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Page 1 オーストラリアから日本への訪問者 : 1854年から1890年まで 村
論 説
オーストラリアから日本への訪問者:
1854年から1890年まで
村 上 雄 一
至.はじめに
この論議では、B本が麗羅したi8騒年から鰺鱒奪にかけて、オーストラ婆ア
から8本を訪弱した人々が、8本および蓉本人をどのように認識したのか、さ
らに、稜等がオーストラ夢アの人々に与えた醤本や登本人のイメージについて
考察するものである。筆者は、窃幾8豪震源史の諸開題についてr観難蓉豪関
係史の諸問題」確行政歓会論集諏第登巻、第3号、欝鑓隼)で総論を礎起し
たが、その中で、窃簸欝豪縫係史を考察する上におも・て、鰺弱奪代嶽前の薦蟹
麗係史の璽要姓について指擁した。そのような問題意識に立翻し、まず最も褥
類の欝豪接触についてゼオーストラ撃アの捕鯨齢と騒本渡8騒隼まで」(罫行政
社会論集蓋第葺巻、第4号、欝§8隼)で取り籔い、この論説への導入部とし
た。そこで、この論説では、襖窮8豪彊係史の中でも特にオーストラ琴アから
欝本への訪露者に講点を絞り、!8灘年以降の本賂的な雨覆闘係史の考察の第i
歩としたい。その地の譲点については今後発表予定の論議で振う予定である。
登.オーストラ琴アから貸本への訪闘者:葉854一嘩8総年まで
時代背景
オーストラ婆ア穫昆地人の霞本に輯するi講心は、1853隼と露54奪の,2度に及
ぶぺ》一握督率いるアメリカ合衆麗艦隊の来航が、蓉本の鎖露政策を敏棄させ
一i66一
オース卦ラ嘆アから8本への訪問者注8騒奪から欝弱無まで(縁上雄一〉
た後、増大した。この来航の結果、ゼ8米秘露条約遊が鰺騒年3月に締結さ
れ、玉講奪9月英騒も潟様な条約を8本と締結している。1858年7月には蓼9
米修好通商条約選が締結されたが、2この条約を基に英国を含む地の西洋4力
屡とも通商条約が購奪中に締結された。3
これら通商条約には、関税§主権の否定や領事裁覇権など、不平等条項が含
まれていた。そのため、歓米との不平等条約改正は、B本の国家としての薮藪
と独立に麗わる中心的翼題となった。この開題を軍急に解決することが、265
杢醐の長き1こ渡って続いた慰糟癒蠣壊と、鰯癬に明治新政聯動興した
漂石のiっになった。西洋列強との韓等な条約を追求する羅本の著露が、鰺9§
年代のオーストラ蓼ア纏民地と8本の閣係においても、重要な構題であったこ
とを忘れてはならない。4この通商条約の結果、嚢本は西洋資本主義によって
支醗される轡界へと入む、地球幾摸の通商貿易システムに緩み込まれることに
なった。
愛一ストラ軽ア槌民地も、鰺灘隼代を通して歴史的な大転換類を経験した。
欝駐奪、ニュー・サウス・ウェールズ穣浸地のバサースト (Ba騰駿rst)とヴィ
クト蓼ア橿民地のバララット(B3亜捻r飢〉で金が発見され、欝鱒年代まで続く
ことになる一連のゴールド・ラッシュの第一簸が幕をあげたG3この発見のニ
ュースは隅年末までに轡界中に広まった。金を求める人々が、英蟹や能楽のみ
ならず、中毯からも、オーストラ1ナア植残地へ向かう船に殺到した。ゴールざ・
ラッシュによって急増した人口と富によって、欝55年から欝欝奪にかけて・ニ
ュー・サウス・ウェールズ、タスマニア、南オーストラ盲タアおよびヴィクトリ
アの各橿浸惣堀治権を獲得した。牽ストデ㌶における全人日はi麟隼に
4蕊.3総人だったものが、i8磁年にはi,茎68,§隣人まで急激に増撫した。この購、
ヴィクト移ア麺畏地は、勉のどの纏畏地よりも人嚢増麗が著しく、i8駐年に
77・345人だったものが、鰺覆年には騒§,322人になっていた。6このヴィクト婆
ア槌民地における急激な人嚢増燦が、補簸9豪関係にも影響を与える要馨にな
