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「あらゆるアメリカ人」のために ~ポピュラーカルチャー
7.アメリカの歴史 第14章 「あらゆるアメリカ人」のために 2005UA3043 田島 尚 ~ポピュラーカルチャー~ 「ピープル」の文化 野球、映画、ホットドッグ、ラップミュージック。これらは、アメリカで生まれた代表 的な大衆文化であるが、どれをとっても、あまりにも多様で奥が深い。アメリカのポピュ ラーカルチャーは、他の先進産業社会とは異なった成立ちをしている。一般的に「大衆文 化」と言えば、エリートの文化に対する庶民の文化というイメージだが、アメリカでいう 「ポピュラーカルチャー」は、 “People’s culture”つまり、階級の上下によらない「あらゆ る人々(ピープル)」の文化を目指す。 「ポピュラーカルチャーの誕生」 ポピュラーカルチャー誕生の時期は、2つの見方がある。1つは、植民地時代。ヨーロ ッパの入植者と北米大陸の先住民が接触する中で誕生。そこに生まれた代表的な文化習慣 は、「感謝祭」である。秋の収穫後に開いた宴に始まったもので、クリスマスとは異なり、 宗教や民族に関係なく、すべてのアメリカ人にとって喜ばしい祭日となる。 しかし、ポピュラーカルチャーは、植民地時代ではなく、近代資本が生み出した産物と いう見方も出来る。なぜなら、ジョージ・ワシントンとフランクリン・D・ローズヴェルト は小さな共同体の文化習慣を近代の国民統合をはかる為に、象徴的に利用し、さらに現代 的な消費文化の出現以降、コマーシャリズムを強める事で、すべてのアメリカ人を対象と した国民の祝日となった。 「チームスポーツの隆盛」 19世紀半ば以降、ポピュラーカルチャーと結びつく新しい現象、チームスポーツが流 行。最初に人気を集めたのはイギリスから伝わったクラリケット。次に人気を集めたのが、 野球である。チームスポーツ隆盛の背景には3つの要因がある。1つめは、宗教的戒律の 弱体化により、安息日にレジャーを禁じる教会の権威が揺らぎ始めていた事。2つめは、 ギャンブルや酒場での遊蕩を駆使する代わりに集団スポーツが奨励された事。3つめは、 大都会では法人制度が成長し、結果、組織雇用者が増加し、この現実を反映して、個人が 組織に貢献するチームスポーツが流行したのである。 「芝居小屋から見世物館まで」 チームスポーツ隆盛の時代は、芝居小屋、コンサート・サルーン、見世物館などの室内 娯楽場が発達した時代でもある。劇場の中では、階級・性別・民族関係なく演目を楽しん でいた。コンサート・サルーンは、キャバレーの原型でミンストレルショー(黒人に仮装 した白人によるボードヴィル)からアメリカのポピュラーカルチャー音楽が誕生。見世物 館は、骨董屋と寄席とサーカスのサイドショーを合わせた様な珍奇な娯楽場である。これ らは、全米規模の「ピープルの文化」の立役者となったのである。 「ポピュラーカルチャーと産業主義」 大陸横断鉄道が開通、フィラデルフィア万国博が開かれるなど、南北戦争後の19世紀 後半、アメリカでは産業革命による社会変化が一気に進行。この時代は「金ぴか時代(ギ ルデッド・エイジ) 」と呼ばれ、ポピュラーカルチャーの位置づけを決めた重要な時期であ る。というのも、新しくやって来る移民達に向けて、新しい技術の利便が提供された事に より、民主的な文明の恩恵を享受する理想化された「アメリカの夢」というイメージが現 実味を帯びたからである。また、今まで享楽的なものに偏りがちだった娯楽ビジネスにも 新しい可能性を気付かせた。 「テクノロジーのヒロイズム」 この時期、産業とテクノロジーに対するイメージが英雄的になった。例えば、シカゴ万 国博では「ミッドウェイ」にパリのエッフェル塔に対抗した観覧車が出来、人気を博した。 しかし、設計者は特許化に失敗し、破産するが、観覧車自体の人気は衰えず、今後博覧会 に欠かせない存在となる。さらに、ニューヨーク郊外にあるアミューズメントパーク「コ ニーアイランド」も観覧車で客寄せし、以後の大衆娯楽産業のモデルとなった。しかし、 この博覧会で歴史的影響を残したのは、エディソンのキネ・トスコープ、つまり映画の前 身である。彼の発明の中でマイナーな映画は、今後世界を変える大衆娯楽として成長を見 せるのである。 「アメリカ映画の世界的優位」 大戦期間、アメリカ映画の影響が国際的にも広まった。