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1534-35 年北西ヨーロッパにおける宗教改革神学、再洗礼主義の
拡大に関する分析
日本西洋史学会第 62 回大会自由論題報告
2012 年 5 月 20 日
於:明治大学
永本哲也( E-Mail: [email protected] / TWITTER: @saisenreiha )
1.はじめに
1.1.
1.1.1.
宗教改革神学の拡大
印刷物による拡大
・宗教改革は、急速な勢いで、ドイツを中心としたヨーロッパ各地に広がっていった。
・宗教改革神学が急速に広がった理由として、印刷物の出版の影響が挙げられる1。
・宗教改革の始まりにより、ルターの著作をはじめとする膨大な量の著作やパンフレ
ットが出版された。その際、絵入りのパンフレットや一枚刷りのビラによって、宗
教改革の思想が、文字を読めない民衆の間でも広がっていった。(Scribner 1981、森
田安一)
1.1.2. 口頭でのコミュニケーションによる拡大
・多くの場合印刷された言葉は、喋り言葉によって媒介され伝えられた。そのため、
宗教改革思想の拡大を理解するためには、印刷物だけでなく、他のあらゆるメディ
ア、特に口頭でのコミュニケーションも考慮する必要がある。(Scribner 1987)
・南西ドイツの諸都市に関しては Hannemann が、エルザス地方の農村に関しては
Conrad がそれぞれ説教師などによる宗教改革思想の伝播に関する研究を行っている
が、印刷物と比べると口頭でのコミュニケーションによる宗教改革神学の拡大に関
する研究は乏しい。
1
近年の宗教改革研究における、印刷物研究の位置づけについては、Ehrenpreis und Lotz-
Heumann, S. 89-92. や Mörke, S. 130-135. を参照のこと。
1
1.2.
北西ヨーロッパでの再洗礼主義の拡大
・再洗礼派宗教改革:北西ヨーロッパ一帯で大規模で組織的な宗教改革運動が拡大し
た最初期の例。再洗礼主義に基づき、宗教改革運動が進行。
・1534 年 2 月にヴェストファーレンの中心都市ミュンスターで、再洗礼派が統治権を
得る。ミュンスター再洗礼派は、強い終末期待に基づき、市内で財産共有制、一夫
多妻制、ダビデ王を頂く神政政治の導入など様々な制度改革を行い、都市を包囲す
る司教軍と約 1 年半の間戦う。1535 年 6 月に都市は司教軍によって占領され、再洗
礼派統治は終わる。
・再洗礼派統治期のミュンスターには、北西ヨーロッパ各地から大量の再洗礼派が流
入した。また、ミュンスターから各地に使者が派遣され、宣教が行われた。
・ミュンスターを中心に再洗礼主義が北西ヨーロッパ一帯に広がる。ヴェストファー
レン、オランダ、フリースラント、下ライン地方、南ネーデルラント。【地図1】
【本報告の課題】
1.3.
1.3.1.
分析対象と史料
分析対象
・地域:北西ヨーロッパ全域を一度に扱えないので、研究の層が薄い下ライン地方、
南ネーデルラントに限定(下ライン地方 Goeters、ケルン Stiasny、ヴェーゼル Kipp、
ユーリヒ公領 Rembert、マーストリヒト Habets)。
・時期:再洗礼派によるミュンスター統治期。1534 年 2 月~1535 年 6 月。
・各共同体間でのコミュニケーションに基づく再洗礼主義の拡大に限定。各都市や地
域内部での再洗礼主義の拡大については補助的にのみ扱う。
1.3.2.
史料
・ミュンスターから派遣された使者の審問記録は主に Niesert、Cornelius 1853、ロート
マンの著作は Stupperich 1970、ヴェーゼル再洗礼派の審問記録は Bouterwek、ケルン
2
再洗礼派の審問記録は HAStK 45, Nr. 15、ケルン市参事会の議事録は Groten 1988、
マーストリヒト再洗礼派の審問記録は Habets。
2.再洗礼主義拡大の手段
2.1.
