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ここから - 早稲田大学理工学部サッカー部OB会
早稲田大学理工サッカー部 創部50周年記念誌 次の 50 年に向けて 50th Anniversary 1 目次 ご挨拶 座談会 「暇です会」 「五世代会」 寄稿文(OBの皆さまから) 活動歴 写真集 顧問の先生方 編集後記 伊橋 俊彦 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 伊橋俊彦/相沢一宏/田口正孝/ 小林彬男/飯田智信/植木彰/ 林誠/増田克秀/小串重人/ 小苅米盛夫/ 松本安弘/西川進/ 吉成丹/渡辺健一郎/朝倉義一/ 斎藤謙次/田部公/成井正浩/ 佐伯眞/ 田部井徹/俣野実/ 三輪收/中川雅資/永田邦昭/ 西原祥雅/和田浩/渡辺毅/ 石垣博崇/ 三浦康司/八木均/ ・・・ ・・・ ・・・ 奈喜良忠浩/洗井淳・安藤伸剛 *ホームページに掲載 松本安弘 2 3 16 10 4 79 83 82 ご挨拶 ОB会会長 昭和三十四年入学 伊橋俊彦 早稲田理工サッカー部ができてから、今年で 五〇年になるとのことです。 私は創部に関与 したというだけですが、この部を五〇年という 3 歳月継続することが出来たのは、後輩の皆さん 創部当時のメンバー の有り余 る熱意 が原動力 となっ たので はな い かと考えております。 展させて いって いただけ ること を祈っ てや み ません。 最後になってしまいましたが、今回の大震災 で我が部 の皆さ んの中に も直接 あるい はご 親 戚の方が 被災さ れたなど という 大変な 災難 に 見舞われた方もいらっしゃることでしょう。心 よりお見舞い申し上げます。 サッカーで培わられた不屈の根性で、この災 難を跳ね返し、乗り越えていただけることを信 じ皆様のご無事を心よりお祈り申し上げます。 伊橋の皆さん) 私は、常々「継続は力なり」と語ってきまし た。 今の時代 学校を取り巻く環境も、学生 の気質も 我々の 頃とはず いぶん 違って きて い ます。 振返ってみますと、それぞれの時代で 様々に困難な出来事があったと思います。 皆さん の努力 と工 夫でこ の半世 紀に も亘る 長い期間 愛す る早稲田 理工サ ッカー 部を 継 続してい ただい たことは 創部に 関与し た者 と しては感謝に堪えません。 五〇年という時間は、かなり重みのあるもの だと思います。この重みが伝統を作り出すので しょう。この伝統を守り、さらにこの部を発 初期の人々(左から青田、飯田、田口、 座談会 「暇です会」座談会 二〇一一年二月五日 横浜シーサイドラウンジ にて Sala 昭和三六年(一九六一年)に発足し、今年で 創立五十周年を迎える「早稲田大学理工サッカ ー同好会」。 その創立から六年間にわたる創 部当初の歴史を振り返るため、初代昭和三四年 〜三九年入学メンバーが集結しました。 【出席者】 昭和三四年入学 昭和三五年入学 昭和三六年入学 昭和三七年入学 昭和三八年入学 昭和三九年入学 :伊橋俊彦(ОB会会長) :相沢一宏、田口正孝(О B会副会長) :青田英輔、小林彬男(O B会副会長) :飯田智信(ОB会副会長) 植木彰 :林誠(ОB会副会長) :飯島則雄、小苅米盛夫、 松本安弘(司会) 昭和四〇年入学 記録 :晴山穹一(司会補佐) :飯島由美子 創立当初メンバーで振り返る 理工サッカー部の原点 「サッカーしたい!」その情熱を原動力に グラウンドなしで同好会発足 田口:皆様お待たせしました。 今日の座談会、 その後の懇親会が有意義に行われますよう 乾杯!(乾杯!) 昭和三五年創設時について 司会 創立から五年間 にわ たる創 部当 初の 歴 史を振り返るということで、初代昭和三四年~ 三九年入 学メン バーの方 々に集 まって いた だ きました。 まずはやはり創設時のお話を伊橋 会長からお願いします。 伊橋 経緯は「ぶんしゅう」(※昭和三八年三 月発行された「ぶんしゅう1理工サッカー同好 会」に掲載)に書いてある通りですね。 僕が 二年の秋昭和三八年。実質会員1人、架空会員 四〇余名の架空同好会として予算を請求して、 金五千円を獲得しました。何でそんなでたらめ な形で予算だけとってきたのか、というのはあ まり覚えてないんだけどね(笑)、サッカーを やりたいという気持ちだけはあった。 で、ポ スターを書き、会員募集を始めて翌年昭和三六 年の六月に第一回集会を開き、スタートしまし た。 グラウンドなしのサッカー部ですから、 大変でしたね。 試合相手を見つけにいって試 合する、その繰り返しでした。 学習院大学の 体育会サッカー部に試合を申し込んだら、こち らは同好会だからバカにされて。 それなのに 我々が勝 ってし まったの でその 後いろ いろ 大 変だったことなどを覚えています(笑)。 ま ぁでも、当時、サッカーがうまい人が十一人集 まれたというのはすごいことですね。 田口 常時メンバーがいればの話ね(笑) 小林 理工学部の 木造の 校舎 の端 にあ る中 庭 のようなスペースに、みんなで昼休みに集まっ て練習していましたね。 あそこでよく練習が できたなぁと(笑)。 伊橋 高校の時に 県大会 でが んば って いた よ うな経験者がいてくれたから、練習をあまりで きなくて も結構 勝ててい たよう な気は しま す ね。 小林 当時サッカ ーはま だあ まり 普及 して い なかったから、経験者がチームを組むとだいた い勝てるんですよね(笑)。 でも慶應や栄光 学院のОBは強かったですね。 田口 浦和高校(浦高)には負けましたね。 私 は県立浦和出身ですが、我々の二年上ぐらいの 浦高は全国大会二連覇、国体出場、公式戦52 4 連覇などかなりの強豪校で、その経験豊富なО Bたちが練習に来る中で育っていましたから。 司会 浦高は名門でしたよね。 ほかにも、静 岡や広島 • • •。 伊橋 藤枝東や広島大学付属も強かったね。 田口 戦前からず っと続 いて いる サッ カー 県 の学校はやっぱり強かった。 司会 同好会が発足した昭和三六年頃に、ちょ うど日本 のサッ カー自体 も盛り 上がり 始め て いました。 クラーマーが来日したり、昭和三 九年には 東京オ リンピッ クで日 本がア ルゼ ン チンを破 って昭 和四三年 のメキ シコ五 輪で 三 位になったり。 サッカーの盛り上がりの機運 が高まった頃でした。 相手を見つけて対戦しに行く 練習試合=練習の日々 二 一 -、当時の練習場所 司会 創立時は、練習場所に大変苦労されたと いうことでしたが。 伊橋 とにかく対 戦相手 を決 めて そこ に行 っ てやる。 練習試合をすることが練習でした。 田口 原則的に東伏見のグラウンド。記念会堂 裏の小グラウンドでもやっていましたね。 青田 甘泉園もありましたね。 飯田 新大久保に理工学部が移転してからは、 理工校舎 の裏側 の狭いグ ラウン ドで練 習し て いました。 隣にテニスコートがあって吉永小 百合さんがたまにいらしていたようです。 林 僕らの時代にはも うグ ラウン ドが あっ た から、通常の練習は理工学部の西側にあった西 大久保のグラウンドでした。 司会 入部した初 日にス パイ クに 履き 替え て 上がっていったら練習場所がなくてビックリ。 すると林さんが「いや、ここが練習場だ」と言 って泥だ らけの ドロドロ したス ペース で練 習 を始めたのでぶったまげましたね(笑)。 小苅米 庭みたいなところね(笑)。 伊橋 慶應の工学 部や東 工大 には いい グラ ウ ンドがありましたね。 二 二 -、戦績 (活動歴 一九六一年~ 七九頁参照) 司会 昭和三六年 のキャ プテ ンは 伊橋 さん 。 初戦は慶應の工学部と。 その後、学習院、浦 和高校、慶應工学部 • • •。 慶應医学部とも 試合していますね。 翌年、キャプテン田口さ んの時代には、いよいよ関東工科系リーグに初 参加しました。 伊橋 工科系リー グはす べて 体育 会の ちゃ ん としたサ ッカー 部が参加 して行 われて いた 。 それを同 好会で も参加さ せてく れない かと お 願いして入れてもらって、首尾よく三位になり ました。 司会 小林さんが キャプ テン の昭 和三 八年 に は小石川のグラウンドで春練習をしています。 昭和三九年には、新関東大学フットボールリー グが新設されました。 このリーグ創設にはイ ナホキッカーズが尽力されていたんですが、僕 らは何も 知らず にイナホ に勝っ てまん まと 優 勝してしまいました(笑)。 飯田 堀田キャプテンのもと、無敗で優勝でし たね。 司会 昭和四〇年はキャプテン林さん。 昭和 四一年は横山さん。 新関東フットボールリー グ、工科系リーグ共に準優勝でした。 「あの時、肩でトラップした感触が 今でも体に残っている」 二 三 -、印象的な対戦相手 田口 昭和三七年の関東工科系リーグで、慶 應工学部 に四対 二で勝っ た試合 がとて も印 象 に残っています。 僕は生涯フォワードで10 0点以上は点を入れてきているんですが、その 得点歴の中でも非常に印象に残っているのが、 この時の4点のうち3点(2得点1アシスト) なんです。 バックから来たロングボールを右 肩で受けて、前にポンと落して、二、三歩ドリ ブルしてスポーンとゴールへ。 二十七~ 八メー トルぐら いのロ ングシ ュー ト でした。 キーパーも、まさかそこで蹴ると思 わないから棒立ちのまま。2点目の時も、また 5 同じようなコースにボールが来て、同じように 右前肩で トラッ プしての ロング シュー トで し た。 そのトラップした感触は今でも肩に残っ ている、それぐらい印象的な2点。 相手側に もすぐに攻め返され、前半は2 2-で終了。 後 半の3点目は、相沢君が、右のウイングからの クロスをヘディングで見事に決めた。 そして 4点目は、私がドリブルで相手を引きつけてお いてポンと横に出して、井上君がワントラップ でシュート。 相手もとても強かったし、一歩 間違えれ ば逆の パターン もあり えたギ リギ リ の状態で勝てたこの試合のことは、本当によく 覚えています。 青田 あれは僕が 蹴った ボー ルじ ゃな かっ た かな。 林 僕は、イナホキッカーズとの試合で一回だ け30m ぐらい のロング シュー トを決 めた 覚 えがあります。 司会 そういう記 憶があ る方 々が うら やま し い(笑)。 五〇年経ってもよく覚えていると いうのは、すごいことですよね。 小苅米 私は負けた記憶ですが(笑)、東工大 にはよく負けた印象がある。 全敗だったと思 います。 司会 日大理工との試合で、相手フリーキック の時に、壁の中の一人が前に倒れてできた隙間 にシュー トを決 められた ことが ありま した 。 日大のメ ンバー がめちゃ くちゃ 喜んで いま し たね。いつも苦しそうな顔で走っていた東工大 の青野選手も印象深いです。 あとは、イナホ のキャプ テンに 裏をとら れて1 点献上 した 時 に「そこは粘らなきゃだめだよ」となぐさめら れたという、踏んだり蹴ったりの思い出があり ます(笑)。 驚いたのは、浦和高校の練習の 様子を8 ミリか 何かで見 せてい ただい た時 。 土日も練 習して 年間で練 習を休 むのは 正月 三 が日だけ という ハードさ にびっ くりし まし た ね。 林 彼らはほんとに何 時勉 強して いる のか な って思いましたよね(笑)。 女性達の料理や大雪の中の登山、 思い出だらけの合宿 二 四 -、合宿でのあれこれ 司会 第一回の合 宿の写 真を 見て いた だき ま すと、藤沢 •善行のグラウンドが素晴らしかっ たということがよくわかります。 そしてそこ に写る二人の女性に注目!合宿では、女性たち に来ていただいて、食事を作ってもらったのが 思い出されるという方が多いですね。 田口 淑徳短大の栄養科の女子大生二人が、食 事当番で来てくれたんですよね。 翌年の二回 目の合宿には、日本女子大の食物学科の学生が 来てくれて。 両方とも伊橋さんのおかげじゃ ないかな(笑)。作る料理がとにかく洒落てい ました。 伊橋 ポン女の食物科の女性たちは、僕が一年 か二年生の時に「合ハイ」に行った相手かな。 彼女?違う違う(笑)。 誰が来たのかなあ。 たくさんいたから分からない(笑)。 司会 そんなセリフを言ってみたいです(笑) 。 僕らの時代には女子マネはいなかったから、後 輩たちに 女子マ ネがいる と聞い てうら やま し いと思っていたんですが、実は先輩方のほうが 先だったんですね。 田口 第二回の合宿で覚えているのは、グラウ ンドから 宿泊し ていた菅 平の民 宿まで 歩い て いる時、通りすがりのおじさんに、「あんたた 6 ち、なんてだらしない格好で歩いているん だ!」と言われたこと。 「宿舎に帰るまでは ちゃんとユニフォームを着て帰ってきなさい。 街の人みんなが見ているんだよ。 ましてや早 稲田の学生さんじゃないか」などと説教されま した。 練習の帰りには、みんなシャツを脱い で上半身裸で、泥だらけの状態でしたからね。 その写真は名誉のために処分しましたが(笑)。 司会 昭和三七年 度の丹 沢で の納 会は すご か ったようですね。 相沢 夜中に、山荘のある札掛けから塔が岳 まで登ったんですが、真冬で積雪が1m位のと ころもあって、よく遭難しなかったなと思いま すよ。 朝起きてみたら雪がごっそり積もって いて、どこかで寝ていたような記憶はあります。 小林 午前二時と いう時 間だ けは 覚え てい ま すね。 相沢 今思い出すと「38(サンパチ)の大豪 雪」と後 から言 われるぐ らいの すごい 積雪 。 その時に登ったなんてね。 小林 衝動的に登 り始め たか ら僕 は革 靴だ っ たしね(笑)。 夜中二時から六時間ぐらいか けての登山。 雪は腰ぐらいまでありました。 相沢 僕は合宿と か試合 とか は全 然記 憶に な いんですが、この大雪の中の登山だけは覚えて います(笑)。 青田 会津若松の合宿も印象的。 お城の下の 公園のよ うなグ ラウンド と粗末 なゴー ルポ ス ト。蒸し暑くて立っているだけで辛かったです ね。 飯田 春合宿で千葉検見川に行った時は、そこ で全日本の合宿もしていて、彼らの食事のボリ ュームにびっくりしました。 司会 全日本ユー スの合 宿で 彼ら がク ロス カ ントリー のコー スでむち ゃくち ゃ走ら され て いるのを見て、「スゲー!同好会でよかった」 と思いました(笑)。 林:三年時の那須の合宿で、後輩達につかまっ て胴上げ されて 放り出さ れそう になっ たの も 印象深いですね(笑)。 「一人一人個性あるボールコントロールは ずっと変わらない我々の歴史」 二 五 -、メンバーの記憶 田口 メンバーは比較的少人数だったので、み んなよく覚えていますね。 ただ、山形から来 た一年生 が帰省 中に交通 事故で 亡くな って し まったのが悲しい思い出。 青田 栄光学園出 身のメ ンバ ーは 多か った で すね。 あとは、相沢さんが左ウイングで体を 傾けて走っていたのが印象的(笑)。 小林 楽しかった思い出がたくさんあります。 サッカー がうま くてオシ ャレだ った一 年下 の 堀田君が亡くなられたのが寂しい。 プレース タイルも華麗だったし、白いスパイクが格好よ かった。 相沢 植木なんて今スマートだけど、当時は太 っていてがっちりしていて、よくまぁその体で 走れたなと(笑)。キックは素晴らしかった。 植木 みんなでグラウンドを二周走る時に、僕 だけ一周遅れていて、三年間毎日しぼられてい ました(笑)。 林 みんなそれぞれ個 性の ある仲 間で 楽し か ったですね。 北園高校出身の長嶋さん、小嶋 さん、学芸大付属の高柳さんたちがうまかった ですね。 飯田 植木君のパワーもすごかった。 司会 飯田さんと いえば スラ イデ ィン グタ ッ クル。 後輩では吉成、ワタケン、幸村、朝倉 などタフでうまい連中がたくさんいました。 飯島 みんなのそれぞ れの ボール コン トロ ー ルの特徴を、今でも時々思い出すんですよね。 堀田さん はボー ルをまた ぐよう なフェ イン ト をしていたな、とか、引いて右に出るか左にで るか人によって違ったな、など。 あの時あぁ いうこと やった なとか何 かの拍 子にポ ロッ と 思い出す。 ボールコントロールに各自特徴が あって、それが我々の歴史を背負っている、と いうと大げさですが。 これだけは変えられな いものなんだと思います。 当時はいわゆる「WMスタイル」 まだ密な連携ができていない状態。 7 三 一 -、当時のシステム 田口 基本的にはFW五人、HB三人、FB二 人のいわゆるWMスタイル。当時は、それが日 本のみならず世界の標準型だったと思います。 司会 4 4 - 2 - とか4 3 - 3 - と か言葉 は知 っ ていたと思うんですが、結局相手のマークに一 対一でつ こうと するとW Mにな っちゃ って い ましたよね。 植木 当時のコー チもW Mし か知 らな くて 。 だから、WMスタイルが変わる頃にも、誰がど ういうふ うに動 いたらい いのか ちゃん とし た フォーメーションになってなかった。我々の下 の学年あたりからずいぶん違ってきました。 小林 今、マンツーマンなんてやらないでしょ う。 植木 ゾーンで受け渡しするなんていうのが、 高校のレベルじゃできなかったんでしょうね。 飯島 我々の時代は、センタリングひとつとっ ても、自分ができるタイミングでやるという感 じでしたね。 中の状況を見てセンタリングを あげる、ということがなかなかできていなかっ た。 中の人も今ほしいというサインをせず、 コミュニケーションができていなかった。 だ から、気持ちはみんなあったけれど、つながる チャンス が少な くて苦労 してい たんだ と思 い ます。 そういうことの教え方もなかったし。 バックスも、抜かれちゃいけないからスライデ ィングなど忠実にやっていたと思うのですが、 とにかく連携ができていなかった。 みんなが んばっていたわりには、ちょっと足りなかった なという気はします。 三 二-、現代サッカーとの違い 田口 フォワード とバッ クス の攻 撃と 守備 の 役割が原則的に決まっている、現代とは全く異 なるもの。 FWはトライアングルパスでいか に相手のBKより多い隊形を作って攻めるか、 でした。 トライアングルが基本、は徹底的に 言われましたね。 青田 フルバック はボー ルを とっ たら 前に 蹴 るとか(笑)。 各々のポジジョンでの分業で したね。 司会 Jリーグができたとき、これは全く違う スポーツだなと思いましたよね。 極端にいえ ば、三人のFWはハーフラインを越えて戻るこ とはないし、三人のBKもまたハーフラインを 越えていくことはなかった。四人のインナー、 ハーフバックが汗をかく古いサッカーですね。 田口 いやぁセン ターフ ォワ ード も走 って い たと思うけどなあ(笑)。 小林 とにかく違いすぎて、比較にならない。 比較してもしょうがないってことだよね。 林 現代サッカーとの 比較 は難し いで すね 。 ただ、今の子どもたちを見ていると、ボールリ フティン グは当 時の大学 生の我 々より ずっ と うまいと思います(笑)。 三 三 -、出身高校の違い 小林 高校による違いは特にないですね。どこ の出身か問わない、感じないのがよかったです。 司会 どこそこだからどう、というのはなかっ たですね。 自己主張が薄かったのかもしれま せんが。 同好会としての楽しみ方を守ってい たのかもしれません。 田口 浦和高校では、W型フォーメーションか らM型フォーメーション(2トップ)に移る練 習も進めていて、対戦相手によって変えたり、 試合途中 からで も変更し たりし て使っ てい ま した。 それを理工サッカー部でも提案したけ れど、やっぱり連携っていうのは経験がないと 難しくて、うまくいきませんでした。 植木 田口さんの勝負強さはすごかった。浦高 でもまれてきたんだなと思いましたね。 あと は栄光出身の太田。 あれはレベルが違ったん じゃないかな。 いいパスをインステップでピ シッと出すんです。あぁ、こういう奴と高校の 時にサッカーしたかったなと思いましたね。 田口 基本ですが、ただポーンと蹴ったのでは だめなんですよね。 足元より一メートル手前 に出せば ワント ラップか ノート ラップ でい け る、というのを高校の時に先輩方から口酸っぱ く言われていました。 植木 高校で鍛えてきた人は、トライアングル 8 のパスの出し方が早いし、パスを出した本人が ものすごく走る。 それを見たら、この人はサ ッカーをやってきた人だなとすぐわかった。 田口:要するに、ボールが動く距離よりも人が 動く距離を大きくしろということ。 ボールを 蹴っておしまいじゃなくて、ボールを蹴るとい うのは次 に自分 がボール をもら うため だと い うのを叩き込まれましたね。 司会 やっぱり厳しい高校は違う! 「持っている」人の多い早稲田 貴重な経験を胸にこれからも交流を。 四 四 -、今でもサッカーをしているか。 青田 一昨年までは結構プレイしていました。 六十歳以降はSOI (Soccer OB Inter-highとい う東 京の 六十 歳以 上の チ ーム で school) 15分ずつの紅白戦に出ていました。 一週間 に一回は サッカ ーをして いたら 両膝が すり 減 ってしまいまして。歩くとコキコキいうように なったのでやめました。 小林 東京シニアサッカー大会や、中学 •高校 の母校の 仲間と 白馬で合 宿をし て紅白 戦を や る程度。 年間数試合ぐらいです。 試合に出 る前には、走り込んだりストレッチしたりする など、入念な準備をしています。 田口 私は心臓に持病を持っているので、観戦 と飲み会が中心です。 飯田 膝を捻挫してからやっていませんね。 田口 私も膝のレントゲンをとると、軟骨がほ とんどぴ ったり くっつい てしま ってい るぐ ら いすり減っているんです。 司会 無理せずやらないといけませんね。 五、同期との付き合い 青田 同じ高校の 小林と はも う五 〇年 以上 の 付き合い。 同じ学年の岸田さんともたまに会 いますね。 小林 青田君の趣 味のカ ント リー をよ く聞 か せてもらったりしていますね。 若い頃は山や スキーに行ったり、ゲイバーに行ったりもしま した(笑)。 飯田 同期の堀田君は、大学卒業後も私の会社 のサッカ ー部の 試合に助 っ人と して来 ても ら い、一緒に楽しみました。 林 同期の飲み会やゴ ルフ などは 時々 やっ て います。 司会 奥田とは中学からの付き合い。 このO B会を契機にゴルフも行っています。 六、早稲田らしさとは 田口 授業やサッカーのみならず、ほかの趣味 などでも幅広い人脈との交流ができ、いい意味 で多情な面があると思います。 小林 一言ではいえないですね。 同学年の人 たちと年間5回(通算75回)のゴルフコンペ に出ていますが、いろいろな分野で活躍してき た人たち でも仕 事経験の 話題が 皆無な のが 付 き合いやすいところ。 カラーがなくて、様々 な出身の 人とも 馴染める のが早 稲田ら しさ じ ゃないかな。 型にはまらない自由人が多いと 思います。 飯田 ざっくばらんに話ができますね。 林 会社内では出身校 で閥 を作る のを 嫌う 風 潮があって、早稲田だから、という烙印も嫌っ ていた感じですね。だから、早稲田だからどう のという意識はあまりもったことがないです。 小苅米 早稲田の連中と話すと、初対面でも何 年も付き 合って いるかの ように 気安く 喋れ る のはいいですね。 気取らない人が多いと思い ます。 小林 早稲田はわりと地味(笑)。 司会 多くの人が 早稲田 であ ると 自ら 触れ な いし、群れることを嫌う。 真面目で、ちゃら けた雰囲気の人間は少ないですね。 飯島 早稲田は何か「持っている」人が多いん じゃないでしょうか(笑)。 でもあえて言わ ない。 小林 言う必要もないんだよね。 林 そういう意味では、プライドや自信はみん なそれぞ れ大学 時代に培 った強 いもの があ る んだと思いますね。 小林 発足してからすぐ意気投合して、先輩後 輩問わず 仲良く できたの はとて もよい 経験 で 9 したね。 飯田 多くの先輩、同輩、後輩と一緒に過ごし、 親しい交流ができたのは大変貴重な財産。 こ れからも この交 流を死ぬ まで継 続でき れば と 願っています。 司会:今日は楽しい話をたくさん聞かせて戴い てありがとうございました。 座談会はこれに て終了とさせていただきます。 五世代会座談会 二〇一一年二月三日 新宿「雪園」にて 今日はお忙しい中、お集まりいただきま 【出席者】 昭和四〇年入学 : 渡辺健一郎、野地 修 (旧姓 仙波)、吉成 丹 昭和四一年入学 :朝倉義一、斎藤謙次 昭和四二年入学 :木原 拓、成井正浩 昭和四三年入学 :田部井徹、和田正則(司 会) 昭和四四年入学 :田口博、青木秀高(書記) 司会 してありがとうございます。 私は昭和四三年 入学の和田です。 また、補佐役として四四年 入学の青木君が来てくれましたので、ふたりで 本日の司会を務めさせていただきます。 どう かよろしくお願いいたします。 さて、ご承知のように早稲田理工サッカー部も 今年で五 〇周年 という節 目の年 を迎え るこ と になりました。 そこで、昭和四〇年入学から 四四年入 学の五 世代の方 々に集 まって いた だ いて、往時をしのぶ座談会を行い、それを五〇 周年記念誌に載せようと思っています。 だい ぶ古い話 なので 忘れてい ること が多い かも し れませんが、記憶を呼び覚ましてよろしくお願 いいたします。 まずは、それぞれの自己紹介や立場とかその代 (三年生の時)の戦績といったことをお願いし ます。 昭和四〇年入学の渡辺です。 いちおう 黄金世代? 渡辺 キャプテンという立場でした。 入った当時は 同期が15人くらいでしたか。 戦績は春の同 好会リーグで優勝で、秋は準優勝だったと思い ます。 当時は東工大が強くて、奥田先輩と賭 をして勝ったら一万円やると言われて、宿敵に 同じく昭和四〇年入学の野地です。旧姓 勝って優勝しました。 野地 が仙波と申します。私は大学からサッカーを始 めたので、試合にはあまり出ていないのですが、 私も昭和四〇年入学です。 何と言って マネージャみたいな役目であったと思います。 吉成 も女子マネージャが欲しかったなあ。 10 で一年生でも試合に出ていた。 ただ、戦績が た。 われわれの世代は経験者が少なかったの 朝倉 の翌日に試合があったが、雨が降っていて試合 いる。私は、入部が少し遅れたのですが、入部 ったのをやっとできた。 最強世代と自負して と、それまでなかなか両リーグ優勝ができなか でした。 われわれ三年の時の戦績は春秋優勝 田部井 昭和四三年入学の田部井です。 主将 は新たなピンチと言われた(笑) なったので、ある人はキーパーへのバックパス さんがケ ガした ので二年 でもう レギュ ラー に ました。大学から始めて、一年上の正GK田部 ジャをしていた成井です。 キーパーをしてい 成井 た。 昭和四二年 同期で プレ ーイ ング マネ ー 戦績は、春優勝、秋準優勝であった。 審判は判断したのだが、そのシュートはゴール 大のシュ ートが バーに当 たって 跳ね返 った と ャッジで何とか勝ったのである。 実は、東工 さっき話 した東 工大との 試合は 審判の ミス ジ 時効だか ら四〇 年ぶりに 告白し ようと 思う 。 渡辺 のがあればお願いします。 何か印象的なこととか、エピソードのようなも かが優勝していますね。 さて、そうした中で が春秋優勝ですが、他の世代も春か秋のどちら みな強かったんですね。 昭和四三年入学世代 司会 今だから話そう てすぐの試合、確か平塚での練習試合で始まっ どうだったか申し訳ないが記憶にない。 があるかどうかわからなかったが、ボールを持 の後ろのバーに当たっていた。 自分はバック が、病気療養中なので代理です。(残念ながら 斎藤 って来いと言われたので行ったところ、試合が スでそれ を目の 前でみて いたか ら分か って い てすぐに足を骨折してしまったのです。 それ 倉が覚えていないので私が言うと、われわれの あったのに十一人しか来なかったので、入部翌 たが、審判が見落としていたのだ。 明らかな 本年四月五日逝去されました) 同期は20人 三年の時の戦績は、春が2位で秋が優勝だった。 日に試合に出られたのが印象に残っている。 誤審である。 それを言おうかと思ったが黙っ でも、春は優勝で秋は準優勝だったと思う。 秋は最終 戦で稲 穂に勝つ と優勝 という とき 学 昭和四四年入学の田口です。 主将だっ くらいだったが、卒業時は多少減った程度だっ 院のグラ ンドで 勝って優 勝した のをよ く覚 え 田口 ていた。 このことはずっと誰にも言わなかっ 昭和四二年入学の木原です。 本来なら いま気になっていることがあって、もう ありがとうございました。 この世代は ている。 たが、主将らしくできなかったので、みんなか たが、今日ここでやっとばらすことができてホ 昭和四一年入学の朝倉です。 主将でし 木原 ら非難されました。 というのは、主将になっ 同じく昭和四一年入学の斎藤です。 朝 キャプテンだった三輪(創)が出席すべきです 11 おおー、四〇年ぶりの告白ですか。 成井 しかった。 斎藤 いたやつもいた。 まり場みたいになって、プロみたいな生活して そう、堀内さんの歌は聞いていて恥ずか 司会 私も告白したいのですが、キャプテンに ッとしている。 田口 どれだけ役に立ったか。 司会 もっとサッ カーの 話を しま しょ うよ 。 ダンパで資金調達 れたキック力と、吉成さんのジャンピングボレ 和田さんの「よかチン」が鮮烈な印象。 先輩から教わった春歌が、以後の人生で なってすぐに骨折したという話をしましたが、 田口 個性的なプレー 実はその 日は徹 マン明け でぼー とした まま 試 話題を変えましょう(笑) ーシュート、朝倉さんのバックス三人を一瞬で 印象的なプレーとか。 司会 だけど、飲み会とかダンパ(ダンスパー 合に入ったのでケガをしたと思う。 平塚でや るという ので横 浜の友達 の家で 直前ま で麻 雀 朝倉 かわしたフェイントですね。 田部井 そうそう、あれは大塚さん(昭和四二 ない。 な。 あそこに塗るんだからたまったものでは 斎藤 木原 あまり稼げなかったと思う。 朝倉 おれたちは赤坂プリンスでやったけど、 字だったけどみんなどうだった? 渡辺 勢に驚かされた。 サッカーを暇つぶしと思っ 柔らかさもすごかったが、サッカーに対する姿 木原 うなった。 個人技に 任せる というス タイル だった ので そ く蹴ってフォワードに渡し、そのフォワードの 高校のとき 弱かっ たの でと にか く大 き そりゃあ、渡健さんのケバキックと言わ をやったのだ。 これもずっと黙っていたが今 ティのこと)とか、それと麻雀をよくやったな 渡辺 年入学)が始めたんじゃないかな。 ぼくらも赤プリだったけど、多くの女性陣を壁 ていたから。 成井 日初めて言ったのでホッとしている。 あ。 田口 の花にしてしまったのを思い出します。 吉成 サロメチール、春歌攻め やつがいっぱいいる。 田部井 黒字だったので助かったなあ。 かのディフェンスがすごかったな。 ゴールに ダンパをや ったけ どお れた ちの 時は 赤 司会 田口 入りそうなボールを掻きだしていた。 印象的なことと言えば、サロメチールだ 大変でしょうね。 子供じみてますけどね。 けど、パー券を青学に売りに行ったりして、黒 成井 そうですね。 いまそんなことをしたら そう言えば、今はやっていないと思うが、 ぼくらは目 黒のパ ーク レー ンで やっ た 学校の近くにあった東風荘(雀荘)はた いけど、三輪(創)の右ストレートだな。 確 あとそうそう、サッカーのプレーじゃな おれのことはいいけど、岡田とか阿部と 吉成さんは衝撃的だったですね。身体の 吉成 字にした。 ダンパといえば大塚で、彼が資金調達係。 春歌を唄 うとい うのがあ ってコ ンパで よく 堀 木原 ぼくらの時も続いていて、被害にあった 内と唄ったなあ。 12 た三輪が 血相を 変えてそ いつに 突進し てそ の その腹を蹴り上げたやつがいて、それを見てい で、渡辺(昭和四三年入学)が倒れているのに か慶応工学部だったと思うが、農工大との試合 したことがあったけど負けてしまった。 東大 渡辺 試合の様子あたりをお聞かせ願えれば。 司会 この世代はどこも強かったようですが、 大学リーグの二部程度の実力があった 斎藤 と守備の役割分担がはっきりしていた。 る端境期だったと思う。 それでも、まだ攻撃 成井 マンツーマンディフェンスだった。 吉成 現在のよう にコン パク トに 固ま って や ちょうど、WMから4・2・4へ移行す フォーメー ション が今 と違 って WM で まま右こぶしを額に打ち込んだのだ。 こりゃ を甘くみていた。 東大と御殿 下のグ ラン ドで 練習 試合 を すごかったな。 ってなかったように思う。 リードしてしまった。 向こうもビックリして 軍位のメンバーで、そうしたら前半で1対0で 大学)と練習試合をしたのだが、相手は最初三 木原 斎藤 そう当時一部だった東京教育大(現筑波 それから教育大にも惜敗した。 斎藤 ールの重さは今日では想像がつかないだろう。 成井 合したことが多かったと記憶している。 う。 田んぼのようにぬかるんだグランドで試 木原 練習試合だったと思うが、大学二部の上 朝倉 田口 でも殴った のに後 で相 手が あや まり に 木原 智大学とやって、引き分けか接戦で破れ、われ シュートなんてことは考えられなかった。 一、二軍のメンバーを投入してきて、結局1対 ントでよくすり減ったもんなあ。 そういう意 だから、バックスがボールを持ちこんで きたらしいよ。 われの実力は大学二部程度であると感じた。 1の引き分けだった。対戦相手に高校後輩の黒 味では今 はスパ イクにし てもボ ールに して も グランドコ ンディ ショ ンも ずい ぶん 違 田君 元(滝川二高監督 が) いたのを覚えている。 グランド にして もサッカ ーをや る環境 は格 段 用具でいえば、スパイクなんか皮のポイ 雨の日など、水を充分に吸い込んだ皮ボ 田部井 そう、あれはベストゲームでしたね。 サッカース タイル みた いな こと でい う によくなっている。 渡辺 と、今のサッカーは個人の技術もさることなが 今との違いと変わらぬもの 司会 ら、チーム戦略がしっかりしている。 