今までは、ヨーロッパの映画が 優位に立っていたが、大戦でヨーロッパの映画産業が打撃を受け、供給不足になり、アメ リカ映画の大量輸入に頼り出したのである。そもそもアメリカ映画は、アメリカ人らしい 装いやしぐさ、アメリカ的な価値観などを学べる教材であった。しかし、あまりに急速に 成長した事もあり、中流階級から攻撃を受ける。これに対し映画産業は、2種類の対応で 応えた。1つは、映画作品の質的改良。もう1つの対策が、「プロダクション・コード」、 つまり、映画倫理規定の自発的採用である。ところが、結果、若者達の素行やスター達の 乱脈な私生活が問題視され、風当たりが一層強まった。その為、映画表現に厳しい規制を 加える事になったが、それは、映画の健全化よりも大戦間期のアメリカ社会の偽善化を象 徴するものだった。 「大不況と消費の文化」 大戦期間のアメリカのポピュラーカルチャーは消費の欲望を掻き立てた。例えば、雑誌 では広告誌面がカラー化。そして、ラジオ放送が最新のリズムを全国に届け、「ジャズ・シ ンガー」を始め映画は、音のある世界へ入っていった。これにより、次々とダンス映画が ヒットし、消費文化を押し広げていく。1920年代は、禁酒法の時代でもあり、娘が酒 を飲み、ダンスをするといった行動が可能になったのは、大不況下で禁酒法が解除されて、 ナイトクラブが開店した1930年代である。30年代になると、ますます無国籍・無階 級的な特徴を強めていく。 「ライフスタイルの大量生産」 第二次世界大戦後、アメリカでもベビーブームが起きた。なぜかというと、国家に忠誠 を尽くした男達に酬いる事を目的とした制度、復員軍人手当のもたらした核家族化が背景 にある。増大した人口に勝利の分け前を配分する。結果、大量生産による豊かさの大量配 給が始まった。大量生産の象徴と言うのは、TV である。NBC、ABC、CBS は、ハリウッ ドスターを起用し、喜劇や TV 映画を次々と制作した。 「カウンターカルチャー」 豊かな大衆社会を実現すると同時に高等学校、とくに大学の大衆化をもたらした。ここ に生まれた子供達を中心に「カウンターカルチャー(対抗文化) 」が出現した。例えば、学 生非暴力調整委員会や、民主社会の為の学生組織は、権力革命を目指すカウンターカルチ ャーの政治的な面を代表。またヒッピー達は、意識革命の部分を体現し、イッピー達は、 風俗的な面を象徴した。そして、ポピュラー音楽の変容である。60年代にアイドルとな ったビートルズやローリングストーンズなどは、挑発性や自己破壊的な衝動をあらわにし ていた。カウンターカルチャーは、権威や体制や主流文化に対して「歯向かう(カウンタ ー)」ことを自己目的化した、精神的力学となり定着した。 「空白?の70年代」 「激動の60年代」に対して「空白の70年代」と言われているがそうではない。70 年代は、「代わりになりうる(オルタナティブ)」文化が模索された。例えば、黒人スポー ツマンの社会的認知やアメリカ映画の再興に大きく貢献した若手監督が揃って出現した。 「ヤッピー文化から“オタク”へ」 1980年代は、ポピュラーカルチャーに矛盾する現象が見られた。戦争の傷を慰撫す る「癒し(healing)」が流行語になる一方で、高学歴のベビーブーム世代から、ヤッピーが 出現。彼らは、古い時代のポピュラーカルチャーを偏愛し、ハリウッドの古典映画を流行 させるなど、従来のポピュラーカルチャーの枠に留まらないサブカルチャー志向のテイス トを示した。この様に変化した背景は主に2つある。1つめは、ヤッピー世代が受けた大 学教育に映画史などの授業が取り入れられ、伝統的な大衆文化に目を向ける様になった事。 2つめは、家庭用のビデオデッキやパソコンが普及し、家で一人で映画を見られる様にな った事。こうした動きにより、家で一人でこもって自分の趣味に没頭する「オタク」が育 った。その反面、DJ の様に、自己表現する様な新しいタイプのポピュラーカルチャーが生 まれた。さらに、この頃、日本製の TV ゲームが浸透し、日本のポピュラーカルチャーが受 け入れられる基盤となったのである。 「グローバリズムと文化戦争」 1990年代は多文化主義とグローバリズムという一見対照的な2つの状況がもたらさ れた。まず、スポーツ界では、アジア系や黒人が次々に登場。ハリウッドでも黒人俳優や 監督が進出し、多文化主義に大きく拍車をかけた。