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イギリスのヘゲモニーとアジア世界

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イギリスのヘゲモニーとアジア世界
関係史の視点から近現代史をとらえなおす―アジアを事例に 1
イギリスのヘゲモニーとアジア世界
大阪大学大学院文学研究科教授 秋田 茂
を行使した強力なヘゲモニー国家の役割に注目した
1 グローバルヒストリー構築の
い。とくに、アジア諸地域と英米二つのへゲモニー
「ブリッジ」としてのイギリス帝国史
国家との「関係性」に注目したい。19世紀から20世
グローバルヒストリーとは、地球的規模での世界
紀半ばまで続いたイギリスのヘゲモニー(覇権)が
の諸地域の相互連関を通じて、新たな世界史を構築
いかにアジア諸地域に支えられていたのか、逆に、
しようとする試みであり、最近、内外の学界で注目
アジア諸地域はイギリスのヘゲモニーをいかに利用
を浴びている。従来の一国史(ナショナル・ヒスト
し自らの利害を実現することができたのか、具体例
リー)の枠組みを超えて、ユーラシア大陸や南北ア
を交えて考えることで関係史的な世界史像を描いて
メリカなどの大陸規模、あるいは東アジア・海域ア
みたい。
ジアなど広域の地域(メガ・リージョン)を考察の
単位とするグローバルヒストリーでは、帝国・移民・
環境問題などが研究課題として注目されている。グ
ローバルヒストリーを考えるうえでのキー概念は、
2 非公式帝国、
国際公共財とイギリスのヘゲモニー
19世紀にイギリスがヘゲモニーを握る契機は、
(1)
18世紀のオランダ資金流入による「財政=軍事国
「比較」と「関係性」である。それが最も明確にな
家」の展開、(2)フランスとの重商主義戦争を通じ
るのが、近世以降のグローバル化の進展、国際秩序
た植民地帝国の形成、(3)環大西洋世界とアジアを
の形成・発展、いわゆる「近代世界システム」の変
対象とした海外貿易の急激な拡張(イギリス商業革
容の問題である。
命)によりもたらされた。とくに、西アフリカから
近代世界システム論は、アメリカの歴史社会学者
の黒人奴隷労働力による砂糖プランテーションで栄
I .ウォーラーステインが提唱する世界経済体制論で
えた西インド諸島は、タバコ栽培の北米南部植民地
あり、帝国書院の世界史教科書の骨格を形成してい
とともにイギリス帝国経済の核となった。奴隷貿易
る。日本では、川北稔氏の一連の翻訳・紹介を通じ
を含む「大西洋の三角貿易」の発展は、イギリス東
て広く知られるようになった。近代世界システム
インド会社が南アジア地域から輸入した綿布に対す
は、「中核」
、
「半周辺」
、
「周辺」の三層構造からな
る需要を高めて、アジア産品の輸入代替産業として
り、16世紀以降、西欧を「中核」として地球的規模
18世紀末に「産業革命」が起こる重要な要因になっ
で拡張を続けたとされる。だが、最近、この西欧中
た。産業革命によりイギリスは、農業社会から商工
心の見方に対して、非ヨーロッパ世界、とくに東ア
業社会に移行し、鉄道・蒸気船・電信が発明されて
ジア世界の優位、あるいは西欧との同時並行的な経
経済発展を支えた。
済発展を強調する新たな世界システム論が、A.G.フ
18世紀末のアメリカ独立戦争以降、帝国・植民地
ランクやK.ポメランツ、B.ウォン、杉原薫らによっ
経営の重心は、環大西洋世界からアジアに移行した。
て提唱されている。
当時のイギリス帝国は、カナダ連邦・オーストラリ
ここでは、これらの新説をふまえたうえで、世界
ア・ニュージーランドなどのように本国からの移民
システムが安定するために、政治経済・軍事・文化
により建設され自治権を獲得した白人定住植民地
イデオロギーのすべてにおいて、圧倒的な影響力
(のちの自治植民地・ドミニオン)と、インド大反
−−
乱以降に本国政府の直轄支配に切り替えられた英領
イギリスの場合は、英領インドに代表される従属植
インドや、東南アジアのシンガポールを含む海峡植
民地を世界各地に保有したヘゲモニー国家であった
民地、エジプトなどの従属領から構成された。これ
点がユニークであり、現代のアメリカ合衆国のヘゲ
