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自然科学は客観的か

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自然科学は客観的か
自然科学は客観的か
和文論文作りを通してコミュニケーションを考える
その2 「美しい」と「愛している」1)を読んで
法政大学工学部
井野博満
山下さんがだいぶ前の方の号1)で,「美しい」ということについて書いているなかで,「自然科学では,
価値観の違いを排除し,客観的評価に徹しようとする。だから,「美しい」「美しくない」は,そもそも
なじまない。といっても,自然科学の立場に入れ込むことがまったくできない,ということでもあるま
い。」と述べている。では,自然科学は価値観の違いを排除し,客観的評価を行うことができるのだろうか。
■ 「汚い」ことの「客観性」
「美しい」の反対語に近い「汚い」についてまず考えてみよう。「環境汚染」という言葉がある。多分,
自然科学の用語の中に入れてよいのだろう。環境科学は「汚い」ことを客観的に評価することなしに成
立ち得ない。水が「汚い」かどうか,有機物の量をCOD(化学的酸素要求量)やBOD(生物的酸素要
求量)で,にごりの度合いをSS量で表し指標とする。また,大腸菌の数なども指標とする。また,空
気が汚れているかどうか,SOXやNOXを測定し,SOXは0.1ppm以下,NOXは0.04ppm以下でなけ
ればならないというような環境基準値を定めている。これらの環境基準は,SOXやNOXが生命系をア
タックし,人体であればぜんそくを引き起こすという科学的な根拠にもとづいているわけだ。しかし,
もちろんその数値は絶対的なものではない。
一般に幼児や老人は影響を受けやすいということ以上に,ヒトには個体差があって,本当の意味での
安全なレベルはないように思われる。化学物質過敏症の場合などは特に個人差が大きく,この個体差の
問題はほとんど科学的に解明されていない。また,「許容量」というのが「この程度は我慢する,あるい
は我慢させる」という社会的な力関係で決まる量であり,市民がぼやぼやしているとゆるく設定されて
しまうことは良く知られている。
というようなことで「汚染度」はある程度の科学的根拠をもつが,客観的な基準というようなもので
はない。とは言え,われわれ理系の人問はSOXやNOXを測定し,汚染を客観的に評価していると考
えている。
■ 「汚い」かどうかは「関係性」で決まる
ところが,文系の人間となると発想が違ってくる。中村尚司さん(経済学者)がよくあげる例は,田
の中にある泥は米が育つ大切な資源だけれども,同じ田の泥を結婚式場の花嫁の衣服にぶちまけたら,
大変な汚染物になる。つまり,汚いかどうかは,その「物」によって決まるのでなく,その「関係性」
っまりTPOによって決まるのだという2)。しかし,われわれ理系の人問からすれば,やはり汚染物は汚
いの ひろみつ
〒184−8584東京都小金井市梶野町3−7 2 法政大学工学部
一49一
↓』 一畠_⊥_ _
自然科学は客観的か
染物であって,汚いと感じようと感じまいと,SOXはメータで測れるし,SOXをあびれば身体が病気
になってしまう。水俣湾の魚を食べれば水俣病を発症する。だから,「環境汚染」が事実として存在する
ことは疑いえない。しかし,その事実をどう認識するかとなると,「関係性」抜きに論じることはできな
いということも認めざるを得ない。ピアノ殺人という事件があった。隣人のひくピアノがうるさくて耐
えられなかったと報道されたが,自分の娘がひくピアノだったら同じデシベルでも気にならなかったか
もしれない。いや,むしろ心地よかったかもしれない。
理系人問は「事実」と「事実の認識」とを区別できない傾向があり,その点は大いに反省しなければ
ならない。環境問題ではそこがポイントだからだ。事実を認識する上で,「科学」が客観的であるという
ようなことはいえない。科学者はデータを集め,提示するだけの役割で,決めるのは当事者(市民や行
