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巡礼当日の配布資料

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巡礼当日の配布資料
鷺沼教会横浜巡礼(11月4日、11月14日)
横浜天主堂献堂150周年、日本再宣教150周年にあたっての記念巡礼。
行程
京浜急行仲木戸駅改札口集合14時厳守のこと
(JR横浜線東神奈川駅で下車したほうが便利です。東神奈川駅東口を出ると、
正面に京急仲木戸駅が見えます。陸橋をおりて、仲木戸駅の出口にいらしてく
ださい
↓徒歩5分
│高札場-神奈川地区センター’
↓徒歩1分
城仏寺一外国人宣教師宿舎跡(へボン、ブラウン)資料1∼3
↓徒歩3分
│慶運寺一フランス領事館跡(ジラール)資料4
↓
本陣跡を通って、旧東海道沿いに徒歩15分
↓
│甚行寺一フランス公便頭跡 (ジラール)資料4
↓徒歩3分
京浜急行神奈川駅乗車
↓
横浜駅乗り換え
↓
みなとみらい線元町。中華街駅下車(2番口?
↓2番出口を出てすぐ
険浜居留地聖心天主堂跡 資科司
↓徒歩10分
│みなとみらい線元町・中華街駅6番ロI
みなとみらい線元町・中華街駅6番口よりエスカレターかエレベーターでアメリカ
山公園へでます。横浜外人墓地を脇に見ながら徒歩20分です、途中右手に涜尾枢
機卿様が眠る山手教会墓地があります。
↓徒歩20分
∼
│山手司教座聖心教会(カテドラル)資料6;
カテドラルは平日、16時半に閉門します。したがって、遅くとも16時15分まで
には到着するようにしましょう。巡礼の祈りや巡礼スタンプが聖堂後方に準備され
ています。司教館庭にある、聖母像の前でもお祈りしましょう。
司教館の近隣にはヘボンとゆかりの深い、フェリス女学院のキャンパスがあります。
−
JamesCurtisHepburn,1815-1911
].C・へボン
施療・辞書編纂・聖書翻訳
神奈川・成仏寺
すでに神奈川にある寺の一つ本覚寺は米国領事館に決まっていて、領事ドールe胃﹃︶が
使用していた。ヘボン夫妻はその付近の寺の一つ、成仏寺を住宅兼米国宣教師館言口目。目
巨臨冒︶としてあてがわれた。仏寺の多い区域で東海道の北側の丘陵地帯、現在の青木橋付
近であった。住居が定まって第一に着手したのは、派遣された国の言葉の習得である。かつ
て宣教医として活動した中国において、中国医療伝道会︵一△一天年設立︶の趣意書の第一番
目に﹁当会は会員に中国語の方言を最低一つ習得することを強く勧める。通訳を介して患者を
診療する事は手間がかかるばかりでなく、治療の過程で誤りを生修勝ちである﹂とあったこと
を心にとめ、事実、長い船旅の間、かってシンガポールで入手したギュッラフの羅獣鷲翌日之
やがてヘボンは施療を始めた。当時日本の衛生状態は極めて悪く、病院はなく病苦に悩む
偲﹄の日本語訳を独学していた。来日当初、ヘボンは無言劇よろしく身振り、手振りで物を指
してはその名前を知りへ徐々に実用的な語棄を増やしていった。
皆さんはヘボンという人の名前をご存知だろうか。多くの人は一へボン式ローマ字を考案し
てを受けられたので彼の名はたちまち知れ渡り、交通の便が悪かうた江戸からはるばる施療
気を治療する、いわゆる施療によるボランティア活動を始めた。浸年眼病を患っていた下層
階級の人々は、ヘボンが始めた西洋医学によって目が見えるよ乱になり、しかも無料で手当
貧しい人は悲惨な状態にあった。この様子を見て心を痛め、近所の宗興寺を借りて無料で病
