服に燃え移っちゃいます
よ?﹂
クローナが笑みを浮かべてシールズに指摘する。
苦い顔をしたシールズは火球を消し、水球を生み出す。書類に水
を含ませることで重量を増し、床に落とすつもりだろう。
キロの狙い通りだった。
強烈な風に舞いあがった書類達が高い天井付近でぐるぐると渦を
巻く。
1049
クローナが風を調節してシールズに書類を降らせる寸前、キロは
駆け出した。
真正面から突っ込んでくるのは予想外だったのか、シールズが水
球をキロに向ける。水であれば素材となるキロを傷つけることがな
いと判断したのだろう。
キロは正眼に構えた槍の石突きで突きを放つ。
シールズがキロの突きを水球で受けた直後、頭上から書類が降り
注いだ。
互いの視界が塞がる。
シールズとの間に書類が割り込んできたのを見て、キロは槍から
手を放し、拳を握る。
︱︱水球は⋮⋮そこか!
キロはシールズの水球を目視しつつ、ナックルから現象魔力を残
らず引き出した。
パチッと軽い音と紫電がキロのナックルから発せられる。
ナックルから発せられた異音は風の音にかき消され、紫電の光は
書類に紛れ、シールズは気付いていない。
キロはナックルに残った動作魔力を使って奥義の発動準備を瞬時
に整え、最小の動きでシールズの水球に拳を見舞った。
奥義が発動し、水球が弾ける。
弾けた水球から飛び出た無数の水滴がシールズを襲うが、水滴に
殺傷能力はない。
シールズが水滴を無視し、書類の中からキロへと手を伸ばす。捕
まえる気だろう。
キロは伸ばされるシールズの手を気にせず、ナックルをさらに突
き出す。
﹁︱︱とりあえず、痺れとけよ﹂
ナックルから放たれた電撃が水滴を伝ってシールズを直撃した。
1050
回避はおろか、防御も間に合わない雷魔法は確実にシールズを捕
えていた。
キロは後ろに跳んで距離を取り、様子を見る。
キロが電撃を使った音を聞き付けたクローナが風を起こすのを中
止し、シールズに襲いかかっていた書類がゆっくりと床に落ちてい
く。
視界を塞いでいた書類が落ち切った時、そこにいるはずのシール
ズの姿はなかった。
︱︱転移しやがった!
キロは慌ててギルド内に視線を走らせ、シールズが投げていた短
剣に気付く。
フカフカが尻尾を光らせ、短剣を照らし出した。
ちょうどその時、照らし出された短剣の柄から腕が伸びるのが見
え、キロは声を張り上げる。
﹁︱︱クローナ、上だ!﹂
空間から生えたシールズの手が短剣の柄を掴み、下にいたクロー
ナへと投げつける。
キロの声で上に注意を向けていたクローナは短剣を難なく躱した。
クローナの横にいたミュトが跳び上がり、小剣を振りかぶる。
しかし、ミュトの小剣はあえなく空を切った。
シールズが腕を引っ込め、さらに転移したのだ。
ミュトはクローナと背中合わせになり、ギルド内に視線を走らせ
る。
キロはフカフカに小声でシールズの特殊魔力が張られている場所
を問うが、ゆっくりと首を振られた。
﹁あやつ、キロの雷魔法で焦ったのだろうな。ギルド内へ、出口に
使える特殊魔力を張っておらぬ。短剣にわずかに込められておるが、
1051
あの量では人ひとりの移動はできぬようだな﹂
キロは舌打ちして、短剣を睨んだ。
その時、短剣からシールズの声が聞こえだした。
﹁雷魔法なんて使われるとは思わなかった。驚いたよ。あまりの痛
みに致命傷でも負ったかと思ってつい転移してしまった。今回は諦
めるよ﹂
﹁声だけ空間転移なんて器用な真似もできるんだな。アンムナさん
の家でも、そうやって盗聴してたのか?﹂
キロが嫌悪感もあらわに問いかけると、くすくすと笑う声が返っ
てくる。
﹁その通り。盗み聞きだけではなく、盗み見も出来るんだけど、顔
だけ転移するのは不用心だから、まずやらないね﹂
生首みたいで精神的にもよくないだろう、と軽い口調で言って、
シールズは再びくすくす笑う。
︱︱まだ余裕があるのかよ。
奥義も雷魔法も、キロにとっては切り札だ。両方を連続で見せつ
けられても態度を変えないシールズの様子が気味悪かった。
﹁しかし、こうなると困ったな。キロ君達にまた雲隠れされたら、
寂しい﹂
本気で寂しそうに言って、シールズはそうだ、とたったいま思い
ついたように言葉を繋げた。
﹁ラッペンにおいで。オークション会場で待っているよ﹂
1052
﹁行く理由がないだろうが﹂
キロは言葉を返す。
実際には、アシュリー奪還のために足を運ばなければならないの
だが、目的を悟られたくはなかったため、嘘を吐いたのだ。
しかし、キロの嘘を容易く見破って、シールズは笑う。
﹁アシュリーさんを持って行くよ。返してほしくはないのかな?﹂
﹁本当に持って行くのか怪しいな﹂
﹁手元に置いておかないと不埒な輩が盗み出すかも知れないだろう。
僕の所属は窃盗組織なんだから﹂
妙に説得力のある理由を持ち出されて、キロは言葉に詰まった。
閉口するキロの様子を納得したと受け取ったのか、シールズはく
すりと笑い声をこぼす。
﹁︱︱では、ラッペンで会おう﹂
1053
第十二話 取り調べ
﹁⋮⋮特殊魔力を使い尽くしたようである。去った、とみるべきで
あろうな﹂
シールズの短剣を見つめたフカフカが呟く。
床に散らばった書類を見回して、キロはため息を吐いた。
書類を踏まないように注意しながら、クローナとミュトが歩いて
くる。
﹁キロ、怪我は?﹂
﹁怪我は無い。ただ、槍を壊された﹂
半ばから空間転移で飛ばされてしまった槍の断面を見せると、ミ
ュトは目を細めた。
﹁凄いね。こんな事も出来るんだ﹂
﹁実に厄介な特殊魔力であるな。そんな事より、倒れている冒険者
共の治療をした方が良いと思うぞ?﹂
フカフカの進言に、キロ達は慌てて床に転がっている六人の冒険
者の手当てを始めた。
全員意識はないが、クローナとミュトは仕事柄怪我に慣れている
ため応急手当てをテキパキこなす。
キロは少女二人の補佐をしつつ、ギルドの奥に用意されていた包
帯などを取ってきた。
六人の応急手当てが済んだ時、アンムナがやってきた。
開きっぱなしのギルドの扉から中に入ってきたアンムナは、ロビ
1054
ーを見回して肩を落とした。
﹁シールズには逃げられたようだね﹂
アンムナは怪我人の元へ歩いてくる。
﹁済みません。俺が電撃を使ったら逃げられました﹂
﹁電撃か。あれは初見だとびっくりするからね。魔力の消費が激し
かったはずだけど、ナックルの魔力を使ったのかい?﹂
﹁近距離だった事もあって、実用に耐えるくらいにはなりました。
やっぱり、このナックルは便利ですね﹂
キロは嵌めたままのナックルに視線を落とす。
込めておいた魔力は底をついているため、ナックルの光は失われ
ていた。
片膝をついて怪我人の具合を見たアンムナは、きちんとした処置
だ、と短く褒める。
﹁騎士団がすぐそこまで来てる。事情の説明は詰所で聞こうか﹂
詰所に同行する気満々のアンムナだが、体中には相変わらず包帯
が巻かれている。
血がにじむアンムナの包帯を見つめながら、ミュトがおずおずを
と口を開く。
﹁あの、怪我は⋮⋮?﹂
﹁安静にしていれば問題ないらしいから、大丈夫だよ﹂
治療院からギルドまで駆けつけている時点で安静とは程遠い、と
誰も突っ込みを入れられなかった。
1055
到着した騎士団の手を借りて六人の冒険者を治療院に運び込み、
キロ達は騎士団詰所の一室で事情聴取を受けた。
治療院に冒険者を運び込んだ時にはすでに日付を跨いでいたので、
徹夜確定だ。
キロはシールズ襲撃の流れをアンムナが受けた奇襲の意味なども
踏まえて説明する。
想像よりもいくつもの策がめぐらされていた事に、初老の騎士が
眉を寄せて険しい顔をした。
何しろ、騎士団は今回、シールズの掌の上で絶えず踊らされ、す
べての現場に間に合わなかったのだ。面目丸潰れである。
﹁それなりに腕の立つ冒険者が六人、さしたる抵抗も出来ずに床に
這いつくばっていた、と。シールズは腕を上げたようだね﹂
一人だけ暢気に紅茶をすすりながら、アンムナが呟く。
腕を上げたというよりも、特殊魔力を併用する事で本来の力を出
し始めたと考えるべきだ。
キロが指摘すると、アンムナは頷いた。
﹁確かに、特殊魔力の恩恵は大きいだろうね。ただ、冒険者達の傷
を見る限りでは真正面から戦ったようだった。この辺りは冒険者達
の意識が戻ってから聞く事にしようか﹂
キロ達は冒険者とシールズの戦闘を直接見たわけではないため、
何が起こったのかまでは分からない。
キロはフカフカに視線を移した。
ミュトの肩の上にいたフカフカは欠伸を噛み殺している。
1056
﹁あの時聞こえた音から察するに、冒険者共は一斉に切りかかった
が魔法で蹴散らされ、短剣で刺されるか切られるかしたようである
な。腕を落としたのはキロの槍に向けて行ったのと同じ、特殊魔力
であろう﹂
﹁腕だけ転移させたのか。本当に、素材にならない相手には容赦な
いな﹂
ある意味徹底している、とキロは少し感心した。
アンムナが背もたれに体を預け、ため息を吐く。
﹁それにしても、電撃を浴びせても特殊魔力で逃げたくらいだから、
一撃で意識を刈り取るような技がないとシールズを捕えられないね﹂
僕がやると殺しちゃうからなぁ、と物騒な事を呟いて、アンムナ
は初老の騎士に視線を送る。
﹁何かいい知恵はないかな? 特殊魔力持ちとか紹介してくれると、
大助かりなんだけど﹂
水を向けられた初老の騎士は首を振る。
﹁面子を潰された我々にそんな秘策があれば、すぐにでもラッペン
に人を派遣してますぞ﹂
平気な顔してその実、かなり頭にきているらしい初老の騎士が不
機嫌に言い返す。
シールズを取り逃がしてしまったアンムナも不機嫌な空気を出し
ているため、取調室の空気は重い。
ミュトがさりげなく座りを調整してキロの陰に隠れた。
そういえば、とアンムナがクローナを見る。
1057
﹁クローナ君も特殊魔力持ちだったね。どうにかならないかい?﹂
クローナは困り顔で首を振る。
﹁まだ特殊魔力の効果が分かっていないので、なんとも﹂
クローナの返答に、アンムナは少し悩むようなそぶりを見せた後、
何かを思い出すように目線を斜め上に向けた。
﹁分からないのでは仕方がないか、別の方法を模索しよう﹂
結局、何かを諦めるような間を挟んだ後でアンムナは矛を収めた。
話が途切れかけた時、キロは口を挟む。
﹁一つ、試してみたいと思ってます﹂
﹁︱︱試す?﹂
一斉に注がれる視線を受け止めて、キロはミュトの肩を叩く。
﹁ミュトの特殊魔力ですよ。詳しい効果まではまだわかってません
けど、ミュトの特殊魔力は物理、魔法に限らず干渉不可の壁を作る
効果があります﹂
ほう、と興味を引かれた様にアンムナが呟く。
﹁ミュト君の特殊魔力でシールズを拘束する、という事かな?﹂
﹁シールズの空間転移でミュトが張った干渉不可の壁を転移させら
れるのかはまだ試してないので、場合によっては可能かもしれませ
ん﹂
1058
半信半疑の視線を向けてくるアンムナ達。ミュト自身、できるの
かどうか不安そうな顔をしていた。
ミュトがキロの袖を引っ張る。
﹁壁ごと転移されたりしないかな?﹂
﹁その時は撤退して態勢を立て直すしかないな﹂
﹁そんな無責任な⋮⋮﹂
唇を尖らせるミュトの肩を、フカフカが前足で叩く。
﹁無責任な話でもなかろう。我らの勝利条件はシールズの拘束では
ない。アシュリーの奪還である。シールズとの戦闘を長引かせて足
止めしておる間、アンムナを含む別働隊がアシュリーを奪還すれば
よい﹂
勝利条件を認識しなおせと促すフカフカの言葉には一理ある。
シールズがアシュリーを持ってラッペンに来ると言った以上、シ
ールズを無視してアシュリーを奪還すればアンムナの目的が達成さ
れ、キロ達も撤退に集中できる。
しかし、クローナが疑惑を持って話を遮った。
﹁本当にアシュリーさんを持ってきているとは限らないんですよ?﹂
堂々巡りだ、とキロは天井を仰ぐ。
﹁どちらにせよ、ラッペンに向かうしかない。少なくとも、シール
ズがいる事は確かだからな﹂
1059
第十三話 槍を引き取りに
日がすっかり昇った頃になって騎士団詰所から解放されたキロ達
は、ひとまずギルドへ戻った。
﹁仮眠をとったら司祭様のところに戻り、預けてあるキロさんの槍
を返してもらって、そのままラッペンへ移動する事にしましょう﹂
クローナの提案に反対する者はいない。
ギルドに到着すると、オールバックの受付が片手で手招いてくる。
足を運んでみると、槍の穂先を渡された。
﹁証言通り、民家の屋根の上に落ちていました。お返しします﹂
キロはさりげなくフカフカに視線を送る。
フカフカに何事かを囁かれたミュトがキロを見た。
﹁安全だって﹂
シールズの特殊魔力は残っていないらしい。
︱︱持ち歩いてる途中でいきなり手が生えたりしたら嫌だからな。
短剣から生えたシールズの手を思い出しつつ、キロは礼を言って
槍の穂先を受け取った。
休憩室に戻り、キロはソファに寝転がる。
カーテンを透かす日の光を見て、仮眠に割り当てる時間を試算し
た。
︱︱明日に持ち越しかな。
昨夜クローナと話した計画を思い出し、キロは瞼を閉じた。
1060
眠ろうとすると気が緩んだのか空腹を感じ始める。
昨夜は夕食の途中でアンムナへの襲撃事件を聞いて駆けつけたが、
それ以降何も食べていない事を思い出した。
今から食べても朝食なのか昼食なのか判断できない半端な時間で
ある。
起きてからでいいかと思ったが、空腹が気になってどうにも寝付
けない。
クローナやミュトも同じなのか、しきりに寝返りを打つ音が聞こ
えてきた。
約一名、窓際で丸まって寝息を立てている獣がいるが、人間三人
は寝返りを繰り返すだけだ。
﹁⋮⋮肉と魚と野菜、どれがいい?﹂
﹁⋮⋮お魚で﹂
﹁⋮⋮僕は野菜がいい﹂
手短に意思疎通を図って全員の空腹を確かめ、キロは体を起こす。
﹁予定を変更して、何か屋台で買って辻馬車に揺られながら司祭の
いる町へ向かう。反対する奴はいるか?﹂
﹁異議なしです﹂
﹁フカフカ、起きて﹂
﹁お前達ときたら、身勝手であるな⋮⋮﹂
半端な睡眠時間で起こされたフカフカが不機嫌に呟いた。
辻馬車に揺られながら揚げた魚を挟んだパンを齧る。
各々の膝の上にはサラダの入った小鉢が置かれている。
司祭のいる町まではすぐに到着するだろう。
1061
ミュトがクローナに声をかける。
﹁ラッペンってどんな街なの?﹂
クローナの世界に来て日が浅いミュトやフカフカはもちろん、キ
ロもよく知らない土地だ。
今のうちに情報収集しておくに越した事はないだろう。
サラダを食べていたクローナは、思い出すような間を置いて口を
開く。
﹁さっきまで私達がいたカッカラと同じ大きな街ですよ。オークシ
ョンが盛んにおこなわれていて、人の出入りも激しいです﹂
﹁木を隠すなら森の中とも言うし、シールズ達が隠れるにはちょう
どいい環境って事か﹂
先手を取るのは難しそうだ、とキロは考えたが、フカフカが得意
げに鼻を鳴らした。
﹁シールズのアジトが街の中にあるのは間違いないのだろう? 盗
品の運搬に使われる特殊魔力を我が探し出せば、先手が取れるでは
ないか﹂
﹁まだ盗品を運び込んでいないかもしれないだろ﹂
﹁確かにそうであるな。しかし、盗品の有無は関係がないであろう。
ラッペンにシールズがいる以上、アジトへ直通の特殊魔力を準備し
ているはず。それに加えて、あれほど有用な特殊魔力の持ち主、組
織としてはアジトに一人きりで置いておきはしまい。したがって、
数人が一度に移動できる規模で特殊魔力の出口を設けているであろ
う。探し出すのはさほど難しくないはずである﹂
フカフカの推論を聞いて、キロは頷く。
1062
﹁先手を取れるならそれに越した事はないな。だが、探すにしても
どうやってアジトに近付くんだ?﹂
フカフカが特殊魔力の位置を見分けられるとはいっても、視認す
るためには近づかなければならない。
アジトを発見しようとして先にシールズたちに見つけられ、返り
討ちに遭う可能性もあるのだ。
フカフカがにやりと笑う。
﹁当然、通行人に偽装して近付くのだ。キロの腕前ならば造作もな
かろう?﹂
﹁いくら言葉を選んで騙そうとしても、女装はしないからな﹂
キロが睨むと、フカフカは愉快そうに尻尾を揺らす。
﹁先手を取る事の重要性は我に諭されずともわかろう? 貴様のち
っぽけな自尊心と作戦の成否、作戦に参加する我らの安全、天秤に
かけるまでもないと思うのだがな?﹂
ネチネチと外堀を埋めていくフカフカの弁舌に、キロは歯を食い
しばる。
︱︱正論ばっかり吐きやがって。
何か反論できないだろうかと知恵を絞っていたキロは、隣にいた
クローナが、頑張ってください、とばかりにぐっと拳を握ったのを
見て諦めた。
ミュトでさえ好奇心を抑えられないような目を向けてくるのだか
ら、味方はいないと悟ったのだ。
﹁言っておくけど、俺だけ変装してもシールズには見破られるから、
1063
クローナとミュトも男装してもらうからな﹂
﹁ボクは別にいいよ。慣れてるから﹂
ミュトが二つ返事で了承する。
しかし、クローナは困ったように視線を下に移した。そこには目
を見張るほど大きいわけではないが、しっかりと主張する双丘があ
った。
﹁誤魔化せますか?﹂
﹁多分、無理だな﹂
キロは半ば確信を持って答える。
ミュトが複雑そうな顔でクローナの胸に視線を注いだ。
﹁髪型を変えたりして上手く誤魔化すしかないな。別行動は可能な
限り避けたいから、変装させないわけにもいかない﹂
ミュトの視線に気付かず、キロは代替案を出す。
﹁︱︱あ、甘やかすのは良くないと思う﹂
﹁ミュトよ、見苦しいぞ﹂
フカフカに窘められて、ミュトは口を閉ざした。
そんな話をしている内に、道の先に司祭がいる町が見えてきた。
1064
第十四話 ラッペン
地下世界に出発する前に預けていた槍を返してもらったキロ達は、
司祭への挨拶もそこそこに町を出発した。
ラッペンは規模の大きな街ではあるが、司祭のいる町から直接行
ける辻馬車はないらしく、しばらくは徒歩で向かう事になった。
ミュトがキロの槍をしげしげと眺めている。
﹁グリンブル、だっけ? この槍を削り出せるくらい大きな魔物な
の?﹂
キロの槍はイノシシ型の魔物、グリンブルの牙を削り出して作ら
れたものだ。
動作魔力を通すと強度が増す特徴がある。
﹁体高が俺達の身長くらいあるイノシシだ。クローナと一緒に依頼
を受けた時に、森で二回出くわして、その度に殺されかけてる﹂
最初の槍を折ったのも、グリンブルとの戦闘中だった事を思い出
し、キロは苦い顔をした。
今ならもう少し危なげなく倒すことができるだろうとは思うが、
出会いたくないのが本音だった。
﹁︱︱師匠はその時女装してたんですか?﹂
横合いから飛んできた質問を右から左に聞き流し、キロは足を速
める。
心得たようにキロの加速に合わせたクローナとミュトの足音に数
1065
瞬遅れて、七人分の足音が追いかけてくる。
﹁師匠、女装している時の戦い方について質問があるんですよ。視
線を上げると顎の線が見えて女装を見破られるじゃないですか、ど
うやって顔を上げずに視界を確保したもんかと⋮⋮何かコツでもあ
りますか?﹂
知るもんか、と怒鳴り返したい気持ちを抑えて、キロは無視を決
め込み、口を固く閉ざす。
クローナとミュトは申し訳なさそうに後を追ってくる七人を振り
返るが、フカフカだけは楽しむように尻尾を小刻みに揺らしている。
笑いを堪えているのかも知れなかった。
七人は足を速めるキロに追いつき、周囲を取り囲む。
﹁師匠、ご教授を!﹂
﹁︱︱あぁ、もう、うっるさいんだよ!﹂
キロは耳を塞ぎ、一喝する。
キロの怒りを込めた怒鳴り声を聞いて、七人は顔を見合わせる。
﹁何を怒ってるんですか?﹂
﹁⋮⋮本気で言ってんのか? なぁ、それは本気で言ってるんだろ
うな?﹂
﹁キロさん、落ち着いてください﹂
どうどう、とクローナがキロの胸に手を置いて抑える。
キロは深呼吸を一つして、七人を見回した。
司祭がいる町で槍を受け取ったキロ達がギルドに事情を伝えに行
った際、ラッペンのギルドへの応援として選抜された七人だ。
全員がキロから女装の講義を受けた者達である。シールズが出る
1066
という情報がもたらされた以上、彼らが派遣されるのは当然と言え
ば当然である。
だが、キロには納得できない事があった。
﹁なんでお前ら、ラッペンについてもいない今の段階で女装してん
だよ!﹂
キロが指差した七人は、何か可笑しな事があるだろうかとばかり
に顔を見合わせる。
﹁普段から女装しておいた方が違和感が無くなるって先達から教わ
りまして﹂
先達とやらの特徴を聞くと、どうやらキロに女装を教えた女性の
旦那らしかった。
頭痛を覚えて、キロは行き場のない怒りを地面にぶつける。踵で
蹴りつけられた地面がザリッと抗議の音を立てた。
﹁百歩譲ってお前らが女装しているのはよしとしよう。でもなんで
付いて来るんだよ!﹂
﹁そんな事言って、まんざらでもないくせに。九人の美女に囲まれ
て往来を歩くなんて羨望の的ですよ、師匠﹂
﹁美女ならな! 嘘偽りなく、正真正銘、お天道様に恥ずかしくな
い美女ならな! お前らさりげなく影に入って肌の色諸々隠してる
時点で自覚あるんだろ? お前ら全員、往来を歩けない日陰者なん
だよ!﹂
を作るな!﹂
﹁ひ、酷い!﹂
しな
﹁科
突っ込みの入れ過ぎで息を切らしたキロは、頭を押さえて俯いた。
1067
そもそも、美女などと名乗ってはいるが、七人全員が及第点をわ
ずかに下回る腕だった。見知らぬ他人とすれ違っても気付かれる事
はないだろうが、じっと観察されれば一巻の終わりである。
ギルドでなじみの受付が渋い顔をしていた理由が分かる。同行さ
せようとしたのも、女装の講義をし直せと暗に言っているのだ。
︱︱というか、このままだと気持ち悪すぎてラッペンの防壁で追
い返されそうだ。
悪目立ちする事は確定なので、シールズに目をつけられるだろう。
そうなれば、この七人は女装した意味すらなくなってしまう。
﹁とりあえず、お前ら口の中に綿入れろ﹂
こうして、キロはラッペンへの道中で七人の冒険者を鍛え直すの
だった。
ラッペンの防壁を潜ったキロは、周囲から寄せられる好奇と嫉妬
と嫌悪の視線に苛まれた。
七人の少し可愛い町娘、に見える女装冒険者に囲まれているから
だろう。
冒険者達の性別を知るクローナとミュトは反応に困ったように距
離を置いていた。
ミュトの肩の上で、フカフカが前足で顔を隠しながら笑いを堪え
ている。
﹁とりあえず、お前らはギルドに行ってくれ。俺達はしばらくラッ
ペンを歩き回ってシールズに到着を知らせる﹂
キロは女装冒険者達を軽く手で払いのけた。
今回、キロ達に与えられた最大の役割はシールズをおびき出すた
めの囮だ。
1068
ラッペンは規模の大きな街であり、軽く視線を一周させるだけで
二、三十人は通行人を視界に収める事が出来るほど人通りも多い。
ラッペンの中を歩き回ってキロ達が到着した事がシールズの耳に
入るようにした後、ギルドでアンムナと合流して打ち合わせをする。
その上で、変装してアジトを探る手はずになっていた。
七人の冒険者達は自らの仕事に忠実らしく、名残惜しそうに手を
振りながらギルドへ向かっていった。手の振り方も各々に個性があ
り、違和感がない。
﹁短期間であんなに変わるモノなんだね﹂
少し気味悪そうに冒険者を見送って、ミュトが呟く。
﹁要点を押さえただけだ。観察されればすぐに見破られる。日頃か
ら女性を観察して振る舞い方を真似てかないと身に付かないんだよ﹂
通行人に怪しまれないよう、冒険者達へ手を振りかえして友好的
な関係を演出した後、キロはミュトに言葉を返した。
ミュトとクローナが顔を見合わせる。
﹁もしかして、私達って観察対象だったりしますか?﹂
﹁いや、俺が参考にしてるのはもっと色気のある︱︱って、痛っ⁉﹂
脇腹をつねられて、キロは悲鳴を上げる。
振り返って心配そうな視線を向けてくる通行人に何でもない、と
笑い返して、キロはクローナを横目で睨んだ。
﹁何すんだよ﹂
﹁自業自得です﹂
﹁クローナの可愛さを一朝一夕で真似られるはずがないだろ﹂
1069
﹁今更言い訳しても遅いです﹂
﹁キロ、クローナ、痴話喧嘩は道の端でやれ﹂
フカフカに突っ込みを入れられて、クローナは唇を尖らせながら
も矛を収めた。
観光する振りをしてラッペンの街を歩き出す。
通りを歩く人の数こそ多いが、そのほとんどが行商人かオークシ
ョン目当ての裕福な観光客らしい。
いずれも一目で高価と分かる滑らかな生地の衣服を身にまとい、
ボタン一つとっても金が掛かっているのが分かった。
だが、モザイクガラスの髪飾りは珍しいらしく、道行く女性がち
らちらとクローナの髪飾りに視線をやっていた。
黒髪黒目のキロと白髪灰目のミュトもかなり目立っており、シー
ルズの耳に情報が届くまでそう時間はかからないだろう。
周囲に気を配りながら歩いていると気付かれていたのか、ラッペ
ンを一回りしてギルドに足を向けても襲撃の類にはあわなかった。
1070
第十五話 ラッペン冒険者ギルド
ラッペンのギルドに足を踏み入れたキロ達は、外との活気の落差
に困惑した。
人こそ多いが誰しもが警戒心をあらわにし、互いを監視するよう
に視線を走らせている。
話し声は極僅か、いざとなればすぐ戦闘に移れるように構えなが
らの情報交換が行われている。
新たにギルドへ入ってきたキロ達はすぐに警戒を込めた視線で観
察され、新顔である事も手伝ってかあからさまな敵意を浴びせられ
た。
︱︱妙な反応だな。
キロはクローナとミュトの前に立ち、ロビーの冒険者達を眺め見
る。
にらみ合いを続けていると、徐々に冒険者達の敵意が萎んでいっ
た。
キロ達は警戒を緩めずに受付へと足を進める。
赤い髪の受付嬢はキロ達を隙のない瞳で観察しながら口を開く。
﹁冒険者の方ですね。お名前を伺います﹂
クローナが前に出て名乗り、カッカラの冒険者ギルドから来た事
を話しながら、渡されていた紹介状を見せる。
赤髪の受付嬢の態度が途端に軟化した。
﹁失礼しました。ギルドの冒険者に裏切り者がいるようで、警戒し
ているんです。ご容赦ください﹂
1071
軽く頭を下げる赤髪の受付嬢の言葉に聞き流せない単語が含まれ
ていた。
すぐにクローナが声を落とし、問い返す。
﹁裏切り者ってどういう事ですか?﹂
﹁捜査情報や構成人員が窃盗組織に漏れているようで、何人かが闇
討ちにあっています。まだ内通者の割り出しはできていません﹂
紹介状に目を通しながら赤髪の受付嬢は説明し、困ったように眉
を寄せた。
紹介状を持って席を立った赤髪の受付嬢が奥にいた職員の元へ駆
けよる。
ほんの少しのやり取りの後、赤髪の受付嬢が戻ってきた。
﹁シールズの関係者というのは本当でしょうか?﹂
受付嬢がキロ達へ質問した瞬間、ロビーにいた冒険者達が一斉に
キロ達へ鋭い視線を向けた。
︱︱顔を覚えられたのは間違いないな。
冒険者達に多大な警戒心を持たれた事を肌を突き刺す視線から読
み取りつつ、キロはクローナに話を進めるよう促す。
困ったように冒険者達を見ていたクローナも、早めに用事を終わ
らせてギルドを出た方が得策だと判断したらしく、赤髪の受付嬢に
向き直った。
﹁師匠が同じですが、それ以上にシールズからは素材として目をつ
けられています。それが何か?﹂
赤髪の受付嬢は紹介状を見つつ弱り顔だ。
1072
﹁本当に申し訳ないのですが、冒険者を闇討ちした犯人はほとんど
の場合シールズでして、何らかの縁故を持つ者は一律でギルドの利
用をお断りさせていただいています⋮⋮﹂
クローナが呆気にとられたように数回瞬きし、キロを振り返る。
﹁どうしましょう?﹂
﹁シールズがこのギルドの対応を知っている可能性について、聞い
てみてくれ﹂
キロが促すと、クローナが翻訳しつつ赤髪の受付嬢に質問する。
未知の言語を操るキロを気味悪そうに見ていた赤髪の受付嬢は、
クローナの質問に少し考えるそぶりを見せた。
﹁多分、知っていると思いますけど⋮⋮﹂
︱︱シールズの奴、俺達がギルドの協力を得られない事を承知で
誘き出したのか。
さっそくしてやられた、とキロはため息を吐く。
罠があるだろうとは思っていたが、予想以上に早く出鼻を挫かれ
た形だ。
アンムナとの合流場所をギルドにしていた事を後悔した時、キロ
の肩にフカフカが飛び乗った。
﹁盗み聞きされておる。迂闊な事は言うな﹂
キロに囁いたフカフカはクローナの肩へと飛び移り、同じセリフ
を耳打ちする。
キロは素早くクローナ、ミュトと視線を交差させ、頷きあう。
1073
﹁協力が得られないという事なので、私達は個別で動く事にします﹂
クローナの言葉に申し訳なさそうにした赤髪の受付嬢が口を開く。
﹁どこの宿にお泊まりでしょうか?﹂
﹁まだ決まってません。シールズの襲撃を受ける可能性があります
から、泊めてくれる宿があるかもわかりません﹂
クローナはありのままを伝えただけだったが、赤髪の受付嬢には
棘のある言葉に聞こえたらしく、首を竦めた。
一部の冒険者から受ける視線がさらに鋭くなった気がしたが、キ
ロは無視してクローナとミュトの手を引き、出口に向かう。
追い立てられるように外に出て、キロ達は尾行に注意しながらし
ばらく大通りを歩いた。
自然とフカフカを乗せているミュトを中心に歩き、適当に道を曲
がる。
民家の壁に背を預けて、キロはフカフカに声を掛けた。
﹁それで、盗み聞きしてたのは誰だ?﹂
﹁愚問であるな。シールズだ﹂
やっぱりそうか、とため息を吐いたキロはフカフカに続きを促す。
﹁特殊魔力はどこに張られていたんだ?﹂
﹁四か所、一つは受付へ依頼を出していた男の鞄、他には壁際にい
た冒険者の男の胸当て、最後がロビーの端にあった椅子に座ってい
た冒険者の耳の中と首に巻いていたスカーフ。おそらくは全員が諜
報員であろうな﹂
フカフカの言葉を聞きながらロビーの中の状況を頭に思い描き、
1074
キロはシールズの特殊魔力に囲まれていた事を知る。
空間把握能力の高いミュトも難しい顔をしていた。
﹁耳の中って、明らかに指示を受けてるよね﹂
﹁スカーフは連絡を取るための物でしょうか﹂
ミュトとクローナが互いの予想を語り合い、納得したように頷く。
﹁シールズは特殊魔力を使って、いつでも部下と連絡が取れるんで
すね﹂
﹁つまり、椅子に座っている奴が他の奴らにシールズから受けた指
示を伝えてるのか﹂
フカフカがその通り、と言うように尻尾を勢い良く一振りする。
﹁手で簡単な合図を送っているようであるが、我でも内容は読み取
れぬ﹂
ギルドの何を探っているかについては、捕えて聞き出すしかない
らしい。
﹁あの特殊魔力の量では人ひとりを転移させることは無理であろう。
逃げられる事もない。どうする。捕えるか?﹂
フカフカがキロに問う。
諜報員を捕えた後、フカフカがシールズの特殊魔力を〝拾い食い
〟してしまえば、シールズとの連絡経路を遮断し、情報を聞き出す
ことが可能となる。
だが、フカフカが魔力を食べる事をシールズに知られる可能性が
高い。
1075
さらに、キロ達の証言をギルドに納得させられるかも怪しかった。
なぜなら、魔力はフカフカにしか見えないからだ。
ただでさえシールズの縁故として見られている今、証明できない
特殊魔力の有無でギルド所属の冒険者に嫌疑をかけるのは、キロ達
の立場を危うくしかねなかった。
悩むキロに、クローナが口を挟む。
﹁捕まえても、代わりの内通者が用意されるだけかもしれません。
シールズの特殊魔力があれば、いくらでも代わりを作れますから﹂
﹁内通者を捕まえても、シールズの特殊魔力がある限り、ギルドの
捜査情報はダダ漏れって事か。ギルドとの情報共有も控えた方がい
いかもしれないな﹂
身動きが取り難くて仕方がない、とキロは首を振る。
その時、ミュトがふと思いついたように顔を上げた。
﹁フカフカが魔力を見れるってこと、シールズはまだ知らないよね
?﹂
キロはカッカラでの戦闘を思い出し、頷いた。
それなら、とミュトは笑みを浮かべる。
﹁ボク達が諜報員を一目で特定できることもシールズは知らないん
だね﹂
ギルドの方角を指さして、悪戯っぽく首を傾げたミュトは作戦を
口にする。
﹁後をつければアジトを特定できるんじゃないかな?﹂
1076
シールズの打った手を逆に利用するミュトの作戦に、キロとクロ
ーナはそろって笑みを浮かべた。
1077
第十六話 奪還作戦の立案
﹁それで、もうアジトを特定したわけだね﹂
ギルドとは提携していない民間の治療院にいたアンムナは、キロ
達の報告を聞いて感心した。
﹁それにしても⋮⋮﹂
アンムナはちらりとキロを見る。
﹁侮っていたよ。これが特殊魔力を使った偽装じゃないなんて信じ
られない﹂
﹁我も戦慄しておる。性別の壁は、こうもたやすく崩れる物なのだ
な﹂
アンムナに同意するようにフカフカが大仰に頷いた。
ギルドから出てきたシールズの諜報員を追う際、キロ達は変装を
していた。
ギルドのロビーで顔を見られている事はもちろん、アジトまで後
を付ける際にシールズと鉢合わせる可能性があるためだ。
キロは女装、ミュトは男装、クローナは詰め物等で体型を誤魔化
していた。
注目すべきはキロの女装である。
ミュトが物珍しそうにキロを眺めまわしている。
﹁⋮⋮やっぱりすごい。ナンパされるだけある﹂
1078
ミュトが呟いた一言に、アンムナはクローナに視線を送る。
クローナが肯定するように頷くと、アンムナはさもありなん、と
呟いた。
観察してくる三対の目とぶつからないように顔を伏せ、キロは歯
噛みする。
︱︱なんでこんな目に⋮⋮。
アジトを見つけた段階で変装する必要はない、とキロは主張した。
しかし、変装せずに治療院に足を運ぶと、芋づる式にアンムナま
で発見されかねないと反論したクローナにより、変装したままアン
ムナの前に出てくることになったのである。
アンムナの包帯を取り換えに来た看護師がキロを見てにっこりほ
ほ笑むと、
﹁可愛らしい娘さんですね。お見舞ですか?﹂
と訊ねてくる始末である。
最低でも治療院を出るまでは女装を解けないキロは、俯いて堪え
るしかない。
ともなれば、用事を早く終わらせてしまうに限る、とキロは俯い
たままミュトに声を掛けた。
﹁⋮⋮地図﹂
ぼそりと呟いたキロの声にハッとして、ミュトが自らの鞄を漁る。
鞄からミュトが取り出したのはシールズのアジトの場所が記され
た地図だ。
地図を受け取ったアンムナは、治療院の場所を探してアジトまで
の距離を試算する。
﹁この地図、正確なのかい?﹂
1079
﹁ミュトさんは地下世界で地図師をしていましたから、かなり正確
なはずですよ﹂
クローナが太鼓判を押すと、アンムナは頷いて筆を持った。
﹁一応、アジトの大きさと目印になるような物がないか聞いておこ
うかな﹂
地図に視線を落としながら、アンムナが質問を投げる。
﹁目印は赤い屋根と柱の装飾です。周囲に民家はありません。大き
な倉庫が一つ併設されてました。多分、オークション会場に使うん
だと思います﹂
諜報員の後をつけて辿り着いたのはラッペンの郊外にある倉庫群
の一つだった。
元々オークションが盛んな都市であるラッペンでは貸倉庫業が盛
んであり、倉庫群がいくつか存在している。
郊外にあったシールズのアジトは中規模の倉庫群の中にあった。
中に頻繁に人が出入りする不自然さを怪しまれない様にという配
慮なのか、倉庫群の外れにぽつんと立っている建物だ。
建物の規模は大きく、容量もかなりの物だと想像できた。
だが、窓から覗いてみたところ、建物内部はいくつかの部屋に小
分けされており、本来は部屋ごとに倉庫としての貸し付けを行って
いるらしい。
シールズは倉庫全体を貸し切ったのだろう。
﹁アシュリーの監禁場所は分かるかい?﹂
﹁オークションの出品物とは別に、休憩用の個室の中にありました。
窓が小さく、運び出すのは無理と判断して引き返してきましたけど、
1080
アンムナさんなら壁を破壊してアシュリーを奪還後、すぐに離脱で
きると思います﹂
ミュトが地図を指さし、アシュリーの監禁場所を伝えると、アン
ムナは筆で丸い印をつけた。
質問を終えたアンムナが地図を畳む。
﹁それじゃあ、行こうか﹂
﹁ちょっと待ってください﹂
キロが制止すると、アンムナ浮かせかけた腰を戻し、首を傾げた。
﹁何を待つのかな?﹂
アンムナにとっては、アシュリーの居場所が判明した以上、一刻
も早く取り戻しに行きたいのだろう。
それでも、アジトを見つけてきたキロ達の意見を聞く気はあるら
しい。
キロはフカフカに目を向ける。
﹁倉庫内にはシールズの特殊魔力が張られていました。アシュリー
の側にも特殊魔力が張られています﹂
﹁予想していた事だろう?﹂
﹁予想はしていましたが、シールズがアジトにいた場合、アシュリ
ーさんを連れて空間転移される可能性があります。シールズをおび
き出して、アジトの状況が分からないようにした上で、アンムナさ
んが奇襲をかけて奪還する方が安全だと思います﹂
最大の目標はアシュリーの奪還である。
目標を達成するためならば、最大戦力であるアンムナをシールズ
1081
にぶつける必要はなく、むしろキロ達が囮として振る舞う事で成功
率が上がるだろう。
理屈としては納得できても、アシュリーの監禁場所が発覚してい
るのに動けない事に苛立ちを感じているらしく、アンムナは不機嫌
にため息を吐いた。
﹁ギルドの協力を仰いで、正面から攻め込む組とアシュリー奪還組
とに分かれてみるのはどうだろう?﹂
﹁ギルド内にはシールズの息がかかった冒険者がいるようです。実
際、シールズの特殊魔力で内情を探っている者がいました。作戦が
漏れるのがオチだと思います﹂
アンムナはなおも諦めずに打開案を探っていたが、結局何も思い
つかずに首を振った。
﹁今は我慢の時、か。シールズの事だ、どうせすぐに動き出すとは
思うけど﹂
アンムナの理解を得られたとみて、キロは作戦を伝える。
作戦と言っても、キロ達がシールズとの戦闘に入った際、それと
なく合図を送ってアンムナがアジトを奇襲する時間を稼ぐという単
純なものだ。
アシュリーを取り返したアンムナがギルドへ報告に行き、ついで
に応援を頼むまでが作戦である。可能ならば、アジトに赴いて証拠
品となる盗品を押収しておきたいところだ。
想定される状況に合わせた合図の仕方を取り決め、キロ達は席を
立つ。
あまり長く変装したまま動いていては、キロの姿を見失ったシー
ルズに怪しまれる。
用事がすんだら早めに変装を解き、囮に徹しなければならない。
1082
﹁キロ君の女装姿、アシュリーにも見せてあげたかったな﹂
しみじみと言うアンムナに断固拒否を伝えたキロは、クローナ達
を連れて早々に治療院を出た。
すでに日が沈みかけ、空は茜色に染まっていた。
1083
第十七話 クローナの日記
オークション目当ての観光客や行商人が多いラッペンには多数の
宿屋がある。
しかし、犯罪組織に目をつけられ、いつ襲撃されるかもわからな
いキロ達を泊めてくれる宿はなかなか見つからなかった。
﹁⋮⋮次で十件目ですよ﹂
治療院を出た時には茜色だった空もすっかり暗くなり、丸い月が
浮かんでいた。
活気のある街だけあって夜が更けても通りに人の姿は絶えないが、
だからと言って一晩中歩き回りたくはない。
﹁ごめんください﹂
そこそこ立派な門構えの宿に入り、入り口から声を掛ける。
こうなったら金に糸目はつけない。対シールズ戦に向けて英気を
養うためにも、休息は取っておきたいからだ。
恰幅のいい店主が出迎えてくれたが、クローナからシールズの話
を聞くと困ったような顔をした。
﹁泊めてあげたいのはやまやまですが、他のお客さんもいらっしゃ
るから、迷惑をかけるわけにもねぇ⋮⋮﹂
耳にタコができるほど聞かされた断りの定型句に、キロ達は肩を
落とす。
流石に哀れに思ったのか、恰幅のいい店主はしばらく考えた後、
1084
何かを思いついてポンと手を打った。
﹁うちには泊められませんが、泊めてくれるかもしれない宿なら心
当たりがありますよ﹂
﹁本当ですか⁉﹂
食い気味に問い返したクローナの勢いに、恰幅のいい店主が思わ
ずのけぞる。
﹁え、えぇ、昔冒険者をやっていた女性が始めた宿屋で、あまりい
い店ではないんですが﹂
﹁ぜひ、教えてください!﹂
身を乗り出してお願いするクローナの剣幕に押されながら、宿の
主は店の裏手を指さす。
﹁ありがとうございます﹂
三人そろって頭を下げ、キロ達はそこそこ立派な門構えを出ると
裏手へ回り込む。
大通りと並行して走る細い裏道に出た。
目的の宿を探して少し歩くと、飾り気のない質素な看板が吊るさ
れた小さな宿を見つけ、喜び勇んで入り口を潜る。
入口を潜った瞬間、これは駄目だ、とキロ達は回れ右した。
﹁︱︱おい、こら、酔っ払いを見て逃げ出せると思ったら大間違い
だぞ。見世物じゃねぇんだ、冷やかしなら見物料払ってけ、馬鹿野
郎﹂
支離滅裂な絡み方をして、カウンターでワイン瓶をラッパ飲みし
1085
ていた女がキロの襟首を掴む。
そのままグイッと乱暴に引き寄せて、酒臭い息を吐き出しながら
キロの顔を見る。
﹁なんだ可愛い顔しくさって⋮⋮どっかで見たような気がするな。
まぁ、いいや。泊まるか、飲むか、両方選べ﹂
﹁選択肢の意味ないですよね﹂
﹁あぁん? どこの出身だよ、お前。聞いたことない響きの言葉だ
な﹂
キロの首に腕を回して逃げられないようにしつつ、カウンターの
中を片手でごそごそと漁っていた女は台帳と腕輪を取り出した。
﹁この腕輪を使うの何年振りだったっけな。壊れてっかも。酒掛け
たら直るんじゃねぇかな。って、直るわけがないだろ﹂
自ら否定してけらけらと笑う女は自称何年振りかに翻訳の腕輪を
はめ、キロの首を揺らす。
﹁ほら、口を開け。泊まりますって言ってみ?﹂
﹁泊まりたいですが、シールズっていう犯罪者に狙われてまして、
襲撃されるかもしれません﹂
﹁襲撃が怖くて宿屋なんかやってられっか。返り討ちにして物置に
放り込んで一晩明けたら、料金ふんだくってやる﹂
︱︱質が悪いな、この人。
キロはげんなりしたが、どうやら泊めてくれるようなので滅多な
事は言わない。
﹁ほら、ここに名前書け。シ、シールズ? とかなんか、その襲撃
1086
者の名前も書いとけ。襲撃がなかったら踏み倒されたって事で取り
立てに行くわ﹂
滅茶苦茶な事を言う女に言われるがまま、キロ達は台帳に名前を
書く。
絶対にこんな酔っ払いにはなるまい、と固く心に誓ったキロの前
にワイン瓶が掲げられる。
﹁久々の客だ。ただで飲ませてやる!﹂
嬉しいだろ、と言わんばかりの明るい笑みを浮かべているが、断
ったが最後般若へと変じるだろうことは想像に難くない。
キロは救いを求めてクローナを見る。
﹁そういえば、酔ったキロさんって見た事ないですね﹂
﹁へぇ、クローナも見た事ないんだ。酔わせてみる?﹂
クローナとミュトは黙認するつもりらしい。
フカフカは我関せずとばかりに宿の中を見回している。特殊魔力
が張られていないかを念のために調べているらしい。
﹁ほら、飲め﹂
グイッと差し出されたワイン瓶の中身を見て、さほど量がない事
を確認する。大半は宿主の女が飲んだのだろう。
キロはワイン瓶を受け取って、そのままラッパ飲みする。
﹁やるじゃんか。宿代はまけてやるよ﹂
宿の女は楽しげに手を打ち鳴らした。
1087
ワイン瓶を返したキロはカギを受け取って、二階の角にあるとい
う部屋に向かう。
クローナとミュトがキロの顔色を窺っていた。
﹁⋮⋮酔いました?﹂
﹁酔うわけないだろ。飲んだ振りしただけだ﹂
﹁ずるいです﹂
クローナが頬を膨らませて、カウンターを振り返る。
告げ口するつもりかと思ったが、一人で盛り上がっている宿の女
を見て関わるだけ損と判断したらしく、何も言わずに階段を上った。
二階奥の角部屋に入ってみると、先ほど見た宿主の女からは想像
ができないほどきちんと掃除が行き届いていた。窓枠にさえ塵一つ
落ちていない。
﹁一時はどうなる事かと思ったが、存外にいい宿ではないか﹂
窓際を定位置にしつつあるフカフカが満足そうに丸まった。
キロはさりげなく窓の方角を確認し、クローナに目くばせする。
了解、と親指立てたクローナは、ミュトの背中を押した。
﹁さぁ、早めに寝てしまいましょう。明日は早いですから﹂
﹁日記はいいの?﹂
﹁もちろん書きますよ﹂
ベッドに腰掛けたクローナは鞄から日記帳を取り出し、髪飾りを
外しながらページをめくる。
白紙のページを開いたクローナが日記を書き始めるのを横目に見
ながら、キロは欠伸を噛み殺した。
1088
﹁その日記、捜査資料扱いされて、提出を求められたりしてな﹂
キロが何気なく言うと。クローナの手が止まった。
少しの間目を泳がせた後、猛烈な勢いで日記をめくり、過去の記
述を確かめる。
そして、パタン、と日記を閉じた。
﹁見せられるはずないです!﹂
﹁そんな事言われても﹂
キロとしても、特に考える事なく言っただけで実際に提出を求め
られるとは思っていない。
しかし、クローナにとっては一大事らしく頭を抱えて小さく唸っ
た。
クローナの様子を見て、ミュトが心配そうに首を傾げる。
﹁いったい、どんなことを書いてるの?﹂
﹁⋮⋮キロさんの事とか﹂
小さく呟くように口にして、クローナが上目使いにキロを窺う。
﹁私だけじゃなく、キロさんまで悶える事になりますよ?﹂
﹁なんで俺が脅されてるんだ﹂
﹁キロ、ご愁傷様﹂
くすくすと笑うミュトだったが、続くクローナの言葉で凍りつく。
﹁地下世界でミュトさんと一緒に温泉に浸かった時の事とか﹂
﹁⋮⋮それって、初日のアレ?﹂
1089
ミュトが恐る恐る確認する初日のアレなる事について、居眠りし
ていたキロは知らない。
だが、窓際にいたフカフカが笑い出しそうになるのを堪えて鼻を
鳴らしているのを見れば、誰かに見聞きされたくない事があったの
だと予想できる。
﹁な、何でそんなことまで書いてるの⁉﹂
﹁日記だからですよ﹂
﹁あぁ、もう。絶対見せたらだめだからね!﹂
﹁あの日、何があったんだ?﹂
﹁キロは知らなくていいの!﹂
ミュトとクローナは日記の公開を断固拒否する事で一致したらし
く、キロを見る。
﹁キロも、絶対に日記の事は話しちゃだめだよ﹂
女子二人の剣幕に、キロは頷くしかなかった。
1090
第十八話 聞き込み開始
真っ暗な部屋で、キロはベッドに横になったミュトの肩を揺らす。
﹁ミュト、起きろ﹂
周りに聞こえないように耳元に囁きかけると、ミュトは身じろぎ
する。
﹁早く起きろ﹂
少し強めに肩を揺さぶると、ミュトは眉を顰め、目を擦る。
寝ぼけ眼を開いたミュトは、すぐそばにあるキロの顔を見て眠気
が吹っ飛んだらしく、布団の端を両手で掴んで硬直した。
﹁な、なに?﹂
あからさまに狼狽えているミュトに苦笑して、キロは体を離す。
﹁窓の外を見てみろ。見逃さない内にな﹂
キロが窓を指さすと、すでに起きていたクローナがミュトを手招
いた。
窓際に丸まったフカフカは外を眺めて欠伸している。
﹁ミュトさん、早く来てください﹂
誘われたミュトは掴んでいた布団を離し、体を起こす。
1091
クローナとキロを見比べた後、唇を尖らせた。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
不貞腐れたように呟いたミュトは、自分の言葉に驚いたように口
を閉ざし、何かにせっつかれるようにベッドから出た。
訝しみながらも、キロは窓辺に歩いたミュトの後ろを付いて行く。
窓の外は月も見えない真っ暗な空が頭上を覆っている。
流石のラッペンもこの時間には人通りが少ないらしく、街の外に
広がる森から迷い込んだ虫の音がわずかに聞こえてきた。
窓辺に立ったミュトが真っ暗な空を見上げて首を傾げる。
﹁星がない?﹂
﹁見えてないだけだ。クローナ﹂
キロが呼びかけると、クローナはにこやかにほほ笑んだ。
﹁この時期なら、もう間もなくですよ﹂
何が間もなくなのかとミュトが問い返す前に、それは始まった。
森の奥から、徐々に闇が払われる。
空の黒が紫色へと代わり、白んでいく。
﹁日の出だ﹂
寝癖の付いたミュトの頭を片手で撫でて、キロは東の空を注視す
る。
クローナの世界に来た初日は遭難生活の疲れもあってぐっすり眠
ってしまっていた。
二日目はラッペンで徹夜だったが、騎士団詰所で事情聴取を受け
1092
ており、外を見る事が出来なかった。
三日目にして初めて日の出を見る事が出来たミュトが窓から外に
乗り出して東の空に見とれるのも、無理はない事だろう。
﹁あれ、太陽だよね? こうやって浮かんでくるんだ﹂
ミュトが瞬きすらも忘れたように東の空を見つめて呟く。
ある程度太陽が昇ってきた頃を見計らって、キロはミュトにサン
グラスを付けるよう指示した。
手早く身支度を整えて、キロは荷物を前に腕を組む。
いつシールズとの戦闘になるか分からないため、手荷物を減らし
ておくに越した事はない。
﹁︱︱けど、宿の主があれだとなぁ﹂
客の荷物に手を出さないとは思いたいが、昨夜の傍若無人な振る
舞いが信用の足を引っ張っている。
貴重品だけ身に着ける事にして、キロ達は武器を片手に部屋を出
た。
一階の受付にいた宿の女は、酔いつぶれたらしく机に突っ伏して
眠っていた。
何とも残念な人だな、と感想を抱きつつ、キロ達は外に出る。
早朝であり、オークション目当ての客達の多くが宿で寝ているら
しく、人通りはまばらだった。
襲撃をするには絶好の状況だと気を引き締めつつ、キロ達はまず
ギルドに向かう。
利用を禁止されている身だが、冒険者達の近況を知っておけば、
不測の事態が起きた時に頼れるかもしれない。
焼きたてのパンの臭いに誘惑されながらも道を進み、ギルドの前
に到着する。
1093
入り口に三人の冒険者が立っており、窓から覗くロビーにも十人
ほどの冒険者が見え隠れしている。
﹁襲撃に備えているみたいですね。カッカラのギルドみたいなこと
にはならなそうです﹂
﹁連絡が来ているんだと思うよ。重大な事件だと思うし﹂
入り口を固めていた冒険者達がキロ達を見て、警戒するように目
を細める。
いらぬ騒動を起こす気もないので、朝の挨拶だけしてギルドを離
れた。
﹁おっかないな。まるっきり、敵扱いだ﹂
キロは弱り顔で振り返り、肩を落とした。
フカフカがミュトの肩の上で鼻を鳴らす。
﹁敵であろうよ。入り口を固めておった右端の冒険者、イヤリング
にシールズの特殊魔力が込められておった﹂
﹁⋮⋮だいぶ浸食されてるな﹂
ギルドをあてにはできないようだ、とキロはため息を吐いた。
クローナも眉を顰めてギルドを肩越しに振り返る。
﹁いざという時、冒険者に背後を突かれるかもしれないというのは
怖いですね﹂
﹁でも、何かおかしくない?﹂
ミュトが小首を傾げる。
キロ達が無言で続きを促すと、ミュトは整理しながら話し出した。
1094
﹁シールズが主導権を握っているなら、ギルドの中にボク達を招き
入れると思うんだ。フカフカのおかげでボク達が内通者を見分けら
れることを知らないんだから、ギルドに留めておいた方が、行動の
把握もできるし、いつでも背後から襲えるでしょ?﹂
言われてみればその通りだ、とキロは腕を組んで考える。
﹁ギルドに張り込んでいる連中をシールズの一存では動かせないの
かもしれないな﹂
﹁シールズよりも立場が上の人がラッペンに来てるって事ですか?﹂
﹁心当たり、あるだろ?﹂
キロがかつて忍び込んだオークション会場でのことを思い出しな
がら問い返すと、クローナも思い出したらしい。
﹁紳士風の男の人とキアラって女の人ですか﹂
﹁シールズの上司はおそらく紳士風の男の方だ﹂
シールズの上に命令系統が存在するならば、キロ達をギルドが利
用できないラッペンに誘い出した理由にも想像がつく。
上の命令があるから自由に取れる時間が少ないため、次の仕事場
であるラッペンに誘い込んだのだ。
事前に行われていた闇討ちも、本来の意図はキロ達にギルドを利
用させない事ではなかったと考えられる。
証明する手っ取り早い方法として、闇討ちが行われ始めた時期が
キロ達の地下世界から帰ってきた日よりも前か後かを確かめればい
い。
一ヶ月姿を眩ませていたキロ達のために罠を準備するとは考えに
くいからだ。
1095
﹁ギルドを使えなければ、窃盗組織に内通してる冒険者に俺達が襲
われる事もないし、個別で動かざるを得なくなるとシールズは考え
たんだろうな﹂
早朝から始めていた軽食屋台で朝食を購入しつつ、キロはシール
ズの考えを見抜く。
︱︱想定される敵はシールズに加えて紳士風の男とキアラ、窃盗
組織の構成員とギルドに入り込んでる内通者、か。
クローナが燻製肉とスクランブルエッグ、野菜が挟まれたパンを
齧りつつ、道の先を睨む。
﹁前も後ろも敵だらけですね﹂
﹁左右に花があるのが救いだな﹂
さらりとキロが返すと、クローナが咽た。
﹁キロ、まじめな話をしている時にそういう冗談挟むのはどうかと
思うよ﹂
ミュトが呆れを込めた視線を向ける。
﹁和ませようと思って。それより、聞き込みを始めよう。アジトを
探している振りしないと、シールズに怪しまれるからな﹂
キロは通りに視線を走らせる。
ているクローナの背中をさすりながら、キロは通りが
﹁すみません﹂
むせ
なおも咽
1096
かりの娘に片言で声を掛けるのだった。
1097
第十九話 新しい扉
昼近くになり、キロ達は喫茶店の見晴らしが良い席に腰かけて休
憩していた。
シールズの襲撃を受けた際に周りの一般客を巻き込まないよう、
昼食の時間をずらそうとしたのだが、すでにどこの店も客で一杯だ
ったため喫茶店で時間を潰しているのだ。
ラッペンの地図を描いていたミュトが飲みなれない紅茶の味に顔
をしかめる。
﹁水の方がおいしいのに、何でこんなことするのかな﹂
﹁飲み飽きたからだろ﹂
キロも紅茶に口を付けながら、言葉を返した。
﹁それにしてもクローナ、そんなに怒らなくてもいいだろ﹂
不機嫌な顔で紅茶を飲んでいるクローナがキロを上目使いに睨み
つけている。
キロは視線を逸らしながら、頬を掻いた。
﹁どうしたら機嫌を直してくれるんだ?﹂
﹁キロさんにからかわれるのは別に嫌いじゃありません。でも、か
らかわれた後に放置されるのは嫌です。あんまりです﹂
両手に花扱いしてからかったフォローもなく、聞き込み調査を始
めた事が腹に据えかねているらしい。
平謝りしても許してはくれないため、キロは機嫌を取る方法を考
1098
えていた。
キロとクローナを見て苦笑しているミュトを、フカフカが楽しそ
うに尻尾を振りながら見上げている。
キロが救いを求めて視線を送ると、カップを回して紅茶を波立た
せていたミュトは困り顔でフカフカを見る。
まだ仲裁できるほど場数を踏んではいないか、とフカフカは仕方
なさそうに口を開いた。
﹁いつぞやキロと約束したお姫様抱っことやらで街を一周すればよ
いではないか﹂
地下世界でマッドトロルに襲われた際、魔力欠乏を起こしたミュ
トを背負って宿に帰るときにクローナと約束した事を思い出し、キ
ロはカップをテーブルに置く。
﹁どうする?﹂
﹁絶対に頼めないだろうって思ってるのが、そのニヤニヤ笑いから
読み取れて腹が立ちます﹂
赤くなった顔で頬を膨らませ、クローナは紅茶を一気に飲み干し
た。
﹁シールズの襲撃もあるので、街中では無理です﹂
﹁だろうな。この件が片付いたらお姫様抱っこさせてもらおうか﹂
﹁してもらいましょうか﹂
﹁なんで果し合いみたいな言葉づかいなの?﹂
キロとクローナのやり取りに首を傾げながら、ミュトが口を挟む。
フカフカが呆れたように尻尾を強く一振りした。
1099
﹁照れ隠しであろう。突っ込んで聞いてやるな﹂
キロは紅茶を飲んで仕切り直し、聞き込みで得た情報を整理し始
める。
﹁聞き込みの結果、闇討ちは六件。五件は俺達が地下世界から戻っ
てくる前に起きた出来事で、六件目はカッカラ滞在中。それであっ
てるな?﹂
キロが確認すると、クローナは頷いた。
﹁私の日記と照らし合わせると、一件目は私達が守魔の大ムカデと
戦っていた頃だと思います﹂
﹁だとすると闇討ちが始まったのは半月くらい前か。俺達が姿を眩
ませたとシールズも判断できる頃だよな﹂
﹁闇討ちはキロ達とは無関係と証明されたわけだね﹂
意見が一致して、キロは話を進める。
﹁問題は闇討ちの内容だな﹂
闇討ちの方法を知る事が出来れば、シールズの手口や他の戦力に
ついても見えてくる。
キロ達が調べたところではシールズが単独で襲撃した事例は四件、
昼夜関係なく短時間で犯行に及んでおり、襲撃された冒険者は手を
落とされるなど重傷を負っている。戦闘力さえ奪えればいいと考え
ているらしく、死亡例はなかった。
問題は他の二件だ。
大質量の何かで体を叩き潰された冒険者と無数のひっかき傷で全
身が覆われ、喉と胸に刃物によるものと思われる深い刺し傷があっ
1100
た冒険者。
いずれも発見された時にはすでに死亡しており、犯人は分かって
いない。
﹁シールズ、じゃないよな﹂
原形を全くとどめない殺し方や、無駄な傷をつける殺し方がシー
ルズの性格とそぐわなかった。
事実、シールズによる犯行と確定している事件では必要最低限の
怪我を負わせるだけに留めている。
襲われた冒険者の証言では、シールズ本人が気乗りしない様子で
あり適当に戦っているのが良く分かったそうだ。馬鹿にされた、と
冒険者は腹を立てていたが、手加減されていたからこそ生き残れた
のだろう。
﹁死亡例の二つは明らかに殺意がある。手口も異なっているし、闇
討ちの犯人はシールズを含めて三人以上と見積もった方がいいな﹂
﹁うち一人は凄腕の殺し屋っていうキアラでしょうか?﹂
クローナの言葉にミュトとフカフカが揃って首を傾げる。
﹁凄腕の殺し屋?﹂
キアラを直接見た事がないミュトとフカフカに、キロはキアラに
ついて掻い摘んで説明する。
﹁証拠がないから懸賞金はかかってないらしいけどな。実際、窃盗
組織を追っていた冒険者で、俺がこの世界に来るきっかけになった
らしい革手袋の持ち主を殺した犯人だ、とキアラ本人が名乗った﹂
1101
キロがこの世界にやってくる瞬間を証言しており、現場にいた事
は確定している。
﹁有名な殺し屋なら、資料があるかもしれないね﹂
﹁ギルドか騎士団が持ってるだろうな。午後に足を運んで閲覧を希
望してみよう。多分、門前払いだろうけど﹂
シールズと通じている可能性があると目されているキロ達に捜査
資料を見せるとは思えないため、キロはあまり期待していない。
その時、喫茶店にいるキロ達に向かって走ってくる人影を見つけ
た。
キロ達が顔を向けると、人影は速度を落とし、速足で歩いてくる。
﹁師匠、探しましたよ!﹂
キロが女装を教えた冒険者の一人だった。
ミュトとクローナが唖然とする。
﹁女声作ってる⋮⋮﹂
女装冒険者の著しい技術力向上に戦慄する少女二人は置いておい
て、キロは軽く手を挙げて挨拶する。
女装冒険者は風で飛びそうになった麦わら帽子を片手で押さえ、
笑顔を見せる。
﹁本当に探したんですからね、師匠﹂
﹁何か用か?﹂
﹁もちろん用があってきたんですよ。師匠、シールズの関係者扱い
されてギルドの利用を禁止されてるらしいじゃないですか。みんな
心配してて、最低限の情報共有くらいはしておこうって話になった
1102
んですよ﹂
最新の捜査情報は漏えいできないが、すでに世間に知られてしま
っている程度の情報であれば、代わりに調べて持ってくるとの申し
出だった。
ありがたい申し出ではあったが、キロは女装冒険者の立場を心配
する。
﹁それは助かるけど、俺達に協力するとお前たちまでギルドの利用
を禁止されかねないだろ。本当にいいのか?﹂
﹁師匠!﹂
女装冒険者がキロの手を取り、両手で握る。
﹁新たな扉を開いてくれた師匠に報いるためなら、これくらいお安
いご用ですから!﹂
﹁よし、今すぐその口と新しい扉とやらを閉じろ﹂
1103
第二十話 晴れ時々
日が落ちた頃、一時宿に戻ったキロ達は借りた部屋で机に並べた
資料を読み漁っていた。
女装冒険者は変態趣味に目覚めてしまっても優秀な冒険者ではあ
るらしく、キロ達が欲しかった資料をすぐに用意して持ってきてく
れたのだ。
対価として要求されたのが化粧道具一式だった事にキロはげんな
りした。
ギルドの資料を複写してきたという女装冒険者お手製資料は、要
点をまとめてある上に重要な個所や同一の手口、凶器には印が付け
られ、非常に読みやすくまとめられている。
ギルドから選ばれるだけはある、とキロ達は資料を読みながら納
得した。
﹁現場の見取り図まであるけど、本当にあの人達の立場は大丈夫な
のかな?﹂
﹁読み終わったらこの資料は廃棄しておいた方がいいな。証拠がな
ければギルドを怒らせることもないだろ﹂
心配そうなミュトにキロは言い返して、女装冒険者に感謝しなが
ら見取り図を眺める。
クローナの世界の文字を読む事はできないため、ミュトと一緒に
見取り図ばかり眺めていたキロはある事に気付いた。
﹁キアラは二階や三階の窓から侵入する手口が多いな﹂
標的の私室が設けられている階層へ直接侵入し、一階に詰めてい
1104
る護衛をやり過ごして側近の護衛を奇襲、標的を始末する手口が非
常に多かった。
資料とにらめっこしていたクローナが口を開く。
﹁標的が一人のときは絞殺、戦闘があった場合はひっかき傷が多数
確認されてますね。それにしてもすごいですね。目撃者がゼロなん
て﹂
懸賞金を掛けられていない凄腕の殺し屋という触れ込みに偽りは
なく、犯行の瞬間を目撃した者はいなかった。
しかし、同一の手口による殺しが様々な町や村で起こり、すべて
の場所でキアラが目撃されている。
殺し屋として名が売れなければ仕事が来ないため、わざと人前に
姿を現しているようだ。
しかし、数か月前から犯行が一件を除いて確認されていない。そ
の一件も、窃盗組織を追っていた冒険者を殺害した件だ。
机の上に座り込み、尻尾の手入れをしていたフカフカが顔を上げ
る。
﹁窃盗組織に所属して、自営業としての殺し屋を廃業したのであろ
う﹂
﹁そんなところだろうな。殺し屋として名を売る必要が無くなった
から、本当の意味で暗殺専門になったんだろう﹂
長時間座っていたためにしびれてきた足を片足ずつ伸ばしながら、
キロは予想する。
ミュトがキロの太ももに視線を向け、すぐに逸らす。
﹁大きなもので潰された冒険者の事件は犯人につながる資料がない
みたいだね﹂
1105
﹁本当にないのか、極秘資料扱いで俺達にも見せられないのか分か
らないけどな﹂
女装冒険者にも最新の捜査資料は見せられないとあらかじめ断ら
れている。
︱︱少なくとも、シールズに加えてキアラもこの街にいるのは確
定か。
どちらも手練れであり、奇襲と暗殺に長けた者達だ。
気を引き締めないと、いつ襲われるか分かったものではない。
︱︱だというのに。
﹁クローナ、いつまで俺の膝の上に座ってるつもりだ? そろそろ
足がしびれてきたんだけど﹂
キロが膝の上に座って足をぶらつかせているクローナに問う。
クローナはなぜか勝ち誇った顔で笑みを浮かべた。
﹁資料も読み終わりましたし、お姫様抱っこで部屋の中を一周して
くれたら許してあげます﹂
今朝方、からかったうえで放置した事への仕返しのつもりらしい。
しかしながら、耳まで赤い顔で勝ち誇られてもキロは反応に困る
だけだ。
︱︱というか、いまは迂闊に立てない。
クローナが付けている香水のラズベリーに似た甘酸っぱい香りに
鼻腔をくすぐられながら、キロは視線を逸らす。
この距離で密着していればどうしても反応するのだ。
太ももで挟んでいるため気付かれてはいないようだが、立ち上が
れば隠しようがない。
お姫様抱っこの関係上、問題の部分はクローナから死角になる。
1106
しかし、端から見ているミュトの目は誤魔化せない。
キロは呆れた振りでため息を吐き、資料を再度確認しようと手を
伸ばす。
その時、フカフカが面白がるように尻尾で伸ばしたキロの手を叩
いた。
﹁この距離であれば、ミュトは小指の先ほどの隆起にも気付くぞ﹂
﹁︱︱こら、フカフカ﹂
ミュトが慌ててフカフカの首根っこをつまみ上げる。
愉快、愉快、とフカフカが笑いながら尻尾を揺らす。
フカフカの口を左右に伸ばして懲らしめながら、ミュトが恐る恐
るキロを窺う。
目があった瞬間、ミュトの顔が真っ赤になった。
﹁えと、服の中がどうなってるのかは知らないけど、破裂するよう
なものでもないと思うし⋮⋮﹂
︱︱地図師、おそるべし。
キロは恐怖と羞恥で顔色を青から赤へ、赤から青へと行き来させ
る。
ただ一人、話についていけていないクローナだけは上機嫌でキロ
の膝の上に座っていた。
資料を読み終えて、宿の一階に下りてみると昨日と同じく宿の主
を務める女が酒瓶を片手にグリンブルの肉で作ったカルパッチョら
しいつまみを食べていた。
今日はワインではなくウイスキーを飲んでいるらしい女は、早く
も酔いが回った赤ら顔でキロ達に横目を投げる。
1107
﹁夕食がまだなら作るぞ?﹂
﹁何を作れるんですか?﹂
﹁ツマミかワイン蒸し﹂
︱︱この人、筋金入りだ。
女の返答を聞いて苦笑したキロ達は、昼間に目をつけていた料理
屋があると嘘を吐いてもう一度宿を出た。
夜の通りを見回して、適当な方角へ歩き出す。
キロは視線で尾行の有無をフカフカに訊ねる。
フカフカが無言で首を振った。尾行はないらしい。
﹁不気味なくらい仕掛けてきませんね﹂
クローナが眉を寄せ、道の端から端まで視線を走らせる。
キロも同じように見回すが、やはり不自然な動きをする者はいな
い。
﹁闇オークションが始まる前には仕掛けてくるはずだ﹂
﹁いつ始まるかはわかりませんけどね﹂
最新の資料を閲覧できないため、ギルドが開催日を突き止めてい
てもキロ達に情報が届く事はない。
ミュトが心配そうにクローナを見る。
﹁滞在費は大丈夫なの?﹂
﹁そろそろ厳しいです。でも、ギルドが利用できない以上、依頼も
受けられませんし﹂
クローナが困り顔でため息を吐いた。
1108
キロはふと思いついて、ラッペンの郊外に広がる森へと視線を向
ける。外壁に阻まれ、見る事は叶わなかった。
﹁魔物の素材なり、薬草なりを手に入れて売るか?﹂
﹁街の外に出ている時にシールズが奇襲を掛けてきたら危険ですよ﹂
﹁逆だ。街の外にシールズをおびき出すんだよ。街の中にいても埒
が明かないだろ﹂
シールズをおびき出してしまえば、後はアンムナがアジトを奇襲
してくれる。
森に誘き出した後、適当に姿を眩ませるつもりだ、とキロは説明
する。
﹁ボク達はアシュリーを探している事になってるから、森の外に行
くのは不自然じゃないかな?﹂
﹁だから、金策を口実にするんだよ。朝の内だけ森に出て日銭を稼
ぎ、午後はアジトを探すふりをする﹂
待ちの姿勢に変わりはないが、積極的に誘い出す計画をクローナ
とミュトが慎重に思案する。
二つの大通りで作られた交差点を右折し、少し歩くと肉料理を出
しているらしい店の看板を見つけた。
話は料理を食べながら、と看板が指し示す店へ足を向けた瞬間だ
った。
上空からバラバラと人の手足が大通りに降り注いだ。
1109
第二十一話 ラッペン大通りの戦い
通りにいた人々は降ってきた人間の手足を見て硬直し、次の瞬間
には悲鳴を上げて逃げ出した。
ファフロツキーズ現象、などというオカルト用語が脳裏に浮かん
だキロだったが、キロ達を中心に半径五メートル以内に手足が降っ
て来ない事に気付く。
﹁︱︱シールズか!﹂
弾かれたように上空を見上げると、暗い夜空を背景にして屋根の
上に立つシールズがいた。
闇討ちにしては派手な登場に訝しむより早く、キロは声を張り上
げる。
﹁クローナ!﹂
キロに名を呼ばれたクローナが速度を重視して杖から魔力を引き
出し、シールズに向けて白熱する火球を打ち出した。
屋根の上にいたシールズを狙った火球はあっさりと避けられ、夜
の空へと高く昇った。
だが、キロもクローナも火球が避けられる事は織り込み済みであ
る。
︱︱これでアンムナさんがアジトに向かうはずだ。
合図が届いている事を願いつつ、キロはシールズを睨みつけ、駆
け出した。
シールズに違和感を持たれる事なく足止めしなければならない。
シールズが降らせた人間の手足が通行人を追い払ったため、大通
1110
りには空白地帯ができ始めていた。
大通りを横切ったキロは跳躍し、シールズの立つ民家の屋根に降
り立つ。
槍を構えるキロに対し、シールズは肩を竦めた。
﹁速攻を掛けてくるとは意外だね。人払いが完全に済むまでのんび
りお話ししようかと思っていたのに、台無しじゃないか﹂
﹁悪趣味な雨降らせやがって、のんびり話していられる環境かよ﹂
キロ達が立つ民家を挟んだ別の通りにも手足が数本転がっていた。
距離があるため、右腕か左腕かはわからなかったが、拾っても届け
先に困る物であることには変わらない。
﹁誰の手足だ﹂
﹁この街で襲った冒険者の手足だよ。防腐処理をあれこれ試してみ
たんだ﹂
練習にね、とシールズは明るい笑みを浮かべる。
﹁グリンブルでの実験で死蝋化の手順は完成しているんだけど、人
間相手に通用するかと思って、確認したんだ。半端な物ではあるけ
ど、場所を取らないしなかなか美しいとは思わないかい?﹂
シールズは宝物を自慢するような口ぶりで通りに転がる手足を指
し示す。
うんざりしたキロはため息交じりに言い返す。
﹁大事な物なら道端に捨てるなよ﹂
シールズが肩を竦めた。
1111
﹁半端な物だからね。誰かが拾って大事に飾ってくれるなら止めな
いけど、僕の手元に置いておくほどの完成度ではないよ﹂
シールズの審美眼に弾き出された手足をざっと数え、犠牲者数を
割り出したキロは眉を寄せる。
︱︱ラッペンだけにしては明らかに数が多いな。
﹁別の街で襲った分も含めてるだろ﹂
﹁それが今重要かい?﹂
シールズに聞き返されて、全部終わった後で検証すればいいだけ
だ、とキロは思い直す。
キロがシールズと会話している間に、大通りに面した店は裏口か
ら客を避難させた事を、クローナとミュトが手を振って知らせてく
れた。
シールズが横目にクローナ達を見て、短剣を取り出す。
﹁これで通行人を庇ってキロ君やミュトさんが怪我をする心配もな
くなった﹂
シールズが両手に短剣を構え、半身に構える。
﹁︱︱始めようか﹂
言葉を放った直後、シールズの姿が掻き消えた。
︱︱さっそくかよ!
キロはすぐさま民家の屋根を飛び下り、視界が開けた大通りに着
地する。
フカフカへ視線を向けると、シールズの特殊魔力を視認できるフ
1112
カフカは尻尾をわずかに右斜め前へ揺らした。
知らなければ見逃されてしまうほど微細な合図。
しかし、事前に取り決めた合図を見たキロの動きは早かった。
キロは躊躇なくミュト達に背中を向ける。
キロの後方の何もない空間から上半身を乗り出して水球を放とう
としていたシールズが、攻撃する前にキロに見つかった事実を前に
意外そうな顔をしていた。
キロは槍を薙ぎ、上半身へ切りかかるが、シールズはすぐに張っ
てあった特殊魔力の中に体を引っ込め、再び屋根の上に姿を現した。
﹁良く分かったね﹂
探るように目を細めて、シールズがキロを見つめる。
キロは無言で槍を腋に挟んで構え、自由になった左手に現象魔力
を集中させる。
︱︱手加減抜きでいこう。
キロは決意し、槍を握る手に力を込めた。
これまでのやり取りを見ても、シールズはキロ達を完全に格下と
して見ている。
確かに、キロ達三人が協力しても、実力ではシールズに敵わない
だろう。
だが、シールズは一つ勘違いしているのだ。
それは、キロ達がアシュリーの居場所を知らないと思い込んでい
る事。
キロ達がアシュリーの所在を知るためには彼を生け捕りにしなけ
ればいけない、とシールズは思い込んでいるのだ。
ただでさえ実力差がある中で、生け捕り前提の動きしかできない
ならば、キロ達の戦闘力は大幅に落ちる。
だが、キロ達にとって究極的に言えばシールズの生死はもはや関
係ない段階にあった。
1113
なぜなら、アンムナがアシュリーの回収に向かっているのだから。
キロは動作魔力を込めた足で大通りの石畳を強く蹴りつけ、加速
する。
﹁クローナ、水を!﹂
﹁了解です!﹂
キロの声に応え、後方からクローナが五つの水球を放った。
水球のうち二つはすぐに破裂し、霧となってクローナとミュトの
姿を覆い隠す。
三つの水球がキロの横を通り抜け、シールズへと向かった。
興味無さそうに水球に向けてシールズが手を突きだす。手の前に
は石弾が形作られた。
シールズの石弾が完成したタイミングを狙って、キロは左手から
雷撃を放つ。
クローナが放った水球を介して直進した雷撃は、シールズが作り
出した石弾を避雷針と認識したように直撃する。
しかし、キロが雷撃を繰り出すことを予期していたように、シー
ルズは石弾をその場に残して後方に大きく飛び退いていた。
雷撃を免れたシールズが短剣をキロの足元へ投げつける。
︱︱空間転移か。
短剣に空間転移の特殊魔力が込められていると予想して、キロは
右足に力を込め、左へ跳ぼうとする。
しかし、後ろから走り込んできたミュトがキロの右腕に抱き着い
て押しとどめ、短剣を左へ蹴り飛ばした。
左に蹴り飛ばされた短剣が掻き消え、シールズの手元に落ちる。
キロの右腕に抱き着いたまま、ミュトは小さく呟く。
﹁短剣はキロを左に誘導するための物だよ﹂
1114
おそらくはフカフカが見破ったのだろう。
キロは小声で礼を言って、槍を構え直す。
シールズが何かを深く考えるように腕を組んだ。
二度も空間転移を見破られたため、仕掛けがある事に気付いたの
だろう。
︱︱考える時間を与えるのは良くない。
再び駆け出そうとしたキロを、ミュトが引き止める。
﹁キロは補佐に回って。危なっかしいから﹂
少し胸に刺さる物がある言い方だったが、フカフカを連れている
ミュトの方がシールズに対する相性がいい。
渋々、前衛を譲ったキロを振り返ったフカフカが、まぁ見ていろ、
とばかりに尻尾を振った。
小剣を構えたミュトに、シールズが初めて警戒するように一歩引
いた。
﹁ミュトさんの戦い方は全く知らないんだよね。肩に乗っているイ
タチも気になるけど、どこの出身だい?﹂
シールズの問いかけを無視して、ミュトが左腕を横に突き出す。
﹁︱︱行くよ、フカフカ﹂
ミュトの一言に既視感を覚えて、キロは身構える。
次の瞬間、フカフカが強烈な光を放った。
戦闘力を見るラビルとの模擬戦で見せた、ミュトの目くらましだ。
身構えていたキロとクローナは対処できた。
フカフカの光をやり過ごしたキロが瞼を開くと、シールズは片目
をつぶった状態で周囲を見回していた。
1115
﹁カッカラでやられた時はまさかと思ったけど、やっぱりそのイタ
チは魔法が使えるんだね。面倒な生き物もいたものだ﹂
カッカラのギルドで戦闘した際にキロが使った目くらましから、
ミュトの行動を読んでいたらしい。シールズは片眼を固く閉じて目
くらましをやり過ごしたようだった。
しかし、ミュトの姿を完全に見失ったらしく、しきりに顔を動か
している。
それもそのはず、ミュトは特殊魔力の壁で姿を隠しているのだ。
対ラビル戦の再現をするように、ミュトが特殊魔力を張りながら
シールズに接近する。
シールズが事前に張った空間転移の特殊魔力を目視できるフカフ
カがシールズの死角を逐一ミュトに伝達し、見る見るうちにシール
ズとの距離を詰めていく。
その時、キロはミュトが張った特殊魔力の壁の変化に気付き、声
を張り上げた。
﹁︱︱ミュト、退がれ!﹂
だが、キロの声がミュトに届くより早く、シールズの手から水球
が放たれていた。
ミュトの作りだした特殊魔力の壁に阻まれ、水球はむなしく四散
する。
ミュトが後ろに跳躍して距離を取り、キロの前に立った。
舌打ちするミュトに、シールズが微笑みかける。
﹁面白い特殊魔力だね。一部分だけ夜明け前みたいに真っ暗になっ
てたよ﹂
1116
ミュトが姿を隠しながら接近する際に張った特殊魔力の壁の一部
が、他とは異なる明度であったため、居場所を見抜かれたのだ。
ミュトはシールズの指摘に再度舌打ちする。
キロはシールズの洞察力にうすら寒いものを感じた。
︱︱夜明け前⋮⋮ミュトの特殊魔力が時間に関係ありそうなこと
まで見抜かれたか?
切り札が少しずつ暴かれていく感覚に急かされながら、キロは打
開策を練る。
その時、ちらりと視界に入ったフカフカの尻尾の動きに、キロは
違和感を抱いた。
フカフカがキロに横目を投げてくる。
それだけで、何か策があるのだとキロが気付いた瞬間、左右を石
弾が通り抜けた。
ミュトが張った特殊魔力の壁を縫うように飛んで行った石弾は、
シールズに最も近い特殊魔力の壁の上部に衝突した。
特殊魔力の壁に衝突した石弾は破損しながらもわずかに上方向に
軌道を変え、なおも飛ぶ。
シールズの頭上を通り過ぎる軌道で飛んだ石弾だったが、攻撃の
かなめは石弾の〝中身〟にあった。
石弾に詰め込まれていた熱湯がシールズ目がけて降り注ぐ。
ミュトの特殊魔力があったために直前まで石弾を認識できなかっ
たシールズが、降り注ぐ熱湯から逃れようと飛び退く。
袖の長い服を着ていたことが幸いし、シールズは熱湯を浴びた服
の上からさらに自らが生み出した水を掛け、火傷を回避する。
シールズの動きを目で追っていたキロは眉を寄せた。
︱︱空間転移を上に張れば熱湯を回避できたはずなのに。
濡れてまとわりつく服が鬱陶しいのか、シールズが顔をしかめる。
しかし、シールズの視線は攻撃したクローナではなくミュトに向
けられていた。
1117
﹁そんなにボクが怖いの?﹂
ミュトが小剣を左右に振ってシールズを挑発する。
シールズは空間転移を二度も見抜いたミュトを警戒していたため、
直接的なダメージはさほどでもない熱湯を甘んじて受けたのだとキ
ロは気付く。
ミュトはシールズに心理的な揺さぶりをかけ、空間転移をした瞬
間を攻撃できるとほのめかしているのだ。
そして、フカフカがいれば本当に先制攻撃は可能なのだろう。
シールズはミュトの挑発に取り合わず、視線をクローナへ転じる。
キロとミュトの後方、大通りに面する料理屋の前にたたずむクロ
ーナは油断なく杖を構えていた。
シールズが盛大にため息を吐く。
﹁どうやら、本当に特殊魔力を張ってある位置が分かるみたいだね﹂
どういう事だとキロはミュトに視線で問う。
﹁クローナが立っている辺りには空間転移の出口が張られてないん
だよ﹂
ミュトが笑みを浮かべながら、キロの疑問に答えた。
シールズは両手に一本ずつの短剣を持つ。
﹁勘違いしているようだけど、そこに出口があるかどうかなんて些
細な問題だよ。この距離なら、ね﹂
言うや否や、シールズが水球を上空へ放り投げる。
﹁空間転移を使えばこういう事も出来るんだ﹂
1118
シールズの手元から一本の短剣が消え、投げ上げられた水球から
姿を現した。
キロ達の頭上を越え、クローナの元へと届く軌道だ。
キロがすぐに石弾で撃ち落とす。
その時、短剣を起点に石弾が飛び出してくる。
︱︱魔法や物に込めた特殊魔力で連続転移させてるのか!
この方法ならば特殊魔力が枯渇しない限り延々と遠距離攻撃を続
けることができる。
それなら、とキロが転移してきた石弾を石壁で隔離しようと現象
魔力を練った時、石弾から四方八方に水球が乱射された。
﹁まさかあの水球全部に特殊魔力が込められてるんじゃないだろう
な⁉﹂
﹁そのまさかみたい!﹂
キロとミュトは同時に駆け出し、クローナの元へ走る。
四方八方へ散った水球のすべてから、さらに複数の水球が飛び出
す。
無数に飛び交う水球から、とどめとばかりに石弾がクローナに向
けて射出される。
︱︱たった一人で全方位からの一斉攻撃って、ありかよ!
動作魔力で加速したキロだったが、クローナの表情を見た瞬間、
槍の石突きを地面に突いて支柱にすると、九十度方向を転換する。
そして、横を走っていたミュトを横から抱え上げると、一気に加
速した。
無数の石弾に狙われているクローナを無視して離脱したキロに、
シールズが意外そうな顔をする。
だが、キロはクローナを見捨てたわけでは断じてない。
キロがミュトとフカフカを連れて離脱したのを見て、クローナが
1119
口元にかすかな笑みを浮かべる。
﹁︱︱そんな小細工しなくても、全方位攻撃くらいできますよ!﹂
啖呵を切った瞬間、クローナの足元から大量の砂が螺旋を描いて
巻き上がる。
風とも水とも単なる石壁とも違う砂嵐は、わずかに加えられた水
と合わさり、硬度ではなく粘度で無数の石弾を受け止めた。
直後、砂嵐はさらに大量の水分が加えられ、泥と化す。
動作魔力を通されたらしい泥の螺旋が収束し、鞭のようになった。
クローナが腕を横に振り抜くと、泥の鞭は大通りをなめるように
薙ぐ。
しかし、シールズに向かう泥の鞭は突然半ばから千切れ飛んだ。
シールズが、設置していた空間転移の魔力を流用して泥の鞭の一
部を転移させたため、先の方まで動作魔力が通わなくなったのだ。
﹁泥の鞭では全方位からの攻撃とは言えないよ﹂
シールズが肩の高さに両手を上げて呆れを示す。
クローナはシールズの態度を笑顔で受け流した。
﹁何言ってるんですか。ちゃんと全方位攻撃です﹂
怪訝な顔をしたシールズがクローナの言葉の意味に気付いてキロ
を振り返った。
すでにキロは攻撃モーションに入っている。
︱︱地面を覆う泥水と電撃で全方位だろッ!
キロの手元から放たれた紫電が泥水に直撃する。
﹁ちッ!﹂
1120
シールズが舌打ち一つを残して空間転移した。
長年の経験からくる反射だったのだろう。
辛くも電撃を回避し、大通りの端に現れたシールズがキロ達を見
て目を見開く。
なぜなら、ミュトの姿がなかったからだ。
﹁︱︱こっちだよ﹂
まだ空間から全身が出てこれていないシールズに、ミュトが後ろ
から声を掛ける。
愛用の小剣を大上段に構えていたミュトは、強く一歩を踏み込む
と共にシールズの腕を目掛けて小剣を振り降ろした。
シールズの腕に食い込む寸前、小剣の切っ先が掻き消える。
﹁キロ君から聞いていなかったのかい?﹂
カッカラのギルド内での戦闘でキロの槍相手にも使った、空間転
移による武器破壊だ。
すでに全身を空間から出したシールズが笑みを浮かべる。
だが、ミュトもまた、笑みを浮かべていた。
﹁もちろん、聞いてたよ﹂
トンッと、ミュトが後方に飛び退きながら、シールズを指さす。
﹁︱︱捕まえた﹂
怪訝な顔をしたシールズはミュトを追いかけようとした時、気付
いただろう。
1121
ミュトの特殊魔力で作られた不可視の枷に嵌められて、足が微動
だにしない事に。
﹁でかした、ミュト!﹂
シールズに向けて、キロはクローナと共に魔法を発動する。
キロの声に振り返ったシールズは空間転移の魔力で逃れようとし
たようだが、驚愕の面持ちで特殊魔力の足枷を見つめた。
キロは賭けに勝ったことを確信する。
︱︱やはり、ミュトの特殊魔力は転移できないみたいだな。
頭の中で立てていたミュトの特殊魔力に関する仮説に信頼を強め
ながら、キロは石弾を放つ。
シールズが焦りの表情で特殊魔力を発動し、とんでくる石弾を次
々に空間転移させる。
アシュリーの居場所を聞き出すために生け捕りにしようとするは
ずのキロ達が、殺傷力のある石弾を撃ってくるとは予想していなか
ったのだろう。
﹁いつまで転移させられるか、試させてもらおうか!﹂
﹁あの世への片道切符を大盤振る舞いです!﹂
キロはクローナと共に、シールズの特殊魔力を枯渇させる勢いで
石弾を放ち続ける。
直撃間近で次々に転移した石弾が、大通りに転がり始めた。
しかし、キロ達も必死だった。
ミュトの特殊魔力は効果時間が短いのだ。
効果が切れる前にシールズを無力化しなくてはいけない。
キロがさらに石弾の数を増やそうとした時だった。
ミュトがキロの後ろを指さし、声を張り上げる。
1122
﹁二人とも、後ろ!﹂
シールズが石弾を後方に転移させたのかと思い、キロは瞬時に振
り返る。
だが、瞳に映ったのは石弾ではなかった。
﹁︱︱有刺鉄線⁉﹂
先端に短剣を括りつけた有刺鉄線がキロ達に向かって飛んできて
いた。
意表を突かれながらも、キロは槍を一回転させて有刺鉄線の先に
付いた短剣を弾き飛ばす。
しかし、有刺鉄線は一度大きく波打つと先端の短剣をキロに向け
る。
込めた動作魔力を巧みに調節しているらしく、有刺鉄線の先に付
いた短剣が蛇の頭のようにキロへ跳びかかった。
弾いても埒が明かないと見たキロは、シールズに撃ち込む予定だ
った石弾を短剣へと衝突させ、破壊する。
錘の代わりになっていた短剣が破壊されたためにバランスを崩し
た有刺鉄線がするすると離れて行った。
キロは有刺鉄線の先へと視線を転じる。
﹁⋮⋮キアラ﹂
有刺鉄線を操っていた女を見つけたキロは、名前を呟いた。
1123
第二十二話 それぞれの相性
﹁わたくしの事を覚えてらっしゃったんですね﹂
キアラが無感動に言いながら、手繰り寄せた有刺鉄線の先に予備
の短剣を括りつける。
ちらりとキロ達の後ろにいるシールズを見て、キアラが舌打ちし
た。
﹁まだ生きているとは⋮⋮。到着が早すぎましたか﹂
︱︱そういえばシールズの事を嫌っていたな。
キロは一か月前、キアラと初めて対峙した時を思い出す。
﹁クローナは攻撃を続けて、シールズの特殊魔力を消費させてくれ﹂
キロはキアラに槍の穂先を向けた。
石弾をシールズ目がけて連射しながら、クローナが心配そうにキ
ロを見る。
﹁手練れのはずですよ?﹂
﹁気を付けるさ﹂
逃走にも利用できるシールズの特殊魔力を削るのが最優先と考え
たのはキロだけではないらしく、クローナは心配そうにしながらも
頷いた。
﹁ミュトさん、こっちへ﹂
1124
クローナに言われるまでもなく、ミュトがキロ達の元へ走ってく
る。
﹁ミュト、武器は?﹂
﹁キロが使ってた前の槍と同じだよ。空間転移で壊された﹂
高かったのに、と恨みがましくシールズを睨みつけるミュトの手
には、刃が根元近くから折れたようになくなった小剣が握られてい
る。
キロの槍とは違って短すぎるため、折れてしまっては鈍器として
も使い勝手が悪い。
未練がましく小剣を見つめたミュトが腰の鞘に収める。
﹁ミュト、特殊魔力を動作魔力と同じように物へ込めた事はあるか
?﹂
ミュトが不思議そうにキロを見上げる。
通常、動作魔力以外の魔力を意図して物に込める事はない。
キロがクローナと特殊魔力の正体を確かめるため最初に実験した
時も、単体で何らかの効果を及ぼすか、さもなければ物に纏わせる
かの実験しかしていない。
キロとクローナは未だに不明な特殊魔力の効果を確かめようと物
に込めた事もあるが、つい最近まで破壊不可能な透明の壁を作り出
す特殊魔力だと勘違いしていた。
ミュトがわざわざ物に込める実験をするとは考えにくかった。
しかし、キロの予想に反して、ミュトは頷いた。
﹁一度武器に込めた事があるよ。間違えただけだから、ほんの少し
だけど﹂
1125
キロはキアラの動きを監視しながら、ミュトに追加の質問をする。
﹁その武器、壊れてたか?﹂
﹁壊れた武器を使うわけがないでしょ﹂
変な質問だ、とミュトが首を傾げる。
だが、キロにとっては現状を有利にする切り札を作り出せるかも
しれない質問だった。
﹁その武器、動かせたか?﹂
キロの質問に一瞬きょとんしたミュトは、キロが言わんとすると
ころを察したらしい。
石弾を転移させて防御に徹し続けるシールズを振り返り、ミュト
は小さく呟く。
﹁⋮⋮任せて﹂
﹁任せた﹂
ミュトがシールズに向けて石弾を放つのと、キアラが駆け出した
のは同時だった。
クローナとミュトの二人がシールズに攻撃した直後ならば、キロ
との一対一に持ち込めると踏んだらしいキアラは、短剣付き有刺鉄
線を振り回し、キロを狙う。
三メートルほどの長さに伸ばされた有刺鉄線には動作魔力が込め
られてあるらしく、単純に振り抜いただけではありえない速度でキ
ロに迫った。
︱︱対処しにくい武器だな。
繊細に動作魔力を調節しなければ扱う事も難しい武器だが、防が
1126
れにくい武器でもある。
キロの持つ槍などで切り落とそうにも鉄線は丈夫で歯が立たず、
柔軟性があるため盾などで防いでもまわりこまれてしまう。
戦った相手が傷だらけで死ぬのも納得のえげつない武器である。
しかし、ミュトとの会話中に対処方法を考えてあったキロは、焦
ることなく有刺鉄線に向けて電撃を放つ。
予想以上に有刺鉄線の動きが早かったため中途半端な威力の雷撃
にしかならなかったが、有刺鉄線を直接に手で持っているキアラに
電気が届いた。
キアラが弾かれたように有刺鉄線を手放し、動作魔力の供給が絶
たれた有刺鉄線が途端に勢いを失って地面に落下する。
﹁これが雷の魔法⋮⋮。なんとも嫌な魔法ですね﹂
電気伝導率の良い有刺鉄線はキロの雷撃にとって最高に相性のい
い武器だ。
だが、キロはあまり喜んでもいられなかった。
雷撃の魔法は発動に現象魔力を多く必要とする。
すでにシールズ相手にも何度か使用しているため、連発すればキ
ロの魔力が枯渇する恐れもあった。
︱︱雷撃に頼らず、こちらから距離を詰めて攻撃するべきか。
キロが槍を両手で持ち、突撃体勢を作った直後、肉を打つ湿った
鈍い音が響いた。
眉をピクリと動かしたキアラがキロの背後に視線を転じ、目を丸
くする。
﹁シールズ、その怪我⋮⋮﹂
キアラへの警戒を解かず、キロは背後のシールズを確認する。
肩から血を流してうずくまるシールズの姿があった。
1127
シールズ本人も驚いた表情で出血する肩を抑えようとし、痛みに
唇を噛みしめる。
予想が当たった核心に、キロは笑みを浮かべた。
ミュトの特殊魔力をシールズが空間転移させられない事はすでに
足枷で確認してあった。
だからこそ、キロは別の仮説を立てたのだ。
すなわち、ミュトの特殊魔力を込めれば空間転移させられない物
体が出来上がるのではないか、と。
キロはミュトに、魔法で生み出した石弾に特殊魔力を込めて撃ち
出すよう、暗に指示したのだ。
ミュトがキロを肩越しに振り返り、片目を閉じる。
キロはミュトに微笑み返し、キアラとシールズに声を掛ける。
﹁これで俺達の方が有利になった。投降し︱︱﹂
﹁ははは、キロ君、それはないよ﹂
キロの投降勧告を遮って、シールズが笑い出す。
肩を押さえていた手をだらりと下げ、ゆらりと立ち上がったシー
ルズはキロを睨んだ。
﹁侮っていたことは認めるよ。手加減もしていた。けれど、投降?
