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世界経済の統合化と国際システム

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世界経済の統合化と国際システム
 世界経済の統合化と国際システム
ーー十九世紀末と二十世紀末の比較|
荒 川 弘
はじめに
一九七三年の石油ショックを一つの契機にして、国際政治・経済は混迷期に入り、いま二十世紀最後の四分の
一世紀を経過しつつある。今日の世界経済は長期の経済停滞の中で、保護貿易への傾斜、経済摩擦など各国の対
立がみられ、この点でよく一九三〇年代の大恐慌時に比較される。しかし、よくよくみると、今日の世界の実態
は一九三〇年代よりも、十九世紀最後の四分の一世紀から二十世紀初頭にいたる世界と似かよったところがあ
る。すぐ次にみるように、一九世紀末と二十世紀末は、いろいろの側面で現象的に類似している。もちろん百年
のへだたりがあるのだから、国際政治環境、資本主義の発展段階、経済構造など状況の違いは多くある。だが、
逆にいえば十九世紀末との現象的な類似と構造的な相違を浮きぼりにすることによって、二十世紀末の今日の世
界の理解に、より接近できると思われる。本稿はそうした試みの一つである。
−87−
第一節 十九世紀末と二十世紀末−︲l五つの対比
まず最初に、十九世紀末と二十世紀末の現象的な類似点を五つの側面から簡単に総括し、その後に具体論を展
開したい。
○ 長期停滞的マクロ経済情勢
十九世紀最後の四分の一世紀は、一般に﹁大不況﹂︵FeQreQtDeprQLon)の時代といわれている。すなわち一
八七三年から一八九六年にかけて、三回の恐慌︵一八七三年、一八八二年、一八九〇年︶を経験、この間に多少の回
復期はあったが、総体としてみると、この期間の世界経済は物価下落を特徴とする長期の経済停滞が統い⑤
﹁大不況期﹂に先立つ時期、すなわち一八四〇年代中ごろから一八七〇年代初頭にかけての時期は、逆に世界経
済の安定成長期であった。いうまでもなく当時の世界経済の主導国はイギリスであったが、一八四六年の穀物条
例の廃止、一八四九年の航海条例の廃止を契機にして、イギリスは自由主義経済体制を確立、その中で﹁世界の
工場﹂としてのイギリスを軸にして、世界経済は成長発展をとげていった。いわゆる中期ヴィクトリア時代であ
る。この成長期は二十年を越えるが、一八七三年以後こんどは二十年を越える長期低迷期に入るのである。
以上の推移は、二十世紀後半の時期と類似している。大不況期のはじまりとされる一八七三年から、ちょう・ど
百年たった一九七三年に、いわゆる石油ショックがあり、それ以後世界経済は混迷期に入り、今日まで統いてい
る。もちろんこの間、短期の景気回復期はあったが、総じて一九七三年以後の世界経済は、停滞期に入っている
−88−
といえよう。一方、第二次大戦終結の一九四五年ごろから一九七〇年代初頭までの世界経済は、周知のようにま
れにみる高度成長といわれた時代であった。
以上のように十九世紀の四〇年代l六〇年代と七〇年代一九〇年代の二つの時期は、二十世紀の四〇年代l六
〇年代と七〇年代以降の二つの時期にマクロ経済情勢が似ている。長期的な景気波動からみると、いずれも四〇
年代l六〇年代が上昇局面、それ以後が下降局面にあたる。なお、いわゆるコンドラチェフの長期波動では、十
九世紀の四〇年代から九〇年代にかけての時期が、第二循環に当っている。この点、今日の世界経済は、一九四
〇年前後からはじまる第四コンドラチェフ循環の下降局面とする見方もできる。
I 世界経済の統合化
十九世紀の最後の四分の一世紀は、不況にもかかわらず、世界各地域の相互交流、連関性が高まり、以後二十
世紀初頭にかけて世界経済の統合化が進んだ。後にみるように、この時期はヒト︵移民︶、モノ︵貿易︶、カネ︵海
外投資︶を通じて、欧米の資本主流諸国だけでなく、アジア、アフリカ、中南米の後進地域が資本主義世界体制
に包摂されていった。なかでも資本輸出が、その統合化に標柱的投割を演じた。
同じように二十世紀最後の四分の一世紀の世界も、相互依存、相互交流が一層進展している時代である。経済
の低成長化や貿易摩擦にかかわらず、貿易は生産の増加以上にふえているし、東西南北の地域間貿易の比重も相
対的に高まっている。そしてこの過程においても、十九世紀と同じく資本輸出の果す役割が大きい。ただ、その
資本輸出の内実が十九世紀と二十世紀とでは大いに異っており、本稿の主たる検討課題がここにある。
−89−
目 自由主義イデオロギーの残存
上述の世界経済の統合化とも関連することだが、十九世紀末の時代は、自由主義経済が現実にも、イデオロギ
ー的にも生きていた。一般に十九世紀の末から二十世紀初頭にかけての時期は、自由主義から独占資本主義の時
代へ、あるいはまた諸列強による帝国主義的対立の幕明けの時代といわれ、この点で一九三〇年代のようにみら
れがちである。もちろん、そうした側面があったことは事実である。しかし十九世紀後半の国際関係は、一九三
〇年代ほど不安定なものではなかったし、保護貿易の応酬に明けくれるというものでもなかった。とりわけ当時
の世界で中心的存在であったイギリスは一貫して自由貿易政策を理念的にも現実にも採用し続けた。
二十世紀の今日の時代も、百年前と似ている。経済停滞の中で保護貿易への傾斜や通商摩擦はみられるが、一
九三〇年代のような資本主義大国間のむき出しの政治的敵対性がみられるわけではない。そして十九世紀のイギ
リスがそう・であったように、今日のアメリカやその他の先進工業国は、自由主義経済体制への信奉を放棄しては
いない。大義名分としての自由主義イデオロギーを守ろうとする姿勢がみうけられる。問題はこの″自由経済″
の意味内容が、十九世紀と二十世紀とでは、どう違っているか、ということで、これも本稿のもう一つの課題で
ある。
紳 超国家的主体の活動
右の自由主義体制への信奉とも関連して、もう一つ強調すべきことは、十九世紀の場合も今日も、一種の超国