たアメリカ人として、或いは明治学院の創始者として彼の名前を耳にしているかもしれない。
この様子を見かねた幕府はヘボンが施療活動によって人心を引きつけ、キリスト教が伝播
することを恐れてへボンの施療所を閉鎖してしまった。わずか五か月という短期間で、ヘボ
ンにとって、また貧しい病人たちにとっても深い悲しみであった。一
.指路教会牧師山本梨鯉は、当時の様子を次のように記している。︾
﹁万延元年七月神奈川駅咋顎宿本陣名主石井源左術門が神奈川奉行所へ差出したる異人
聞書の中に、壷米利加国の医者へボンと申す者日本の言葉少しく覚えたる趣にて、日本
仁介眼病を患ひ洲干島弁天に願懸け、毎日お百度を踏み候と︾﹂ろ、へボン仁介と戸部に
“人に逢えば片言交じり、色々と手真似して甚だ可笑く見受け候。然るに、戸部浦の漁師
て出逢ひ、眼病を癒しやるべしとて僅に一点の薬水にて忽ち痛み止承申候。右の次第漁
先ず最初に反対したのは父であった。彼は前回の中国行きもすごぶる遺憾に思っていたが、
としていた.にもかかわらず今喜び未開の東洋に赴こうとしているl父のみならず親戚
のを見るに﹃戸部浦の漁師共へボンの療治にて難病全快せしもの五六名もこれあり、泣
師共の間に伝はり一方ならず評判に御座候﹄との一節あり。而して更にその秘録なるも
み始めて五か月たってようやく雇い入れた教師が間もなく幕府が差し向けたスパイだとわか
やて解雇したようなこともあり、日夜苦労したのは良い日本語教師を見皇けることであった。
宣教医として来日したにもかかわらず、キリスト教の伝道は言うに及ぼず、病人を治療す
る自由までも奪われたへボンは、時期到来を待つ間、日本語の習得に熱車した。神奈川に住
あるまいか。﹂︵山本秀煙﹃新日本の開拓者ゼー・シー・へボン博士﹄︶一
て漁夫等の病を癒し人心を収撹して何らかの陰謀をたくらんで居る老思惟したものでは
の医術を施し、その効験の著しかったのを見て、一部の人々は博士が切支丹の法を施し
ず、実に珍しき異人に候﹄とあるのは面白いではないか。博士が朴直なる漁夫等に文明
てへボンの恩を謝し候。或は切支丹宗の一派かとも疑ひ候得共、更渥その動静も相見え
ララその人であった。結婚後直ちに中国に赴き、その船中で第一子を死産し海中に葬るよう・
しるしたのであった。
に神奈川に着いた。一八五九年十月十八日、最初のプロテスタzト宣教医としての第一歩を
彼らはニューヨークより大西洋を渡りアフリカを迂回し、イ悪ド、中国を経て一七八日目
へボンの志は遂げられたのであった。
へボンが夫人を語って﹁良き妻は主の賜物なり﹂と言ったように、彼女の大いなる力によって
で神の命じたもう仕事につくことの尊さと使命感を彼女もまた忘れてはいなかった。後年、
な辛い経験の数々があったにもかかわらずへ未だ神の福音の宣く一伝えられていていない土地
知人ら、反対しない者はなかった。その中にあって熱心に賛成し彼を励ましたのは、実にク
幸い中途帰国したのを喜び、さらにニューヨークにおける医師とじての成功をひそかに誇り
ーヨークの病院、住居をすべて処分し、私財の一切を投じて日本に来る決心を固めた。
港し、貿易が自由化された。宣教師の入国も可能であることを知ったヘボンは、直ちにニュ
なわれ、続いて英・仏。蘭・露各国との通商条約が成立し、翌年長崎、函館、神奈川などが開
一八五八年︵安政五︶、神奈川沖に停泊中のポーハタン号上で日米修好通商条約の調印が行
,いやすかつたかであで3正式の名前はジェームズ・カーチス・へ.ツプバーンといつ経.