った。なぜなら、この論説に後に登場する摂本を訪れたオーストラ穿ア植民地
一i6?一
行政鮭会論集 第i2拳 第4弩
人の多くは、この閤にヴィクト1タア纏畏地に滞在した経験を持っているからで
ある。
オーストラ縫アとアジアに関する勉の重要な歴史的事欝、すなわち最密の反
中国入運動がオーストラ!1アで起こったのも、懲鎗年代から欝鎗奪代にかけて
であった。鰺54年、ヴィクト1}ア殖民地ベンディゴ(8e簸δ矯。)の金採薦地か
ら甲羅人を追放するため、白人霧勇者の集毯が蜂起する計露を立てた。しかし、
この蜂起計垂嚢はヴィクト婆ア擢董民地致府毒こ伝わり、5§名の警官が諏選されたた
めに、未然に防がれた。この反中震人運動の後、捲55年にヴィクト喜ナア櫃蔑地
議会は、申蟹蟹籍録持者の入国を舗限する法を麟定したポニュー・サウス・
ウェールズ纏畏地議会も、18艇庫に懸嫌な法を麟足したが、それは属植民地ヤ
ング(Yo擾難g)の近く、ラミング‘フラット(L&醗塗)塾g欝簸t)で「深亥llな暴
力を馨う、反中啓人感情による暴動が発生した野からであった。雨纏民地に
おけるこのような立法によって、当時、金採掘地における申蟹入居住者は差潮
された。9また中震入金鉱夫に1ま、当時の白人労{勢者の闘1こおける一般1的なア
ジア人ク一夕ー檬、すなわち、「懸賃金で満足する、資本家に隷霧的な、生活
水準の低い集霧雲韓というイメージが徐々に適矯されるようにな鯵、盤8§年代
頃までには、中国人移民がオーストラ夢ア椎会に瞬乾することは不可能である
というステレオタイプが支配的になるようなっていった。董i幸いにも、嚢本は
鰺騒年まで鐘蟹敵薬を続1ナていたため、弩本人は勧難のゴールド・ラッシュに
は擁わっていなかった。もし、多くの8本人の金採鉱者が金鉱地に羅住してい
たならば、中躍人同様に、差甥さ農ていたに違いなかったであろう。
また、鼓徳の進歩よって、欝墨縄中葉には海洋交通が急速に改善されたこと
も忘れてはならないであろう。欝総年代には、海洋貿易ルートにおける速さが
求められるようになり、アメ婆力では快速麟麟が建造されるようになった。こ
の遽さに対する要求は、3一灘ッパからアメ縫方やオーストラ1ヌア等へ渡る移
民数の増撫や麟鰹貿場の拡大から起こっていた。玉2欝52年にはスク1タユーを装
備した最初の鉄鋼製蒸気船ゼグレート・ブ1タテン骨董(G麗醜β麺紬酸)が、英
一i68一
オ_ストデ綜から8本への謙賭二185轟から麗眸まで縦土雄一)
蟹とオーストデ浮を結ぶ鱗に就航した。塾6簿代には鉄鑛製快速親船が
建造され、ヨー濤ッパとオーストラ1}アを結ぶ貿易ルートに多く健事してい
た。亙尋このような海上交通の発達により、当然、方一ストラ華ア橿漢地人は8
本を含むアジア諸馨に鶴野を広げていったに違いないであろう。
8英闘の条約に縫い横浜港が英羅矩民に聡放され、後1こは英国の騎兵騒が駐
留するようになった。この横浜雛港こそが、本格的な8豪渓1係の幕開けを告げ
ることとなった。よむ多くの琶本の精報や製品がオーストラ嘆アに伝わり始め、
多くのオーストラ彗ア蕪民地人が還轟、観光、または縫のアジア諸国へ喬かう
途収8本を謙るようになった.それ瀟より、オーストデ汀纏民地人は
捕鯨を通じて8本に縫心を持ち続けてたことから、至58本を臆巷年以上も轡界か
ら閉ざされていた、ミステ陰アスでエキゾチックな国と患っていたことであろ
う。
こ噸から、躰と樋醸縄わる精報がオーストラ峯裡の各櫨跳で流れ
始めた。縫えば、鰺5§年2月、謬シドニー・モーニング・ヘラルド遺緩の社議
は、i蹴奪の8英簾条約縁結を馳ま二げているが・そこには1浮来の8本との
貿易1翻する鵬について髄べられている謹この社誌こおいて8本人は
ド中国人と瞬種の人種」と見られている一方で、懸本人は「多くの点において
