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1 熱力学とは?
熱力学とは? 1 初回では、熱力学とは何かということをざっと説明して行きます。 とりあえず、大多数の分子から成る気体液体(あわせて流体と呼ぶ事もある)の関与する現象というくらいの大 雑把なイメージをもって話を始めましょう1 。例えば、ある部屋の中に大多数の分子が入っているとします2 。この 分子すべての動きがニュートン方程式で決まっているとしても、これらの動きすべてを把握することはどうもで きそうにありません3 。 いろいろな情報を同時に考えると、混乱したあげく結局は何も分からないということがあります。こういうと きの物理学の鉄則は シンプルに考える ということです。早い話が、 あまり本質的でなさそうな情報はばさっと切り捨てる ということです。とはいえ、何が本質で何が本質でないかは個人差があるかもしれませんし、自分で意図的にで きるようになるためには、かなり経験を要します。熱力学は「情報の切り捨て」がうまくいった最初のそして最高 の例であると言えます。 1.1 情報の切り捨て 情報の切り捨ては、実験データ(日常的な経験も含む) ・コンピュータによるシミュレーション・直観的なイメー ジに基づいて行なわれます。熱力学の初期では、まだ物理学自体が未成熟でしたので、日常的な経験が十分にも のをいったと思われます。 1.1.1 事例 (1)(2):均一な状態 まず、次のような現象を思い浮かべてください。 (1) [気体の混合] 隣り合った2つの部屋を用意し、片方の部屋は暖かく、もう片方は寒いとします。これらの部 屋の間の障子をはずすと、両方の空気は混ざって全体で均一な状態に落ち着きます。 (2) [液体の混合] 飲み物に氷を入れると、氷はとけて水となり、水と飲み物が混ざり全体が均一な状態になり ます。 経験的に分かる事は、気体同士、液体同士を混合すればいずれ均一な状態に落ち着くということです4 。 均一な状態:分子たちの密度や速さの分布が、場所や方向に関係なく一様である状態5 ミクロにこの現象を考えると6 、2種類の分子がすれ違ったり衝突したりしながら均一になっていくわけです。 1 分子には、単原子分子(He, Ne, Ar) 、二原子分子(H2 , O2 , N2 )、多原子分子(H2 O)があります。この講義では化学反応(分子が崩壊 してまた別の分子になるような現象)は考えない事にします。つまり、この講義では分子より細かいレベルで考えることはありません。 2 こういわれたら、アボガドロ数 N = 6.02 × 1023 と同じオーダーの数を連想してください。アボガドロ数の定義は「炭素 12 g 中の原 A 子数」となっていますが、この講義では別に覚えておく必要はありません。とにかくめっちゃ大きな数だということです。 3 現在ならば、コンピュータを使って実演することはできます。しかし、コンピュータを使えば何でも分かるわけではありませんし、コン ピュータを使わなければ何も分からないわけではありません。 4 ただし、重力の影響は今は本質的でないとして考えていません。また、水と油のような混じりにくいものも考えていません。 5 数学的に言うと、分子の速度分布がボルツマン分布になる状態。 6 分子レベルでの現象を「ミクロ」といい、われわれの目で見えるレベルの現象を「マクロ」といいます。 1 1.1.2 事例 (3):熱平衡 上の (1)(2) の例は、気体同士の混合、液体同士の混合だったのですが、異種の場合だとどうでしょうか? (3) [気体液体固体の接触] 熱いコーヒーをコップにいれて放置すると、まずコーヒーはコップを熱くします。い ずれコーヒーはまわりの空気との接触により冷めてきます。そしてコップの温度も下がってきます。 これは、コーヒーを構成する分子がコップの中に溶け出したわけでもなければ、コップを構成する分子がコー ヒーの中に溶けたわけでもありません7 。この現象をミクロに説明すると、接触している面を通じて、2種類の分 子が衝突することによりエネルギーをやりとりしているわけです(下図)。 図 1: 接触される2つの物を A,B と名付けて、さらに A,B を構成する分子を A 分子、B 分子と名付けます。A,B が接触されるときに、A 分子と B 分子は接触面を通して衝突します。これはビリヤードの問題で、衝突前後で全 体の運動エネルギーは保存されます。(この図では構成分子のポテンシャルエネルギーは考えないことにします。 また分子間の相互作用のエネルギーも考えないことにします。)こうして、A 分子と B 分子の間で運動エネルギー がやりとりされます。時間がたつと、徐々に A 分子と B 分子の運動エネルギーは等しくなります。 こうして、両物質は接触により「分子のエネルギー」をやりとりしているのです。 上のような例 (3) が最後に落ち着く状態を表すために熱平衡という言葉を定義します。 