彼のおもしろい名前﹁へボン﹂は実はヘップバーンという、有名叢女優百1マの休旦のオ
ーードリー・ヘップバーンと同じ名前が当時の日本人の耳にへボンと聞こえたのか、その方が言
へボンとその家族横浜開港資料館蔵
所の門を叩き、診療を乞う人さえもいたほどだった。医師としての評判は高まり、その温厚
な人柄は人々に好感を持たれ、彼らに﹁ヘボン先生﹂と親し萱れた。
宣教医として来日
、IbL
一八六○年︵万延元︶二月頃、待望の日本語教師が見つかった。へボン“神︾奈川日記︵その三
やむをえず大工を成仏寺に連れて行って、それと同じように建てさせた﹄伝えられている。
へボンの評判はたちまち巷に広がり、病人ばかりでなく、英学を志す若者が男女を問わずヘ
そして来日から三年後の一八六二年十二月に神奈川から転居し、本格的に施療を開始した。
﹁やっと日本人教師を得ました。三十二歳の医者で、なかなか学識のある日本人です。
とだけ記されていて、紹介者および日本語教師の名前は記されていない℃﹁彼は役人の疑惑を
であった。佐倉で開業していた泰然は開国論者だったので隠居すると萱を連れて横浜に移り、
少年時代、へボン塾生として英語を勉強している。林董は順天堂大学典校祖佐藤泰然の実子
ルバニア州ノリスタウン・アカデミーでの教師経験を生かして、彼らに英語を教え始めた。明
治維新︵一八六八年︶の後、外務大臣になった撚謹、大蔵大臣となった高橋是清らも、かって
ボンの下に集まって来た。彼らの中に勤勉さ、真面目さを発見し、知性の高さを見て、彼ら
わたしは会ったばかりですが、本人は自国のことをよく知っていふばかりでなく、糾伺
の知識もかなりあるようですゎ英学を学び西洋の知識を鴇たいと望んでおり、わたしど
へボンはすでに五十歳になろうとしていた。クララも結婚前、従兄が校長をしていたペンシ
を教育し将来の日本の発展のために尽くせる人物を育てようと考え、墓ボン塾﹂を開いた。
住まわせました。それが一番安全な処置だったからです︲一と付け加えられている。
ベッキは一人長崎に向かったが、ブラウン、シモンズは神奈川に上陸、以後その数はさらに
ボン夫妻が上陸した半月後に、S・R・ブラウン、シモンズ、フルベ以キが来日した。フル
た開港地であったため各国領事館をはじめ外国人が多く住んでいた。宣教師の例を見てもヘ
を広げ、日本の文明開化に貢献していることを見逃してはならない。後の丸善の前身丸屋商
本人がいて英語を学び、医学を学ぶのみでなく、親しくヘボンの人格に触れて国際的に視野
発展し、男子は粁余曲折を経て明治学院へと発展した。このようにヘボンの周りには常に日
へボン塾の女子はその後、改革派の女性宣教師ミス・キダーに引きっがれフェリス女学院に
へボンと親交を深め、息子をヘボン塾に託した。
増えていった。そのため排外思想を抱く乱暴な日本人との間に問題が頻発する危険性が高く、
☆米国官一教師能
った早矢仕有的も横浜時代、へボンに西洋医学を学んだ一人である。
社を横浜に創設し、洋書、医療機器、薬品などの輸入業を手がけた蘭学者であり、医師であ
・一八六二年に起きた薩摩藩主の父・島津久光の大名行列の武士に殺害された英国人リチャー
ドソンに関わる生麦事件をはじめ、高杉晋作らによる品川の御殿山に建築中の英国公使館焼
討事件、そしてそれが引き金となって薩英戦争にまで発展するという−まさに一触即発の物
つけ、逃げてきた負傷者の治療にあたったことは当時の世相を物語る話として今に残ってい
騒な時勢であった。生麦事件の急を知らされたヘポンはアメリカ領事館だった本覚寺へ馳せ
る。この事件の起きた一八六二年︵文久三、幕府は外国人保護の名目で、当時まだ寒村に過
ぎなかった横浜村の一区域を長崎の出島同様に外国人居留
ら地と定めて、外国人を神奈川から排除Lた。一時、外国人
妙で賑わっていた神奈川宿は勢いさびれ蕪℃まった。
ス
ト
↑居留地で﹁へボン塾﹂を開く
一新しい外国人居留地は一種の出島鷺長崎と同様、日本
r
方人が外国人を住まわせるための町づくりの典型であった。
邸へボンはイギリス、オランダ、アメリ労領事の依頼を受け
けん:、露
ンて外国人居留地の建設に関与して間縄を打ち、寸法をとる
球識など町の設計を手伝い、自身は古い村落と本村との境の川
︾銅に架かる橋の狭の土地、居留地三九番を購入する先約をと
繍縦鮒灘鱗鮭譲誘鶴諸製瑚織鮮