口頭でのコミュニケーションによる拡大の試み
2.1.1.
a)
使者の派遣
ミュンスターから各地への使者の派遣
a-1)
1534 年 2 月における使者の派遣
・1534 年 2 月にミュンスターで再洗礼派による統治が始まると、彼らは各地に使者を
派遣し、もうすぐ生じる神の罰を避けるため、「新しいエルサレム」であるミュン
スターに集まるよう、各地の再洗礼派に呼びかけた2。【史料1】
・1534 年 2 月後半にヤコブ・フォン・オッセンブルク Jakob von Ossenburg は、説教師
ヨハン・クロプリス Johan Klopriss によって下ライン地方に派遣された3。オッセン
ブルクは先ず一人で各地を周り4、ヴァッセンベルクで別の使者ペーター・フォン・
ドレメン Peter von Dremmen と合流、その後は共に行動した。【地図2】
【オッセンブルクの行動】
・各地で、ミュンスターで奇跡が起こったこと、もうすぐ世界が罰され、ミュンス
ター以外に平和と安全はないことを告げた。
・彼は、各地でミュンスターで預かった手紙を渡した。(2.2.1. 参照)
2
特にオランダやフリースラントに、多くの使者が派遣された。オベ・フィリップス「告白」
(『宗教改革急進派』406 頁); Rembert, S. 604ff; Hullu, S. 158-162; Harting, S. 78; Löffler, S. 41.
3
Niesert, 1826, S. 154-166; Cornelius, 1853, S. 220-225.
4
ヤコブの移動経路は、ビューデリッヒ Büderich,、ヴェーゼル Wesel、ゲルデルン Geldern、フ
ェンローVenlo、ヴァッセンベルク Wassenberg、ヘーンゲン Höngen、 ドレメン Dremmen で、
そこから他の再洗礼派たちと共にミュンスターへ向かった。
3
・ヴェーゼルの宿屋で、彼が知らない再洗礼派たちに、ミュンスターの出来事を語
った。このことから、ミュンスターには事前にヴェーゼルの再洗礼派が集まる場
所についての情報が伝えられていたことが分かる。
・彼は、ゲルデルン Geldern に泊まった時は、そのことを語らなかった。彼は、全
ての滞在地で、宣教を行ったわけではなかった。
・2 人の使者は、38 人の再洗礼派を集め、ドレメンからミュンスターへ向かったが、
3 月 2 日にその途上ノイス Neuss で逮捕された5。
・彼ら以外にも、ミュンスターの出来事について語るために、二人の商人が、オーデ
ンキルヒェン Odenkirchen とマーストリヒトに派遣された6。
・1534 年 2 月 21 日に、説教師ヘンリク・ロル Henrick Roll がミュンスターを離れ、下
ライン地方一帯で宣教を行った。彼は、ヴェーゼルを 2 月と夏の二回、マーストリ
ヒトを夏に訪問していた7。
a-2)
1534 年秋から 35 年初めにかけての使者の派遣
【地図3】
・1534 年 10 月 13 日に 27 人の使者がゾースト、オスナブリュック、ヴァーレンドルフ、
コースフェルトの各都市に派遣された。しかし、彼らが各都市に現れると、全員が
逮捕され、ミュンスター司教側に寝返ったハインリヒ・グラエス Heinrich Graes 以外
は全員処刑された8。
5
1534 年 3 月 3 日のクレーフェ公からミュンスター司教への手紙(FML518/519, Bd. 3a, Nr. 44.)、
3 月 4 日にクレーフェ公顧問団からミュンスター司教に出された手紙(Cornelius 1853, S. 225.)。
6
Cornelius 1853, S. 221.
7
Rembert, S. 315-339; Kipp, S. 340f.
8
Cornelius 1853, S. 111-115; Kirchhoff 1963, S. 29-35.
4
・クロプリスの審問記録によれば、1534 年 10 月にはミュンスターの指導層にも、ケル
ン、デューレン Düren、ユーリヒ公領、マーストリヒト、ルティッヒ Lüttich、クレ
ーフェ Kleve の各所の情報が入っていなかった9。ただし、証言の信頼性は低い。
・1534 年 12 月初めに何人かの使者が、ミュンスターからオランダ、ブラバント、フリ
ースラント、ルティッヒ、ユーリヒ公領へ派遣された10。
・1534 年 12 月に、ペーター・フォン・ドレメンとルティッヒ生まれのヴィルヘルム・
バイ・ハッセルト Wilhelm by Hasselt は、ヴェーゼルで印刷するために、様々な本を
持ってヴェーゼルへ、その後ルティッヒへ赴いた。ヴィルヘルムは、再びミュンス
ターに戻った。ペーターは、少しの間ドレメンにいて、一人の若者を連れてミュン
スターに戻った11。
・1534 年 12 月にヤン・ファン・ゲール Jan van Geel やペーター・シモンズ Peter
Simons 等 6 人の男が、諸都市や地域で反乱を起こすため、ミュンスターからシュト
ラスブルクやフリースラント、オランダ、ヴェーゼルに派遣された12。
・1534 年 12 月 25 日の晩に 5 人の使者が、ヴェーゼルに向けて派遣された13。彼らは
ミュンスターを出発し、ハムで 1 人が別れ、残り 4 人もノイスの手前で別れ、二手
に分かれた。彼らは、各地の再洗礼派をヴェーゼルに集め、その後ミュンスターに
9
Niesert, S. 127. クロプリスは 10 月 13 日に派遣された使者の一人。
10
ヴェルナー・シャイファルト Wernher Scheiffart の審問記録による。彼は、1534 年 12 月 6 日
にミュンスターを逃亡し、逮捕され、12 月 11 日に審問を受けた。Cornelius 1853, S. 292-296. シ
ャイファルトについては、Habets, S. 228-230. を参照。
11
1535 年 2 月 14 日のチリス・ライトゲン Zillis Leitgenn の審問による。Niesert 1826, S. 137f.