皆さんがプ レーし てい た時 代か ら四 十 年以上経っていますが、今のサッカーとの違い 田部井 技術レベル は今 の方 が上 回っ てい る みたいなことはいかがですか。 13 ッカーを始めました。 高校がサッカーが盛ん 野地 らめている。 るくらいまでやっていたが、今はプレーはあき なあ。 サッカーは趣味では五〇歳を少し超え バル走1 0本で すべてト ップで 走った こと か 夏の霧ケ 峰の合 宿の最終 日の最 後のイ ンタ ー 懸命やりましたね。 一番の思い出は、三年の 渡辺 します。 や現在の サッカ ーとの関 わりに ついて お願 い 時間が来ましたので、皆さんから大学の思い出 司会 もっといろいろお聞きしたいのですが、 一番の思い出と現況を う。 ーで、そのあたりは昔は負けていなかったと思 していれ ば力を 発揮でき るとい うのも サッ カ くそでも チーム としての 戦い方 が全員 に浸 透 が、試合に勝つ要件はそれだけではなく、下手 斎藤 会をはたせ、これからのつきあいが楽しみだ。 足で卒業 以来会 っていな かった メンバ ーと 再 ンバー構成に苦労した。 実は今回のOB会発 生に上手 なメン バーが多 かった ので試 合の メ 世代は経験者と未経験者が半々くらいで、下級 指導する立場でいい経験になった。われわれの ある人たちが多く、その人たちに仕える立場と 朝倉 一、二年の時の合宿は本当にきつかった 教えてからここへ来た。 取得して、子どもたちを教えている。 今日も 培ったように思う。 今は、D級ライセンスも れない。 個人的には、勝者のメンタリティを レー、岡田のビフテキ、堀内、高殿らは忘れら 幸村のイ ンド人 もビック リのジ ャンピ ング ボ 吉成 やはり同期のキャラクターが印象深い。 めたことですね。 スポーツ 大会の 部対抗ボ ートで コック スを 務 出は、一年の合宿の辛さと、相模湖で行われた た。 未経験者にも温かった。私の一番の思い くのが大変だったが、同期の仲間が助けてくれ っていません。 っていましたが、もう十五年ほどボールには触 と、子供のサッカーチームのコーチ・監督をや 代えがたい財産になっていると思います。 あ たので会 えば瞬 時に打ち 解ける ことの でき る は馬鹿な ことも 含め濃密 な時間 を過ご して き でも大学時代、それも部活で知り合った友だち 変わりましたが。 けば当時のカオスが思い出されます。 西口は 前の混沌とか花園町の危うさ。 今も新宿に行 しく、また色濃く思い出します。 コマ劇場の ると、あの時代、三丁目の夕日の残照を、懐か 木原 はベトナム旅行でゴルフも楽しんできた。 つ下の世代とよく会うようになって、昨年末に した。いまは、朝倉が言ったように、同期と一 のミズノに発注、それを着て秋のリーグで優勝 ーグのエ スパニ ュオール とよく 似てい て神 田 新調したが、それは赤白の縦じまでスペインリ 年の夏に 新しい ユニフォ ームを デザイ ンし て て夢のまた夢であった。印象的な思い出は、三 サッカーをして感激したなあ。当時は芝生なん 私は最初にも言いましたが、大学からサ CFの三輪に預け、ウィングとインナー すいません、キザですね。 あらためて そうい われ て振 り返 って み な広島の修道だったので、そうそうあの森孝慈 が、三年になると楽になった。だから体力だけ 成井 もう勉強そっち のけ でサッ カー を一 生 と同級なのですが、サッカーになじみがあった はついた。その検見川合宿で初めて芝生の上で 一級上の先 輩と一 級下 の後 輩は 個性 が と思う。 ですから、最初はまわりについて行 14 のグランドばかりだったが、沖電気で組んだ練 私の思い出も斎藤さんと同じように、当時は土 ッカーに 没頭し かつ充実 した四 年間だ った 。 だった。 結果を出せるチームだったので、サ が走り回って得点機を作る、 楽しいサッカー していない。 大学卒業以後は、高校のOB会以外ではプレー 兎にも角 にも素 晴らしい 青春時 代であ った 。 り苦しま ないで 優勝して しまっ た気が する 。 そこそこの粒ぞろいだった。 リーグ戦もあま 田口 できたこと。 そして部活を通じて素晴らしい ーグ戦を終了するまで、公式戦に全試合に出場 田部井 一年生で入部して以来、三年で秋のリ シニアの証拠。 ドだが、膝と肘のプロテクターが必需品なのが、 5試合こなした。 当時と違って人工芝グラン 都シニアリーグオーバー六十に参加、昨年は1 役支援の ほうも お願いし て座談 会を終 わり た たので、ぜひOB同士のお付き合いとともに現 知ることができました。 OB会も発足しまし おられ、そうした経験が今も生きていることを 楽しい大 学サッ カー生活 を送ら れたと 語っ て りしています。 そして、異口同音に苦しくも のことの ように 覚えてい らっし ゃって びっ く 司会 ぼくらのチームは、突出した人はおらず、 習試合は、夢のようにふかふかの芝グランドで、 仲間(先輩、後輩)に出会えたことが一番の思 いと思います。 本日はどうもありがとうござ 今でもその感触が甦るようです。 今は、東京 い出ですね。そして、ぼくらは春秋優勝でした いました。 みなさん、四〇年も前のことをつい昨日 が、勝てたのは、個人技に優れた選手は少なか ったが、チームワークは抜群で、それが他のチ ーム力を上回ったと思う。 現在は神奈川シニ アリーグ(六〇代)の現役でがんばっています。 神奈川代表になって全国大会を目指している。 現在のチ ームの 実力は二 位なの で今年 はチ ャ ンスだと思っています。 15 寄稿文 下手くそサッカー記 昭和三十四年入学 伊橋 俊彦 昭和三二年十二月、甲府の湯村サッカー場で 韮崎高校 に惨敗 したこと がいま だに思 い出 さ れます。 インターハイ予選神奈川県で優勝し て、山梨代表に勝てばインターハイ本戦出場と いうことだったのですが、下手くそキーパー (私)のために惨敗してしまいました。 中学時 代は何 の運動も してい なかっ た私 で すが、同級生のゴールキーパーが他高校へ転校 してしまったため、高一になったとき誘われて 、急拵え のゴー ルキーパ ーにな ったの です 。 そのため 技量レ ベルはか なり低 かった と思 い ます。 高一の冬の新人戦、高二の春の東日本大会? 予選、夏の国体予選と二.三回戦で敗退してい たのが、インターハイ予選フロックで優勝した というのが私のサッカー歴です。 理工サッカーの古文書に書いた通り、サッカ ーの楽し さを知 りサッカ ーをし たくっ てこ の 部を作ったのです。ゴールキーパーには懲りた のでフォワードをすることにしましたが、簡単 なシュートを外し、田口(三五年)からは「シ ュートはこう入れるんですよ」と叱られたり、 小林(三六年)からは「伊橋さんは、フォワー ドは向きませんよ、キーパーをやったほうがい いですよ」と言われたり散々でした。それでも サッカーが好きだったのでしょう。会社(山武 ハネウエル)に入ってもサッカー部を創部し、 そこでも下手くそフォワードをしていました。 古希を過ぎ、自分の人生を振り返ってみると サッカー をやっ ていてよ かった とつく づく 思 います。サッカーを始めたことで成績は落とし ましたが、体力面、性格面でかなり変化したと 感じています。 仕事をする上で も、これが大きな バックボーンとな ったことは言うま でもありません。 また、サッカーを 通じてできた人脈 は今でも大切なも のです。これから も、機会あるごと に集まりたいもの です。 定年後の計画 昭和三十五年入学 相沢 一宏 今から五 年半前 に出向し ていた 会社を 退職 し た。それまで元気だった知人が突然脳出血で半 身が麻痺し伏せてしまった。それが会社を辞め るきっかけとなった。働ける間は働こうと思っ ていたが、知人が病に倒れたのを見て、自分に もいつ病が襲ってくるかもわからず、そうなれ ば今まで何のために働いてきたのか、定年後に 思い描い ていた もろもろ の計画 ができ なく な ると思ったからある。 その計画と は、囲碁 、コント ラクトブ リッ ジ、映画鑑賞、読書(特にミステリィ)、料理 教室、フィトネスクラブ、旅行、ゴルフ等をす ることである。 囲碁は強くはなく1、2級程度であり、「囲 碁研究」という雑誌を定期的に購読し電車の中 で読んでいるだけで、実際に碁を打つ暇がなか った。やっと定年になって会社の先輩たちがや っている 囲碁会 に誘われ て碁を 打ち始 める こ とになった。月に一度の囲碁会であるが、楽し みはその後の居酒屋で一杯飲むことである。会 社の情報や、世の中の動向など世間話に花を咲 かせている。しかし当初10名前後いた人数が だんだん減って、現在6、7名程度になってき 16 ている。自分が一番若いので、この会がこの先 いつまで続くのか、最後の一人になるのではな いかと危惧している。 コントラク トブリッ ジは、若 い頃盛ん にや ったが、定年後にぜひやりたいことであった。 横浜駅付 近にあ るコント ラクト ブリッ ジを 専 門に行う場所に行き覗いてみた。そこはまさに 熟年女性のための娯楽所であり、男性はわずか 2割程度である。コントラクトブリッジは、囲 碁や、ゴルフと違い二人で組んで行う競技であ る。一人で参加する場合、自分のパートナーを 見つけなければならない。そのパートナーが見 ず知らずの女性になる可能性が高い。ミスをす るたびに パート ナーに睨 まれる のでは たま ら ないので、パートナーとなってもらう男性を探 さなければならないが、今もまだ見つけられず、 パソコン でコン トラクト ブリッ ジのソ フト を 相手に腕をみがいている。 映画鑑賞は 、定年後 にもっと もやりた いこ とであった。映画館に行くのではなく、若い頃 から録り ためた ビデオテ ープの 映画を 観る 見 ることである。しかし、今はまさにデジタル時 代でDVD全盛となり、画質の悪いビデオテー プはもはや時代遅れとなっていた。やむなくD VD録画 機を購 入しDV Dに映 画を録 りそ れ を観ることにした。今まで録りためた多数のビ デオテープは惜しかったが捨てた。今のDVD 録画はビデオテープと比べ画質、録画容量、D VDへの短い録画時間、保管スペースのコンパ クトさに於いて比較にならない程便利である。 そのため 鑑賞す るよりも どんど ん録画 した D VDがたまってきている。生きているうちに全 て見るようにがんばるしかない。最近の映画は シネコンと称する映画館で見ることが多い。た しかに音 響等の 設備は昔 に比べ 大変よ くな っ ているが、映画をシネラマや、七〇ミリの大画 面で見た昔がなつかしい。あの大きなスクリー ンはどこにいってしまったのであろうか。 ミステリー は年末に 週間文春 等で発表 され るその年の「ミステリーベストテン」などを見 て購入し、会社の通勤時間を利用して読んでい た。しかしまだ読んでいない本がたくさんあり、 定年後は それら をゆっく り読む ことが でき る と思っていた。しかし定年を迎える一〇年前頃 から徐々 に眼が 悪くなり 読書を する機 会が 減 ってきていた。眼鏡を何度か買い代えたが、少 し時間が経つと合わなくなる。そんなことを繰 り返して いるう ちにほと んど本 を読む こと を やめてしまった。今ではそれらの本はごみと化 してしまっている。 料理教室は、定年後やったらどうかという妻 の後押しで始めた。横浜市の男性向け料理教室 は実費負 担だけ でできる 人気の カリキ ュラ ム である。妻からすれば、定年後料理することを 男性も負 担する べきとい う思い があっ たは ず である。自分にとって料理教室に参加すること は、料理の仕方を覚えることではなく、その日 のおいし い昼食 が頂ける 絶好の 機会と しか 見 ていなかった。そのため家で自分から料理をす ることは ほとん どなく洗 い物を 手伝う 程度 で ある。依然として料理は妻の領域ということに なっている。三年間料理教室に通って、その時 貰ったレシピは今もファイルに眠っている。 フィトネスクラブへの入会は、最もやりたい ことの一つであった。入会当初は体力つくり、 健康維持のために歩行器や、マシンと呼ばれる 体操器具により運動をしていたが、次第に単調 な歩行器に飽きてきて、今ではわずか20分た らずしか運動をしなくなった。それでもフィト ネスクラブに週に4,5回は通い続けているの は、風呂に入ることと、風呂が一種の社交場で あるからである。フィトネスクラブには4つの 風呂があり、それらの風呂は地下1300mか ら汲み上げた温泉である。その一つの露天風呂 は100%掛け流しの天然温泉で、東京の温泉 と同様に真っ黒な湯である。横浜で一番の温泉 ではなかろうかと思う。まったくの他人であっ た人と最初は風呂であいさつをする程度から、 一緒に風呂に入っていると、だんだんと会話が はずみ、今では一緒にゴルフをしたり、居酒屋 に飲みに行ったりするほどになった。そうゆう 仲間が今では十人位もできた。足、腰が丈夫で いて、温泉が枯渇しない限りフィトネスクラブ に行き続けるつもりだ。 17 旅行には、若い時から妻と海外、国内を問 わず行っている。さらに定年後は丈夫なうちに 旅行をし ておか なければ と想い があり よく で かけている。しかし最近海外にはほとんど行か なくなっている。高齢な親が老人介護施設に入 居していて、いつ緊急事態になるかも知れない からである。国内では、温泉地に行くことが多 いが、その他に春は桜見物、夏は花火大会、秋 は紅葉と大体行く目的が決まっている。ほとん どが一、二泊程度の旅行会社が企画したパッケ ージ旅行である。花火大会にはこだわりがあり、 特に新潟県の長岡、柏崎、片貝の花火大会が好 きで、ほとんど毎年どれかの大会にでかけてい る。また親戚、兄弟でレンタカーを借りて年に 一回旅行しているが、レンタカーの利用は車の 運転ができるあと数年が限度と思っている。 ゴルフは、定年後同じ同伴者と日を決めて月 に数回プレーしている。ゴルフは歳をとっても 若い者に 負けず にできる 数少な いスポ ーツ で ある。息子とプレーすることがあり、飛ばす距 離では勝てないが、小技ではまだまだ負けない。 ゴルフは歩けなくなったらできなくなるが、七 〇代八〇 歳代の 人が元気 にプレ ーする とこ ろ を見るにつれ、自分もそのような歳までプレー できればよいと思っている。 定年後 の計画 とその現 況はう まく進 行し て いるものとそうでないものとがあり、なるよう 田口 正孝 にしかならないということであろう。それでも 会社に勤めていた時と比べれば、ゆったりして、 充実している。先のことを思い悩まずに、今日 一日がお だやか に過ごせ たこと を感謝 して い る毎日である。 サッカーの自分史 昭和三十五年入学 このた びの理 工サ ッカー 創部五 〇周 年記念 誌の発刊にあたり、私がサッカーとどうかかわ ってきたかを綴ってみることにした。これは全 く個人的な回顧録であり、他人さまに読んでい ただくものではないが、このような機会に自分 史としてまとめたものである。 私のサッカーとのかかわりは、いくら当時サ ッカーが マイナ ーなスポ ーツだ ったと はい え 大分遅く中学一年生の時だった。小学校時代は 多くの子 供たち がそうで あった ように 私も 野 球少年で、ボールを投げ、バットを振っていた。 ところが理由は思い出せないが、中学に入っ たら部活は卓球部に入ると心に決め、入学後の 部活の申し込みには「卓球部」と書き、実際入 部して部員の一人になったのである。ところが その憧れの卓球部は、大勢の部員の割に卓球台 はわずか二台。台の前に立ってラリーをするど ころか、特に一年生は球拾いかラケットの素振 り、それともグラウンドのランニングに明け暮 れる、それが憧れていた卓球部生活の始まりだ った。卓球台の前で球を一球も打つことなく、 早くも一か月で退部、以後部活浪人になったの である。 それが どうし てサ ッカー と出会 った のか六 〇年近くたった今では全く記憶にないが、一緒 に卓球部をやめた友人に誘われてか、それとも 数学担当 のO先 生がサッ カー部 の顧問 をさ れ ていて、授業中やそのあとにサッカーの話をさ れることがたびたびあり、興味を持ったのだろ う、そこであらためてサッカー部に入部を申し 込み、部員になった次第である。 サッカー部の一員になったのはいいが、入っ た当時はサッカーとはどんなスポーツか、どの ようなル ールで 成り立っ ている のか全 く分 か っていなかった。先輩が練習の前か後にそれら を教えてくれるわけでもなし、友人たちと本屋 に行ってそれらしき本を適当に求め、回し読み をしながらサッカーの歴史からルール、ボール の蹴り方受け止め方、そして初歩の戦術を独学 で勉強していったのである。先輩から教わった という記 憶がほ とんどな い変な 部生活 であ っ たが、皆で輪になってボールを蹴り、走りなが らパスの交換をしたり、何よりも人として技術 を使う最大武器の一つである両手が使えない、 その代わり足を十二分に使い、頭を使ってヘデ 18 ィングをする、そんなサッカーの魅力にすっか りはまるのに時間はかからなかった。それから 毎日、野球部や陸上部と共用する、ただでさえ 狭いグラ ウンド で泥まみ れにな ってボ ール を 蹴るサッカー少年が誕生したのである。 ところ が私が 入学 した岸 中学校 のサ ッカー 部は強いチームではなく、どちらかというと弱 いほうで、S・T・F各中学にうまい選手がい て の(ちに浦和高校で一緒にボールを蹴ること になるのだが 、)初戦負け、一・二回戦に勝っ ても準々決勝に進めばいいほうの学校だった。 それでもボールを蹴ることが楽しく、放課後、 暗くなるまでグラウンドを走り回っていた。ま だもののない時代で、試合に着るユニフォーム は自前で、上は白のポロシャツ、下は各自が練 習で着ていた白やグレー、ライトブルーの短パ ンを先生 と一緒 に校庭の 隅にし つらえ た古 釜 でナス紺 に煮染 めて作っ たこと も思い 出に 残 っている。スパイクもなく通学用のズック靴で 蹴っていたがふた月と持たず、母が無理をして 新しい白 皮のス パイクを 買って くれた のが と てもうれ しかっ たことを 今でも よく覚 えて い る。 中学の思い出のひとつに、先に出てきた顧問 のO先生担当の数学が、サッカーとともに好き になり得意になって、以後数学や物理・化学を 苦にしなくなったのは、その後の私の人生に大 いにプラスになったと思っている。 さて、中学を終えると高校受験であるが、近 年ほど世 間的に 進学に血 眼にな ってい なか っ たせいもあり、岸中学からは毎年F中学と並ん で五~六 〇人が 浦和高校 に入っ ている こと か ら、三年の暮れぐらいまでは比較的のんびりし ていたように思う。三年生の部活動は秋の運動 会ぐらいまでが一般的であったが、好きな者は 暮れ近くまでボールを蹴っていて、私もその一 人であった。先生も比較的成績の良い生徒には 「入れる のは当 然だが、 一番か ひとケ タで 入 れ」とハッパをかける程度だった。 浦和高校に合格して、入学式までのんびりで きると思って過ごしていた三月半ば、浦高に行 った二年 先輩の Sさんが ある日 の午後 家に 来 て、「田口、サッカーの用具を持って俺の自転 車の後ろに乗れ、すぐ浦高に行くぞ」。事情が 良く分からないまま自転車の荷台にまたがり、 先輩の言われるままに浦高に着き、その日から 浦高サッ カー部 員見習い として 正式に 入学 す るまで、もぐりの部員生活を半月ほど送ったの であった。 当時の浦高は、全国高校サッカー選手権大会 イ( ン タ ー ハ イ 二) 連 覇 中 で 三 連 覇 が か か っ て いて、さらに秋の国体をもと張り切っていて、 中学の時の同好会的、仲良しクラブのボール蹴 りとは全 く違っ たある種 ピリピ リした ムー ド が漂っていた。さらに、今まで指導してこられ たM先生 が脳溢 血で倒れ 退院し ていた が加 療 中、新任のF先生は東京教育大学出身の二十六 歳、全日本の候補選手でもあった。新二年生の 部員はレギュラー二人、サブ二人、その他一人 という五 人しか いない谷 間の学 年とい う問 題 を抱えていた。F先生の指導方針は全日本候補 に選ばれていただけあって、高度な戦術、テク ニックそして合理的な練習方法であった。しか し一方では「自分の体力の限界を知れ」、 「それ に挑戦せよ」とも檄を飛ばし、私たちもそれに 乗せられ 血の小 便が出る まで動 きまく って そ の入り口程度を経験したこともあった。 国体優勝、インターハイ三連覇という高い目 標を掲げているせいで、レギュラーとサブはフ ォーメー ション のパター ンの繰 り返し と個 人 技の向上に余念がない一方、我々一年生は三時 限の授業が終わり次第昼の弁当を済ませ、四時 限の授業が終わったら直ちに部室に集まり、十 数個のボ ールの 空気入れ と縫い 目に保 革油 塗 りをし、ゴールネットをすぐ張れるように部室 前に広げておくのが日課だった。六時限の授業 が終わると走って部室に行き、練習着に着替え、 ボールをゴール前に並べ、ネットを張り、トン ボでペナルティエリアを均し、そしてラインを 引いて三 時十五 分には上 級生の 出番を 待つ の が役割だった。練習は日が暮れてボールが見え にくくなるまで続き、終わったあとはボールを 集めて空気を抜き、ネットを外してたたんで部 室にしまって、はじめて一日の練習が終わった 19 と言えるのだった。 そこで何よりつらいのは空腹だった。食べ盛 りの高校 生が十 一時過ぎ から夕 方六時 頃ま で せいぜい水を飲むぐらいで三時間走り回り、腹 ペコでとても家に帰る気力もない毎日だった。 といって 毎日蕎 麦やラー メンを 食べて 帰れ る ほどの小遣いもなく、せいぜい併設している定 時制高校 の生徒 のために 販売し ている 黒糖 の 味つきコッペパン ジ(ャムもマーガリンもつい ていない を)一つ買い、無料で用意してあるや かんの番 茶をが ぶ飲みし て一時 的に空 腹を 満 たして、ようよう家にたどり着き、夕飯を腹い っぱい食べてやっと落ち着くのが日課だった。 腹の皮 が突っ 張れ ば目の 皮がた るむ の言い 伝え通り、睡魔と何とか闘いながら翌日の授業 の下調べをしているのだが、さすがに彼女の甘 いささやきには勝てず、九時過ぎには布団に入 っている日々を続けていた。 69連 勝とい う記 録を打 ちたて た大 先輩た ちの入れ 替わり 立ち替わ りの指 導のお かげ と 我々下級生の後方支援の力がかみ合って、その 年も予選 を勝ち 抜いて国 体に出 場でき るこ と になった。幸いなことに私は一年生ながら十五 人の登録メンバーに入り、第十一回秋季国民体 育大会兵 庫大会 に補欠と して連 れて行 って も らえることになった。講堂の高い壇上に並び全 校生の期 待を受 けての壮 行会で の晴れ がま し い姿までは良かったが、実際に国体列車?に乗 り込む時 の姿と 言ったら 自分の 着替え と練 習 着は当然だが、宅配便などはなくチッキでしか 送る手段しかなかった当時のこと、それにその ような費 用のか かる外注 に出す ことな ど頭 に なかった先生と高校生は、手っ取り早く運び屋 には補欠がいるではないかとの結論で、補欠は 練習用のボールを一人数個、空気入れ、保革油 の缶とニードル チ(ューブつきのゴム風船を革 袋に入れ たサッ カーボー ルを蹴 ってい た諸 君 には懐かしい思い出でしょう さ)らには当時の 食糧事情もあってか、たしか一人二〇キロぐら いのコメ 袋を荒 縄でくく って運 んだ思 い出 が 残っている。 先輩の レギュ ラー 組は自 分のボ スト ンバッ グかスーツケース一つで颯爽と歩き、その上同 じ列車に 乗り合 わせた浦 和一女 のバス ケッ ト ボールや ボート 部の顔見 知りの 女学生 と笑 顔 で話しながら改札口に進むのに、我々苦力は重 い荷物を 抱え担 ぎヨロヨ ロしな がらそ のあ と を追って行ったのだった。 この国 体は前 評判 では優 勝候補 の筆 頭に挙 げられていたが、国体に弱いというジンクスに 屈し、二回戦で、函館商業に延長戦にまで持ち 込まれ抽選負けという番狂わせでジ・エンド、 この敗戦の何とも言えない重苦しい雰囲気は、 さすが伝統校だなと感じたものである。 意気込んで 臨んだ国 体で思い がけず函 館商 業という どちら かという と無名 の学校 に敗 れ たことで、今までの緊張や思いがぷっつり切れ、 三連覇が かかっ た肝心の インタ ーハイ の県 予 選では決勝で2 3-で浦和西高に敗れ、私が一 年生のこ の年は 何年かぶ りの無 冠に終 わっ た のである。いやこの年からが浦高の低迷期の始 まりであり、以後全国クラスの大会で優勝する 機会が無くなったのである。 おまけに浦 高を破っ た西高は その年の イン ターハイで優勝し、埼玉県勢としては三連覇達 成で喜ば しいこ とであっ たが我 々の思 いは 複 雑であった。何しろ当時の県体育協会会長はあ いさつの中では「サッカーにおいては、埼玉を 制する者は全国を制する。」が口癖であったが、 我々はその前に、「浦和を制する者は、埼玉を 制する。」を入れ、またそうであるよう人一倍 の練習と 戦術を 編み出す などの 努力を 重ね て きた自負があった。 協会長の言 葉通りに はなった が、我々 とし ては「浦和を制する」のは我々浦高でなければ ならず、断じて浦和西や浦和市立ではないのだ った。我々はこの雪辱を誓い、翌年は何として もと決意を新たにしたが、三年生のレギュラー 七人が卒 業した 後に待っ ていた 試練は さら に さらに大きいものであった。 新年度 に入り 私た ち一年 生は当 然二 年に進 んだ。ところが三年生になったたった五人しか いない先輩のうち、レギュラーだった新キャプ テンは東大受験のため退部してしまい、もう一 20 人のレギ ュラー のCFも 家庭の 事情も あり 登 校しなくなってきた。ピンチである。今までは レギュラーはほぼ固定されていたとはいえ、怪 我 や ダ ブ ル ヘ ッ ダ ー 時( 々 あ っ た も) あ る こ と から一つ のポジ ションに 複数の 人数を あて 競 わせていたのが、いくら新一年生が入ってきた とはいえ、その一年生をいきなりレギュラーに せざるを得ない状況になったのである。 い く ら 全 日 本 の 候 補 選 手 で あ る あ( っ た F) 先生でも戸惑われたことだと思うが、あてがわ れた「資源」の特色を見出し、戦略を練り、戦 術を磨いて少しでも浦和西・台頭してきた浦和 市立と何 とか互 角に戦え るチー ムに持 って い ったのは流石というべきであろう。 その一 つに当 時は バカの 一つ覚 えの ように WMフォ ーメイ ション( 最近読 んだ『 ジョ ー ジ・ベストがいたマンチェスター・ユナイテッ ド』の本の中で彼が活躍した時代の一〇〇年も 前からこ のフォ ーメーシ ョンが 使われ てい た ことを知った)であったが、私たちはM型フォ ワード陣型で相手のマークを迷わせ、かつ臨機 応変にW 型に戻 してさら に相手 のマー クを 外 すなど、トータル的にボールの動く距離よりも 人の動く 距離を 多くする のがこ の戦法 のね ら いであった。 このよ うな涙 ぐま しい努 力にも かか わらず 先の両校 との実 力差はな かなか 縮まら なか っ たが、下級生が技術的にも体力的にも伸びてき たことも 相俟っ て少しず つ自分 たちの サッ カ ーになってきた。五月の県高校総体では西高に 敗れて準優勝、東日本大会 こ(の大会が最後で、 のちにブ ロック に分かれ 関東大 会に引 き継 が れた の)予選に勝って、本大会では準決勝で韮 崎高、三位決定戦では藤枝東にそれぞれ敗れ、 四位になった。そのあとの国体予選では市立高 に準決勝で負けて出場ならず。インターハイ予 選でも市立高に準決勝で敗れたが、いずれも一 点差で、もう少しの頑張りが必要であった。 いよい よ年度 も変 わって 我々は 三年 生にな った。泣いても笑ってもこの一年にかけるしか なかった。国体予選の決勝戦再試合で、またし ても0対2で市立に敗れてしまった。 残るは インターハイ県予選のみ、「浦和を制する者は 埼玉を制する」浦和・浦和西・浦和市立三校に とっては、お互いに負けられない試合だった。 浦高と市立高が勝ち進み、決勝戦で雌雄を決す ることになった。時は十一月三十日、所は浦高 グラウンド、その日は冷たい雨が朝から降りし きっている非常に寒い日だった。 自校で試合をする有利な点がいくつかある。 一、より慣れたグラウンドが使える。二、この ような雨 の寒い 日には火 鉢があ り湯が 沸い て いる小使 い室で 着替えや ハーフ タイム に熱 い 白湯が飲めること。三、浦高では伝統的に、自 校グラウ ンドで 行うサッ カーの 準決勝 以降 の 試合には その試 合を在校 生が応 援でき るよ う に授業が中止になり、応援者が多いこと、など である。 このよ うな悪 コン ディシ ョンの 中で 試合は 始められた。朝からの雨で、普段は水はけのよ いグラウ ンドも 大きな水 たまり があち こち に 出来、高いボールは落ちた点で止まり、低く早 いボール は滑っ てさらに スピー ドを増 して パ スがつながらない。両校選手たちは難しい技よ りも味方の足元をめがけてパスを送り、コンデ ィション の良い ところで はドリ ブルを 使っ て ボールを 前線に 進めるな どして お互い 一進 一 退のゲー ムをし ながら前 半は0 対0で 終え た のであった。 前半の 終り近 くに 私がパ スを受 けて ゴール 近くに持ち込み、シュートを打ったのがゴール 左下隅に 入った かと思わ れたが ゴール ポス ト 近くまで 詰めか けていた 観客の 足に当 たっ て 入ったということで認められなかった。このと きは雨脚 が強く 二〇メー トル先 もよく 見え な い状況でレフリーも苦労しただろう。 ハーフ タイム はマ ネージ ャーが いつ ものよ うにヤカンに水を入れて持ってきたので、「小 使い室からお湯を持ってこい」と怒鳴り、温か いお湯で人心地つけ、予備のユニフォームに着 替えたのか、びしょぬれのユニフォームを脱い でお互い に絞り あってそ れを着 たのか 今で は 記憶がないが、差し入れのレモンを半分に切っ たものを齧りながら先生の話に耳を傾け、お互 21 いの連携や動きを確認しあって、後半戦に向か って再び雨のグラウンドに飛び出した。 後半も 前半と 同じ くさら に泥沼 化し たグラ ウンドに足を取られ、ボールに惑わされながら も両校の 選手は 技を尽く し力を 振り絞 って グ ラウンドを走り回り、在校生の応援は声をから し絶叫しながら選手を鼓舞していた。0対0の 均衡がついに破れる時が来た。LHの飯塚が後 ろからパスを受けて振り向き、二、三歩ドリブ ルしたか と思う とペナル ティラ インの 外5 メ ートルの 所から 強烈な左 足シュ ートを 放っ た のである。 私はその時CFでPKマークの位置にいて、 相手の背の高いCHに着かれていた。ボールは 低く、一メートルの高さだったろう。私は咄嗟 にバック ヘッド でゴール を狙お うと身 をさ ら に低くして態勢をとった。しかし彼のボールは あまりにも早く、私が額を出した時には私の背 中をかすっていた。それが幸いした。ボールを まともに 額に当 てていた ら後ろ のCH が頭 で 処理していたか、強く当たっていたらバーを越 えたかもしれなかった。ボールはわずかに左に それCHは動けず、GKもブラインドになって、 気がついて右ジャンプしたがわずかに及ばず、 ゴール右 サイド のネット にボー ルは突 き刺 さ ったのである。 一瞬の 空白の 後に 浦高応 援団の ウォ ーとい う歓声と もどよ めきとも つかぬ 声が雨 のグ ラ ウンドに鳴り響いた。キャプテンの菊池はゴー ルの中のボールを取り出し、わきに抱えてセン ターサークルに戻りながら「締まって行こうぜ。 守りに入るな!」と怒鳴った。皆我に返って、 さらに強敵を意識したのだった。そして残りタ イムを今まで以上に攻め、守って、ついに「試 合終了!」のホイッスルを聞いたのだった。キ ャプテン 菊池は 泥水の中 に突っ 伏すよ うに 倒 れた。皆、腰が砕けたようにへたっていた。 それで もよう やく 立ち上 がり表 彰式 の行わ れる体育 館の入 り口の庇 の下に 隊列を 組ん で 走って行った。途中すぐ下の弟 浦(高の一年で サッカー には今 まで殆ど 興味を 持って いな か った が)ずぶ濡れになりながら声をかけてきた。 今であれば「やったぞー」と親指を立てたとこ ろだが、その時は寒さで口の周りの筋肉が強張 っていて、ただただ「ウォーウォー」と獣のよ うな声が出るばかりであった。 表彰式が終わり、温かい白湯を飲んで人心地 つき、校門近くの銭湯のご主人のご厚意で全身 泥まみれの泥を落とし、熱い湯船につかって漸 く優勝で きた喜 びが全身 に満ち てきた ので あ る。そのあと食べたラーメンがいつもの何倍も 美味しかったことが今でも心に残っている。 さて、いよいよインターハイである。当時は 元旦から始まるので、暮のうちから西ノ宮に入 り、試合前の調整やグラウンドコンデションを 見て回った。また、どの新聞を見ても埼玉代表 は優勝候 補かベ スト4に は間違 いなく いけ る ような記事が載っていて、晴れがましいような、 先輩たちのお蔭にあずかっているような、そし て緊張し てくる 落ち着か ない状 況が続 いて い た。また、西ノ宮の女子高生は浦和の高校生の ような紺の冬コートではなく、明るいチェック のラムウ ールか モヘアの ハーフ コート 姿が 垢 ぬけていて、しかも我々選手情報もしっかりつ かんでいて、練習している横でも仲間同士我々 に聞こえるようにそれらを話していた。 それはさておき、この試合で浦高は一回戦は シードされ二回戦からの出場であったが、その 試合で長 崎の島 原商業に なんと 延長戦 にな り 1‐2で負けてしまったのである。 あとに なって 敗因 を挙げ てもせ んな いこと ではあるが、一つは埼玉で勝ったとはいえ漸く 勝ったのであって、決して強くて勝ってきたわ けではなかったこと、つまりは弱かったという こと。二つ目は情報をとらなかったこと。今ま での常識で強い高校は強い県にあり、すなわち 東京、静岡、広島、愛知といった伝統的に強い 地区にばかり目が行きそこを警戒し、それ以外 のところは無視か甘く見ていたこと。三つ目は まことに 情けな い話であ るが、 前日に 神戸 の 「埼玉県人会」が激励会としてすき焼きパーテ ィーを開いてくれたこと。