政などの社会的存在)という意見もあるが,それも科学の客観性を前提にしている。実際は,事実を認
識する方法において,すでに科学者の立場性が入っていて,客観的とは言えない。何のために調べるの
か,誰から依頼された仕事なのか,によって調査内容・研究内容は当然違ってくる。
■ 「立場」の違いが「認識」を変える
あまりいい例かどうかわからないが,客観的な見方・判断というのはあるのかという問題について,
私が気づいた身近な例をあげてみよう。「電車が混んでいるか,空いているか,そのパーセンテージは如
何」という問を立てよう。何かの拍子に,混んでいる電車と空いている電車とが交互に来るようなこと
になったとする。(昔は,道路事情で市電がよくそんな状態一だんご運転と称した一になったっけ。)す
ると,駅員から見れば「混んでいる電車の割合は50%」ということになる。ところで,混んでいる電車
には80人/両,空いている電車には20人/両の乗客が乗っていたとする。すると,100人の乗客のうち80
人が混んだ電車に乗ったことになり,後で電車が混んでいたか,空いていたか,のアンケートをとった
とすると,「電車が混んでいた割合は80%」という結果になろう。
駅員の立場と乗客の立場とでは混雑率についての認識が違ってきて,どちらが正しいという客観的な
見方はないと思われる。(混雑率の定義によると言われるかもしれないが,どういう定義を採用するかも
また,主観で決まる。)それ故,1つの事実があったとしても,当事者(乗客)と全体を眺めている人
(駅員)というその立場によって見方が変わるといえる。研究においても科学者は客観的なつもりでい
るが,本当はその立場が常に問われていて,事故とか利害対立とかが起こるとその立場性が露呈する。
■ 平等と公正がコミュニケーションと相互理解の基礎
環境の問題であるとか,差別の問題であるとか,戦争の問題とか,1つの事実を客観的に表現すると
いうことはできない相談である。その場合,相互の関係が対等であるならば,対話を通じて相手の意見
を聞いて自分の見方を修正してゆくことが可能になるが,そうでないと強者は自分の見方を正しいとし
て相手に押し付けることになる。社会において,平等と公正がコミュニケーションと相互理解のべ一ス
である。「あの人のいうことは客観的で説得力がある」と評価される発言や主張は,きっと自分の立場を
認識・相対化し,相手の言うことに対等の立場で耳を傾ける人の場合であろう。科学者の場合も全く同
じではなかろうか。
それにしても,いくらなんでも最近のブッシュ政権のやり様は,平等と公正の観点からみてひどすぎ
ると思うのだが,山下さんいかがでしょう? 私はアメリカ大陸に足を踏み入れたことのない人間で,
アメリカ社会のことが全く分らない。どうしてこんなやり方をアメリカ人の多数は支持するのだろうか。
いろんな意見があって、イラク攻撃に反対する人たちもたくさんいることを承知で、疑問に感じる。ア
メリカ生活の経験のある山下さんのご意見を聞きたいと思う。こんなことを書いているうちにこの原稿
が印刷物になる頃には,対イラク戦争が始まってしまうかもしれない。イギリスのある新聞の調査で,
「戦争の脅威を感じる国は次のどこか。①北朝鮮②イラク③アメリカ合衆国」という問に85%の人が
③と答えたということで,ブレア首相とイギリス民衆の考えが一体でないとわかって少しほっとした。
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自然科学は客観的か
そう考えると,小泉首相への支持率が高い最近の日本社会のあり様も私にはわからなくなってきた。誰
の意見を聞いたらいいのか,自分で考えろということでしょうね。
文 献
1)山下洵子:看護学統合研究1(2):57−59,2000.
2)中村尚司:“循環と多様から関係へ
女と男の火遊び”,『「循環型社会」を問う 生命・技術・経済』,
エントロピー学会編(責任編集二井野博満・藤田祐幸),藤原書店,pp.235
一51一
236,2001.
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