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「勇気」への問い―プラトン『プロタゴラス』篇の問題

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「勇気」への問い―プラトン『プロタゴラス』篇の問題
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Title
「勇気」への問い―プラトン『プロタゴラス』篇の問題
Author(s)
吉田, 雅章
Citation
長崎大学教養部創立30周年記念論文集, pp. 341-366, 1995
Issue Date
1995-03-27
URL
http://hdl.handle.net/10069/21923
Right
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長崎大学教養部創立30周年記念論文集 341−366(1995年3月)
「勇気」への問い
プラトン『プロタゴラス』篇の問題
吉 田 雅 章
Socrates on Courage in Plato,s乃ro砲8roz25
Masaaki YosHIDA
要
旨
プラトンの『プロタゴラス』篇は、古来そのすぐれた劇的描写力によって名作の誉れ高
い対話篇であるが、その哲学的内容に関しては、さまざまな議論を呼び起こしてきた。と
りわけ、対話篇の最後に位置している、「勇気と智慧」の関係をめぐって提出される「快楽
う
主義」は、彼の他の対話篇に見られる「快楽主義」排斥の主張と相容れないものとして、
現在も論争の的となっている。そこで、二二よりも必要なのはテキストの正確な読みに基
づく本対話篇の理解であろう。本論は『プロタゴラス』篇の「勇気と智慧」をめぐる議論
を読み解くための序論的考察である。第1節では、先ず「勇気をめぐる第1の議論」に対
してさまざまな形で浴びせかけられた批判をテキストの読みから郁け、この議論の基本的
な構成がプロタゴラス(そして「多くの人びと」)の「勇気」の信念をより明確にするため
のものであることを明らかにし、第2節では、こうした諸家の批判の発端となったと思わ
れる、対話相手プロタゴラスの反論の語るところを詳細に検討し、それがソクラテスの議
論の誤解に基づいていることを明らかにする。第3節では、プロタゴラスの「勇気は魂の
生まれつきとその善き養いから生じる」という主張が「勇気」から知的要素を剥ぎ取るも
のであり、それは’「勇気」を何か不可知なものとしてしまう点を指摘し、第4節では、プ
ロタゴラスの「勇気」の信念の真偽が「美醜」という観点から問われており、その「美醜」
こそが情念に翻弄される人のあり方から、徳(アレテー)へと人のあり方を拓いて行く最
も重要な観点であり、そして「美」への顧慮がないとき、「善悪」は結局「快苦」としてし
か把握され得ないことを示し、第5節では前節を受けて、現象(情念)の持つ力を奪うの
は、情念に拘束されているあり方そのものを「美しいのか、醜いのか」と問うことによる
のであり、そう問える力は、無知に気づくことによって生み出されることを指摘する。
キーワード:勇気、知、快苦、善悪、美醜、情念
342
はじめに
0.1本論考で取り上げようとするのは、『プロタゴラス』篇の「アレテーはひとつで
あるか」という問い(アレテーの一性の問題)を中心とする議論の中で、「勇気」をめ
ぐる議論の箇所である。この議論に比べれば、これに先行する「正義と斜度」の関係
の議論、「知と思慮(節制)」の関係の議論、或いは中途で立ち消えになる「正義と思
慮(節制)」の関係の議論は、それ自身としてよりは、むしろ「勇気というアレテー」
を主題化しゆくための準備段階として語られているように思われる(1)。「勇気」をめぐ
るこの議論は大別すれば、三つの議論に分かたれ(1.349E1−351B2,2.351B3−359A1,
3.359A2−360E5)、この内、この第2番目の議論が、第1番目と3番目の「勇気」.をめ
ぐるふたつの議論の橋渡しをする構成を取っているが、この第2番目の議論の中には、
快と善の同一説、いわゆるアクラシアの否定、快苦の計量術としてのメトレーティケ
ー・
eクネー、心理的快楽主義などの問題が含まれおり、この箇所をめぐってこれま
でさまざまな解釈が輩出している。この第2番目(橋渡し)の議論をどう読み解いて
行くかに、『プロタゴラス』篇理解のひとつの大きな鍵があることは間違いがないであ
ろ.う。
0.2 しかし、この議論をめぐり、諸家によって展開される論争は、まったく反対の評
価が与えられるほど、異論の多い箇所でもある。テキストそのものが何か巧妙で、し
かも錯綜した構成を持ち、またソクラテスによる「快楽主義」の導入など、他の対話
篇と齪齪すると見られる主張も含まれているのである。したがって、この箇所を読み
解いて行くには、そうした錯綜した複雑な議論の展開を詳細にわたって検討すること
が必要と思われるが、同時にそうした作業はまた、この対話篇のこの箇所が、そもそ
も何を問題にしているかという、その基本的な枠組を看取した上のことでなければな
らない。本論考は、その基本的な枠組を取り出し、『プロタゴラス』篇を読み解いて行
くための序論的考察であるが、.ここでは、「勇気」と「智慧」との関係が直接に問題に
なっているふたつの箇所(349E1−350B2,359A2−360E5)を中心に取り上げ、このふたつ
の「勇気をめぐる議論」の橋渡しをする箇所は、いくらの点について触れるだけに留
め、その詳細を検討することは別稿に委ねることにしたい。それは、紙幅が膨大にな
るということもさりながら、その橋渡しをする議論の箇所を読み解いて行くには、こ
こで「勇気」が主題化された際の、その最も根底にある問題が何であるかを明らかに
しなければならないと考えるからである。以下、1∼3節において、「勇気をめぐる第
1の議論」を取り上げ、4∼5節では「勇気をめぐる第2の議論」を検討することに
する。
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
343
1
1.1「勇気をめぐる第1の議論」(349E1−350C5)、ならびにそれに加えられたプロタゴ
ラスの反論(350C6−351B2)について、検討の対象として取り上げなければならないこ
とは、大別して次のふたつのことであると思われる。先ずひとつは、(1)この箇所の議
論の持つ意義、即ち、プラトンは何をめざしてこの議論を展開しているのか、その基
本的な狙いは何かという問題であり、そしてもうひとつは、(2)この議論の有効性に関
わる様々な問題、即ち、プロタゴラス自らが異議を申し立て、またそれを手がかりと
して諸家が持ち出した、ソクラテスの論証の論理的な誤りに関わる諸問題をどのよう
に考え、そしてどのような回答を与えるべきかという問題である。
このふたつの問題のうち、(1)の問題についてなら、人はそれに答えることは別段難
しいことではないと考えるかも知れない。即ち、[P1]:「勇気は他の四つのアレテー
とは著しく異なる」という主張の根拠づけとして、プロタゴラスが持ち出した[P2]:
「まったく無知でありながら、きわだって勇気ある人がいる」という証拠に対して、
「智慧が勇気である」ことを示すことであった、と。しかしそのことは、ソクラテス
がプロタゴラスの立場を論難し、自らの教説として「智慧が勇気である」ということ
を主張しようとしているのだとの理解に立つものであるのなら、私はそれに従うこと
はできないと思う。プロタゴラスのソクラテスに対する異議申し立ての箇所も考慮に
入れるとき、私には、ソクラテス(プラトン)がプロタゴラスの主張に対抗して、「智
慧が勇気である」ことを自らの主張として論証しようとしているのだとは思えない。
だが、これまで現れたこの箇所に関するさまざまな注釈の多くは、このソクラテス
(プラトン)の議論の意図をそのようなものと暗々裡に前提した上で、果たしてその
論証が「智慧が勇気である」という結論を支えるに十分なものであるかどうかという、
(2>の問題に集中し、その論理的欠陥を声高に指摘するが、ソクラテスがこうした議論
を展開した真の狙いが顧みられることは極めて少ないのである(2)。勿論、この箇所の議
論の意義を見定めて行くには、この議論の有効性に関する問題を無視して通るわけに
は行かない。そこで、本節では、議論の有効性をめぐる疑義を検討するとともに、ソ
クラテスの展開した議論とこれに対して異議申し立てを行ったプロタゴラスの反論の
もっている意義を明らかにするために、ソクラテスの議論の構成を確認しておきたい。
1.2そこで、先ず簡単に、これからの検討の便宜のために、ソクラテスの議論の概要
を次のようにまとめておく。
[A1]:「勇気ある人は大胆である(3)」
[A2]:「しかも(勇気ある人は)多くの人びとが恐れて向かおうとしない事柄へ突き
344
進む人でもある」
[B] 「徳は全体として美しい(したがって、勇気も美しい)」
[C1] 「知識のある人びと(潜水夫、騎馬術を持つ人、楯兵)は大胆である」
[C2] 「彼らが大胆であるのは、知っているからであり、それ以外の理由からではな
い」
[C3] 「すべての事柄について、知識のある人は、知識のない人より大胆であり、そ
れぞれの人においても学べば、学ぶ前に比べて、大胆となる」
[D1] 「それらのすべてについて知識がないのに、そのおのおのに対して(あまりに
も)大胆である人がいる」
[D2] 「そのような大胆である人は、勇気があるのではない」
[D3] 「(もしそうなら)勇気はみっともない(醜い)ことになる。その人びとは気が
狂っているのだから」
[E] 「勇気ある人は大胆な人である」
[F1] 「そのような仕方で大胆な人は勇気があるのではなく、気が狂っているという
ことは明らかである」
