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和文論文作りを通して コミュニケーションを考える

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和文論文作りを通して コミュニケーションを考える
 和文論文作りを通して
コミュニケーションを考える
その2 「美しい」と「愛している」
呉大学看護学部
山 下洵子
ゴキブリと見ると,「きゃ一!」と悲鳴をあげ,“めちゃくちゃ”“おぞましい”生き物に出会ったかの
ように振る舞う人がいる。しかし,私は,かつて数百匹のゴキブリを飼い実験動物として扱ってきた経
験から,独断と偏見を承知のうえで断言する。ゴキブリは,“美しい”。均整のとれた形,画家を煩わせ
るに違いないほど“いい感じの”茶の色合い。それに,なんといっても,見たことがある人は少ないかも
しれないが,あの羽化したての真っ白い翅。実に美しい。“まさに”“天使のよう”と表現していいほどだ。
”めちゃくちゃ”“おぞましい”“美しい”“いい感じの”“まさに”“天使のよう”といった修飾語を,
私たちは,日常会話で実に頻繁に使う。歌に耳を傾けると,たぶん,“悲しい”“せつない”“うれしい”
“好き”“愛している”といった語彙もよく耳にするだろう。
日常語からはずれる科学用語
このような用語に自然科学の論文で出会うことは,まずない。それが当たり前と受けとめているが,
なぜそうなのか? ここであらためてとりあげてみたい。「美しい」を例にとり,考えてみよう。
「松嶋菜々子は吉永小百合より美しい」「メグ・ライアンは石田ゆり子より美しい」と誰かがいえば,
異議を唱える人が出るだろう。「誰がなんといおうと,僕の恋人がいちばん美しい」という男性もいるだ
ろう。つまり,「美しい」という評価は,きわめて主観的。人それぞれの好みや価値観が入る。対象とす
る人との関わりの歴史によっても変わるし,特別の思い入れや思いやりなどの感情さえ入り混じっての
評価となる。
自然科学では,価値観の違いを排除し,客観的評価に徹しようとする。だから,「美しい」「美しくな
い」は,そもそもなじまない。といっても,自然科学の場に入れ込むことがまったくできない,という
ことでもあるまい。どのような手続きをとれば可能になるか,思いつくまま,ひとつ試行してみよう。
まず,対象をつくりあげている集団のどのあたりに着目するかを決める。動物実験なら,「C57BL/6J
系統の5週齢雌性マウスをもちいた」と書くところだ。これに従うと,例えば,「白人で18から21歳まで
の女性」と対象を絞る。次に,たくさんの事象のなかから「美しい」か「美しくない」かの判定に使え
る(と判定者が合意できる)要素を取り出す。そのとき,視覚で認識できるものを選ぶ。ただし,裸眼
に頼る,という意味ではない。聞いたり,触ったり,かいだり,味わったりなど視覚以外の感覚で情報
を得てもいいが,それはあくまでも補助的,副次的なものとする。しかし,視覚以外の情報がなんらか
の技術をもちいて図や数値に変換できれば,それでもよい。例えば,音の強さをデシベルという数値で
得られれば,それも十分視覚で認識できる情報である。視覚に拘るのは,自然科学で使う方法は,ほと
んどの場合,視覚に頼るからである。
こうして,評価の対象を視覚化できる同じ軸にのせる。このあと,「あるときは美しい」「ある場所で
は美しい」など,ゆらぐ判定が出るようでは意味がない。「美しい」ものは美しい,そうでないものは
やました じゅんこ
〒737−0004呉市阿賀南2−10 3呉大学看護学部
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和文論文作りを通してコミュニケーションを考える
「美しくない」と,はっきり分けたい。とはいえ,自分の好みに目をつぶれば,まったく「美しくない」
と言い切れることはまれで,「美しいとはいえない」と控えめにいうのが普通であろう。
数値化と視覚化
というわけで,いちおう「美しい」という評価が出た,としよう。では,どのくらい美しいかが気に
なる。極めて,非常に,かなり,少しといった類の,質を修飾する語句は避けたい。話し手と聞き手の
あいだでずれが生じやすいからである。そこで,数値で表す工夫をする。この数値は,実測して得るこ
とが多い。
取り出した要素に基準値(対照値)を設定し,それからどのくらいずれるかを数値で表そう。例えば,
もっとも「美しい」顔として,鼻の高さ:20.1mm,まつげの長さ:102mm,瞳の直径=11.3mm,眉
間の距離:20.1mm…などの基準を置く。そして,この値から0.1mmずれると,1点減点する。さら
に,例えば,評価者のあいだで,「美しい」には鼻の高さの貢献度が他の要素より大きいという合意があ
れば,鼻の高さには「重み」を置いて2倍の値を設定する,といった手順を踏む。そして,評価の対象
にする人それぞれ,項目別に測定をする。物差しさえ正しく使えば,誰がどこで測ろうと,同じ数値が
得られる。こうして得た測定値をもとに総合値,あるいは最高値と最低値の合計,あるいはまた中央値
をとるなど,あらかじめ決めておいた評価の出しかたに従って計算をする。結果として出る数値は,そ
れ以外の情報をもたらさない。誰にとっても200は200であり,109999は109999である。こうして,「客観
的な」評価を出す情報が得られる。
これを言語(文字や記号)をもちいて考察する。写真や図にして示すこともあるが,最終的なまとめ
はあくまで言語である。口頭で,つまり聴覚に頼って行うこともあるが,最終的には論文という文章化
したかたちをとって初めて公に認められるから,ここでもまた,視覚化の作業が入る。