家的あるいは脱国家的な径済主体の活動が目立っていることである。そしてそれがいわば﹁国際的生活の政治組
−90−
織と経済組織のあいだをつな仁心﹂として、とりわけ大国間の平和や秩序の維持に、それなりの役割を演じてい
ることである。こうした超国家的な経済主体は、十九世紀の場合は大金融家に、今日の場合は多国籍企業の中に
その典型をみることができよう。
㈲ ヘゲモニー国後退の初期状況
十九世紀最後の四分の一世紀から二十世紀初頭にかけての時期は、国際政治的あるいは国際関係的にみると、
イギリスの世界における優越性、つまりパクス・ブリタニカが次第に後退し、一方でイギリスを追い上げる競争
国であるドイツ、アメリカ、フランスなどが台頭してくるときである。ただしこの時期は、両大戦間期のイギリス
のように、世界における主導性が完全に失われたかというと、決してそうではない。むしろ十九世紀後半に国際
金本位制が成立し、ポンドは最強の国際通貨として流通し、ロンドンのシティは世界の金融中心地としての活動
を強める。この側面でのイギリスの優越性はいぜんとして貫かれている。つまりこの時期はイギリスのヘゲモニ
I
が
完
全
に
崩
壊
し
、
消
滅
し
た
わ
け
で
は
な
く
、
い
わ
ば
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ゲ
モ
ニ
ー
後
退
の
″
初
期
状
況
″
と
も
い
え
る
時
期
に
当
っ
て
い
た
︵。
4︶
同じように百年たった二十世紀の七〇年代以降の世界も、パクス・アメリカーナの後退期とよくいわれる。そ
してそのアメリカを経済的におびやかす日本やECのようなライバルがあらわれつつある。しかし今日の国際関
係をみると、十九世紀末のイギリスと同じように、アメリカの覇権性が完全になくなっているわけではない。経
済的のみならず、政治的・軍事的にいぜん大きな力をアメリカは保持しているし、ドルはいぜん国際通貨︵=基
軸通貨︶である。この点で今日の時代は、十九世紀末と同じく、ヘゲモニー国後退の″初期状況″の過程にある
−91−
といえよう・。
さて、十九世紀末と二十世紀末を対比した上述の五つの側面をすべて本稿で論じる紙数的余祐はないので、以
下の本稿では第二にあげた世界経済の統合化と、それのもつ政治経済学的意味に焦点をあてて議論を展開した
い。
第二節 世界経済の統合化
−市場拡大︵十九世紀︶と市場深化︵二十世紀︶−
論議を進めるに当って、まず最初に次のことを確認しておくことが必要である。
それは十九世紀末も、二十世紀末も、長期不況の中で、貿易摩擦や経済紛争などの各国間の宣命主義的対立が
はげしくなるのだが、同時に一方においては、そうした経済ナショナリズムとは対照的に、世界市場の統合化、
世界経済の連関性の強化といった、一種のグロしハリズムもまた進んでいった、ということである。ここが一九
三〇年代恐慌時とちがうところである。一九三〇年代の世界経済にみられたのは、世界市場の分裂、生産の低下
を上回わる貿易の縮少であった。経済ナショナリズムが支配的潮流となり、先進列強はブロック化傾向を強め、
輸入制限や為替切下げ競争を行い、保護貿易の応酬が世界市場の統一性を破壊し、各国間の敵対性を強めていっ
た。これに対して、十九世紀末の大不況時も、二十世紀本の経済低迷時も、摩擦・紛争の一方で協調や統合もま
た進むという複合性がみうけられるのである。ただ、その内実が十九世紀と二十世紀とでは追っており、それを
みるのが本稿の課題である。
−92−
O 十九世紀のイギリスの資本輸出と世界経済
そこでまず本節では、統合化といわれるものの実態をみることにする。最初に十九世紀の場合であるが、一八
七三年の恐慌を契機に大不況期に入った十九世紀末の世界では、当時の覇権国家イギリスと、これを経済的に追
い上げるドイツ、アメリカ、フランスなど新興資本主義諸国との貿易競争が次第に激しくなっていった。この中
でドイツやアメリカは高関税政策などを採用するから、一般に十九世紀末から二十世紀初頭にかけての時期は、
保護貿易の応酬の下で、各国の対立が展開されたと見られがちである。しかし、そうした紛争・摩擦の中で世界
経済が分裂したわけではなく、むしろ十九世紀後半から二十世紀初頭にかけての時期は、ヒト、モノ、カネの相
互交流がみられ、世界経済の密接化、外延的拡大が進んだのである。
いま、そうした密接化の害態を、二、三の指標でみると、たとえば一八八一年から一九一五年までの間に、主
として欧州からアメリカ、オセアェアなど世界各地へ約三二〇〇万人の人口移動の波がおきている。また一八七
〇年から一九﹂四年まで、世界の総生産は年率二・一%の成長であったのに対し、この間世界貿易の伸びは、こ
れを上回る年平均三・四%に達していた。そして、この期に世界市場の統合化に向けて桿杵的役割を演じたのは
資本輸出であった。とりわけ当時なお世界での中心国の立場を保持していたイギリスの資本輸出が大きな役割を
演じた。このイギリスの資本輸出については、すでに数号前の本誌拙稿でふれているが、世界経済統合化の観点
からもう一度要約しておこう・。
イギリスの資本輸出は、時系列的にみて、二つの局面があった。第一は一八六〇年代までの時代、つまりイギ
リスが世界の工場として圧倒的優位をもっていた時代で、この期のイギリスの資本輸出は、主として北アメリカ
― 93 ―
やヨーロッパの工業化過程にある国々に向けてのものであった。そしてこの資本輸出︵それは鉄道建股などへの貸
付あるいは債券購入という間接投資が主たるものだった︶は、これら被投資国の工業化に貢献し、結果としてイギリス
にとっての潜在的競争者を育てる一因にもなった。やがて欧米の新興国は、除々に工業国としての力をたくわ
え、国民国家としての態様をととのえたあと︵一八七一年ドイツ統一、一八六五年アメリカ南北戦争終結︶、一八七〇
年代ごろからイギリスの競争国としてたちあらわれてくる。そして大不況期の経済停滞の中で、イギリスとこれ