そのこと自体は嬉し く感謝に堪えないことであったが、神戸牛など 今まで口 にした ことがな かった 田舎も んの 高 22 校生、野菜やしらたきも一緒に食べればいいも のを肉だけを「うまい、うまい」と鱈腹食べた 結果、翌日の試合日の朝から腹の調子が悪く、 力が出せなかったものが何人かいて、私もその 一人であった。 このような訳で、私の高校サッカー生活は夢 見た全国制覇は文字通り夢に終わったが、その 過程にお いての 努力は私 の人生 の中で しっ か りとした バック ボーンに なって いるこ とは 間 違いなく、悔いはない。私と同じような高校サ ッカー生活を送られた諸兄は、多分私と同じ思 いではないだろうか。 さて、いよいよ理工サッカーである。二年に なった確か六月ごろと記憶しているが、伊橋さ ん 名(前はその時名乗られたので初めて知った のだったが が)多分木戸君と相沢君を連れて、 普段私た ちが授 業を受け ている 木造の 十五 号 館に訪ねてこられた時から、私の理工サッカー が始まったのである。「君が浦高でサッカーを していた田口君ですか?」から始まって、理工 学部の中でサッカーが好きな者、高校でサッカ ーをして いた者 を集めて 同好会 的なク ラブ を 作るので参加しないか?と熱く語ってくれた。 私はそれ までそ のような 会があ ったと いう こ とを知らず、体育局のサッカー部は授業にも出 られないくらい練習三昧だし、第一○○学部で すと名乗ったばかりに殴られた 殆(ど第二学部 出身だとか と)いう話も聞いていたので、一も ボール を蹴る 機会 ができ たこと は喜 ばしい ことであったが、理工サッカーには二つの問題 があった。一つは近くにグラウンドが無く東伏 見まで行かなければならなかったこと、もう一 つは理工学部という性格上、演習、実験などが あって部員がなかなか集まらず、所謂フォーメ ーション などの まとまり のある 全体練 習を 実 施する機会が少なかったこと、が挙げられると 思う。だから他校との練習試合でもぶっつけ本 番が多く、初めは負けることが多かった。しか し夏や冬 の合宿 練習でだ んだん まとま って き たのではないだろうか。 特に冬の藤沢市善行グラウンドの合宿は、東 京淑徳短 大栄養 科や日本 女子大 食物学 科の 女 子大生が泊まりこみで来てくれ、献立をたて買 い出しをして、デザートつきの食事を作ってく れたのはとてもありがたくうれしかった。その 後彼女た ちとお つき合い する人 が一人 もい な かったのは、この部の七不思議にひとつかもし れない。 理工サ ッカー に在 籍の二 年半あ まり の間で 数多くの試合に出たが、私が一番印象に残って いるものとして、関東工科系リーグ戦初参加の 昭和三十 七年五 月二十七 日に行 われた 慶応 工 学部とのマッチである。 なにはともあれ「慶 応」と聞くと異常反応を起こす我々ワセダニア ン、試合前から慶応何するものぞ!との意気込 みであった。試合は15分ごろ、押し込まれて 23 二もなく参加を決めたのであった。高校卒業以 来、一浪中も含めてまる二年以上ボールを蹴る どころか触ってもいなかったが、久しぶりにサ ッカーができるとなると心はうきうき、身体も 弾む思いであった。 藤沢・善行での 2 回目の合宿 いた早稲田は、青田君がボールを持つと数メー トルドリブルし、自陣半ばから、センターサー クルの相 手側に いた私め がけて ロング ボー ル を蹴ってくれた。私は走りながら右肩越しに胸 でトラッ プしス ピードを 殺した ボール を左 足 前に落とし、ゴールまで二十五メートルとやや 遠かったが、二人のFBは出ようか、来るまで 待ってゴ ールエ リア内で 勝負し ようか 迷っ て いるようだったので、そのまま左足を振りぬい てシュートをすると、ボールはきれいな弧を描 いてゴール左上隅に吸い込まれていった。 その後一点を返され同点にされたが、その十 分後最初 の一点 目と同じ ような 展開で 私の 左 足のロングシュートが決まった。それなのに間 もなく一点を入れられ、前半は2 2-の同点で 折り返した。後半は始め一進一退の展開であっ たが、十分過ぎにRW岩田君からきれいな弧を 描いたセンターリングが入り、それを相沢君が 教科書の お手本 のような どんぴ しゃり のヘ デ ィングシュートを決め引き離し、終了間際には 私がスピ ードが あるドリ ブルで ペナル ティ エ リアに持ち込み、前半のこともあるので相手バ ックスが二、三人同時に私に向かってくるとこ ろに、シュートすると見せかけて、私の右後方 から走り こんで きた味方 にちょ いと小 さい パ スを出すと、彼は私に向かってきた相手バック スをいっぺんに振り切り、GKと一対一になっ たが走ってきた勢いでシュートを決め、この日 は4対2と快勝したのであった。この試合がい までも心に焼きついているし、青田君からのパ スを右胸で受けた感触も残っている。 学校を卒業した後、ゼネコンの大成建設に入 社し、すぐ飛騨や奥只見のさらに奥の水力発電 所の工事現場に配属されて働いていたので、サ ッカーと はほと んど無縁 の生活 を約五 年間 送 っていた。六年目に本社の土木設計部に転勤し たのを機に会社のサッカー部に誘われ、三たび ボールを蹴りだした。建設業リーグでの試合に も出るようになった。 しかし 五年の ブラ ンクと 三〇歳 近い 年齢に よる体力の低下・技術の衰えは如何ともし難く、 といって 普段練 習する時 間も場 所もま まな ら ない。ましてや合宿練習も夢の話であった。あ る試合でのこと、CFの私は相手陣内に入った すぐのところで味方からパスを受けた。オフサ イドではない。私は得意の早いドリブルでゴー ル目指した。GKと一対一になりシュート、今 までであれば決めているか、間違ってもキーパ ーにはじかれても次のチャンスが狙えるか、コ ーナーキックになるところである。ところが私 の足の力がそこで尽き、何とキーパーへのパス になってしまったのである。 私はその試合を最後に、所謂勝負を決めるサ ッカー試合から引退した。母校の浦高サッカー O B 会 麗( 和 サ ッ カ ー ク ラ ブ で) 楽 し く ボ ー ル を蹴る会には時々参加したが、その後肥大型心 小林 彬男 筋症 心(尖部 の)診断を受け、走り回るような心 臓に強い力がかかるような運動や行為 駅(の長 い階段を駆け上がることなど に)はドクタース トップがかかり、事実上サッカーができない身 体になってしまった。 それでもサッカーが好きだ。主にテレビを見 て、走り回る選手たちにエールを送り、ブーイ ングの声を出している。時たま浦和レッズの応 援に競技 場に足 を運ぶが 、その あと、 居酒 屋 「力」で知らないサポーターたちと酒を酌み交 わす気にはならない。多分これからの私とサッ カーとのかかわりは、このような関係で続いて いくだろうと思っている。 私の サッカー人生 昭和三十六年入学 今年は、いよいよ古希を迎えるので中学二年 の時に始まった、今でも続く五十七年に及ぶ私 の長いサッカー人生を、語り草として、備忘録 として、走馬灯のごとく振り返ってまとめてみ ました。 サ <ッカー人生のスタート > 24 あまり強烈な記憶はないが、何人かの友人と 中学二年の時に桐陰会蹴球部(今や創部九〇年 になる日本の草分け的な我が母校のサッカー 部の当時の正式名称)に入った。思えば私のサ ッカー人生は、どの学校、どの会社でどんな仕 事、どの女性との結婚と家族、等々、私の人生 を左右してきた諸々の環境要件に匹敵するほ どのものであったと思う。騙しだまし今もたま に蹴ってるサッカーとの出会いがなかったら、 私の今のメンタル・フイジカルは別のものにな っていたはずである。その現象の一つに、中学 二年の時に中学校全体で行われた村山貯水池 一周のマラソン大会で一〇位内に入ったこと がある。 我が母校がサッカー界では名門だったせい か、中学時代にNHK3チャンネルで放送した 岡野俊一郎氏が指導役の how to play soccer の番組に出演依頼があって、東大御殿下グラウ ンドで行われてイレブンで出た。 ついでながら、正月に行われる天皇杯サッカ ー大会の前座試合にも出たことがある。 高 <校時代 > 学校が進学校であったため、部活は二年まで であったので優秀なコーチに恵まれながら短 期間で戦力を強化する必要があった。進学校ゆ えに一般の高校生は東大(クラスの三分の一は 東大に進学)を目指して猛勉コースに入ってい ても、我々の練習は夜暗くなっても石灰で白塗 りしたボールを追いかけ、疲れていて宿題は出 来ないので姉に頼み、翌日さされると最前席の 女の子のノートを借りて平気で黒板に回答を 書く等、いいかげんな高校生だった。ただし通 信簿で「2」が二つ以上あると対外試合に出ら れないので緊張感はあった。最近のクラス会で 会う秀才の某大学教授に今でも「小林はいつま でも若々しくていいな」と言われると「自分は 勉強だけが人生ではなくて当時からバランス のよいライフスタイルを目指してきた」と嘯く。 文武両道である。 高校時代の一番の思い出は、富山国体で準々 決勝まで、冬の高校選手権で準決勝までいった ことである。出発駅で多くの人に見送られ、試 合会場では何人かの先輩に応援されて。 東京都予選の決勝は両方とも相手が城北高 校だったが、彼らは我が高校のために二度とも 阻止されたわけで城北のストライカーだった 関口氏は、今でも私のことを思い出すらしい。 本大会出場のための練習試合で、実業団の日 立と戦い善戦したが、秋田商出の当時の有名選 手だった平沢選手もウイングで出ていた。 英文の書物を読みながらコーチしてくれた 先輩は、選手の個人々々の特徴をよくつかんで それを活かす独特の戦略を展開し、私への指示 は相手のエースストライカーにプレイをさせ ないこと、私のキック力を活かしてコーナーキ ックやフリーキックを任せてくれたことであ った。国体の大社高校戦で遠めからのフリーキ ックを入れた球筋は今でも脳裏に残っている。 東京都予選で、名選手だった早稲田学院高の本 間氏と青学高のイケメンだった名取氏には、殆 どまともなプレイをさせなかったことは、記憶 が生々しい。ただし、高校選手権本戦の準決勝 で負けた初優勝の京都山城(釜本が入る前年) の和藤氏や三好氏に振り回された悔しさは今 でも忘れられない。最近、奇遇にも当時の山城 の面々と五十五年ぶりに雅叙園で酒を飲み、や はり勝った方の威勢の強さを感じた。後輩・釜 本を単なる後輩扱いだったのはおもしろかっ た。 山城戦の前の準々決勝では優勝候補の藤枝 東高に辛勝したが、我が校は殆どゴール前に張 り付けられて読売等一般商業新聞の写真に、私 のその奮闘ぶりの顔写真がはっきりと写って いて、既に黄ばんでいるが今でもそれを「お宝」 として保存している。山城戦で負けた後は、こ れでもう人生が全て終わったかの如く茫然自 失状態におちいったこともよく記憶している。 この年から始まったU -18 サッカー(十八歳 以下の選手で構成するアジアユースサッカー 大会)の選手候補に検討段階で私が上がってい たとか、慶応大学入学でサッカーをやるなら二 次試験免除の特典が得られそうになったり、真 偽はともかくいろいろエピソードもあった。 25 高校時代で確立した私のプレイスタイルは、 全日本の長友みたいに激しくて相手に嫌がら れて審判には特別にマークされ、今で言ういわ ゆるイエローカードものだった。これが米軍海 兵隊との対戦を含む百戦を戦ってきた私のメ ンタル・フイジカルの所以である。 大 <学時代 > もうサッカーとは縁が切れたと思っていた ら、早稲田理工学部入学の年に栄光学園出の伊 橋さんの強力なリーダーシップで理工サッカ ーが出来てとても嬉しかった。理工サッカーで の具体的な思い出話は割愛するが、ベースにあ った紳士的で大人のよきメンバーシップが印 象的である。みんな でよく飲んで話して 親交を深めたものだ。 その話題の一部をま だ覚えている。栄光 学園の丹沢山荘での 納会や、その日の夜 中に雪深い山道を登 ったこともかなりの 残像がある。 早稲田理工サッカー 部設立時に参加してから五〇年、OB組織が五 〇〇人、この早稲田理工サッカーへの関わりも 決して忘れられない。 山武時代 > < 故あって伊橋さんの紹介で(株)山武に途中 入社したが、山武でも伊橋さんがサッカー部を 作ったらしい。山武では三〇歳を超えるまでサ ッカー部のまとめ役と選手をしてきたが、会社 の人事が高校サッカーの有名選手を積極的に 採用し始めて強くなり、関東リーグ二部まで登 りつめた。最盛期には天皇杯の本戦までいって、 立教大学に勝って早稲田大学に負けた。この時 の早稲田には加藤久、西野、岡野、等々のそう そうたるメンバーがいた。理工サッカー八年後 輩の田部井君も、山武で仕事とサッカーに活躍 した。毎週試合があり、独身寮でユニフオーム を洗濯して乾したものだ。 山武時代の思い出の一つに、二度ほど横須賀 の米軍キャンプに呼ばれてベトナム戦争時代 の頑強な海兵隊と試合をしたことである。サッ カーとしては未熟な連中であったため、瞬時の スピードが〇・一秒遅くて肉弾戦にはならず恐 怖感はなかった。終わってからパーテイーをや ってくれてジョニ黒を所望したり、兵士の奥さ ん達とダンスに興じたりもした。 そ <の後 > 以上のいろんなステージを経て、中学・高校 時代のサッカー仲間(同学年は十四名)や先 輩・後輩とは、幸いなことに今でもよく付き合 っている。サッカー以外の趣味の世界でも。そ の中には純粋にサッカー一筋に取り組んでき たせいか、何人かの後輩女性フアンも含まれて る。 例えば、毎年、白馬の山荘に年代差三〇歳の 三〇名近くが中には夫婦・子供連れで集まって、 サッカー紅白戦や全員参加で夜のライブミュ ージックに興じている。八回目の今年は高校の 中にある女子サッカー部のOGにも参加して もらうつもりだ。何故か私が企画して始まった 一〇年近い白馬の集まりである。 ここ数年は、青田君が世話役で毎年東京シニ アサッカー大会に出るようになった。今のとこ ろ一高校OBで一チーム編成できるのは稀有 なことらしい。理工サッカーの一年先輩の大塚 さんには、よくお会いする。大学チームであり ながら天皇杯で優勝した早稲田の釜本エイジ メンバーとも対戦したが、まるで子供扱いされ た。 これも年一回、浦和高校・湘南高校・我が教 育大付属高校の三校OBで十一月二十三日に 対抗戦を長く続けている。何故か田口さんの母 校の浦高はメンバーがそろわず、最近は代わり に神戸高校OBが出ているが。十年前にこの対 抗戦で私は長いサッカー人生で初めて足首の 骨折を患った。米軍海兵隊には負けなかったの に。湘南高校出の田部井君とも対戦してきたが、 まだハツラツとしてる。この三校OBの年代別 リーグ戦の後で、呉越同舟のパーテイーがあっ 26 今のところ五体満足なので、年間数試合プレ イしているが試合日程が決まると一カ月前か ら入念な準備に入る。近くの百段以上の階段を 走りながら上り下りしたり。 高校の六年先輩の数人がまだ毎週のように プレイをしていて、たまに海外遠征もしてるら しい。たまに試合出場をサボろうとすると「い よいよ小林も終わりか」と怒られるので短くて もあと六年はプレイしていきたい。それに合う 生活習慣維持や毎日欠かしてない朝の散歩の 継続が条件か。 て、毎年のことなので同一校の集まりのような フレンドリーな雰囲気がキープされている。 ーグ戦や 親善試 合に明け 暮れる 日々だ った と 記憶しております。早稲田卒業後もしばしば現 役の試合を応援したお蔭で、大変多くの後輩と 昭和三十七年入学 飯田 智信 卒業後のサッカー人生 顔見知りになれたことが、のちの私のサッカ ー人生にプラスになりました。というのは、 当時サッカーは一般的にマイナーなス ポー ツであり、十一人のメンバーをそろえること が難しいことがしばしばでしたので、後輩に 助っ人にきてもらうことができたからです。 彼らのおかげで勝利をえたことがしば しば あり、時にはあまりにも得点しすぎて、目立 ちすぎだったので、ハーフタイムにプレーを 少し控えめにするように、お願いしたことも ありました。現役ではフルバック(最後列) でしたが、やはり守備より攻撃に魅力を感じ、 へたなウィングをやらせてもらい幸せ でし た。相手のバックパスをカットしてキーパー と一対一になり得点した思い出があります。 昭和四八年三月に英国系のエンジン部 品メ ーカーに転職した頃からサッカーの試 合か らは遠ざかり、もっぱらTVで三菱ダイアモ ンドサッカーの英国リーグなどを見て おり ました。外資系でしたので、しばしば英国に 出張する機会があり、ロンドンでチェルシー の試合を立ち見て感激しました。当時の英国 サッカーはもっぱら早いたてパスを敵 味方 でせりあい、ルーズボールを強引にシュート するようなスタイルであり、バックスのタッ 理工サッ カー部 顧問の本 村先生 に卒論 をご 指 導いただき、昭和四一年三月に早稲田理工学部 機械工学科を無事に卒業したのは、はるか昔の ことになりました。在京の自動車部品メーカー に就職し、半年の工場実習ののち、生産技術部 門に配属されました。大学時代に味わったサッ カーの面白さが忘れられず、希望者をつのって 会社のサッカー部を作り上げ、週末は地区のリ クルも現在のプレミアリーグ以上に激 しか ったと記憶しています。英国の友人の奥さん からあなたの奥さんもサッカーウィド ウね と皮肉を言われました。最近は、プレミアリ ーグやスペインリーグ、フランスリーグ、ド イツリーグなどいろいろとTV中継があり、 時差の関係で録画して楽しんでおりますが、 見切れず、早送りで得点シーンだけみること もしばしばです。個人としてはマンチェスタ ーユナイテッドのウェイン ルーニー のプ レイに魅力を感じております。多くの日本人 プレーヤーが海外で活躍するようになり、将 来サッカーの人気はもっと上がるであ ろう と期待しております。 第1回新関東フットボールリーグ優勝 27 思い出の先輩たち 昭和三十七年入学 植木 彰 就職直後 に仕事 について 熱っぽ く語ら れて い た中山さん(前列中央)、 見るから に格好 良かった 輝いて いた伊 橋さ ん (前列左2番目)、 華麗にセーブ・本当に心優しい素敵なお兄さん だった木戸さん(後列左端)、 膝にあて た手首 から走る 姿が目 に浮か ぶ相 沢 さん(後列左2番目) パワフルなプレーの小林さん(前列左端)・青 田さん(後列左3番目)、 小鹿のよ うに走 っていた 少し恥 ずかし がり だ った堀田君(前列右端)、 ファイトスライディングの好きな飯田君(後列 右2番目) まだ髪たっぷりだった植木(後列3番目) この写真には、思い出がいっぱいで、涙が出 てきます。 「元気いっぱいだった小嶋さん(前列右から 二人目)、下級生に優しかった増田さん(後 列右端) 編集委員会・追記」 林 誠 私のサッカー歴 (早稲田大学卒業後) 昭和三十八年入学 『私のサッカー歴』と言ってもそんな華々しい ものではありませんが、幾つか面白い経験をし たので、紹介したいと思います。 私は昭和三八年に理工学部機械工学科に入 学し、四四年に学部卒業後大学院理工学研究科 に進み制御工学を学んで卒業しA社へ入社し ました。大学卒業後は、高校サッカー部同期の 仲間と暴走族みたいな名前のクラブチーム「東 京蹴球団赤サソリ」を創設し、東京都の二部リ ーグで楽しみました。入社後も「赤サソリ」に 所属してプレーする一方、配属された市原市五 井の工場のサッカー部に入り、会社の仕事が早 く終わる日はほとんど毎日、工場隣接のグラウ ンドでサッカーの練習をしていました。工場の 場合、サッカー部のメンバーのほとんどは現場 作業員の人達で、その当時大学卒でサッカーを やる人は二~三人しかいませんでした。しかし、 入社当時化学プラントの計装設備のメンテナ ンスを担当していましたので、現場作業員の人 達とのコミュニケ―ションの場としてもサッ カーは役に立ったと思っています。ちょうど私 28 が入社した時期に、高卒で入社した三交代運転 業務やメンテナンスに携わる新入作業員の中 にも当時九州や千葉のサッカーで比較的有名 な高校の卒業生も何人おり、彼らを加えて、か なり充実したチームになりました。然し、監督 は全くの素人で、部員の方が皆サッカーをよく 知っており、若い部員たちはちょっと元気が良 過ぎて監督の指導が及ばず、コントロール(特 に労務管理面)が難しい場面も時々ありました。 昭和四七年の千葉県大会では優勝決定戦で 我々は新日鉄を破り優勝しました。私も左のバ ックでフル出場しました。延長戦の後半、なか なか点が入らず皆が焦っていた時、センターバ ックの男が「自分が得点するから上がって良い ですか。」と言うので、 「よし、俺が君の分も守 るから、その代り絶対に点を取ってこいよ。」 と言って、私の独断でセンターバックを上げて フォワードの戦力を強化しました。これが功を 奏し、味方のセンターリングを彼がヘッドで決 めました。結局これが決勝点となり、1 0-で 劇的な勝利を収める事が出来ました。県のサッ カー連盟の人達は新日鉄の勝利を疑わなかっ たので、我が社の名前を入れたトロフィーの準 備が出来ておらず、試合後の表彰式で彼らが焦 っていたのを覚えています。この時、ちょうど 長男が一歳の誕生日を迎え、息子にはよい誕生 祝いをあげる事が出来たと、ひとり自己満足し ています。 その後本社へ転勤になり、本社チームと赤 サソリでプレーは続けました。また、40歳を 過ぎてからは、千葉市の老年チームの千葉四十 雀(シジュウカラ)にも所属しました。息子も 小学校からサッカーを始め、確か中学時に本社 チームの練習試合に特別参加させてもらい親 子でプレーした事もあります。然し、仕事が海 外へプラント技術を販売する部門に移り、海外 出張も多くなり次第にサッカーをプレーする 時間が無くなってきてしまいました。 平成四年にインドネシアの合弁会社へ出向 を命ぜられ、九月にジャカルタへ着任しました。 四十九歳にならんとする頃で、ちょうど子供た ちが高校生と大学生だったので、単身赴任にな りました。一時期本社で一緒にプレーした営業 職の後輩が私の少し前に着任していて、「林さ ん、単身赴任なら暇でしょう。日本人会でやり ましょうよ。」と、誘ってくれたのがきっかけ でまたサッカーに火が付いてしまいました。ジ ャカルタには当時でも家族を含めると三万人 を超える日本人が滞在しており、日本人会は、 日本大使を頂点として、インドネシア 特(にジ ャカルタ周辺 へ)派遣されている人たちで作っ ている組織で、日本人同士の情報交換や各種イ ヴェント等を行っています。この日本人会には 幾つかのスポーツを楽しむ会もあり、サッカー クラブもその一つでした。チームメンバーのレ ベルはかなり高く、日本に居ればこのころ出来 たばかりのJリーグでプレーしたかもしれな いような人も入っていました。とにかく嬉しい のはインドネシアに限ってですが日本代表チ ームである事でした。公式試合はすべて国際試 合で、相手はイギリス、フランス、ベルギー、 オランダ等のサッカーの盛んなヨーロッパの 代表チームです。早稲田の理工サッカー部出身 者で日本代表のユニホームを着て海外のチー ムと試合をした人はそれほど多くないと思い ます。ここでは勿論私が最長老で、かなり我が 儘をさせてもらいました。ポジションはフォワ ード、出場時間は十五分から二十分でやらせて もらいました。(というよりそこしか出番が無 かったのですが。)最も印象に残っている試合 は、対オランダ戦で、前に立たれると何も見え なくなるような大男たちを相手に、味方のセン ターリングを受け、フェイントでバックを一人 はずしてゴールを決めた事です。多分これが私 の公式試合での最後の得点であったと思いま す。黒人選手の身体能力のすごさを実感したの もこの時期です。普通ならまだ相手との距離が 十分あると思っていても、もうボールに相手の 長い脚が届いている等という経験をしました。 また、我々の給料からするとそれ程の金額 ではないので、年に二、三回は休日に近くのサ ッカー競技場(ちゃんと観客スタンドもありま す。)を何人かの日本人で借り切り、従業員を 集めてサッカー大会等もしました。インドネシ 29 ア人は上手な人は少ないが皆とてもサッカー が好きで、応援の人達を含めると百人くらいの 人達が集まりました。 五十二歳でベルギーとの試合中に足を蹴ら れ酷い捻挫をしてしまいました。翌日足が酷く 腫れて靴が履けずサンダル履きのびっこで出 社する事になってしまい、会社幹部がこのよう な状態で業務をするのはちょっとまずい、特に 現地従業員に対して示しがつかないと思い、こ れを機にサッカーから手を引きました。然しそ れまでは単身赴任をいいことに、土曜日は午前 中ゴルフ、午後サッカー練習か試合、夜は飲み 屋でカラオケ、翌日の日曜はまた朝からゴルフ というような充実した週末を時々送っていま した。今思い出してもよく体力が持ったなと思 っています。 平成一〇年一月に インドネシ アから帰国 し、 平成一一年に事情が有ってA社を早期退職し、 今に至ります。退職後は一時、人に頼まれて小 学生にボランティアでサッカーを教えていた 事もありますが、現在は飼い犬(ウェリッシュ テリア)とサッカーボールで遊んでいます。飼 い主に似て、我が愛犬もサッカーボールで遊ぶ (ボールをけってやると、走って行ってボール を鼻や胸でトラップしドリブルします。)のが 大好きです。 また、私のサッカー仲間で最も出世した人 は、Jリーグ一部のあるチームの社長になりま した。彼は度々「赤サソリ」の仲間をそのチー ムの試合がある時に貴賓席に招待してくれま した。然し彼も退任し、今の私にとってのサッ カーはテレビで見る事と犬と遊ぶだけものと なってしまいました。 私は幼少のころ体力が弱く、医者からも激 しい運動は止められていました。高校に入学し て初めてサッカーを始めましたが、サッカーを 通して楽しい思い出と素晴らしい友人たちを 持つ事が出来てとても幸せです。 後輩の皆さんが、この文章だけ読むと私が サッカーだけしかやっていなかったと勘違い されると困るので、また現役の皆さんの参考に もなるかと思い、以下にどんな仕事をしていた かを書き留めておきます。 高校で サッカ ーを 楽しみ 過ぎて しま ったた め一年浪人した私は、昭和三八年早稲田大学理 工学部機械工学科に何とか入学出来た。三年生 のころか ら喜久 井町の理 工研に 顔を出 すよ う になり、結局四年間、マスターを卒業するまで ここで故町山先生、故川瀬先生、河合先生及び 研究室の先輩や同等のお世話になって、自動制 御工学を勉強し、昭和四四年Aに入社した。 入社後は、千葉県の五井工場に配属され、塩 素系化学 プラン トの計装 関係の メンテ ナン ス の仕事に従事する事となった。プラントの運転 の仕方、個々の工業計器の機能、修理方法、プ ラント運転との係り合い、保全計画の手法、予 算管理、メンテナンス作業員の人達の使い方等 を、現場で三年間くらいみっちり勉強させられ た。理工研で、諸先生、諸先輩にしごかれ、机 上の学問 ととも に現場作 業が如 何に重 要で あ る事を仕込まれてきたので、メンテナンス業務 にもすんなり溶け込めた。 その後 千葉の 工場 のエン ジニア リン グの部 門に移った。ここは、工場内の改造計画、増産 計画、新規プラント建設を行う部署で、計装技 術の担当者として、特殊樹脂製造の重合槽の自 動制御運 転設備 の設計な ども担 当させ ても ら っ た 。 こ の 時 代 は ま だ D C S ( Distributed )等が無く一ループごとに電 Control System 子式の調節計を置いて制御をおこなっていた。 この重合反応というのは、塩ビ等の重合反応と 同じで、非常に危険な反応で、運転条件が少し でも変わると爆発の危険があり、設計、試運転 とずいぶん気を使い、研究所や運転管理、設備 設計の人 達と一 緒になっ て制御 設備の 導入 を 行った。昭和五五年ころ途中で一時中国向け化 学プラン トの技 術輸出業 務を担 当した りし た が工場内 のエン ジニアリ ング業 務がほ とん ど であった。昭和五九年から六二年までは千葉の 工場の電 気計装 メンテナ ンスの 責任者 とし て 再びライン業務に戻った。 六二年の四月から正式に本社に席が移り、A 30 社の 化学関連のプラ ント 技術輸 出業務 を担 当 する事となった。当時我が社が開発した化学品 製造技術を中心に中国、ソ連、韓国、インドネ シアなど へプラ ント輸出 の技術 交渉や 試運 転 の立会等を担当していた。初めは計装技術の担 当であっ たが次 第にプロ ジェク ト全体 の管 理 も行うようになった。プラント輸出の仕事は技 術面ばかりでなく、相手の会社とのネゴシエー ション(交渉)が重要で、特に中国との交渉は 大変であった。買い手の立場で好き勝手な要求 をしてくる相手に対し、こちらの作ったシナリ オに如何に相手を落としこんでゆくか、苦しい、 然しスリルに満ちた交渉を行った。 平成四 年に運 転を 開始し て間も ない インド ネシアの合弁会社へ、設備関係のメンテナンス の責任者として派遣された。ここでは、食塩と エチレンを原料に、カセイソーダ、塩ビモノマ ー、塩ビポリマー及びその中間体や副生物を生 と塩ビモノマー製造 産する、電解設備、 EDC 設備と塩ビポリマー製造設備、ボイラー等のユ ーティリティ設備、産廃処理設備等があり、多 量の可燃物や危険物を取り扱う。現地従業員は 当時約一〇〇〇人で、派遣されている日本人は 十三名だった。当時現地従業員は作業員、スタ ッフ共に新卒者がほとんどで、化学工場での実 務経験が殆ど無かったので、我々は現地従業員 への教育に力を入れ、彼らも良くこれに応えて くれた。我々日本人も現地の人々の中に溶け込 み、一緒になって作業をした。そして現地従業 員と日本 人派遣 者との関 係がす こぶる 良か っ た為、大きな事故もなく順調に運転する事が出 来た。 派遣二年目から次の増産計画が開始され、設 備管理業務と同時に、増産のプロジェクトに参 加した。通常派遣期間は三年間なのであるが、 設備が順 調に運 転できる までこ の増産 プロ ジ ェクトに参加したいという希望を出して、この 業務を遂 行する ためのプ ロジェ クトの 責任 者 としてさらに二年間派遣期間が延長された。投 資額が数億ドルの大プロジェクトは、遂行中に はいろいろ問題が生じたが、関係者の協力で何 とかスケ ジュー ル通り建 設を完 了し生 産に こ ぎつける事が出来、平成六年末にプロジェクト を終了し平成七年初めに帰国する事が出来た。 と言う事で、私もサッカーばかりをやってい たのではありません。 了( ) 追記: 特にこれからの日本の産業を担う在学 中の皆さんへ: 一、 技術屋は、机の上だけで仕事をするな。 現場へ出て自分自身の体(五感)で事象 を把握する事。 二、何事にも消極的にならず、ときにはリスク を取り、常に自分の考えをもって行動 する事。波風立てず、言われた事だけを やるような、最近言われている草食系に は絶対になってはいけない。 三、 今後の社会はさらにグローバル化するで あろう。在学中に外国語を少しでも話せ るようにしておくと良い。また、海外で のホームステイ等の経験があると外国の 言葉や外国人に対しアレルギーが無くな る。 四、 学生時代に何でも相談できる先輩や友人 をたくさん作っておく事。 五、入社した会社がいやになっても、三年間は 転職など考えずその会社で前 向きに働き、 仕事を覚える事。自分はどこででも通用 するという自信をつけてから、転職した いなら転職を考えるように。 (以上) (私は自分の息子をこのように育てた積り です。) 31 増田 克秀 自分の半生を振り返って 昭和三十八年入学 大学を卒業して社会人となった。あの時からも う四十四年が過ぎようとしている。 この小誌を書くに及んで、自分の人生を振り返 って思い出してみると、三つのテーマが思い浮 かぶ。 その一つは、サッカーという運動に出会ったこ とであり、又その一つはゴルフという趣味を持 ったことであり、そしてもう一つが早稲田大学 を卒業したということである。 当時のサッカーは、現在の様な華やかなもので は無く、マイナーなスポーツであった。 汗と泥にまみれた毎日で、特にゴールキーパー だった私は見るも無残な姿だった。 それでも社会人となった頃、それは二十歳代と いう体力 のある 時代にし か味わ う事の 出来 な い青春がそこにはあった。 つい最近のことであるが、ずい分長い間会って いない会 社の先 輩から連 絡をも らい横 浜で 再 会した時、その先輩が言われた言葉は「会社が 終った夕 方から 近くのグ ランド に走っ て行 く 君の逞しい姿が羨ましかった」であった。 二〇歳代前半の自分は、仕事がほとんどない為、 残業も無く、寮に帰ってもすることが無いので 日暮れまでサッカーに興じる毎日であった。 最初に赴任した工場が九州だったので、夏は夜 の八時頃まで明るかったのが印象にある。工場 は三交替である為、常一番は四時上りだ。私は 交替勤務も無く、暇なのでいつも四時頃からグ ランドに居た様に思う。 そんな新人時代は付き合う彼女もなく、サッカ ーが恋人だったように思う。そんな中で唯一つ 今でも笑えない笑い話がある。丁度二年目の夏 だった。早稲田の先輩(一年先輩)が遊びに来 た。サッカーばかりやっていた私は、気のきい た飲み屋に連れて行くことも出来ず、寮で泊る ことになった。しかし今の様にクーラーが有る 訳では無く、夜中に暑さの為寝られなくなった。 そこで先 輩はど こかクー ラーの 有るホ テル に 行こうと言い出した。私も確かに先輩に申し訳 なく思い、街中に出てホテルを探した。しかし その頃は 自分が 利用する 訳でも ないの でほ と んど知らなかった。そんな時、街中の高台に大 きなホテルの看板を見付けた。ネオンサインが 付いていたかどうか記憶に無いが、とにかくそ のホテルに行く事にした。夜中のこと故人通り も無く、とにかく涼しい部屋で寝ることが出来 ればと入って行った。ところが出迎えた女将が 私達男二人を見て変な顔をする。私は何故か判 らないので自分の身分を明らかにした。当時は 一応私の会社はその街では信用があったので、 そこの社員であれば問題無いだろうと思った。 しかし部 屋には 入れても らえず 女将の 居間 に 通された。訳が判らないでいると、若い女性が 出てきた。その顔を見た時、私は何故彼女がこ こに居るのかまだ理解出来なかった。彼女は私 の工場の幹部の秘書だったのだ。その幹部は将 来社長になると噂がある人だったし、その秘書 も我々の ような 新人には とても 話が出 来る よ うな存在ではなかった。私はその秘書がこのホ テルの娘さんであることを女将から聞かされ、 又このホ テルは 男同志で 来る所 では無 いこ と も教えられた。 