[F2] 「逆にかの場合には、この最も智慧ある人はまた最も大胆であり、大胆であっ
て最も勇気がある」
[F3] 「このロゴスに従えば、智慧が勇気である」
1.3 このように構成された議論に対して、前述のように、その有効性をめぐり、さま
ざまな議論が繰り広げられている。その場合、この議論の論理的な欠陥として指摘さ
れるのは、次の点である。プロタゴラスの当初の主張は、[P2]:「智慧がないのに、
きわだって勇気ある人がいる」ということであったから、これを反駁するには、「勇気
は智慧である」を示せばよいが、これに代えてソクラテスは、[F3]:「智慧が勇気で
ある」ということを示そうとしている。即ち、「智慧」が勇気の必要条件であるばかり
ではなく、「智慧」が勇気の十分条件であることを示そうとした点に、この論証の最大
の過誤があるというのが、この議論の最も標準的な理解である。
さらに、プロタゴラスに同情的な人は、プロタゴラスの「勇気ある人が大胆である
ことには同意したが、大胆な人が勇気があるということには同意しなかった」(350C6
−9)という言葉を手がかりに、ソクラテスが「不当な換位(illicit conversion)」、ない
し「勇気ある人と大胆な人は同延である(coextensive)」と看倣す誤りを、[E]と[F2]
において犯していると指摘し、またプロタゴラスの反論に対してソクラテスがそ知ら
ぬ顔で答えず、まったく新しい議論へと移行することをもって、ソクラテスの論証に
論理的な誤りがあったと想定する(4)。一方、ソクラテスの議論に好意的な人は、ソクラ
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
345
テスが[D1, D2, D3]、[F1]で「すべて大胆な人が勇気あるのではない」を示すのに
腐心している以上は、申し立てられるような「不当な換位」を犯していないことは認
めるものの、ソクラテスの推論からは、「勇気は智慧である」(智慧は勇気の必要条件)
なら、論理的な過誤を犯さずに安全に導くことができても、しかし「智慧が勇気であ
る」(智慧は勇気の十分条件)ということは導出できないと考えて、その点をこの推論
の弱点として挙げつらい、ソクラテスがこれを導出した事情をいろいろと憶測する(5)。
以下において先ず、こうした論理的な誤りを見ようとする諸家の見解の主要なもの
を取り上げ、その申し立てが正当なものではないことを示し、次にこの議論の構成を
より明瞭に確認する作業を試みることにしたいが、こうした問題に対して、最も適切
な回答を与えているのはWeiss(6)である。少なくともソクラテスの議論の中に、諸家の
申し立てる論理的欠陥はないことを明らかにしている点で、彼女の見解は至当である
と思われる。以下、彼女の検討を参考にして、上記に指摘した問題を見ておく。
1.4先ず注目しなければならないのは、この議論で用いられている「知識ある人一智
慧ある人一智慧(0ε6π乙σ吻μ0レεザ〇三σ0φ0乏一方σ0φ乏α)」という言葉が何を指してい
るかということである。ソクラテスが「知識(智慧)」と「大胆さ」を結びつけて行く
際[C1]に、その「知識」とは、いわゆる「技術知」の領域に限定されている。しか
も、彼が掲げた三つの事例はすべて、それを行うことが「危険を孕み、危険が予想さ
れる」行為であるから、ソクラテスは先ずその行為の遂行が「危険を孕む」ような行
為の領域に限定して、そこではそれぞれの事柄について「知識を持つ人」が大胆に振
舞うのではないかと問うたのである。したがって、Weissが言うように(7)、結語の
[F3]:「智慧が勇気である」を、このようなコンテキストから切り離した上で、あた
かも「すべて智慧ある人(知識ある人)は勇気がある」を意味しているかのように理
解するのは厳に慎まなければならない。取り上げられた智慧への領域の限定は、続く
[D1]においても付けられており(π如τωレτo物ωレ,翫αστατo物ωy,350B2−3)、
さらに[D2, D3]、[F1, F2]における。δτo乙という指示語は、明らかに、智慧の領
域限定をも含んでいる。ここで取り上げられた「智慧」が、以上のように、「危険を孕
む」行為についての知識(技術知)であるという点は、この議論全体の意味を見定め
る場合に、ひとつの重要なポイントとなる。
さらにこれと並んで重要なのは、[C2]に見られるように、この場合の「知識ある人
が大胆である」その原因ないし理由が、まさに「知っていることによるのか、別の理
由によるのか」(π6τερoレδ乙6τ乙翻σταレτα一分δ♂左λλoτ乙,350A1)が問われ、「知
っていることによる」とのプロタゴラスの同意を得ているという点である。
次に、ソクラテスが「不当な換位」を行っているのではないかと疑いの目が向けら
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れた箇所[E]と[F2]に関するWeissの指摘も極めて適切で:ある。彼女は、(1>
θαρραλεo町に冠詞が付されたとしても、[E]「勇気ある人は大胆な人である」を必ず
しも「勇気ある人と大胆である人との同一」を表す表現と理解する必要はなく、もし
ギリシア語の用法が、単なる述語づけの場合にあっては、冠詞の使用を明らかに禁じ
ているのなら、プロタゴラスが蹟いて[E]に同意した理由が分からなくなると、先ず
指摘する(8)。次に、(2)プロタゴラスのソクラテスへの反論の最初の箇所で、プロタゴラ
スは「勇気ある人と大胆な人が同一であるかどうか」とソクラテスに尋ねられたとさ
え考えていないという点を指摘し、そして最後に、(3)ソクラテスが犯したと看倣され
ている[F2]における「不当な換位」については、一そしてこれが最も重要である
と思われるのであるが一κα≧翫ε2αδという言葉に注目して、「大胆な人」が、「知識
を持っていて、大胆である」場合と「知識を欠いているにもかかわらず、大胆である」
に二分されるとき、この「知識を持っていて大胆である人」についてのみ、「大胆な人
は勇気がある」,と言えるという点を指摘して、[F2]の「大胆な人は勇気がある」にま
つわる困難を除去するのである(9)。
以上の諸点が明らかになるとき、ソクラテスが示そうとしていたのは、まさしく「智
慧が勇気である」ということであったと言えよう。即ち、「危険を孕む事柄について知
識を持っている人が大胆である」その理由は、まさに「知っていることによる」ので
あり、しかも、「知識を持たない人」の大胆さは勇敢ではなく、気が狂っているが故の
「大胆さ」であるのなら、「知識を持っていて大胆である人」の「大胆さ」がそれに基
づくその智慧こそ勇気であると三三すのに何の差し障りもないであろう。ソクラテス
は、その論の運びにおいて、論理的過誤の諦りを受けるいわれはない。
1.5だが、何故ソクラテスはこのような議論を展開したのか。それはかのプロタゴラ
スの言葉を反駁し、そして「智慧こそが勇気である」ということを自らの主張として
プロタゴラスに示すためのものであったのか、それとも別の狙いがあるのか。次にそ
の点を中心にして、この「第1の議論」の構成を整理して見ておこう。
そもそもソクラテスがこの議論の締めくくりにおいて「智慧は勇気である」という
結論を導いて来たとき、前述のように、その「智慧」とは、それに対する知識を持た
ない人が立ち向かえば、「危険を招来するような事柄のおのおの」について知識を持
ち、そのおのおのについて知識を持っているが故に「その危険を回避できる」ような
そういう知識、即ち「如何にすれば、危険が避けられるか」の智慧であった。では、
何故そのような智慧がここで取り上げられたのか。即ち、ソクラテスが「勇気」と「知
識」の関係をつけて行く場面が、何故そのような特定の領域における技術知であった
のだろうか。
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
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一体「大胆さ」(θαρσ6⊂)が発揮され、また逆に恐れ(φ6βoT)が生じる、最も一般的
な場面は、その行為の遂行が「危険を孕んでいる」場合であろう6ソクラテスの問い
に対して、プロタゴラスが承認した[A1]の「勇気ある人は大胆である」と、これに
彼が進んで付け加えた[A2]の「しかも多くの人びとが向かうのを恐れる事柄に突き
進む人でもある」との応答は、当然ながら、同じ事柄について「それに突き進む人」
と「それを恐れて向かわない人」の存在を示しているが、こうした違いが生じる場合
としてソクラテスが取り上げているのが、「危険を孕み、危険が予想される行為」につ
いて知識を持っているか否かという区別である。その場合、知っている人は「どうず
れば危険を避けられるか、危険を招かないで済むか」を知っているが故に、そうした
事柄へ大胆に向かって行くが、知らない人は「どうずれば、危険を回避できるか」の
知を有していないが故に、それを恐れて向かわないのである。
したがって、このような智慧がここで取り上げられたのは、プ馬丁ゴラスの[A1]
と[A2]の言葉(信念・思い)がそこに目を向けて語られ、或いはそこから繰り出さ
れてくる場面(それは同時に、その言葉を根拠づけ得る場面でもあろう)、即ち勇気あ
る人が「大胆であり、多くの人びとが恐れて向かわないものに向かう」のは、彼らが
「如何にすれば、危険を回避することができるか」の知識を持っているからに他なら
ないと、こう語れる場面の「ひとつの候補」として示すためのものであったと言えよ
う。
しかしそのことが果たされるには、もうひとつの点に関してプ三三ゴラスの信念・
思いを確かめ、障害を取り除くことが必要であった。というのは、それらの「危険を
孕む」事柄のおのおのについて、知識を持たないにもかかわらず「大胆さ」を発揮す