を追う国との通商競争は次第に激しくなっていった。独米ともに保護主義的な産業育成策の下で発展し、世界の
工業生産に占めるシエアでみると、イギリスは一八八〇年代にすでにアメリカに抜かれ、一九〇〇年代にドイツ
に抜かれる。ところが、当時のイギリスは、海外からの競争圧力に対抗して帝国保護関税の強化を求める運動が
国内にあったにもかかわらず、この時代一貫して自由貿易政策を堅持し、そうすることによって世界経済の統合
化をおし進めていった。そのテコとなったのが、第二局面に入ったイギリスの海外投資であった。
すなわちイギリスの資本輸出は、一八七〇年代からは、それまでの北アメリカ、ョーロッパ向けから、英帝国
自治領、中南米、アジアなどの後進地域に、より多く向うことになり、多くの未開発地域が資本主義体制に組み
込まれていくことになったのである。そしてこの結果、イギリスを中心にした世界経済は次のよう・な姿になって
いった。つまりイギリスの投資が行われた後進地域では、投資を通じて一次産品の開発、及びその開発を容易に
する鉄道建股など社会資本の整備が進められ、これら地域はイギリスをはじめとする欧米工業国向けの食料、原
料の供給地になると共に、イギリス資本輸出の見返りとして、これら地域はイギリスエ業製品の販売市場になっ
ていったのである。
−94−
こうした推移の中で多角的貿易体制、国際分業の有機的ネットワークが形成されていった。それは次のソウル
の言葉にもっともよく要約されている。﹁急速に工業化しつつあったヨーロッパ諸国と北アメリカは、一次産品
諸国からの原料と食料の購入を拡大し、そのために、イギリスという重要な例外を除いて、これらすべての諸国
は、二次産品諸国との国際収支において巨額の赤字を増大させた。主としてイギリスの自由貿易政策のために、
イギリスは製品の主要な輸入国であったが、同時に他方においてまた、ヨーロッパ以外の大部分の一次産品諸国
に対するもっとも主要な輸出国であった。これに加えて、さらにイギリスは最大の債権国であり、そのために、
いわゆる﹃目に見えぬ﹄収支︵貿易外収支︶から非常に多額の収入を得た。このような方法において、多角貿易に
よる間接決済のための円環が完結されたのである。イギリスは、一次産品諸国への輸出にょって、また海運業、
銀行業務ならびにその他のサービス業務と利子の受取を通じて、工業諸国からの輸入超過を間接的に決済し、そ
れでもって、これらの工業諸国に一次産品の輸入の支払を可能ならしめたのである﹂。このような多角的貿易体
制の形成と成長、それによる世界市場の統合化は、当然ながら多角的な決済機構=資金循環機構を生み、またそ
れによって促進されもした。この多角的決済機構の中心となったのがロンドンのシティであり、工業力は衰えて
も、この金融力でイギリスはなお世界の中心的地位を保持したのである。
以上、大不況期以後のイギリスの資本輸出の姿をみた。もちろん十九世紀本以降になると、フランス、ドイツ
など、その他のヨーロッパ諸国もそれなりに海外投資を行うようになるが、資本輸出を通じて世界市場の拡大、
統合化をはかったという点ではイギリスの役割が圧倒的であった。そして多くの後進地域が次々に資本主義体制
に組入れられていったという点で、この時期の世界経済統合化は、いわば﹁市場の拡大﹂という・形で形成されて
― 95 ―
いったといえよう・。
o 相互依存の深化と現代の資本輸出
以上のような十九世紀の実態に対し、二十世紀の七〇年代後半以降に進んでいる事態はどういう・ものであろう
か。実はここでも十九世紀と同じように、一見相反する二つの潮流がみうけられる。すなわち石油ショック以後
の長期経済停滞の下で、輸出競争が激化し、輸入制限、保護貿易への傾斜など、各国間の摩擦・紛争はあとを絶
たないが、それは一九三〇年代のよう・なブロック化や、市場分裂をもたらしてはいない。むしろ各国間の相互依
存、経済交流はそれなりに進み、その意味での世界経済の統合化は、経済が低成長下に入った七〇年代後半以
後、一段と進展しているとさえいえる。
ただ、その統合化の内実は十九世紀とは違っている。前述のように十九世紀の場合は、市場拡大という・姿をと
った。これに対し、今日の事態は、そうしたニュー。フロンティアヘの進出、開拓というものはみられない。し
いてニュー・フロンティアといえば、今日は社会主義国というニュー・フロンティアが資本主義体制に包摂され
ようとしているといえるだろう。しかし全体としていえることは、七〇年代後半以降に進んでいる事態は、市場
の拡大というよりは﹁市場の深化﹂、その上に立った世界経済の統合、再編成とみてよいだろう。この″深化″
の意味を問うことが問題なのだが、それは次節で述べることにし、ここでは七〇年代後半以降におきている世界
経済の相互連関性の強化の実態を、二、三の指標からながめておこう。
まず石油危機以後、世界貿易の仲びはその前の高度成長期にくらべ落ちているが、それでも第一表にみるよう
−96−
に、貿易は生産以上の増加を示しており、とくに工業製品貿易についてそれがいえる。これは生産に占める貿易
−97−
依存度の上昇ということにもつながるわけである︵第二表︶。
第二表 世界貿易規模及び依存度の推移
第三表 地域間貿易の推移
次にその貿易の面で、東西南北の地域間交流が高まっている。第三表によると、一九七〇年までの高度成長期
第一表 世界貿易・生産の増加
の地域間貿易は、先進国同士の貿易︵西西貿易︶の伸びが高く、先進国と発展途上国の貿易︵南北貿易︶の比重は
下っていたのに、七〇年代以降は西西貿易の相対的比重が下がる一方、南北貿易とか、途上国同士の貿易︵南南
貿易︶、さらには先進国と共産圏の貿易︵東西貿易︶の比重が増大している。これは世界の各地域間の相互依存関係
が深まっていることを意味する。
ところで十九世紀末において、市場の拡大の悍柱的投割として資本輸出が果した意義を述べたが、二十世紀の
今日においても、上述の貿易仲長、市場の相互依存の背後で、そのテコとしての役割を演じているのは資本輸出