しかし我々(私と先輩)は他に行く所も無く、 私の失敗 は今後 の自分に はちょ っと厄 介な こ とになると思ったが、先輩の為にも事情を話し て泊めてくれるように頼んだ。 女将は私 達があ まりまじ めな青 年(当 時の こ と)だったので、一晩泊めてくれる事になった。 そして夜食に寿司をご馳走になり、先輩と一緒 のベッドで寝た。クーラーが程良くきいてその 夜は夢の様な一夜だった。 その後私の噂は会社では全く聞かず、又秘書の 娘さんはしばらくして結婚された。 又先輩は その後 三十年程 サラリ ーマン をや っ て、今は早稲田大学の教授である。 世間知ら ずの若 者だった 自分も 社会人 四年 目 で結婚し、七年間を工場勤務とサッカーに明け 暮れる日々を送った。仕事はすこしづつ出来る 32 様になり、工場最後の仕事は、新日鐵君津製鉄 所の建設工事にかかわれるまでになった。 さて、工場勤務を終え東京に戻って来たのは三 〇歳の始めの頃だった。ゴルフはすでに始めて いたが、まだ仲間内でやる楽しみゴルフであっ た。ところが東京本社ではお客さんを接待する 接待ゴルフが待っていた。まだ十分なプレーが 出来ない 自分が お客の世 話をす るのは いか が なものかと思うが、当時部長や課長の下働きを するのは我々若手であった。 当時のゴルフはプレーをする前に、まずそのマ ナーがいかに厳しかったか、その例を挙げよう。 まず第一に、クラブを常に二、三本持ち、打っ たボールの所まで走る。勿論お客の球を捜し、 自分の球も捜す。バンカーは常にチェックし、 きれいに均す。 第二に、常に他の人のプレーに注視し、無駄口 を利かない。ティーグランドやグリーン上での 素振りや 影の位 置が相手 の迷惑 になら ない 様 に気を使う。グリーン上でのマナーは特に注意 された。歩き方、プレーの速さ、立つ位置など 本当に大変だった。 第三に、お客が調子のよい時は良いが、ミスが 続く時が困る。キャディーにも気を使い、少し でも良い結果が出るようアドバイスを願う。 しかしな がらゴ ルフとい うもの は厄介 なも の だ。ある時こんな事が起こった。 そのコン ペで一 番上手な しかも ゴルフ 暦三 〇 年以上の会長が、その日は出だしからミスショ ットが続いた。彼は早撃ちマックという渾名が あるほど、特徴のある打ち方をする人だった。 しかし長年このスタイルでやって来て、八十台 で廻るため誰も何も言えない。しかし、たまた まその日付いたキャディーが若い女性だった。 私も同じ 組だっ たので固 唾をの んで見 守っ て いた。その時若いキャディーが一言「お客さん、 もう少し ゆっく りスイン グした 方が良 いで す よ」。私もそうだと思った。けれどこれがこの 会長のプライドを傷つけてしまった。会長は怒 った。「俺は、お前が生まれる前からこのスイ ングでやっているんだ」。 この日はこれで終ってしまった。後はいかに会 長の機嫌を取るか。所詮人間は皆自分勝手。都 合の悪い事は人の所為にするのが落ちである。 ゴルフの難しさは計り知れない。もちろん二~ 三年でシングルになる人も居り、三十年やって も一〇〇を切れない人も居る。しかし何歳にな っても身体に故障の無い限り、向上する事が出 来るというスポーツはゴルフが一番だろう。 私も三〇 歳台の ゴルフは ゴルフ と言え るも の ではなく、四〇歳台になって少しゴルフらしい と思うようになった。それでも90前後のスコ アだった。そして五〇歳台でラウンド数が多く なり、ゴルフの精度が落ちてしまった。そして 今、六十歳台後半になってようやくゴルフの難 しさが理解できるようになり、時々80台も出 33 るようになった。 今の私に言えることは、ゴルフとは、自分の内 面にある自分との戦いであり、与えられた状況 と自分の力量を計り、いかに欲望に打ち勝つ精 神力を身に付けるか、そして身体の緊張をほぐ し、自由なスイングが出来るかにある。いつの 日か、エイジシューターを達成するため、色々 な工夫をしながら楽しんでいる。 昭和 40 年新関東フットボールリーグ準優勝 さて、早稲田大学を卒業して四十四年経つが、 今頃の楽しみは、やはり自分の卒業した学校が、 学問にしろ、スポーツにしろ世の中の話題に上 る喜びは、格別である。 駅伝にしろ、ラグビー、野球にしろ、一緒にな って応援できる喜びはこの上ないものだ。 しかし早稲田大学の学生で、最近は校歌も知ら ない、歌えない人も多くなっていると聞く。 ノスタルジャと言われるかも知れないが、長い 歴史の上 に積み 上げられ た早稲 田魂を 受け 継 いで行って欲しいと願っている。 最近の(平成二三年一月六日付)朝日新聞の 記事で、早稲田大学ラグビー部前監督の中竹竜 二氏の記事を読んだ。東京の住宅地にある杉並 区立三谷(さんや)小学校の再建に取組んでお られる記事であった。三谷小学校は「人が来な い学校」だった。つまり住民や親が訪れて来な い、家庭から選ばれない学校だったようだ。元 校長から依頼され、中竹氏はその小学校の「応 援団長」をしている。三谷小学校は地域が学校 を支えるコミュニティ・スクールとなった。学 校運営に地域の人や保護者がかかわり、教職員 の人事に意見を言える。法的な権限がある点で、 親と教師の会のPTAとは違う。 ラグビー界で有名な「荒ぶる魂」を率いる指導 者の学校観は厳しかった。「学校には目標も計 画もない。健やかな子といった、ごくありふれ た目標では、人は動かない」。中竹氏が初会合 で黒板に大きく ゴ「ール と」書いた。掲げた目標 は「自信と誇り」。 一人ひとりが自信を持ち、学校や家庭、地域に 誇りを抱く。そんな学校にしようというのだ。 中竹氏は会議で宣言した。「先生を批判するマ イナスの評価はしない。たたえるプラスの評価 をしたい」。教師も一歩踏み出す。学校の現実 を知らない人達にビデオやカード、日誌を使っ て説明した。 中竹氏は語る。「目指すのは、コミュニティ・ スクールの積極的な解散。制度がなくても地域 や親がか かわり 続ける形 になら ないと おか し い」。学校は教師と子どもだけのものではない。 四角い教室が丸く大きく、地域に広がっていっ てこそ本来の姿だ。 彼等の様に、本当に社会環境の変化や、人間の 本来の生き方に目を向けて、社会改革をする姿 を見ると、自分の残された人生を何かに役立て ようという気持ちになる。 七〇歳を目前にして、少子高齢化社会という現 実を見ると、これからの日本を住み良い国にす ることは大変困難な様に思えるが、自分自身が いつまで も自信 と誇りを 持って 生きて いく 事 ができれば、その事自体が大きな意味を持って いるように思える。 小串 重人 サッカーとの出合いから卒業後 昭和三十九年入学 私は県立熊本高校の出身で中学校、高等学校 ではバス ケット ボールを 県内で はトッ プク ラ スのチー ムとし ての伝統 の下三 年生の 秋ま で ハードにプレーしていました。 早稲田 に入っ て理 工学部 の授業 時間 の長さ と身長が 170 cmと伸 びなか ったこ とも あ り、理工学部の体育サークルに入ろうと部室が 集まっていた地下の様子を見に行きました。 当然先 ずバス ケッ トボー ル部の 部屋 を訪れ ましたが、何となく雰囲気がこれまでの私の経 験した部活動のそれと異なり、とても気になり ました。偶然その隣の部室がサッカー部でした。 泥に汚れたユニフォームやボール、床も汚れて いました。ただ、雰囲気が剛健な感じを受け、 好感を持ち入部することにしました。 当初(いや最後まで)強くボールを蹴れずに、 手が使えて、空中のボールへの感覚には自信が ありまし たので ゴールキ ーパー を志願 しま し た。一年先輩のGK増田さんに手ほどきを受け ましたが、ダイビングは当初恐くて中々出来ま せんでした。また、脇の下をボールがすり抜け てゴール された りと全く 体の動 きが違 うサ ッ 34 カーに返って克己心が旺盛になりました。 不思議 なもの で今 でもゴ ールさ れた シーン や上手く 出来た シーンを 幾つも 昨日の こと の ように思い出します。何故かゴールされたシー ンの方が多いですが。屋内スポーツと屋外スポ ーツの体 感は凄 く違って いてな んと言 って も 大地の感触、土の匂いが大好きでした。 フルバ ックの 松本 君には 素人G Kの カバー でとても助けて貰い今でも感謝しています。幸 い当時戸 山キャ ンパスに は正規 のサッ カー 場 の半分か 三分の 二の広さ のグラ ンドが 山手 線 側にあり、今考えるととても恵まれていました。 検見川 の東大 グラ ンドで の合宿 を横 山主将 のつてでさせていただき、初めて芝のグランド でサッカーをしました。風呂では全日本、大学 選抜のバレーホールチーム、全日本陸上のトッ プクラス などと 一緒で凄 く大き く長い 足の 体 にビックリしたのを覚えています。 想い出 は幾ら 紙面 があっ ても足 りな いくら いですので、ここまでにして、卒業後のことを 少しご紹介させて頂きます。 当時黎 明期の コン ピュー タメー カー の日本 ユニシスの前身の会社に入り、大阪に赴任しま したがサッカー部がなかったので造りました。 幸い当時 からま だ日本で はあま り普及 して い ない週休二日制でしたので、土曜日に広大な芝 生のグラ ンドを 持つ三井 生命グ ランド を使 う ことが出来ました。ただ、まだ会社の人数が少 なかったので、経験者も殆どいなくて、幾つか の寮に居た未経験の若手を引っ張り出し、それ でも足り なかっ たので私 のお客 様であ った 近 畿日本ツ ーリス トの若手 にうち の会社 のユ ニ フォームを着て貰い人数を揃えて、練習や試合 をし始めました。ルールも何にも知らない人達 が多かったので、足元に来た敵のシュートをと っさにし ゃがみ こんで手 でボー ルを止 める 有 様。敵にも失笑を買いました。こんなサッカー 部がそれでもどうにか形を作り始めた頃、突然 鹿児島に転勤になり、さよならとなりました。 鹿児島 では仲 の良 いお客 さまが サッ カーを していて、彼と南国殖産というバスやガソリン スタンド 他手広 く事業を してい る会社 のサ ッ カー部に入れて貰いました。そこではフォワー ドもさせて貰いました。週末はサッカーと購入 した小さなヨットと目一杯遊びました。 しかし、一年半でまた、大阪に転勤、更に半 年後に四国徳島市に転勤となり、そこではサッ カー環境に恵まれず、それがサッカープレーの 終焉になりました。 三十二歳の頃、東京に戻りましたが、子供が 既に三人 いて家 庭サービ スやら 休日出 勤の 仕 事が多い環境などから、サッカーへの復帰はな りませんでした。 その後Jリーグ発足、ワールドカップへの出 場と目を見張るサッカーの発展。学生時代ワー 小苅米 盛夫 ルドカッ プは現 在より少 ない十 六カ国 だっ た ように覚えていますが、我々が生きている間に 日本が出 場する のは絶対 無理だ ねと話 して い ましたの で現在 の日本の サッカ ー興隆 は夢 の ようです。また経験者だから同じサッカーを見 ていても奥深く見れるのも幸せと思って、見る サッカーを楽しんでいます。 このよ うに理 工サ ッカー 部との 出会 いで長 い間楽し い時間 が持てて いると 嬉しく 思っ て おります。仲間先輩後輩有り難う御座いました。 我がサッカー人生 昭和三十九年入学 自分の人生を振り返 るに、サッカ ーで培 わ れた精神力、体力が大いにその時々の行動、決 断力に影響した。今、自分のサッカー人生を振 り返ってみたい。 サッカーをはじめて知ったのは、中学校3年 生の体育の時間だった。その当時は、蹴球と言 われていた。これは、面白いスポーツだ。と直 感した。それまで、スポーツと言える運動は、 小学生から野球をやっていた。仲間は、何時も 近所の高校生。野球部所属で何時も小生は、球 拾いだった。球は、硬式だったので脛に当たる と痛いの痛くないの、それでも一生懸命投げた 35 り、追っかけたり、脚力と腕力が付いたのかも しれない。 小生は、岩手県の一戸と言う小さな町に生ま れ育ち祖父は、りんご農園を経営していたが、 父は、九人兄妹の四番目で、小生五歳の時、東 京の板橋区中台に引っ越してきた。 ズウズウ弁丸出しであったが、運動神経が良か った為、東京の人にいじめられることなく、す ぐ友達になり、野球や泥合戦、缶けり、馬とび、 メンコ、ベーゴマの仲間に入った。中台は、当 時赤土で防空壕がいたるところにあり、防空壕 を陣地にして、赤土を弾にして泥合戦をしたも のである。赤土も当たれば痛い、中には、石を 投げる奴も居て今考えると、非常に危険な遊び だった。小生は、野球をやっていたおかげで、 命中率抜群足が速かったせいも有り、ぶつけて は、逃げるのが、得意だった。また、公園の周 囲の木を 地面に 足をつけ ずに渡 り歩く 競争 と かが、得意種目であった。木の枝が、折れて落 ちたことは,数知れずあった。小学校低学年の 頃は、このような遊びをしていたが、四年生の とき、上板橋小学校から新しく出来た中台小学 校に三分の一の生徒が、転校し新しいスタート を切った。四年生の担任が、新潟県出身の新人 先生窪野冬彦氏で野球が大好き。早速、野球チ ームを作り、当然小生は、ピッチャーを任され た。五年生のときは、六年生を打ち負かしたり、 六年卒業 するま で負け知 らずの チーム であ っ た。当然中学で野球をやるものと決めていたが、 父に練習で勉強をしなくなると、反対されやむ なく卓球部に入った。卓球は、繰り返し運動が 必要。上手な人ほど卓球台を占有し練習する為、 初心者は、練習時間が少なく、面白くない為、 中学二年になるとき辞めてしまった。その後、 中学三年 生のサ ッカーを 知るま でこれ と言 っ たスポーツは、しなかった。 高校に入ったらサッカーをしよう。心に決め て、高校入学。北野高校蹴球部の部室を尋ねた。 汗臭いユニフォームと泥臭い部室の臭いは、今 でも思い出します。即入部OK。しかし、入部 した一年生は、たった四人。二年生が十二名居 たので、チームは、組めたが、我々が二年生に なったら人数不足になる為、人を集めろと言う ことで、小生の席の隣に座った男安藤を引っ張 り込み、もう一人仲良くなった米沢をサッカー 部に入れた。その後二人入った為、一年生後半 には、八名の一年生部員になった。小生は、足 が速かったせいも有り、すぐライトウイングの 定位置を獲得。後ろから蹴ったボールを足に任 せて追いかけて中に蹴りこむ。“百姓一揆”と 言う単純な攻撃であった。北野高には、サッカ ー指導者は、居らずキャプテン中心に練習計画 を作り練習していた。サッカーの教科書は、確 か竹腰東 大教授 の本を良 く見て いた記 憶が あ る。まだ、クラマーさんが来る前と思われる。 北野高校は、弱くは、無かった。同じブロック に、帝京、城北が、居りこの両校には、勝てな かったが、志村、板橋、成立、豊島実業等には、 負けなかった。二年のときキャプテンになり、 練習計画を立てたり、練習試合をお願いしたり、 今のようにマネージャーが居ないので、全てキ ャプテンの仕事である。また、良く練習もした。 400m のグラ ンドをう さぎ跳 びで二 周し た り、夏の合宿は、水を飲まずに走り続けたり、 今の常識では、禁止項目であり、考えられない ことの連続であった。二年生の冬、東京都の新 人戦でベスト十六まで行き、ベスト8目前で城 北と当たった。試合は、1対3で負けたが、こ れが、高校生活でベストの成績であった。帝京 とも1対2で負けたことがあるが、良く戦った 方である。サッカーは、三年生の十一月の全日 本高校選手権予選まで続けていた。大学に入る 為、一時サッカーをやめて勉強に励む?ことに なる。 浪人後、昭和三九年に早稲田理工に入学する が、当初は、体力的に自信なく、その為、応援 部に入ろうかと本部界隈をウロウロしたが、何 か縁なく、また、サッカーをやる為、理工サッ カー部に入部した。大学時代のサッカーは、楽 しみなが らボー ルを蹴る ことを 主眼に 多く の 仲間と大学生活を楽しんだ。理工横の小さなグ ランドでの練習、新鹿沢、検見川での合宿、相 模湖旅行等楽しい思い出です。試合の思い出は、 東工大と の試合 で一点を 入れた が又負 けた 。 36 東工大には、勝った記憶がありません。また、 助っ人と して先 輩の会社 のチー ムのメ ンバ ー の一員としてプレーさせてもらった。更に、高 校のOBチームを作りサッカーを楽しんだ。練 馬区大会 で外人 チームと 決勝で 戦い1 対2 で 負けたが準優勝した。学生時代は、良くサッカ ーをしていた記憶がある。 この頃、サッカーも良く見に行った。東京オ リンピックは、小石川サッカー場や駒沢サッカ ー場へ、また、当時は、早慶戦 サ(ッカー が)有 り国立競技場に大観衆を集めて行われていた。 今は、余り聴いたことが無いが実施されている のか?国立競技場と言えば雨中の日韓戦。雨の 中4対3で日本が勝った。釜本はじめ杉山、宮 本、八重 樫、森 等々日本 チーム の第一 次黄 金 期?であったように思うが、サッカーが、多少 日本で認知された時期でもあった。 就職は、電気材料を専攻していたので日立化 成に就職した。今でも覚えているが、四月一日 の入社式は、茨城県日立市にある山崎工場で行 われた。日立駅に降り立った時、駅前の殺風景 なこと、また、日立鉱山の埃か西部劇の荒野の 村の感じで冷たい風が吹いていた。東京から来 た小生は、こんな町に住めるのかな?ホームシ ックに罹った。が住めば都。すぐ工場のサッカ ー部に入り日立地区のリーグ戦に参戦。余り強 くないチームであったことを記憶している。そ の頃の日立化成は、発展途上であったため、朝 令暮改。小生は、セラッミク課に配属されたが、 一ヶ月の現場実習後、圧電素子の設計課に配属 変え、六ヶ月研究所に通って終ると設計課の半 分が、茨城県下館市の下館工場に転勤になり小 生もその一員であった。下館工場にもサッカー 部がありすぐサッカー部に入部した。ここで、 慶応工学 部でゴ ールキー パーを やって いた 一 級上の三上さんが居た。学生時代は、好敵手で あったが、同じ釜の飯を食うことになる。この 頃のサッカーは、全く人気無くメンバー十一人 を揃えるのに大変であった。独身寮にたむろっ て居るサ ッカー 初めての 人を呼 んでメ ンバ ー をそろえ試合をしたものである。筑西地区でも 企業間のリーグ戦が、あり初心者が居たにもか かわらず上位をキープしていた。 入社五年 七(八年 人)生の転換期が来た。当初、 電気材料を使用した商品開発をやっていたが、 入社二年目、社長が交代し、方針が変り「日立 化成の商品に合わない。」と言うことで商品開 発部が解散、小生は、失業状態になり浄化槽の 設計のお手伝いをしていたが、配線板に居た先 輩に引っ張られ、配属変えになった。入社二年 で工場は、三件目、扱う製品六件目と良く変っ た。おかげで会社内の人々を知ることが出来た。 配線板時代は、良く残業をした。隔週土曜日が、 休みであったが、八ヶ月間百時間/月以上の残 業。最高158時間/月。サッカーをやってい たおかげで体力的にもった。配線板に来て三年。 ある日突然、二週間のシンガポール出張を命じ られた。当時シンガポールに工場を建て配線板 を製造しようと計画、現地人を採用し日本で訓 練する為、採用を現地で始めた。当時は、成田 空港は、建設中で羽田空港から各都市停車の飛 行機であった。シンガポールに着いて、ガーデ ンホテル で三十 五歳の事 務所長 と飲ん でい る とき、何が理由で喧嘩になったか? 「今から 帰れ帰らない。」と初対面の人と大喧嘩。サッ カーをや ってた おかげで 気力で 負ける こと は 無かった。喧嘩したおかげで、この人とは、以 後、無二の親友になった。採用も終わり十五名 の現地人 を日本 に送り出 し顧客 回りも 終わ り 日本に帰るはずがそのまま居座り出向となり、 何と日本に一時帰国したのは、一年八ヵ月後、 写真見合いした今の女房に会うため帰国、女房 が出現し なけれ ば何時一 時帰国 できた か? 日 本滞在六日後また、シンガポールへ。結婚式も シンガポールで行った。それほど当時は、忙し かった。サッカーは、インド人のチームに入り 公園で練習したり試合をしていた。ポジション は、夜遊びが過ぎたか体重も増え動き悪くバッ クであった。 しかし、結 婚を期に サッカー の練習に は、 余り参加しなくなった。シンガポールには、七 年間滞在 し八〇 年に茨城 県の下 館工場 に帰 り 配線板部門で業務を継続した。その間、サッカ ーとはご無沙汰し、業務に専心したが、良く喧 37 嘩もした。ある日、製造部長に呼ばれ、生産が 上がらないのは、何故か?そのうちやるやらな いの話になり二人の部下を引き連れ、部長室を 飛び出した。それから二日間、部下と徹夜が続 いて生産目標を達成した。また、バブル期、利 益も上がっていたので強気であった為か、年末 に工場長室で生産が達成できる出来ないで、ま た、大喧嘩。工場長は、机を叩いて怒るし、こ ちらも負けじと、拳固で机を叩く。書類は、散 乱、同行した工務課長は、右往左往。この喧嘩 で、十二月三十一日まで、現場を出勤させ、正 月三が日だけ休み、四、五日検査部門だけ出勤 してもらい辻褄合わせをした。これもサッカー で培われ た「や られたら やり返 せ!」 の表 れ か? しかし、皆さんの協力を得られたのは、 馬鹿をやりながらチームを作っていく。サッカ ーで学んだチーム作りの賜物である。 バブル がはじ け配線板 部門も 工場か ら部 に 降格。更に課になる前、九三年二月マレーシア の新日鉄 化学の 子会社で 日本エ レクマ レー シ アに出向になった。これもよき先輩に引っ張ら れ出向を決めた。現地では、サッカーをやる機 会は無かったが、ゴルフは、良くやった。単身 赴任であったこともあり、土日は、ほとんどゴ ルフであった。しかし九七年十一月十六日 日( ) 日本とイ ランの フランス ワール ドカッ プア ジ ア予選の第三代表決定戦が、ジョホール州のサ ッカー競技場で行われた。首都 K.L からジョ ホールまで高速で4時間。鈴木、村山、佐藤の 4人で出かけた。高速は、快適だったが、競技 場に近づくに従い、その熱気が伝わるような状 況だった。競技場に入場すると日本やシンガポ ール、もちろんマレーシアの全ての日本人が集 まったの ではな いか?と 思われ るくら い競 技 場は、日本人で一杯。修学旅行の高校生も来て いた。試合は、山口のシュートで先制するもダ ニエのシュートで1対2の逆転を許す。しかし、 後半、城のヘディングシュートで同点。競技場 は、割れんばかりの熱気で覆われた。遂にVゴ ール延長!。岡田監督は切り札?岡野を投入。 延長前半 1(5分 岡)野のチャンスは、再三あっ たが、ゴールを割ることは、無かった。後半ダ ニエの危ないシュートもあったが、PK戦目前、 あの幕切れが訪れた。今までシュート三本を外 していた岡野が、中田のシュートをキーパーが、 前にはじきたまたま、がむしゃらに走っていた 岡野の前 に!小 生でも入 るだろ うシュ ート を 岡野は、ゴール左に蹴りこんだ。競技場は、割 れんばかりの熱狂、熱狂、熱狂。岡田監督の駆 け足の早いこと。全員岡野のところに!あの光 景は、今でも脳裏に焼きついている。しばらく この雰囲気を味わう為、競技場を離れなかった。 ――― 九八年 アジア通 貨危機 で五年 四ヶ 月 のマレーシアの駐在を終えた。 そのまま、日立AICに転属。この会社も配 線板を製造。早速常務と喧嘩して半年で窓際へ。 喧嘩の相手を間違えたか?このままでは、定年 まで居ても面白くない為、行動!シンガポール 時代一緒 に仕事 した島崎 氏がシ ンガポ ール 工 場の社長 をやっ ていたの で日立 AIC の社 長 と掛け合ってもらい、九九年十一月インドネシ アのジャ カルタ に在る日 立シン ガポー ルの 子 会社のHGIに出向。この会社も配線板を製造。 ジャカル タから 43km 離れた 工業団 地に あ った。ここでも、単身赴任のため土日は、ゴル フ三昧。逆に言えば、やることが無かった。と ころが、〇三年に若い営業の高田が赴任して彼 もゴルフだけでは、海外生活も面白くなかった のか他社の若者とボールを蹴り始めた。そのう ち七~八人になりサッカーチームを作った。名 前は、“キングドリアン”ドリアンは、果物の 魔王。一度味を知ると麻薬性があり止められな いとか?但し、アルコールと食い合わせが悪く お腹の中で発酵するので要注意。小生は、アル コール抜きでは、生活できないので生のドリア ンは、食べたことが無い。そのチームの監督に なった。水曜日と土曜日ジャカルタでナイター で練習。試合は、日系企業のインドネシア人の チームと試合をした。監督とは、名ばかりでメ ンバーが 足りな いと監督 自ら出 場。太 った 体 (64kg)を動かしボールを追った。突然地 面がなくなり転倒。両膝血だらけ。気は馳せれ ど足は動かず。ゴルフだけの運動では、多少練 習しても試合では、無理ですね。チームは、二 38 〇歳代の若者と四〇歳代一人、六〇歳代一人の 構成。背番号は、61.翌年新調したユニホー ムは、62と歳を背番号に頑張りました。他に、 マネージ ャーが 西田恵美 子さん と言う イン ド ネシア大 学を卒 業し現地 日系会 社に就 職し た 二十代の女性。他にも多数の若い女性が参加。 その為、怪我にもめげず練習に、試合に参加し たのかもしれません。年末の納会の馬鹿騒ぎや バリ島への遠征旅行は楽しい思い出です。バリ では、日本人会のサッカー愛好会と対戦。試合 には、1対3で負けたがサッカーを楽しめた。 また、海外に出ている若い女性は、会社から派 遣される より自 分で海外 に行き 現地の 日系 企 業や語学の勉強をしている人が多い。大和なで しこは、行動力があり今後日本は、女性が引っ 張ってい くので はないか ?と感 じたも ので あ る。 〇七年七月帰国するまでサッカーとゴル フそして インド ネシア国 内旅行 を楽し み七 年 八ヶ月の 駐在と 三十九年 三ヶ月 のサラ リー マ ン生活を無事終えることが出来た。 海外生活は、ちょうど二十年間。サラリーマ ン生活の半分以上を海外で過ごし、そのつどサ ッカーをやってきたことが、良い経験と仲間を 作り自分の生活にプラスの作用をしてます。 「継続は、力なり」―――中学生三年生から現 在までサッカーを続けていて肉体的、精神的に 多少成長 できて いるのか な?昨 年のO B会 で 走れたのも日頃の鍛錬の賜物か?今年は、一〇 松本 安弘 kmロードレースで四六分三二秒の記録、昨年 より4分改善しました。体重は、現在54kg 快調にこれからも、サッカーやランニング、ウ オーキング、登山を続けて熟年生活を楽しみた いと考えております。皆様も決めたことを継続 し続けてください。 昭和三十九年 昭和三十九年入学 私は一年浪人後、昭和三九年、早稲田大学土 木工学科へ入学しました。昭和三九年は何と言 っても「東京オリンピック」が開かれた年で、 東海道新幹線、東京モノレールなどが開業する とともに、高速道路、地下鉄などの交通インフ ラが格段 に整備 されてい った年 でもあ りま し た。 世の中に閉塞感といったものはなく、今、考 えると上 昇気流 の中に巻 き込ま れたよ うな 高 揚感に包まれていたように思います。 早稲田に入って、驚いたことが二つありまし た。 一つは 理工学 部が大隈 候の銅 像のあ る早 稲 田キャンパスではなく、西早稲田にあったこと です。迂闊にも理工学部も早稲田キャンパス内 にあると思っていました。 確かに まだ大 学院機能 は早稲 田に残 って は いましたが、授業の全ては西早稲田で行われて いました 。どう も、授業 の全て が移っ たの は 我々の世代からのようです。 いわゆ る早稲 田らしい キャン パスの ムー ド と多くの 女学生 に会うの を楽し みにし てい た 私は大いに「あて」が外れました。新しいキャ ンパスも気に入りませんでした。どこかの新設 校と一緒じゃないか・・・と。 入学後に分かったことですが、吉永小百合も 一年に入学しており、それを知った私達は彼女 が体育の選択でテニスを取るとの噂で、皆で抽 選に参加しました。倍率がいくらだったかは知 る由もありませんが、私の前の二人が連続赤玉 を出したことで我が命運は尽きたことを知り、 結局「ハンドボール」をやることとなりました。 二つ目はグラウンドがなかったことです。 部室は いまや 教室にな ってい る五十 四号 館 の地下一階にあり、着替えて地上に出て、さて グラウン ドはど こにある のだろ うと周 りを 見 ていたら、驚いたことに林先輩がここで練習だ と言ってドリブルを始めたことです。我々の最 初の練習は、今や緑とベンチのある中庭でした。 大学にグ ラウン ドが無い ことは 全く想 定し て いなかったので、これまた、大いに「あて」が 外れました。 39 さて、サッカー部(当時、同好会と言ってい た)に入ると成蹊高校時代に見知った対戦相手 と一緒になることになりました。二年先輩の堀 田さん(学院)、同期の横山(小石川)、また、 高校時代 のスコ アブック に載っ ていた 植木 さ ん(学院、もう同好会にはおられなかったが、 後にOB戦でお目にかかり、どこかでお会いし たような気がしていました。)のお三方です。 堀田さんは私のトイメンで、スマートで茶目っ 気の多い方です。企業戦士のように亡くなられ てしまったのは、本当に残念です。横山(小石 川)には試合で負けて、高校サッカー生活の引 導を渡された相手なので、特に印象深かった相 手です。浮き玉を胸で基本通りにトラップして いた場面を妙に思い出します。 また、ビックリしたのは二年後輩に朝倉が入 ってきたことです。高校三年の時、あわよくば 東京都の上位を目指そうと、初めて東大生のコ ーチに来て戴き指導してもらいましたが、その 時「一年に正月三日間しか休まない浦和高校の 練習風景を見せる」といって見た八ミリフィル ムの中にうまい選手がおり、それが朝倉でした。 横からパスをもらい、ドリブルしてアウトサイ ドではた いてリ ターンを シュー トする 練習 で 幸いなことに62、63号館のある場所は未 だ空き地だったので、そこが狭いながらも練習 場所となりました。 ところで、三九年入学組の想い出を少し。 秋元は同じ土木の仲間、負けん気の強い男で したが、退職後「碁」に親み、そのせいか日本 代表の戦 いぶり にも奥深 い意見 を持っ てい ま す。直情だと思っていた彼ですが、社会人にな ったあと、一番印象が変わりました。飯島と一 緒に三八・三九年会の幹事をしてくれ、横浜で 散歩コー ス付き の完璧な 懇親会 を開い てく れ ました。 飯島はしぶといフォワードで、バックスから 何かゴチ ャゴチ ャやって るなと 思って 見て い ると良く点を取ってきていました。派手に喜ぶ こともなく、悪いことをしたかのようにセンタ ーラインに戻ってくるので、誰が点を取ったか 分からないこともありました。我々の副主将で した。今や、近所の奥様方を騙して、ヒマラヤ トレッキングなどをやっているようです。息子 さん達は いずれ も名の知 れたサ ッカー 選手 で うち一人はJ1にも誘われたと聞いています。 小串は熱い男で、高校でバスケをやっていた 経験を生かし、GKをやっていました。彼とお 見合いを してイ ナホのキ ャプテ ンにゴ ール を 決められたのは忘れえぬ想い出です。どうも私 が空振りをして裏を取られたらしい。三年の終 したがリズムが良く、アウトサイドでのパスが 苦手だった私は、初めて一流校のプレイを見て 格の違いを思い知らされました。 わりに打ち上げ(金城庵だったか)で思わず涙 を流したのも彼らしいところです。 奥田は中学からの付き合いで、父上は当時と しては珍しくサッカーをやられた方で、本人も そのDNAを継いでいました。フォワードとし てプレイし、浮き玉や足の裏での引き玉が得意 で一対一で抜く術を持っており、正確な記録は ありませ んが一 番点を取 ってい たので はな い でしょうか。但し、ヘディングや長い距離を走 るといったハードワーカーではなく、中央でデ ンと構え てボー ルが来る のをひ たすら 待っ て いたように思います。 小苅米 はとに かく明る い男で 体形は 丸ま っ ちく、また、タフでした。フォワードでは長岡 とともに 良く走 ってチャ ンスを 作って いた よ うに思います。今は毎日一〇kmを走ってすっ かりスリムになりました。また、畑にも良く行 っているようです。彼と酒を飲むときは少し離 れた方が安全です。うるさくて敵わない。(失 敬!) 関谷は運動能力抜群で、サッカー経験はあま りなかったにもかかわらず、すぐレギュラーに なりました。バックスでヘディングは特に強か った。今は会社勤めも適当にこなし、ワールド カップに なると 現地へ行 って観 ている との こ とで、会社も諦めて(見放して?)いるらしい。 利光は ボーっ としてい るよう に見え るが 、 時々辛辣な意見を絶妙な「間」で飄々と喋りま 40 す。空気が読めないようでもあるが、さにあら ず、思わず笑ってしまうセンスは今も変わらず で、酒を飲むときの重要なメンバーです。 長岡は異能の持ち主で、中村賢剛に良く似た 体形で苦しそうに走るのですが、ゴールライン からキー パーの ニアサイ ドの肩 口を抜 くシ ュ ートは驚きです、一点や二点では無いと思いま す。よくあんな所から打つ気がするなと思いま すが、オープンサイドに構えるキーパーは虚を 突かれるのでしょうか、結構決まるものです。 宮沢はいつもニコニコしている優しい男で、 サッカー をやっ ている雰 囲気は まるで 見え ま せん。当時はサッカーは武骨な感じのするスポ ーツでした。後日会ったときに、息子さんがJ 1山形のキャプテンと知り正直驚きました。あ の宮沢の息子さんが?ということと、学生時代、 考えもし なかっ たサッカ ーのプ ロリー グが 日 本に生まれ、しかも我々の子供の世代がそこで プレイをしているという二重の驚きでした。彼 の消息は小串がネットで宮沢名を検索し、山形 の宮沢キ ャプテ ンの父上 の名を もしや と思 っ て当たって見たら「当り」だったのでした。皆 さん、モンティディオ山形を応援しよう! 横山は、小石川の出身で高校時代のプレイと 同じくサ ッカー に真面目 に取り 組んだ 我々 の キャプテンです。ハードワークを厭わないで皆 を引っ張 ってい くキャプ テンシ ーを発 揮し ま した。お父上が東大の教授で、且つサッカーも やっておられたおかげで、東大御殿下グラウン ドでの試 合や検 見川での 合宿の 面倒を 見て 戴 きました。