熱平衡:2つの物体を接触させたところ、両物体が分子のエネルギーをやりとりし、 しまいには両物体の分子のエネルギーが等しくなった状態 1.1.3 熱平衡状態 (Thermal Equilibrium State : TE) 以上の2つの終状態(均一、熱平衡)をひっくるめて「熱平衡状態」ということばを定義します: 熱平衡状態 (TE):マクロに見て何の変化も無くなった状態 定義があいまいになったと感じられるかもしれませんが、問題に応じて、同種の混合ならば「均一」、異種の接 触ならば「熱平衡」というように考えてください。 7 昔は(といっても近代くらいまでは) 、熱素分子というものがあって(水素、酸素、窒素みたいなイメージで)、温度が高い物質は熱素分 子を多くもっていると考えられていました(Appendix 参照)。そして温度の変化の原因は、熱素分子を互いにやりとりする事だと言われてい ました。 2 1.1.4 熱力学の目的 熱平衡状態は熱力学で最も大事な概念です。なぜならば熱力学の問題では 初めに熱平衡状態ありき 終りに熱平衡状態ありき だからです。 つまり、初めの熱平衡状態とそれを乱す操作が与えられた中で、最後の熱平衡状態を答えるのが熱力学なのです。 熱平衡状態に落ち着くまでの過程は非平衡状態(non-equilibrium : NE)と呼ばれます。非平衡の熱力学は現在 でも完成していないほど難しい分野なので、問題を読んで非平衡のイメージが浮かんだらどこから手をつけてよ いか分からなくなる可能性があります。そういうときは、シンプルに考えるという鉄則にもどってください8 。 1.1.5 熱力学の扱う問題 例えば、どんな問題があるかを説明しておきましょう。上であげた事例 (1)-(3) も典型的な問題ですがそれ以外 では (4) 1つの部屋の壁を動かして TE を乱す。壁を動かすのをやめた後で実現される TE を予測する。 (5) 部屋の壁をなめらかに動く壁にしておく。部屋を他の物体と接触させて TE を乱すと部屋の壁が動く。接触 をやめた後で実現される TE を予測する。 (6) 空気の入ったペットボトルを山頂にもって行く。山頂でのペットボトルの大きさ、中の空気はどうなってい るか。 場合によっては、これでもまだ問題が複雑で正確には答えられないという場合もあります。そういう場合には、 さらに情報の切り捨てが行なわれます。といっても伝統的には次の2つです: • 理想気体 (ideal gas : IG):分子の大きさが無視できて、かつ分子密度が小さいという理想化です。直観的に 言うと、低粒子密度、高温の気体です9 。気体を扱う場合は大概、理想気体を仮定します。 • 準静的過程 (quasi-static process : QS):操作をきわめてゆっくり行なったと考える。操作の間中 TE が繰 り返し実現されているような状況を考える。 熱力学でまぎらわしいのが、問題文には書かれていなくても上のような理想化を暗に仮定している場合がかな りあることです。講義では、特にその点に注意しながら説明していきます。 いくらシンプルに考えるのが鉄則と言っても、どんどん簡単化がなされて、全く非現実的な空虚な理論しか出 てこないのではないかと心配されるかもしれません。しかし、経験的に言うと、シンプルな仮定から意外なほど 大事な結論が出てくるのが物理学の手法の特徴です10 。 8 シンプルに考えることと、あてずっぽうで答えることは違います。シンプルに考えるとは、熱力学が何だったかという基本を思い出し、 少なくとも分かっていることを整理する、そしてそれらを組み合わせて論理的に考えて行く事です。 9 高粒子密度だと粒子間の引力が無視できません。また低温だと液体の様子に近づいていきます。 10 物理学の手法というと大層に聞こえますが、途中で使われるのは「論理学と数学」です。物理学にとってシンプルに考えるとはどういう ことかに興味があれば「物理学者はマルがお好き」 (ハヤカワ文庫)という本を一読することをおすすめします。物理の堅苦しいイメージが変 わるはず! 3 1.2 断熱壁と透熱壁 ここで、TE の定義について注意しておきます。 というのは、どんな物でも周りの空気と接触しているし、さらにその空気は別のものと接触しています。です から厳格に考えるとマクロに見ても何らかの変化が起こり続けていて、熱平衡状態はいつまでも訪れないことに なってしまいます。 それでは話がまとまらないので、物理では「断熱壁」というものを導入します: 断熱壁:分子のエネルギーのやりとりを許さない壁 最も理想的な断熱壁は、魔法瓶として知られています。魔法瓶は、外部との間に真空層をつくり、分子のエネル ギーのやりとりを許さないようになっています。 熱力学では、魔法瓶ほど理想的でなくても近似的に断熱壁だとみなして考察を進めていく場合が多々あります。 