12
ライトゲンの審問による。Niesert 1826, S. 147.
13
ライトゲンの審問による。Niesert 1826, S. 139-147. 派遣された使者は、チリス・ライトゲン、
ランベルト・ピール Lambert Pyell、ヘンリヒ・ファン・ゼント Henrich van Sent、コルネリウ
ス・ミュンスターCornelis Munster、ゴスヴィン・ファン・フレーデファルデンホーフェン
Goswyn van Fredeualdenhouen 。
5
向かうことになっていた14。しかし、チリスはユーリヒ公領内でミュンスターの行い
について話すことができず、再洗礼派を見つけることもできなかった。【史料2】
1534
2
3
1534
1535
b)
ミュンスター以外の再洗礼派による使者の派遣
・ケルンから、ゲルハルト・ヴェスターブルクがミュンスターにやって来て、1534 年
1 月にヘンリク・ロルから洗礼を受けた15。
・ヴェスターブルクやリヒャルト・フォン・リヒラート Richard von Richrath などのケ
ルンの再洗礼派たちは、ローデンキルヒェン Rodenkirchen、アーヘン近郊のバーレ
ンドルフ Barendorff、フランクフルト・アム・マイン、メールス Moers、アーヘン、
グラードバッハ Gladbach に赴き、宣教、洗礼を行った16。【地図4】
・グラートバッハ近くに住む染め物師ヴィトダーWitder は、オーデンキルヒェン
Odenkirchen の宿屋に赴き、その主人を洗礼した17。
14
彼らは、ミュンスターを出発し、ハム Hamm、カメン Kamen、ドルトムント Dortmund、エッ
セン Essen、ケトヴィク Kettwig を経て、ノイス Neuss の手前で二手に分かれた。ピールとヘン
リクスはハンバッハ Hambach に向かい、チリスとゴスヴィンは Linnich リニッヒに向かった。
チリスはシュタインシュトラース Steinstraß でゴスヴィンと別れ、スヘールトヘンボス sHertogenbosch に向かう途中で逮捕された。Niesert, S. 142f.
15
Stiasny, S. 12; Cornelius 1853, S. 405.
16
HAStK 45, Nr. 15, vol. 1r-3r. 1534 年 10 月 31 日のリヒャルトとゴットハルト・グラスヴェルダ
ーGodhart Glaßwerder の審問記録による。この審問記録及び解読文は、パリ大学の博士課程に在
席している Mathilde Monge 氏の提供による。
17
HAStK 45, Nr. 15, 3r. ゴットハルト・グラスヴェルダーGodhart Glaßwerder の審問記録による。
6
・1534 年 9 月のロルの死後、マーストリヒト再洗礼派の指導者となったヤン・スメイ
トヘン Jan Smeitgen は、ディーテレン Dieteren で 10 人か 12 人を洗礼し、執事レーナ
ルト・ケテルブータース Lenart Ketelbueters はボルン Born で洗礼を行うなど、マー
ストリヒト再洗礼派たちは、ユーリヒ公領各地で宣教、洗礼を行っていた18。
・1534 年 12 月初めに、ケルン、ヴェーゼル、アーヘンの再洗礼派は、ミュンスターの
活動について知るためにミュンスターに使者を派遣していた。【史料3】
2.1.2.
近隣でのコミュニケーション【地図5】
・1534 年 2 月にオッセンブルクがヴェーゼルに来た時、宿屋に集まっていた再洗礼派
の一人は、近隣の都市エメリッヒ Emmerich で書記をしている市民であった19。
・オッセンブルクと共にミュンスターを目指した再洗礼派の中には、ミュンスターか
らの使者二人が訪れていないフッケルホーフェン Hückelhoven やハインスベルク
Heinsberg からも来ていた。使者以外の再洗礼派が、周辺地域の再洗礼派に情報を流
していた。
・マーストリヒト再洗礼派の仲間には、モンテナーケン Montenaken 近くのホイケロム
Heukelom やシメルト Schimmert、ユーリヒなど近隣の再洗礼派もいた20。
18
Habets, S. 136, 138f. 1535 年 1 月 に行 われ たバルト ロメ ウス ・ファ ン・ デン ・ベル ゲ
Bartholomeus vanden Berge および 1 月 29 日等に行われたメルテン・ペルボウム Merten Perboum
の審問記録による。
19
Cornelius 1853, S. 221.