ら公式帝国に加えて、ナポレオン戦争後に独立した
モニー(パクス・アメリカーナ)とは決定的に異な
アルゼンチン・ブラジルなどのラテンアメリカ諸国、
る構造を有していたのである。
西アジアのオスマン帝国、アヘン戦争後の中国(清
朝)は、名目上は政治的に独立した主権国家であっ
たが、対外経済政策や金融・財政の面でイギリスの
3 公式帝国をもつヘゲモニー国家イギリス
多角的決済機構の確立と英領インド
影響下に置かれ、イギリス「非公式帝国」
(informal
まず、イギリスのヘゲモニーを支えた圧倒的な経
empire)に編入された。19世紀中葉に自由貿易政策
済力は、産業革命以来のマンチェスターを中心とす
を世界中に拡張し強要したイギリスの外交政策は、
る綿工業(消費財生産)、バーミンガムの金属機械
イギリス帝国史家ギャラハーとロビンソンによって
工業(資本財生産)に加えて、ロンドン・シティの
「自由貿易帝国主義」と呼ばれる。
金融・サーヴィス部門が決定的に重要であった。
しかし、19世紀のイギリスの世界的な影響力は、
近年のイギリス(本国)経済史では、
「世界の工場」
公式・非公式の両帝国に限定されるものではない。
としての資本主義発展史は、P.J.ケインとA.G.ホプ
当時のイギリスは、帝国を超えて地球的規模での圧
キンズの「ジェントルマン資本主義」論の出現によ
倒的な経済力と軍事力、文化的な影響力を行使した
り大幅に書き換えられている。彼らによれば、近代
ヘゲモニー(覇権)国家であった。ヘゲモニー国家
のイギリス社会経済は、大土地所有者としての土地
は、英米の経済史家キンドルバーガーやパトリック=
貴族と、ロンドンの金融街シティで活躍した金融資
オブライエンが指摘するように、世界諸地域に多様
本家、やがてその両者が融合して形成される「ジェ
な「国際公共財」
(international public goods)を
ントルマン資本家」層が主導することで発展を遂げ
提供してきた。国際公共財とは、コストを支払わな
てきたのであり、産業革命の結果台頭したとされる
い人を排除しない「排除不可能性」と、ただ乗りさ
イングランド北西部・マンチェスターの産業資本家・
れても他の人が影響を受けない「非排他性」をあわ
製造業者たちの影響力は限定的であった。19世紀の
せ持った財である。19世紀のイギリスの場合、自由
ロンドン・シティは、海外貿易と帝国の拡張に伴い、
貿易体制、金との兌換が保証されたポンド(スター
アムステルダムに代わって国際金融サーヴィス業の
リング)を基軸通貨とする国際金本位制、鉄道・蒸
中心地となった。
気船のネットワークや海底電信網による世界的規模
マクロ経済のレヴェルでとらえると、19世紀のイ
での運輸通信網、国際郵便制度やグリニッジを基準
ギリスの貿易収支(モノの輸出入)は恒常的な赤字
とする国際標準時、国際取引法などの国際法体系、
であった。この赤字を埋めていたのが、1870年代ま
さらに、強力な軍事力に支えられた安全保障体制や
では、海運料収入・海上保険業務の収益・貿易商社
世界言語としての英語などを、その国際公共財とし
手数料などの貿易外収支の黒字であった。しかし、
てあげることができる。これらは、国際秩序におけ
世紀転換期になると、イギリスからの資本輸出、海
る「ゲームのルール」の形成に直結していた。
外投資の急増にともない、利子・配当収入が増大し、
通常、
ヘゲモニー国家は、
近世までの世界帝国(ア
それだけで貿易収支の赤字を埋め合わせることが可
ジアの中華帝国やムガール帝国、オスマン帝国な
能になった。海外投資の総額は、1875年に10億ポン
ど)と異なり、地球的規模での影響力の行使にとも
ドを超え、20世紀初頭には海外債権残高が30億ポン
なうコストを削減するために、統治のための官僚組
ドを超えた。その投資先は、オーストラリア・カナ
織や軍事力を必要とする公式帝国(植民地)を持た
ダ(公式帝国)、アルゼンチン(非公式帝国)など
ないのが理想的な形態であった。しかし、19世紀の
の第一次産品国とアメリカ合衆国に集中し、とくに
−−
1880年代以降は、温帯地域の白人定住植民地(のち
明らかであろう。だがインドは、本国イギリスとの