また、単に接触というと断熱壁を隔てた接触なのか、透熱壁を隔てた接触なのか分かりにくいので、透熱壁を 隔てた接触(つまり分子のエネルギーのやりとりを許す接触)を「熱接触(熱的接触)」と呼ぶ事にします。 1.3 TE を規定するパラメータ 厳密に、気体液体固体の状態を指定しようと思えば、アボガドロ数程度の分子1個1個の位置と運動量を指定 しなければなりません。しかし、熱平衡状態に落ち着いた物体をマクロに指定するためにはそれほど多くないパ ラメータで十分なはずです。 実際にどのようなパラメータが必要かを説明します。基本となるものをあげると 温度、粒子数(分子の数)、体積、圧力 ですが、さらにこられの間になにがしかの関係式があり、状態方程式 (equation of state) と呼ばれています。 温度、圧力は TE(熱平衡状態) に対してのみ定義されるものであって、NE(非平衡状態) に対してはこれ らは定義できないということを強く注意しておきます11 。 パラメータ 温度 単位 それらの関係 o T [K], t[ C] T = t + 273.15 n = N/NA 体積 N 個, n[mol] V [m3 ] 圧力 P [Pa] = [N/m2 ], Pa [atm], p[mmHg] 1[atm] = 1.013 × 105 [Pa], 1[atm] = 760[mmHg] 粒子数 表 1: アボガドロ数 NA = 6.02 × 1023 個。[N] = [kg · m/s2 ]。ちなみに [J] = [N · m] = [kg · m/s2 ]。物理では、 T [K], N 個, V [m3 ], P [N/m2 ] が最もよく用いられます。この講義では、モル数 n[mol] を使います。モル数 n は、 気体の質量 m[g] と気体の分子量 M [g/mol] を用いて n = m/M と表されます。以降では、モル数のことを「粒 子数」と表現することがあります。 温度 マクロに言えば温度とは、温度計で測れるものです。温度計とは何なのかは Appendix で説明しています。 ミクロには、「構成分子の平均エネルギー」のようなものをイメージしてください。 11 その代わりに局所的な温度、局所的な圧力のようなものを考える事はできます。 4 粒子数 体積 気体なり、液体なりを構成している全分子数です。基本的には、モル数 n[mol] を使う事にします。 気体の場合、閉じ込めておかないとどこからどこまでが気体なのか分からなくなってしまうので、それを 閉じ込めておく部屋を用意します。この部屋の体積が気体の全体積となります。 液体の場合でも何らかのビーカーにいれておかないと体積は測れません。ビーカーの高さの目盛りから体積が 分かります。 圧力 圧力の定義は、力学と同じで「壁を押す単位面積あたりの力」です。 ミクロには、「粒子密度 × 分子のエネルギー」みたいなものをイメージしてください。 図 2: この講義での壁の表記の仕方。 壁の種類 1.4 気体液体をおおっている壁は、気体同士または液体同士を隔てる役割もするのですが、目的に応じて次のよう な壁があります: 壁の移動 1.4.1 不動壁 何があっても動きません。 可動壁 壁が滑らかに動くように作られているのですが、壁が動く場合次の2つの場合があります。 • 潤滑壁:左右の圧力が違う場合 に、滑らかに動いて左右の圧力を等しくしようとします。左右の圧力が等し くなるまで壁は動き続けます。 5 • ピストン:外部から壁を押して内部の TE を変える操作です。 1.4.2 分子のエネルギーのやりとり 断熱壁 左右の分子のエネルギーのやりとりを許さない壁。 透熱壁 左右の温度が違う場合 に、左右の分子のエネルギーのやりとりを許して左右の温度を等しくしようとし ます。左右の温度が等しくなるまで壁は動き続けます。 1.5 熱とは何か? これまで「熱なにがし、熱的なにがし」という専門用語がいくつか出てきましたが、「熱」という言葉自体をき ちんと定義していませんでした。これは「熱」をきちんと説明するだけの準備が整っていなかったからです。 日常生活で「熱」というときには次の2通りの意味で使われていることがあります: (i) 構成分子のエネルギーの総和(TE でのみ定義される) (ii) 熱接触による分子のエネルギーのやりとり(NE の過程での話) つまり日常で「熱」というときには、1個の物の中でのエネルギーの総和をさしている場合と複数のものが接 触したときにやりとりされる分子のエネルギーの総和をさしている場合があります。 1.5.1 内部エネルギー 前者の意味 (i) での「熱」を内部エネルギー U と呼ぶ事にします: 内部エネルギー U :分子のエネルギーの総和 この定義からも明らかなように内部エネルギー U の単位はエネルギーの単位 [J] = [N · m] = [kg · m/s2 ] となり ます。 温度のミクロなイメージが「分子の平均エネルギー」だったので、両者の間には関係式 U ∝ nT (1) のようなものがありそうです。