獄中で芸術作品が作れるのかい? 無理だろう? それなら僕は
君達をこの場でバラバラにして殺して、別の素材を探しに行くよ﹂
絶えず浮かべていた余裕の表情がシールズから失われていた。
代わりにシールズの瞳に浮かぶのは明確な敵意だ。
今までの、素材を吟味するような眼ではなく、キロ達を排除する
べき敵として認識した証拠だった。
空間転移の特殊魔力を破られた事でキロ達の危険性を認識し、趣
味よりも実益を取ったのだ。
1128
シールズが片手を挙げる。
手加減なしの一撃が来る、とキロ達は身構えた。
その時、パンっという破裂音と共に夜空が明るくなった。
反射的に全員が視線を向けた先に、赤い花火が咲いていた。
﹁何かの合図?﹂
人口密集地であるラッペンの街中に上がった花火に、シールズと
キアラが怪訝な顔をする。
だが、キロは夜空に上がった花火の意味を知っていた。それがア
ンムナからの〝アシュリー奪還成功〟を告げる合図であり、〝ギル
ドから冒険者がアジトに向かって出発した〟事を知らせている事も。
唐突に、クローナが空に向かって杖を振り上げる。
﹁キロさん、行きますよ!﹂
﹁よし、来た!﹂
クローナの杖から一瞬にしてすべての現象魔力を吸い出され、キ
ロ達の頭上には小さな家ならば飲み込めそうなほど大きな水の塊が
出現する。
シールズ達がクローナの生み出した巨大な水の塊に気付き、防御
しようと動き出した直後、キロは巨大な水の塊に両手を突き入れた。
キロのナックルからありったけの動作魔力が引き出され、水の塊
に伝播する。
次の瞬間、巨大な水の塊が弾け飛び、霧状に降り注ぐ水が周囲一
帯を白く染め、自らの手さえ視認できないほどの濃霧を作り出した。
それは、キロ達があらかじめ打ち合わせてあった撤退の手順通り
の状況だった。
1129
第二十三話 アジト前の攻防
魔法で作った即席の濃霧を目くらましに、キロ達は離脱を開始す
る。
向かう先はシールズ達のアジトだ。
ギルドから冒険者が多数アジトに向かっている事を考えれば、相
対的にギルド自体の守りは薄くなる。
なにより、アシュリーを奪還したアンムナがギルドにいるため、
シールズに狙われている今の状況でギルドに向かうのは良くない。
アジトを襲撃する冒険者達と合流するのが最も戦力を確保できる
ため安全だと踏んで、キロ達は動作魔力を使って濃霧の中を駆け抜
ける。
﹁ミュト、道案内を頼む!﹂
土地勘のないラッペンの街であろうと、聞き込みをする際に一通
り歩いただけで地図を頭に入れているミュトに先導を頼む。
﹁フカフカ、シールズの特殊魔力が張られているかもしれない。見
つけ次第、避けるように指示をくれ﹂
﹁心得ておる﹂
ミュトの肩に乗ったまま、フカフカが目を凝らす。
濃霧を抜けたキロ達は、シールズとキアラに追われていないかを
確認し、裏道へ飛び込んだ。
シールズがばらまいた手足のせいで人通りのなくなった通りを駆
け抜け、郊外にある倉庫群を目指す。
ギルドとアジト、自分達の居場所を考えれば、アジトに辿り着く
1130
のは冒険者達の方が先だろう。
﹁私達が到着した時には戦闘が始まっていると思います。もしかす
ると、紛れ込んでいる諜報員のせいで同士討ちしているかも﹂
ギルドの内情を探っていた諜報員の姿を思い出しながら、クロー
ナが心配事を口にする。
フカフカが自信満々で鼻を鳴らした。
﹁シールズの特殊魔力を纏っておる輩が敵であろう。我ならば見抜
ける。案ずるな﹂
﹁乱戦になっていたら、一度ギルドに引くよう進言しよう。諜報員
が暴れるという事は倉庫を調べられたら不味いって事だから、窃盗
組織と倉庫の関わりやアンムナさんが倉庫に奇襲をかけた正当性を
主張する材料がそろうはずだ﹂
キロの言葉にクローナとミュトが頷く。
シールズ達が追ってきていないかを確認しようとキロは振り返り、
屋根の上を走るキアラを見つけて舌打ちする。
キアラもキロ達を見つけたらしく、シールズへの合図なのか有刺
鉄線に動作魔力を通し、夜空へ垂直に伸ばした。
﹁いきなり逃げ出すとは思いませんでした。女装変態冒険者だけあ
って、とんだ腑抜けですね﹂
﹁一か月も前の事を持ち出すな!﹂
キアラの挑発に言い返しながらも、キロ達は足を止めない。
キロはクローナを見る。
﹁このままだと追いつかれる。もう一度、霧を作れるか?﹂
1131
キロの問いかけにクローナは首を振り、杖を掲げる。
リーフトレージで覆われた緑色の杖からは光が失われており、魔
力の蓄積量がゼロである事を示していた。
﹁体内魔力はまだ一切使ってませんから、霧を作ること自体は可能
です。でも、走りながらだと即時発動は無理です﹂
﹁水球を作ってる間にキアラが対処してくるか。仕方ない﹂
キロはキアラとの距離を目測し、一歩で跳躍して屋根の上に飛び
乗った。
通りを走るミュト達に並走しながら、キロは後方の屋根を走るキ
アラを振り返る。
︱︱まだ距離はあるけど、この様子だとすぐに追いつかれるな。
一軒ごとに高さも角度も様々な屋根の上を、キアラは最短ルート
で走ってくる。
別の家の屋根に飛び移る際も無駄に高く跳び上がらず、走ってき
た勢いも一切殺さない。
洗練された動きは動作魔力の扱いに長けている事を物語っていた。
だが、最短で走ると分かっているならば、着地点も予想しやすい。
キロは別の屋根へと飛び移りながら、空中で一回転して槍を振り
抜く。
まだ十メートル以上の距離があるにもかかわらず、無駄な動きを
するキロにキアラが怪訝な顔をした。
槍の穂先が空を切り、空気の代わりに圧縮した現象魔力を線とし
て残す。
キロが屋根に着地した瞬間、槍が描いた軌跡に沿って炎が出現し
た。
キロの後を追っていたキアラが苦い顔をする。
空中に残された炎の軌跡が邪魔で、キアラはルート変更を余儀な
1132
くされたのだ。
遠回りを強いる炎の置き土産を、キロは走りながら次々に残す。
徐々にではあるが、キアラとキロ達の距離は離れていく。
距離が十五メートルほどになった時、キアラが唐突に足を止め、
屋根から通りに飛び降りた。
諦めたのかと思えば、キアラは飛び降りてすぐの民家の窓を割り、
中へと飛び込む。
︱︱おいおい、まさか民家の中を伝ってくる気じゃないだろうな。
キロはキアラの居場所を知るため、通りに飛び降りてミュトに並
走する。
ミュトの肩の上ですでに耳を澄ませていたフカフカが静かに口を
開いた。
﹁あやつ、窓や壁を破壊しながらとんでもない速度で向かってくる
ぞ﹂
キロに障害物を設置されないよう、家の中に姿を隠しながら迫っ
てくる腹積もりらしい。
﹁はた迷惑な。壊される家の住民の事を考えろよな﹂
毒突きながら、キロはミュトに横道を指差した。
大通りに面した民家を伝っている以上、キロ達が別の通りに逸れ
てしまえば家から出てくるしかない。
家の中にいては大通りの状況を逐一把握する事も難しく、キロ達
が何度も道を逸れてしまえばキアラを撒けるのではないか、という
打算もあった。
﹁この先の家、三件目と四件目の間に人が一人通れるくらいの隙間
があるから、そこを曲がるよ﹂
1133
ミュトが抜け道を指示してくる。
キロはわずかに速度を落とし、クローナの後ろに付いた。
ミュトが指示してきた抜け道は細く、平時は隣接する店で廃棄さ
れたゴミを一時的に置いておく場所だった。
都合よく放置されているゴミはほとんどない。
キロ達は素早く抜け道に飛び込み、駆け抜ける。
大通りと並走する道に出ると、すぐにミュトが次の抜け道を指差
した。
たった一度、聞き込みついでに見て回っただけだというのに大し
た記憶力だ。
迷子になりやすい質のキロが感心しているとはつゆ知らず、ミュ
トは次々に抜け道を指示してくる。
一般人とはほとんど出くわさなかった。
誰しもが家や店の中に閉じこもり、息を殺しているのだろう。
しきりに耳を動かしていたフカフカが顔を上げる。
﹁キアラを撒いたようである。どうする?﹂
﹁このままアジトのある倉庫に向かおう。まだ冒険者達はそこにい
るはずだ﹂
キアラを撒くためにかなり大回りした事もあり、時間がかかって
いたが、キロはアジトを目的地に定めた。
目的地を見定めようと、顔を前に向ける。
近付くにつれて冒険者が戦っているらしい剣戟の音が風に乗って
聞こえてきた。
キロ達は一瞬だけ視線を交わし、武器を構える。
通りを曲がり、倉庫群を走り抜けた先で乱戦が行われていた。
冒険者達は共通の赤い布を腕に巻いている。敵味方を判別するた
めの物だろう。
1134
しかし、キロ達の予想通りの展開だったらしく、諜報員と思しき
冒険者がギルドの冒険者へと剣を振るっていた。
︱︱敵味方合わせてざっと五十人か。
倉庫前の広い空間で行われている乱戦の参加者を素早く数え、キ
ロはフカフカを横目に見る。
﹁⋮⋮我が見る限り、諜報員は七名である﹂
﹁ミュトが使えそうな武器を持ってる奴から行こうか﹂
﹁援護するね﹂
﹁かっこいいところ期待してますよ﹂
ミュトとクローナが立ち止まり、魔法の準備をし始める。
キロは大きく一歩を踏み出し、槍を両手で握った。
踏み込んだ足に力を込めた瞬間、後方からフカフカが乱戦の中の
一人を照らし出す。
いきなり強烈な光で照らし出された小剣と短剣の二刀流の男は、
面食らったように一瞬動きを止める。
﹁︱︱まずは一人目!﹂
キロは槍を一回転させ、逆袈裟に二刀流の男を斬り上げる。
走り込んできた勢いのままに二刀流の男の横を通り抜け、右足を
軸に反転、回し蹴りの要領で二刀流の男の背中を蹴り飛ばす。
動作魔力を込めた蹴りを叩き込まれた二刀流の男は、クローナと
ミュトの元へと飛んでいく。
咄嗟の事で動作魔力を練るのが間に合わなかったのか、二刀流の
男は蹴り飛ばされた勢いのままクローナの横を通り抜け、壁に激突
して気絶した。
二刀流の男の武器を回収しに動くクローナを横目に見ながら、キ
ロは次の諜報員に向けて跳躍する。
1135
次の諜報員は幅広の長剣を振るって冒険者二人と切り結んでいた。
横から乱入したキロは手元で反転させた槍の石突きで突きを放つ。
それなりに実力があるのか、キロの突きを見切って諜報員は体を
捻ろうとする。
しかし、キロは手元の槍に動作魔力を発動し、槍だけを加速させ
て諜報員の肩に命中させた。
﹁くっそ、速度ずらしか﹂
悔しさと痛みに顔を歪めた諜報員は、それでも反撃に幅広の長剣
を振りかぶる。
しかし、キロはすでに別の諜報員へと目を向けていた。
眼中にないと言外に告げるキロの態度を見て頭に血が上った諜報
員が幅広の長剣を振り降ろそうとした時、横合いから飛んできた石
弾が諜報員の腹に命中した。
見なくても、クローナが放った石弾だとキロにはわかる。
幅広の長剣を扱う諜報員と切り結んでいた冒険者にすれ違いざま
に礼を言われながら、キロは人ごみの合間を縫う。
適当に目を付けた冒険者の背中で姿を隠し、キロは手斧を振り回
す諜報員に奇襲を掛けた。
冒険者の背中という死角から攻撃を仕掛けてきたキロに驚く手斧
の諜報員の足を槍で払って転ばせ、鳩尾に踵を叩き込む。
うずくまる手斧の諜報員の頭を、キロは槍の柄で勢いよく打って
昏倒させた。
瞬く間に三人を沈めたキロ達を脅威と見なした諜報員達が連携を
取るべく一か所に固まる。
しかし、一か所に固まってしまったために冒険者達が周囲から一
斉に攻め立て、次々に昏倒させていった。
﹁師匠、遅いですよ!﹂
1136
キロの姿を見て駆け寄ってきた女装冒険者が文句を垂れる。
﹁こんな時でも女装してるのかよ﹂
﹁聞き込み調査中に招集掛けられたんで﹂
破けたスカートを少し気にしている様子だったが、女装冒険者に
怪我はなかった。
紛れ込んでいた諜報員を片付けた事で窃盗組織の構成員に集中で
きるようになった冒険者側が攻勢に移る。
キロは周りを見回し、他の女装冒険者を探すが、見当たらない。
﹁他の奴らはどうした?﹂
﹁何人かの冒険者と一緒に倉庫の中へ。壁に大穴が開いてたんでそ
こから侵入したはず︱︱﹂
女装冒険者が指差した時、大穴から女装した六人を含む冒険者達
が転がり出てきた。
何事かと眉を寄せる間もなく、大穴から男が出てくる。
﹁何人いるんだ。まったく﹂
冒険者達を見て舌打ちした男に、キロは見覚えがあった。
︱︱オークション会場で見た紳士風の男?
紳士風の男もキロに気付き、目を細める。
﹁また面子潰しに来たのか? シールズに命じて殺しに行かせたは
ずだが、あいつまた手加減したんだな。まさか、この騒ぎもお前ら
の仕業か?﹂
1137
紳士風の男は騒がしい倉庫前を見て、ため息を吐く。
﹁まあいいか﹂
紳士風の男が正面に手をかざす。
倉庫前が一瞬静かになった。
なぜなら、紳士風の男の前に、石でできた腕が五本、出現したか
らだ。
それぞれが大の男を難なく握り潰せそうな石の手に今度は丸太の
ような石の棍棒が握られる。
﹁︱︱潰れておけ﹂
紳士風の男が呟いた瞬間、五つの石の棍棒が一斉に振り降ろされ、
倉庫前にいた冒険者を次々に叩き潰し始めた。
まるで虫けらでも潰すように、石の棍棒が冒険者達を叩き潰す。
圧倒的な質量と込められた動作魔力の前には鉄の盾など何の効果
もない。
﹁固まるな、散れ!﹂
冒険者の一人が叫ぶが、窃盗組織の構成員の動きの方が早かった。
倉庫前にいた冒険者達を包囲し始めたのだ。
﹁ミュト、クローナ、退路を確保!﹂
冒険者達の後方にいたキロ達と女装冒険者は包囲される前に退路
の確保に動く。
包囲するために向かってくる窃盗組織の構成員に向けて、キロは
石弾を放ちながらクローナの隣に並ぶ。
1138
クローナがキロと同じく石弾を放ちながら、口を開く。
﹁撤退した方がいいと思いますけど﹂
﹁冒険者達がこっちに来てくれないと、どうにもならないよ﹂
キロとクローナの撃ち漏らしにミュトが小剣で応戦し、斬り伏せ
る。
ミュトが肩越しにキロを振り返った。
﹁左右どちらかの圧力を減らさないと冒険者達の動きが取れないっ
て﹂
フカフカの分析らしきことをそのままキロに伝えて、ミュトが冒
険者達の左側を指さす。
キロは女装冒険者に視線を向けた。
﹁他の女装連中もこっちに来てる。退路の死守、頼めるか?﹂
﹁七人揃えば何とかいけると思います﹂
流石に真面目な顔で、女装冒険者が請け負った。
キロはクローナと視線だけで意思疎通し、退路へ走ってくる女装
冒険者の周辺にいた窃盗組織の構成員を狙い撃ちした。
走りやすくなった女装冒険者達が一気に加速し、キロ達の元へと
たどり着く。
﹁ここは任せた﹂
﹁男の意地も女の度胸も見せつけてあげてくださいね﹂
クローナが皮肉なのか激励なのか判断のつかない言葉を女装冒険
者達に告げる。
1139
キロは苦笑して、駆け出した。
﹁ミュト、前衛を変われ﹂
キロはミュトを追い抜き、冒険者達の左を包囲しつつある窃盗組
織の面々へ切り込む。
たった三人で切り込んできたキロ達を見て余裕の表情を浮かべた
五人の構成員が武器を構える。
﹁クローナ、水!﹂
﹁向かって左から行きますよ!﹂
キロの一言に応じて、クローナが水球を向かって左の大男に放つ。
顔面を狙って飛んできた水球を避けたためにできたわずかな隙を
見逃さず、キロは槍を地面と水平に構えて飛び込んだ。
大男の腹に槍の柄を合わせたキロは、動作魔力を込めて大男を弾
き飛ばし、今度は槍にだけ動作魔力を込めて右にいた女に突きを放
つ。
女は小盾で防ぐが、横から飛び蹴りを放ったミュトに蹴り飛ばさ
れた。
反動で一瞬空中に静止したミュトを狙って残りの三人が襲い掛か
る。
しかし、ミュトの下から槍の広い間合いを生かしたキロに足を払
いのけられ、バランスを崩した所をクローナの石弾によって意識を
刈り取られた。
巧みな連携攻撃に目を剥く周囲の反応を気にせず、キロ達はさら
に攻勢を強め、冒険者達の左側をわずかに動きやすくした。
キロ達の狙いに気付いた冒険者達の一部が加わり、左側を完全に
開放する。
1140
﹁退路は確保してあります。一斉に引いてください!﹂
クローナが女装冒険者達を指さすと、口々に礼を言って冒険者達
が退路へ殺到する。
しかし、紳士風の男が操る巨大な石の腕が冒険者達に追いすがっ
ていた。
﹁フカフカ、あの石の腕を止める方法を教えろ。もう喋っても誰も
気にしない﹂
キロがフカフカに問うと、石の腕を睨みつけていたフカフカが口
を開く。
﹁地面に這わせた糸で動作魔力を送り込んでおる。断ち切れ﹂
キロは地面に目を凝らし、石畳と同じ灰色に塗られた糸を見つけ
る。
先端を尖らせた石弾で糸を切ろうとした時、倉庫の屋根に人影が
出現した。
人影は群れる冒険者に目も向けず、キロを見つけ出してにたりと
笑う。
﹁見つけたよ、キロ君﹂
︱︱こんな時にアジトへ帰ってくるなよ、シールズ!
屋根の上にいたシールズが夜空に手をかざすと同時、半径一メー
トルほどの炎の球が出現した。
シールズが手を振り降ろすと、炎の球が一直線にキロ達へ向かっ
て飛ぶ。
視界の端でミュトが動いたことを確認したキロは、石の腕に動作
1141
魔力を送り込む糸に向けて石弾を放った。
キロの石弾が糸を断ち切るのと、シールズの炎の球がミュトの特
殊魔力の壁に防がれる音が重なる。
豪快に飛び散る火の粉の中に、有刺鉄線に括りつけられた短剣を
見つけたキロは慌てて槍で打ち返した。
﹁ネズミみたいにちょこまか逃げないでください、女装変態!﹂
瞳を怒らせたキアラが有刺鉄線を引いて短剣を引き寄せる。
女装は生き甲斐だ、と言い返す声が退路からわずかに聞こえてき
た。
キロは冒険者達の退避状況を確認しようと振り返る。
ちょうど、シールズが転移してくるところだった。
﹁師匠、早くこっちへ!﹂
窃盗組織の手練れ三人の中に取り残されたキロを見て女装冒険者
達が声を張り上げる。
シールズがうるさそうに女装冒険者達を振り返り、地面と水平に
手を振り抜いた。
一瞬にして、瓦礫が降り注ぎ、女装冒険者達との間に瓦礫の山が
築かれる。
﹁昨夜のうちに張っておいてよかった。備えあれば憂いなしってね﹂
アジトではない倉庫の一つがガラガラと崩れていくところを見る
と、シールズは倉庫を空間転移させたのだろう。
﹁これで退路は塞いだよ、キロ君﹂
1142
シールズがキロを睨みつけ、ゆっくりと口を開く。
もう逃がさない、と。
1143
第二十四話 倉庫の中
﹁先に離脱して応援を呼んで来てくれ!﹂
キロは瓦礫の山の向こうにいる女装冒険者達へ頼み、シールズを
睨んだ。
︱︱応援が来るまで生きてられたらいいけど。
シールズ、キアラ、紳士風の男の手練れ三人に加え、倉庫内から
出てきた者を含む窃盗組織の構成員が全部で十五名。
対するキロ達は三人と一匹である。
﹁キロさん、携帯で写真とか撮りませんか。題名は絶体絶命、なん
て﹂
﹁クローナ、それ笑えないよ﹂
クローナとミュトが引き攣った笑みを浮かべながら、言葉を交わ
す。
﹁救いがあるとすれば、シールズが殆ど特殊魔力を使い切っている
ってところだけど﹂
﹁倉庫の中は分からぬが、この辺りには三か所、シールズの特殊魔
力が張ってあるようだ﹂
キロが呟くと、フカフカがキロ達三人にだけ聞こえる声量で呟き
返す。
キロ達が言葉を交わしていると、キロ達を観察していた紳士風の
男がシールズに声を掛けた。
1144
﹁この若い三人組、腕はそこそこ立つようだがシールズとキアラで
殺せないはずないだろう。特殊魔力持ちか?﹂
キロ達が特殊魔力を持っていた場合を想定して迂闊に攻めなかっ
たらしい紳士風の男に、シールズが頷きを返した。
﹁白い髪の子が頑丈で視認性の悪い壁を作る特殊魔力を持ってるよ
うでね。僕の空間転移も通用しない﹂
﹁防御に応用が利く特殊魔力か﹂
紳士風の男がシールズから聞いている間に、ミュトとクローナが
キロに視線を送ってくる。
キロの作戦に従うつもりのようだ。
︱︱退路なし、相手の方が戦力は圧倒的に上、正面切って戦うの
は論外⋮⋮。
考える時間はあまりない。
逃げられず、戦う事も出来ないのなら、応援が来るまで耐えるし
かない。
そして、この場にただ一か所だけ籠城に適した場所があった。
アジトの倉庫だ。
盗品やオークションの出品物が収められているアジトの中に立て
こもれば、窃盗組織側は迂闊に手が出せなくなる。
アジトとなっている倉庫は小部屋に分かれているため、敵の数も
限定する事が出来る。
廊下ではギルド以上に槍を振るいにくいのが難点だが、部屋に入
ればその限りではないだろう。
キロが倉庫を顎で示すと、クローナとミュトが頷いた。
すぐに、キロ達は倉庫に向けて走り出した。
シールズと会話していた紳士風の男が片手をポケットに入れ、糸
を取り出す。
1145
はらりと糸を地面に落とすと同時に岩の手を六本出現させた。
︱︱さっきより増えてるのかよ。
岩の手が振り上げた棍棒を見切り、キロは横に一歩跳んで躱す。
岩の手に繋がる糸を見定めたキロは槍を下から上に切り上げ、糸
を断ち切った。
槍の勢いを殺さずに手元で一回転させ、別の岩の手に繋がる糸へ
押し込むように突き出す。
狙い過たず、キロの槍は糸を突きで断ち切った。
︱︱全部を壊す必要はないな。
崩れ去る二つの岩の手の間を抜け、キロ達は倉庫へ走る。
キロの動きに感心するでもなく、紳士風の男は左右に視線を送っ
た。
﹁ギルドの連中が来る前に撤収する。さっさとこいつらを殺せ﹂
キロ達の事を脅威とはみなしていないらしく、紳士風の男はシー
ルズとキアラに命令する。
言われるまでもない、とキアラが有刺鉄線を飛ばしてくるが、キ
ロより先にクローナが石弾で撃ち落とした。
シールズが連続で放ってくる火球はミュトが特殊魔力の壁で逐一
防いでいる。
走りながら攻撃を捌き切るキロ達に、紳士風の男が舌打ちした。
窃盗組織の構成員達がキロ達を迎え撃とうと動き出す。
しかし、動きがてんでバラバラで連携が取れていない。個々の実
力もさほど高くはないとキロの眼にも分かるほどだった。
︱︱排除しない方が、仲間を気にしてシールズ達も動けなくなる
はず。
﹁クローナ、ミュト、極力こいつらには構うな!﹂
1146
正面の構成員の腹に槍の柄を叩き込み、動作魔力で弾き飛ばす。
ようやく、キロ達の目的が倉庫だと気付いたのか、紳士風の男が
駆け出した。
自ら倉庫の入り口前に立つつもりらしい。
しかし、キロ達は倉庫の入り口を無視してアンムナが開けたらし
い大穴へと向かう。
﹁︱︱させませんよ﹂
キロ達よりも早く大穴の前へと走り込んだキアラが、数本の有刺
鉄線を蜘蛛の巣のように張り、大穴を塞ぐ。
壁に刺さった短剣に支えられた有刺鉄線は簡単には破れないだろ
うと思えた。
しかし、キロは大穴の断面を見て、壁の分厚さを確認するなり方
向を転換する。
ナックルから動作魔力を引き出したキロは、奥義を発動して倉庫
の壁に新たな壁をうがった。
壁に飛び込んだキロ達を追ってきた窃盗組織の構成員が見えない
壁にぶち当たり、反動でよろめく。
後続の仲間を巻き込んで後ろ向きに倒れる構成員達にミュトが申
し訳なさそうな顔をして、廊下を走り出すキロとクローナに続いた。
冒険者達を迎え撃つため倉庫内の構成員は全員外に出ていたらし
く、中は無人だった。
キロは廊下に面する扉を素早く開きながら、オークションの商品、
それも高額商品が置かれていそうな部屋を探す。
立て籠もるなら、窃盗組織が惜しいと思えるような物が置かれて
いる部屋の方が良い。
なかなか見つからず焦り始めるキロの耳にも、入り口やアンムナ
が開けた穴から侵入したらしい窃盗組織の人間の声が聞こえてくる。
ミュトの肩の上から、フカフカがクローナを振り向く。
1147
﹁石の壁で廊下を塞ぐのだ。時間稼ぎくらいにはなる﹂
クローナが石の壁を生みだし、廊下を塞ぐ。
キロは廊下の先に曲がり角を見つけて、眉を寄せた。
﹁どんだけ広いんだよ、この倉庫﹂
小部屋に分けて貸し付けるためか、部屋数自体がかなり多く、数
を増やすために内部は入り組んでいる。
高級品の保管場所を知りたいキロ達にとって、最悪な作りをして
いた。
廊下を曲がると、左右に一枚扉が並ぶ直線廊下の奥に両開きの扉
があった。
唯一の、大型の保管場所らしい。
倉庫全体で見ても奥にある部屋であるため、高額商品の保管場所
の可能性は高いと思えた。
キロ達が駆け寄ろうとした時、両開きの扉が〝内部〟から開かれ
る。
﹁︱︱いらっしゃい、キロ君﹂
両開きの扉を内部から開いたシールズが笑みを浮かべる。
︱︱空間転移で先回りされた⁉
キロは慌てて近くにあった扉のノブへと手を伸ばす。
シールズが両手を突き出し、高温の炎と大量の水を生み出し、熱
湯を発生させた。
廊下内を洗い流すようにシールズが大量の熱湯を撃ちだす。
逃げ場のない廊下で、迫りくる大量の熱湯を前に冷静でいられる
人間は少ない。
1148
だが、地下世界出身のミュトだけは違った。
﹁︱︱このッ﹂
ミュトは素早く特殊魔力を展開し、廊下の半分ほどを特殊魔力で
作ったドームで塞ぐ。
もしも冷静さを欠いて廊下全体を塞いでいたなら、水撃作用が起
こっていただろう。
ミュトの対処方法は地下世界で通っていた地図師養成校で何度も
教え込まれた物だった。
キロは扉を開け、中へと飛び込みつつクローナとミュトの腕を掴
んで部屋へと引き入れる。
キロに腕を引っ張られながら、クローナが後ろ手に扉を閉めた。
閉められた扉にミュトが体当たりするように飛びつき、特殊魔力
で覆って補強する。
建物全体が揺れるほどの衝撃が廊下から伝わってきた。シールズ
の熱湯が曲がり角にぶつかったのだろう。
ミュトの肩から飛び降りたフカフカが部屋の隅へと走り、口を限
界まで開く。
キロ達の目には何も映らない部屋の隅で何かをむさぼったフカフ
カが、ゲホゲホと咳き込んだ。
﹁なんて魔力だ。舌の上で次々と場所を変えて味覚を刺激してくる﹂
﹁シールズの特殊魔力、食ったのか?﹂
﹁うむ。これで直接転移してくることはないであろう。それより、
壁をぶち抜いて来るやもしれぬ。補強するのだ﹂
フカフカの指摘を受けて、キロとクローナは岩の壁を生み出して
四方の壁を補強する。
補強を終えた直後、ガンッと何かが壁にぶつかる音がした。
1149
ミュトの肩に戻ったフカフカが尻尾を垂れ下げる。
﹁不味いぞ。シールズとやら、本気で殺しに来ておる。倉庫が崩れ
ても構わんのだろう﹂
﹁シールズが出てきた部屋の中がちらりと見えましたけど、何もあ
りませんでした。高級商品が収められていたあの場所に先回りした
後、倉庫の外に移したのかもしれません﹂
クローナが焦りの浮かんだ顔で廊下に通じる扉を見る。
キロは部屋の中を見回した。
雑多な小物が木箱に収められている部屋だ。たとえ瓦礫の下に埋
まっても、窃盗組織にとっては大した損失ではなさそうに思える。
︱︱この部屋以外から商品を運び出したら、本当に倉庫を倒壊さ
せようとするだろうな。
嫌な想像に顔をしかめて、キロは打開策を練る。
だが、時は待ってはくれなかった。
フカフカが顔を上げ、苛立たしげに尻尾を大きく一振りする。
﹁あの岩の手の男、仕掛けてくるぞ﹂
﹁おい、まさか︱︱﹂
次の瞬間、地響きが鳴り、思わず三人が尻餅をつくほど地面が揺
れた。
キロ達は青い顔を見合わせる。
﹁商品の安全より、俺達を殺す方を優先してきてるのかよ﹂
﹁⋮⋮ど、どうしますか?﹂
﹁どうするって言ったって︱︱﹂
再び、強烈な地震かと思うような揺れが倉庫全体を襲う。
1150
パラパラと、天井から粉が降ってきて、キロは慌てて天井を石の
壁で補強した。
﹁キロ、これじゃあギルドの応援が来るまで保たないよ!﹂
ミュトが頭を庇いながら叫ぶ。
キロは部屋の中に視線を走らせるが、木箱と小物があるだけで現
状を打破できそうなものは見つからない。
キロは諦めず、木箱を手当たり次第にひっくり返す。
︱︱何かないか、なんでもいいから、何か。
床に散らばった小物をかき分けながら、キロは必死に頭を働かせ
る。
染糸の束やら洒落た眼鏡やらが手に触れるが、どれも今のキロ達
にとってはゴミでしかない。
いっそ外に出て一か八かの特攻を掛けるしかないかとあきらめか
けた時、キロは視界の端に信じられない物を見つけて一瞬動きを止
める。
慌てて振り向き、その小物を認識したキロは思わず呟いていた。
﹁お守り⋮⋮?﹂
キロが見つけた物、それには見慣れた文字が入っていた。
諸願成就、と。
1151
第二十五話 日美子
﹁︱︱キロさん!﹂
クローナに呼ばれて、キロは我に返る。
心配そうに見つめてくるクローナに、キロは何でもない、と首を
振った。
キロは諸願成就のお守りを手に取る。
何か書くモノはないかと散らばった小物を見回すが、見当たらな
い。
荷物を宿に置いてきていなければミュトの仕事道具を借りられた
のに、と思いつつ、キロは慎重に魔法で石を生み出す。
キロが何をしているのか分からない様子のミュトとは違い、キロ
の手元を覗き込んだクローナは驚いたように目を見開いた。
キロの手元にある諸願成就のお守りとキロが慎重に石の魔法で作
成している魔法陣を見比べ、クローナが口を開く。
﹁もしかして、その小袋ってキロさんの世界の物なんですか?﹂
キロは頷く。
﹁諸願成就のお守り。願い事が叶いますように、と願掛けする道具
だ﹂
﹁願掛けって、遺品だったら高確率で遺物潜りの媒体になりますね﹂
﹁どうかな。何気なく持っていただけかもしれない﹂
キロの返答にクローナは眉を寄せて首を傾げる。
1152
﹁宗教道具ですよね?﹂
﹁宗教道具だからこそ、無いよりはマシ、くらいの気持ちで何気な
く持っていただけかもしれないんだよ。俺の住んでいた国はそうい
う宗教観なんだ﹂
教会の羊を預かり、布教も仕事の内だと言っていた元羊飼いのク
ローナが難しい顔をした。
フカフカが煩そうに耳を伏せながら、キロを見る。
﹁問答をしている暇ないぞ。この建物はいつ崩れてもおかしくない
のだからな﹂
言っているそばから、何かの衝突音が響く。
キロは石の魔法陣を作り終え、クローナと共に間違いがないかを
調べる。
不備は無し、と判断して、キロは諸願成就のお守りを置いた。
︱︱不謹慎だけど、遺品でありますように。
キロは一か八か、魔法陣を発動する。
幸いなことに、というべきか、遺物潜りが発動し黒い長方形の空
間が現れた。
﹁⋮⋮これで脱出だけならできるが、どうする?﹂
懐中電灯の例もあり、遺物潜りの先が何所に繋がっているかは分
からない。そのうえ、来歴なども一切情報がなかった。
渡った世界からこの世界に戻って来れる可能性が、懐中電灯の時
よりも低い。
だが、悩んでいる時間はなかった。
何度も攻撃を耐えてきた倉庫がついに崩壊を始めたのだ。
石の天井を瓦礫が叩く激しい音がこだまする。
1153
﹁選択肢なんかないですね﹂
﹁みたいだな﹂
キロは黒い空間をちらりと見た後、クローナとミュトに手を差し
出す。
二人と手を握ったキロは、覚悟を決めて異世界への扉へ足を踏み
出した。
背後から、石の壁がガラガラと崩れる音が追いかけてくる。
直後、視界が闇に染まった。異世界にたどり着いたのだ。
相変わらずあっさりしたものだと思いながら、キロは地面の感触
を探ろうとして、違和感に気付いた。
足元に触れる物が何もない。
落下中とも違う独特の浮遊感には覚えがあった。
﹁フカフカ、光をくれ⋮⋮﹂
外れてほしい予感を胸に、キロは静かにフカフカに頼む。
フカフカが尻尾を光らせる。
目の前に広がった光景を見た皆が同じ気持ちを抱き、誰も一言も
発しなかった。
︱︱最悪だ。
キロは心の中で毒付く。
目の前に広がるのは塵一つない空虚な暗闇の世界。
﹁よりにもよって、虚無の世界⋮⋮﹂
絶望を含んだ声でミュトが呟く。
どうして虚無の世界に繋がったのか、答えを見つけたのはフカフ
カだった。
1154
﹁お前達、後ろを見よ﹂
フカフカに促されて振り返ったキロは硬直する。
懐中電灯の持ち主である女子高生が、そこにいたからだ。
眠るように目を閉じ、身動ぎ一つしない。胸の上下運動もなく、
呼吸が止まっている事が窺い知れた。
呆気にとられたキロだったが、手を強く握られて我に返る。
﹁キロさん、大丈夫ですか?﹂
クローナが心配そうに見上げてくる。
﹁あの人、同郷の人ですよね? なんでこんなところに⋮⋮﹂
以前この虚無の世界に着いた時には姿がなかった懐中電灯の持ち
主の遺体に、キロは動揺を隠せず視線を泳がせる。
いつにも増して回転が遅い頭を必死に働かせ、キロは答えを導き
出す。
﹁きっと、諸願成就のお守りもこの子の持ち物で、死んだ直後であ
るこの世界への扉を開いたんだ。懐中電灯とは違って途中で無くさ
ないで済んだお守りに、この虚無の世界から出たいと願って死んだ。
そんなところだと思う﹂
想像の域を出ないが、大きく外れてはいないだろうと思えた。
だが、まだ解決していない謎がある。
ミュトが難しい顔をして、口を開いた。
﹁前に来たときはなかったのに、何で今回は遺体があるの?﹂
1155
ミュトの質問に、クローナとフカフカが分からない、と首を振る。
しかし、キロの脳裏には一つ仮説が生まれていた。
﹁時間が違うんだよ。俺達の主観では以前虚無の世界を訪れたけど、
本来は逆なんだ﹂
クローナ達が説明を求めてキロを見る。
キロは時系列を整理しつつ、話し出す。
﹁前提として、遺物潜りで行ける世界は持ち主が死亡した直後の世
界だ。だけど、俺達が懐中電灯で地下世界に着いた後、一ヶ月かけ
て未踏破層に辿り着いた。つまり、俺達が前に来た虚無の世界は今
この時点から見ると一か月後だ﹂
地下世界から虚無の世界に渡る際、キロ達は遺物潜りを使わず、
偶然発見した入口から虚無の世界に足を踏み入れた。
このまま一か月間虚無の世界にとどまり続ければ、遭難してロウ
ヒの縄張りを駆け抜けてきた直後のキロ達がやってくるのだろう。
しかし、その時、虚無の世界で一か月を過ごしたキロ達はもちろ
ん、懐中電灯の持ち主の遺体も存在しない。
﹁このまま放置しているとタイムパラドクスが起こるのか。いや、
一ヶ月もあるんだ。俺達以外の外的要因で遺体が無くなる可能性も
あるのか﹂
知恵熱が出てきそうな問題だったが、ひとまずキロ達は遺体に近
付く。
地面が存在しないため、仕方なく魔法で石壁を作り出して足場に
した。
1156
懐中電灯の持ち主の遺体は綺麗なものだった。餓死したため少し
頬がこけているような気もしたが、なかなかの美人である。
キロは何か状況を説明する手掛かりはないかと見回す。
﹁キロさん、少し後ろ向いてください﹂
クローナに言われて、キロは後ろを向く。
失礼します、というクローナの声の後、衣擦れの音が聞こえてき
た。
しばらくして、振り返ってよいとクローナから許可が出る。
﹁少し体を調べさせてもらいました。外傷は一切ないです。ほぼ間
違いなく餓死ですね﹂
クローナが女子高生の服のボタンを留めながら、報告する。
ミュトがキロに紙を差し出した。
﹁ポケットにこれが入ってた。多分、文字だと思うんだけど。後、
財布もあったよ﹂
ミュトから紙と財布を受け取って、キロは遺体に黙礼した後で中
を見る。
財布の中には学生証が入っていた。
︱︱日美子、か。やっぱり行方不明になっていた女子高生だった
んだな。
学生証の名前を確認したキロは、続いて紙に書かれた文字を読む。
やはりというべきか、日本語で書かれたそれは簡単な日記のよう
だった。
懐中電灯を無くしてしまい、暗闇の中を彷徨っている内に泥の塊
に追いかけられた事、泥の塊が触れた瞬間形を失って崩れた事、今
1157
度は光る虫に追いかけまわされた事などが書かれていた。
初めて見つけた人間が魔法らしきものを使っているのを見て、泥
の塊を触った時に自覚した〝何か得体のしれない物〟で魔法が使え
た事。
街に着いても言葉が分からず、必死に相場を理解しようと店を覗
き見し続けた事。
中には遺跡らしき物を見つけた記述もある。
そんな中、全編にわたって呪文のように何度も繰り返されている
言葉があった。
︱︱暗い、怖い、気持ち悪い、の三つだ。
ロウヒらしき石像に襲われたという記述の後、虚無の世界に辿り
着いてからの日記はひどく文字が乱れていた。
地下世界から虚無の世界へ渡ってしまった事への後悔、少しずつ
なくなる食料と、誰も来ない、何もない空間への恐怖が綴られてい
る。
そして、最後はこう締めくくられていた。
﹁︱︱帰りたい、か﹂
沈鬱な空気の中で日記を読み終えたキロは丁寧に日記を畳んだ。
その時だ、キロは日記の裏に何かが書かれているのを見つけた。
開き直して裏を見たキロは、そこに書かれていた一文にぞっとす
る。
キロのただならぬ様子にクローナとミュトが心配そうな顔を見合
わせた。
﹁どうかしたんですか?﹂
クローナに聞かれたキロは、日記の裏にあった一文を読み上げよ
うと口を開く。
1158
しかし、キロより早くフカフカが声を張り上げた。
﹁︱︱何か来る!﹂
本能によるものなのか、珍しくフカフカが毛を逆立て、尻尾の光
を一方向に限定する。
日美子の遺体を挟んだはるか向こうから、何かが悠然と羽ばたい
て飛んでくる。
﹁⋮⋮あれって、もしかして﹂
ミュトが渇いたのどで声を絞り出し、呟く。
﹁悪食の竜⋮⋮?﹂
闇に包まれた虚無の世界の中にあってなお、悪食の竜は黒い体躯
を主張している。
それは、地下世界の遺跡で見た竜の姿そのものだった。
悪食の竜がキロ達を見つけ、大口を開けるとともに悠然と飛んで
くる。
﹁逃げるぞ!﹂
キロはクローナとミュトの腕を取り、真っ先に逃走を選択した。
日美子の日記の裏に書かれていた一文が、キロに戦闘を選ばせな
かった。
クローナが足元に石の壁を生み出し、ミュトが悪食の竜に向けて
特殊魔力の壁で仕切りを作る。
﹁ミュト、特殊魔力を張ってもおそらく無駄だ。逃げる事に集中し
1159
ろ﹂
キロはミュトの特殊魔力でも悪食の竜を阻めない事を知っていた。
クローナが作った石の足場を駆け抜けながら、キロは日美子が日
記の裏に残してくれた情報を口にする。
﹁悪食の竜は魔力も食らう。魔力食生物だ!﹂
逃走するキロ達の後方で、悪食の竜の大口の中へと日美子の遺体
が姿を消した。
1160
第二十六話 躊躇こそが後悔の根源
太古の昔、地下世界人の祖先が空を失った原因。
ミュトの張った特殊魔力の壁を一息で呑み込む悪食の竜を見て、
キロは悟る。
︱︱勝てない。
体長は十メートル、翼長は十五メートルほど。
どんな物より黒い体は重そうに見えるが、動作魔力を使って全力
で逃げるキロ達を悠然と追いかけてきている。
キロ達に逃げ場がない事を知っているのか、悪食の竜は速度を上
げる事もなく散歩を楽しむような余裕を持って飛んでくる。
キロは必死に頭を働かせ、逃げ切る方法を探していた。
自分達と悪食の竜の存在以外に何もない虚無の世界で、逃げる方
法。
︱︱駄目だ⋮⋮。
キロは槍を持つ手が緊張で汗ばんでいるのを感じていた。
悪食の竜が迫る速度を考えれば、このまま虚無の世界を逃げ続け
ても未来はない。
遮蔽物はなく、あったとしても悪食の竜に食われて意味をなさな
いだろう。
キロの取れる手段は一つしかなかった。
だが、キロはその選択をとれない。
悪食の竜との距離は縮まる一方だったが、キロは焦りながら頭に
浮かんでいた選択肢を否定し続ける。
フカフカが先ほどから無言を保っているのが不気味だった。
一か八か、悪食の竜と戦おうか、と自暴自棄な考えが浮かんだ、
その時。
不意に、クローナが足を速め、キロとミュトに先行した。
1161
キロは咄嗟に槍を持っていない方の手をクローナに伸ばす。
しかし、クローナは肩越しに振り返ってキロの手を払いのけた。
クローナはキロの顔を見て、目に涙を浮かべて苦笑する。
見覚えのある表情だった。
一か月前、遺物潜りをするキロに付いて来ようとするクローナと
喧嘩した時、別れ際に浮かべていた表情とそっくりだった。
﹁キロさん、気付いてるなら話は早いですね﹂
︱︱まさか、クローナも気付いて⋮⋮ッ!
キロはクローナの言葉にぞっとして、石で造られた地面を強く蹴
る。
しかし、蹴られた地面はキロに推進力を与える事はなく、紙で作
られたように脆くも崩れ去った。
﹁︱︱キロ⁉﹂
バランスを崩したキロを見て、ミュトが足を止め、キロを支える。
キロは石の地面を見て、その壊れ方から何が起こったかを察した。
︱︱クローナの奴、特殊魔力を混ぜたのか⁉
﹁崩れるかどうかは賭けだったんですけど、私の勝ちです﹂
クローナが目に浮かんだ涙をぬぐい、微笑みながらクローナはモ
ザイクガラスの髪飾りを外す。
話に付いて来れていないミュトが怪訝な顔でクローナを見る。
しかし、クローナが懐から短剣を取りだした時、この窮地を脱す
る唯一の方法を悟ったらしい。
唯一の脱出方法、それは︱︱
1162
﹁やめろ、クローナ! 俺がやるッ!﹂
クローナに向けて叫びながら、キロは手を伸ばす。
クローナが短剣の柄を握り、刃先を自分の胸に向ける。
﹁駄目ですよ。キロさんのいない世界で私は生きたくないんですか
ら﹂
﹁やめろって言ってるだろ、クローナ!﹂
﹁大好きですよ、キロさん﹂
そう言って、クローナは躊躇なく自らの胸を短剣で突き刺した。
糸の切れた人形のように倒れてくるクローナをキロは抱き留める。
クローナの胸から血がにじむ様を呆然と見つめるキロの頭が、目
の前の事実を何度も突きつけてくる。
キロは悪食の竜から逃げ始めた時、すぐに気付いていた。
誰かが自殺する事で遺物を作り出し、遺物潜りで別の世界に行く
しかない事を。
﹁︱︱呆けておる場合か。クローナの死を無駄にするな、大たわけ
!﹂
フカフカが大声を張り上げる。
振り返れば、悪食の竜がすぐそこまで来ていた。
キロは唇を噛みしめ、クローナの手が握っていた髪飾りを取り、
石で魔法陣を作り出す。
事前にわざわざ髪から外したくらいなのだから、クローナも髪飾
りに一番思い入れがあるのだろう。
キロはクローナの髪飾りを媒体に魔法陣を発動させる。
もはや見慣れた黒い空間が出現した。
遺物潜りが発動した事がクローナの死をキロに事実として突きつ
1163
ける。
﹁⋮⋮キロ﹂
声を掛けられて、キロはハッとして振り返った。
心配そうなミュトの顔を見て、キロはミュトの手を握る。
︱︱ミュトとフカフカだけでも、守る。
もう片方の手でクローナの遺体を抱きかかえ、キロはクローナの
髪飾りが作り出した異世界への扉を潜った。
ちらりと視界の端に見えた悪食の竜は獲物に逃げられたと知って
口を閉ざす。
︱︱いつか殺す。
キロの憎悪と殺意を悪食の竜は無感情に受け流していた。
視界が闇に覆われた直後、キロは足元にしっかりとした地面の感
触を感じ取った。
視界に光が入り込み、キロは目の前に広がった光景に硬直した。
﹁⋮⋮ここ、クローナの世界じゃないよね?﹂
ミュトが戸惑いがちに周囲を見回し、呟く。
すでに日は落ちた暗い空、冬の寒風が吹き込むコンクリートの廊
下、天井に下がる電球、下の通りを横切る大型トラック。
クローナの世界では絶対にありえないはずの光景。しかし、キロ
にはなじみの景色。
﹁なんで⋮⋮﹂
混乱の中、キロは呟く。
何度周囲を見まわしても、疑う余地はどこにもない。
間違いなく、そこは科学が発達した現代世界。
1164
キロが、規路史隆が生まれ育った世界だった。
さらに混乱を誘うのが、キロ達が立つその場所が他のどこでもな
い︱︱
﹁なんで、俺のアパートなんだよ﹂
混乱するキロの頭の中で、あの言葉が繰り返されていた。
行って来い。そして、救ってくれ、と。
︱︱俺は、失敗した。
1165
第二十六話 躊躇こそが後悔の根源︵後書き︶
以上で三章は終了となります。
四章開始は九月十日を予定しております。
1166
第一話 十九時
熱を失っていくクローナの体を抱きかかえながら、キロはテレビ
画面の端に表示された時刻を見つめていた。
虚無の世界から自らが住んでいたアパートの廊下に出た理由もつ
かめないままに、キロはクローナの遺体が見つかっては事だと考え、
自分の部屋に駆け込んだ。
時間が分からなかったため、部屋の中に過去の自分がいるのでは
ないかと危惧したが、フカフカの耳を頼りに内部を探った結果、留
守だと分かったのだ。
それもそのはず、現在時刻は一月二十日十九時二十分、キロがバ
イトに励んでいた時刻だ。
︱︱あと四十分で過去の俺を異世界に送り込まないとタイムパラ
ドクスが起きる⋮⋮。
キロはテレビ画面に表示されたデジタル時計が二十一分を表示す
るのを見ても、動きださなかった。
異世界に送り込まれてからの生活を何度思い返しても、キロと出
会わなければクローナが虚無の世界で死ぬ事はなかったように思え
て仕方がなかった。
それならば、異世界に過去の自分を送り込む意味などなくなる。
誰をどうやって救えというのか、クローナを救う方法などあった
のだろうか。
何度となく自らに問いかけた事柄を、また頭の中で繰り返す。
︱︱そもそも、皮手袋は宿に置いてきているし、この世界に偶然
転移してでもいないと送り込めない。
こんなところでも失敗していたのか、とキロは乾いた笑い声を漏
らした。
二十五分を指した時、脱衣場の扉が開き、ミュトが部屋に入って
1167
きた。
肩にタオルを掛け、キロの服を着たミュトはシャワーを浴びる前
と同じ格好でクローナを抱きかかえているキロを見て、傍に腰を下
ろす。
﹁キロも体を洗ってきなよ。ボクがクローナを綺麗にしておくから﹂
胸から血を流すクローナを抱えているキロは血まみれだった。
改めて血に染まった自分の服を見下ろして、キロはクローナの頬
に片手を当てる。
︱︱やっぱり、死んでるんだよな。
ぼんやりした頭で考えて、キロは口を開いた。
﹁こうして温めてたら、生き返ったりしないかな?﹂
﹁⋮⋮キロよ、諦めるのだ﹂
ミュトに遅れて脱衣所から出てきたフカフカが落ち着いた声で諭
す。刺激しないよう気を使っているのが声の調子からわかって、キ
ロは苦笑した。
﹁分かってる。生き返る事なんかないって事ぐらい、分かってるん
だ。ただ、もう少しだけこうさせてくれ﹂
キロが俯くと、ミュトは何かを言いかけたが、結局無言で立ち上
がってベランダに向かった。
フカフカがミュトの後を追って歩き出し、キロを振り返らずに話
しかける。
﹁短気は起こすな。お前にはミュトもいるのだからな﹂
﹁大丈夫だ。後追い自殺なんかしない﹂
1168
﹁⋮⋮気が済んだら声を掛けよ﹂
ベランダと室内を隔てるガラス窓の開閉音を聞きながら、キロは
テレビ画面を見る。時刻は十九時三十分を示していた。
残り三十分では、異世界へ突き飛ばされたあの路地裏まで走って
も二十時までにたどり着けない。
だが、今のキロなら動作魔力を使って間に合わせる事は可能だ。
しかし、行く意味を見いだせず、キロはクローナの体を抱きかか
えたままテレビ報道を見つめる。
失踪した女子高生、日美子についての報道が流れている。
彼女が虚無の世界で餓死した事など誰も知らないのだ。
同様に、クローナが死んだ事実も、この世界の人間はおろかクロ
ーナの生まれた世界の人間でさえ知らない。
︱︱司祭さんには教えないといけないな。
キロは靄がかかったような頭の片隅で考え、時刻を確かめる。
ついに四十分を指していた。
流石のキロも、屋根伝いに路地裏へ急がない限り間に合わない時
間だ。
それでいい、とキロは思う。
出会わない方が、自分にとってもクローナにとっても幸せなのだ
から、と思い込む。
︱︱そうか、異世界に送り込まないなら、ここにバイト帰りの俺
がきて鉢合わせするのか。
キロはクローナをそっと床に寝かせて、シャワーを浴びる支度に
取り掛かる。
自分が帰ってくる前に外出の準備を始めなくてはならない。
これも一種の自己矛盾か、と下らない事を考えつつ、キロがベラ
ンダにいるミュトとフカフカに声を掛けようとした時、コンコン、
と玄関の扉が叩かれた。
怪訝に思って、キロはインターホンを見る。現代日本でインター
1169
ホンを鳴らす前に玄関扉を叩く者はほとんどいない。
壊れていた記憶はないが、何しろ体感では二か月前に住んでいた
部屋の設備だけに自信が持てない。
キロはクローナの遺体と玄関扉を交互に見て、思案する。
自らの血まみれの服を鑑みて、扉を開けて来客の対応をすること
はできないと結論付けた。
キロが居留守を決め込もうとした、その時︱︱
﹁キロさん、いますか?﹂
玄関の扉越しに駆けられた声に、キロは慌てて振り向いた。
この二か月間、一日も空けず聞いていた声だったのだ。
急激に乾く喉が痛みを訴える中、キロは玄関扉へ歩み寄り、ドア
スコープを覗き込む。
ドアの前に、不思議そうな顔で天井の電球を見上げるクローナの
姿があった。
﹁クローナ⋮⋮?﹂
キロは部屋の中を振り返り、クローナの遺体があるのを確認する。
幻聴、幻覚、そんな単語が頭の中をグルグルと回りだした。
﹁そういえば、ボタンを押すとかなんか言っていたはずですけど﹂
キロが反応を返せずにいると、クローナがこめかみに指を当てて、
ムムム、と何かを思い出すようなそぶりを見せる。
﹁出っ張りみたいのがあって、いい感じに押したくなるような物と
か言ってましたけど⋮⋮﹂
1170
扉の向こうでクローナはあちこちを観察するように見回し、ドア
スコープに目を止める。
ドアスコープ越しに目が合ったキロがどきりとしたのもつかの間、
クローナは片手を持ち上げた。
﹁︱︱えいっ!﹂
小さな掛け声と共に、クローナがドアスコープを人差し指で押し
た。
どうやら、インターホンの呼び出しボタンとドアスコープを混同
しているらしく、クローナは反応を示さないドアスコープに首を傾
げている。
あまりにも普段通りの行動をしているクローナに、キロはますま
す自分が作り出した幻影ではないかと疑うが、ひとまず声を掛ける
べきだと考えて口を開く。
﹁クローナ、なのか?﹂
キロがクローナの声を聴き分けたように、扉越しでもクローナに
はキロの声だと分かったらしい。
嬉しそうな顔をして頷いた。
﹁やっぱり部屋はここで合ってたんですね。キロ⋮⋮さん﹂
呼び捨てにしそうになって慌てて付け足したような間を開けて、
さん付けしたクローナが玄関扉を抑えた。
﹁扉は開けずに聞いてください﹂
扉を隔てた向こう側に自分の遺体があると知らないような明るい
1171
声で、クローナは続ける。
﹁未来のあなたから伝言を預かってます﹂
1172
第二話 伝言と希望
﹁︱︱伝言?﹂
おうむ返しに聞き返すキロに微笑んで、クローナは頷いた。
﹁はい、伝言です。まだ何も終わっていない。いまが始まりだ、と
の事です﹂
言葉と共に、ドアに備え付けの郵便箱からコトリと音がした。
﹁これは貴重な往復切符になるそうです。大事に扱ってください。
後、バイト終わりのキロさんは私のキロさんが異世界に送り出すそ
うです﹂
﹁状況が全く分からないんだけど﹂
﹁考えろ、と言ってました﹂
丸投げかよ、と突っ込みたい衝動に駆られたが、クローナは未来
のキロの言葉を伝えに来ただけらしく、詳しい事は本当に知らない
様子だった。
︱︱タイムパラドックスを警戒しているのか?
今の段階のキロが知るべきでない情報があるのか、それとも考え
て結論を出すことに意味があるのか、それは分からない。
だが、一つだけキロには希望が芽生えていた。
今、扉を隔てた向こう側に生きたクローナがいるという事実から、
クローナを生き返らせる方法があるのではないかという、希望だ。
この希望を抱かせるために、クローナに伝言役を頼んだ可能性す
らある。
1173
︱︱いずれにせよ、今は従うのが得策か。
クローナに伝言を託した未来のキロと同じ道筋を辿れば、クロー
ナを生き返らせる方法に辿り着けるはずだと考え、キロは伝言に従
う事を決める。
﹁それでは、私は帰りますね﹂
﹁伝言は本当にこれだけなのか?﹂
おそらくは未来のキロの元へだろう、帰ろうとするクローナをキ
ロは引き止める。
これを逃せば、次に生きているクローナと話せる日がいつ来るの
かもわからない。
いや、失敗してしまったら、クローナと話す機会は二度来ないか
もしれないのだ。
キロの心中を見透かしたように、クローナは困った顔をした。
﹁最初に言っておくべきだったかもしれませんけど、私はあなたの
知るクローナではありません﹂
﹁︱︱え?﹂
突然の告白に、キロは困惑する。
ドアスコープ越しとはいえ、クローナを見間違えるはずなどない、
とキロは断言できた。
クローナは困り顔のまま、言葉を探す。
﹁私はあなたと一緒に旅したクローナではなく、未来のあなたと旅
したクローナというか⋮⋮。相似であって合同ではないクローナで
す﹂
困り顔で説明するクローナは、要するに、と言葉を繋いだ。
1174
﹁あなたにとってのクローナは後ろにいる一人だけです。私にとっ
てのキロさんが一人だけなのと同じように﹂
ようやくクローナの言いたい事を理解して、キロは苦笑した。
﹁未来の俺によろしく言っておいてくれ﹂
﹁分かりました﹂
それでは、とクローナはあっさりと身を翻し、玄関扉から離れて
いく。
扉を開けて追いかけたいとは思わなかった。
郵便受けに入れられた〝往復切符〟を取り出してみる。
﹁指輪⋮⋮?﹂
見覚えのある指輪だった。
︱︱クローナの母親の形見代わりだったはず。
大事な品のはずだが、クローナに惜しむ様子はなかった事が少し
引っかかる。
キロは自分にとってのクローナが横たわる室内を振り返り、ベラ
ンダから部屋に戻ってきていたミュトとフカフカに気付く。
心配そうな顔のミュトがキロの顔色を窺うように覗き込んだ。
﹁誰と話してたの?﹂
﹁俺もいまいち状況が分かってはいないが、未来のクローナが扉の
向こうに居たんだ﹂
自分で口にしていて、頭がおかしくなったと思われるのが関の山
だな、とキロは嘆息する。
1175
案の定、ミュトは心配そうにキロの瞳を覗き込んだ。
しかし、意外にもフカフカがキロの証言を肯定する。
﹁やはり、クローナであったか。我の優れた聴覚に狂いが生じたか
と疑うところであった﹂
ミュトの肩に飛び乗ったフカフカは、そう呟いて玄関扉を見る。
驚いたのはミュトだ。
﹁未来のクローナって言われても、どうして会話なんかできるのさ。
だって、クローナは⋮⋮﹂
床に横たわるクローナの遺体を見つめて、ミュトは言葉を濁す。
現時点で死亡している以上、未来永劫目を覚ますはずはなく、死
者と言葉を交わす事も出来るはずがない。
しかし、キロのみならずフカフカもクローナの声を聞いている事
から、一概に幻聴と切って捨てる事も出来ない。
﹁一つ確かな事は、クローナを生き返らせる方法が存在するという
事だ﹂
結論付けてクローナの元へ歩き出したキロに、フカフカが声を掛
ける。
﹁そうとも言い切れん。幻聴幻覚の類を相手に見せる特殊魔力を使
われたかもしれん。希望を抱きすぎるべきではないぞ﹂
﹁だとしても、可能性があるなら突き詰めるべきだ﹂
キロが言い返すと、フカフカは口を閉ざし、不機嫌に尻尾を振っ
た。
1176
﹁正論であるな。だが、キロよ、最悪の可能性は常に想定しておく
のだ。人間は希望を裏切られた時に盲目となる。ミュトがいる事は
忘れるな﹂
﹁分かってる。心配してくれてありがとう﹂
キロが心から感謝すると、フカフカはふん、と鼻を鳴らして脱衣
所を尻尾で照らす。
﹁湯浴みをしてくるのだ。クローナの体はミュトがきれいにする。
⋮⋮血も止まっているようであるからな﹂
キロが視線で頼むと、ミュトは静かに頷いた。
礼を言って、キロは着替えを持って脱衣所に入る。
血まみれの服をどうした物かと悩みつつ、ビニール袋に詰める。
︱︱このままゴミとして出したら、警察沙汰になるだろうな。
部屋の中に国籍不明の不法入国者の遺体がある時点で、通報され
たなら一巻の終わりである。
ビニール袋の口を固く閉めながら、キロは状況を整理し始めた。
この世界、キロが生まれ育った現代社会における時系列では、十
九時の時点で虚無の世界から帰還したキロと、何も知らずにバイト
に励んでいたキロの二人がいる。
さらに、未来のクローナの言葉が事実なら、バイトを終えたキロ
を路地裏で異世界に突き飛ばすキロもこの時間に存在しているはず
だ。
︱︱少なくとも、この世界には俺を含めて三人のキロがいる事に
なる。
同時に、二人のミュトと二匹のフカフカ、生きているクローナが
一人、さらに死亡している状態のクローナが存在する。
思い出されるのは体感時間での二か月前、バイトを終えた直後に
1177
見かけた、毛皮を首に巻いた白髪の外国人の姿。
︱︱おそらく、フカフカを首に巻いた未来のミュトだ。
キロは鏡に映った自分を睨みつける。
未来の自分が同じ世界の同じ時間に存在するのなら、もう一度遺
物潜りで現代社会に辿り着く必要があるはずだ。
そして、もう一度帰ってきた時、クローナを生き返らせていなく
てはならない。さらに、ミュトとフカフカも欠けてはならない。
もう一度、全員でこの時間帯に辿り着くには、どこかの世界を経
由し、最低でも生きているクローナとキロが玄関扉越しに話し始め
る直前に帰ってくる必要がある。
﹁方法は、遺物潜りか﹂
媒体となる物を頭に思い浮かべながら、キロはお湯を頭からかぶ
った。
1178
第三話 状況整理
シャワーを浴び終えたキロは、タオルで頭を拭きつつ脱衣所を出
る。
クローナの体を拭いたミュトが間に合わせにキロの服を着せ終え
ていた。
机の上にいたフカフカがキロを振り向く。
﹁ひとまず、落ち着いたようであるな﹂
﹁あぁ、頭の中の余計な物全部、洗い流してきた﹂
キロは机から高校時代に使っていたノートを取り出し、まっさら
なページを開いた。
時系列を書き込み、キロはこれからすべき事をまとめる。
﹁俺達のこれからの行動予定だが、まずクローナの世界に戻ろうと
思う﹂
未来のキロと同じ行動をとるためには、一度別の世界に行き、現
代社会に戻って来なくてはならない。
現代社会でなければ、どこの世界に行ってもよいのだが、キロは
先ほど玄関扉越しに会話した未来のクローナが着ていた服に見覚え
があった。
﹁未来のクローナが着ていた服は地下世界に行く前に着ていたのを
見た記憶がある。多分、この世界、現代社会にはない物だ。まった
く同じデザインの服が他の世界にあると楽観視も出来ない。クロー
ナの世界に戻って、服を確保しようと思う﹂
1179
ミュトがクローナにちらりと視線を送る。
﹁どの道、生き返った時にキロの服を着ていたら、クローナも混乱
するだろうね﹂
﹁反応を見たい気もするけどな﹂
﹁意地悪だね。それで、クローナの世界にはどうやって戻るの?﹂
﹁遺物潜りを使う事になる﹂
とキロは前置きして、クローナの遺品をざっと見まわした。
現代社会に辿り着く事になった遺品はクローナの髪飾りだ。
キロはクローナから聞いた髪飾りの由来を思い出す。
クローナがいつも身に着けていたモザイクガラスのヘアピンは、
彼女が幼少の頃に村を襲った蛇型の魔物パーンヤンクシュを撃退し
た冒険者からもらった物だと聞いている。
キロが話すと、フカフカが髪飾りをくわえて机の上に持ってきた。
﹁長い間クローナの持ち物になっていたが、元を正せば別の人間が
持っていたのだな﹂
﹁この髪飾りの時系列を考えると、この世界で何らかの理由で死ん
でしまった持ち主がいて、何らかの理由で冒険者の手に渡り、クロ
ーナに譲られたって事かな?﹂
遺物潜りを発動する際、以前の持ち主の念を辿ってしまった可能
性をミュトが指摘する。
しかし、フカフカが異を唱えた。
﹁その仮説が正しければ、遺体がそばにあるはずであろう﹂
﹁それは気になるが、この世界ではその場で死亡が確認されてもす
ぐに治療施設へ運ばれるんだ。特にこの辺りは人口密集地だから、
1180
遺体が長い事放置される事はまずない﹂
キロは医療体制について説明する。
フカフカが窓の外を見た。
﹁発展しておるとは思ったが、さまざまな面で充実しておるのだな﹂
﹁情報の拡散も早い。多分、明日にはこの辺りで死亡した人の名前
が分かるはずだ﹂
キロは新聞の訃報欄を当てにして、ひとまず前の持ち主について
の話を切り上げる。
次にキロは、未来のクローナから〝往復切符〟として渡された指
輪を机の上に置いた。
ミュトがクローナの遺体の指にはまったままの指輪と見比べ、形
状が同じことを確かめる。
﹁クローナのお母さんの遺品、だったよね?﹂
﹁俺がクローナから聞いた話だと、もう少し事情が複雑なんだ﹂
あれはカッカラでシールズが起こした失踪事件を調べていた頃だ
った、とキロは話し始める。
﹁クローナが指輪を見せびらかしてきた事があったんだ。その時に
聞いた話だと、クローナはこの指輪を髪飾りと一緒に冒険者からも
らったと言っていた﹂
クローナの母親が死んだ後、パーンヤンクシュに村が襲われた騒
動で形見の指輪は紛失し、冒険者が代わりに全く同じ形状の指輪を
クローナに渡したのだ。
クローナは、母親の形見の指輪が無くなる前に冒険者が指輪をつ
1181
けていたのを見たとも証言している。
﹁クローナの母親が亡くなった当時、その場所には同じ形状の指輪
が二つ存在したんだ。ここに二つあるみたいに、な﹂
キロは机の上の〝往復切符〟とクローナが指にはめたままの指輪
を順に指差した。
フカフカが興味を引かれたように上半身を起こした。
﹁この机にある〝往復切符〟で過去の世界に行った我々が村を襲う
パーンヤンクシュを撃退し、幼少のクローナに指輪と髪飾りを渡し
た、とそう言いたいのか?﹂
﹁そうだ。それに、実は状況証拠がもう一つある。俺が槍を使って
いる理由だ﹂
キロが槍を選んだ最大の理由は武術の心得がなくとも相手との距
離をとれる得物だからだが、クローナが勧めた理由はもう一つあっ
た。
﹁曰くカッコいいから、なんだが、直前に入った武器屋ではこうも
言っていた。キロさんくらいの細腕で総金属製の槍を振り回してま
したよ、と﹂
ミュトとフカフカが同時にキロの腕を見る。
﹁そういえば、キロほど細い腕で槍を振りまわしている冒険者はい
なかったね。みんなもっとがっしりしてた﹂
シールズが所属する窃盗組織との倉庫前での戦いを思い出してい
るのか、ミュトは記憶を探るような眼をして言った。
1182
女装冒険者など線の細い冒険者はいたが、そういった者は槍など
のかさ張る武器ではなく短剣やせいぜいが小剣を振り回すだけだっ
た。
クローナの世界の冒険者は動作魔力で筋力を底上げした〝叩き斬
る〟武術を学んでいる。
線が細く、筋肉量の少ないキロが修練場で教官から戦い方を学ぼ
うとして断られた事もある。
細腕で槍を振りまわす冒険者はまずお目にかかれない世界なのだ。
﹁もちろん、これは全部憶測だ。だからこそ、クローナの世界に戻
って、宿に置いたままの日記を読みたい﹂
﹁そっか、日記に当時の事が書いてあれば、何か分かるかもしれな
いね。クローナを生き返らせて直接聞く事が出来れば、それに越し
た事はないけど﹂
﹁俺と顔を合わせても何も言わなかったくらいだ。多分、昔の事だ
から記憶があやふやだと思う。もちろん、聞き出す努力はするつも
りだけど⋮⋮﹂
キロは言葉を濁しつつ、クローナの杖を手に取る。リーフトレー
ジに蓄積されていた魔力は虚無の世界で使い切ったらしく、光を放
ってはいない。
﹁髪飾りも指輪も、クローナが大事にしていたのは事実だ。だけど、
最初からクローナの持ち物だったわけじゃなかった。それなら、真
の意味でクローナの遺品と呼べるものは︱︱﹂
﹁杖、だと言いたいのだな?﹂
キロが持ち上げたクローナの杖を見て、フカフカが答えを口にす
る。
キロは頷いて、苦笑した。
1183
﹁半分くらい、俺の願望が混ざってるけどな﹂
虚無の世界でクローナが自殺した時の願いは、キロが無事に生き
残る事だった。
キロと過ごした時間のほぼ全てを共有し、もっとも使用頻度が高
く、さらにはキロとの旅で全体をリーフトレージで補強するという
一種の変化を遂げた杖は、キロとの冒険者生活で完成した思い出の
品だ。
﹁クローナ自身は身近すぎて気付いてなかったんだろうけど、この
杖に念が込められている可能性はかなり高いと思う﹂
キロが机に置いた杖を複雑そうに揺れる瞳で見下ろしたミュトは、
小さくため息を吐いた。
いいな、と呟くような声が聞こえた気がして、キロはミュトの顔
を覗き込む。
﹁何がいいんだ?﹂
﹁⋮⋮何でもない。この杖が遺品になっているかどうか確かめない
の?﹂
あからさまにはぐらかされて首を傾げたキロだったが、本人が言
いたくないのなら無理に聞き出しても失礼だと考え、頭の片隅に置
いておくに留めた。
キロは部屋の中を見回す。
﹁確かめたいのはやまやまだけど、魔法陣を描くための下地がなく
てな﹂
1184
ノートに書いた魔法陣では小さすぎるため、杖全体が収まるよう
な魔法陣を描ける布が欲しい。
﹁この時間ならぎりぎりで店もやってるけど、買いに行くのは明日
にしよう。それよりも、最後の課題だ﹂
キロはクローナの遺体に目を止め、すっと目を細める。
﹁クローナを生き返らせる方法だ﹂
最後にして最大の難問である、クローナの蘇生方法、
死亡している以上、蘇生方法として思い付くモノはただ一つだ。
﹁魔法だね。どの時点でクローナが生き返るのかもわからない今は
探しても無駄かもしれないけど﹂
ミュトが後ろ向きな考えを口にするが、キロも同じ意見だった。
少なくとも、クローナの世界に戻る方法として一番可能性がある
のがクローナの杖を媒体にする方法である。
だが、クローナの世界に戻る前にクローナを生き返らせると、杖
が媒体としての能力を失う危険性もある。
﹁仮に生き返らせる方法を見つけても、実際に試すのはクローナの
世界に行ってからになるな﹂
キロがクローナの頬を指先で撫でた時、フカフカが尻尾で強く机
を叩いた。
何か不満に感じる事でもあったかとキロは顔を振り向けるが、フ
カフカは意識を自分に向ける事が目的だったらしく、机を叩いた尻
尾をだらりと下げたまま口を開く。
1185
﹁生き返らせる時期までは分からぬが、生き返らせる方法であれば
我にも想像がつく﹂
さらりと言ってのけたフカフカの言葉を聞き流しそうになったキ
ロとミュトは、わずかの間を開けて声を揃えた。
﹁︱︱なんて言った?﹂
1186
第四話 尾光イタチの証言の摺合せ
キロとミュトに見つめられたフカフカは、バカにするように鼻を
鳴らした。
﹁お前達がサラサラと呼んでいた尾光イタチがいただろう﹂
地下世界で生き倒れていた、さらさらした体毛を持つ尾光イタチ
を思い出し、キロは先を促す。
﹁あいつがどうかしたのか?﹂
﹁舌の調子がおかしな奴ではあったが、キロの特殊魔力の味に関し
ては評価が我と一致していた﹂
キロはサラサラが特殊魔力を食べた時の感想を思い返す。
﹁そういえば、生き返るようだって⋮⋮だけど、それは行き倒れて
いたからで︱︱﹂
﹁我もマッドトロルの群れと対峙したあの村でキロの魔力を食した
際、つい口を突いて出た言葉は生き返るようだ、であった﹂
確かに、フカフカは魔力を使い果たしたミュトの代わりにキロの
特殊魔力を食べ、まるで生き返るようだと発言していた。
そんな都合のいい話があるはずない、と否定しそうになるのをキ
ロは寸前で思いとどまる。
見透かしたように、フカフカが尻尾を一振りした。
﹁キロよ、お前を異世界に送り出したのが未来のお前であり、その
1187
お前の元には玄関越しに会話した未来のクローナ、つまりは生き返
ったクローナがいるのだろう? ならば、クローナをキロが生き返
らせることを見越して、送り出せるのではないか?﹂
﹁つまり、最初からクローナが自殺する事を前提として計画が立て
られているってこと?﹂
ミュトが眉を寄せて結論を口にする。
一度自殺させて生き返らせる事までが計画の内、あまりにも非人
道的な計画である。
︱︱筋は通っているけど、何かがおかしい⋮⋮。
﹁その計画だと、俺が異世界に行かない方がクローナは苦しい思い
をしなくて済むんじゃないのか?﹂
﹁その通りであるな。恋煩いなどという忌まわしい病にかかる事も
なかったであろう﹂
鼻で笑いながら皮肉を浴びせるフカフカの頭をミュトが指先で小
突く。
堪えた様子もなく、フカフカは再び鼻を鳴らした。
﹁クローナはキロと出会えて幸せだった。否定するのであれば、生
き返ったクローナに殴られるがよい﹂
フカフカの言葉にミュトも頷いてキロを見た。
﹁ボクもフカフカと同じ意見だよ。ボクだって︱︱﹂
何かを言いかけたミュトは唐突に口を閉ざし、赤面して横を向い
た。
フカフカがため息を吐く。
1188
﹁もう二度と体がかゆくなる台詞を我に言わせるな﹂
﹁悪かった﹂
キロは頭を下げる。
フカフカがもうよい、と尻尾でキロの頭をはたいた。
﹁それで、具体的な今後の予定であるが⋮⋮﹂
フカフカに促され、キロは少し考える。
現代社会の仕組みを知るのはキロだけであり、具体的な予定を立
てられるのもキロだけだ。
あれこれと考えたキロは、まず、と口を開く。
﹁児童養護施設に行こうと思う﹂
﹁じどう⋮⋮?﹂
翻訳が働かなかったらしく、ミュトが首を傾げた。
﹁俺が育った場所だ。異世界に行く直前に出向く予定だった。いま
からでも行かないと騒ぎになるかもしれない﹂
キロが児童養護施設に行く理由にはもう一つある。
施設で飼われていた犬の遺品だ。
﹁あいつのエサ入れを確保しておきたい。多分、遺物潜りの媒体に
使えるはずだ﹂
クローナの世界を経由するとしても、今一度現代社会に戻ってバ
イト終わりのキロを異世界に放り込む必要がある。
1189
現代社会に戻るための媒体の確保は必須事項だ。
﹁この世界では、死体はまず見つからない。俺の記憶にある限り、
この世界で確実に手に入る遺品は施設の犬のエサ入れくらいだ﹂
﹁動物の遺品でも媒体になるの?﹂
﹁確かめればいい。使えないとしても、顔くらい出しておきたいか
らな。他の事は明日にしよう﹂
キロは立ちあがり、ジャンパーを羽織る。
ミュトは自分が着ている服を見下ろして困り顔をした。
﹁どうしよう﹂
ミュトは今、キロの服を着ているため丈があっていない。
キロはクローゼットを開け、ハーフパンツを取り出した。
﹁とりあえずこっちを履いておけ。それから、ベルトの上にこれ巻
いておけば誤魔化せるだろ﹂
キロより背の低いミュトが履けばゆったりし過ぎなきらいはあっ
ても誤魔化せる範囲で収まる服を手早く選び、キロは着替えを指示
して戸締りを確認する。
元栓などを確かめる内にミュトが着替えを終え、キロの元に現れ
た。
﹁どうかな⋮⋮?﹂
﹁可愛いと思うよ。着る奴が違うと印象もだいぶ変わるな﹂
キロが上から下まで眺めて感想を告げると、ミュトはそっか、と
少し嬉しそうに笑って、クローナの遺体を振り返る。
1190
街中を遺体を背負って移動するわけにもいかないが、部屋に置い
て行くのも不安なのだろう。
未だに机の上に乗ったままのフカフカがキロ達を見る。
﹁二人だけで行くがよい。留守は我が守ろう﹂
来客は無視するがな、とフカフカは偉そうに胸を張る。
キロは礼を言って、フカフカに留守を任せて外に出た。
﹁急ごう。電車も乗らないといけないし﹂
所持金を確認しようと財布を取り出したキロは、中に転がる金貨
や銀貨、宝石の類を見つけ、夜空を仰いだ。
﹁明日、換金しておくか﹂
貨幣はともかく、宝石の類なら身分証の提示で済むはずだと考え、
キロはミュトを連れて駅に向かう。
少し近道していこうと考えて、キロは公園を突っ切る道順を選ん
だ。
整備された公園の遊歩道は左右を林に挟まれており、夜という事
もあって人通りが少ない。
途中にあった広場には遊具が置かれているが、立ち入り禁止の看
板が立っていた。
看板の横に書いてある細かな注意書きを読んでみると、どうやら
遊具に破損があるらしい。
看板の文字が読めないミュトは遊具を眺めていたが、遊具の下に
ある何かに気付いてキロの服を引っ張った。
﹁キロ、この生き物は何?﹂
1191
﹁⋮⋮猫だな﹂
昔懐かしい滑り台の下、目立たないところに猫が倒れていた。
首輪がついており、毛並もよい。
﹁飼い猫か﹂
触れてみるとすでに冷たい。死んでいるようだった。
連絡を取る手がかりもないため、飼い主が探しに来ることを期待
して猫の死骸を放置する。
首輪が媒体になっている可能性はあったが、飼い主に無断で拝借
するのは気が引けた。
再び歩き出し、公園を抜けると居酒屋が並ぶ通りに出る。
珍しそうに街並みを眺めるミュトを、すれ違う通行人が呆けたよ
うな顔で見つめていた。
かわいらしい外見をしているミュトは白髪の物珍しさも相まって
人目を引くのだ。
駅に近付くにつれて人が増え、ミュトがはぐれないようにキロは
手を差し出す。
﹁手を繋いでおこう。はぐれるとかなり面倒なことになるからな﹂
日本語はおろか英語さえ話せないミュトが現代社会で道に迷って
しまうと、再び合流できるか分からない。
自動券売機で切符を買うキロを興味深そうに観察し、改札機に恐
る恐る切符を通すミュトを周囲の通行人が微笑ましそうに見ている。
改札を抜けてホームに降りるとちょうど電車が止まっていた。
ミュトの手を引いて乗り込み、空いていた席に座る。
興味津々で座席の感触を確かめていたミュトは電車が動き出すと
振り向いて窓の外を見る。
1192
﹁は、速い。この世界、何で鉄の塊が走ってるの?﹂
﹁空も飛ぶし、海や川を泳いだり、潜ったりもするぞ﹂
﹁⋮⋮どうなってるの、この世界﹂
電車が目的の駅に到着し、キロ達はホームに降りる。
改札から切符が出てこない事にミュトが狼狽えるなどの一幕があ
ったが、どうにか駅を後にした。
バスには乗らず、さりげなく動作魔力で強化して道を歩く。
︱︱思い返してみれば、ミュトと二人きりで歩くのは初めてだな。
言葉少なに歩いてきたが、不思議と気まずさはない。
原因を求めて横目でミュトを窺い、キロは理解した。
言葉を交わさずとも、ミュトは楽しそうに隣を歩いているのだ。
︱︱珍しい物ばかりだろうし、歩くだけでも楽しいに決まってる
か。
クローナとも歩いてみたいと思っていると、道の先に見慣れた建
物が姿を現した。
この手の施設としては小さめの二階建て、庭は広く、遊具はない
が子供時代にはサッカーボールを転がしたりもした。
庭の端に、不恰好な小屋がある。
昔、キロが施設長と共に作った犬小屋だ。
今、その犬小屋には空っぽのエサ入れが置かれているが、いつも
尻尾を振りながら飛び出してくるはずの雑種犬の姿はなかった。
明かりのついた児童養護施設が纏う空気も、どこか沈んで見える。
キロは一つ深呼吸して、玄関のチャイムを鳴らした。
1193
第五話 児童養護施設
キロがチャイムを鳴らすと、玄関の電気が点き、玄関扉のすりガ
ラスに小さな影が差した。
﹁はい。あの、ご用件は?﹂
﹁俺だ。史隆だ﹂
﹁史隆君!﹂
勢いよく玄関扉が開き、中学生くらいの女の子が顔をだす。
﹁史隆君、遅かったね。みんな待ってる︱︱﹂
キロを見て笑顔を浮かべた女の子は、隣に立つミュトに気付いて
後退りした。
驚愕の面持ちで女の子は回れ右をし、施設内に大声で第一報を届
ける。
﹁史隆君が彼女連れてきた!﹂
施設内の空気が揺れる。
バタバタと向かってくる足音の群れに、女の子はさらなる知らせ
を送った。
﹁しかも、外国の人ッ!﹂
施設内の人間が全員加速した事が足音から分かるほど、大きく踏
み切る音が轟いた。
1194
第三報を送ろうとした女の子の口を慌ててキロが抑えるが、もう
遅い。
玄関に殺到したのは年齢も様々な七人の少年少女。
少年少女はキロとミュトを見比べて瞳を輝かせる。
﹁凄い美少女連れてきてる﹂
﹁え、何人? ねぇ、何人?﹂
﹁事情聴取しようぜ!﹂
口々に勝手な事を言い始める少年少女の後ろから、施設長である
壮年の男が現れた。
施設長はキロとミュトを見て一瞬度肝を抜かれたような顔で動き
を止めたが、すぐに我に返って少年少女を追い払う。
﹁お客さんの前で騒ぐんじゃない﹂
子供達を寝室へ続く廊下へ追いやって、施設長はキロ達を手招い
た。
﹁遅いと思ったら彼女を迎えに行ってたのか。連れてくるなら先に
言え。子供達の手が付けられなくなる﹂
日本語を話せないため間違いを正す事も出来ず、赤い顔を俯かせ
ているミュトの肩に手を置いて、キロは口を開く。
﹁彼女じゃないよ。今日こっちに来た友達なんだけど、日本語が話
せないから一人にするわけにもいかなくてさ。連れてきたんだ﹂
微妙に真実をぼかしつつ紹介すると、施設長は疑わしげな眼差し
を向けてきた。
1195
﹁どこで知り合ったんだ?﹂
﹁ネットの掲示板﹂
﹁⋮⋮若者文化は良く分からん﹂
理解する気概もないらしく、施設長は施設の奥の広間にキロ達を
通す。
﹁日本語が話せないって、何語で会話してるんだ﹂
﹁話せないだけで、日本語の聞き取りはできるんだ。だから俺達の
会話も理解できるよ。なぁ、ミュト?﹂
キロが話を振ると、ミュトは何度も頷いた。
﹁アニメを見て勉強したらしい。だから、読み書きできないし話せ
ないけど、聞き取りだけは完ぺき﹂
﹁偏ってるな。しかしまぁ、それなら放っておくわけにもいかない
かな﹂
施設長はミュトに軽く挨拶すると、キロに向き直る。
﹁色々と近況も聞きたいが⋮⋮先に会っておくか?﹂
施設の裏手を指さす施設長に頷きを返して、キロは足を向けた。
施設の裏手には小さな家庭菜園と子供たちの遊び道具や行事に使
う道具を収めた納屋がある。
建物の庇の下に、タオルでくるまれた大型犬の姿があった。
︱︱苦しまずに逝ったみたいだな。
ほっとして、キロは大型犬の手前にかがみ、手を合わせる。隣に
かがんだミュトも同じように黙とうをささげた。
1196
﹁年少の子が学校から帰ってきてすぐに散歩に行ったときはまだ元
気だったんだが、歳だからな。誰も見送ってやれなかった﹂
﹁プライドの高い奴だったし、無理して散歩に行ったのかもしれな
いな。意地でも死ぬところは見せない、とか考えそうだ﹂
手を合わせ終えて、キロは立ち上がる。
家の事が心配なため早く帰りたいキロだったが、施設の窓からじ
っと見つめてくる子供達に気付く。
施設長も子供達に気付いて、苦笑した。
﹁お茶くらい飲んでいきなさい。みんなもお前の近況を知りたがっ
ているみたいだ﹂
﹁どちらかというと、ミュトの事を知りたいみたいだけどな﹂
好奇心を隠そうともしない子供達の輝く瞳に気圧されたミュトが
キロの服の裾を掴んだ。
施設内に戻ると待ち構えていた子供達が一斉にキロ達を取り囲む。
施設長が窘めても子供たちの好奇心を抑える事は出来ず、いくつ
もの質問が飛んだ。
しかし、ミュトが日本語を話せないと分かると、質問の矛先はキ
ロの生活についてのものに逸れていった。
年少組の子はまだ具体的な未来として思い描けていないが、中学
生の子供達は将来の参考として話を聞きたがったのだ。
特に、身元保証人についての話もあり、施設長は少し居心地が悪
そうな顔をして、お茶を入れる名目で台所に引っ込んだ。
あれこれと質問に答えている内に年少組の何人かが眠いと言って
寝室に向かい、久々の来客で目がさえてしまっている子供を寝かし
つけるために中学生の子達も寝室に戻っていく。
ようやく解散してくれたか、とキロとミュトはそろって疲労を抱
1197
え、机に突っ伏した。
﹁お疲れ様。すまないね﹂
キロ達の前に入れ直したお茶が入った湯呑を置き、施設長が謝る。
キロは体を起こし、お茶を一口飲んだ。隣でミュトが湯呑を傾け、
飲みなれない味に渋い顔をする。
﹁お口に合わなかったか。リンゴジュースがあるはずだから、すぐ
に出しましょう﹂
施設長が立ち上がろうとするのをミュトが首を振って止める。
ミュトはキロの袖を引いて耳打ちする。
﹁不思議な味に驚いただけだから、このまま飲むって伝えて﹂
気を使っているのかとキロは思ったが、ミュトは再び湯呑に口を
つけて見せた。
大丈夫らしいと判断して、キロはミュトの言葉を施設長に伝える。
ミュトが何事もなかったように飲み始めたのを見て、施設長も安
心したように腰を落ち着けた。
﹁さっき子供達に囲まれているお前を見て思ったが、態度が柔らか
くなったな。壁がなくなったというか﹂
施設長をほっとしたような声で言って、キロとミュトを見比べる。
﹁やはり、ミュトさんのおかげかな﹂
ミュトが居た堪れないようにキロを横目で見る。
1198
キロはミュトの視線に首を傾げた。
﹁ミュトのおかげでもあると思う﹂
気を使いすぎるな、とクローナに叱られたのが発端だったとキロ
も思うが、ミュトと仲良くなる過程はキロにとっても実りのある物
だった。
誰かと積極的に付き合いを深める努力をしてこなかった点で、キ
ロとミュトは非常に似ていたからだ。
その点でも、間を取り持っていたクローナには頭が下がる。
クローナの事に触れるわけにはいかず、キロははぐらかしながら
施設長に説明した。
ミュトは俯いて湯呑を持つ手に力を込めている。
施設長は顎に手を当てて、ふむ、と小さく息を漏らした。
﹁少し悔しい気持ちがない事もないが、こいつの悪い癖が無くなっ
たのは喜ばしい事だ。ミュトさん、私からも礼を言うよ。ありがと
う﹂
施設長の言葉に肩を跳ねさせたミュトは、首を横に振った。
﹁⋮⋮ボクはキロに助けてもらってばっかりで、キロが変わったと
したら全部クローナのおかげ﹂
施設長には言葉が通じない事も忘れているのか、ミュトは否定す
る。
施設長が目を細めた。言葉が理解できなくとも、自分の言葉が否
定された事は伝わったのだろう。
﹁二人の事については良く分からないが﹂
1199
施設長は前置きして、話半分にでも聞けと付け足す。
﹁十年以上守っていた壁を崩した本人が感謝しているんだ。ミュト
さんが何らかの影響をもたらした事は否定できないよ。後で二人し
てゆっくり話し合うといい﹂
施設長が湯呑を傾けると、ミュトは俯いたまま小さく頷いた。
キロは壁の時計を見上げて、腰を上げた。
﹁帰りの電車もあるから、俺達はそろそろ﹂
﹁そうか。また顔を出すといい﹂
﹁あいつのエサ入れ、貰って行ってもいいか?﹂
キロが庭の小屋の前に置かれているはずのエサ入れについて言及
すると、施設長はあっさりと頷く。
﹁もともと、あれはお前が買った物だ。あの皿じゃないと結局餌に
手を付けなかったな﹂
なつかしむように言って、施設長が立ち上がる。
﹁子供達には説明しておこう。気を付けて帰りなさい﹂
1200
第六話 タイムパラドックス
施設長に別れを告げて、キロはミュトを連れて建物を出た。
犬小屋の前に置かれていたエサ入れを、施設長からもらったビニ
ール袋に入れる。
敷地を出て、駅に向かう間、ミュトはずっと無言で下を向いてい
た。
来る時はもっと明るい顔をしていただろうに、とキロは横目で窺
い、そっと声を掛ける。
﹁俺が変わったのは、ミュトのおかげでもあると思ってる。クロー
ナやフカフカにも世話になったけどさ﹂
本心からの言葉だ、とキロはもう一度告げるが、ミュトは俯いた
ままだった。
﹁⋮⋮そうじゃないんだよ﹂
ポツリとミュトが呟いた。
ミュトは道を振り返り、児童養護施設を見る。
﹁どうしようもない事なんだってわかってるけど、ボクが知らない
キロの人生があって、ボクの知らないところで変わっていって、ボ
クが共有できない思い出をキロが誰かと話しているのを聞くと寂し
くなるんだ﹂
ミュトが夜空を仰ぐ。
現代社会の夜空は、異世界のそれと違って随分と星が少なく、殺
1201
風景だ。
﹁⋮⋮思い出、か﹂
ミュトの気持ちは、キロにも理解できる。
児童養護施設に入る際に、転校を余儀なくされた。
その学年の中で、経験した行事も何もかもが違うキロは、話を合
わせるのに苦労して、挙句の果てには孤立した。
孤立した途端、気を使う必要が無くなった事にまた安堵して、自
己嫌悪に陥ったものだ。
﹁その寂しさはお互い様なんだって割り切るしかない。ただ、その
寂しさを疎外感だと錯覚しないでくれ﹂
﹁錯覚なのかな?﹂
﹁あぁ、錯覚だ﹂
キロは断言して、ミュトの眼を見る。
﹁ミュトを疎外したいなら、そもそも思い出話なんてしないで秘密
にするだろ。ミュトがいる場で話すのは思い出を共有する一環だ。
その時に何があって、どう感じたのか、分からないところがあった
ら聞け﹂
ミュトが足を止め、キロを見つめた。
思案するような間を開けて再び歩き始めたミュトに合わせて足を
動かしながら、キロはミュトの答えを待つ。
キロが昔通っていた小学校の傍を通った時、ミュトが口を開いた。
﹁クローナと出会ってからの事が知りたい。できれば、全部﹂
﹁⋮⋮そこからでいいのか?﹂
1202
最低でも児童養護施設に入ってからの事を聞かれると思っていた
キロは拍子抜けして、つい聞き返す。
わがままを言っている自覚からあまり昔のことまでは聞けなかっ
たのかとも思ったが、ミュトの表情を見る限りはそうでもなさそう
だ。
ミュトはキロから視線を逸らし、口を開く。
﹁それ以前の事はクローナがいる時に聞きたい﹂
︱︱︱確かに、クローナも同じように寂しがるかもしれないもん
な。
へそを曲げるクローナの顔を想像して、キロは苦笑した。
﹁クローナと出会ってからの事か。俺が異世界に飛ばされる直前か
ら話した方がよさそうだな﹂
キロは話し始める。
バイトを終えた直後、未来のキロに異世界へ放り込まれた時から、
地下世界でミュトとフカフカに出会うまでの一か月間の冒険譚だ。
できるだけ詳細に話そうと心掛けると、自然と長い話になるが、
ミュトは相槌を打って続きを促す。
密度の濃い一か月間が次々と想起され、時々話をまとめるための
間を挟みながら歩いている内に駅に着く。
冒険譚を小耳にはさんだ人々が奇異の視線を向けてくるが、良く
も悪くも異世界生活で注目を集める事に慣れてしまったキロは気に
しない。
キロが住むアパートの最寄り駅に到着した時には、冒険譚はアン
ムナと出会った頃まで進んでいた。
キロはアンムナとの会話を思い出している内に、違和感に気付く。
1203
︱︱何かが引っ掛かるな。
千切れそうな細い糸を手繰るような心許無い感覚にキロが眉を寄
せると、ミュトが心配そうにのぞき込んだ。
﹁言いたくないことまで言わなくていいよ?﹂
﹁こんな事で気を使うな。少し思い出していただけだから﹂
ミュトとやり取りするだけで切れてしまった細い糸は繋ぎ直すこ
とができず、キロはアンムナと出会ってからの事をミュトに話し始
める。
もしかしたらミュトが代わりに何かに気付くかもしれないという
淡い期待があった。
しかし、キロが誘拐捜査と並行してアンムナの話をしたのがいけ
なかったのか、ミュトは特に疑問を挟むことはなかった。
後で考えようと頭を切り替えたキロは、バイト先の近くを通りか
かり、道路を挟んだ向かい側を見る。
カードレールで仕切られた広めの歩道にはコンビニがあった。
﹁ミュト、あの店の事を覚えていてくれないか?﹂
キロがコンビニを指さすと、ミュトは少しの間を挟んで頷いた。
﹁キロが異世界に送り出される直前に見たボクが、立っていた場所
なんだね?﹂
ミュトはコンビニに目を向けて、目を細めた。
﹁でも、絶対に同じ場所に立っていないといけないの?﹂
﹁タイムパラドックスが起こるからな﹂
﹁たい︱︱何?﹂
1204
﹁タイムパラドックス、時間移動に伴う矛盾だ。例えば、過去に行
って祖先を殺してしまった場合︱︱﹂
キロが簡単に説明すると、ミュトは難しい顔で考え込んだ。
﹁そのタイムパラドックスって、避けようがないと思うんだけど﹂
ミュトが言葉を選びつつ、口を挟む。
﹁最初のキロはクローナを生き返らせるためにわざとタイムパラド
クスを起こしてるわけだよね? それまでの世界とは違う歴史をた
どるように操作しているキロに干渉された二番目のキロは、三番目
に干渉する。この流れだと、二番目のキロと三番目のキロが同じ歴
史をたどっていない限り、タイムパラドックスが起こる。ここまで
あってるよね?﹂
ミュトが自信なさそうに訊ねてくる。
相変わらず理解力が高いな、とキロは舌を巻いた。
地図師養成校に通っていた事もあり、基礎的な理解力は基礎教育
を受けた日本人と大差がないのかもしれない。
キロが頷いたため持論に自信が出てきたのか、ミュトは再び口を
開く。
﹁二番目のキロと、三番目のキロには明確な違いが一つ存在するよ。
絶えずひとつ前のキロに干渉されているんだから﹂
二番目のキロは三番目のキロに干渉、三番目のキロは四番目に干
渉、四番目は五番目に干渉される。
リレーのバトンのように引き継がれていく異世界送りの連鎖。
明確な違いとミュトが表現した物に気付いて、キロは顔をしかめ
1205
た。
﹁干渉結果が蓄積される?﹂
﹁やっぱり干渉されたキロに干渉されたキロとそれに干渉されたキ
ロだと、一回分干渉を多く受けている事になるよね?﹂
最初の内ならば無視できる誤差の範囲かも知れないが、誤差が蓄
積されるとすればどんな結果を生むか分からない。
キロは玄関越しに会話した未来のクローナの言葉を思い出す。
﹁相似であって合同ではないって、もしかしてこの事なのか?﹂
どこかで破綻するかもしれないバトン、キロには最後の回を引い
ていない事を祈るしかない。
﹁︱︱まだ、クローナが助かると希望を抱くのは早いのか﹂
未来のキロに従い続けるのが正しいとは限らないのだから。
1206
第七話 臨時収入
アパートに戻ったキロは扉を開け、明かりをつける。
﹁︱︱戻ったか﹂
フカフカの声がして、キロは顔をカーテンレールの上に向ける。
レールの上に寝そべったフカフカが欠伸を噛み殺していた。
﹁誰も訪ねてはこなかったぞ。二部屋隣の住人が帰ってきたようだ
が、もう寝たようであるな﹂
キロは充電器に差し込む前に携帯電話を開き、時間を確認する。
現在時刻は二十三時を回っていた。
﹁目的の物は手に入れたのであろうな?﹂
フカフカの問いかけに対し、キロはビニール袋からエサ入れを取
り出して掲げて見せた。
フカフカは鼻を両前足で覆って、不機嫌そうに尻尾を揺らした。
﹁獣臭いな﹂
﹁お前が言うのかよ﹂
﹁我は身綺麗にしておるから臭いはせぬ。食す物も貴様らと違って
品があるのでな﹂
﹁はいはい﹂
キロは机の上に置きっぱなしだったノートに素早く魔法陣を描き、
1207
エサ入れを乗せる。
発動してみると、魔法陣が淡く赤い色に光りはじめた。
﹁媒体には使えるみたいだな。これでもう一度現代社会に戻って来
れるのは確定だ﹂
一安心して、キロは魔法陣の発動を取りやめた。
キロは机の引き出しを開き、銀行の通帳を取り出す。
高校入学以来、バイトし続けて溜めた貯金の額を確認し、キロは
奨学金の返済総額と照らし合わせる。
︱︱全額返済に充てても足りないか。
やはり、地下世界で手に入れた宝石を売るしかない。
キロは机の上を片付け、財布からクローナの世界の貨幣や地下世
界の宝石を取り出して並べた。
ミュトがキロの隣に座り、宝石をざっと見まわす。
キロは部屋のパソコンを立ち上げ、ネットに接続する。
好奇心に駆られたミュトが、キロの操作するパソコン画面を見つ
めて口を開いた。
﹁何してるの?﹂
﹁宝石の種類と、相場を調べてる。物によってはオークションに出
品した方がいいだろうからな﹂
落札されるまでの時間を現代社会で過ごせるかはわからないが、
と付け足しつつ、キロはあちこちのサイトを見比べる。
流石は鉱物資源豊富な地下世界で価値を認められるだけあるとい
うべきか、出すとこに出せば高値が付きそうな物が多くあった。
キロは宝石の買い取りを行っている近所の店を調べつつ、充電が
終わった携帯電話を手に取った。
登録してあるアドレスからとある人物に掛ける。
1208
コール音は一回、即座に出てきた電話の相手は眠気を含んだ不機
嫌な声で開口一番キロを罵る。
﹁お前、時計って知ってる? 携帯画面の上に表示されてる時刻を
見てみ? お兄さんに今の時刻を教えてもらえるかなぁ?﹂
﹁大原、深夜に掛けたのは謝るよ。ところで、お前好きな宝石とか
鉱石とかあるか?﹂
キロが電話をかけた相手は高校時代の友人にして科学部における
天才と紙一重のバカ、大原だった。
スライムに水溶き片栗粉をぶち込むという変わった倒し方を考え
付くほどにはぶっ飛んだ頭の持ち主だが、科学の範疇ならば何もか
もを趣味にしてしまえるこの男ならば、鉱物収集もしているのでは
ないか、とキロは睨んでいた。
﹁んだよ、藪から棒に。キロチーに言ってもわかんねえだろ﹂
﹁チーを付けるな。ちょっと色々あって、宝石と鉱物が手に入った
んだけど、俺が持ってても仕方ないからどこかに売ろうと思ってさ﹂
﹁おう、売っちまえ。簡単に手に入るような物ならせいぜい二千円
だろ。まぁ、興味はあるから隣に一円玉でも置いて、大きさが分か
るように写真を撮ってこっちに送れ﹂
面倒臭そうに言いながらも、手伝ってくれるらしい。
持つべきモノは友達だなと思いつつ、キロは礼を言って通話を切
った。
隣で携帯電話に耳を押し当てていたミュトがキラキラした目で携
帯電話を指さす。
﹁なに、今の?﹂
﹁遠くの奴と連絡を取ったんだ。この世界じゃないと使えない機能
1209
だけどな﹂
キロは机の上に置いた各種の宝石と一円玉を数枚の写真に分けて
撮影し、添付メールで送る。
︱︱あいつ眠そうにしてたし、返信があるとしたら明日だな。
すでに日付を跨いでいる事に気付き、キロはベッドに目を向けた。
むろん、一人用であり、貧乏も手伝って狭い。
ミュトと顔を見合わせ、キロは手でベッドを示した。
ミュトが首を左右に振る。
﹁キロの家なんだから、キロが寝なよ﹂
﹁そう言うわけにも︱︱﹂
キロが言い返そうとした時、携帯電話が着信を知らせる。
バイブレーション機能の特徴的な音に、ミュトが肩を跳ねさせ、
フカフカが鬱陶しそうに尻尾でカーテンを叩いた。
誰かと思いつつ画面を見ると、大原だった。
﹁もしもし、規路だけど︱︱﹂
﹁キロチー! お前この石!﹂
切羽詰まったような声で怒鳴ってくる通話口の向こうの大原に辟
易し、キロは携帯電話を耳から遠ざける。
﹁五月蠅い。少し落ち着け﹂
﹁お、おう、わりい。まだ売ってないだろうな? というか、誰か
にこの写真送ってないよな?﹂
﹁送ってないけど﹂
﹁︱︱っしゃあ!﹂
1210
ガッツポーズしている姿が瞼の裏に浮かんでくるほど気合いのこ
もった声で言って、大原が眠気の微塵も感じられない声で話しかけ
てくる。
﹁さっきはせいぜい二千円とか言ってすまんかった。いまから金持
ってお前の家行くから、まだ誰にも声掛けるな﹂
﹁いや、来るな﹂
﹁絶対行くわ﹂
譲る気の無さそうな大原の声に弱りながら、キロは部屋に横たわ
るクローナの遺体に目を向ける。
︱︱警察沙汰になる⋮⋮。
己の迂闊さを呪いながら、キロは代案を出す。
﹁せめて、どっかのファミレスで落ち合おう﹂
﹁オッケー、了解。アイム了解。石は全部持ってこれるか?﹂
﹁大丈夫、どこで落ち合う?﹂
﹁公園横の、何て名前だったっけ、洋風の店﹂
﹁あれか。サイなんとか﹂
そう、それ、と大原の声。
通話を切ったキロは、石をかき集めて立ち上がる。
﹁ちょっとこの石を売りつけてくる﹂
﹁ボクも行っていい?﹂
﹁⋮⋮そういえば、夕食の直前にシールズに襲われたんだったな﹂
思い出すと途端に空腹を覚えるのが不思議だった。
クローナが生き返る可能性が出てきたこともあり、気が抜けたの
だろう。
1211
ついでに食事も済ませてしまおうと思い、キロはミュトと共に再
び家を出た。
指定のファミレスに到着した時、大原はすでに店内でキロを待ち
受けていた。
キロがミュトと一緒に来店すると、ミュトに驚きの目を向ける店
中の人々とは全く違う反応を大原は見せる。
﹁キロチー、石!﹂
﹁店の中で騒ぐな、バカ﹂
大原の対面に並んで腰掛けたキロとミュトは、やってきた店員に
パスタとドリアを頼む。
一月の寒風に当てられて、温かい食事が食べたかったのだ。
ミュトには一切目を向けず、大原はそわそわしながら石が出てく
る時を今か今かと待っている。
キロがテーブルの上に宝石を置くと、食い入るように見つめだし
た。
﹁やっぱりどれも大粒で美品、インクルージョンもあるって事は天
然物か﹂
ごくりと喉を鳴らして、宝石や鉱石の観察をする大原。
キロとミュトは運ばれてきた料理を食べるが、大原は頼んでいた
コーヒーの存在すら忘れている様子で鉱石に夢中だった。
ミュトがキロに耳打ちする。
﹁変な人だね﹂
﹁凄く変な奴なんだ。まぁ、嘘は吐かないし、根はいい奴だけどな﹂
1212
キロは大原のフォローをして、ドリアを口に運ぶ。
ミュトがキロの袖を引っ張った。ドリアに興味があるらしい。
スプーンでドリアを適量を取る。
﹁ほら、口開けろ﹂
あーん、と口を開けたミュトにドリアを食べさせて、キロは代わ
りにミュトのパスタも少量貰う。
二か月ぶりの現代社会の料理は塩気がきつかったが、美味しく感
じられた。
視線に気付き、キロは大原を見る。
大原はミュトの顔を見つめていた。
ようやくミュトに気が付いたのかと思ったが、大原の興味はミュ
ト本人ではなかったらしい。
﹁そのサングラス、プラスチックじゃないな。ガラスでもない、と
なると鉱石か?﹂
ミュトはサングラスを外し、守るように胸に抱く。
﹁サングラスは売り物じゃないよ。キロとクローナからもらったん
だから﹂
キロはミュトの言葉を翻訳する。
大原が舌打ちした。
﹁透明感あるし、結構いい品だと思ったんだがな﹂
大原は冷めたコーヒーを一口飲むと、キロに向き直った。
1213
﹁まず、どれも一万円はする代物だ。物によっては十万近い。そこ
のトルマリンとか、俺なら十三万出す﹂
いきなり飛び出した金額にキロは思わず指差されたトルマリンを
見た。
非常に透明感のあるトルマリンであり、三つの柱がひとまとまり
になったような形状をしている。
ミュトを横目で窺うと、現代社会の金銭価値に疎い彼女は首を傾
げつつ補足する。
﹁ボクの世界ではそれなりの品だよ。一つでボク達が最後に泊まっ
た宿で十泊くらいできるね﹂
息を飲むキロに気付かず、テーブルの上の鉱石や宝石を見つめた
大原は、電卓を取り出して計算を始めた。
﹁︱︱百飛んで二万、即決で払う﹂
﹁⋮⋮大原、どこからそんな金が出てくるんだよ、お前﹂
﹁バイトしてんのがキロチーだけだと思うな。そこのトルマリンな
んか、俺の伝手なら十五万で売り飛ばせるんだよ﹂
﹁転売かよ!﹂
キロはつい突っ込みを入れるが、良い話だった。
キロ自身の貯蓄と合わせれば、高校生活でできた奨学金を完済し
ておつりがくる金額なのだ。
﹁贈与税は⋮⋮ぎりぎり掛からないか﹂
﹁よく知ってるな、流石は苦労人﹂
1214
キロはわずかの逡巡の後、頷いた。
﹁売った﹂
﹁よし来た。ただ、金額が金額だから書類を作りたい。明日の朝、
落ち合おう﹂
金銭品物の受け渡しは後日、という事でキロはテーブルの上に広
げていた宝石や鉱物を片付ける。
﹁キロチーさ、この売却金は奨学金の返済に充てるんだろ? 完済
したらどうするんだ?﹂
大原がコーヒーを飲み干し、伝票を手に取りつつキロに訊ねる。
キロは隣のミュトを見た後、クローナとフカフカを思い出しなが
ら口を開いた。
﹁異世界でも探して定住するよ﹂
﹁そっか。キロチーは器用だから、俺が起業したら雇おうかと思っ
たんだけど⋮⋮。電波通じ無さそうだし、せめて手紙くらい出して
くれ。気が変わったらちゃんと言えよ﹂
冗談だと思っているのかあっさり受け流して、大原は席を立ち、
店を出て行った。
1215
第八話 憂いを絶って
﹁つ、疲れた﹂
アパートのベッドにうつ伏せに倒れ込んで、キロは息を吐く。
時刻は午後一時、ファミレスから帰宅後すぐに就寝し、六時頃に
起き出して大原とやり取りした。
布や新聞などの必要な物を買ったうえで、奨学金の払い込みの他、
異世界に旅経つために後顧の憂いを絶って帰ってきた。
﹁本当に百万ちょっと即金で振り込むって、大原の奴は相変わらず
趣味に全力過ぎるだろ﹂
キロはぼやくが、大原に感謝もしていた。
おかげでずっと頭を悩ませていた奨学金の問題が片付いたのだか
ら。
燃え尽き症候群だろうか、ぼんやりと通帳を見つめたキロは残金
を確認してため息を吐く。
通帳に残された残金はおおよそ五十万、キロの年齢を考えれば現
代社会で再出発するのも十分可能な金額だ。
だが、キロは深呼吸ひとつで通帳を閉じ、体を起こす。
後顧の憂いを無くしたのも、すべてはクローナのためだ。
キロは新聞を手に取り、机の上に広げる。文字が読めないながら
も気になるのか、ミュトとフカフカが覗きこんだ。
﹁どこを見ればいいの?﹂
﹁とりあえずは訃報欄だな。このアパートの住人か、近所の人が載
っていたら、その人が髪飾りの本来の持ち主の可能性が高い﹂
1216
キロ達が現代社会のアパートに辿り着いた原因である髪飾り、モ
ザイクガラスがあしらわれたそれは見るからに女性の物だったが、
キロは先入観を無くすことを心がける。
世の中には女装が趣味の人間もいるのだから。
訃報欄を確認する。
奨学金の払い込みを終えて帰ってくる際に買った今日の朝刊だが、
訃報欄にはそれらしい名前はない。
﹁やっぱり駄目か﹂
﹁やっぱりとはどういう事だ?﹂
キロの呟きを聞きとがめて、フカフカが問いかける。
﹁この朝刊が刷られた時にはまだ死亡届が出ていなかったか、受理
されてなかったんだ﹂
死亡届は一日中受け付けている。
だが、キロ達が遺物潜りで現代社会に辿り着いた時刻が十九時で
あった事を考えると、病院への搬送と死亡確認、遺族との顔合わせ
などで時間が取られ、市役所に死亡届を届けるのは翌日にしようと
考えるだろう。
もう一日待てば判断できない事もないが、クローナの遺体の腐敗
が始まってしまったら蘇生できるか分からない。
冬場とはいえ、長丁場は良くないだろう。
︱︱エサ入れを使えばもう一度戻って来れるのは間違いないんだ。
髪飾りの持ち主については後回しにすべきだな。
念のため、アパート周辺で殺人事件が起きてないかを調べたが、
見つからなかった。
1217
﹁髪飾りの詳細についてはまたの機会にしよう﹂
﹁⋮⋮賢明であるな。キロの特殊魔力の効果が蘇生であると確定し
たわけでもない。時間を無駄にすべきではなかろう﹂
﹁︱︱フカフカは黙ってて﹂
ネガティブな事を言うフカフカの首根っこを捕まえて、ミュトが
申し訳なさそうにキロを見る。
気にしてない、とキロは笑って、机を壁際にずらす。
床に買ってきたばかりの白い布を広げたキロは、慎重に魔法陣を
描いた。
クローナの杖を乗せられるように描いた魔法陣は、ベッドや机を
壁に立てかけておかなければ広げられない大きさとなった。
不備がないかを検分したキロは改めて部屋を見回す。
﹁俺がいなくなった後にこの部屋に来た人って、この状況を見てど
う思うんだろ﹂
得体のしれない魔法陣が部屋の中央に広げられている、家主が失
踪した部屋。
事故物件としか思えなかった。
次に現代社会に戻ってくる時には部屋の解約もしようと、とキロ
は決意する。
契約が切れてさえいれば、元の家主が失踪しても関係がないはず
だ。
キロは荷物の最終確認をしてから、クローナの体を抱える。
﹁それじゃあ覚悟を決めてもう一度、遺物潜りをする﹂
前回は不意に繋がった虚無の世界に放り出され、散々な目に遭っ
た。
1218
クローナの遺品を使うため虚無の世界に放り込まれる可能性は低
いが、用心するに越した事はない。
もっとも、今回は脱出に使えるエサ入れも存在し、即座に遺物潜
りができるように手元に魔法陣を描いたノートも持っている。
危険な世界に辿り着いてしまった場合の対処法をもう一度確認し
て、キロは遺物潜りを発動した。
両手がふさがっているキロの腕にミュトがしがみつき、フカフカ
が首に巻き付く。
﹁︱︱行くぞ﹂
宣言して、キロ達は遺物潜りの黒い空間を潜った。
黒い空間を越えたキロ達を出迎えたのは、真っ暗闇だった。
虚無の世界か、とキロ達は思わず身構えるが、足の下にある床の
感覚に気付いて考えを改める。
﹁フカフカ、明かりをお願い﹂
ミュトが頼むと、フカフカが尻尾を光らせた。
フカフカの尻尾に照らし出されたのはこじんまりとした部屋だっ
た。
︱︱見覚えがある。
キロは部屋の窓に歩み寄り、開け放つ。
外の景色を見て、確信した。
﹁教会だ﹂
眼下から聞こえるのは羊の鳴き声、もこもこした羊に混ざってい
1219
る地下世界の馬。
フカフカがミュトの肩の上からキロに声を掛ける。
﹁どうやら、盗人か何かだと思われているようだ。キロよ、扉の外
に声を掛けるがよい﹂
二階の小部屋で不審な物音がすれば、誰でも勘違いするだろう。
教会の司祭も例外ではないらしく、息を潜めて様子を見に来たら
しい。
キロは扉の外に声を掛ける。
﹁司祭さん、俺です。キロです﹂
司祭が翻訳の腕輪を外している可能性も考えて、カタコトながら
クローナの世界の言葉でもう一度繰り返す。
﹁⋮⋮キロ君だったのか。訪ねてきたなら声くらい掛けなさい﹂
扉を開けた司祭がそう言って、苦笑した。
しかし、キロが背負ったクローナを見て、顔を青くする。
何かを言いかける司祭の機先を制して、キロは告げた。
﹁クローナは息を引き取りました。事情を話すので、とりあえず一
階に行きましょう﹂
1220
第九話 キロの特殊魔力
落ち着いて話したからだろう、司祭はキロの話を黙って聞いてく
れた。
夕食を食べに行く途中、シールズに襲撃された事、窃盗組織のア
ジトにおける戦闘、諸願成就のお守りを使って虚無の世界へと転移
してしまい、悪食の竜と遭遇して逃走中にクローナが自殺し、現代
社会へと転移した事、現代社会からここに戻ってくるまでの大まか
な経緯。
長い話をすべてを聞き終え、司祭は疲れた顔で目頭を揉んだ。
﹁おおよその状況は理解できたが、キロ君はずいぶん落ち着いてい
るね﹂
﹁丸一日経っているのもありますが、クローナを蘇生させる方法に
心当たりがあるんです﹂
司祭がキロを見つめる。気が触れたかと思われているらしい。
フカフカがミュトの肩の上で立ち上がり、話に割って入った。
﹁キロの特殊魔力が蘇生に関する効果を有している可能性があるの
だ﹂
司祭が驚き、目を丸くしてキロを見た。
治癒の特殊魔力を持っているだけで一生食うに困らないとされる
この世界、蘇生の特殊魔力が実在すれば大事である。
﹁まだ仮説の段階です。いまから森に行って魔物を倒して確認して
くるので、クローナの事をお願いできますか?﹂
1221
﹁それは構わないけれども、もうすっかり暗くなった。森は危険だ
から、明日にしなさい﹂
クローナがいない以上、森に詳しい人間はいない。
キロ達が森で迷うのではないかと心配する司祭に、キロはクロー
ナの遺体を振り返る。
﹁お心遣いには感謝します。ただ、俺達は少しでも時間を無駄にし
たくない。フカフカが強力な照明の代わりをしてくれるので、森の
外周を回る分には問題ないです﹂
腐敗の単語を口にするのは憚られるため、キロは遠回しに時間が
ない事を告げ、何か言われる前に立ち上がった。
遅れてミュトが立ち上がり、司祭は諦めたようにため息を吐いた。
﹁今晩の内に、なるべく早く帰ってきなさい﹂
キロは礼を言って、ミュトと共に教会を後にする。
町へ向かいながら、キロは月を確認した。
晴れとまでは言えない天気だが、幸い月は大きく、辺りは月明り
でぼんやりと浮かんで見える。
フカフカが気を利かせて足元を照らしてくれているため、歩きや
すい。
﹁ギルドにボク達が生きているってことを知らせた方がいいんじゃ
ないかな?﹂
﹁明日にでも、ラッペンに向かおう。遺物潜りで逃走した経緯を話
しても、混乱を招くだけだから、俺達が直接ラッペンのギルドに説
明した方がいい﹂
1222
司祭から聞いた日付と照らし合わせると、ラッペンの窃盗組織の
アジトでキロ達が遺物潜りをしてからそんなに時間はたっていない
はずだった。
︱︱クローナが虚無の世界で自殺した時刻に転移したんだろうな。
おそらく、今は撤収準備に入った窃盗組織とそれを追うラッペン
の冒険者ギルドの戦闘が始まっているだろう。
外壁の門にまで来ると、守衛を兼ねる町の騎士がキロを見て怪訝
な顔をした。
﹁お前、訓練所の教官に喧嘩売って勝っちまったって噂の黒髪の冒
険者だろ? ラッペンに行ったんじゃなかったのか?﹂
キロはフカフカの翻訳の腕輪を守衛に貸して、口を開く。
﹁ちょっと事情があって、戻ってきたんだ。森に行きたいんだけど、
今は門を開けられるか?﹂
﹁こんな時間に何言っているんだ。開けられるはずがないだろ。明
日にしろ﹂
﹁いや、開けてもらえないなら別の方法で通るだけだから、気にし
なくていい﹂
キロはさらりと言って、守衛の手から翻訳の腕輪を取り上げると
フカフカに投げ渡す。
フカフカは投げられた翻訳の腕輪をうまく空中でくわえた。
守衛がハッとして騎士剣の柄に手を掛けるのと同時、キロはミュ
トの腰に手を回す。
守衛が抜き放った騎士剣が月明かりを浴びる頃には、キロは外壁
に足を付け、登り始めていた。
目の前から姿を消したキロを探して周囲に視線を走らせる守衛に、
キロは壁を登りながら声を掛ける。
1223
﹁いってきます﹂
カタコトの言葉が頭上から降ってきたことに驚いて壁を見上げる
守衛にミュトが手を振る。
﹁︱︱紛らわしい事すんな、バカ野郎!﹂
地面から守衛の罵声が追いかけてきたが、キロは無視して壁を登
り切り、外へと降り立った。
森へと足を運び、キロはフカフカに周囲を照らすよう頼む。
遮蔽物の多い森の中である事を考慮して、フカフカが強い光を放
った。
夜であるにもかかわらず、フカフカの明かりのおかげで樹皮の観
察すら出来そうなほど、明るい。
﹁近くに獣か何かがいないか?﹂
森に分け入りながら、キロはフカフカに訊ねる。
耳を澄ましたフカフカが頭を振った。
﹁我の明かりに恐れをなして逃げ惑っておる。五つ名持ちの我の強
大さを光ひとつで判断できるとは、なかなか賢いではないか﹂
﹁フカフカ、目的分かってるの?﹂
ふふん、と得意げに鼻を鳴らすフカフカを、ミュトが半眼で睨む。
キロは地面を見回し、藪をかき分ける。
﹁⋮⋮みつけた﹂
1224
グリンブルが縄張りを主張した痕跡を見つけたキロは、木々を一
本づつ見回って樹皮が食べられていないか調べた。
すぐにグリンブルが食べたらしい跡を発見し、また地面を調べて
縄張りを主張した痕跡を探す。
二回ほど繰り返していると、フカフカが顔を上げた。
﹁木々をなぎ倒して何かが突進してくる﹂
フカフカが尻尾の明かりを向けると、照らし出されたグリンブル
とキロの眼があった。
銀色に輝く体毛を持つ、体高がキロよりもやや高いグリンブルだ。
フカフカの明かりがあるため、縄張りに侵入された事にもすぐ気
付いたらしい。
グリンブルが鼻息荒くし、蹄で地面を踏みしめる。
次の瞬間、動作魔力を用いて急加速したグリンブルがキロへと一
直線に突進した。
だが、キロは軽く地面を蹴ると横にあった木の幹に足を付け、グ
リンブルの突進をかわす。
目の前を横切るグリンブルの心臓へ、キロは動作魔力を込めた手
元の槍を突き刺した。
狙い過たず心臓を一撃で貫かれたグリンブルの体から力が抜け、
慣性に従って地面をえぐりながら、進行方向にあった木の幹にぶつ
かって停止した。
キロ自身も拍子抜けするほどあっさり倒せてしまったが、手間が
かからないに越した事はない。
異世界に来たばかりの頃にしかグリンブルと戦っていない事を考
えれば、一瞬で決着がついてしまった理由は、単純にキロの腕が上
がったからだろう。
﹁フカフカ、周囲に向かってくるモノは他にいるか?﹂
1225
﹁おらぬ。小動物は多いがな。さっさと検証を始めるがよい﹂
フカフカにせっつかれるまでもなく、安全を確認したキロはグリ
ンブルから槍を引き抜く。
手元に特殊魔力を集めたキロは、ミュトに声を掛ける。
﹁蘇生した直後に暴れられても面倒だから、ミュトの特殊魔力で動
きを封じてくれ﹂
﹁分かった。フカフカは警戒をお願い﹂
﹁言われるまでもない﹂
ミュトがグリンブルの側にかがみ、四肢と首を固定するように特
殊魔力を張った。
視線で準備が完了した事を教えられて、キロは満を持してグリン
ブルの死骸を特殊魔力で覆った。
﹁反応なし?﹂
ミュトが呟く。
しばらく待ってみたが、グリンブルはピクリともしない。
早とちりだったかと落胆しかけたキロの脳裏に一つ疑問がわいた。
︱︱もしかして、覆うだけじゃなく、込めるのか?