る場合があるから、このような場合の「大胆さ」は勇気であるとプロタゴラスが考え
ていないことを確かめておく必要がある。プロタゴラスが「アレテーは全体として美
しい(したがって勇気も美しい)」という信念[B]によって、これを否定するとき、
先の勇気ある人が「大胆であり、多くの人びとが恐れて向かわないものに向かう」の
は、彼らが「如何にすれば、危険を回避することができるか」の知識を持っているか
らに他ならないということ、つまり、「勇気ある人が大胆に振舞う」その根拠として、
「如何にすれば、危険を回避することができるか」の知識が指定され、まさしく「勇
気ある人」をそれたらしめているものとして、その智慧がその候補として自ずと帰結
することになる。それが、[F3]:「最も智慧ある人こそが、(その智慧の故に)大胆で
あって勇気がある」の語るところであろう。
このような仕方で見てきたとき、この第1の議論は、ソクラテスがプロタゴラスの
見解に対して、これを反駁し、自説を展開する論証ではなく、むしろ彼の議論はプロ
タゴラスの[A1, A2]の言葉(信念)を出発点として、それが成り立ちうる場面のひ
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とつを候補として指し示し、それが[A1, A2]の言葉が語られうる場面であると言え
るためのひとつの障害を、プロタゴラスのもうひとつの言葉である[B]によって取り
除くことで、プロタゴラスの[A1]と[A2]の言葉の出てくるところを確定しようと
する試みであったと言えよう。そしてこの点に関しては、さらに家のことに注意して
おくべきである。この第1の議論では、[A1, A2]のプロタゴラスの信念は、その議
論の出発点となっているのであって、その信念そのものの真偽は未だ問われていない
し、論駁の対象ともされていない。しかしそれがプラトンにとってその真偽を問われ
なければならないものであることは、「勇気をめぐる第2の議論」(359A2−360E5)で明
らかとなる。そして第2の議論で問われるのは、この[A1, A2]と[B]のふたつの
信念の矛盾をめぐってである。
2
2.1さて、これまで見てきたように、ソクラテスの議論が申し立てられたような論理
的誤りを含んでいないばかりか、プロタゴラスに対する反駁や自説の論証でもないと
すれば、何故プロタゴラスは、ソクラテスに異議申し立てを行い、彼の議論が論理的
な誤りを含んでいると考えたのであろうか。また何処に、どのような論理的な過誤が
あると考えて、ソクラテスを論難したのか。先ず、その問題を考えてみることで、プ
ロタゴラスにそうした反論を語らせた、プラトンは狙いが何であったのかを見て行く
手がかりを得よう。
我々は、諸家の異議申し立てに対して、Weissの見解を参考にすることで大いに得
るところがあったが、しかしでは彼女は、プロタゴラスが何処にその論理的誤りを見
ていると考えるのか。その箇所はソクラテスが、その結語直前に語る[F2]:「最も智
慧ある人びとは最も大胆で、最も大胆であれば(あるからには)最も勇気がある」と
いう言葉にあると、彼女は語る(10)。しかし、これは正しいのであろうか。その点を検
討するためには、プロタゴラスの異議申し立ての言葉を詳細に検討してみることが必
要である。しかもそれを検討することによって、これまで申し立てられてきた諸家に
よるソクラテスの議論の論理的過誤に関して、これを読み誤りとして卸け、そしてこ
の箇所の持つ議論の意義を明らかにするに、一層強固な立場を確立することが可能に
なると思う。
2.2先ず最初に、プロタゴラスの反論の前半部分(350C6−D2)に注目しよう。彼の反論
は、自分が言ったことをソクラテスがよく記憶していないという指摘で始まり、そう
語る理由を先ず、(a)「あなたに、[A1]勇気ある人びとは大胆であるかと尋ねられた
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
349
ので、同意したが、また[C−A1]大胆な人びとは勇気があるかとは尋ねられなかっ
た。だってもしそのとき、そう尋ねられていたなら、すべてがそうではないと言って
いたであろう」と指摘する。諸家のソクラテスに対する論理的誤りの申し立てばここ
に由来し、諸家の目もここに集中しているが、しかし、プロタゴラスはこれにすぐ続
けて、(b)「勇気ある人は大胆なのではない、つまり、私の同意(即ち、・[A1]:「勇気
ある人は大胆である」)が正しく同意されなかったということを君は何処においても明
示してみせなかった(o硲αμ00枷εδε乙ξα《,350D2)」と語り、ソクラテスの論証が成
立していないと主張する。先ず我々が注目しなければならないのは、彼のこの後者の
箇所の主張である(11)。というのは、プロタゴラスのこの言葉はソクラテスの議論が、
自分の最初の「勇気ある人は大胆である」という同意を反駁するためのものであった
とプロタゴラスに受け取られているということを明らかに語っているからである。即
ちプロタゴラスは、この議論が彼の「勇気ある人は大胆である」という同意を間違っ
た同意として、これを反駁し覆して、「勇気ある人は大胆なのではない」ということを
示すために組み立てられたソクラテスの論証であり、しかもその論証は成立していな
いと受け止めていることになる。
だが、[A1]:「勇気ある人は大胆である」を否定し、「勇気ある人は大胆なのではな
い」を論証することがソクラテスの狙いではないことは、少なくともこの議論の箇所
に関するかぎりは、既に明らかである。では、何故プロタゴラスは、ソクラテスの議
論がそのような論証に狙いを定めたものであると受け取ったのであろうか。
その手がかりは、ソクラテスの議論の内の、次の箇所に求められるであろう。既に
見たように、350B1から始まるソクラテスの議論は、「危険を孕む様々な事柄について
知識がないのに、大胆である人は勇気あるのではない」という点の同意を取り付ける
ことにあった。それは、一般的な言い方にすれば、当然「すべて大胆な人が勇気ある
のではない」と承認することに他ならないであろう。そしてこの承認はソクラテスに
とっては、「智慧が勇気である」という結論に導く重要なステップを成すものであっ
た。だがもしプロタゴラスにとって、それが結論へのひとつのステップではなく、そ
れ自身が彼のかの同意に対するソクラテスめ反駁の結論と見られているとすればどう
であろうか。私には、先の(b)の言葉に定位するとき、プロタゴラスの異議申し立ての
ひとつは、実はこの点にあるように思われる。それはどういうことなのか、もう少し
説明を要するであろう。
ソクラテスの議論が、仮に、プロタゴラスの同意である[A1]:「勇気ある人は大胆
である」を否定する意図の下に構成されているとするなら、これを遂行する最も簡単
な方法のひとつは、当然「勇気ある人の内の或る人は、大胆でない」ということを示
すことであろう。しかるに、ソクラテスが実際の議論の中で専念していたのは、[F1];
350
「大胆である人の早る者は勇気があるのではない」ということを示し、同意を取り付
けることであった。即ち、それは[C−A1]:「大胆である人は勇気がある」を否定す
るものではあっても、[A1]:「勇気ある人は大胆である」を否定するものではない。
しかし先に見たように、もしプロタゴラスが、[F1]:「大胆な人はすべて勇気あるの
ではない」というソクラテスの議論のひとつのステップを、彼の同意への反駁と捉え
ているのだとすれば、それがそれへ反駁であるとされるその同意は、[C−A1]の「大
胆な人は勇気がある」でなければならないだろうし、プロタゴラスは彼の[A1]の同
意を、ソクラテスが[C−A1]として取り違えた、と受け止めていることになるのでは
ないだろうか。
そうだとすれば、以上の検討からするとき、プロタゴラスの異議申し立てば、次の
ようになると思われる。もし仮に、自分の同意が、[C−A1]:「大胆な人は勇気がある」
というのであったならば、ソクラテスは「すべて大胆な人が勇気あるのではない」と
いうことを示すことで、自分の同意[C−A1]が正しくなかったと反駁したことになる
が、しかし自分は[C−A1]:「大胆な人は勇気がある」ということに同意したのでは
なく、[A1]:「勇気がある人は大胆である」ということに同意したのだから、ソクラ
テスの反駁は無効である、と。ソクラテスはあたかも自分が[C−A1]:「大胆な人は
勇気がある」と同意したかのごとく錯覚した上で、この同意を反駁したと考えている
が、それは自分が同意した[A1]への反駁とはならない。プロタゴラスによって気ソ
クラテスの議論はこのように受け止められていたのである(12)。だが、勿論言うまでも
なく、ソクラテスはプロタゴラスが述べた通りに[A1]を[A1]として受け止めてい
たのであり、決してそれを[C−A1]と錯覚し取り違えてはいない。’むしろソクラテス
がそう錯覚したと考えたのは、プロタゴラスの側の錯覚であり、その異議申し立てが
有効でないことは、これまで述べてきたところがら十分明らかである。
2.3 さてしかしでは、次に、プロタゴラスの反論の中で、後半部分(350D2−351B2)に
述べられることは、どのような意味を持っているか。私は既に、ソクラテスの議論の
締めくくりの部分(即ち、[F1, F2, F3])の3つの文章のうち、第1の文章[F1]:
「勇気がある人は大胆である」は、プ亡君ゴラスには、彼の同意への反駁と捉えられ
ているのを見た。そして第2、第3の文章[F2, F3]は、ソクラテスが彼の同意に対
して反駁を加えた後に、今度はそれに代えて、ソクラテスが積極的な自己の主張を行
うものとして、プロタゴラスによって見られていたと思われる。そしてそのソクラテ
スの主張は、先に見たように、ソクラテスがプロタゴラスの同意[A1]を[C−A1]と