実際に、理想気体の場合には上のような関係式が成立します(次回説明)。温度が そうであったのと同様に、内部エネルギーもまた TE に対してのみ定義できる量 であることに注意してください。 1.5.2 熱量 次に、後者の意味 (ii) での「熱」を熱量 Q と呼ぶ事にします: 熱量 Q:熱接触によりやりとりされた分子のエネルギーの総和 6 熱接触による分子のエネルギーのやりとりは、近代まで「熱素」が高温側から低温側に移動すると考えられてい ました。ですので、(ii) の現象を「熱の移動、熱流」という言い方は現在まで引き継がれています。本講義でも、 この慣例にならって熱接触によりやりとりされた分子の運動エネルギーの総和を「熱量」と呼ぶことにします12 。 特に注意しておきたいのは、熱量というのは TE 間の遷移の過程つまり NE で定義される言語 だということ です。 また、上の定義からも明らかなように熱量 Q の単位は内部エネルギーと同じで [J] となります。しかし、歴史 的には熱量は移動した熱素の総量と考えられていましたので別の単位 [cal] で表現されていました。後に、[J] と [cal] がメートルとヤードのような計り方だけの問題であると分かってきました。ちなみに 1[cal] = 4.186[J] です。cal 単位で熱量が測られた場合には Qc[cal] と表示することにすると、J 単位で測られた Q[J] との関係は Q = 4.186 Qc です。比例定数 4.186 を「熱の仕事当量」と言います。 A A.1 トリビア 熱力学第ゼロ法則 まず、熱力学第ゼロ法則というものを紹介しておきます。 これは、「A と O が熱平衡でかつ B と O が熱平衡ならば、A と B も熱平衡である」というものです。 この法則は「A と O が平衡(天秤がつり合っていること)でかつ B と O が平衡ならば、A と B も平衡であ る」との対比からうまれたもののように思われます。O を基準としてみれば質量計が作れるわけです。つまり A,B それぞれを O と比較して計っておけば A,B 同士を直接天秤にのせて比べなくてもよいというわけです。 同様に、熱力学第ゼロ法則から温度計を定義できるのですが、これは次に説明します。 A.2 温度計 2つの物を接触させることを考えます。日常の経験から明らかなように、これらの温度が等しければマクロに 見て何の変化も起こりません。逆に、温度がひとしくなければ、分子のエネルギーをやりとりしながらしばらく の間 NE を経た後に、TE に落ち着くでしょう。このとき2つの物は等しい温度にあります。 つまり、「A,B が熱平衡にある」=「A,B は同じ温度である」をいかして温度計が作れるわけです。 今、A を温度を測りたい物として、O を温度計とします。A,O を熱接触させた事で A の温度が変わってしまっ ては意味がないので、熱接触により O の温度のみが変化しうるものでなければなりません。 このためには、温度計 O は A に比べて非常に小さければ良い(構成分子数が少なければ良い)ということが 直観的に分かると思います。 後は、熱力学第ゼロ法則から、A,B を別々に温度計 O で測る事で A,B が同じ温度かどうかを知る事ができます。 さて、昔からある液体温度計の計りは、液体の熱膨張を利用したものです。温度が高くなる、つまり構成分子の 運動エネルギーが大きくなると、各分子の運動範囲が広がります。そして、個々の分子の運動範囲の広がりを反映 12 単に「熱」というテキストも多いですが、熱という言葉は (i) の意味と勘違いされやすいので「熱量」という言葉を使います。 7 して液体全体の体積が大きくなります。こうして、温度を液体の体積で評価できます。断面積を一定にすると温度 を液体の高さで評価できます。 また温度計の先端は透熱壁になっていて、この部分と物を熱接触させて時間が十分に経つと熱平衡になったと 期待できます。 このときの温度計の読みは、物と温度計全体の TE としての温度を表しています。 A.3 熱素説 すでに説明したように、温度とは構成分子の平均エネルギーであり、2つの物 A,B が熱接触により熱平衡に至 る原因は運動エネルギーのやりとりです。 しかし、このような認識に達したのは近代のことで、それ以前は温度の源となる「熱素分子」が存在し、熱接 触により熱素が片側からもう片側に移ると考えられていました。 熱素には次のような特徴があると考えられました。 • 重さゼロ。 • 高温側から低温側に移動する。 • 全熱素数は不変である。つまり熱素は不生不滅。 しかし、最後の特徴に矛盾する現象があります。それは「2つの物をこすり合わせたときに両方の温度があが る」という性質で、次第に熱素説は信憑性を失っていきました。その代わりに誕生したものが、分子運動論で、熱 平衡へのプロセスを分子の運動に求めるというものです。 8