死んでいるからには心臓を代表とした内臓も止まっているはずだ。
ならば、とキロは特殊魔力をグリンブルの体へと徐々に込めてい
く。
﹁⋮⋮動いた?﹂
ミュトが首を傾げ、グリンブルの顔を見る。
瞳に光が戻っていた。
1226
キロは槍で貫いた傷口に視線を移す。
﹁完治してる⋮⋮﹂
﹁傷まで治すとは⋮⋮キロよ、権力者に目を付けられると面倒であ
る。他言するでないぞ?﹂
﹁まだ人に効くかどうかは分からないけど、確かに言わない方がよ
さそうだ﹂
すべての人間を助けられるとは限らないのだから。
﹁早くクローナのところに戻ろうよ。死亡してから時間が経つと蘇
生できないかもしれない﹂
早く、早く、とミュトが急かす。
キロは頷いて立ち上がり、槍を持った。
﹁生き返らせておいて、ごめんな﹂
通じないと知りつつも謝り、キロは苦しませないよう、グリンブ
ルを一息に突き殺した。
1227
第十話 振り出し
外壁を普段通りに登りきって、守衛を務める騎士に諦めたような
視線で見送られたキロは、その足で教会へ戻った。
重い空気を察したのか、静まり返った羊達を見ながら、キロ達は
教会に辿り着く。
教会の扉を開くと、司祭が待っていた。
﹁どうだったのかな?﹂
当てが外れた場合の覚悟も決めてあるらしい司祭に真剣な声で問
われ、キロは答える。
﹁グリンブルに対して試したところ、成功しました。いまからクロ
ーナに試します。それから、俺の蘇生魔法は他言無用でお願いしま
す﹂
ほっとする反面、驚きもあったのだろう、司祭は複雑な表情をし
つつもクローナの遺体が安置されている部屋にキロ達を案内してく
れた。
キロはクローナのへその辺りに手を置き、特殊魔力を込める。
グリンブルとは違い、時間が経っているためか込める特殊魔力も
多くなる。
だが、込めた特殊魔力が作用している感覚はあった。
︱︱大丈夫だ。効果はある。
焦る気持ちを落ち着けながら、特殊魔力を込め続けていると、一
瞬クローナの指先が動いた気がした。
ミュトがクローナの口元に耳を寄せる。
1228
﹁⋮⋮微かだけど、息をしてる!﹂
﹁︱︱よし!﹂
生き返る、その確信を得られた事で、はやる気持ちを押さえつけ
ながらキロは特殊魔力を込め続けた。
キロの眼にも、クローナの顔色が良くなっていくのが分かる。さ
らに、胸も上下し始めた。
クローナの瞼が開き、ぼんやりした顔で周囲を見回す。
顔を覗き込んだミュトと眼が合い、クローナは瞬きする。
﹁⋮⋮ミュトさん?﹂
﹁︱︱クローナ!﹂
感極まって抱き着いたミュトに眼を白黒させるクローナの腹から
手をどけて、キロは床に座り込んだ。
ミュトの肩から飛び降りたフカフカが、キロを見る。
﹁どうした、ミュトのように抱き着かないのか?﹂
﹁⋮⋮安心したら、体に力が入らなくなった﹂
自分でも情けなくなったキロだが、フカフカは何か言いかけて口
を閉ざす。
てっきり小言の一つでも飛んでくるかと思っていたキロに、フカ
フカは尻尾を一振りして一言、こういった。
﹁よくやった﹂
そっぽを向いて窓の桟に飛び乗ったフカフカはクローナに抱き着
いて泣いているミュトに声を掛ける。
1229
﹁そろそろキロに場を譲ってやれ﹂
﹁あ、ごめん、つい﹂
涙をぬぐいながら、ミュトはクローナから離れ、照れたように笑
った。
つられてクローナが曖昧に笑う。
クローナは再度部屋を見回し、首を傾げた。
﹁虚無の世界だったはずですけど、私の遺品で教会に?﹂
クローナがミュトに問う。
ミュトは頷いて、赤くなった眼でクローナを睨む。
﹁もう二度と早まった真似はしないでよ?﹂
有無を言わせぬ口調。
普段フカフカ以外には怒らないミュトが本気で怒っている事が伝
わったのだろう、クローナは申し訳なさそうな顔をして助けを求め
るように部屋を見回す。
しかし、ミュトがクローナの心中を見透かして眼をすっと細める。
﹁話を逸らそうとしてないよね?﹂
ギクリ、と音が聞こえてきそうなほどあからさまにクローナが肩
を跳ねさせ、司祭を上目使いに見た。
クローナに甘い司祭は苦笑しつつも、キロを手で示す。
﹁ひとまず、キロ君に謝りなさい﹂
1230
司祭に促されたクローナは不思議そうな顔でキロを見た。
クローナの視線を受けた時、キロは悪寒を覚えて眉を寄せる。
︱︱なんだ、この違和感?
眉を寄せるキロをなおも不思議そうな顔で見たクローナは、首を
傾げた。
﹁⋮⋮えっと、何でこの人に謝らないといけないんですか?﹂
クローナの言葉にミュトが頬を膨らませる。
﹁クローナ、冗談にしてもそれは酷いよ﹂
ミュトに叱られて、クローナは不思議そうにキロを指さす。
﹁えっと、この人が私を生き返らせたんですよね? お礼を言うべ
きだとは思うんですけど、謝るのはおかしくありませんか?﹂
膨らませていた頬を戻し、ミュトはきつい眼差しをクローナにそ
そぐ。
﹁クローナ、それ以上続けるなら、許さないよ﹂
ミュトが発した冷たい声に、クローナが困った顔で司祭を見上げ
る。
司祭も眉を寄せてクローナを見つめていた。
キロの中で違和感が大きくなる。
不意に肩に重さを感じて顔を向ければ、いつの間にかフカフカが
乗っていた。窓から移動してきたらしい。
﹁クローナよ、我の事は分かるか?﹂
1231
﹁フカフカさんですよね﹂
答えを口にしたクローナに、フカフカはキロの肩を尻尾で叩いて
見せる。
﹁では、こやつの名は?﹂
﹁キロ、さんですよね? さっきフカフカさんと司祭様が言ってま
したけど﹂
伝聞調の台詞回しでクローナが答え、一同は気付く。
キロ、ミュト、司祭が視線を合わせ、各々が同じ仮説を立てた事
を察した。
︱︱そんなのありかよ⋮⋮。
キロは体の内側で膨れ上がる薄ら寒さを、両手を握りしめて堪え
る。
フカフカがキロを見た。
決定的な質問をするべきかどうか、フカフカも悩んでいるらしい。
他の者にこの質問をさせるのは酷だと、キロは〝気を使って〟ク
ローナにその質問をぶつける。
︱︱誰かが、キロを傷つける役に回らないようにと。
﹁クローナ、俺と初めて会ったのは何時だ?﹂
クローナはミュトや司祭、フカフカの反応を窺い、不安そうにキ
ロを見た。
﹁今日だと思いますけど⋮⋮﹂
フカフカが苦い顔で尻尾から力を抜き、ミュトが歯を食いしばっ
て俯いた。
1232
キロは愛想笑いを浮かべて、言葉を返す。
﹁そんなに心配そうな顔をするな﹂
安心させようとクローナの肩に手を伸ばしかけ、思いとどまる。
立ち上がって、キロはラッペンの方角を指差した。
﹁日記を取りに行こう。俺は準備してくるから﹂
キロは安心させるようにクローナに微笑みかけて、部屋を出る。
﹁︱︱キロ﹂
﹁待つのだ、ミュト﹂
﹁でも⋮⋮﹂
押し問答するミュトとフカフカにかまわず、キロは部屋の扉を閉
め、そのまま教会を出た。
キロのアパートで玄関扉越しに会話した未来のクローナの言葉が
頭の中をかき乱す。
頭痛を誘発するようにがんがんと頭の中で鳴り響く、未来のクロ
ーナの去り際の台詞。
︱︱私はあなたの知るクローナではありません。
﹁関係が壊れるのってこんなにつらくなかったはずなんだけどな⋮
⋮﹂
教会の壁に背中を預けて、キロは夜空を見上げた。
星も月も、腹立たしいほどよく見えて、ぐちゃぐちゃにかき回し
たくなった。
1233
第十一話 ラッペンへの同道者
一階の窓を器用に開けて出てきたフカフカが、教会の壁に背中を
預けて空を見上げるキロに声を掛ける。
﹁クローナの記憶について、ミュトと共に質問した﹂
キロは目を向けず、無言で先を促す。
フカフカが窓の桟を尻尾で叩く音がした。
﹁キロに関する記憶だけが綺麗になくなっておる。本人も記憶の矛
盾に気付き、混乱しておるようだ。順当に考えて、蘇生の影響であ
ろうな﹂
すでに理解していた事ではあるが、誰かに聞かされると現実味が
いや増して胸の内に開いた穴が広がった。
﹁ありがとう。フカフカ、損な役回りをさせて済まないな﹂
﹁要らぬ気を回すな﹂
フカフカは不愉快そうに鼻を鳴らした。
指摘を受けたキロは言動を振り返り、額に手を当てた。
﹁悪い、気を付ける﹂
キロは教会を振り返る。
﹁ミュトを置いてきたのは不味かったか﹂
1234
﹁いや、結果的にはこれでよかったのだろう。最初は狼狽えたが、
クローナの不安そうな顔を見て自身の役割を理解したようだ﹂
キロに関する記憶を失ったクローナにとって、旅の記憶を共有で
きるのはミュトとフカフカだけだ。
これからラッペンにクローナの日記を含む荷物を取りに行く際、
ミュトはキロとクローナの間を取り持つ役目となる。
﹁フカフカ、ミュトの補助を頼む﹂
﹁言われるまでもない。それよりも、何が起こっているかの把握が
したいのだ﹂
フカフカが窓越しに教会の中を振り返り、盗み聞きされていない
事を確かめる。
ミュトも司祭もクローナと一緒にいるのだろう、キロとフカフカ
の会話を聞いている者はいない。
﹁我がキロの特殊魔力を食べた時の言葉を覚えておるか?﹂
キロは記憶を探り、可能な限り思い出して答える。
﹁まるで生き返るようだ。でも、何か大切な物が抜けていて不味い。
だったか﹂
﹁抜けておったのが記憶、それもキロに関する記憶であるとすれば、
二度と戻らぬと考えた方が良い﹂
つくづく損な役回りをさせているなと思いつつ、キロは無言で頷
いた。
蘇生に伴う代償なのか、あるいは制限なのかはまだわからない。
しかし、フカフカの特殊魔力に関する味評価が一定の真実味を帯
1235
びているのは事実であり、蘇生に伴って大事な何かが抜けているの
は間違いないと考えられる。
嫌な話だと思いながらも、キロは検証する方法を考えた。
﹁俺に関する記憶を持っていて、現在死亡している生き物を蘇生し
て確かめるのが手っ取り早いけど﹂
﹁会話が可能であるという前提が必要であるがな﹂
フカフカが条件を付け足す。
︱︱人間以外の選択肢がないな。
﹁窃盗組織のアジト前で戦っていた冒険者なら、俺を知ってる人が
いてもおかしくないけど、確証がないんだよな﹂
蘇生された人間の記憶が一部消えてしまうのなら、外からは確か
めようがない。
見た事があるような気がする、などと言われたなら手の打ちよう
がない。
﹁⋮⋮いや、待てよ。俺に関する記憶を代償として発動すると仮定
するなら、俺の事を一切知らない魔物に蘇生が効くか確かめればい
いのか﹂
逆転の発想である。
フカフカが一瞬の間を置き、賛同する。
﹁明日、ラッペンへの道中にでも試してみるがよい﹂
﹁試すとしても、ミュトとクローナだけで大丈夫か?﹂
クローナは魔法を主体としており、前衛が必要だ。
1236
ミュトは前衛ではあるが、基本的には短剣を使った一撃離脱か、
特殊魔力を用いた防御を行う。しかも、クローナの世界の魔物につ
いては知識がない。
少し不安の残る構成だ。
キロは町へと目を向ける。
﹁ちょっとギルドに行って知り合いを探してくる。フカフカの腕輪
を貸してくれ﹂
翌日、晴れた空の下、キロ達は教会を出発した。
﹁目的地はラッペン、道中で適当な魔物を仕留める事にする﹂
この人はなんで一緒にいるんだろうと言いたげなクローナの視線
に胸をチクチクと刺されながら、キロは旅の目的を説明する。
質問はないか、とキロが今回の旅の一同を見回すと、ミュトがお
ずおずと挙手した。
﹁⋮⋮キロ、この人達、誰?﹂
視線で横に立つ三人を示しながら、ミュトが問う。
昨夜のうちに、ラッペンまでの護衛を冒険者ギルドに依頼し、受
けてくれた三人だ。
全員がキロの知り合いであり、口も堅そうだが、特殊魔力につい
ては伏せてあった。
一人は愛想よく笑う筋肉ダルマ、偶然行商で町を訪れていた武器
商人のカルロである。
﹁元冒険者のカルロです。どうぞよろしく﹂
1237
ミュトに愛想良く片手を差し出して握手するカルロの社交性の高
さに、ミュトが困ったように視線を逸らす。
ミュトの視線の先には、屈強が服を着ているような二人の男が立
っていた。
阿吽の冒険者だ。
﹁二人とも腕の立つ冒険者だ。俺に動作魔力について教えてくれた
人でもある﹂
キロが紹介すると、阿形がにやにや笑いながらキロの頭をぐりぐ
りと撫でた。
﹁お前も隅に置けないな。もう二人目かよ﹂
吽形が無言で阿形の肩を掴み、キロから引きはがす。
﹁ヘイヘイ、分かってる。依頼主だもんな。丁重に扱わないとだよ
な﹂
阿形が肩の高さで両手を広げ、降参のポーズをとった。
﹁それにしても、護衛に俺達を使おうなんてどういう風の吹き回し
だよ。やばい依頼か?﹂
キロは乱れた髪を手櫛で整え、首を振る。
﹁込み入った事情があるので、口が堅い人を探したんです。ただ、
場合によっては窃盗組織の残党との遭遇戦もあり得るので気を付け
てください﹂
1238
注意を促してから、キロ達はラッペンに向けて出発した。
地下世界産の馬に小さな幌馬車を引かせての旅である。
キロは幌馬車の中に隠れ、御者を務めるカルロに声を掛ける。
﹁すみません、ラッペンまで足を延ばしてもらっちゃって﹂
﹁いえいえ、ラッペンなら面白い品も見れるでしょうから、目利き
を鍛えると思えば損になりませんよ。前々から一度足を運んでみた
いとも思ってたので、キロさんやクローナさんと行けるのも嬉しい
くらいです﹂
人当たりの言い朗らかな笑い声をあげて、カルロは馬車の隣を歩
く阿吽の冒険者を見る。
﹁しっかし、キロさんの人脈も侮れませんな。この二人もかなりの
使い手でしょう。いくらで雇ったんです?﹂
﹁食事と宿代だけでいい、と。いくらなんでもそれだけでは悪いの
で金貨四枚を払おうと︱︱﹂
﹁いらねぇって言ってんだろ。それより話を聞かせろよ。聞いたぜ、
昨日の晩に壁を垂直に登って町の外へ狩りに出かけたらしいな?﹂
騎士から話を聞いたらしく、阿形が興味津々で話題を振ってくる。
質問に答えながら、キロは同じく幌馬車の中で待機しているミュ
トとクローナを盗み見た。
キロとクローナの間には距離がある。
精神面でも物理面でも、他人との距離感だ。
キロに関する記憶を失ったため、でき始めていた男に対する免疫
もなくなってしまったらしい。
しかし、キロと二人だけで冒険者をやっていた頃とは違い、今は
地下世界を〝二人と一匹〟で登りきったミュトとフカフカがそばに
1239
いる。
ミュトとフカフカの存在が、キロとの距離を詰めようという意識
を希薄にしているらしかった。
胸の内側を黒い何かで握り潰されているような息苦しさを覚えな
がら、キロは笑顔を作って阿吽達と話し続けた。
1240
第十二話 窃盗組織のその後
バキバキと木の幹をへし折る音がしたかと思うと、幌馬車の中に
呼びかける阿形の声がした。
﹁グリンブルを仕留めた。キロ、こんなんでいいのか?﹂
出てきた、という報告を聞く前に仕留められたグリンブルは、体
高一メートルほど、体毛も銀色ではなく、まだ若い事を示す金色だ
った。
愛用の斧を担いだ阿形が靴先でグリンブルの鼻先を叩く。
﹁鮮やかな手際ですね﹂
﹁グリンブルなんかに手間取るわけないだろ。十頭くらいいれば面
倒臭いだろうけどな﹂
豪快に笑いながら、阿形は斧に付いた血を落とす。
キロは馬車を降り、グリンブルに歩み寄った。
致命傷は一目瞭然だった。左の肩から体の側面を深く切り裂かれ
ている。間違いなく内臓へ深刻な傷を負わせた一撃であり、仮に生
きていたとしても左側の筋肉を断ち切らているため動く事もままな
らないだろう。
カルロがグリンブルの傷口を検分して、口元をほころばせる。
﹁見事な一撃ですな﹂
﹁毛皮を使うわけでもないから適当だ。あんまり見ないでくれよ﹂
︱︱これで適当って⋮⋮。
1241
流石はベテランだ、とキロは感心した。
﹁ミュト、グリンブルを抑えててくれ﹂
﹁分かった﹂
ミュトにグリンブルの拘束を頼んだキロは、手元に特殊魔力を集
め、蘇生を試みる。
はた目には何も変わらないが、魔力を扱っているキロにだけ得ら
れる情報があった。
︱︱魔力が発動しない。
グリンブルの死骸に込めた特殊魔力が発動せず、消費もされない
のだ。
キロの表情から蘇生が失敗した事を察したのだろう、フカフカは
深刻そうに尻尾を揺らす。
﹁キロに関する記憶が条件とほぼ確定であるな﹂
キロの蘇生魔力について聞いていない阿吽とカルロが首を傾げる。
漠然とキロの特殊魔力に関する話だとは気付いているらしかった
が、突っ込んでは来ない。
キロはグリンブルの死骸を放置して、幌馬車の中に戻った。
すでに蘇生の特殊魔力について知っているクローナは、思うとこ
ろがあるのか一度死骸を振り返った。
﹁私もキロさんと出会わなかったら死んだままだったんですよね﹂
幌馬車に戻るなり、クローナは呟く。
﹁出会っていて、よかった︱︱﹂
1242
顔色を変えたキロを見て、クローナは慌てて口を閉ざした。
キロは愛想笑いを浮かべて、頭を振る。
﹁いや、よかったんだ。死んだままよりも、はるかに良かった﹂
風に当たってくる、と言い置いて、キロは馬車の御者台に出る。
カルロが座る場所を開けてくれた。
カルロはキロを横目に見て、幌馬車を振り返る。
微妙な空気を察したか、カルロは明るい表情で幌馬車を引く地下
世界産の馬を指差した。
﹁身なりは小さいですが、働き者のいい馬ですな。力も随分とある
ようだ﹂
おかげで予定よりずいぶん早く着きそうです、とカルロは笑う。
キロは愛想笑いを浮かべて相槌を打ちながら、内側に溜まってい
く嫌なものに名前を付けた。
自己嫌悪、と。
ラッペンに到着した時、防壁では厳戒態勢が敷かれていた。
騎士団員が普段の三倍近く配備され、街中にも多数の見回りがう
ろついている。
﹁こいつは凄いな。予備役や訓練生も駆り出してやがる﹂
眉を寄せて、阿形が呟くと、吽形が真剣な顔で頷いた。
カルロもこれほど物々しい状況は初めてらしく、現役時代に浮か
べていただろう厳めしい表情で辺りを睥睨していた。
1243
﹁予想以上に危険な連中のようで⋮⋮﹂
カルロの呟きに、阿形が窺うような視線を向ける。
視線に気付いたカルロが大通りの先を指差した。
﹁この大通り、冒険者がおらんでしょう? キロさんの話と合わせ
ると、死傷者多数でまともに組織として運営できない事態になっと
るんでしょうな﹂
ハッとした顔で大通りを端から端まで見回した阿吽の冒険者が苦
い顔をした。
﹁早いとこギルドに行くぞ﹂
阿形の言葉に背中を押されるようにキロ達は幌馬車を進め、ギル
ドに向かう。
すれ違う冒険者はいない。
途中で馬車を置ける宿を見つけ、馬ごと預けたキロ達はギルドの
建物に入った。
突き刺すような視線が一瞬キロ達へ向けられたかと思うと、すぐ
に視線が柔らかい物に変わり、何人かがほっと溜息をつく声が聞こ
えてきた。
﹁師匠、生きてたんですね!﹂
女装した冒険者が飛んでくる。
どさくさに紛れて町娘のように抱き着こうとするが、重心を落と
したキロは遠慮なく壁へ投げ飛ばした。
カルロがぎょっとした顔でキロに投げ飛ばされた女装冒険者を助
けようと腕を伸ばす。
1244
だが、女装冒険者はひらりと空中で身を捻ると床に音も立てずに
着地した。
﹁師匠、女の子を投げ飛ばしちゃダメですよ﹂
﹁男だろうが﹂
﹁心は乙女なのに!﹂
﹁知るか。それより、状況を教えてくれ﹂
女装冒険者の性別を知ったカルロと阿吽が唖然としている横で、
キロは女装冒険者に導かれるまま建物の奥へと進む。
左右にいた冒険者の多くがキロ達に向けて深く頭を下げた。
女装冒険者が肩越しにキロを振り返り、説明する。
﹁頭を下げてる連中は倉庫前で戦ってて、師匠さん達が来なかった
ら全滅してたから皆感謝してるんですよ﹂
ギルドの奥にある応接室のような豪華な部屋に通されて、キロ達
は顔を見合わせる。
女装冒険者は適当に座ってください、と言って壁に背中を預けた。
﹁状況なんですけど、ギルドは現在機能不全真っ最中です。ひとま
ず、昨日の流れを話します﹂
キロ達の援護で逃走に成功した女装冒険者達はギルドに駆け込ん
で増援を要請した。
魔力を使い果たして戦闘不能になった者が多かったため、騎士団
へも増援要請が行われたのだが、ここで問題が起こった。
﹁騎士団の団長が優先順位の分からない間抜けで、団員を防壁に向
かわせて窃盗組織をラッペンの中に閉じ込めようと言い出したんで
1245
す﹂
明らかな悪手だった。
所在を知られた窃盗組織を街中に閉じ込めれば、暴れ出すのが当
然だ。
冒険者が多数戦闘不能に陥っている状況下、騎士団だけで防壁を
固めつつ街に散らばった窃盗組織の構成員を捕えられるはずがない。
すぐに窃盗組織のアジトである倉庫に騎士を向かわせて一網打尽
にし、逃げた構成員には目を瞑るのが現実的な作戦だった。
﹁ただ、もっと許せないのが副団長の方で、作戦が失敗するのを見
越して後押ししやがったんです。自分はちゃっかり精鋭の騎士を引
き連れて倉庫に向かいました。手柄を上げて団長の椅子に座ろうと
か考えてたんでしょうね﹂
﹁失敗したのか?﹂
キロが問うと、女装冒険者はため息を吐きながら頷いた。
﹁騎士団全員で当たらなきゃ勝てるわけがないのに、少数精鋭で乗
り込んで全滅しました。岩の手でつぶされたみたいです﹂
最悪だな、阿形が呟く。キロも同感だった。
副団長率いる少数精鋭を返り討ちにした窃盗組織は、西の門を強
襲してラッペンを脱出、逃走したという。
女装冒険者の話に、阿形が待ったをかける。
﹁その話、おかしくないか? まるで組織の武力を誇示するような
逃走の仕方だ。逃げるだけなら、シールズの空間転移があるだろ﹂
﹁いや、俺達との戦いのせいでシールズの特殊魔力は足りなくなっ
てた。組織として逃げるなら、どこかの門を襲うしかなかったんだ﹂
1246
﹁そうか、キロ達があと一歩まで追い詰めたんだったな﹂
だからこそ、騎士団は総力を挙げてアジトを包囲するべきだった
のだが、後の祭りである。
﹁状況報告は以上です。質問とかありますか?﹂
﹁さっきの話だと、キロ達のおかげで逃げ切れた冒険者も多かった
んだろ? なんで機能不全なんか起こしてんだ?﹂
阿形の質問に、女装冒険者が苦い顔をする。
﹁西の門が襲撃されたって聞いて、動ける奴らが救援に向かったん
です。他の門の騎士団が動かないのは目に見えてたので﹂
﹁巻き添えをくらったんですな﹂
女装冒険者が頷いた。
﹁団長が無能すぎんだろ﹂
阿形が呆れた声で批判するが、今となってはどうしようもない事
だ。
﹁︱︱騎士団長なら先ほど更迭されたよ。後任はまだ決まってない
が、指揮権は一時的にギルド預かりだ﹂
廊下から声がして、応接室の扉が開く。
入ってきたのは初老の男性だった。
壁に背中を預けていた女装冒険者が慌てて背筋を伸ばす。
﹁この方が、ラッペン冒険者ギルドのギルド長です﹂
1247
女装冒険者の紹介を聞き、キロ達は椅子から転げ落ちそうな勢い
で立ち上がる。
﹁ミュトさん、どうしましょう、ギルド長ですよ。大物ですよ!﹂
﹁ボクに聞かれたってわかんないよ。頼るなら、キロを頼ってよ!﹂
狼狽えているクローナとミュトを隠すように一歩進み出たキロは、
ギルド長に向かって一礼する。
キロも緊張しないわけではなかったが、後ろで右往左往している
二人の娘を見れば少しは冷静になれる。
ギルド長はクローナとミュトの反応に苦笑して、部屋の中を見回
す。
﹁手練れが三人か。昨日、この三人がいればよかったんだが⋮⋮﹂
心労ゆえか、ギルド長の目の下にくまができている事に気付いて、
キロは同情する。
ギルド長はキロに視線を止め、頭を下げた。
﹁シールズの関係者という事で色々と不快な思いをさせた私達が言
うのもおこがましいが、昨日は本当に助かった。ありがとう﹂
冒険者達の逃走を助け、しんがりを務めた事を言っているのだろ
う。
狼狽えていたクローナとミュトが落ち着きを取り戻しかけていた
のだが、下げられたギルド長の頭を見て困ったように互いに顔を見
合わせた。
その時、雰囲気をぶち壊すように応接室の扉を蹴破り、酒瓶をぶ
ら下げた女が入ってきた。
1248
﹁はい、ちょっと邪魔するよ。おら、じじい、どけ﹂
ハエでも追い払うようにギルド長へ向けて片手をぶらぶらさせる
女は、キロ達が泊まっていた酒癖の悪い宿の女主人だった。
女主人の乱入に呆気にとられていた応接室の面々だったが、経験
豊富な阿吽とカルロが我に返る。
﹁申し訳ないんですが、後にしてもらえませんかね﹂
カルロがやんわりと退出を促しながら、女主人の前に立つ。
扉に押し戻すために伸ばされた手を面倒臭そうに躱し、女主人は
カルロの顔面を片手で覆う。
﹁忙しいんだよ。ひよっこは退いてな﹂
女主人の手の動きは、カルロの顔面をただ撫でただけとしか思え
なかった。
しかし、カルロは膝からくずおれ、床に突っ伏す。咽たような連
続した咳をしていた。
機能不全を起こしているギルド内で誰かを傷つける行為が許され
はずはないというのに⋮⋮。
案の定、目の色を変えた阿吽が床を力強く蹴り、女主人の左右を
取り、挟み打つように強烈な回し蹴りを放つ。
動作魔力を使ったそれはあまりに素早く、女装冒険者は目で追い
切れてさえいない様子だった。
だが、女主人はその場で垂直に跳び上がり、酒瓶の口を天井に突
き刺す。ガラス製のそれを天井に突き刺すだけでも驚異的な動作魔
力の使い方だったが、天井に突き刺して固定した酒瓶を支点に阿形
に蹴りを放った。
1249
阿形の額を正確にとらえた女主人の蹴りは、筋肉の塊である阿形
の足を浮かせ、壁にぶち当てた。
しかし、阿形も負けていない。
蹴りこそまともに受けていたが、女主人の足を寸前で掴んでいた。
女主人が口笛を吹く。
﹁ひよっこ、は訂正してやる﹂
女主人がそう言った瞬間、阿形の全身から力が抜け、床にへたり
込んだ。涙目で吐き気を堪えるように口を押さえている。
力が抜けた阿形の手から足を引き抜き、女主人はあくどい笑みを
浮かべる。
﹁お前はカモだ﹂
やられた相棒の雪辱を晴らそうと吽形が怒りの形相を浮かべた時、
ギルド長が声を張り上げる。
﹁やめろ、その女に手を出すな!﹂
ピタリ、と吽形が動きを止める。
終わりかと油断したのが甘かった。
﹁お前はひよっこだな﹂
そう言って、女主人が吽形の顔、正確には鼻を右手で覆う。
それだけで、吽形はふらふらと後退りくるりと反転して窓を開け
放つと、外に胃の中の物をぶちまけた。
ギルド長が額を抑え、女装冒険者が怯えたようにキロの傍でうず
くまる。
1250
応接室の中央で、天井に突き刺さった酒瓶を見上げた女主人が腹
を抱えて笑い出す。
混沌とした光景の中、フカフカが鼻を覆った。
﹁悪臭を放つ特殊魔力とは、なんともおぞましい﹂
カルロや阿吽の冒険者を戦闘不能にしたのは女主人の特殊魔力ら
しい。
少し嗅いだだけで玄人冒険者が戦闘不能になるほどの悪臭には少
し興味があった。怖いもの見たさというやつだろう。
女主人はキロを見て、クローナとミュトに視線を移す。
﹁なるほどねぇ、言われてみれば確かに﹂
何かに納得したようにうんうんと頷いて、女主人はギルド長など
お構いなしにキロ達の前に腰を下ろす。
﹁荷物は預かってる。ついでに、アンムナの奴から伝言も預かって
る﹂
自らの手による部屋の惨状など欠片も気にした様子がない女主人
は、続ける。
﹁後、アシュリーの遺体も預かってる﹂
1251
第十三話 女主人
女主人に連れられて宿へと赴く。
よほど強烈な臭いだったのか、しばらく動きたくないという阿吽
やカルロはギルドに置いてきた。
﹁アンムナさんは今どこに?﹂
宿に人の気配がなかったため、キロは女主人に訊ねる。
女主人はさぁね、と肩を竦めた。
﹁あんたらが窃盗組織にさらわれたんじゃないかって心配して、ラ
ッペンを飛び出して行った。今頃は残党狩りでもしてるだろうさ﹂
宿の玄関扉に鍵を差し込み、開錠した女主人は客であるキロ達を
差し置いてさっさと中へ入っていく。
﹁まだ入るなよ。特殊魔力の効果を消さないと、あんたら気絶する
からさ﹂
女主人はキロ達に言い置いて、二階に続く階段を上っていく。
どうやら、防犯のため女主人の特殊魔力が二階で悪臭を放ってい
るらしい。
︱︱気絶するほどの臭いって、結構危ない能力だな。
アンムナにアシュリーを預けられたという女主人の話に半信半疑
だったが、キロは考えを改める。
阿吽とカルロの三人を瞬く間に無力化する戦闘力、拠点防御にも
使える特殊魔力など、女主人の実力は相当なものだ。
1252
宿の二階から女主人が降りてきた。
﹁終わったから上がりな。部屋はそのままにしてあるからさ﹂
酒が飲みたい、とぼやきながら、女主人はカウンターに座って頬
杖を突く。
どうやら、アシュリーを預かっている間は酒を断つつもりらしい。
﹁ボクはクローナと一緒に部屋に行くけど、キロはどうする?﹂
﹁俺がいたらクローナが落ち着かないだろうから、ここで待ってる
よ﹂
クローナも、自分の日記を読んでいる時、隣に慣れない男がいた
ら集中できないだろう、とキロは遠慮する。
クローナがキロを見て、不安そうな顔をしつつ口を開く。
﹁もし、私があなたの事を忘れているとしたら、日記の記述と照ら
し合わせる方法がないんですけど﹂
﹁ミュトに全部話してあるから、大まかには分かるはずだ﹂
現代社会で、養護施設からの帰り道にクローナと出会ってからの
事を話してあるため、照らし合わせる作業はミュトでもできるのだ。
キロに水を向けられて、ミュトが肩に乗ったフカフカに視線を移
す。
フカフカは、やれやれと言った調子で尻尾を軽く振ると女主人が
頬杖を突いているカウンターに飛び降りた。
﹁日記には地下世界でのことも書かれておる。我はキロを監視して
いるとしよう﹂
1253
なぜ監視が必要なのかとキロは首を傾げた。
しかし、答えが明かされる事はなく、赤面したクローナとミュト
がキロに背を向けて我先にと階段を登って行った。
キロはフカフカに視線で問う。
﹁想像は最大の娯楽である。楽しむがよい﹂
適当な言葉で煙に巻かれ、キロは階段を見る。
想像して分かるような事でもないだろう、とキロは女主人に向き
直った。
﹁アシュリーさんはどこに隠しているんですか?﹂
﹁隠し部屋。足を踏み入れたが最後、二度と鼻が利かなくなるくら
い強烈なのを仕込んでおいた﹂
女主人は面倒臭そうに言って、二階を指差した。
女主人の指に誘われるまま、キロは天井を見上げる。
﹁臭いが付いたりはしないんですか?﹂
﹁特殊魔力だからな。効果を消せば完全な無臭になるのさ﹂
本当に便利だな、と感心するキロを訝しげに見上げて、女主人は
口を開く。
﹁アンムナからは何も聞いてないのか?﹂
﹁知り合いだってこと自体、初めて知ったので︱︱﹂
言いかけて、キロはふと思い出す。
悪臭を放つ特殊魔力、以前アンムナから聞かされていた事を思い
出したのだ。
1254
カッカラでシールズが起こした誘拐事件の捜査中、アンムナから
奥義を教わった直後の事だ。
﹁もしかして、冒険者をやっていた頃は強力な魔物の縄張りを移動
させるのに活躍していました?﹂
﹁なんだよ、聞いてるじゃねぇか!﹂
途端に嬉しそうな顔で笑いだした女主人は、椅子の背にもたれて
腕を組む。
﹁現役時代は都市同盟のあっちこっちで魔物を追い払う仕事を受け
ててな。これでも結構な有名人だったんだ﹂
ちらり、と反応を窺うようにキロを見上げる女主人。
キロは内心苦笑しつつ、おだてる事にした。
﹁凄いですね。どんな魔物を追い払ってたんですか?﹂
女主人は一瞬唇を尖らせたが、すぐに気を取り直したように腕を
組んだまま胸を張った。
﹁銀色になったグリンブルの密集地帯とか、パーンヤンクシュを好
んで食べるフリーズヴェルグとか﹂
﹁フリーズヴェルグ?﹂
﹁鳥の姿をした魔物だ。上空から一方的に魔法攻撃してくるから、
冒険者でも対処が難しい。その内、戦う事もあるさ﹂
思わせぶりな態度でそう言って、女主人は開きっぱなしの玄関か
ら宿の前の道を見る。
1255
﹁⋮⋮アシュリーの奴、何で死んだか聞いてるか?﹂
﹁魔物の毒だと聞いてます﹂
﹁アシュリーが魔物の毒で死んだ? アンムナの馬鹿は何してたん
だ﹂
眉を寄せて、女主人が吐き捨てる。
﹁手首を骨折していて、作戦に参加できなかったそうです﹂
あんの馬鹿、と女主人が呆れたように呟いた。
﹁二人そろってればどんな魔物でも手も足も出させないくせに、ド
ジ踏みやがって﹂
女主人が苛立たしげにため息を吐き出す。
生前のアシュリーを知っているらしいとみて、キロは興味を惹か
れた。
﹁アンムナさんやアシュリーさんとはどういう関係なんですか?﹂
キロの質問が意外だったのか、女主人は面食らったような顔をし
た。
しかし、すぐに視線を逸らし、ばつが悪そうに頬を掻く。
﹁まぁ、なんだな⋮⋮。仕事でドジ踏んで、それまでのツケが一緒
になって襲いかかってきた時に助けられた﹂
要領を得ない答えだった。
キロに言われるまでもなく、女主人にも自覚があったのだろう。
話は終わりだと言わんばかりに唐突に立ち上がる。
1256
﹁夕食はまだなんだろ? 作ってやるから待ってろ﹂
﹁ツマミしか作れないって、以前に言ってませんでした?﹂
﹁素面ならツマミ以外も作れるっての。馬鹿にすんな﹂
1257
第十四話 失われた記憶の重み
油断すると調味料として酒をしこたま注ぎたくなるという女主人
を監視しながら、キロは調理補助を行う。
華麗な包丁さばきを披露していると、邪魔にならない様に換気窓
の傍にいたフカフカが顔を上げた。
﹁キロ、今すぐ二階へ行け﹂
﹁何かあったのか?﹂
キロの問いに対し、フカフカは耳をせわしなく動かし、静かな声
で告げる。
﹁ミュトの手には余る﹂
いまいち状況がつかめない言葉ではあったが、危険が迫っている
わけではないらしい。
キロは包丁をまな板の上に置き、二階の階段へ向かう。
途中でフカフカがキロの肩に飛び乗った。
キロが階段を登りきったのと、ミュトが部屋から出てくるのは同
時だった。
足音で気付いたのか、ミュトはキロを見てほっとしたような顔を
する。
フカフカがゆらりと尻尾を振ると、キロが階段を上ってきた理由
を察したらしい。
ミュトが自分の肩を叩いて合図すると、フカフカはキロの頭を踏
み台にして飛び移った。
足蹴にされた側頭部を擦りつつ、キロは事情を聞こうと口を開き
1258
かけるが、ミュトに手で制された。
﹁クローナをお願い。ボク達は一階にいるから﹂
明らかに沈んだ声だった。
心配になって声を掛けようとするキロから顔を背けて、ミュトは
足早に階段を降りていく。
﹁実に忌まわしい病であるな⋮⋮﹂
皮肉な言葉に同情を乗せたフカフカの呟きが聞こえた。
嫌な予感がしたが、キロは部屋の扉をノックする。
中からの返事はなかった。
躊躇いはしたが、今階下に降りるわけにはいかない。何よりクロ
ーナが心配だった。
キロは意を決して扉を開ける。
部屋の中の惨状に、キロは一瞬息を飲む。
床にぶちまけられた、日記だったはずの紙の束。日記を読んでい
たはずだというのに明かりは窓から差し込む月明かりだけ。
床の中央で蹲っていた人影が顔を上げる。
﹁︱︱クローナ?﹂
うつろな顔したクローナを見て、キロは極力心を落ち着けながら
扉を閉める。
クローナの表情を見れば、確かにミュトの手には余るだろうと思
えた。
キロは日記の断片を踏まない様に、クローナに歩み寄る。
耳の良いフカフカの事だ。日記がばらまかれた経緯も盗み聞きし
ていたのだろうが、キロに告げなかった何らかの理由があるのだろ
1259
う。
ひとまず日記の事は頭の片隅に置いておいて、キロはクローナの
前に屈む。
クローナがうつろな目でキロを見上げ、自身との距離を目測する
なり唇を噛み、俯いた。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
ポツリとこぼした謝罪の言葉に、キロは戸惑った。
何と声を掛けていいのか分からない。
落ち込んでいる誰かに心から声を掛けた経験など、ほとんどない。
今までこういった場面でかけた言葉は、気を使いながら慰めるよ
うに優しく包んだ薄っぺらい言葉ばかりだった。
クローナが気付かないはずはない。キロも、嘘と紙一重の優しい
だけの言葉を掛けたくはない。
屈んだ体勢から床にじかに座ったキロは、クローナの次の言葉を
待った。
すすり泣く声が聞こえてくる。押し殺そうと努力しているのが分
かったため、キロは触れなかった。
﹁⋮⋮距離が遠いんです﹂
膝に顔を埋めたクローナの言葉をかろうじて聞き取り、キロはク
ローナとの間に横たわる隙間を見る。
しまった、と内心で歯を食いしばった。
﹁以前はもっと近かったはずなんです。日記に、肩が触れてドキド
キしたって書いてありました﹂
﹁そんな事も書いてあったのか﹂
1260
今さら距離を縮めても白々しいだけだ、とキロは動くことなく言
葉を返す。
クローナが俯いたままさりげなく目元を擦った。気付かれないよ
うに涙を拭ったのだろうが、泣いている事を知っているキロの眼を
欺けるはずもない。
﹁怪我をした時、一晩中傍にいてくれたって書いてました﹂
﹁カッカラの話か﹂
﹁煮え切らない態度だったので襲ってみたって書いてました﹂
﹁未遂に終わって喧嘩になったな﹂
﹁仲直りしたって書いてました﹂
﹁教会で待ち伏せてたクローナに捕まってな﹂
一つ一つ答えていくと、クローナは顔を伏せたまま近くにあった
紙の一枚を指差す。
﹁⋮⋮キスしたって書いてました﹂
﹁⋮⋮したな﹂
地下世界に行く直前、意趣返しではあったがキスをした。
紙を指差していたクローナの手が力なく床に落ち、触れた紙を握
り潰す。
﹁全部忘れました⋮⋮﹂
呟いて、クローナが顔を上げる。
涙でぬれた瞳が月明かりを反射した。
﹁ごめんなさい⋮⋮全部忘れました。ごめんなさい。全部、全部︱
︱こんなに好きだったくせに!﹂
1261
握り潰した日記を壁に投げつけ、クローナは唇をかむ。
止めどなく溢れる涙が柔らかな頬を伝うのも構わず、クローナは
手放しで泣く。
﹁なんですか、これ。どうしたらいいんですか? どうしようもな
いじゃないですか。全部忘れて、好きだったかどうかも分からない
のに、日記にはこんなに好きだって書いてあって、でも思い出せな
くて⋮⋮。互いの距離感さえもうわかんないです﹂
クローナの独白を聞いて、キロは無言で立ち上がった。
見上げるクローナの前で、キロは日記を一枚づつ拾い集める。
﹁無駄ですよ。どうせもう思い出せないんですから﹂
﹁︱︱思い出させる﹂
自棄になったようなクローナの言葉に、キロは間髪入れず言い返
した。
日記を集め終えたキロは、紙束を手にクローナへ向き直る。
﹁クローナが今を不幸だと思うなら、必ず幸せにする。記憶が無く
なって不幸だというなら、どんな手を使ってでも記憶を取り戻す﹂
赤くなったクローナの眼と視線を合わせ、キロは断言した。
﹁⋮⋮で、できっこないですよ﹂
顔が朱に染まったクローナが、視線を逸らす。
キロは不敵な笑みを浮かべた。
1262
﹁俺に出来ない事があるとすれば、不幸だと思ってるクローナを放
っておく事くらいだよ﹂
キロの言葉を聞いたクローナが耳まで真っ赤になった。
キロに関する記憶と共に、軽口への免疫が完全になくなったクロ
ーナには刺激が強すぎたらしい。
﹁⋮⋮日記に書いてあった気持ちが少しわかった気がします﹂
そう呟いて涙を拭ったクローナは、はにかむように笑った。
1263
第十五話 名も知らぬ六人の冒険者
﹁︱︱というわけで、クローナの記憶を取り戻す﹂
夕食を運んできたミュトとフカフカに事情を説明し、キロは方針
を定めた。
日付を確認しながら日記を並べ直していたクローナが、よろしく
お願いします、と頭を下げる。
ミュトがサラダを小皿に取り分けながら、何かを思案するように
瞳を揺らした。
ミュトの視線がクローナの指先に注がれている事に気付いて、キ
ロは手荷物の中から指輪を取り出す。
未来のクローナから渡された指輪だ。
﹁あれ? 私の指輪⋮⋮?﹂
キロが取り出した指輪を見て、クローナは自身の指に同じ物がは
まっている事を確認する。
現代社会でのクローナは死んでいたため、何が起こったのかを具
体的に知らされていないのだ。
キロはクローナに大まかな事情を話し、指輪を見せた。
﹁︱︱これが件の往復切符だ﹂
たどり着く先は十中八九、クローナの世界、それもクローナの母
親が死亡した直後だろう。
﹁でも、確定ではないんですよね?﹂
1264
クローナが不安そうにキロを見上げる。
キロも考えていた事だ。また虚無の世界に放り出されたくはない。
﹁だからこそ、これから確定させてしまおう﹂
﹁⋮⋮確定させる?﹂
疑問符を浮かべているクローナをおいて、キロはミュトに声を掛
ける。
﹁紙をくれ。一枚で良い﹂
﹁ちょっと待ってて﹂
ミュトもキロが何をしようとしているのか分からない様子だった
が、言われた通りに紙を一枚持ってきてキロに渡す。
キロは紙に魔法陣を描きながら、説明を始めた。
﹁遺物潜りは異なる世界への扉を開く魔法だ。同一世界での移動に
は使えない。時間移動も出来ないだろ?﹂
キロはクローナに水を向ける。
クローナはきょとんとした顔で口を開いた。
﹁よく知ってますね⋮⋮あ、私と一緒に教わったんでした﹂
まだ慣れてないらしく、クローナは記憶の矛盾に眉を寄せた。
キロは苦笑して、魔法陣を描き終える。
﹁同一世界上での移動ができないなら、今この場で遺物潜りを発動
してみればいい。問題なく動作したなら別の世界、動作しないなら
1265
この世界への扉を開くと確定する﹂
キロは説明して、指輪を中央に置いた魔法陣を発動させる。
異世界へ繋がる黒い長方形は出現しなかった。
念のため、ミュトから紙をもう一枚受け取り、媒体として使える
かどうかの判定に用いる魔法陣を作成、指輪を置いて発動する。
今度は正常に作動し、指輪がクローナの世界に通じる扉を開く媒
体となる事が確定した。
﹁これ以上は実際に指輪を媒体にして扉を潜るしかないと思う﹂
他に意見はあるか、とキロはクローナ達を見回す。異議はないら
しく、全員が話の続きを無言で促した。
﹁指輪をくれたのが未来のクローナである以上、何らかの意味があ
るはずだ。そこで、今の内に何をすべきなのか、仮説を立てておき
たい﹂
キロはクローナに視線を移す。
﹁つらいかも知れないけど、母親が亡くなった時の状況を詳しく話
してくれ﹂
先ほどまで泣いていた事もあってか、お腹を空かせていそうなク
ローナの前にサラダが乗った小皿を置き、キロは頼んだ。
フォークを手に取ったクローナに倣ってキロとミュトも食事に手
を付け始める。
﹁随分前の事ですから、かなりうろ覚えですよ?﹂
1266
いささか頼りない前置きをしてから、クローナは話し出す。
﹁母が亡くなったのはベイト歴二千三百十三年、第三の月の昼ごろ
でした﹂
﹁確か、今はベイト歴二千三百十九年の第四の月だったよな?﹂
シキリア草を調達する依頼を受けて出向いた町でクローナから聞
いた知識を披露すると、クローナはすぐに肯定した。
今から六年ほど前の話という事になる。
﹁私の故郷はもっと北の方の山間にある村で、まだ雪が降ってまし
た。母は肺を悪くして、そのまま亡くなりました。父は私が生まれ
る前に亡くなっていたので、孤児になった私は母がなくなってすぐ
に村の教会に行きました。母の法事の打ち合わせがあったので、そ
の教会の司祭の方と話していたんです﹂
﹁その時、遺体はどこに?﹂
﹁聖堂に安置してありました。私と司祭の方は居住部分で話をして
ました﹂
キロは少し考えた後、さらに質問する。
﹁母親が亡くなった時、傍には誰かいたのか?﹂
﹁⋮⋮誰もいませんでした。直前まで私が付き添っていましたけど、
容体が悪化したので司祭の方を呼びに行ったんです﹂
違和感のある証言に、キロはミュトと視線を交差させる。
村の中で母子家庭の母親が具合を悪くしているのなら、大人の一
人や二人が様子を見ていてもいいはずだ。当時はまだ幼いクローナ
の手には余る。
キロとミュトが疑念を抱いている事に気付いているようだったが、
1267
クローナは話したくなさそうだった。
無理に聞き出すのも悪いと思い、キロは悩んだ末、聞き出す事を
断念した。
いま必要なのは、指輪によって開けた扉でキロ達が出向く場所及
び時間帯の情報である。特に、傍に誰かがいると、キロ達が目撃さ
れる可能性が高まってしまう。
そういう意味では、亡くなった直後、傍に誰もいないというのは
好都合だ。
だが、好都合ばかりでもなかった。
詳細を尋ねられる前に話を進めてしまおうと考えたらしいクロー
ナが、その日の出来事について更なる情報を口にしたのだ。
﹁そういえば夕方頃、冒険者が訪ねてきました。男女二人組だった
と思います。どっちも武器は⋮⋮持ってなかったはずです﹂
冒険者達の目的は、当時まだ幼かったクローナは話に混ぜてもら
えなかったため、分からないという。
ただ、とクローナは続ける。
﹁それからすぐに、肩を怪我した女性冒険者と三人組の冒険者さん
が北の森から出てきたんです。私は村の入り口にいたのでよく覚え
てます。すぐに村中の人が集められて、パーンヤンクシュの群れが
襲ってくるって報告を受けました﹂
計六人の冒険者の顔は思い出せないというクローナに、フカフカ
が静かに声を掛ける。
﹁その六人の武器は覚えておるか?﹂
﹁武器、ですか? 一人は重そうな金属製の槍でした。多分、村で
防衛用に常備してある安物だったと思います。他の人は⋮⋮すみま
1268
せん、よく覚えてません﹂
﹁いや、十分である。キロよ、当て推量が外れた気分はどうだ?﹂
﹁こら、フカフカ、そういう言い方しないの﹂
フカフカの首根っこを捕まえて、ミュトが叱る。
フカフカはミュトの声などどこ吹く風とばかりに受け流して、キ
ロを見つめた。
凄腕冒険者、とクローナが証言した五人の内、一人は細身であり
ながら槍を振るっていたと聞いている。
現代社会でミュトやフカフカと相談した際、この槍を振るう冒険
者がキロではないか、という仮説を立てていた。
キロは頭を掻く。
﹁クローナ、冒険者達の戦い方とかは覚えてないか?﹂
﹁村の入り口でパーンヤンクシュの群れを追い返しているのを見た
だけですけど、三人と二人に分かれて戦ってました。槍の人が凄く
よく動いてて、かっこよかったです﹂
情報不足であるな、とフカフカが落胆のため息を吐く。
﹁もう六年も前の話ですよ? 覚えているはずないじゃないですか﹂
﹁我は六年前のミュトが初めての使いに出されて道に迷った挙句、
助けを求めて我の名を読んだ回数まで覚えておる﹂
﹁ちょっと、フカフカ!﹂
ミュトが慌ててフカフカの口を塞ぎにかかる。
ひらりと躱したフカフカはキロの肩に飛び乗った。
キロはクローナと共にフカフカに視線を送る。
キロとクローナの聞きたい事を察して、フカフカの尻尾が機嫌よ
さそうに揺れた。
1269
﹁七回である﹂
﹁七回も呼ばれるまで無視してたのか?﹂
﹁父母よりも我の名を呼ぶ様が滑稽でな。様子を見ておった﹂
﹁あの時すぐに来なかったのはそういう理由か!﹂
ミュトがフカフカを指差して怒る。
まぁまぁ落ち着いて、とクローナが宥めた。
気を取り直して、キロは話を戻す。
﹁向こうに行くのは確定としても、俺達がパーンヤンクシュを倒し
たわけではないみたいだな﹂
﹁そうであるな。キロに関する記憶が消えている今、クローナの村
で槍を振るっておったのがキロならば、その記憶も消えていてしか
るべきであろう﹂
クローナはいまいち話に付いて来れていないようだったが、ミュ
トは理解したうえで疑問を挟んだ。
﹁もし冒険者達がボク達じゃないとすると、どうしてクローナの母
親の形見の指輪を持っていたのかな? それに、冒険者は五人じゃ
なくて六人いるみたいだけど﹂
﹁凄腕の冒険者さん達は五人でした。六人目は肩を怪我していた女
性の冒険者さんで、村で治療していたんです﹂
﹁だとすると、おかしいのは指輪の件だけか⋮⋮﹂
キロ達は色々と仮説を立てつつ、夜通し話し合うのだった。
1270
第十六話 次なる目的地
深夜、月が明日に向けて傾きだしてしばらく経った頃、キロは一
階へと降りた。
肩に乗せたフカフカ共々部屋から追い出されたのである。
﹁女同士の話って、男がいたら駄目なのか?﹂
﹁男であるかどうかより、キロであるかどうかの方が問題なのだと
思うのだがな﹂
﹁俺に聞かれると不味い話って事か?﹂
﹁⋮⋮自らが考える頭を持ち合わせるがよい﹂
付き合いきれないとばかりに、フカフカが尻尾でキロの後頭部を
叩いた。
何を怒っているんだ、とキロは訝しむが、フカフカに答えるつも
りはないらしい。
代わりに、フカフカはこんなことを言い出した。
﹁キロは記憶に恋をするのか?﹂
﹁⋮⋮唐突に嫌な質問をするな﹂
キロは苦い顔で視線を逸らす。
フカフカがこんな質問をしてきた理由には見当がついていた。
キロとの記憶を失った今のクローナを好きか、と聞いているのだ。
﹁俺も良く分からないよ。ただ、今のクローナは別人のようでいて、
元が同じなんだと思う事はある﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
1271
何かを言い返すでもなく、フカフカはそれっきり口を閉ざした。
階段を降り切ると、カウンターにはグラスを片手に、干した貝柱
を齧っている女主人がいた。
階段を下りてきたキロを見ると、女主人はグラスを持ち上げる。
﹁中身は水だからな。勘違いすんなよ﹂
﹁誰に言い訳してるんですか﹂
干した貝柱を口の中に放り込んだ女主人は、キロを手招く。
﹁あんたらが帰ってきた事をアンムナに知らせた。ただ、使いが入
れ違ったみたいでね。アンムナからここに使いが来て、しばらく帰
れないとさ﹂
酒が遠のいちまった、と女主人は盛大にため息を吐いた。
肝臓の寿命が延びましたね、とは言わないでおく。
代わりに、アンムナの状況について尋ねると、女主人はグラスを
置いて、アシュリーが安置されているだろう隠し部屋の方を見る。
﹁アンムナが言うには窃盗組織の一員を捕まえて色々吐かせたそう
だ。今回の件で組織の面子が潰れたから、あの三人︱︱あんたらの
事だな︱︱には報復しないとならないとさ﹂
﹁さしずめ、裏社会のお尋ね者であるな﹂
フカフカの言葉に、キロは頬が引き攣るのを感じた。
女主人が豪快に笑う。
﹁冒険者としては名誉な事じゃんか﹂
﹁そんな名誉は要らないですよ⋮⋮﹂
1272
他人事だと思って、と肩を落とし、キロは呟く。
窃盗組織と交戦したラッペンにいつまでもいては危険と判断して、
キロは先ほどまで上で話し合っていた予定を早める事にした。
﹁明日にはここを出発しようと思うので、アンムナさんに伝言を頼
めますか?﹂
﹁別にいいぞ。どうせアシュリーを引き取りに来るだろうし﹂
快く請け負う女主人に礼を言って、キロは伝言を思案する。
﹁俺達はクローナの故郷に行こうと思うので、カッカラで待ってい
てください、と﹂
﹁カッカラ、ねぇ⋮⋮。アンムナの家は吹き飛んでるって聞いてる
ぞ? 大人しく待っているかは疑問だな﹂
アシュリーを預かった際に聞いたのか、女主人が指摘する。
確かにその通りだ、とキロは悩んだ。
﹁現地で落ち合う事も出来るけど、そこまで迷惑かけるわけにもい
かないしな⋮⋮﹂
アシュリーを取り戻した以上、窃盗組織にアンムナが関わる理由
はすでに無い。
今はキロ達の捜索をしているが、無事だと分かれば戻ってくるは
ずだ。
女主人が首を傾げた。
﹁現地で落ち合えばいいと思うぞ。どうせアンムナも窃盗組織に狙
われてんだろ。あいつが真っ先にアジトを襲撃したんだからさ﹂
1273
それもそうだ、とキロは開き直る。
シールズが無事である以上、アンムナがカッカラに拠点を構えて
いる事も窃盗組織に知られている。
どこかに身を隠すなら、隠れ場所で落ち合う方が合理的だ。
﹁では、クローナの故郷の村で落ち合う事にします。村の位置は明
日教えます﹂
翌朝、キロ達は女主人に別れを告げ、宿に背を向けた。
﹁まずはギルドに行ってカルロさん達と合流しないと、それから食
料の買い出しをして、馬車に乗せる、と﹂
予定を立てつつ、市場を通って市場調査をし、ギルドの建物に入
る。
待ってましたとばかり、ギルドの職員が立ち上がってキロ達を手
招いた。
キロ達が歩み寄ると、ギルド職員が後ろにいた職員を捕まえて誰
かを呼びに行かせる。
﹁キロさん、クローナさん、それからミュトさん? ですね。少し
お話があるので、奥にお願いします﹂
ギルド職員がしきりに建物の入り口やキロ達の背後を確認するの
を見て、クローナが首を傾げる。
﹁もしかして、宿の人が来ないか心配してます?﹂
﹁︱︱えぇ、まぁ、引退した冒険者の方にはたまにいるのですが、
1274
我を通す事に躊躇いがない方なので⋮⋮﹂
あぁなるほど、とキロ達は苦笑する。
今は現場に復帰しているが、アンムナも我を通す事に躊躇いがな
い性格だった。
アシュリーについてのみという制限があるだけ、アンムナはまだ
マシな方なのだろう。
おそらく、昨日ギルド長が直々にキロ達の前に現れた理由も、単
なる謝罪だけでなくこれからする話を切り出す為だったのだ。
女主人の乱入で台無しにされてしまったが、今日仕切り直すつも
りらしい。
奥に行くと、カルロの他に阿吽の冒険者、さらには女装冒険者が
七人勢揃いしていた。
女主人の特殊魔力による後遺症はすでに無くなったようだが、阿
吽やカルロはキロ達を見るなり女主人の来襲を警戒して身構えた。
女主人がいないと分かると、阿吽達は肩の力を抜いてソファに腰
を下ろす。
﹁全員揃ったようだな﹂
ギルド長がキロ達の入室に合わせて切り出す。
﹁キロさん達に、当ギルドから直接依頼したい﹂
ギルド長直々に発する依頼と聞いて、阿吽の眉が動き、クローナ
が驚いたように口を開く。
﹁私達三人に、ですか?﹂
﹁当初はその予定だった。ただ、ここに凄腕が三人、さらにそれな
りに使える者が七人いる。君達にも依頼に参加してもらいたい﹂
1275
キロ達のおまけのように依頼を持ちかけられた十人だったが、カ
ルロを除き、すぐに承諾した。
クローナがキロに耳打ちする。
﹁ギルド長直々なので成功報酬の他に、このギルドから推薦状を書
いてもらいやすくなります﹂
カッカラのギルドへ推薦状を持って行った時の周囲の視線を思い
出し、キロは納得した。
同時に、冒険者を引退した武器屋であるカルロの渋い顔にも納得
がいく。
﹁ひとまず、依頼の内容を伺いましょうかね﹂
カルロに促され、ギルド長が依頼内容を説明する。
何のことはない。
ラッペンの冒険者ギルドに加え、騎士団の面子まで潰した窃盗組
織の討伐依頼だった。
どこもかしこも面子が大事らしい。
カルロがさらに渋い顔をするのを見届けて、キロはクローナを振
り返る。
﹁俺達はこの依頼を受けない。他に理由もあるしな﹂
﹁え、師匠は受けないんですか⁉﹂
なんでぇ、と女装冒険者が揃って語尾を伸ばす。違和感が出るか
らやめろ、とキロが事前に注意した事も忘れるくらい、驚く事だっ
たらしい。
1276
﹁先に片付けないといけない用事があるんだ。シールズの事は気に
かかるけど、俺達は自分の都合優先だな﹂
﹁冒険者ならそういう事もあるでしょうけど、ギルド長直々の依頼
なんですよ? 受けましょうよ。一緒に女装して敵地潜入とか楽し
そうなのに﹂
﹁女装したいだけだろ﹂
﹁ばれました?﹂
やれやれ、とキロは首を振り、キロの記憶を無くしているクロー
ナが興味を引かれたようにキロを見る。
﹁私もキロさんの女装姿が見たいです﹂
﹁そんな日は永遠に来ない﹂
﹁むぅ⋮⋮﹂
不満そうに唇を尖らせるクローナを無視して、キロはカルロを見
る。
﹁カルロさんも、良ければ一緒に来てくれませんか? 馬車を動か
せる人がいなくて困っているので、途中まででもいいんですけど﹂
カルロの店がある町は、クローナの故郷の村への途上にある。
説明すると、カルロは依頼を断る口実の到来に嬉しそうな顔で頷
いた。
対照的に、ギルド長が渋い顔をする。
﹁窃盗組織の囲みをたった三人で切り抜けたキロさん達が参加して
くれないのは困るのだが︱︱﹂
﹁不遇の記憶はそう簡単には拭えぬものだ。依頼をする前に信頼を
積み重ねなかったツケである。反省するがよい﹂
1277
フカフカがさらりと言い返すと、ギルド長は目を丸くして喋るイ
タチを見つめた。
ミュトが肩に乗るフカフカを横目に見る。
﹁たった三人じゃなくて、三人と一匹だよね﹂
﹁ギルド長とやらの言葉をミュトが補う意味はない。むしろ、とど
めを刺しておるぞ﹂
フカフカとミュトのやり取りで失言に気付いたギルド長が額を抑
える。
ギルド長が謝る前に、キロは言葉を差し込む。
﹁そんなわけで、俺達は依頼を辞退します﹂
丁重に頭を下げられてはギルド長も引き止められなかったらしく、
諦めたように首を振られた。
﹁ひとまず、依頼内容だけでも聞いて行ってくれないか。君達は窃
盗組織に狙われてもいる。情報の取得は大事だろう﹂
ギルド長の言葉ももっともだ。
キロ達は依頼内容だけ聞いて、ギルドを後にした。
気が変わったらいつでも参加を受け付ける、と未練がましい言葉
を贈られながら。
1278
第十七話 二度目の蘇生
のほほんとした顔に似合わず働き者の地下世界産の馬は、のっし
のっしと北に歩を進める。
カルロは店に一度立ち寄ったうえで、クローナの故郷まで御者を
務めてくれるらしい。
ありがたく厚意に甘えて、キロ達は道を進んでいたが、途中で見
覚えのある道に出た。
キロは記憶を振り絞っていたが、答えを出す前にそれは現れた。
道の端に転がる倒木、ゴブリンによってシキリアで興奮させられ
たグリンブルとキロ達が交戦した地点である。
まだたった二か月前の出来事だというのに、キロには懐かしさを
覚える光景だった。
しかし、口に出すのは憚られる。
なぜなら、クローナはキロと一緒にグリンブルと戦った事を覚え
ていないのだ。
どことなく気まずさを覚えて、キロは視線を逸らす。
﹁︱︱なんだ?﹂
ゴブリンの縄張りである森の奥に大きな布がはためいているよう
に見えて、キロは目を凝らす。
木の枝に引っかかっているそれの正体に気付いたキロは、思わず
御者台の上で立ち上がっていた。
﹁ど、どうしました?﹂
カルロが驚いた顔でキロを見上げる。
1279
﹁あ、いや⋮⋮ちょっと馬車を止めてもらってもいいですか?﹂
﹁かまいませんが、いったい何があったんです?﹂
カルロは不思議そうにキロが先ほどまで見ていた森の中に目を凝
らす。
異変に気付いてクローナとミュトが荷台から顔を出した。
キロは森の奥、木の枝に引っかかっているモノを指差す。
﹁クローナ、アレに見覚えはないか?﹂
﹁見覚えって言われても︱︱あ、もしかしてアレ⋮⋮﹂
クローナも覚えているらしい。
﹁カルロさんは馬車をお願いします﹂
キロは馬車を下りて、件のモノに近付き、下から見上げた。
枝にぶら下がっているのはこの森では珍しくない魔物、ゴブリン
である。すでに息はしていないようだ。
だが、問題なのはゴブリンの死骸ではなく、それが着ているモノ
だった
﹁やっぱり、司祭様の外套です。なんでこんなところに?﹂
ゴブリンの死骸を枝から降ろし、外套の襟元をめくって名前を確
かめたクローナが不思議そうに首を傾げる。
﹁前にここを通った時、俺が司祭さんに借りて無くした外套だ。ゴ
ブリンにパクられてたのか⋮⋮﹂
1280
道理で見つからなかったはずだ、とキロはため息を吐き、ゴブリ
ンの死骸に視線を落とす。
︱︱枝に引っかかって動けなくなった挙句の餓死ってところかな。
おもむろに手を当て、特殊魔力を注ぎ込むと、ゴブリンの耳がピ
クリと動き、ムクリと上半身を起こした。
外套を羽織ったままのゴブリンはキロを見て恐怖に顔をひきつら
せた後、クローナに気付いて平伏した。
﹁蘇生したって事はやっぱりこのゴブリン、グリンブルの一件の奴
か﹂
銀色のグリンブルをけしかけた挙句、外套を盗んでいくとはずう
ずうしい奴だ、とキロは一発殴りたい衝動に駆られた。
キロの怒りが伝わったのか、ゴブリンはびくりと身を震わせると
一目散に逃げ出した。
﹁あ、こら! 待て、外套を返せ!﹂
司祭からの借り物でもあり、盗まれたまま見過ごすわけにはいか
ない。
しかし、小柄なゴブリンは藪に頭から突っ込み、キロを撒こうと
する。
だが、走った方向が悪かった。
ゴブリンはキロ達から逃げようとするあまり、森を出て道へと転
がり出てしまったのだ。
当然、馬車を任されていたカルロの目に留まる。
﹁おや、死んでなかったんですか﹂
言うなり、カルロは護身用の手斧を素早く投げる。
1281
流石は元冒険者だけあって、ゴブリンに反応させる暇も与えなか
った。
キロ達が森から出た時には、すでにゴブリンは頭をかち割られて
二度目の短い生を終えていた。
﹁哀れであるな⋮⋮﹂
風に煽られてはためく外套に哀愁が漂うゴブリンを見て、フカフ
カがしみじみと呟いた。
ひとまず外套をはぎ取り、キロは森の奥にゴブリンの死骸を移す。
クローナがゴブリンからはぎ取った外套の表裏を確かめて、傷ん
でいないかを確認する。
二か月間ゴブリンが着続けていたのだろう、裾が擦り切れて泥だ
らけだった。司祭に返すとしても、謝らなければならない状態だ。
クローナがゴブリンに視線を移す。
﹁二度目でも蘇生できるんでしょうか?﹂
﹁逃げ出す前にキロの姿を見ているから条件は満たしているはずだ
けど﹂
クローナの疑問にミュトが答える。
やってみればわかる事だと、キロはゴブリンの死骸に手を当てた。
﹁⋮⋮駄目だ。特殊魔力が込められない﹂
キロは何度かゴブリンの死骸に特殊魔力を込めようと試みるが、
内側に何かが詰まっているように押し返される感覚があった。
断念して、キロはゴブリンに手を合わせる。
殴ってやろうとは思っていたが、殺すつもりはなかったのだ。
1282
﹁割と良い奴だったんだけどな﹂
﹁グリンブルをけしかけてきたゴブリンですよ?﹂
﹁死者の悪口は言わない事にしているんだ﹂
ゴブリンの死骸を埋めようかとも思ったが、枝に引っかかってい
た時とは違って他のゴブリンの手が届く地面の上に放置しておけば、
ゴブリン流の弔い方をするかもしれないという事で放置する。
どの道、旅の途中であるため、一々埋める時間がない。
キロはクローナ達と共に馬車に戻る。
﹁お待たせしました﹂
馬車で待っていたカルロに声を掛けると、不安そうな視線で迎え
られた。
﹁先ほどのゴブリン、殺しては不味かったんですかね?﹂
﹁いえ、知っているゴブリンではありましたけど、所詮は魔物です
から﹂
馬車に乗り込みながら言葉を返すと、カルロはほっとしたように
馬に鞭をくれ、馬車を進ませた。
約二か月ぶりに訪れた町は何ひとつ変わらない景色でキロ達を出
迎えた。
店の様子を見てくるというカルロと別れ、キロはクローナ達を連
れてギルドの建物に入る。
見覚えのある中年女性が受付に立っていた。
キロ達を覚えていたらしく、中年女性は意外そうな顔をしつつも
手を振ってくれた。
1283
﹁ゼンドルとティーダに話は聞いてるよ。派手に活躍してるそうだ
ね。女装で﹂
﹁ハッハッハ、ソンナコトアリマセンヨ﹂
抑揚のない声で中年女性の言葉を否定して、キロは建物の中を見
回した。
﹁ゼンドルの奴、どこに居やがるんだ﹂
﹁キロ、怖い顔しないで、抑えて抑えて﹂
きつい目でギルド内を見回すキロの腕を、ミュトが掴んで抑える。
クローナもまたギルドの中を見回した。
キロについての記憶を無くしたクローナにとって、ゼンドルとテ
ィーダはキロについての話を聞ける数少ない相手なのだ。
中年女性はキロ達の間にある距離に特にも疑問を抱いた様子がな
く、口を開く。
﹁ゼンドルとティーダなら、依頼を受けて外に出てるよ。もうそろ
そろ戻ってくる頃合いかね﹂
中年女性が言い終えない内に、入り口からキロ達へ声がかかった。
﹁︱︱女装してないキロがいる! 今日は一体どうしたんだ?﹂
大げさに驚いた声を出す犯人は、とキロが振り返れば、入り口の
扉に手を掛けているゼンドルがいた。後ろにはティーダの姿も見え
る。
﹁人が毎日女装してるみたいな言い方するのはやめろ!﹂
1284
﹁残念だったな。ここの連中で翻訳の腕輪を持ってるのは一部の職
員を除いて俺とティーダだけだぜ﹂
にやり、と笑うとゼンドルは居合わせた職員や冒険者に聞こえる
ように声を張り上げる。
﹁そこの黒髪は、男装している美少女だ︱︱って痛ったぁッ⁉﹂
調子に乗り始めたゼンドルの頭をティーダが叩くと、先ほどのゼ
ンドルの声よりもよほどいい音が高く響き渡る。
﹁嘘つくな、バカ﹂
ティーダが呆れたように言うと、職員や冒険者のぎょっとしたよ
うな視線がキロから外れ、またか、と言いたげな視線がゼンドルに
注がれた。
﹁え? これは俺が悪い流れ?﹂
周囲の反応を確かめたゼンドルは、何かを覚悟したような顔でキ
ロに向き直る。
﹁キロ、今すぐ女装しろ。それだけでここの連中全員騙せるから﹂
﹁お前、ほんとタフだな﹂
ティーダに倣ってゼンドルの頭を叩くと、冒険者達からクスクス
と忍び笑いが聞こえてきた。
どうやら、質が悪い冗談を口にするゼンドルはこのギルドのムー
ドメーカー的な存在になっているらしい。
1285
第十八話 パーンヤンクシュ襲撃事件
カルロが御者を務める馬車に揺られてキロ達は北の町に着いた。
角度が急な屋根を持つ家々が並ぶ大通りには、外套を羽織った人
々が行きかっている。
寒さに身を縮こまらせながら、キロは白い息を吐き出す。
自分達だけが幌の中にいるのはカルロに悪いと思い、クローナと
ミュトを中に残して御者台に座っているのだ。
カルロを挟んだ隣には、なぜか面白がってついてきたゼンドルが
座っている。ティーダは幌の中でクローナ達と雑談しているはずだ。
キロの視線に気付いたのか、ゼンドルが顔を向けてくる。
﹁俺とティーダも窃盗組織に喧嘩売ってるんだから、狙われてても
おかしくない。身を隠すついでに、付いて行くのは当然だろ?﹂
﹁別に何も言ってない。滞在費は自分で出せよ﹂
﹁分かってるって﹂
へらへらと笑うゼンドルにため息を吐いて、キロは改めて町を見
渡した。
すでに日が傾いているため、これからさらに気温が下がって行く
事だろう。
今の内に夕食の買い出しだけは済ませておこうと、町の住民が買
い物袋を片手に歩きまわっている。
中途半端に溶けた雪でぬかるんだ道に、馬車のわだちが残ってい
る。
時折見かける冒険者も、雪国仕様の装備品に身を固めていた。
キロは幌の中にいるクローナを振り返る。
1286
﹁パーンヤンクシュは蛇型の魔物なのに、こんな寒い地域にも生息
してるのか?﹂
﹁いえ、本来この辺りでは見かけない魔物です。だから、群れで襲
ってきた時には騒動になったんです﹂
異常事態ならば、ギルドや騎士団の詰所に記録が残っているかも
しれない、とキロは思いつく。
すでに日が傾いているため、クローナの村へは明日出発する予定
だった事もあり、ギルドに立ち寄る事に決める。
キロが行先の変更を告げると、カルロが馬車の向きを巧みに変更
して横道にそれた。
﹁クローナさんの村への道は馬車で進めますかね?﹂
﹁多分、無理だと思います。山間の村で、途中には急こう配もあり
ますから﹂
ふむ、とカルロは顎に手を当て、周囲を見回す。
﹁とすると、馬車はこの辺りに預けるしかありませんな。自分もち
ょっと雪国装備に興味があるので、この町でキロさん達の帰りを待
つことにしても?﹂
キロはクローナ達の意見を聞いたうえで、カルロの提案に頷いた。
﹁馬の事をお願いします。北国は初めてなので、体調を崩すかも知
れませんから﹂
﹁えぇ、構いませんよ。これほど働き者の馬、病ごときで死なせる
わけにはいきませんからな﹂
カルロに気に入られたらしい地下世界産の馬は、のんびりした顔
1287
で歩を進めている。
もう一度道を曲がると、ギルドの建物を見つけた。
馬車を預けられる宿を探してくる、というカルロと別れて、キロ
達はギルドの建物に入る。
装備からもよそ者である事が知れたのだろう、中にいた冒険者達
が胡乱な眼つきでキロ達を見る。
﹁フカフカに視線が集まってないか?﹂
﹁我は上等な体毛を有しておるからな。いるだけで箔が付くのであ
ろうよ﹂
ふふん、と誇らしげに鼻を鳴らすフカフカに苦笑して、キロ達は
受付へと進む。
﹁この辺りは独特のなまりがあるので、私が話します﹂
ゼンドルとティーダを制して、クローナが受付の職員に声を掛け
る。
クローナが受付にパーンヤンクシュの群れ討伐に関する資料の閲
覧を求めると、すぐに用意するとの回答があった。
ゼンドルが微妙な顔で翻訳の腕輪に視線を落としているのに気付
いて、キロは首を傾げる。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁いや、なまっている単語だけ翻訳されるから違和感がすさまじい
んだ﹂
なまった単語に差し掛かる度に副音声で聞こえてくるらしく、ゼ
ンドルは困惑したように頭を掻く。
ティーダはなまっている言葉も理解しているおかげか、翻訳の腕
1288
輪が発動しないとの事だった。
﹁もっと頭を柔らかくしなよ﹂
﹁ティーダの順応性が高すぎるんだっての﹂
不満そうなゼンドルの態度に笑いつつ、運ばれてきた資料を持っ
て壁際の休憩場所に移動する。
﹁寒い⋮⋮﹂
そう呟いたミュトが手を首元に持って行くと、フカフカがミュト
の手を巻き込むように首回りを一周し、ミュトのマフラーとなる。
﹁ちょっとうらやましいな﹂
﹁同感です﹂
上等なマフラー代わりになるフカフカを見てキロが呟くと、クロ
ーナが同意した。
文字が読めないキロとミュトに代わり、クローナが資料をめくる。
ティーダが横から覗きこんで、眉を寄せた。
﹁パーンヤンクシュを討伐した冒険者の名前は不明だね﹂
顔を上げたクローナが難しい顔でキロ達を見た。
﹁あの事件、私の記憶よりもかなり深刻な状況だったみたいです﹂
そう前置きしてクローナは資料を読み上げる。
そこから浮かび上がったのは、想像を絶する戦いだった。
キロ達が想像していたパーンヤンクシュの群れの数はせいぜい十
1289
から二十だったが、実際には把握しきれないほどの数だったという。
五人の冒険者が仕留めた数だけでも五十を超えていた。
あまりの異常発生に当時の冒険者が残らず討伐に駆り出された記
録がある。
異常発生の原因は、のちに解明されていた。
とある冒険者に頼りすぎた結果だったのだ。
﹁悪臭を放つ特殊魔力を用いて強力な魔物を追い払い続けた結果、
しわ寄せが私の村に押し寄せたみたいです﹂
﹁それって、あの宿の?﹂
キロが酒好きの女主人の顔を思い浮かべて問うと、クローナは頷
いた。
﹁私の記憶にあるのはパーンヤンクシュだけですけど、実際はもっ
と種類が多かったみたいで、森の中では魔物同士の凄惨な殺し合い
が行われていたとか﹂
クローナが資料を更にめくる。
﹁パーンヤンクシュの他に村に近寄り、冒険者が倒したとみられる
のは銀色のグリンブルが二体、それからフリーズヴェルグが十体、
だそうです﹂
﹁乱戦になってそうだね。それを五人だけで抑えるとなると⋮⋮﹂
ミュトが渋い顔でキロを見る。
﹁タイムパラドックスの事もあるから、正確に数えながら倒さない
といけないのかな?﹂
﹁多すぎたり少なすぎるとタイムパラドックスが起きるかもしれな
1290
い。しかも、他の冒険者に気付かれないように数を調整するのに成
功しても、魔物が引いてくれるかはわからない﹂
予想以上の難題となった事に、キロはミュトと同じく渋い顔をす
る。
キロはふと思いつき、資料に隅々まで目を通しているクローナに
質問する。
﹁五人の冒険者の名前は載ってないって言ってたよな。理由は?﹂
﹁それが、襲撃を乗り切った後は行方を眩ましたらしくて⋮⋮﹂
﹁行方を眩ませたって、なんで?﹂
資料を見るだけでも命がけの激戦が繰り広げられたと分かるのに、
なぜか報酬も受け取らずに行方を眩ませる理由が分からない。
クローナは資料を二度読み返して、首を振った。
﹁載ってないです﹂
1291
第十九話 廃村
ひさしぶりの団体客だ、と張り切る宿の看板娘が、キロ達の注文
を聞いて厨房へきびきび歩いていく。
看板娘の後ろ姿を見送って、キロは店内を見回した。
宿の一階に設けられた食堂は木張りの床を備え、大きな暖炉に火
が入れられた明るく暖かい空間だった。
雪を室内に持ち込まないよう、玄関は一段低い位置に作られてお
り、靴箱が備え付けられている。
キロは視線をテーブルに着く面々へと戻した。
﹁明日、俺達はクローナの村に向かおうと思います﹂
キロが切り出すと、カルロは頷いてゼンドルとティーダを見た。
﹁お二人はどうします? 何でも、遺物潜りで移動できる人数は四
人程度との事ですから、村へ行ってもキロさん達が帰ってくるまで
の間は待ちぼうけですよ?﹂
﹁え、四人ってマジ?﹂
初耳なんですけど、とゼンドルがキロを見る。
キロが自分とクローナ、ミュト、最後にフカフカを指差すと、ゼ
ンドルは頭を掻きながらティーダを見る。
﹁どうする? クローナちゃんの村に興味はあるけど︱︱﹂
ティーダの意見を聞こうとしたゼンドルの前に、ビーフストロガ
ノフに似た煮込み料理の皿が置かれた。
1292
作り置きの煮物料理であるため、調理時間が短く済んだのだろう。
何とはなしに口をつぐんだゼンドルを見て、料理を運んできた看
板娘がばつが悪そうな顔をする。話の腰を折ってしまった事を気に
病んだのだ。
汚名返上とばかりに、看板娘は話題を提供する。
﹁さっきお客さんが話していた村って、もしかしてここから北の山
の中にある村だったりしますか?﹂
﹁そうですけど⋮⋮﹂
周辺にいくつも村はあるというのに、何故わかったのかとクロー
ナが訝しんだ。
看板娘は少し困ったような顔をして、続ける。
﹁お墓参り、とか?﹂
﹁そんなところです﹂
クローナが曖昧に頷くと、看板娘はほっとして胸を撫で下ろした。
おかしな反応に一同は首を傾げる。
﹁あの村、廃村になってますよ。何年か前にパーンヤンクシュの群
れに襲われた時に畑が駄目になったらしいです﹂
看板娘からの情報に、キロ達は顔を見合わせた。
﹁そんなわけなので、日持ちする食品はかなり多めに持って行った
方がいいですよ。途中で補給できませんから﹂
キロ達に忠告して、看板娘は厨房へと消えて行った。
キロはクローナの様子を見る。
1293
故郷の村が廃村になったと聞いても、クローナは顔色を変えなか
った。
﹁廃村になるだろうな、とは当時の私も思っていたので、特に驚く
ような事でもないですよ﹂
キロ達の気遣うような空気を察してか、クローナは苦笑した。
それより、とクローナは話を戻す。
﹁ゼンドルさん達はどうするんですか?﹂
空気が重くなる前に話を切り替えたクローナに感謝しつつ、キロ
は便乗する。
﹁廃村で二人、ただ野宿するのは危険だろ。この町で待っていた方
がいいんじゃないか?﹂
キロ達が過去に旅立った後の事を心配して提案すると、ゼンドル
は一も二もなく頷いた。
﹁ティーダと二人でこの町の依頼を受けるとするか﹂
話はまとまり、キロ達は明日以降の予定を話し合った。
翌朝は快晴だった。
乾いた空気は相変わらず身を切るような冷たさだったが、旅に出
る天気としては悪くない。
キロ達は町の門でカルロとゼンドル、ティーダに見送られて出発
した。
1294
町を出てしばらくは道に馬車のわだちが残っていたが、それも山
を登り始めるころにはなくなってしまう。
事前に聞かされていた通り、馬車では登れない急な角度の道だ。
廃村になる前の物資運搬はどうしていたのかと疑問に思いクロー
ナに質問すると、徒歩の行商人がよく村に訪ねて来たと答えが返っ
てきた。
﹁交通も不便だったので廃村になるのも仕方がないですね。特産が
あるわけでもなかったですし﹂
クローナ本人は割り切った考え方をしているようだ。
山を一つ越えて、昼食にする。
食事の匂いに釣られてきたグリンブルを返り討ちにして、キロ達
は再び進み始めた。
かさ張る荷物に肩を痛めながら、ときおり休憩を挟んで進んでい
る内に、空が曇り始める。
幸い雨や雪が降る様子はなかったが、太陽光を遮られて風の冷た
さが一層身に堪えた。
﹁⋮⋮クローナ、さりげなく俺を風よけにするな﹂
﹁ばれました?﹂
﹁あからさま過ぎるからな﹂
絶えず風下を取ろうとしているクローナを横目で睨むと、肩を竦
められた。
クローナがミュトの首に巻き付いているフカフカをうらやましそ
うに見る。
視線に気付いて、フカフカが尻尾を軽く一振りした。
﹁毛深くなりたいのであろう?﹂
1295
﹁そんな願望はありません!﹂
間髪入れずに否定するクローナを鼻で笑い、フカフカが尻尾を揺
らす。
﹁人間は実に軟弱であるな。寒さ如きで弱音を吐く。その点、我ら
尾光イタチの適応力たるや﹂
﹁︱︱長くなりそうなところ悪いけど、村に着いたぞ﹂
フカフカの長広舌を遮って、キロは道の先を指差す。
魔物除けの木の柵に囲まれた小さな村が見えた。
高さ一メートルほどの木の柵は、長い間放置されていたために腐
り始めているが、厚い木の板を何枚も組み合わせてあるため重厚さ
は変わらない。
試しに槍の柄で軽く叩いてみるが、びくともしなかった。
﹁グリンブルの突進が直撃してもぎりぎり保ちそうだな﹂
町にあるような立派な石の防壁ではないが、一匹や二匹の魔物を
相手にするならば十分だろう。
もっとも、群れに襲われてしまったからこそ廃村になったのだが
⋮⋮。
﹁畑は向こうです。原形くらいは留めていると思いますけど﹂
少し不安そうにクローナが指差す先に歩いてみると、雑草だらけ
の一角が見えた。
あちこちに転がる木の柵の残骸が、ここがかつて畑だった事を教
えてくれる。
踏み荒らされている区画とそうでない区画とがあったため良く調
1296
べてみると、木の柵に修繕した個所が見えた。
廃村になる前、どうにか復旧できないか試したのだろう。
﹁村の中を案内してくれ﹂
切なさの残る畑に居た堪れなくなって、キロはクローナを促し、
村へと足を踏み入れる。
事前に覚悟したような生々しい破壊跡は見受けられなかった。
﹁死者はいなかったんだよな?﹂
﹁資料にはそうありましたね。実際、私の記憶でも怪我をしたのは
冒険者さんだけでした﹂
キロ達は手分けして村の外周にある民家を調べ、破壊された跡や
修繕の跡がないかを確かめる。
しかし、何ひとつ痕跡は見つからなかった。
五人の冒険者は村の中へ魔物の侵入を許さなかったのだろう。
凄腕、とクローナが表現するだけあって、完璧な仕事ぶりである。
それだけに、報酬を受け取らずに姿を隠した理由が分からなかっ
た。
防衛用の武器が収められた倉庫は村の東西南北に一か所づつあっ
た。
試しに中を覗いてみると、武器の類は持ち出された後だった。
キロ達はクローナの案内で教会に赴く。
有事の際に立て籠れるようにと重厚な造りをした教会は、手入れ
もされず六年の風雨に耐えきってその場に存在していた。
流石に壁には汚れが目立つが、穴が開いている様子もない。
﹁クローナのお母さんの墓参りもする?﹂
1297
ミュトが珍しそうに教会の礼拝堂を見回しながら尋ねると、クロ
ーナは首を横に振った。
﹁帰ってきてからにしましょう。今はそれよりも教会内の様子を覚
えた方がいいと思います﹂
﹁そうだな。現地に跳んだあと、滞りなく行動できるようにしない
と﹂
当時クローナの母の遺体が安置されていたという聖堂はドーム状
の天井に覆われた部屋だった。
出入り口は礼拝堂とを仕切る扉ひとつだが、明かりを取り入れる
ための窓が天井近くに取り付けられている。
キロは何時ものように壁を歩いて窓に歩み寄り、嵌め殺しでない
事を確認する。
﹁この大きさなら、忍び込むくらい簡単だな﹂
﹁壁を垂直に歩ける人限定だと思うけどね﹂
ミュトが苦笑交じりに言い返す隣で、キロの壁歩きを〝初めて〟
見たクローナが驚いている。
キロは床に降り立ち、念のために当時クローナと司祭が話してい
たという居住部分に立ち寄った。
聖堂からは少し離れているため、侵入を気取られる事はないだろ
う。
確認を終えて、キロは荷物を担ぎ直す。
﹁クローナの家に行こう。多分、指輪で到着する場所になる﹂
﹁残ってるといいですけどね﹂
クローナはそう言いながら、キロ達の先頭に立って歩き始めた。
1298
クローナの家は村の外縁にあった。
他の家から少し離れている、一回り大きな建物だ。
﹁父の代まで村長をやっていたそうです。教会の司祭さんの方が立
場は上なので、名ばかりだったみたいです﹂
クローナは簡潔に説明して、家の扉を引き開ける。
埃が積もった床が見えた。
﹁⋮⋮ただいま﹂
短く呟いて、クローナが真っ先に家に上がった。
1299
第二十話 十八時
過去のクローナの世界に行くためには一度、現代社会を経由しな
ければならない。
キロは説明し、現代社会の服を取り出した。
地下世界の宝石や鉱石を大原に売り払った代金で買った物だ。
﹁これがキロさんの世界の服ですか?﹂
クローナは合成繊維の服の手触りに感嘆の息を漏らした。
﹁上等な布ですね。しかも新品﹂
﹁中古の服を着ている方が目立つ。それにその服は安物だ﹂
キロはクローナの家の中を見回して、適当な部屋の扉に手を掛け
る。
簡単に掃除をしたため、歩いても埃が舞うようなことはなかった。
﹁着替えてから集合してくれ﹂
キロは言いおいて部屋の扉を開け、中に入る。
部屋には生活道具の類が残されていた。
手早く着替えてリビングに戻ったキロは、荷物を再確認する。
現代社会に行く以上、槍を持ち込むわけにはいかない。
今回の媒体は児童養護施設で死んだ犬のエサ入れであり、潜った
先で最初に踏む土は児童養護施設の庭になるだろう。
﹁お待たせしました﹂
1300
﹁キロの世界の服って動きやすくていいね﹂
クローナとミュトが戻ってきたのを見計らって、キロは荷物の選
別を始めた。
銃刀法違反になりそうな刃物類は持ち込み禁止、クローナの杖も
リーフトレージによってわずかに光っているため非常に目立つ事を
勘案し、置いて行く事に決定する。
クローナが杖を壁に立てかけながら、不安そうな顔をする。
﹁リーフトレージの蓄積魔力を使っていたおかげで特殊魔力が原因
の失敗をしなくて済んでたのに⋮⋮﹂
﹁仕方がないさ。失敗しても俺達が補うから心配するな﹂
クローナは名残惜しそうに杖を見ていたが、やがて振り切って他
の荷物を見た。
選別した結果、残った荷物はほんの少しだ。
媒体に使う指輪やエサ入れの他、財布と僅かの着替え、そして紙。
バイト直後のキロをクローナの世界に送り出すための手袋も持って
いる。
﹁紙なんて何に使うんですか?﹂
魔法陣はすでに紙に描いた物があるため、クローナは不思議そう
に紙を見る。
﹁クローナ用だ。現代社会で少しの間、俺達と別行動しないといけ
ないからな﹂
﹁別行動⋮⋮また、どうしてそんな事に?﹂
﹁タイムパラドックスを防ぐためだよ﹂
1301
不思議そうに首を傾げるクローナに、ミュトが説明する。
﹁キロの家で、クローナは虚無の世界から帰ってきたキロと話さな
いといけないんだよ。でも、ボクやキロはその直前に別の場所で目
撃されているから、クローナのそばにはいられない﹂
良く分からない、という顔でクローナは首を傾げるが、見知らぬ
世界で一人にされる事は理解したらしく、困ったように眉を下げた。
キロはクローナに笑いかけて、紙を持ち上げた。
﹁そこで、この紙の出番だ。挨拶とか、簡単な受け答えができるよ
うに俺の世界の言葉を書いておく。聞き取りは翻訳の腕輪がやって
くれる﹂
ついでにミュトにも紙を渡し、キロが住むアパート周辺の地図を
描いてもらった。
﹁扉越しに過去の俺と話したら、近くの公園で落ち合おう﹂
他にも細々とした注意事項を伝えて、キロはエサ入れを持ち上げ
る。
魔法陣の上にエサ入れを置き、遺物潜りを発動した。
現れた真っ黒な長方形を前に、キロは荷物が入った鞄を背負う。
﹁さぁ、行こうか﹂
キロの言葉にクローナとミュトが頷きを返す。
はぐれないように手を繋ぎ、三人は真っ黒な長方形へと足を踏み
入れた。
例によって、浮遊感ひとつ感じない異世界転移。
1302
キロは地面を踏みしめる感触に目を開く。
頭上には青空が広がっているが、日はやや傾いている時間帯。
場所は予想通り、児童養護施設の庭だ。背後には犬小屋があった。
キロは犬小屋の中で伏せの体勢のまま息を引き取っている犬に視
線を落とす。
﹁⋮⋮夜に来るから、それまで待っててくれ﹂
まだ温かさの残る犬の頭を一撫でして、キロはミュトの肩に乗っ
たフカフカを見る。
﹁近くに人は?﹂
﹁建物の中に何人かいるようであるな。道には誰もおらぬ﹂
﹁今の内に施設を離れよう。人目に付くと面倒なことになる﹂
三人は動作魔力を使い、素早く施設に背中を向けて道へ走った。
ミュトを先頭に人気のない道を走り、施設からある程度離れた所
で足を止める。
現在時刻は駅で確認する事に決めて、キロはクローナ達を連れて
歩き出す。
二度目のミュトとは違い、クローナは視界にはいる物すべてが新
鮮だと言わんばかりにきょろきょろしている。
知り合いと出くわしませんように、とのキロの願いが通じたのか、
駅まで人とすれ違う事なく辿り着いた。
クローナが口を半開きにして駅周辺のビルを見上げる。
﹁ものすごく高い建物ですね﹂
﹁鉄の塊が走ってることには驚かないの?﹂
﹁馬車みたいなものですよね?﹂
1303
ミュトとクローナが物見遊山気分であれこれと視線を移す。
キロは二人がはぐれるのではないかと気が気ではなかった。
﹁観光は後にしろ。今はとにかくアパートに行くのが先だ﹂
キロは二人の手を取って切符売場へ行く。
券売機から自動で吐き出される切符を、新しいおもちゃを見つけ
たような嬉々とした表情で調べているクローナを引っ張って改札を
抜ける。
﹁面白い世界ですね﹂
﹁帰りに観光させてやるから、目の前の事に集中してくれ﹂
マイペースなクローナの態度に頭痛を覚えるキロだった。
キロのアパートの最寄駅に到着して、キロはクローナとミュトを
連れて公園に向かう。
駅構内の時計を確認する限り、現在時刻は一月二十日十八時。
アパートまでまっすぐ帰る分には十分な時間だが、公園に立ち寄
り、扉越しに虚無の世界から帰還したキロに伝えるべきことをクロ
ーナに暗記させなくてはいけない。
早足で公園を目指しながらも、キロはクローナに伝言を教える。
﹁指輪は私が今つけている物を渡すんでしょうか?﹂
﹁そうなる。大事な物なのは知ってるけど⋮⋮﹂
母親の形見代わりの指輪を渡せと言われていい顔をするはずはな
い、とキロは思ったが、クローナは意外にもあっさりと頷いた。
1304
﹁割り切ります。キロさんは私のためにやってくれているんですか
ら、できる限り協力します﹂
﹁理解があって助かるよ。埋め合わせに何か欲しい物があれば言っ
てくれ﹂
クローナが納得してくれていても、キロはやはり罪悪感を覚えず
にはいられない。
クローナは少し考えた後、髪飾りを撫でた。
﹁この髪飾りは昔の私にあげてしまうんですか?﹂
﹁そうなるな⋮⋮﹂
まさか追い打ちを掛けられると思わなかったため、キロは視線を
逸らす。
だが、クローナはキロを追いこむつもりはないらしく、今度はミ
ュトを見た。
﹁それなら、代わりになる髪飾りが欲しいです。ミュトさんとお揃
いだったりすると嬉しいかなぁ、なんて﹂
﹁ボ、ボクはいらないよ。そういう女の子っぽい物はどうせ似合わ
ないんだから﹂
﹁キロさんの見立てですよ? この服と同じく﹂
クローナがミュトの服の袖を軽く引いて意識を向けさせる。
キロの見立てでミュトに似合うように選んだ服だ。
ミュトが自分の着ている服を見下ろしてクローナの言葉を否定で
きなくなるくらい、良く似合っている。
結局、折れたのはミュトの方だった。
﹁ねぇ、キロ⋮⋮ボクのも買ってくれる?﹂
1305
﹁二人でおそろいの髪飾り、か。分かった。全部終わったら駅前の
店に入って選ぼう﹂
キロは二人に約束して、道の先に視線を転じる。
沈み始めた日の光に照らされる公園が待っていた。
1306
第二十一話 二十時
公園入口の横にある林の中を合流場所に定めると、クローナが地
図を取り出した。
ミュトの手による地図はかなり正確な代物だ。当然のように公園
の位置も寸分違わず記してあった。
﹁⋮⋮合流場所、と﹂
クローナは地図上の公園の入り口付近に文字を書く。
周囲を見回して目印になるようなものを探すクローナに、キロは
近くのコンビニの看板を指差した。
クローナが看板の文字を読もうと目を凝らし、首をかしげる。
﹁あの看板、なんて書いてあるんですか?﹂
﹁一日中休まず営業しています、とさ﹂
﹁働き者なんですね﹂
感心したように言って、クローナは地図をポケットに仕舞い込ん
だ。
キロは時刻を確認して、アパートに到着するまでの時刻を割り出
す。
﹁七時前には辿り着きそうだな。問題は俺とミュトか﹂
アパートで虚無の世界から過去のキロが戻ってくるのを待ち受け
るだけのクローナとは違い、キロ達はアパートからさらにキロのバ
イト先へ向かわなければならない。
1307
﹁余裕を持って行動したいから、アパートに急ごう﹂
キロはクローナ達を促して、アパートまでの最短距離を進む。
途中何度かクローナに地図を確認させ、道を覚えてもらった。
十九時前にアパートに到着し、クローナに向き直る。
キロは携帯電話を取り出して時刻を確認した。駅で時刻を合わせ
ているため、誤差は数秒程度だろう。
携帯電話の液晶画面をクローナに見せ、時刻の読み方を教える。
﹁良いか、二十時になったら、虚無の世界から来た俺にちゃんと伝
えろ﹂
﹁大丈夫ですよ。それよりもきちんと公園まで帰れるかのほうが不
安です﹂
﹁道に迷ったと思ったらその場を動かないで待ってろ。探し出して
迎えに行く﹂
最終確認を終えて、キロはミュトとフカフカを連れて歩き出す。
クローナ一人を残すのがどうにも不安で、キロは何度も振り返っ
た。
振り返る度に、クローナが苦笑して手を振ってくる。
ミュトがキロの服の裾を引いた。
﹁キロが心配してたら、クローナまで不安になっちゃうよ﹂
﹁嫁に出すわけでもあるまいに、心配しすぎであるな﹂
フカフカが呆れ交じりに呟き、キロを見上げた。
﹁時間は大丈夫か?﹂
﹁少し急ごう﹂
1308
タイムパラドックスの発生を防ぐために行動しているのだから、
わずかでも時間的な余裕を確保しておきたい。
キロはフカフカに人の気配がない道順を聞きながら、二か月前に
ミュトを見かけた歩道へ急ぐ。
問題なく歩道に到着し、キロはほっと胸を撫で下ろした。
﹁ミュトはここで立っていてくれ。道の向かいにあるあの店から俺
が出てくる。声を掛けたりはしなくていい﹂
店を指さしつつ、キロはミュトに言い含める。
一度訪れた事があるためか、ミュトはクローナとは違って落ち着
いていた。
﹁フカフカは首に巻きついていたんだよね?﹂
﹁知らぬとはいえ、我をマフラーなる物と誤認するとは、過去のキ
ロの眼は節穴であるな﹂
﹁フカフカは黙ってて﹂
﹁己とは何かに直結する問題である。これが黙っていられようか﹂