ただ、一度横山宅でマージャンをや っていた時、そのダラケた様子をお怒りになり、 息子でキャプテンだった横山を叱らず、マネー ジャーだ った私 にしっか りしな ければ いか ん と諭されたことがありました。何か納得のいか ない感よ りも我 々の父の 世代の 厳しい 生き 方 を教えて戴いたと思います。 その他、小助川、塩谷、益田、山崎の諸君が 在籍しました。山崎とは院で都市計画研究室で も一緒でした。彼は、当時PCの発達などによ り急速に広まってきた計量経済学の道に進み、 野村総研から今滋賀大教授になっています。 小助川はおとなしい男で、黙々と練習をこな していました。益田は大柄で体格も良いが、無 口で優しい男の印象です。塩谷はいつも何か悩 み事があ って誰 かと話を したい という 雰囲 気 でした。皆、サッカー経験がないのに新しい道 を探していたのだろうと思います。今会ったら どんな感想を言ってくれるのでしょうか。 かく言 う私は センター バック をやる こと が 多かったので、点を取られたことしか覚えてい ません。中でも日大にフリーキックを与え、ゴ ール前に 壁を作 られて壁 の中の 数人が 倒れ て その隙間 にゴー ルを決め られた のは悔 しい 想 い出です。あんなのはマグレだと思いましたが、 決めたのはセンターフォワード(つまり、私の トイメン)で、彼をスッカリいい気分にさせて しまい、ハットトリックも決められています。 また、一度PKを蹴るチャンスをもらい、(東 工大戦だと思います。どういうわけかFW連中 は誰も蹴らずに私の方を見ていました。)とに かく悔い なく蹴 ろうとし て思い っきり 地球 を 蹴ってしまい、あんな恥ずかしい思いをしたこ とはありません。その後、PKを蹴らしてもら うことは二度とありませんでした。 関東工科系リーグ準優勝 41 また、米元先生の思い出も少しお話しておこ うと思います。三年でマネージャーだった私は 当時いなかった顧問を先生にお願いしました。 授業の合間だったか、東大でサッカーをやって おられたことを知ったからです。とても優しい 目をなさった先生で、「オー、君もサッカーを やっているのか」と顧問を喜んで引き受けてく ださりましたが、冷酷にも水理学の単位を落と されました。後に「地下河川」の仕事をする羽 目になり、工業高校の教科書から勉強し直しま した。実際の土木構造物を仕事の対象として初 めて向き合った時に、勉強しておけば良かった、 と改めて思い、興味のなかった分野が如何に奥 深く面白いものか初めて分かりました。米元先 生、ご意見を伺いたかったです。 大学の 三年間 は社会に 出る前 の最後 の猶 予 期間であると思った私は勉強もせず、またサッ カーも真 面目に やったわ けでも ありま せん で した。 それで 良かっ たか悪か ったか は神の みぞ 知 るといったところですがもう後に戻れません。 人間は「また、若い時代に戻れたら」と考えま すが、悔いがあるからでしょう。ただ、若い時 代に戻っ てもも う一度同 じ轍を 踏む気 がし ま す。向う見ずな判断力とまだまだあった情熱で、 きっと同 じ道を 進んで行 ってし まうに 違い あ りません。だから人生はこれで良いのだ、と思 います。あとはやらなければいけないこともな いので毎日悔いなく遊ぶことにします。 では皆さん、また一杯やりましょう。 西川 進 思い出 サッカーを始めた頃 昭和四十年入学 一.最初の夏合宿 合宿場 のグラ ウン ドから 時々停 車す る特急 列車を見上げながら、「本当に東京へ帰れる日 が来るのであろうか?」そう真剣に考えていた。 理工学部に入学して、初めてサッカーを始め た。前年、早大学院三年当時に開催された東京 オリンピックで目にしたサッカー、釜本にあこ がれて入部した。しかし、学院で経験した授業 での「お遊びサッカー」とは異なり、理工サッ カー部(正式には同好会であったが)は本式? であった。ボールも重たく、学院と同じボール とは思えない感触であった。最初の春の練習で、 春季リーグ戦を見ていても、とても私の力では おぼつかないと感じた。大半の部員は高校での 経験者であった。学院からの新入生は三根など 同じクラスの者で、未経験者ばかりである。 しかし、夏合宿に備えて、まずスパイクを買 いに行った。安田靴店で既成靴を購入したが、 サイズが なくて やや小さ いもの を仕方 なく 購 入した。スパイクに足を合わせようとして、家 の中でも履いていたが、なかなかきつい。一週 間ほど大学のグランドで練習したが、なかなか 馴染まない。 夏合宿は黒磯にある旧四中(現戸山高校)道 場?のグラウンドである。合宿の前日まで、体 育の夏期授業で、一週間ほど上高地での登山合 宿である。夏期授業が終了して、疲労困憊の状 態で、合宿場に遅れて到着した。当日の午後の 練習に、購入したてのスパイクを履いてのぞん だが、アット言う間に足にマメができてしまっ た。翌日からスパイクは辞めて運動靴にしたが、 マメが痛 くて朝 のマラソ ンにも 付いて 行け な い。もともとマラソンは苦手なのに・・・尚更 である。そのような状況で、時々止まる列車を グラウンドから見上げて、情けないことに先の ような「ため息」を付いていたのである。 練習そのものは、学院時代のテニスの単調さ から比べると内容は富んではいたが、体力的に はきつかった。特に、最初に出来た足先のマメ を庇ったら、膝が痛くなり、膝を庇ったら、終 には腰が痛くなり、ターンも満足にできない状 況に陥った。まさに満身創痍である。しかし、 打ち上げ前夜には明日は帰れると思い、街中を 散策する元気は残っていた。 42 最終日の練習は午前中だけで、紅白戦で打ち上 げとなった。かくして、小生の最初の夏合宿は 無事終了した。黒磯駅前で食った氷がやけにう まかったのを覚えている。「これでやっと、い つも見上げていた列車に乗れる」そう言う感慨 で列車に乗った。しかし、上野駅について列車 を乗り換えようとすると、足がパンパンに張っ ていて、階段を満足に登れなかった。これが、 情けない最初の夏合宿の思い出である。当時の 合宿の集合写真を見ても、その時のことが何時 でも甦るのである。 二.その後、OB会発足など その後は、三年までは現役として部活に参加 し、合宿にも全て参加した。それ以降は、足に マメができることはなくなったが、何時も親指 の爪は死んで黒くなっていた。 卒業して会社に就職後は、ほとんどサッカー とは無縁の人生を送って来た。しかし、思い返 してみると、高校の学院時代のテニス部での、 いわゆる個人プレーの部活とは違い、サッカー というチームプレーに初めて接し、「仲間同士」 という良 さはそ の後の人 生にも 生きて いる と 感じている。その意味で、最初の夏合宿は懐か しく思い出である。そう言えば、ドイツにいた 時には芝生でサッカーをし、テレビで奥寺を応 援していた事もあったけど・・、この程度の関 わりである。 現在は 理工サ ッカ ー部O B会の 創設 に関わ り、また、図らずもOB会の役員を仰せつり、 五〇周年にも立ち会えて幸いである。諸先輩方 の創設時の思いを伝えると同時に、五十年間の 歴史の重みを踏みしめて、新しいページが開か れることを願い、微力ながらもその発展に協力 したいと考えている。 雑感 吉成 丹 その頃のサッカー(蹴球)そして・・・ 昭和四十年入学 一、勝者のメンタリティ 理工サッカー部(当時は同好会であった)で 獲得できた果実は「勝者のメンタリティ」と考 えている。 私の高 校時代 のサ ッカー 部の成 績は 東京都 ベスト16が最高であったが、予選にあたる地 域リーグ の段階 で負ける ことも しばし ばで あ った。当時地元には都立大泉、石神井、私立で は城北、早大高等学院、帝京などという強固な 地力を持 ったチ ームがい て我が 武蔵は 勝て な いチームだった。 その後入学した理工サッカー部では、春の工 科系大学 大会と 秋の同好 会大会 の公式 戦が あ って、どちらの大会も常に上位ではあったもの の優勝経験は無いままだった。そのまま引退と は寂しい限りと思い、しつこく四年まで選手を 続けさせてもらった。 そしてついに最後には 宿敵稲穂 キッカ ーズを破 り優勝 を飾る こと が 出来たのである。 こうし て理工 サッ カー部 では高 校時 代では 得られな かった 勝利の味 を味わ うこと がで き た。これはひとえに強い精神力を授けてくれた 先輩、そして気心の知れた同年代、理解力と実 力を持った後輩たちが有っての快挙であるが、 一度勝ち始めたチームはその後数年間春、秋と も優勝勝利を重ねられるチームになったのだ。 このような経験の 中で「最後まで諦め ない精神力」、「勝つ のは自分だと信じる 気持ち」(もちろん そのための戦略も・ ・ )、つまり“勝者 のメンタリティ”の 重要性を知ったので ある。今でこそ使い 回された言葉だが、 当時の自分を支え たのはまさしくこ の言葉であった。 43 二、堀内、高殿そして清水・・会えないのは寂 しい 堀内はわ れら四 〇年入学 組みの 入部最 速の 選 手の一人と聞いた。富山中部高校で快足?を鳴 らしたサイドのフォワードであり「ボールを持 つと何かが始まる」という観衆受けのすること ではプロ顔負けの奴であった。上級生への受け は大変良かったし、いつでも集まりの真ん中に いて皆を楽しませてくれた。 一方高殿は名門 広島修道出身のコテコテ広島(当時サッカーの 中枢地区)サッカー野郎で、中盤から前目の得 意なスト イック でちょっ とクセ のある 好漢 で あった。 清水は同期の仲間を常にバランスよ く包んで くれる チームワ ークの 中心に いる 男 であった。 堀内は卒業 後十数年 で早世し た。 清 水は 昨年年末の逝去で、本人も今年の五〇周年を楽 しみにしていた。 高殿は五〇周年のための消 息調査途中で「当人からの名簿不記載の希望」 もあって進まなかった男だ。 同期の彼らみん なで五〇年という節目を祝いたかった。 三、世界のサッカーに触れたのは 二年生の六月にワールドカップ・ロンドン大 会(1966)が開催された。そして市川昆監 督によるその記録映画「ザ・ゴール」が放映さ れ、ジェフハースト、ボビーチャールトン、ベ ッケンバウアーらを知った。その二年後の一九 六八年か ら三菱 ダイアモ ンドサ ッカー の放 送 が開始され、金子勝彦、岡野俊一郎コンビの話 に釘付けになったものだ。 一九六 六年の ロン ドン大 会に高 校の 友人が 見学に行った話を聞き、私も勇躍一九七四年西 ドイツ大 会には 会社を休 んで出 かけ、 数試 合 (あのベ ッケン バウアー とクラ イフの 決勝 の 戦いも)見学した。 昨今は、も っぱらケ ーブルT Vでプレ ミア リーグや チャン ピオンズ リーグ を観戦 して い る。 夢はご ひいき のチ ームの ホーム ゲー ム観戦 ==チェ ルシー のスタン フォー ドブリ ッジ へ と飛躍! 四、十二枚から三十二枚 ・さて何の数字でしょうか?・・ サッカーボ ールの革張 りの数の 変化であ る。間に 十八 枚の時期も あった。 十二枚当 時は外側 の皮 と中のチュ ーブとは 別物で、 練習のた びに 中にセット したチュ ーブに空 気を入れ てそ の口を輪ゴ ムで閉じ 、外皮の 口を十手 のよ うなニード ルを使い 革紐でと じていた 。切 腹と言って ニードル 使いが下 手でチュ ーブ に刺してパ ンクさせ てしまっ たことも あっ た。・・・理工サッカーのときはもう一体型 ボールだったっけ? ・三十二枚の白黒ボールは一九七〇年のメキシ コワールド カップか らであり 、理工サ ッカ ーでは十二 枚や十八 枚の茶色 い皮のボ ール だったはず。 ・ スパイクは小石川の安田靴店(社長は二年 のときの体育実技サッカーの先生!)、ユ ニはミクニ商会という時代から段々とア ディダスの道具類に移行して行った。そう そうスパイク類はミツナガも有った。 五、WMだった・・戦術、戦略も変わった ・ 当時は二BKからその間にCHが下がっ た三人のバックス、その前のサイドハーフ バック二人で出来上がったM字型バック 陣で守備を担当した。 ・ ・ ・ ・ フォワード陣はW字型の右からRW[ ウ( イング 、) RI(インナー)、CF、LI、 LWであった。 今で言うと3・2・2・3のスタイルか・・。 縦に間延びしBKの攻撃などは全く考え 付かなかった。 清水、笹尾らのCFと両インナーのセンタ ー3はボールを取られない足技を持ち相 手を押し込み脅かし、外の堀内ら快速ウイ ングが素早くボールを運ぶイメージがそ の頃の攻撃の定番。 CHはワタケンのような頑強で高さが武 器、FB(二人のバックス)のゴールに入 44 るボールをかき出す岡田らの忠実な守備、 そうして活動量の多いサイドハーフ幸村 が相手攻撃陣の芽をつぶす。 ・ その後の時代は、スイーパー、リベロ、ボ ランチ。また4・2・4から4・3・3や 4・2・3・1などサッカー解説者も戸惑 うほど進化している。 六、そして今は週一回サッカー装備 早稲田を出た後は神奈川・平塚の会社チーム、 自宅の有 った藤 沢の四十 雀でプ レーを した し 三級審判も経験した。そういう中で早稲田後輩 の金沢、阿部、田部井とは早稲田を出たあと交 流が深まった。また藤沢では娘が通った小学校 でコーチを約10年経験した。 現在は 週一回 では あるが 住まい のあ る大田 区立小学 校の平 日コーチ として 四年~ 六年 の 子どもたちと遊んでいる。ゲームではもう六年 とはたちうち出来ない。四年生ぐらいが丁度良 い。戦う気持ち、ゴールを入れるシンプルなス ポーツという原点を大切に教えている。 コーチライセンスD級。 更に上を目指す か・・ ・・・ 試合 終了 の笛 は次 の試 合の 準備の 笛!!長文失礼しました・・・ サッカーと私 昭和四十年入学 渡辺 健一郎 さて、何から書き始めましょうか。 僕が初めてサッカーをして、ボールを蹴った のは小学 生の低 学年の時 でした 。近所 の友 達 (皆少し年上でしたが)と道でボールを蹴りま した。ルールなどもちろん知らずに、相手に攻 め込まれて、僕は苦しまぎれに自分のゴールに シュートしました。当時のラグビーは自陣のト ライエリアに自らボールを押さえると、ピンチ を逃れられるルールがあり、サッカーも同様だ と思っていたのです。ピンチを救ったつもりが 相手に点を与えてしまい、僕の最初のシュート はオウンゴールとなりました。ただし、理工サ ッカーでも高校時代も大成建設時代も、公式戦 で僕は一 度もオ ウンゴー ルを経 験した こと が ないことを書き添えておきます。 学芸大 学の附 属竹 早中学 校には サッ カー部 がありませんでした。体育の時間や、休み時間 にサッカーをし、ドリブルで相手を抜く楽しさ を知り、なんとなくサッカーをやりたいと思っ たことを覚えています。 学芸大学附属高等学校に進学し、サッカー部 に入部しました。当時のピンクのユニホームが 気に入って、初めて背番号のついたユニホーム を配られた時の嬉しさは、今でも印象に残って います。同期には当時中学代表クラスの実力を 持っていた石田治君がいて、早く彼のレベルに 追いつきたいと夢中で練習をしました。彼より もボール を強く 遠くに蹴 ること を意識 し目 標 として練習したことが、その後の僕のプレーに 繋がっています。同時に、そのために右足ばか り使ったため、現役の最後まで左足のキックは 苦手でした。弱小なチームでしたが、二年生の 新人戦では勝てばベスト16の試合に、当時の 教育大附属に3対4の接戦で敗れました。教育 大附属の チーム で僕がマ ークし たセン ター フ ォワードは、ユース代表に選ばれた選手で、決 して一対一では負けていませんでしたが、思い 出に残る良い試合でした。 一九九五年 四月、早 稲田の理 工学部建 築学 科に入学しました。多少うぬぼれていた僕は、 同好会に 入って サッカー を楽し もうと 考え ま した。体育会のサッカー部では四年で卒業でき ないと言われたからです。ところが理工サッカ ーには県の代表クラスや実力のある先輩、同期 が沢山いて、僕が試合に出場できたのは一年近 くたってからのことでした。デビュー戦は電気 45 通信大学のグランドで途中からの出場でした。 対戦相手 は日大 理工だと 覚えて います が間 違 っているかも知れません。覚えていることは、 ファース トタッ チになる パスさ れてき たボ ー ルを空振りしたことです。ここで活躍しなけれ ば試合に 出して もらえな いとの 緊張感 が最 初 で最後の空振りをさせたのです。また、一年生 の夏の那須での合宿(主将の林さんの母校の都 立戸山高校の施設と記憶しています)も忘れら れません。暑い毎日でした。当時は練習中に水 を飲むことが禁じられていました。うさぎ跳び も当たり前のように行っていました。振り子の インサイ ドキッ クをいや と言う 程練習 させ ら れました。一方で、夜の散歩で同期の連中と見 た満天の夜空の、星座の美しさをとても良く覚 えています。 三年に なりキ ャプテン を務め ること にな り ました。それまでのサイドハーフのポジション から、歴代の主将(昭和四〇年林さん、昭和四 一年年横山さん)が勤めてきたセンターハーフ に変わりました。対戦相手のエースとぶつかる センター ハーフ のポジシ ョンを 僕は望 んで い ました。一対一の局面には抜かれない自信を密 かに持っていたからです。僕の頭の中では、「ボ ールを持っていないディフェンスが、ボールを コントロ ールす るフォワ ードに 負ける わけ が ない」との信念を持っていたからです。忘れる ことができないゲームは、春の理工系リーグで の対東工大戦です。 僕のマークした相 手は高校でユース 代表に選抜された と聞かされていた 青野さんでした。 いつもはゾーンで 守るのですが、あ の試合だけはマン ツーマンを選びま した。青野さんは、 ボールタッチが一 呼吸早いのです。 生涯忘れられませ んが、一回だけ完 全にマークを外さ れ強烈なシュートを許してしまいました。幸運 にもバー に当た って得点 は許し ません でし た がとても悔しい思いをさせられました。しかし、 僕のしつこいマークにあった青野さんは、この 試合の後 半は交 代してベ ンチに 下がっ てし ま いました。 当時の チーム には 吉成を はじめ 実力 のある 選手が沢山いて、そのお陰で公式戦では良い成 績が残せました。良い思い出を作れたのは、ベ ンチも含 めた同 好会メン バー全 員のお 陰だ と 心から感謝しています。有難うございました。 三年生の時、もう一つ忘れられないことがあ ります。夏の霧が峰の合宿です。練習の最後の インター バルト レーニン グで五 十メー トル の ダッシュを5(10?)回繰り返したのですが、 キャプテンとして模範を示すために、僕は全て トップで走ろうと決意していたのです。本当に 苦しい合宿でした。後に大成建設に入社して、 あの苦し かった 合宿を乗 り越え ること がで き たのだから、どんな辛いことでも耐えられると 考えて仕事に望むことができました。しかし、 仕事には サッカ ーとは違 った苦 しみが ある こ とをやがて知ることになるのですが、そのこと は別の機会にお話します。 三年の時はサッカーに明け暮れて、勉強は本 当におろそかになっていました。現役を引退し、 心を入れ 替えて 四年の時 は遅れ を取り 戻す た めに勉強をしました。専門科目はいい成績を取 ろうと頑張りました。サッカーは会社に入って からまたやろうと考えて我慢しました。そのせ いか、おかげさまで希望していた大成建設に何 とか入社することができました。大成の同期入 社には理 工サッ カーの二 年先輩 で修士 を卒 業 した高柳さんがいます。高柳さんは僕の高校の サッカー部の先輩でもあります。 もう少し話を続けさせてください。 46 大成建設に入社すると同時に、サッカー部に も入部しました。大成建設は当時、阿佐ヶ谷駅 の近くに立派な芝生(北海道の牧草でしたが) のサッカーグランドを持っていて、本当に良く 通いました。建設業リーグがまだできたばかり で、大成建設は当時は常勝のチームで、入社し た時から何年間か毎年優勝をしていました。リ ーグ戦で は前田 建設工業 に入社 した理 工サ ッ カーの二年先輩の小嶋さんや、清水建設に入社 した同期 のGK である三 根君の チーム と対 戦 をしました。 大成建設に入って、サッカーを続ける中で僕 は三つの目標を立てました。一つは関西の建設 業リーグの優勝チームと、関東の優勝チームと で東西王座決定戦を行うことでした。 当然常勝の大成建設が大阪に乗り込んで、王座 を占める つもり で建設業 リーグ の幹事 会に 提 案し、翌年から実施することが決まりました。 ところが、その年から大成建設のチームは急速 に実力が落ち、優勝を間組にさらわれ、行くつ もりだった大阪遠征は幻に終わりました。それ 以降、とうとう王座決定戦には出場の機会があ りませんでした。 二つ目 は異業 種のサッ カーリ ーグの チャ ン ピオン同士が戦うチャンピオン戦の実現です。 当時、銀行や生保、商社など、多くの業界でサ ッカーのリーグ戦が行われていたのです。しか し、この目標は夢で終わりました。なぜなら、 大成建設のサッカー部が急に弱体化したため、 チャンピ オン戦 に出場す ること が不可 能に な ったこともあり、実現するための意欲が失われ てしまったことが大きな理由です。 ただし、 大倉商事(バブルの崩壊で倒産して今はもうあ りません)、東海銀行(当時)、千代田生命(や はり倒産してしまいました)と大成建設の四社 で、年に一度のリーグ戦を行うようになり半分 は目標を達成できたと考えています。実力はど のチームも大差はありませんでした。 三つ目は大成建設の中で部・課あるいは関連 会社単位でのサッカーチームを募り、トーナメ ント方式 のオー ル大成サ ッカー 大会を 主催 す ることです。総務部の後援をもらい、最盛期に は約二〇チームが参加する、大きなイベントと して大成功でした。運動会も廃止されていた時 期に、若い社員にはとても好評でした。一九七 五年頃のまだJリーグが発足する前の話です。 大成建設に入社して二年目に、高校のサッカ ー部の石田君から誘われ、都民大会のサッカー 部門で、世田谷地区の予選に高校OBチームで 参加をしました。僕も石田もベスト4に残った チームの中から選抜されて、世田谷区の代表と して都民大会に出場しました。東芝府中などの 地区代表チームを次々と退け、ここでも優勝を することができました。しかし、この大会でも 悔しい思い出が一つあります。何回戦かに対戦 した目黒区代表だと記憶していますが、理工サ ッカーで同期の幸村君の高校のチーム(確かド ンキーズだと思います)と戦った時、相手の左 ウィング の一ツ 橋大学で プレー してい た選 手 に、一回ですが自信を持っていた一対一で簡単 にかわされてしまったのです。相手を甘く見て、 フェイン トをか けて当り にいっ た瞬間 に裏 を 取られて簡単に抜かれてしまいました。対戦相 手に一対 一で完 璧に破ら れたの は東工 大の 青 野さんとこの選手の二人であり、今でも悔しく 思っています。今考えてみると、早稲田理工サ ッカーの チーム メイトが 味方で 良かっ たと つ くづく感じています。もし敵にまわしていたら、 悔しい思い出がもっと増えていたはずです。 大成建設で、現役を引退しようと決意したの は三十五歳を過ぎた頃でした。忘れもしない建 設業リーグのある試合で、相手のゴールキーパ ーが高いボールを蹴ってきた時です。ヘッディ ングをしようとした僕は不覚にも目測を誤り、 バランスを崩し、かろうじてボールを頭に当て ることが精一杯でした。その時、そのプレーを 見ていた大成建設の女子マネジャー達が、なん と、大声で笑ったのです。その瞬間に僕は即座 に引退を決意しました。 現在では、日本代表を熱烈に応援し、観戦を 楽しみにしています。最近は数が減りましたが、 47 東京近辺で行われる日本代表の試合は、良い席 のチケットが取れる限り観戦しています。特に 二〇〇二年の日韓共催(何故日本単独にならな かったのか今でも残念です)のワールドカップ は必死の思いでチケットを手に入れ、五試合を 見ることができました。日本代表は予選の一試 合と仙台 でのベ スト8を かけた トルコ 戦を 運 よく見ることができました。レフリーはイタリ アのあのコッリーナさんで、試合のあと偶然仙 台のホテルでお会いでき、一声かけて握手をし てきました。また、韓国にも行って一試合を見 てきました(本当はもう一試合のチケットがあ ったのですが韓国が勝ちあがり、一緒に観戦し ていた韓国チーム嫌いの会社の後輩が、見たく ないと言いだしたため断念しました)。僕のメ ールアドレスの wataken2002はワールドカッ プを記念したものであり、前の車のナンバーも をつけて走っていました。 2002 最近では、日本代表を観戦しながら、ふと廻 りを見回すと、観客は若い人ばかりであること に気がつきます。これからはTVでの観戦が多 くなるかも知れません。わが家のアクオスの四 十六型のTVも、二〇〇六年のドイツのワール ドカップを大画面で見たくて、当時まだ高価で したが思い切って購入してしまいました。 ながながと、私事のサッカーに関する今日ま での思い出を書かせていただきました。おそら くOBの皆さんも、僕に負けずにサッカーが大 好きなの だと思 いますし 多くの 思い出 をお 持 ちだと思います。僕の高校の同級生だった石田 は、とうとう六〇歳以上のカテゴリーの試合に 出場して優勝し、日本一になりました。往年の 名選手に混ざっての優勝はたいしたものです。 大好きな サッカ ーを振り 返って 思い出 して み ると、やはり一番の思い出は、早稲田大学の理 工サッカー同好会での活動です。あの時は先輩 や仲間や後輩と共に、サッカーを最優先とする 生活をしていたように思います。夢中になれる ことがあったことは、とても幸せであったと考 えています。 今でも、いつでもサッカーができるようにと 考えて始めた、ジョギングと寝る前の腹筋運動 は続けています。しかし現状は、若いときに馬 鹿にしていたテニスをすることで、よい汗をか いて満足するようになってしまいました。サッ カーはプ レーす ると相変 わらず むきに なっ て しまうことがわかっているので、これからは不 本意なが らテニ スとジョ ギング を続け て行 き たいと考えています。 最後になりましたが、理工サッカーのOBの 皆さんのご健勝と、益々のご活躍を心より祈念 いたします。 サッカーと私 昭和四十一年入学 朝倉 義一 私はサッカーが盛んだった浦和の街で生ま れ育った。 最初のサッカーとの出会いは、小学校の五年生 の時だった。 当時、担当の先生は運動が好き で、サッカーを高校でやっていた教え子に学校 に来て我々を指導させた。 その時にお前はう まいぞと言われたのがきっかけでサッカーを 好きになったと思う。 その後、わがクラスの 男子は赤と黄色のストッキングを買って授業 前と授業後はすぐ敵味方に分かれてサッカー に興じていた。 中学に入ってからは当然のご とくサッカー部に入った。 我々団塊の年代は 人口が増え新しい学校がどんどん作られてい た時代であった。 この為、我々の中学は新し く出来た学校で入学当時は別の中学に一年居 候させられ、二年から新しい自分たちの中学に 移ったと記憶している。 この為、工事中の場 所もあり、グラウンドはまだ野原のままで整地 もされていない状況であった。 まずクラブメ ンバーは草むしりとグランド作りから始まり、 十分な練習も出来ない環境であった。このよう 48 な状態で、練習もできずに試合に臨む為、殆ど 一回戦敗退を繰り返していた。 高校は浦和高校に入学し、サッカー部に入っ た。 浦和高校はサッカーの歴史は古く、全国 大会でも活躍していた伝統のある高校である。 記憶に鮮明に残っているのは、高校入学前の春 休みに西ドイツのクラマーさん(日本サッカー の育ての親と言われていたと思う)が浦和高校 に来てサッカー指導を行っている所を見に行 ったことである。 中学を卒業したばかりの自 分にとっては高校生の体格は非常に大きく感 じ、クラマーさんの指導でボールコントローや 激しくぶつかり合うプレーを行っている光景 を見て、自分にこんな激しいスポーツが出来る のかなと心配になったこと記憶している。 高校での生活はサッカー漬けの毎日を送った。 学校の旅行などにも行かしてもらえず、練習と 試合に明け暮れた高校生活であった。 大学現 役の先輩たちも合宿が始まると厳しい指導に 来て、本当につらい練習だった。 我々の年代 は人数が少なく成績的には良くなかったが、先 輩後輩関係やフォアザチームの精神を大変勉 強出来た時代でもあった。 厳しい・辛い時に、 そこから逃げずに頑張って立ち向かう精神が 鍛えられたのもこの時の経験のおかげと感謝 している。 大学は理工学部の電気工学科に入った。 当 時は学生運動の真っただ中で我々の校舎もバ リケードが張られていた。 入学式もなく自宅 待機させられ、ようやく五月に入ってから学校 が始まった。 何かクラブに入りたいと思って いた所に理工学部にサッカー同好会があるの を知り、今度はサッカーを楽しむ目的で入会し た。 グランドらしいものはなかったが、裏の 小さなスペースで練習しながら先輩や同期の メンバーと楽しいクラブ活動が出来た。 新関東フットボールリーグ優勝 検見川(当時は全日本も合宿を行うあこがれ の場所)や菅平での合宿も楽しい思い出である。 また飯田先輩の会社のクラブの応援にも同期 の金沢君と良く出かけ、試合後の食事を楽しん だりもした。 同好会では常に一、二位を争う 強いチームであったが、勝負への思いよりもサ ッカー以外でも同好会メンバーと一緒に楽し い学生生活をおくれたことが自分にとっては 大変貴重な体験であった。 マージャン・飲み 会・資金稼ぎのダンスパーテイ等に皆で楽しん だ。 行事により得意のメンバーがリーダーと なり、旗を振って引っ張っていた。 現代のよ うにいろいろなことを出来る環境とは違い、限 られた選択肢の中で学生時代を皆エンジョイ していた。 卒業後、東芝に入社し埼玉の深谷市の工場に 配属された。 ここでも自然とサッカー同好会 に入った。 地元の高校でサッカーを経験した メンバーが主体のチームで深谷市のリーグに 参加していた。 やはりサッカーが好きな人が 集まっていたので徐々に活動も活発になり、深 谷では常勝チームとなり四 五 ~年後には埼玉 の二部リーグに昇格した。 ここはさすがに実 力のあるチーム揃いで二年位は持ちこたえた がその後はまた地域リーグに降格してしまっ た。 その後はチームも若い人が集まらず平均 年齢が増すと同時に活動も勝つことから親睦 49 を優先するチームとなり、その数年後には活動 を中止した。 若いメンバーは地域のクラブチ ームに移りそこで活躍していた。 ここまでが現役でサッカーをやっていた時 代で三十半ば位だったと思う。 それ以降は地 域の少年サッカーチームのお手伝いを少しや っていた程度である。 会社の仕事でブラジル赴任となったのが一 九九一年である。 ブラジルへは家族でいった。 小学四年の息子がおり、現地の日本人学校のサ ッカークラブに入ったのでこのお手伝いも少 しやった。 場所はサンパウロだったが、プロ のサンパウロFCの現役(ブラジルの名門クラ ブだが二軍のメンバーだと思う)が日本人学校 の生徒指導にきた。 大きい選手の足技に親も 子供もその技術の高さに吃驚させられた。 ブ ラジルのサッカーも何回か見に行ったが、競技 場は危険なので何時も会社の現地人に連れて 行ってもらうか旅行会社のツアー観戦を利用 した。 観衆も敵味方に分かれた応援合戦はひ どく荒れ、一般席には危険で我々は入れなかっ た。 南米サッカーは足技が優れ非常にトリッ キーなプレーが多く観客を楽しませてくれる。 常にTV中継もしておりサッカーの好きな人 にはたまらないお国であろう。 大きな大会で ブラジルが勝てばその直後から人々が街の中 心に集まりどんちゃん騒ぎが夜遅くまで続く のが常である。 また当時は日本のプロサッカ ーのメンバーも良くサンパウロに来ていた。 特に東京ヴエルディのメンバーは多かった。 三浦和良は日本人のパーティーにも来たりし て家族は一緒の記念写真を撮らしてもらった りして子供は大喜びしていた。 ブラジルからの帰国は一九九七年であった。 ここからは完全にサッカーからは遠ざかり、 その後は二〇〇一年からの中国赴任と現在の ベトナム赴任で海外生活が主体となっている。 一方で大学の仲間との交流は、卒業してから 同期の田部君・小穴君、そして一級下の山須君 とは付き合いが続いてきたが、その他のメンバ ーとは会う機会がなかった。 今回、理工サッカー同好会の五〇周年の記念行 事があるとのことで我々の同期は田部君が主 体となり名簿作りを始めた。 次々と昔の仲間 の所在が判明し殆どのメンバーと連絡がつく ようになった。 昨年はほぼ四十年ぶりに多く のメンバーと再開を果たせ、昔の思い出を語り あった。 そして一級下の三輪君世代とも一昨 年位から交流が始まり、現在日本在住者はゴル フコンペと懇親会を頻繁に開いている。 昨年 の末には一部のメンバーが小生の赴任地であ るベトナムのハノイまでゴルフ&観光ツアー に来てくれ、楽しい一時を過ごせた。 今、日本は地震・津波そして原発事故で大変 な状況になっている。 我々の有志の会も、被 災地に近いメンバーへの状況確認や支援に関 しメールでやり取りしている。 これをハノイ の地から読ませて頂いていると、仲間への思い やりや団結力のある行動を非常に素晴らしい と感じるとともに、この素晴らしい大学時代の 仲間と巡り合えたことに感謝している。 我々の代はこれまで世の中から多岐にわたる 支援・指導頂きここまで来たと思う。 これか らの定年生活の中では、この支援・指導に対す るお返しの時代に入ったと思う。 このような 大きな災害が発生すると尚更その事を強く感 じる。 これからは少しでも社会に貢献できる ように地域と繋がりを持ちながら、家族や友人 との絆を大切にしながら生活をエンジョイし ていきたいと思っている。 二〇一一年三月二一日 ハノイにて 斎藤 謙次 日本サッカーに思うところ 昭和四十一年入学 理工サッカ ー部創立 五〇周年 記念に寄 せま して、高校、大学でサッカーを多少かじった者 として、日本サッカーに思うところを一文寄稿 させていただきます。 50 昨年暮れ、 北区にあ る西が丘 サッカー 場に 行ってきました。私の母校の都立駒場高校が東 京都予選を勝ち上がり、第八十九回全国高校サ ッカー選 手権大 会に東京 代表と して十 三年 ぶ りに二回目の出場を果たしので、その応援に行 った訳です。