である。そこで七〇年代に入ってから目立ってきた国際的な資本移動、資金の流出入の活発化の実態をながめて
みょう。まず第一は海外直接投資、いわゆる多国籍企業活動の進展である。国連報告によると、世界の大企業約
三八〇社の一社当り平均でみて、一九八〇年現在の売上げの四〇%。利潤の五三%、雇用の四六%、純資産の三
三%が海外で実現している︵第四表︶。いずれの比率も七〇年代より増えており、おおざっぱにいって、いまや世
界の大企業は、その経営活動を国内と海外で半々ずつ行っているとみていいだろう。これら企業は七〇年代以降
の経済停滞期にも、あるいは停滞しているが故にこそ、海外進出を積極化し、世界の相互依存深化のにない手に
なっていった。この点OECD報告も、七〇年代後半期は国内固定資本投資の不振に引きかえ、海外投資活動が
活発であったことを指摘し、﹁多国籍企業は、悪化した世界経済環境にも、よりよく適応している﹂と述べてい
る。
次に十九世紀の海外投資は、前述のように当時の覇権国イギリスが圧倒的優位を示していた。それと同じよう
に、第二次大戦後の海外投資の推移をみると、当初はアメリカの比重がこれまた圧倒的だった。ただ、いま問題
― 98 ―
にしている七〇年代後半以降になると、投資残高ではアメリカの優位は変らないにしても、相対的比重は下り、
−99−
その他の先進国の比重が上って、国際的資本活動が拡散化している。第五表は国際収支ベースでみた海外直接投
第五表 海外直接投資フロ―の各国別シェアと投資残高
第六表 対内直接投資フローの投資受入国別シェア
資フローの各国別シェアだが、六〇年代はアメリカのシェアが飛び抜けていたのに、八〇年代になると、アメリ
第四表 世界大企業の海外活動
カのシェアは下がり、英、独、日などその他の国のシェアが増大している。また第六表にょって直接投資の受入
国別シェアをみると、ここでは逆にアメリカの比重が高まっている。いうまでもなくこれは、対米直接投資を行
う他国の企業の活動が盛んになってきたことである。さらに受入国としてもう一つ注目されるのは、発展途上国
のシェアが高まっていることだ。これは最近発長途上国に生産拠点を移している先進国の多国籍企業が多いこと
を物語るものである。
海外直接投資と並んで、七〇年代後半に入ってからの目立った現象として、先進国○市中金融機関による発展
途上国向け融資など国際金融活動の進展、いわゆる多国籍銀行化の動きがあげられる。西側先進国の大銀行の国
際活動は六〇年代からはじまった。最初は世界貿易の拡大に伴う貿易金融などをしていたが、多国籍企業の世界
的活動に応じてそれへの融資活動へと進み、さらに七〇年代に入ると、発展途上国やソ連・東欧諸国などへの融
資を活発化していった。発展途上国、とくにNICS︵新興周辺工業国︶へは、多国籍企業の直接投資もふえてい
るが、七〇年代は、直接投資より銀行融資を通じる資金流入の方が比重としては大きい。また同じ間接金融で
は、ODA︵政府開発援助︶など公的借款の比重は下り、市中銀行からの融資など民間部門を通じる貸付けが増大
していった。もっとも、ハ○年代に入って債務累積問題が深刻化するにつれ、途上国向け銀行融資は手控えられ
ている。
さて、以上のよう・な投融資活動の活発化が、経済全体の長期停滞化にかかわらず、各地域間の貿易増大、相互
依存を促進する支えとなり、世界経済の緊密化、内外経済の一体化、国際経済の再編成を進展させてきている。
この点では十九世紀本と現象的には同じなのである。ではその統合化、再編成の内実にはどのような相違がある
−100 −
だろうか。それが次の問題である。
第三節 新国際分業の堺新召の意味
これまで述べてきた世界経済の統合化とは、国際分業の進展といい直すことができる。そこで次の問題は資本
輸出を軸にして十九世紀末に形成され、また二十世紀末に形成されつつある国際分業には、どのような相違があ
るか、ということである。あるいは次のようにいってもよい。一九七〇年代後半以降の世界経済で進展しつつあ
る事態を、よく新国際分業というが、この場合″新″の意味はとこにあるか、ということである。この点を三つ
の面からみてみたい。
−101−
業国から工業製品が、そしてアジア、中南米、アフリカ、オセアェアなどの後進地域からは二次産品が輸出され
る。こういう垂直分業という形で、後進地域は資本主義体制に編入され、そこに外延的な世界経済の統合化が進
展していった。それによって、これら後進地域は一定の経済発展をとげるが、ただこうした垂直型構造の進展は、
比較優位にもとづく合理的国際分業体制として自然な形で形成されたわけでは必ずしもない。そこには一種の
″力の行使″があった。第四節で述べる国際システムとの関連でいえば、こうした″力″を背景に後進地域は一
次産品生産に特化させられ、先進列強との間に従属的関係がもたらされ、いわゆる﹁中心−周辺﹂構造が固定
化していったのである。
このことを端的に証拠づけるのはインドである。前述のように十九世紀後半も、イギリスが自由貿易を堅時し
えたのは、欧米列強との貿易赤字を後進地域への輸出超過とそこからの投下資本利得によってうめえたからであ
る。このためには、イギリスは資本輸出を通じて後進地域の一次産品開発を容易にし、これら後進地域を一次産
品の輸出国にすると同時に、イギリスエ業製品の輸入国にする必要があった。この点でイギリスの植民地インド
の存在は大きかった。ソウルは﹁十九世紀の最後の三〇年間において、世界的な相互間の貿鳥網を形成する最初
の契機となったのは、主として一次産品諸国の急速な成長と、同時にョーッパとアメリカにおいて生じた、これ
ら一次産品に対する需要であった、⋮⋮イギリスの全決済型の鍵は、イギリスの赤字総額の多分五分の二以上を
決済したと思われる、インドにあった﹂と述べている。だが、インドとのこうした垂直分業化は、インドの工業
化を抑え、二次産品貿易への特化を強制していく公然、非公然の力の行他を抜きにしては考えられない。
さて、以上の十九世紀後半の事態に対し、一九七〇年代以降に、海外投資を軸にして展開している国際分業の
