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1 柴田教授夜話(第 13 回)「脳脊髄液の一生」 2014 年 6 月 16 日 脳

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1 柴田教授夜話(第 13 回)「脳脊髄液の一生」 2014 年 6 月 16 日 脳
柴田教授夜話(第 13 回)「脳脊髄液の一生」2014 年 6 月 16 日
■脳脊髄液(CSF; cerebrospinal fluid)は、脳脊髄を取り囲むクモ膜下腔と脳室系
ならびに脊髄中心管を浸す無色透明無臭でサラサラした液体(漿液)である。
坂本竜馬が暗殺された際、刺客が振り下ろした刀が竜馬の前額部を直撃し、畳
の上に『脳漿』が飛散した(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』最終巻)とあるくだ
りは、竜馬の前額部皮膚・前頭骨・直下の髄膜が切れ味のよい刀でスパッと割れ、
そこから CSF が噴き出してきた光景をリアルに物語っている。大人の CSF 量は
常時 150 mL 程度であり、一日の産生量が 450 mL であることからすると、一日
に 3 回入れ替わっている勘定になる。CSF は、神経系の水分量緩衝、栄養素・老
廃物・生理活性物質の運搬、脳圧制御、衝撃吸収などの作用を発揮して脳保護に
与る。成分からみると、総蛋白濃度 15~45 mg/dL、IgG 濃度 0.8~5.0 gm/dL、ブ
ドウ糖濃度 50~80 mL/dL という風に、血漿と比較して溶け込んでいる物質の濃
度は総じて低く、通常アニオン化する蛋白の濃度が低いことを代償するが如く、
塩素イオン濃度は 110~130 mEq/L と血漿より高いのが特徴である。細胞数にも
乏しく、ごく少数の単球マクロファージやリンパ球が浮遊するに留まる。
■クモ膜下腔は、脳脊髄実質と接する柔膜(pia mater)を床面とし、クモ膜
(arachnoid membraine)を天井とする空間であり、そこには CSF が充満してい
る他、動静脈や粗性結合組織が散在している。柔膜、クモ膜下腔およびクモ膜
の三点セットを軟膜(leptomeninx)と総称する。クモ膜は脳溝に寄り添うこと
なく窪みを跨いでゆくので、(1) 前頭葉と側頭葉の間に挟まれたシルビウス裂、
(2) 松果体やガレン大静脈の前方に位置し、脳梁直下で左右脳弓と第三脳室天井
で囲まれた中間帆腔=脳室間腔(cavum velum interpositum)、(3) 脳幹部周囲の迂
回槽、(4) 小脳橋角、(5) 小脳中部下面の大槽などのように広々としたクモ膜下
腔が散在することになる。軟膜構成細胞は全て中胚葉由来である。CSF は専ら
脈絡叢で産生され、脳室内腔に分泌される。脈絡叢は、左右両側脳室、第三脳
室、第四脳室など、脳実質の中を貫く脳室が偏心性に位置し、脳室と軟膜が直
接接触する部位に限定して形成され、軟膜に由来する毛細血管を芯とするカリ
フラワー状を呈することで、大量の CSF 産生分泌に適した広い表面積を確保し
ている。脈絡叢の表面は、脳室上衣細胞から化生した脈絡叢上皮細胞によって
被覆されている。一方、脊髄中心管や中脳水道といった『肉厚な』神経組織に
取り囲まれた領域に脈絡叢はできず、上衣細胞で裏打ちされる。上衣は上衣細
胞が一層のシート状に配列した構造体であり、直下の脳脊髄実質を支持するア
ストロサイトの突起との間に基底膜は存在しない。これは、上衣細胞とアスト
ロサイトがともに神経外胚葉由来であることに起因する。これに対し、脈絡叢
上皮と軟膜に由来する毛細血管との間には基底膜が介在する。
■ところで、前述の三点セットをもって軟膜とする定義は海外の教科書と足並
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みを揃える世界標準だと思うのであるが、国内の教科書を紐解くと実に心許な
い。柔膜を軟膜と同一視しておきながら、積極的に柔膜という言葉に言及せず、
海外ではこうだが日本ではこうだと、ダブルスタンダードを許容するかのよう
に立場がぶれている。これは、大昔に日本の医学者がよく考えないで和訳した
負の遺産である。そもそも、軟膜とは硬膜(dura mater = pachimeninx)に相対す
る『ゆるい』膜様構造物を指す用語であって、手術や解剖の際、クモ膜を剥ぎ
取ると漸く見えてくる脳表に固着した柔膜だけを何故軟膜(=柔膜)と呼ぶの
だろう?硬膜炎(pachimeningitis)に対して軟膜炎(leptomeningitis)という病名
があるが、後者は上記の三点セットが炎症反応に巻き込まれた状況を示してお