私がプレーしていた四十数年前も 結構強く、二年の時は新潟国体の東京都代表に なり、ベスト4まで勝ち上がったこともありま した。さて今年もということで期待を胸に秘め、 駆けつけた次第です。会場も地元東京代表とい うこともあり、スタンドもほぼ満員でかなり熱 気も溢れていました。しかし、相手は兵庫代表 の強豪滝川第二でした。ご存知のように、この 大会の優勝校で、夏の沖縄インターハイでも準 優勝したチームでした。試合は残念ながら六対 一で完敗しました。途中から母校の応援を置い ておいて、滝川第二の二人のFW、浜口、樋口 の両選手の動きに見とれてしまいました。特に スピード、シュート力は抜群でした。たまたま、 駒場のキ ャプテ ンの原選 手の父 親が日 本サ ッ カー協会の技術強化委員長の原博実氏(日本代 表監督選定委員、早稲田卒)で、息子さんの応 援にかけつけ母校の応援団の中におりました。 息子さん の試合 観戦は初 めてと いうこ とで し たが、多分原氏の視線は滝川第二のこの二人を 追っていたのではないかと思われます。今回の 高校選手 権はこ のほかに 中京大 中京の 宮市 選 手、青森山田の柴崎選手など将来の日本を背負 って行くであろう多数の逸材がおりました。彼 らのよう な若手 の成長な くして 日本サ ッカ ー の将来はないと思っておりますが、一方では、 問題点としてよく言われるように、日本サッカ ーの方向性を協会は明確に示し、それぞれの組 織(クラブ、学校)がその方向性を追求してい くように ならな ければな らない と感じ てお り ます。 昨年のワ ールド カップを 制した スペイ ンは ご 存知のよ うにス ターター のうち 七人が バル セ ロナの選手でした。しかもそのうち六人が、下 部組織の 十二歳 から入団 するカ ンテラ 出身 の 選手です。バルサは統一した思想の元、下部組 織からト ップチ ームまで 同じ戦 術で戦 って お ります。所謂、流れるようにパスを回し続ける ポゼションサッカーで、点を入れようとすると きは、全員にスイッチが入り、パスコースに動 き回ります。下部組織のカンテラのチームも質 はともかく同じ戦法だそうです。それには一貫 した育成 方針に 基づいて いると いわれ てお り ます。バルサの下部組織には十二歳にならない と入れないそうです。毎年十二から十四人の子 供たちが、バルサのスカウトマンの目に留まっ て入団してきます。もちろん全員が「マシア」 と呼ばれる宿舎での生活になります。地元カタ ルーニャ 自治州 を中心に スペイ ン国内 だけ で はなくアルゼンチンはじめ南米諸国、さらに韓 国の少年もいるといいます。バルサには三十人 ものスカ ウトマ ンが人材 発掘の ために 契約 し ているそうです。何万、何千という6歳から十 歳前後の 子供た ちの中か ら将来 性のあ る有 望 な選手を見つけて育てるわけですが、ある著名 なスカウ トマン はその子 達を選 ぶ重要 な要 素 を4つ上げています。「まず最初に技術(テク ニック)、次に知性、そしてスピード、最後に 行動力の四要素」が備わっていなければならな いとのことです。知性とは試合の中でどのよう な選択をするのか、ということを観るといいま す。最後の行動力が、バルサの選手にとって特 に重要だと彼は指摘しています。「プレー中に 常に何かを考えていて、怠けていないこと。野 心と熱意に溢れている子供」でなければならな い と い っ て い ま す 。( こ こ ま で 雑 誌 Number771号 か ら一 部 引 用 さ せて い た だき ましたことをご容赦願います。)このような統 一された方向性のもと、しっかりとした育成環 境の中から、育っていったのがメッシであり、 イ二エスタ、シャビでした。ドイツやフランス のように国がバックアップし、サッカー連盟が 作ったエリート制度ではなく、バルサのように クラブ組 織ごと にこのよ うな才 能ある 人材 を 発掘し、育成するプログラムを持っているスペ インは今 後にお いても世 界のサ ッカー をリ ー ドしてい くに違 いないと 思うの は私だ けで は ないと思います。 はたして、日本の現状はどうでしょうか? 個 51 人レベル ではも のすごい 情熱を 注いで 育成 に 取り組んでいる人たちもいます。香川を育てた FCみやぎバルセロナもその一つでしょう。し かし、日本においてもスペインのように大きな クラブが人材発掘・育成システムを構築し、実 践していくことが必要ではないでしょうか。そ れには時 間とお 金がかか ります が是非 頑張 っ てもらいたいと思います。 Jリーグ は各ク ラブが少 年選手 を育成 する ユ ースプログラムがあります。わたくし事ですが、 私の孫もサッカー少年で十歳になり、J2のF C横浜の ジュニ アチーム の入団 テスト に合 格 し、保土ヶ谷区西谷のグランドで練習しており ます。まだまだバルサのスカウトマンが掲げる 四要素は備わっていませんが、小学校を卒業す るまでに は何と か身につ けても らいた いと 願 っております。 そして、このような子供たちが沢山成長し、J リーグを一層活性化していけば、日本のワール ドカップ ベスト フォーも 夢では なくな るで し ょう。その日が一日も早く来るのを待っており ます。 田部 公 リコサ仲間とのハノイ旅 昭和四十一年入学 私は古河電工に一九七一年に入社し、一九七 八年から数年間平塚工場に居た関係で、吉成先 輩(平塚勤務)のサッカーをする姿はグランド で見ていたものの、その後は殆ど連絡を取って おらず、驚いた。しかし、会社は退職しボラン ティア活動のみをしていたフリーの身なので、 年度幹事を引き受ける事にした。 二〇〇八年 初夏「プ ルルーン 」と居間 の電 話が突然鳴った。出てみると吉成先輩から「理 工サッカー部(以下「リコサ」と省略)が創部 五十年となるので記念行事の準備をしている。 ついては同期のとりまとめをお願いしたい。」 との電話であった。 間でその時点で付き合いのあるのは、朝倉・小 穴だけ。他の仲間の連絡先は一切分からなかっ た。幸いにも西川先輩のまとめたファイルがあ ったので、それを基にOB会名簿の作成に取り 掛かった。現在の名簿を完成する事が出来たの は、諸先輩や同期のお陰である。 何度もゴルフを重ねているうちに、関東近辺 だけでなく遠征をと言う声も出て来て、手始め に朝倉君が仕事をしているベトナム・ハノイに 行こうという話になった。皆ある程度時間には 融通が利くので、すぐに話は決定。齋藤・竹中 は奥さん同伴でも良いと言う。田部は断られる と思ったが山の神に確認したところ、意外な事 にベトナ ムなら 買い物が 出来る のでO Kで あ った。 昭和四一、四二年入学年次の学生時代は集ま ればサッカーや麻雀であったが、今ではゴルフ 好きが多い。このリコサOB会を契機として、 最近では ゴルフ 好きが集 まって 毎月の よう に ゴルフをしている。メンバーは朝倉・齋藤・竹 中・松浦・木原・大塚・佐橋・志賀・三輪・田 部である。しかし、三輪君は現在闘病中。早く 元気になり、もう一度一緒にゴルフをやってみ たい。黒沢君もゴルフをするという事なので、 二〇一一 年六月 からはメ ンバー に加わ る予 定 である。 二〇〇 八年夏 に理工学 部のキ ャンパ スで リ コサの会合があり動き始めた。この会合では懐 かしい先輩・後輩と三十数年振りに顔を合わせ る事が出来た。中でも一級下の三輪・木原・大 塚・佐橋とは学生時代よく麻雀した仲間であっ たが、卒業してからは全くの没交渉。寄る年波 で皆髪の 毛には 相応の変 化があ るもの の三 十 数年振りでも一目でそれと分かり、すぐに学生 時代に戻る事が出来た。全く一瞬の事であり、 改めて学 生時代 の密度の 濃い付 き合い を認 識 した。 年度幹 事を引 き受けた ものの 学生時 代の 仲 52 と言う ような 訳で 二〇一 〇年十 二月 には朝 倉の勤務 地のあ るハノイ にまで 出かけ てゴ ル フをして来た。二ラウンドのゴルフと一日のハ ロン湾観光である。朝倉・齋藤・竹中・松浦・ 木原・大塚・田部が参加した。齋藤は京都から 夫婦で、竹中・田部も夫婦で参加で総勢十名の 賑やかな 旅とな った。十 人とい うのは バス や 船・レストランの予約等にも丁度良かった気が する。もっとも現地での段取りをしてくれた朝 倉には大変お世話になったが。 ハノイ からハ ロン 湾まで はバス に乗 って三 時間以上かかるが、昔の話やささいな話で男ど もは大変盛り上がり、全然退屈しなかった。リ コサ専用 のミニ バスだっ たので 思う存 分大 声 で話をする事が出来たが、女性陣は多分呆れて 話を聞いていた事と思う。 ハロン 湾では リコ サのメ ンバー だけ で船を 貸し切り、さほど景色は見ずに大宴会。二〇一 一年にな ってか らハロン 湾で船 が沈没 した 事 件があったが、もし我々の船が沈没したら男ど もはすべて溺れ死んだに違いない。昔の仲間と ただただ遊ぶのは大変楽しい。OB会結成に感 謝するとともに、今後もリコサ仲間との楽しい ゴルフは続けて行きたい。 ハノイゴルフクラブ イタリアンレストラン(ハノイ) ハロン湾 ハロン湾クルーズ船内 53 黄金期を築いた年代 昭和四二年入学 【大挙入部】 成井 正浩 団塊の世代の真っ只中で、四二年春の新入部員 登録はおそらく五〇名近くいたのではないか。 もちろん、登録だけで一度も練習に現れなかっ た者もいただろうが、東伏見の補助グラウンド での初の練習で、新入生だけで輪になってボー ルを蹴った時は、あまりの人数の多さに愕然と したこと、ほとんどボールが回ってこなかった ことを、鮮明に記憶している。 手許に「早大理工サッカー部OB会名簿」とい う青表紙の冊子があるが、卒業年度で昭和三六 年度から五七年度まで掲載され、果たして我が 年度は記載人数が十七名と最も多かった。 【三年次のメンバーと戦形】 下級生から田部井・和田・杉本・広野が入り、 三輪・生野・黒沢・菊池・阿部・木原・成井の 十一名で戦うことが多かった。 WMで始動し、途中から4・2・4を採り入れ たような記憶もあるが、そうだろうか。 守備の要のキーパー(筆者)はボールへの反応 はまずまずだが、取った後のキックに難があり、 すぐ近く の敵に 渡って再 びゴー ルを脅 かさ れ るという有様で、ベンチの下級生の間では、「キ ーパーボールは新たなピンチを呼ぶ」と密かに 怖れられていたようだ。 【春の理工系リーグで優勝】 歴史のある理工系リーグでの初優勝は、何物に も勝る勲章であった。 比較的新参の部類に入るが、チームの勢いのあ る宿敵武蔵工大を2対0で下して、歓喜の優勝 を遂げた。 祝勝会は新宿のビヤガーデンで、優勝杯になみ なみとビールを注ぎ、回し飲みを何度も繰り返 した。 優勝杯に ビール を移した 後の空 ジョッ キ二 本 が、何故かトロフィーの左右にきちんと収まっ て箱に収納されているのが、翌日部室で発見さ れた。 昔の大ジ ョッキ は現在の ものよ りかな り大 き く、これが左右に収まるほど巨大な優勝杯であ ったことの証として、誰かが収納したものであ ろう。 【菅平で初の合宿】 六月ごろ、キャプテン三輪、菊池、マネジャー 成井の三名で、知人から紹介された菅平の田中 旅館へ下見に行った。 オンボロのレンタカーで夜九時過ぎに出発し、 広いトヨタクラウンに三名では寂しいので、ベ ンチシートの前列に三人とも座るという、奇妙 なドライブであったが、ヘッドランプが切れる などのアクシデントを乗り越えて、白々明けに 到着した。 旅館のおかみが熱いお茶と、お茶請けのキャベ ツの一夜漬けを出してくれたが、このキャベツ が疲れた体に染みるようだった。 キャベツ の一夜 漬けを毎 食出し てくれ ると い うので、田中旅館に決め、合宿では期待にたが わない充実した食生活を満喫した。 菅平はラグビー合宿のメッカであって、夏季に はラガー メンが うろうろ してい るとこ ろで あ るが、サッカー合宿も結構あり、練習試合を組 めるというメリットとあいまって、田中旅館の サービスに次年度以降も甘えることとなった。 【秋の同好会リーグでは連覇を逃す】 三九年度に始まった同好会リーグでは、四四年 秋に初優勝し、我々が連覇をとの意気込みにも 何故か結果がついて来ず、最終戦を残して優勝 の望みは絶たれた。 最終戦はこれも宿敵の中大同好会戦だったが、 後半の四 〇分は 三年間苦 楽をと もにし た同 期 だけで戦った。 公式戦初出場の選手も数名いたが、皆で励まし 54 あいなが ら戦う うちに聞 いた終 了のホ イッ ス ルは、万感胸に迫るものがあった。 最近、還暦を過ぎて同期でよく飲むようになり、 必ずこの試合の話題が出るが、初出場の一人が、 キーパー へのバ ックパス のスピ ードが 遅い と 文句を言われた、と怒るので、それは最後の試 合に精一杯やろうとの愛の鞭だったのだ、と大 笑いになる。 【四年次合宿のこと】 例年通り、四年生として後輩の合宿に参加し、 先輩風を吹かせた。 只で腹いっぱい飯が食えることも魅力で、食堂 では筆者の席に必ず飯櫃が置かれていた。 恒例とな ってい る下級生 の中か ら生贄 を捧 げ る儀式は、残念ながら失敗に終わっている。 (写真①、②) 写真① ンドで 四五年夏合宿 田中旅館専 用グラ ウ 写真② て 四五年 夏合宿 解散前 田中 旅館 に 55 【日ラのこと】 飯田先輩(四一卒)が所属する日本ラジエータ ーサッカー部に、三年次を中心に助っ人で参加 し(多分、レギュラーの半数近くがリコサだっ た)、神奈川県愛甲郡の内陸工業団地まで試合 に出かけた。 写真は、何かの大会に勝った折のものらしいが、 確かな記憶がないので、飯田先輩に教えていた だかねば。 筆者はこの三十七年後に、所属する建設会社の 技術研究部長として、奇しくも同工業団地内の 日ラのす ぐそば にある同 建設会 社技術 研究 所 で定年を迎えることになる。 (写真③、④) 写真③ 日ラグラウンドで 写真④ 同上 何のトロフィーか? 佐伯 眞 サッカーに感謝(私的サッカー史) 昭和四十三年入学 昭和三十年代、サッカーはまだマイナースポ ーツで、私が中学までを過ごした地域にはサッ カー部はなく、サッカーというものを目にした ことすらない環境で、中学の体育の授業で一、 二度サッカーを体験しただけであった。 高校か らは当 時サ ッカー 御三家 と言 われた 広島市へ通学することとなり、入学した高校は 昼休みには全校生徒(?)が校庭でサッカーを しているような、特にサッカーが校技という学 校であった。ちょうど同じ年の昭和四十年に日 本リーグが発足したこともあり、私もすっかり サッカーにはまってしまった。 高校二年の時に、現在まで四十五年間続いて いる校内サッカー大会が始まり、中高併設校の ため、中学生から高校生までオープン参加のカ ップ戦ということで、サッカー未開の地域から 汽車通学 してい る初心者 仲間で チーム を結 成 し、無謀にも出場した。一回戦で中学一年生チ ームと対 戦し、 0対0か らのP K戦で 見事 に (?)初勝利をあげたのが、私のサッカー人生 のスタートであった。蛇足であるが、私の愚息 はちょうど三十年後に、この校内大会で優勝し て父親の ささや かな夢を かなえ てくれ たの で あった。 高校まで部活にはまったく無縁であったが、 大学ではサッカーをやろうと青雲の志に燃え、 理工学部で同好会を探したが、なぜかサッカー 部の勧誘に出会えず、たまたま勧誘されたボー ト部についふらふらと入ってしまった。ボート 部の部室 のすぐ そばにサ ッカー 部の部 室が あ ることを知ったときは後の祭りで、仕方なく夏 の合宿ま ではボ ート部で 筋トレ に明け 暮れ た が、サッカーへの思い断ちがたく理工サッカー 部にやっと入部したのは二学期であった。 生まれ て初め てき ちんと したサ ッカ ーの練 習ができることは楽しかったが、まわりは中学、 高校からの経験者で、浦和、湘南、高等学院等 名門出身者も多く、私の高校も名門の端くれで はあったが、サイドキックもまともに蹴れない 自分はまったくついていけず、皆に追いつくこ とはとても出来そうにないと感じていた。 二年生 になる と大 学紛争 でロッ クア ウトと なり、学校へ行かずバイトばかりの生活に堕落 したことから、次第に練習にも行かなくなり、 56 卒業まで 在籍は したが幽 霊部員 状態で サッ カ ーはまったく上達せず、部にもなんら貢献でき なかった。当時のキャプテンの田部井君達サッ カー部を 支えて くれた皆 には申 し訳な かっ た と、後になって思っても時既に遅かりしである。 昭和四 八年中 国電 力に就 職し広 島に 帰って きて、会社では今度こそまじめにサッカーをや って青春を取り戻そうと思っていたが、社内に サッカーの気配などまったくなく、仕方なくサ ッカーと は真反 対の手し か使え ないバ レー ボ ールをやってお茶をにごしていた。 素人で もサッ カー ができ るチー ムは どこか にないかと探し、部員募集の情報を耳にして電 話してみたら、「うちは関東大学リーグ出身者 などが多いチームだよ」などと言われて言葉に ならなかった。 入社四年目になって、たまたま社会人リーグ で活動するクラブチームを紹介してもらい、や っと毎週末にまともな練習、試合という生活が できるよ うにな った時に は二十 七歳に なっ て いた。このチームは三部や二部に所属していた が、私はBチームが所属する四部リーグでプレ ーすることで、初めてサッカーが少しずつ上達 する喜びを知った。 ちょう どこの 頃か ら理工 サッカ ー部 OB会 が始まり、何度か上京してゲームに参加したが、 結構皆と 同じよ うにでき るよう になっ てい る 自分がうれしかった。 そして、もっとサッカーをやりたいという思 いから、会社でサッカーチームを作ろうという 夢を抱くようになってきた。職場でサッカー好 き、サッカー経験者に声をかけボールを蹴る機 会を作りながら、少しずつ活動を広げていき、 昭和五五 年に社 内の事業 所対抗 のサッ カー 大 会をスタートさせた。 連盟理事と肩書きばかりが増えてきた。 さらに昨年から、なにを血迷ったのか県国体 成年男子 強化部 会長とい う場違 いな立 場に な ってしまい、国体チーム強化の旗振り役として、 従来から の中国 電力サッ カー部 の活動 のみ な らず、国体チームの練習、強化試合の計画、運 営で、一年を通して週末はグランドで朝から夕 方まで過ごす生活パターンが続いている。 自らがプレーする機会も積極的に作り、広島 八大学OBリーグでは、恥ずかしげもなく早稲 田大学サ ッカー 部OBチ ームに 加えて もら い 元代表選手クラスの方々ともプレーし、五〇歳 を過ぎて からは スポレク にも参 加させ ても ら うなど大いに楽しんできた。 これらチーム活動以外にも、県リーグ、天皇 杯県予選、中国リーグほか社会人の各種中国大 会の運営、これらの試合でのマッチコミッショ ナー実施、天皇杯本大会の広島開催試合の運営 も年中行事である。 チームは四年後には一部に昇格し、現在まで 約二十年 間一部 リーグで 活動し 中国リ ーグ 昇 格を目指しているが、残念ながらまだ二位が最 高で一度も優勝していない。 大学時代、素人で単なるサッカー好きのテキ トー人間だった者が、いつの間にかサッカーに どっぷりと浸かり、多くの人と出会え、数え切 れない感動を共有させてもらい、地域に多少な りとも貢献できて、日々これほどまでに楽し充 そこで めぼし いメ ンバー を集め てサ ッカー 部を結成し、広島社会人リーグの四部リーグに 初めて加盟できたのは、昭和六三年、三十九歳 の時で、入社して十五年がたっていた。 このよ うな活 動の 中から 県サッ カー 協会に も少しずつ関るようになり、平成十四年に広島 県社会人サッカーリーグ委員長に就任以降、県 サッカー協会理事(一種社会人委員長)、県社 会人サッカー連盟委員長、中国社会人サッカー 57 田部井 徹 実したサッカー人生を送れるようになるとは、 美空ひばりではないが「人生って不思議なもの ですね」。 サッカーに感謝。 我がサッカー人生 昭和四十三年入学 私のサッカーとの出 会いは、埼玉 県の久 喜 で生まれ浦和で育ったことに始まる。浦和は藤 枝、広島と並んで全国有数のサッカーの町であ る。中学校で本格的にサッカーの基本を習い、 キックやトラップの上達とともに、徐々にサッ カーにのめり込んでいった。当時の浦和のサッ カーは正に「根性」、「忍耐」のサッカーであり、 これが私のサッカーの原点となっている。浦和 高校一年の時に関東大会三位、二年から父親の 転勤の関係で神奈川県に転居することになり、 湘南高校で関東大会優勝、全国大会出場という 大変恵まれた経験も手にした。 その後 大学に 入り 、理工 サッカ ーで は春の 「関東理 工科系 大学サッ カーリ ーグ」 と秋 の 「同好会リーグ」に出場したが、一年の時、春: 準優勝、秋:優勝、二年の時 、春:優勝 、秋: 準優勝、三年の時、念願の春秋ともに優勝と、 理工サッ カー史 に残るひ とつの 黄金時 代を 築 いたと自負している。大学時代の思い出として は、一年から三年まで公式戦全試合に出場でき たこと、また、三年生の時に主将を務めた関係 で、生まれて初めて胴上げを経験したこと。そ して何と言っても素晴らしい仲間と出会い、合 宿での苦 しみや 優勝とい う喜び を共に 味わ う ことができたこと。この時の同期の仲間とは、 今でも年 二回の 飲み会で 昔話に 花を咲 かせ て いる。 卒業後は会社(山武)のサッカー部で三年間 活動し、神奈川社会人二部リーグから悲願の一 部リーグ昇格を果たした。その間に全国高校サ ッカー大会三位を経験した二人を含め、二間で 六人もの優秀な新人が補強され、さらに上の関 東リーグを狙える態勢が整った。そこで私は以 前から声を掛けられていた、浪人時代に仲間と 作ったクラブチーム「アンテロープス」に戻り、 約十五年間サッカーを楽しんだ。そうこうする うちに神 奈川県 にシニア リーグ なるも のが 誕 生し、四〇歳以上でもサッカーが楽しめる環境 が整った。それまで現役として神奈川社会人リ ーグ、藤沢リーグなどに参加してきたが、若手 との試合がだんだんきつくなり、ちょうど四〇 歳を境に シニア リーグに 鞍替え するこ とに し た。 現在は「湘南ペガサス」(湘南高校OBを主 体としたクラブチーム)でプレーを継続してい る。クラブ会員数は総勢一四〇名でチームは年 代別に構成され、現在は四〇代、五〇代、五十 五代、六〇代、七〇代の五チーム編成となって いる。私の活動の場は、神奈川シニア六〇の部 でのリーグ戦と全国予選だが、このほかにもい くつかの県外大会にも参加しており、試合数は 毎年三〇を超える。目標はリーグ優勝と神奈川 代表としての全国大会出場であり、あくまでも 勝ちに拘るサッカーである。振り返れば今年で サッカー歴五十三年目を迎える。 私は、ここまで私を夢中にさせたサッカーの 魅力を、以下のように考えている。サッカーは 「大変教育的な男のスポーツ」であり、身体も 使うが、頭も使う。加えてルールの遵守と礼儀 正しさも要求される。ただ勝つことだけがサッ カーではなく、サッカーを通じて、体育、知育、 徳育の全てが習得できることが素晴らしい。そ して「勝つ」という目標に向かって努力する過 程の中で、努力することの大切さ、勝った時の 達成感、仲間との信頼の絆など、色々な経験を 積むことができ、それが自分の人生に大いに役 立っている。だからいつまでたっても止められ ない。体力が続く限り、グラウンドに立ちたい と思っている。もちろんそのための努力は惜し まない。お蔭で、昨今話題となっているメタボ とは縁遠い体型が維持できている。嬉しい限り 58 「たもつ会」のこと 昭和四十三年入学 俣野 実 私たちの年代は、高校時代に高校総体とか、 国体に出場した部員が、何人か集まったおかげ で、理工系リーグで連覇するなど一般大学の体 育会サッ カー部 と練習試 合をし ても善 戦で き る実力を備えていました。 ここでは、①「たもつ会とは?」②当時の仲 間は今? という二つに分けて、書いてみたい と思います。 ①「たもつ会とは?」 この会の名称は、我々の仲間の個人名に由来 します。その人の名前は五十嵐 保。 理工サッカーでは、キーパーを務め、現役当時 は「それなりに勝利に貢献?」していました。 高校時代 はハン ドボール のキー パーを やっ て いたという、自己申告で即、ポジションを獲得 しました。 試合中は、強力フォワード(私を含む)が攻 撃する間、応援の女性陣(その中の一人が、私 の女房)とおしゃべりに興じ、たまたま攻撃さ れたときには、トンネルをして、敵に得点を献 上するというナイスガイ?でした。本人の名誉 のため、そのような失敗は二試合に一回くらい しかありませんでしたし、それでもほとんどの 試合で勝利し続けた強いチームでした。 その「たもつ」が、五十歳の若さで十年前に 骨髄の病気で他界しました。 私は、在学中・卒業後も変わらず親交があり、 お葬式の 知らせ を理工サ ッカー の皆さ んに 出 したところ、連絡がつけられた人、全てが集ま ってくれました。 その年から、卒業後約三〇年の時を経て、以 後「たもつ会」という集まりが毎年行われてい ます。 ②当時の仲間は今? 還暦を 過ぎた 我々に共 通する 特徴を まと め ると、 ・いまだ に若い と勘違い し、サ ッカー やフ ッ ト・サルに興じている人が多い (田部井さ ん、渡辺 さん、佐 伯さん、 私な ど多数) ・本人は気づいていないが、髪の毛に年輪を感 じさせる人が多い。 (例外は、 広野さん 、何故か 真っ黒な 髪を 保っている。) ・昔のことを、良く覚えている人とまったく覚 えていない人に分かれる (お互い、 まだらボ ケが始ま っている 事を 確認し妙に安心できる。) ・寿命は意外と短いと思っている人が多い。 59 である。これからも無理をせずに、うまくサッ カーと付き合っていきたいと思っている。 関東工科系リーグ優勝 (本音は、百歳を目標にしている輩が大半) つまり、元気な人が多いということでしょう か。 「たもつ」が繋いだ私たちの絆を大切にしなが ら、毎年二回の「たもつ会」を今後も継続して いきたいものと、考えています。 三輪 收 W杯観戦記 (二〇〇二年六月十五日) 昭和四十四年入学 韓国水原で行われたグループ リーグを観戦 に行った(実は国内でのチケット抽選に全て外 れた為)。 四年前は一人でフランスに行 った為、その 時の約束で今回は息子を連れている。 仁川空港に着いたときは丁度 韓国vs米国 戦のキックオフ、空港のTVの前は大勢の人が 居て、韓国選手が前に走り上がっただけで大騒 ぎ、後半をホテルで見ようと急いだら、途中の 市庁前広場には交通規制で入れない。時折激し く降る雨 にも負 けず20 万人の サポー ター が 赤いシャツを着て集まり、四面の特設スクリー ンを見ながら応援している。交通規制の警官も 仕事を忘れて応援しているので、こちらも一緒 になって応援することとした、結果は後半に韓 国が追いつき引き分け、得点の瞬間には花火は 上がるわ大騒ぎ、その後四日間の滞在中は得点 シーンと、ファンソンフォンが頭を割り、包帯 姿で戦う姿は何度もTVで流されていた。 翌日は水原でセネガルvsウ ルグアイ戦、 水原はソウルから電車で一時間の、城と公衆便 所がきれいな町だが、問題は言葉。駅前の観光 協会には日本語も話せるスタフはいるが、後は 日本語も英語も殆どだめ、文字も英語併記はご く僅か、然し町を上げて歓迎しようとしている 姿勢は見え、気持ち良く訪問出来た。 試合はウルグアイが激しく勝ちに 行くと予 想していたが、セネガルがフランスに勝った勢 いで、前半3対0とリード、後半開始早々にウ ルグアイが一点返したものの、ここまでかと思 えた。その時起きたウェーブ、一周、二周、三 周、これに励まされたウルグアイがレコバ・シ ルバを中心に猛烈な攻撃を開始、二点を取り更 に勝利を 目指し て攻める も届か ず3対 3の 引 き分け、一次リーグ突破に歓喜するセネガルと 崩れ落ちるウルグアイ、毎回のことではあるが、 これがワールドカップ。 一日置いて今度はブラジルvsコスタリカ、 ブラジル はロベ ルトカル ロスを 休ませ たも の の、重戦車ロナウドが大活躍し前半で三対一、 然し後半開始早々コスタリカが得点、これで又 ブラジルに火がつき、やや体が重そうなリバウ ドもロナウドからのパスで得点、結果は五対二。 ブラジルの守備はいまいちだが、攻撃力は爆発 的である、日本がH組二位になるとブラジルと 当ることになるが、とても勝てる相手では無い と感じて帰途についた。 帰りの仁川でまず遭遇したの が、一次リー グ敗退で帰国する中国チーム。ミルティノビィ チ監督のうつむいた姿が印象的であった。 次に出くわしたのがなんと神 戸での決勝ト ーナメン トに向 かうブラ ジルチ ーム、 ロナ ウ ド・リバウド・アルベルトが歩いてくる、リバ ウドに握手を求めたが、生憎相手の両手がふさ がっていたので、腕を叩いただけにした。 またまたワールドカップの喜 怒哀楽を目の 当たりにした。前回のフランスではクロアチア のサポー ターに 「俺達に はまだ 次の試 合が あ る」と言われて悔しい思いをしたが、今回は言 おう「俺達のワールドカップはまだ続く」。 60 サッカーとはなんとすばらしい 中川 雅資 スポーツなのでしょうか 昭和四十五年入学 私は今年還暦を迎えますが、O―50、O― 60とい うカテ ゴリーで まだま だサッ カー を 続けることができることに感謝しています。仕 事のスト レスを 溜めない ように できる のも サ ッカーのお陰であると思います。 現在東 京都シ ニア サッカ ー連盟 に所 属する O―50のチーム数は36チーム、O―60の チームが11チームあります。私はO―50の ブレインズというチームで活動していますが、 チーム内に理工サッカーの後輩もいますし、他 チームにも先輩後輩がいます。私が若い時には O―40 でサッ カーがで きる環 境がな かっ た ので、そこで引退するしかなかったのです。そ の頃に息 子のサ ッカー少 年団の コーチ もし ま したが、O―40、O―50と参加しているう ちに子供 を教え るより自 分がプ レーす る方 が 楽しくなり、それ以来シニアサッカーにどっぷ り浸かっています。 理工サッカーでの思い出と言えば、部室での 部員との交流や合宿・ダンパ等ありますが、や はり春・秋のリーグ戦でしょう。特に春の工科 系リーグ はその 頃四年程 連続し て優勝 して い たと思います。ですので、私が三年生の時に優 勝した時にも、保持していた優勝カップを箱か ら出さずにそのまま頂いてきました。部室に持 って帰って開けたところ、びっくり。昨年乾杯 した際の ビール 泡のカス が優勝 カップ の内 側 にこびりついているではありませんか。これが、 万が一他 チーム に渡って いたら どんな にひ ん しゅくを買うかと思いましたので、その年の祝 勝会後は私が責任を持って洗っておきました。 私は学部では土木工学科だったのですが、科 目として苦手な水理学の研究室に進みました。 なぜ、苦手な科目の研究室に進んだかというと、 それは研 究室の 教授が米 元先生 だった から で す。米元先生はお人柄がよく、学問も熱心に教 えて下さいましたし、時折グラウンドに応援に も来て下さいました。サッカー部の忘年会やO B会等にもよく出席して頂きました。個人的に もお世話になり、毎年正月には家族全員で先生 のお宅へお年賀にお邪魔したものでした。 さて、以前は近くて遠い国と言われた韓国と 日本が、近年様々な面で密接で仲の良い関係に なっているという実感があります。それも私か ら言わせば、二〇〇二年の日韓共催ワールドカ ップから 始った と言って も過言 ではな いと 思 います。それ程サッカーというものは全世界で も友好の きっか けになる すばら しいス ポー ツ であると感じています。(時には、戦争のきっ かけになることもありましたが。)また、アジ アカップ 決勝戦 で李忠成 が決勝 点を挙 げた こ ともうれしく思いましたし、その決め方がサッ カーの醍 醐味を 彷彿させ るボレ ーシュ ート で 感激しました。 最後に、理工サッカーに在籍したお陰で伴侶 を見つけ ること ができま したこ とと仲 人は 米 元先生に お願い したこと を報告 致しま して 終 わりとさせて頂きます。 永田 邦昭 卒業後のサッカー人生 昭和四十九年入学 卒業してから三十二年経ちますが、理工サッカ ー部仲間 とは未 だにサッ カーや フット サル を 通じて長 く付き 合ってお り、一 方、就 職先 の (独)国際協力機構( JICA )でも即サッカー部 に入り、国内のみならず赴任先の海外でもサッ カーをしてきました。世界中で最も多くの国々 で幅広く 行なわ れている スポー ツであ るサ ッ カーを通じて、多くの人々と出会い楽しい人生 を過ごしてきました。この三十二年間の主なサ ッカー関連活動を紹介します。 61 理<工サッカー部仲間とのサッカー > 卒業後、同期のキャプテン横田のリーダーシッ プで一年、二年後輩の仲間も入れたチームを作 り、最初に品川リーグに参加、その後先輩時代 から加入していた東京都リーグに参加し、三部 リーグから二部リーグにも上がり、数年間サッ カーを楽しみました。 私自身、海外研修、勤務でアメリカ、マレイシ ア、サウジアラビアの三カ国に赴任しましたが、 どこでもサッカーチームに入り、仕事とは全く 別に多くの仲間と出会いました。十年前のサウ ジアラビア時代には、清水エスパルスや日本代 表がリヤドやジェッダで試合したので、 応援 に行き、大使館での懇親会で有名な選手と交流 することもできました。 ーグに参加しており、その後数年経ってから私 たちの後 輩が中 心になっ た時点 で東京 都リ ー グに加入しました。そのころ東京都リーグの参 加チーム数も増えており、四部でスタートし、 二十年以 上四部 から上が ること ができ ませ ん でしたが、三年ほど前、三部に上がり若手チー ムでがんばっています。 私が広報課長のときに、取材で前日本代表監督 岡田武史氏にインタビューしたり、元日本代表 北澤豪氏には JICA のオフィシャルサポーター になってもらいました。世界中のいろんな国で 北澤サッカー教室/ JICAカップを開催しまし たが、私もシリア、パレスチナ、ヨルダンで行 なわれた パレス チナ難民 の子供 たちに 対す る 北澤さんのサッカー教室/ JICAカップに参加 し、子供たちを元気にするすばらしいイベント として感激しました。 