20
Habets, S. 120. Heukelom には 2~3 人の再洗礼派がいた。Habets, S. 161. Schimmert 出身の再洗
礼派女性については Habats, S. 153.
7
2.1.3.
人の移住
・1534 年 2 月以降、北西ヨーロッパ各地から約 2500~3500 人の再洗礼派がミュンスタ
ーへ移住21。ミュンスター市内の成人人口に占める市外からの流入者の比率は約半分。
・ユーリヒ公領から、迫害から逃れるために多くの再洗礼派がマーストリヒトへ逃亡
してきた。マーストリヒト再洗礼派のかなりの部分は、ユーリヒ出身者22。
・Kipp の作成したヴェーゼルの再洗礼派リストによれば、ヴェーゼル市内には、ゲル
デルン、ヘント Gent、ルティッヒ、マーストリヒト、スステルン Süstern などから来
た再洗礼派が多数留まっていた。名前の分かる再洗礼派の約 40%23。
2.2.
2.2.1.
文書によるコミュニケーションを使った拡大の試み
手紙
・1534 年 2 月から 3 月にかけて、ミュンスターからの使者は、オランダでミュンスタ
ーに向かうよう呼びかける手紙を広めた。この手紙は、筆写され、回覧されていき、
広まっていった。また、その過程で短縮されていった24。
・1534 年 2 月にミュンスターから下ライン地方に派遣されたオッセンブルクは、各地
を回る途中に、Nidderwesell で説教師クロプリスの手紙を彼の娘アンナに、ブーデリ
ッヒでクロプリスからの手紙をある靴職人に、フェンローで説教師ゴットフリー
ト・シュトラエーレンの手紙を 2 人の再洗礼派に、ヴァッセンベルクでクロプリス
21
永本、117 頁。ミュンスターに流入したのは、女性が 2000~3000 人、男性が 500~600 人以下、
合計で 2500~3600 人程度と推定される。
22
Habets, S. 119-122; Rembert, S. 403f.
23
Kipp, S. 451-461, 343.
24
倉塚 1988、17 頁。Harting, S. 78 に掲載されているヤン・ファン・ライデンの手紙と、ズヴォ
レ Zwolle の再洗礼派が持っていた手紙を比べると(Hulle, S. 162)、後者の方が著しく短く、
記述が簡潔になっている。
8
の手紙を代官に渡した25。クロプリスやシュトラエーレンは、元々下ライン地方各地
で福音主義を広めていた説教師達であるため、1532 年にミュンスターに移住してか
らも、下ライン地方の福音派たちと手紙のやり取りをしていたと思われる。そして、
その手紙、そして手紙を運んできた使者を通じて、当地の状況が、ミュンスターに
伝えられたのだと思われる。
2.2.2.
ロートマンの著作の配布・印刷
・1534 年 10 月印刷のロートマン『復興』が各地に配布され、第二版も印刷された26。
・1534 年 12 月に印刷されたロートマンの『復讐について』1000 部を周辺の都市や村
に配布しようとして27、各地に使者が派遣された。(2.1.1. a-2 参照)
・マーストリヒトへは、アムステルダム経由で『復讐について』が伝えられた28。持ち
込まれた本は、市内の集まりで読み上げられた。【史料4】
25
Niesert, 1826, S. 154-166; Cornelius, 1853, S. 220-225.
26
『復興』本文は、Stupperich 1970, S. 208-284.
27
Stupperich 1970, S. 284-297. 邦訳は、倉塚他『宗教改革急進派』343-385 頁。この書物の配布に
ついては、ライトゲンの審問記録を参照。Niesert, S. 147.
28
1535 年 1 月 29 日他のルート・ケッテルブーターRuth Ketelbueter、1 月 23 日他のマティス・シ
ュパンゲンメッカーMathys Spangenmecker の証言による。Habets, S. 144f, 160.
9
3.北西ヨーロッパにおけるミュンスター再洗礼派の影響
3.1.