−
−102
性格はどういうものであろうか。
まず戦後の民間海外投資の特色をみると、それは十九世紀のように間接投資ではなく、直接投資が主力を占め
ている。またその直接投資の対象も、石油など原料・資源の開発やプランテーションなど古典的なものもある
が、戦後の主流は製造業関係の投資である。しかも最近は自動車、精密機器、電機電子など先端技術産業での海
外直接投資、すなわち多国籍企業活動が進んでいる。さらに投資相手国も先進国の比重がふえ、とくに七〇年代
後半以降は、前述のように先進国資本の相互浸透が進展している。また七〇年代に入ってからはアジアNICS
などへの直接投資も盛んであるが、こうした途上国への進出の場合も、電機電子をはじめとする製造業の比重が
高い。
以上のような形の投資の結果、そこにおきてくる貿易は、一次産品対工業製品という垂直貿易ではなく、製品
対製品の水平貿易である。たとえ先進国と発展途上国の間の貿易であってもそうであり、たとえばアジアNIC
Sへの先進国資本の進出に伴っておきる貿易は工業製品のそれである。フレーベルは﹁五〇〇年にわたる世界経
済の歴史において、はじめて世界市場向けの製造業の生産が、先進国と途上国の双方で可能になった。その上、
分業は細分化し、世界のどこでも資本と労働を結びつけうるようになった。この質的変化を新国際分業といいう
︵14︶
る﹂と述べている。この水平分業関係の発展の中に、新国際分業の″新″たる意味の一つがある。
なお、ここでも第四節での論議との関連で一言いっておく。それは水平分業といっても、先進国多国籍企業と
発展途上国の関係をみた場合、ある企業の製品製造過程での労働集約的な部品や組立品の一、二の工程のみが、
途上国の生産拠点で下請け的に特化生産される場合が多く、意志決定もすべて本国でなされるから、途上国は実
−103 −
質的には、″垂直的″に支配従属されている、という見方があることだ。しかし、だからといって途上国への先
進国資本の進出を新植民地主義と論断してしまうことはできないだろう。十九世紀の場合と違って、それが途上
国の工業化に資する面があることは事実だし、ボレゴなどもいうように、こうした分業化の展開は﹁強圧よりも
合意を通じて行われている﹂からである。
○ 国家間貿易と超国家的貿易形態
十九世紀と二十世紀の国際分業を分つ第二の相違点は、国家間貿易と超国家的貿易形態のそれである。ふつう
貿易という場合、それは国と国との問で行われる取引きで、そこでイメージとして浮び上るのは、異った国籍の
企業同士の輸出入である。たとえばA、B両国が貿易を行っているという場合、A国の企業からB国への輸出、
あるいはB国の企業からA国への輸出、といったことである。十九世紀の場合は、こうした本来の意味での国と
国との貿易、あるいは宗主国と植民地という同じ国の間での貿易であった。
ところが多国籍企業化が進むと、貿易統計上はA国とB国との問の輸出入であっても、実質は、A国に進出し
ているB国企業の子会社からB国への輸出であったり、あるいはB国に進出しているA国企業の子会社と、A国
にある親会社の間の輸出入であったりする。とくに後者の親会社・子会社間の貿易は、多国間にまたがった︵マ
ルティナショナル︶ 同一企業内の取引きであって、旧来の観念でいう国際貿易︵インターナショナル・トレー
ド︶とは違う。
一九八六年度の通商白書によると、一九八二年に、米系多国籍企業の海外子会社から、アメリカヘの輸出額は
一一
−104
八八八億ドルで、これは同年のアメリカの総輸入額の三五・九%、また海外子会社のアメリカからの輸入額は九
八〇億ドルで、同年のアメリカの総輸出額の四六・四%であり、輸出入を合せれば、本国と海外子会社との貿易
額は本国の総貿易額の四〇・七%になる。一方アメリカに進出している非アメリカ系企業の輸出入が、アメリカ
の総輸出入に占める比率はそれぞれ三〇%だという。とすればいまや、アメリカの貿易の約七〇%は、多国籍化
体制の下にあるといえる。そしてその中には同一企業の親・子会社間の国境を越えた企業内取引きもすくなから
ずふくまれている。
こうしたいわば﹁同一国籍企業内貿易﹂の進展は、古典的な国家間貿易にくらべて、国際分業に、″超国家性″
︵tSSnat−ogFS︶を付与するものといえる。ここに新国際分業の″新″たる意味のもう一つの特色がある。
臼 自由貿易と自由企業
ところで、以上のような事態の進展は、別の表現でいえば、世界的大企業の世界的経営戦略のあらわれとみて
よいだろう。多国籍企業は、全世界をあたかも一つの国内市場とみて、生産、分配、販売活動を行うもので、こ
の世界大の市場の中で、資本、原料、経営資源をいつでも、どこにでも自由に動かし、そしてまた、どこからも
望むときに撤退する自由を欲し、そうすることにょって企業の成長、利潤の極大化をねらって、世界戦略をくり
ひろげている。それだけ世界市場は統合化され、深化してきている。
しかも、その統合化、深化、超国家性は最近さらに一層進む気配をみせている。従来の多国籍企業の観念に
は、﹁ある国﹂の大企業が世界各地に子会社をもうけ、世界大の生産・販売活動を展開しているというイメージ
−105 −
があった。そこでは、たとえ多国間にまたがる活躍をしていても、特定国の単一の大企業の活動という姿を呈
し、従ってその企業の﹁本籍﹂ははっきりしていた。だから海外直接投資による生産の国際化が進展すれば、当
該産業での大企業同士の競争は一段と激しくなる一面をもっている。たとえば日本の自動車メ’︲Iカーがアメリカ
に子会社をもうけ、そこに生産拠点を移せば、アメリカ国内での自動車をめぐる競争は熾烈化するだろう。
こうした競争激化の一面があることは事実である。ところが最近になって目立ってきたのは、競争の一方で大
企業同士が国境を越えた結びつきを強めていることである。それは合弁事業化、共同研究開発、OEM︵相手先ブ
ラントによる生産︶、部品販売契約のよう・な種々の形をとっている。たとえば日本のトタョ自動車は、アメリカの