錯覚しているかぎりで、無効であるとプロタゴラスは主張するのである。プロタゴラ
スがソクラテスのものとパラレルな偽推論として提示した事例においても、これまで
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
351
私が述べてきた仕方で理解することを要求していると思われる。
今プ三崎ゴラスの取り上げたパラレルな議論をソクラテスの議論に対応させると、
[a1]:「強壮な人は能力がある」
[c3]:「知っている人は能力がある」
[f3]:「智慧が強壮さである」
となるが、勿論[a1]と[c3]から、[f3]を導くことはできない。これが可能なの
は、[a1]を[c−a1]:「能力ある人は強壮である」に換位する場合であるから、もし
人が[a1]をあたかも[c−a1]であるかのように取り違え、或いは[a1]と[c−a1]
は等価であると思い違いしていた場合に、人はそこから[f3]の結論を導くことになる
のである。プロタゴラスの主張のポイントはまさにそこにある。だからこそ、彼はこ
れに引き続いて、[a1]と[c−a1]、さらに[A1]と[C−A1]が同じではないことを強
調することになる。それは、プ串本ゴラスが、ソクラテスは両者を取り違え、思い違
えていると看尽しているからであり、彼の反論の前半部分で指摘した点を、より具体
的にソクラテスに教示しようとするものであったろう。
ここで人は、このプ七言ゴラスのパラレルな議論からは、ソクラテスの[B]と
[D1, D2, D3]に該当する部分が欠落していることに容易に気づくであろう。何故こ
の部分がプ上塗ゴラスのパラレルな議論から消し去られているかと言えば、先に述べ
たように、その部分は[A1]に対するソクラテスの反駁部分であるとプロタゴラスに
よって看倣され、二方[C1, C2, C3]、[F2,『F3]の線がソクラテスの積極的な論証部
分と彼によって見られていたからに他ならない(13)。
だが、プロタゴラスの反論の後半部分で、刮目すべきは勇気の起源に関する彼の主
張である。プロタゴラスの反論の前半と後半を通じての強調点は、今見てきたように、
[A1]と[C−A1]が同じではないという点にあるが、彼は同じではないというその理
由を、丁度、能力と強壮さとが同じではなく、能力は知識からも、狂気や激情からさ
えも生まれるが、強壮さは身体の生まれつきとよき養い(鍛錬)から生じるように、
「大胆さ」は技術知からも、激情や気狂いからさえ生まれるが、勇気は「魂の生まれ
つきとよき養い(凌πδφむσεω丁παZεむηoφZα丁τ6レψ〃κ伽、351B2)」から生まれ
ると語る。
少なくともここでプロタゴラスは、ソクラテスが「勇気」の候補として掲げてみせ
た「如何に危険を回避するか」の技術知については、それが「勇気」であることを否
定する。彼にとってそのような技術知は、勇気と並び、或いは気狂いや激情とさえ並
んで、「大胆さ」の由来するところではあっても、勇気の由来ではない(14)。それを否定
した上で、勇気は「魂の生まれつきとよき養い」から生まれると語るとき、それはこ
の第1の議論とそれへの反論の全体にとってどれほどのこと’を意味するのか。この点
352
の検討は次節に譲るとして、ここではさらに次のことを確認しておきたい。
2.4 これまで見てきたように、プロタゴラスの異議申し立てが決して正当化できない
とすると、先のソクラテスの議論に、一そこには論理的な誤りは含まれておらず、
またその議論のすべてのステップにプロタゴラスは同意し、さらにプロタゴラスのそ
れに対する異議申し立てば彼の誤解によるものであった一なお、プロタゴラスが言
うような、技術知を「勇気」の候補から外し、「魂の生まれつきとそのよき養い」を勇
気とするような余地が含まれていたのであろうか。踊る意味ではその余地が残されて
いたと言える。
Cobbは、先の[D1](さらに[D2, D3]と[F1])をめぐって、「知識を欠いてい
ながら、大胆である人」とは、「知識を欠いていながら、大胆である人すべて」ではな
く、そうした人びとの中の「或る人」を指しており、プロタゴラスはそれに同意した
のだと指摘する(15)。この可能性は確かに認められてよいと思う。それはテキスト上、
「大胆である人すべて」についてとも、「大胆である人々の或る人」についてとも、ど
ちらにも解し得るように思われ、どちらであるとの決定的な決め手は見いだせないの
ではないだろうか(16)。確かに前節では、我々はこの箇所が「大胆な人」を「知識を持
つ場合」と「知識を持たない場合」の二分法で考えられていると解したが、もしソク
ラテスがそこにかぶせようとしたこの二分法が破けているのなら、つまり「知識を欠
いていながら、大胆である或る人」は気が狂っており、そういう大胆さは醜いという
ことにのみプロタゴラスが同意したのだと理解するなら、プロタゴラスはこの二分法
の網の破けをかいくぐって、なお、「知識を欠いていながら、大胆であって勇気ある人」
の存在を主張しえたことになる。’しかしその場合、問題になるのは、何故ソクラテス
の議論がそうした逃げ道を塞ぎきれなかったかということではない。むしろ考えてみ
なければならないのは、どちらとも解しうるような曖昧な表現によって、そういう隆
路の逃げ道を用意し、プロタゴラスに「勇気は魂の生まれつきとそのよき養いから生
まれる」と主張させた、プラトンの狙いは何かということであろう。
3
3.1前節での検討の結果、プロタゴラスの反論の意味について、我々が今手にしてい
るのは先ず、(1)プロタゴラス自身は、ソクラテスが自らの言説を反駁しているのだと
捉え、その論証の不当性を唱えるが、それはそもそも彼自身のソクラテスの議論に対
する誤解に他ならないということであり、しかしそれにもかかわらず、②プロタゴラ
スの「勇気の起源」をめぐる主張は、彼の同意やそれを前提とする対話の歩みとも矛
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
353
謝することなく主張し得るものであるということである。
プラトンはこのような手の込んだ仕掛けを用意することで、一体何を取り出そうと
しているのであろうか。予見を含んで述べれば、私には、「勇気」を完壁な仕方で「智
慧」から孤立させることによって、「勇気」には全く関わらないとされた、プロタゴラ
スの「智慧」の観念を逆に主題化することにあったと思われる。彼の「智慧」の主題
化にもひとつの別の仕掛けが用意されるのだが(17)、それによって彼の智慧の成立する
場と智慧の実体を暴き出し、それとプロタゴラスの「勇気」をめぐる信念・言説をつ
き合わせることで、「勇気というアレテーの成立」に抜き差しならない仕方で関わって
いる我々の「知と無知」をめぐる測位を描こうとしたのだと思われる。こう述べた部
分のいくつかは、既にこの論考の範囲を超えるものであり、また「勇気をめぐる第2
の議論」で確かめなければならないことを含んでいるので、今はこの最初の部分、即
ち、プラトンの狙いが「勇気」を完壁に「智慧」から孤立させることにあった点を確
認しておこう。
3.2プ誤配ゴラスが、勇気は「魂の生まれつきとその善き養い」から生まれると言う
場合、彼はこの「魂の善き養い」がどのような営みであるかを説明していない。彼の
言う「魂の善き養い」の中にはなんらかの知的な要素が含まれているのか、それとも
訓練を積むことで得られる、危険に遭遇した際のなんらかの忍耐力の如きものが考え
られているのであろうか。
プロタゴラスの[P1]:「勇気は、智慧その他のアレテーからは著しく異なる」とい
うことの証拠として述べられた[P2]:「極めて無知でありながら、際だって勇気ある
人は多い」という言葉は、言うまでもなく、「勇気というアレテー」がなんら知的要素
とは関わりなく成立することを述べたものと解されるが、プロタゴラスにあっては、
彼の教えるという「教養(パイデイア)やアレテー」は、常に諸々の技術知からは区
別されるものとして考えられているから、ここで言う「智慧や無知」は、彼が教える
というアレテーの場面で語られているものであろう。ソクラテスが[A1]に定位し
て、そこから、「智慧を勇気の候補として示した」[F3]とき、ともかくも、プ兀立ゴ
ラスは「危険を回避する」の知(智慧)が勇気であることを否定し、「勇気」の起源を
・「魂の生まれつきとその善き養い」に求めた。彼はそれによって当初の信念・思いを
堅持し、すべてを無疵のままに保全しえたかに見える。即ち、彼の立場は「無知であ
るにもかかわらず、大胆であって勇気がある人がいる」のであって、その勇気は技術
知からではなく、「魂の生まれつきとその善き養い」から生み出されるということにな
る。しかし、そのときプロタゴラスは、「勇気」から徹底して知的な要素を排除したこ
とを知らねばならない。というのは、「如何にすれば、危険が回避できるか」の知も、
354
また彼が教えると考えたそれとは異なる知も、勇気からは排除されているからである。
ここから考える場合、彼の言う「魂の善き養い」のうちに、何か知的な要素が残され
ているとは考えられないのである。プラトンが、先に見たように、隆路の逃げ道を準
備して、それを通して、プ一重ゴラスに「勇気が魂の生まれつきとその善き養い」か
ら生まれると主張させたのは、それによって、プロタゴラスの「勇気」をめぐる信念
から、徹底してこの知的な要素を排除させることにあったと思われる。
3.3だが、一層重要なのは、次の点であろう。一体勇気が「生まれつき・素質」から
出てくると考えることは何を意味するのか。というのは、もしそうだとすれば、例え
ば我々が誰かについて「勇気がある人」とか、終る人の行為について「勇気ある行為
である」と捉える場合、その把握はその人の「生まれつき・素質」に目を向け、それ