﹁自分の内側にだけ語りかけてなよ﹂
﹁⋮⋮言う様になったな﹂
しみじみと、なぜか嬉しそうに呟いてフカフカは口をつぐむ。
ミュト達にとっては異世界だというのに、ずいぶんと堂々とした
漫才だった。
ひとまず安心できそうだ、とキロは内心苦笑して、バイト先を監
視できる場所を探す。
記憶を探る限り、ミュトの側に未来の自分はいなかったはずだ。
隠れる事ができて監視も可能な場所、と考えて、キロは問題の路
地の側にある家電量販店を思い出す。
1309
﹁それじゃ、ここを動かないでくれ。昔の俺を異世界送りにしたら
迎えに来る﹂
通行人に聞かれたなら中二病扱いされそうだな、と思いつつ、キ
ロはミュトと別れて道を渡り、件の路地へと入る。
誰も見ていないことを確かめて、キロは用意していた革手袋を落
とし、何食わぬ顔で路地を出た。
バイト終わりのキロが前を通るだろう家電量販店へと入ると、浮
ついた音楽が耳に入ってきた。
政治ニュースの名目で政治家ニュースを垂れ流している液晶テレ
ビを横目に店内を進み、店先を目視できる場所に陣取る。
テレビ画面の端に表示された時刻は十九時三十分。
︱︱バイト先から出てくるまで残り三十分か。
余裕を持って動けそうだとキロが胸を撫で下ろした瞬間だった。
﹁︱︱キロチー? 何してんの、お前﹂
聞きなれた声が背後から掛けられ、キロは頭を抱えたくなった。
振り向けば、そこにいたのは悪友、大原だ。
﹁キロチー、バイト終わったのか? 顔出して弄ろうかと思ってた
んだけど﹂
﹁残念だったな。少し早めに終わったんだ﹂
さらりと嘘を吐きつつも、キロは内心焦りに焦っていた。
残り三十分で大原との会話を切り上げるのは造作もない。だが、
大原が店を出た時にバイトを終えた直後のキロと鉢合わせてはタイ
ムパラドックスが起きてしまう。
かといって、話を長引かせてしまうと店の前を通るバイト終わり
1310
のキロを見咎められる危険性がある。双子だと言い張るのは無謀だ
ろう。
程よいタイミングで大原との話を切り上げ、店内に大原が視線を
向けるように誘導しなくてはならない。
三十分、無駄話をすればあっという間に過ぎてしまう時間だけに、
話題選びは慎重に行わなくてはならない。
キロは瞬時に考え、口を開く。
﹁そういえば、気になってた事があるんだ。ちょっと良いか?﹂
﹁キロチーで遊びに来ただけだから時間はあるけど、ここで駄弁る
気かよ﹂
こんな時に限って常識的な意見を口にする大原。無論、キロはこ
こで駄弁る気満々である。三十分限定で。
﹁タイムパラドックスが起きると、パラレルワールドが発生するっ
ていうだろ? 世界が一つ増えるわけだけど、どこからそのエネル
ギーが出てくるんだろうな?﹂
﹁面倒な事言いだしたな。そっち方面は門外漢なんだが﹂
大原は頭を掻きつつも、どことなく楽しそうな顔をする。
大原と時間を潰すなら、まずは科学系の話を振ればいい、とのキ
ロの経験則は正しかったようだ。
後は適当な時間で話を切り上げ、店先を歩くバイト終わりの自分
を追いかければよい。
キロの計画には気付いた様子もなく、大原はしばし考えをまとめ
た。
﹁今も宇宙は膨張しているわけだから、世界はまだエネルギーを持
っているって事だろ。パラレルワールド発生時に持っているエネル
1311
ギーを折半するのかもな﹂
門外漢というだけあって自信が無さそうではあったが、それらし
い回答が帰ってきた。
﹁それだと、パラレルワールドが作られるたびに世界の寿命が減る
?﹂
﹁仮説だけどな。もともとの総量がどれくらいあるのかもわからな
いし。そもそも、最初の世界ができる時のエネルギーはどこから来
るんだって話もある﹂
やっぱりわからないな、と大原が肩を竦める。
キロにとっても難解な話だったが、ふと瞼の裏に悪食の竜の姿が
浮かんだ。
﹁なぁ、世界を分解する現象とか、あると思うか?﹂
﹁増えすぎたパラレルワールドをまとめて分解して再構築、新しい
世界を作り出す現象、ならありそうだよな。特に後半の、世界を作
り出す現象を言い換えて、宇宙を作り出す現象とすると⋮⋮?﹂
気分が乗ってきたのか、大原が楽しそうに謎かけする。
﹁︱︱ビックバン?﹂
キロの答えを聞いた大原が満足そうに頷いた。
大原が液晶テレビに視線を移す。報道内容がいつの間にか行方不
明の女子高生に関する話へと変わっていた。
﹁⋮⋮早く見つかるといいな﹂
1312
悪食の竜の姿を思い出したからだろう、連鎖的に同じ虚無の世界
で見つけた日美子の遺体を思い浮かべ、キロは呟いていた。
大原が意外そうな顔でキロを見る。
﹁キロチーの事だから、自分には関係ないとか言って気にも留めな
いと思ってた﹂
﹁⋮⋮ここ最近、色々と心境の変化があったんだよ﹂
大原の指摘に、キロは居心地が悪くなって視線を逸らす。
﹁今まで、俺はそんなに薄情な態度を取ってたか?﹂
﹁取ってたね、そりゃもう、引くくらい取ってた。もう少し熱血要
素があれば女にモテるのにもったいないと噂になってた。主に俺の
中で﹂
﹁大原の中限定か﹂
大原がただ茶化しているだけで、実際には周りの噂になっていた
のだろう。
キロは過去の自分に苦笑した。
﹁そういえば、電池切らしてたんだった﹂
そう言って、大原がキロに背中を向ける。
﹁それじゃ、またな﹂
電池を買いに行くのだろう、大原は店の奥へと歩いていく。
キロは液晶テレビに表示された時刻を見ようとして、店先を歩く
自らの姿を見つけた。
大原が背中を向けるのがほんの少しでも遅かったなら、二人のキ
1313
ロを同時に視界に収めていたはずだ。
ギリギリとはいえ乗り切った事に安堵しつつ、キロは店を出る。
自分の背中はすぐに見つける事が出来た。
すでに革手袋が置いてある路地に曲がろうとしている。
キロは走って路地に辿り着き、革手袋を拾おうとして屈んでいる
過去の自分の姿を視界に収めると同時に、遺物潜りの魔法陣を発動
させる。
革手袋から現れた長方形の黒い空間に驚く過去の自分に、キロは
動作魔力を使って走り込み、肩ごとぶつかる。
たたらを踏んで堪えた過去のキロが振り返った。
﹁おい、何するんだ︱︱﹂
文句を言おうとした過去のキロが目を丸くする。
当然だ、未来の自分に後ろから体当たりされるなど、予想できる
はずがない。
キロは二か月前、未来の自分から聞かされた台詞を一字一句漏ら
さず口にする。
﹁⋮⋮行って来い。そして、救ってくれ﹂
短く、台本を読み上げるような抑揚のなさに、自らの演技力のな
さを自覚しつつ、キロは動作魔力を練る。
未だ混乱の渦中にある過去のキロが、それでも何か情報を引き出
そうと口を開く。
﹁お前、誰だ?﹂
未来のお前だよ、と答えてやりたい衝動に駆られるが、今はタイ
ムパラドックスを起こさないように行動しなくてはならない。
1314
だからこそ、キロは台詞を紡いだ。
﹁︱︱忘れるな。今は一月二十日、二十時だ﹂
言葉と同時に、キロは掌底を過去の自分に放つ。
アンムナの奥義の応用で動作魔力を過去の自分の体に流し、吹き
飛ばした。
焦りの表情を浮かべた過去の自分が遺物潜りで開かれた異世界へ
の扉を潜るのを見届けて、キロは落ちていた革手袋を拾い上げ、真
っ黒な長方形の空間に投げ込んだ。
﹁⋮⋮がんばれよ﹂
届かないと知りつつ呟いて、キロは長方形の空間が消えるのを見
届けた。
念のために背後を確認し、目撃者の有無を確かめたキロは路地を
後にする。
ミュトがコンビニ前で待っていた。
キロが手を振ると、ミュトが駆け寄ってくる。
﹁成功した?﹂
﹁あぁ、異世界に送ってきた。過去の自分に会うのは、なんだか妙
な感覚だったよ﹂
鏡で見るのとは違う生々しさがあった。実際に触れた事もあって、
余計に生々しさを感じたのだろう。
﹁これでタイムパラドックスは起こらない、はずだ。クローナがき
ちんとやり遂げてくれているといいんだけど﹂
﹁公園で待ってるだろうから、早く合流しよう﹂
1315
ミュトがキロの手を取り、公園に向けて歩き出す。
フカフカがキロを振り返った。
﹁キロの心配性が移ったようであるな﹂
キロはミュトを見て苦笑した。
そして、キロ達は夜の公園で、街灯に照らされた血だらけのクロ
ーナを見つけるのだった。
1316
第二十二話 彼は理解する
街灯の白い光に照らし出されたクローナは、ベンチに腰かけてい
た。
服は胸の辺りが真っ赤に染まっており、重傷の二文字をキロの頭
に叩き付けてくる。
﹁クローナ⁉﹂
キロはすぐに駆け寄った。
﹁あ、キロさん、よかっ︱︱﹂
声に気付いたクローナが振り返り、何か言いかける。
しかし、キロはクローナの側に辿り着くなり服をめくって怪我の
在り処を確かめる。
きめ細かい白い肌に傷はない。
硬直するクローナを余所に、キロは露わになったクローナの胸を
見て困惑する。
﹁怪我がない⋮⋮?﹂
﹁って、何やってくれてるんですか⁉﹂
我に返ったクローナがキロの手を払い、服の裾を下ろす。服とは
別の理由で顔が真っ赤に染まっていた。
だが、クローナの羞恥心に目を向ける余裕など、今のキロにはな
かった。
クローナの服は確かに血で染まっている。しかし、クローナ本人
1317
に怪我はないようだ。
﹁クローナ、俺達と別れてから、何があった?﹂
キロの問いに困惑の表情を浮かべたクローナは、口を開く。
﹁むしろ、質問したいのは私なんですけど、私は虚無の世界で自殺
したはずですよね? ここ、どこですか?﹂
そう言って、クローナが公園を見回す。
キロは思わずクローナを見つめた。
﹁俺が元居た世界だけど⋮⋮。クローナ、もしかして記憶が飛んで
るのか?﹂
クローナが首を傾げた時、キロの肩にフカフカが飛び乗った。
﹁長話は後にした方が良い。キロとミュトの足音が近づいてきてお
る﹂
﹁あ、そうか、そろそろボク達が施設に行った時間だね﹂
ミュトがクローナの荷物を持ち上げる。
クローナに色々と聞きたいところではあったが、過去の自分達と
出くわすわけにはいかない。
キロは仕方なくクローナの手を掴んで、林の中に引っ張った。
﹁この林を抜ければ、過去の俺達とは出くわさないですむはずだ。
急ごう﹂
状況が分かっていないクローナがきょろきょろと周囲を窺う。
1318
キロとミュトが歩き出すと、クローナは文句も言わずについてき
た。
フカフカがクローナを振り返り、訝しそうに目を細める。
﹁クローナよ、最後の記憶は虚無の世界で悪食の竜に追われた時な
のだな?﹂
﹁そうですけど。もしかして、私の遺品で遺物潜りした先がキロさ
んの世界だったんですか?﹂
﹁⋮⋮キロの事はどの程度覚えておる?﹂
フカフカの質問に、キロとミュトはハッとしてクローナを振り返
った。
クローナが不思議そうにキロの眼を見つめ返す。
﹁どの程度、と聞かれても全部としか⋮⋮﹂
ミュトがクローナを見つめて、恐る恐る尋ねる。
﹁クローナ、もしかして記憶が戻ってるの?﹂
﹁何の話ですか?﹂
﹁キロについての記憶が戻った代わりに、自殺してからの記憶は失
われたようであるな。何が起こっているのか皆目見当がつかぬ﹂
分析しつつ、フカフカはキロの肩からミュトの肩へと飛び移った。
話についていけないクローナが不機嫌そうに唇を尖らす。
林を抜け、過去の自分と出くわす可能性が無くなったところで、
キロはクローナの荷物を持ったままのミュトに声を掛けた。
﹁荷物の中に着替えが入ってるから、クローナに渡してくれ﹂
﹁ここで着替えるんですか?﹂
1319
クローナが不安そうに整備された林を見る。
魔物はいないが場合によっては人目につくため、不安なのだろう。
しかし、血まみれのまま通りを歩くわけにもいかない。
﹁ボクが特殊魔力で壁を張って外からは見えないようにするよ﹂
ミュトが請け負うと、クローナはほっとしたように頷いて、キロ
を見る。
﹁覗きますか?﹂
﹁さっき見たからいい。今度は下着もつけろよ﹂
思うところがあってキロは軽口をたたき、クローナの様子を見る。
クローナは胸を抑えるような仕草をして頬を赤らめた。べぇ、と
舌を出してミュトが張った特殊魔力の壁の中に入っていく。
﹁今度は私がキロさんの胸を見つめてあげますからね!﹂
クローナの捨て台詞に、キロは確信する。
﹁⋮⋮完全に記憶が戻ってるな﹂
﹁記憶が戻らねば、胸焼けがしそうなこのやり取りは出来ぬからな﹂
フカフカがミュトの肩の上で不機嫌そうに尻尾を揺らす。
キロは数瞬考えて、フカフカを見る。
﹁さっき、俺とミュトの足音が近付いてるって言ってたよな?﹂
﹁うむ、間違いない﹂
﹁となると、タイムパラドックスは起こっていないみたいだな。ク
1320
ローナは俺の言葉を伝えてあったのか⋮⋮?﹂
虚無の世界以降の記憶がないのでは、伝言についての記憶も失わ
れているはずだ。
着替えを終えたクローナがミュトの特殊魔力の壁から出てくる。
﹁この服、どうしましょうか?﹂
血まみれの服を掲げるクローナ。
血液検査でもできればよかったのに、とキロはつい考えてしまう。
﹁ちょっと待っていてくれ。近くのコンビニで袋か何かを買ってく
る。ミュト、クローナから事情を聴いておいてくれ﹂
言い置いて、キロは歩き出す。
公園のすぐ近くにスーパーがあるのを思い出し、キロは足を向け
た。
﹁記憶が無くなっているのは蘇生の影響だとしても、二度目の蘇生
はできないはず⋮⋮﹂
歩きながら考えて、答えを出せずにキロは頭を振る。
魚を食べるとどうなるかを繰り返し歌っている鮮魚売り場を横目
に、キロは生活雑貨の棚へ行き、ゴミ袋を選び取り、ついでにミネ
ラルウォーターを三人分手に取った。
アパートに帰ることが出来れば買う必要の無い物だが、今はフカ
フカがクローナの遺体と共に陣取っているはずだ。
レジで支払いを済ませたキロは店を出て、公園に向かう。
神妙な顔をして待っていたクローナとミュトを見つけて、声を掛
ける。
1321
﹁クローナ、この袋の中に服を畳んで入れてくれ。捨てるわけにも
いかないんだ。警察沙汰になりかね︱︱﹂
確実に事件性を疑われる、と言いかけたキロの脳裏に一つの可能
性が浮かび上がった。
思わず口をつぐんだキロはゴミ袋をクローナに差し出しながら、
ミュトに視線を移す。
﹁⋮⋮どうだった?﹂
ミュトは考えをまとめるような間を置いて、静かに話し出す。
﹁クローナの記憶は自殺した時点を境にして、記憶が完全に戻って
るみたい。自殺後の記憶は全部無くなってるけど、ボクからある程
度は話しておいた。後は日記を見ればクローナも納得すると思う﹂
キロは礼を言って、血だらけの服をゴミ袋に詰めて空気を抜いて
いるクローナを見る。
クローナが視線に気付いて顔を上げた。
﹁なんか複雑な事になってるみたいですね﹂
﹁他人事みたいに言うなよ﹂
キロが突っ込みを入れると、ミュトとフカフカが大きく頷いた。
クローナは誤魔化すように笑い、腹を抑える。
﹁お腹すいたんですけど﹂
﹁クローナ⋮⋮﹂
1322
頭を抱えるミュトとは違い、キロはつい笑ってしまっていた。
理由は分からないにしろ、記憶が戻った事は喜ばしい。
﹁手持ちもあるし、美味い物食べに行くか﹂
記憶が戻った祝いを兼ねて、キロが提案すると、クローナは嬉し
そうに頷く。
仕方ないな、とばかりにミュトが苦笑した。
﹁キロの世界でしか食べられないものとかある?﹂
﹁色々あると思うけど、とりあえず寿司でいいか。生魚に抵抗はあ
るか?﹂
ない、との事なのでキロは万が一にも知り合いに出くわさないよ
う隣町までバスに乗る事に決める。
血まみれの服を入れたゴミ袋を鞄の中に入れたクローナに、キロ
は一つ質問する。
﹁虚無の世界で自殺した後の記憶はどうなってるんだ? 無くなっ
たとしても、俺達とここで再会するまでの記憶があるはずだろ?﹂
﹁気付いたら血まみれの服を着て長椅子の上で横になってました。
そういえば、あの服って私が自分で着たんですよね? キロさんが
着せてくれたって事はないですよね?﹂
﹁今はそこ重要じゃないから、話を戻すぞ﹂
﹁私にとっては重大なんですけど﹂
クローナが不貞腐れて頬を膨らませる。ミュトが横から膨らんだ
クローナの頬を突いて萎ませた。
﹁他には何かないの? 誰かがそばにいたとか、逃げていく人影を
1323
見たとか﹂
﹁ないですね。目が覚めてしばらくしたらキロさんとミュトさんが
歩いてきました﹂
﹁記憶がないのにその場に留まってたの?﹂
﹁私が困っていたら、キロさんが助けに来てくれるはずですから﹂
さらりと言ってのけたクローナは、ふと思い出したように一枚の
紙を取り出した。
﹁目が覚めた時、私が横になっていた長椅子に置いてありました。
私の世界の文字じゃないので、キロさんの世界の物だと思うんです
けど﹂
﹁手紙か?﹂
クローナが記憶を取り戻した事が、何者かが介在した結果だとす
れば手紙が置かれていても不思議ではない。
だが、どうして直接キロに伝えないのかは分からない。
とにかく手紙を見てみよう、そう思ってキロはクローナから紙を
受け取った。
書かれていた言葉を見て、キロは一瞬眉を寄せ、意味を理解する。
﹁⋮⋮最低だな﹂
ポツリと誰にも聞こえないよう、口の中で呟いたキロは、手紙を
丸めてポケットに突っ込んだ。
﹁この紙、俺達には関係ないみたいだ。買い物用のメモ書きだよ﹂
クローナ達に背を向けながら、キロは嘘を吐く。
自分がこれから何をするのか、大まかに理解してしまったのだ。
1324
不思議そうに首を傾げるクローナ達に何かを言われる前に、キロ
は歩き出す。
ポケットの中の紙を、キロは強く握り潰した。
手紙にはこう書いてあった。
︱︱パラレルワールドシフト
1325
二十三話 夕食と髪飾り
﹁極めて遺憾である﹂
と、フカフカが鼻息荒く口にする。
寿司屋に入ろうとしたところ、ペット同伴お断りといわれて門前
払いを食らったのだ。
盲導犬と言い張るのは無理がある。
﹁すまん。異世界の感覚が抜けてなかった⋮⋮﹂
キロはキロで、習慣という名の魔物に頭を抱えていた。
クローナとミュトが顔を見合わせ、次いで背後の寿司屋を振り返
る。
﹁結局食べられないのかな?﹂
﹁みたいですね﹂
残念そうな二人の声を聴き、キロは顔を上げる。
﹁味は落ちるが、食べる方法はある。スーパーで買おう﹂
寿司ひとつでなぜこうも必死なのか、と自らの心が問いかけてく
るが、キロは無視してスーパーへ足を向ける。
ゴミ袋を買った店とは別のスーパーであり、普段利用しない店舗
だ。
キロの後をクローナとミュトが付いて来る。
スーパーはすぐに見つかった。
1326
運よく売り切れていなかった惣菜の寿司と、コメや生魚が二人の
口に合わなかった場合に備えて惣菜パンを買う。
﹁透明だけどガラスじゃないんだね﹂
﹁布みたいですけど、すごい透明感ですよね﹂
ビニール包装を観察しては意見を言い合うクローナとミュトを横
目に、キロは支払いを済ませる。
店を出たキロ達はその足で近くの公園に赴き、ベンチに並んで腰
掛ける。
遊具といえば滑り台とブランコだけ、しかしやたらと広い土地に
作られた公園だ。遊具よりも花壇が占める割合の方が大きいくらい
である。
スーパーの人が気を利かせて付けてくれたフォークをクローナ達
に渡し、キロは久しぶりに箸を手に取る。
﹁使いづらそうですね﹂
﹁何を言う。これぞ万能食器だ﹂
真ん中に座ったキロの膝の上に寿司の器を乗せ、キロ達は遅い夕
食を食べ始める。
ひとまず卵から食べさせて米に対する反応を見ようと考え、キロ
は二人に卵寿司を渡す。
﹁甘くておいしいですね﹂
卵寿司を一口食べるなり、クローナが口元をほころばせる。
ミュトも卵の程よい甘さが気に入ったのか、一口で食べきってし
まって名残惜しそうな顔をした。
1327
﹁俺のもやるよ。半分にしろ﹂
二人があまりに嬉しそうに食べるため、キロは苦笑しつつ箸で卵
寿司を二つに切り分けて差し出した。
クローナとミュトが差し出された卵寿司を見て目を細める。
﹁⋮⋮なるほど、キロさんの器用さはこうやって培われたんですね﹂
﹁目の前であっさりやられると、凄い説得力だね﹂
﹁その理屈だと日本人がほぼ全員器用って事になるけどな﹂
キロは言い返しつつ、マグロに箸を伸ばす。
キロの動きにつられて、クローナとミュトが同じようにフォーク
でマグロ寿司を刺して口元に運ぶ。
キロは久々のマグロを頬がとろける思いで味わうが、クローナと
ミュトは興味深そうに何度か噛んだ後、口を押えた。
﹁何か鼻に抜ける!﹂
﹁キロさん、なんですかこの魚⁉﹂
﹁マグロだけど⋮⋮あ、ワサビのこと忘れてた﹂
そういえば卵寿司にはわさびが入っていなかった、とキロは思い
至る。
スーパーで買っておいたミネラルウォーターを渡すと、二人の娘
は競うように飲み始めた。
水でわさびを押し流した二人がほっと息を吐き、キロを睨む。
﹁なんて罠を張るんですか﹂
﹁キロの意地悪﹂
﹁魚の生臭さを消すための物だし、悪くならないようにする効果も
あるんだ。そう邪険にしたものでもないんだぞ﹂
1328
少し不機嫌になりつつも、キロは残った寿司からわさびを落とす。
警戒した猫のような鋭い眼差しでキロの箸先がワサビを落として
いくのを見ていたミュトが、端に置いてあるものに目を付けた。
﹁これ何?﹂
﹁ガリだ。それも食べられる﹂
キロの半端な説明に警戒を深めたミュトが、ガリをじっと見つめ
る中、クローナがさっとフォークでガリを少量取った。
何の躊躇も見せずにガリを食べたクローナを驚愕のまなざしで見
つめたミュトが、様子を窺うようにクローナに声を掛ける。
﹁大丈夫?﹂
﹁甘酸っぱくて歯ごたえがあって、なかなかおいしいです。私は好
きですよ、これ﹂
疑うようにクローナとキロを見たミュトは、覚悟を決めたように
ガリを取って食べ、眉を寄せる。
﹁美味しくないわけではないんだけど⋮⋮﹂
﹁子供だな﹂
﹁子供ですね﹂
キロとクローナが口をそろえて煽ると、ミュトはそっぽを向いた。
﹁別にいいもん。魚の方が美味しいから﹂
そう言って、ミュトはフォークで一番近くにあったイカ寿司を刺
して食べようとする。
1329
﹁あ、それまだわさび抜いてない︱︱﹂
キロは止めるが間に合わず、ミュトは淡白な味のイカで強調され
たワサビの洗礼にもだえ苦しむのだった。
イカの不意打ちによりワサビに苦手意識を抱いたミュトにアナゴ
などを渡して食べさせて、キロ達は寿司を食べ終えた。
惣菜パンは取っておくことに決まり、キロはミネラルウォーター
を三人で回し飲みしながら遠くで聞こえる車の走行音に耳を澄ませ
る。
隣でミュトが欠伸を噛み殺した。
﹁そろそろ眠いし、どこかの宿で一眠りしてからクローナの世界の
過去に行こうよ﹂
﹁私も一晩明けてほしいです。日記を読みたいですし、まだ状況が
つかめたわけではないので﹂
﹁この近くにパスポートなしで泊まれる宿があるといいんだけど。
ホテルなら駅前にあるはずだから探すとしようか﹂
流石に桃色のホテルには行けないため、キロは駅周辺の建物を頭
に浮かべつつベンチから腰を上げた。
﹁ついでに髪飾りを買いに行こう﹂
どうせ駅周辺に行くのなら、とキロは近くのデパートを思い出す。
営業時間ぎりぎりだが、問題はないだろう。クローナ達が選んで
いる間に携帯電話でネットに接続し、ホテルを探すこともできる。
夜道を歩いて駅に着く。キロのアパートの最寄駅から隣に当たる
1330
駅だ。
デパートに入ると、閉店時間が迫っているだけあって客の数は少
なかった。
クローナとミュトが見た事のない規模の店に気後れしているのを
笑いながら、キロはアクセサリーを売っている二階へのエスカレー
ターに乗る。
﹁勝手に動いてますよ、これ﹂
﹁なんか気持ち悪いね﹂
見るモノすべてが新鮮なクローナ達は楽しそうだ。
アクセサリーを売っている店は衣類量販店の隣にあった。
﹁好きに選べ。俺は少し調べ物をするから﹂
﹁一緒に選んでくださいよ﹂
﹁ボクはキロが選んでくれるっていうから賛成したんだよ?﹂
ミュトの言葉が決め手となり、キロは苦笑してアクセサリー選び
に付き合う事にした。
髪飾りを流し見ながら、異世界の服を着ていても使いまわせるデ
ザインの物を探す。
何故か店の奥に鎮座している木彫りのくまをフカフカが物欲しそ
うに眺めているが、キロ達は無視した。
﹁躍動的な描写であるとは思わんか。身じろぎもしない木彫りであ
るにもかかわらず、魚の身の捻り方一つとっても動き出しそうでは
ないか﹂
わざとらしく話を振ってくるフカフカをやはり無視して、キロは
色付いた葉を模した髪飾りを手に取る。色の種類も多く、葉という
1331
共通点を残していくつかの種類があったため、クローナ達に合わせ
やすかったのだ。
二人に合った物をそれぞれ選び、キロは財布から千円札を数枚出
してレジを指差す。
﹁この紙で買えるから、行って来い。俺は調べ物をする﹂
携帯を取り出したキロに頷いて、クローナ達はレジに向かった。
木彫りのくまを名残惜しそうに見ていたフカフカが最後にちらりと
キロを窺う。
そのうち信楽焼きの狸でも見せてやろうとキロは固く心に誓った。
﹁さてと⋮⋮﹂
キロはクローナ達の視界から自分が外れている事を確認して、目
をつけていた髪飾りに手を伸ばす。
モザイクガラスをあしらったその髪飾りは、今まさにクローナが
付けている物とほぼ同じものだ。
しばらくの後、クローナとミュトが会計を済ませて戻ってきた。
﹁先に売り場を出ていてくれ。俺は店の人に道を聞いてくる﹂
﹁ボク達も行くよ﹂
﹁フカフカに気付かれてる。今は品物を買ったから見逃されてるだ
けだ﹂
キロが適当に言い訳すると、フカフカの尻尾が不機嫌そうに揺れ
た。
ミュトが苦笑して、クローナと共に売り場の外に出ていく。
キロはレジに赴き、モザイクガラスの髪飾りを出した。
店員のおばさんが少し驚いたような顔をした後、売り場の外にい
1332
るクローナ達に一瞬視線を逸らす。
少し険しい眼つきでキロを睨んだおばさんは口を開く。
﹁お兄さん、三股かい?﹂
﹁いえ、後ろの姉妹の茶髪の方にあとでこっそりプレゼントです﹂
内緒ですよ、とキロが口元に人差し指を当てると、おばさんは一
転して明るい顔をしてキロの肩を叩いた。
﹁彼女の妹にデートを邪魔されたのかい。苦労するね﹂
疑ったお詫びだ、とプレゼント用の包装をしてくれたおばさんに
礼を言って、キロはレジに背を向けた。
1333
第二十四話 罪滅ぼし
観光地でもないのによく残っていたな、とキロは宿を見上げてた
め息を吐く。
木造平屋の古い宿だが、元の造りが立派なおかげで落ち着いた雰
囲気を醸し出している。
予約も取っていないというのに、キロ達を快く迎えてくれた女将
に礼を言いつつ、キロ達は宿の一室に入った。
小さな庭を部屋から見る事が出来る。まだ芽も出ていないモミジ
の木が主張する庭は、秋頃に最も客を楽しませる事だろう。
すでに敷かれていた布団の上にキロは座る。
クローナの記憶が戻って気が緩んだのか、ミュトがしきりに欠伸
を噛み殺していた。
﹁ボクはもう寝るよ﹂
﹁分かった。明日は予定通りクローナの世界の過去に行くから、そ
のつもりでな﹂
ミュトが頷いて布団にもぐりこむのを横目に見て、キロはクロー
ナに声を掛ける。
﹁今後の予定はミュトから聞いてるのか?﹂
﹁一応聞いてます。母が亡くなった頃へ遺物潜りで行く予定なんで
すよね?﹂
﹁そうだ。遺物潜りで到着したら、真っ先に村を出て森の中に入る
事になる。そこで肩を怪我した冒険者を見つけて保護し、村へ戻る﹂
ひとまずそこまで覚えておいてくれ、とキロは言い置いて、日記
1334
を開いたクローナに配慮して口を閉ざす。
腕組みしたキロは、瞼を閉じ、壁に背中を預けた。
肩に重みを感じて瞼を開くと、フカフカが乗っていた。
﹁そんなに木彫りのくまが欲しかったのか?﹂
﹁そのような些末事はどうでもよい。我が気になっておるのはクロ
ーナの記憶がなぜ戻ったか、この一点に尽きる﹂
不機嫌に尻尾を揺らしてキロの肩を叩き、フカフカは目を細める。
﹁キロはどこまで状況を理解しておる?﹂
﹁ほとんど何もわからない﹂
嘘だった。
キロはこの先自分が何をするのか、ある程度理解しているつもり
だ。
しかし、それをクローナ達に教えるつもりはなかった。
目は口ほどに物を言う、ということわざを思い出し、キロは再び
瞼を閉じる。
﹁クローナの世界の過去に行かないといけない事だけは確かだ。髪
飾りと指輪を渡さないとタイムパラドックスが起きて、今の俺達の
状況に辿り着けなくなる﹂
﹁︱︱誰が辿り着けぬのだ?﹂
フカフカが素早くキロに質問を浴びせる。
﹁俺が今日、異世界に放り込んだ過去の俺だ﹂
フカフカは不機嫌に尻尾でキロを叩き続ける。
1335
﹁今の我らと同じ状況に辿り着くには、髪飾りの念が必要であろう﹂
﹁考えてある﹂
﹁⋮⋮よかろう。我はもう何も言わぬ﹂
フカフカも何が起きるのかをある程度察したようだった。
フカフカの聴力があれば、デパートでのキロと店員の会話も聞こ
えていた事だろう。
盗み聞きしたことで生まれた疑問をキロとの会話で解消したらし
く、フカフカは肩から降りて畳の上を横切り、ミュトの枕もとで丸
くなった。
長年ミュトを支え続けただけあって、空気の読める奴だ、とキロ
は内心で苦笑する。
クローナが日記を閉じる音がして、キロは目を向ける。
﹁なんで真っ赤になってるんだ?﹂
キロが指摘すると、クローナは慌てたように顔を手で覆った。
﹁日記の内容をキロさんに話しちゃってます⋮⋮﹂
﹁あぁ、聞いたけど﹂
﹁恥ずかしすぎてお嫁にいけません、責任取ってください﹂
﹁どっちだよ﹂
キロは呆れつつ、錯乱中のクローナを落ち着かせるため背中をさ
する。
深呼吸して落ち着いたのか、クローナは日記を鞄の中に片付けた。
﹁自殺してから色々と迷惑かけたみたいで、すみません﹂
﹁二度とするなよ﹂
1336
キロが念を押すと、クローナがこくりと頷いた。
しかし、クローナはキロを上目づかいで見る。
﹁でもあの時、キロさんも自殺しようとしてましたよね﹂
図星を突かれて、キロは顔を背ける。
それでも、クローナがじっと見つめてくるため、キロはため息を
吐いた。
﹁お互い軽率な行動はしないようにしようって事だろ。分かってる
よ﹂
﹁ならいいんです。キロさんが自殺しようとしたら、私が先に死に
ますから﹂
﹁おいおい⋮⋮﹂
前科がある分、説得力があった。
クローナはニコリと笑って、キロの肩に頭を預ける。
﹁それで、責任はとってくれるんですか?﹂
﹁まだその話、続いてたのか﹂
キロに寄りかかったまま、クローナはくすくす笑う。
キロは横目でミュトを見る。
ばっちりキロと眼が合ったミュトは、そろそろと布団の中へと頭
を引っ込める。カメか、と突っ込みたくなる光景だった。
﹁ミュト、盗み聞きはよくないと思う﹂
﹁ボクは寝てるよ。久しぶりなんだから二人で話しなよ﹂
1337
布団の中からくぐもった声で答えるミュト。
キロはクローナと視線で会話し、ミュトの布団を指差した。
にやりと笑ったクローナが音もなくミュトの布団に近付く。
ミュトが気配を察して布団をわずかに持ち上げた瞬間、クローナ
がミュトの布団をめくって中へ侵入した。
﹁︱︱な、何⁉﹂
慌てたミュトの声がする。
﹁ミュトさんにも責任を取ってもらいます!﹂
﹁ボクはお嫁に行く側だよ!﹂
﹁私がミュトさんをお嫁にもらいます﹂
﹁キロだけで満足しなよ!﹂
もぞもぞしている布団の中からくぐもった声でやり取りが聞こえ
てくる。
随分とはしゃいでいるように見えるのは、クローナなりの罪滅ぼ
しなのだろう。
じゃれ合う声を聴く限り、クローナの記憶が無くなっていた間に
漂っていた重い空気も払われている。
キロは欠伸を一つして、自分の布団にもぐりこむ。
﹁キロだけ寝るなんてずるい。助けて!﹂
ミュトが手を伸ばしてくるが、キロはさっさと目を閉じた。
翌朝、どんな過程を経た結果なのか、キロの枕もとで折り重なる
ように倒れているクローナとミュトを起こす。
1338
布団を畳んで壁際に運んだ頃になって、宿の女将が朝食の支度が
できたと教えてくれた。
当然のように運ばれてきたのは和食だが、スプーンとフォーク、
ナイフまで付いていた。
焼き鮭の身を箸先で解しつつ、キロは夜の内に充電しておいた携
帯電話を片手で操作する。
﹁食べたらすぐにここを出る。この時間なら人目につかない場所も
それなりに見つかるだろう﹂
白米を食べながら、クローナとミュトは頷いた。うっすらと眼の
下にくまができているところを見ると、夜更けまで騒いだらしい。
クローナとミュトに眠りを妨害されたフカフカはミュトの首に巻
き付いて眠っている。
﹁キロが助けてくれないのが悪いんだ⋮⋮﹂
唇を尖らせたミュトがジトッとした目で抗議する。
朝食を食べ終えた後はわずかの小休止を挟み、クローナとミュト
が体調を整えるのを待った。
昨夜の内に料金は支払っていたため、キロ達は荷物を片手に女将
に軽く挨拶をして宿を後にした。
通勤通学の時間帯は過ぎており、買い物に出るにはまだ早すぎる
時間帯を狙って宿を出たため、人通りは少ない。
キロは携帯電話に表示させた地図を頼りに駐車場に向かう。
﹁ここならいいか﹂
﹁キロさんの家を見てみたかったんですけど﹂
﹁全部終わったらまたこっちに戻ってくるんだから、その時で良い
だろ﹂
1339
駐車場には車がほとんど止まっていなかったが、キロは構わず奥
にある柱へ向かう。
駐車場に隣接する民家の壁と柱で完全に死角になったその場所で、
キロは未来のクローナから渡された指輪を片手に遺物潜りを発動さ
せた。
1340
第二十五話 過去の世界
見慣れた長方形の空間を潜った先には、昼の光に照らされる清潔
な部屋があった。
キロは遺物潜りに使った指輪をクローナに預け、窓に歩み寄る。
ちらりと横目に見たベッドの上には、少しやつれた顔の女性が眠
っている。
髪の色と眼元がクローナとそっくりだった。
﹁クローナに似て、美人だな⋮⋮﹂
窓の外を見て誰もいない事を確認したキロは、ミュトの肩の上に
乗っているフカフカを見る。
フカフカが耳を動かした後、クローナを見た。
﹁しばらく人は来ないようである。別れを惜しむ時間はあるぞ﹂
クローナがキロを見た。
キロは無言で頷きを返す。
ベッドのそばに膝をついて、クローナが女性の手を握った。
目を閉じてしばらく握っていた手を、クローナはそっと布団の中
へ戻し、立ち上がる。
﹁行きましょう。指輪はどうしますか?﹂
﹁この時点ではまだ残しておいた方がいい﹂
キロが窓を開けて脱出路を作りながらクローナに言葉を返す。
ミュトが首を傾げた。
1341
﹁残しておいた方がいい、じゃなくて残さないとダメ、じゃないの
? クローナはお母さんの指輪と冒険者の指輪を同時に目撃してい
るんでしょう?﹂
ミュトの指摘に、キロは振り返って曖昧に笑った。
﹁そういえばそうだな。忘れてた﹂
﹁もう、気を付けてよ﹂
﹁あぁ、気を付ける﹂
キロとミュトのやり取りに、クローナがくすくす笑う。
﹁キロさんって時々抜けてますからね。前にパーンヤンクシュを倒
した時も、魔力切れで木から落ちましたし﹂
﹁今回はそれも気を付けるよ﹂
キロは言葉を返して、窓から外へ出る。
ミュトとクローナが続き、キロは外から窓を閉めた。カギに関し
ては考慮しなくても構わないだろう。
村の誰かに見咎められる前に、キロ達は森へと駆けこむ。
クローナの家が他の家から離れており、なおかつ村の外縁に位置
しているためさほど難しくはなかった。
森へと駆けこんだキロ達は、村から距離を取る。
目撃される心配がないほど離れた所で、キロ達は足を止めた。
﹁それじゃあ、肩を怪我した冒険者とやらを探そうか﹂
目視できる範囲にはいなかったが、キロ達は周囲を見回してすぐ
に違和感を覚えた。
1342
あまりにも、静かすぎるのだ。
自然と音に敏感なフカフカへ視線が集まる。
フカフカはミュトの肩の上で後ろ足だけで立ち上がり、耳だけで
なく首も動かして音を拾っていた。
﹁獣が去った後であるな。地上の事は良く分からぬが、兆候はなか
ったのか?﹂
フカフカの問いに、クローナは首を振った。
﹁私が幼かったからかもしれませんけど、誰かがおかしいと言って
いた記憶はないです﹂
﹁おかしいと思えば、誰かが冒険者を雇うなりすると思うよ﹂
クローナの証言にミュトが言葉を添える。
言われてみればそうだ、とキロは納得した。
﹁問題の冒険者を探しやすくなったと前向きに考えるか。フカフカ、
場所は分かるか?﹂
﹁まだ分からぬ。冒険者とやらも、派手に音を立てながら移動せぬ
だろう﹂
キロはクローナに視線を向ける。
キロの視線を受けたクローナは村の北を指差した。
肩を怪我した冒険者達は北の森から村へ入ってきたと、クローナ
が以前言っていた事を思い出す。
キロが北の森へ足を向けると、クローナが不安そうな声で呼びと
めた。
﹁武器の類は持って行かなくていいんですか?﹂
1343
﹁欲しいところだけど、村の武器を借りるわけにもいかないからな﹂
クローナの記憶によれば、肩を怪我した冒険者達は夕方頃に初め
て村を訪れている。
それ以前に村を訪ねて来たという二人の冒険者もいるが、この二
人はその襲撃があるまで村を出ていないはずだ。
キロは説明して、北へ向けて歩き出す。
﹁武器がないから、戦う事は考えず肩を怪我した冒険者の保護だけ
考える﹂
﹁クローナの記憶にある冒険者が僕らじゃなかった場合はどうする
の?﹂
﹁現地でフカフカの索敵に頼って、近くに他の人間がいたら様子を
見る﹂
方針を定めて、キロ達は村を迂回し、北の森に入る。
相変わらず不気味に静まった北の森は人の手がいくらか入ってお
り、動きやすい。しかし、クローナの話によれば森の奥は手付かず
だという。
﹁薪拾いや秋にキノコを採ったりするくらいなので、森の奥まで利
用してなかったんです。伐採しても、町まで運べませんから﹂
馬車も通れない急な坂道を思い出したキロは、さもありなん、と
呟くフカフカに同意した。
夕方に村へやってきたというクローナの証言も踏まえて、村との
距離と時間を気にしながら森の中を探索する。
日がかなり傾いてきた頃だった。
﹁待て、お前達﹂
1344
フカフカがキロ達を呼び止めた。
キロはフカフカを振り返り、首を傾げる。
フカフカはミュトの肩の上に陣取ったまま、尻尾で鼻を覆ってい
た。
﹁悪臭がする。この独特の臭い、特殊魔力によるものであるな﹂
﹁悪臭で特殊魔力⋮⋮おい、それ﹂
﹁キロの予想通り、あの宿の女主人である﹂
パーンヤンクシュの襲撃事件自体が悪臭の特殊魔力により引き起
こされたという調査結果を聞いた時から予想していたとはいえ、実
際にこの近くにいると聞くと妙な気分になるキロだった。
﹁フカフカさん、音は聞こえますか?﹂
﹁北であるな。すでに戦闘中のようである﹂
すでに村人が手を入れていない自然のままの森に入り込んでから
時間が経っており、キロは方向を見失っていたため、クローナを見
る。
土地勘のあるクローナはもちろんのこと、元地図師であり方向感
覚に優れているミュトも同じ方向を見ていた。
ただ一人違う方向を見ているキロに気付いて、娘二人が不思議そ
うな顔をする。
﹁行かないんですか?﹂
﹁いや、方向が分からなかったから﹂
﹁⋮⋮しっかりしてよ、キロ﹂
ミュトに呆れられて、キロはバツの悪さを感じながら北へ走り出
1345
す。
女主人を助けて汚名返上しようと考えつつ、キロは耳を澄ませる。
フカフカが時々飛ばしてくる指示に従い、方向を微調整している
内に、戦闘音が聞こえてきた。
何か大きな質量を持ったモノが地面に落ちる音や、水の球が弾け
たような湿った音だ。
﹁多分、パーンヤンクシュです。水を当てて体温を削ろうとしてい
るんだと思います﹂
﹁あの女主人、かなり腕が立つはずなのに、パーンヤンクシュが魔
法を使って体温上げること知らないのか﹂
以前、キロとクローナもパーンヤンクシュ相手に水球を当てたが、
火の魔法で体温を上げられて無効化された経験がある。
バキバキと木の枝が折れる音を目指して走っていると、森の奥に
パーンヤンクシュの鱗が太陽の光を反射しているのが見えた。
キロはフカフカに視線で周囲に人がいないかを問う。
﹁女主人しかおらぬようだ﹂
フカフカの報告を聞き、キロは口を開く。
﹁クローナとミュトは女主人の保護を頼む。俺はパーンヤンクシュ
を追い払う﹂
﹁素手で大丈夫ですか?﹂
﹁考えがある。無茶はしないから安心しろ。ただ、音に気を付けて
くれ﹂
パーンヤンクシュは平衡感覚を狂わせる音を尻尾から発するため、
近接殺しの異名を持っている。
1346
動作魔力を練ったキロは、急加速してパーンヤンクシュに迫った。
途中にあった木の枝を手折り、キロは跳躍する。
木の幹を蹴りつけ、パーンヤンクシュの頭上に躍り出たキロは視
界の端に女主人の姿を捉えた。
女主人は左肩から血を流している。左上腕が真っ赤に染まるほど
の出血量だ。
突然現れたキロの姿に驚いた女主人は、焦ったように口を開く。
﹁村の奴が何でこんなところに⁉﹂
女主人の勘違いからくる言葉を無視して、キロは手折ったばかり
の枝に動作魔力を込めて撃ち出した。
狙うはパーンヤンクシュの眼だ。
無警戒だったパーンヤンクシュに反応できるはずもない。
キロが放った木の枝を右目に受けて、パーンヤンクシュが身をよ
じる。
﹁村へ走れ!﹂
パーンヤンクシュが怯んでいる隙に逃げ出すべきだと判断して、
キロは女主人へ声を張り上げる。
横の森から出てきたクローナとミュトが女主人の手を取った。
﹁村は南の方です﹂
﹁パーン何とかはキロが相手するから、気にせず走って﹂
クローナとミュトが口々に言って、女主人を急かす。
女主人はキロを振り返った。
﹁んな事言ったって、あいつ丸腰だろうが!﹂
1347
女主人がキロを指差した直後、パーンヤンクシュの左目に枝が突
き刺さる。
唖然としている女主人の側に着地したキロは身をよじっているパ
ーンヤンクシュを警戒しつつ、村の方角を指差した。
﹁流石に枝じゃ仕留めきれないから、早く逃げろ!﹂
﹁枝でここまでやる奴もまずいないっての⋮⋮﹂
呟きつつ、女主人が走り出す。
走り方がぎこちないのは、左肩を怪我しているため腕を大きく振
れないからだろう。
女主人に肩を貸したいところだが、キロはパーンヤンクシュへの
警戒を緩められない。
枝による目潰しをしても、蛇型の魔物であるパーンヤンクシュに
は赤外線を見る器官があり、獲物を見失う事はないのだ。
案の定、パーンヤンクシュはキロ達を追いかけてきた。
全長八メートルほどの蛇が追いかけて来る様は、なかなか恐怖を
誘う光景だ。
しかし、女主人は動作魔力の扱いに長けているらしく、逃げ足は
速かった。
時々ミュトやクローナが支えている事もあって、逃走速度は遅く
ない。
キロは追いつかれそうになるために魔法で石弾を放って牽制し、
距離を開ける。
﹁見えました、村です!﹂
クローナの声を耳にして進行方向を確認すると、村の入り口が見
えてきた。
1348
第二十六話 六人の冒険者
村を視界に収めたキロ達は速度を上げた。
村の入り口には畑仕事を終えて家に帰ろうとする大人達の姿と、
柵に寄りかかっている女の子が一人いた。
十二歳ほどのその少女は、キロ達に気付いて泣きはらした真っ赤
な目を大きく見開いた。
少女の反応で後ろに何が迫っているかを察したキロは振り返る。
両目に枝が刺さったままのパーンヤンクシュがまだ追いかけてき
ていた。
﹁このままだと村にパーンヤンクシュが突っ込む。俺とミュトで迎
撃するからクローナは槍を借りてきてくれ!﹂
﹁ボクの小剣もお願い﹂
キロとミュトが口々に武器の調達を頼むと、勝手知ったる昔の村
とばかりにクローナが駆けていく。
肩を怪我してしんどそうな女主人が、失血で青くなった顔でキロ
を見る。
﹁森の奥にはまだパーンヤンクシュがぞろぞろいる。襲ってこない
とも限らないから、余力を残しておきなよ﹂
﹁その話、村中に触れ回ってもらえない?﹂
チロチロと二股に分かれた舌を見せているパーンヤンクシュを睨
みつつ、キロは女主人に言い返す。
しかし、女主人の怪我を見て、諦めた。よく倒れないものだと感
心さえしてしまう。
1349
キロは一つ深呼吸して、パーンヤンクシュを素早くしとめる事に
決める。
﹁ミュト、俺が攪乱するから、隙を突いて拘束してくれ﹂
ミュトが無言で片手を挙げ、了解の意を示す。
キロは周囲の開けた地形を眺め、動作魔力と同時に現象魔力を練
って駆けだした。
素早くパーンヤンクシュの前を横切り、左側へと抜ける。
キロの動きに反瞬遅れて頭を向けるパーンヤンクシュを視界の端
でとらえながら、手元に石弾を生成し、パーンヤンクシュの眉間目
掛けて撃ち出した。
しかし、石弾はパーンヤンクシュの固い鱗を二枚弾き飛ばしただ
けで傷を与えられない。
挑発と受け取ったのか、パーンヤンクシュが鎌首を持ち上げて跳
びかかる態勢を作った瞬間、ミュトが後ろから飛びかかった。
完全に不意を突いたかに見えたが、パーンヤンクシュは尻尾を大
きく振るう事でミュトを牽制する。
やはり、頭の良い魔物だ。
だが、ミュトに見え透いた牽制など効果がない。
なぜなら、ミュトには特殊魔力の壁があるのだから。
パーンヤンクシュの尻尾の動きに合わせてミュトが手を横に突き
出すと、黒い壁が生み出された。
キロは目を細めてミュトの壁を観察する。夜の闇を切り取ったよ
うな色だった。
パーンヤンクシュの尻尾がミュトの生み出した壁に衝突し、押し
負ける。
あっさりと防がれると思わなかったのか、パーンヤンクシュがミ
ュトへの警戒心を呼び起こされ、頭をミュトのいる後方へ向けた瞬
間だった。
1350
﹁︱︱がら空きだって﹂
一瞬にしてパーンヤンクシュとの距離を詰めたキロは、そっとパ
ーンヤンクシュに触れた。
流し込んだ動作魔力に指向性を与え、パーンヤンクシュを地面に
叩き付ける。
バンッ、と固い鱗と地面が激突する衝撃音が響き、パーンヤンク
シュの頭が地面にめり込む。
直後、ミュトがパーンヤンクシュの頭に手を当て、特殊魔力で枷
をはめた。
﹁これで良し、と﹂
頭を押さえつけられたパーンヤンクシュがじたばたと暴れ出した
ため、キロ達はいったん距離を取る。
即座に、パーンヤンクシュが報復の炎弾を魔法で生み出すが、予
想していたキロは冷静に水球で消火した。
﹁なんで奥義でけりを付けなかったの?﹂
﹁あれはアンムナさんに教わったもので、この時代だと多分未完成
だ﹂
なるほど、とミュトが納得するのを横目に、キロは成り行きを窺
っていた村の大人が持っている鍬に目を止めた。
﹁この魔物の頭を砕きたいので、その鍬、貸してもらってもいいで
すか?﹂
キロに声を掛けられて、初めて見入っていた事に気付いたのだろ
1351
う、ハッとした村人が困惑顔で顔を見合わせる。
見かねた女主人が村人に声を掛けた。
﹁魔物を殺すのに使うから、その鍬を貸してくれないか、だってさ﹂
キロは村人が翻訳の腕輪を持っていない事に気付き、女主人の腕
を見る。
視線に気付いた女主人が腕輪を見せびらかすように片手を挙げた。
﹁この辺りの訛りがきついから、翻訳の腕輪がないと困るんだよ﹂
村人がキロに恐る恐る近づいて、鍬を渡してくれる。
カタコトで礼を言って、キロは鍬を受け取り、パーンヤンクシュ
を見た。
頭を押さえつけられて逃げる事が出来ないものの、蛇特有の体の
柔らかさで頭を守るようにとぐろを巻いている。
ミュトの肩に乗ったフカフカが目を細めてパーンヤンクシュを観
察した。
﹁往生際の悪い。周囲に魔力を準備しておる。近付けば迎撃される
ぞ﹂
﹁避ければいいだろ、そんなもの﹂
鍬を軽く振って握りを確かめたキロは、動作魔力を練ってパーン
ヤンクシュに近付く。
パーンヤンクシュの周囲に石弾が浮かんだかと思うと、キロを目
掛けて跳んでくる。
後方にはミュトが特殊魔力の壁を張っているため、村に被害が出
る事はない。
キロは遠慮なく横に跳んで避けた。
1352
再び地面を踏むと同時に、キロは動作魔力で加速する。
どのようにキロの位置を特定しているのか、パーンヤンクシュは
石弾を次々に放ってくるが、生み出してから打ち出すまでに時間差
があり、キロは軽々と避けてパーンヤンクシュに近付く。
いくらか距離を詰めた所で、キロは勢い良く地面を踏みつけ、走
り出した。
パーンヤンクシュもなりふり構っていられなくなったのか、次々
に石弾を撃ち出してくるが、狙いが甘い。
キロは間合いに入った瞬間に鍬を横薙ぎに振るい、パーンヤンク
シュの鱗をこそぎ落とした。
露出した肌には構わず、キロは一歩引いて飛んできた石弾を避け
る。
︱︱鉄製でも鍬だと切れないな。
頭に振り降ろせば、かち割る事が出来るだろうと踏んで、キロは
動作魔力を全身に作用させる。
地面に足を踏み降ろした次の瞬間、キロはとぐろを巻いたパーン
ヤンクシュの下に鍬を差し込んでいた。
鍬の先から、パーンヤンクシュが全身を硬直させた感触が伝わっ
てくる。
かまわず、キロは差し込んだ鍬ごとパーンヤンクシュの胴体を動
作魔力を使って天高く放り上げた。
夕空へと延びる一本の縄のように、パーンヤンクシュの体が螺旋
を描いて伸びていく。
唯一、地面に固定されていた頭だけが取り残されており、尻尾が
空へと延びていくその姿は、人間なら逆立ちと呼ばれる姿勢だった。
キロはパーンヤンクシュの頭へと一歩距離を詰め、片手の鍬を勢
いよく叩き付けた。鱗が弾け、頭がい骨が陥没する音が響き、パー
ンヤンクシュの体から力が抜ける。
重力に従って落下してきたパーンヤンクシュの胴体に潰されない
よう、キロは後方へ飛び退いてやり過ごした。
1353
﹁ひとまず一匹だな﹂
右肩を回して呟いたキロに、見守っていた大人達から拍手が上が
った。
﹁︱︱あれ、終わっちゃいました?﹂
声が聞こえて振り返ると、クローナが総鉄製の槍と短剣を持って
立っていた。
﹁あぁ、何とかなるもんだな﹂
キロは借りていた鍬に付いた血を魔法で生み出した水で洗い流し、
村の大人に返す。
村の大人に交じって一人、呆気にとられたようにキロを見つめて
いる少女を見つけた。
見慣れた色の髪と、立っている場所から考えて、幼少時のクロー
ナだろう。
目が合うと、幼いクローナは両手をパタパタさせて混乱を表現し、
慌てたように目を逸らす。
しかし、ちらちらと横目でキロを窺っていた。
接触を図るなら今だと思い、キロが幼少時のクローナに歩み寄ろ
うとした時︱︱
﹁何の騒ぎか、聞いてもいいかい?﹂
不意に掛けられた声に、キロは全身の動きを止めた。
記憶にある声よりも少々若いが、聞き覚えのある声だったのだ。
キロが目を向けると、村を背に二人の男女が歩いてくる姿が見え
1354
た。
男はひょろりと背が高い。茶に近い金色をした縮れ髪が大きめの
碧眼にすだれを作っている。よく日に焼けた褐色の肌は雪国の中で
は浮いていた。
︱︱若いけど、アンムナさんか? って事はそっちの女の人は⋮
⋮。
アンムナは、パーンヤンクシュの死骸に目を止め、肩を竦めた後
で隣の女に顔を向けた。
﹁どうやら、遅かったみたいだね﹂
﹁そうね﹂
アンムナの言葉に短く応じた女は、桃色に近い色素の薄い赤髪を
指先で弄った。
男がキロに向き直り、笑みを浮かべた。
﹁僕はアンムナ、こっちはアシュリー。森で何を見たのか教えてく
れるかな?﹂
1355
第二十七話 時を超えた自己愛
思わぬところでアンムナとアシュリーに出くわしたせいだろう。
キロの思考に一瞬の空白が生まれた。
すぐに我に返ったキロは、ひとまず考えるのは後だと思い直し、
女主人を振り返る。
﹁それより、手当てした方がいい。俺達は森でパーンヤンクシュに
襲われてるこの人を助けただけだから﹂
キロは女主人の傷の手当てをしようとして、道具がない事を思い
出す。
キロはミュトに目くばせして、荷物から応急処置に使う道具を出
してもらった。
後ろから服を引っ張られた感触に、キロは振り返る。
一瞬誰もいないかと思ったが、視線を下に向けると少女がいた。
幼いころのクローナだ。
﹁⋮⋮布持ってこようか?﹂
﹁清潔な物があるなら、頼むよ﹂
キロは腕輪を一時的に貸して頼む。
幼いクローナはコクリと小さく頷くと村の奥へ走って行った。
幼いクローナの後ろ姿を見送って、キロは感心する。
﹁昔から気の利く子だったんだな﹂
隣にいたクローナが幼い頃の自分を見送ってぐっと拳を握る。
1356
﹁良い仕事です。その調子で今の内からキロさんの好感度を上げる
んですよ﹂
﹁今の俺の好感度を挙げても意味ないけどな。あのクローナが出会
うのは相似であって合同ではない俺だから﹂
キロとクローナが話していると、ミュトがクローナを手招いた。
﹁話してないで手を貸してよ﹂
﹁はい、いま行きます﹂
クローナがミュトへ駆け寄る。
女主人の側にミュトが屈んで応急手当てを始めた。
﹁話せる?﹂
﹁話せるさ。人を軟弱者扱いすんな﹂
へそを曲げて子供っぽく顔を背けた女主人は、キロと眼が合って
渋々礼を言った。
礼を言われたミュトが照れたように笑う。
ひとまず女主人の怪我は命にかかわるようなものではないらしい。
一安心したキロの肩をアンムナが叩いた。
﹁あのパーンヤンクシュは君が仕留めたのかい? 近接殺し相手に、
鍬で?﹂
﹁音を出してこなかったので、何とかなりました﹂
ふーん、とアンムナは顎を撫でながらパーンヤンクシュを眺め、
キロに向かって首を傾げた。
1357
﹁ところで、何故そんな丁寧な口調なのかな?﹂
アンムナの質問に、キロは内心ぎくりとする。
六年前の世界だけあって、ここでのキロとアンムナの年齢はそう
変わらない。
﹁⋮⋮初対面なので﹂
﹁それにしては親しみのこもった目を向けられたような気がするん
だよね﹂
観察眼でキロを追い詰めていくアンムナだったが、隣に立ったア
シュリーが女主人を指差しただけで口をつぐんだ。
女主人を見れば、応急手当てが終わったらしくキロ達を手招いて
いる。森でのことを報告してくれるのだろう。
アンムナが肩を竦めた。
﹁ボクはナンパしたわけではないんだよ? 男色の趣味はないし、
そもそも、アシュリー以外に興味はないんだから﹂
﹁⋮⋮仕事﹂
アンムナの惚気台詞を聞き流して、アシュリーが女主人へと歩き
出す。
アンムナがキロを見た。
﹁照れ屋で恥ずかしがり屋なんだ﹂
﹁嫌われてません?﹂
﹁本当にそう思うなら、君は観察眼を磨いた方がいいね﹂
平行線のやり取りをしつつ、キロ達は女主人の近くにあった柵に
寄りかかる。
1358
女主人は左腕を動かそうとして、痛みに顔をしかめる。代わりに
右手を挙げて、キロが仕留めたパーンヤンクシュを指差した。
﹁森の中はあれの三倍以上の大きさのパーンヤンクシュが闊歩して
る。ギルドの依頼を受けて、この辺りに魔物除けの特殊魔力を張り
に来たんだが、危なすぎて逃げ帰ってきたよ﹂
﹁やっぱり君が悪臭の特殊魔力持ちか。となると、アシュリーの想
像通りの状況だね﹂
腕を組んで、アンムナがにこやかに言うと、女主人がぎろりと睨
む。
﹁魔物除けだって言ってんだろが。また悪臭とか言ったら気絶させ
るぞ﹂
﹁事実じゃないか。この状況はおそらく君の特殊魔力が原因︱︱﹂
﹁アンムナ、静かに﹂
アシュリーが短くとがめると、アンムナは口を閉ざした。
むっとした女主人だったが、気になる事があるのかアシュリーを
見た。
﹁魔物除けの特殊魔力が原因ってのは何の話?﹂
﹁追い出された魔物が一か所に固まった。それだけ﹂
﹁僕とアシュリーは行き場を失った魔物が何所に行くのかと思って
調査していたんだ。自主的にね﹂
アンムナが村に来た理由を語り、キロ達に視線を向けた。
キロ達がここにいる理由を知りたいのだろう。
まさか、未来の世界から来ましたとは言えず、キロは用意してい
た嘘を口にする。
1359
﹁俺達は地図を作りに寄っただけですよ﹂
﹁地図か。この辺りの地図は書き上がっているのかい?﹂
﹁いえ、まだです。到着したばかりなので﹂
﹁それは残念﹂
アンムナはニコリと白い歯を見せるが、目が笑っていなかった。
嘘だと判断するには根拠が足りないものの、簡単に信じられるも
のでもない、というところだろう。
パーンヤンクシュの群れとの戦闘が予想される今、むやみに嘘を
指摘して戦力になりうるキロ達と仲違いするのは避けるべきでもあ
り、アンムナは口出ししないらしい。
パタパタと軽い足音が聞こえて、キロ達は村へ視線を移す。
幼いクローナが白い布を両手いっぱいに抱えて走ってくるところ
だった。腰にはガラス瓶を下げており、後ろには村の医者らしき老
婆がいる。
﹁お兄さん、布とお薬、持ってきた﹂
老婆に布と薬の入ったガラス瓶を渡し、幼いクローナがキロに報
告する。
キロは無言で頭を撫でてやった。
幼いクローナはそこが定位置とでも言わんばかりに、キロの横に
並ぶ。
﹁村の大人達を呼んでおいたから、すぐに来るよ。あの魔物を片付
けるんだって﹂
幼いクローナがキロを見上げて報告する。
ミュトが大小のクローナを見比べた。
1360
﹁昔から手際良いね。頼りになる﹂
﹁キロさんに頭を撫でさせるとは、侮れないですね﹂
﹁過去の自分である事は理解しておるのか?﹂
ミュトとクローナ、フカフカがこそこそと話しているのに苦笑し
て、キロは女主人を見た。
﹁その場しのぎにしかなりませんけど、特殊魔力を張って魔物を散
らすことはできませんか?﹂
﹁あの森に入って命があるとは思えない。この怪我だから、なおさ
らさ。ただ、村の周囲に張って魔物を侵入させないようにはできる﹂
女主人はそう言って、村を見渡した。
特殊魔力の量に自信があるのか、一分の隙もなく村を囲むことが
できるという。
拠点防御には都合のいい特殊魔力だと感心しつつ、キロは森に視
線を向けた。
﹁すると、俺達の仕事は森の中にいる魔物を追い散らす事ですね。
アンムナさん達はパーンヤンクシュの討伐経験は?﹂
﹁二、三回﹂
キロの質問にはアシュリーが答えた。
ぽつぽつと村の大人達が集まっていた。
キロ達はこの地域の訛りで話していないため、ところどころ話が
聞き取れていないらしい。
﹁私の出番ですね﹂
1361
パーンヤンクシュとの戦いに参加できなかったからか、クローナ
が張り切って状況を説明する。
大人達は見る見るうちに慌てはじめ、色を失っていく。
﹁おい、どうすんだ。作戦練らねえと﹂
﹁作戦って言っても、村長はまだ決まってないだろ。司祭を呼ぶと
しても、責任をとってくれる人じゃない﹂
﹁村長の奥さんは?﹂
﹁んなもん、昼に死んじま︱︱﹂
ハッとして、村人が口を閉ざし、キロの隣に座る幼いクローナを
見た。
暗い顔で俯いた幼いクローナの頭に手を置いて、キロは村の大人
達を睨みつける。
﹁クローナ、翻訳頼む﹂
﹁びしっと言っていいですよ﹂
キロを肩越しに振り返ったクローナは煽りつつ、村人に向き直っ
た。
﹁現状で戦力になる人間は限られてる。この地域には生息していな
いから知らないと思うけど、相手は近接殺しと異名取るパーンヤン
クシュだ。魔法使い以外は足手まといにしかならない﹂
キロは断言して、村の大人達を睨み、わざとらしくパーンヤンク
シュの死骸に目を向ける。
キロに言い返そうとした村人も、パーンヤンクシュを見て口を閉
ざした。
キロは続ける。
1362
﹁村の人間は避難してくれ。幸い、こっちの肩を怪我している冒険
者が魔物除けに使える特殊魔力を持っているから、村の中はひとま
ず安全だ。戦う気概がある奴はもしもの時に非戦闘員を守るのが仕
事だ﹂
キロは村人一人一人の顔を見回した後、幼いクローナの頭を撫で
て注目を集める。
﹁この子の顔を見てもまだ文句がある奴がいるなら、かかってこい。
ちなみに、後ろのパーンヤンクシュは俺が仕留めた﹂
キロが凄んでみせると、大人達は視線を地面に落とした。
隣で、アンムナがくすくす笑う。
﹁僕も同意見だね。ただ、近隣のギルドへ連絡はしておいた方がい
い。パーンヤンクシュが北の森にいるうちに、使いを出すべきだ。
もうじき日も落ちるから、僕らでは町まで辿り着けない可能性も高
い。この村の人に頼むのが無難だと思うよ﹂
アンムナの提案に、大人達が互いの顔を窺いあう。
キロの隣で幼いクローナがため息を吐く。
同時に、キロと旅をしてきたクローナが柏手を打って大人達の注
目を集めた。
﹁面倒臭い人たちですね、本当に。ほらそこの人、村長補佐でしょ
う。町にも何度か行ったことありますよね。こんな時に真っ先に動
かないでどうするんですか﹂
﹁な、何でおれが補佐だって事︱︱﹂
﹁つべこべ言わずに動いてください。日が落ちる前に山を下りない
1363
と、パーンヤンクシュに追いかけられますよ。ほら、早く﹂
クローナが急かすと、他の大人達も村長補佐を見つめだす。
視線で尻に火でも着いたか、涙目になった村長補佐は村の中へと
走って行った。馬房に向かったらしい。
満足そうに頷くクローナを呆気にとられたように見つめている幼
いクローナを横目に見たキロは、複雑な心境でため息を吐いた。
幼いクローナがこう呟いていたのだ。
﹁あの女の人もカッコいい⋮⋮﹂
1364
第二十八話 パーンヤンクシュ襲撃事件開始
村人を奥に避難させ、女主人が村を囲む様に特殊魔力を張り終え
る頃にはすっかり暗くなっていた。
フカフカが最大光量で周囲を照らしているため、キロ達がいる場
所だけ真昼のような明るさだったが、森へ視線を転じると右も左も
わからなくなる闇が待っている。
真っ暗闇を抱えた森から、枝が折れる音が聞こえてくる。
一つ二つではない。そこら中からパキパキと鳴り響いていた。
﹁来たみたいだね﹂
ミュトが短剣を構えて森を睨みつけた。
キロは槍を持った手を強く握る。
村は周囲を隙間なく女主人の特殊魔力で覆ってある。キロ達が退
避するためにはこの特殊魔力を避けて、上から村へ逃げ込まなくて
はならない。
いざという時はクローナが石壁を作り、それを足場に跳び上がっ
て村の中へ避難する予定だった。
フカフカが森の奥に耳を澄ませ、口を開く。
﹁パーンヤンクシュが六匹というところか。全員、魔力に余裕を持
って戦うのだぞ﹂
キロとクローナ、ミュトが頷く。
だが、アンムナとアシュリーはこれから起こる大規模な戦闘など
まるで気にした様子がなかった。
アンムナがフカフカに横目を投げる。
1365
﹁そのイタチ、索敵までこなすなんて本当に便利だね﹂
﹁人間が不便なだけである。誇る事でもない﹂
フカフカが鼻を鳴らした時、森から二匹のパーンヤンクシュが這
い出てきた。
畑を潰しながら向かってくるパーンヤンクシュに、クローナが牽
制の石弾を放つ。
当然のように迎撃したパーンヤンクシュは、尻尾を掲げた。
尻尾の先端に付いた、角笛に似たパーンヤンクシュの器官が音を
出す直前、素早く回り込んだキロが槍を逆袈裟に振るい上げる。
角笛を付け根から斬り飛ばされたパーンヤンクシュがキロに復讐
しようと反転するが、上から飛びかかったミュトの短剣に頭を貫か
れて絶命した。
一瞬で仲間を倒された事に警戒したのか、残った方のパーンヤン
クシュが森へ引き返そうとする。
しかし、突如現れた水の塊がパーンヤンクシュに触れた瞬間、渦
を巻いた。
水の流れに絡め取られたパーンヤンクシュが身動きできないのを
いいことに、アンムナが歩いて近寄り、そっとパーンヤンクシュの
頭に手を当てる。
﹁一瞬だから、痛くないと思うよ﹂
言うや否や、パーンヤンクシュの頭がはじけ飛んだ。
一切の抵抗も許さない鮮やかさだった。
頭を弾き飛ばしたのはアンムナの奥義だろう。
﹁さっきの水はアシュリーさんが?﹂
1366
クローナが問うと、アシュリーは小さく頷いた。
﹁動きを止める。アンムナが仕留める﹂
﹁僕らは要人警護の方が得意なんだけどね﹂
アンムナが補足して、森に視線を戻す。
次の瞬間、四匹のパーンヤンクシュが飛びかかってきた。
森の中で態勢を整え、長い体をバネのようにしながら動作魔力で
飛びかかってきたのだ。
ミュトが咄嗟に特殊魔力で壁を張ろうとした時、突如としてキロ
達とパーンヤンクシュの間に滝が出現する。
幅五メートル、高さ四メートルほどの滝が不自然なまでに透明な
水を地面へと叩き付け、飛び込んできたパーンヤンクシュを軒並み、
地面に押さえつけた。
アンムナが滝の端から端へと、身動きの取れないパーンヤンクシ
ュに触れながら走る。
アンムナに触れられた瞬間、次々と頭をはじき飛ばされてパーン
ヤンクシュが死んでいく。
﹁一段落したかな﹂
突き指防止のため関節を柔らかくしているのか、両手を組んで動
かしながらアンムナが六つのパーンヤンクシュの死骸を眺める。
鎧袖一触で倒されてしまったパーンヤンクシュの死骸は、当然な
がらピクリともしない。
アンムナの奥義を知るキロから見ても、異常な戦果だった。
﹁⋮⋮強すぎません?﹂
﹁そう思うだろう? でも僕らは遠距離攻撃が出来ないんだ。僕の
瞬間破壊も対象が止まっていないと成功しないからね﹂
1367
未だ不完全な奥義でも、アシュリーによる補助があれば強力な武
器になるのだろう。
そもそも、容易く行われたアシュリーの水魔法もかなり異質な代
物だった。
ただでさえ体が大きく質量のあるパーンヤンクシュ、しかも動作
魔力で勢いをつけて跳んできたそれを水のうねりだけで地面にたた
き落としたのだ。
水の粘性で威力を軽減しつつ、流れで勢いをいなしながら、地面
に叩き付けて固定する。
水全体に通す動作魔力を絶えず微調整しなければできない芸当で
ある。
かつて、シールズに掴まれそうになったキロも同様に水の流れで
弾き飛ばした事があった。
だからこそ、パーンヤンクシュほどの大質量を相手に六体同時で
行う事の難しさが理解できる。
︱︱伊達にアンムナさんとコンビ組んでないな。
とはいえ、戦力があるに越した事はない。
問題は、魔物の襲撃が止むまで戦い続けられるかだ。
最初の六匹の後、パーンヤンクシュの襲撃は次第に激化していっ
た。
七匹、十匹と増えて、あちこちにパーンヤンクシュの細長い死骸
が転がり始める。
﹁足場が確保できなくなってきたな。ミュト、魔力の余裕は?﹂
﹁まだ十分あるよ。アシュリーさんの防御が優秀だから、ボクの出
番はあまりないし﹂
1368
ミュトの言葉通り、アシュリーの水魔法を用いた防御は優秀だっ
た。
遠距離からの飛来物やパーンヤンクシュの突進は軒並み滝の魔法
で受け止め、あるいは逸らしてしまう。
しかし、アシュリーは水魔法による防御に特化しているため攻撃
手段に乏しかった。
アシュリーの弱点を補うのが、対象物の瞬間破壊を行うアンムナ
の奥義だ。
そんなアンムナとアシュリーも中遠距離の敵には対応できない。
そこで、遠距離から尻尾の角笛で平衡感覚を狂わせようとするパ
ーンヤンクシュをクローナが魔法でけん制し、仕方なく距離を詰め
てきたパーンヤンクシュをキロとミュトが中距離で始末する。
キロとミュトを突破したパーンヤンクシュはアンムナとアシュリ
ーの間合いに入るため、即殺していく。
いつしか出来上がった五人の連携は非常に安定していた。
﹁キロさん、ミュトさん、場所を移しましょう﹂
アンムナ達の後ろにいたクローナが、全体を見渡して最前線にい
るキロとミュトを呼ぶ。
近くに来ていたパーンヤンクシュの首を切り落として、キロはミ
ュト共に引き返す。
キロとミュトを追いかけてきた三匹が、アシュリーが生み出した
滝によって地面に押さえつけられ、アンムナに殺される。
戻ってきたアンムナが右手をひらひら振った。
アシュリーがアンムナの指先を見て目を細める。
アンムナが苦笑して、口を開いた。
﹁鱗で少し切っただけさ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
1369
一転して興味無さそうに呟いて、アシュリーはそっぽを向いた。
森から出てきたパーンヤンクシュに石弾を放って挑発しつつ、キ
ロ達は村の外周に沿って場所を移す。
まだ戦いは始まったばかりだが、キロは村から借りた槍を見て眉
を寄せた。
元々ここまで酷使される事は想定していなかったのだろう、すで
に刃こぼれが目立ってきている。
だましだましやってきたが、限界も近いだろう。
︱︱今の内に確認しておくか。
キロは隣を走るミュトをちらりと見る。
︱︱俺の予想が正しければ、足りないカギの一つは⋮⋮。
キロは頭の中でパラレルワールドシフトの流れを組み上げ、足り
ないカギを確認する。
キロの考え事を見抜いたか、ミュトの肩の上でフカフカが冷たい
眼差しをキロに注いでいた。
キロはフカフカの視線を思考から追い出し、ミュトに声を掛ける。
﹁ミュト、少し確認したい。この槍に特殊魔力を込めてみてくれ。
覆うのではなく、込めるんだ﹂
1370
第二十九話 過去戻しの特殊魔力
﹁ボクの特殊魔力を込めるの?﹂
キロが唐突に頼んだため、ミュトは困惑を隠しきれない様子でキ
ロの槍を見る。
キロは有無を言わせず槍をミュトに渡した。
﹁試したい事があってな。ついでに、夕方、俺が渡された直後のこ
の槍の状態をイメージして、込めた特殊魔力を発動してくれ﹂
﹁注文が多いね﹂
訝しみながらも槍を受け取ったミュトは、キロを窺い見る。
﹁何か考えがあるんだろうけど、うまくできるか分からないよ?﹂
﹁出来ないなら別の方法を考えるだけだから、気楽にやってくれ﹂
キロは軽い口調で後押しする。だが、成功をほぼ確信していた。
ミュトが槍を両手で握り、集中する。
夜とはいえ、フカフカの光に照らされているため、ミュトの特殊
魔力を込められた槍の変化は一目瞭然だった。
一瞬にして新品同様の輝きを取り戻したのだ。
変化に一番驚いたのはミュトである。
﹁キロ、これどうなってるの?﹂
槍を受け取り、キロは出来を確かめて頷いた。
1371
﹁やっぱり、ミュトの特殊魔力は対象を過去の状態に戻す魔法だ﹂
当初、ミュトの特殊魔力は不可視の壁を生み出す物だと思われて
いた。
しかし、特殊魔力の壁を通すと人の姿が見えなくなるなどの現象
が付随していた。
ミュトが対象の空間を過去の状態へと戻したため、その空間を透
過する光は過去の物となっていたからだ。
壁を通して見た光景は過去の光景であり、現在の壁の向こうの変
化を反映していなかったのだ。
今までこの現象に気付かなかった理由は、ミュトが魔法の特性を
正確に把握していなかったため、対象の空間をどの時間まで戻すか
を設定しておらず、記憶にある直前の状態を思い描いていたためだ
ろう。
しかし、地下世界でロウヒの縄張りを抜ける際、キロやクローナ
の命の危険にあせったミュトは反射的に特殊魔力の壁を使っていた。
そのため、普段は直前の状態へ戻していた空間を、さらに前の状
態へと戻していたのだ。
戻った時間が偶然、日美子がロウヒの縄張りを抜けた時間と一致
したため、当時の光景が映し出されるに至った。
その後、ミュトの中で特殊魔力の壁に対するイメージが崩壊し、
発動するたびにばらばらの時間に空間を戻していた。
フカフカによる味評価でも、ミュトの特殊魔力は日替わりであり、
時には青春の味がする、と時間に関係する表現をされている。
キロが手早く説明すると、ミュトは首に巻き付いているフカフカ
に視線を落とす。
﹁そういえば、前にも乳臭い子供が好む味とか言われた事があった
ような﹂
1372
どうやら、フカフカは人間の発達段階に合わせた表現でミュトの
特殊魔力の味を評価していたらしい。
﹁キロさん、ミュトさん、話が終わったなら、この辺りで魔物の迎
撃を始めたいんですけど﹂
クローナがキロ達を振り返って、走りながら森を指差す。
森からはぞろぞろと十匹近いパーンヤンクシュが這い出てきてい
た。
﹁あぁ、待ってくれてありがとう﹂
礼を言って、キロは槍の穂先を森に向ける。
ミュトの特殊魔力は効果時間が短い。
一時的に切れ味を回復したとはいえ、長持ちはしない。
キロは動作魔力を体に作用させて加速すると、近くにいたパーン
ヤンクシュの首を切り落とす。
パーンヤンクシュの体を抜けた槍の穂先を横目で確認すると、傷
一つ付いていなかった。
ミュトの特殊魔力は干渉を受けない効果があるため、効果時間中
は傷が付かず、形状変化もしないのだろう。
予想通りの状態だったが、キロは眉を寄せる。
︱︱干渉不可の効果だけ外す方法を考えないとな。
とはいえ、乱暴に扱っても壊れる事がなく切れ味も落ちないのは
非常に助かる。
どんなに高威力の攻撃でもミュトの特殊魔力を受けたこの槍なら
ば受け止める事が出来るのだから。
パーンヤンクシュの突進を槍の柄で受け、動作魔力を流しながら
右へ受け流す。
完全に受け流し切ったキロは、槍を一回転させ、勢いを乗せた一
1373
撃をパーンヤンクシュの胴体に見舞い、両断した。
素早く手首を返し、右腕を引きながら右足を踏み出す。
重心を前へと傾け、右腕を突き出すとともに槍で突きを放ち、正
面にいたパーンヤンクシュを貫いた。
さらに四匹ほど切り殺した所で、槍の切れ味が落ちる。ミュトの
特殊魔力の効果が切れたのだろう。
キロは後方に飛び退き、クローナを見た。
﹁村の中へ合図を送って、代わりの槍を運んでもらってくれ﹂
﹁分かりました。少し戦線を村から離しましょう。槍が来るまでに
死骸で埋まると戦えなくなりますから﹂
夜空に火球を打ち上げて村の中へ合図を送りつつ、クローナが指
示する。
アシュリーがアンムナに視線を送ると、アンムナがミュトを手招
いた。
キロの代わりに中距離でパーンヤンクシュを倒していたミュトが
戻ってくる。
アシュリーが森へ手をかざした瞬間、目の前に高さ二メートルほ
どの波が発生し、迫っていたパーンヤンクシュを呑み込んだ。
﹁押し流す﹂
アシュリーが生み出した波の中でもみくちゃにされながら、パー
ンヤンクシュが押し流されていく。
波を追いかけるように、キロ達は戦線を村から離す。
囲まれる危険性は高くなるが、アンムナとアシュリーのおかげで
不安がなかった。
キロは魔法主体の戦闘スタイルに切り替え、クローナとミュトの
補佐に徹する。
1374
時折ミュトの特殊魔力で槍の切れ味を回復し、近接戦闘に参加し
ながら槍の到着を待った。
パーンヤンクシュの死骸が二十を数える頃、村の奥から槍と短剣
を抱えた大人が二人、走ってくる。
キロ達の前に転がる大量の死骸を見て怯えたように足を止めた彼
らに、キロは手を振った。
﹁武器を投げてくれ!﹂
キロに声を掛けられて我に返った大人達は、キロ達がいる場所か
ら少し離れた所へ槍と短剣を投げ込んだ。
手渡ししようとすれば女主人が張った特殊魔力の臭いで気絶しか
ねないため、投げるしかないのだ。
キロは動作魔力を使って走り、槍と短剣を拾ってミュトのところ
へ戻る。
﹁ミュトも交換しておけ﹂
﹁ありがとう﹂
キロの槍と同様に刃こぼれが目立ち始めていたミュトも武器を交
換し、仕切り直した。
その時、森の中から銀色に輝く巨体が二つ、飛び出してきた。
キロとミュトの武器交換の隙を突いた銀色の巨体、グリンブルは
足を踏み降ろすたびに地面をえぐり、キロ達へと迫る。
ミュトがすぐさま特殊魔力の壁を張り、キロも壁の後ろへと隠れ
る。
二頭のグリンブルは同時にミュトの特殊魔力の壁にぶち当たり、
動きを止めた。
勢い良く頭をぶつけたからだろう、グリンブルがよろめく。
1375
﹁︱︱火球いきます﹂
後ろからクローナの注意が飛んだ。
間を置かず、キロとミュトの横を二つの火球が飛んでいき、体勢
を崩したままのグリンブルに衝突し︱︱凍らせた。
1376
第三十話 記憶との矛盾
﹁⋮⋮は?﹂
キロとクローナ以外の全員が、一斉に戸惑いを口にする。声の数
から判断する限り、武器を届けてくれた村人も呆気にとられて口を
開いたらしい。
キロは構わずグリンブル二頭を槍で突き殺し、クローナを振り返
る。
﹁特殊魔力を込めただろ?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
消え入りそうな声で返事をして、クローナは頬を膨らませる。
﹁リーフトレージがないんだから仕方ないじゃないですか!﹂
逆切れするクローナに苦笑して、キロは森に視線を移す。
魔物の襲撃は小休止に入ったようだ。
ミュトが凍ったグリンブルとクローナを見比べる。
﹁いまのってクローナの特殊魔力なの?﹂
﹁そういえばミュトとフカフカもクローナが魔法を失敗するところ
を見た事がないんだったな﹂
シールズが起こした誘拐事件で、アンムナから報酬としてリーフ
トレージを受けとって以来、クローナは魔法を失敗していない。
リーフトレージに魔力を込めてから使用していたため、焦って特
1377
殊魔力を込めてしまう事がなかったからだ。
﹁面白い失敗の仕方をするね。アシュリー、どう思う?﹂
﹁火、燃える、凍結⋮⋮温度関係?﹂
アシュリーとアンムナが興味深そうに凍ったグリンブルを検分し
始めると、クローナが赤い顔でアシュリーの腕を引いた。
﹁人の失敗をいつまでも分析しないでくださいよ﹂
﹁失敗から学ぶのが大事﹂
アシュリーに言い返され、クローナは二の句が継げず視線でキロ
に助けを求める。
キロはニコリと笑って、視線を逸らした。
クローナがむっとしてキロに歩み寄る。
﹁キロさんの意地悪!﹂
﹁クローナの特殊魔力の効果は気になるし、誰かの意見を聞けば参
考にもなるだろ﹂
キロは正論をぶつけつつ、森へ視線を飛ばす。敵はまだ来ないよ
うだ。
︱︱ミュトの魔力だけだと鍵が足りないんだよな。
対象物を過去の状態へと戻すミュトの特殊魔力は、キロの計画に
必要不可欠なものだ。
だが、一切の干渉を受け付けないという副次効果が厄介だった。
副次効果を無効化する何かが、キロにはまだ分からない。
﹁他の失敗例は?﹂
1378
アシュリーがクローナに質問している。
自身の失敗談を話すのは恥ずかしい様子だが、クローナは一つ一
つ丁寧に答えていた。
キロによってミュトの特殊魔力が解明された事に触発されたのか
もしれない。
パーンヤンクシュがなかなか現れないため、キロはミュトの肩に
乗っているフカフカを見る。
フカフカはキロを一瞥すると頭を振った。
﹁森の中で魔物同士の戦闘が行われておる。先ほどのグリンブルも、
魔物同士の戦いに敗れて飛び出してきたようであるな﹂
﹁魔物も生きるのに必死なのか﹂
キロは槍の石突きで地面を穿ち、杖代わりにする。
隣に誰かが立った気配に目を向ければ、アンムナが目の上に片手
で庇を作り、森を見つめていた。
﹁キロ君は名うての冒険者だったりするのかな?﹂
﹁そもそも冒険者じゃないんですけど﹂
平然とした態度をつくろいながら、キロは嘘を吐く。
アンムナは﹁へぇ﹂と納得したのかどうかわからないような呟き
を落とす。
﹁パーンヤンクシュを単独撃破、粗悪な槍、しかも刃こぼれをして
いるそれで両断したり、魔法を併用して戦う。槍の振り方も独特な
ら、使う言葉も独特。噂にならない方がおかしいと思うんだけどな
ぁ﹂
あからさまに探りを入れられている。
1379
キロは警戒しながらも、平常心を心がけて口を開く。
﹁⋮⋮みんながみんな噂好きって事もないでしょう﹂
﹁噂できない場所にいるかもしれないものね﹂
﹁確かにそうですね。故郷が遠方ですから﹂
﹁例えば異世界とか?﹂
そう来たか、というのがキロの感想だった。
未来からという答えより異世界から来たという答えの方が、この
世界では現実的な答えなのだ。
肯定すべきかどうかキロの心の内で一瞬の葛藤が生まれる。
しかし、アンムナはキロの表情を横目に見て、目を細めた。
﹁当たらずとも遠からずという反応だね。特に偏見はないから、安
心していいよ。知的好奇心は大いにくすぐられるけれども﹂
アンムナの言葉にもはやごまかしは通用しないと判断して、キロ
はため息を吐く。
﹁そうです。異世界出身ですよ。クローナは違いますけど﹂
﹁だろうね。自然にこの世界の言葉を扱っていたから﹂
どうやら未来から来たことまでは気付かれていないらしい。
ギリギリの線で秘密は守れたようだ。
﹁それにしても、すごい観察眼ですね﹂
﹁アシュリーに僕が嫌われていると勘違いしてしまう君よりは、は
るかにね﹂
﹁⋮⋮根に持ってます?﹂
1380
アンムナが肩を竦める。目は笑っていなかった。
アシュリー関連でアンムナをからかうのはやめておこう、とキロ
は決意する。
パキパキと枝が折れる音が断続的に響いて、キロ達は一斉に口を閉
ざし、森へ視線を向ける。
﹁来るぞ﹂
と、フカフカが注意を促した。
間をおかず現れたパーンヤンクシュがクローナの石弾を受けて絶
命する。
すぐに二匹、三匹と新手が現れ、仲間の屍を越えてきた。
村の周囲を移動しながら夜通し戦闘を継続し、空が白み始めた頃、
襲ってくるパーンヤンクシュの数が激減した。
キロとミュトが武器を交換すること七回、村の周囲にはよくぞこ
れほど集まったものだと感心するほど、パーンヤンクシュが屍をさ
らしている。
八本目の槍と短剣を持ってきてくれた村人が心配そうに畑を見た。
﹁収穫が済んでいるとはいえ、この有様だと畑は⋮⋮﹂
戦闘の余波で荒れ放題の畑を見回して、アンムナが申し訳なさそ
うに頭を掻く。
﹁死骸の撤去をすれば大丈夫だと思うよ。無論僕らも手伝う。それ
に、鱗がほぼ完全な状態で手に入っているから、売ればかなりの額
になるんじゃないかな﹂
1381
パーンヤンクシュの鱗はスケイルアーマーの材料となり、駆け出
し冒険者の需要が高い。
クローナが思い出したようにキロを見た。
﹁そういえば、私達も売ったことありましたね﹂
﹁キロが木の上から落ちた時の話?﹂
﹁そう、それです﹂
﹁本人がいるところでそういう失敗を何度も蒸し返すな︱︱って俺
が言える話でもないか﹂
クローナが、特殊魔力が原因で失敗した魔法についてあれこれと
アシュリーに聞かれている時、助け舟を出さなかったのはキロであ
る。
ミュトがくすくすと笑い、クローナが意地悪に笑いながらキロの
脇腹をつつく。
﹁︱︱ちょっといいかな?﹂
アンムナに声を掛けられて、キロ達は振り向く。
アンムナが森を指差した。
﹁そろそろ、死骸を片付けたいと村の人達が言っているんだ。森の
様子はどうだい?﹂
キロ達はフカフカに視線で問う。
フカフカは耳を動かして音を探った後、キロを見た。
﹁⋮⋮かなり数が減ったようだ﹂
﹁本当か?﹂
1382
村人たちにとっては朗報だが、キロは眉を寄せて深刻な顔でフカ
フカに確認する。
キロの反応を妙に思ったのか、クローナとアンムナ、アシュリー
が首を傾げる。
対照的に、ミュトはキロと同様に真剣な眼差しを森へ向けた。
未来の資料を閲覧した記憶を有するキロとミュト、フカフカだけ
が知っている。
資料に記載があって、未だ襲撃してきていない魔物がいる事を。
キロとミュトの反応に首を傾げたまま、アンムナが口を開く。
﹁魔物の数が減ったなら、村の人を呼んで死骸の撤去を始めようか。
このまま放置していると魔物の血で畑が駄目になってしまう﹂
﹁待ってください﹂
踵を返しかけたアンムナを、キロは呼び止める。
アンムナは不審そうな目をキロに向けた。
﹁何を待つんだい?﹂
﹁もう少し、様子を見ませんか? いざという時、俺達五人で村人
全員を守れるとは思えないので﹂
﹁僕とアシュリーがいても、そう思うのかい?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
アンムナの言葉がうぬぼれではない事を知っているキロとしては、
反論しにくい言葉だった。
槍を持ってきてくれた村人がキロ達の雰囲気を察して口を挟む。
﹁鱗を臨時収入にもらうとしても、畑が駄目になったら生活できな
い。早いとこ片付けたいんだがね﹂
﹁という事だ。心配するのも分かるけど、村の人が生活できなくな
1383
ったら元も子もない﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
アンムナ達に押されて、キロは頷くしかなかった。
村人を呼びに戻るアンムナ達の後ろ姿を見送って、キロは森に視
線を移す。
クローナがキロの袖を引っ張った。
﹁何か心配事があるんですか?﹂
﹁まだフリーズヴェルグの襲撃がない。資料には十体の死骸が確認
されている﹂
キロの言葉の後をミュトが引き継ぐ。
﹁フリーズヴェルグの襲撃があるなら村の人が危ない。でも、もっ
と問題なのは、襲撃がなかった場合、タイムパラドックスが起こる
事﹂
ミュトの説明に、クローナが不思議そうに首を傾げた。
﹁タイムなんとかって、未来の記憶や記録と矛盾してしまう事です
よね?﹂
クローナが念を押すと、ミュトは頷いた。
クローナはさらに不思議そうな顔をして、キロを見る。
﹁今更だと思いますよ?﹂
﹁⋮⋮どういう事?﹂
クローナに続いて、ミュトが不思議そうな顔をする。
1384
キロはクローナが言わんとしている事を察して、二人の間に手を
挟んだ。
﹁とにかく、俺達に今できる事はフリーズヴェルグの襲撃に備えつ
つ、素早く死骸を片付ける事だ。村の人はまだ来てないけど、俺達
だけでも始めてしまおう﹂
ほら、早く、とキロはミュトを急かして、クローナから遠ざける。
不可解そうにキロを見上げたミュトだったが、フカフカが少しで
も森の近くで音を聞いて索敵したいと告げたため、渋々歩き出した。
クローナがキロを見上げる。
﹁さっきの話ですけど、キロさんがここにいたらタイムなんとかが
起こりますよね? 私が間違ってますか?﹂
﹁いや、合ってるよ。クローナの記憶だと、村を守った冒険者の数
は〝四人〟なんだろ?﹂
﹁はい。それに︱︱﹂
キロが確信を持って訊ねると、クローナは頷いた。
﹁槍を持っている人なんていませんでした﹂
1385
第三十一話 指輪の回収
﹁お兄さん、お風呂を沸かそうか?﹂
トコトコと村から走ってきた幼いクローナが、パーンヤンクシュ
の死骸を片付けているキロ達の元へやってきた。
昨夜から戦い続け、日が昇ってからは死骸の片付け、冬の山の上
とはいえ、キロ達も汗をかいていた。
今は何時ごろだろうか、と空を見上げてみれば、どんよりと垂れ
込める分厚い雲に覆われている。
﹁ありがたいけど、まだ片付けが残ってるからやめておくよ﹂
フリーズヴェルグの襲撃もまだだし、とは言わない。
キロは森の側で襲撃を警戒しているミュトとフカフカに視線を向
ける。
キロと幼いクローナの会話を耳にしたのだろう、フカフカがキロ
を振り向いて首を振った。
異変はない、という意味だろう。
幼いクローナは周囲を見回し、パーンヤンクシュの数を指差し数
え始める。
不思議に思って理由を尋ねると、幼いクローナは村を振り返った。
﹁お鍋にしようって、肩を怪我した冒険者さんが張り切ってるよ。
人数分あるみたいだね﹂
﹁あの人は酒の方が目当てだと思うけどな⋮⋮﹂
パーンヤンクシュの肉を火であぶって食べれば、二日酔いの防止
1386
になる、と以前アンムナに聞かされたことを思い出す。
同時に、パーンヤンクシュの鍋を食べた経験がクローナにはある
はずだとも言っていた。
︱︱やっぱり、俺達のこと覚えてたんだな。
だが、覚えていたのなら何故、何も言わなかったのか。
十中八九、アシュリーが原因だろうと、キロも思う。
だが、アンムナにどの程度の情報を開示するべきかはわからない。
アシュリーがこれから死ぬので未来に助けます、などとは言えな
い。死なないようにするから詳しく教えろ、と言われるのが関の山
だ。
詳しく教えてしまった場合、アンムナが手を骨折して討伐戦に参
加できずにアシュリーが死んでしまう事件も起こらないかもしれな
い。
死蝋化したアシュリーを見なければ、シールズが特殊な趣味に目
覚める事もなく、誘拐事件を起こさない可能性がある。
あまりにも影響が大きすぎる。
キロは思考を巡らせつつ、幼いクローナを見る。
﹁パーンヤンクシュのどの部分がおいしいか聞いてきてくれるか?﹂
女主人がいるだろう建物を指差してキロが頼むと、幼いクローナ
は笑みを浮かべて走って行った。
幼いクローナが去ったのを見計らったように、村人がひとり歩い
てくる。
﹁あの子は昨日の昼に母親を亡くしてね。あんたに懐いてるみたい
だから、優しくしてやってくれ﹂
知ってる、とは言わずに頷いて、キロは周囲を見渡す。
食事も取らずに作業したおかげか、転がっている死骸も少なくな
1387
った。
荒れた畑が覗いているが、耕せとまでは言われないだろう。
﹁そろそろ別の場所に移ろう。村を一周して戦ったから、まだまだ
たくさんある﹂
キロが率先して歩きだすと、クローナとミュトが付いて来る。
﹁⋮⋮フリーズヴェルグ、来ませんね﹂
﹁あぁ、こんな長丁場になるとは思わなかった。そろそろ、指輪の
回収もしたいな﹂
﹁小っちゃいクローナはこっちのクローナがはめてる指輪を見たみ
たいだから、もう回収してもいいはずだね﹂
﹁私の記憶でも、紛失騒ぎがあったのは今頃のはずです﹂
クローナが村を振り返る。
同じようにキロも振り返り、村人の動きを見て眉を寄せた。
﹁フカフカ、俺と一緒に森の調査する名目で、いったんこの場を離
れるぞ﹂
﹁盗人行為に手を貸すなど︱︱﹂
フカフカが反論しかけると、ミュトが横目を向ける。
﹁フカフカ、これが大事な事なんだってわかってるでしょう?﹂
﹁⋮⋮仕方あるまい。これっきりであると、心しておけよ﹂
ミュトの肩を蹴って飛び乗ってきたフカフカに、キロは小さく礼
を言う。
フカフカは不機嫌そうに尻尾を揺らした。
1388
キロは後ろを付いて来る村人とアンムナ、アシュリーに声を掛け
る。
﹁森の方を調べてきます﹂
﹁心配性だね。戻ってきたら鍋が待ってるから、下手を打って死な
ないようにしなよ﹂
﹁気を付けますよ﹂
キロは軽く手を振って、森へ入る。
不気味なほどに静かな森の奥へと分け入って、誰もついてきてい
ない事を確認した後、遠回りして教会へ向かった。
鍋を作るために村人が慌ただしく動き回っている。
フカフカの索敵に頼りながら人目に付かないように教会へ移動し
て、キロは礼拝堂の窓を見上げる。
﹁フカフカ、中に人はいるか?﹂
﹁おらぬ。あるだけだ﹂
フカフカの言い方にため息で抗議して、キロは教会の壁に足を置
いた。
指輪の回収を無事に終えて、キロとフカフカは森の奥からクロー
ナ達の元へ戻った。
念のために森の奥の調査も終えてきたが、魔物の気配はなかった。
キロの報告を受けたアンムナが腕を組み、周りを見渡す。
﹁死骸の撤去も大体終わったし、明日には町から応援も来るだろう。
僕らはひとまず村の中に入って疲れを取ろうか﹂
﹁死骸の臭いで魔物や獣が寄ってくるかもしれません。俺達はもう
1389
しばらく︱︱﹂
キロがあくまで警戒を続ける旨を主張しようとした時、アンムナ
が苦笑してクローナを指差した。
キロが目を向けてみると、クローナに小さなクローナが話しかけ
ていた。
時を越えた出会いである。
﹁ああしてみると本物の姉妹みたいだけど、ずいぶん仲良くなった
ようでね。一緒にお風呂に入ろうと盛り上がっているんだよ﹂
頭を抱えたい衝動に駆られたが、キロはぐっとこらえてアンムナ
に向き直る。
﹁しかし、パーンヤンクシュの死骸を狙ったフリーズヴェルグが来
るかも﹂
﹁フリーズヴェルグなんてこんな寒い地域にいないよ?﹂
︱︱フリーズじゃないのかよ!