ケンタッキー州に一〇〇%出資の子会社をつくり、一九八八年から現地生産に入るが︵これが従来の多国籍企業の
イタージである︶、一方でアメリカのGMと折半出資の合弁会社をアメリカ内につくり、ここでも自動車生産をは
じめた。一体この折半の合弁会社の﹁本籍﹂はアメリカ籍か、それとも日本籍か定かでないだろう。自動車業界
では﹁一九八三年には世界全体で二百以上の自動車合弁事業及び協力協定の存在が報告され、これにはほぼすべ
ての主要自動車メーカーがかかわりを持っていた﹂といわれるが、こうした企業間の国境を越えた結合、融合は
今後もいっそう進展していこう。
このように、いまや世界の大企業が世界市場を舞台にして競争と協調の自由な経営戦略を展開しているという
点からみて、十九世紀末と二十世紀末の世界経済統合化の過程における第三の相違点として、同じ自由経済とい
っても、前者は自由貿易︵フリー・トレード︶体制であったのに対し、後者はむしろ自由企業︵フリー・エンタープ
ライズ︶体制と呼びうるのではないかと思われる。ここにも新国際分業の″新″たる意味の一つがある。
−106 −
第四節 資本輸出と国際システム
さて以上のような十九世紀本と二十世紀末の世界経済の統合化、国際分業の進展を、上部の政治構造をふくめ
た国際システムの変容という面から検討することが本節の課題である。この場合、次のような形で議論を進め
る。すなわち十九世紀をパクス・ブリタニカ全盛期︵一八四〇年代半ばから一八七〇年代初頭︶と、覇権後退の初期
状況の時期︵一八七〇年代初頭から二十世紀初頭︶に分け、同じく二十世紀をパクス・アメリカーナ全盛期︵一九四
〇年代半ばから一九七〇年代初頭︶と、覇権後退の初期状況の時期︵一九七〇年代初頭以降︶に分け、それぞれの国際
政治・経済システムの変化の姿をみることにょって、十九世紀と二十世紀を比較することである。
○ 十九世紀末の国際システムの変容
パクス・ブリタニカの最盛期である中期ヴィクトリア期は、一般に自由貿易体制がもっとも純粋に展開された
時代とされているが、国際政治的には‘ntea訟tesystem︵国家間関係︶を前提にしている。しかもその国家間関
係には一種の階層性があり、﹁世界の工場﹂としての中核的主導国イギリス、工業化過程にあるが、イギリスに
経済的に劣るヨーロッパ及び北アメリカの新興諸国、そして後進地域という配置となっていた。
ところで、いかなる国際経済システムも、その背後には必ず一定の国際政治システムがある。そして政治シス
テムがある限り、そこに公然、非公然の政治的力︵パワー︶の作用がある。自由経済がもっとも貫徹されたといわ
れる中期ヴィクトリア期も同じであり、この期の自由経済体制はある種のパワーによる支えがあった。パクス・
−107−
ブリタニカの場合、そのパヮーの象徴はイギリス海軍の優越的存在であった。イギリスはこのような″力″をも
つことによって、他国に対して自らの望む国際経済システム︵自由済経体制︶をうけ入れさせ、ときに強制するこ
ともできたのである。ただ、中期ヴィクトリア期は、イギリスの経済力が圧倒的強みをもっていたが故に、たと
えば領土的併合といったような政治的・軍事的パワーの行使をことさら必要としなかった。それが自由経済体制
を、あたかも″自然の秩序″のょうにみさせていたのである。そこにいわゆる﹁非公式の帝国﹂性があった。
ところが十九世紀最後の四分の一世紀から二十世紀初頭にかけての時期になると、第二節で述べたように、イ
ギリスはいぜん自由貿易を指向するが、国際環境は中期ヴィクトリア期と違ってくる。イギリスの工業力が落ち
る一方、ドイツやアメリカが競争者としてこれを追い上げ、欧米市場ではもちろん、当のイギリス市場でも競争
圧力をうけ、かつての支配的地位を産業面では保持できなくなってくる。にもかかわらずイギリスが、なお自由
貿易に固執したのは、イギリスが後進地域に海外投資を行い、これら地域をイギリス製品の市場として確保し、
そのことによって世界経済の統合化を進め、その上に立った多角的な貿易ネットワーク、あるいは多角的決済機
構を形成︵この点で国際金融面でのイギリスの優越性は残存することになる︶しえたからである。従って、この時代の
イギリスの自由貿易指向は、中期ヴィクトリア期と違い、ホブスボームもいう通り、他国からの挑戦に対し、そ
の競争を回避し、世界の貿易、海運、金融取引きの中心国としての機能のなかへ″後退する道″でもあったので
ある。
だが、こうした国際径済面での変化を、国際政治の面からみると、それはイギリスが、﹁これらの強力な競争
者としての列強に対する効果的な″政治的コントロール″ができにくくなった﹂こと、従って︷ntりrJtateqstem
−108−
における政治的再編成、あるいは勢力配匠の変革の時代に入ったことを意味する。事実、世紀の転換期ごろから
国際政治は次第に激動期に入り、それが最後には第一次大戦へとつながっていったのである。このことは、別の
表現でいえば、自然の秩序とみなされていたもの、あるいは﹁非公式の帝国﹂性が、次第に﹁公式の帝国﹂性に
転化していくことでもある。その一例を示すと、イギリスは﹁自由貿易体制の鍵﹂とみなされたインドを確保す
-Rルカツタ︶の政治的安定に意を注いだこと、
るため、一八七七年ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼称して直接統治を強化したこと、さらに﹁インドヘの
道﹂の安全保障のために、3cライン上︵ケープタウンーカイn
つまり投下資本利得の確保のために、﹁帝国主義﹂的力の行使をいっそう必要としてきたこと、そしてそれがま
た他の欧州列強との対立をさらに一段と強めたこと、などがあげられよう。
昌 二十世紀末の国際関係
以上のような十九世紀と対比して、二十世紀の今日の事態はどう理解したらよいだろうか。まず第二次大戦後
から一九六〇年代末にいたるパクス・アメリカーナ最盛期の資本主義世界は、中期ヴィクトリア期と同じよう
に、経済的にはIMF・GATT体制を枠組みとした自由経済指向性のものであり、政治的にはやはりFteotate