共同体立ち上げ期のミュンスター再洗礼派の影響
・ケルン:ミュンスター再洗礼派統治開始以前の時期に、ケルンで再洗礼派の存在が
確認できるのは 1533 年 8 月に一人の再洗礼派が処刑されたことのみ29。ゲルハル
ト・ヴェスターブルクが、1534 年初めにミュンスターでロルから洗礼を受けた後、
ケルンに戻り、自らの家などで洗礼を行い、再洗礼派共同体を創設した30。
・ヴェーゼル:指導者ハインリヒ・クニッピンク Heinrich Knippinck が、再洗礼派統治
開始直後の 1534 年 2 月にミュンスターに赴き、ヴェーゼルからミュンスターに食糧
や武器を運搬するために、両都市を行き来していた31。また、1534 年夏にロルがヴ
ェーゼルに来た時、指導者オットー・フィンク Otto Vinck に洗礼を行った32。
・ユーリヒ公領:小都市や農村しかない地域であるにもかかわらず、再洗礼派の重要
な拠点となった33。下ライン地方各地で福音主義を広め、後にミュンスターに赴いた
ロルやクロプリスのような説教師たちの影響が大きかったと思われる。説教師達と
ユーリヒの福音主義者たちは連絡を取り続けていた。(2.2.1. a-1 参照)また、マー
ストリヒトの再洗礼派とも関係が深かった。(2.1.3.参照)
・マーストリヒト:1534 年夏にロルが来訪し「司教」となり、スメイトヘンらを洗礼
し、3 人を執事に任命するなど、再洗礼派共同体を組織化した。1534 年 9 月にロル
が処刑された後、彼の弟子であるスメイトヘンが指導者の地位をを引き継いだ34。
29
Stiasny, S. 6f; Groten, S. 182, 処刑された者の名は、Martin von Iffenem。Stiasny は、南から再洗
礼主義が入ってきたと推測している。
30
ロルによる洗礼については、Stiasny, S. 12; MGQ2, S. 405. ケルンでのヴェスターブルクの活動
については、Stiasny, S.10ff; HAStK 45, Nr. 15. Stiasny は、彼が共同体の創設者と見なしている。
31
Bouterwek, Bekäntnus, S. 371; Kipp, S. 340.
32
Kipp, S. 341, A. 1625.
33
ユーリヒのアムト管区ボルン、ジッタルト、スステルンで、30 人以上の再洗礼派が処刑され
るなど、再洗礼派が多数いた。Rembert, S. 419.
34
Habets, S. 134.
10
35
3.2.
3.2.1.
武装蜂起に対するミュンスター再洗礼派の影響
ミュンスターからの呼びかけ
・1534 年 12 月に印刷されたロートマンの著作『復讐について』の呼びかけ。神は、ダ
ビデ王(ヤン・ファン・ライデン)を目覚めさせた。彼は、復讐と処罰によって、
平和のソロモンたるキリストの統治を準備する。このように、終末は間近に迫って
いるので、背信の徒に復讐し、罰を与えるために、今すぐ武器を取って、神の御旗
の下(ミュンスター)に結集せよ。【史料5】
・ヴェーゼル、アムステルダム、デフェンターなどの諸都市に再洗礼派を集め、ミュ
ンスターを助けに来るよう呼びかける36。【史料6】
35
ミュンスターからの宣教が始まる以前に、どの程度下ライン地方や南ネーデルラントで再洗
礼派共同体が成立していたかどうかについては、議論の余地が残る。Rembert や Habets は、既
に早い時期に成立していたと考えたが、Goeters1959 はこのような見方を退け、ミュンスターの
影響ではじめて成立したと主張した。しかし、Kipp, S. 341, A. 1624. は、ヴェーゼルに関しては
Goeters の見方は行きすぎであり、ミュンスター以前の象徴聖餐主義者や「ヴァッセンベルクの
説教師達」などによって始まったと見なしている。しかし、史料で成人洗礼を行う集団が確認
できるようになるのは、どの場所でもミュンスター再洗礼派統治が始まった以降であり、それ
以前に再洗礼派共同体が存在していたかどうかは別にして、全ての場所でミュンスター再洗礼
派の影響を受けて、再洗礼派の増加や組織化が行われたことは間違いないと思われる。
36
1535 年 7 月 25 日の審問でベルント・クレヒティンク Bernd Krechting が、ハインリヒ・グラ
エスが、王たちにこのように述べたと証言している。Cornelius 1853, S. 380. グレシュベクによ
れば、この時グラエスと王とその顧問官の間で、グラエスが、デフェンターやオランダで再洗
礼派を集め、ミュンスターに連れてくるという取り決めを行った。Cornelius 1853, S. 116. 1534
年 12 月 25 日に下ライン地方に派遣されたライトゲン達は、ヴェーゼルに再洗礼派を集め、ミ
ュンスターに連れてくることになっていた。(2.1.1. a-2 参照)
11
3.2.2.