先入観で雪山に生息している魔物だとばかり思っていたキロだが、
パーンヤンクシュを好んで食べる魔物が好物の生息圏ではない雪山
にいるはずがない事に気付く。
﹁なんだか、キロ君は色々と面白い事を言うね﹂
口では笑みを作りながら、アンムナがキロに疑うような視線を向
ける。
キロは視線を逸らしつつ、渋々口を開く。
﹁心配性なもので⋮⋮。とりあえず、村の周囲にはまだ魔物除けの
1390
特殊魔力を張っておいてもらいましょう﹂
﹁それには賛成だ。男同士、話もあるから一緒に風呂に入ろうか﹂
1391
第三十二話 クローナの村の温泉
幼いクローナに案内されたのは村の外れにある大きな建物だった。
村役場のような物かと思ったが、内情はどうやら大きな温泉施設
らしい。
﹁お祭りとか祝い事の時、皆で使えるように作られたんだよ。温泉
を無駄にできないから、どうせなら一か所に集めようって、私のお
じいちゃんが作ったの﹂
幼いクローナがまだ平らな胸を張り、自慢する。
看板こそかかっていないが男湯と女湯に分かれているらしく、キ
ロとアンムナは一方の風呂の入り口を示されて、足を踏み入れた。
村の男達が一斉に使う施設だけあって、脱衣所もかなりの広さだ。
建材が足りなかったのか、木で床が張られている部分と石がむき出
しの部分とがあるのが、貧乏な村らしい一面を垣間見せる。
クローナの祖父が思いつきで行動しただけかもしれない。
﹁それじゃ、私は女の人達と入るから、またね﹂
幼いクローナが軽く手を振って、パタパタと床を鳴らしながら去
っていく。
脱衣場にはキロとアンムナだけが取り残された。
村の男達はこれからの事を話し合うとの名目でキロ達とは入浴時
間をずらしている。一晩中戦ったキロ達に、せめて貸切風呂を堪能
してもらおうという計らいらしい。
地下世界で落盤浸水事故に巻き込まれた際、クローナが温泉を見
て久しぶりに入れると言っていた事を思い出し、キロは服を脱ぐ前
1392
に風呂場との仕切りを開けてみた。
深く掘られた地面の底や側面を加工した石で覆った大きな浴槽が
そこにあった。
隣の山を望むことができるように配慮された設計で、景観も素晴
らしい、の一語に尽きる。
浴槽までの地面には丸砂利が敷かれており、洗い場も横に設けて
ある。
脱衣所は手抜き工事だったが、風呂場は立派なものだ。
﹁クローナが温泉にこだわるわけだ。テンションあがってきた﹂
﹁︱︱ふむ、地上の風呂は格別であるな﹂
﹁⋮⋮いたのか、フカフカ﹂
﹁女湯組に追い出されたのだ。アシュリーというあの女、我を摘ま
み出しおって﹂
フカフカは忌々しそうに尻尾で丸砂利を叩き、音が気に入ったの
かさらに何度かパチパチと鳴らす。
キロは脱衣場に戻って手早く服を脱ぐと、タオルを持って風呂場
へ入る。
手早く体を洗って浴槽に足を入れると、ひざ下までの深さしかな
い。
﹁キロ君、こっちまで来るといい。子供も使えるよう、底に高低差
が作られているようだから﹂
先に湯船につかっていたアンムナがキロを手招く。
アンムナの言う通り、広い浴槽は入り口から遠くに行くほど深く
なっているようだった。
キロは桶に温泉を組み、フカフカ用の浴槽にする。
1393
﹁遠方を眺めながらの風呂も格別であるな﹂
尻尾で湯をかき回しながら、フカフカが遠くの山を眺め呟く。
﹁索敵は続けておいてくれよ﹂
﹁水を差すな﹂
﹁湯が熱いのか?﹂
﹁たわけ﹂
フカフカが尻尾を一振りしてキロに湯を掛ける。
掛け合い漫才、と頭に浮かんできたダジャレは喉の奥に留めて、
キロは山を見る。
灰色の雲を頭にかぶった山は片側の斜面の大部分が崖になってい
るようだ。
﹁さて、キロ君﹂
アンムナに声を掛けられて、キロは振り返る。
アンムナは風呂場の端、木の板で作られた間仕切りの前に立って
いた。
﹁男なら、壁一枚向こうで好きな女性が裸を晒している時、とる行
動は二つだろう﹂
﹁覗きませんよ﹂
﹁そう、堂々と覗くか、密かに覗くか、だ﹂
﹁話を聞いてくださいよ﹂
キロのツッコミにも動じず、アンムナは人差し指を掲げて見せる。
﹁僕の技を持ってすれば、この木板にのぞき穴を作るくらい造作も
1394
ない﹂
﹁そんなもの紙束に穴を開けるのに使ってください﹂
﹁人の必殺技をなんだと思っているんだい?﹂
﹁そんな大層な技なら覗き穴を作るのに使わないでくださいよ﹂
わかってないな、とアンムナが掲げた人差し指を左右に振る。
﹁ともあれ、さっそく始めようか﹂
﹁やめてください﹂
人差し指を間仕切りに向けたアンムナの頭へ、キロは動作魔力で
加速させた湯船の水をぶつける。
アンムナが振り返り、睨んでくる。
﹁見たくないのかい?﹂
﹁時と場所を選ぶべきです﹂
﹁どこで見ても同じだろう。キロ君は子供だな﹂
言いながら、逆の手を間仕切りに伸ばすアンムナへ、キロは再度
水鉄砲を放つ。
キロに視線を向けていたアンムナは頭を傾けるだけで避けて見せ
る。
だが、避けられる事を見越していたキロは続けざまに水鉄砲を放
ち、アンムナの集中を妨げた。
攻防を繰り広げていると、間仕切りの向こうから声が聞こえてき
た。
キロとアンムナは同時にピタリと静止して、気配を消した。
﹁︱︱広いね﹂
1395
ミュトだろう、感心したような声が女湯の光景を教えてくれる。
﹁温泉はここにしかなくて、皆が浸かりに来るの。町との行き来が
もう少し楽なら人も呼び込めたのに﹂
幼いクローナが説明する。
道理で広いわけだ、とキロは改めて風呂場を見回した。
﹁アシュリーさん、男湯が気になるんですか?﹂
クローナの声だ。
アンムナが掲げたままの人差し指を口元に持ってきて、静かにす
るよう指示してくる。
﹁別に⋮⋮﹂
聞き覚えのない声で短く答えたのはアシュリーだろう。
﹁でも、男湯の方をちらちら見てますよ?﹂
﹁アンムナの顔が頭の中にちらついて、鬱陶しいだけ﹂
クローナの追撃にアシュリーが答えると、女湯が静まり返った。
キロは思わずアンムナを見る。
どうだ、みたか、と言わんばかりの表情を浮かべるアンムナに、
キロは少しイラついた。
女湯側の面々も立ち直ったようで、こそこそと内緒話をし合う気
配の後、ミュトの声が聞こえてきた。
﹁それってつまり、アンムナさんが好きって解釈で良いのかな?﹂
﹁⋮⋮あ﹂
1396
何かに気付いたようなアシュリーの声、ドボン、と何かが水に落
ちるような音が追従する。
キロの横で、桶に入ったフカフカがうるさそうに耳をピクリと動
かし、騒ぎをかき消すように尻尾で水面をぴちゃりと叩いた。
﹁⋮⋮動揺のあまり足を滑らせ、湯船に落ちたようであるな﹂
﹁自覚がなかったところで指摘されたからか。アンムナさんの勘違
いじゃなく、本当に好きだったんだな﹂
フカフカと意見を交わして、キロは再度アンムナを見る。
自身の満足感を誇るような顔に迎え撃たれ、キロは思わず動作魔
力でお湯を飛ばした。
その時、気付く、アンムナの指が間仕切りに添えられている事に。
キロは慌ててアンムナに手を伸ばす。
﹁ちょっと、待っ︱︱﹂
キロの制止を振り切り、アンムナが奥義を発動する。
木でできた間仕切りが吹っ飛んだ。
キロは湯船に浸かったまま唖然として吹っ飛んでゆく木板を見送
る。
穴を開けるだけじゃなかったのか、とキロの脳裏に浮かんだ疑問
を知ってか知らずか、フカフカが暢気に口を開いた。
﹁見た目には分からんだろうが、あの木は内部が腐っておった﹂
つまり、込める動作魔力の量の調節を間違えたらしい。
とはいえ、驚きはキロよりもアンムナの方が大きかっただろう。
指を間仕切りがあった場所へ向けたまま、完全に硬直していた。
1397
女湯側は、浴槽から上がりかけているアシュリーの他に、遠くの
山を見ようしていたのか風呂場の端に立っているクローナ、ミュト、
小さなクローナがいた。
クローナ達は、彼女達にとっては唐突に弾け飛んだとしか思えな
い間仕切りを眺めながら状況把握に努めている。
しかしながら、女性陣は全員服を着ていた。
キロがフカフカに視線で問うと、ふん、と鼻を鳴らされた。
﹁キロも服を脱ぐ前に風呂場を確認したであろう﹂
﹁あぁ、そういう事か﹂
キロが納得すると、女性陣が状況を認識したらしい。
アシュリーが浴槽から上がり、濡れた服から滴をたらしつつアン
ムナに歩み寄る。
﹁覗き?﹂
﹁アシュリー、落ち着いてくれないか。さっきの君達の会話が聞こ
えてきて感極まっただけなんだ﹂
﹁さっきの話を聞いたなら、なおさら、制裁﹂
アシュリーの手元に水の塊が出現する。
背を向けようとしたアンムナの足に、アシュリーは水を差し向け、
転ばせた。
そのまま水の量を増やしてアンムナを完全に拘束すると、男湯側
の脱衣所へ強制送還する。
ちらり、とキロを見たアシュリーに、クローナとミュトが待った
をかけた。
﹁キロさんは間仕切りがなくても私達が温泉に入っているところを
覗かない人なので、今回の件とは無関係だと思います﹂
1398
﹁それにキロの場合、女装して鏡を見ればいいわけだし﹂
ミュトの弁護に、女装しても性別は変わらないと懇々と説教した
い衝動に駆られるが、状況が状況であるためキロは口が開けない。
キロをよく知る二人の証言に加え、キロが最初から湯船に浸かっ
ていた事で疑いは晴れたらしい。
懲らしめてくる、と言い置いてアシュリーはアンムナを放り込ん
だ脱衣場へと去った。
キロがとばっちりを受けなかったためか、フカフカが詰まらなそ
うに湯船を尻尾で叩く。
幼いクローナが壊れた間仕切りを見つめた後、事情を説明しに村
へと走っていく。
脱衣場ではアシュリーがアンムナを懲らしめているため、キロは
風呂から出る事ができない。
腰にタオルを巻いて入浴しているうえ、成分の問題で温泉は白く
濁っているためみられる事はない。
だが、すぐ近くに少女二人がいるため、居心地の悪さは変わらな
い。
クローナとミュトも間仕切りが壊れているため風呂に入る事が出
来ないようだ。
手持無沙汰になったクローナが男湯の湯船の端にしゃがみ、キロ
を見て笑みを浮かべた。
﹁キロさんが入浴しているところを見れるなんて、貴重な体験です﹂
﹁見世物じゃないんだが﹂
﹁ミュトさんも一緒に見物しましょうよ﹂
クローナが後ろにいるミュトを手招く。
ミュトはそっぽを向きつつも、ちらちらとキロを窺っていた。
1399
﹁やめなよ、クローナ﹂
﹁ミュトよ、声が笑っておるぞ﹂
桶の縁に顎を乗せたフカフカがミュトを見物しながら、指摘する。
﹁それにしても、キロさんは本当に細いですね﹂
﹁しみじみ言うな﹂
﹁ちょっと手を挙げてみてください﹂
クローナの注文に、キロは渋々右手を挙げる。
即座にクローナがキロの右手を両手で掴み、思い切り上に引っ張
り上げた。
巨大魚の一本釣りでもするように一気に浴槽から引っ張り上げよ
うとするクローナに、キロは素早く動作魔力を使用して対抗する。
﹁何しやがる!﹂
﹁だって隠されてたらみたいと思うのが人情じゃないですか!﹂
﹁︱︱何でもかんでも暴くな!﹂
﹁ミュトさんも手を貸してください。この大物を引っ張り上げまし
ょう!﹂
抵抗されてもクローナは譲らず、ミュトに声を掛ける。
参加を促されたミュトはおろおろとするばかりだ。
いつまでも諦めないクローナに意地になったキロは、使用してい
た動作魔力の量を上げて逆にクローナを湯船に引っ張り込んだ。
﹁︱︱あ﹂
と、短い声を上げて、クローナが湯船に飛び込む。
因果応報の言葉通り、ずぶ濡れになったクローナが水面から顔を
1400
出した。
﹁何するんですか﹂
濡れて張り付いた前髪を掻き上げて、クローナが抗議する。
髪を掻き上げたために露わになったクローナの額を、キロは指先
で弾いた。
﹁こっちの台詞だ﹂
﹁まぁ、良いです。これで混浴ですね﹂
﹁転んでもただじゃ起きないな⋮⋮﹂
キロの隣に並んで座って、クローナはミュトを見る。
ミュトは苦笑した。
﹁そんな期待するような目をボクに向けられても⋮⋮﹂
キロ達のやり取りにため息をついて、フカフカが尻尾で水面を叩
いて抗議した。
﹁風呂くらい静かに入れんのか﹂
1401
第三十三話 パーンヤンクシュ鍋
風呂から上がったキロは、パーンヤンクシュを捌いている村人達
に混ざって鍋作りを始めた。
外に持ち出された机の上に大きな布を敷き、まな板を置いた調理
机がずらりと並び、キロはその端の方で包丁を握っている。
一家言あるらしい女主人に適切な切り方を教わり、キロはパーン
ヤンクシュの肉に借り物の包丁を入れる。
何も特別な切り方をしてはいないが、村人達が物珍しそうにキロ
の手元を見ていた。
一足先に上がった幼いクローナが横でキロの包丁さばきを見つめ
ている。
﹁お兄さん、包丁の扱いにも慣れてるね﹂
単純に男が料理しているのが珍しかったのか、とキロは周りを見
渡すが、キロでなくても料理に参加している男はいた。
﹁冒険者になったらお肉もよく食べるの?﹂
幼いクローナの質問と村全体を見て回った時の記憶を合わせて、
キロは一つの結論を導き出す。
﹁この村、家畜を飼ってないのか﹂
分厚い肉をスッと一太刀で切る事が出来るのは、この村では普段
から料理している人間だけのようだ。
1402
﹁お兄さんのお嫁さんは苦労しそうだね。おちおち手料理も振る舞
えないよ﹂
﹁そう思うなら、普段から料理するといい﹂
どうせ意味が通じないと思いつつキロが言い返した時、教会のあ
る方角から女性がやってきた。
キロが料理しているのを見て感心するような視線を向けた後、女
性は幼いクローナに声を掛ける。
﹁葬儀の日取りを決めるから、と司祭が呼んでいるよ﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
小さな声で返事をして、幼いクローナはキロに背を向ける。
今まではキロ達と話す事で気を紛らわせていたのだろう、現実に
引き戻された反動でとぼとぼと教会へ向かう幼いクローナは暗鬱な
空気を纏っていた。
つい声を掛けようとしたキロだったが、いきなり後ろから圧し掛
かられて口を閉ざす。
﹁良い腕してんじゃないか。宿屋稼業に興味はねぇの?﹂
キロに後ろから抱きつきながら、まな板の上のパーンヤンクシュ
の薄切りを見て、女主人が勧誘する。
幼いクローナはすでに声を掛けるには遅すぎる場所まで離れてし
まっていた。
キロは自然と抗議する眼つきで女主人を睨む。
﹁空気の読めない人が経営する宿屋なんてすぐに潰れるでしょう﹂
﹁口の悪い奴だなぁ。確かに、あんたは客商売が苦手そうだ。愛想
がない。厨房に押し込めておくことにしよう﹂
1403
﹁やりませんよ、料理人なんて﹂
キロはきっぱり断りつつ、薄切りにしたパーンヤンクシュの肉を
火で炙り、皿に盛りつけて女主人に差し出した。
﹁これでも食べて大人しくしててください﹂
﹁こっちの酒も貰っていい?﹂
﹁持って行けばいいでしょう。それと上目使いはやめてください、
気味が悪いので﹂
キロが率直な意見を言うと、軽く頭をはたかれた。しかし、酒は
しっかり持って行くらしい。
女主人の行く先ではすでに一部の大人達による酒盛りが始まって
いた。
キロと同じく鍋を作っていた中年の女性が、腰に両手を当てて呆
れたようにため息を吐く。
﹁うちの村の馬鹿どもが迷惑かけるね﹂
﹁飲んだくれなんてどこでもあんなものですよ。適当にあしらって
おけばいいんです﹂
さらりと言い捨てるキロを見て、中年の女性は同意するように頷
いた。
﹁何を言ってるかはさっぱり分からないけど、多分正解だ﹂
キロは肩を竦めて苦笑した。中年の女性も同じように肩を竦め、
作業に戻る。
調理机を挟んだ向かい側で、村の誰かから借りたらしい椅子に座
ったアンムナが欠伸を噛み殺した。
1404
﹁徹夜した後で風呂に入ると眠くなるね﹂
﹁まだ寝ないでくださいよ﹂
﹁襲撃があるからかい?﹂
﹁⋮⋮あってもなくても、町から応援が駆け付けるまでは起きてて
ください﹂
キロはパーンヤンクシュの尻尾の先に当たる肉の一部を取って、
鱗を落とす。
皮霜にしてみたいところだったが氷水がないため、火を通した後
に素揚げする。
ワインビネガーなどで作った簡単なソースをかけて、味見した後、
隣で料理していた先ほどの中年の女性に差し出す。
﹁一口食べてみてください﹂
身振りも合わせて、キロは勧める。
﹁なんだかおしゃれなのが出て来たね﹂
面食らいながらも素揚げされたパーンヤンクシュの肉を一口食べ
て、中年の女性は目を丸くする。
﹁飲んだくれにはもったいない! 隣に回すけどいいかい?﹂
キロが頷くと、調理机を行ったり来たりして、すぐにパーンヤン
クシュの素揚げはなくなった。
キロが新たな料理をせがまれていると、温泉から上がったクロー
ナとミュトがやってきた。後ろからついてきたアシュリーが、アン
ムナを見て複雑そうな顔をする。
1405
キロがアシュリーの反応を不思議に思っていると、隣にやってき
たミュトが苦笑しながら耳打ちする。
﹁恋の自覚がなかったアシュリーさんに、クローナが根掘り葉掘り
聞いて自覚させたんだよ﹂
﹁何面白そうなことしてるんだよ。俺も混ぜてくれればよかったの
に﹂
キロが残念に思っていると、クローナがくすくす笑う。
﹁案外、キロさんも他人事ではないかもしれませんけどね﹂
﹁クローナは自覚してるんだろ?﹂
﹁聞きようによっては腹の立つセリフであるな﹂
フカフカがふん、と鼻を鳴らした。
クローナが北の森へ視線を向ける。
﹁まだ森は静かなままですか?﹂
クローナだけはこの世界の言葉を使っているため、会話を聞きと
がめた村人を不安にさせないよう遠回しに訊ねる。
フカフカが尻尾の毛繕いを始めながら答える。
﹁静かなままである。この様子では、魔物はおろか大型動物の類も
戻ってはきておらぬだろう﹂
フリーズヴェルグの襲撃がある事を知るキロ達にとっては、嵐の
前の静けさとしか思えない。
パーンヤンクシュの素揚げがのっていた皿を回収してきた中年の
女性が、クローナと同じように北の森を見る。
1406
﹁そういえば、村長の奥さんも森が静かすぎて不気味だって亡くな
る前に言ってたね。娘さんに心配かけないように黙っていたみたい
だけど、今回の襲撃を予想していたなら今頃はお空の上で胸を撫で
下ろしてるかね﹂
中年の女性の言葉に、キロはハッとしてクローナがはめている指
輪を見る。
クローナとミュトも気付いて、キロと視線を合わせた。
キロは思考を巡らせ、クローナに翻訳を頼んで中年の女性に質問
する。
﹁村長の奥さんは他に何か言ってませんでしたか?﹂
キロの質問に怪訝な顔をした中年の女性はしばし黙考した後、手
を打った。
﹁一昨日の晩だったか、体調がいいからと夜遅くに温泉に入った時
に向かいの山で何か大きなモノが飛んでいるのを見たって言ってた
ような。何しろ月明かりが頼りだったし、フクロウか何かを見間違
えたんだろう﹂
1407
第三十四話 指輪盗難
﹁お母さんの指輪が無くなった!﹂
と、幼いクローナが調理場へ駆けこんできたのは、食事の片付けが
一段落した頃だった。
大人達が一斉に顔を見合わせ、首を傾げる。
なにしろ小さな村だ。ざっと見回せばこの場に司祭以外の全員が
揃っている事が分かる。
かといって、司祭が指輪を盗んだと判断するのは早計だ。
﹁最後に指輪を見たのはいつ頃だい?﹂
キロの隣の調理机で皿を拭いていた中年の女性が幼いクローナに
問う。
幼いクローナはキロ達をちらりと見た後、村の外へ視線を移す。
﹁夜明け頃、魔物が近くまで来てるから不安で礼拝堂に行った時に
はあった﹂
﹁参ったね。冒険者の方以外は全員容疑者かい﹂
中年の女性が頭を掻きながら、キロ達を見た。
即刻、冒険者が除外されたのはキロ達が夜通し戦った上で死骸の
撤去作業をしていたからだろう。
しかし、アンムナが待ったをかけた。
﹁キロ君が一度、一人で森に入ったはずだね﹂
﹁一人と一匹である﹂
1408
フカフカが頭数を訂正すると、翻訳腕輪を持っている者達が一斉
に苦笑した。
とりあえず、とキロはクローナに通訳を頼んでから自己弁護を開
始する。
﹁アンムナさんの言う通り、俺は魔物が迫っていないか偵察するた
めに森の奥へ行きました。その間の不在証明は仲間に当たるフカフ
カ以外に証言できないです﹂
キロはあえて事実のみを告げる。下手な嘘はほころびを生むから
だ。
中年の女性がふむ、と頷いた。
﹁礼拝堂に入るには教会に入らなけりゃあならないし、魔物の死骸
を撤去している間は村の皆がひっきりなしに村の中を行き来してい
たから、誰にも見咎められずに教会へ入るのは無理だろう。ついで
だ、誰かが教会に入っていくのを見た者はいるかい?﹂
中年の女性が全員に問う。当然ながら、目撃証言はなかった。
キロのように壁を垂直に上れる者はまずいないため、考慮されて
もいない。
だが、村人の中に目ざとい者がいた。
﹁その子が付けている指輪、村長の奥さんと同じ形だな﹂
クローナを指さしての指摘に、村人の視線が一斉に集まる。
しかし、クローナは冷静にキロを振り向いた。
キロは一つ頷いて、調理机の側に置いてある椅子に向かい、椅子
の上に置いていた鞄から礼拝堂で盗んだ件の指輪を取り出す。
1409
キロはクローナの隣に並び、二人そろって指輪を村人に見えるよ
うに掲げた。
﹁随分前に買ったおそろいの品です﹂
事前に取り決めていた言い訳だ。
クローナの母親の指輪が無くなって騒ぎになる事は、最初から分
かっていた。
だからこそ、対策もきちんと立ててある。
効果はてきめんで、村人はバツが悪そうな顔をして頭を下げた。
﹁疑って済まない﹂
クローナの母親が付けていた指輪と同じものが二つ同時に存在す
るはずがない、という先入観が村人達の疑いを一気に晴らす。
さらに幼いクローナが村人達に向けて口を開く。
﹁お姉さんが村に来た時にはもう指輪をはめてたよ。お兄さんはは
めてなかったけど﹂
﹁前衛だから、魔物の血で汚れないようにしてるんだ。どうせなら
と思って、サイズもお揃いにしてる﹂
照れた風を装ってキロが証言すると、独り身の男達がかすかに怨
嗟の声を上げた。
既婚者達は経験からか、キロ達の指輪について詳しく聞くだけ野
暮だと察したらしく、早々に幼いクローナに視線を移した。
﹁もう一度、礼拝堂の中と家の中を調べてみなさい﹂
幼いクローナは不安そうに頷いてから、キロ達を見た。
1410
キロはアンムナとアシュリーを見る。
﹁ここの片付けをお願いできますか?﹂
﹁手伝うのかい? まぁ、懐かれてるみたいだし、温泉の恩もある
から僕は構わないけれど﹂
アンムナは腰を上げ、アシュリーを見る。
アシュリーも立ち上がり、汚れた食器を見て腕まくりをした。
﹁洗い物は得意﹂
得意の水流の魔法で食器洗浄を行うつもりらしい。
便利だな、と思いつつ、キロは荷物を担いで口を開く。
﹁アンムナさんの覗き魔法といい、おかしな汎用性がありますね﹂
﹁キロ君、今その話を蒸し返す意図をじっくり聞かせてもらおうか﹂
アシュリーに睨まれたアンムナが引き攣った笑みをキロに向ける。
キロは肩を竦め、クローナとミュト、フカフカを連れて幼いクロ
ーナに歩み寄る。
﹁手伝うよ。俺達の指輪とそんなに形が変わらないんだろ?﹂
クローナがキロの言葉を訳すと、幼いクローナは頷いた。
﹁そっくりだよ﹂
キロ達は幼いクローナと共にまず教会へ足を運ぶ。
絶対に見つからないと知っているキロは、教会への道中も地面に
指輪が落ちていないかを探している幼いクローナを見るのが心苦し
1411
かった。
﹁お母さんの形見になるわけだろ。見つかったらどうするんだ?﹂
キロが問うと、クローナは翻訳して幼いクローナに同じ質問をぶ
つける。
クローナ自身が答えを知っているのだが、迂闊にキロの質問に答
えてこの村の出身者だと知られないように考えたのだろう。
幼いクローナは少し思い出すような素振りをしてから、キロの質
問に答えた。
﹁司祭様の話だと、葬儀の時に亡くなった人が大事にしていた物も
一緒に燃やすって﹂
﹁⋮⋮形見でも燃やす文化か﹂
キロも母の葬儀の際、事故で一緒に亡くなった母の恋人の写真を
入れた事を思い出す。
︱︱俺の写真も入れようと探したけど、見つからなかったんだよ
な。
今となって笑い飛ばせる程度の話だ。
︱︱だけど、指輪を渡しても燃やされたら困るんだよな⋮⋮。
キロはいかにして一緒に燃やされない様にしようかと考えながら、
礼拝堂に入った。
この村の司祭らしい男性に軽く頭を下げた時、フカフカが唐突に
ミュトの肩から飛び降り、出口に向かった。
何事かと追いかけたキロ達は、教会の大扉によじ登って空を見上
げるフカフカを見つける。
せわしなく動くフカフカの耳から何事かを大まかに察して、キロ
は静かに問う。
1412
﹁︱︱フカフカ、何か来たのか?﹂
フカフカの耳が村の東側に向けられ、微動だにしなくなった。
フカフカの尻尾が探るように大扉の表面を撫でたかと思うと、一
気に高く持ち上がり、勢い良く大扉へ振り降ろされる。
動作魔力が込められていたらしいフカフカの尻尾の一振りは大扉
を激しく揺らし、大きな音を周囲一帯に響かせた。
騒がしかった調理場さえも飲まれて沈黙するほどの大きな音を文
字通り叩き出したフカフカは、キロを振り返る。
﹁今すぐ村の者を避難させよ。巨大な何かが無数に飛んでくる﹂
フカフカの警告は、フリーズヴェルグの襲撃を連想させるものだ
った。
1413
第三十五話 嘘つき
﹁ミュトはアンムナさん達にこの事を知らせてくれ﹂
フカフカの警告を受けたキロはミュトに指示する。
﹁分かった、キロは武器をお願い﹂
フカフカを連れたミュトが走っていくのを見届けて、キロは幼い
クローナに向き直った。
翻訳の腕輪を外し、幼いクローナに貸す。
﹁また魔物が襲ってきたみたいだから、すぐに避難するんだ﹂
司祭にも同じ事を伝えつつ、キロは指輪を取り出す。クローナの
母の遺体から抜き取った指輪だ。
キロは指輪を幼いクローナの手に握らせ、少し屈んで目の高さを
合わせる。
﹁この指輪をあげる。君のお母さんとお揃いの物らしいから、形見
代わりに持っておくといい。だから、夜の襲撃の時みたいにお母さ
んに会いに来るのは駄目だ﹂
幼いクローナが夜明け前に礼拝堂へ行ったという話を思い出して、
キロは念を押す。
空から襲撃を掛けてくる魔物はキロ達も経験がない。
何より、女主人の特殊魔力は空を覆っておらず、今から準備して
も間に合わない可能性が高い。
1414
幼いクローナが外に出たならば、フリーズヴェルグに真っ先に狙
われる事だろう。
キロが幼いクローナに指輪を託すのを見たクローナが、自らのモ
ザイクガラスの髪飾りを外し、幼いクローナに付ける。
﹁私からはこれをあげます。両親がいなくなって大変だと思います
けど、オシャレを忘れたら駄目ですよ?﹂
前髪を分けるようにしてつけられたモザイクガラスの髪飾りを指
先で撫でて、幼いクローナは不安そうな目をキロ達に向ける。
﹁なんでこんなに良くしてくれるの?﹂
幼いクローナの言葉に顔を見合わせたキロとクローナは、同時に
噴き出した。
事情を知らなければ、それは不思議な事だろう。
何か気のきいたセリフでも返してやれればと考えを巡らせるキロ
を制して、クローナが幼いクローナの頭に軽く手を置く。
﹁そんなの、私達が冒険者だからに決まってますよ﹂
アンムナ相手に冒険者である事を否定したキロは訂正しようと思
ったが、幼いクローナが目を輝かせるのを見て諦める。
どうせフリーズヴェルグの襲撃を食い止めれば現代への扉が開く
だろう。その時に姿を眩ませてしまえばいい。
幼いクローナに輝く瞳を向けられて、キロは笑みを浮かべた。
﹁魔物を倒すんじゃなく、人を助ける仕事だからな﹂
我ながら恥ずかしいセリフだと思いつつ口にして、キロは幼いク
1415
ローナの手から翻訳の腕輪を取る。
話は終わり、という合図だった。
キロとクローナが武器を収めてある倉庫へ走り出した時、幼いク
ローナの声が追いかけてきた。
﹁私もカッコいい冒険者になるから、またどこかで!﹂
肩越しに振り返ると、避難所へと司祭と共に走りながら、幼いク
ローナが手を振っていた。
クローナと一緒に手を振りかえし、武器庫へ走る。
﹁⋮⋮クローナ、冒険者を目指す前には何になりたかったんだ?﹂
﹁お嫁さんです。今では相手も決まって、二つも夢が叶いそうです
よ﹂
﹁この状況でそれを口にするか﹂
﹁キロさんが聞いたんじゃないですか﹂
﹁違いない﹂
笑いあいながら、キロ達は倉庫に到着し、槍と短剣を取り出す。
今回は刃こぼれしても村人に代わりの武器を取ってきてもらえな
いため、槍も短剣も三本づつ取り出した。
クローナに短剣三本を渡し、キロは槍を三本抱えて調理場へ走る。
東の空を見てみると、何か大きなものが飛んでいるのが見えた。
︱︱鳥型と聞いたけど、あれはもう竜じゃないのか?
遠目からでも尾翼が判別できるため爬虫類ではなさそうだが、パ
ーンヤンクシュの天敵と呼ばれるのも納得の体格を有しているのが
分かる。
人間の一人くらいあっさりと食べてしまいそうだった。
総鉄製の槍三本の重さは動作魔力を使っていても堪えるが、愚痴
を言っている余裕はない。
1416
あわただしく避難していく村人達にすれ違いざま声援を送られ、
キロとクローナは調理場に到着した。
女主人は村人達と共に避難し、避難所全体を特殊魔力で覆うつも
りらしく、すでにこの場にはいなかった。
クローナがミュトに短剣を渡し、予備の短剣を離れた地面に突き
たてる。
キロも同じように予備の槍二本を地面に突き立てていると、アン
ムナがそばに立った。
﹁どうにも気になるんだよ﹂
声をかけられて、槍を肩に担いだキロはアンムナに横目を投げる。
アンムナは腕を組み、キロを隙のない目で観察していた。
﹁君はあまりにも事情を知り過ぎていないか? 昨夜から続くパー
ンヤンクシュとの戦いでも君は空を気にしていた。襲撃が終わって
も警戒を続けようと事あるごとに主張して、この辺りには生息しな
いフリーズヴェルグの名前まで出した﹂
アンムナの横にアシュリーが立ち、クローナを見る。
﹁クローナ、さほど珍しい名前ではないけど、この地方の訛りを完
ぺきに使いこなしてる。その上、なぜか村長補佐が誰かを知ってい
た﹂
名前を出されたクローナが困ったように視線を逸らした。
﹁別に君達の人間性を疑っているわけではないんだ。言いたくなけ
ればそれで構わない﹂
1417
アンムナの言葉に、クローナとミュトがキロを見る。
判断を仰ぐような二人の少女の眼は、それだけでキロ達には人に
言えない事情があると知らせてしまっていた。
キロはアンムナの眼を見つめ返す。
﹁他言無用でお願いします﹂
一言断って、キロは調理用に運ばれてきていたパーンヤンクシュ
の死骸へ歩き出す。
ミュトが仕留めた獲物らしく、目玉に短剣を突き込まれて絶命し
たようだ。
他のパーンヤンクシュはすでに食べるために肉を取られていたが、
こちらは調理を免れたらしく、ほぼ完全な形の死骸だった。
キロはミュトを手招く。
﹁拘束を頼む﹂
ミュトは小さく頷いて、パーンヤンクシュの尻尾と頭に特殊魔力
の壁で枷をはめる。
キロはパーンヤンクシュの頭に片手を当て、特殊魔力を込めた。
パーンヤンクシュの眼玉が再生し、さらに瞳に光が灯る。
パーンヤンクシュの眼玉がぎょろりと動いたかと思うと、胴体が
うねるが、尻尾と頭を押さえつけられているために暴れる事はでき
ない。
ならば、とパーンヤンクシュは火球を周囲に出現させたが、クロ
ーナの水球で打ち消された。
キロは唖然とするアンムナとアシュリーの顔を見届けて、パーン
ヤンクシュの命の火を再びかき消した。
﹁これが俺の特殊魔力、死んだ者を一度だけ生き返らせる効果があ
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ります。生き返らせる際、怪我なども治癒します。たとえ、魔物の
腹の中にいた者でもね﹂
キロが告げると、アシュリーの顔が青ざめた。
アンムナがごくりと生唾を飲み込み、キロが一度生き返らせたパ
ーンヤンクシュを見る。
﹁フリーズヴェルグに食われた人物を腹の中から生還させる極秘依
頼を受けた冒険者?﹂
﹁ご想像にお任せします。ただ、俺達と一緒に戦ったと知られれば
いろいろと面倒なことになると思います。この戦いが終わったら、
報酬を受け取らずに姿を眩ますのが正解だと思いますよ﹂
キロが遠回しに脅すと、アンムナは苦い顔でため息を吐いた。
﹁今度から、興味本位に誰かを問い詰めるのはやめる事にしよう。
報酬がもらえないのは痛いけど、良い事を学ばせてもらったよ﹂
アンムナが東の空を見上げ、またため息を吐く。
﹁学んだことを今後に生かせるかどうか、あれを見ると自信がなく
なるけれどもね﹂
アンムナの視線を追って見上げた東の空には雲かと見紛うほどの
巨大な群れを作って飛んでくるフリーズヴェルグの姿があった。
1419
第三十六話 対フリーズヴェルグ戦
三羽のフリーズヴェルグが村近くの森へと降り、再び飛び立つ時
にはパーンヤンクシュの死骸をそれぞれ一匹ずつ掴んでいた。
やはりパーンヤンクシュの死骸につられてやってきたらしい。
そのままパーンヤンクシュの死骸だけを持って行ってくれれば片
付けの手間が省けて村としては助かるのだが、フリーズヴェルグに
とっては行き掛けの駄賃だったようだ。
村に向かって飛んでくるのは八羽のフリーズヴェルグ、他の十羽
は村の周囲を見まわるように飛んでいる。
翼長はおおよそ四メートル弱、翼を広げている今は八メートルを
超えている。喉元から長く幅広に発達した尾羽までの色合いは青か
ら徐々に白くなっており、動作魔力を用いて素早く翼をはばたかせ
て飛ぶ姿は美しかった。
フリーズヴェルグ達が飛んでいるのは、キロの目測で五十メート
ルほどの高さ。通常、槍は届かない。
不意に、八羽の内の二羽が急激に高度を上げ、残りの六羽が周囲
に散開した。
仕掛けてくる気だと察して、キロ達は身構えた。
高度を上げた二羽は百メートル以上の高さに到達し、円を描く様
に飛び始める。
最初に感じたのは肌寒さだった。
冷たい風が吹いているのだと気が付いて、キロは風上を見る。
散開したはずの六羽が民家の屋根に止まっていた。
﹁風の魔法であるな﹂
魔力を視認できるフカフカがミュトの肩の上で分析する。
1420
はらりと白い粉のような物がキロの視界を横切った。
﹁雪⋮⋮いや、みぞれ、だな﹂
水気を含んだ冷たい氷と共に霧雨が降っている。
上空を飛ぶフリーズヴェルグが水魔法で生み出したものだろう。
みぞれと冷たい風、蛇型の魔物であるパーンヤンクシュならば体
温を奪われて満足に戦えなくなる組み合わせだ。
だが、人間相手には効果が薄い。
そう思ったのも束の間、空から突然激しい雨が降り出した。
上を向いていられないほどの強く激しい雨に加えて、横からの冷
たい風の勢いが強まった。
嵐の中にいるような激しい風雨の中で、アンムナが口を開く。
﹁アシュリー、防御の展開を!﹂
アンムナが指示を言い切る前に、アシュリーの水の防御が展開さ
れる。
キロ達を風雨から守るように半球状に展開された水の膜は横合い
からの強風に表面を激しくかき乱されるが、アシュリーの巧みな水
流操作で形状を保っていた。
しかし、アシュリーの表情を見る限り余裕はなさそうだ。
キロは頭上を見上げるが、降り注ぐ雨が激しすぎて上空の様子が
うかがえない。
焦りの表情を浮かべたアンムナがキロを見た。
﹁キロ君、僕とアシュリーは遠距離攻撃ができない。防御はともか
く、フリーズヴェルグを仕留めるのは難しいんだ。キロ君達には対
応策があるのか?﹂
﹁あるというか⋮⋮﹂
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キロは槍を地面に刺して手を離すと、右手で拳を握る。
右手に現象魔力を蓄えつつ、キロはクローナを見た。
﹁石の天井を作ってくれ﹂
﹁雨が入り込まないくらい大きい天井ですよね。少し待ってくださ
い﹂
何をするかを言わなくても正確にキロがやろうとしている事を察
して、クローナが魔力を練る。
﹁準備できました。アンムナさんとアシュリーさんも私のそばに来
てください﹂
アンムナ達は怪訝そうな顔をしつつもクローナの近くに寄る。
ミュトがキロに触れるか触れないかの距離まで近付き、頭上に手
を差し伸ばした。
﹁ボクはこっちの役割でしょ?﹂
﹁察しがいいな。合図したらすぐに特殊魔力を展開してくれ﹂
﹁気の毒だとは思うけど、仕方がないね﹂
ミュトは苦笑して頭上を見上げる。
キロはクローナを振り返り、頷いて見せた。
クローナが頷きを返して、頭上に石の天井を生み出す。
しかし、キロとミュトのいる地点まで石の天井は伸びていなかっ
た。
﹁アシュリーさん、水の防御をやめてください﹂
﹁なにをするつもりなの?﹂
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眉を寄せつつ、アシュリーが水の防御を消し去った瞬間だった。
﹁行くぞ、ミュト!﹂
キロが合図した直後、紫電が走った。
逆再生した雷のように、キロが放った紫電は高速で豪雨を伝い登
る。
シン、と僅かの静寂の後、紫電をまともに浴びたフリーズヴェル
グが落下した。
体格の大きさに比例した重量を持っていたらしく、地面に落ちた
フリーズヴェルグは湿った土袋を叩き付けるような不快な音を響か
せる。
キロは墜落した二羽のフリーズヴェルグの首を地面から引き抜い
た槍で掻っ切り、民家の屋根に留まっている六羽に視線を移す。
﹁残念だったな。俺はお前らの天敵だ﹂
パチリ、と槍の穂先に紫電が舞う。
慌てたようにフリーズヴェルグが一斉に羽を広げ、動作魔力を用
いて飛び上がり様、翼で強く空気を打った。
上空に逃げ、雨を降らせなければキロの雷魔法を受ける事はない、
そう考えたフリーズヴェルグは浅はかだった。
フリーズヴェルグが留まっていた民家の屋根にクローナが放った
巨大な水球が激突し、水を派手にまき散らす。
仲間とぶつからない様に飛び立つのが遅れていた二羽が水を浴び、
濡れた体をなおも上空へ持ち上げようと強く羽ばたく。
濡れた羽で二度目の羽ばたきをしようとした時、すでにキロが目
前まで迫っていた。
キロが肩に担ぐように構えていた槍を振り下ろすと、帯電してい
1423
た穂先から雷がほとばしる。
感電した二羽が落下し、屋根を滑り落ちたところをミュトの短剣
に切り殺された。
逃げ遅れた二羽を見捨てて上空高く跳び上がった四羽が報復のた
め高度を維持しようと羽ばたきをやめた瞬間、ミュトが短剣を放り
上げた。
四羽が飛ぶ高さよりもさらに上まで放り上げられた短剣に、クロ
ーナが放った水球が激突する。
すでに水球と雷の連続攻撃を学習していた四匹が素早くその場を
離脱しようと翼をはばたかせて加速、下方に向けて飛ぶことで重力
の恩恵をその身に受け、加速の助けとする。
だが、キロは魔力消費の激しい雷魔法ではなく、得意の機動力を
生かした攻撃方法に切り替えていた。
屋根を蹴り、空に上がると石の壁を作って軌道を変更、フリーズ
ヴェルグの進行方向に先回りして槍を一閃、翼を根元から切り落と
す。
残り三羽、とキロは頭の中で唱えながら、また石壁を生み出して
蹴りつけ、跳び上がる。
フリーズヴェルグ達はもはや、連携を取って魔法攻撃をする余裕
がない。
空を飛ぶ鳥相手に接近戦を仕掛ける人間というかつてない奇抜さ
を有する脅威に翻弄されてばかりだ。
キロの動きをよく知るクローナが石の天井の下から出て、キロを
見上げる。
筒状にした両手を口に当て、クローナがキロに声を掛ける。
﹁足場を作りますね﹂
言うや否や、一羽のフリーズヴェルグの進路を遮るように石壁が
出現する。
1424
衝突する寸前に首を持ち上げ、壁に沿って上昇を始めたその一羽
は、真後ろから壁を駆け上って付いて来るキロの存在に気付かず、
壁の頂点に差し掛かった際に速度を落とした所を切り伏せられた。
村の周囲を回って様子を見ていたフリーズヴェルグ達が仲間の窮
地に気付いて飛んでくる。
壁の上のキロに向かって石弾や水球が放たれるが、キロは無視し
て壁の裏側に隠れた。
キロに切り殺されずに済んだ二羽が飛んできた仲間と合流する。
瞬く間に命を散らした六羽の死を嘆くように一鳴きし、憎悪のこ
もった目をキロに向けた。
しかし、憎悪の籠った瞳に映ったのはキロの姿ともう一つ︱︱壁
に沿って空へと吹き上がる間欠泉にも似た大きな水柱だった。
壁の頂上に到達した水は、そこで待っていたキロの手により別方
向への動作魔力を込められる。
動作魔力を込められた水が、ゆっくりとフリーズヴェルグに向か
って動き出す。
水柱がフリーズヴェルグを飲み込むように倒れだしたのだ。
フリーズヴェルグ達が逃げ出そうと思い思いに方向転換する。
しかし、水柱が倒れる方が早かった。
四羽のフリーズヴェルグが水柱に飲まれ、水流に揉まれながら地
面へと向かう。
キロは容赦なく雷魔法を叩き込んだ。
地面に落ちた四羽は体が痺れて満足に動けないところをミュトの
手で速やかに処理された。
そして、残ったフリーズヴェルグ達は振り返らずに逃げ出した。
あまりにも分が悪すぎると悟ったのだ。
逃げていくフリーズヴェルグを見送りながら、キロは石壁を駆け
下り、地面に降り立つ。
﹁やっぱり、根城は東の山みたいだ﹂
1425
集まってきたクローナとミュトにキロは告げる。
﹁こんなにあっさり戦いが終わったなら、私が覚えてないのも仕方
がない気はしますね﹂
反応に困ったような曖昧な笑みを浮かべてクローナが東を見た時、
指輪が薄く光を放った。
指輪の光にクローナが気付き、キロ達にも見えるように胸の高さ
に手を挙げる。
指輪の光が一瞬強まったかと思うと、長方形の黒い扉が開かれた。
フリーズヴェルグを撃退した事で指輪の念が解消されたようだ。
﹁︱︱キロ君、その黒い物はなんだい?﹂
警戒するように黒い長方形の空間を見るアンムナとアシュリーを
みて、キロは思考を巡らせる。
あまり嘘を重ねても見抜かれる。相手がアンムナであればなおさ
らだ。
キロはクローナとミュトに眼くばせした後、アンムナの質問をあ
えて無視した。
﹁俺達はフリーズヴェルグを追いますね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
呆気にとられるアンムナとアシュリーに微笑みかけて、キロはク
ローナとミュトの手を掴み、さっさと帰還の扉を潜った。
帰還の扉を潜る寸前、アシュリーの声が聞こえた。
﹁移動関係の特殊魔力?﹂
1426
ハズレ、とキロは小さく呟いた。
1427
第三十七話 帰宅
排気ガスの臭いがした。
遠くを行きかう車の音につい身構えて、キロは周囲を見回す。
﹁ちゃんと現代に帰って来られたみたいだな﹂
クローナの過去の世界に旅立った時と同じ駐車場に出て、キロは
ほっと胸を撫で下ろす。
クローナとミュト、フカフカも同じように周囲を見回していた。
キロはミュトの担いでいる鞄を見る。
あわただしく過去の世界を後にしたが、ミュトは忘れず三人の鞄
を持って帰ってきていた。
ミュトが視線に気付き、困ったような顔をして駐車場を見回す。
﹁ここで着替えるつもり?﹂
﹁こんな血だらけで町中を歩いたら大変なことになる世界だからな﹂
クローナはともかく、前線で直接フリーズヴェルグを切り殺して
いたキロとミュトは返り血を浴びている。
﹁我がおる。誰とも出くわさぬよう、安全な場所まで案内しよう﹂
﹁いや、カバンの中に丈の長いコートが入ってるから、羽織れば済
む。俺は返り血を浴び過ぎてるからここで着替えるよ﹂
キロは胸の辺りがべったりと血で染まった服を軽く引っ張って、
苦笑した。
コートを羽織っても誤魔化し切れないほど血生臭い。
1428
キロはミュトから受け取った自分の鞄から替えの服を取り出し、
車と柱の陰になる場所に入って素早く着替えた。ズボンは裾に泥を
かぶっている事さえ除けば綺麗なものだったため、着替えずに済ん
だ。
それでも、あまり気持ちの良いものでもないので、アパートに帰
ったらすぐにでも風呂に入ろうと心に決める。
槍を捨てるわけにもいかないため、刃の部分に服を巻いて誤魔化
す。
高枝切り鋏に見えない事もないだろう。
着替えを済ませて出てきたキロは、今後の予定を考える。
﹁まっすぐにアパートに帰りたいところだけど、公園に寄らないと
いけないな﹂
﹁私はキロさんの家を早く見たいです﹂
﹁クローナ、我がまま言っちゃだめだよ。⋮⋮公園で見つけた猫の
死骸の首輪を取ってくるの?﹂
ミュトの問いかけにキロは肯定を返す。
公園の死骸について知らないクローナは首を傾げた。
﹁公園って、私が目を覚ました時にいたあの開けた場所ですよね?﹂
﹁そうだ。その公園には誰かに飼われていた猫の死骸がある。その
猫が付けている首輪を借り受けて、もう一度この世界に戻って来れ
るようにする﹂
クローナが納得顔を頷かせる。
公園に向かって歩き出したキロは、ミュトに横目を投げる。
﹁クローナを連れて先に俺の部屋に帰ってもいい。ミュトなら道も
分かるだろ?﹂
1429
徹夜で戦闘した事もあり、肉体的な疲労はすでにかなりの物だ。
魔力の残量もほとんどないため、動作魔力で楽をして歩く事も出
来ない。
キロの気遣いに、ミュトはクローナと共に首を振った。
﹁疲れてるのは確かだけど、疲れてるのはキロも一緒でしょう?﹂
﹁むしろ、キロさんが一番激しく動き回ってましたし、公園には私
達が行ってもいいんですよ? さっきの話を聞く限り、ミュトさん
も場所は分かってるんですよね﹂
﹁いや、確かに疲れてるけど⋮⋮ってやめておこう。堂々巡りだ﹂
笑いあって、キロ達はまっすぐ公園に向かう。
高枝切り鋏に偽装した槍が周囲の風景に溶け込む事はなかったが、
フカフカの優れた聴覚で通行人を避けたため職務質問をされる事は
なかった。
公園の滑り台に到着したキロ達は、猫の死骸の前でしゃがむ。
冬の気温のおかげか、腐臭を放ってはいなかった。
首輪を外し、地面に描いた魔法陣に乗せる。
魔法陣を発動させた際の反応から遺物潜りに使える事が分かった
ため、鞄の中に入れてあった皮袋の中に仕舞い込んだ。
﹁さて、帰るか﹂
﹁キロさんのお宅訪問ですね!﹂
ガッツポーズするクローナに、キロは苦笑する。
最初にキロの家へ着いた際、クローナは死んでいた。前回、虚無
の世界から帰ってきたキロと扉越しに話しに行った際の記憶はクロ
ーナにはない。
記憶の上では初の訪問なのだ。
1430
歩き出したキロに並びながら、クローナはミュトに声を掛ける。
﹁子供の頃に集めたガラクタとかあるかもしれませんね﹂
﹁前に行ったときはそれどころじゃなかったから、考えもしなかっ
たなぁ﹂
クローナとミュトが家探しの相談をしている。
子供時代のキロは児童養護施設で気を使って生活していたため、
迷惑になるようながらくたはもちろん、授業で作った物も場所を取
る場合は持ち帰っていない。
賞でも受けていたなら話は別だったろうが、キロは美術的な器用
さを持ち合わせていなかった。
﹁あるとしてもせいぜい子供時代の写真くらいだな﹂
児童養護施設に入ってからの写真しかないが、小さなアルバムに
まとめてある。
写真、と言われて理解できない顔をするクローナとミュトに、キ
ロは携帯を取り出して地下世界で撮った写真を見せる。
﹁これを紙にし︱︱﹂
﹁見たいです!﹂
キロの言葉にかぶせるようにクローナが言う。
クローナの意気込みに気圧されて、キロは後ろに仰け反った。
そうこうしている内にキロのアパートに到着する。
隣人に出くわさないように気を遣いながら、キロ達は部屋に入っ
た。
﹁お邪魔します﹂
1431
ミュトが断りを入れながら靴を脱ぎ、中に入る。
脱衣所の前まで歩いたミュトはキロを振り返った。
﹁先に水浴びしていい?﹂
服に着いた返り血を気にしていたらしく、ミュトが申し訳なさそ
うに訊ねてくる。
﹁いいぞ。腹も減ったし、俺は有り合わせで何か作るから﹂
キロの回答に嬉しそうに笑って、ミュトは脱衣所に入って行った。
ミュトの肩から飛び降りたフカフカが器用にリビングの扉に飛び
ついてドアノブを回し、ドアを押し開ける。
キロは靴箱に靴を入れているクローナを見る。
﹁クローナはどうする? ミュトの水浴びが終わったら風呂を入れ
ようと思ってるけど﹂
﹁お風呂にします。それより、子供の頃のキロさんが見たいです﹂
わくわくした顔のクローナを連れて、キロはリビングに入る。
大して広くもない部屋だ。玄関から三歩も進めばリビングの扉で
ある。
リビングに入ったクローナが、おぉ、と感動したように呟く。
﹁キロさんの匂いがしますね﹂
﹁自宅だからな。ほら、これがアルバムだ﹂
キロは本棚の端に収まっていたアルバムを取り出して、クローナ
に渡す。
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満面の笑みを浮かべ、アルバムを両手で受け取ったクローナは、
机の上で開く。
中の写真を見た瞬間、クローナの笑みが急に引いていった。
﹁⋮⋮そうですよね。キロさんの昔の写真だから、こういう表情で
すよね﹂
真顔に戻ったクローナがポツリと呟く。
何事かと思って、キロはアルバムを覗く。
写っているのは見慣れた自分の姿だが、キロはすぐにクローナの
反応に得心がいった。
机に飛び乗ったフカフカがアルバムを見て鼻を鳴らす。
﹁愛想笑いしておるな。今とは大違いである﹂
キロはアルバムのページをめくる。
幾らめくっても、写真のキロは体が大きくなるばかりで同じ愛想
笑いを浮かべていた。
﹁クローナと会うまではこれが普通の笑い方だと思ってたけど、今
見ると違和感が凄いな﹂
心配そうに見てくるクローナに気付き、キロは微笑みかける。
﹁もう笑い話だ。後でミュトにも見せてやろう﹂
﹁良いんですか?﹂
﹁別にいい。笑い話なんだから、皆で笑おう﹂
キロは言い置いてキッチンに向かう。
1433
﹁この絵と同じ人間だとは思えぬ言葉であるな﹂
フカフカがキロを見送りながら、機嫌よく尻尾で机の上を払った。
1434
第三十八話 キロの自宅
ちょうどよく冷蔵庫に入っていたかまぼこや、棚に入っていた乾
燥わかめで蕎麦を作り、三人で食べる。
クローナやミュトは美味しいともまずいとも言わなかったが、な
ぜか傍で臭いを嗅いでいるフカフカが機嫌よく尻尾で拍子を刻んで
いる。
﹁良い香りであるな﹂
﹁お気に召したようで﹂
おどけてキロは言い返す。
クローナが蕎麦を手繰りながらキロを見る。
﹁これからどうするんですか? この世界で生きて行く事も出来る
はずですけど、猫の首輪を回収したという事は別の世界に行くんで
すよね?﹂
﹁クローナの世界に戻ってアンムナさんと話す。いろいろ聞きたい
事もあるからな﹂
ミュトが蕎麦に息を吹きかけて冷ましているのを見て、ざるそば
にしておけばよかったと思いつつ、キロは予定を組み上げる。
︱︱パラレルワールドシフト計画の件もあるし、一度別の世界を
経由して一月二十日に戻らないと。
まだやる事は山積みだと考えながら、キロは蕎麦を食べきって、
食器を洗うために台所に向かった。
﹁アシュリーさんの事を生き返らせるの?﹂
1435
空の食器を持ってきたミュトがキロに訊ねる。
キロは難しい顔で頷いた。
﹁出来るかどうかは分からないけどな﹂
﹁私の村で会っていたんですから、キロさんの魔法の発動条件を満
たしているんじゃないですか?﹂
クローナの質問に、キロは少し考えて口を開く。
﹁これから行く世界のアシュリーさんが、俺達と出会ったアシュリ
ーさんなのか、それとも俺を異世界に放り込んだ前の俺が出会った
アシュリーさんなのかで蘇生できるかどうかが決まる﹂
理解できていない様子のクローナとミュトを見て、キロは全く別
の事柄に確信を抱きつつも説明する。
﹁さっきまでいた過去のクローナの世界で言えば、クローナが二人
いただろ。どちらも全く同じクローナに見えるが、実際にはほんの
少し経験に差異がある。前にも言っただろ。相似であって合同では
ないって。そっくりの双子みたいなものなんだよ﹂
遺伝的には同一でも、経験には確かな差異がある。性格も異なる
だろう。
そして、この相似と合同の考え方はキロにも当てはまる。
﹁過去の俺も未来の俺も同一人物だけど、過去の世界で出会った俺
や未来の世界で出会った俺は厳密には別人だ﹂
キロは洗剤を水で流したどんぶりをクローナに渡す。
1436
クローナはキロの話を理解しようと知恵を絞りながら、布巾でど
んぶりを拭く。
リビングを見ると机を台拭きで拭いているミュトがいた。
キロはミュトに声を掛ける。
﹁ミュトは分かるだろ。児童養護施設から帰るときにミュト自身が
言い出したんだ﹂
﹁干渉結果の蓄積の事?﹂
一番目は二番目に、三番目は四番目に、絶えず一回多く干渉を受
けたキロから干渉され続けるリレー式の異世界送り。
自分自身が何番目のキロなのかは不明だが、円環状ではなく螺旋
状に過去と現在を行き来している事だけは確かである。
﹁巻貝の直径と同じだ。一周ごとに経験という差は必ず大きくなっ
ていく。断面を見れば円形だが、直径が異なるから相似であって、
合同ではない﹂
﹁⋮⋮何となくわかりました﹂
目を泳がせるクローナをミュトがリビングから手招く。
﹁クローナ、こっちに来て。図に書いて説明するから。キロはお風
呂に入ってきなよ﹂
﹁そうする。覗かないように机に縛り付けておいてくれ﹂
﹁私の事なんだと思ってるんですか! 覗くなんてしませんよ。折
角個室のお風呂なんですから、これを機に混よ︱︱﹂
﹁はいはい、理解できてからにしようね﹂
クローナの腕を掴んで、ミュトがリビングに引っ張った。
混浴に話題を変える事で難しい話を放棄しようとしたクローナの
1437
思惑を一蹴したミュトに、キロは内心拍手する。
﹁ミュトもだんだんクローナの扱い方が分かってきたな﹂
キロは食器を棚に収め、フカフカを誘って風呂に向かう。
桶にお湯を入れてフカフカを入れ、キロはシャンプーのボトルを
持った。
﹁フカフカも洗ってやろうか?﹂
﹁要らぬ。沐浴こそが至高なのだ﹂
こだわりがあるらしいフカフカに拒まれ、キロは提案を引っ込め
た。
頭を洗っていると、フカフカが桶の中で身動ぎする気配がした。
﹁ミュト達はどこまで理解するのだろうな?﹂
﹁理解されたとしても、実行するしかない。そうしないと、次の回
のキロにバトンを引き継げない﹂
フカフカが鼻を鳴らし、水面を叩いた。
﹁独りよがりであるが故に幸福を一人では達成できぬとは、滑稽で
あるな﹂
﹁笑いたきゃ笑えよ。ただ、邪魔はするな﹂
﹁我は誰の邪魔もせぬ。事が終わった後で、お主の頭をはたくがな﹂
フカフカらしい物言いに、キロは苦笑した。
タオルで頭を拭きながら風呂から上がると、クローナとミュトが
1438
机に向かっていた。
仲のいい友人同士がテスト前の勉強をしているような光景は微笑
ましい。
﹁理解できたか?﹂
﹁何とか理解できました。私のキロさんはここにいるキロさんしか
いないという当たり前の事だけは﹂
﹁その当たり前の事にボクの仕事道具が十枚も消費されるなんて思
わなかったけどね﹂
げんなりした顔で紙束をまとめるミュトに労いの言葉を掛け、高
校時代に使っていたクリアファイルを渡す。
怪訝な顔をしていたミュトは、クリアファイルの手触りに感動し
て、目を輝かせる。
﹁これ、凄く丈夫だね!﹂
﹁水も弾くぞ﹂
﹁こんな高価な物、もらっていいの?﹂
﹁さっき食べた蕎麦より安いくらいの代物だよ﹂
キロは簡単に物価を説明する。
ミュトはクリアファイルの表面を撫でながら、口を尖らせた。
﹁キロの世界はズルいね⋮⋮﹂
﹁そんな事言われても﹂
苦笑交じりに言い返して、キロはクローゼットを開ける。
友人が泊まる事態を想定して常に用意してある予備の布団を引っ
張り出すためだ。
1439
﹁クローナ達はベッドで寝てくれ。少し狭いとは思うけど、二人で
寝れない事もないだろ﹂
﹁キロさんはどうするんですか?﹂
﹁俺はこれで寝る﹂
クローゼットから出した布団を見せびらかし、キロは床に広げる。
クローナが寄ってきて、枕を引き寄せて、抱きしめた。
﹁ではキロさん、私は枕とキロさんの腕のどちらに頭を乗せて寝れ
ばいいですか?﹂
﹁枕だろ。馬鹿言ってないで寝ろ﹂
キロが枕を奪い返そうと手を伸ばすと、クローナはさっと避けて
ミュトに枕を投げ渡した。
﹁枕がないので、私はキロさんの︱︱﹂
﹁キロ、投げるよ﹂
﹁おう﹂
﹁私の作戦が⁉﹂
勝ち誇った顔で御託を述べるクローナを無視して、ミュトがキロ
に枕を投げ渡す。
キロはクローナに枕を奪われない内に部屋の明かりを消す。
まだ外は明るく、カーテンの隙間からは光が漏れていた。
充電器に刺してある携帯電話に表示された時刻は午後五時、日が
落ちるまでもう少しかかるだろう。
薄暗い部屋の中で、ミュトがベッドにもぐりこみ、フカフカが机
の上で丸くなる。
そして、クローナがキロの布団にもぐりこんできた。
1440
﹁叩き出されたいのか﹂
﹁今更そんなこと気にしないでください。混浴した仲じゃないです
か。むしろ、あの時と違ってキロさんは服を着てますし、健全じゃ
ないですか?﹂
﹁布団の中じゃなければな。もう眠いんだ。冗談は明日からにして
くれ﹂
徹夜したのだから当然クローナも眠いはずなのだが、とキロは様
子を窺う。
キロが頭の下に敷いていた枕をわずかに引っ張って頭を乗せたク
ローナは眠そうに目を擦っている。
やはり、クローナも眠いらしい。
﹁キロさんはもう少し女性に対して積極的に動くべきだと思います
よ﹂
﹁眠そうな目で言われても、襲えないだろ﹂
﹁なら、明日からにしてください。いい加減にしないと、お酒飲み
ますよ?﹂
どんな脅しだ、と思いつつ、キロは寝返りを打って天井を見る。
﹁そもそも、クローナは男女がどういう事するのか分かってるのか
?﹂
﹁そ、それくらいわかりますよ。とにかく、私はここで寝ます。こ
れで動きがないなら私にも考えがありますからね。分かりましたか、
キロさん。それにミュトさんも﹂
ベッドでミュトが寝返りを打つ音が聞こえる。
フカフカが笑いを堪えきれない様子で尻尾をせわしなく動かした。
1441
﹁宣戦布告であるな。我は高みの見物と洒落込もう﹂
他人事だと思いやがって、と内心で悪態をつきつつ、キロは顔だ
け動かしてクローナを見た。
クローナはキロの方を向いたまま、無防備に目を瞑っている。
吐息もかかりそうな距離だ。
やっぱりまつ毛長いな、と思いながら見ていると、クローナが薄
目を開けた。
﹁キスでもしま︱︱﹂
言いかけたクローナの唇を自分の唇で塞いで柔らかな感触を楽し
んだ後、顔を離す。
﹁おやすみ﹂
﹁⋮⋮お、おやすみ、なさい﹂
動揺を多分に含んだ上ずった声で返すクローナに微笑みかけて、
キロは天井を向いた。
﹁いつもいきなりですよね﹂
﹁煽られたからやり返しただけだろ﹂
キロはクローナに悪びれずに言い返す。
ミュトが起き上がった。
﹁⋮⋮何してるの?﹂
﹁キス︱︱って、痛っ﹂
ミュトの質問に端的に答えたキロは、クローナに脇腹をつねられ
1442
た。
つねられた場所を擦りつつクローナを見ると、呆れたような瞳に
見つめ返された。
クローナの呆れの視線を前に、どうしてつねったのかと問う事も
出来ずキロは閉口する。
そうこうしている内にミュトが毛布と枕を抱えてベッドから降り
た。
何をするのかとみていると、ミュトはキロとクローナが寝ている
布団に歩いてくる。
﹁⋮⋮寒いからボクも一緒に寝る﹂
キロのすぐ横に枕を置いて、ミュトは毛布を広げて横になった。
クローナとミュトがキロを挟んで横になっている。
クローナが上半身を起こし、キロの胸の上に顎を乗せるようにし
てミュトに話しかける。
﹁キスされちゃいますよ?﹂
ミュトはちらりとキロを見た後、キロに背中を向けた。
クローナが面白くなさそうな顔をして、ミュトの背中をつつく。
﹁クローナも早く寝た方がいいよ﹂
﹁早く寝たいのは山々ですが、この際なのでミュトさんの本音を聞
きたいんです﹂
﹁徹夜して眠いから眠りたい﹂
確かな本音ではあるのだろう、ミュトの返答にキロは共感する。
だが、クローナが知りたいのはそんな事ではないだろう。
案の定、クローナはミュトの肩を叩いて睡眠妨害を図る。
1443
﹁私もこんなに長丁場になるとは思わなかったので黙っていました
し、後々で気まずくなるのも嫌だったので気を使っていたんですよ。
でも、ミュトさんは私の日記を見ましたよね? ミュトさんも自分
の気持ちに気付いてますよね? そろそろ白黒はっきりつけましょ
うよ﹂
﹁何の話?﹂
あくまでも白を切ろうとするミュトに、クローナが眼つきを鋭く
する。
キロも話が見えてきて、口を挟む。
﹁クローナ、その辺りにしておいてくれ。俺も大体の話は分かった﹂
﹁⋮⋮そうですね。キロさんが気付いたなら、あとは二人の問題で
す﹂
クローナが矛を収め、キロとミュトに背を向けるように寝返りを
打った。
1444
第三十九話 三角関係
気まずい、とキロは白米を研ぎながら思う。
朝になって起き出したはいいものの、クローナとミュトの間には
一切の会話がない。
別段嫌いあっているわけでもなく、布団の片付けは二人で協力し
ている事も、気まずい空気の一因かもしれない。
いっそ喧嘩しているのであれば仲を取り持つだけでいいのだが、
今回は恋愛がらみでキロも当事者である。
ひとまず、クローナは傍観を決め込み、キロとミュトの間での結
論を待つつもりのようだが、昨夜の強引な手段を考えるとあまり時
間をくれないはずだ。
研いだ米を炊飯器に入れて、ボタンを操作する。
独特の匂いがある味噌汁は避けて、キロは冷蔵庫の中身とにらみ
合う。
ハムエッグとサラダに決めて、キロは卵とベーコン、サニーレタ
ス、カイワレ大根を取り出した。
このまま料理を続けて現実逃避したいところだが、逃避し続ける
度胸もない。
キロはリビングを振り返り、声を掛けた。
﹁ミュト、少し手伝ってくれ﹂
返事はなかったが、リビングとを仕切る扉が開いてミュトが顔を
出す。
断頭台にでも向かうような覚悟を決めた顔で歩いてくるミュトを
見ていると、自然とキロの顔も険しくなりかけるが、意識して明る
い顔で迎え入れる。
1445
﹁この葉っぱを水洗いして、適当な大きさに切ってくれ﹂
キロが渡したサニーレタスを、ミュトは無言のまま水道水で洗い
だした。
キロはフライパンに油を敷きながら、口を開く。
﹁昨晩の話だけどさ﹂
ミュトの肩が跳ねるのを横目に、キロはフライパンを熱し、ハム
を焼く。
ミュトがサニーレタスを洗い終えるのを見計らって、キロは再び
口を開いた。
﹁俺はクローナが好きだから、ミュトを恋愛対象としては見れない﹂
﹁⋮⋮分かってる﹂
ミュトは呟いて、サニーレタスを包丁で切り始めた。
﹁分かってるけど、好きになった。だから、黙ってたんだよ﹂
泣きそうになるのを堪えているのか、ミュトは下唇を噛んで言葉
を切った。
サニーレタスを切り終えたミュトが包丁を洗い出す。
キロは卵をフライパンに落として焼き始め、ミュトを横目に見た。
﹁固焼きがいいか?﹂
ミュトが頷いたのを確認して、キロはリビングを振り返る。
リビングにいるクローナに声を掛けようとして、思いとどまった。
1446
昨夜の事を思い出して、キロはあえてミュトとクローナの会話を
促すことにした。
﹁クローナのところに行って、卵の焼き加減を聞いてきてくれ﹂
﹁⋮⋮ボクが?﹂
困った顔をするミュトに微笑みかけて、キロはリビングを指差す。
﹁ミュトは告白したら三人で旅を続けられなくなるかもしれない、
とか考えてたんだろう?﹂
﹁振られるのは分かってたから、気まずくなるくらいなら言わない
方がいいと思って⋮⋮﹂
ミュトは小さな声でキロの予想を肯定する。
キロも他人の事をとやかく言えないが、それでもミュトのコミュ
ニケーション能力の低さには苦笑してしまう。
﹁多分、大丈夫だ。クローナはあれでも嫉妬しやすい性格だけど、
ミュトの気持ちを知っていて、何もしなかった。それが答えだろ﹂
﹁⋮⋮いまいち話が見えないんだけど﹂
ミュトが首を傾げる。
米が炊けた事を知らせる電子音を奏でる炊飯器をコンセントを引
き抜いて黙らせたキロは、昨夜のクローナの言動を思い出しながら
ミュトに説明する。
﹁クローナにとって、ミュトがどうでもいい存在なら恋心に気付い
た時点で俺から遠ざけようとするか、俺との関係を進めるために強
引な手段に出ていたと思う﹂
﹁今でも強引だと思うけど⋮⋮﹂
1447
﹁地下世界にいた時もそう思ったか?﹂
キロの問いかけに、ミュトは思い出すような素振りをした後難し
い顔で首を横に振った。
﹁言葉遊びがせいぜいだったろ。多少俺との関係が進む可能性があ
る行動をとる時はミュトの事も誘ったんじゃないか?﹂
思い出されるのは温泉に入る時や膝枕だ。どちらの場合もミュト
と共に行動するか、誘っていた。
﹁ミュトが自分の気持ちに気付くまでは抜け駆けしない様にしてた
んだよ。どうでもいい相手にそんな配慮しないだろ。関係を壊した
くないのはクローナも同じなんだよ﹂
ミュトは不安そうにリビングを見た。
キロはそっとミュトの背中を押した。
﹁行って来い。これからもみんなで旅を続けたいならさ﹂
キロの言葉が決め手となったか、ミュトは深呼吸を一度して歩き
出した。
少しの間を置いて、リビングから話し声が聞こえて来たのに安心
して、キロは自分用のハムエッグを焼き始める。
絶妙な焼き加減を目指してフライパンの上の卵を見張っていると、
リビングの扉が開いた。
振り返ると、クローナがいた。
笑みを浮かべたクローナは扉に寄りかかるようにしてキロを眺め
ている。
1448
﹁私は固焼きではないけれど液状でもない焼き加減でお願いします﹂
﹁俺と同じか﹂
もしも失敗したら自分の分にしよう、と思いながら、キロはコン
ロの火を調節する。
パタン、と扉が閉じられた音を聞き、キロはもう一度振り向いた。
クローナはもちろん、ミュトもいない。リビングは静まり返って
いる。
てっきり報告があると思っていたキロは、いささか不安を抱きつ
つも調理を続けた。
料理を作り終え、茶碗にご飯をよそう段階になってもリビングは
静まり返ったままだ。
付き合いの長さから来るのか、はたまたキロの純粋な勘なのか、
キロはリビングの光景をなんとなく想像できる。
何かを企んでいる事だけは確かだろう、と。
二つの盆に載せた人数分の料理を持って、キロはリビングに声を
掛ける。
﹁両手がふさがってるから、扉を開けてくれ﹂
何かを企んでいるとしても、出鼻を挫いてしまえばいいだけだ、
とキロは扉のノブに視線を落とす。
ノブが回ったかと思うと、ゆっくりと扉が引き開けられた。
開けた扉の先にはテーブルに向かい合って座るクローナとミュト
がいた。
キロはリビングに入って、扉の裏を見る。
﹁我に何か言うべきではないか?﹂
﹁扉を開けてくれてありがとう﹂
1449
ノブにぶら下がっているフカフカに礼を言う。
キロは料理が乗った盆をクローナとミュトの前に置く。
﹁︱︱それで、何で二人して笑ってるんだ﹂
キロは食べ始める前にクローナとミュトに訊ねる。
クローナとミュトが笑っているからには、関係に亀裂が入る事は
なかったのだろう。
だが、いかに二人が旅を続けたいと望んでいたとしても、事は恋
愛である。どちらかが泣きを見る可能性は非常に高い。
クローナが片手を挙げ、宣誓する。
﹁私はキロさんが好きです﹂
﹁ボクもキロが好き﹂
ミュトが応じて、片手を挙げた。
二人の告白に戸惑うキロを見たクローナはテーブルに頬杖を突い
た。
﹁これでようやくスタート地点です。キロさんには私を選んでもら
うつもりですけど、ミュトさんがキロさんを好きな気持ちまでは変
えられません﹂
﹁だから、ボクは諦めず、キロに好きになってもらう努力を続ける、
という話がまとまったんだよ﹂
﹁⋮⋮そういう落としどころで納得するのかよ﹂
辛うじてツッコミを入れるキロに、クローナとミュトは顔を見合
わせる。
﹁だって、今までも似たようなものだったよね﹂
1450
﹁互いの立ち位置もはっきりしたので、一歩前進の感さえあります
ね﹂
ねぇ、と声を合わせて笑いあうクローナとミュト。キロをダシに
して二人の仲は良くなったようだ。
そして、キロはどうでもよくなった。
﹁二人が納得してるならそれでもいいけどさ。どうせ誰かを好きに
なった以上すぐに頭を切り替えろと言ってもできないだろうから﹂
﹁ボクの諦めの悪さは知ってるでしょ﹂
ミュトがクローナと同じようにテーブルに頬杖を突き、キロに微
笑んだ。
ミュトの肩にフカフカが飛び乗り、愉快そうに尻尾を揺らす。
﹁最下層から未踏破層へ赴き、果てに二つの世界の空を見たのだ。
ミュトは手ごわいぞ?﹂
娘の出来を誇るように言って、フカフカが尻尾を光らせて左右に
振った。
1451
第四十話 アシュリー
キロは荷物に不足がないかを確認して、児童養護施設で飼ってい
た犬のエサ入れを机に置いた。
クローナとミュトがステンレス製のエサ入れを見た後、キロに横
目を投げた。
﹁帰還の扉の開き方は分かるんですか?﹂
クローナに問われて、キロはドッグフードを取り出した。
﹁多分、この餌を入れればいいと思う﹂
キロはドッグフードをエサ入れに入れる。
すると、キロの予想通りに黒い長方形の空間が出現した。
﹁⋮⋮やっぱり寂しかったんだな﹂
切なさを覚えて呟いたキロは目を瞑って手を合わせた。
冥福を祈って、キロは頭を切り替える。
﹁戻るぞ﹂
クローナとミュトの手を握り、キロは帰還の扉を潜った。
扉の先はクローナの自宅に繋がっていた。
日付の確認はできないが、長く放置された家特有のこびりついた
1452
埃の匂いが過去の世界ではない事を教えてくれた。
キロは窓に歩み寄り、外を覗く。
﹁⋮⋮テント?﹂
村の中央に建てられた仮設テントを見て、キロは首を傾げた。
﹁ボク達がキロの世界に行く前にこの村に来た時はあんなものなか
ったよね?﹂
ミュトの疑問にキロとクローナは顔を頷かせ、フカフカを見る。
耳を澄ませていたフカフカは顔を上げた。
﹁テントの中に一人、我らからは死角になっている場所にもう一人
おるな﹂
﹁二人、か﹂
キロはテントにいる人物に見つからないよう腰を落とす。
﹁フカフカ、ここからテント内の会話は聞こえるか?﹂
﹁聞き取る事は十分可能だが、連中、言葉を交わしてはおらぬ。⋮
⋮森からさらに一人出てきたようであるな﹂
キロ達は口を閉ざし、森からやってきたと言う人間とテントの人
間が会話するのを待つ。
フカフカが耳をピクリと動かしたかと思うと、キロに報告する。
﹁声から判断する限り、アンムナとゼンドル、それにティーダであ
るな﹂
﹁あの三人、面識ないはずだけど﹂
1453
﹁町であったのかもしれませんね﹂
クローナの予想が正しいかどうかも含め、何故ここにいるのかに
ついては本人から聞けばよいと結論を出して、キロ達はクローナの
実家を出た。
テントに歩いていくと、アンムナがキロ達に気付いて手を振った。
﹁お帰り、で良いのかな? どこに行っていたんだい?﹂
アンムナは満面の笑みを浮かべながら、そう訊ねてきた。
話し声を聞き付けたゼンドルとティーダが現れ、キロ達を見てほ
っとした顔をする。
ゼンドルとティーダの反応を不思議に思いながら、キロはアンム
ナに質問の答えを返す。
﹁遺物潜りで俺の世界と、過去のこの村へ﹂
アンムナが満面の笑みを浮かべたまま首を傾げた。
﹁僕に聞きたい事はあるかい?﹂
﹁山ほどありますよ。ただ、その前に試しましょうか。アシュリー
さんは連れてきているんですよね?﹂
アンムナがテントを指差した。
キロはアンムナと共にテントの中へ入る。
相変わらずの美しさで微動だにしないアシュリーがそこにいた。
﹁試してみますね﹂
キロはアシュリーのそばに腰を下ろし、右手に特殊魔力を集めた。
1454
アシュリーの肩に右手を置き、特殊魔力を込める。
﹁蘇生は可能みたいです﹂
﹁今すぐに可能なのかい?﹂
﹁今は特殊魔力を込めているところです。クローナ、村の温泉がま
だ使えるかどうか見てきてくれ。多分、アシュリーさんも風呂に入
りたいだろう﹂
声を掛けると、クローナは温泉を振り返って困った顔をした。
﹁源泉はともかく、設備はかなり傷んでるはずです﹂
﹁ゼンドルとティーダに手伝ってもらってくれ﹂
﹁頑張ってはみますけど、期待しないでくださいね﹂
クローナがテントを出て、ゼンドル達に声を掛けて温泉に向かっ
た。
キロは特殊魔力を込め終え、深呼吸する。
﹁蘇生させます﹂
アンムナに告げて、キロは特殊魔力を発動する。
すぐにアシュリーの肌に赤みが差し始める。
蘇生は成功したらしい。
先ほどまでとはまるで違う生ある者の美しさをアシュリーが纏い
始め、長いまつげがゆっくりと持ち上がった。
﹁⋮⋮ここは?﹂
アシュリーがそう呟いた瞬間、アンムナが歩み寄り、アシュリー
の膝に縋り付いて泣き始めた。
1455
﹁アシュリー⋮⋮﹂
キロは静かに二人に背を向けた。
テントを出ると、ミュトが待っていた。
キロはテントの中を見せない様に出口を閉める。
﹁蘇生は成功した。しばらく二人きりにしておこう﹂
ミュトが柔らかく微笑み、頷いた。
テントから少し離れた場所に陣取り、アンムナとアシュリーがテ
ントから出てくるのを待つ。
アンムナ達よりも先に温泉の様子を見てきたクローナ達三人が戻
ってきた。
ゼンドルがキロの隣にドカリと腰を下ろす。
﹁いや、キロ達が帰ってきてくれて助かった﹂
﹁どこでアンムナさんと知り合ったんだ?﹂
ゼンドルは町の方角を見て、頭を掻いた。
﹁あの人、町のギルドに来るなりキロの居場所を聞いてさ。傍らに
あの綺麗な人形携えてるもんだから怪しさ満点で、ギルドの職員が
警戒したんだ﹂
容易に想像できる光景に、キロは苦笑する。
笑い事じゃない、とティーダが口を挟んだ。
﹁何を焦ってたのか知らないけど、あの人ったら早く教えろって職
員に詰め寄って泣かせちゃったのよ﹂
1456
﹁新人の女の子だったんだけど、傍らに等身大人形を持った若い男
に詰め寄られたら、そりゃあ怖いよなぁ﹂
他人事のようにゼンドルがぼやいて、ため息を吐く。
﹁そっからがもう大変。とりあえず、お引き取り願おうとした冒険
者が触れた瞬間に建物の外へ吹っ飛んでいくし、新人の女の子が怖
がって悲鳴を上げたもんだから状況の分かってない冒険者連中がア
ンムナさんを叩きだそうとして逆に建物の外に転がされるし、頭に
血が上った連中が斬りかかったら武器が当たった瞬間破壊されるし、
避難しようとした職員をアンムナさんがとっ捕まえてキロの居場所
を吐けと尋問するし⋮⋮﹂
﹁俺達とカルロさんがギルドに到着して、とりあえず事情を聞いた
らキロの知り合いらしいって分かって、ここを教えたんだよ。不安
だから俺達もついてきたけど﹂
﹁迷惑かけて悪い⋮⋮﹂
アンムナに代わってキロが謝ると、ゼンドルとティーダは悪いの
はギルドの新人職員だから、と手をひらひら振った。
﹁事情を聞けばいいだけなのに、アンムナさんの素性ばかりを根掘
り葉掘り聞き出そうとするのが不味いんだよ。キロとの関係につい
て聞いた後で俺達を呼ぶか、人探しの依頼を出すように誘導すれば
いいだけなのにさ﹂
﹁怪我人は出なかったのか?﹂
心配になったキロが問うと、ゼンドルとティーダはふっと真顔に
戻り、顔を見合わせて考え込んだ。
﹁そういえば、あれだけの騒ぎで怪我人が出てないのはおかしくな
1457
いか?﹂
﹁⋮⋮手加減してた、なんてことは﹂
﹁いや、いくらなんでも無理だろ﹂
ゼンドルとティーダが意見を交わしている。
アンムナの奥義を知るキロにとっては、並みの冒険者相手に手加
減するアンムナの姿も容易に想像できた。
話をしていると、テントの入り口が開き、アンムナが出てきた。
アンムナの姿を見たゼンドルとティーダが腰を浮かす。
アンムナが不思議そうにゼンドルとティーダを見る。
﹁町を出る時から思っていたけど、君達は僕に怯えすぎだね﹂
﹁︱︱アンムナ、何かしたの?﹂
アンムナの後ろから出てきたアシュリーが呆れたような視線でア
ンムナを見る。
ファッ、と間抜けな声を上げて口を半開きにするゼンドルを余所
に、アンムナは相好を崩してアシュリーを見た。
﹁人聞きが悪いなぁ。ここに来るまでに一悶着あっただけだよ﹂
﹁⋮⋮相棒が迷惑を掛けたみたいで、ごめんなさい﹂
頭を下げるアシュリーに、ティーダが狼狽える。
アシュリーの正体を聞いていなかったからだろう。
キロはクローナに視線を向ける。
﹁温泉は?﹂
﹁何とか入れます。今お湯を流してますので、体を洗っている内に
入れるようになると思いますよ﹂
﹁アシュリーさんを連れて行ってくれ﹂
1458
キロの指示に、クローナはついでだからとミュトとティーダも誘
い、アシュリーを手招いた。
﹁お久しぶりです。久しぶりついでに経緯を説明するので、一緒に
温泉に入りませんか?﹂
アシュリーは少し悩む様にアンムナを振り向くが、結局クローナ
の誘いに乗って温泉へ歩き出した。
アシュリーを任せる、とキロはクローナに目くばせする。
小さく頷いたクローナに安心して、キロはアンムナを見た。
状況の変化に理解が追い付いていないゼンドルがアシュリーの姿
を目で追っているが、無視する。
アンムナがテントのそばに出していた組立式の椅子をキロの前に
置き、腰を下ろす。
﹁さて、キロ君、全部話そうか。アシュリーが死んでしまってから
の昔話だ﹂
そう前置きして、アンムナは真剣な眼つきとなり話し出した。
1459
第四十話 アシュリー︵後書き︶
これにて四章終了です。
次章開始は十一月一日の予定です。
1460
第一話 アンムナの軌跡
﹁かなり荒れた。別に死んでも構わなかったから﹂
アンムナは過去の話を口にする前にそう切り出した。
﹁五年前、アシュリーの亡骸を引き取った後、僕は嫌がる宿の主人
に無理を言って部屋を借り受けた﹂
アンムナがキロの両手を見る。
キロの両手には緑色の金属、リーフトレージで作られたナックル
がはまっている。
アシュリーが死んだ際にアンムナが買ったリーフトレージから作
られた品だ。
﹁そのナックルで魔物の群れを殴り殺したと言っただろう。結局死
ねなかった僕は魔物の死骸が転がるその場所でキロ君の事を思い出
した。当時の感覚で言うと一年前、この村でキロ君達と共闘した時
の事だ﹂
大人しく話を聞いていたゼンドルがキロを見て首を傾げた。
﹁キロ、六年前って何歳だよ﹂
﹁十二、三歳だな。ここで戦ったのはついさっきだけど﹂
﹁訳が分からないんだが﹂
﹁ちょっと黙ってろ。後で説明してやるから﹂
渋々納得したゼンドルが引き下がったのを見て、アンムナは話を
1461
戻した。
﹁キロ君の特殊魔力を思い出した僕はすぐに情報を集めた。もちろ
ん集まらなかったが、当時の僕はキロ君達が身を隠しているからだ
と考えたよ﹂
蘇生の特殊魔力については他言無用だとキロが言ったため、情報
規制がなされているとアンムナは想像したのだ。
だが、アンムナは諦めなかった。いや、諦められなかった。
﹁何としてでもキロ君に接触しようと考えた僕は、確実に君と接触
できる方法を考え付いた。すなわち、過去のこの村に戻り、キロ君
と接触するための魔法︱︱遺物潜りだ﹂
遺物潜りは当初、遺品の念を媒体に過去へ行くために生み出され
た。
﹁⋮⋮驚かないんだね?﹂
少し残念そうに、アンムナはキロを見て呟く。
キロは苦笑を返した。
﹁過去の村に行った時、アンムナさんはアシュリーさんのために何
でもやりそうだと思ったので﹂
﹁キロ君も人の事言えないと思うけどね。まぁ、良い。話を戻そう﹂
その時、ゼンドルが質問したそうにそわそわと体を揺する。
キロとアンムナが視線で促すと、ゼンドルは口を開いた。
﹁確か、遺物潜りは過去に行けないって話じゃなかったか?﹂
1462
﹁その通り。僕の作った遺物潜りは過去に直接行くことができない。
別の世界を経由しなくては過去の世界に行くことができなかったん
だ﹂
そう、過去の村に行ってキロと再会する計画は半ば破綻していた。
アンムナは当時を思い出すように遠い目をした。
﹁遺物潜りが完成したのは今から四年前。僕はカッカラに移り住み、
墓守を始めていた。遺品が確実に手に入る職業だったからね﹂
墓守という職業で職権濫用していた事も驚きだが、たった一年で
あの複雑な魔法陣からなる遺物潜りを完成させたという事実もまた
驚愕に値する。
﹁だけど、墓守をしていても異世界人の死者が運ばれてくることは
なかったよ。それでも僕は過去に行くことで起こりうる問題点を色
々考察していた。そして、一つの可能性に気付いたんだ。キロ君達
は遺物潜りであの村にやってきたんじゃないか、とね﹂
気付いたのは一年前だったけど、とアンムナは恥じるように言う。
﹁キロ君達が潜ったあの黒い長方形は遺物潜りが発動した際の世界
移動だと考えたんだ。なぜなら、キロ君達はあの空間を発生させる
特殊魔力を持っていないからね﹂
キロ達が遺物潜りを用いて村に来た可能性に気付いたアンムナは、
当時のキロ達の言動を可能な限り紙に書き出した。
そして、フリーズヴェルグの襲撃を予想していた事や指輪の紛失
事件に着目した。
アンムナはキロに微笑みかけ、教会を指差した。
1463
﹁指輪を盗んだのは君だろう?﹂
﹁もう時効ですよ﹂
﹁ついさっき犯行に及んだんだろう?﹂
﹁もう六年前の話です。俺の世界には光陰矢のごとしって諺があり
ますよ﹂
肩を竦めるキロに、アンムナはニヤニヤ笑う。
さて、とアンムナは咳払いして、話に戻る。
﹁僕は遺物潜りと類似した魔法を作った者がいないか探し始めた。
一年間空振り続きの毎日を送って、ついにその日が来た﹂
アンムナは深呼吸をして、キロを指差した。
﹁俺とクローナがアンムナさんの家を訪ねたんですね﹂
アンムナは大きく頷く。
﹁僕の気持ちが分かるかい? 五年間、会いたくて、会いたくて仕
方がなかった相手が何も知らずにやってきたんだ。小物置に足の小
指をぶつけるまで冷静になれなかったよ﹂
アンムナは苦笑を浮かべ、重たいため息を吐いた。
﹁そう、冷静になったんだ。僕を訪ねてきたキロ君達が僕の事を知
っているキロ君達かどうかを考えられるくらいには﹂
アンムナは再び重たいため息を吐き出した。当時から溜まってい
た心の澱を今吐き出しているようだった。
1464
﹁過去に戻る事で生じる様々な矛盾について自分なりに考えていた
僕は、矛盾を起こさないように行動する必要性にも気づいていた。
もし、僕の家を訪問した時点で蘇生の特殊魔力に気付いていなかっ
たら? あるいは蘇生の特殊魔力に何らかの発動制限があったら?﹂
アンムナは様々な可能性を考えつつ、扉を開けた。
アンムナが開けた扉の先には、六年前と変わらぬ姿のキロとクロ
ーナがいた。
そして、アンムナは気付いたのだ。
遺物潜りを通じた時間移動が生じている事にも、訪問してきたキ
ロ達はまだ何も知らず、過去にアンムナと出会ったこともないのだ
と。
﹁今すぐにでもアシュリーを生き返らせてくれ、と頼みたい気持ち
を堪えて、君達に待ってもらうように告げた後、必死に心を落ち着
けた。そして、もう一度扉を開けてみれば、ミュト君とフカフカ君
がいない。だから、確信したんだ。僕が知っているキロ君達は目の
前のキロ君とクローナ君ではないんだ、と﹂
隣で混乱を始めたゼンドルが頭を抱える。
事情を知らないものが聞けば意味不明な会話だろう。
キロはゼンドルの苦しみなど放っておいて、アンムナに話の続き
を促す。
アンムナは困り顔で頬を掻く。
﹁続きと言っても、あとはキロ君の知っての通りだよ。機会を見つ
けては過去の村に行っていないかと鎌を掛けてみたけどね。キロ君
達がミュト君とフカフカ君を連れて来た時にはついに念願かなう時
が来たか、なんて身構えたけど、ふたを開けてみれば地下世界から
1465
帰ってきたばかりというから、がっかりしたよ。アシュリーを人形
だと紹介してミュト君の様子を見たりしたんだけどね﹂
今となっては笑い話だとアンムナは言うが、当時の心痛は察する
に余りある。
﹁だけど、シールズにアシュリーが攫われた時は本当に焦ったよ。
手持ちの情報からいくら推理しても、キロ君の蘇生が行使可能な時
を迎えた際にアシュリーが必ず蘇生可能な状態で居られる確証がな
かったからね﹂
話は終わりだ、とアンムナは息を吐き出し、目を瞑った。
﹁流石に疲れた。アシュリーを覗きに行く気力もない﹂
﹁また脱衣場に放り込まれて説教されますよ?﹂
﹁ご褒美だね。今の気分なら、アシュリーと一緒に居られるだけで
楽しいに決まっている﹂
そう言って、アンムナは明るい笑みを浮かべた。
キロも同じように、アンムナに笑い返す。
混乱の極致に達したゼンドルも、何かが吹っ切れて晴れやかな笑
みを浮かべていた。
1466
第二話 クローナの特殊魔力
話は終わりとばかりに腰を上げたアンムナに続いて、キロは立ち
上がる。
﹁ゼンドル、食糧はあるか?﹂
﹁さっき取ってきた。あちこちにパーンヤンクシュの骨が転がって
る森の中で見つけた山菜だけどな﹂
﹁その山菜、変な毒とか持ってないだろうな?﹂
六年前の戦いの跡が残る森から取ってきたらしい山菜を見せびら
かすゼンドルに苦笑しつつ、キロは調理道具を準備しているアンム
ナを見る。
テントから少し離れた場所に焚火がある。
キロは焚火の薪を組み上げ、火の番を始めた。
﹁アンムナさん、俺の話も聞いてもらえますか?﹂
調理道具と保存食の類を持ってきたアンムナに、キロは声を掛け
る。
クローナ達が温泉から戻ってくる前に簡単なスープだけでも作っ
ておくつもりらしく、アンムナは鍋に水を入れて焚火の上に置いた。
﹁窃盗組織のアジトで起きた事から話を聞きたいね﹂
言われるまでもない、とキロは窃盗組織のアジトから虚無の世界
に飛んだ所から今に至るまでを話す。
パラレルワールドシフトについてだけはぼかして伝えたが、大体
1467
の流れは理解してくれた。
アンムナは難しい顔で腕を組み、虚空を睨む。
﹁キロ君も苦労したんだね。そうか、クローナ君が一度死んだのか﹂
アンムナはふと思いついたようにキロに横目を向ける。
﹁という事は、今のアシュリーもキロ君について覚えていないのか
い?﹂
﹁おそらく、覚えてないと思います。アンムナさんの事は覚えてい
るはずなので、さほど問題は起きませんよ﹂
﹁なんだか、キロ君に悪い気がするなぁ﹂
アンムナは申し訳なさそうな顔をするが、キロはあまり気にして
いない。
アシュリーはキロにとってたった一日共に戦っただけの間柄なの
だから。
ゼンドルが追加の薪を持ってきて、キロの後ろに置いた。火の粉
が掛からない様にという配慮だろう。
﹁約束だぜ。さっさと説明しろ。今の内にそのわけ分からん話を理
解して、後でティーダを馬鹿にしてやりたい﹂
不純な動機を語りながら、ゼンドルがキロに説明をせがむ。
仕方なく、キロはゼンドルに時間移動の話を説明した。
温泉から上がったクローナ達が戻ってくる頃には、焚火の周囲に
様々な図が出来上がっていた。
図は全て、キロがゼンドルに時間移動について説明する過程で描
1468
いたものだ。
キロの苦労の甲斐なく、理解する事を諦めたゼンドルは焚火が消
えないよう薪を追加している。
説明し疲れてぐったりしているキロを見て、クローナとミュトが
首を傾げた。
﹁肩でも揉みましょうか?﹂
﹁いや、必要ない。というか、何でフカフカはそんなに不機嫌そう
なんだ?﹂
ミュトの肩に乗ったフカフカは苛立ちを主張するように尻尾の毛
を逆立たせ、左右に振っている。
キロの問いに、フカフカは鼻を鳴らした。
﹁また風呂場から追い出されたのだ﹂
アシュリーに風呂場から追い出されたフカフカは鼻息荒く吐き捨
てて、ミュトの首に巻き付いた。ふて寝するつもりらしい。
そのうち機嫌を直すだろう、とキロは深く考えずにクローナへ声
を掛ける。
﹁それより、クローナも聞いておいてくれ﹂
﹁何ですか?﹂
クローナの質問には答えず、キロはアンムナを見る。
アシュリーに乾いたタオルを渡してにやついているアンムナはど
ことなく頼りないが、今は大目に見るべきだろう。
キロの視線に気付いたアシュリーが乾いたタオルで髪を拭きなが
らアンムナの肩を叩く。
アンムナがキロに向き直った。
1469
﹁クローナ君の特殊魔力の事かな?﹂
﹁やっぱり、何か知っているんですね﹂
アンムナの言葉にキロは当然のように返したが、クローナとミュ
トはそろって驚きの声を上げる。
キロは驚いている二人に説明する。
﹁アシュリーさんがシールズに攫われた時、俺がアンムナさんを止
めた事があっただろ。あの時、アンムナさんが何を言ったか覚えて
ないか?﹂
記憶を探るようにしたクローナとミュトだったが、先にクローナ
が気付く。
﹁そういえば、あの時、私ならアンムナさんを止められるかもしれ
ないって⋮⋮﹂
﹁実際には、あの時はまだ力不足だけど潜在能力では一番可能性が
あるような口ぶりだった﹂
そうですよね、とキロはアンムナに話を振った。
アンムナはアシュリーと顔を見合わせ、頷きあう。
﹁アシュリーを生き返らせてくれたお礼に教えておこうか。僕とア
シュリーが六年前の防衛戦後に予想したクローナ君の特殊魔力につ
いて﹂
﹁あくまでも予想。外れている可能性もある﹂
アンムナの言葉にアシュリーが補足する。
例え外れているとしても、クローナの特殊魔力について少しでも
1470
分かるのなら、とキロは先を促した。
筋道立てて話すためか、薪にするため取ってきた枝を拾い上げた
アシュリーが地面に一本の横線を引く。
﹁おそらく、効果は性質の反転﹂
地面に引いた横線の中央に縦の線を入れたアシュリーは、クロー
ナを見る。
﹁まず、失敗の事例についてまとめる﹂
﹁クローナ君の魔法の失敗例は、凍らせる火球、熱くない火球、凍
らせる水球、脆い石壁だったね?﹂
アンムナがクローナの失敗談を列挙して、確認する。
六年前に聞いた失敗談をよく覚えているものだ、と感心するキロ