systemが前提となっていた。そしてこの国家間関係にも階層性があった。すなわちアメリカを覇権的中核国と
し、これにヨーロッパ諸国や日本のような非覇権的先進工業国があり、さらに戦後独立はしたけれども、六〇年
代ごろまでは一次産品国としての地位をいぜん抜け出せないでいた多くの発展途上国が﹁周辺﹂として位置して
いた。
−109−
だが、中期ヴィクトリア期と大きく異なる点があった。このときのイギリスは意図的に他の資本主義国の発展
を助成することはなかったし、またことさら政治性や軍事性を表面化させることもなく、いわば″自然な形″で
イギリス中心の自由経済体制を保持していった。これに対してパクス・アメリカーナ全盛期は、東西の体制間対
立があったが故に、同じ自由経済体制を保持していく上で、アメリカは西側資本主義世界の内部で、協力︵ある
いは寛容︶と統制︵あるいは強制︶の入り交った行動をとった。たとえば西側内部の安全保障の確保をはかり、他
国の経済復興助成や援助を行ったが、他方では社会主義圈に対する一部物質の輸出禁止を強制するなどの措置を
とった。こうした点では、中期ヴィクトリア期のイギリスにくらべ、パクス・アメリカーナ全盛期は、アメリカ
の″覇権性″あるいは″帝国性″が目立ったといいうるであろう・。
この点をもっともよく示すのが、この時期の資本輸出である。筆者はかつて本誌で、パクス・アメリカーナ全
盛期のアメリカの資本輸出の特色を論じた。すなわちこの時代のアメリカの資本輸出は、アメリカ系多国籍企業
など民間企業の海外進出もあったが、もう一つ大きな役割を演じたのは、国家資本輸出といわれている政府関係
の支出であった。その一つは対外援助で、これには西側世界の戦後復興を支援する経済援助と西側の安全保障を
強化する軍事援助があった。さらに、これは厳密には資本輸出とはいえないが、広義の資本供給と解される海外
軍事支出の比重も高かった。こうした公的資本供給の中に、筆者は戦後アメリカ資本輸出の″軍事的性格″をみ
ると共に、それがかえってアメリカのヘゲモニー基盤を意外に早く弱めていく点を指摘した。
ところで一九七〇年代に入るろこから、アメリカの経済力は後退し、一方で日本や西ドイツなどの競争力が強
くなり、さらに発展途上国の一部も新興工業国として発展をとげてきた。そして石油ショック後の世界経済の低
−110−
迷化の中で、これら国家の間に通商摩擦や重商主義的対立が表面化し、六〇年代までの国家間関係に勢力配置の
変化や再編成を引きおこすような気配がみえてきた。この点までは十九世紀後半以後の事態に類似している。
しかし、その後の経過をみると、ここでも十九世紀後半以降とは大きく異ったものがみうけられるのである。
そのIつとして次のことがあげられる。十九世紀の場合は政治的再編期に入って、やがて第一次大戦にまで突き
進んだわけだが、現在は政治的激動期に入ったようにみえても、かつてのような敵対関係が資本主義大国間にみ
られないことである。それは何故であろうか。
その理由の一つは国際政治環境のちがいからくるものである。十九世紀の場合、前述のようにイギリスは競争
相手に対して、効果的な″政治的コントロール″を行使できなくなっていったが、現在のアメリカはいぜんそれ
をなしうるのである。それは十九世紀と違って、今日の国際政治には、いぜん体制間対立があるからである。あ
るいは逆説的にいうと、米ソ両国に軍事力の均衡を軸にして世界を共同管理しようとする姿勢があるからであ
る。この米ソ関係を表面化させうる限りにおいて、アメリカはいぜん西側世界内部で、″政治的コントロール″
を発揮しうるのである。軍事面での安全保障力を強めれば強めるほど、経済基盤を弱めるのだが、東西関係を国
際政治の主要軸にかかげる限り、西側世界内部でアメリカは他国に対する政治的影響力を残しう・る。レーガン政
権の姿勢がそれである。東側世界内部におけるソ連の立場についても同じことがいえよう。いずれにしろ、十九
世紀末から二十世紀初頭にかけての時期は、たとえば英独海軍の建艦競争にみられるように、覇権国イギリスに
対抗する勢力が出てきたが、今日ではアメリカの径詩的優位性は後退しても、これに対する軍事的ライバルは西
側資本主義世界にはあらわれていない。
−1n−
なおこの点に関連して、もう一つ指摘しておくことがある。十九世紀後半からのパクス・ブリタニカ後退の
″初期局面″において、イギリスが直面した政策選択は二つあった。一つは海外からの競争圧力に対応して、イ
ギリス国内の産業再編成、あるいは新しい技術革新の推進による国内産業の変革再建の道であり、もう一つは海
外投資による新市場の開拓と、投資利得に依存する寄生国家化の道である。前述のようにイギリスは、シテイの
利害にそって後者の路線をとった。そのことによって世界市場の統合化は進めえたが、他方でイギリス産業の再
編、変革は大きく立ちおくれた︵最近の言葉でいう″空洞化″現象︶。この点パクス・アメリガーナ後退の″初期局
面″の場合は多少ちがう。今日のアメリカは在来型産業の競争力はたしかに低下し、また企業の海外脱出に伴う
国内空洞化現象が出ていないわけではないが、アメリカがエレクトロニクス、バイオテクノロジー、情報通信、
宇宙開発などの技術革新の推進、それによるアメリカ経済再編成に大きな意欲をもやしていることも事実であ
る。ただ、ここでも留意しておくべきは、こう・した最新の先端技術は、dUa{tQchnoiogyといわれ、軍事、民生
のどちらにも応用可能である。もしアメリカが今後も米ソ関係と、そこでの軍事的対抗を重視するならば、技術
革新がそうした方向に活用されていくことになる。この問題はSDI︵戦略防衛構想︶など宇宙軍拡とも関連し
て、なお検討されねばならないが、ここでは問題点の指摘にとどめておく。
目 多国籍化体制と政治システム
パクス・アメリカーナは後退しても、﹁世界市場は政治的多元主義︷po}Elp}ul-sm︶と共に分裂すること
︵
2
5
︶
は
な
い
﹂