い日本には平屋がふさわしいと判断したからである。この三九番館を建築する際日本人の
大工はまだ西洋館の建築法を知らず、へボンも指示するにも言葉がうまて通じなかったので、
/箪裏に住むs、R・”ン
本営に住むヘポボ妻
幕府は頭を悩ませていた。
神奈川宿は江戸と京都とを結ぶ幹線道路﹁東海道﹂沿いにあり、また一方、条約で定められ
刺激しないよう最大の注意を払って、変装してきたのです。そして彼を雇人として私の家に
きるだけ日本語を学んでいます︲ニズポン嘗蘭集﹄︶
もの所へきたのはそのためのようです。わたしが彼に英語を教えるとともに、彼からで
の二月二十九日をみると、次のように記されている。
I
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0
2
MO3
合東海道・神奈jll宿(186.年頃)
蕊
一八六二年の夏﹂.日本全国に﹃一レラとはしかが流行しました。長崎から広島︽岡山と
北上しつつ猛威をふるったコレラによって、長崎では人口五万人のうちおよそ七千人が
死亡。江戸では七万三千人が死亡しました。横浜でも多数の死者が出て、へボンの知人
である宣教師の幼い娘も、・治療の甲斐なく亡くなっています鞄
横浜居留地
危険な神奈川宿から人口五百人の横浜村へ。
コレラ騒動もようやくおさまったこの年の師走へボンは横浜へ引っ越し&そこで再
へu,
+
び施療所を開き、貧しい人々の治療を再開しました。
毎tいく
☆'862噸の権瀧醤jiz会
侭塁
昌一」
瑚時一可
恥皐
横浜居留地天主堂について
○2百数十年ぶりの日本でのミサ
安政5年(1858年)5ケ国条約締結(米・英・蘭・仏・露)
‐→翌年安政6年(1859年)8月、総領事ベルクールと公式通訳としてジ
ラール師、芝高輪より上陸。三田白金台町済海寺がフランス総領事館。
8月24日にミサ
↓
条約文による開港場である神奈川宿の甚行寺(フランス公使館)に9月22日
移動し、上陸してくる外国人船員の世話をするようになる。宿舎は運慶寺。
↓
ジラール師の宿舎として交渉の結果、11月に白金台町正泉寺許可。
○幕府の思惑
幕府としては東海道の宿場町である神奈川宿は奥行きもなく参勤交代の大名
たちと問題を起こしては困るので、急速一里先の横浜村に居留地造成を急ぐ。
かつての出島のように、外国人を孤立させたいと思う魂胆もあった。
外交団は幕府の思惑に対して、当初、反対の意向を示していた。しかし、日
本人商人などが多く移り住み活況を呈してくると、外国人商人たちも自然と横
浜居留地へ住むようになって行った。
万延元年(1860年)7月、ベルクールは居留地の中で8区画がフランスに割
り当てられたため、80番地900坪を教会建設用地として提供。ジラールは1重
月に司祭館を建てる。そして文久元年12月13日(1862年1月12日)に横浜
天主堂(聖心教会)の献堂式。主任司祭はジラール神父41歳、助任司祭はムニ
クウ神父37歳であった。
注:生麦事件
文久2年(1862年)8月21日、島津久光の行列が生麦に差し掛か
った際、英国人4人が騎馬のまま行列の前を通過しようとしたのを
怒り、従士が殺傷した事件。
○横浜天主堂事件
献堂された横浜天主堂は瓦版等によって広く宣伝されたため、毎日数百人か
ら千人もの見物人が押しかけ、横浜名物の一つになってしまった。当時の人々
にとって異国風の建物は非常に珍しく、その上、永いこと御法度とされてきた
切支丹の絵やキリスト像などは人々の好奇心を惹くのに十分であった。
恥;
一方、天主堂のジラール師らは初めのうちは幕府や奉行所を‘障っていたが、
見物人に質問されると黙っているわけにはいかず、そのうちムニクウ師は流暢
な日本語で説明し始めたため、たちまち人気が出て、噂を聞いてますます人々
が集まるようになった。
↑
この状況に対し、神奈川奉行所としても黙って見過ごすわけにはいかず、文
久2年正月20日(1862年2月18日)神奈川奉行阿部越前守正外は多数の捕吏
を遣わし、見物人60名ほどの中から33名を捕まえ、戸部村にある奉行所牢屋
敷に入れてしまった。
↑
フランス国全権大使ベルクールは幕府に対し、猛抗議。
老中久世大和守は神奈川奉行に対し、2月5日釈放を指示。
↓
捕縛事件で一時鳴りをひそめていたものの、やがて以前にもまして見物客が