に、アンムナは肩を竦めた。
﹁キロ君に再会するためにいろいろ考えたんだ。クローナ君の特殊
魔力もアシュリーが死んでから何度か再考したよ﹂
なるほど、納得するキロの横で、クローナが恥ずかしそうに挙手
する。
﹁他にもいくつかあります。流れない水と逆方向に跳ぶ石弾﹂
﹁俺はその二つ見た事ないけど﹂
キロが首を傾げると、クローナは頬を膨らませた。
﹁狙って失敗するわけでもないんですから、キロさんが見た事ない
失敗くらいありますよ。全部見ようなんて思わないでください﹂
1471
﹁クローナの事は何でも知りたいんだけどな﹂
﹁からかう気満々じゃないですか!﹂
くすくす笑うキロの肩をクローナがポカポカ叩いて抗議する。
アンムナが大きく頷いた。
﹁キロ君のその心意気、僕も見習わなくてはならないね﹂
腕を組んで何度も頷くアンムナに、アシュリーがため息を吐く。
﹁話を戻す。失敗事例を分類すると、温度、硬度、それといま挙が
った二つはおそらく粘度、角度﹂
アシュリーが地面に何か文字を書く。キロとミュト、フカフカに
読めないそれは、クローナの世界の文字だ。
アシュリーが表を書き、分類する。
クローナが表に書かれた項目の一つを指差した。
﹁これが何で角度なんですか?﹂
クローナの質問で、キロは指差された項目に予測を付け、口を開
く。
﹁百八十度反転しているからだ﹂
ミュトがアシュリーに倣って小枝で地面に半円を描く。
流石は元地図師だけあって見事な半円をフリーハンドで描いて見
せたミュトにゼンドルとティーダがおぉ、と感嘆の声を上げる。
ミュトは半円の直径の中央を小枝でつつく。
1472
﹁ここにクローナがいると考えれば、逆方向に飛ぶでしょ?﹂
﹁確かにそうですね﹂
クローナが納得して、アシュリーを見る。
アシュリーは最初に書いた横線を指差した。
﹁温度、硬度、粘度、角度、これらに共通しているのは物事の性質
をあらわす尺度である点。クローナさんの特殊魔力は行使する尺度
を選択し、基準点を定めた上で反転する効果を持っていると想定で
きる﹂
予想以上に複雑な手順を踏む特殊魔力に、キロは過去を振り返る。
クローナが魔法を失敗する時、それは焦っている場合が殆どだっ
た。
発生させる魔法を脳裏に浮かべた際、焦りのあまり尺度が曖昧だ
ったのだろう。
キロはクローナに声を掛ける。
﹁俺に魔法を教えてくれた時、水球で地面を凍らせる失敗をしてた
よな。あの時、温度に関する考え事でもしてたのか?﹂
﹁夜の空気は冷たいなって思ってた気がします﹂
﹁冬場の夜の外気温を基準点にして、水球の温度を反転させたのか﹂
キロもよく覚えてはいないが、零度に届くか届かないかという外
気温だった事だろう。
何しろ、一月二十日という冬真っ只中に出歩いていたキロが、服
を着替える事無く外に出て違和感のない気温だったのだから。
キロは試しに手元に現象魔力を集め、水球を発生させる。
﹁体感で三十度くらいか。あの時の水球の温度はもしかするとマイ
1473
ナス三十度⋮⋮地面も凍るな﹂
キロはミュトから小枝を受け取り、槍と一緒にクローナに手渡す。
﹁この槍の硬さを基準として、小枝の硬度を反転させるよう特殊魔
力を発動してみてくれ﹂
﹁みんなの見てるところで失敗したくないんですけど﹂
渋るクローナの横に立ったミュトが、耳打ちする。
﹁失敗したらキロに慰めてもらえるよ﹂
﹁むしろ失敗した方がお得じゃないですか﹂
ぐっと拳を握って妙な意気込みをするクローナに、キロは苦笑し
た。
すかさず、ミュトがクローナに囁く。
﹁成功したらキロがほめてくれるよ﹂
﹁それも捨てがたいですね⋮⋮﹂
本当に悩みだしたクローナに、キロは声援を送る。
﹁頑張ってカッコいいところ見せてくれ﹂
﹁︱︱見せますとも!﹂
途端に張り切ってクローナが小枝に特殊魔力を込める。
﹁初めからキロが応援すればよかったんじゃねぇの?﹂
キロの横に座っていたゼンドルが呟いた。
1474
﹁段取りがあるんだよ﹂
キロは呟き返して、ミュトと目くばせで健闘をたたえ合った。
クローナが小枝に込めた特殊魔力を発動させる。
見た目には全く変化がなかった。
キロは現象魔力で適当に石壁を作成する。
﹁その小枝でこの石壁を叩いてみてくれ。念のため、手加減︱︱﹂
キロの言葉を最後まで聞かず、クローナは手首のスナップを利か
せて小枝を石壁にぶつける。
ガツン、という酷く硬質な音が響いた。
﹁成功みたいだ。流石はアシュリーの見立てだね﹂
﹁なんてことないわ﹂
アンムナが石壁に穿たれた小さな凹みを見てアシュリーとハイタ
ッチを交わす。
﹁特殊魔力ってこんな事も出来るのね﹂
﹁俺達も欲しいな、特殊魔力。なんで持って生まれてこなかったか
なぁ﹂
ティーダとゼンドルが口々にうらやましがる。
そんな四人を余所に、キロは立ち上がってクローナの側で屈む。
﹁だから手加減しろって言ったんだ﹂
小枝を持っていた右手を抑えて涙目になっているクローナの頭を
1475
撫でてやりながら、キロは指摘する。
コンクリート壁に向かって金属バットをフルスイングすればどう
なるか、経験がなくても分かる。
キロに続いて屈んだミュトがしみじみと呟く。
﹁これが特殊魔力を使った最後の失敗だといいね﹂
﹁⋮⋮ミュトよ、その言葉は慰めになっておらぬ﹂
ふて寝をしていたはずのフカフカが呆れたように言った。
1476
第三話 特殊魔力の併用
食事を終えたキロ達は明日の朝に町へ向けて出発する事に決め、
アンムナとアシュリーはテントへ、ゼンドルとティーダは教会へ、
そしてキロ達はクローナの家へ、それぞれ分かれた。
ゼンドルとティーダの心労が溜まっているらしく、アンムナもア
シュリーに積もる話があるだろうとの配慮もあった。
クローナの特殊魔力はまだ検証が不十分だったが、キロ達だけで
も問題はない。
村の外れにあるクローナの家に戻り、キロ達は机を囲んだ。
六年間放置されていた机にはカビが生えていたが、気にしない。
﹁クローナの特殊魔力についていろいろ検証したいところだが、そ
の前に一つ実験したい﹂
キロはリーフトレージでできたナックルを外して机に置く。
﹁特殊魔力をリーフトレージに込めた場合、正常に発動できるかの
実験だ﹂
クローナがナックルを手に取った。
﹁他人の特殊魔力を込めて発動できるなら戦術の幅は広がりますね﹂
﹁クローナの特殊魔力は色々な応用が利きそうだよね﹂
ミュトもナックルを手に取り、リーフトレージに魔力を込めはじ
める。
くすんだ緑色だったリーフトレージが光を放ち始めた。
1477
﹁込めたよ﹂
﹁私も込めました﹂
二人が特殊魔力を込め終えたのを確認して、互いにナックルを交
換し、発動を試みる。
クローナがミュトの特殊魔力を発動させて、カビの生えた机を過
去の状態に戻す。同時に、ミュトが隣で脆い石の塊を作り出した。
﹁扱いは難しいですけど、使えない事もないですね﹂
実験は成功したらしい。
キロも二人の特殊魔力を試し、発動を確認した。
﹁俺の特殊魔力は死体がないから後で魔物を狩るとして、次はクロ
ーナの特殊魔力の効果と応用だな﹂
現状把握できている効果は尺度と基準点を用いて性質を反転する
魔法であるという事だけだ。
温度、硬度、粘度、角度については反転魔法が機能する事が分か
っているため、別の尺度が機能するかどうかを試す事に決める。
応用の幅があまりにも広いため、一々に紙に書き出す必要がある
ほどだった。
一つ一つについて戦術を組むのには時間がかかるため、温度を含
めたいくつかの尺度に関してのみ戦術を組み立て、明日以降に練習
する事に決めた。
﹁︱︱紙に書き出すだけでもひと苦労だったな﹂
疲れが出て目頭を揉もうとしたキロの手をミュトが掴む。
1478
何事かと思って首を傾げると、ミュトは苦笑して自分の手を見せ
た。特に変わったところはない。
﹁ボクの手じゃなくて、キロの手を見てみなよ﹂
指摘されて、キロは目頭を揉もうとしていた右手を見る。
クローナが慌てて自分の手を見て、眉を寄せた。
﹁私もですね。温泉に入ったばかりなのに﹂
﹁こういう時、使う文字がバラバラだと面倒だよな﹂
約一名、ペンを持つ事のない者が悠々と机の上で欠伸を噛み殺し
ているが、キロはメンバーから除外して呟く。
仲間外れが癇に障ったのか、むっとした様子でフカフカが尻尾を
大きく振るった。
フカフカの死角になっていたインク壺が尻尾で弾き飛ばされ、ミ
ュトの額にぶつかる。
インク汚れを免れていたはずのミュトは頭からインクを被る羽目
になり、フカフカを睨みつけた。
﹁⋮⋮フカフカ、何のつもり?﹂
﹁⋮⋮すまぬ﹂
普段は不遜な態度を取るフカフカも今回ばかりは自身の過失を認
めたらしく、耳を伏せて謝った。
ミュトはため息ひとつで水に流し、インクに染まった服の襟を引
っ張る。
﹁もう一回お風呂入るとしても、温泉はこれから男の人が使うだろ
うし⋮⋮﹂
1479
インクで濡れた服が気持ち悪いのか、ミュトはしきりに襟を引っ
張って肌に触れないようにする。
クローナが慌ててミュトの襟から見え隠れする胸を手で隠した。
クローナの仕草で自身の行動の無防備さに気付き、ミュトが顔を
赤らめた。
クローナが呆れたように苦笑する。
﹁自覚がないのは反則ですよ﹂
﹁どうせ見せるほどないけどね⋮⋮﹂
自分で言っておいて気落ちしたミュトが俯く。
キロはクローナに声を掛けた。
﹁この家に風呂はないのか?﹂
﹁村の外から重要なお客さんが来た場合に備えて、お風呂はありま
したけど﹂
六年間放置された設備だから使えるか分からないという。
ひとまず状態を見てみよう、とキロ達は風呂場に向かった。
案の定、蜘蛛の巣が張っていたり、風呂釜の蓋が腐り落ちている。
風呂釜自体はそこが抜けていた。
﹁気持ちよく入るのは無理そうですね﹂
苔の生えた石の床を見下ろして、クローナがため息を吐く。
予想通りの惨状だったため、キロはすぐに次の手を試す事にする。
﹁ミュト、特殊魔力で風呂場全体を六年以上前の状態に戻してくれ﹂
﹁時間が経ったら元に戻るよ?﹂
1480
﹁クローナの特殊魔力を重ね掛けして、六年前の状態を基準に時間
軸を反転させてみよう﹂
ややこしい事考えるね、とミュトは呟き、石の壁に手を触れた。
﹁範囲が広すぎて一回だけしか元に戻せないから、失敗しないでね﹂
特殊魔力を発動させて風呂場を過去の状態に戻し、クローナに場
を譲った。
クローナは風呂釜の蓋をちらりと見る。
木製の蓋はミュトの特殊魔力で往年の姿を取り戻していた。
﹁七年くらい前に戻ってますね﹂
﹁分かるのか?﹂
﹁私が子供の頃に欠けたはずの蓋の端が戻っていますから﹂
そう言って、クローナは特殊魔力を風呂場全体に込め、六年前を
基準に反転魔法を行使する。
すると、放置されて一年が経過した頃の風呂場が姿を現した。
定点写真でも見ているような錯覚に陥る。
﹁簡単に掃除すれば使えない事もないな。蓋は腐ってるけど﹂
﹁問題は持続時間ですね。最低でもミュトさんと私が入浴している
間は維持できないと困ります﹂
クローナが心配そうに呟いた。
だが、キロは持続時間についてはあまり気にしていない。
なぜなら、ミュトの特殊魔力の〝効果時間〟を反転させてしまえ
ば、永続的に効果を発揮させることさえできるのだから。
キロにとって重要なのは、ミュトの特殊魔力にクローナの特殊魔
1481
力を重ね掛けできる、という情報だった。
風呂の修繕はあくまでも口実である。
悟られる前にキロは掃除の開始を告げる。
﹁効果が持続している内に掃除しよう﹂
キロは苔の乗っている石の床を見下ろした。
生物である苔はミュトの特殊魔力による影響を受けなかったらし
い。
しかし、根を張っていた石の床は元通りになってしまっているた
め、魔法で生み出した水で簡単に流す事が出来た。
﹁ここからが大変そうだね﹂
インクで汚れた服を着替えてきたミュトが、インクの染みついた
服を破いて渡してくる。雑巾にしてしまうつもりだろう。
風呂釜にこびりついた埃と水垢をみて、キロ達は気合を入れ直し
た。
その後、掃除が終盤に差し掛かった頃になって効果時間が切れて
しまい、底が抜けた風呂釜が姿を現した。埃と水垢は取り除かれて
小奇麗になっている分、どこかシュールだ。
クローナとミュトは徒労に終わったと知るや気落ちして、壁に背
を付けへたり込む。
﹁せっかくミュトさんの特殊魔力の干渉不可もなくなってたのに、
効果時間はそのままなんて⋮⋮﹂
クローナが汚れた布を放り出して嘆息する。
1482
何かを話す気力も失せたのか、ミュトは俯いて布を弄っている。
このままではあまりにもかわいそうだ。
﹁他の皆と温泉を使う時間を取り決めてくる﹂
﹁我も行こう。こうなったのも、もとはといえば我に責任がある﹂
ミュトにインクを被らせた責任を感じたか、フカフカがキロの肩
に飛び乗った。
力なく手を振るクローナとミュトに見送られ、キロはクローナの
実家を後にする。
玄関の扉を閉めると、フカフカがキロを見もせずに冷たい声で語
りかけてきた。
﹁知りたいことが分かって満足か?﹂
﹁あぁ、これで必要な情報も手段も全部手に入れた﹂
キロはフカフカの冷たい口調に触れず、ただありのままを答える。
﹁パラレルワールドシフト計画の最終段階、いつでも開始できる﹂
1483
第四話 今後の予定
﹁それで、アンムナさんとアシュリーさんはこれからどうするんで
すか?﹂
翌朝、カルロと合流するべく村から町への道を歩き出してすぐに、
キロは質問した。
アンムナはアシュリーの顔をちらりと見た後、考えるように空を
仰いだ。
抜けるような青い空を見ても、答えが書いているはずはない。雲
一つないのだから。
﹁キロ君達は蘇生の特殊魔力が知られると困るんだね?﹂
﹁面倒事に巻き込まれるのは目に見えてますし、これから一生、他
人の生き死にと毎日のように向き合ったりするのは耐えられないで
すね﹂
冷たいようだが、死者を生き返らせて周囲の人間を喜ばせる代わ
りに権力争いなどに巻き込まれてクローナやミュト、フカフカを危
険に晒すなどキロは考えたくもなかった。
アンムナはキロの考えに理解を示しつつ、どうしたものかとアシ
ュリーを見る。
﹁都市同盟を出てしまおうか﹂
﹁海が見たいわ﹂
﹁決まりだね。ただ︱︱﹂
アンムナは言いよどんでまた空を仰ぎ、キロを横目に見た。
1484
﹁もう一人の弟子の不始末はどうしたものかな﹂
﹁シールズですね﹂
アシュリーはシールズについて知っているのだろうかと考えたキ
ロを見透かしたように、クローナが口を挟む。
﹁一緒に温泉に入った時に教えました﹂
話が早くて助かる、とキロはアシュリーに意見を窺うべく目を向
ける。
アシュリーは少し考える素振りを見せたが、仕方ない、とばかり
に頭を振る。
﹁弟子がやった事件の後始末はすべきだと思うけれど、私が表に出
るとキロ、あなたの特殊魔力が発覚する恐れがある。かといって、
アンムナを一人で向かわせるのは心配﹂
﹁アシュリー、僕を心配してくれるんだね﹂
﹁私が死んでいた間のあなたの生活について、クローナちゃんから
聞いた。放っておくと何をするか分からない﹂
﹁︱︱クローナ君、少し話があるんだけども﹂
アンムナに詰め寄られたクローナはわざとらしく両手で口を覆っ
て、私は何も言ってません、とアピールする。
さりげなくキロの背中に隠れたクローナに苦笑しつつ、キロは口
を開く。
﹁俺はシールズをどうにかしたいと思ってます。アンムナさん、ア
シュリーさんの事を人形だと偽っていた相手を可能な限り思い出し
てください。騙し通せていましたか?﹂
1485
キロの質問に、アンムナは深く頷いた。
﹁アシュリーの正体を知っているのはシールズとキロ君達だけだよ。
後は彼女も目撃はしているね。ほら、君達も泊まった宿の﹂
﹁あの悪臭の特殊魔力の人ですね﹂
そういえば名前を聞いていなかったな、とキロは思い出しつつ、
イメージを共有する。
アンムナが道の先を指差した。
﹁ゼンドル君達に出会ったこの先の町でも、アシュリーの事は人形
だと思われているはずだよ﹂
キロは確認するつもりでゼンドルを見る。
ゼンドルはティーダと一緒に口を揃えて言った。
﹁間違いない﹂
ゼンドルとティーダ自身、人形だと思っていたらしい。
ゼンドルが口を開く。
﹁そもそも、死体を運んでるなんて思わないだろ。それがこんな美
人ならなおさら、人形と言われた方が納得できるくらいだって﹂
同意するようにティーダが頷く。
クローナがキロの背中からぴょこんと顔を出した。
﹁アシュリーさん、すごい美人ですもんね﹂
﹁ありがとう﹂
1486
言われ慣れているのか、そっけなく返しつつも笑顔を浮かべてみ
せるアシュリーからは余裕を感じる。
ミュトがキロを窺いつつ、話を元に戻す。
﹁それで、アシュリーさんが人形だと思われているかどうかが、シ
ールズの件とどんな関係があるの?﹂
﹁これから行く町では通じない言い訳だけど、嘘で誤魔化してみよ
うと思う。アンムナさんは恋人そっくりの人形を作り、彼女の家で
本人と入れ替えて事態の発覚を遅らせつつ、駆け落ちしてきた、と
か﹂
キロが適当に思いついた話を語ると、アンムナとアシュリーが目
をしばたたかせる。
言い訳にしても苦しかったろうか、とキロは前言を翻そうと口を
開きかけるが、フカフカがミュトの肩の上からため息交じりに感想
を告げた。
﹁話としては面白いが、騙せるとは思えんな﹂
先に否定されて、キロは口を開けなくなる。
クローナがキロの肩を叩いた。
﹁私はそういう話も好きですよ﹂
﹁引っ込みつかなくなるから、やめてくれ﹂
﹁引っ込みがつかなくなったら、そのまま突き進めばいいんです。
どんなにみじめになっても私だけは何時でも暖かくキロさんを迎え
入れますから﹂
﹁外堀から埋めていく気かよ。頼る先を潰して依存させるって怖す
ぎるぞ﹂
1487
クローナはとびっきりの笑みを浮かべた。
﹁外堀じゃなくて、キロさんの疲れた心の隙間を埋めるんですよ﹂
﹁なんか綺麗な表現になってるけど、騙されないからな﹂
ため息が聞こえてきて顔を向けると、ミュトが呆れたような目を
向けていた。
﹁オチはついた?﹂
﹁疲れた心の落ち着き先はミュトかもしれないな﹂
﹁ボクまで巻き込んでその夫婦漫才続ける気なのっ?﹂
アンムナ達が笑ったのを機に、キロは話を戻す。
﹁方針としては、次の町でカルロさんと合流して馬車でラッペンに
向かい、窃盗組織の捜査に加わりましょう。アシュリーさんに関す
る嘘は道中考えればいい。シールズは弟子だとか兄弟子だとかいう
以前に、危険すぎます﹂
この世界のどこで暮らすとしても、シールズを野放しにはしてお
けない。
アンムナも同じ考えらしく、考えをまとめるような間を挟んで頷
いた。
﹁カッカラの墓守の仕事や魔物の討伐依頼を受ける人手もラッペン
で募集しようかな。もう戻る気はないし、丁度よく、家もシールズ
に燃やされてしまったからね﹂
家を燃やされたという重い事実をさらりと前向きにとらえて見せ、
1488
アンムナは一人納得する。
ゼンドルとティーダはどうするのかと思い見てみれば、何事かを
思案しているようだった。
以前、キロが女装してクローナと潜入したオークションの摘発事
件で、ゼンドルとティーダはカルロと共に出品者として紛れ込み、
シールズと対峙したはずだ。
ゼンドルは真剣なまなざしでアンムナとアシュリーを見る。
﹁キロを疑うわけじゃないんだが、アンムナさん達がいればシール
ズを捕まえられるのか?﹂
﹁アンムナさんが来ると知ったシールズが即座に撤退を選択しない
限りはな﹂
ゼンドルとティーダは相談し合い、キロに向き直る。
﹁俺とティーダも参加する。傭兵団に入る前にでかい山の一つくら
い手土産にしたい。それに、あの窃盗組織には借りがある﹂
﹁決まりだな﹂
全員参加が決まり、キロ達は町へ急いだ。
1489
第五話 呼び捨て
町で合流したカルロが操る馬車に乗り、キロ達は一路ラッペンへ
向かう。
人数が多すぎるため馬車の定員を超え、アンムナとゼンドルが馬
車の隣を歩いていた。
﹁︱︱話は分かりましたが、窃盗組織の討伐にゼンドルさん達は参
加すべきではないでしょうな﹂
カルロが顎を撫でながら言うと、ゼンドルが目を逸らした。
キロが理由を尋ねると、武器屋を始める前は冒険者だったという
カルロはゼンドルをちらりと見た。
﹁腕はそこそこ、ティーダさんとの連携で一人前というところです
かな。だけども、如何せん実戦経験が足りない。引き際を誤って死
にかねません﹂
﹁オークションの時はカルロさんが撤退指示を出したから逃げ切れ
たんでしたっけ?﹂
クローナがティーダに確認を取ると、渋々ながら頷きが返ってき
た。
ゼンドルも反論しないからには、経験不足というカルロの指摘は
的を射ているのだろう。
﹁特に、窃盗組織相手の戦いは集団戦となりますから、戦場を俯瞰
的にとらえる能力がなければ、突出し過ぎたり、逃げ遅れるという
事態にもなりかねません。騎士団と違って統率のとりにくい冒険者
1490
の集団ならばなおさらです﹂
真っ向からゼンドルとティーダの参加を否定しているが、カルロ
はただ二人の身を案じているだけだ。
ゼンドルとティーダも心配されていると分かっているためか、反
論も出来ないでいる。
肩を落とすゼンドルとティーダを見て、言い過ぎたと思ったのか、
カルロは頭を掻いた。
﹁自分も参加しましょう。戦場では、ゼンドルさんとティーダさん
は指示に従ってください。どうです?﹂
﹁︱︱え、いいの?﹂
ゼンドルがカルロに問いかけると、ティーダが慌てて頭を下げた。
﹁うちのバカが礼儀も知らないですみません!﹂
馬車から身を乗り出してゼンドルの頭を押さえつけながら、ティ
ーダが謝ると、カルロは苦笑交じりに謝罪を受け入れた。
﹁面も割れていますから、行動は慎重にするように﹂
﹁はい!﹂
まるで師弟関係だな、と端から見ているキロは思った。
自分の師匠に当たるアンムナはどうしているのかと視線を向けて
みれば、馬車の端に座っているアシュリーと言葉を交わしている。
アシュリーが死んでからの空白の時間を埋めようと昔話をしてい
るのかと思い聞き耳を立ててみれば、海のそばに建てる家はどんな
ものがいいかを話し合っていた。
空白はとうの昔に埋め終わり、未来に向けて語らっているらしい。
1491
子供は何人欲しいかと訊ねてため息を吐かれているアンムナから
視線を外し、キロは自分の膝に視線を落とす。
膝の上には頭があった。
雪のような真っ白な髪から覗く顔は白を通り越して青くなってい
る。灰色の瞳はきつく閉ざされた瞼に隠れて見えなかった。
﹁ミュト、具合はどうだ?﹂
馬車の揺れで酔ってしまったミュトに声を掛けると、小さく唸る
ような声が返ってくる。
クローナが現象魔力で生み出した水の温度を特殊魔力で反転し、
氷を作り出した。
タオルで包んだ氷をミュトの額に乗せ、空気に動作魔力を通して
そよ風を送る。
﹁村に向かう時は馬車酔いにはならなかったんですよね?﹂
虚無の世界で死亡してから現代社会の公園で目を覚ますまでの記
憶が欠落しているクローナがフカフカに問う。
フカフカは心配そうにミュトの顔を覗き込んでいた。
﹁クローナの記憶が戻った安心やらキロへの告白やらで気疲れして
いたのであろう。普段乗らぬ馬車の揺れで拍車がかかったのだな﹂
カルロもミュトを気遣って馬車をゆっくり進めてくれているが、
道が悪いためどうしても揺れてしまう。
車輪が小石でも踏んだのか、またガタリと馬車が揺れる。
﹁キロさんが背負って歩いたほうがいいかも知れませんね﹂
﹁背中でも揺れる事に変わりはないだろう﹂
1492
﹁キロさんの背中というだけで安心感がありますから、効果はあり
ますよ。病は気から、です﹂
同じような諺が異世界にもあるのかと感じ入りつつ、キロはミュ
トの頬を右手で撫でる。
﹁俺に背負われるのと、このまま馬車に揺られるのと、好きな方を
選べ﹂
ミュトは気分の悪そうなうつろな目でクローナを見る。
﹁私の事は気にしないで良いですよ。今のミュトさんは病人ですか
ら﹂
﹁⋮⋮キロの背中がいい﹂
キロはカルロに声を掛け、馬車を止めてもらう。
一時休憩を取りたいところではあったが、ミュトを気遣ってゆっ
くりと馬車を進ませていたため、夜までにラッペンに辿り着けるか
も怪しくなっていた。
キロはミュトを背負い、馬車の横に並ぶ。
器用に動作魔力を使用して体が上下左右にぶれないように気を付
けると、ミュトが静かに眠り始めた。
揺れが極端に軽減されたため、負担が減ったのだろう。
ミュトが目を覚まさないよう、キロは動作魔力を使って歩き続け
る。
ゼンドルが寄ってきて、ミュトを起こさないよう小さな声で話し
かける。
﹁⋮⋮太ももの感触、楽しんでるか?﹂
1493
パーンヤンクシュとの遭遇戦で怪我をしたティーダの病室でキロ
が言った冗談を覚えていたらしく、ゼンドルはニヤニヤ笑いながら
訊ねてくる。
キロは深々と頷いた。
﹁スベスベのムニムニだ﹂
ゼンドルはキロの表現が分からずに首を傾げるが、馬車からキロ
達の会話を聞いていたクローナがハッとした顔で身を乗り出した。
﹁伝説のムニムニ触感がそんなところに!﹂
﹁え? お前らだけに通じる隠語か何かなのか?﹂
会話についていけないゼンドルがキロとクローナを見比べ、ティ
ーダに救いを求めるような視線を向ける。
クローナが伸ばす手に、キロはミュトの太ももを近づけた。
ミュトを起こさないようにそっと太ももに触れたクローナは、難
しい顔で弾力と手触りを確かめ、ムムム、と小さく唸った。
﹁指先が沈み込む柔らかさに包み込むような弾力、加えてこのすべ
すべお肌⋮⋮膝枕よりも抱き枕にしたいですね﹂
﹁クローナもそう思うか﹂
頷きあうキロとクローナに興味を引かれたのか、アシュリーがミ
ュトに向けて手を伸ばす。
しかし、キロはするりとアシュリーからミュトを遠ざけた。クロ
ーナも妨害するように手を伸ばす。
﹁ムニムニは私達の物です﹂
﹁⋮⋮まぁいいわ。ついていけない気がするから﹂
1494
諦めたというより見限ったような言い方で、アシュリーは手を引
っ込めた。
フカフカがクローナの肩の上で面白い玩具を見つけたように尻尾
を小刻みに揺らす。
﹁我が名を、このガロン・ゴラン・ギレン・ゲリン・グールーン三
世の名を頑なに呼ぼうとしなかったミュトに、ついに仕返しの時が
来たのだな。ついに、ついに⋮⋮﹂
目覚めた時が楽しみだ、とフカフカは静かに笑う。
フカフカの台詞を聞いて、クローナは何かを思い出したような顔
でキロを見る。
﹁そういえば、ミュトさんはキロさんをさん付けで呼びませんよね﹂
﹁初めて会った時から呼び捨てだな﹂
﹁私、不利じゃありませんか?﹂
クローナは、じっとキロの眼を見て問う。
何が、とは聞かなくても分かった。
﹁関係の進展に合わせて呼び方を変えるのも良いと思うけど、今さ
らな気もするな﹂
﹁機会は今までにもありましたけど、いざ呼び捨てにしようとする
と気恥ずかしいんですもん。面と向かって呼び方変えますって言わ
ないとついさん付けしてしまうんですよ﹂
﹁気持ちは分からないでもないけど⋮⋮﹂
混浴しようとしたりして、今さら呼び捨てを恥ずかしがるのか、
とキロは突っ込みたい気持ちを堪える。
1495
フカフカがクローナを見て、尻尾でキロを示す。
﹁試しに呼び捨てにしてみてはどうだ?﹂
フカフカに促され、クローナはキロを見る。
キロが見つめ返していると、クローナは視線を逸らし、両手の指
先を弄りだした。
﹁⋮⋮ま、またの機会にしましょう﹂
﹁逃げるなよ﹂
キロに呆れ顔で突っ込みを入れられても、クローナは赤い顔を俯
けるだけだった。
1496
第六話 窃盗組織の状況
ラッペンに着いたのはすっかり日も落ちた頃だった。
窃盗組織の報復を警戒して門は閉じられていたが、キロの顔を覚
えていた冒険者が守衛の騎士団に掛け合い、例外処置として門を開
けてもらった。
騎士団長は責を問われて更迭され、副団長は窃盗組織との戦いで
死亡しているため、騎士団の臨時統率権をギルド長が持っている事
も関係しているのだろう。
キロは騎士と冒険者に礼を言って、ラッペンの門をくぐり抜ける。
まずは状況の把握を行うためギルドへ足を向けるが、アンムナと
アシュリーが立ち止った。
﹁僕らは宿の方に向かうよ。彼女を仲間に引き込んだ方がいい﹂
女主人の事を言っているのだろう。
拠点防御はもちろん、敵アジトを包囲する場合においても有用な
特殊魔力であるため、仲間にいてもらえれば心強い人物ではある。
﹁口止めもしないといけないから﹂
アシュリーがもう一つの理由を語る。
女主人は生前のアシュリーを知る人物であり、キロの特殊魔力に
気付きかねない。
それならばいっそ事実を教え、口止めをした方が良いという考え
だろう。
許可を求めるようなアシュリーの視線に、キロは頷きを返す。
1497
﹁説得をお任せします。俺達はギルドで待っているので﹂
落ち合う場所を決めると、アンムナとアシュリーはキロ達に背を
向けて別行動を開始した。
キロはギルドに向かう。
すれ違うのは観光客や行商人ばかりだったが、あまり明るい顔を
浮かべてはいない。
囁くような噂話をフカフカが拾ったところでは、窃盗組織との戦
いの影響で騎士団の不甲斐なさが露呈したため、防衛面での懸念が
持ち上がったようだ。
観光客や行商人は早くラッペンを出て行こうとしているらしい。
キロは背中で身動ぎする気配を感じて、肩越しに振り返る。
﹁眠り姫、ようやくお目覚めか?﹂
﹁⋮⋮もしかして、半日くらい寝てた?﹂
ミュトが目を擦りながら暗くなった空を仰ぎ、街中でキロに背負
われている事に気付いて慌てて降りる。
地面に足を付けたミュトは気恥ずかしそうに俯いて、服の皺を伸
ばした。
クローナの肩からミュトの肩へと、フカフカが飛び移る。
﹁よほどキロの背中が心地よかったとみえる。ムニムニよ、気分は
どうだ?﹂
声に笑いの気配をにじませながら、フカフカがミュトをからかう。
ミュトはほんのりと頬を赤く染めつつ、頷いた。
﹁全然揺れなくて温かいから、すぐ眠くなって⋮⋮。気分はもう大
丈夫。というか、ムニムニって何の話?﹂
1498
ミュトはフカフカを見て、小刻みに揺れる尻尾から碌でもない話
だと察したのか、難しい顔でキロを見る。
キロは親指を立て、笑顔を浮かべた。
﹁役得って話だ﹂
﹁私はおこぼれに与りました﹂
キロと同じく笑顔で、クローナが便乗する。
難しい顔から不安そうな顔になったミュトが眠っていた間の事を
しきりに訊ねてくるのを飄々と受け流していると、ギルドに到着し
た。
ギルドの中は閑散としていた。
見るからに腕の立つ冒険者が二人、左右の壁に背中を預けている
が、他に冒険者の姿は見当たらない。
夜とはいえ、やけに警備が手薄だと思ったが、受付の職員による
とギルドの業務のほとんどを一時的に騎士団詰所に移しているらし
い。
﹁どちらも被害が大きかったので、人員の補充があるまでは統合し
た方が警備がやりやすいんです﹂
職員の説明に納得したキロ達は、名前と窃盗組織討伐への参加を
告げる。
キロ達の名前に少し驚いたような顔をした職員は、少々お待ちく
ださいと言い残して奥に引っ込んだ。
その隙に、キロはフカフカに声を掛ける。
﹁シールズの特殊魔力で盗聴されてないか?﹂
﹁安心するがよい﹂
1499
フカフカの答えにほっとして、キロは職員を待つ。
しばらくして、職員はギルド長を連れてやってきた。
カルロが目を見開く。
﹁言ってもらえれば、こちらから騎士団詰所に足を運びましたよ﹂
今やギルドと騎士団二つの防衛機構を統率するラッペンの重要人
物であるギルド長が直々に足を運んでくる事態に、カルロのみなら
ず壁際にいた警備の冒険者まで驚きをあらわにする。
しかし、キロはクローナやミュトと一瞬視線を交差させた。
クローナが一歩前に出てギルド長に声を掛ける。
﹁騎士団詰所では話せないんですか?﹂
ギルド長は肩を竦め、察しがいい、と呟いた。
ちょうどその時、ギルドの入り口が開かれ、アンムナ、アシュリ
ー、女主人の三人が入ってくる。
﹁間に合ったようだね﹂
アンムナは笑みを浮かべてツカツカとキロ達へ向かう。
キロ達のそばにはギルド長がいるため、警備の冒険者二人が進路
を妨害しようとするが、ギルド長が直々に制止した。
女主人が挨拶するように片手を挙げ、キロに目くばせする。
﹁なんて挨拶しようかね。六年ぶり、でいいか?﹂
女主人が冗談めかして挨拶する。
キロとクローナ、ミュトは笑みを浮かべて頷いた。
1500
﹁ある意味、六年振りですね。再会を祝して、六年ぶりに一緒に仕
事をしませんか?﹂
﹁あん時のお前らはさっさと消えちまったじゃないか。アンムナと
アシュリーまで消えやがって、ギルドに根掘り葉掘り聞かれて面倒
だったんだぞ﹂
キロの首に腕を回して、女主人はキロの頭に拳をぐりぐりと押し
付ける。
ギルド長に目を向けた女主人が、アンムナとアシュリーを顎で示
す。
﹁この面子で窃盗組織の討伐戦に参加する。好きに使え﹂
ギルド長はアンムナを見て、目を細めた。
﹁確か、シールズの師匠の⋮⋮。そちらの女性は?﹂
﹁僕の相棒だよ。ついこの間、駆け落ちしてきたんだ﹂
さらりと嘘を吐き、アンムナはキロに向けて片目だけ閉じて見せ
た。
キロの考えた設定を使う事にしたらしい。
見え透いた嘘ではあっても、アンムナや女主人は単独でもかなり
の戦力になると知っているギルド長は深く事情を聴く事はせず、キ
ロ達を見回した。
﹁窃盗組織の根城を捜索する冒険者はすでに出発しているのだが、
現場は少々困った事になっている﹂
ギルド長はここから先の話は内密に、と前置きして話し出した。
1501
﹁まず経過と状況を説明しよう。ここラッペンに存在した窃盗組織
のアジトに使われた倉庫を調査したところ、最奥の部屋からは何も
出てこなかった。つまりは持ち出されたと推測できる。倉庫を借り
たのもつい最近の事だと分かった。あれは仮の拠点だったと見るべ
きだ﹂
そんな事だろうと思った、というのがキロ達の感想だが、ここか
らもう一つ別の事実が浮かび上がってくるという。
カルロがギルド長の言葉を先回りして、結論を口にする。
﹁他の街にも仮の拠点が存在するんでしょうな。その中に根城とな
る本拠地もあるかもしれない、と﹂
﹁その通り。すでにいくつかの街に連絡を取り、貸倉庫などを大々
的に当たっている。しかし、窃盗組織による妨害は実に散発的だっ
た。捕えた下っ端の口を割らせてみれば、東の方の山岳部に根城が
存在しているらしい﹂
ギルド長が職員を振り返り、何事か合図をする。
職員が手元の地図を広げ、掲げて見せた。
山の高さも分からない雑な地図だが、山と道の配置だけは辛うじ
て判別がついた。
﹁ギルドの過去の資料によれば、十年近く前に騎士団が立てた山城
のようだ。魔物を定期的に討伐するための拠点として使われていた
ものの、街の発展に伴って冒険者の数が増え、魔物討伐を完全にギ
ルドに任せ、山城は使われなくなったらしい﹂
﹁厄介な物を放置しておくなよ﹂
ゼンドルが苦い顔で呟くと、ティーダがため息を吐いて頷いた。
1502
キロはクローナと共に地図を覗き込み、街との距離を目測する。
徒歩で半日ほどは離れているように見えた。
魔物を討伐するための拠点というだけあって、山の奥深くに作ら
れているのも気にかかる。
﹁この周辺の魔物は強力な個体ばかりだ。特に山城周辺は魔物が多
い。どうしてこんな場所を拠点にしたのかは、シールズが絡んでい
ると推測されている﹂
﹁空間転移で魔物を無視して出入りできるからか。本当に便利だな﹂
シールズの特殊魔力を以ってすれば、強力な魔物の群れは山城を
守る防衛兵に過ぎなくなる。
窃盗組織の側としては、魔物が群れている方が安全なのだ。
ギルド長は苦い顔で話を続ける。
﹁魔物が強力すぎるため、参加した冒険者の中から辞退する者が出
始めている。窃盗組織も根城がばれたと知れば、いよいよ都市同盟
の外へ逃亡を図るだろう。時間の猶予はないが、手を出せなかった
のだよ﹂
窃盗組織の居場所まで掴んでいるのに動き出せない不甲斐なさを
ため息にして吐き出したギルド長は、実はもう一つある、と口にす
るのも嫌そうに切り出した。
﹁最寄りの街に冒険者を集結させれば窃盗組織に気取られかねん。
そこで、近隣の森に冒険者を野営させているのだが、シールズの特
殊魔力が根城周辺に張ってある可能性が否定できず、対応策がない。
つまり、奇襲が出来ない﹂
うわぁ、とキロは思わず額を抑えた。
1503
単なる山城がシールズの特殊魔力ひとつで難攻不落の堅牢な城に
思えてくる。
だが、ふと気付く。
これは絶好の機会だ、と。
﹁⋮⋮俺に一つ、作戦がありますよ﹂
キロは集まった面々を見回しながら、作戦を説明した。
1504
第七話 潜入調査
窃盗組織の根城があるという東に向けて出発したのは、魔力の回
復を待った翌日昼ごろだった。
野営中の冒険者へ食料品を届ける役を担っていた女装冒険者の七
人と阿吽の冒険者が操る馬車に地下世界産の馬が引くキロ達の馬車、
全部で三つの馬車達は東に向かっていた。
がたがたと非常に揺れが激しいのは普段使われていない道だから
なのだろう。
野営して窃盗組織の眼から逃れている冒険者達へ食料品を届ける
姿を見られては本末転倒であるため、輜重を務める馬車は裏道を使
っている。
時には獣道染みた悪路を枝や雑草を払って進んでおり、進みは非
常に遅かった。
﹁それにしても、お前らはなんでまた女装してるんだよ﹂
すでに見慣れてしまった感のある七人の女装冒険者に、キロは呆
れつつも問いかける。
日々技術を磨いているらしい七人は、どこに出しても恥ずかしく
ない一端の女商人に化けている。
﹁この格好で食料を届けるとみんな喜ぶもんで、つい⋮⋮。師匠も
一緒にやりません?﹂
﹁やらねぇよ。というか、野営してる冒険者達は大丈夫なのか、二
重の意味で﹂
﹁身の危険を感じる事はありますよ。二重の意味で﹂
1505
知りたくなかった情報にげんなりしつつ、作戦をもう一度頭の中
で見直す。
第一段階として、キロ、クローナ、ミュトの三人とフカフカで山
城付近にシールズの特殊魔力が張ってあるかを調べる。
第二段階はシールズの特殊魔力が張ってあった場合の行動だ。先
のメンバーに女主人を加えて、シールズの特殊魔力が張っていない
地点を縫って魔物除けの特殊魔力を設置する。
女主人の特殊魔力により、一時的に魔物に進路を妨害されない突
撃ルートを作成するのだ。
第三段階はいくつかの突撃ルートを作成した後、魔力の回復を待
って各ルートから他の冒険者達と共に波状攻撃を仕掛ける。
冒険者達が山城に潜入を終えた時点で女主人の特殊魔力で山城周
辺を囲み、窃盗組織の逃走経路を潰すと共に、アンムナ、アシュリ
ーの両名で冒険者達の撤退ルートを確保する。
キロ達三人とカルロ率いるゼンドル、ティーダ組、阿吽の冒険者
はシールズの確保を最優先に動く事が決定している。
キロ達以外にはシールズの特殊魔力への対抗が難しいからだ。
﹁リーフトレージに特殊魔力の充填しておきましたよ。私は右手の
方に、ミュトさんの分は左手の方に込めておきました﹂
クローナがキロのナックルを一組差し出してくる。
﹁ありがとう、クローナ。ミュトも﹂
﹁気を付けて使ってね。燃費が悪いから﹂
ミュトが自身の特殊魔力の欠点を教えてくれた。手元にはクロー
ナの杖がある。特殊魔力を込めているのだ。
ミュトが特殊魔力を込め終えるのを待ちながら、クローナは手元
が寂しいのか落ち着かなさそうに両手を組んだり解いたりする。
1506
キロが片手を差し出すと、クローナは笑顔を浮かべて手を繋いだ。
﹁キロさんは気が利きますね﹂
﹁さん付け?﹂
キロが指摘すると、クローナは視線を逸らす。
﹁き、キロ⋮⋮さん﹂
﹁自分に負けるなよ﹂
収まりが悪かったのか、不自然な間を置いて〝さん〟付けするク
ローナにミュトが不思議そうな顔をする。
﹁キロのこと、キロって呼び捨てにすることにしたの?﹂
﹁気持ちの上では⋮⋮﹂
﹁行動に移さなきゃ意味ないよ﹂
ミュトが素早くツッコミを入れると、クローナはキロと繋いだ手
を激しく上下に振って悔しさをアピールする。
ミュトは杖に視線を落としたかと思うと、キロを上目使いに見た。
﹁ね、ねぇ、キロ﹂
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮呼んでみただけ﹂
フカフカが尻尾を大きく振って、はにかむように笑うミュトの肩
を叩いた。よくやった、と言いたげだ。
クローナは唖然とした顔で口を数度開閉すると、焦ったようにキ
ロに向き直った。
1507
﹁キロさん⋮⋮じゃなくて、今なしです!﹂
習慣が憎い、と悶えるクローナ。
女装冒険者達がメモ帳らしき紙片を取り出し、クローナとミュト
の仕草を詳細にメモしていた。
野営地に到着したキロ達は、他の野営している冒険者に作戦を伝
えてから合流するという女装冒険者の七人と別れた。
作戦の決行は二日後の明朝と定めているため、時間に余裕はない。
キロはすぐにクローナとミュト、フカフカを連れて山城の周辺を
探索するべく動き出す。
強力な魔物の生息地であるため、冒険者達が心配してくれるが、
大人数で動いてシールズに発見されては元も子もない。
何よりも、キロには奥の手がある。
﹁ミュトは周辺の地形を地図にしてくれ。クローナはフカフカを連
れてシールズの特殊魔力と魔物の警戒、俺は魔物との遭遇時に戦う﹂
山城へと進んでいくと、案の定、シールズの特殊魔力があちこち
に存在しているようだった。
フカフカが耳を澄ませ、目を凝らす。
﹁特殊魔力の量から判断するに、緊急脱出用ではなく、あくまでも
監視網であるな。定期的に空間を繋げ、盗聴盗視を行うのであろう。
今は機能しておらん﹂
﹁薄暗くなってきたからな﹂
沈み始めた太陽を見上げ、キロは呟く。
強力な魔物が多い分、夜は遭遇戦を警戒して誰も近付く事が出来
1508
ないため、監視の目が緩いのだろう。
﹁地図ができたよ。先に進もう﹂
地図師の本領発揮とばかりに素早く地図を仕上げてくれるミュト
に感謝しながら、山城が目視できる距離まで近づく。
高さ五メートルほどの丸太を立てて作られた壁に、一メートルほ
どの空堀が周囲を覆っている。見張りのために設けられたやぐらの
上に人影を見つけて、キロ達は身を隠して様子を窺った。
﹁シールズの特殊魔力といい、この山城に窃盗組織が潜んでいると
みて間違いはなさそうですね﹂
クローナの分析に賛成しつつ、キロ達はひそかに山城を一周、突
撃経路を模索する。
すっかり日は落ちて、月明かりも届かない森の中に戻り、キロ達
は周辺の探索を続行した。
足元を照らすフカフカの明かりを頼りに、キロ達は森を進む。山
城から光を見つけられる事のないように、地図を作る際には細心の
注意を払って周囲を一瞬だけ照らした。
夜目の利くミュトでなければ難しい地図作製をあらかた終えた頃、
フカフカが耳をそばだて、舌打ちした。
﹁キロよ、右から魔物がやってくる。一瞬だけ照らす故、姿や距離
を把握せよ﹂
キロが右を見ると、フカフカの尻尾から指向性を持った光が放た
れる。
光の中に浮かび上がったのは亀のような甲羅を持つ、見るからに
防御力重視の魔物だった。
1509
調査開始の前に、野営中だった冒険者から遭遇したら潜入がばれ
る事も覚悟しろと言われた魔物だ。
刃物や石弾の効果が薄く、どうしても派手に光が出てしまう火球
などでなければ倒せないとされている。
アンムナやキロであれば瞬間破壊の奥義で対処可能な相手でもあ
るのだが、死骸の形が特徴的なため、シールズが一目見ればキロ達
が迫っている事実を知られてしまう。
﹁仕方ないか﹂
キロは地面を蹴るなりナックルをはめた右手に蘇生の特殊魔力を
集める。
亀の魔物の側面に回り込んで右手を添えたキロは、集めていた蘇
生の特殊魔力を流し込み、右手のナックルからクローナの特殊魔力
を引き出した。
魔物に込められていた蘇生の魔力が、クローナの特殊魔力によっ
て反転する。
﹁⋮⋮これなら外傷もないし、寿命で死んだように見えるだろう﹂
蘇生の特殊魔力を反転させて発動した結果、即死した亀の魔物か
ら離れて、キロはほっと息を吐く。
﹁特殊魔力を適量流し込めば確殺できる即死魔法か。暗殺者にでも
なるか、キロよ﹂
﹁ならないさ。そもそも、相手が俺の事を覚えていないと発動でき
ないし、結構魔力を込める必要があった。この即死魔法は二、三回
しか使えないな﹂
奥の手としては優秀だけど、とキロは付け足す。
1510
﹁外傷なしで確殺する魔法って、シールズが聞いたらきっと小躍り
しますよ﹂
クローナが、即死した亀の魔物をしげしげと眺めやり、想像した
くない光景を言葉にした。
1511
第八話 仮眠の前に
女主人を連れて突撃ルートの作成を済ませた頃にはすでに日が昇
っていた。
シールズの特殊魔力を避けていた事もあって、まだ窃盗組織に気
取られてはいないだろう。
徹夜明けで眠い目を擦るミュトが山城周辺の森といくつかの突撃
ルートを詳細に記した地図を作製している。
キロとクローナはミュトが眠ってしまわないよう気を払いつつ、
突撃の段取りを他の突撃班の指揮官と相談していた。
﹁では、あんた方が先に突撃して強襲陽動部隊になるってのかい?
いや、あの森の中を調べ上げたのがあんた方だってのは分かって
るんだが⋮⋮﹂
心配そうな顔で指揮官役の冒険者がキロを上から下まで眺めまわ
す。
赤茶けた髭を蓄えた別の指揮官役の冒険者が、心配するな、と声
を上げた。
﹁キロさん達はこれでもかなり腕が立つ。倉庫前での戦いで俺達を
逃がしてくれたのもキロさん達だ。それに、あの飲んだくれ女もい
るんだろ?﹂
﹁︱︱誰が飲んだくれ女だ﹂
後ろから赤茶髭の冒険者の頭を叩いた女主人がキロに視線を移す。
﹁強襲陽動部隊が揃ったから、あとで顔だしな﹂
1512
﹁分かりました。山城の外観だけみんなに伝えておいてください﹂
キロの頼みに、あいよ、と短く返して女主人は戻っていく。
強襲陽動部隊の内訳はキロ達三人と一匹に加え、アンムナ、アシ
ュリー、女主人、阿吽の冒険者、カルロ率いるゼンドルとティーダ
となっている。
アンムナ、アシュリー、女主人は冒険者の突撃支援と退路確保の
ため、山城に到着後すぐに別行動をとる事が決まっていた。
キロを心配そうな顔で見ていた指揮官役の冒険者が唖然とした顔
で女主人の後ろ姿を見送っている。
﹁直前まで気配がなかったぞ⋮⋮﹂
赤茶髭の冒険者が殴られた頭を擦りつつ口を開く。
﹁現役時代は一人で修羅場を潜ってたって言うからな。今のラッペ
ンのギルド長があの女を怒らせたせいで数日間ギルドを封鎖された
事もあったらしい﹂
ギルドを封鎖、という初めて聞いた話にキロとクローナは顔を見
合わせる。あの人ならやりかねない、とお互いの顔に書いてあった。
悪臭の特殊魔力で覆われたが最後、入るどころか近付く事さえ困
難になるだろう。
﹁ちなみに、ギルド長はどうやってあの人を怒らせたんですか?﹂
クローナが興味津々で尋ねると、赤茶髭の冒険者は頭を掻く。
﹁確か、あの女が依頼の報酬で受け取る予定だった上等な酒の瓶を
落として割ったとか﹂
1513
﹁あぁ⋮⋮﹂
キロはクローナと同時に声ともつかない息を吐き出した。
﹁︱︱地図ができたよ﹂
ミュトが疲れた顔で完成したばかりの地図を掲げた。
十代半ばの少女が書いたとは思えない出来栄えの地図に、指揮官
役の冒険者達が揃って瞠目する。
﹁地図を描くだけで食ってるいけるだろうに、何で冒険者なんかや
ってるんだ?﹂
赤茶髭の冒険者が発した当然と言えば当然の質問に、ミュトはキ
ロの腕を両手でつかんで答えた。
﹁キロのそばにいたいから﹂
赤茶髭の男を含む何人かの指揮官役が一瞬視線を交差させ、一斉
に胸を押さえて苦しみだす。
﹁なんだこの胸の痛みは⁉﹂
﹁まさか、奇襲? 心に奇襲を食らいました!﹂
﹁︱︱お前ら真面目にやれ。地図の複製と、各突撃経路の分担を決
めるぞ﹂
キロは現象魔力で素早く水を作り出し、バカ騒ぎする赤茶髭の冒
険者達の顔に引っ掛けた。
1514
指揮官たちに複製した地図を渡して、各々の野営地に戻ってもら
った後、キロ達は強襲陽動部隊の元に移動した。
﹁お待たせしました﹂
﹁前置きはいいから、地図を貸せ。昼前に話を詰めて仮眠を取りた
い。明日の早朝に作戦開始だろ?﹂
座の中央に置かれた地図を腕組みして眺めながら、阿形が確認す
る。
キロはクローナとミュトに挟まれて座り、阿形に頷きを返した。
﹁そうです。暗い内に山城に移動して、日の出と共に攻撃を開始し
ます﹂
使用する突撃経路を指差して、キロは突撃後の流れを一つ一つ確
認していく。
この場に女装冒険者はいない。
近くの街へ状況の報告をすると共に、応援の冒険者の派遣を依頼
しに行ったのだ。作戦開始時に街が奇襲を受けても大丈夫なよう、
当日は騎士団が全力で警戒する手筈も整えてもらう。
話をあらかた詰め終わり、仮眠をとる。
テントの数が少ない事もあり、キロ達三人と一匹は地下世界産の
馬が引いてきた幌馬車の中で眠る事になった。
幌馬車にもぐりこみ、出入り口を閉めても幌を透かして太陽の光
がうっすらと入り込んでくる。
冬の森はまだ肌寒く、キロ達は毛布を重ねて三人で被った。
太陽の光が鬱陶しいため、頭から毛布を被った三人はどことなく
間抜けな構図にくすくす笑い声を立てる。
﹁そうだ、今日はミュトさんに中央になってもらいましょう﹂
1515
﹁キロじゃないの?﹂
なんだかんだで三人川の字で眠る事が多いが、今までは全てキロ
を挟んで左右にクローナとミュトがいた。
ミュトの疑問を聞き流し、キロはミュトをクローナのいる方へ押
しやる。
嫌な予感がしたのか、ミュトが抵抗するが、キロはさりげなく動
作魔力も使ってミュトを中央に押しやる事に成功した。
﹁⋮⋮二人して、何を企んでるのさ﹂
警戒心がありありと浮かぶミュトの言葉に、クローナがしのび笑
う。
﹁ミュトさんを抱き枕にする計画を実行に移すだけですよ﹂
﹁そんな計画知らな︱︱抱き枕?﹂
単語の一つを抜き出して固まったミュトは、ゆっくりとキロを振
り返る。
﹁⋮⋮抱き枕?﹂
﹁なぜ俺を見て繰り返す﹂
すでにクローナがミュトの右太ももを自らの太ももで挟んでいる
のだが、ミュトはそれどころではない様子でキロを見つめていた。
まっすぐに見つめられたキロは寝返りを打ってミュトに背を向け
る。
意気地なしめ、と罵るフカフカの声が聞こえた気がした。
1516
第九話 奇襲作戦開始
夜明け前の最も暗い頃、キロ達は野営地を出発した。
事前に女主人の特殊魔力で魔物を追い払った突撃経路を音もなく
走る。
キロが後方を振り返ると、少し離れたところを野営地にいた冒険
者達が付いてきていた。
キロの隣で、ミュトが地図に視線を落とす。
﹁そろそろ速度を上げて、後ろの人達から離れた方がいいよ。ボク
達は陽動部隊なんでしょ?﹂
﹁アンムナさん、前をお願いします。山城に着いたら壁に大穴を開
けてください﹂
﹁了解だ。アシュリー、急ぐよ﹂
アンムナとアシュリーが急加速し、女主人がその後ろを追走する。
流石に冒険者歴が長いだけあって動作魔力の扱いにも慣れている
らしい。
アンムナ達三人は見る見るうちに小さくなり、夜の森へと消えて
行った。
キロは槍の握りを確かめて、クローナとミュトの前に出た。
﹁最初の狙いはシールズだ。逃走を防がないといけないからな﹂
キロが確認すると、クローナがミュトの肩の上で足元を照らして
いるフカフカを見る。
﹁前回と同じくミュトさんの特殊魔力で拘束してフカフカさんが特
1517
殊魔力を食べる流れで良いですよね?﹂
﹁今回は俺とクローナもミュトの特殊魔力を使えるけどな﹂
リーフトレージに特殊魔力を込めてあるため、使用できる回数は
少ないながらもキロとクローナはミュトの特殊魔力を扱う事が出来
る。
﹁ミュトはシールズに警戒されているはずだ。真っ先に狙われるか
もしれないから注意しろよ﹂
ラッペンにおけるシールズとの戦いで空間転移の特殊魔力を見破
れる事と無効化する特殊魔力をミュトが持っている事はシールズに
も知られている。
ミュトが頷き、森の先に見えてきた山城を見て小剣を抜いた。
﹁いざという時はキロとクローナが守ってくれるでしょ?﹂
﹁当たり前だ﹂
笑みを返して、キロ達は山城を睨み、速度を上げた。
森から出てきたキロ達を見て、アンムナが丸太を立てて作られた
山城の壁に手を触れる。
﹁︱︱戦闘開始!﹂
キロが宣言すると同時に、山城の壁の一部が吹き飛んだ。
山城内部に向けて丸太だった木片が派手に舞い散る。
飛び込んだキロは、舞い落ちる木片を口を半開きにして呆然と見
ていた窃盗組織の男を殴り飛ばした。
キロに続いてフカフカを肩に乗せたミュトとクローナが入る。
遅れて阿吽の冒険者、カルロ率いるゼンドル、ティーダ組が山城に
1518
入った。
﹁アンムナさん達はここで退路の確保をお願いします﹂
﹁あぁ、くれぐれも気を付けて行っておいで﹂
緊張感のない言葉で見送って、アンムナは山城の壁に再び奥義を
発動する。
立てられた丸太が次々と爆散して、空堀の一部を埋め立てた。
女主人が山城をぐるりと囲むように特殊魔力を張り始めるのを視
界の端に収めた後、キロは山城内部に視線を走らせる。
同様に周囲を見回していたフカフカが、キロに声をかけた。
﹁物見やぐらの上に特殊魔力が張ってあるな﹂
﹁分かった。クローナ、右側から物見やぐらに遠距離攻撃、片端か
ら壊しておく﹂
﹁火で良いですよね。突撃班の冒険者に戦闘が始まった事を教えた
いですから﹂
未だ太陽は昇っていない。火球を打ち上げればかなり目立つ事だ
ろう。
キロも右手に現象魔力を集め、火球を作り出すと向かって左側か
ら物見やぐらに攻撃を加えて行った。
七つある物見やぐらを破壊し終える頃には、山城の内部もキロ達
の襲撃に気付いて騒がしくなってきていた。
しかし、武器や防具を装着した状態で眠っていた者はいないらし
く、建物の中が騒がしいだけで誰一人出てこない。
シールズの監視網を周囲に張り巡らせた山城の中にいるという安
心感が、彼らに日頃の準備を怠らせたのだ。
﹁中央に向かおう。シールズがいるとすれば、組織の頭の近くだろ
1519
うから﹂
後から出てきた窃盗組織に囲まれる可能性があるものの、キロは
当初の予定通りに行動する事に決めて走り出す。
どちらにせよ、突撃班の冒険者が四方から山城に攻めかかるのだ。
準備を終えた構成員も突撃班との戦闘で手いっぱいになるだろう。
キロ達は中央に見えるひときわ大きな建物に走る。
宿舎と武器庫の前を通りかかるが、慌ただしい気配があるだけで
構成員は外に出てこない。未だに事態を把握していないらしい。
耳を立てて宿舎内部の声を拾っていたフカフカが唐突にキロ達へ
呼びかける。
﹁止まるのだ。賊が窓から顔を出す﹂
フカフカの指示に従い、キロ達は一斉に足を止め、ミュトの近く
に集結する。
窃盗組織の男が窓から顔を出したが、ミュトが素早く頭上に特殊
魔力の壁を張った。
ミュトが頭上に張った特殊魔力の壁が空間を数秒前の状態に戻し、
キロ達全員の姿を隠す。
窃盗組織の男は外を一通り眺め、アンムナが暴れているだろう防
壁の方へ顔を向けた。
﹁︱︱防壁の方がなんか騒がしいみたいだ﹂
宿舎の中に報告しながら、男は窓を閉めた。
﹁⋮⋮行こう﹂
男をやり過ごした事を確認して、キロ達は再び走り出す。
1520
一度も窃盗組織の人間に見つかることなく中央のひときわ大きな
建物に辿り着いて、キロ達は物陰に姿を隠す。
山城が機能していた頃は司令部兼上官の宿舎であった建物は四階
建ての立派なものだった。
石造りの頑丈な建物でもあり、耐火性にも気を使っている事が分
かる。
入口に人影はないが、フカフカの耳を頼りに内部を探ってみたと
ころ一階部分だけで十人程が潜んでいるらしい。
にわかに山城の外が騒がしくなった。
阿形が防壁を振り返り、目を細める。
﹁突撃班が攻撃を仕掛けたようだな﹂
﹁早くシールズと接敵しなければ、防壁の突撃班に奇襲を掛けられ
るかもしれないのか﹂
ゼンドルが焦ったように言うが、キロは首を振る。
﹁防壁にシールズが現れた時はアンムナさんとアシュリーさんが対
処してくれる。あの女主人もいるし、問題ないだろ﹂
女主人と聞いて、阿吽の冒険者とカルロが盛大に顔をしかめる。
以前、悪臭の特殊魔力で無力化された事を思い出したのだろう。
﹁空間転移した先であの臭いに出迎えられたら⋮⋮少し同情してし
まいますがね﹂
カルロが鼻を弄りながら呟く。
キロは一瞬だけ苦笑したが、気を引き締める。
﹁防壁にアンムナさん達がいるのはあくまでも保険です。俺達がで
1521
きる限りシールズ達を捕まえないといけません﹂
キロは四階建ての建物を見上げ、高さを目算する。
クローナとミュトがキロの視線を追って、考えを見抜いたように
頷いた。
キロの左右に立ったクローナとミュトに頷いて、カルロ達五人を
見る。
﹁二手に分かれましょう。俺達三人と一匹で、あの建物の最上階か
ら攻撃を仕掛けます。カルロさん達は五人で建物の正面から乗り込
んでください﹂
﹁建物の中で上下から挟み撃ちか。手早く終わらせるならそれがい
いだろうな﹂
阿形がキロの作戦に賛同しつつ、建物を見上げる。
﹁⋮⋮そういえば、町の防壁を駆け登ったんだったな﹂
﹁お察しの通り、壁を登って窓から侵入します。中で落ち合いまし
ょう﹂
﹁おう、気を付けてな﹂
建物の入り口に向かう阿吽とカルロ、ゼンドル、ティーダを見送
る。
キロはクローナとミュトの腰に手を回し、動作魔力を練った。
﹁それじゃ。奇襲を掛けようか﹂
1522
第十話 司令部四階の戦い
建物の最上階、四階部分に到着したキロは、無人の部屋の窓から
侵入して抱えていたクローナとミュトを降ろす。
﹁キロと壁を登るのも、もう慣れちゃったなぁ﹂
ミュトが服の皺を伸ばしつつ苦笑する。
クローナが窓を閉め、杖を構えた。
﹁こんな時でもないと密着できないのはおかしいですよね﹂
﹁そっちに話を持ってくの?﹂
﹁戯言は終わってからにするのだな。ここは敵地であるぞ﹂
フカフカに注意され、クローナとミュトは口を閉じる。
冗談を言いながらも窓をしっかり閉めているのだから、クローナ
も注意はしているのだろう。
キロは動作魔力を練り直しつつ、フカフカを見る。
﹁この階の敵の数は?﹂
﹁三人であるな。騒ぎに気付いておる。もっとも、武装を整えてい
る真っ最中であるようだがな﹂
﹁なら︱︱速攻か﹂
キロは部屋の扉を蹴り破り、廊下に躍り出る。
廊下に並ぶ扉の数は四つ、奥に階段が見えた。
フカフカが扉を二つ照らす。
それぞれの部屋に窃盗組織の人間がいるのだろう。
1523
キロは近くの扉の前に立ち、動作魔力を込めた蹴りを叩き込む。
部屋の内部へと蹴り飛ばされた扉が木の床を削って滑り、部屋の
半ばで倒れた。
何が起こったのか分からず、倒れ込む扉を呆然と眺めていた見知
らぬ男と視線が合った。
革鎧を着こもうとしていたらしい男が慌てて近くの机に置かれた
投げ斧に手を伸ばすが、キロの槍が男の手をすくい上げるように切
りつける。
痛みに手を引いた男の腹に、キロは石弾を叩き込んだ。
くの字に身体を折った男の頭を槍の柄で思い切り殴りつけて意識
を奪ったキロは、部屋の中を見回す。
どうやらこの部屋に男は一人でいたらしい。
キロはこの階の制圧を優先して廊下に出る。
ちょうど騒ぎを聞き付けて別の扉が開き、男が出てくるところだ
った。
しかし、廊下への外開きの扉が作る死角に入っていたクローナが
石弾を撃ちこんで昏倒させた。
あと一人、とキロはクローナの石弾で粉々になった扉の先、部屋
の中へ視線を転じる。
﹁︱︱取り逃がした冒険者の三人組か。やはり生きてたんだな﹂
本来は指揮官が座るのだろう椅子に腰かけた男がキロ達を見て目
を細める。
岩の手を使う窃盗組織の幹部と目される男だ。
キロは槍を片手で構えつつ、現象魔力を練る。
男の後ろにある窓から見える景色を確認しつつ、キロは口を開い
た。
﹁こんなところにいるって事は、あんたが組織の頭なのか? 少し、
1524
意外だな﹂
﹁意外か? 相応の振る舞いを心がけていたんだが﹂
﹁初めて会った時、あんたはわざわざオークション会場に出ていた
だろ﹂
﹁⋮⋮初めて会った時?﹂
眉を寄せた男はキロを上から下まで眺めた後、わずかに目を見開
いた。
﹁あの時の女装男か。そうか、それなら信じられないのも無理はな
いな﹂
男は肩の凝りを取るように首を回し、ゆっくりと立ち上がった。
﹁急にでかくなった組織だからな。時折り末端の動きを見ておかな
いと寝首を掻かれる。あの時も運営より末端の引き締めが目的だっ
た。︱︱そろそろ始めるか﹂
立ち上がった男が腕を振るのと、キロが動き出すのは同時だった。
互いに魔力を練る時間を会話で稼いでいただけあって、万全な状
態からの戦闘開始である。
﹁ミュト、階段を警戒しろ、クローナは援護を頼む﹂
生み出された岩の手を奥義で瞬時に破壊したキロは後ろの二人に
指示を飛ばす。
指令室として他の部屋よりも広く作られているこの場所での戦い
でも、閉所戦闘である事に変わりはない。
頑丈な岩の手に囲まれれば為す術もないと理解できるが故に、キ
ロは岩の手が形成された直後に奥義での破壊や岩の手を操るための
1525
糸を切り落としにかかる。
だが、男は次々に岩の手を生み出し、キロではなく後方にいるク
ローナ達への攻撃を優先する。
クローナ達を狙う事で、キロが迂闊に踏み込んで来れないように
牽制しているのだ。
岩の手を破壊し続けるキロの後方で冷静に隙を窺っていたクロー
ナが、不意に廊下の外、階段を振り向いて眉を寄せた。
﹁階段から増援が来ました!﹂
﹁奇襲がばれたか﹂
それなら、とキロは岩の手を奥義で破壊して後方に飛び退き、フ
カフカに声を掛ける。
﹁シールズが来る。出現場所は分かるか?﹂
キロの問いに答えたのは、フカフカではなく、窃盗組織の男だっ
た。
﹁︱︱この部屋にシールズの特殊魔力はない。一人の方が戦いやす
くてな﹂
男が薄く笑った瞬間、部屋中に無数の岩の手が出現した。
床はもちろん、壁や天井に至るまで埋め尽くす岩の手の群れ。
一つ一つは成人男性の腕と同程度の大きさでしかない岩の手は、
それぞれに粗末な石の剣を握っていた。
﹁狭い場所での戦闘には自信があってな﹂
音を立てて、岩の手が一斉に剣を振り降ろす。
1526
キロは舌打ちして目の前に石の壁を形成するが、無数の岩の手は
人間とは比較にならない力で石の剣を叩き付けた。
石の壁が原形をとどめていたのほんの一瞬、たったの一撃で破壊
された石壁の破片をその身に受けながらも、キロはギリギリ廊下に
転がり出て事なきを得る。
廊下では階段から上がってきた増援をミュトが食い止めていると
ころだった。クローナが後方から援護している。
キロは形勢不利を悟り、指令室を見る。
未だにうごめく無数の岩の手は部屋から出てくる気配がない。糸
の長さが足りないのだろう。
だが、窃盗組織の頭である男の身柄を抑えなければここに来た意
味が半減してしまう。
一度見逃してシールズの確保に動くべきかと考えた時、階段とは
逆方向の廊下の先、キロ達が潜入に使った部屋から女が姿を現した。
戦闘中のキロ達を見ると、女はにっこりとほほ笑む。
﹁挟み撃ちだけで留めようかと思っていたのに、逃げ場を潰してし
まいました。旦那さんに手を出すなんてお馬鹿さんですね。中身空
っぽの頭では実力差が分かりませんでしたか?﹂
﹁キアラ⋮⋮﹂
この期に及んで厄介な奴が出てきた、と苦い顔をするキロの声で、
クローナとミュトがキアラの乱入に気付く。
正面には窃盗組織のかしらである岩の手の男、左右には階段から
の増援とキアラ、後方は壁、逃げ場はなかった。
キロはクローナとミュトに一瞬だけ視線を向ける。
﹁⋮⋮足元注意﹂
﹁了解です﹂
﹁乱暴だけど、それしかないね﹂
1527
呟きに頷いた二人を見て、キロは動作魔力を足に集める。
キアラが短剣付きの有刺鉄線を取り出した瞬間を狙って、キロは
足元の床に奥義を発動、床を崩壊させた。
重力に従って三階へと落ちていくキロ達に、キアラと増援が舌打
ちする。
キロは自分達の足元だけを崩壊させたため、キアラ達に被害はな
い。
キアラ達は自分達が落ちていないからこそ、キロが逃走のために
床へ穴を開けたと思ったのだ。
だが、キロの狙いは別にあった。
﹁クローナ、水!﹂
キロの指示を聞く前に、クローナは杖から引き出した魔力で生み
出した大量の水を、キロが開けた穴へと流し込む。
﹁ミュトさん、塞いでください!﹂
クローナの声でミュトが動作魔力を用いて跳躍、キロが開けた穴
を特殊魔力の壁で覆う。
﹁キロ、とどめ!﹂
﹁分かってるよ﹂
キロは動作魔力を用いて天井へ深々と槍を突き刺す。
槍の穂先はクローナの魔法で半ば水没した四階の床へと突き抜け、
わずかに水滴を三階のキロ達へ伝えた。
キロの右手に紫電が舞う。
1528
﹁︱︱一網打尽ってな﹂
キロの右手から放たれた雷が槍に吸い込まれ、水浸しになった四
階を駆け抜ける。
四階へと続く階段から悲鳴が聞こえて振り返ったキロは、水と一
緒に増援に駆け付けた窃盗組織の人間が流れてくる光景を視界に収
めた。
感電したのか、足腰が立たなくなっている。
キロはクローナと共に石弾で感電した彼らの意識を飛ばし、天井
を見上げた。
﹁この程度で倒せる相手だと思えないんだけど﹂
﹁フカフカ、上の様子は?﹂
﹁階段から降りてくるつもりのようである。足音は二つ﹂
フカフカの報告から、岩の手の男とキアラの無事を悟って落胆の
息を吐く。
すぐに岩の手の男とキアラが階段の上に姿を現した。
﹁若いが、攻撃方法が多彩だな。少数で奇襲をかけてくるだけはあ
る﹂
三階に降り立った岩の手の男は、窓から外の騒ぎを横目に見て鼻
を鳴らした。
﹁劣勢だな。部下を集めて逃走に移るべきだが⋮⋮﹂
窓から視線をはがした岩の手の男は鋭い目でキロ達を睨みつけ、
キアラから有刺鉄線を借り受ける。
1529
﹁お前達三人は危険すぎる。ここで、殺す﹂
1530
第十一話 司令部三階の戦い
殺害宣言を受けた所で、キロは聞く耳を持たず、フカフカに横目
を向ける。
キロの質問を先読みして、フカフカが答えた。
﹁この階に敵はなし、下の階にてカルロ達との戦闘中である。シー
ルズの特殊魔力はない﹂
クローナがつま先で床を叩く。
﹁シールズは下にいるんでしょうか?﹂
﹁だとしたらカルロさん達は苦戦してるだろうな﹂
﹁だけど、目の前の二人と合流されたらそれこそ苦戦必至だよ﹂
手早く意見を交わし、キロ達は頷く。
全力で目の前の二人、岩の手の男とキアラを排除する。
﹁出し惜しみはなしで行くぞ、クローナ﹂
キロが右手に紫電を纏わせたのを見て、岩の手の男はキアラに借
りた有刺鉄線に魔力を通し、大人も握り潰せる巨大な岩の手を出現
させる。握っているのは石の棍棒だ。
雷の魔法でも岩の手を防御に回されれば術者である男への攻撃は
難しく、廊下では男の後ろに回り込むのも難しい。
しかし、岩の手を見てもキロ達は作戦を変更しなかった。
キロが床を強く蹴り、岩の手へ直進する。
無謀な突撃に思えるキロの行動に、男はわずかに目を細めた。
1531
﹁キアラ、あいつの進路を妨害しろ﹂
キロを指差した男がキアラに命じると、キアラは有刺鉄線に動作
魔力を通し、岩の手の左右を縫うように飛ばしてきた。
有刺鉄線の先に着いた短剣を槍で弾き飛ばしたキロは、視界の端
に移った短剣の柄に舌打ちする。
﹁木材の柄って事は雷対策か﹂
ラッペンにおける戦闘でキロの雷を受けたキアラが独自に対策を
施したのだろう。
この世界では倉庫前の戦いからまだ数日しか経っていないという
のに、念の入った事だ、とキロは感心した。
だが、キロはなおも直進する。
短剣に雷対策が施されているならば、有刺鉄線にも何らかの仕掛
けがあるだろう。
しかし、どんな対策をされようとも、問題はない。
直進してきたキロを正面から迎え撃つべく、岩の手が棍棒を振り
降ろす。
例えキロが奥義で棍棒を破壊しても、そのまま岩の手そのもので
叩き潰すのだろう。
左右は壁、前には上から叩き潰すように振り降ろされる棍棒を持
った岩の手、逃げ場はどこにもないかに見えた。
しかし、キロは躊躇なく右の壁に手を当て、奥義を発動する。
瞬時に破壊された壁にできた穴へ飛び込んだキロを男が意外そう
な目で見る。
右の壁は部屋とを隔てるものではなく、外とを隔てる物。つまり、
飛び込んだ先に待っているのは地上三階からの落下なのだ。
仲間二人を置いて戦線離脱を図った、キロの特技を知らない者に
1532
はそう見えるはずだ。
だが、キロの行動の意味を考える時間はない。
﹁射線は通りましたね﹂
クローナが杖を構え、石の弾を準備していた。
突撃するキロの姿で隠されていた石の弾を視認して、男が岩の手
を操作し、壁にする。
通常の石弾であれば防ぐどころか掴み取り、投げ返す事さえ可能
とする岩の手に男は絶対の自信を持っているのだろう。
だからこそ、クローナが撃ち出した岩の球が文字通り眼にもとま
らぬ速さで岩の手に直撃し、粉砕した挙句に自分達の真横を通り抜
けるとは思っていなかった。
吹き飛んだ岩の手の残骸が廊下の壁や天井、床に衝突して音の奔
流をまき散らす。
キロが四階を攻撃するために撃ち出した雷の速度を基準点に石の
球の速度を反転する。
結果的に、雷魔法と同等の速度で飛び出した石の球が目にもとま
らぬ速さで岩の手を砕いたのだ。
クローナの特殊魔力を知らない男やキアラにしてみれば、信じが
たい動作魔力を石の弾に込めたとしか思えなかっただろう。
﹁なんて魔力量してんだ。あの小娘!﹂
悪態吐きながらも、男が新たな岩の手を生み出しにかかり、キア
ラが有刺鉄線を用いて簡易の防護柵をクローナ達との間に構築する。
しかし、彼らはもう一人の存在を無視し過ぎていた。
突如として爆発音が鳴り響き、男とキアラに瓦礫が降り注ぐ。
天井が爆散したと気付くまで、一瞬を要した。
瓦礫が目に入らないよう反射的に腕で顔を庇いながら、上を見上
1533
げて事態の把握に努めようとした男とキアラの視界に、紫電が舞う。
﹁度胆と天井、抜いてみた﹂
獰猛な笑みを浮かべながら、冗談を振りかけるキロの姿を認識し、
男とキアラが回避行動に移る。
だが、男とキアラは武器である有刺鉄線を握ったままだった。
戦闘中に奇襲を受けても武器を手放さない冷静さは本来、賞賛さ
れるべきものだ。
しかし、有刺鉄線が空中で静止したままビクともしなかったため、
飛び退いた力を吸収されてしまう結果を招いた。
キロの奇襲とタイミングを合わせてミュトが廊下を駆け抜け、男
とキアラの有刺鉄線に特殊魔力を纏わせていたのだ。
ミュトの特殊魔力で周辺の空間を過去へと戻され、有刺鉄線は空
中に固定されていたのである。
出し惜しみはなし、キロの言葉の真意は特殊魔力の大盤振る舞い
を行うという作戦指示でもあった。
有刺鉄線を持っていたがために退避の遅れた岩の手の男とキアラ
へ、キロは雷魔法を発動する。
至近距離であり、水魔法を併用しなくても外す心配はなかった。
﹁︱︱ちッ!﹂
逃げ切れないと悟ったのか、舌打ちしながらキアラが動作魔力で
キロに向けて踏み込んだ。
キロの雷魔法が炸裂する。
しかし、岩の手の男の前に立ったキアラが体を張って守り抜く。
組織の頭を守るために自身の身を犠牲にするキアラの献身的な態
度に感銘を受けている暇はない。
キアラが守り抜いた岩の手の男が反撃態勢を整え、キロに向けて
1534
岩の手を生み出していた。
ミュトによって固定された有刺鉄線を手放し、緊急用に用意して
いたらしい糸で操作している。
魔力の燃費が悪い雷魔法を放った直後のキロは魔力を練り直さな
ければならず、即座の反撃は難しい。
ならば、糸を断ち切られる心配はなく、十分に勝算が見込める、
と考えたのだろう。
しかし、次の瞬間、男の眼が怪訝に細められる。
岩の手がビクともしなかったのだ。
﹁︱︱繊細な魔力の流し方をする、良い腕をしておるな﹂
満足そうに、岩の手の下にいたフカフカが尻尾を振る。
糸から岩の手に流し込まれた魔力を魔力食生物であるフカフカが
吸い上げたため、岩の手はビクともしなかったのだ。
なんだこの生き物は、と怪訝な顔をする男の後ろに忍び寄ったミ
ュトが、特殊魔力を発動する。
男が気付いた時にはミュトの特殊魔力の壁で拘束されていた。
﹁クローナ、後は頼んだよ﹂
後方に飛び退いて場所を入れ替えたミュトが、クローナに声を掛
ける。
﹁では、少し苦しいと思いますけど、気絶してください﹂
クローナは杖を軽く振って生み出した水球で、身動きが取れない
男の顔を覆った。
1535
第十二話 冒涜者
有刺鉄線で男とキアラを縛り上げた後、フカフカが魔力を吸い出
した。
身動ぎするだけで有刺鉄線が食い込むため、二人が意識を取り戻
しても脱出は不可能だ。
犯罪者とはいえキアラは女性であるため、キロは有刺鉄線を使用
する事に躊躇いがあったが、クローナとミュトはいささかの葛藤も
なく縛り上げた。
﹁キロよ、優しさは犯罪者ではなく隣の女性に向けるものであるぞ﹂
フカフカのありがたい訓示を聞き流し、キロは階段に目を向ける。
しっかりと縛り上げられた窃盗組織の男達が転がっていた。
同時に、二階から階段を上がってきたばかりの阿吽の冒険者がキ
ロを見て手を振った。
完全に捕虜となった男達を蹴り飛ばして廊下の横に追いやりなが
ら、阿吽と後から登ってきたゼンドル、ティーダ、しんがりのカル
ロがやってくる。
﹁三階と四階は制圧済みか? 目標はどうなってる?﹂
縛り上げられた窃盗組織の人間を数えながら、阿形が質問を投げ
てくる。
﹁制圧は済んで、窃盗組織の頭を名乗る岩の手の男とキアラはご覧
の通り無力化しました。ただ、シールズが見当たりません。そっち
にはいませんでしたか?﹂
1536
キロが質問を返すと、阿形は頭を振った。
﹁キアラとボスの身柄を押さえたのはいいですが、戦略目標のシー
ルズが見つからないのは困りものですな。奴の特殊魔力を使えば、
脱獄支援など造作もない﹂
カルロが眉を寄せ、腕を組む。
シールズ一人が残っているだけで、いくら窃盗組織の人間を捕え
ても脱獄させることが可能である。
捕えた人間を問答無用で斬首できれば問題ないだろうが、犯罪者
とはいえ正式な手続きを踏まずに殺せば罪に問われかねない。
﹁ただでさえ、こいつらは騎士連中の顔に泥を塗ってる。冒険者の
俺達だけで始末をつけると余計な軋轢を生みかねん﹂
﹁政治の事は分かりませんけど、俺達の目標はあくまでもシールズ
です。早く見つけて捕えましょう﹂
﹁どこに居るか、心当たりはあるのか?﹂
阿形に言い返され、キロは頭を掻く。
特殊魔力でいち早く前線である防壁へ向かい、冒険者との戦闘を
行っている可能性が高いと思えた。
キロが説明しかけた時、フカフカの耳がピクリと動く。
﹁伏せよ!﹂
唐突なフカフカの怒鳴り声に全員が反応できたのは幸いだった。
敵地の中心にいるため緊張感が持続していた事もあって、キロ達は
考えるより先に腰を落とす。
外が一瞬明るくなったかと思うと、窓ガラスが割れ飛び、破片と
1537
共に莫大な熱量が建物の中へと侵入する。
熱せられた空気が肌を舐める前に、キロとクローナ、ミュトが同
時に周辺の空間を過去に戻し、防御した。
ミュトの特殊魔力をリーフトレージに充填しておいた過去の自分
の判断に感謝しながら、キロは割れた窓の外を見る。
﹁︱︱キロ君、そこにいるんだろう⁉﹂
キロは一瞬、呼びかける声の主が分からなかった。
抑えきれない憤怒を滲ませた声は、キロの耳が確かならばシール
ズのものだ。
﹁シールズの奴、なんでいきなり怒り狂ってんだよ⋮⋮﹂
仲間がやられても激怒するような男ではない。
つまり、岩の手の男がいるこの建物が襲われている現状に激怒し
ているわけではないだろう。
では、何が理由だろうかと考えるキロの袖をクローナが引っ張っ
た。
﹁前線でアシュリーさんを見たのかもしれませんよ?﹂
﹁どういう事だ?﹂
クローナの言っている意味が分からず問い返したキロに答えをく
れたのは、シールズだった。
﹁キロ君、君が壊したんだろう⁉ 永遠の美を、自然美の頂点をな
んだと思っているんだッ!﹂
あぁ、そういう奴だった、とキロはため息をこぼす。
1538
キロとクローナ以外が妙な顔をする。フカフカに至っては聞き間
違ったかと疑うように耳をせわしなく動かしてからキロを見上げた。
﹁ラッペンであやつが防腐処理した手足を降らせた理由は、我らへ
の嫌がらせではなかったのか?﹂
﹁シールズは純粋に芸術だと思ってるんだ﹂
げんなりしつつ、キロは阿吽達を見る。
﹁捕えた奴らを戦闘に巻き込まないように運んでください。俺達で
シールズを押さえます﹂
﹁分かった。後で加勢する﹂
阿吽達は意識を失っている岩の手の男やキアラ達を回収し、シー
ルズからは見えない様に階段へと向かっていく。
阿吽達が十分な距離を取った事を確かめて、キロはクローナとミ
ュトに目くばせする。
﹁シールズが特殊魔力を張っている場所をフカフカと一緒に探って
くれ。俺は囮になる﹂
﹁気を付けてくださいね﹂
﹁なるべく気を付けるさ。ただ、早めに来てくれ。俺の手の内をシ
ールズはほとんど知ってるから、長くはもたない﹂
槍を握って、キロは告げる。
シールズとの直接対決はこれで四度目になり、いずれの戦闘でも
キロは全力でぶつかって取り逃がしている。
奥義はもちろん雷まで知られているのだ。
見せていない即死魔法はあるものの、直接対象に触れて特殊魔力
を込めなければいけないためシールズ相手に使うのは危険である。
1539
﹁危ないと思ったらすぐに援護します﹂
﹁そうしてくれると助かる﹂
言い置いて、キロは立ち上がりざまに床を蹴る。
割れた窓から外へ飛び出し、壁に足を付けて地面へと駆け下りた。
地面にはシールズが仁王立ちしてキロを睨んでいる。
先ほど窓を破壊したシールズの攻撃の余波によるものか、周囲の
建物が一部焦げていた。
﹁キロ君、反省している様子がないが、どういう事かな。どうやっ
たのかは知らないが、君がアシュリーさんを生き返らせてしまった
んだろう?﹂
﹁良く分かったな﹂
フカフカが特殊魔力の位置を把握しきるまでの時間を稼ぐべく、
キロはシールズとの会話を長引かせようとする。
シールズの顔がゆがみ、敵意をむき出しにした。
﹁当たり前だろう! どんな手段を使ったかは知らないが、君のよ
うな芸術への冒涜者は許しておけない! 絶対に殺す、絶対に!﹂
怒鳴ったシールズが両手を大きく振った瞬間、こぶし大の火球が
無数に生み出された。
一目見ただけで数える事を諦めたキロは、動作魔力を使っての緊
急離脱を図る。
射出された火球がキロに向けて飛んでくるが、石壁を生み出して
防ぐ。
しかし、石壁の横を通り抜けた火球に込められたシールズの特殊
魔力が発動し、空間転移を利用した全方位からの攻撃に切り替わっ
1540
た。
ラッペンでの戦闘でも見たため、キロは冷静に新たな石壁を作っ
て防ぎながら、火球のいくつかをアシュリーの魔法を真似した水の
防御で相殺して走り抜ける。
特殊魔力が込められた火球は次々に転移して、軌道の予測が難し
い。
その時、キロはシールズの姿が消えている事に気が付いた。
転移したのだと分かっても、どこへ転移したのかはわからない。
キロは舌打ちし、身を捻って火球を躱しながら右足を軸に方向を
転換、素早く周囲へ視線を走らせる。
しかし、シールズの姿は見当たらない。
姿が見えないのなら絶えず動いて次の攻撃をかわすしかない。
キロが一歩を踏み出した時、頭上からクローナの声が降ってきた。
﹁キロ、止まってください!﹂
さん付けではなくなっている、とキロは足を止めてクローナがい
る建物の三階をを見上げた。
クローナが杖を構え、拳大の水球を準備していた。
何をするつもりかと怪訝に思ったキロに、ミュトが三階から声を
掛ける。
﹁体積反転、基準はこの建物!﹂
﹁︱︱嘘だろ、おい!﹂
すぐさま意味を理解したキロは自らの周囲を囲む様にミュトの特
殊魔力を発動させる。
直後、クローナが特殊魔力を使用して水球の体積を反転させる。
頭上に四階建ての建物二つ分はありそうな莫大な水の塊が出現し
た。
1541
重力に従って水が降ってくる。
これだけの規模の水が三階の高さから垂直落下すれば、真下の建
物はもちろん周囲の建物にも被害が出る。
簡易の拠点ではあったものの、元は軍事施設だけあって建物の強
度もそれなりにあるはずだが、真下にいる人間は無事では済まない
だろう。
もっとも、降ってくる水の密度による。
落下してきた水の塊は、張りぼてだった。
巨大な水球ではなく、水の膜で覆われただけの空気が降ってきた
のだ。
﹁⋮⋮なんで、こんな張ったりを?﹂
キロが疑問を頭に浮かべると同時に、クローナとミュトが三階か
らキロの元へと降り立った。
魔法で生み出した水流を操作して器用に着地したクローナにくっ
ついていたミュトが、ほっと胸を撫で下ろす。
ミュトの肩の上で、フカフカがにやりと笑った。
﹁せめて少しでも威力を軽減しようとシールズが徒労を重ねたよう
であるな﹂
機嫌よさそうに尻尾を振ったフカフカの視線を追うと、円錐形の
石の屋根の下からシールズが細めた目を向けていた。
クローナが杖を軽く振ってにっこり笑う。
﹁せっかく準備していた特殊魔力を全部使って空気を空間転移する
なんて、何を考えてるんですか?﹂
そういう事か、とキロは理解する。
1542
巨大な水塊を落とすと見せかけたのは、シールズが事前に準備し
ていた周辺の特殊魔力を空撃ちさせるためだったのだ。
﹁まったく、俺まで焦らせてどうするんだ﹂
﹁敵を騙すにはまず味方からですよ。それに、これでシールズは特
殊魔力を張り直さないといけなくなりました。緊急脱出は不可能で
す﹂
﹁なら、畳みかけるか﹂
憎悪を込めて睨んでくるシールズの視線からクローナを庇うよう
に立ったキロは、槍を構えた。
1543
第十三話 決着
仕切り直しとはなったが、戦闘の再開に際して言葉のやり取りは
なかった。
会話をしている間にシールズが特殊魔力を準備できないよう、キ
ロは問答無用で攻撃に移る。
動作魔力を使って素早くシールズとの距離を詰めるキロの横をク
ローナが放った水球が飛んでいく。
水球を迎撃しようとしたシールズに向けて、キロは紫電を纏わせ
た左手を向ける。
キロの考えに気付いたシールズが顔をしかめ、水球を生み出して
後方に下がった。
キロは魔法で生み出した雷を水球に向かって叩き込み、クローナ
の飛ばした水球もろともシールズの水球を撃ち抜いた。
﹁キロ、直進は駄目だよ!﹂
後ろから様子を窺っていたミュトから注意が飛ぶ。
キロは体を横にずらし、シールズが水球を生み出した地点を避け
た。
水球を目くらましに設置されていたらしいシールズの特殊魔力が
発動し、空中に突然石の球が出現する。
ミュトの注意がなければ、直進するキロがぶつかったであろう石
の壁は重力に従ってむなしく地面に落下した。
シールズがミュトを睨む。
特殊魔力の位置を知らせるミュトを早期に倒そうと考えたようだ。
﹁そうはいくかよ﹂
1544
キロはシールズに向けて小規模な雷魔法を放つ。
水魔法で狙いを定めていないあてずっぽうの雷魔法であり、当た
る確率は低い。
しかし、カッカラにあるギルドの建物で戦った際にキロの雷魔法
を受けた事のあるシールズは苦々しい顔で石壁を出現させて防御し
た。
雷を防ぐ間に距離を詰め、キロは槍の間合いにシールズを捉える。
遠慮なく振りかぶるキロを見て、シールズが眉を寄せた。
﹁また槍を壊されたいのかい?﹂
シールズがキロの槍の軌道に合わせて右手を広げる。
右手には、キロの槍の穂先だけをどこかに転移できるよう、空間
転移の特殊魔力が張ってあるのだろう。
カッカラでキロの槍を破壊したのと全く同じ方法だ。
だが、わずかの躊躇もなくキロは槍を振り降ろす。
キロの行動に違和感を覚えたのか、シールズが一歩後ろに下がっ
た。
直後、キロの槍の穂先がシールズの右手を切り裂く。
ミュトの特殊魔力を槍に込める事で干渉不可の付随効果を発動さ
せ、シールズの空間転移による干渉を打ち消したのだ。
﹁︱︱ッ!?﹂
痛みよりも驚きに目を見開くシールズに向けて、キロは手元で槍
を操作し、突きを繰り出す。
動作魔力で加速させたキロの槍を辛うじて避けたシールズが額に
汗を浮かべ、蹴りを繰り出した。
足には魔法で生み出した石を纏わせ、蹴りの威力を増している。
1545
シールズの蹴りに対し、キロは小さな水球を三つ生み出す。
三つの水球に動作魔力を込め、上向きのうねりを作り出してシー
ルズの蹴りを受け流した。
さらに足元に動作魔力を通し、アンムナの奥義を発動する。
地面が弾け飛び、シールズに石礫が襲い掛かった。
キロの生み出した三つの水球で蹴りを受け流され、不安定な体勢
にあったシールズはそれでも冷静だった。
奥義で弾けとんだ石礫をシールズが片端から空間転移させる。
身体の正面で掻き消えた石礫が、シールズの背後に出現して落下
する。
身体の前後に特殊魔力を張ったのだろう。
﹁こちらは転移できるようだね﹂
転移が不可能になる条件を探っている、とキロは瞬時に判断する。
しかし、シールズの視線が一瞬だけキロの手元、リーフトレージ
のナックルに向けられた。
﹁︱︱なるほど﹂
呟いた瞬間、シールズがキロのナックルに向けて血だらけの右手
を伸ばした。
奥義の発動直後であったキロは一時的に動作魔力を使い切ってお
り、回避が遅れる。
動作魔力を練り直しながら、キロは己の全身の筋力を使って緊急
離脱を図った。
だが、動作魔力に余裕があったシールズの方が圧倒的に動きが速
い。
シールズの手がナックルに触れる寸前、キロは笑みを浮かべ、呟
く。
1546
﹁⋮⋮捕まえた﹂
キロの呟きを聞いた瞬間、シールズが反射的に右手を引いた。
ラッペンでミュトの特殊魔力に捕まった事を思い出したためだ。
しかし、シールズは何の抵抗もなく右手を〝引けてしまった〟事
に苦い顔をする。
キロのはったりに騙されたと気付いたのだ。
だが、キロの呟きははったりであると同時に事実でもあった。
キロはナックルからクローナの魔力を取り出し、突き出した状態
の槍を起点に自身の位置を反転させる。
槍の石突きの右側に立っていたキロは、槍の穂先の左側に位置を
反転したのだ。
シールズの眼には突如として目の前からキロが姿を消すと同時に
背後に現れたように感じられる事だろう。
極短距離ながら、キロは確かに瞬間移動していた。
シールズが振り返る前に、キロはさらに距離を詰める。
ナックルに貯蓄していた現象魔力を全て引き出し、雷を生み出す。
雷魔法をシールズに炸裂させた直後、キロはさらにナックルに残
っていたミュトの特殊魔力を発動し、シールズの腰回りの空間を過
去に戻す。
体幹が動かせなくなったシールズは中途半端にキロを振り向いた
体勢で固まった。
二つの特殊魔力を使いこなして作り出したシールズの決定的な隙
を、キロはクローナとミュトに知らせるべく、声を張り上げる。
﹁︱︱総攻撃!﹂
キロが離脱すると同時に、クローナが内部に歪な石弾を含んだ水
の鞭を発生させる。
1547
ミュトが動作魔力を使って駆け出し、キロと合流した。
キロは体内の魔力で動作魔力を練り、奥義を使って地面を破壊す
る。
地面がえぐれると同時に生じた石礫をミュトが拾い上げた。
準備が整って、キロ達はシールズを見る。
﹁可哀想だとは思わないから、遠慮なくいく﹂
キロが宣言すると同時に、クローナが水の鞭をシールズに叩き付
けた。
﹁こんなもの効くはずがないだろう!﹂
シールズが叫び、水の鞭はもちろん、内部に作られていた歪な石
弾までも転移させてみせる。
﹁やっぱり転移で防がれますね﹂
クローナが眉を寄せた時、隣にミュトとキロが立つ。
ミュトが持っていた石礫に特殊魔力を通し、クローナの水の鞭へ
放り込んだ。
﹁これなら転移できないんだよね﹂
ミュトの特殊魔力で過去の状態に戻された物体は、シールズの空
間転移が効かない。
つまり、クローナの水の鞭へミュトが放り込んだ石礫は確実にシ
ールズに当てる事が出来る物理攻撃手段だ。
キロが威力を加減しながら地面に奥義を発動するたびに石礫が生
み出され、ミュトが特殊魔力を込めてクローナの水の鞭へと放り込
1548
む。
﹁痛いですけど、我慢してくださいね﹂
クローナが水の鞭をしならせ、中に放り込まれた石礫ごとシール
ズに叩き付ける。
﹁︱︱ッ!﹂
案の定、シールズの空間転移は水の鞭に対してしか効果を発揮せ
ず、ミュトが特殊魔力で過去に戻した石礫は次々とシールズに衝突
し、打撲と切り傷を増やしていく。
空間転移で石礫を防げないと分かったシールズが現象魔力で生み
出した石壁での対応を試みるも、クローナは水の鞭をしならせて石
壁を迂回させ、石礫を叩き付ける。
ならば、と周囲を石のドームで囲めば、クローナは特殊魔力で速
度と威力を高めた石弾を飛ばしてドームを破壊する。
クローナが開けたドームの穴目掛けて、キロはミュトから渡され
た石礫を動作魔力で投げ込んだ。
絶え間なく叩き付けられる石礫がシールズの集中力をかき乱し、
悪あがきに発動する空間転移でむなしく水や空気だけが掻き消える。
キロ達は、不用意に近付いて反撃される事のないよう、絶えず遠
距離から攻撃を加えてシールズの魔力の枯渇を狙っているのだ。
すでにキロ達も魔力切れ寸前というところで、建物からカルロと
阿吽が飛び出した。
﹁⋮⋮えげつねぇ﹂
キロ達の戦い方を一目見て呟いたカルロ達三人は、すぐにシール
ズに向けて駆け出した。
1549
シールズもカルロ達の接近に気付いたが、いくら逃げようともが
いても逃げられない。
シールズがキロを睨み、口を大きく開けて叫ぶ。
﹁この冒涜者がッ! 僕を捕らえたりしてみろ。僕が今まで研鑽を
積み重ねて確立した永遠の芸術を作り出す方法が失われるんだぞ?