各地の反応
・ケルン:ある審問記録によれば 1534 年 11~12 月時点で市内には約 700 人の再洗礼
派がおり、ヴェーゼルやアーヘンよりも数が多かった37。彼らは、情報収集のために
ミュンスターに使者を派遣するなど、ミュンスター再洗礼派と交流を行っていたが、
1534 年 11 月の再洗礼派の処刑以降、史料で確認できる動きは、1535 年 2 月に 4 人
の再洗礼派の逮捕のみである。4 人中 2 人は 2 月 24 日に復讐断念誓約の後釈放され
ているため、彼らが治安維持の深刻な脅威だとは市参事会は認識していなかったが
分かる38。
・ヴェーゼル:1535 年 1 月時点で市内には、40 人以上の再洗礼派がいた。指導者オッ
トー・フィンクによれば、市内では穀物、食糧、弾薬、武器を準備し、ミュンスタ
ーと同様の支配体制をヴェーゼルでも作ろうという計画が進んでいた39。【史料7】
・ユーリヒ公領・マーストリヒト:マーストリヒト市の内外(ユーリヒ公領を含む)
に約 100 人の再洗礼派がいた40。彼らは、武装蜂起を計画していたが、彼らが向かう
先はミュンスターではなくアムステルダムであり、オランダの再洗礼派と共にマー
ストリヒトやシュトラスブルクに進軍しようとしていた41。【史料8】【史料9】そ
のため、ミュンスターからの呼びかけやロートマンの『復讐について』から大きな
影響を受け、武装蜂起を計画していたが、対応の仕方は、ミュンスターの呼びかけ
とは大きく異なる、独自のものであった。
37
シャイファルトの証言に基づく。Cornelius 1853, S. 293.
38
市参事会議事録による。Groten, S. 294, 296; Stiasny, S. 17.
39
この計画については、グラエスの報告の要約の中で、グラエスがフィンクが述べた事柄とし
て伝えている。Bouterwek, Bericht Henrici Graiß, S. 385.
40
41
ルート・ケッテルブーターの審問記録での証言による。Habets, S. 161.
1535 年 1 月 29 日に行われた Born 出身のメルテン・ペルボウム Merten Perboum の審問で、彼
がヤン・ルッテン Jan Rutten から聞いた話を伝えている。Habets, pp. 139-140 また、Hieronymus
Pael の審問記録で、彼がスメイトヘンから命じられたことを伝えている。Habets, p. 170f.
12
4.おわりに
以上の検証の結果、1.再洗礼主義拡大の手段
影響力
2.拡大元となったミュンスターの
の二点について、それぞれ以下のことが明らかになったと思われる。
1.再洗礼主義拡大の手段
2.ミュンスターの影響力
13
【今後の課題】
謝辞:本研究は、平成 21 年度東北大学大学院 GP 院生プロジェクト歴史資源個別分析プロジェ
クト事業の研究助成及び東北開発記念財団: 平成 22 年度(後期)海外派遣援助を受けて行った。
14
【地図1】北西ヨーロッパ
Mellink. A. F., De Wederdopers in de noordelijke Nederlanden 1531-1544, Groningen 1953, XII. を加工。
【地図2】ヤコブの移動経路
Laubach, Ernst, Reformation und Täuferherrschaft, in: Jakobi, Franz-Josef (Hg.), Geschichte der Stadt Münster, Bd.
1., Münster 1993, S. 152. を加工。
15
【地図3】1534年以降ミュンスターから派遣された使者の滞在地・目的地
Mellink. A. F., De Wederdopers in de noordelijke Nederlanden 1531-1544, Groningen 1953, XII. を加工。
16
【地図 4】ケルン再洗礼派宣教
Google Maps を加工。
【地図5】
Google Maps を加工。
17
【史料】
史料 1
"Lieve bruders. Ghy sult trecken op een halve myle nae Hasselt by Berchcloester, (...) Zeyth dat
daer nymant achter en blyve, die hem selven sueckt, offt die wraick sall hem onversiens
averkommen." Hullu, S. 162.
「愛する兄弟よ。諸君はハッセルトの半理のところにあるベルヒクロースターに行進
しなければならない。(中略)生きながらえんとする者は後に残ることのないように
せよ。さもなくば予期せぬ形で復讐されることになろう。」(倉塚 1988、17 頁)
史料2
"Item zuletzt hait der Koninck, Knipperdollinck, Broder Bernhart, Joncker Tylbeck, noch einer,
vormails ein pastor vor Munster gewest, noch ein Friese vnd Raitzverwanten, diesen Zillis,
Lambert Pyell, Henrich van Sent, Cornelis Munster, ist vormails des Abts Koch gewest, vnd
Goswyn van Fredenaldenhoven vor sich lassen kommen in das Rathauss, lnen vorgehalden, sy
wolden zergelt geben, (...)" Niesert, S. 139f; Cornelius 1853, S. 415.