り、決して柔膜だけを侵すものではない。柔膜は膠原線維とこれを産生分泌す
る少数の線維芽細胞からなり、直下には脳実質を支持するアストロサイトの突
起が互いに接着し合いながら密集している。そして、柔膜と脳実質との間には
基底膜が介在する。クモ膜下腔から脳実質に出入りする動静脈は、この基底膜
を貫通する際、クモ膜下腔の延長空間(Virchow-Robin 腔)を引き連れてゆく。
動静脈を末梢側に辿ってゆくと、その先は毛細血管となる。毛細血管内皮細胞
と脳実質アストロサイトの突起およびこれらの間に介在する二枚の基底膜は、
血液脳関門の形態学的基盤であり、病原体や物質の通過を大幅に制限している。
■硬膜は細胞成分に乏しい緻密な膠原線維性細胞外基質でできた厚さ約 1 mm
の膜様構造物であり、脳脊髄を守るのに相応しく機械的外力に耐久性を有する。
頭蓋内の硬膜は骨膜を兼ねた外硬膜とその内側にある内硬膜からなり、左右大
脳半球の隙間(正中)に相当する大脳縦裂のところで左右の内硬膜同士が結合
下垂して大脳鎌を形成するため、頭蓋骨に近接する部位で外硬膜と左右の内硬
膜に囲まれた三角柱状の空間(上矢状硬膜静脈洞)ができ、その内面は血管内
皮細胞で被覆される(柴田亮行ほか『総説:脳静脈の病理』分子脳血管病 2010)。
クモ膜は、ところどころでその主な構成要素であるクモ膜上皮細胞が結節状集
塊をなしたクモ膜顆粒と呼ばれる構造物を形成する。正中付近で内硬膜が弧を
描いて 90 度に湾曲する傍矢状領域では、クモ膜顆粒の発達が高度で密集し、内
硬膜に嵌入している。顕微鏡で観察すると、クモ膜上皮細胞の集団が内硬膜の
中に存在する迷路様の空間に食い込む姿は、下方に位置するクモ膜下腔から吸
い上げた CSF を硬膜静脈洞へ戻す機能をフル稼働しているような印象を与える。
脊柱管の硬膜は頭蓋内の内硬膜からの延長であり、外硬膜を欠く。何故なら、
頭蓋内の外硬膜が骨膜として大後頭孔のところで頭蓋骨の外表面に向かって反
転してゆくからである。従って、頭蓋内では硬膜が頭蓋骨と非常にタイトに結
合しているのに対し、脊柱管の硬膜外腔は麻酔を注入しやすい陰圧で結合性に
乏しい空間を形成する。剖検時、脳は延髄頸髄移行部で切離し、硬膜を外して
取り出すのに対し、脊髄は硬膜に包まれたまま取り出す理由はここにある。
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■学生時代、CSF は循環血液をもとに脈絡叢上皮細胞で産生分泌され、脳室系
(左右両側脳室・Monro 孔・第三脳室・中脳水道・第四脳室・脊髄中心管など)を移
動してゆき、第四脳室に開口する Magendie 孔や Luschka 孔からクモ膜下腔に踊
り出て、脳脊髄周囲を一通り浸した後、クモ膜顆粒で吸収され、硬膜静脈洞を
経て循環血液に戻ってゆくのだと金科玉条の如く教えられたものである。これ
は、医学の歴史において長らく定説として君臨してきた概念であるが、今や、
その根底から覆されようとしている。定説と新説との大きな違いは CSF の吸収
過程にある。これは、脈絡叢で一日に産生される CSF は約 450 mL なのに対し、
クモ膜顆粒で吸収される CSF の量はそれに遥かに及ばないという矛盾に満ちた
新知見に直面したことに端を発する。それでは、CSF の主な排出路はどこなの
だろうか?私も以前から、この問題に重大な関心を寄せていた。
■本年 5 月、福岡で開催された第 55 回日本神経学会学術大会に参加した。大会
初日、午後に発表予定の教室関連演題のポスターを貼付し終え、公募シンポジ
ウム 6『髄液の産生・吸収機構の新しい概念と特発性正常圧水頭症の診断・治療
の進歩』の会場へと向かった。そのセッションで、この難問に立ち向かう勇気
ある研究者たちの研究成果と国内外の最新知見に関する情報を知り、大変感銘
を受けた。生理的条件下において、CSF は脳内毛細血管から吸収されて循環血
液に戻るのに加え、脳脊髄から枝分かれした神経束内に存在する隙間を通って
リンパ管に排出されるというのである。後者のルートのうち、最もよく調べら
れているのは嗅神経である。これは、前頭葉眼窩面(前頭葉の底面)に押し潰
されるように這いつくばる嗅球(脳)から前頭蓋窩骨篩板と呼ばれる多数の小
孔を貫通して上鼻道嗅粘膜に達する感覚神経であり、嗅覚刺激に由来するイン
パルス(電気的情報)を粘膜から嗅脳に伝達する役目をもっている。トレーサ
ーを用いた CSF 動態可視化動物実験の結果によれば、インパルスの向きとは逆
に、CSF はクモ膜下腔から神経束内空間を経て嗅粘膜下組織に排出され、リン
パ管に吸い上げられた後、頭頸部リンパ節を経て静脈角から大静脈へ灌流する
のである。では、学生時代に習ったあの『クモ膜顆粒』は何をしているのか?