の自治植民地・ドミニオン)向けの投資が急増し、
み貿易をしていたわけではない。世紀転換期にイン
一貫して増えたインド投資(鉄道建設・インド政庁
ドの対外貿易の約3分の1は、東側の東アジア・東
債券)とあわせると、イギリス帝国内の投資が増大
南アジア諸地域に向けられており、日本はインドに
した。
とって重要な輸出相手国であった。同時期の日本と
国際収支全体の構造(カネのやりとり)を見ると、
英領インドは独自に、1904年に最恵国待遇条項を含
イギリスは、 対米・ヨーロッパ大陸諸国との間で生
む日印通商協定を締結していた。それは、いわゆる
じた膨大な赤字(20世紀初頭で年間約9500万ポンド)
不平等条約の改正の一環として、相互対等の最恵国
を、英領インドからの巨額の黒字(約6000万ポンド)
待遇、領事裁判権撤廃を含む日英通商航海条約が
と、オーストラリア・日本や中国・オスマン帝国(非
1894年に締結された10年後であり、関税自主権回復
公式帝国)との黒字で埋め合わせることで収支の均
の1911年新条約締結の7年前であった。その背景に
衡を維持した。S.B.ソウルが提唱したポンドの世界
は、インド産原棉輸出、 ボンベイ(現ムンバイ)と
循環システムである「多角的決済機構」の成立がそ
大阪・神戸の近代的機械紡績業を基軸とするアジア
れであった。世紀末のイギリスの国際収支は、多角
地域間貿易の形成・発展があった。杉原薫が提唱す
的決済機構と海外投資の利子・配当収入により支え
る「アジア間貿易」の形成である。
られ、ロンドンで考案された国際的な原則やルール
この経済的リンクは「綿業基軸体制」と呼ばれる。
が、事実上の国際標準・規範(グローバルスタンダー
すなわち、インド産の原棉を原料として、ボンベイ
ド)として世界中に広まった。日露戦争前後の日本
と大阪・神戸で機械化された近代紡績業が勃興した。
の戦時債発行に見られるように、新興工業国は外債
世紀転換期に、インド棉花生産高の37%が国内消
発行などでロンドン金融市場に大幅に依存した。
費、23%が日本向けに輸出され、1913年には国内消
この多角的決済を円滑に機能させるうえで、イン
費41%、対日輸出28%にその比重は増大した。イン
ドの役割は決定的に重要であり「安全弁」の役割を
ド棉のアジア内消費が欧米向け輸出を上回り、日本
果たした。英領インドからの約6000万ポンドの黒字
は、インド棉の最大の輸出先(輸出高の約6割)に
は、(1)インドが原棉・ジュート・茶・小麦などの
なったのである。ボンベイと大阪で紡がれた綿糸は
第一次産品を欧米諸国や、後述するように日本に対
中国に輸出され、中国では、安価な輸入綿糸が農村
して大量に輸出して貿易黒字を稼ぎ、その黒字を、
地域の手織機で綿布に加工され、広大な国内市場で
イギリスからインドへの消費財輸出で吸い上げるこ
販売された。中国市場では、早くも1870年代に、銀
と、
(2)植民地統治にともなうインド財政からの「本
価格低落によるルピー通貨の切り下げ効果のため、
国費」(軍事費、官僚の給与・年金を含む行政費、
マンチェスター産綿糸はボンベイ産に負けてシェア
鉄道資材などの備品購入費、対鉄道投資をはじめと
を失った。インド綿糸はアヘンに代わり対中輸出品
する各種の利子支払いなどから構成された)の円滑
の主力商品になり、20世紀初頭にボンベイ産綿糸輸
な支払い、を前提にしてはじめて可能になった。イ
出の9割、生産量の約6割が中国に輸出された。そ
ンドは、イギリスが世界に提供した国際公共財の一
れは大阪産の綿糸と激烈な競争を展開し1910年代に
つである国際金本位制、いわゆる「ポンド体制」の
は日本産が優位に立った。この綿業を中心にした「ア
最大の安定要因になったのである。
ジア間競争」に牽引されて、後に中国の上海周辺
地域でも同様な経済発展が見られることになる。こ
4 アジア間貿易の形成と英領インド
うした複眼的な関係史的考察は、ヘゲモニー国家イ
―国際公共財の利用
ギリスの世界的役割を考えるうえで極めて有効であ
以上の考察から、パクス・ブリタニカを経済的に
る。
支えた最大の貢献者が英領インドであったことは
−−
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