「遂に。王、クニッパードルリンク、ベルンハルト兄弟、都市貴族のティルベックと
以前ミュンスターの司祭だったもう一人、さらにフリースラント人とオランダ人一人
ずつが、市参事会員の仲間として、この Zillis、Lambert Pyell、Heinrich van Sent、以前
Abts Koch にいた Cornelis Munster、Goswyn van Fredenaldenhoven を市参事会の彼らの元
へ来させ、旅の費用を与えようとした。」
"Er hat bynnen dem Furstendom Gulich von dem Munsterschen Handel nit durffen sprechen,
vnd weiss auch von geinen Widergedeufften in myns G. F. lande." Niesert, S. 143.
「彼はユーリヒ公領内では、ミュンスターの行いを話すことを許されなかった。そし
て、我が慈悲深い候の地で再洗礼を受けた者を誰も知らなかった。」
史料3
" Item das Collen Wesel und Aich heimlich widderteuffer dabinnen an sie gesant, iren handel zu
vernemen, und mogen auch noch villeicht dabinnen sein und enthalten werden; sie ime doch
eigentlich nit bewust; und haben dieselve die vertroistung dabinnen gebracht, wie das der kunig
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zu Franckreich Engellant und Schotlant die widertauf angenomen und getauft." Cornelius 1853,
S. 293.
「ケルン、ヴェーゼル、アーヘンは、彼らの活動を知るために、その地の再洗礼派を
密かに彼らのところに送っていた。 彼らは多分まだ市内に滞在しているだろう。彼は、
彼らの事を全く知らなかった。彼らは市内に慰めをもたらした、フランス、イングラ
ンド、スコットランドの王が、再洗礼を受け入れ、洗礼されたと。」
史料4
"Item seet datet boexsken, boven verklaert, is van Monster tot Amsterdamme comen ende van
daer is hyr tot Tricht bracht, soe hy gehoert heeft. Item seet, doen dit vorg. boexken gelesen
waert, dat doen daerby waeren : (...)" Habets, S. 145.
「その上述の小冊子は、ミュンスターからアムステルダムに行き、そこからここマー
ストリヒトに持ち込まれたと、彼は聞いた。彼が言うには、前述の小冊子は読み上げ
られた。そこにいたのは(以下参加者の名前の列挙)」
史料5
"Hierumme, leven bröder, rustet yw thom stryde, nicht alleine mit dem oethmoedigen wopen
der Apostel thom liden, Sunder ock mit dem herliken Harnische David tho wreken, mit Gades
Kraffte vnde Hulpe al de Babilonissche gewalt vnde al dat Godlose weßen vththoradden, (...) So
wilt iuw nu, leven bröder, mit yle beflitigen, mit ernste thor saken tho gripen, vnde, zo völle
mögelick, schicket juw her tho vnder dat Paneir Gades tho kommen, (...)" Stupperich 1970, S.
297.
「それゆえ愛する兄弟たちよ、戦いのために武装せよ、苦難に赴く使徒の謙虚なる武
器だけでなく、神の御力と援けをもってバビロンの権力とその背神の輩を根絶せんが
ため、復讐のダヴィデの素晴らしき鎧をもって武装せよ。(…)愛する兄弟よ、急ぎ
努め励み、熱意をこめて着手されんことを。そして諸君らができるだけ多く、ここ神
の御旗のもとに来たり投じられんことを。」倉塚他編訳『宗教改革急進派』383 頁。
19
史料6
"(...) ind dair neyst verkundight hy oen eyn onteilligh vonck ind des so vuell, als deren sternen
inden hemell ind des zantz inden meher wer, erweycken, dieselue to samt den steden als Wesell,
Amsterdam, Deuenter ind ander oen bystaen ind to hulp komen solden, (...)" Klötzer 2005, S. 56.
「それ以外に彼(訳者註:グラエス)はこう述べた、彼は、空の星や海の砂の如く数
え切れないほど多くの民を呼び起こし、彼らはヴェーゼル、アムステルダム、デフェ
ンターなどの諸都市と共に彼(訳者註:王)を援助し、助けに来るに違いない。」
史料7
"Sy wolden sich bynnen Wesell stellen, mit koirn profyande, kruytt geschutt, Jnnd wann Sy so
gestalt weren, woldenn Sy sulchen Regiment annemen, als Sy bynnen Munster hebben, (...)"