に基づいていなければならないであろう。だが、それに目を向け、それに基づいて、
「勇気がある」という把握が成り立つそのような「生まれつきや素質」とは我々にと
って可知なるものであるのか。そうではあるまい。勇気を「生まれつき・素質」から
出てくると考えることは、むしろ全く逆に、「勇気」を我々の決して知り得ない何かに
基づかせることに他ならないのである。それは「勇気がある」という把握が、一体何
処で成立しているかを語り得ないばかりか、そもそも「勇気がある」という把握を極
めて恣意的なものとしてしまうであろう。むしろそのとき我々はそういう説明によっ
て、逆に人や行為について「勇気がある」ということを捉える場所を失うことにな
る(18)。そしてそうであれば、そういう「生まれつきや素質」の把握の上に立てられ
る、「その善き養い」という言葉も最早、実質的な意味を持たない。「生まれつき・素
質」が我々にとって不可知なものであれば、それを善’く養い育てると言ってもくそれ
は全く意味を成さないだろう。「勇気が魂の生まれつきとその善き養育から生まれる」
とは、単なる想定に過ぎないのである。
3.4 さて、これまでの考察をよく顧みてみるとき、我々は次のように言わなければな
らないのではないかと思う。ソクラテスの「勇気をめぐる第1の議論」も、それに異
を唱えたプロタゴラスの反論も、以上に見てきたところはすべて、プロタゴラス(さ
らには「多くの人びと」)に「勇気」がどのように受け止められ、理解されているかを
描くことであり(19)、そしてそれは「勇気への問い」を遂行して行くための素材を整え
ることであったということができよう。その最終的な狙いは、プ乱取ゴラスの「勇気」
をめぐる、こうした一群の信念が、結局は「勇気」が「魂の生まれつきとその善き養
育から由来する」という点た逢着し、そこに根づいていることを確認することであり、
そしてその確認は、前述のように、、我々の知り得ないものへ「勇気」を基づかせるこ
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
355
とに他ならないとプラトンは見ていたと思われる。プロタゴラスは、それによって「勇
気」から徹底して「知的要素」を切り落すことになるが、この切り落された「知」の
検討からプラトンは考察を開始する。それは知の理解(「知る」ということが語られる
場面)の歪みや濁りが、「勇気」の理解(そしてさらに他のアレテーの理解)にも歪み
や濁りを生じているとプラトンは見ていたからだと思われる。
4
4.1「勇気をめぐる第1の議論」から「第2の議論」へ、長い橋渡しの議論が我々の
「善き生」をめぐる「知と無知」の問題として主題化されるが、最初に述べたように、
ここではこの議論の詳細には、立ち入らない。直前に、第1の議論がこの橋渡しの議
論をどう準備しているかを見たが、ここでは「勇気をめぐる第2の議論」(359A2−360
E5)を検討することで、さまざまな議論を呼び起している、この「橋渡しの議論」をど
のような観点から、如何に理解すべきかの手がかりを得たいと思う。
さて第1の議論では議論の対象にはならず、むしろ議論の前提とされた[A1]:「勇
気ある人は大胆である」、加えて[A2]:「多くの人びとが恐れて向かおうとしない事
柄へ突き進む人でもある」という命題が、第2の議論では検討に付されることになる。
即ち、ここで始めて、プ西田ゴラスの、そして「多くの人びと」の「勇気」をめぐる
信念を吟味するという仕方で、「勇気への問い」が遂行されることになる。
4.2 この「勇気をめぐる第2の議論」で、先ずもって問題になるのは、プロタゴラス
の[A1, A2]:「勇気ある人は大胆であり、しかも(勇気ある人は)多くの人びとが
恐れて行こうとしない事柄へ突き進む人でもある」という同意(信念)の意味すると
ころをめぐってである。この同意の中には、当然勇気ある人と臆病な人が「別のもの
に向かう」ということが含意されている。では両者が向かうその「別のもの」とは一
体何か。臆病な人と勇気ある人はそれぞれ、「恐ろしくないものと恐ろしいもの」に向
かうのか。プロタゴラスは、その承認を「多くの人びと」に押し付け、自らは受け入
れを拒む(cf.,359C2−7)。彼の当初の信念[A1, A2]からすれば、彼はこれを認めな
ければならないだろう。しかし既に、「恐れは悪の予期」(358D5−E1)であり、「誰も恐
ろしいと考えているものに自ら進んで向かう者はいない」(358E4−359A1)ということ
を認めているかぎり、プロタゴラスはそれを認めることはできず、臆病な人も勇気あ
る人も、その人が向かおうとし、また向かおうとしないなんらかの行為について、そ
れぞれ「その行為を恐ろしい、恐ろしくない」と看倣し評価している、そのかぎりで
は(τα物〃γε,359D8)、確かに両者とも「同じもの(行為)」へ向かうことを受け入れ
356
なければならない。しかしそれなら、両者の区別はないと言うべきなのか。
人はこう考えるかも知れない。確かに「何であれ、それが恐ろしい」と評価される
かぎりにおいては、勇気ある人も臆病な人も、それには向かわないということは認め
なければならないが、しかし「何を恐ろしい」と評価するのかは、両者によって異な
るのではないか。例えば「戦に赴くこと」を、一方の人は「恐ろしい」と考え、他方
の人は「恐ろしくない」と評価することがあろう。してみれば、何事であれ何か或る
行為を「恐ろしい」と捉えているその評価の場面では、勇気ある人も臆病な人もその
行為に向かうことはないが、「何を恐ろしい、恐ろしくない」と捉えるかは両者で異な
り、同じ行為を「恐ろしい、恐ろしくない」と捉えることもあるのだ、.と。
しかしもし、臆病な人が「恐ろしい」と捉えている、戦争に行くことを「恐ろしく
ない」と勇気ある人が捉えている(恐れない)のだとすれば、「恐ろしくない」と考え
る行為には誰もが向かおうとするわけだから、その人が別段、勇気があるとも言えな
いことになろう。しかも、第1の議論の検討で見たように、技術知を備えた人が「多
くの人びとの恐れて行こうとしない事柄へ突き進む」のは、その知によって「危険を
回避できる」からであり、多くの人びとが恐れる事柄は、彼らにあっては「恐ろしい
こと」とは捉えられていないのである。だから彼らはそれらの事柄に対して大胆に振
舞う。だが、そうした「危険を回避できる」知に基づく大胆さは、プロタゴラスにと
って勇気ではなかった。
以上に見てきたところを整理すると、問題になっているのは、(a)これまでの「ロゴ
スの運び」からすると、勇気ある人は、「臆病な人が向かうのは異なり、恐ろしいと考
える行為に向かう」とすることもできず、しかしまた(b)「プロタゴラス自身の信念」
からすると、「恐ろしくない行為へ向かう」とすることもできないというアポリアであ
り、これがプロタゴラスが3与9C2−E1で直面している問題である。
4.3つき付けられたこのアポリアを前にして、その行為の評価に触れないままに、「一
方は戦に赴くが、一方は赴こうとしない、まさにその点で臆病な人と勇気ある人は正
反対のものに向かう」と当初の主張を繰り返すプロタゴラスに対し、ソクラテスの繰
り出す問いは、このアポリアにひとつの途をつけて行くものとなっている。ソクラテ
スは最早、戦に赴くことを「恐ろしいと考えているか否か」とは問わず、「美しいこと
として行くのか、醜いこととしてか」(359E4−5)と問う。
ここで確認すべきは先ず、人が黙る行為を「恐ろしいか、恐ろしくないか」という
レヴェルでのみ捉えているかぎり、先のアポリアは解決できないであろうということ
である。そのことは、言い換えれば、或る行為を「恐れるか、恐れないか」というこ
とだけを問題にするかぎり、「勇気というアレテー」を問題にできる場面はまだ現れて
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
357
いないということであろう。このソクラテスの問いは、あの「アレテーは美しい」と
いう規定が忘れられ、そのことの持つ意義が十分な仕方で認められないところで、勇
気というアレテーが取り沙汰されていることに対して、殆ど決定的な問いとなる。第
1の議論で、知識を欠きながら大胆である人は「勇気がある」のではないとされるの
も、そうした大胆さは決して美しいとは言えず、醜いものだからであった。そして、
この問いに境にして、「一般的に言えば、勇気ある人びとは、恐れる場合にも、醜い恐
れを恐れることはなく、また醜い大胆さを発揮することもない」(360A8−B2)し、他方
「反対に、臆病な人も大胆な人も気が狂っている人も、醜い恐れを恐れ、醜い大胆さ
を発揮する」(360B4−6)と語られることになる。
ここでは既に、プ繭紬ゴラスの当初の[A1,2]は、否定されることになる。という
のは、勇気ある人も、臆病な人も、行為に際して「恐れる」ことも、「恐れない」こと
もあるからである。そして勿論注目すべきは、その否定がどこで可能となり、何を意
味するかであろう。例えば、勇気ある人は「恐れる場合も、醜い恐れを恐れることは
ない」と言われるが、これは「何か軋ることを恐れる場合、それを恐れることが醜い
のであれば、それを恐れない」ということであり、他方臆病な人について「醜い恐れ
を恐れる」とは、「それを恐れるのが醜いにもかかわらず、それを恐れる」ということ
である。そしてこの臆病な人について、「何故そうであるのか」の原因として、「愚か
さと無知」(δ♂5γレ。乙αレκαZ如α託αレ,360B7)が取り上げられ、それはさらに「恐る
べきものとそうでないもの」の無知(方τ奇奇ε6酌レκαZμ勿δε〃6y如α庇α,360
C3,6)であると語られることになる。
4.4ではその場合に、「恐るべきものとそうでないもの」の無知とは、正確には、一
体「何について」の無知なのであろうか。それは基本的には、決して「何を恐れるべ