貴様は芸術の歴史を数百年遅らせようとしているんだぞ!? いい加減に目を覚ませ!﹂
﹁黙れ、変質者ッ!﹂
キロが叫び返しながら渾身の力を込めて投げつけた石礫がシール
ズの頭に当たる。
ガクリ、と項垂れたシールズから体の力が抜けた。
ピクリとも動かなくなったシールズを見て動きを止めたキロは、
恐る恐る口を開く。
﹁⋮⋮殺しちまったか?﹂
シールズのすぐ近くまで辿り着いた阿吽が慎重に距離を詰め、シ
ールズの脈を図る。
キロに向かって首を振った阿形が目を閉じた。
﹁死んでる﹂
﹁嘘つくな﹂
すかさず吽形が否定し、キロ達に報告する。
﹁心臓は動いている。気絶しただけだ﹂
ほっとしたキロは、すぐにシールズの近くに赴く。
1550
ミュトの肩の上にいたフカフカがため息を吐いた。
﹁キロの物よりましとはいえ、あまり美味い物ではないのだがな﹂
﹁つべこべ言わずに全部吸い出して﹂
ミュトに促されて、フカフカがシールズの特殊魔力を一気に吸い
出す。
うげぇ、とフカフカが舌を出して前足で洗う。
﹁もう二度と飲みたくない味であるな。腹の中でもあちこち刺激し
てくる⋮⋮﹂
今にも吐きそうな様子のフカフカに、キロは魔力が空になった右
手用のナックルを差し出した。
﹁このナックルに吐きだしとけ。腹を壊すかもしれないから﹂
﹁⋮⋮かたじけない﹂
フカフカはそう呟いて、エチケット袋よろしくナックルへ魔力を
吐き出した。
1551
第十三話 決着︵後書き︶
⋮⋮なんか盛り上がらない。完結後に修正するかもしれません。
1552
第十四話 表彰
シールズを縛り上げ、キロは周囲を見回す。
時折やってくる窃盗組織の構成員は軒並みカルロ率いるゼンドル、
ティーダが倒しており、シールズと同じ様に縛り上げて地面に転が
してある。
組織をまとめていた岩の手の男や単独で戦闘力の高いキアラ、逃
走手段を持つシールズまでもが捕縛されている現在、窃盗組織が壊
滅するのも時間の問題だろう。
防壁からやってきた冒険者達がキロ達を見て、手を挙げて挨拶し
ては去っていく。
﹁もうすぐ終わりですね﹂
クローナが周りを警戒しつつも呟く。
﹁もっと戦えって言われても、魔力が底をついてるから無理だけど
な﹂
槍を地面に突き立てて支えにしつつ、キロは言葉を返す。
強敵ばかり三人も捕えたのだから、今回の作戦には十分に貢献し
ているだろう、とキロ達は一時休憩している。
そうこうしている内に、数人の冒険者が歩いてきた。
﹁伝言です。制圧が終わったんで、シールズ達を連れてくるように、
と﹂
魔力切れのキロ達に配慮して、数人の冒険者はカルロ組が無力化
1553
した窃盗組織の人間を抱え、アンムナが守る退路へ向かう。
キロ達もシールズを引きずりながら後を追った。
防壁に辿り着き、キロは辺りを見回す。
数十人の冒険者でごった返した退路では、捕えた窃盗組織の人間
に簡単な治療などが行われている。
﹁こんなに参加してたのか﹂
﹁街から来た救援の冒険者もいるみたいですね﹂
クローナが冒険者達を見回して、キロの疑問に答えをくれた。
ミュトが服に付いた土を払って、ほっと息を吐く。
﹁とにかく、これで一安心かな?﹂
﹁捕まえた連中を街へ輸送する仕事も残ってるけど、一安心ではあ
るな。これだけ冒険者がいれば、いくらこの地域の魔物が強力でも
問題ないだろ﹂
足元から衣擦れの音がして、キロ達は視線を下げる。
いつの間にか目を覚ましたシールズが、キロを忌々しそうに見上
げていた。
﹁冒涜者め⋮⋮﹂
﹁変質者が⋮⋮﹂
シールズと単語で罵り合う。
﹁︱︱生け捕りにできたようだね﹂
聞き慣れた声に顔を向ければ、アンムナとアシュリー、女主人が
歩いてくるところだった。
1554
アンムナはしゃがむようにしてシールズの顔を覗き込む。
﹁分かり切った事ではあるけど、君は破門だ。以後、僕の弟子を名
乗るな﹂
アンムナはシールズに言い渡すと、女主人を手招く。
﹁シールズは意識があると特殊魔力で逃走を図りかねないから、気
絶させてくれるかい﹂
何も知らないシールズが怪訝な顔をして、女主人を見る。
女主人はシールズと眼が合うとにやりと笑った。
﹁意識を取り戻す度に地獄を味わう覚悟はいいか?﹂
問いかけながらも、女主人はシールズが答える前に手をかざす。
がはッ、とシールズが目を見開き、泡を吹いて気絶した。
カルロと阿吽が鼻を覆って顔を背ける。
女主人は同じ処置を岩の手の男とキアラにも施し、他の窃盗組織
の人間を気絶させてくる、とキロ達に背を向けた。
フカフカが尻尾を膨らませ、身震いする。
﹁まったく、恐ろしい特殊魔力もあったものであるな﹂
﹁悪臭の特殊魔力って捕虜を気絶させるのにも使えるんだね⋮⋮﹂
ミュトが反応に困ったような顔で女主人を見送った。
捕えた窃盗組織の人間全てを近くの街へと輸送すると、作戦に参
加した冒険者はギルドに集められた。
1555
参加人数が多すぎるため、賞金に関しては日を改めて順次支払う
予定となったが、キロとクローナ、ミュトは並み居る冒険者の前で
代表者として賞金を受け取れとの事だった。
﹁作戦立案もそうですが、幹部を三人まとめて捕えた功績もありま
す。せめてキロさん達にはすぐ払わないと、我慢が利かない冒険者
達が請求書を持って押し寄せてくるんですよ﹂
ギルドの職員が申し訳なさそうな顔で告げ、頭を下げてくる。
賞金の受け渡しはギルド長から直々に渡されると言われ、キロは
クローナとミュトを見る。
注目を浴びるのが苦手なミュトが困ったような顔をしているが、
クローナは嬉しそうな顔でキロを見た。
﹁堂々と受け取ってしまいましょうよ。冒険者歴は浅いですけど、
私達も一人前と認められたんですから、受け取るべきです﹂
﹁ミュトはどう思う?﹂
﹁嫌だけど、受け取らざるを得ないんだろうね。断る口実も思いつ
かないし⋮⋮﹂
今回、冒険者達の前で賞金を受け取るのは半ば義務だ。
キロにとっては兄弟子であるシールズを捕えたのが自分達である
と喧伝できる点でも、断るわけにはいかなかった。
﹁決まりだな。さくっと済ませてしまおう。この後は予定もあるし﹂
﹁予定、ですか?﹂
クローナがキロの言葉尻を捉えて首を傾げる。
﹁俺の世界に行く。詳しくは後で話すよ﹂
1556
フカフカがちらりとキロを見て、ため息を吐いた。
すべてを話す気もないくせに、と言いたげな目でキロを一睨みし
た後、フカフカはアンムナを見た。
﹁これからシールズはどうなるのだ?﹂
﹁極刑だろう。生かしておいても碌な事にはならないからね﹂
軽い口調ではあったが、アンムナも思うところがあるのだろう、
街の牢屋がある方角に視線を向けて口を閉ざした。
裁判制度など聞きたい事はあったものの、キロ達は山城への突撃
作戦における調書を作り終えた後は特に証言を求められる事はない
らしい。
シールズや窃盗組織との戦闘に関しては、その都度調書を作って
あるため、新たな証言を求める事はまずないという。
法廷で神に誓って証言を、などとは言われないらしい。
﹁ギルド長がお見えになりました﹂
ギルドの職員に声を掛けられて、キロ達は振り返る。
やってきたギルド長といくつか打ち合わせをした後、キロ達三人
と一匹は冒険者達の前に出た。
緊張でがちがちに固まっているミュトを隠すよう位置に注意する
キロは、隣を歩くクローナを見る。
にこにこしながら冒険者やいつの間にか街中から集まったやじ馬
に手を振っていた。
﹁あんまり愛想を振りまくな。俺達は一応冒険者の代表なんだから
な﹂
﹁嫉妬ですか?﹂
1557
﹁⋮⋮嫉妬だよ﹂
ぼそっと呟くと、クローナは満面の笑みを浮かべてキロの手を握
った。
﹁それじゃあ、キロに笑いかけますね﹂
﹁さん付けも完全に取れたな﹂
﹁︱︱あれ?﹂
﹁自覚なかったのか﹂
キロは苦笑して、前を見る。
ギルドの建物の前に設えた台に上がり、冒険者とやじ馬に一礼す
ると、拍手がキロ達を包んだ。
1558
第十五話 打ち上げと急報
﹁美味しいところは全部キロ達が持って行くんだもんなぁ﹂
作戦参加の報酬を後日に回すお詫びか、ギルドが企画した打ち上
げの席にはキロ達を始めとした様々な冒険者が集まっていた。
ゼンドルが酒を胃に流し込み、キロを見る。
﹁ちょっと前まで俺達と実力は変わらないくらいだったはずだろ。
大活躍してくれやがってよ﹂
﹁相性が良かったんだ。それに、ゼンドル達も活躍してただろう。
捕縛十人だっけ?﹂
岩の手の男がいた建物を守る者や、シールズ捕縛後にやってきた
者を含めて十人程、ゼンドルはティーダと協力して捕えている。
﹁カルロさんがいたからな。あの人、自分は冒険者じゃないから捕
えても仕方がない、って俺達に譲ってくれたんだよ﹂
﹁その代わりに危なくなるまで二人で戦わされたんだろ?﹂
﹁それはそうだけどさ。後ろから竜にでも見守られてる気分だった
ぜ﹂
ゼンドルの言う竜はどうしているのかと打ち上げ会場を見回すと、
カルロは阿吽の冒険者と酒を酌み交わしていた。
周囲にいるのはベテランらしい冒険者ばかり、カルロ達がいる区
画だけやけに年齢層が高い。
カルロ達の横では女性冒険者が固まって話に花を咲かせている。
漏れ聞こえてくるのが一々今回の作戦とは関係のない会話ばかりな
1559
のはご愛嬌だろう。
女子会のような雰囲気になっている華やかなその場にはクローナ
とミュト、ティーダの姿もある。
アシュリーと女主人はカルロ達との境で両方の集まりと適度に会
話していた。
アシュリーの隣にちゃっかり陣取っている辺り、アンムナは流石
である。
キロとゼンドルがいるのは女子会横の男冒険者の集まりである。
女子会との境には女装冒険者が七人居座っていたが、キロは目を背
けて見なかったことにした。
﹁キロは酒飲まないのか?﹂
美味いぞ、と差し出された杯にはなみなみと琥珀色の酒が入って
いる。
キロは首を振って断り、杯を押し返した。
﹁明日に響くからやめとくよ﹂
﹁結構な額を貰ったはずだろ。そんなに稼いでどうすんだよ﹂
ゼンドルが不思議そうに問う。
キロは苦笑して、依頼じゃない、とひらひらと手を振った。
﹁やらないといけない事が残ってるだけだ。どんなにやりたくなく
ても、やらないといけない事がさ﹂
これ以上は聞くな、と話を打ち切りつつ、キロは魚のフライを口
に運ぶ。
﹁ゼンドルこそ、これからどうするんだ? やっぱりティーダと一
1560
緒に傭兵団に入るのか?﹂
﹁いや、カルロさんに稽古を付けてもらおうかと思ってる﹂
途端に真剣な顔になったゼンドルが、ベテラン冒険者に交じって
酒を飲んでいるカルロを横目に見る。
﹁話も通してある。一年くらい稽古を付けてもらいながら、武器防
具の商売をしているカルロさんの知り合いを紹介してもらって、人
脈広げてから傭兵団に入るつもり﹂
﹁なるほど。傭兵団なら武器を扱う商人との人脈があった方がいい
のか﹂
ゼンドルも考えて行動してるんだな、と少し失礼な感想を抱きつ
つ、キロは納得した。
ゼンドルがカルロと談笑している阿吽の冒険者を指差す。
﹁あの二人はカッカラでアンムナさんの代わりに魔物狩りをすると
さ。昔カッカラにいた事があるらしいぜ﹂
そういえば以前に聞いたことがあったな、とキロは思い出す。
カッカラの周辺は魔物が多く、街の食糧も周辺の魔物で賄ってい
る。
シールズが逃走してからはアンムナが代わりに魔物の間引きを行
っていたが、アシュリーが生き返ったためにカッカラに戻る事が出
来ない今、阿吽の冒険者に後を引き継ぐのだろう。
﹁それじゃ、この街で解散だな﹂
名残惜しい気はしたが、またどこかで会う機会もあるだろう、と
キロは頭を切り替える。
1561
明日は早くに動き出さねばならないため、キロは打ち上げの席で
それぞれに別れを告げておこうと思い、席を立った。
宴も終わりに差し掛かり、キロは挨拶を済ませてクローナとミュ
トの元に向かう。
﹁そろそろ店を出る﹂
キロが事前に言い聞かせていた事もあり、酒を勧められても断っ
ていたらしいクローナとミュトはあっさり立ち上がる。
﹁ちょっと名残惜しい気がしますね﹂
﹁また機会があるさ﹂
﹁表彰式みたいなのはもう嫌だけどね﹂
そう言ってミュトが苦笑すると、肩に乗ったフカフカが鼻を鳴ら
す。
﹁豪華な食事が食べられてよかったではないか。我はシールズの魔
力で腹をやられて吐いた後、何も口にしとらんのだぞ?﹂
文句たらたらなフカフカに、ミュトは苦笑を深めた。
作戦に参加した冒険者達がキロ達三人と一匹の動きに気付き、手
を振る。
キロ達も手を振り返して、打ち上げの会場である料理屋を出た。
通りに出てみれば、明るい太陽が見下ろしてきた。
山城から町に帰還した時点で昼頃だったため、まだ空は明るいの
だ。
1562
﹁そういえば、宿を取っていませんね﹂
思い出したように、クローナが空を見上げた。
暢気なクローナとは異なり、ミュトは通りを見回して宿を探す。
﹁窃盗組織の件で冒険者の人がたくさん来ているから、早くしない
と部屋が取れないよ﹂
ミュトが危機感を告げる。
また幌馬車の中で眠る事も出来るが、今は冬の真っ盛りだ。連泊
すれば風邪をひきかねない。
丁度いい、とキロが今後の予定を詳しく説明しようとした時、通
りの向こうから走ってくる人物が目に入った。
昼の大通りを走ってくるその人物に目を凝らすと、ギルドに残っ
ていた冒険者だと分かった。
キロは言いかけた言葉を飲み込み、冒険者に声を掛ける。
﹁そんなに慌てて、どうかしたのか?﹂
冒険者はキロの前まで来ると、膝に手を付いて息を整え、打ち上
げ会場の料理屋を指差す。
﹁入ってください。ギルドに急報が入ったもんで、みんなに知らせ
ろとギルド長が﹂
事情が分からないキロ達は冒険者に言われるまま料理屋に戻る。
今日の料理屋はギルドが貸切っているため、外からの客はないと
考えていたのだろう、騒いでいた冒険者達が一斉に入口に立つキロ
達を見る。
1563
﹁どうした、キロさん、忘れ物か?﹂
﹁いや、こいつが急報があるとかなんとか﹂
キロは未だに息が荒い冒険者を料理屋の中に押し込む。
冒険者は一つ大きく深呼吸をした後、料理屋全体に響く様に声を
上げる。
﹁︱︱竜が空を食ってるらしい﹂
1564
第十六話 悪食の竜対策会議
竜が空を食らう。
まともな神経ならばすぐに与太話と断じるその話を、即座に事実
と受け止められたのはキロ達三人とアンムナだけだった。
酒が入っている事も手伝ってすぐに笑い飛ばそうとする冒険者達
を抑えて、キロはクローナに通訳を頼み、知らせを持ってきた冒険
者に声を掛ける。
﹁竜の出現場所は?﹂
﹁ここから北の方にある山だそうです﹂
北、と聞いて思い浮かぶのはクローナの故郷がある村だ。
キロは思考を巡らせ、次の質問を口にする。
﹁竜の進路は分かるか?﹂
﹁まだ空を食べているだけなんで、どこに向かうのかはわからない
って話です。ただ、食われた空が真っ暗で、ほんとに何もないみた
いで不気味だって﹂
要領を得ない答えに終始しているのは、冒険者も報告を受けただ
けだからだろう。
キロは袖を引かれる感触に気付いて振り返る。
ミュトが真剣な目でキロを見上げていた。
﹁もしかして、悪食の竜?﹂
﹁その可能性が高いな。ミュト、地図師の遺品の地図はまだ持って
るか?﹂
1565
キロの問いかけに、ミュトは頷いて鞄を軽く叩いた。中に入って
いるという事だろう。
キロは料理屋の奥にいるアンムナと視線を交差させ、頷く。
アンムナがキロの知り合い全員に声を掛け、立ち上がった。
窃盗組織討伐の中核メンバーが真剣な顔で動き出した事で、酒が
入っていた冒険者達の顔も引き締まる。
知らせを持ってきた冒険者は態度の変化についていけなかったの
か少し戸惑う様子を見せた後、己の仕事を思い出したらしく口を開
いた。
﹁ギルドは、今回の竜についての情報を集めているとの事です﹂
キロがギルド長に面会を申し込むと、すぐに許可が下りた。
悪食の竜に関する話をするには遺物潜りや地下世界の事を話さな
ければならなかったが、状況を鑑みれば仕方がない。
﹁俺達の事情については他言無用でお願いします﹂
﹁情報提供者の秘密は守る。よく申し出てくれた﹂
釘をさすキロに答えて、ギルド長は腕を組んだ。
﹁しかし、空を食らいつくした竜、か。にわかには信じられんが、
実際に報告を受けてしまっているからな﹂
ギルド長は北を睨み、ため息を吐いた。
キロ達の話からは、悪食の竜を倒す方法が見つかっていないこと、
虚無の世界に住んでいる事などしかわからない。
悪食の竜には手が付けられないという情報でしかないのだ。
1566
﹁我々も地下に引きこもるしかないのか⋮⋮?﹂
ギルド長の呟きに答えられる者はいない。
その時、アンムナが話の方向性を変えるべく口を開いた。
﹁地下世界には悪食の竜に関する詳しい文献が残っているんだろう
?﹂
﹁遺跡がありました。調査も行われているはずです﹂
特層級地図師のラビルと共に発見した遺跡を思い出しながらキロ
が答えると、アシュリーが興味を惹かれたように顔を向けた。
﹁その遺跡を当たれば、何か新しい事が分かるかもしれない、と?﹂
﹁可能性はありますが、悪食の竜に空を食らいつくされた世界の文
献ですから、倒す方法が見つかるとは思えませんよ﹂
何より、古代の地下世界は現在のクローナの世界よりも発展して
いた形跡があり、魔法技術もあった。
そんな文明ですら、悪食の竜には為す術がなかったのだ。
しかし、ゼンドルが眉間を揉みながら口を挟んできた。
﹁話は良く分かってないけどさ。その地下世界は見方を変えると空
だけしか食われなかった、とも考えられるんじゃねぇの?﹂
ハッとして、キロ達は一斉にゼンドルを見る。
相棒のティーダが感心したようにゼンドルの背中を叩いた。
﹁たまには頭が使えるんだね﹂
﹁うっせ、お前も俺とおんなじ程度の頭だろうが﹂
1567
﹁はぁ? ゼンドルよりはマシだよ﹂
﹁︱︱二人とも、喧嘩はいかんですよ﹂
ゼンドルとティーダの頭を押さえつけたカルロがどすの利いた声
で割って入ると、二人はピタリと口論をやめた。
とはいえ、ゼンドルの意見には一考の価値がある。
ミュトが考え込むようにしながら、呟く。
﹁なぜ、被害を空だけで食い止められたかが分かれば、この世界の
空を守れるかもしれない?﹂
応用できるとは限らないが突破口としては悪くないと誰もが思っ
た。
ギルド長がキロを見る。
﹁地下世界には行けるのかね? 行けるとして、何人だね?﹂
﹁ミュト、地図師の遺品を出してくれ﹂
キロは紙に遺物潜りの魔法陣を描き、ミュトから手渡された地図
を魔法陣の中央に置く。
遺物潜りを発動させると黒い空間が出現した。
﹁遺物潜りで向こうの世界に行けるのは、俺達三人とフカフカだけ
です﹂
﹁人数を増やすことはできないのかね?﹂
ギルド長が遺物潜りの開発者であるアンムナに問う。
アンムナは首を振った。
﹁無理だね。念の強さに応じて変わるけど、三、四人が限界だ﹂
1568
難しい顔で唸ったギルド長は、キロ達を見た。
﹁地下世界へ赴き、悪食の竜についての情報を探してもらいたい。
猶予はあまりないが、頼めないかね?﹂
キロはクローナとミュトに確認を取り、頷いた。
﹁行きます﹂
もとより、キロ達はそのつもりでギルドに来たのだ。
鞄等を持って、キロ達は立ち上がる。
﹁帰ってくるのはこの部屋になるはずですが、この世界に戻ってく
るために山城での戦いで死亡した方の遺品を貸してください﹂
地図師の地図はタイムパラドックスを避けるため、過去のキロ達
が拾ってロウヒの縄張りを抜けていけるように置いていかなければ
ならない。
地図師の遺品で帰還の扉を開けない以上、代わりの遺品が必要に
なる。
キロの頼みを聞き入れ、ギルド長がすぐに山城の戦いで死亡した
窃盗組織の人間の遺品である短剣を持ってこさせた。
短剣が運ばれてくる間にミュトが地図師の遺品である地図を複製
する。
運ばれてきた短剣が遺物潜りに使える事を確認して、キロは鞄に
しまう。
﹁︱︱それでは、行ってきます﹂
1569
クローナ、ミュトと手を繋ぎ、キロはアンムナ達に見送られて地
下世界への扉を潜った。
1570
第十七話 縄張りの出口
ひさしぶりの地下世界、そのスタート地点は地図師が亡くなった
袋小路だった。
﹁ミュト、特殊魔力で地図師を掘り起こしてくれ﹂
﹁地図師が埋まる前の状態まで時間を戻せばいいんだよね?﹂
キロが頷きを返すと、ミュトが地図師の上に乗っている土を過去
の状態に戻す。
土に埋もれていた地図師の下半身が出てくると、キロは地図師の
ポシェットを拾い上げた。
﹁ミュトは地図を過去の状態に戻してくれ。クローナは過去に戻し
た地図の干渉不可と効果時間を反転、効果が持続するようしてくれ﹂
﹁発見当時の状態まで魔法の併用で戻すんですか?﹂
﹁そうだ。このままポシェットに入れると、次の俺達がこの地図で
遺物潜り出来ないからな﹂
念を消費する関係上、遺物潜りでの移動は一つの遺品に付き定員
が存在する。再利用するためには遺品の状態を遺物潜りを行う前の
状態に戻さなくてはならない。
しかし、遺品が遺物潜りの媒体として使われる前に戻るという事
は、念の解消によって帰還の扉が開く事はなくなる。
クローナとミュトが地図に細工を施す間、キロは改めて地図師の
冥福を祈った。
ミュトから地図師の遺品である地図を受け取り、ポシェットの中
に忍ばせる。
1571
ポシェットを元の位置に戻した後、キロ達はその場を数歩離れ、
様子をうかがった。
すぐにミュトの特殊魔力の効果が切れ、土が再び地図師の上に覆
い被さる。
キロは不審な点がないかを確認して、天井を見上げた。
﹁これからロウヒの縄張りを抜けないといけないんだよなぁ⋮⋮﹂
ミュトが複製した地図師の遺品の地図を見つめ、ため息を吐く。
﹁ボク達がロウヒと戦った事がある以上、タイムパラドックスを避
けるならロウヒを倒しちゃうのもダメなんだよね﹂
下手に攻撃をすることができず、ロウヒの攻撃を逃れながら出口
を目指さなくてはならない。
﹁とにかく行きましょう。ここにいて別の私達と鉢合わせしたら、
台無しですから﹂
クローナが率先して歩きだす。
フカフカが道の先を照らしながら、鼻を動かした。
﹁まだ、あの地図師の匂いが残っておる。これならば、辿れるかも
しれぬな﹂
﹁匂いを辿れば出口につくのか?﹂
﹁ロウヒの縄張りに匂いが残っておればの話であるがな﹂
フカフカの鼻に期待しながら、ロウヒの縄張りの前に辿り着く。
フカフカがミュトの肩から降り、鼻をひくひくと動かしながら匂
いを探った。
1572
﹁微かだが、まだ匂いがある﹂
﹁前に来た時は縄張りの中の風で流されてたのか?﹂
奥行きが分からないほど広大なロウヒの縄張りには風が吹いてい
る。匂いが吹き散らされてもおかしくはなかった。
しかし、フカフカはミュトの肩へと戻りながら口を開く。
﹁おそらく、風ではないな。我らがこれから行う戦闘の余波による
ものだ﹂
﹁戦闘?﹂
﹁︱︱来るぞ、出迎えが﹂
フカフカの言葉にハッとして縄張りの奥に目を凝らす。
次の瞬間、ドンと音を立ててロウヒが目の前に現れた。
まだ洞窟道にいるキロ達へ攻撃を加えるつもりはないらしく、ロ
ウヒはその場で微動だにしない。
﹁我らの空は失われた。引き返せ﹂
ロウヒがキロ達へ忠告する。
キロは槍を構え、嘆息した。
﹁お前の空は食われたけど、俺達の空はまだ残ってるんだ。守るた
めにも、通してもらおうか﹂
キロは動作魔力を練り、フカフカを振り返る。
﹁俺がロウヒを引き付ける。その間に出口を探してくれ﹂
﹁あい、分かった﹂
1573
フカフカが請け負った直後、キロは駆け出した。
ロウヒが反応するより早く、キロはロウヒの横を走り抜ける。
唯一の侵入者であるキロを追いかけはじめたロウヒを見送り、ク
ローナとミュトが出口を探すべく走り出した。
ロウヒがクローナ達を振り返った瞬間、キロはその場で槍を掲げ、
小さな火球を生み出す。
キロが生み出した火球に反応したロウヒが再びキロへと目標を変
更した。
キロは火球を消すと同時に縄張りの奥へと走る。
クローナ達を見失わないように距離を保ちながら、キロはとにか
く走った。
いつまでも追いつけないキロの足の速さに業を煮やしたのか、ロ
ウヒが腕を上げ、水球を生み出す。
雷魔法が来るかと警戒したが、ロウヒはただ水球をキロの進路に
目掛けて投げつけるだけだった。
攻撃されない限り、極力人間に危害を加えないように行動するの
だろう。
﹁︱︱キロ! こっちの奥に出口がある!﹂
両手を筒状に組んで口に当てたミュトがキロに知らせる。
ミュトの隣ではクローナが杖を構えていた。
﹁撤退支援しますから、早くこっちに!﹂
﹁分かった!﹂
キロは動作魔力を駆使して加速する。
ロウヒが進路に立ち塞がるが、キロは横にあった天井を支える柱
に目を付け、裏へと回り込む。
1574
支柱の陰に隠れたキロが出てくるのを待つロウヒの頭上から、キ
ロは姿を現した。
支柱を動作魔力で駆け登った勢いそのままに、支柱の根元を監視
しているロウヒの頭上を抜く事で裏を掻いたのだ。
魔法で生み出した水で落下の勢いを殺したキロは地面に着地する
と同時にクローナ達へ走り出す。
キロの着地音に気付いたロウヒが振り返り、再び追いかけてくる。
だが、ロウヒが追い付くよりも、キロがクローナ達と合流する方
が早かった。
クローナが杖をロウヒに向ける。
﹁人の彼氏を追いかけまわしちゃだめですよ﹂
杖の先から解き放たれた魔力が突然巨大な水塊を生み出す。
ロウヒの動きが止まり、正面に石の壁を生み出した。
クローナは構わず水の塊を撃ち出す。
ロウヒが生み出した石壁に衝突し、水が激しく飛び散った。
その間に、キロ達は出口に向かって走り出す。
﹁フカフカ、出口を照らしてくれ﹂
ミュトの肩の上にいるフカフカに声を掛けると、すぐに光が進路
上に向けられる。
魔物らしき巨大なダンゴ虫の死骸が複数転がる先に、ぽっかりと
暗闇が見えていた。
魔物達は炎の渦にでも焼かれたようにまんべんなく焦げている。
﹁地図師を追いかけてロウヒに殺された魔物か﹂
だとすれば、間違いなく目の前の洞窟道が地図師の歩いて来た道
1575
だ。
その時、頭上から巨大な何かが風を切る音を聞いて、キロは慌て
てクローナとミュトを抱えて後ろに飛び退く。
直後、頭上からロウヒが着地し、地面を激しく揺らした。
先回りされたと気付くと同時に、ロウヒの手元に水球と紫電が準
備されている事に気付いたキロはクローナとミュトを抱えたまま近
くの支柱の陰へと走り込む。
キロが走り切った場所に次々と水球が投げ込まれ、支柱の陰に入
った瞬間、ロウヒの雷魔法が炸裂した。
ゴロゴロと耳をつんざく雷鳴の名残が、広大なロウヒの縄張りを
木霊となって駆け巡る。
﹁⋮⋮本家は規模が段違いですね﹂
﹁あぁ、俺のは猿真似だな。あんな規模で撃ってたら魔力がいくら
あっても足りない﹂
変な笑いが浮かんできそうなほどに、強力な雷魔法だった。
クローナの水球の規模から、ロウヒも本気での対応に切り替えた
らしい。
﹁クローナの足止めがあっても回り込まれるとは、少し甘く見てた
な﹂
キロはミュトに視線を向ける。
﹁出口までどれくらいか分かるか?﹂
﹁柱の陰からでも見えるよ﹂
ミュトと場所を入れ替え、キロは柱の陰から出口を見る。
1576
﹁目算五百メートルってところだな﹂
仕方ない、とキロは頭を切り替える。
﹁フカフカ、俺がナックルに入っているシールズの特殊魔力で出口
に転移する。込める特殊魔力の量を教えてくれ﹂
﹁我が山城で吐き捨てた魔力であるな﹂
﹁引っかかる言い方だけど、まぁ、その通りだ﹂
キロは支柱に手を当て、奥義を使って部分的に砕く。
支柱の破片を拾い上げ、ナックルから取り出したシールズの特殊
魔力を込めた。
フカフカの声がかかるまで込めた後、破片を出口へと投げ込む。
自らに当たる軌道ではないためか、ロウヒは微動だにしなかった。
しかし、ロウヒの両手には水球と雷が準備されている。
﹁それで、キロさんが向こうに行った後はどうするんですか?﹂
ロウヒの様子を窺いながら、クローナが訊ねてくる。
キロは左手にはめたナックルを見せた。
﹁ここに入っているクローナの特殊魔力を出口に張る。それを使っ
て位置を反転すれば、クローナ達も出口に到着できるって寸法だ﹂
キロは作戦を伝え、シールズの特殊魔力を発動する。
初めて使う特殊魔力であったため少し不安だったが、無事出口へ
とたどり着く事が出来た。
縄張りを振り返れば、支柱をにらみつけるロウヒの背中が見える。
キロは出口にクローナの特殊魔力を張り、ロウヒの向こうにいる
クローナ達へ声を掛けた。
1577
﹁準備ができた。発動してみてくれ﹂
キロの声で初めて存在に気付いたように、ロウヒが振り返る。
しかし、キロが縄張りの外にいるのを見て取って、再度支柱の向
こうにいるクローナ達へと視線を向けた。
しかし、ロウヒが支柱を見た時、すでにクローナとミュト、フカ
フカは位置を反転させて出口に辿り着いていた。
クローナが着地に失敗してたたらを踏むが、キロが抱き留めて転
倒を阻止する。
未だに支柱を見ているロウヒに気付かれないように、キロ達はそ
の場を後にした。
1578
第十八話 トットのゴロツキ
ロウヒの縄張りから半日ほど歩いて、キロ達は地下世界最上部に
ある街に到着した。
見るからに腕の立つ地図師や傭兵が行き来する大きな街だが、防
備の方には不安が残る造りだった。
﹁地図師協会に急ごう。地図を確認した後、準備を整えて宿をとる﹂
﹁急ぐにしても、私達が道中で死んでしまっては元も子もないです
からね﹂
地図師協会に入ると、職員や地図師が書棚や机に向かっているの
が見えた。
漏れ聞こえてくる会話を総合すると、ロウヒ討伐隊の解散に伴い、
周辺の地図が頻繁に更新されているらしい。
ミュトが上層の街へ向かう事を告げると、途中にある町トットに
最新の地図を届けてくれと頼まれた。
更新された箇所が非常に多いらしく、いくつかの街にある地図師
協会に更新分の配達をする人手が足りないらしい。
行きに必要な分の食糧も手配してくれるという。
﹁忙しいので、私はこれで﹂
言葉の途中で立ち上がった職員は、言い切る前に背を向けてすた
すたと歩き去った。
ともあれ、地図も食料も確保できたため、キロ達はすぐに宿を探
し、一部屋を借りた。
ロウヒ討伐隊解散の余波で部屋が一つしか空いていなかったのだ。
1579
それでも、部屋が空いていたのは運が良いと宿の主が言うのだか
ら、納得せざるを得ない。
言葉少なに仮眠をとり、キロ達はすぐに街を出発した。
二日間で最上層を降り、キロ達は最上層最下端の町、トットに到
着した。
町の外周を囲む石垣を抜け、キロはトットに足を踏み入れる。
前回訪れた時よりもはるかに人が多く、剣呑とした雰囲気を醸し
出していた。
﹁なんか、空気がピリピリしてないか?﹂
キロが同意を求めると、クローナは細めた目で周囲を見回して頷
いた。
ミュトがキロの袖を摘まみ、不安そうに周りを見る。
﹁もともと、最上層級地図師になった人が多くて喧嘩が多い町だけ
ど、なんか変だね﹂
キロはそれとなく大通りの人間を観察し、気付く。
全員がいつでも戦闘に入れるように間合いを取ってすれ違ってい
るのだ。
一触即発の雰囲気を纏いながらすれ違う人間も最上層に足を踏み
入れる人種だけあって強そうな者が多い。
﹁⋮⋮迂回した方が良くないか?﹂
荒っぽい面倒事の匂いを感じて、キロは提案する。
しかし、ミュトが困ったような顔で首を振った。
1580
﹁地図師協会に行って依頼の地図を配達しないと⋮⋮﹂
﹁仕方ないか。早めに済ませてトットを出よう。野宿になるけど、
我慢してくれ﹂
今度の提案は全員が了承し、キロ達はトットに足を踏み入れる。
地図師協会に向かって歩き出してすぐ、フカフカが耳を動かして
舌打ちした。
﹁剣呑な空気の原因が分かったぞ﹂
﹁あまり愉快な話ではなさそうだな﹂
﹁聞いておけ。我らにも関係する話だ﹂
﹁俺達が? なんで?﹂
キロは驚いてフカフカを見る。
フカフカは不愉快そうに周囲を見回し、鼻を鳴らした。
﹁ランバル率いるロウヒ討伐隊が失敗したと聞いて、ランバル傭兵
団の商売敵がバカにしに来たらしい。だが、ランバルの知り合いが
トット近くの氷穴の町にてムカデの守魔を倒した話が広まり、守魔
を倒した地図師の実力を見せてみろと話が広まっているようである﹂
﹁おい、関係するどころか当事者になってるだろ、それ。さっさと
逃げよう﹂
知らぬ間に面倒事の渦中に放り込まれていた事に戦々恐々としな
がらも、キロが足を速めた時だった。
正面から歩いてきていた数人の傭兵がキロを見て足を止める。よ
り正確に言えば、傭兵達の視線はキロの頭に注がれていた。
フカフカが尻尾を力なく揺らす。
1581
﹁その頭で逃げ切れるはずがなかろう。ここは地下世界なのだから
な﹂
﹁あぁ、畜生、ここは黒髪が目立つ世界だった!﹂
キロは額に手を当て、諦める。
傭兵達がキロを遠巻きにしながら、隣のミュト、クローナに気付
いて意見を交わしている。
キロ達は面倒事を避けたい一心で道を曲がり、傭兵達を迂回して
地図師協会に向かう。
傭兵達が後ろをついてきた。
それも、人数が徐々に増えていく。
﹁集団ストーカーかよ。怖いっての﹂
キロは極力後ろを見ないようにするが、足音だけで人数の増加が
分かる。
しかし、一向に傭兵達は声を掛けてこなかった。
キロの黒髪もクローナの茶髪もこの世界では非常に珍しいため、
本人かどうかの確信が持てないとは考えにくい。
ではなぜなのか、とキロ達が視線で意見を交わしていると、答え
が通りの向こうに見えてきた地図師協会から現れた。
﹁︱︱ボス! 守魔を殺した奴を見つけました!﹂
ボスと呼ばれた人物が振り返る。
細身の老人だった。
どこかで見た事がある気がしたが、それ以上に細身の老人の肩に
乗っている尾光イタチに視線が行く。
﹁⋮⋮サラサラ?﹂
1582
さらさらした毛並みを持つ、行き倒れているところをキロ達に助
けられた事のある尾光イタチだった。
サラサラと呼ばれた尾光イタチはむっとしたように尻尾を大きく
振る。
﹁誰かと思えばキロ達じゃったか。その節は世話になった﹂
﹁ラノン・ロナン、知り合いか?﹂
細身の老人がサラサラに問いかける。
フカフカがショックを受けたように尻尾を明滅させた。
﹁本名で呼ばれておる、だと⋮⋮?﹂
﹁驚くのはそこかよ﹂
キロは素早くツッコミを入れるが、フカフカの尻尾に強烈なビン
タをされ、口を閉ざす。
細身の老人がキロを見て、目を細める。
﹁よく見てみればいつかの反応の良いガキか﹂
老人もキロに見覚えがあるらしい。
首を傾げるキロの袖をクローナが引っ張った。
﹁初めてトットに来た時、酔っ払いの男の人を二人蹴り飛ばしてた
人ですよ﹂
﹁そういえばあったな、そんな事﹂
その後があまりにも強烈過ぎて完全に記憶から抜け落ちていたキ
ロはようやく思い出す。
1583
細身の老人はキロをじろじろと眺めた後、眉を顰める。
﹁守魔をやったそうだが、事実か?﹂
﹁氷穴でムカデの守魔を倒した事なら、俺だけじゃなくて十人くら
いでやったけど︱︱﹂
﹁なに言ってるか分からん。⋮⋮まぁ、これで判断付くかッ!﹂
キロが最後まで言い切る前に、細身の老人が一気に距離を詰めて
きた。
キロは半ば反射的に戦闘態勢を取り、一歩踏み込む。
細身の老人が繰り出した拳を現象魔力で生み出した水にうねりを
加えて弾き飛ばし、キロは槍の石突きを突き付けようとする。
しかし、細身の老人はすでに後方に飛び退いていた。
﹁やはりな。守魔をやったのは事実か﹂
感触を確かめるように拳を握ったり開いたりした細身の老人は、
キロの後ろに声を掛ける。
﹁納得いかねぇ奴はその男に挑んでみろ﹂
﹁ちょっと待て、俺は戦うつもりは︱︱﹂
断ろうとしたキロをじろりと睨み、細身の老人は口を開く。
﹁ここはトットだ。お前を見ただけで実力を判断できる奴はもっと
上に行く。ここに溜まってるようなバカ共が血気逸って守魔に挑み
かからねぇように叩きのめせ﹂
有無を言わせぬ口調で命令した老人は、キロの後ろに溜まってい
る傭兵達に聞こえるように声を大きくする。
1584
﹁どうせ、そこのバカ共じゃ束になってもお前には勝てねぇんだか
らよ﹂
後方から敵意が波となって押し寄せてくるのを感じて、キロは振
り返る。
細身の老人に煽られた傭兵達がキロを睨みつけていた。
細身の老人の肩に乗ったサラサラがキロ達に声を掛ける。
﹁ボスと呼ぶ相手の忠告も聞かずにキロ達を探し回っておった間抜
け共じゃ。大して強くはない﹂
﹁なんでそうやって火に油を注ぐのかな?﹂
ミュトがサラサラを睨むと、面白そうに尻尾を揺らしたサラサラ
が答える。
﹁儂らも付きまとわれて面倒に思っておったのじゃ﹂
﹁ランバルに対抗する傭兵団作りなんて面倒な事するかよ。おいバ
カ共、その男を倒せるくらい腕が立つなら傭兵団設立の件、考えて
やらぁ。まぁ、無理だろうけどな﹂
鼻で笑って、細身の老人は近くの酒場に入って行った。
ミュトの肩から成り行きを見守っていたフカフカが傭兵達を振り
返る。
﹁⋮⋮つまり何か、お前達は傭兵団でも何でもない、ただのゴロツ
キか?﹂
フカフカの言葉が決め手となり、ゴロツキ傭兵達が一斉に動き出
す。
1585
細身の老人が絶対勝てないと太鼓判を押すだけあって、傭兵達の
動きは連携も取れておらずバラバラだった。
町中とはいえ一般人は巻き込まれるのを嫌ってすでに近くの建物
へ避難しているため、人通りはない。
さらに、傭兵達はキロを倒すのは自分だと意気込んで狭い道を密
になって走り込んでくる。
やる事など、決まっていた。
﹁クローナ、水﹂
﹁もう作りました。えい﹂
気合の入らない掛け声と共にクローナが水塊を傭兵達に投げつけ
る。
キロはさっさと終わらせようと、紫電を纏った右手を傭兵達へ向
けた。
1586
第十九話 トットでの再会
﹁ほらな、すぐ終わるって言ったろ﹂
酒場で芸術的なまでに薄く削られた石のコップを傾ける細身の老
人が、酒場に入ってきたキロ達を見て声を上げる。
﹁そこに掛けろ。奢ってやる。迷惑かけちまったからな﹂
細身の老人はキロ達が断る前に手早く注文を済ませて、机を挟ん
だ向かいの席を顎で示した。
顔を見合わせるキロ達に対して目を細めると、細身の老人は口を
開く。
﹁用事でもあったか?﹂
﹁特層級地図師のラビルさんに会いに行く途中です﹂
キロが答えると、細身の老人は拍子抜けしたような顔をして、机
の上に丸くなっていたサラサラに声を掛ける。
﹁地図師協会にまだいるだろ。呼んで来い﹂
﹁仕方ないのぉ。光虫二匹で動こう﹂
﹁使いを済ませたらくれてやる。早く行け﹂
細身の老人が追い払う様に手を動かすと、サラサラは鼻を鳴らし
て机を飛び下り、地図師協会へ走って行った。
﹁ラビルさん、トットに来てたんですか?﹂
ミュトが首を傾げて問うと、細身の老人はコップを空にする。
1587
﹁来てなきゃ呼ばん﹂
細身の老人の態度の悪さにむっとしたフカフカが尻尾を一振りす
る。
キロ達は三人並んで細身の老人の向かいの席に腰かけた。
その時、バタバタとあわただしい音が聞こえて来たかと思うと、
酒場の扉が勢いよく開かれた。
﹁おい、表の連中にロウヒの魔法を炸裂させた奴はいるか⁉﹂
細身の老人が怪訝な顔を向けた先、扉を押し開けた人物は酒場を
ぐるりと見回し、キロ達に気付く。
同時に、キロの向かいに座る細身の老人に気付き、舌打ちした。
細身の老人は肩を竦め、手招く。
﹁ランバル、このガキ共はお前の知り合いだろ。こっち来い﹂
﹁命令するんじゃねぇよ﹂
﹁やかましい。良いから座れ。お前が探してたのもこいつらだ﹂
細身の老人の言葉を聞いて、ランバルが怪訝な顔でキロ達を見る。
﹁本当か?﹂
﹁やったのはキロとクローナだよ﹂
ミュトの言葉を受けて、キロが左手に紫電を纏わせると、ランバ
ルは苦い顔をして細身の老人の隣に座った。
キロ達三人が並んで座っているため、空いている席は細身の老人
の隣しかないのだ。
1588
﹁どうしてお前がその魔法を使える?﹂
机に頬杖を突いて、ランバルは不機嫌そうに訊ねる。
地下世界の言葉を話せないキロとクローナに代わり、フカフカが
ミュトの肩の上から答える。
﹁話せば長い事であるが、端的に言えばロウヒと戦ったのだ﹂
﹁お前ら三人と一匹で? なんでそんな無茶する事になったんだ﹂
怪訝そうなランバルに、ミュトが落盤浸水事故に巻き込まれた事
を話す。
ミュトは話しながら鞄から地図を取り出した。亡くなった地図師
が遺した地図を複製した物だ。
﹁これがロウヒの縄張りの一部と、上に向かう洞窟道の位置を記し
た地図だよ﹂
﹁︱︱ロウヒの縄張りの、上か⁉﹂
ランバルが身を乗り出して地図をひったくる。
地図を凝視した後、ミュトを睨むように見た。
﹁お前達は上に行ったのか?﹂
いつの間にか、酒場はしんと静まり返っていた。
酒場の客のみならず、店員までもがミュトとランバルの会話に聞
き耳を立てている。
最上層の下端に位置するこのトットに、一般人は存在しない。
トットに定住する人間でさえ、かつては地図師や傭兵として最上
層を歩き回っていた実力者達なのだ。
そんな彼らには、文字通り最上の存在であるロウヒに忸怩たる思
1589
いがある。
誰もがロウヒのさらに上を目指し、追い返されてきたのだ。
ミュトは自らが口にする言葉の重みを酒場の空気から読み取った
らしい。
委縮しかけたその肩を、キロとクローナが両側から支えた。
ミュトが二人の顔を見た後、深呼吸して口を開く。
﹁ロウヒの縄張りの上には、悪食の竜の縄張りがあった﹂
可能な限り厳かにミュトが事実を告げた時、酒場の扉が開かれる。
﹁︱︱それは興味深いね﹂
わざわざ肩に乗せたサラサラの尻尾を強く発光させながら酒場に
入ってきたのは、特層級地図師ラビルだった。
静まり返っていた酒場へ絶妙なタイミングで入ってきたラビルに、
フカフカが胡乱そうな視線を向ける。
あからさまにタイミングを見計らったラビルの登場に突っ込みを
入れたいのだろう。
だが、フカフカより先に酒場の客がラビルに言葉の棘を突き刺し
た。
﹁おい、そこの地味な奴。横やり入れるな。引っ込んでろ﹂
﹁そうだ。今そこの連中は歴史に功績を残すようなド派手な話して
んだよ﹂
口々にひっこめコールを送る客達にラビルがたじろぐが、細身の
老人とランバルに手招かれ、救いを見つけたように机へ歩いてくる。
席に着いたラビルを横目に見た細身の老人は、ため息交じりに口
を開いた。
1590
﹁扉からちらちら覗くような湿気た真似するからだ﹂
﹁え、覗かれてたの?﹂
ミュトが驚いたようにラビルを見る。
キロとクローナも全く気配を感じ取れなかったことに驚き、ラビ
ルを見る。
すると、ラビルはニコリと笑って見せた。
﹁自分を誰だと思っているんだい? 背景に紛れるなんて、朝飯前
⋮⋮なんだ。ほら、地味だからさ⋮⋮﹂
発言の途中で墓穴を掘った事に気付いたらしく、ラビルの声はど
んどん小さくなった。
鬱陶しそうにランバルがラビルの頭を小突く。
﹁お前の自己紹介はどうでもいい。それより、お前は遺跡調査をし
ていたはずだろ。なんでここにいる?﹂
キロ達も聞きたかったことをランバルはラビルに問いかける。
﹁よくぞ聞いてくれた﹂
途端に胸を張ったラビルは酒場の客にも聞こえるように声を大き
くした。
﹁遺跡の調査は終わり、自分は様々な新事実を見つけ出したんだ。
つまり、古のおとぎ話とされていた悪食の竜の正体と、ロウヒが何
故、造られたのかを突き止めたわけさ﹂
1591
酒場の客達が胡散臭いモノを見るような目を向ける。
客達の視線に心を折られたラビルの肩が落ちた。
しかし、キロ達にとってラビルの発言は願ってもない物だ。
ミュトがラビルに声を掛ける。
﹁悪食の竜が空を食べるだけで満足した理由も判明したんですか?﹂
誰もが与太話と一蹴する空の話をミュトが持ち出した事で、客達
が困惑する。
打ちひしがれていたラビルが顔を上げる。ほんの一瞬前からは想
像もつかないような真剣な表情を浮かべていた。
﹁その理由を話すためには一から説明する必要があるけれど、結論
を先に言っておこうか﹂
客達の存在を完全に無視して話を切り出したラビルは、淡々と告
げる。
﹁︱︱生贄だよ﹂
1592
第二十話 悪食の竜への贄
﹁かつて我らの頭上には遥かな蒼き大空と草木に覆われた見渡す限
りの広大な土地が存在した。名を、地上﹂
ラビルはおとぎ話の一節を静かに口ずさみ、一呼吸おいて続ける。
﹁これは事実であり、歴史だ。それを念頭に置いてもらいたい﹂
﹁前提からおかしいじゃねぇか︱︱﹂
否定しにかかった酒場の客の眼に、フカフカが強烈な光を照射し
た。
顔を両手で覆って苦しむ客を無視して、ラビルが話を続ける。
﹁自分達の先祖は地上を主な生活の場としていたが、そこに侵入者
が現れたんだ﹂
﹁悪食の竜か?﹂
ランバルが答えを先回りすると、ラビルは頷きを一つ返した。
﹁ご名答。悪食の竜は此処とは別の世界から現れた存在︱︱いや、
自然現象だ﹂
ラビルはランバルの答えに補足して、自らの鞄の中から紙束を取
り出した。
机に置かれた紙にはびっしりと文字らしきものが連ねてある。
キロには読めない文字だったが、ミュトやフカフカは食い入るよ
うに紙束を見つめ、文字を追っていた。
1593
﹁別の世界の存在で自然現象ってのはどうにも座りの悪い表現だな。
生き物なのかどうかあやふやじゃねぇか﹂
細身の老人が呟くと、ラビルが苦笑する。
﹁実際、生き物のような形態を取る自然現象なんだ﹂
ラビルは紙束の表面を指先でなぞった。
﹁遺跡の文章を現代語に直訳しただけで悪いけど、この文を読んで﹂
文字の読めないキロとクローナに配慮してか、フカフカがすかさ
ず紙の上の文字を音読する。
﹁無の世界より現れた悪食の竜は何もかもを食らいながら成長する、
とあるな。古代でも食らうと表現しておるのだから、生き物とみら
れていたようであるな﹂
尻尾で机の上を軽く叩いたフカフカがラビルを見上げた。
悪食の竜に関する情報はこれだけなのか、と問いたげなフカフカ
に、ラビルは緩く微笑んだ。
﹁この文章で注目すべきところはまだあるよ。一つは悪食の竜が食
べた物を空ではなく、なにもかも、と表現している点、そして、何
が悪食の竜を成長させる要素となったかという点だ﹂
フカフカがふむ、と鼻を鳴らす。
食べる、と表現するからには、悪食の竜が何かを食べる理由が栄
養補給であると地下世界の古代人は考えていたことになる。
1594
だが、古代人は同時に、悪食の竜が自然現象であるとも考えてい
た。
ランバルが腕を組み、口を開く。
﹁持って回った言い方で少しでも長く注目を集めたいんだろうが⋮
⋮早く結論を話せ﹂
﹁そんな下心はないよ! まったく、せっかちだなぁ﹂
ラビルは不貞腐れたように言って、紙束をめくる。
﹁結論から言って、悪食の竜が食べるのは対象空間の過去。より正
確に言えば、対象空間が過ごしてきた時間という名の可能性だ﹂
いきなりの抽象的な話にキロ達は一斉に頭の中に疑問符を浮かべ
た。
キロ達の反応に、そら見た事か、とラビルが肩を竦める。
こうなる事が分かっていたから、ラビルは順序立てて説明しよう
としていたのだろう。
﹁悪食の竜は無の世界で発生すると別の世界の可能性を食らって成
長し、成長限界を迎えると死亡する。そして、今まで食らってきた
世界の可能性をまとめて新たな世界を構築すると考えられている。
つまり、世界の破壊と創造を行う自然現象だ﹂
ラビルの追加説明を聞き、キロの脳裏に一つの解が浮かんだ。
同時に、現代社会での大原との会話がよみがえる。
﹁ビックバン、か﹂
﹁ビックバン?﹂
1595
キロの呟きを聞き取ったミュトが首を傾げながらも繰り返す。
翻訳が機能したものの、言葉の意味までは分からなかったのだろ
う。
しかし、ビックバンに相当する語句を遺跡で発見したらしいラビ
ルはキロを見て頷いた。
﹁キロ君が何故知っているのか分からないけど、それであってると
思うよ﹂
︱︱悪食の竜は世界の再構築を行うべく別の世界を食らっている。
しかし、食らうのはあくまでも対象空間の過去の可能性のみ。
キロは頭の中で整理し、ミュトに翻訳を頼み、ラビルに向き直る。
﹁悪食の竜は食らう世界を選別してますか?﹂
﹁その世界に残った可能性の多寡で選別していると考えられていた
ようだよ。悪食の竜もお腹いっぱい食べたいだろうからね﹂
ラビルが冗談めかして言うと、フカフカが不愉快そうに机を叩い
た。
空を食われた身としては、理不尽な動機だからだろう。
ラビルは紙束をめくり、話を続ける。
﹁ただ、古代の人々はもう一つ、悪食の竜の好みを特定した。それ
が、この世界が地下だけとはいえ残っている理由でもある﹂
﹁魔力食ですか?﹂
クローナが先回りして問うと、ミュトの翻訳を挟んで聞いたラビ
ルが驚きに目を丸くする。
﹁なぜそれを?﹂
1596
﹁実際に悪食の竜に魔力を食べられてしまったので﹂
クローナは虚無の世界で自殺するまでの記憶を有している。
つまり、悪食の竜から逃れようと逃げた事も覚えているのだ。
クローナが自殺して逃げ道を作り出したあの時、本来干渉不可の
はずのミュトの特殊魔力までもが悪食の竜によって食べられている。
ミュトが特殊魔力で過去に戻した空間は、悪食の竜が普段から食
べている餌だ。
いま考えれば、二重の意味で食べられて当然だったのだろう。
ミュトを介して悪食の竜との出会いを聞かされたラビルは険しい
顔をした。
﹁話を聞く限り、悪食の竜が食べるのはあくまでもその時点での過
去の可能性みたいだね。だから、食べられた空間は無の世界として
存在し続けられる、と。しかし、困ったね⋮⋮﹂
﹁困った?﹂
確かに当時は困ったけれど、とキロは首を傾げるが、ラビルはた
め息を吐いて首を振った。
﹁とりあえず、話を戻そう。悪食の竜は魔力食生物であり、一度食
らった世界については一度腹に収めた魔力の大本が全て断たれない
限り食事をやめない。古代の人々は悪食の竜が食べる順番を調べ、
今までに奴が食らった魔力を全て特定した﹂
ラビルは紙束の最後のページをめくる。
そして、机の上のフカフカと、細身の老人の肩の上で光虫の触覚
をくわえて食事をしているサラサラを見る。
﹁そして、魔力を食われていない人間を地下へ、魔力を食われた人
1597
間は地上へそれぞれ分かれた。研究の結果生み出した魔力食生物ま
でも使い、徹底的に魔力を分離したんだ。結果、地上の人々は悪食
の竜に食い尽くされるが、種としての人類は地下で生き延びる事に
なる﹂
﹁それって、最初に言った生贄?﹂
ミュトが顔をしかめて問うと、ラビルは静かに首肯した。
﹁ここでロウヒが出てくる。ロウヒは人類が隔離政策を徹底するた
めに生み出された地下と地上を隔てる門番なんだ﹂
﹁我らの空は失われた、とロウヒが繰り返しているのは地下の人間
への報告か﹂
ロウヒの言葉を思い出したフカフカが呟く。
地上の人類が全滅した事を知らせるロウヒの報告。古代の人々が
その報告に何を思ったのかは分からない。
ラビルが紙束を机の上から回収し、鞄の中へと片付ける。
﹁それにしても、本当に困ったね﹂
ラビルがぼやくように口にする。
﹁悪食の竜がキロ君達の魔力を食らったという事は、すぐにでもこ
の世界に現れかねない﹂
﹁︱︱え?﹂
ラビルの言葉に、ミュトとクローナが同時に声を上げる。
遅れて気付いたキロはため息を吐いた。
﹁そうか。悪食の竜は魔力を辿って最優先に俺達を狙ってくるのか﹂
1598
﹁そう、本当に困った事態だよ﹂
キロの言葉を理解していないはずのラビルが同意するように呟い
て、天井を見上げる。
﹁なにしろ、ロウヒまで君達を連れ戻しに来るだろうからね。八千
年ぶりの生贄を地上へ連れ戻しに、さ﹂
﹁︱︱は?﹂
今度はキロまで呆気にとられてしまった。
しかし、考えてみれば当然の事だ。
ロウヒの使命は、悪食の竜による食害を地上だけに食い止める事
なのだから。
縄張りを抜けて地上に出たはずのキロ達が地下へ戻っていると分
かれば、連れ戻しに来るだろう。
﹁⋮⋮ロウヒって、魔力食生物だよな。俺達の魔力を辿ったりでき
るのか?﹂
外れてほしいキロの予想を、フカフカが冷酷に肯定する。
﹁余人ならばいざ知らず、お前達は全員が特殊魔力の保持者である。
鼻が利くモノならば、追う事など容易いだろう。ロウヒの縄張りか
らここまでであれば、我でも辛うじて可能である﹂
キロは慌ててクローナに視線を移す。
すでにクローナは鞄から日記を引っ張り出し、日数を計算してい
た。
﹁⋮⋮多分、明日の内に遭難した私達がロウヒの縄張りを強行突破
1599
します﹂
﹁ややこしい事になってきたな﹂
今のキロ達がロウヒの縄張りを抜けて最上層下端の町トットにい
る一方、過去のキロ達は遭難した挙句にロウヒの縄張り抜けようと
している。
果たして、ロウヒは縄張りを抜けたはずの人間がいつの間にか地
下にいる事に気付いた時、どう動くのか。
キロはシールズの特殊魔力を思い出す。
﹁なぁ、俺、ロウヒの前で⋮⋮﹂
﹁空間転移の特殊魔力、使っちゃいましたね﹂
クローナが引き攣った笑みをキロに向けた。
ミュトが頭を抱え、フカフカがキロの右手、シールズの特殊魔力
が入っていたナックルを叩いた。
1600
第二十一話 かつての嫌われ者
ロウヒが追ってくるかもしれないとなれば、暢気に町で過ごして
いる場合ではない。
キロはラビル達に礼を言い、クローナとミュトを促して席を立と
うとする。
しかし、ラビルから待ったがかかった。
﹁キロ君達はこれからどこへ行くつもりかな?﹂
﹁ロウヒが追ってくる前に縄張りに行くしかないでしょうね﹂
﹁その後は?﹂
ラビルに問われ、キロは口を閉ざす。
翻訳していたミュトが困ったようにキロを見た。
キロはロウヒの縄張りに着いた後、遺物潜りを使ってクローナの
世界に飛ぶつもりでいた。
キロ達が地下世界から消えてしまえば、ロウヒも自らの縄張りを
離れず、悪食の竜が地下世界をまた食らい始める事もない。
しかし、ラビル達に遺物潜りについて話すべきか、迷った。
キロの迷いを、予定を考えていなかったと解釈したランバルが腕
を組んでため息を吐く。
﹁ロウヒの縄張りを越えた場所で一生過ごすつもりか?﹂
どう答えた物かと考えるキロの腕を取ったクローナが耳打ちする。
﹁⋮⋮もう遺物潜りについて話した方が建設的な話ができると思い
ます。ここだと周りの人が聞き耳立てているので、場所を移しまし
1601
ょう﹂
﹁⋮⋮そうだな。場所を移して詳しく話そう﹂
キロがミュトを介してランバル達に告げると、不審そうな顔をし
つつもランバルとラビルが立ち上がる。
一人席に着いたままの細身の老人は、キロと眼が合うとあっちに
行けとばかりに手を振った。
﹁見込みのあるガキだが、手を貸す義理もないんでな。奢る約束だ
ったが、地図師協会に持って行けばいいか?﹂
﹁それでお願いします。では、これで﹂
キロもさらりと別れを告げ、つま先を酒場の出口に向ける。
酒場を出た五人と一匹はその足で斜向かいの地図師協会に入った。
ずらりと並んだ書架を無視して、キロ達は隅へと進む。
地図の複製などを行えるよう広い机などが置かれている場所で、
キロは遺物潜りについて説明した。
キロとクローナが異世界出身と聞いて驚きの表情を浮かべるラン
バルとは異なり、ラビルは納得したような顔でキロとクローナの髪
を見る。
﹁︱︱つまり、ロウヒの前で遺物潜りという魔法を使えば追われる
心配はなくなる、という事か﹂
ラビルはキロが頷いたのを見て、考えるように天井を見上げた。
﹁ロウヒは、君達が空間移動したのか、異世界へ旅立ったのかを判
別できるのかな?﹂
﹁魔力を辿れるはずですから、俺達の魔力が無くなればロウヒも動
きません﹂
1602
﹁つまり、ロウヒは君達がこの世界のどこに居ても魔力を辿れるの
かな?﹂
ラビルの質問に、キロは頷けなかった。
そもそもロウヒが動くという根拠もないのだが、リスク管理上は
最悪を想定すべきだ。
キロはしばし考えた後、口を開く。
﹁いずれにせよ、ロウヒの縄張りのそばまで行かないといけません。
それでロウヒが動き出さなければそれでよし、動き出した場合は⋮
⋮ロウヒの縄張りでどちらかが倒れるまで戦うしかないですね﹂
﹁なら、今すぐにでも向かおうか。ロウヒが動き出してからでは遅
いからね﹂
結論が出た所で、ラビルが立ち上がった。
﹁ランバル、どうせロウヒ討伐隊の時に確保した食料がまだ上にあ
るんだろう? 使わせてもらっても構わないね?﹂
﹁ロウヒ討伐隊第二陣ってところか。ちと人数が少ないが、少数精
鋭だな﹂
言葉を交わすラビルとランバルを見て、ミュトがおずおずと質問
する。
﹁⋮⋮あの、ラビルさん達も行こうとしてる?﹂
﹁当然だよ﹂
ラビルは、今さら何を聞くのか、という顔でミュトを見る。
﹁君は地図師に嫌われているかもしれないが、自分は君を嫌ってい
1603
ない。村の防衛にも積極的で、マッドトロルの包囲網を命がけで抜
けてきたんだ。嫌うどころか、尊敬するよ﹂
あっけらかんと言い放つラビルに、ミュトは目を丸くした後、キ
ロの袖を掴みつつ、小さく呟く。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ミュトの反応を不思議そうに見た後、ラビルはハッと気づいたよ
うに目を見開く。
﹁今、自分は凄くカッコいい事を言わなかったかい?﹂
﹁まさに今、台無しにしたがな﹂
﹁なんてことだ⋮⋮﹂
ランバルが半眼を向けると、ラビルは絶望に染まった顔で膝をつ
いた。
ランバルはラビルを見下ろした後、ため息を吐く。
﹁部下が迷惑を掛けた一件、借りを返すいい機会だ。手を貸すぞ﹂
ミュトが袖を掴む力が増して、キロは横目を向ける。
目が合うかと思ったが、ミュトは瞑目して何事かを考えているよ
うだった。
ミュトの肩の上で、フカフカが見極めるように目を細め、尻尾も
含めて微動だにしていない。
やがて、考えがまとまったのか、ミュトは目を開いた。
﹁ありがとうございます。では、力を貸してください﹂
1604
ミュトは小さく息を吐き出した後、口を開く。
﹁お二人には先行して、ロウヒが動く可能性がある事を街や村に報
告してほしいんです。ラビルさんは特殊魔力での移動ができるし、
ランバルさんは組織力による人海戦術があります。社会的な信用も
あるから、注意喚起や避難誘導も滞りなく進められるはずです﹂
﹁君達はどうするつもりかな?﹂
ミュトはキロとクローナを見る。いつもの不安そうな目ではなく、
信頼の込められた視線だった。
ミュトが言わんとするところを察し、キロとクローナは揃って頷
きを返す。
ミュトは微笑んで、ラビル達に向き直った。
﹁ここからまっすぐロウヒの縄張りに向かいます。ランバルさん、
馬を貸してくれませんか?﹂
ランバルが席を立つ。
﹁貸す? 馬鹿言うな。くれてやる。後で若い奴にここへ運ばせる
から、受け取れ﹂
剛毅な台詞を言い放ち、ランバルがキロ達に背を向ける。
﹁⋮⋮ったく、欲がなくとも最近の若い奴はでかい事しようとする
じゃねぇか﹂
心底愉快そうに呟いて、ランバルは協会を出て行く。
ランバルの背中を見送って、ラビルが頭を掻いた。
1605
﹁聞いたかい、今の。あんな豪快な台詞、一度大勢の人の前で言っ
てみたいよ﹂
情けない言葉を口にしながら、ラビルが席を立つ。
﹁自分はランバルより先に未踏破層との境に向かうとしよう。あの
辺りはロウヒ討伐隊の解散以降、人がばらけてしまっているからね﹂
協会の職員にリトグラフ用の石板を借り受けたラビルは、特殊魔
力を込めて上に乗る。
﹁さぁ、特層級地図師の権力を存分に振るって目立てる絶好の機会
だ。ランバルの仕事を奪う勢いで働くとしようかな!﹂
ぐっと拳を握ったラビルは不純な動機を語り、協会を出発した。
キロ達はラビルの後ろ姿を見送り、ランバルからの馬が届くのを
待つ。
フカフカがミュトの肩で尻尾を軽く左右に振っている。
﹁かつての嫌われ者が、他者の手を借りておる﹂
﹁⋮⋮別に悪い事じゃないでしょ﹂
ミュトが唇を尖らせて、フカフカを横目に睨む。
すると、フカフカは尻尾を大きく振り上げ、ミュトの背を叩いた。
﹁︱︱良い事に決まっておる﹂
1606
第二十二話 ロウヒ討伐戦
ランバルから借りた馬で洞窟道を駆け登ること丸一日、キロ達は
再びロウヒの縄張りまで来ていた。
﹁この洞窟道ってもっと長い直線だった気がしますけど﹂
クローナが洞窟道の先を見つめながら、呟く。
クローナの視線の先にはロウヒがいた。
中途半端に挙げた手を洞窟道の入り口の壁面に食い込ませたまま、
動きを止めている。
ミュトが手元の地図と洞窟道を見比べ、口を開く。
﹁ロウヒがここまで掘り起こしたみたいだね。三分の一くらいは削
られているみたい﹂
﹁理由は︱︱さっきから呟いてくれてるな﹂
キロは動きを止めているロウヒを見て、ため息を吐いた。
キロ達の接近に気付いて動きを止めたロウヒを観察する。
美しい女を模した真っ白な石像、高さは八メートルほどもあり、
美しい外見の中に、大量の魔力を保持している。
ロウヒは先ほどから同じ言葉を延々と繰り返していた。
﹁地上へ戻りなさい。この警告を無視した場合、連れ戻します﹂
キロ達が前進も後退もしないからだろう、ロウヒは次の行動に移
ろうとはせず、同じ警告を発し続けている。
迎えに行く途中でキロ達が戻ってきたため、強制的に連れ戻すた
1607
めの条件がそろっていないのだろう。
﹁八千年たった今でも製作者の命令を忠実に守り続けるとは、忠義
者であるな﹂
フカフカが感慨深げに呟いて、キロを見た。
﹁どうするのだ?﹂
﹁このまま俺達が別の世界に行っても、ロウヒが俺達を探して地下
世界中を動き回るだろ?﹂
﹁あの剣幕であるからな﹂
フカフカがロウヒの後方に山と積まれた土を見て、キロに同意す
る。
倒すしかない、と全員が意見を共有したところで、キロはロウヒ
の縄張りに目を向ける。
﹁最初から全力で攻撃するけど、この洞窟道で戦うとロウヒの攻撃
を避けられない。地上へ戻る振りをしてロウヒの縄張りの半ばまで
入ったら、攻撃開始だ﹂
﹁いっそ、虚無の世界と通じている洞窟道から縄張りを見下ろす形
で攻撃した方がいいかも知れませんよ?﹂
﹁いや、ロウヒの製作者だって、地上から地下へ逃げ出す生贄がい
る事は想定していた。という事は、集団で地上側から攻撃され、ロ
ウヒが壊される可能性も気付いていたはずだ。対策はしているだろ
う﹂
実際、今のロウヒは地上からの逃亡者とキロ達を混同し、連れ戻
そうとしているのだ。
地上に通じる洞窟道から攻撃を受けた場合、ロウヒが迎撃に移る
1608
可能性がある。そうなれば、狭い洞窟道でロウヒの広範囲魔法を浴
びせられ、なす術が無くなる。
キロの説明にクローナは納得して、作戦を引っ込めた。
﹁縄張りの中央付近に着くまで、魔力は練らぬほうがよい。ロウヒ
が魔力食生物である以上、戦闘の準備を気取られては抵抗の意思あ
りと見なされかねん﹂
フカフカがキロの作戦の穴を埋める。
いくつかの作戦を話し合い、キロ達はロウヒに向き直った。
ゆっくりと歩き、ロウヒへ近づく。
ロウヒが静かに下がり、キロ達に道を開けた。大人しく地上に戻
る限り、攻撃してこないらしい。
縄張りの奥、遭難したキロ達が目指した虚無の世界へ続く洞窟道
へと向かう。
支柱の近くに入り口を開けている虚無の世界への洞窟道を見つけ、
キロは周囲を見回した。
支柱にある雷魔法によるものと思われる焦げ跡などは、遭難した
キロ達がロウヒと戦った余波だろう。
﹁過去の俺達は無事に虚無の世界へ向かったみたいだな﹂
虚無の世界へ続く洞窟道の真下に当たる地面に、光虫の死骸がい
くつも転がっているのを見て、キロは確信する。
過去のキロ達が縄張りを抜けた以上、ロウヒを倒してもタイムパ
ラドックスは起こらない。
最後の心配事が消え、キロは深呼吸をして戦闘前の心構えを作る。
その時だった。
﹁︱︱キロ、止まってください!﹂
1609
クローナの声が耳に飛び込み、キロは反射的に足を止める。
キロの数歩先の地面に石弾が撃ち込まれた。
石弾が飛んできた方向を見て、キロは目を見開く。
﹁なんでいきなり攻撃態勢を取ってるんだよ!﹂
ロウヒが両手に石弾を準備し、キロ達に狙いを定めている。
ロウヒから、また別の言葉が流れてきた。
﹁二度目の逃走を確認。処分を行います﹂
﹁︱︱散開せよ!﹂
フカフカが声を張り上げ、戦闘に支障がないよう最大光量で周辺
を照らし出す。
そんなフカフカを肩に乗せたミュトが小剣を抜き放ち、ロウヒに
向かって駆け出した。
ロウヒが放った石弾を特殊魔力で防いだミュトの後ろにキロとク
ローナも隠れ、体勢を立て直す。
フカフカがロウヒを見て舌打ちした。
﹁八千年前にはこの辺りに地上への入り口が存在したのであろう﹂
﹁ロウヒの記憶力がうらやましいよ﹂
皮肉ったキロはクローナとミュトに目配せし、戦闘開始を告げる。
特殊魔力の壁を解除したミュトがロウヒの右斜め後方へ走り抜け、
反転する。
キロとクローナを合わせて三角形にロウヒを囲む事で攻撃しやす
くするためだ。
魔力を練り終わったキロは、ロウヒの左斜め後方へ走る。
1610
キロ達の企みを読んだのだろう、ロウヒが跳び上がった。
三角錐の頂点からキロ達をまとめて攻撃するつもりなのだ。
ロウヒの動きを無視して、キロは適当な支柱に足を掛け、天井へ
と駆け登る。
キロだけがロウヒと高さを合わせてしまえば、三角錐を作るロウ
ヒの行動は無意味だ。
ロウヒがキロに狙いを定め、両手に石弾を生み出す。
キロはロウヒが生み出した石弾を見て、笑みを浮かべた。
﹁撃てるもんなら撃ってみろよ﹂
直後、ロウヒの右手に準備されていた石弾が横合いから別の石弾
に撃ち抜かれ、弾き飛ばされた。
地上から狙いをつけていたクローナによる援護だ。
ロウヒは構わず左手をキロに向け、石弾を放つ。
しかし、半数に減った石弾をキロは支柱の裏に回ってやり過ごす。
ロウヒの石弾を受けた支柱が削られるが、元が太いため、キロが
駆け登るには十分な幅が残っていた。
天井に到着したキロは、ミュトに合図する。
ミュトが小剣を構えたのを横目に、キロはロウヒの頭上を取り、
槍を大上段に構えた。
ロウヒが興味を失ったようにキロから視線を外し、クローナを見
る。
全長八メートルの石の像であるロウヒにとって、キロが振るう槍
など脅威に値しないのだろう。
﹁甘く見過ぎだっての﹂
キロは動作魔力で思い切り天井を蹴りつけ、ロウヒの右肩目掛け
て急降下する。
1611
大上段に構えていた槍を動作魔力を用いて思い切り振り降ろしな
がら、キロは槍にミュトの特殊魔力を込めて発動した。
あらゆる外部からの干渉を受け付けず形状の変化もしなくなった
キロの槍は、石でできたロウヒに衝突しようと押し負けることがな
い。
器用に調節されたキロの動作魔力によって刃筋は合わされ、ロウ
ヒの硬い右肩に刃が食い込んだ。
痛覚はなくとも危機感は刺激されたのだろう、ロウヒがキロを振
り払うべく右手を振り上げる。
しかし、ロウヒが振り上げた右手はクローナの石弾によって弾か
れた。
右手で追い払えないならば全身で振り払おうと考えたのか、ロウ
ヒがわずかに跳び上がる。
しかし、キロの合図を受けて走り込んでいたミュトがロウヒの足
の甲、わずか上の空間に特殊魔力を張り、跳び上がりを阻止する。
魔力食生物たるロウヒはミュトが張った特殊魔力の足枷をすぐに
食らいつくし、再度跳び上がる。
だが、すでにキロはロウヒの右肩から食い込んでいた槍を引き抜
いて離脱していた。
離脱しながらキロが確認すると、ロウヒの右肩の半ばまで切り傷
が走っていた。
﹁⋮⋮一撃じゃ切り落とせないか﹂
無理やり押し込めばもっと深く断ち切れたかもしれないと考えた
が、頭を振って欲を追い出す。
槍に込めたミュトの特殊魔力を食われれば、槍の強度が戻ってし
まい、壊れてしまうかもしれないのだ。
近接攻撃は極短時間に行うべきである。
着地したキロはロウヒの出方を伺いつつ、距離を取る。
1612
キロ同様、ミュトもロウヒから離れ、クローナと合わせた三角形
になるよう位置を調整していた。
わずかの沈黙の後、ロウヒが腕を左右に広げた。
身構えるキロ達が見ている前で、ロウヒの両手から水が生み出さ
れる。
雷魔法の発動にしては、両手から水を生み出している事にキロは
疑問を抱いた。
しかし、疑問の答えはロウヒの次の行動で示される。
両手が生み出す水の量が見る見るうちに増えていく。
﹁⋮⋮クローナが山城で作った水より多いような気がするんだが﹂
ロウヒが左右に生み出した水に両腕を突き込み、グローブのよう
にする。
両手はもちろん肩までを保護する水のグローブは形を維持したま
ま激しい流れを作っている。動作魔力を通してあるのだろう。
さらに、バチバチという音が聞こえてくる。
﹁雷のグローブかよ﹂
ロウヒの生み出した水のグローブを紫電が絶え間なく走っている。
まるで龍を纏わせているようだった。
クローナが石弾を撃ちこんで水のグローブを破壊しようとするが、
水のグローブそのものが作り出している激しい流れの前に無力にも
弾き返される。
まさに攻防一体のグローブだ。
ロウヒが右腕を振りかぶり、キロへとストレートを放つ。
動作魔力を用いて後方に飛び退いたキロが直前まで立っていた場
所にロウヒの右拳が食い込んだ。
その時、ロウヒの水のグローブが衝撃に耐えきれず右拳が食い込
1613
んだ地面から飛沫を上げる。
﹁︱︱範囲攻撃かよ!﹂
キロは慌てて右手を突き出し、ナックルからミュトの特殊魔力を
引き出して干渉不可の壁を生み出す。
飛沫が特殊魔力の壁に衝突し、紫電が追随する。
防ぎ切った、と安心したのもつかの間、ロウヒが地面に食い込ま
せた右手をそのままキロへ向けて押し出した。
ロウヒの腕力で右拳が地面をえぐり、土と魔法で生み出された水
が混じった飛沫を上げながらキロへ迫る。
土石流が迫ってくるような錯覚に陥りながら、キロは動作魔力で
ロウヒの間合いから外れるべく走り出す。
キロへ迫るロウヒの拳を見てミュトが焦り、クローナに声を張り
上げる。
﹁クローナ、援護を!﹂
﹁やってます!﹂
クローナが言い返しながら、ロウヒに向けて次々に石弾を撃ちこ
む。
しかし、土石流の中心を進むロウヒの右拳はクローナの攻撃をこ
とごとく弾き返した。
ならば、とクローナはロウヒの足を攻撃して転倒させようと試み
る。
だが、足へ向けて飛んできた石弾をロウヒは左手のグローブです
べて弾き返した。
そして、ロウヒの右手が逃げ続けるキロをついに捉えた。
キロは避ける事を諦め、槍を中段に構えた。
ミュトの特殊魔力で防御しても、ロウヒの拳との競り合いになる
1614
だけだ。魔力の量の差で確実に押し負けるだろう。
キロは構えた槍にミュトの特殊魔力を込めて破壊されないように
しつつ、ロウヒの拳に穂先を合わせた。
土石流を纏った一撃をもって、ロウヒがキロの槍の穂先に右拳を
打ち込み、振り抜く。
キロは動作魔力と全身のばねを使って後方へ飛び退き、ロウヒの
拳に合わせた槍が押しこまれる勢いを利用する事で威力を軽減する。
雷を纏った土石流がキロの身体を打ち、激痛を与えてくる。
ロウヒが振り抜いた拳の勢いに乗って、キロは縄張りの奥へと弾
き飛ばされた。
﹁︱︱キロ!﹂
クローナとミュトの悲鳴混じりの呼び声が追いかけてくる。
キロは現象魔力で水の膜を何度も生み出して衝突し、吹き飛ばさ
れた勢いを殺す。
動作魔力を周辺の空気に流して風を生み出し、背中に吹き付けるよ
うにして速度の軽減に努めた。
ロウヒの縄張りが広大であったからこそ、キロは威力を可能な限
り殺し、地面を転がる頃には致命傷を負わないまでに速度が落ちて
いた。
﹁痛ってぇ⋮⋮﹂
咳き込みながら、キロはふらふらと立ち上がる。
右手に握る槍の感触がやけに軽いと思い視線を向けてみれば、半
ばから折れていた。吹っ飛ぶ途中でどこかに落ちたらしく、周囲に
穂先部分は見当たらない。
もっとも、遠くにフカフカの明かりが見えるだけでキロの周辺は
真っ暗である。よほど近くに穂先が落ちていない限り、発見は難し
1615
いだろう。
﹁俺が槍に込めていた特殊魔力を拳を通じて食ったのか。人の思い
出の品をなんだと思ってんだ﹂
腰を擦った時、キロは耳に飛び込んだ音に気付いて素早くその場
を離脱する。
重たい物が落ちる音がして、キロは現象魔力で光を生み出し、音
の正体を確認する。
﹁⋮⋮オーバーキルでも狙ってたのか?﹂
紫電がほとばしる水のグローブを両手に纏ったロウヒが、折れた
槍を持つキロを見下ろしていた。
﹁︱︱脅威の徹底排除を行います﹂
ロウヒが冷たく告げ、拳を振りかぶった。
1616
第二十三話 先駆者達
振りかぶられたロウヒの右拳を見上げ、キロは折れた槍を手もと
で反転させ、石突きをロウヒに向ける。
長さ六十センチほどの棒と成り果てた槍は、ロウヒを前にすると
小枝ほどの頼りなさだ。
ロウヒが右拳を振り降ろす。
水のグローブの周囲に帯電する雷魔法のおかげで、フカフカの明
かりがなくても軌道が読めた。
キロは現象魔力でロウヒの右拳の左右に石壁を生み出し、突き出
した槍に動作魔力を込める。
真正面から迎え撃つキロに警戒する素振りも見せず、ロウヒは殴
りつけた。
槍の石突きが正確にロウヒの右拳の中央に合わさった瞬間、キロ
は槍に込めていた動作魔力を刹那の瞬間に全解放する。
硬質な物体が激しくぶつかる音と共に、キロはロウヒの右拳を上
へと弾き飛ばした。
たった一度合わせるだけで槍が砕け散り、キロのナックルに槍の
破片が細かい傷を作る。
上に弾き飛ばされたロウヒの右拳から水滴が拡散していく。水滴
を伝い、乱舞する紫電が網のようにキロへ覆い被さった。
しかし、水滴はキロの頭上スレスレで進行方向を百八十度〝反転
〟させた。
キロはロウヒの水のグローブに迸る雷を睨みながら、左右の石壁
に手を当てる。
﹁基準を見せてくれてありがとよ。速度、反転﹂
1617
クローナの特殊魔力を流し込んだ石壁を雷速で撃ちだす。
狙いはすでに半ばまで切り裂いたロウヒの右肩だ。
流石のロウヒも渾身の力で繰り出した拳を弾かれた直後では対処
できない。
雷速の石壁はロウヒの肩回りの水の激流をものともせず、ロウヒ
の右肩に辿り着く。
大質量の石同士が衝突する轟音が地面を揺らし、キロが撃ち出し
た石壁は左右共に砕け散った。
ロウヒのダメージを確認する前に、キロは動作魔力を練り上げて
走り出す。
槍が砕け散った以上、近接戦闘を仕掛けるのは危険だ。
水と雷の守りがある以上、ゼロ距離でしか発動できないアンムナ
の奥義も使う事が難しい。
せめて、クローナとミュトが来るまでは距離を取って態勢を立て
直さなくてはならない。
重たい物が地面に落ちる音がして、キロは振り返る。
ロウヒの右肩から先が地面に転がっていた。
視線を少し上にあげれば、ロウヒと眼が合う。
石像の魔物であるためか、痛みを感じている様子はない。
その証拠に、ロウヒは平然と残った左腕をキロに向けた。
﹁可愛げない美人だな、ほんと!﹂
悪態吐いて、キロは近くの支柱の裏へ走り込む。
直後、突風が吹き荒れた。
周囲の空気に膨大な量の動作魔力を通し、大気を操っているのだ。
支柱の裏まで風は来ないものの、迂闊に飛び出せば風の影響で思
うように動けないだろう。
追い込まれている実感に背筋を冷たい物が伝う。
冷静さを保つため、深呼吸した時だった。
1618
コツン、とつま先に何か硬い物が触れた事に気付き、キロは下を
向く。
﹁⋮⋮槍?﹂
古びた槍が足元に転がっていた。
どんな大男が使っていたのか、全長は四メートルを超えている。
不思議な事に、地下世界で出回っている円錐形の槍ではなく、キ
ロが普段使う物と同じ素槍だ。
刀身から柄まで、全体的に青みがかった美しい金属で作られてい
る。夏空に浮かぶ雲のような明るく白い斑点がいくつも浮かんでい
た。
見覚えのある金属だ。
﹁⋮⋮高級軽金属?﹂
クローナと出会ったばかりの頃、槍を買いに入った初めての店に
置かれていた大剣と同じ、高級軽金属で作られているらしい。
拾いあげてみると、四メートルという長さにもかかわらず異様な
軽さだった。
ところどころ腐食が見られるが、使おうと思えば使えない事はな
い。
しかし、なぜこんな場所に槍が落ちているのか。
この地下世界において、キロが使うような素槍はほとんど出回っ
ておらず、使う者も少ない。
そんな素槍を金属加工が一部地域でしかできない地下世界で高級
軽金属を使って作成するなど、個別に注文を受けたとしか考えられ
なかった。
地下世界で、素槍を使う人間。それも、個別に注文できるほどに
財力のある者。
1619
﹁まさか、オラン・リークスか﹂
最上層の探索中に消息を絶った地図師。ランバル・リークスの曽
祖父に当たる人物だ。
何か手がかりはないかと槍を調べると、文字らしきものが彫って
あった。
地下世界の文字が読めない事が至極残念だ。
キロは深呼吸して、その場に頭を下げる。
﹁⋮⋮お借りします﹂
試しに動作魔力を通して一振りしてみると、風を裂く小気味良い
音が耳に流れ込む。
軽くとも、強度に申し分はなさそうだ。
キロは突風を遮っている支柱に隠れたまま、動作魔力を練り続け
る。
風の音に耳を澄ませながら、キロは待った。
狂い回る風の音の中に、聞きなれた音が混じる。
﹁キロ! 無事なら返事をしてください!﹂
﹁キロ、どこに居るの⁉﹂
クローナとミュトの声だ。突風の音にまぎれて酷く聞き取りずら
いが、聞き間違えるはずはない。
キロは声を張り上げる。
﹁ロウヒの右腕は落とした! クローナ、この突風を止められるか
⁉﹂
1620
キロが声を張り上げた直後、支柱が強い光で照らし出された。
聴覚の優れるフカフカがキロの声から居場所を特定し、尻尾の光
でクローナとミュトに位置を知らせているのだろう。
キロは高級軽金属の槍を担ぐようにして肩に構え、姿勢を低くす
る。
すぐにフカフカの光が巨大な何かに遮られ、突風を塞いだ。
キロは支柱から飛び出し、動作魔力で走る。
ロウヒの突風を遮ったものの正体はクローナが生み出した石壁だ。
高さ三メートルほどの石壁は突風に負けないようにするためか接
地面が広くなっている。
キロはクローナとミュトを見つけ、ロウヒの足を指差す。
﹁二人でロウヒの足へ攻撃を仕掛けてくれ! 俺は左肩をやる!﹂
長さに比例して刀身も長い高級軽金属の槍であれば、左肩を一太
刀で落とすことも可能かもしれない。
キロは期待を込めつつ、ロウヒへと走る。
新たに生み出される突風を連続で生み出した石壁で防ぎつつ、キ
ロはロウヒとの距離を詰めていく。
突風に水が混じり始めた事にキロが気付いた時、ロウヒが紫電を
纏った左手を突風の中に突き入れた。
突風を生み出す大量の動作魔力に加え、突風に乗って流れる霧雨
のような水、さらにただでさえ魔力効率の悪い雷の組み合わせ。
ロウヒでなくては出来ないような、コスト無視の範囲攻撃だ。
だが、キロはロウヒの範囲攻撃を無視した。
なぜなら、杖を構えたクローナがロウヒの隙を鋭い視線で窺って
いたからだ。
﹁正直、頭に来ました。私のキロになんて事してくれてるんですか﹂
1621
珍しく本気で怒っているらしいクローナが杖の先に鋭利な石刃を
生み出す。
幅一メートルの石刃の枚数は二十枚にも及び、それぞれが鏡のよ
うに光を反射する鋭さを備えている。
﹁あぁ、胸がムカムカすると思ったら、そうか、ボク、怒ってるん
だね﹂
口元だけで笑ったミュトが、クローナの前に展開された石刃の腹
に触れる。
落ちる木の葉さえ触れるだけで両断しそうなクローナの石刃に、
ミュトが次々と特殊魔力を込め、形状変化を防いだ。
﹁準備終わったよ、クローナ⋮⋮やっちゃえ﹂
﹁もちろん、刻みますよ﹂
物騒で短い会話を終えたクローナが石刃に特殊魔力を込め、ロウ
ヒの左腕に迸る雷を見る。
クローナがゆっくりと、本当にゆっくりと石刃の一枚を杖で押し
た。
直後、耳をつんざく様な甲高い風の唸り声が辺り一面に響き渡る。
ロウヒがキロへの範囲攻撃を急きょ中断し、足元に幾重にも石壁
を生み出した。
ロウヒが反応できたのは、キロによる雷速の石壁を受けた経験か
らだろう。
クローナが撃ち出した石刃がロウヒの生み出した石壁を砕き、反
動で見当違いの方向へ飛んでいく。
しかし、クローナは残りの十九枚の石刃を次々に打ち出した。
圧倒的な魔力量を誇るロウヒでさえ、防御に全力を尽くさねばな
らないほどの破壊力を持つ石刃がロウヒの石壁を粉砕していく。
1622
雷に迫る石刃の速度に、ロウヒといえど撃ち落とす事が敵わない。
防御用の石壁が次々と粉微塵となり、周辺に散弾染みた速度で飛
び散る。
そんな中、キロは石をロウヒの腰の高さに放り投げていた。
放り投げた石の高さを見極め、キロは込めていたクローナの特殊
魔力を発動する。
﹁⋮⋮位置反転﹂
心構えを作る意味も込めて、キロは小さく呟く。
瞬時に、キロはロウヒの腰の高さを基準に地面から位置を反転、
ロウヒの左肩の僅か上に移動する。
クローナの石刃を防ぐために魔力を使っているロウヒの左肩から
は、水と雷による防御が消失している。
キロは高級軽金属にミュトの特殊魔力を込め、在りし日の姿に戻
す。
腐食していた槍が往年の輝きを取り戻し、抜けるような美しい青
と輝くような白い斑点を主張する。
キロは動作魔力を込め、無防備なロウヒの左肩へ槍を振り降ろし
た。
その一太刀はロウヒの左肩に一切の歪みの無い断面を作り出す。
﹁︱︱もう一撃!﹂
ずれ落ち始めたロウヒの左腕を蹴りつけたキロは、ロウヒの脇腹
に足を付け、垂直に駆けあがる。
キロが足を付けるたび、ロウヒはキロの動作魔力を食らって悪あ
がきをする。
しかし、未だに続くクローナとミュトの特殊魔力が合わさった石
刃の対処に追われ、キロを振り払う事が出来ていない。
1623
ロウヒの首筋に狙いを定めたキロは、動作魔力を込めた槍を回転
させて遠心力を上乗せする。
ロウヒの腋を蹴りつけて首筋と同じ高さに跳び上がったキロは体
の捻りも加え、渾身の力を込めて槍を一閃。
ナックルを付けた手に伝わる硬い感触をも断ち切るように、キロ
は動作魔力をさらに上乗せする。
硬い感触のまま、キロの腕が、両手が、槍が動く。
次の瞬間、キロはロウヒの首筋を完全に断ち切り、空気に槍の穂
先を晒していた。
この期に及んでも表情のないロウヒの首が緩やかに落下する。
クローナとミュトが作り出した石刃の最後の一枚がロウヒの両足
に衝突し、切り落とした。
バランスを保てなくなったロウヒが斜めにかしいだかと思うと、
地面に向かって倒れだす。
ロウヒの肩にいたキロは、クローナ達に向かって飛んだ。
﹁⋮⋮あれ?﹂
キロがロウヒの肩を蹴りつけて飛ぶ姿を見たミュトが首を傾げる。
キロの勢いがあまりに弱弱しかったためだ。
しかし、クローナは過去の経験からすぐに適切な対処を思い出し、
杖を一振りする。
キロはクローナが生み出した水の膜に飛び込み、地面へ無事に降
り立った。
キロはほっと胸を撫で下ろす。
﹁悪い、助かった﹂
﹁まったく、魔力切れで飛び降りないでくださいよ﹂
クローナが苦笑交じりにキロの胸をつついた。
1624
轟音が背後から鳴り響き、キロは振り返る。
ロウヒが地面に倒れていた。
﹁⋮⋮倒せたみたいだな﹂
﹁みたいですね。それより、その槍はなんですか﹂
クローナがキロの持つ高級軽金属の槍について訊ねた時、地に伏
せたロウヒの体を見つめていたフカフカが目を見開き、尻尾を垂直
に立てた。
﹁︱︱ミュト、防御するのだ!﹂
フカフカが叫ぶ。
反射的に、キロはクローナを抱き寄せてミュトに近寄る。
ミュトがロウヒに向けて手を伸ばし、特殊魔力の壁で仕切った瞬
間、フカフカがさらに声を張り上げる。
﹁正面だけでは足りぬ!﹂
ロウヒの体を起点に大量の水が吹き上げる。
周囲を水底に沈めようとするような勢いでロウヒが大量に生み出
した水が、ミュトの張った特殊魔力の壁の裏側へと浸透した直後、
ロウヒの体が眩く光る。
その光は、明らかに雷魔法によるものだった。
キロはクローナの杖に手を触れ、動作魔力を引き出しながらミュ
トを抱き寄せる。
ミュトの特殊魔力の壁を蹴り、キロはクローナとミュトを抱きか
かえたまま上に跳び上がった。
水没した地面がバチバチと音を立てて帯電する。
1625
﹁ミュト、クローナ、周囲一帯の時間を戻せ!﹂
少女二人の体を支えるのに精一杯のキロに代わり、フカフカが指
示する。
クローナが杖に充填していたミュトの特殊魔力を引き出し、ミュ
トと共に全周囲の空間の時間を戻す。
帯電した水がキロ達を飲み込むが、過去に戻された空間が干渉を
拒絶し、内部のキロ達の感電を防ぐ。
すぐにロウヒが生み出した大量の水と雷が魔力切れで消失する。
キロ達三人と一匹は足の力が抜けて座り込んだ。
周囲の空間の時間が戻っているため、キロ達は宙に浮かんだよう
な状態である。
﹁今のは本気で死ぬかと思ったぞ﹂
﹁死に際の攻撃にしては派手すぎますよ﹂
﹁八千年の締めくくりだからって張り切り過ぎだよね﹂
口々に呟いたキロ達は互いの無事を確かめ、安堵の息を吐く。
﹁⋮⋮お前達、下を見るがよい﹂
フカフカの声にぎょっとして、キロはロウヒに視線を向ける。
まだ悪あがきを続けているのか、パチパチと静電気のような物を
纏っている。
だが、フカフカの言う下とはロウヒの事ではなかった。
キロ達が腰を下ろしている、過去に戻った空間そのものだった。
﹁︱︱なんだ、これ﹂
キロは過去に戻った空間が映し出す光景に目を見張る。
1626
総勢二十名ほどの男達が武器を構え、どこか遠くを見据えていた。
男達の先頭に立つ大男が、高級軽金属であつらえた素槍を肩に担
ぎ、声を張り上げる。
﹁︱︱空は食われたという。過去は不変なり﹂
重低音の声は不思議と人を魅了する響きを持って、続ける。
﹁なれど、未来は千変万化。この先に空を、可能性を食らった竜が
いるのなら﹂
高所から見下ろしているキロの眼にも、重低音の声の主、オラン・
リークスが歯を剥き出しにし、目の前のすべてを食い殺すような笑
みを見せたのが分かった。
﹁我ら人類の可能性で竜の腹を掻っ捌き﹂
高級軽金属の槍を豪快かつ繊細に振り降ろし、地面すれすれで止
めたオラン・リークスの横を走り出した男達が抜けていく。
オラン・リークスが地面をえぐる勢いで一歩を踏み出し、加速す
る。
﹁︱︱創り出すぞ、新世界!﹂
オラン・リークスがキロ達の視界から消えた直後、二十人の男達
が上げる世界全てを揺るがすような雄叫びが響き渡った。
1627
第二十四話 討伐成功の報
特殊魔力の効果時間が切れ、周囲の空間が元に戻ると、オラン・
リークス達の姿は完全に消え去った。
目の前で起きた事に理解が追い付かず、キロ達は沈黙する。
﹁オラン・リークスであるな。最上層の探索中に消息を絶ったはず
であるが⋮⋮﹂
沈黙を破り、フカフカが呟く。
キロが持つ高級軽金属の槍を一瞥したフカフカは、ため息を吐い
て視線を逸らした。
﹁おそらくは、縄張りを抜けきれなかったのであろうな﹂
オラン・リークスが愛用していた槍がロウヒの縄張りに落ちてい
た以上、フカフカの解釈が正しいのだろう。
ロウヒに視線を向けてみると、悪あがきに放っていた雷も鳴りを
潜めていた。
今度こそ、倒したらしい。
ロウヒから声が聞こえた気がして、キロは耳を澄ませる。
﹁我らの子孫よ。地上を目指すな﹂
この期に及んでも警告を発し続けるのか、とキロがため息を吐い
たとき、囁くような優しい声が後を続けた。
﹁⋮⋮ロウヒ、長い間、よく頑張ってくれた。ありがとう﹂
1628
慈愛の籠った声で労った後、声は途切れ、ロウヒは魔力を霧散さ
せて、完全に機能を停止した。
キロ達は顔を見合わせる。
ロウヒを倒した事を喜ぶのは少し、違う気がした。
﹁終わりましたね﹂
﹁そうだな﹂
クローナが事実のみを呟き、キロは同意する。
立ち上がって埃を払ったミュトが縄張りの天井を見上げた。
﹁悪食の竜を倒さないとね﹂
﹁あぁ、絶対に倒す﹂
キロも立ち上がり、見通すように細めた目で天井を見上げる。
クローナが天井を見た後、キロに視線を移す。
﹁倒し方もわかりましたね﹂
﹁先人の知恵に感謝だね﹂
ミュトが曖昧な笑みを浮かべ、洞窟道へ足を向ける。
﹁ラビルさん達に報告しに行かないと﹂
ミュトの言葉に頷いて、キロはロウヒに折られた槍の穂先を回収
する。石突き側の部分は粉々になっていたため、回収を諦めるしか
ない。
ロウヒの死骸に手を合わせて、キロ達は縄張りを後にした。
1629
最上層と未踏破層との境にある街ではすでに避難準備が進められ
ていた。
しかし、キロ達が地図師協会にロウヒ討伐の成功を報告すると、
一転してお祭り騒ぎとなる。
オラン・リークスやロウヒから聞こえてきた最後の言葉が脳裏を
よぎり、キロ達はお祭り騒ぎに加わる気になれず、地図師協会の端
で静かにラビル達を待った。
ロウヒ討伐は地図師や傭兵の悲願だ。
討伐報告はすぐに町や村を駆け巡り、ラビルやランバルの耳に届
くだろう。
二人がキロ達の元に到着したのは翌日だった。
すでに町には周辺の村や町からやってきた人々でごった返してい
たが、地図師協会の計らいでキロ達は協会の奥の部屋を貸してもら
っていた。
外の喧騒から隔絶された協会の奥の部屋で、ひと眠りしたばかり
のキロ達はラビルとランバルを出迎える。
ランバルはすぐに部屋の隅に置かれた高級軽金属の槍に気付いた
ようだった。
キロは槍を持ち上げ、ランバルに手渡す。
﹁ロウヒの縄張りの奥で見つけました。おそらく、オラン・リーク
スの遺品です﹂
ミュトを通じてキロの説明を聞いたランバルは槍を見つめた後、
彫ってある名前に気付いて口を開く。
﹁遺体は?﹂
﹁見つかりませんでした。ミュトの特殊魔力でオラン・リークスが
その槍を持ってロウヒに挑みかかるところは見えましたが、それだ
1630
けです﹂
﹁そうか﹂
ランバルはそっけなく返したが、槍へ丁寧に布を巻き、肩に担い
だ。
成り行きを窺っていたラビルがキロ達を見回して不思議そうに首
を傾げる。
﹁外はお祭り騒ぎだというのに、君達はあまり嬉しそうじゃないん
だね﹂
﹁少し、色々あったので﹂
キロが目くばせすると、ミュトがロウヒ討伐のあらましをラビル
に話す。
オラン・リークスやロウヒから聞こえた最後の言葉についても包
み隠さず伝えると、ラビルは腕を組んで唸った。
﹁オラン・リークスの言葉から察するに、どこかの遺跡で悪食の竜
について知ったんだろうね﹂
悪食の竜は世界の可能性を食らい、死亡すると新たな世界を創造
する。
つまり、無理やり悪食の竜の許容量を超えた可能性を食わせれば、
悪食の竜を死亡させることが可能となる。
オラン・リークスがどのように可能性を食わせるつもりだったの
か、今となっては分からない。
だが、キロ達には悪食の竜に可能性を叩きこむ手段がある。
槍に布を巻き終えたランバルがキロに声を掛けた。
﹁お前らはこれからどうするんだ?﹂
1631
キロはミュトを見る。
﹁地下世界で何かやり残したことはあるか?﹂
ミュトは少し考えた後、首を振った。
キロは頷いて、ランバルを見る。
﹁悪食の竜を倒しに行きます﹂
ランバルは大きく息を吐き出した。
﹁次から次にでかい事をしようとする奴らだな﹂
﹁⋮⋮後始末なんですよ﹂
キロは小さく呟く。
翻訳すべきどうか判断できなかったのだろう。ミュトがキロを見
て首を傾げる。
翻訳する必要はない、とキロは無言で首を振った。
ランバルは思案するような顔でキロを見る。
﹁手伝おうか?﹂
﹁いえ、先にするべき事があるので、手伝ってもらう事は出来ませ
ん﹂
ランバルが眉を寄せる。
﹁すべき事とやらをしてから、改めて儂らと悪食の竜退治に向かえ
ばいいだろう﹂
﹁それができないんですよ﹂
1632
この世界での用事ではないから、とキロは心の中で続ける。
ラビルがランバルの肩を叩いた。
﹁きっと何か事情があるんだよ。自分達が首を突っ込めない事情が、
さ。ここはかっこよく見送ろうじゃないか﹂
﹁お前が言うと下心が透けて見えるんだよ﹂
﹁そ、そんなものはないよ﹂
﹁わざわざ、かっこよく、なんて単語を付けてるだろ。その単語が
下心の上澄みだ﹂
ランバルの指摘が核心を突いたのだろう、ラビルは視線を逸らし
た。
しかし、キロ達の事情に首を突っ込むべきではないというラビル
の主張には賛成したのか、ランバルは立ち上がる。
﹁手を貸してほしければいつでも言え﹂
部屋の扉に向かうランバルの後を追いながら、ラビルが振り返り、
自らの胸を叩いた。
﹁もちろん、自分にも声を掛けてくれないと⋮⋮泣くよ?﹂
脅しではないのだろうな、とキロはラビルの言葉に苦笑する。
キロ達に手を振って、ランバルとラビルは部屋を出て行った。
扉が閉められると、クローナとミュトがキロを見る。
﹁一度私の世界に行かないといけない以上、ラビルさん達を連れて
行けないのは分かりますけど、事情くらい話してもよかったと思い
ます﹂
1633
﹁ボクもそう思う﹂
キロは一瞬苦い顔をしたが、すぐに打ち消して首を振った。
﹁いや、クローナの世界に行く前に、やる事がある﹂
キロは小さく深呼吸して、続ける。
﹁俺の世界に行く﹂
フカフカがキロを横目で睨んだ。
しかし、フカフカは何も言わず、ただ不機嫌に尻尾を一振りした
だけだ。
クローナとミュトは困惑顔をしていたが、キロが言い出すからに
は何か理由があると分かっているのか、ひとまず話を聞くつもりの
ようだ。
しかし、自分から言い出しておいて、キロは言い難くなって口を
閉ざす。
刺すようなフカフカの視線を感じながら、キロは覚悟を決めて口
を開いた。
﹁︱︱先に訊きたい事がある。二人は今、幸せか?﹂
それはキロがこれまでの人生で口にしたすべての質問の中で最も
独りよがりな質問だった。
1634
第二十五話 動機
あまりにも唐突な質問に、クローナとミュトは一瞬きょとんとし
た表情を浮かべ、顔を見合わせた。
﹁もちろん、私は幸せですよ。キロもいてくれますし、ミュトさん
とフカフカさんもいますから﹂
﹁ボク達は二の次なんだね。まぁ、ボクも人の事は言えないけど⋮
⋮。ボクも幸せだよ。でも、いきなりなんでそんな事を訊くの?﹂
﹁待ってください、ミュトさん。キロがいま幸せかどうかを訊くの
が先です﹂
キロに向き直ったクローナが勢い込んで詰め寄る。
苦いモノを飲み下してから、キロはクローナを押し止めた。
﹁今は幸せだよ。というわけで、もう一度、俺の世界に行こうと思
う﹂
﹁待ったです。幸せをかみしめる時間を取りましょう﹂
話を進めようとしたキロの口に手を当て、クローナがにんまりと
笑う。
ミュトが苦笑した。
﹁またそういう事を唐突に言い出すんだから﹂
﹁だって、キロは面と向かって幸せだとか好きだとか、なかなか言
ってくれないんですもん。私をからかう時には臆面もなく口にする
くせに﹂
1635
クローナがキロを横目で睨み、肘で小突く。
肘で脇腹を、言葉で図星を、それぞれ突かれたキロは視線を逸ら
す。
﹁仕方ないだろ。照れくさいんだから﹂
﹁だからこそ、意味があるんですよ!﹂
クローナがキロの肩を掴んで揺さぶる。
﹁それは置いておいて、話を戻すぞ﹂
﹁当然のように無視しないでくださいよ﹂
﹁まずは俺の世界に行くための遺品だ﹂
頬を膨らませたクローナに睨まれつつ、キロは鞄の中に手を入れ
る。
取り出したのは現代に戻った際に公園で見つけた猫の死骸がして
いた首輪だ。
現代へ通じる扉を開く事は確定しているものの、到着時刻は判明
していない。
﹁この首輪で俺の世界に戻る。向こうで何をするかは、三人で分担
する事になる。よく聞いてくれ﹂
真面目な話に入ったためクローナも話を戻すことを諦めたらしく、
首輪に注目する。
キロはクローナとミュトを見回して、言葉を繋ぐ。
﹁ミュトは、過去の俺が路地裏に仕掛けた革手袋に特殊魔力を込め
て過去の状態へ戻した後、クローナの特殊魔力で効果時間を反転さ
せ、過去の状態が長持ちするようにしてほしい。クローナ、日記は
1636
持ってるか?﹂
日記を取り出したクローナに、キロと出会ってからの日数を計算
してもらう。
日数を正確に割り出せるのも、クローナが毎日のように日記をつ
けてくれていたおかげだ。
弾き出された日数から、革手袋が紆余曲折を経て路地裏へ過去の
キロをおびき出す餌として使われるまでの日数を割り出してミュト
に伝えた。
﹁革手袋の摩耗を防ぐための処置だね。分かった﹂
ミュトはキロの作戦の意味を解釈して頷いた。
キロは次にクローナを見る。
﹁クローナには、扉越しに俺と会話してもらいたい﹂
﹁それは前回、キロの世界に行った時に記憶を取り戻す前の私がし
たはずですよ?﹂
﹁本当に会話できたのかどうか確信が持てないんだ。俺の記憶だと、
扉越しに話したクローナはさん付けを躊躇う素振りがあった﹂
時系列を理解したクローナが難しい顔をする。
﹁それじゃあ、記憶を取り戻す前の私は何をしてたんですか?﹂
﹁それを確かめるのが俺の役割だ﹂
キロの言葉に納得して、クローナは頷いた。
ミュトが各々の動きを頭の中で組み立て、首を傾げる。
﹁それじゃあ、ボクはクローナの杖を預かってキロ達と別行動かな
1637
?﹂
革手袋にミュトの特殊魔力と同時にクローナの特殊魔力を作用さ