Bouterwek, Bericht Henrici Graiß, S. 385.
「彼らはヴェーゼル内部で、穀物、食糧、弾薬、武器を準備し、準備ができたら、ミ
ュンスター内と同じ支配体制を受け入れるつもりである。」
史料8
"...heeft gesacht, dat Jan Rutten, Rutte Bussen soen, hoem gesacht heeft int hyemelick in
Palmen huys opt Huynsbroeck, dat die vergaderinge geschieden sulde om gheen Yssenbroeck,
Ende dat sy dan souden trecken nar Amsterdamme, inde sy solden hoen soe starck maeken, dat
sy allen die werelt dwingen solden" Habets, pp. 139-140.
「彼(訳注:Merten Perboum)が言うには、Rutte Bussen の息子 Jan Rutten は、Palmen
huys opt Huysbroeck で彼に密かにこう言った。『Eschenbroich 周辺で集会が行われるこ
とになっている。その後彼らはアムステルダムへ進み、そこで彼らは、彼らだけで世
界を征服するほど、強力になるはずである。』」
史料9
"Jhieronymus Paell seedt, dat Jan Smetken, bisschop, hem ende noch twee anderen gesonden
hebben tot Mercxem ende aldaer soude hy coemen met allen die van dier secten waeren ende
van daer souden sy gaen nae Amsterdaem ende en quaem nyet, ende tsdaegs te voeren waren sy
met noch vele anderen tot Platvort ende hielden aldaer raet, soe dat zy doen souden, ende was
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alsdaer gesloeten; dat sy by den anderen houden souden, ende hadden vele geltz, ende souden
eynen yegelycken gheven dat hem gebreken souden om hen op te stellen van geweer ende
souden gereyst hebben nae Amsterdam, ende allen die wat wits in die slincke hant hadden ende
in dander hant een swaert soude men te leven houden, ende alle anderen souden zy doot smieten.
Ende wanneer zy bynnen der stadt van Amsterdam waeren gewest souden hier stille gehouden
hebben tot dat zy hadden ontboeden huenre complicen ende waeren wal in all IIc M.
Seet dat sy van hier gereyst souden hebben tot Amsterdam ende aldaer all gepilgeert ende all
doot geslaegen ende geroepen : slaet all doot ende moort, ende souden aldaer der stadt gemant
hebben ende sterck gemaeckt, ende vandaer souden sy gegaen hebben tot Tricht, ende in gevalle
dat zy souden daerinne cunnen coemen, souden tselve gedaen hebben, ende souden van daer
gegaen hebben, nae Straetsborch omme tselve aldaer oick te doene." Habets, pp. 170f.
「Hieronymus Pael が言うには、司教 Jan Smetken は、彼と他二人を Merxhem(原註:
アントウェルペン近くの村)へ送った。彼はそのセクトの者全員と共にそこに来て、
そこからアムステルダムに行くことになっており、来るべきではなかった。そして彼
らは日々Platvort まで赴き、そこで彼らがどうすべきか、そこで何が決定されたかとい
う助言を受けることになっていた。彼らは他の者のところに泊まり、多くのお金を持
ち、個々全員に与え、武器を設置するためにその金を使い、アムステルダムへ赴くこ
とになっていた。彼らは、左手に白い旗を持ち、もう一つの手に剣を持つ者全員を生
かしておくことになっていたが、それ以外の者全員を殺すことになっていた。彼らが
アムステルダム市内に着いたら、彼らは共犯者を呼び寄せ、全員で 20 万人になるまで、
静かにしておくべきだった。
彼が言うには、彼らはここから旅立ち、アムステルダムへ赴き、そこで全てを略奪し、
全員を打ち殺し、こう呼びかけることになっていた。『皆殺しにせよ』そしてそこで、
都市に勧告し、強化し、そこからマーストリヒトへ赴くことになっていた。そして彼
らが市内に入ることができたら、同じ事を行うことになっていた。そして同じ事を行
うために、そこからシュトラスブルクへ赴くことになっていた。」
21
【主要参考文献】
未刊行史料
FML (Fürstbistum Münster Landesarchiv) 518/519. Landesarchiv Nordrhein-Westfalen
Abteilung Westfalen. (収蔵史料目録:Sonder- Verzeichniss zum Münst. Landes- Archiv Nr
518/519 BdI Anabaptistica 1525 April - 1535 März; Sonder- Verzeichniss zum Münst. LandesArchiv Nr 518/519 Bd. II Anabaptistica 1535 1/4 - 1550.)
HAStK (Historische Archiv Stadt Köln) 45, Nr. 15.
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24
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