きか」、つまり「どのような個々の行為が恐るべきであるか」についての無知ではな
く、「恐れる」という情念以外に、「恐れる」そのことが果たして「美しいのか、醜い
のか」を問う観点を持っていないという、まさにその点での無知なのである。「恐れ」
の情を抱くとき、人は恐れるそのことに「悪」を予期し、それを「悪」と看徹してい
る。したがって、或る情念を抱くことは、取りも直さず、或る判断を行うことでもあ
る。恐れの情念とともにある、恐れている当のものを「悪」と看徹す判断は、「苦」の
情から繰り出され、それが「悪い」との判断を生み出しているものであり、そのこと
がまさしく「快=善、苦=悪」とする、いわゆる「快楽主義」に他ならなかった。
もし以上のようであれば、「恐ろしいもの(恐るべきもの)」の無知とは、また情念
に付着する判断をそのまま承認してしまうことであり、重大な事柄(περZτ伽πpαγμ々一
358
τωμτ伽πoλλ00ムξZωy,358C5)について間違った思いを持つこと(τδψεη砺
ξκε〃δ6ξαレ,358C4)に他ならない(20)。そして「間違った思い」と言われているの
は、「恐れ」の情念とともにある「快苦」の思いから繰り出されてくる「善悪」の判断
を超える場面を持たずに、恐れの情に徹底的に拘束され、その恐れの情の与える「善
悪」をそのままそれとして承認してしまうことである。それ故、「恐るべきものとそう
でないもめ」の無知とは、恐れの情に拘束されて、それが与える「快/苦」に根ざす
「善/悪」の判断以上に、「恐れる」そのことが「美しいのか、醜いのか」へのまなざ
しを持っていないという、そのことを語るものとなる。プロタゴラスの当初の[A1,
2]が否定されているのは、丁度この地点である。即ち、行為に際して「恐れるか、恐
れないか」ということが、「勇気ある人と臆病な人」を分かつのではなく、このまなざ
しを持っているかどうかが、それを決めているのである。
4.5 ところで、ソクラテスが、戦に赴くことを「美しいこととして行くのか、醜いこ
ととしてか」と問うとき、一体この「美/醜」の観点はどのようにして持ち出された
のか。この「美/醜」の観点の導入に関しては、どうしても触れておかなければなら
ないふたつの箇所がある。先ず第1は、プロタゴラスの反論に続いて、ソクラテスが
いわゆる「快楽主義」を導入する、その最初の箇所である。「快く生きることは善く、
不快に生きるのは悪ではないか」(351B7−C1)と問い迫るソクラテスに対して、プロター
ゴラスは「美しい事柄を楽しみながら生きるのであれば」(351C1−2)との制約を付す。
このプロタゴラスの言葉をソクラテスは、ともかくも「楽しみ(快)」に何らかの制約
が付けられねばならないとだけ解し、その制約を「美しい」から「善い/悪い」に置
き換える(351C2−3)。このやりとりをどう理解するかには、『プロタゴラス』篇理解の
ひとつの要があると思われるのだが、何故ソクラテスは「美しい」という制約を「善
い/悪い」へと置き換えたのか。それは、一体「美しい」ということを消し去るとき、
「快のうちにも悪いものがあり、苦のうちにも善いものがある」(「快いが悪い」、「苦
痛だが善い」)という言葉が表現する事態を正確に見定めるためのものではなかった
か。そこでは、「快いが悪い」、「苦痛だが善い」という表現は、決して「快/苦」にな
んらかの制約や限定を加えるものにはならず、両者は「快いから、善い」、「苦痛だか
ら、悪い」という仕方で、一元化されることになるのである。
もうひとつの第2の箇所は、多くの人びとを相手にした、いわゆる「アクラシア」
否定の議論に終りを告げて、もう一度「勇気と智慧」との関係を問題にするために、
それまでの議論をソフィスト相手に確認する箇所(358B3−6)である。この箇所では、先
の箇所で一旦消し去った「美」が、「快楽主義」の文脈の中で、「快い生」へ導く行為、
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
359
「快」を生み出す行為はすべて、「美しい行為」であり、「美しい」のなら、また「善
く有益な行為」であるという仕方で復活されることになる(21)。この箇所の場合には、
或る行為が「美しい」か、そしてまた「善い・有益」かは、その行為が「快い生」を
導くか、「快」を生み出すかどうかによって決まることになる。
4.6 この「美」の消去と復活という仕掛けによって目指されていたことは、極めて重
要である。それは、「勇気というアレテー」の成立にとって、「美しい」ということが
真に何処で関わっているかを確かめるためのものではなかったかと思われる。先の第
1の箇所で、ソクラテスがプロタゴラスの「快」に対する「美」による制約を拒絶し
たのは、プロタゴラスが「アレテーは美しい」と口にしながら、しかしその「美しい」
ということが、アレ/テーの成立にとって何であるのかが、露ほども顧慮されていなか
ったからである。プロタゴラスにおける[A1, A2]:「勇気ある人は大胆であり、多
くの人びとが恐れて向かおうとしない事柄へ突き進む人でもある」という信念と
[B]:「アレテーは全体として美しい」の信念の両立はそれを物語っている。先に見
たように、ソクラテスがプロタゴラスの[A1, A2]を否定したのも、[B]を挺子にし
てのことであった。「アレテーは美しい」と口にしながら、それがプロタゴラスの「勇
気」をめぐる一群の信念を規定していないことをソクラテスは見通した上で、この「美」
を消去する。そして、一体「美しく」ということなくしては、「善く生きる」とはどの
ようなものとなり、そしてさらに言えば、その「善く生きる」ことに関わる知と無知
は、どのような形をとることになるかを詳細に描いてみせることになるのである。そ
れを描いた後で、もう一度「美」を復活することになるのである。
4.7以上のことを確認した上で、元の文脈に戻ろう。そこでは、第2の箇所で見たの
とは異なり、先ずその行為が「美しいか否か」が問われ、「美しく、また善い」のなら
ば、「快い」という、いわば逆の途を辿っている。
このふたつのあたかも往還の途は、今単純化していえば、或る行為は、(a)「快だか
ら、美しいし、美しいのなら、善い」と(b)「美しいから、善いし、善いのなら、快で
ある」ということになる。(a)について言えば、この場合「美」は、「快」と「善」と
が一体化していた「快楽主義」の文脈の中に、その両者に割り込む形で、埋め込まれ
ることを意味するであろう(22)。先に見たように、353C1−354E2でいわゆる「アクラシ
ア」否定のために、「快いが悪い」「苦痛だが善い」という表現をめぐって考察してい
たとき、そこでは「善い」という判断は、結局は「快い」ということによるのであっ
た。即ち、そこでは行為は「快い」が故に、善いとされるのである。直前に私は、こ
の箇所が「美」を徹底して排除することによって、「善」がどのように理解されること
360
になるかを描くものではないかとの予見を示したが、今「美」を復活する場合、「快な
らば善」という従来の線ではなく、先ず「快ならば美」という線を用意する。そして
ここから、「美ならば善」と語られることになる。当面の問題の箇所は、先ず或る行為
を美しいと捉えていることを確認した後、丁度この線を逆に用いることによって、「美
しいのなら、善く有益である」し、「快」であるという途(b)を辿っている(23)。
このことは何を意味するのであろうか。「快」と「善」という価値語が一元的に語ら
れる中へ、「美」という価値語を復活するとき、この「美」という価値語が、アレテー
の把握の現場でどのような力を持っているかを正確に見定めるものであると考えられ
る。それは我々が、或る人であれ、行為であれ、「勇気がある」と捉える場合、目を向
けるべきものが、結局は「快」にしかないのか、それとも何をさて措いても先ず「美」
にまなざしが向けられ、それによって「善い」ということも、また「快い」というこ
とも語られることになるのか、その両者の持つ異なりを見届けるためのものであった
と言い換えてもよい。もし目を向けるべきものが「快/苦」でしかないのであれば、
早る行為が「恐るべきもの」と捉えられるかぎり、恐れている当のものを「悪」と判
断するしかないのであるが、この場合先に見たように、「悪」と判断するものへは誰も
赴かない以上、「臆病な人」と「勇気ある人」がそこで区別されるような場面は見失わ
れてしまうのである。他方、「美しい/醜い」という場面が顧慮される場合、そこにそ
の両者の区別を語る場面も拓かれてくるのであった。臆病が「恐ろしいものとそうで
ないもの」の無知とされたのも、恐れの情に拘束されて、それが与える「快/苦」に
根ざす「善/悪」の判断以上に、「恐れる」そのことが「美しいのか、醜いのか」への
まなざしを持っていないからであった。
5
5.1さてでは、ソクラテスが、これと正反対である「恐るべきものとそうでないもの
の智慧が勇気である」(360D4−5)ということを導出する際に、それはソクラテスのかの
「アレテーは知である」ということを語る主張と看蔑してよいのであろうか(24)。だ
が、ここに『プロタゴラス』篇理解の上で、微妙なしかも重大な問題が生起すると思
われる。それを今テキスト上の「論の動き」から説明すると、先ず問題と思われるの
は、
(1>この「勇気は恐ろしいものと恐ろしくないものの智慧」ということは、直接には
導き出されず、いわば迂回路を通る仕方で、つまり臆病さが「恐るべきものとそうで
ないもの」の無知であり、勇気はその臆病さの反対であり、「恐ろしいものと恐ろしく
ないものの智慧」はそれらの無知とは反対のものであるから、勇気はそれらの知であ
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
361
るという仕方で導かれている点である(cf.,360B6−D4)。さらにそのことは、それに先