せるには、リーフトレージに特殊魔力を蓄積して持ち運ぶのが手っ
取り早い。
クローナの杖はリーフトレージで覆われているため、クローナの
特殊魔力を蓄積してからミュトに持たせれば一人で革手袋に処理が
行える。
しかし、キロは首を振って否定した。
﹁いや、俺の世界で金属に覆われたクローナの杖を持って歩くと目
立つから、向こうの世界に着いた後、どこかに隠しておくしかない。
つまり、ミュトとクローナが一緒に動かないと革手袋に二人の特殊
魔力が込められないんだ﹂
キロの言葉を聞いたミュトが、キロの手にはまったナックルに視
線を移す。
しかし、キロはミュトが口を開く前に素早く続けた。
﹁それに、クローナはもちろんミュトも俺の世界に慣れてないだろ。
単独行動は極力避けるべきだ、というのが前回の教訓だ。俺は血ま
みれのミュトなんて見たくないからな﹂
キロに言われて、ミュトも公園で見たクローナの姿を思い出した
らしく暗い顔をした。
﹁分かった﹂
納得してくれた様子のミュトに、キロは内心ほっと胸を撫で下ろ
す。
1638
キロは現代社会に戻った後、しばらくは単独行動をしなければな
らないからだ。
キロは左手のナックルを二人に差し出す。
﹁俺のナックルに二人の特殊魔力を込めて、俺の世界の服に着替え
ておいてくれ。俺は何か食べる物を買ってくる﹂
有無を言わせぬ調子で言って、キロは朝食を買ってくるため立ち
上がった。
翻訳係としてフカフカがキロの肩に乗る。
腑に落ちなそうな顔をしていたが、クローナとミュトは素直にキ
ロのナックルに特殊魔力を込めはじめた。
二人が寄せてくれる信頼に胸がちくりと痛むが、キロは細く息を
吐いて堪える。
部屋を出たキロは職員に手を振られながら、協会を後にした。
お祭り騒ぎの街中を歩き、適当な店で食べ物を買う。
フカフカは必要最低限の言葉しか口にしなかった。キロと会話す
るつもりもないらしい。
キロから話しかける気にもならず、無言のまま協会に戻る。
部屋の扉を軽く叩いて中に帰宅を知らせると、扉が内側から開か
れた。
クローナに笑顔で迎えられ、キロは部屋の中へ足を踏み入れる。
﹁おかえりなさい。ナックルに特殊魔力を込めておきましたよ﹂
礼を言って、机の上に置かれたナックルを手に取る。確かに特殊
魔力が込められているようだ。
買ってきた食事を食べ終えて、キロはクローナとミュトを一度部
屋の外に出し、現代用の服に着替える。
鞄の一番上にいつでも出せるよう、折れてしまった槍の穂先部分
1639
を置いて、準備を整えた。
﹁この槍も買った時はこんな事に使うとは思わなかったな⋮⋮﹂
ため息を吐き、キロは鞄の口を閉める。
部屋の扉を開け、キロはクローナとミュトを招き入れた。
﹁やっぱり、キロの世界の服がキロには一番似合いますね﹂
﹁着慣れてるからだろ﹂
﹁誉めているんですから、もっと喜んでもいいんですよ﹂
そっけない態度に首を傾げたクローナに背を向け、キロは魔法陣
の上に首輪を設置し、遺物潜りを発動する。
﹁俺の世界に到着したらすぐに時間を確認する。時間次第ではかな
り忙しくなるから、気を引き締めていこう﹂
二人に告げ、キロは猫の首輪が開いた現代社会への扉を潜った。
クローナとミュトの手を繋ぐことは、あえてしなかった。
1640
第二十六話 最後の逢瀬
やはりというべきか、扉の先は公園だった。
すぐ横に目を向ければ滑り台が鎮座し、その下には猫が永遠の眠
りについていた。
キロは首輪を猫の死骸にはめた後、クローナとミュトに頼む。
﹁ミュトが首輪の時間を戻した後、クローナが効果時間を反転して
過去の状態を固定化してくれ。干渉不可を外すのも忘れずにな﹂
革手袋に施す処置の練習だと思ってくれ、とキロは二人を促す。
手順を一つ一つ確認しながら、クローナとミュトが共同作業を行
い、首輪を元に戻した。
﹁あんまり見た目は変わりませんね﹂
﹁数日分だからかな﹂
クローナとミュトが首輪を見下ろして言葉を交わす。
成功の実感は得られなかったものの、手順の一つ一つに問題はな
かった。
キロは二人を立ちあがらせ、公園の出口を指差す。
﹁近くのコンビニに入って時間を確かめよう。その後は別行動だ﹂
キロはフカフカに目撃者がいない事を確認して、歩き出した。
クローナとミュトが顔を見合わせて首を傾げる。
キロの態度に違和感を抱いているのだろう。
沈黙は金、とばかりにキロは気付いていない振りをして、近くの
1641
コンビニに入った。
壁に掲げられている時計を見上げれば、時刻は十七時前だ。
動き出すには少し早いかと思わないではなかったが、余裕はある
に越した事はない。
﹁落ち合う場所を決めよう。公園だと過去の俺達に鉢合わせる可能
性が高い﹂
キロは近くの地理を思い出し、待ち合わせ場所を考える。
﹁ミュト、俺の友達と食事をとった店を覚えてるか?﹂
﹁サイなんとかってキロが言ってたお店?﹂
﹁そうだ。あの場所で落ち合おう。革手袋の時間を戻したら、動作
魔力を使って可能な限り早くあの店の前に来てくれ﹂
フカフカがいれば人目を避けるのもさほど難しくはない。
ミュトは頷いて、クローナに向き直る。
﹁行こう。ボクが道案内するから﹂
ミュトがクローナの手を掴み、コンビニの出口に向かう。
ミュトに手を引かれながら、クローナがキロを振り返った。
﹁⋮⋮無理しちゃだめですよ?﹂
﹁あぁ、分かってる﹂
キロはクローナから杖を受け取り、二人と一匹を見送った。
店員が不思議そうにキロ達を見比べている。
明らかに日本語を話しているキロと、外国語を話しているように
見えるクローナ達が平然と意思疎通を行っているからだろう。
1642
キロは気にせずにミネラルウォーターのペットボトルを一本レジ
に持って行き、購入した。
コンビニを出たキロは携帯を操作して時計を合わせると、動作魔
力を練る。
﹁パラレルワールドシフト、ね。最初の俺はネーミングセンスない
な﹂
ぼやくように呟いて、キロは市役所に向かって歩き出す。
クローナの杖には布が巻かれているため、すれ違う人々も一瞥す
るだけですぐに興味を失ってくれる。
市役所に着いたキロは、布を巻いた杖を傘立てに入れてカギを抜
いた。
盗難防止用の傘立ては、本来の用途とは違う杖を立てかけられて
も律儀に仕事をしてくれるようだ。
鍵がきちんとかかっている事を確かめたキロは動作魔力を使って
駆け出す。
慣れ親しんだ町のこと、フカフカの索敵を掻い潜るなど造作もな
い。
キロが駆け込んだ先は駅だ。
キロにとっての最初の目的地は幼少期を過ごした児童養護施設で
ある。
駅に着くなり切符を購入し、改札を潜る。
キロは動作魔力を使ったまま人ごみを器用に抜け、駅のホームに
降りると発車直前の電車に乗り込んだ。
動き出す電車の窓から住み慣れた町並みを眺め、キロは児童養護
施設までの道順を思い出す。
時刻を考えれば、エサ入れで潜ってきたキロ達と鉢合わせる可能
性はゼロだ。
しかし、キロはしきりに携帯電話を取り出し、時刻を確かめてい
1643
た。
目的の駅に到着したキロは動作魔力を使って電車を降り、階段を
三段飛ばしに駆け上がる。
部活帰りの高校生が、すさまじい勢いで駆けあがってくるキロに
目を丸くしていた。
キロはすぐに改札を抜け、一直線に児童養護施設へ走る。
動作魔力を使用しているため、のんびり走っていた自転車を容易
く抜き去り、キロはすぐに児童養護施設に辿り着く。
携帯の時刻を確認し、キロはほっと息を吐いた。
﹁十七時半、間に合ったみたいだな﹂
キロは周囲に人がいない事を確認して、物陰に隠れながら犬小屋
に向かう。
小さな物音がして、犬小屋から雑種犬が顔を出す。
キロを見るなり尻尾を振りだした雑種犬に苦笑して、目の前に屈
んだ。
立ち上がる力が残っていないのか、雑種犬はすぐにその場に伏せ
る。
﹁悪いな。お前の知っているキロじゃないんだ。代わりにはなるか
もしれないけどさ﹂
キロが頭を撫でてやると、雑種犬は目を細め、尻尾をパタパタと
振った。
キロは犬小屋の前に置かれているエサ入れを横目に見て、手を伸
ばす。
﹁事情があって餌を入れてやる事は出来ないんだ。そんな期待する
ような目で見るな﹂
1644
雑種犬の反応に苦笑しつつ、キロはエサ入れを手元に寄せ、裏返
す。
魔法で生み出した石のナイフでエサ入れに小さな切り傷をつけて、
キロは立ち上がった。
﹁もう会えないけど、それでもさ﹂
雑種犬の顔を両手で挟んで、キロは微笑みかける。
パタパタと動く尻尾が力を失ったように地面に落ちた。
それでも、雑種犬はまだキロを見つめている。
﹁またな﹂
雑種犬も微笑んでくれたように見えたのは、キロの錯覚だったの
だろう。
それでも、キロは本当に微笑んでくれたのだと思う事にした。
最後に頭を撫でてやり、キロは犬小屋から離れる。
キロはエサ入れにつけた傷を横目に見た。
﹁これでエサ入れは相似であって合同ではないものになるはず⋮⋮﹂
以前ミュトが立てた仮説を思い出しながら、キロは児童養護施設
を出る。
もうじき、エサ入れを使って過去のキロ達がやってくる事だろう。
﹁パラレルワールドシフトを始めるか⋮⋮﹂
暗鬱なため息をつき、それでもキロは駅に向かって走り出した。
1645
第二十七話 凶行
児童養護施設を出たキロは駅に急いだ。
エサ入れを媒体にしてやってくるキロ達は駅に向かい、電車に乗
る。
しかし、フカフカを連れているため、尾行しても気づかれてしま
う恐れがある。
彼らからしてみれば未来の存在である自分に気付かれないよう、
キロはクローナが一人になるまで尾行をすることが出来ないのだ。
エサ入れを媒体にしてやってくるキロ達は公園で二手に分かれる
ため、キロは先回りする腹積もりである。
駅員に顔を覚えられないよう、人ごみに紛れて駅の改札を抜けた
キロはホームに降り立つ。
わずかの間を空けて、電車がホームに入ってきた。
キロは深呼吸して電車の中へ足を踏み入れる。
二、三本ずらせば帰宅ラッシュに巻き込まれるところだが、まだ
車内には空席が目立った。
しかし、キロは席に座る事もせず、扉のわきに陣取って外を眺め
る。
次に街を見る時、今と同じものを見ることは叶わないだろう。
傾いた日の光に照らされる綺麗な街を今のうちに覚えておこうと
思った。
動き出した電車に揺られて街を眺めれば、自然と昔のことが思い
出される。
感傷に浸ろうにも、母や父の顔は靄がかかったようにしか思い出
せず、キロは苦笑した。
異世界で出会った人々の顔は一人ひとり鮮明に思い出せるという
のに、慣れ親しんだはずのこの世界で顔を思い出せるのはせいぜい、
1646
施設長と大原だけだ。
以前、フカフカを連れたまま寿司屋に入ろうとして門前払いを食
らい、習慣というものの恐ろしさを知った。
だが、今となっては生活どころか、自分の存在まで異世界に馴染
んでしまったのだろう。
目的の駅に到着し、キロは素早く電車を降りて改札を抜ける。
時計を確認して足を速めたキロは、動作魔力の恩恵もあってすぐ
に公園の近くに到着した。
公園の入り口を監視できる場所に陣取り、ペットボトルに口を付
ける。
とにかく喉が渇いていた。
こうして公園の入り口をわざわざ監視しているのも、ほんの少し
の希望にすがっているだけだと自覚していた。
キロは胸中にわだかまる苦いモノを水で流し、無理やり奥に押し
込む。
しばらくして、公園の入り口からクローナが姿を現した。
服装から判断する限りは間違いなく、記憶を失っていた頃のクロ
ーナだ。
クローナは手にした地図を見つつ、アパートへの道を歩いていく。
キロは距離を空けてクローナの後をつけ始めた。
行き先が自分のアパートだと分かっているため、尾行は容易だ。
十字路で首を傾げて右往左往したり、ポストを眺めて何に使う物
か分からず顎に手を当てて考え込んだりしながら、クローナはアパ
ートへ足を進めていく。
気付かれないようにクローナの後を追いながら、キロは鞄から髪
飾りを取り出した。
前回、現代社会へ戻ってきた際に買った新品の髪飾りだ。
前を歩くクローナが付けている髪飾りと見比べる。
幸いというべきか、クローナが髪飾りを大事に扱っているため、
新品でも見た目はさほど変わらない。
1647
キロは、新品の髪飾りにクローナの特殊魔力を少量込め、さらに
空になったペットボトルにもクローナの特殊魔力を込める。
キロは狙い澄まして、空のペットボトルを動作魔力で弾き飛ばす。
記憶を失ったクローナの髪飾りに衝突した瞬間、キロは込めてい
たクローナの特殊魔力を発動して位置を反転、クローナが付けてい
る髪飾りを手元にある新品の髪飾りと入れ替えた。
すり替え自体には成功したものの髪飾りはクローナの頭から落ち
てしまう。同時に、クローナの頭に空のペットボトルがぶつかった。
﹁⋮⋮痛い﹂
クローナは頭を押さえ、転がっていくペットボトルを不思議そう
に見る。
クローナは初めて見るペットボトルを拾い上げ、首を傾げた後、
道の端に立てた。
そして、ハッと何かに気付いたように髪を押さえ、振り返る。
コンクリートの地面に落ちている髪飾りを見たクローナは慌てた
様子で拾い上げ、傷の有無を真剣に確かめ始めた。
傷はついていなかったのか、ほっとした様子で新品の髪飾りをつ
け直したクローナはアパートに向かって歩き出す。
入れ替えられたことに気付いていないのだろう。
キロは古い方の髪飾りをポケットにおさめ、尾行を再開した。
車やすれ違う人もない中、クローナは順調にキロのアパートまで
辿り着いた。
キロは暗くなった空を見上げ、ため息を吐く。
時刻は十九時前、今頃はミュトとクローナが革手袋に処置を施し
終えているだろう。
白くたなびいた吐息を裂く様に、キロは足を速めた。
アパートを見上げ、中に入っていくクローナを追いかけながら、
キロは鞄に手を入れる。
1648
﹁︱︱クローナ﹂
アパートの廊下、電球の下で扉の名札を一つ一つ手元の紙と見比
べていたクローナの背中に、キロは声を掛ける。
動きを止めたクローナがキロを振り返って驚いたように瞬きした。
﹁キロさん? なんでこんなところにいるんですか?﹂
さん付け、それも親しみのない距離感のあるさん付けだった。
当然だろう。このクローナは、キロと過ごした記憶を失っている
のだから。
﹁クローナが探しているキロは、まだ虚無の世界にいる﹂
キロはクローナへ歩み寄りながら、事実を告げる。
周囲の景色を見れば、携帯電話を確認するまでもなく分かる事実
なのだが、クローナには当時の記憶がないため知りえない事だ。
﹁早く来すぎたんだよ、君は﹂
キロの言葉に違和感を覚えたのか、クローナが眉を寄せる。
足を止めたキロは、クローナを正面から見据えた。
﹁君の感覚だと六年前になる。パーンヤンクシュから村を守ったの
は俺だ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
クローナが困惑顔でキロを見る。
キロについての記憶が失われている彼女にとって、村を救った冒
1649
険者がキロであるならばその記憶も失われているはずだと考えたの
だろう。
﹁君の知るキロは俺とは違う。相似であって、合同ではないキロだ。
厳密に言えば別人で⋮⋮そうだな、双子みたいなものだと思えばい
い﹂
﹁⋮⋮なんとなくわかりました。それで、何故ここにいるんですか
?﹂
クローナが首をかしげて、質問する。
何故ここにいるのか、目的があるからだ。
﹁クローナが幸せだと言ってくれたから、俺はこの罪を背負う事に
した。たとえ、独りよがりでも﹂
キロは質問に答えたが、クローナは理解できず困ったように眉を
寄せるだけだ。
クローナが理解できずとも、別に構わなかった。
キロは鞄から手を引き抜く。
クローナが目を見開いた瞬間、キロは動作魔力で距離を詰め、鞄
から引き抜いた折れた槍の穂先を彼女の胸に突き刺した。
1650
第二十八話 推理
﹁どうして⋮⋮﹂
信じられないものを見るように見上げてくるクローナを見つめ返
して、キロは呟く。
﹁即死させるわけにはいかないんだ。ごめんな﹂
体から力が抜けて倒れかけるクローナを支えつつ、クローナの指
から形見の指輪を外す。
クローナの死亡を確認してすぐにキロはクローナの体を抱え、動
作魔力でアパートの屋根に飛び乗った。
間髪を入れず、先ほどまでキロ達がいた場所に虚無の世界からや
ってきたキロ達が現れた。
自殺したクローナの遺体を抱えた過去のキロが周囲を見回して住
み慣れた自分のアパートを認識する。
﹁なんで、俺のアパートなんだよ﹂
呆然と呟く過去のキロを横目に、キロは自らが殺したクローナの
遺体を抱えてアパートの屋根を蹴り、隣の家を飛び越す。長居すれ
ば、過去のフカフカに気取られる可能性があった。
目撃者がいない事を空から確認したキロは道路に降り立った。
クローナの遺体を背負い、動作魔力を使って駆け出す。
時間的な猶予はほとんどない。
キロは動作魔力を使った跳躍も織り交ぜながら、公園へ向かって
一直線に駆けた。
1651
同時に、ナックルからミュトの特殊魔力とクローナの特殊魔力を
引き出し、自らが殺したクローナの遺体へと込める。
公園に到着したキロは素早く視線を走らせ、目撃者の有無を確認
した後、ベンチにクローナの遺体を横たえた。
鞄からパラレルワールドシフトと書かれた紙を取り出し、クロー
ナの頭の下に置いたキロは深呼吸した。
﹁虚無の世界を脱出してからの日数分だけ過去の状態に戻して⋮⋮﹂
手順を確認して、キロは行動に移った。
クローナの遺体を虚無の世界で自殺した直後の状態に戻したのち、
クローナの特殊魔力で干渉不可の効果を打ち消し、効果時間を引き
延ばす。
その上で、キロは自らの特殊魔力をクローナの遺体に込めた。
特殊魔力を発動し、何度か味わった蘇生成功の感触を確かめたキ
ロは動作魔力を使ってクローナの傍を離れる。
﹁後は任せたぞ。革手袋の俺﹂
一人呟いて、キロは苦いモノを飲み下した。
やるべきことはあと一つだけだ。
キロは鞄から厚手のコートを取り出して羽織ると、革手袋を過去
の状態へと戻しに行ったミュト達との合流場所へ一直線に駆け出し
た。
合流場所であるファミリーレストランまで、さほど距離はない。
走りながら携帯電話を取り出したキロは、時刻を確認する。
記憶が確かならば、虚無の世界から帰ったキロは今頃リビングに
いるはずだ。同時に、虚無の世界からキロと共に戻ってきたミュト
はシャワーを浴び始める頃だろう。
当時のキロは茫然自失の状態であったため、記憶に自信が持てず、
1652
時間感覚もあいまいだが、さほどずれは生じていないはずである。
﹁︱︱キロ、こっちだよ﹂
ファミリーレストランの駐車場前で待っていたミュトがキロに向
かって手を振った。隣にはクローナの姿もある。
二人に駆け寄ったキロは、ミュトの肩の上から睨みつけてくるフ
カフカを無視してポケットから指輪を取り出す。
﹁事故が起こった。クローナ、バトンタッチだ﹂
﹁⋮⋮えっと?﹂
困ったような顔をするクローナに指輪を渡す。
﹁時間がない。台詞をもう一度教えるから、扉の前で虚無の世界か
ら戻ってきた俺と話してくれ﹂
有無を言わさぬ口調で言って、キロは二人を連れてアパートへ向
かって歩き出す。
クローナに台詞を伝えるキロの背中を、フカフカの視線に気付い
たミュトが考え込む様に目を細めて見つめていた。
アパートまである程度近付いて、キロは足を止める。
これ以上近付けば、アパートの中にいるフカフカに気配を悟られ
る恐れがある。
キロはクローナに向き直った。
﹁台詞は覚えたな?﹂
﹁⋮⋮えぇ、一字一句とまではいきませんけど、多分⋮⋮﹂
覚えた台詞がこぼれないようにしているつもりなのか、クローナ
1653
は頭を押さえつつアパートへ歩き出した。
不安を覚えても、これ以上キロにはどうする事も出来ない。クロ
ーナがうまくやってくれることを祈るしかなかった。
キロは民家のコンクリート塀に背中を預け、息を吐き出す。
ひとまず、やるべきことは済んだ。
﹁ミュト、革手袋への処置は?﹂
﹁成功したよ。道の裏側から回り込むのに苦労したけど﹂
﹁そうか、ありがとう﹂
精神的な疲労によるものか、キロはめまいを覚えて額を押さえる。
ミュトがキロの隣に背中を預けた。
﹁⋮⋮事故って何?﹂
﹁クローナがアパートに到着する前に車にはねられた﹂
﹁車って、あの鉄の塊だよね﹂
ミュトが民家の駐車場に止まっている車を指差す。
キロは一つ頷いて、肯定を表す。
ミュトは少し考える時間を置いた後、口を開いた。
﹁時系列を考えると、事故に遭ったクローナは公園にいたクローナ
で、キロの記憶を取り戻すクローナだよね?﹂
わかりきった事を再確認するような口調に、キロは無言を貫いた。
ミュトは視線を逸らし、さらに続ける。
﹁あの時からクローナは、村を救った冒険者の数を正確に覚えて無
かったよね。記憶の上では一人少なくなって、槍を使っていた冒険
者の事を忘れてた﹂
1654
﹁そうだな﹂
キロは短く答える。
ミュトがキロの袖を弱く掴んだ。
﹁蘇生させたんだよね?﹂
﹁⋮⋮公園で、蘇生させた﹂
キロが端的に事実のみを口にすると、袖を掴むミュトの手の力が
強くなった。
﹁なんで、虚無の世界を出てからのクローナの記憶を消したの? ボクとクローナの特殊魔力を使って過去の状態に戻さなくても、蘇
生は出来たはずだよね?﹂
卑怯だと思いつつ、キロは口を閉ざしたまま先を促した。
キロが答えないと知ると、ミュトは下唇を噛んだ。
キロの特殊魔力は蘇生した人間からキロについての記憶を消去す
る副作用がある。
しかし、消去された記憶は整合性が取れておらず、矛盾を生じる。
わざわざ過去の状態に戻すからには、整合性が取れていない記憶
を突き詰めて調査されては困るからだ、とミュトは想像したのだ。
﹁ねぇ、虚無の世界から戻る時にクローナの髪飾りを使ってこの世
界に来たよね。その念って⋮⋮﹂
未だ黙ったままのキロに、ミュトは俯いて駐車場に留まる車を指
差した。
﹁あんな大きなモノ、ボク達が虚無の世界から脱出した時に辿り着
1655
いた廊下に収まらないよ﹂
1656
第二十九話 贖罪と⋮⋮
真冬の寒風がキロ達の間を走り抜ける。
心も体も冷やすような風に、元から冷えていたキロは身震い一つ
しなかった。
﹁記憶を失ったクローナは、俺が殺した﹂
キロは短く告げた後、続ける。
﹁遺体を過去の状態に戻さないと、クローナが記憶を取り戻せない
可能性が高かった。だから、過去の俺が蘇生する前の状態に戻した
後、村で出会った冒険者、つまり、俺に関する記憶を使って蘇生さ
せた﹂
キロが淡々と告げると、ミュトは横目でちらりと表情を窺ってく
る。
キロを見た後、ミュトは肩に乗るフカフカに視線を移した。
﹁フカフカも知ってたの?﹂
﹁我は何も言わぬ約束であった﹂
﹁⋮⋮そう﹂
フカフカがまた沈黙し、ミュトは困ったように俯いた。
しかし、ミュトはキロの袖を掴んだままだ。
﹁クローナには本当のことを言わないの⋮⋮?﹂
﹁伝言が終われば、この世界でやる事もなくなる。その後で、全部
1657
言うよ﹂
キロが答えると、ミュトはどんな顔をすればよいのか分からない
ようにため息を吐いた。
フカフカが顔を上げ、アパートの入り口に視線を向ける。
何も知らないクローナがキロ達に手を振って走ってきた。
しかし、キロとミュトの間に流れる重たい空気を察したのか、ク
ローナは首を傾げる。
﹁場所を変えよう。過去の俺が施設に向かう前にここを離れないと
鉢合わせる﹂
キロはコンクリート塀から体を離し、クローナに背を向けて歩き
出す。
コートの下に着ている服が血まみれな事もあり、キロ達は人目を
避けてアパートを後にする。
しばらく歩いて見つけた児童公園の中にあるドーム状の遊具の中
にもぐりこみ、キロは服を着替えた。
重たい空気の中、クローナがそわそわしてキロとミュトの顔を窺
う。
﹁あの、さっきからどうかしたんですか?﹂
堪え切れなくなったのか、クローナがキロに問いかけた。
キロはクローナの顔を見る事が出来なかったが、それでも問いの
答えを考え、口を開く。
﹁さっき、過去のクローナを俺が殺した﹂
淡々と事実のみを伝え、キロはクローナを見る。
1658
きょとんとした顔をしたクローナは、俯いたミュトの反応を見て
キロの言葉が事実だと理解したらしい。
思い出すような素振りをして、クローナは首を傾げた。
﹁記憶を失っている私を、キロが殺したんですか? 比喩ではなく
?﹂
﹁あぁ、比喩じゃない。この手で、折れた槍の穂先で刺し殺した﹂
キロは詳しく話したが、クローナはなおも納得がいかない様に眉
を寄せて考え込む。
﹁私、キロに殺されるほどの事をしましたか?﹂
﹁クローナ、その質問はずれてると思うよ﹂
ミュトが困惑顔で指摘する。
自分を殺したと言うキロの隣を、クローナは怯える様子もなく平
然と歩いている。
ミュトの指摘に、クローナは首を傾げた。
﹁キロが何の理由もなく、ましてや私を苦しめたりするために殺す
はずがないです。他の人なら危ないですし、怖いですけど、キロが
やった以上は絶対に理由があります﹂
本当に、キロがクローナを殺したと理解しているのかを不安がる
ミュトの肩を、フカフカが尻尾で叩いた。
﹁キロを生かすために自殺した女である。我らの常識で考えるな﹂
理解に苦しむのか、ミュトが額を押さえた。
クローナが質問の答えを求めるようにキロを見る。
1659
ミュトと同じくキロも頭を抱えていたが、それでも答えを絞り出
す。
﹁クローナが何かしたわけじゃない。理由は、虚無の世界から脱出
できるように髪飾りに念を込めさせるためと、クローナの記憶を取
り戻すためだ﹂
キロはポケットに入れていたモザイクガラスの髪飾りを取り出す。
﹁この髪飾りはひとつ前の俺が買って気付かれないよう入れ替えた
後、クローナを殺して念を宿した﹂
﹁入れ替えたら思い入れがないと思うんですけど﹂
キロの手にある髪飾りを見て、クローナが疑問を口にする。
﹁だから、気付かれないように入れ替えたんだ﹂
﹁記憶を無くした私は入れ替わった髪飾りと大切にしていた髪飾り
を間違えて念を込めちゃったんですか?﹂
﹁そういう事だ。念が宿った髪飾りはそのまま過去の村で幼い頃の
クローナに託されて、時を経て虚無の世界から脱出するための媒体
として使われる。その後、蘇生したクローナがアパート前で殺され
る前に入れ替えられて、いま俺の手元に来たんだ。この髪飾りは正
真正銘、クローナがもらった髪飾りだよ﹂
キロはクローナに髪飾りを差し出す。
クローナが複雑そうな顔をして髪飾りを見つめた。
﹁つまり、この髪飾りは私自身の形見ですか? すごくややこしい
話になってますけど﹂
1660
確かにややこしい話ではあったが、クローナの認識で間違いはな
い。
キロが頷くと、クローナは髪飾りを受け取った。
﹁ラッペンの宿で交わした記憶を取り戻す約束を果たしてくれたん
ですね﹂
﹁幸せにするとも約束したからな。これからは償いながらになるけ
ど︱︱﹂
キロが最後まで言い切る前に、クローナが持つモザイクガラスの
髪飾りが長方形の黒い空間を開いた。
呆気にとられるキロとミュト、フカフカを余所に、クローナ一人
だけが微笑んだ。
﹁虚無の世界へ通じる帰還の扉ですね。念が解消されたみたいです﹂
いち早く我に返ったミュトがクローナを見る。
﹁念が解消されたって、なんで?﹂
ミュトの質問に、クローナは微笑んだままモザイクガラスの表面
を撫でた。
﹁記憶を失ったから愛想を尽かされたんじゃないかって、殺される
時にきっと不安だったんですよ。キロさん達はラッペンの宿屋以降
の日記を見てませんよね?﹂
ミュトに続き、キロとフカフカも頷く。
クローナは苦笑して日記の内容を思い出すように夜空を見上げた。
1661
﹁自分のことながら呆れてしまいますけど、ラッペンの宿で記憶を
取り戻して幸せにするって約束をしてもらってからの私はまたキロ
の事が好きになったんですよ。惚れ直したんです﹂
クローナは数歩キロ達に先行し、半回転してキロに向き直る。
﹁記憶を失って関係が壊れた事で、キロに愛想を尽かされるんじゃ
ないかってずっと不安だったんですよ。その時にキロに刺し殺され
るわけですから、嫌われたんだと思うでしょう?﹂
クローナはキロの眼を覗き込み、モザイクガラスの髪飾りを左右
に振る。
﹁嫌われたんじゃないかって不安も恐怖も、さっきの一言で解消さ
れて、帰還の扉が開いたんです﹂
クローナはモザイクガラスの髪飾りを着けると、キロに向かって
ほほ笑んだ。
﹁まとめると、私は殺されてもキロの事が好きだ、というお話です﹂
嘘だと思うなら日記を見ますか、と訊ねてくるクローナにキロは
首を振る。
クローナの顔を見れば嘘ではないことくらい容易に読み取れた。
当人ですら呆れてしまう惚れ具合と聞き、付き合いきれないとば
かりにフカフカがミュトの首に巻き付いて我関せずの姿勢を取った。
ミュトも疲れたように頭を押さえる。
そんな中、クローナはキロに正面から抱き着いて顔を見上げる。
﹁そもそも、私が自殺した後始末で辛い事をキロにさせてしまった
1662
んですから、償いをするなら私の方です。今度は私がキロを幸せに
しますよ﹂
キロを間近で見上げて、クローナがそう宣言した時だった。
﹁︱︱そうか、両成敗にすればいいんだ﹂
ミュトが顔を上げ、天啓を閃いたような顔で呟く。
キロとクローナは一瞬硬直し、恐る恐るミュトを見た。
ミュトはにっこりと笑ってキロ達を見ているが、明らかに眼元は
笑っていない。
﹁クローナが自殺したからこんな事になったんだし、キロはボクに
相談もしないで一人で突っ走るし、最後には二人で納得してそれで
おしまい、なんて許さないよ﹂
やってしまえ、とフカフカが小さく呟く声がした。
ミュトがやけに可愛らしい仕草で首を傾げ、口を開く。
﹁ボクもすごく心配したんだからね? 二度とこんな事しない様に
倫理とか道徳とかも含めてみっちり説教するから、早く宿を探そう
よ﹂
抑揚のない声で言って、ミュトはキロに抱き着いたまま固まって
いるクローナを引き剥がす。
﹁あ、キロのぬくもりが﹂
﹁︱︱なにか言った?﹂
ミュトが笑顔で一睨みすると、クローナは口を両手で押さえて首
1663
を横に振った。
クローナとキロの腕を取って逃げられないようにするミュトに、
逆らう勇気がある者はいない。
キロの視界の端で、フカフカがざまぁみろとばかりに舌を出し、
上機嫌に尻尾を振る。
キロはひそかに夜空を見上げ、苦笑した。
説教してもらえるだけ、幸せ者だ、と。
1664
第三十話 説教
モザイクガラスの髪飾りの念が解消されても、帰還の扉を潜るわ
けにはいかない。
クローナが自殺した直後の虚無の世界についてしまうためだ。
クローナが自殺した直後、キロはしばし呆然としていたため、フ
カフカに活を入れられている。
その間、未来のキロ達がやってきた記憶はないため、未来のキロ
達も髪飾りの念を解消したことで生じた目の前の帰還の扉を潜らな
かったのだろう。
キロは遺物潜りの魔法を解除し、帰還の扉を打ち消す。
﹁︱︱それじゃあ、説教を始めようか﹂
怒ると笑みが浮かぶ質らしいミュトがキロとクローナの手を握っ
たまま歩き出した。
寒風吹きすさぶ街を歩きながらミュトの説教と、絶妙なタイミン
グで織り交ぜられるフカフカの嫌味を聞かされる。
寒さと空腹にも耐えていると、市役所が見えてきた。
閉庁していたものの、傘立ては建物の外にあるため問題はない。
キロは鍵を差し込んでクローナの杖を取り出した。
クローナに杖を渡しつつ、ミュトに声を掛ける。
﹁そろそろ食事にしないか? 寒いから暖かいところに行きたい﹂
﹁そうだね。言いたい事は大体言ったから、ここら辺で終わりにし
ようか﹂
説教し疲れてミュトも空腹を感じていたのか、キロの提案にすぐ
1665
乗ってきた。
これでフカフカとのコンビネーションによる耳に痛すぎる説教を
聞かなくて済むと思うと、自然と安堵の息が漏れる。
フカフカが耳をピクリと動かした。
不味い、とキロは身構えたが、フカフカも言いたい事を言い尽く
した後らしく、鼻を鳴らすにとどめた。
キロは財布と相談し、和食料理屋へ向かう事にする。
全国にチェーン展開する大手のファミリーレストランである。
空気を読んで大人しくしているフカフカを見咎められないように
気を配りつつ、キロは端の席に通してもらえないかと交渉し、承諾
を得た。
キロ達の持つ大荷物が廊下に飛び出しても問題が起こらないよう、
店側も気を使ったのだろう。
席に腰を下ろし、キロはクローナとミュトの前にメニューを差し
出す。
文字を読めないクローナ達であっても、写真が付いていれば判断
に困る事もないだろう。
キロは久しぶりに蕎麦でも食べようかとメニューを流し見る。
﹁︱︱ねぇ、キロ﹂
ミュトに声を掛けられて、キロはメニューから顔を上げた。
﹁このままこの世界に居たら、悪食の竜が来たりしない?﹂
﹁来るだろうな。ただし、食事をとるくらいなら問題ないだろう﹂
クローナの世界でも、悪食の竜が来るまでの猶予は存在した。
キロは店員に注文を告げて、窓の外を見る。
﹁多分、この世界にはもう戻ってこないだろうな﹂
1666
﹁どうしてですか?﹂
キロが呟くと、クローナが首を傾げた。
キロは道路を走る車のテールランプを見送りながら、口を開く。
﹁遺物がないってこともあるけど、クローナを殺した感触を思い出
すからさ﹂
あぁ、とクローナは納得したような声を出し、自らの手を見た。
﹁私も自殺した時の感触が残ってますよ﹂
﹁⋮⋮得難い経験であるな﹂
フカフカの皮肉が聞こえ、近くの席に座っていた親子連れが振り
返る。
キロ達とは違う四人目の声が聞こえた事で興味を引かれたのだろ
う。
キロと眼が合うと、親子連れは興味を失ったように視線を逸らし
た。
親子連れの意識が完全に外れるまで待って、キロはフカフカを睨
む。
フカフカは小さく尻尾を揺らした。
ミュトが呆れたようにため息を吐き、キロとクローナを流し見る。
﹁それに懲りたら、もう二度としないでね﹂
﹁あぁ、分かってるよ﹂
﹁またあの説教を聞かされたら堪りませんからね﹂
クローナが口を滑らし、ミュトに睨まれた。
慌てたように、クローナは窓を見る。
1667
ミュトが口を開く前に、店員が料理を運んできた。
運ばれてきたのは蕎麦とうどん、それにうな重だった。
キロは蕎麦を、クローナはうどんを、ミュトはうな重を手元に引
き寄せ、食べ始める。
相互に料理を分け合って食べつつ、キロは今後の予定を相談する。
﹁少し休憩して体力が回復したら、クローナの世界に戻る﹂
うどんをフォークで食べていたクローナは箸を使うキロを観察し
ていたが、予定は耳に入ったらしい。
箸に手を伸ばし、見よう見まねでうどんを食べようとしながら、
クローナが口を挟む。
﹁窃盗組織の根城での戦いに行くんですよね?﹂
はたから聞いていれば物騒極まりない話だが、クローナ達の言葉
は翻訳の腕輪を持つキロ以外の現代人には理解できない。
聞き耳を立てる者もいないだろう、とキロは言葉を選ぶ手間を省
いて答える。
﹁遺品を使って戻る事になるからな。乱戦の真っただ中に出る可能
性が高いから、戦闘態勢を取った状態で向かう﹂
ミュトがウナギの食感を楽しみつつ、キロを見た。
﹁そういえば、世界を渡った瞬間に戦闘開始って初めてだね。悪食
の竜の時でも襲撃されるまで少し時間があったから﹂
﹁そうですね。渡った瞬間に流れ弾に当たらないように気を付けな
いと﹂
1668
あれこれと話している内に料理を食べ終え、ちゃっかりと頼んで
いたデザートをクローナとミュトが分け合った後、キロ達は席を立
つ。
デザートの感想を言いあうクローナとミュトの楽しげな声を聴き
ながら、キロは会計を済ませた。
デザートが気に入った様子のクローナ達を見て、キロは店を出て
すぐに近くのコンビニに入った。
どうせもう現代社会には戻らないのだから、とキロは菓子類を大
人買いして店を出る。
﹁全部終わったら、お菓子パーティーって事で﹂
キロは大人買いした菓子の袋を下げ、クローナ達を連れてコンビ
ニの裏に回った。
コンビニの裏に広がる雑木林の中へ入り、キロはフカフカを見る。
何度もしたやり取りだ。言葉を交わさずとも、フカフカが周囲に
人気がない事を教えてくれた。
キロは魔法陣を描き、窃盗組織の人間が遺した短剣を媒体に遺物
潜りを発動する。
見慣れた黒い長方形の空間を前に、キロは左右へ手を伸ばした。
すぐにクローナとミュトがキロの手を取る。
クローナが片手でキロの脇腹を突いた。
﹁そういう試すようなまねをしないでください﹂
ミュトがキロの肘辺りにもう一方の手を添える。
﹁この世界に来る時に手を繋いでくれなかったのってそういう理由
だったんだね﹂
1669
キロは笑みを浮かべ、クローナの世界への扉を見据えた。
﹁︱︱帰ろうか﹂
1670
第三十一話 窃盗組織の根城
異世界への扉を潜った瞬間、キロ達を怒号が包む。
キロは瞬時に視線を巡らせ、乱戦のど真ん中に出たと察するや否
や奥義を発動した。
キロの前後へ地面が爆ぜ、砂礫をまき散らす。
﹁クローナは石壁、ミュトは防御﹂
キロが指示を飛ばすと、臨戦態勢だったクローナとミュトは間髪
入れずに応えた。
フカフカが尻尾を光らせる。
﹁我が敵を照らそう。キロよ、早く仕留めるのだ﹂
﹁折れた槍しかないんだけどな﹂
キロが苦笑する間もなく、フカフカが窃盗組織の人間らしきスキ
ンヘッドの男を照らし出す。
突然何もないところから現れたキロ達に目を剥いたスキンヘッド
は、それでも仲間に危機を知らせるべくを声を張り上げる。
﹁冒険者の新手︱︱﹂
言葉の途中で突き出されたキロの掌底で腹部を強打されたスキン
ヘッドが息を詰まらせ、体をくの字に折った。
続けざまにキロが動作魔力でスキンヘッドを弾き飛ばす。
スキンヘッドの警告で振り向いた窃盗組織の仲間達は、吹き飛ん
でくるスキンヘッドを慌てて避けた。
1671
しかし、スキンヘッドの体が作った死角を利用して滑り込んでき
たキロに蹴りを叩き込まれて一人が地面を転がり、地面に向けて放
たれた二度目の奥義で視界を眩ませられる。
砂塵の中、キロはクローナ達の元に戻った。
﹁クローナ、とどめを任せた﹂
﹁壁に叩き付けておきますね﹂
先ほどのキロの指示で生み出した石壁に、クローナが動作魔力を
込めて窃盗組織の集団に弾き飛ばす。
砂塵が晴れた直後に、地面を削りながら猛然と迫る石壁を見た窃
盗組織の面々は悲鳴を上げる暇もなく石壁に押しやられ、建物の壁
との間に挟まれた。
クローナが石壁に込めた現象魔力が多かったのだろう、窃盗組織
の集団を建物との間に挟んだまま、石壁は消える事無く鎮座する。
石壁と建物との隙間からうめき声が聞こえてきたため、キロはク
ローナと顔を見合わせた。
﹁気絶すると思ったんですけど、案外丈夫ですね﹂
﹁防具を着込んでたからな。とりあえず、意識を刈り取っておこう
か﹂
﹁そうしましょう﹂
短い相談の後、石壁の裏に紫電が這い回り、うめき声は途絶えた。
窃盗組織と対峙していた冒険者達が呆気にとられていたが、キロ
は構わずにミュトの肩の上にいるフカフカに視線を向ける。
﹁退路は分かるか?﹂
フカフカは耳をそばだて、空を見上げた。
1672
﹁分からないわけでもないが、アンムナ達と鉢合わせてもよいのか
?﹂
﹁あぁ、問題はないと思うけどあの辺りは冒険者も多いだろうし、
士気にかかわるか﹂
キロは頭を掻き、山城を見回す。
我に返った冒険者達が二手に分かれ、気絶した窃盗組織の人間を
縛り上げたり周辺の警戒を行っていた。
ミュトがキロの袖を引く。
﹁悪臭の特殊魔力を避けながら森を出ればいいと思うよ。防壁も、
キロなら簡単に乗り越えられるから﹂
﹁悪臭の特殊魔力の位置、全部覚えているのか?﹂
キロが問うと、ミュトは鞄から一枚の地図を取り出した。
地図師の習性か、持っていないと落ち着かなかったのだろう。
キロは再び周囲を見回し、走ってくる窃盗組織の集団五人を見つ
けるとクローナの肩を叩く。
意図を察したクローナが、冒険者達に声を掛けた。
﹁私達はこのままシールズを探してきます﹂
口から出まかせだが、冒険者達は納得してくれたらしい。
行き掛けの駄賃に、走ってきた窃盗組織の五人を昏倒させ、キロ
達はその場を後にする。
﹁人のいない方向へ案内する、従え﹂
フカフカが偉そうに命じるままにキロ達は山城の中を走り抜け、
1673
丸太で作られた防壁に辿り着く。
クローナとミュトを抱えたキロは、もはや慣れてしまった壁走り
で防壁を越え、山城の外に出た。
フカフカが嫌そうに鼻を尻尾で覆う。
﹁強烈な臭気であるな﹂
﹁何も感じませんけど?﹂
フカフカの反応に首を傾げるクローナに、キロも同意する。
しかし、フカフカは悪臭を追い払う様に鼻から息を吐き出した。
﹁人間どもは便利な鼻を持っておるな。我には感じ取れる。証拠に、
魔物はおろか獣もおらぬだろう?﹂
言われてみれば、周辺に動物の姿はない。
女主人が張った悪臭の魔力はきちんと魔物除けの役割も果たして
くれているようだ。
﹁フカフカ、女主人の特殊魔力を食えるか?﹂
﹁死ねと言われる方がましであるな﹂
﹁そんなに酷いのか⋮⋮﹂
例える言葉も見つからないという酷い悪臭を堪えているフカフカ
に同情しつつ、キロ達は走り出す。
魔物がいないため、森を抜けるまではあっという間だった。
ちょうど、増援の冒険者が山城に向けて出発する頃合いだったら
しく、キロ達はどさくさに紛れて街へと入る。
キロの武器を買いに行くべく、三人と一匹は街の武器屋へと足を
運んだ。
若い三人の冒険者の来店に武器屋の店主は一瞬胡散臭そうな視線
1674
を向けたが、すぐにキロのナックルやクローナの杖に使われている
リーフトレージに気付き、慌てた様子で腰を上げた。
﹁本日は何をお探しでしょうか?﹂
上客だと判断したらしい店主が営業スマイルを浮かべて声を掛け
てくる。
キロは店内をぐるりと見回した後、クローナを見た。
クローナが財布の中身を気にして、小さく唸る。
﹁キロさん、何本欲しいですか?﹂
﹁またすぐに壊すと思って予備を含めるなよ﹂
﹁だって、三本目ですよ? 一年も経ってないのに﹂
クローナの言葉にキロは言葉を詰まらせ、そっぽを向く。
﹁仕方がないだろ。それに今回は切れ味を気にする必要があまりな
い。しいて言うなら、新品よりは売れ残りの方がいいかも知れない
くらいだ﹂
﹁悪食の竜退治に使うんですもんね。今回は消耗品と割り切るしか
ないですから、二本は買っておきましょうか﹂
﹁ボクの小剣も欲しい。ずっとラッペンで拾った剣だから、使いづ
らくて﹂
﹁消耗品二つ追加ですか﹂
クローナが苦笑して、店主に向き直る。
武器を消耗品扱いする三人を取り繕った笑みで見ていた店主の額
には青筋が浮かんでいた。
消耗品だからと安物ばかりを買っていくのかと思ったのか、すぐ
に壊れるような商品を扱っていると思われた事に腹が立ったのだろ
1675
う。
しかし、クローナが財布から金貨を数枚取り出すと、店主はあか
らさまに硬直した。
﹁この店で一番古い槍と小剣を一本ずつと、切れ味が良くて丈夫な
槍とリーフトレージが使われた小剣を一本ずつ買いたいので、売っ
ていたら見せてくれませんか?﹂
店主の額から青筋が消え、気分良く仕事をしてもらえることが決
定した瞬間だった。
必要な武器を買い込むと、キロ達は一息つくため、街の片隅にあ
る宿で部屋を取った。
荷物を置いて、キロは部屋に備え付けの椅子に腰かける。
﹁あとは昼まで休憩だな﹂
北から悪食の竜出現の報が届き、ギルドから地下世界へ過去のキ
ロ達が出発するまで、まだ数時間ある。
リーフトレージで柄が作られた小剣を眺めるミュトに声を掛け、
キロ達は相互に特殊魔力を込めあった。
キロ達が魔力の回復を図りつつ地下世界で得た情報の整理をして
いると、にわかに外が騒がしくなる。
過去のキロ達がギルド前で報酬を授与されたらしい。
﹁そろそろだな﹂
キロは仮眠を取っているクローナの肩を揺すって起こし、コップ
に入った水を差しだす。
1676
礼を言って受け取ったクローナの寝ぼけ眼が開かれるのを待って、
軽食を取る。
感覚的には夕食だったが、外はまだ昼前だ。
これも時差ボケで良いのだろうか、と取り留めもない事を考えな
がらゆっくりと食べる。
﹁まずはギルドだな﹂
キロは荷物を手に取り、立ち上がった。
今頃はギルドの奥の部屋にてギルド長達が悪食の竜についての話
を過去のキロ達から聞いている。
歩いてギルドに向かえば、過去のキロ達が地下世界に出発した頃
にギルドへ到着するだろう。
アンムナ達にしてみれば、出発したばかりの当人が間をおかずに
顔を出すのだから、さぞかし愉快な顔が見れるはずだ。
キロはクローナ達と笑いあって、宿を出た。
1677
第三十二話 パラレルワールドシフトの弊害
ギルドの奥、地下世界へ向かうキロ達を見送ったギルド長達は、
彼らの感覚ではすぐに帰ってきたキロ達を微妙な顔で出迎えた。
予想していたらしいアンムナだけは苦笑を浮かべていたが、タイ
ムパラドックスを全く理解できていないゼンドルなどは遺物潜りの
魔法陣とキロ達を交互に見て頭を抱えている。
アンムナが苦笑を浮かべたまま肩を竦めた。
﹁時間移動による弊害は予想していたけど、実際にやられると不思
議な感覚だね﹂
キロもまた肩を竦めて答え、その場の面々を見回した。
﹁俺の認識とさほど差はないはずですが、現状の詳しい説明をお願
いできますか?﹂
キロの言葉に、ゼンドルが首を傾げる。
﹁さっき出て行ったばかりだろ。状況は変わらねぇよ?﹂
﹁俺はさっき出て行ったキロ達とは少し違ってるんだ。厳密に言え
ば、別の世界から来たことになる﹂
ゼンドルに加えてティーダやギルド長まで首を傾げる中、アシュ
リーがアンムナと顔を見合わせた後、キロとクローナ、ミュト、フ
カフカの四名を観察する。
﹁パラレルワールドから来たのね?﹂
1678
キロは頷きを返し、話を理解しようと首をひねっているカルロに
声を掛ける。
﹁馬車の運転をお願いします。北にいる悪食の竜のところへ向かい
ながら、詳しい話をするので﹂
一路北へと進みながら、地下世界産の馬がまったりした顔で空を
見上げる。
空を守るための道行きだなどと、地下世界産の馬は夢にも思って
いないだろうな、と思いつつキロは地下世界で得た悪食の竜につい
ての知識を同乗者に話した。
同乗者はアンムナ、アシュリーなど、キロと関係のある面々だ。
人数が多すぎるため、数台の馬車に分かれて乗り込み、それぞれ
キロ、クローナ、ミュトが状況説明のために分乗している。
特にキロと同じ馬車に乗っているのはアンムナ、アシュリー、女
主人の三人であり、理解力の高いグループであると同時にクローナ
の村におけるタイムパラドックスを身をもって体験した面々だ。
必然的に、キロはパラレルワールドシフトについても話すことに
なった。
アンムナがキロの話を一通り聞いたうえで沈黙し、やがてため息
を吐いた。
﹁パラレルワールドシフト計画、過去の村にやってきた理由はそれ
か﹂
﹁はい。パラレルワールドを意図的に発生させて、相似であって合
同ではないクローナを出現させないと、俺の特殊魔力で蘇生しても
記憶が戻らなかったんです﹂
1679
キロが理由を語ると、女主人が頭を掻きながら口を挟む。
﹁悪いけどさ、パラレルワールドってのはどうやったら発生するん
だい?﹂
クローナの世界ではパラレルワールドという考え方を持っている
人間が少ない。アシュリー復活のために長年研究していたアンムナ
ならばともかく、女主人にすぐ理解を求めるのは酷だろう。
とはいえ、キロのような異世界からやってくる存在について、ク
ローナの世界では文献に残るほど周知されてはいるため、別の世界
という考え方は難しくないはずだ。
キロは説明の仕方を少し考えて、口を開く。
﹁パラレルワールドの発生条件は人や物の経験に矛盾が生じる事で
す。例えば、未来から来た子供が親を殺害した場合、その世界では
子供が生まれなくなるため、殺害が成功した時点で新しい世界が生
じます。これは子供の経験に矛盾が生じているためです﹂
女主人は空中でちまちまと指先で何かの図を描き、ふむ、と頷く。
﹁つまり、キロはわざと矛盾を生じさせたのか。いつ、どこで、ど
うやって?﹂
﹁この世界の時系列で言うと、最初はクローナの村です。形見の指
輪が二つになったのは、パラレルワールドが発生したせいで相似で
あって合同ではない存在になったからです﹂
当時を思い出すようにアシュリーが考え込む。キロについての記
憶は失われているため、細かい動きは分からないはずだが、それで
も理解はできたらしい。
アシュリーがキロを横目に見て確認する。
1680
﹁経験に差が生じる事がパラレルワールド発生の条件で、差を生じ
たモノが相似であって合同ではないモノになるのなら、クローナは
?﹂
幼少期のクローナと合同であるならば、存在できないはずだろう、
というアシュリーの質問にはアンムナが答えた。
﹁差の蓄積が伝播したんだろうね﹂
遠回しな言い方をしてアシュリーの気を引こうとするアンムナに
微妙な顔をしたアシュリーだったが、知識欲には勝てずに視線をキ
ロからアンムナに移す。
アンムナはキロを指差した。
﹁僕は三人のキロ君に、アシュリーは二人のキロ君にあってるのさ。
僕が遺物潜りを伝授したキロ君と、過去にクローナ君の村で出会っ
たキロ君、そして今、目の前にいるキロ君だ。この三人はキロ君の
言葉を借りれば、相似であって合同ではない存在。なぜなら、螺旋
上のひとつ前のキロ君から干渉を受けているからだ﹂
アンムナの説明は、以前現代社会でキロがミュトに指摘されたも
のと同じだった。
キロは革手袋でクローナの世界に送り込まれる際、干渉結果が蓄
積されていく。
バトンリレーのように受け継がれる干渉結果の蓄積が、キロを相
似であって合同ではない存在とし、現代社会において数人が揃って
も決して同一化しなくなるのだ。
キロはアンムナの言葉を肯定して、補足する。
1681
﹁俺の世界もパラレルワールドになっています。俺が育った施設で
飼っていた犬のエサ入れが起点になり、パラレルワールドが発生し
ます﹂
女主人が眉を寄せる。
﹁待て、エサ入れとやらでパラレルワールドを発生させる前なら、
経験に差が生じていないだろ? なんでお前が同化してないんだ?﹂
﹁差が生じたんでしょうね。自分の世界からパラレルワールドを梯
子している内に、それまでの歴史に差が生じる世界に到着したんで
しょう﹂
キロが指先で巻貝のような螺旋を描く。一周ごとに半径は大きく
なるように、世界ごとの差も開いていく。
差が臨界に達した時、キロはキロと見なされなくなった。あるい
は、その世界の自分を自分自身とは認識できなくなった。
アンムナがキロを見る。
﹁話は分かったよ。それで、悪食の竜はどうやって倒すのかな?﹂
話が本題に入った事に気付いたのか、御者台からカルロが視線を
向けてくる。
キロはカルロにも聞こえるように声を大きくする。
﹁悪食の竜は可能性を食らう自然現象で、限界まで可能性を蓄える
と死亡して新たな世界を構築します。ただし、食べるのはあくまで
も消費された可能性でした﹂
﹁なるほど、幾度となくパラレルワールドを発生させて可能性を折
半していたこの世界は、悪食の竜の眼に限界を迎えつつある世界だ
と映ったのか。飛び込んでくるのも頷ける﹂
1682
﹁耳に痛いです。まぁ、可能性を無駄使いしたのは俺で、しかも魔
力を辿られてきたのも俺達なので、これから後始末に行くところな
んですけど﹂
﹁それを言ったら、僕もアシュリーを蘇らせるためにキロ君のパラ
レルワールドシフト計画に便乗したんだから同罪だろう。それで、
可能性を食べさせるのが悪食の竜を倒す唯一の方法ということであ
ってるかな?﹂
﹁その通りです。俺達はこれから悪食の竜に可能性を食べさせに行
くんです﹂
アンムナの言葉に頷いて、キロは後続の馬車を見る。クローナや
ミュトも、これからキロがアンムナ達へ話す悪食の竜の討伐方法を
みんなに伝えている事だろう。
キロはアンムナ、アシュリー、女主人、そしてカルロを見回して、
討伐方法を告げる。
﹁︱︱未来という可能性を﹂
1683
第三十三話 たった一つの未来への戦い
﹁地下世界の地図師、オラン・リークスによれば、過去は不変です。
だからこそ、観測者の経験、過去に矛盾する事態を解消する自然現
象として新しい世界、パラレルワールドが生まれます﹂
キロはロウヒの縄張りで見たオラン・リークスの姿を思い出しな
がら説明する。
オラン・リークスは過去は不変であるとし、さらにこうも言って
いる。
﹁未来は千変万化、無数の可能性を持っています﹂
話がつかめてきたのだろう、アンムナが面白そうに目を細めた。
﹁無数の可能性から一つを選び取られて一本化された過去ではなく、
無数に枝分かれする可能性そのものである未来を悪食の竜に直接食
わせ、許容量を上回らせる事で自壊を狙う作戦だね?﹂
キロが話す断片的な情報から作戦概要を察したらしく、アンムナ
がキロに確認する。
オラン・リークスが立てた作戦と同じものであるとは限らないが、
キロはアンムナの言葉に同意する。
キロは両手にはめているナックルを持ち上げた。
﹁ミュトの特殊魔力は対象物を過去の状態に戻す魔法、そしてクロ
ーナの特殊魔力は反転させる魔法です。この二つを併用すれば、対
象物を未来の状態にすることができます﹂
1684
キロのナックルはリーフトレージで作られており、魔力の貯蔵が
できる。
﹁二人の特殊魔力を同時使用する事で武器を未来の状態にし、悪食
の竜への攻撃に使用すれば倒せるはずです﹂
﹁理屈は分かった。しかし、いくつもの世界を食べる悪食の竜が武
器一つの可能性で腹を満たすのかな?﹂
﹁千変万化、ですからね。一つで足りなければ魔法で生み出した石
でもいいはずです﹂
キロの答えに満足できなかったのか、アンムナはじろりとキロを
見据えた。
﹁キロ君の特殊魔力は蘇生だったね?﹂
﹁はい﹂
キロはアンムナの鋭い視線を見つめ返しながら、肯定する。
しばらく睨み合った後、アンムナは諦めたように視線を逸らして
肩を竦めた。
﹁まぁ、良いだろう。奥の手は取っておくものだからね﹂
アンムナの意味深長な発言の意図が理解できなかったのか、カル
ロが御者台から疑問を浮かべた顔を向ける。
しかし、アシュリーや女主人の表情を見て、口を挟まない方が良
いと判断したらしく、馬車の進行方向に視線を戻した。
キロもまた、道の先へと視線を移す。
悪食の竜の被害から逃れるために避難してきたのだろうか、家財
道具を満載した馬車や手押し車の一団が見えた。
1685
休憩を取っているらしいその一団はキロ達を見て眉を寄せる。
﹁あんたら、この先には行かない方がいい。ギルドから通達が出て
いるはずだろう?﹂
一団から進み出てきた強面の男性が馬車を操縦するカルロに声を
掛ける。
カルロが馬車を止め、強面の男性を見た。
﹁竜の話ですかな?﹂
﹁そうだ。知ってんじゃねぇか。⋮⋮倒そうなんて馬鹿な事考えて
ないだろうな?﹂
強面の男がキロ達の武装を見て、信じられない様に問いかける。
キロは馬車の端から身を乗り出し、強面の男性に話しかけた。
﹁そのまさかです。竜の話を聞かせてもらってもいいですか?﹂
気を利かせたアンムナから翻訳の腕輪を渡された強面の男性は、
キロの質問に呆れたような視線を送った。
﹁見てみればきっとわかるだろうが、あんなもの人間の手に負えな
いぞ﹂
﹁大きさはどれくらいでしょうか?﹂
﹁低い山の天辺に鎮座してれば、麓からでも形が分かるくらいだな﹂
いまいち大きさが分からないキロが首を傾げると、強面の男性は
道を指差す。
﹁この直線と同じくらいの体長だ。翼長なら五割増しだろう﹂
1686
キロは道を見回し、大体の長さを目算する。おおよそ、三十メー
トルだろうか。
以前虚無の世界で見た時よりも明らかに成長している。
﹁空を食っているという報告を受けています。被害状況は?﹂
﹁人的被害はゼロ、街にも被害は出ていなかった。空に向かって口
を開けたかと思うと徐々に奴の口へ吸い込まれていって、ぽっかり
穴が開いた。実際に見てみないと分からんだろうな﹂
苦々しい顔で言った強面の男は、北を睨む。
キロは礼を言ってカルロに馬車を出してもらうよう頼み、集団と
別れた。
街に被害が出ていないと知って少し安心したものの、悠長に構え
ている時間もないようだった。
﹁速度を上げてください﹂
キロが頼むと、カルロは手綱を操作し、地下世界産の馬に加速を
命じた。
北の街が見える頃には、その先にある山と頂上にいる悪食の竜、
さらには虚無の世界に通じるだろう真っ黒な空が視界に入った。
キロ達は馬車を下り、悪食の竜を見る。
隣にクローナとミュトが立った。
﹁随分と大きくなってますね﹂
﹁みるみる大きくなっているように見えるよ﹂
1687
ミュトが悪食の竜を遠目に観察しながら呟く。
キロやクローナの眼には悪食の竜の成長スピードが分からないが、
地図師であるミュトは目測で成長度合いを察する事が出来るらしい。
悪食の竜は山の天辺に陣取り、空に向けて口を開けている。
暮れていく夕焼け空が悪食の竜の口へと渦を巻いて吸い込まれ、
空の代わりに夜よりも暗い空間が広がっていく。
ふと、悪食の竜が口を閉ざした。
ゆっくりと視線をおろし、山の稜線を眺めたかと思うと、街へ、
そしてキロ達へと視線を移動させる。
目が合ったような気がして、キロは古い槍を構えた。
その瞬間、悪食の竜は山から垂直に跳び上がると虚空を巨大な翼
で一打ちし、キロ達に向かって飛んでくる。
﹁戦意旺盛であるな。いや、旺盛なのは食欲か﹂
フカフカが鼻を鳴らし、悪食の竜に皮肉を飛ばす。
キロは馬車にいる面々を振り返った。
﹁周辺から魔物が来た場合の対処をお願いします﹂
キロの指示を受け、カルロ達が周囲に散らばってくれる。
相手が巨大な竜であるため、戦闘区域も広くなる。必然的に魔物
との遭遇が想定されるため、アンムナ達には周辺の魔物の一掃を頼
んであった。
キロは悪食の竜に視線を戻す。
すでに町の上空を飛び抜けつつある悪食の竜は、散らばったアン
ムナ達には目もくれず、キロとクローナ、ミュト、フカフカのいる
地点を見据えている。
一度魔力を食らった相手であるキロ達を最初の獲物と認識してい
るのだろう。
1688
﹁⋮⋮竜退治なんて英雄っぽい事する事になるとはな﹂
キロは呟く。
バイトをしながら就職先を探し、奨学金の返済をしていた頃には
考えられなかった事だ。
キロの言葉を耳にしたクローナが苦笑しながら杖を構える。
﹁同感ですよ。少し前まで羊飼いをしていたのに、世界を食べる竜
を退治しようだなんて﹂
くすくすと笑って、ミュトが小剣を抜き放つ。リーフトレージの
柄が緑色に光を放っていた。
﹁ボクなんて、空を目指して地図を描き続けていたんだよ? それ
が今じゃ、夕暮れ空の下で空を守る戦いを始めるんだから﹂
三人は視線を交差させ、笑みを浮かべる。
フカフカが三人を見回した。
﹁未来は千変万化、我らのような者に予測できるものではないとい
う事である。尤も、この戦いの行方は決まっておるがな﹂
フカフカが自信たっぷりに言葉を区切り、尻尾を打ち振るうと、
街の上空を抜けたばかりの悪食の竜へ光を照射した。
﹁︱︱奴の負けである﹂
1689
第三十四話 悪食の竜討伐戦
悪食の竜の接近に従って、周囲の森が騒がしくなる。
フカフカが煩そうに森に目を向けた。
﹁悪食の竜から逃げてきた魔物が慌てふためいておる﹂
﹁アンムナさん達が片付けてくれるだろ﹂
キロはフカフカに言葉を返して、槍にミュトとクローナの特殊魔
力を作用させる。
売れ残りの槍は併用された魔力によってはるか未来の姿を形作っ
た。
幾千、幾万の可能性を宿した槍は、千変万化する未来を象徴する
ように形が安定せず、錆びたように見えたり、欠けたように見えた
りした。
悪食の竜がキロ達に向けて口を開く。
悪食の竜の口に周囲の空間が吸い込まれるように消えてゆき、後
には虚無の世界へと通じているのだろう真っ黒な空間が残された。
キロが動作魔力を練り上げ、駆け出すと、半歩遅れてミュトが続
き、クローナが後を追いかける。
キロは手近な木の幹に足を付け、すぐさま頂上へと駆け登った。
キロの体重に木の上端がしなるが、キロは動作魔力を木に作用さ
せ、踏切台のように上空へと跳ねあげた。
木の踏切台を利用したキロは高く空に跳び上がり、悪食の竜と同
じ高度に達する。
悪食の竜が目の前に来た獲物目掛けて翼を更に一打ちし、加速し
た。
直後、クローナが生み出した水の柱に乗って上昇してきたミュト
1690
が下から悪食の竜の腹目掛けて小剣を突き立てる。
傷が浅いのか、それとも痛覚が存在しないのか、悪食の竜は反応
も見せずにキロへと首を伸ばす。
﹁実体があるんだな﹂
ミュトの動きで悪食の竜に実体がある事を把握したキロは、瞬時
に現象魔力で石壁を作り、両足で蹴りつける。
向かう先は下方、重力の恩恵も得た加速で一気に高度を落とした
キロは悪食の竜の口から逃れると同時に槍の間合いに竜の太い足を
収めた。
大口を開けたまま上空を飛びぬけようとした悪食の竜の足へ、キ
ロは槍を突き立てる。
動作魔力で加速した突きは悪食の竜の足を貫くが、血が噴き出す
事はなかった。
違和感を覚えたキロはすぐさま動作魔力を逆方向に作用させ、槍
を竜の足から引き抜く。
竜の足が目の前で膨張を始め、キロは慌てて離脱を図った。
槍を引き抜くのに使った動作魔力の勢いに任せて、キロは悪食の
竜から離れ、近くの木の幹に着地する。
キロは悪食の竜の足を確認し、舌打ちした。
﹁キロ、手ごたえはありますか?﹂
木の根元にいたクローナがキロを見上げて聞いてきた。
キロは竜の動きを注意深く目で追いつつ、答えを返す。
﹁竜の奴、傷を受けても瞬時に再生する。生物としての死は存在し
ないみたいだ﹂
1691
木が揺れた気がして視線を向ければ、ミュトがキロと同じ木の枝
に降り立っていた。
悪食の竜を見上げたミュトが親指を悪食の竜に突きだし、目を細
める。親指を基準にして、正確に悪食の竜の大きさを図っているの
だろう。
﹁⋮⋮大体、二十回ぐらい攻撃すれば今の倍くらいの大きさになる
よ﹂
﹁攻撃した直後、あからさまに膨張したからな﹂
キロは手元の槍を見る。
ミュトの過去に戻す魔法にクローナの反転する魔法を併用し、未
来の姿をしている槍はそのままだ。
しかし、注意深く見てみると錆びた形状を為すことがない。
悪食の竜により、錆びるまでの未来を食われてしまったのだろう。
さまざまに欠け、あるいは曲がる、時には折れたように見える事
すらある槍の未来から、錆びる未来だけが消え去った。
悪食の竜の膨張と合わせて、キロは結論を導く。
﹁可能性を叩き込むのには成功しているみたいだな﹂
﹁そうみたいだね。このまま攻撃を続けよう﹂
キロと同じように小剣の変化を見ていたミュトが同意した。
悪食の竜は空中で旋回し、キロ達に向き直る。
動きは単調だが、悪食の竜は口を開けて飛んでいるため、通った
後には虚無の世界へ通じる真っ黒な空間となっていた。
真っ黒な空間に入った場合、即座に虚無の世界に移動してしまい、
戦闘からの離脱を余儀なくされてしまう。
たちの悪い飛行機雲だと思いながら、キロが槍を構えた時、にわ
かに木の根元が騒がしくなった。
1692
﹁クローナ、グリンブルが向かってくる!﹂
悪食の竜襲来で興奮しているらしいグリンブルが猛然と大地を蹴
り、木を蹴り倒しながらクローナに向かっていく。
クローナが迎撃のため杖を向けた直後、グリンブルは横から高速
で叩き付けられたメイスに吹き飛ばされた。
木の幹に叩き付けられたグリンブルは背骨が折れたのか、ありえ
ない角度で体を仰け反らせて絶命する。
﹁カルロさん?﹂
メイスを担ぎ直したカルロがキロを見上げ、ニカリと白い歯を見
せた。
﹁雑魚はこちらで処理する約束ですからね﹂
﹁頼りにしてますよ!﹂
キロはカルロに返し、悪食の竜を見上げて動作魔力を練る。
悪食の竜との距離を測り、キロは木の幹を蹴った。
悪食の竜が大きく開いた口をキロに向ける。
キロに続いて木の枝を蹴ったミュトがキロと同じ高度に達した瞬
間、足元に特殊魔力の壁を生み出した。
キロはミュトと共に特殊魔力の壁に足を付け、動作魔力を更に練
る。
﹁三発入れるぞ﹂
﹁ボクは向かって左から行くね﹂
﹁それなら、俺は上からだな﹂
1693
向かって右は先ほど悪食の竜が食らった真っ黒な空間が伸びてい
るため、キロは竜の背中を狙う事にして宣言する。
掛け声を合わせてミュトと別れたキロは、悪食の竜の上へと跳び
上がる。
キロは空中で宙返りしながら動作魔力で槍を加速させ、縦に一閃、
開ききった大顎を切り裂いた。
悪食の竜が顔を上に向けるより早く、キロは石壁を生み出して蹴
り飛ばし、悪食の竜の背中へ回る。
横に伸ばした右手を軸に動作魔力を纏わせた槍を回転させて勢い
を増し、キロは空中にいながら強烈な一撃を竜の背へ叩き込む。
漆黒の竜の体にキロが振るった槍が銀線を描き、背中を深く切り
裂く。
悪食の竜の体が膨張を始める気配を感じ取り、キロは槍をさらに
回転させて竜の背に叩きつけ、反動で体を持ち上げた。
竜の体の膨張に合わせて槍が持ち上がり、動作魔力で体勢を維持
したキロの体もまた持ち上がる。
膨張が収まる頃には竜の尻尾の付け根を通り過ぎていた。
キロは槍を肩に引き付けるように構え、上半身の捻りと動作魔力
を使用して尻尾の半ばに刃を当てる。
次の瞬間、キロの槍は確かに悪食の竜の尻尾を切り落とす軌跡を
描いた。
しかし、切った瞬間から再生と膨張を行う悪食の竜の尻尾は落ち
ず、むしろ太さと強じんさを増しているように見えた。
キロは地上にいるクローナに目くばせする。
クローナが頷いた瞬間、悪食の竜へ動作魔力が込められた大木が
撃ちだされた。
体長三十メートルを超える悪食の竜であろうとも、下方から大木
を叩き付けられた衝撃には抗えず、巨大な体躯が湾曲し、頭が地面
へと向く。
キロは木の幹に降り立ち、悪食の竜を見上げた。
1694
﹁クローナ、右の翼!﹂
﹁キロは尻尾をお願いします!﹂
短く言葉を交わし、キロは足を付けていた木のてっぺんに槍を数
度振るう。
地面に降り立ったキロは、木の根元を動作魔力を込めた槍で切り
落とし、幹に手を付けた。
込めるのは上空へ向かう動作魔力、そして、クローナの反転の特
殊魔力だ。
﹁ミュト、飛べ!﹂
別の木の天辺にいるミュトに指示した直後、キロは切り落とした
木の幹を悪食の竜の尻尾目掛けて撃ち出した。
轟音を立てて空気を切り裂く木の天辺は、キロの槍によって成形
されており、返しが付いた銛のようになっている。
悪食の竜が反転した瞬間、キロが撃ち出した木の銛が尻尾を貫き、
続けざまにクローナが撃ち出した巨大な石の砲弾が右の翼に叩き付
けられる。
痛覚はなくとも実体はある悪食の竜は、度重なる大質量の攻撃に
よって大きく体勢を崩した。
悪食の竜の隙を突き、尻尾に突き刺さった木の銛に跳び上がった
ミュトが触れる。
直後、キロが込めておいたクローナの反転の特殊魔力をミュトが
発動させた。
木の銛は来た道を戻るように地面へ、キロの元へと落下を開始す
る。
銛に付いた返しが膨張した悪食の竜に食い込み墜落を余儀なくさ
せた。
1695
一足先に地面に降りたミュトと共に、キロはその場を離脱する。
度重なる攻撃によって体長四十メートルまで膨張した悪食の竜が
地面に衝突した。
実体はあっても質量はさほどでもないのだろう。墜落時の音はさ
ほど大きくはない。
しかし、巨大なだけに落ちた際には突風が森を激しく揺らした。
キロとミュトは悪食の竜の下敷きにならないように悪食の竜から
一度距離を取る。
クローナと合流し、態勢を立て直すためだ。
その時、頭上から視線を感じて、キロは上を見上げる。
﹁パーンヤンクシュかよ!﹂
もはや見慣れた蛇型の魔物が、木の上からキロ達を見下ろしてい
た。
悪食の竜が落下する際の風切音でフカフカの索敵が一時的に機能
しない間を突かれたのだ。
迎撃態勢に入る前に、パーンヤンクシュが特徴的な尻尾の器官を
持ち上げた。
﹁ミュト、フカフカ、耳を塞げ!﹂
パーンヤンクシュの尻尾の器官は鳴らすと相手の平衡感覚を奪う
音を出す。
すぐそばに身体を持ち上げようとしている悪食の竜がいるこの状
況で、平衡感覚を失うわけにはいかない。
パーンヤンクシュが音を奏でる直前、キンッと透き通った音がし
た。
わずかの間を置いて、パーンヤンクシュの掲げていた尻尾の器官
が地面に落ちる。
1696
キロが視線を向けると、地面に横たわる尻尾の器官のすぐ近くに
ゼンドルが着地した。
パーンヤンクシュの血が付着したサーベルを右手に提げ、ゼンド
ルが上を見上げる。
﹁︱︱ティーダ、とどめ譲ってやるよ﹂
﹁なに様よ﹂
短い抗議の声が頭上から降った。
パーンヤンクシュが見上げた直後、ティーダが樹上から飛び降り、
細身の剣を突き立てる。
パーンヤンクシュの眼玉を貫いた細身の剣を更に押し込み、ティ
ーダは小さく息を吐いた。
ティーダが細身の剣を抜く直前、目玉を貫かれてもまだ息があっ
たパーンヤンクシュの頭からくぐもった破裂音がした。
どうやら、パーンヤンクシュの頭の中に細身の剣の先から動作魔
力を流し込み、中身をかき回したらしい。
﹁案外やれるもんね﹂
短い髪を掻き上げたティーダは、森の奥を指差す。
﹁クローナは向こうよ﹂
﹁ありがとう、合流してくる﹂
キロはティーダとゼンドルに礼を言って、ミュトと共にクローナ
の元へと走る。
ちらりと見た悪食の竜は体を起こし、邪魔な木をなぎ倒していた。
離陸するために広い空間が必要なのだろう。
フカフカが悪食の竜を観察し、鼻を鳴らす。
1697
﹁生物として死がないせいであろうが、衰えを知らぬ奴であるな。
終わりが見えぬ﹂
﹁正直、どこまで大きくなるか見当もつかないね﹂
ミュトが悪食の竜の大きさに眉を顰める。
キロは目の前に見えてきたクローナに手を振りつつ、口を開いた。
﹁見えない終わりに突っ走るんだ。実に未来を見据えてる﹂
﹁真に近視眼的な意見であるな﹂
﹁盲目的って表現の方が正しい気がするけど﹂
﹁︱︱恋の話ですか?﹂
合流したクローナが明後日の方向にボケを発する。
キロはくすりと笑い、悪食の竜に向き直った。
﹁あぁ、このメンバーで過ごせる明日を愛してるんだ。竜を相手に
略奪愛ってのも乙なもんだろ﹂
1698
第三十五話 悪食の竜の異変
体を起こした悪食の竜が緩慢な動きでキロ達に顔を向ける。
キロ達を見る悪食の竜の瞳は、鬱陶しく視界を飛び回る羽虫に向
けるような苛立たしげな光を宿していた。
悪食の竜が尻尾を大きく打ち振るう。それだけで何本もの大木が
木端のように吹き飛んだ。
飛んでいく木々を気にせず、キロは槍を悪食の竜に向ける。
﹁隙を見て側面に回り込む。遅れるなよ﹂
クローナとミュトが頷きを返し、各々の武器を向けた時だった。
悪食の竜が四肢の爪を地面に食い込ませ、キロ達へ口を大きく開
いた。
直後、悪食の竜の口の周りから急速に虚無の世界へ続く真っ黒な
空間が形成され始める。
フカフカがすぐさま悪食の竜の狙いに気付き、声を張り上げた。
﹁空間を吸い込んでおる!﹂
大きく息を吸い込む要領で、周囲の空間ごとキロ達を吸い尽くす
つもりらしい。
キロはクローナとミュトに場所を譲りつつ、あらかじめ決めてお
いた符丁を口にする。
﹁反転防御!﹂
即座に反応したミュトが悪食の竜との間に特殊魔力の壁を張る。
1699
続けざまに、クローナが特殊魔力をミュトが作った壁に込め、空
間を未来の状態に反転させた。
悪食の竜の口から広がった真っ黒な空間の侵食はミュトとクロー
ナの特殊魔力で生み出された未来の壁に遮られて停滞する。
目の前の空間が見る見るうちに未来の姿を減らしていく。
﹁長くはもたないよ﹂
ミュトが壁を見て眉を寄せ、キロに指示を仰ぐ。
キロは左右を見回した。
﹁左側から回り込もう。クローナ、アンムナさん達に悪食の竜から
距離を取るよう知らせてくれ﹂
﹁あの吸い込みに対抗できるのは私達だけですからね﹂
悪食の竜の吸い込み攻撃を食い止めるには、可能性を大量に保持
した壁が必要になる。
現状、ミュトとクローナの特殊魔力を併用する以外に対処法が存
在しないのだ。
クローナが合図の火球を打ち上げ、キロ達は悪食の竜の左側に回
り込むべく走り出す。
キロ達よりも目の前の空間を吸い込む事を優先したのか、悪食の
竜は顔をキロ達の動きに合わせて動かす事なく吸い込みを続けてい
る。
虚無の世界へ続く空間を回り込み、悪食の竜への射線を確保した
キロは奥義を発動して地面を大きく抉った。
奥義によって吹き上がった土くれや石を手に取り、キロは悪食の
竜に狙いを定める。
﹁大口開けやがって。そんなに食いたいなら食わせてやるよ﹂
1700
キロはナックルから引き出した特殊魔力で石や土塊を未来の姿に
すると、悪食の竜が開けたままの口へ投げ込んだ。
未来の壁を吸い込みながら徐々に膨張を続けていた悪食の竜の口
にキロが投げ込んだ土くれや石が入る。
クローナやミュトもキロに倣って石を拾っては竜の口に放り込ん
でいく。
悪食の竜が口を閉じる頃には、その体が二割増しになっていた。
あまりの巨大さにキロは頬の筋肉が引き攣るのを感じる。
﹁本当に、こいつはどこまで大きくなるんだ﹂
悪食の竜が顔を巡らせ、キロ達を見る。
緩慢な動作にもかかわらず、あまりに大きな頭であるため風切音
が響いた。
まだいたのか、と言いたげな視線に何とも言えない気分になるも
のの、キロ達はゆっくりと後退した。また吸い込み攻撃をされては
たまらないからだ。
しかし、悪食の竜は首を持ち上げて周囲を見回すと、今度は地面
に向けて口を大きく開く。
足元の地面を丸呑みした悪食の竜は、さらに周辺の地面を貪り食
う。
悪食の竜の動きを観察していたフカフカが目を細める。
﹁腹に溜まる未来より、軽い食事として過去を選んだようであるな﹂
﹁おやつ感覚で食べられてもなぁ﹂
キロは足元から石ころを拾い上げ、悪食の竜の口を目掛けて投げ
つける。
しかし、悪食の竜はいきなり口を閉ざした。
1701
行き場を失った石ころは悪食の竜の口元を飛び越えて真っ黒な空
間へと吸い込まれて消えていく。虚無の世界へ移動したのだろう。
石ころが口に入るのをやり過ごした悪食の竜は再び地面を食べ始
めた。
﹁意地でも未来は食べないつもりみたいですね﹂
﹁腹八分目にするつもりでなければ、そろそろ満腹が近いって事か
な?﹂
クローナが眉を寄せて呟くと、ミュトが予想を口にした。
﹁随分早い気がするな﹂
﹁さっきはいつ終わるのか心配していたくせに﹂
ミュトに指摘されたキロは苦笑する。
キロを擁護するつもりでもないのだろうが、フカフカが口を開い
た。
﹁元の許容量が分からぬ上に、散々未来を食わされたのだ。ここで
限界が来ることもあるだろう。何より、早く終わるのならばその方
が良かろう?﹂
悪食の竜の食害を受け、真っ黒な空間が点在する空や森を見回し
てフカフカが同意を求める。
それもそうだ、とキロは頷き、悪食の竜に視線を戻した。
﹁⋮⋮地面を食いだしてから、大きさが変わらないように見えるん
だけど﹂
﹁未来と違って軽食であるからな。あるいは、別腹かもしれん﹂
﹁恐ろしい事言わないでよ﹂
1702
フカフカを窘めつつ、ミュトは親指を突き出して悪食の竜の大き
さを図る。
眉を寄せて大きさを図っていたミュトは、ため息を吐いた。
﹁膨張の仕方がかなり緩やかになってる。いつ限界が来るのか分か
らないけど、放置していたら周囲一帯が食べられるかもしれないよ﹂
﹁早く倒さないといけない点は変わらないわけですね﹂
クローナが足元の石に視線を向け、困ったように首を傾げてため
息を吐いた。
キロが投げた石を悪食の竜が食べなかったくらいだ。投げる者が
キロからクローナに代わっても結果は同じだろう。
﹁直接たたき込むしかないな﹂
キロは槍を構え、悪食の竜に駆けだす。
悪食の竜による食害を受けた地面は真っ黒な空間が広がっている
ため、足場にはできない。
キロはクローナを肩越しに振り返り、視線で会話する。
クローナが杖をキロに向け、水の塊を生み出した。
﹁行きますよ!﹂
クローナが水の塊をキロに向かってうねらせる。
生み出された水流に、キロは石壁を乗せ、さらにその上に飛び乗
った。
振り落とされないように身を屈め、石壁に手を付けたキロは空い
た片手で槍を強く握る。
何度も悪食の竜に叩き付けたため、槍の未来は大部分が失われて
1703
いる。そろそろ限界を迎えるだろう。
消耗品扱いも頷ける寿命だが、それだけ酷使されているのだ。
キロは水流に乗って悪食の竜の背中に到着すると、動作魔力を使
って槍を振るう。
槍を横に一閃した後、悪食の竜の背に着地したキロは、すぐにク
ローナ達の元へ戻るべく大きく踏み込んだ。
魔力食生物でもある悪食の竜の背に乗っているだけで、動作魔力
が吸われていく。
槍を悪食の竜の背に突き刺し、棒高跳びの要領で跳び上がったキ
ロは、足元に石壁を生み出して即座に蹴りつけた。
槍で二度切り付けられた悪食の竜が膨張する。
キロは手元の槍が完全に未来の姿を失ったことを確認し、動作魔
力を込めて悪食の竜の背中へ投げつけた。
音もなく悪食の竜の背中に突き刺さった槍は、ゆっくりと倒れて
いく。
﹁完全に食われたな﹂
槍の穂先が真っ黒な空間になっているのを横目に見て、キロはク
ローナ達の近くに着地した。
その時、悪食の竜に変化があった。
唐突に地面を食べる事をやめ、全身を激しく揺すりながら翼を大
きく広げたのだ。
何をするつもりかと警戒するキロ達の前で、悪食の竜の体が内部
から淡く光り出す。
顔を空に向けた悪食の竜が大地を震わすような咆哮を上げる。
悪食の竜の異変を察して、アンムナ達が状況を確認したい旨の合
図をあちこちで撃ちあげた。
クローナがキロに指示を仰ぐ目を向けてくる。
だが、キロは答える余裕もなかった。
1704
悪食の竜の異変から、一つの可能性を導いたのだ。
﹁︱︱もしかして、あいつここでビックバンを起こすつもりじゃな
いだろうな⁉﹂
当初、悪食の竜は限界まで可能性を蓄えた上で虚無の世界にてビ
ックバンを起こし、新たな世界を創造すると、キロは考えていた。
悪食の竜は世界を食らい、真っ暗な空間、虚無の世界への扉を生
み出す。
だからこそ、悪食の竜は本来、世界を食べ終えて周囲を虚無の世
界に作り替えた上で寿命を迎え、新たな世界を創造する自然現象と
しての役目を果たせていた。
しかし、地下世界の人々が生贄を送り出すことで地下の食害を免
れ、さらにキロ達が未来の可能性をたらふく食べさせてしまったが
ために帳尻が合わなくなった。
故に、悪食の竜はまだ世界の大部分が残っているこの段階で生物
としての死を迎えようとしている。
﹁ビックバンって世界を作るっていう、あの⋮⋮?﹂
ミュトが地下世界で聞いた知識を引っ張り出して首を傾げる。ク
ローナ共々、事態の深刻さが分かっていないらしい。
しかし、フカフカはふむ、と鼻を鳴らして悪食の竜を見た。
﹁奴の体から魔力が勢いよく漏れ出しておる。世界を創造するほど
の魔力であるならば、何が起こるか分からぬな﹂
﹁⋮⋮かなり危ない状況って事ですか?﹂
深刻な危機が迫っている事に理解が及んだらしく、クローナが恐
る恐るキロの顔を窺った。
1705
﹁世界が吹き飛ぶかもしれないくらいには危険だな﹂
キロの言葉を聞いたクローナとミュトが顔を青ざめさせる。
キロは頭の中で警鐘が鳴り響いているのを自覚しながら、打開策
を探すべく周囲を見回した。
真っ先に思い浮かぶ方法は一つ。
﹁今すぐアンムナさん達をここに集めよう﹂
キロは悪食の竜が食べた地面に開いた虚無の世界へ通じる空間を
指差す。
﹁︱︱みんなで協力して、悪食の竜を虚無の世界へ放り込む﹂
1706
第三十六話 ビッグバン
﹁倒したようには見えないが、状況はどうなってんだ?﹂
招集に応じて真っ先に現れたのは阿吽の冒険者だった。
アンムナ達を待ってから説明しようかとも考えたが、悪食の竜が
いつ限界を迎えるともわからない今、時間が惜しい。
﹁悪食の竜が爆発する恐れがあります。限界を迎える前に虚無の世
界に通じるあの扉に放り込もうと思って、招集をかけました﹂
キロは手短に状況を報告し、悪食の竜を見る。
最後の晩餐のつもりなのか、悪食の竜はすでに日が落ちて星の瞬
き出した夜空を少しずつ食らっている。
確実に寿命を縮めるはずだが、それでも食事をやめないらしい。
阿吽の冒険者も悪食の竜を睨む。
﹁虚無の世界に放り込むって言っても、あの巨体だろ。動作魔力で
押し出すのも一苦労だぞ﹂
﹁魔力食生物でもあるので、一度に込めないと食べられるでしょう
ね﹂
クローナが補足すると、阿吽はちらりとフカフカを見て、ため息
を吐いた。
数人が力を合わせるとしても、魔力を込める際には確実に時間差
が生じる。
ずれの大きさ次第では悪食の竜が自身に込められた魔力を順次食
べてしまい、効果が出ない事も考えられる。
1707
阿吽の冒険者の懸念を察して、キロはナックルを掲げて見せた。
﹁リーフトレージに二人の動作魔力を込めてください。他のみんな
の分も一緒に込めて、俺が悪食の竜に直接流し込みます﹂
術者が一人であれば、魔力を流し込む際の時間差はなくなる。
阿形がキロを見て、頷いた。
﹁確かに、大量の動作魔力でもお前の器用さなら制御できるか。分
かった、協力する﹂
早く貸せ、と言う阿吽の冒険者にナックルを渡し、キロは森に目
を向ける。
カルロ、ゼンドル、ティーダの三人が合流してやってくるところ
だった。
すぐにクローナが三人に向けて手を振って場所を知らせる。
息を切らせているカルロ達にクローナが状況を説明すると、すぐ
に同意が得られた。
阿吽の冒険者からカルロ達にナックルが手渡される。
カルロ達が魔力を込めている間に、キロはクローナに声を掛けた。
﹁氷を基準に、地面の摩擦係数︱︱滑りやすさを反転できるか?﹂
﹁出来る⋮⋮みたいですね﹂
クローナは足元の地面で実践してから、悪食の竜と虚無の世界の
扉との距離を測る。
﹁範囲が広すぎるので、一回きり。それも短時間しかできませんよ
?﹂
﹁息があってるんだから大丈夫だろ﹂
1708
クローナの心配事をさらりと流したキロの肩を阿形が叩く。
振り向いてみると、阿形は悪食の竜の周りに広がる森を指差して
いた。
﹁そういう話なら、俺達は森の木を払ってくる。放り込むにしても、
木が邪魔で速度が落ちると困るだろ﹂
﹁でも、二人は動作魔力が︱︱﹂
﹁お前みたいなひょろいのとは鍛え方が違うんだ。魔力がなくても
樵の真似事くらいできる。見ろ、この筋肉を!﹂
阿形と吽形が上半身の筋肉を見せつけるようなポーズをとり、自
らの無駄のない筋肉を誇張する。
そういえば、訓練所の教官に筋肉が不完全だと言われた事を長々
と根に持っているような人達だったと思い至り、キロは苦笑した。
﹁では、お願いします。作戦の開始時には火球を打ち上げて合図す
るので、巻き込まれないように気を付けてください﹂
﹁おう、任せろ﹂
﹁⋮⋮しっかりな﹂
珍しく吽形も口を開いてキロを励まし、阿形共々森へ駆けて行っ
た。
入れ違いに、女主人を先頭にしたアンムナ、アシュリーがやって
きた。
ゼンドル達が動作魔力を込め終えたナックルを受け取ったアンム
ナが細めた目をキロに向け、説明を求める。
﹁悪食の竜がこの世界で爆発しようとしているようです。これから、
動作魔力を込めて虚無の世界に送り込みます﹂
1709
手短なキロの説明にアンムナは苦い顔をして女主人を見た。
﹁魔物の群れはどれくらいでやってくる?﹂
﹁もう間もなくだ。魔力切れで捌ける数じゃないね﹂
﹁⋮⋮魔物の群れ?﹂
アンムナ達のやり取りから聞き捨てならない単語を抜き出して、
キロはおうむ返しに問いかける。
アシュリーがナックルに動作魔力を込めつつ、北の方角を見た。
﹁悪食の竜に住処を追われたらしい魔物の群れが恐慌状態のまま接
近してる。フリーズヴェルグが上空を飛び回ってるでしょう﹂
アシュリーの視線の先には確かに巨大な鳥の姿をした魔物、フリ
ーズヴェルグが飛び交っていた。
フリーズヴェルグの下に魔物の群れがいるのなら、悪食の竜を虚
無の世界に押し込む際に邪魔される恐れがある。
アシュリーがほどほどのところでナックルに動作魔力を込めるの
をやめ、アンムナに手渡す。
アンムナもナックルに動作魔力をある程度込めた後、女主人に渡
してキロを見た。
﹁僕達は魔物の群れの排除にかかる。悪いけれど、魔力の余力は残
しておくよ﹂
﹁分かりました。魔物の群れはアンムナさん達にお任せします。で
きれば、最初にフリーズヴェルグの討伐をお願いしたいですが⋮⋮
可能ですか?﹂
悪食の竜を相手に動作魔力を使い果たすことになるため、キロは
1710
上空からの不意打ちに対応できる自信がない。
クローナの村で戦った際には遠距離攻撃の手段がないためにフリ
ーズヴェルグに対抗する手段が乏しかったアンムナ達に、キロは問
いかける。
アンムナはアシュリーと顔を見合わせて、くすりと笑った。
﹁問題ないよ﹂
気負うことなく言ってのけ、アンムナはアシュリーと共にキロ達
に背を向け、駆け出した。
女主人からナックルを受け取ったキロは、アンムナ達を追いかけ
るように走り出す。
﹁クローナ、ミュト、後は頼んだ!﹂
キロは肩越しに振り返ってクローナとミュトに声を掛ける。
クローナが杖を高く掲げて笑い、ミュトが手を振る。
﹁任せてください﹂
﹁キロこそ、しっかりね!﹂
ミュトの肩の上で、フカフカが尻尾を動かし、キロの行く先を照
らし出す。フカフカなりの激励だろう。
キロは暗くなった森を駆け抜け、悪食の竜の側面に回り込む。
キロが前方の空に視線を向けると、空高く旋回するフリーズヴェ
ルグの下から突然水柱が吹き上がった。
回避させる事なくフリーズヴェルグを飲み込んだ水柱は、下方へ
と急速な流れを作り出してフリーズヴェルグを強制的に地面に引き
ずり降ろす。
森の中を走り抜けた先、水中の根元に当たる部分に辿り着いたキ
1711
ロの視界に飛び込んできたのは、引き摺り下ろされたフリーズヴェ
ルグがアンムナの奥義を受けて次々に絶命する光景だった。
森から不用意に飛び出してきたらしい魔物もアンムナの奥義で処
理されたらしく、死骸は原形をとどめていない。
アンムナが森の奥を見つめながら、背中のキロに気付いて声を上
げる。
﹁魔物は僕達が請け負う。悪食の竜を頼んだよ﹂
﹁頼まれました!﹂
キロは言い返して、頼りになる師匠から離れ、悪食の竜を目指す。
月明かりに浮かび上がる漆黒の巨体を見つめ、キロはクローナに
作戦開始を知らせるための火球を打ち上げる。
キロの位置からでは、クローナやミュトの姿は見えない。
キロはナックルからみんなが込めたばかりの動作魔力を引き出し、
タイミングを見計らう。
悪食の竜が夜空に首を伸ばして一口食べた直後、キロは一息に距
離を詰めた。
両手を悪食の竜に触れた瞬間、動作魔力を一瞬のうちに解放する。
突然くわえられた力に対抗しようと悪食の竜が四肢の爪を地面に
食い込ませようとした瞬間、足を滑らせ転倒した。
クローナが特殊魔力を用いて足元の摩擦係数を反転したのだ。
悪食の竜が立ち上がろうと四肢に力を込めるも、キロが流し込ん
だ大量の動作魔力にあらがう前に足を滑らせる。
横倒しになったまま、悪食の竜は木々をなぎ倒して虚無の世界の
扉へと一直線に突き進む。
だが、木々に勢いを殺された悪食の竜は明らかに速度を落として
いた。
﹁届かない⋮⋮ッ!﹂
1712
キロは歯を食いしばり、駆け出す。
悪食の竜の向こうでは、阿吽の冒険者が木々を払った空間がある
はずなのだ。そこまで押し込めば、悪食の竜と虚無の世界の扉を遮
る物は何もない。
キロは自身に残った普遍魔力を総動員して動作魔力を練る。
常人であれば吐き気を催して満足に立っている事さえできないは
ずだが、キロは特殊魔力持ちだ。普遍魔力が底をついても体調を崩
すことはない。
すでに止まりかけている悪食の竜へ、キロは文字通り渾身の一撃
を放つ。
﹁棲家に帰れって言ってんだろがッ!﹂
止まりかけていた悪食の竜は、キロの放った一撃によって加速す
る。
全身で暴れて抵抗する悪食の竜が、地面の上を滑っていく。
それでもまだ、わずかに足りない。
キロが舌打ちした直後、悪食の竜を迂回するようにしてクローナ
とミュトが姿を現した。
キロと眼が合った瞬間に状況を悟ったのか、クローナとミュトが
自身と悪食の竜の位置を確認する。
迂回してきたためにクローナとミュトは悪食の竜の尻尾の付け根
にいた。
動作魔力を込めて悪食の竜を弾き飛ばしてもコマのように回転さ
せてしまい、魔力がロスする恐れがある位置だ。
クローナとミュトが互いに目くばせし、各々の武器である杖と小
剣をキロに投げてくる。魔力が込められているらしく、どちらもリ
ーフトレージの部分が光を放っていた。
キロの立ち位置であれば、悪食の竜を効率よく押し出せると判断
1713
し、残った魔力を武器に込めて託したのだ。
﹁︱︱助かる!﹂
キロは空中で杖と小剣を掴みとり、間髪を入れずに魔力を引き出
す。
クローナとミュトが全力で込めた動作魔力を感じ取り、キロはさ
らなる追撃を悪食の竜へと放つ。
悪食の竜がさらに加速し、虚無の世界へ通じる真っ黒な空間へと
体の半分が吸い込まれた。
未だに速度が衰えない悪食の竜の体を見て、キロは勝ちを確信す
る。
その時、確かに悪食の竜の瞳がキロ達を捉えた。
爬虫類染みた温度のない瞳。
しかし、確実にキロ達をエサ以外の何かとして見ている瞳だった。
本能的な危機感と焦燥感がキロの足元からせり上がる。
だが、悪食の竜は瞳をキロ達へ向けたままの体勢で完全に虚無の
世界へ吸い込まれていった。
キロはほっと安堵の息を吐きだす。
﹁ミュト、クローナ、無事か?﹂
キロは地面にへたり込んでいる二人へと声を掛け、歩み寄る。
﹁キロよ、早く来るのだ。女を待たせるな﹂
フカフカがミュトの肩の上でふんぞり返る。
キロとは違い、特殊魔力も使用して戦っていた二人は魔力欠乏を
起こしているらしい。
顔色は悪かったが、クローナは笑ってキロへと手を伸ばす。
1714
﹁大丈夫ですよ。少し休めば魔力も回復しますから﹂
﹁ボクも少し気持ち悪いけど、何とか﹂
ミュトが片手で胸を押さえつつ、もう片方の手をキロに伸ばす。
﹁帰りは馬車だ。少しは休めるから、もう少しだけ我慢︱︱﹂
キロがクローナとミュトの手を取った瞬間だった。
虚無の世界へ続く空間から、悪食の竜が顔を出した。
完全に不意を打たれたキロ達が逃げる暇はなかった。
キロ達を視界に収めるなり大きく口を開き〝悪食〟の名前通りに
地面も雑草も空気も、何もかもをいっしょくたにキロ達を口の中へ
と収める。
そのまま、悪食の竜は虚無の世界へと舞い戻り、その寿命を終え
た。
光が満ち、魔力と共に可能性が練り込まれ、世界が創造されてい
く。
新たな世界が産声を上げた。
1715
エピローグ
キロはクローナとミュトを抱き寄せたまま周囲を見回して呟いた。
﹁死ぬかと思った﹂
キロの横には手放された小剣と杖が転がっている。蓄積されてい
た魔力は底を尽き、光は放っていない。
ミュトの襟元に隠れていたフカフカが顔を出し、キロを見上げた。
﹁今回ばかりはキロを誉めてやろう。よい反応であった﹂
キロは悪食の竜に飲み込まれる寸前、クローナとミュトを抱き寄
せ、渡されていた杖と小剣から特殊魔力を引っ張り出し、周囲に未
来の壁を張って難を逃れていた。
魔力食生物である悪食の竜を相手に特殊魔力の壁を張っても短時
間しか持たなかったが、すでに臨界を迎えていた悪食の竜は未来の
壁を口に含んだ直後に寿命を迎え、死亡した。
同時に起こった爆発から未来の壁がキロ達の身を守ってくれた。
そして、今もまだキロ達の周りを囲んでいる未来の壁は風になび
く草原の景色が映り込んでいる。
たった今誕生したばかりとは思えないのどかな世界の景色に、キ
ロは息を吐く。
﹁⋮⋮キロ、苦しいんだけど﹂
もごもごとくぐもったミュトの声が聞こえて、キロは手を放した。
ミュトが新鮮な空気を求めてキロから顔を離す。
1716
しかし、クローナはここぞとばかりにキロに抱き着いて満面の笑
みを浮かべていた。
キロが引きはがそうとすると、クローナは腕に力を込めて頑とし
て離れまいとする。
﹁魔力切れで気分が悪いのでもう少し抱き着いていたいです﹂
﹁あぁ、もう面倒だからそれでいいや。疲れたし﹂
キロは額を押さえて、クローナの好きにさせる。
ミュトが周りの景色を見て、首を傾げた。
﹁どうなってるの、これ?﹂
﹁世界五分前創造説ってところだろ。パラレルワールドが出来上が
るのと同じで、初めからこういう世界なんだと納得するしかない﹂
キロはミュトの質問に答え、空を見上げる。
雲一つない青い空が広がっていた。
﹁宇宙に投げ出されなかっただけマシだな﹂
キロは呟いて、草原に目を凝らす。
どこまでも続くように見える草原だったが、一部に真っ黒な空間
が存在した。
見慣れた真っ黒な空間は、異世界へ通じる扉だろう。
﹁⋮⋮世界が繋がったりしてます?﹂
キロの胸に頭をつけたまま、クローナが横目で真っ黒な空間を指
差す。
キロが特殊魔力で作り出していた未来の壁を解除しても、異世界
1717
への扉は存在していた。
﹁クローナ、手紙を書いてあの壁の向こうに投げてみてくれ。ミュ
トもだ﹂
クローナが体を起こし、ミュトから紙と筆を受け取る。
ちゃっかりキロの膝に座りなおしたクローナは、サラサラと手紙
を書く。
キロから離れたくないのか、手紙を丸めて異世界への扉に投げ込
もうとしたクローナから手紙を受け取った。
キロは手紙で紙飛行機を折り、異世界への扉に向けて飛ばす。
さほど距離もなかったため、手紙は無事異世界への扉を潜って行
った。
キロが折る紙飛行機を見ていたミュトが、真似して手紙を飛ばす。
﹁︱︱帰ってきたな﹂
しばらくして異世界の扉から帰ってきた紙飛行機がヒョロヒョロ
とキロ達の元にやってくる。
手元に引き寄せてみると、紙飛行機の翼部分に文字が書かれてい
た。
﹁私の世界の文字です﹂
クローナの言葉を聞き、キロは紙飛行機を渡す。
短い文面を読んだクローナは、返信らしきものをもう片方の翼に
書き込み、送り出した。
﹁なんて書いてあったんだ?﹂
﹁アンムナさんからでした。合流したいから、戻ってくるように、
1718
との事です﹂
﹁クローナの世界と繋がってるのか。悪食の竜が食べ残したからだ
とすると、どこかにミュトの世界へ通じている扉もありそうだな﹂
キロは草原に寝ころがり、瞼を閉じた。
死にそうな目に遭ったからだろうか、走馬灯のように過去のあれ
これが思い出される。
親にさえ気を遣い、気疲れして逃げるように養護施設を出た。
気の置けない仲間が得られる事など考えた事もなかった自分が、
今こうして仲間と戦い抜き、新しい世界で寝転がっているのだと思
うと、自然と笑みが漏れる。
﹁⋮⋮なんか、疲れたけど楽しいな﹂
キロが呟くと、クローナが隣に寝転び、くすくすと笑う。
﹁幸せを勝ち取ったんですから、楽しくて当たり前です﹂
ミュトがキロの横に座り、クローナの世界への扉を見る。
﹁世界を一つ作るなんて、壮大な後始末だったね﹂
﹁それを言うなよ。もともとの空とは違うかもしれないけど、ミュ
トの世界の人も空を見れるようになったかもしれないんだからさ﹂
キロが言い返すと、ミュトは笑って空を見上げた。
フカフカが同じく空を見上げ、機嫌よく尻尾を揺らす。
﹁我らを馬鹿にした者どもがどんな顔をするのか、見てみたいもの
であるな﹂
﹁意地悪ですね。私も見たいですけど﹂
1719
フカフカの言葉にクローナが同意する。
ミュトが草原の果てに目を凝らし、首を傾げた。
﹁どうするの? 入植騒ぎとか、土地の所有権とかでかなりもめそ
うだけど﹂
地図師らしい心配事に、キロは苦笑した。
﹁守魔を討伐した時みたいに、報告だけして権利放棄だな。目立つ
と俺の特殊魔力の事とかばれるかもしれない﹂
事後処理の方針をあっさりと決めて、キロは顔色の良くなってき
たクローナに手を差し伸ばし、立ち上がる。
﹁さぁ、帰ってお菓子パーティーでもしよう﹂
﹁そのあとはどうするんですか?﹂
クローナに問い返され、キロはクローナの世界への扉へ足を向け
つつ新しい世界を手で示した。
﹁どこかにあるかもしれないミュトの世界への扉を探そう﹂
キロは晴れ晴れとした笑みを浮かべて、仲間の手を取る。
﹁︱︱きっと、それだけで楽しいはずだからさ﹂
1720
エピローグ︵後書き︶
物語はこれで完結とさせていただきます。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
1721
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n8660ca/
複数世界のキロ
2017年3月2日02時15分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
1722
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