その後十年くらいは、みんな転勤したり、仕事 も忙しい 時期で 同年代仲 間でサ ッカー をす る 機会がほとんどありませんでしたが、一九九三 年Jリーグが開幕した頃だったと思いますが、 同年代仲 間のア イディア でフッ トサル を開 始 しました。最初は京王線沿いの芦花公園フット サルコートでスタートし、その後千歳烏山、数 年前から 現在も 田園都市 線の鷺 沼のフ ット サ ルコートでやっています。 たまには広いグランドでフルサッカーも行い、 ここ十年くらい、年に一回(秋)、他のシニア チーム(三~四組)も招いた合宿を行っており (最初は八ヶ岳リゾートでスタート、その後富 士山西湖近くの施設、最近は御殿場近くの時之 栖)、一泊二日間で総当たりゲームと夜は懇親 会を行い、楽しい人間関係を築いています。 でのサッカー > <JICA 就職した時代は、 JICAサッカー部は新宿のリ 現在、東広島にある JICA 中国国際センターに 勤務していますが、マツダ関連会社の支援と広 島大学の 学生が 運営して 月一回 開催さ れて い る東広島 国際交 流フット サルに 参加し てい ま す。数年前、呉で外国人労働者が仕事以外に日 本人との 付合い が無い状 況で事 件を起 こし た ために、呉の警察や関連企業が、日本人との交 流が重要であるとの発想からスタートして、現 在広島県 内の五 箇所くら いでそ れぞれ この よ うな国際交流フットサルが行なわれています。 東広島には広島大学もあり留学生も多く、また マツダの 関連会 社にも外 国人労 働者や 研修 生 も多く、女性チームも含め数多くのチームが参 加し、交流しています。 また国際 協力に 対する国 民の理 解を一 層広 め るために、本部広報室が国連開発計画( ) UNDP ) 東京事務所と国際協力NGOセンター( JANIC と連携し て昨年 から行な ってい る「な んプ ロ (なんとかしなきゃプロジェクト)」には著名 な方々(俳優、歌手、スポーツマン、学者等) や団体に サポー トメンバ ーにな ってい ただ い ており、北澤氏や前日本代表センターバックで 活躍した中澤氏にも入ってもらってますが、広 島ではサ ンフレ ッチェに もサポ ータに なっ て もらっており、昨年の広島ビッグアーチで鹿島 アントラーズとの試合前に、アフリカからの研 修生と青 年海外 協力隊O Bメン バーが 一緒 に 62 アフリカンダンスを踊ったり、大画面で「なん プロ」PRもさせてもらいました。 ま<とめ > 日本は、戦後復興・経済発展以降、平和ボケし ており、近年の国際社会での地位が低下し、国 内でも過疎化・少子化や経済停滞が起こり、元 気のない日本となっている状況において、人間 社会とし ての文 化活動や 音楽/ スポー ツ活 動 はとても大切であり、チームスポーツであるサ ッカーを通じた人間関係の形成、国際交流等は 極めて重要であることから、私自身、中学生時 代から続 けてき たサッカ ーにこ れから も楽 し く関わっていきたいと思います。 西原 祥雅 我らがチームの戦績は・・・!? 昭和五十年入学 我々の代は「もがき苦しみながら徐々にチー ムがまとまって来た」の表現がぴったりする チームでした。 前年まで の強力 メンバ ーが抜 けた後 の新チ ー ムは、発足以降泥沼の九連敗でスタートしまし た。夏合宿までは二勝十三敗二分と散々の成績 で、いくらもがいても結果が出ません。 普通のチームならとっくに監督交代の状況で、 キャプテンとして自信はなくなるし、悩み続け の日々でした。そんななか、皆に支えられ、話 し合いと試行錯誤を繰り返して、徐々に成果が 出て来た のが春 季リーグ の関東 理工系 サッ カ ーリーグの後半戦です。 前半戦の悪夢の四連敗の後、後半緒戦で記念す べき初の一勝を挙げたのです。以降、後半戦を 二勝一敗一分で乗り切り、何とかリーグ七位に 滑り込み、綱渡りの戦いで入れ替え戦を免れま した。 それからは「こりゃ~いかん!」とばかりに猛 発奮。菅平の夏合宿で、先輩たちにも励まして いただきながら、徐々にチームの形が出来てき ました。 個々人の一段のレベルアップ、大幅なコンバー トの実施、一年生の成長等々で、この合宿を境 にそれ迄の一試合平均で得点1点、失点2・5 点だったチームが、得点3・6点、失点2点の チームに 大変身 ! 勝率 も一割 三分か ら七 割 五分へ! ミラクルチェンジです。 しかし…残念な事にですね ・・・ 、秋の新関東フ ットボー ルリー グでは勝 てる試 合を落 とし 四 勝二敗で三位に終わってしまい、二年越しの念 願の一部復帰は果たせませんでした。 三年六人、二年三人、一年二人をコアメンバー にしつつ、皆がサポートして交替で出場すると いうバランスの取れた構成で、勢いのある楽し いチームに成長していました。それだけに、結 果は非常に残念でしたし、このチームでリーグ 戦をもう ひとつ やって暴 れてみ たい! との 思 いが強く残ったものです。 最終戦は、三年間一緒にやってきた同期メンバ ーで試合を行いました。高校時代のサッカー経 験者がごく少数だった代ですが、みんな上手く なりました。この最終戦はそれぞれが個性を発 揮した最高に楽しい試合で、快勝して有終の美 を飾ることが出来ました。 サッカーよりも、飲む・食う・打つ、ダンスパ ーティー にスキ ーツアー と楽し く大学 時代 を 謳歌する のが得 意な最高 の同期 メンバ ーで す が、ここではそのプレーぶりを紹介したいと思 います。 綾部 典秀:容姿もプレーぶりもダンディなが ら、途中で参加出来なくなったのが残念! 飯牟礼 成義:経験は少ないがプレーの雰囲気 がいい。何か持ってる 磯部 伸之:ひょうひょうとしたプレーで相手 を切り崩す 一ノ瀬 隆:長い脚を武器にしてロングパスを 繰り出す大型ミッドフィールダー 神戸 洋 史:ス ピードに 乗った 縦の攻 めは 脅 威! 途中からはスイーパーとして大活躍 地道 早雄:テクニシャンのオールラウンドプ 63 レーヤー 永井 克彦:落ち着いたプレーをする長身のデ ィフェンダー 西原 祥雅:トップで点を取る役目。もっと取 ってりゃこんなに苦しまなかった? スミマセ ン! 西本 安 宏:楽 しくプレ ーする サイド バッ ク &最強のマネージャー 橋本 滋:点で合わせる動きがキラッと光るプ レーヤー 浜井 行夫:力強さ抜群のストッパー! ぬり かべのごとくボールをはね返す! 原 宏:抜群の安定感! 中盤に上がってから はゲームメーカーとして試合をコントロール 福島 範之:足の回転数の早さと運動センスで 実力が急上昇 堀 剛:センス抜群のプレーヤー。途中から参 加出来なくなったのが残念! 前川 統一郎:我らがゴールキーパー! 大学 から始めたポジションだが1年間で急成長 水野 良:独特なひらめきを持ったプレーヤー。 チームのムードメーカー 森長 英二:しっかりした基礎技術を持ったプ レーヤー。彼の途中加入は大きかった 山下 高司:守りから攻めまで高いレベルです べてをこなすオールラウンドプレーヤー さて、このメンバー。現在、ボール扱いでは、 最後に我々の代のホームページを紹介します。 一度お立ち寄りください。 大きさを随分小さくして年に二回ゴルフ。 杯をあげる方では、相も変わらず周りの迷惑顧 みずに大声で騒ぎまくっております。 最近では、前後の年代の皆さんとの交流も深め、 昔ながらにワイワイ楽しんでいます。 時、理工学部にはグランドと呼ぶには恥ずかし いようなささやかな空地があり、その狭いとこ ろでサッカーを楽しんでいる人達がいました。 それを見たとたん、足は自然にその空地に向か っていました。 http://www.geocities.jp/wrfcs54/ その後四十代は仕事で家を空けることが多く、 理工学部を卒業した後も、理工サッカー部のO Bチームである FC ワセダ、会社のチーム、高 校OBのチーム等を掛け持ちし、四〇歳を少し 超える頃 までは 年間三十 試合位 をこな して い ました。そしてキーパー以外の全てのポジショ ンを経験しました。何でもできるといえば聞こ えはいいのですが、キックもドリブルも足元の 技術も、これといって素晴らしいものはなく、 ただ人より少しだけ丈夫であり、愚直に走った ので、空いているところをやらしてくれたとい うことでしょう。 早大理工 サッカ ー部では 三年の 時にキ ャプ テ ンをやりました。私達の代はテクニックやスピ ードで圧 倒でき るような 傑出し たプレ ーヤ ー がいなかったので、その分、皆がそこそこ走り、 自分の役割をわきまえ、チームワークの良いサ ッカーをやっていました。そのせいか、卒業後 もつきあいを続けている仲間が多く、今でも折 に触れて集まっています。 和田 浩 サッカー部創立五十周年に寄せて 昭和五十一年入学 私がサッ カーを 本格的に 始めた のは中 学生 か らです。小学生の時には当時の殆どの男の子が そうであったように、野球をやっていました。 小学六年 の時に メキシコ オリン ピック で日 本 が銅メダルを獲得し(ちなみに釜本よりも宮本 輝紀が好きだった)、中学になってクラブ活動 に入るときにサッカーを選んでいました。それ 以来のつ きあい ですから もう四 十数年 にな り ます。 早大理工 に入っ た時に最 初は柄 にもな く文 化 系のサークルに入ろうと思いましたが、その当 64 サッカーをする機会が急に減り、ボールを一度 も蹴らな かった という年 も何年 かあり まし た (何と待 ち望ん でいた二 〇〇二 年のW 杯の 時 は海外駐在中でボールを蹴るどころか、日本戦 のTV中継も生では見られなかった)。それも 五十代を超えると仕事にも余裕が出てきて、再 びサッカーをする機会が増えました。そして今、 当然体力は衰えましたが、以前にも増してサッ カーを楽しんでいます。 昔若い頃、この歳になってサッカーをやってい るなんて想像できたでしょうか。サッカーが人 気スポーツになりサッカーできる場所や、やる 機会が増えたおかげです。健康や身体に気を使 う人が増え、サッカーできる体力を維持してい る人が増えたおかげです。そして何よりサッカ ーが面白いからです。サッカーは見るよりやる 方がはるかに楽しいスポーツです。一日でも長 く気の合 った仲 間と楽し めるよ うに精 進し 続 けたいと思っています。 渡辺 毅 卒業後のサッカー生活 昭和五十二年入学 私は三年の 時、キャ プテンを つとめて いま した。私たちの代が中心になる時には、かなり 強くなると自信を持って迎えたのですが、結果 は惨憺たるものでした。理工リーグ二部に降格 し、正直、楽しい思い出の少ない現役時代でし た。 卒業後は、先輩達が作ったFCワセダに参加 し、社会人リーグ、品川リーグなどで数年間プ レーし、その後に妻を通じて知り合ったタイガ ー サ ッ カ ー ク ラ ブ S( C と) い う ク ラ ブ チ ー ム に移り、現在まで二十五年以上、活動していま す。 それと同時に、数年前から先輩同期後輩達と FCワセ ダマス ターズと して隔 週でフ ット サ ルを楽しみ、二、三カ月に一回のフルコートサ ッカー、年に一回は数チーム合同で御殿場合宿 をしています。昨年はエンジのユニホームも新 調しました。合宿では昼は試合で勝負にこだわ りムキになり、夜は温泉に入った後、遅くまで 酒を飲みながら昔話に花を咲かせています。 ワセダの仲間は、学科によって業種などは異 なるものの、多くは大きな会社でサラリーマン 生活を過 ごして いて同じ ような 悩みを 共有 で きます。タイガーSCでは、一人で内装屋をや っている人、親子で電気工事業を営む人、弁護 士、日銀マン、アパレル業、サッカージャーナ リスト・・・、年齢、境遇などさまざまなメン バーが集まり、いろいろな話をする中で、ワセ ダとは別の多くのものを得る事ができます。 このチームでも十年以上、社会人リーグに参 加してきましたが、今は若いメンバーに託して、 我々世代はシニアリーグに参加しています。チ ームは世田谷区シニアリーグに属しており、昨 年までは 二部で したが今 年は一 部に昇 格す る 事が出来ました。一部にいるFCワセダと対戦 する事になり、楽しみにしています。 試合の 無い日 曜日 早朝に は世田 谷の 公園に 集まり、二時間以上ミニゲームをやり続けます。 二十歳そこそこの若いメンバーから、三十代、 四十代、五十代・・・最年長はクラブの象徴で ある七十五歳の通称オヤジ。五〇歳間近の息子 と一緒に参加しているメンバーです。みんなで 飽きる事無く一つのボールを追い、最後はキリ ンカップ と称し て負けチ ーム支 払いで 若者 が 買い出しに行き、公園で缶ビールを飲む。この 一杯がたまりません。桜の季節がもうすぐです が、満開の桜の木の下で過ごすこのひと時は最 高です。 卒業し て三十 年以 上サッ カーを 続け てきて 得られたものは、何といっても人とのつながり です。大学生活は四年間という短い間ですが、 その後、三十年間も一緒にボールを追っている 仲間がいるというのは、素晴らしい事です。 タイガーSCでは、メンバーの娘の家庭教師 をしてい た理工 サッカー 部後輩 がチー ムに 加 65 わり、彼のつながりで数名の後輩がチームに入 ってきました。 私自身、先輩の紹介で、昨年から別の五十歳 以上のシニアチームにも参加していますが、そ こには偶然にも、高校の先輩、後輩が所属して いました。 シニアリーグで試合をすると、この様に思い がけなく知り合いに会う事がよくあります。 高校の同期と数十年ぶりに再会したり、チーム の仲間が対戦相手にいたりします。昨日の試合 ではチー ムメー トとして パスを してい た人 か ら、今日の試合ではボールを奪いに行くという 具合です。 石垣 博崇 若い頃 は五〇 歳を 超えて サッカ ーを するな んて想像もつかなかったのですが、六〇歳を過 ぎても溌 剌とボ ールを蹴 ってい る先輩 方を 見 ていると、数年後にはきっと私もそこにいる様 な気がしています。 生涯現役をめざして 昭和五十三年入学 本来であれば理工サッカー部五十周年をお 祝いすべきところですが、未曾有の大震災で被 災された方々には、心よりお見舞い申し上げま す。首都圏でも日常生活や仕事の上で、計画停 電や物流、品不足等大きな影響が続いています。 一日も早い復興を祈っております。そんな中で すが、三月末からシニアサッカーの活動も再開 される予定です。私は、理工サッカー部OBの ワセダマスターズでのフットサル、そして高校 OBを母体とした多摩クラブでの神奈川県と 川崎市のシニアリーグ(フルコート)で、五十 一歳となった昨年は、年間五〇日以上プレーす ることができました。好きな事を気の合う仲間、 先輩方と続けられる幸せを素直に喜び、また大 切にしたいと改めて感じております。現役時代 は、関東理工系リーグで屈辱の二部落ちを経験 した弱い世代でしたが、その後三〇年以上長き に渡り、ほとんど同じ顔ぶれでプレーを続ける ことになるとは、当然のことながら当時は想像 すらしていませんでした。学生時代と同じ顔ぶ れでプレーし、また酒を飲むことは、若かりし 頃の気持ちを思い出し、アンチエイジの大きな 力になっています。横田さん(七四年入学)始 め諸先輩方には、こうした機会と楽しいお付き 合いをさせて頂き、この場をお借りして、改め て心より御礼申し上げます。 まずはワセダマスターズの前進であるFC ワセダとの関わりからご紹介致します。FCワ セダは私の四期~二期上の代を中心に結成さ れ、こちらも早三〇年の歴史を刻んでいること になります。八二年の卒業当初は大学院生を中 心に別チームを結成しましたが、人数が厳しく 一年でFCワセダに合流しました。その後、東 京都社会人リーグでは最高二部まで昇格しま した。私のポジションはディフェンスでしたが、 この二部の一年は辛かったこと。ともかくすべ ての試合が押されっ放しで東京都教員とかに ボコボコにされた記憶しかありません。その後 三十半ばまで続け、いつの間にか最年長になっ た時には数年チーム代表も務めました。しばら く後輩が続かずチーム存亡も危ぶまれました が、それを救ったのが八年下の安田雄君です。 彼は、これぞセンターフォワードという逞しい プレーで高年齢化したチームに喝を入れ、且つ、 下の代の大卒バリバリのフレッシュで強力な 面々を大量リクルートし、チームの世代交代を 果たすことができました。FCワセダは、現在 も若手OB、中堅OB活躍の場として脈々と続 いているとの事で喜ばしい限りです。 その後都リーグを引退した横田さん達は「F Cワセダオーバー40 s’」を立ち上げ、フッ トサルを始めていました。私が都リーグについ ていけなくなった頃には、きちんと次の受け皿 ができていた訳です。五〇の声が聴こえてくる とチーム名を「ワセダマスターズ」に変更し、 現在は川崎市のフロンタウン鷺沼を拠点に隔 週でプレーしています。当初は若者に交じって フットサルの大会にもよく出場していました 66 が、最近は仲間内でひたすら二時間、七分ゲー ムを繰り返す形式となっています。フットサル は、当然の事ながらボールに触る機会も得点チ ャンスもフルコートに比べると圧倒的に多く、 「楽しさ」と何と言っても集まった人数ででき るという「ゆるさ」と「気楽さ」が続いている 秘訣と思います。 そして重要なイベントが年一回の合宿です。 二〇〇一年に八ヶ岳で始めて以来こちらも十 年続いています。当初は、チーム内のフットサ ル合宿でしたが、二〇〇七年に御殿場・時之栖 が取れたことで、私が所属する多摩クラブと合 同合宿を行いました。富士山麓の素晴らしい芝 生のフルコートで二日間二十分 × 八本のマッ チゲームと初日最後は一時間のフットサル。二 日間とも最後は修練の場という雰囲気でした が、この年齢で、もうこれ以上できないという くらいサッカーを堪能することができました。 そして二〇〇八年以降は、理工OBの先輩が参 加している東京都のシニアチーム「ブレイン ズ」と鷺沼のフットサルで知り合った慶応OB の「アンテロゴス」(安定した老後を目指す意 味もあるとか?)を加えた四チームでミニ大会 みたいな雰囲気の合宿になりました。昨年は四 チーム約六十名が参加し、平均年齢五〇歳半ば の親爺軍団が集まる大宴会も盛大です。ワセダ マスターズは幹事チームの面目躍如といった ところで、この対抗戦では三年連続一位の成績 を続けています。フルコートは年間数試合しか やっていませんが、普段フットサルで鍛えた 「つなぐ意識」と体力、そして三〇年間続いた 以心伝心のプレーで、中々良いサッカーができ ていると思います。各チームとも毎年楽しみに しているようで、当分この形で続きそうです。 ちなみに多摩クラブは神奈川県立多摩高OB を母体に一九九三年に設立され、四十雀と五十 雀で構成しています。神奈川県シニアリーグは 二〇一〇年度四十雀から七十雀まで、のべ88 チーム2310名が登録、四十雀は四部制、五 十雀は二部制で、レベルも体力も年々上がって いるのは間違いありません。私は五十雀ではま だ若手なので、まだまだ活躍できますが、もう 数年すると厳しくなるかも知れません。多摩ク ラブは、今年は無理でしたが六十雀結成の動き もあり、私も何とか頑張って六十雀までやりた いと思っています。この多摩クラブの一番の活 動方針が「生涯現役を目指す」ことです。ワセ ダのメンバーとも、是非とも、できる限り長く 続けられることを祈っています。まだまだ先は 長いですよ。 私の同期では、残念ながら昨年八月に佐藤秀 樹さん、三十代半ばには浅利誠一郎君を病魔で 亡くしています。秀樹さんは癌で体調を崩す直 前までプレーを続けていました。病床で奥様に 「好きなことをやってきたので悔いはないが、 仕事とサッカーは最近また面白くなってきた のでもう少しやりたかった」と話されていたそ うです。秀樹さんの告別式の日の午後は隔週フ ットサルの予定があり、秀樹さんの意を汲んで これも供養と思い、参列した面々もいつも通り プレーしました。この日は、こうしてプレーを 続けられることの幸運と仲間との大切な時間 をしみじみと感じたものです。 OBの皆様には、日頃の健康管理・定期健診、 体力作りを怠りないようお願い致します。是非 ともご一緒に「生涯現役」を目指し、頑張って 行こうではありませんか。また現役諸君は、仲 間と生涯サッカーと続け交友できる道ができ ていることが、どれほど素晴らしいことか想像 してみて下さい。そして理工サッカー部で出会 えた絆を一生大切にして欲しいと思います。理 工サッカー部の益々のご繁栄と伝統が受け継 がれる事を祈念しております。 67 三浦 康司 理工サッカー部の思い出 昭和五十四年入学 理工サ ッカー 部が 創部五 〇周年 を迎 えると のこと、集まり散じながら半世紀にわたり活動 を続けてきたことを知り、また我々もその一時 期をつな いだこ とを思い 感慨深 いもの があ り ます。 我々の 時代は 理工 キャン パス内 の小 さな空 き地のようなグランドで練習し、公式戦でも五 分の星がやっとのチームでした。海外遠征まで するとい う最近 の現役チ ームと はだい ぶ趣 の 違うチームだったかもしれませんが、同期のメ ンバーで作った数多い思い出があります。 卒業後二 十七年 の月日が 経ち記 憶が薄 れて い く中、思い出の一部をこの記念誌に記して記憶 を留め、また何年かして皆でボールを追いかけ た頃を思い出せたらと思います。 一、入部のころ 私は昭 和五四 年に 資源工 学科に 入学 しまし た。高校時代サッカーばかりして勉強をせず結 局二年浪人したことから、「二浪したのはサッ カーのせい。」と、入学してもサッカーをやる 気にはなれませんでした。本学の方をウロウロ していましたが、やはりボールが蹴りたくなり、 一年の夏休み明けくらいでしょうか、理工サッ カー部の部室に扉をたたいたのでした。 しかしその頃はまだ一年生部員も少なく、私 もあまり まじめ に練習に は参加 してい ませ ん でした。その後その動機はよく思い出せないの ですがまじめにやろうと決め、確か週三回の練 習に出るようになったのを覚えています。一年 生部員はまだ三~四人しかおらず、ボールを四、 五個持って中大跡地グランド、文学部校舎とな りのハン ドボー ルコート のよう なグラ ンド な ど転々と移動し練習したのを覚えています。 二年生となって人数も増え、練習の前後にマ ージャンをやったり、酒をのみに行ったりし始 めたように思います。そして二年の終わりにな る頃、我々のメンバーは谷口、間嶋、小鶴、植 竹、佐々木、香月、前田、和田、加藤、藤森、 木野内(旧姓若菜)、木村、石橋、そして私の 十四名に固まりました。 二、先輩、後輩 我々のすぐ上の代は松本さんがキャプテン、 和田さん、佐藤さん、石垣さん、小森さん、及 川さん、寺島さん、石川さん、村上さん、みな 面倒見のいい先輩方だったと思います。 先輩が引退し我々の代に引き継ぐ納会では、 引き継ぎの儀式がありました。各役割担当の先 輩が作った特製カクテルを飲むのです。カクテ ルはビール、日本酒、ウイスキーが混ぜられ、 その中に醤油、ソース、刺身、唐揚げ、その他 たばこなど、いろいろなものがてんこ盛りにさ れ、これを飲み干さねばなりませんでした。飲 んでいる そばか ら醤油を 入れら れてい る者 も いました。 私は松本さんのカクテルを飲みました。皆そ れぞれ目をつぶってなんとか飲み干しました。 そして校歌を歌って納会が終わり、我々の代が スタートしました。 ところで私がキャプテンになった理由、それ は合宿やスキーツアーなどで先輩からお酒(ウ イスキーのボトル)を調達する能力にたけてい たからだと思います。ボトルを下げて我々の部 屋に戻る と皆に とても喜 ばれた 覚えが あり ま す。これが間違いの始まりでした。 我々の すぐ下 の代は人 数が少 なく4 人で し た。彼らは我々と一緒に試合をしたりしていま したが、その先自分達のチームが組めないこと と私の配慮不足もあり、結局全員やめてしまい ました。 しかし その次 の代 は結構 人数が 集ま りまし た。その後キャプテンになった真面目一徹の西 広君、親分肌の大将福田君、笑顔の宮迫君、雨 宮君、まじめな増田君、ニヤッとわらう中杉君、 カッコイイ野村君、かわいい伊藤君・・、一年 あいたせ いもあ ってか我 々の代 ととて も仲 良 くやっていました。昨年のOB会では何人かと 68 久しぶり に会い 大変懐か しく酒 を飲み 交わ し ました。 三、練習・試合 練習は 現在の 西早稲田 キャン パス6 2号 館 のとなりにあった理工グランド( 50m ×50m くらい)で週三回、そしてたまに飯田橋の小石 川運動場を借りてやっていました。 理工グランドは狭いばかりか、グランド内ゴー ルのすぐ 近くに 桜の木が ある極 めて変 則的 な グランドでした。またグランドの周りは結構高 いフェンスに囲まれていましたが、シュート練 習でゴールのバーをはるかに越え、このネット をも越え て外へ 蹴り出し ていた のはバ ック ス のM君でした。このグランドで一対一や三対二、 ミニゲームなど先輩後輩入り混じり、日が暮れ るとナイ ター照 明の下で よくボ ールを 蹴り ま した。 公式戦 は理工 系リーグ と同好 会リー グの 二 つに入っていました。最近はとても強いようで すが、我々の時はあまり強くはなく、出ると負 けという時期もあったように思います。その頃 はまだ今ほどサッカーはメジャーではなく、理 工サッカ ー部に 入ってサ ッカー を始め たメ ン バーも何人かいたのです。ただ三年になると皆 結構一生 懸命練 習しそれ なりに 皆上手 くな っ ていきました。 理工系 リーグ の宿 敵は青 学理工 サッ カー部 でした。きっかけはよく覚えていませんが青学 との試合は皆燃え、必死に戦いました。試合中、 敵の選手に「こんな宗教団体に負けられる か!」と言われたのを覚えていますが、公式戦、 合宿での 練習試 合を通し て一度 も負け なか っ たのではないかと思います。そして三年最後の 理工系リ ーグで の最終成 績は五 分の星 であ っ たことを覚えています。 試合で勝っても負けても、夕方新宿に集合し 歌舞伎町や西新宿あたりでよく飲みました。 先輩も混じり、あーでもない、こーでもないと 試合の反省をしながらよく飲んだものです。皆 で一晩に ホワイ トのボト ルを十 本空け たの を 覚えています。 四、合コン・ダンパ・スキーツアー 春合宿は毎年山中湖でした。山中湖はテニス 合宿も多く、男女一緒にテニスをしているクラ ブも多い中、我々は彼らをうらやましそうに眺 めながら、トラックの荷台に乗せられて練習場 に向かうのでした。そんな時皆いつも、「なん でサッカー部なんかに入っちまったのか!」と 嘆くのでした。特に嘆き声の大きかったのはU 君です。それくらい我々は女っ気がありません でした。 あ る と き 、「 よ し ! 俺 た ち も 合 コ ン を や ろ う!」とU君を中心に盛り上がり、合コン相手 募集のビラを作り、横浜にあるいくつかの女子 大へ突撃、貼りまくりました。そして実現した 合コン、幹事を務めたU君はその後相手女子大 の幹事の子とお付き合いを始め、その後めでた く結婚したのでありました。 また理 工サッ カー部の 催しも のには ダン ス パーティーとスキーツアーがありました。ダン パ係は石橋君、スキーツアー係は藤森君でした。 ダンスパ ーティ ーは確か 大手町 のサン ケイ ホ ールでやりました。チケットの販売ノルマがあ り、これを売るために街中でかわいい子を見つ けて突然声をかけて売ったこともありました。 スキー ツアー は長 野県の 菅平ス キー 場でや りました。宿は毎年夏合宿をやった桑田館。私 にとってスキーは寒い思い出ばかりで、夕方宿 に戻りおいしい食事をするのが楽しみでした。 食事の後 は例に よって夜 遅くま での飲 み会 で した。なお桑田館はその後温泉を掘り当て、今 は温泉ホ テルと して営業 してい るとの こと で す。 五、女子マネージャー 我々の代はマネージャーに恵まれました。土 屋恵美さんと沖田桂子さんです。皆、恵美ちゃ ん、桂ちゃんと呼んで仲良くやっていました。 試合にはいつも来てくれ、また合宿にも同行、 菅平合宿 では泥 だらけの ユニホ ームを 洗っ て くれたりしました。また皆でよく遊びました。 一番の思い出は木野内君(旧姓若菜)の千葉の 69 実家での合宿です。サッカーはやりません。海 に行ったり、小学校の校庭で野球をしたり、ま た夜は例によって散々飲みました。いくらでも 飲む、あればあるだけ飲む、極めて燃費の悪い 我々でした。恵美ちゃん、桂ちゃんは皆に好か れ、皆狙 ってい ましたが 結局、 恵美ち ゃん は 佐々木君と、桂ちゃんは木村君と結婚したので した。 六、引退、卒業、社会人へ 我々は 西広君 率いるチ ームに バトン タッ チ しました。引退後は私もそれなりの責任から解 放されたのか、タガが外れたように皆と飲み歩 いたことを覚えています。そして卒業、我々の 代は大学 院へ進 むものは おらず 皆就職 しま し た。関東の会社に就職するメンバーと名古屋地 区へ就職 するメ ンバーに 別れる ような 形で 卒 業しました。最後の飲み会はやはり新宿西口、 まわりの 通行人 など気に もせず 皆で最 後の 円 陣を組んだのを覚えています。 あれか らもう 二十七年 という 月日が 経ち ま す。早いものです。卒業後皆それぞれの会社や 地域でサ ッカー を続けた ものが 多かっ たよ う です。 私は栗 田工業 へ就 職しサ ッカー 部に 入りま した。当時栗田工業サッカー部は東京社会人1 部リーグに属していました。後のJリーグチー ムの柏レイソルの前身である日立本社、FC東 京の前身東京ガスなどが含まれ、結構レベルの 高い試合をしていました。私は結婚するまで五 年ほど続け、その間何点か得点をあげたのがそ の後サッ カーを やり始め た息子 への自 慢話 と なりました。 息子の 少年サ ッカーチ ームの コーチ も五 年 くらいやりましたが、以降サッカーボールはほ とんど蹴らなくなりました。しかし今でもやは り機会があれば蹴りたい気持ちは十分です。昨 年の稲穂 キッカ ーズ戦に も参加 させて もら い ました。怪我をしないようにとやっていました が、昔の気持に戻ってしまった瞬間、足の付け 根を痛めてしまいました。やはり当時の仲間、 先輩たち の顔を 見ると二 十数年 の年月 を忘 れ てしまいます。 卒業後、皆で集まる機会がなかなか作れませ んでしたが、それぞれ子供も大きくなり自分達 の時間も できる 年代にな ってき たとも 思い ま す。これからはまた皆で集まり昔話で盛り上が りたいものだと思っています。 一昨年、OB会も組織され現役をサポートす る体制がかなり整ってきたようです。これは言 うまでもなく五〇年の歴史あってのことです。 現役のみなさんはこれをしっかり享受して、早 稲田大学 に理工 サッカー 部あり !を引 き継 い でいってもらいたいと思います。 八木 均 サッカーがすべてではなかった 理工サッカー部時代 昭和五十八年入学 【序文】早大理工サッカー部創立五十周年、大 変におめでとうございます。長い歴史のひとコ マを担った一人として、そのひとコマを淡々と ご紹介したいと思います。 記念誌を発 刊される とのお話 しは以前 から 聞いていましたが、四年程前から、平日は仕事 で九州・東北へ行ったり来たり、週末は、自宅 の横浜と実家の群馬を往復で 群(馬は両親の介 護とサッカー 疲)れ切っていて、自分とは関係 のない世界と思っていました。しかし、年度幹 事の中で サボっ ているの が私だ けとい うこ と が徐々に分かってきて、少しはお役に立たねば と思い立ち、寄稿を決心しました。 とは言うも のの、生 来の愚鈍 さで、結 局、 締切ぎり ぎりの 今になっ て焦っ て原稿 を書 い ています。十五年程前に、高校のサッカー部 群( 馬県高崎高校 の)五〇周年記念誌へも寄稿しま した。原稿作成のプレッシャーを感じつつも、 良い機会を頂き、幸運と思っています。全年度 の代表者が執筆する訳ではない、ということを 聞きましたので、先輩・後輩のことにも少し触 70 れたいと思います。 【大学時代】私は昭和五八年度に応用物理学科 に入学しました。昭和五十年代と言えば、戦後 から現在に至る期間で、最も恵まれた時代と言 われています。確かに、 Japan as No.1 の時代、 日本社会に余裕があり、大人達が学生を優しい 目で見ていた時代でした。 皮膚感覚でそう感じていました。就職も売り手 市場。このような環境で、伸び伸びと大学生活 を送っていました。当時に比べると、今の学生 さん達は大変だな、とつくづく思います。 第一志望は 「国立大 学・サッ カー部」 でし たが、受け入れて貰えず、第二志望の「早大・ 理工学部」に入学しました。ア式蹴球部への憧 れもありましたが、ユース代表クラスがひしめ く中で、練習について行けないことは目に見え ていましたし、学業との両立は困難、との判断 で、迷わず理工サッカー部の門をたたきました。 小学五年か ら本格的 にサッカ ーを始め 、ま だまだ現役 シ(ニアリーグ参戦 で)、今年でサッ カー歴三十八年目になりますが、学業とサッカ ーの両立を図れたのは大学時代だけでした。中 学・高校とも、練習で疲れてしまい、殆ど勉強 できませんでした。大学では両親に高い学費を 払って貰っているのだから、なるべく多くの授 業を取り、しっかり勉強しようと思いました。 学部時代は 一週間分 の授業の 内容を、 翌週 までに復習することに努めました。授業は物凄 いスピードで進みますので、丁寧にノートを取 ることができません。授業中は、板書と先生の 説明内容 のポイ ントをひ たすら ノート に書 き まくる。自分だけ読み返せれば良いつもりで。 しかし、時間が経つと乱筆が読めなくなる。そ こで、復習として、別ノートを用意して、乱筆 ノートを清書するのです。授業の内容を何とか 覚えていて、乱筆も読み返せる「翌週までに復 習を終える」ことを目標としていました。 あの時代、 こんな馬 鹿なこと をやって いた 人間は少ないのではないかと思います。試験前 になると、学科の仲間に、最初は無料でコピー を配っていました。しかし、学年が進むにつれ て、有料で売れるようになりました。これらの ノートは、今でも実家の本棚に大切に保管して あります。 さて、理工 サッカー 部のお話 しへ。当 時は 三年生まで現役で、四年生になると引退でした。 今はどうなのかな? 一[ 年 生 最] 初 の 練 習 に 参 加 し た 後 の ミ ー テ ィ ングで自己紹介をした際に、三年生の先輩のど なたかに「高崎高校の福田って知ってる?」と 聞かれました。私は「福田総理ですか? 福(田 赳夫元総理は高崎高校出身 」)と回答半分、質 問半分で応えたところ、「福田昌弘君だよ。