しかし、社会生活では、人種憎悪や男 性支配の醜悪な実態を示す事件が続発。さらには、大統領までもがスキャンダルと偽証疑 惑により大失態を犯した。おまけに TV がこれらを延々と報じ、社会感情を悪化させた。い わゆる「文化戦争」が深刻化。他方、アメリカでは、コンピュータを通して世界が1つに なるグローバリズムの未来が語られた。しかし、目立ったのは、社会全体を破壊するサイ バーテロリズムの脅威を現実のものにすると同時に、グローバル社会の弱さを痛感させた。 かつて、アメリカのポピュラーカルチャーは「あらゆる人々の文化」と言われた。21世 紀のポピュラーカルチャーは、新たにその真価を問われ様としている。 補論 大衆文化はどのように批判されたか 1950年代、アメリカでは知識人によって、大衆文化批判が頂点に達した。第二次世界 大戦後、アメリカでは多くの人々が「豊かさの大量生産」の恩恵をこうむったが、それは、 結局は没個性的でしかないのではないか、という疑問が湧き起こったのである。知識人の マクドナルドは、こう主張する。「文化はエリートのものと庶民のものに二分されているの が自然であり、その方がかえって庶民は独自性を維持することができる。ところが両者を 分ける壁を壊してしまうと、庶民の文化は逆にエリート文化の下に従属するしかなくなっ てしまう」。知識人は、ポピュラーカルチャーの可能性を肯定するとともに、その後の多分 化主義への先駆けとなったのである。 終章 アメリカの世紀はどう創られたのか ~世界の中のアメリカ~ 「世界システムの中のアメリカ」 現代では「アメリカの世紀」とよく言われるが、独立当初のアメリカは農業国であった。 19世紀には工業化に成功、そして今では超大国となった。イギリスの植民地からスター トしたアメリカは、20世紀半ばには「覇権国」となるという変化を見せた国であった。 その際、世界システムとアメリカ社会の双方の構造的な変化に注目。4つの段階に区分し て問題を考える。1つめは、植民地時代。2つめは、1776年の独立から19世紀末ま での新興独立国の時代。3つめは、19世紀末から第二次世界大戦終結までの大国の時代。 4つめが、第二次世界大戦終結から現在までの覇権国の時代、の4段階である。ここでは、 それぞれの時代におけるアメリカ外交の特徴を軍事や経済、国民意識の変化を関連付けな がら述べていく。 「植民地時代のアメリカ」 第1段階の植民地時代のアメリカには、外交権はなく、さらに13の植民地に分かれて いて「アメリカ人」という共通意識さえなかった。その後、植民地戦争が多発した。「アメ リカ」という呼称が植民地人の間で使われ始めたのは、ジョージ王戦争中であった。植民 地戦争が多発した結果、植民地人の間で、13植民地の壁を越えて、「アメリカ人」として の共通意識が芽生えた。 「独立革命と揺籃期のアメリカ外交」 第2段階の始まりとなった1776年の独立革命が発生したのは、イギリスが一方的に 課税を強化した為である。フランス・スペインは、七年戦争で苦杯を喫した為、イギリス との対抗上、アメリカを支持して参戦した。ヨークタウンの戦いでの勝利を機に、83年 9月に講和条約が成立し、アメリカは独立を達成。そして、1787年に憲法を制定し、 共和制の基礎を固めた。常備軍を出来るだけ縮小し、民兵(ミリシア)を基本とする防衛 体制を構築させた。しかし、フランスで市民革命が発生し、アメリカでは参戦すべきかど うかを巡り論争になった。結局、ワシントン大統領は、ヨーロッパの紛争に巻き込まれな い為、どの国とも長期的な同盟を結ぶべきでないと訴え、中立政策を採用した。 「モンロー主義と大陸内膨張」 スペインが中南米に、再干渉する姿勢を示すと、1823年に、アメリカは、干渉しな い代わりに干渉しない事を求める「モンロー宣言」を発表。アメリカの「孤立主義」外交 の原点となった。アメリカは、1803年、ルイジアナ購入に続き、1819年にはフロ リダを購入し、さらに、ニューメキシコ・カリフォルニアの獲得に成功した。結果、アメ リカは大陸国家となった。また、中国貿易への関心が高まり、清朝との条約締結に成功し、 1854年には、日米和親条約が締結された。 「南北戦争と重工業化の進展」 南北戦争で勝利した北部は、南部の奴隷制を廃棄させた。その上、北部の大企業を中心 とした重工業化を可能にさせた。南北戦争による北部の勝利が経済の自立化や大国化の道 を保証する決定的契機となった。