増加し、天主堂の前に門前市が並び、旅篭屋では布団が足りなくなるありさま
だったという
横浜居留地天主堂用地見取図
仏石炭
置場
桜浜天主堂(1尾8砿s8ion8Ca出diqUe8I875年3月19日罰
:仰も
1山手町への移転
横浜居留地は、商業地区として山下(関内)居留地、
住宅地区として山手居留地がそれぞれ発展しました。
横浜天主堂の主任司祭アルフレッド・ペティエ師は、
教会にふさわしい環境として山手町を選び、1906
(明治39)年5月、天主堂を山下町80番から山手町
44番に移転しました。
新聖堂(図)は正面に双塔を備え、そのあいだに設けら
れた楽楼にはパイプオルガンが設置されました。
1912(明治45)年6月16日(イエスのみ心の祭日)
創建50周年を祝うミサがペテイエ師の司式によって献げ
られました。ペティエ師は1919(大正8)年にフランスに
帰国するまで40年近くにわたり横浜天主堂の主任司祭
としてその生涯を献げました。
3廃嘘からの復活
クレマン・ルモワンヌ師と生き残った信徒達は天主堂
の再建に立ち上がりました。
教会復興の希望に燃える先人達の祈りと'情熱が注がれ
た新聖堂(写真)は、醗災から10年を経た1933(昭和8F
年11月に竣工しました。
新聖堂は鉄筋コンクリート造りで、設計は教会の所属
信徒でチエコ出身の建築家ヤン・スワガー氏の手になる
もので魂献堂式は11月23日、ジヤン・シャンボン東京
大司教の司式によって献げられました。
1937(昭和12)年11月9日、横浜教区が東京大司
教区から分離・
創設されまし
た。横浜天主堂
に司教座が置
かれ、初代教区
長としてシャン
ボン大司教が
着座しました。
現聖堂(1933年∼現在)
山手町44番に移転した横浜天主堂
(1906年∼1923年、『聖心聖堂百二十年史』より
ムニクー:
2関東大震災
1923(大正12)年9月1日、相模湾沖を震源とする
マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲いました。
この地震によってレンガ造りの聖堂は全壊し、また、
ペテイエ師の後任とじて1920(大正9)年3月に主任司
祭に着任したジョルジュ・ルバルベ師が36歳の若さで
神のもとに召されました。ルバルベ師の遺骨は現在、司教
座聖堂の祭壇右側壁のなかに、プリュダンス・ジラール
師の遺骨と相対して安置されていますb
佳な宣教師略園
○フオルカードn16odore言AugustinFORCADE(1816-188印39年司祭抑農42年MEP入会b43年マカオ派
遣44年から2年間、男鵬の天久泊の聖現寺滞窪46年代牧任命、翌拝サモス名義司教として釧職日本入
国はかなわずミ香港教区民病のため”P退会、帰仏。53年グアドループ、‘1年ヌヴエール司教73年エ
クス・アン・プロヴァンス大司教コレラ患者を見舞って擢患、帰天○
○ジラールPmdence・S6raphm・Bart6]もmyGIRARD(1821-1867)48年司祭叙'1農55年那覇」粒。日仏修‘
好通商条約締結により、日本教区長に任じられ、1859年江戸駐在フランス総領事村通訳兼司祭として、9用に
入国。、62年、横浜天主堂(聖心聖堂)建詔一報告のため一日割帯欧翌年桜浜に戻った。プテイジヤンを長崎に派
CムニクーPien妃MOUNICOU(1825-1871)48年香港に派遣、56年にフランス海軍付司祭として函館に上
陸したが布教はかなわ誼同年那覇に入った。60年横浜に上│鯉ヅラーゾレとともに横浜天主堂の建設に当たっ
た。'65年!『聖教要理問答』出版67年から関西に移り、神戸で帰天。
○プテイジヤンBernard-Iha“ePEITI3EAN(1829-1884)54年司祭叙階59年M斑>入会b60年那覇上
陸62年横浜に入り、63年長崎に移る。65年潜伏キリシタンの発見に立会った。66年日本代牧として、ミ
.リオフイトの名義司教に叙階された。翌年浦上四番崩れが勃発すると、幸賠のためローマに赴いた。69年に第
一ヴァチカン公会議出席のため、76年日本教区分脅腰請のため、ローマ訪問71年司教座を横浜に置いた。
76年南緯代牧区設置に伴い、大阪に司教座を定めた。80年長崎に戻り、同地で帰元
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