高 崎高校出身の理工サッカー部三年生」と紹介さ れました。高校時代には面識がありませんでし たが、それ以来、現在までずっと、福田さんに はお世話になりっぱなしです。 三年生は都 会的セン スに溢れ 、サッカ ーで も、キャンパスライフでも、学生生活を満喫し ているなあ、といつも思っていました。サッカ ーも予想以上に上手な方が多く、ア式蹴球部で も十分にやっていけると思える方 梶(田さんな ど も)いました。この三年生が主体の時は理工 系リーグ 春( と)新関東リーグ 秋( で)も、かなり 好成績だったと記憶しています。私もたまに試 合に出して頂き、楽しくプレーできました。 一年生の時 の思い出 は二つ。 一つは山 中湖 畔での新歓合宿で、それまで日本酒など飲んだ ことの無かった私が、日本酒を一気飲みさせら れ、完全にノックダウンしてしまったことです。 酔いの苦しみの中で、ほのかな快感が有ったこ とを覚えています。不思議な感覚です。完全な 脱力感の中の自由。 もう一つの 思い出は 、キャン パス内の 箱庭 での練習がとても楽しみだったこと。高校時代 までは毎日練習で、疲れ果てていましたが、大 学では練習が週三日位で、ミニゲーム主体で楽 しいばかり。箱庭の隅にある大木 桜(だったで し ょ う か? よく 覚 えて い ませ ん を) 如何 に有 効活用するかも、戦術の見せ所でした。狭いグ ランドで も十分 に練習が できる ことを 知り ま した。帝京高校が狭いグランドで練習して日本 71 一になるのが、少しだけ理解できました。とに かく、練習日が待ち遠しかったです。 二[年生 二]つ上の先輩が引退し、新三年と新一 年の間に挟まれて、苦悩の一年でした。新三年 は、個々人ばらばらのサッカー。新1年は実力 はあるけれど、高校時代にサッカーをやり過ぎ て満腹状態で、大学では真剣にやろうとしない。 同期は真面目なメンバーが多いけれど、本格的 なサッカー経験者が少なくて力不足。試合に勝 てなくて、試合内容も悪くて、いつも欲求不満 でした。 三[年生 部]長を引き受けて、色々な社会勉強を させて貰いました。合宿の準備をしたり、原宿 の 日 本 サ ッ カ ー 協 会 岸( 記 念 体 育 館 内 に) 頻 繁 に行ったり、練習中の骨折者 糸(日谷君 と)一緒 に救急車 に乗っ て病院に 行った り。そ の他 、 諸々。試合は二年生の時に引き続き、勝てなか ったですね。 私が部長を やるよう なチーム では勝て る訳 ない、と自暴自棄になったこともありました。 試合に勝てないと、飲み会も面白くない。そん な態度を取っていると、飲み会の席で、一年下 の日昔君 にびっ しりと叱 られた ことが あり ま した。具体的な言葉は忘れてしまいましたが、 リーダーの取る態度ではない、というようなこ とを言われた気がします。その日昔君も部長と なり、同期や後輩から、やんや言われて、色々 と苦悩していたようですが、最後まで頑張って 部長職を全うしたのは立派でした。 試合ではな かなか勝 てません でしたが 、夏 の菅平合宿が終わってからの「身体の切れ」に は充実感がありました。普段はどうしても練習 不足で、納得いくプレーが殆どできなかったの ですが、合宿でサッカー漬けの生活をしていれ ば、思うように動けるようになり、ボールも自 由に蹴れるようになるものだ、と感じました。 この身体の切れがあれば、ア式蹴球部でも練習 についていけるかもしれない、と思ったりした ものです。ほんの僅かな期間の身体の切れで、 直ぐに元に戻ってしまいましたが。 四[年生 現]役を引退して、後輩達の活躍をグラ ンドの横から、マネージャさん達と一緒に応援 していました。入学当時はサッカーに対する一 生懸命さに欠けていた三年生が、やる気満々の 二年生 明(石君、糸日谷君、竹嶋君、林君、小 池君、関場君、塩田君、他。竹嶋君は高校時代 は埼玉選抜の一員 や)、実力派の一年生 山(口剛 史君。元日本代表の山口素弘君の実兄 に)触発 されて、やる気を出し、いいチームになりまし た。 修[士 一]年先輩の代が中心となり、理工サッカ ー部のOBチームとして「ワセダ・スペイン」 が発足しました。スペインといえば、当時から 華麗なサッカーを特徴としていましたが、W杯 ではベス ト8止 まり。当 時は何 故スペ イン な の?と思っていましたが、先輩達の先見の目に は関心しきりです。何といても、今やW杯チャ ンピオンですから。 同[ 期 の 紹 介 こ] こ で 同 期 の メ ン バ ー を 紹 介 さ せてください。愛知県千種高校出身の内田。男 三人兄弟 何(と東大、慶大、早大の高学歴兄弟 ) の末っ子。風貌とは逆にロマンを求める男。建 築学科の西川。サッカーにはあまり執着しない が、不思議な味わいを出す男。ナイスガイ川島。 試 合 会 場 の 青 学 理 工 千( 歳 烏 山 ま) で 車 に よ く 乗せて行って貰った。環八をすいすいと走る。 横浜光陵高校の首席、小林。強気の発言が魅力。 もう一人のナイスガイ三瓶。鎌倉の実家は高級 別荘のよう。高校時代マラソン大会優勝の濱島。 今でも脚力衰えず。サッカー未経験者だったが、 かなり上手になった。走れるのは魅力。数学科 のアンドレ。本名を忘れた。失礼。大きな体格 ながら、足技がきく。理論派。建築が大好きな 田代。田代にマークされたらサッカーできない。 お酒を飲む時に脇を空けて飲むために、いつも 「カッペー、脇があめー」と言われていた石浜 克平。カッペーは渾名だと思っていた。シノヤ ンこと篠原。若くして風格があり、チームに安 心感をもたらしていた。誰か、忘れていないか 72 な~。忘れていたら御免なさい。個性豊かな先 輩・後輩に比べると、かなり大人しい同期のメ ンバーで、サッカーも決して上手とは言えませ んでしたが、真面目な話をしっかりできる、良 き仲間でした。マネージャーの同期は五名。文 化女子大が二人。岡田さんは、理工サッカー部 の二年先輩の岡田さんと結婚されて、改姓でき ず。福田さん、お元気ですか? 日本女子大が 三名。藤本さんは岩手県紫波町の出身。東北訛 がまろやか。富山中部高校出身の?さん。(う ~ん、名前が出てこない)いいお母さんになっ ているでしょうね。三田村さん、まだテニスを やっていますか? 理[工サッカー部の皆さんとのサッカー以外で のお付き合い ] ここでは特筆三件を書きます。一件目。一年生 の時に、初めてダンスパーティーなるものに参 加しました。理工サッカー部主催の企画とのこ とで、あまり乗り気ではなかったのですが、明 大・生田キャンパスに行きました。田舎者の私 はダンスが踊れず、隅のテーブル席に腰掛けて ばかりいました。席の近くにいた、どこだかの 大学の四年生 女(子大生 の)化粧が濃く、妙に大 人びていて、「いい歳して踊ってなんかいられ ないわよ」と気だるそうに言っていたのが、妙 に印象深く、大きなカルチャーショックを受け ました。その後、ダンパには一度も行っていま せん。 二件目。二 年生の時 には、2 年先輩の 福田 さんらが企画された、早稲田祭での「憂歌団と 泉谷しげるのジョイントコンサート」の裏方仕 事を手伝いました。会場設営をしていると、開 演前の会場の中央に、マネージャさんと一緒に、 女優の荻 野目慶 子がいる ではな いです か! 後 から聞いた話では、泉谷しげると荻野目慶子は 家族ぐるみのお付き合いをしているとのこと。 荻野目慶子はオーラを出していて、それはそれ はまぶしく映りました。その当時、荻野目慶子 は絶頂期で、演劇でチェーホフの「桜の園」を 公演していました。私は演劇を観には行けませ んでしたが、実はチェーホフの本は読んでいま した。ですから、かなり嬉しかったです。とこ ろが、その時に何と、マネージャさんが私の方 に近づいてきて「荻野目慶子を泉谷しげるの控 え室に連れて行って欲しい」というのです。事 前に控え室を聞いていた私は即OK。三人で控 え室に向かって歩いていた時間は、至福の時で した。マネージャさんは邪魔でしたが。控え室 の前で「桜の園、頑張ってください」と声を掛 けて、至福の時間は終わりました。 三件目。理 工サッカ ー部の一 年先輩の 成田 さんの妹さんが高校生の時に、数学と物理の家 庭教師をしたことがありました。途中で首にな りましたが、妹さんも無事に早大生になりまし た。成田さんのお父さんは、知る人ぞ知る成田 十次郎先生。東京教育大学出身で、当時、筑波 大学の教授をされていました。成田先生は読売 クラブの初代監督とのことで、読売クラブが日 本リーグで優勝した時に、大手町のパレスホテ ルでの優 勝祝賀 会に私を 招待し てくだ さい ま した。 丁度、その前年に、大学の体育 サ(ッカー の)授 業で、加藤久先生の講座を受講していたので、 パレスホ テルで カトキュ ー先生 にお会 いし た 時も話をしてくださり、日本代表の戸塚選手や ラモス選手を紹介してくださいました。最近の TV番組で、成田先生が「独・クラマーコーチ を日本に招聘するために大きな尽力をされた」 ことを知り、びっくり仰天したところです。そ こまで凄い方だとは思いませんでした。 【卒業後】大学修了後は、東芝・研究開発セン ターに勤めながら、週末は、高校のサッカー部 OBチーム・翠巒 す(いらん ク)ラブの一員とし て、群馬県社会人サッカーリーグに参戦しまし た。三〇歳になる年に漸く一部リーグ昇格。し かし、残念ながら一年で二部に降格しまいまし た。一部リーグの時代には、群馬県社会人選抜 チームのメンバーとして、在日朝鮮人選抜チー ムと国際試合 公(式戦 に)出場。相手には元北朝 鮮代表もいました。高校選手権での帝京戦の時 よりも、この北朝鮮チームの方が数段強いな~ と感じました。とにかく上手くて、速い。 73 試合後の懇親会で、その恐るべき強者達が「日 本代表の北澤選手は凄い」と言っていたのが印 象的でした。北澤、恐るべし。三十代半ばから は、現役のプレーを続けながら、小・中学校の サッカー部の監督・コーチもしました。 生意気盛りの中学生には、気力と体力をしっか り持って臨まないと、簡単になめられてしまい ます。日本サッカー協会のC級コーチの資格も 取り、研修会に参加しています。先日は神奈川 大学で行 われた リフレッ シュ研 修会に 行っ て きました。 U-17 代表の選手達への指導実践を したり、一緒にプレーしたり。技術・体力的に はかなり厳しいですが、こういった体験ができ るのも、 サッカーを続けているからならではだ な、と感じています。現在は監督・コーチはお 休み中。四〇歳以降は群馬県シニアリーグに参 戦しています。今年も先日、開幕しました。初 戦は前橋育英高校OBチームに0対3で惨敗。 かなり悔しいですが、充実感はあります。 【結言】この寄稿を執筆する前の二〇一一年三 月一一日 午後二 時四六分 に東日 本大震 災が 発 生しました。 この大震災で被災された方々に、心よりお見舞 い申し上げます。私は一年半ほど前から、 岩手県北 上市の 半導体工 場に出 張勤務 して い ました。震災当日は工場に日帰り出張の予定で したが、工場側の都合によって、急遽、出張が 延期になり、難を逃れました。 予定通りに出張していたら、震災発生時には東 北新幹線に乗り、JR仙台駅の前後で被災して いる所でした。当日、川崎の事業所に勤務して いた私は、一次避難場所で震源が宮城県沖であ ることを知り、予想できないほどの大きな被害 が起こることが予感され、身震いしました。ま た、岩手の工場の方々がとても心配でした。人 的被害が無いことが分かり、安心できたのは二 日後の三月十三日でした。連日、メディアで甚 大な被害状況が報道される中、様々な活動が自 粛されました。そんな中、サッカーの日本代表 とJリーグ選抜の試合が開催されました。後半 にカズこと三浦知良が見事なゴールをゲット。 リアルタイムでゴールを見た私は、カズの超人 的なハートを強さに感動で震えました。 いくら現役のプロサッカー選手とはいえ、四十 歳を超えた選手が、バリバリの日本代表を相手 に、ゴールゲットすることなど、九九%以上の 確率で有り得ないと思っていました。しかし、 私が考える一%以下の確率の事象を、カズは成 し遂げてしまったのです。日本も絶対に震災復 興できると思いました。最盛期のカズは余り好 きではありませんでした。しかし、レベルの大 幅な違いこそあれ、現在シニアリーグに真剣に 取り組んでいる私にとって、今となっては、カ ズは一方的な心の朋友です。日経新聞のカズの 連載は必ず読んでいます。練習のランニングで、 奈喜良 忠浩 若者の先 頭に立 って走る 姿は魅 力に溢 れて い ます。自主トレでは演歌を聞きながらランニン グするとのこと。演歌を歌いながらランニング していた私は、この話を聞いた時にも、とても 共感を覚えました。前述のように群馬県シニア リーグが開幕し、サッカーを思い切りできる幸 せを感じています。諸外国からの支援も頂きな がら、日本人が総力を挙げて、一刻も早くこの 危機を克服することができるように、私も私な りに尽力することを誓い、本稿の筆をおきたい と思います。 理工サッカー部と私 昭和六十二年入学 私は一九八六年四月に理工サッカー部に入部。 大久保の 理工学 部内に正 方形の 小さい グラ ン ドが有った頃のこと。ミニゲームサイズのグラ ンドの隅に桜の木があったのが印象的でした。 どこでサ ッカー をやろう かと迷 ってい たと こ ろ、そこで練習しているのを見て即決した! まだJリーグもなく、静岡、埼玉、東京、長崎 が高校選手権の優勝常連の時代、サッカーのレ ベルも高くない岡山の出身。どこまでやれるの かの不安 とサッ カーがで きる喜 びを感 じて い 74 た。やはり、全国から集まったレベルの高い先 輩、後輩が居た。 その中で サッカ ーをやれ たこと は自分 のサ ッ カー人生 にプラ スとなっ ている ことを 実感 し ます。皆サッカーに熱い仲間でした。 その当時の年間の活動は、五月山中湖での新歓 合宿(兼理工スポーツ大会役員)、五月~七月 関東理工系リーグ、九月菅平マガジン杯参加、 十月~十二月新関東リーグ、二月スキー合宿、 三月静岡藤枝合宿。 これらの活動の中で、藤枝合宿は現在行われて いないが、当時、藤枝にいる元ヤンマー(現セ レッソ大阪)の方がコーチで、四日間ぐらいで 現地の高校生と練習試合をして、新チームの基 盤作りを 兼ねメ ンバーの 親睦も 深めた 思い 出 がある。 卒業後、理工サッカー部OBが主体となってい た社会人 クラブ チーム FCワ セダが 東京 都 リーグで活動しており、そこでプレーしていた 先輩に声をかけられ私も参加した。 そこには十年以上も先輩にあたる方達が居て、 理工サッカー部の歴史を感じました。 そのチー ムで年 々若い理 工サッ カー部 の面 々 が加わり、今度は十以上も歳の差のある後輩と プレーすることができた。 その後、私が三十代後半になった頃、その頃一 緒にプレ ーして いた理工 サッカ ー部仲 間と シ ニアのリーグでの活動を話すようになった。そ して、私が見つけた世田谷リーグ四十雀(三十 五歳以上のリーグ)にFCワセダの名前とユニ フォームをそのまま持ち込んで参戦! サッカーからしばらく離れていた仲間や先輩、 後輩も集めて現在活動中。 世田谷リーグは、サッカー協会自体は組織とし て発足したてだが、世田谷リーグの歴史は深く しっかりした組織でリーグ運営されている。シ ニアリーグ登録メンバーには金田喜稔、高木琢 也等がいた時もあった。偶然、高木琢也がプレ ーした試合の審判をし、文句を言われたのに腹 を立てた思い出もあるが… 四十雀リーグには三十五チーム、その上の五十 雀(四十五歳以上リーグ)リーグは十四チーム ありオッサンサッカー熱はかなり熱いです! そこに三 年前か ら加わり 、初年 度は区 民大 会 (五試合)、二部のリーグ戦(七試合)を無失 点全勝で最高の形で終えた。二年目は区民大会 二連覇、一部リーグはやはりそれ相応の戦いで あったが運よく優勝した!三年目の昨年、区民 大会は一 回戦負 け、リー グは優 勝(一 部二 連 覇)!まさに他のチームが打倒ワセダでリーグ もヒートアップしています。 チーム名 からワ セダの体 育会O Bと間 違わ れ ることもあるが、世田谷リーグには、元体育会 (わがチームにも二名います)、元稲穂キッカ ーズと早稲田出身者が多数いて、試合会場で声 をかけられることもあります。 私もチーム幹事をやりながら、協会関係者や他 のチーム の方と も交流を 深める ことが でき て います。 また、私は個別に世田谷リーグ所属選手の選抜 チームで東京都シニアリーグ(四十歳以上)で もプレーしています。 レギュラーの座は遠いのですが、チームは昨年 東京都リ ーグチ ャンピオ ンにな り韓国 の選 抜 チームと親善試合をしました。また一昨年はリ ーグ二位 だった のですが 関東大 会にも 出場 し ました(一位は韓国で親善試合出場)。 他のチー ムには 元プロの 集団、 帝京高 校O B (前田治さんも出てます)、在日朝鮮人チーム 楽しいです! 最後に理 工サッ カー部か ら社会 に出て もい ろ んなとこ ろでサ ッカーを する機 会があ ると 思 います。また、サッカーから離れても再びやり たくなる時も来ると思います。いろんな所に理 工サッカー部の先輩や後輩がいますので、一緒 にプレーしてみて下さい! 私は今学 生時代 の面々と 世田谷 でサッ カー を 楽しんで います !皆さん もサッ カーと 人生 を 楽しみましょう! 写真は二〇〇八年、二〇〇九年の世田谷区民大 会で優勝した時のものです。 75 八〇歳までの現役プレーヤー! 安藤伸剛・洗井淳 現在もサッカーを選手として楽しみ、少年サッ カーの指導も行っている安藤さん( 1989 年入 学)と、同期の洗井とのサッカー談議をお寄せ します。 現役でサッカーを楽しんでいる方も、少しサッ カーから離れてしまっている方も,サッカーの 素晴らしさを再発見して頂ければ幸いです。 平成元年入学 目指せ 2008 年世田谷区民大会優勝 --------------------------------------- 洗 安藤は,サッカー歴は何年になるの? 安 小学四年生からだから、三十一年かぁ。お っさんだ 洗 まぁ、お互い歳を取ったよね.ということ は、安藤は十歳から始めたということだね。サ ッカーをするきっかけは何かあった? ダヤ モンドサッカーを観て、あの選手にあこがれた とか? 安 小学校に四年生から入れるサッカーチー ムがあって、自然に始めた感じ。 その前から休み時間にはボールを蹴っていた から。スポーツが好きな子はみんな入ってたん じゃないかな。早稲田の理工サッカー部に入っ たのは、さすがに体育会はきついかなという後 ろ向きの気持ちと、二年先輩に此木さんという 中学高校の先輩がいたから。今の五十五号館の ところに土のグランドがあって、夜ミニゲーム をやるのが練習。僕らが三年のときにグランド が使えなくなって、屋上に極小の人工芝グラン ドを作ってもらったよね。今は、いろいろグラ ンドを借りなくちゃ練習できないし、その移動 にも時間がかかるし大変だよね 洗 五十五号館のところに土のグランドあっ たね。僕らが三年の時は、春は理工系リーグの 一部で、確か二位。夏のマガジン杯は、一位リ ーグでベスト16だったかな。秋の新関東リー グは一部の三位くらいで,安藤はリーグ得点王 取ったよね。 76 理工サッカー部出身は、二〇〇八年は十四人中 十人、二〇〇九年は十二人中十一人です。二〇 〇九年の 写真に 写ってい る女性 は理工 サッ カ ー部マネージャーで、当然ダンナさんは理工サ ッカー部 !私の 代も含め 先輩後 輩で理 工サ ッ カー部の 部員と マネージ ャーの 夫婦も 何組 か います! 2009 年世田谷区民大会優勝 安 強いチーム相手には点は取れないFWだ ったけど(笑)、慶応理工相手にハットトリッ クしたりしたこともあってラッキーな受賞。ま わりがゲームを作ってくれるから、ゴール前で がんばるだけだった。みんなのおかげ!人生で 初めてオーバーヘッドで決めたっけなぁ。 洗 うーん,まわりのお陰とは、大人な発言で すねぇ。それで、サッカー歴は現在に至ってこ れからも続くのだけど,サッカーの魅力って、 安藤にとっては何かな? 安 ずっとFWをやっているから、ゴールを決 めたときの興奮というか、カタルシスというか。 あれよりも、自分の中で盛り上がれる瞬間とい うのは、そうないんだよね。ギャンブルもやら ないし、大金を動かすような仕事をしているわ けでもないし。 洗 安藤は,生まれながらのFWということだ ね。たぶん、アシストする方に魅力を感じる人 もいて、そういう人は中盤向きだと思う。それ で、そういうカタルシスを得るために、何歳ぐ らいまで現役を続けていきたい? 安 僕は、早稲田理工サッカー部OBを中心に 構成されている FC ワセダ(世田谷区シニアリ ーグ)に入っているほか、川崎シニアというチ ームで神奈川県のシニアリーグなどにも参戦 してるんだけど、その川崎シニアのスローガン が、「八〇歳現役プレーヤー!」というものな のね。さすがに、八十歳はどうかと思うけど、 去年そのチームで韓国に遠征に行ったときに、 六十代や七十代の人もいて。もうリタイアした 白髪のおじさんが、仲間と楽しそうにボールを 蹴り、酒を飲んでいるのを観ると、単純に「あ あ、いいなぁ」と思った。仕事を離れて、その 歳になって、遊べる仲間って貴重でしょ。仕事 をリタイアした後もやりたいなぁ。 洗 サッカーの後の酒も外せない要素だよね。 生粋のFWとして、理想とする選手って誰か な?歴代の選手と現役の選手一人づつ選ぶと したら? 安 歴代の選手なら、デニスベルカンプ。現役 なら、イニエスタ。自分とずいぶん違うけど、 テクニシャン好きです。マラドーナもメッシも 最高だけど、僕、右利きだから。 洗:やはりベルカンプ、きましたね。安藤はメ ールアドレスも nobkamp (注:ちなみに安藤く んの名前は「のぶたけ」です)だからね。イニ エスタは名選手だけど,中盤なのでちょっと意 外でしたね。FWに好パスを供給するという点 で理想なのかな? 安 パスも最高だけど、あのボールを取られな いテクが最高。トラップも最高。僕くらいの歳 になると、爆発的なシュートとか、ドリブルっ て非現実的なんだけど、イニエスタのプレイは 参考になるなぁ。というか、参考になりすぎ る! 洗 イニエスタのドリブルのコース取りとか、 体の入れ方も凄いよね。それから、利き足が影 響するのも面白いですね。理想とする上で、利 き足が右と左では、ボールの持ち方やもらい方、 シュートまでの動きが気になるということで しょうか? 安 右利きと左利きって、プレーが違うよね。 それはレベルを問わなくて、左利きの独特の雰 囲気って、右利きはマネできない。洗井も左利 きでしょ。実は、今までずっとうらやましかっ た(笑) 洗 いいだろー(笑)、何てね。左利きの人は、 あまりそういう意識は無いと思うんだけ ど・・・。 安藤は。少年サッカーの指導もし ているよね。指導をはじめてからは、一、二年 くらい? 安 僕は、地元の逗子でもサッカーをやってい て、ALLZというクラブチームの小学六年生 を去年一年間指導しました。 洗 昔から指導する側にも興味があったの? それとも、何か指導を始めるきっかけがあった の? 安 半ば、強制的に(笑)。このチームは、監 督もコーチもボランティアなんだけど、自分の 子供が入っているということで、サッカー経験 のないお父さんがコーチを始める場合が多い んだよね。それがうまくいかなくなってきたの 77 が、その6年生の代で、ちょっとしたテコ入れ だったみたい。 洗 少年サッカーの指導と,中高生やその上の 世代の指導は、それぞれのカテゴリーで質が違 うと思うけど、少年サッカーの指導の醍醐味や 苦労があったら聞かせてもらえる? 安 今の少年って、間違いなく自分のころより うまい!悲しいけど、ホントにそう(笑)。だ けど、ウチは、セレクションなんてやっていな い普通のチームだから、そんなに高度な練習っ てできないんだよね。少年間のレベルが違うし。 そもそも小学生って集中力が続かない(笑)。 いろいろ指導本を読んで、自分がやってきた練 習も取り入れて、アレンジして、少年たちが飽 きないよう、けっこう苦労しました。六年生に なったばかりの大会の一回戦で、いきなり湘南 ベルマーレとやったんだけど、0対3で負け。 内容的にも完敗。それで今年の年明けすぐの大 会の三回戦でまたベルマーレと再戦したんだ よね。それまでのベルマーレの戦績がスゴイ。 一回戦が17対0。2回戦が13対0。反則で しょ(笑)。でも、このときは前半を1対0で リードして折り返したんだよね。それで後半5 分くらいまでそのままいって、でもさすがにこ らえきれず、逆転されて1対3で負けたんだけ ど、すごくいい試合だった。自分の試合じゃな いのに、あれだけ興奮したことって、なかなか ない。家庭を顧みず、ときに自分の試合よりも 少年の行事を優先し、おまけにボランティアな んだけど(笑)、やってきて本当によかったと 思った。一年間テーマを決めてやってきたこと が、120%出せた試合だったんだよね。それ でもベルマーレには勝てないし、限界も同時に 感じるわけだけど。なんか悔しいから、来年は ジュニアユース(中学生)のコーチをやること にしたよ 洗 結果も大切だけど、それに至るまでの過程 がより大事なのかもしれないね。こういうこと は話で聞いたり、本で読んだりしても、感じる ことには限度があると思う.実際に同じ一年を 共有した安藤と選手達は、すごく貴重な経験を したんだと思うよ。安藤家のご家族の皆様、ど うかお許しを! 来年からは、さらに上のジュニアユースでもコ ーチをするということですが、指導者として見 た場合、理想とするチームはある?これも,も しあれば歴代のチーム、現在のチームから一チ ームづつ選ぶとしたら? 安 先に言ったテーマっていうのが三つあっ て、一、ボールに寄る 二、クリアしないでつ なぐ 三、取られたら、すぐにプレス、みたい なことなんだけど、そういう意味で言うと、バ ルサかな。全部すごいもんね。指導者としてだ けでなく、プレイヤーとしても理想だなぁ。 洗 バルサはすごいね。「クリアしないでつな ぐ」については、あのバルサの技術がないと難 しいとは思うけど・・・。 サッカーの話を始めるとキリがありませんの で、このあたりでお開きにしたいと思います。 この話の続きは,またグラウンドか酒席でとい うことで。 安 今日はどうもありがとう。これからも「八 〇歳まで現役プレーヤー!」目指して、お互い 頑張っていきましょう。 78 早稲田理工サッカー部 活動歴 1961年(S36年)~1971年(S46年) 1961年度(36年) キャプテン:伊橋 ‘610828~31 0910 1010 1022 1112 1121 1127 1210 第1回練習(東伏見G) ● ○ ● ● ○ 1-4 3-0 0-2 1-2 1-0 ――― △ 3-3 慶応工学部(慶応工学部G) 学習院(学習院G) 浦和高校(浦和校G) 慶応工学部(慶応工学部G) 日大理工 (小石川G) 慶応医学部 (小石川G) 日大理工(小石川G) 1219~23 第1回合宿 (藤沢・善行) 1223 ‘620120 0214 ● 0-3 栄光OB(藤沢・善行G) ○ 3-2 東工大(東工大G) 納会(長岡庵) 1962年度(S37年) キャプテン:田口、主務:増田 ‘620410~13 0414 0422 0509 春休み練習(東伏見早大G) ● 2-3 武蔵工大(武蔵工大G) ○ 2-1 慶応工学部(慶応工学部G) ○ 3-0 早大サッカー愛好会(東伏見G) 関東工科系リーグ戦初参加 3位 (優勝 千葉工大 準優勝 電通大) 0520 0527 0610 〃 ○ 4-1 東工大(東工大G) ○ 4-2 慶応工学部(武蔵工大G) ● 2-3 千葉工大(武蔵工大G) (3位決定戦) ○ 2-0 農工大(武蔵工大G) 0826~31 第2回合宿(長野県小川高原) 1014 1019 1121 1124 1202 1216 ● 0-2 慶応工学部(慶応工学部G) ――― 早大サッカー愛好会 (東伏見G) ――― 早大サッカー愛好会 (東伏見G) ○ 3-1 慶応工学部(小石川G) ● 0-1 慶応医学部(小石川G) ○ 2-1 栄光OB(小石川G) 1220~23 第3回合宿(藤沢・善行G) 1221 1223 ○ 1-0 栄光(藤沢・善行G) ● 1-3 栄光OB(藤沢・善行G) ‘630213~14 納会(丹沢栄光山小屋) 79 1963年度(S38年) キャプテン:小林 主務:青田 ‘630401~13 春休み練習(小石川G) 0421 ● 1-5 都立大(都立大G) 関東工科系リーグ戦(武蔵工大Gで開催) 0428 0503 0505 0512 0519 0526 0609 △ ● △ ● ● △ ○ 1-1 0-2 1-1 2-3 0-2 1-1 3-0 6位 武蔵工大 東工大 日大理工 慶応工学部 電通大 千葉工大 慶応工学部 合宿(会津若松) 1013 ‘640112 △ 2-2 早大サッカー愛好会(東伏見G) △ 1-1 慶応工学部(武蔵野競技場) 1964年度(S39年) キャプテン:堀田 主務:飯田 ‘640401~08 春季強化練習(小石川サッカーG) 関東工科系リーグ戦 (農工大Gで開催) 0505 0510 0517 0524 0607 0627 0704 3位 ● 0-4 東工大 ○ 4-0 農工大 ○ 1-0 慶応工学部 (3位決定戦) ○ 2-0 電通大 ● 1-6 都立大(都立大G) ● 0-2 イナホキッカーズ(東伏見G) ● 1-2 慶応工学部(慶応工学部G) 0809~15 合宿(群馬新鹿沢) 1101 ○ 2-1 ICU(ICUG) 新関東大学フットボールリーグ (新設) 優勝 1122 1123 1124 1206 1213 1219 ‘640110 0213 ○ △ ○ ○ △ 2-1 2-2 2-1 2-0 2-2 慶応キッカーズ 慶応工学部 日大理工 東海大 イナホキッカーズ ○ 3-0 小石川高校(小石川高校G) ○ 3-2 慶応工学部(慶応工学部G) 納会 80 1965年度(S40年)キャプテン:林、バイスキャプテン:長嶋、主務:山崎、増田、会計:高柳 関東工科系リーグ 準優勝 合宿 戸山高校那須グラウンド 新関東フットボールリーグ 準優勝 1966年度(S41年) キャプテン:横山、バイスキャプテン:飯島、マネージャー:松本、顧問:米元 先生 米元先生(土木・水理学)に顧問就任をお願いし、快諾して戴く。 関東工科系リーグ 準優勝 合宿 検見川 新関東フットボールリーグ 「イナホ」に敗れて優勝ならず 1967年度(S42年) キャプテン:渡辺(健)、バイスキャプテン: 吉成、マネージャー:仙波(野 地) 関東工科系リーグ 準優勝 合宿 霧ヶ峰 新関東フットボールリーグ 優勝 1968年度(S43年) キャプテン:朝倉、部長:飯村 、マネージャー:竹中 関東工科系リーグ 優勝 合宿 菅平 新関東フットボールリーグ 優勝 1969年度(S44年) キャプテン:三輪(創) 、バイスキャプテン:黒澤 、マネージャー:成井 関東工科系リーグ 優勝 合宿 菅平 新関東フットボールリーグ 準優勝 1970年度(S45年) キャプテン:田部井、バイスキャプテン:和田、マネージャー:杉本 春合宿 日立 関東工科系リーグ 優勝 夏合宿 菅平 新関東フットボールリーグ 優勝 1971年度(S46年) キャプテン:田口 、マネージャー:三輪(收)、合議制 春合宿 日光 関東工科系リーグ 優勝 夏合宿 菅平 新関東フットボールリーグ 準優勝 お願い:以上の記録は確かな記録に基づくものもあり、また、OBの記憶に頼っている部分もあり ます。 特に戦績については、間違っていれば他校の栄誉を傷つけることにもなります。 全く他意はありませんので、違う情報をお持ちの方は是非当HPにお寄せ下さい。 81 早稲田大学理工サッカー部を 支えて下さった顧問の先生方 東大でサッカーを楽しまれて 米 元 先 生 初代の米元先生 おり、「オー、君もサッカーをやるのか」と快く顧 問を引き受けて戴きました。 土木工学科・河川工学を担当され、優しいまなざ しで少なからぬ学生の単位を落とされました。 機械科学・航空学科でものづ 本 村 先 生 2代目の本村先生 くりを追求されておられます。 米元先生のあとを引き受けて戴き、30年余の長 きにわたって、黙って判を押して戴きました。 82 編集後記 五 〇周年記念誌編集委員長 松本安弘 早稲田大学理工サッカー部(同好会)の創立 五〇周年にあたる二〇一一年は、日本史上に永 く記憶さ れるで あろう大 災害の 年とな って し まいました。 被災さ れた皆 様に心よ りお見 舞申し 上げ ま す。 OB会 や五〇 周年記念 誌を作 ろうと いう 機 運が生まれたのは、三年前、現役諸君からいつ も戴いて いたO B戦の案 内に久 しぶり に顔 を 出してみる気になり、そこで落ち合った数名の OBが二 〇一一 年で同好 会創立 五〇周 年を 迎 えるということに気が付いたのが始まりです。 新たに組織として発足したOB会も、以前か らOB活 動を実 質的に行 ってき た人々 をは じ め、多くの方々から運営理念をめぐってご批判 を戴き、試行錯誤を繰り返して、産みの苦しみ を味わって参りました。ただ、同好会発足の原 点を記録 にして 明らかに してお こうと いう 考 えは大方の皆様の賛意を戴けるものと考え、準 備を進めてまいりました。 当初の目標であった、発足時の原点を記録と して残すとともに、その後のOBの方々のサッ カー生活 を寄稿 戴いてO B会と しての 全貌 を おぼろげ ながら でも描き 出すと いう作 業は ま だほんの一端を垣間見たにすぎませんが、私ど もの作業はこれで終止符を打ち、あとのことは 後続の世代の方々へお任せしたいと思います。 最後に、同好会を立ち上げて戴いた伊橋会長 をはじめとする初代の方々、ご寄稿戴いた方々、 また、未曾有の大災害のなかで当事者として奮 闘しているため、寄稿を断念された方々、また、 データの掘り起こしに尽力された方々、分けて も編集委 員とし てなんと か形に して戴 いた 晴 山、和田の両氏には、厚く御礼を申し上げます。 また、同好会を受け入れて戴き一緒にサッカ ーを楽し ませて 戴いた工 科系リ ーグの 各所 属 校、「イナホ」など同好会リーグの設立に尽力 された皆様にも厚く御礼申し上げます。 二〇一一年四月 大災害が終息しやらぬさなかにて 83 早稲田大学理工サッカー部 創部五十周年記念誌 2011年6月 発行 早稲田大学理工サッカー部 OB 会 平成 23 年 6 月 30 日 84