しかし、19世紀後半のアメリカでは、引き続き大陸内 膨張が優先され、対外的な関心は低調であった。なぜなら、南北戦争の連邦制の再建など に追われ、海外への関心が後回しにされたからである。もちろん、対外膨張を唱える人物 はいた。しかし、他方では、ドミニカ併合は失敗に終わったし、パナマ運河の建設を開始 した際には、アメリカは静観の姿勢を見せた。 「米西戦争と帝国主義化」 第3段階の始まりを告げたのが米西戦争である。この戦争の契機は、スペインによるキ ューバ独立の圧迫であった。結果、キューバは独立し、アメリカはキューバを事実上保護 国とした。米西戦争はアメリカが「帝国主義」化した事を象徴する事件となったが、「反帝 国主義者連盟」の活動が展開されるなど、国内で反対が存在する事が明らかだった。結果、 外国市場の開放を求める「門戸開放」型の進出を基調とする様になり、海外市場の拡大を 図る為の中心的な戦略となった。 「第一次世界大戦とウィルソン国際主義の登場」 8月に第一次世界大戦が勃発。アメリカは中立を宣言したが、親英的な姿勢をとった為、 アメリカ人にも被害が及び、アメリカ国内では参戦論が高まった。さらに、ロシアで帝政 を打倒する革命が発生した為、ウィルソンは、植民地問題の公正な調整、軍縮などを含ん だ「14か条」を発表。それは、国際関係に民主主義的な理念や法の支配を確立させよう とする新たな試みであった。しかし、ウィルソンが唱えた国際主義的外交は、同盟関係を 嫌う伝統的な「孤立主義」的感情の前に挫折を余儀なくされる事になった。 「両大戦間期のアメリカ外交」 世界経済は相対的な安定期を迎えた。19世紀半ばに成立していた「パクス・ブリタニ カ」と呼ばれたイギリス中心の世界体制も終わりを告げた。1920年代後半は、不戦条 約が成立するなど、国際的な軍縮や協調が進展、にも関わらず1929年の世界大恐慌は、 世界経済を解体した。ローズ・ヴェルト政権は、善隣外交への転換を表明したり、関税引 下げの姿勢も示したが、国際的な協調体制を創出する効果はなかった。 「第二次世界大戦の勃発とアメリカ」 ドイツがポーランド侵入、第二次世界大戦が勃発。しかし、アメリカは、中立姿勢その ものは変えなかった。40年6月にフランスが陥落し、さらに9月には、日・独・伊三国 同盟が成立。すると、アメリカはイギリスなどに武器を貸与出来る様にした。これは、戦 後の対外援助の先駆けとなった。1941年、独ソ戦争が勃発。アメリカは8月には大西 洋憲章を発表した。一方、アメリカは日本に対し石油禁輸を決定し、独・伊も対米宣戦し、 アジアとヨーロッパ戦争は一体化した。45年 5 月、ドイツが降伏した。日本は、原爆を 投下され、8月15日に降伏し、第二次世界大戦は終結した。 「 “パクス・アメリカーナ”のはじまり」 終戦時点では、世界の金保有額の3分の2がアメリカに集中する程、圧倒的な優位が形 成された。そして、世界経済における貿易自由化を推進した。それは、世界大の貿易自由 化こそ、世界の平和維持に不可欠を考えたからである。また、安全保障面では、安全保障 理事会と国際連合を創設した。伝統的な「孤立主義」は終わりを告げた。ここに第4段階 を画する「パクス・アメリカーナ」の時代が始まった。しかし、米ソ協調は対立し始め、 深刻な軍拡競争が始まった。また「冷戦」も始まった。結果、国際連合は機能を低下させ た。しかし、ケネディとフルシチョフの歩み寄りにより、危機は回避され、以後、平和共 存ムードとなった。 「覇権のかげりと再生」 アメリカは、ベトナム戦争で初めて敗戦し、財政赤字を拡大し、アメリカ経済の地位低 下をもたらした。一方、ソ連を「悪の帝国」視するレーガンが大統領に当選し、米ソ関係 は再び緊張していった。しかし「新思考外交」を展開し、結果、レーガン政権も歩み寄り、 以後、米ソ間では急速に核軍縮が進み、冷戦も終結した。さらに、80年代末、民主化が 進行し、ソ連解体にまで至った。その結果、情報通信革命の成功などにより、アメリカ経 済は好況になった。それ故、アメリカの覇権再生が強調される様になった。特に9.11 のテロ後、アメリカは単独行動主義の姿勢を強めている。他方、グローバリゼーションの 進展は、貧富の拡大を生み出していた。それゆえ、今後の世界では、「パクス・コンソーシ アム」と呼ばれる新たな国際協調的なシステムの構築が求められている。 2005UA3043 田島 尚