立って確認されたことに正確な呼応を持っていると思われる。即ち、
(2)臆病な人については、「それと知りながら、より美しく善く快いことへ赴こうとし
ないのか」と問われ、「知りながら」とは言えないということが同意されるにもかかわ
らず、勇気ある人については、この「知りながら」ということには触れないままに、
ただ「より美しく善く快いことへ赴くのではないか」と問われ、それが承認されてい
る点である(cf.,360A4−8)。つまり、臆病な人については、赴こうとしないその行為が
「美しく善く快いこと」であることを、彼らは「知らない」ということが確認されて
いるが、勇気ある人については、その人が赴く、その行為が「美しく善く快いこと」
であることを「知っている」ということは確認されていないという点である(25)。この
ふたつの文章の非対称性は、「臆病が無知である」ことを明らかにするという途を通じ
て、「勇気が智慧である」ことが語られるということと明らかに呼応していると思われ
る。
これがテキスト上の「論の動き」からの問題であるが、このことは重大な問題を含
んでいるのではあるまいか。我々は確かに、臆病が恐れの情に拘束されて、それが与
える「快/苦」に根ざす「善/悪」の判断以上に、「恐れる」そのことが「美しいの
か、醜いのか」へのまなざしを持っていないという意味で、「恐るべきものとそうでな
いもの」の無知が臆病であることを見た。だが、勇気と臆病は、正反対のものである
という、ただそのことから、「恐るべきものとそうでないもの」の智慧が勇気であると
される場合、勇気ある人が知っているという、この「恐ろしいものと恐ろしくないも
の」とは、どれほどのことを含意することになるのであろうか。少なくともこの箇所
のテキスト上では、それには何の内実も与えられていないのではあるまいか。
5.2私は先に、「恐ろしいもの(恐るべきもの)」の無知とは、また情念に付着する判
断をそのまま承認してしまうことであり、「重大な事柄について間違った思いを持つこ
と」に他ならないと述べた。だが、それはやや先走りの感がある。というのは、この
358C3−6の箇所において、「重大な事柄について間違った思いを持つこと」としての無
知は、智慧、』即ちメトレーティケー・テクネー(年女の計量術)との対比において語
られているかぎり、それは未だいわゆる「快楽主義」の文脈の中におかれているよう
に見えるからである。しかし、その場合、次のことが大切であると思われる。
この快苦の計量術は、我々を「惑わし取り違えさせる」現われの力に対して、眼前
の快雨にせよ、遠く隔たった古宅にせよ、その大小をただしく判定するものとして考
えられている(357A5−B3)。そして、大小をただしく判定するには、この「現われ(現
象)を権威なきものとし、その真実を明らかにして、その真実の下に留まらせて安定
362
するようにする」ことがその術知の仕事なのだと言われる(356D4−E2)。だが、「快翔」
の「現われ」を権威なきものとし、その「現われ」から権威を奪って、その真実を明
らかにすることはそもそも可能なのであろうか。「快苦」とは「快苦の現われ(快苦を
感じること)」においてしかないものであれば、つまり「快苦」には「現われ」と「真
実」の区別がないのであるなら、行為に際して「快苦」にのみ注目しているかぎりは、
我々は「現われ」の外に出ることは絶対にできないであろう。
人が「危険を孕む」状況に直面して、「逃げ出すか、留まるか」を思案し、さらには
「逃げ出した、或いは留まった結果として生じる事柄」を思案するとき、人は留まる
ことに苦痛を感じ、逃げ出すことに快を感じ、また予期される結果についても快を感
じ、或いは苦を感じる。我々が「逃げ出すか、留まるか、或いはその結果」を思案す
る際に、もしそれぞれの「快苦」にしか注目すべきものがないのであれば、我々は「現
われ」の持つ力に屈服する他ない。何故なら、繰り返せば、「快苦」は「快苦を感じる
というその現われ」にしかないし、「逃げ出す」ことに感じる快も、結果として予期さ
れることに感じる苦も、今ここで「快/苦」を感じるという、そのこと以外に「快苦」
があるわけではないからである。四苦の比較考量は「どれほどの快苦を感じているか」
という現象の与える力によるしかない。したがって仮に、先に見たような、「現象」を
権威なきものにし、その真実を明らかにする快苦の計量術があったとしても、我々の
棲まう世界に「快/苦」しかないのなら、それが適用される場所そのものがないので
ある。「快/苦」と「善/悪」の同一性のなかで構想された「現象を権威なきものに
し、その真実を明らかにする」の知は、その快楽主義のなかでは適用される場所を持
たないように思われる。
5.3 しかし、まさにそこにソクラテスは、これまで消去しておいた美を復活させて、
「快いから、善い」ではなく、「快いから、美しいし、美しいから、善い」という途を
用意し、これを逆に辿ることで、「恐れ」の情に拘束され、.「現われ」の持つ力に翻弄
される場所から、「現象を権威なきものにし、その真実を明らかにできる」場所へと抜
け出るその手がかりが、「恐れている」そのことを「美しいのか、醜いのか」と問うと
ころにあることを示しているのではあるまいか。しかしそれだけでは勿論、知の成立
とは言えないだろう。むしろ大切なのは、我々が「美」に向い合っている存在である
ことを忘却した状態のままに「恐れ」の情に拘束され、「現われ」の持つ力に翻弄され
れているという、そのことに気づくということ、そしてそのような状態がまさに「無
知」であると言える点にある。行為にせよ、人にせよ、「勇気がある」と捉えるその把
握、それが「何であるのか」との問いが真性に問われるには、この美を手がかりとし
て、その無知を抜け出なければならない、それが『プロタゴラス篇』の語っている実
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
363
質ではないだろうか。
5.4無論、以上に見てきたような『プロタゴラス』篇の理解、特に「勇気をめぐる第
2の議論」の持つ意味については、それに先行する351B3−359A1の議論における「知
識」の問題、「快と善の同一説」、いわゆる「アクラシア否定」の論などを如何に読み
解き、どのような哲学的問題と理解して行くかということに懸かっている。しかし逆
に、その351B3−359A1の議論もまた、それ自身のために行われたのではなく、勇気と
その他のアレテーとの関わりを究めるためのもの(εんαzτ乙加温τ面τoπρδ《τδ
とξεηρε2レ περZ 凌y(シ)εZαζ, πρ∼)∼・τ∼をλλαμ6ρ乙α τ∼セ τ矛丁 凌ρετ矛∼・π6)ζ πoτ’
ξκε乙,353B1−3)であったことを思えば、極めて困難でさまざまな解釈を呼び起こして
いる、この箇所の意味を見定めて行くのは、「勇気」をめぐる議論がどのように展開さ
れたかを見極める地点からでなければならない。その点を無視し、視野に含まない如
何なる議論も実りある議論になるようには思えないのである。私には、ふたつの「勇
気をめ,ぐる議論」の橋渡しをする、351B3−359A1の議論を詳細に検討することで、こ
れまで述べたきたところの理解を確かめるという課題が残される。
[註]
(1)先行する四つの徳に関する議論が、勇気の徳を主題化するために仕組まれたからくり
であることは、加藤信朗著『初期プラトン哲学』(東京大学出版会、1988)の第1章:「端
初」に付けられた註(43)に指摘されている。
(2)Cobb, W.S.:The Argument of the Protagoras,1)刎og膨XXI,1982, pp.713−731,
esp.724−731は、この箇所をソクラテスがdeductive argumentationを行っているとす
る従来のstandardな解釈に疑いの目を向けて、この箇所の対話の持つ意味を論じたも
のである。このCobbの論文は、その点で参考になったが、その論述と結論には必ずしも
賛意を示し難い部分がある。
(3)このθαρραλεogはどのような邦語で訳出すれば、適切となるのか。θαρραλεoゲ
θαρραλεα一θαρρεε耽θαρραλεωζというこの繋がりを保ちながら、ひとつの邦語で訳す
ることはかなり困難である。ここでは主に「大胆である、大胆さを発揮する」を主に用
いたが、θαρρα艇αの訳としては「恐ろしくない」を用いた。
(4)Adam,」.&Adam, A. M.:P伽。%乞s−Pzo匁go鵤s, Cambridge U.P.,1905, pp.173−176.
0’Brien, MJ.:The“Fallacy”ih.Pzo囎。ηs 349D−350C,丁勉%∫忽競s(ゾ伽んπ67一
蜘η勘♂10Zog嬬1 Z18800勿劾η, Vol.92,1962, pp.408−417は、この「換位」をソクラテ
スの犯したFallacyと見て、非難するのではなく、むしろ「勇気ある人」と「大胆な人」
を等値とすることがソクラテスの理解であったと考え、プロタゴラスの側に非があると
するのである。しかし、これはさらに一層、ソクラテスの議論を傷つけるζとになるの
ではないか。この0’Brienに対する適切な批判は、 Cobb,(ψ.6露., pp.726−727と下記の
Weissの論文に見られる。
(5)例えば、Vlastos, G.:“Introduction.”ln P鰯。苫Pzo㎏o鰯, trans. M. Ostwald, xxxi
364
一xlv, Indianapolis.
(6)Weiss, R.:Courage, Confidence, and Wisdom in the Pz吻go野駈πo加’P観os(ψ勿,
Vol.5,、1985, pp.11−24.
(7)Weiss,(ψ. o露., p.14.