視覚に訴えると,話し手の情報をできるだけそのままのかたちで他者に伝えるのに,まことに実用的
で効率的である。そのとき,同じように視覚に頼る別のコミュニケーション,例えば絵画や歌や踊りと
比べるとよく理解できるのだが,言語を介在させると受け手の感性によって受け取り方が違ってくるの
がずっと小さくなるのがよくわかる。いずれにしても,人のいろいろな活動自体はおもに視覚に頼って
いるから,必然的に視覚を重視することになる。裏返していえば,自然科学は,視覚に大きく依存して
生きるヒトという生き物の活動の所産である,ということである。いや,正確には,少なくとも今日ま
ではそうであった,というべきであろう。つまり,今後,視覚障害がある人たちも自然科学の場でもっ
と活躍するようになれば,自然科学の有り様は変わってくるだろう,ということである。
ところで,ここで試みた手法は,自然科学は事象を二つの原理に分けられるとする2元論を基本とし
て発展してきた,という私の自然科学観に基づいている。この論だけが妥当であるとは思ってはいない
が,今日,自然科学でのほとんどすべての情報がコンピュターに入力できる,つまり,0か1の数値の
繰り返しで表現できるという事実から,こう考えても大筋で間違ってはいないと思っているので,この
ような試みをしてみた。他にもいろいろな試行があろう。新奇な案を思いつく人もいよう。自然科学の
対象になりにくいものでも,いろいろ工夫すれば,面白く展開できよう。
だからこそあえて付け加えるが,2元論にもとづく判定はあくまでもそれだけの結果しかもたらさな
い,ということを強調したい。いったん分割したものをつなぎ合わせても完全には元にもどらない。ま
してや,分割して特定の要素だけを取り出し(ここには主観が入る!対象が抱えもつ事柄すべてから
の任意抽出ではない)分析するのだから,それから得る「総合」判定は,丸ごとの対象それ自体から受
ける印象とは違って当然ともいえよう。第一,はじめ対象を限定した段階で,もっとも肝腎なことを永
遠に論議しないままに結論を導びくこともあり得る。つまり,自然科学は,自然の基本理念を知る学問
として,そしてそれを他者に納得される手法として,今日私たちが一番信用しているにしても,まだま
だあまりにも不完全なものである,といいたいのである。
自然科学は,いろいろな方法論をつくりあげながら発展してきた。これからも,いろいろな論が出て
くるだろう。これこれの方法でしか自然を説明できない,と固定するのは御法度。コミュニケーション
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和文論文作りを通してコミュニケーションを考える
のネットを張り巡らし・新しい発想に刺激されて新しい展開を自分のなかから沸き起こせたら,どんな
に素晴らしいだろう。
付け加えて
ところで,「悪魔の辞典」1)には,「美しさ」は「女性が恋人を魅了し,夫を震えあがらせるために用い
る力」であり,「醜さ」は「ある種の婦人たちへの神々の贈り物で,その結果彼女たちは貞淑を固持する
が,これはなにも卑下のためからではない」,とある。原著が1881から1906年にわたって書き継がれたと
いう時代背景を汲むとしても,今日,先進国として世界の思想をも先導している米国(原著者の国)に
おいても,せいぜい100年くらい前には,「美しさ」「醜さ」を女性に限って説明しているのは興味深い。
そこで,あえて,最後に次のことをつけ加えたい。
科学論文のように公にする情報は,架空の人物で構成される小説よりはずっと他人に迷惑をかける可
能性があるので気をつけなければいけない。臨床報告などで,患者の名前を伏せるのは当たり前である。
また,無意識のうちに,つまり,意図せずに,しかしおおかた思慮が足りないために,差別表現をす
ることがあるので注意しなければいけない,と常々思っている。そのことに関連するが,私は,かねが
ね,男性の手になる随筆のなかで,特に女性研究者がしばしば「美人」と,紹介されているのが気になっ
ている。伝記のなかで美人であることにふれるのなら,納得がいく。しかし,その人の容姿が本文の内
容とは関係ないところで・あえてそれを挟むのはどういう神経か,私には理解できない。その女性への
賛辞として読者に知らせるのはエチケット,との心得か? あるいは,そういう才色兼備の女性と知り
合いであるのを誇示したいのか? こうした語句は,「愛している」などのことば同様,私的な場面で使
うにとどめておいてほしい,と思うのは私だけだろうか?
誰かを美人ということは,隣りに「不美人」がいることが前提になっている。「隣りの不美人,それは
私よ。でも,それは私の責任じゃあないわ。私だって,好き好んで不美人に生まれてきたわけじゃない
のよ」と,お世辞にも美人といわれたことのない私などは,ひがみがちになる。しかし,美人に生まれ
てこなかった皆がみな,ひがんで,ますます「醜い」女になるわけではない。不特定多数の読者に美人
と紹介されてとまどった女性たちと手を組んで,「美人」は差別用語であるというのを常識にしようと主
張しながら,「美しい」生き方を模索している女性を私はたくさん知っている。そういう「美しい」女性
がもっと増え,そういう女性にあこがれる男性,女性がもっと増えることを願う。
後年出版が予定されている「女神の辞典(?)」には,すっかり様変わりした「美しさ」と「醜さ」の
説明が載せられる,と期待しよう。
文 献
1)「悪魔の辞典」A,ピアス著,奥田俊介・倉本護・猪狩博一訳:角川文庫,初版1975.
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「丁 囮
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