とみられる第二の要因は、本稿の主題と関連している。それは七〇年代以降に進んでいる世界経済の構
−112 −
造変化そのものの中にみられる一種の超国家性であり、具体的には資本輸出を軸に形成されつつある世界経済の
統合化の内実に関連することである。
第二節で述べた資本輸出を、もう二皮主体の側から見直してみると、六〇年代までのパクス・アメリカーナ全
盛期と違って、七〇年代後半以降は公的部門︵国家資本輸出︶でなく、私的部門︵民間資本︶の比重が大きくなって
いる。民間企業による海外直接投資、民間金融機関による海外融資、個人・法人の証券投資などである。投資の
pr{vatrat{onといえるものである。しかも、そうした民間資本輸出は、パクス・アメリガーナ全盛期とちがい、
アメリカ以外の日本や欧州の民間資本に拡散している。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのイギリスを中心にした資本輸出は、殆どが民間資本のそれであった。
従って一九七〇年代後半以降の事態は、十九世紀の状況と似てきている。しかし同じ民間主導型であっても、二
十世紀の今日進行しているものの方が、より一層″超国家資本主義″︵lnsロat‘o呂{ca晏aF日︸的性格を強めてき
ているように思える。それはすでに第二節や第三節で述べた実態からも推測しうることであろう。先進国資本は
相互浸透し、各国大企業は単独で、あるいは資本提携や技術提携の上に立って生産の国際分業化を進め、網の目
のような結びつきを深めている。また国家間貿易であっても実質は同一企業内取引きが進展している。これらは
内外経済の一体化、各国経済の密接化をおし進め、通商紛争などの国家間摩擦をそれなりに制御していく。さら
にアジアNICSなど一部発展途上国への資本進出も、十九世紀の場合のように、垂直貿易的にこれら地域を一
次産品供給地として固定化。従属化するのではなく、これらの国の工業化をそれなりに促進していることは否定
できない。そしてその過程でおきてくる発展途上国の民族資本と先進国資本との提携、あるいは国際分業化も進
一一
−113
んでいる。もちろん、これら途上国の経済発展の仕方そのものに問題がないわけではないが、十九世紀にみられ
たような各国列強による勢力圏確保のための領土的征服や政治的従属化はみられない。
もちろん、海外直接投資による生産の国際化は、世界市場を舞台としての寡占的大企業間の競争を激しくさせ
る。しかし他方で、多国籍企業は自由な世界市場を必要としている点では共通の利害をもっている。保護貿易の
濃化で国家間対立や摩擦が激しくなり、市場が相互に狭められて、自由な活動が制約をうけることを好まない。
こうして﹁大企業間には国家主義的な敵対関係よりも、むしろ共通の利害をもつ立場によって特徴づけられる新
し
い
体
制
が
う
ち
た
て
︵ら
2れ
6﹂
︶ていく。そればかりか、社会主義の中国はもちろん、最近はゴルバチョフ政権下のソ
連にも、西側の資本、技術の導入をはかろうとする動きがあり、社会主義圏もまた多国籍化体制に組み込まれて
JE
﹂、つまり超国家企業︵t「a n医ona」corpor医ons︶の超イデオロギー的︵︷ranadQo↑og}
いく可能性もないとはいえない。多国籍企業の側にも、﹁″政治とイデオロギー″よりも″経済的熱望とプラグ
マティズム″への
動きもみうけられるのである。この点で、米ソの軍事対抗を軸とした国際政治危機と多国籍化体制との関連が問
題になるが、この面の検討は別の機会を期したい。
いずれにしろ、十九世紀の場合が非公式の帝国から公式の帝国へと進んだとすれば、二十世紀の今日は、逆に
公式の帝国から非公式の帝国へと進展していく可能性がある。だからある論者は、パクス・アメリカーナ以後の
事態を﹁公式で国家組織的ヘゲモニーから、非公式で市場強制的、企業組織的ヘゲモニー︵呂‘nimal。 market-
enfogQdlo召o「ate邨orgaFdhegemony」 への移行﹂と述べている。ここまで結論づけることはまだ早いであろ
うが、超国家的主体の活動が、これからの世界経済での支配的潮流の一つになっていくことはまちがいない。そ
リ
︶な
−114 −
してその過程の中で、従来のような国家と国家の摩擦、紛争も尾を引いてレくであろうが、同時に国家と企業の
利害関係の食い違い、対立も出てくるだろう。いわゆる空洞化現象も、つきつめれば国家利害と企業利害の相克
ということに通じる。
だが問題は、世界市場でのいかなる国際分業も、一定の国際政治システムを生み出すとすれば、超国家資本主
義の生成は、いかなる政治システムをもたらすか、ということである。マツクマイケルは、この問題を要約して
次のようにいっている。﹁︵今日進んでいる︶生産及び交換の世界システムは、国家間関係の政治的フレームワーク
を変えつっある。問題はそのていどである。すなわち国民経済の規制に対する国家の歴史的役割を傷つけるのか
どう・か、それはどのていどなのか、といううことである。それはアメリカのヘゲモニー崩壊後の資本主前世界経
済の政治的組織の問題を提起する。すなわちパクス・アメリカーナと結びついていた国家の構造的な階層化が破
れたところで、多国籍資本は世界経済の形成に責任をもっているか、その過程で国家はいかなる役割を果してい
く か 、 と い う こ と で︵
あ3
る0
﹂︶
。この点での結論を今日の段階で出すことはまだできない。多国籍化体制の世界経済
に及ぼしていく影響力とその政治作用をなお熟視することが必要であろう。
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−117 −
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︵後記︶ 本論文は成城大学教員特別研究助成費による共同研究﹁現代日本経済の政策的課題﹂の一部をなす。
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