,
(8)Adam,ρρ.6露.,, P.175,0’Brien,ρρ.6髭., P.413, Sullivan, J.P.:The Hedonism in
Plato’s Pzo匁go鰯,1%名。η6s露, Vo1.6,1961, p.17はいずれも、ソクラテスがπ6ζoδ〃,
ぎφηy乙γ畠,λεγε‘丁τσ排律伽ε乏0りζ;0むλ∫Zτ0掬θαρραλε0町εZyα‘;とプロタゴラ
スに尋ねたとき、プロタゴラスがπα≧レ加γε.と答えたのは、プロタゴラスの蹟きであ
つたと考えている。
(9)Weiss,(ψ.6髭., pp、16−17.
(10)Weiss,(ψ.読., p.19は、ヒProtagoras obviously focuses on only the very lasting thing
Socrates says before drawing the conclusion,“The wisest are most confident, and
being most confident are most courageous”, and he does not see any way for the
most confident to be most courageous unless the confident are courageous.’と述べて
いる。
(1Dこの(ロ)の箇所は、諸家によって殆ど顧みられていないし、言及されることも稀であ
る。Klosko, G.;Toward a Consistent Intrepretation of the P名。如goηs,∠4名6痂”彫7
Gθs6耽肋467.P痂10s(ψ雇6, Bd.61,1979, p.139は、この箇所を分析してみせるが、(b)
は[A1]を承認したことを単にdefendしているだけだとしか言わない。 Adam,ρρ.読.,
p.175も、その文法的構成を説明するだけに留まっている。
(12)以上に見てきた点からすれば、[E]でのプロタゴラスの「今でさえも(καZy伽γε)」
(350B7)という答えは、単なる同意だけではなく1、そこには、既にソクラテスの反駁が進
罪していることを感知していながら、その反駁が的外れであるとプロタゴラスが受け取
っているニュアンスが表現されているように思われる。
(13)Weiss,(ψ.読., pp.18−19は、この部分の欠落について、いろいろ憶測しているが、そ
れは正しいとは思えない。
⑭Weiss,(ψ.諺., p.19は、プロタゴラスが「大胆さは技術知からも、激情や気狂いから
さえ生まれるが、勇気は魂の生まれつきとよき養いから生まれる」と語る・とき、This
implies not only that the confident are not courageous but also that the courageous
are not confident, since the sources of confidence and the sources of courage are
distinct. Protagoras, who triumphantly declares that Socrates「nowhere shows that・
the courageous are not confident, now refutes himself.._Protagoras effectively
declares that the courageous are not confident.’と述べているが、これはテキストの完
全な読み間違いから来るものである。というのは、簡単に言って、「技術知」と「激情や
気狂い」は、καz.如δτ6κ吻g、..καz凌πδθ禦。つγεκαz凌πbμα協α丁という文の
中に置かれているから、やや強調して言えば「勇気から生じるのは言うまでもなく、技
術知からも、そして激情や気狂いからさえも」と読まれるべきものである。即ち、凌πδ
τξκ切丁の前のκαZは、「勇気を含んでいる」ことを示している。そもそ一この言葉を
語る直前に、「このように、かの場面でも、大胆さは勇気は同じではない。だから、勇気
ある人が大胆であるということにはなるが、とは言え、大胆な人がすべて、勇気がある
というわけではない」と語っているのである。先の言葉はこの言葉を根拠づける言葉と
して(γZψ,351A6)、語られているのである。 Coby, P.:So6剛6∫α厩・伽SOρ乃ゑs漉
Eη1勧競〃z6窺, Bucknell U.P.,1987もまた、 Weissと同様に考えて、「プロタゴラスの
議i論に見られる混乱(Weissがself−refutationとしたこと)は、勇気と知識を互いに全
く分離しておきたいという彼の願いに起因するものであろう」(p.135)と述べている。但
し、Cobyは、不思議にも「強壮さ」と「能力」の場合にだけ、起源の異なりを取り上
「勇気」への問い一プラトン『プロタゴラス』篇の問題一
365
げ、「勇気」と「大胆さ」の場合には、プロタゴラスが「類一種」関係で考えていると看
倣している。
(15) Cobb, oコリ.6髭., PP.729−730.
⑯Weiss, oゆ.読., p.21, n.11は、このCobbの指摘を興味深い提案だとしながらも、これ
を受け入れない。受け入れない理由は、むしろソクラテスのエレンコスが決まって、対
話相手を、僅かの事例から一般化する方向に仕向けるものだから、ということである。
なお、Weissの掲げたテキスト上の理由は、至当な理由にはならないと思われる。
(17)仕掛けという言葉は適切でないかも知れない。それは後の、本文4.5以下で述べる「美」
の消去と復活の手法のことである。
働358D1に語られる肋如伽向πo”φ循ε乙は、プロタゴラスの語るこのφむσ‘丁に停る仕
方で呼応しているように私には思われる。
⑲ この[A1, A2]の「勇気ある人は大胆であり、しかも多くの人びと(=臆病な人)が
向かうのを恐れる事柄に突き進む人でもある」というプロタゴラスの信念が、また「多
くの人びと」の信念でもあるということは、この第1の議論では語られず、第2の議論
で始めてプロタゴラスの口から明らかにされる(359C6−7)が、しかしプロタゴラスの当
初の主張である[P1]:「勇気は他のアレテーとは著しく異なる」という主張の証拠にさ
れた、[P2]:「無知でありながら、きわだって勇気ある人がいる」という言葉も、その
証拠となるのは、それが当然「多くの人びと」に受け入れられる言葉だったからであ
る。
⑳ この358C3−6の箇所で、未だいわゆる「快楽主義」の文脈の中におかれているように見
える「重大な事柄について間違った思いを持つこと」としての無知を持ち出す点につい
ては、後の本文5.2を参照されたい。
⑳ 「美/醜」の観点を導入するに当たって、τ匂麗δヵ,_,τδτoめyδε;という問いで
始められるが、このとき、τbτoめレδεは、それまでには出てこなかった、何か新たなこ
との導入を示唆していると思われる。
⑳ 「勇気をめぐる第2の議論」で、諸家の目は、むしろ「美しく善いのならば、また快い」
と言われる際の「快」の再導入に向けられている。しかしそのことが重要なのではな
く、ここで見るような「美」の趨勢こそが問題なのである。この点で、武宮 諦「行為
と知に関する若干の問題一『プロタゴラス』に則して」(『山口大学文学会所』(43巻、1992)
は、私にとってたいへん参考になった。
㈱ 「美」と「善」と「快」が同時的に語られるのは、何もこの『プロタゴラス』篇に限
られるわけではない。一般に「快楽主義」を激しく排斥していると見られている『ゴル
ギアス』篇の中にも、この『プロタゴラス』篇とよく似た仕方で、「善」と「美」と「快」
が同時的に語られる箇所がある。474C−475Eの箇所がそうである。そこでは、何かを「美
しい」と呼ぶ場合、それは(a)「快いから」か、或いは(b)「有益だから」か、或いはそ
の両方の故かという道筋が用意される。そして(a)の道筋を排除することによって、「快」
に還元できない「有益(善)」のあることを示すのである。これと類似の手法がここで取
られていると思われる。そしてその意味では両対話篇のそれぞれの箇所は、何か図る基
本的な問題を共有しているのではあるまいか。なお、’『ゴルギアス』篇の当該箇所に関し
ては、拙稿「不正とポロスーGo癬αs 474C4−475E6のエレンコスの語るもの」(古代哲学
会『古代哲学研究』XXIV,1992, pp.1−11)を参照されたい。
(2の プロタゴラスとの対話を終え、議論を振り返りながら、ソクラテスが語る「自分の方
は、正義も節制も勇気も、一切が知識であると証明しようと努めている(るπ乙κε‘ρ伽
凌πoδεZξαの」(361B1−2)という言葉を証拠にして、ここにソクラテスの「アレテーは知
である」という主張がなされていると人は考えるかも知れない。しかし、この議論を反
省する言葉にはまた、「これらのすべてが上を下へと恐ろしく混乱しているのを見
366
て、… これらの議論をすっかり終えたのちに、アレテーが何であるかへも向かって行
けたらと思うのです」という言葉も含まれているわけで、先の言葉はこうした言葉とと
もに読まれるべきものであろう。
(25)念のため、原文を掲げておく。
[360A4−6]:’Aρ’oδレγ‘γり6)σκoレτε《〇三δαλoZoむκεθελoησ‘yZεレα乙毒πZτδ
π灸λλ乙6レτεκα≧5με〃oyκαZ矛δ乙oy;一,AλλシκαZτo{〉τoぎシyδμoλoγ6)μεy,
ぎφη, (覧αφθερ0{)μεy τ∼ン∼・ξμπρ0σ’θεy δμ0λ0り吃α∼r.
[360A7−8]:TZ’δ’δ如(功εZoT;o加歪πZτbκ灸λλめりτεπαZ如ε〃。レκαZ矛δのy
ξρκετα乙;一’Aレ々γκη,歪φη,δμoλoγεZy.
問題にしているのは、臆病な人の場合のγ‘γ酌σκoレτε《(下線部)が、「勇気ある人」
の文章では欠けているとい’う点である。この場合、「勇気ある人」にあっては、γ‘γ酌σ一
κoyτ町が省略されていると見ることも全く不可能ではないだろうが、翻訳においても、
「勇気ある人」の場合に、「知っていて」を訳出しているものは見受けられない。藤沢令
夫訳『プロタゴラス』の邦訳は「では、勇気ある人々のほうはどうでしょうか。彼ら
は、より立派でより善くより快いものへ向かって行くのではありませんか」(岩波文庫
『プロタゴラス』(p.158))となっている。
(1995年1月31日受理)
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