画像解像度が低かった時代に主な CSF 排出路としてもてはやされたクモ膜顆粒
は、解析技術が飛躍的に向上した現在、髄膜炎や水頭症といった CSF 量が病的
に増加する非常事態に限って駆り出される迂廻路、すなわち『予備役』のよう
な存在なのではないかと指摘する向きもある。シンポジスト達は口々に、
「髄液
吸収機構に関する古い概念を医師国家試験に出題することは避けるべきであり、
可及的速やかに教科書の記述を変更する必要がある」との見解を述べた。
■最近の研究動向をみると、嗅神経の他に三叉神経や脊髄神経にも関心が集ま
っているようである。ここで、末梢神経の機能解剖を整理してみる(柴田亮行
ほか『総説:東京女子医大病理部門における末梢神経組織検体のホルマリン固
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定パラフィン包埋標本を用いた病理診断』東女医大誌 2014)。神経束の最外表は
神経上膜(粗性線維性結合組織性被膜)で被包され、その内部は神経周膜と呼
ばれる線維性隔壁で大雑把に間仕切りされ、さらにその内側は神経内膜で細か
く間仕切りされている。間仕切りされた各空間には神経線維が密集性に並走し
ている。神経線維とは神経軸索とこれを包み込んで絶縁体の枠割を果たすシュ
ワン細胞をひとまとめにした構造であり、髄鞘形成の有無から有髄線維と無髄
線維に分類される。件の CSF 排出路の最有力と目される神経周囲(周膜)腔は、
神経根が硬膜を貫く際にクモ膜下腔から連続する空間である。以上の知識を知
った私は、CSF が神経周囲腔を経て到達した神経束末端から全身組織の細胞外
腔にじんわりと漏れ出し、最終的にリンパ管に取り込まれるものと信じて疑わ
なかった。ところが驚いたことに、クモ膜下腔に色素を注入すると、比較的速
やかに傍脊柱リンパ節に拡散移行する現象が肉眼的に観察されるらしい(未発
表データ)。つまり、CSF がリンパ管に移行するのは神経末端ではなく、より近
位部である可能性が指摘されたのである。CSF が神経束外へ漏れ出す現場を電
子顕微鏡などで取り押さえれば、より説得力のある研究成果として評価される
ことは間違いない。ところで、神経周囲腔は、膵管癌や腺様嚢胞癌のように末
梢神経を好んで侵す悪性腫瘍が入り込む空間としても知られる。どうやって癌
細胞が神経周囲腔に到達するのかという疑問を巡っては、神経上膜を破壊して
直接浸潤する、末梢神経栄養血管(vasa nervosum)を介して侵入する、末梢神
経末端における神経周囲腔の開放部分から分け入る、など諸説がある。
■最後に水頭症について触れておこう。水頭症とは、CSF が貯留した病態の総
称である。今回紹介した新しい髄液排出路の存在も考慮に入れて水頭症を CSF
の一生という観点から分類すると、(1) 脈絡叢における髄液産生過剰(脈絡叢乳
頭腫)、
(2) 脳室系の狭い部位(Monro 孔・中脳水道・Magendie 孔・Luschka 孔など)
の閉塞(脳腫瘍・脳出血・脳室炎・先天奇形など)、(3) 脳幹周囲迂回槽の閉塞(脳
底部髄膜炎)
、(4) クモ膜顆粒の機能不全(穹窿部髄膜炎・クモ膜下出血)、(5) 脳
脊髄神経束を介する髄液排出路の機能不全などが挙げられる。また、CSF が貯
留する部位により、内水頭症(脳室系の拡大が主体)と外水頭症(シルビウス
裂などのクモ膜下腔の拡大が主体)に分けることもできる。水頭症は急激に出
現進行すると脳圧が上昇するが、緩徐な経過を辿ると脳圧が上昇しないことが
ある(正常圧水頭症)。さらに、硬膜下水腫と呼ばれるクモ膜と硬膜との間の空
間に CSF が貯留する病態も知られ、頭部 CT/MRI では脳溝の狭小化ならびに頭
蓋骨内面と脳表との距離の平均的な拡大を特徴とする。硬膜下水腫の原因とし
て、微弱な頭部外傷の反復や脳萎縮などが想定されているが、詳細は不明であ
る。水頭症や硬膜下水腫の治療法については専門書を参照されたい。今回は、
脳脊髄液ひとつとってもまだ判らないことばかりだと再認識した次第である。
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