異なる牲賂を有している」と述べられている♂了このことから、欝5§年代後半
にはもうすでに、8本人と中国人との闘に、ある程度のイメージの権達がオー
ストラ移ア植甕地人の中にはあったと言うことができよう。条約に関して同紙
は、躰が経界の通翻に麟関わるようになるであろうと豫し・次のよ
うに結論づけている。
「外国との貿易を導入しようとしている薩人達の試みが懸植のあるよう、そ
して、誓ヨ本人が西洋文明1こ対し霞戸を§舞いたことを後悔しないことを懇待し
ようではないか。轡
このような内容から、欧米諸雛llに対して霞本が貿易港を聡港した時点のオー
ストラ弓アの一般大衆1ま、腿本や縫本人に対し特幾な偏見を抱いていなかった
一1鎗一
行政袿姿論集 第賛拳 第4号
ことが言えるであろう。主要な論点は、当時罷きっっあった新たなチ華ンスを
獲鬱するために、B本と良好な通繭麗係を築きたいということである。この
匿シ鑓二一・モーニング・ヘラル確紙の解釈では、f西洋文窮涯の中にはオー
ストラ盲ナアも含まれているようである。
i8幾年3月鰺響付のメルボルンゼアーガス選紙は、ブラッドフ重一ド商業会
議所(8猿鍵。撮C撫灘漉r oぞCo灘灘erce)の会頭が鰺60奪捻月鍾8付のロン
ドン置タイムズ薩紙の記事を受け取った旨を報じているが、その内容は日本に
濾産している英岳人貿易商によって書かれた手紙であった。その手紙は鰺鑓年
7月猛8付で書かれたものだが、ロンドンの商業会議藤に蝿し、キャムレット
(絹・羊毛・ヤギの毛のなめらかな交織り)、シャツ地、甥ル地(雲斎織)、模
様付ギンガム(チェックまたはストライプの平織鯵洋醸地〉、フランネル、競
市など、多様な織物製贔、及び、窓屠ガラスの大量販売が見込めると報告して
いた。欝この手紙の内容は、当時貿易港として麗港されていた園館の馨本人商
人達とのやり皺むの結果から書かれたものであった。2§その手紙にはまた、縫
本人が外蟹人と交鞣するようになって以来、輸出によって莫大な利益をあげて
いることから、霞本人が輸畠晶の生産に時瞬を注いでいる善が書かれてい
た.2里一方でその英蟹人貿易商は、霞本は貿易を均衡させるために海外から大
量の製品を輸入するようになるであろうと予翻している。22
アレキサンダー・マークス
欝欝年、英騒人に横浜が開港され、その塵後、アレキサンダー・マークス
(A至exa擁鍵Ma疲s〉が横浜に移ってきた。破は、日本との貿易を確立するた
めにオーストラ撃ア植民地から移ってきた、最初難の貿易薩のi人であった。
マークスは、カスパー(Cas脚r)・マークスの息子としてi838薙アメ撃力合衆
蟹で生まれたが、後にその父親と一緒にオーストラ瞬アへ移ってきた。当祷、
彼の家族はシドニーで数年醗暮らし、その後、マニラやサンフランシスコ等、
世界を移り往んだ。鰺囎隼マークスは愛一ストラ1ナアに戻り、メルボルンに佳
麗を構えた。!鶴8年彼は申驚へ渡参、香港で貿易商の仕事を確立し、その翌年、
一!簿一
かスト列アか紹本へめ翻意至罎鋤・らi蹴隼まで(韓土雄一)
彼の兄弟と共に横浜へ移ってきた。2む872年横浜とマニラを結ぶ貿易麟窪ジュ
琴ア号擁(」麟α)が遭難したが、その事故によってマークスは見弟を失い、瞬
奪再びメル脚レンへ戻った.24
i講年i甥、マークスはヴィ外狩鞍地の麟名誉領事1こ験されたが・
それは購治政簸も参撫した露総年メルボルン万蟹博覧会麗縷産繭のことであっ
た.i晒年波の管轄懸ま、クイーンズラ搾、ニューサウス・ウェーノシズ・
タスマニアの各麺民地まで拡大され、麩総年1こは南オーストラ琴アも擁わった。
i蹴倒・猴が辞職する欝2年までは、ヴィ外野とタスマニ噸跳銘
誉領事として活躍した。25マークスはオーストラ婆ア槌民地と霞本の間におけ
る窮難外交縫係において重要な役割を果たし、彼が日本へ送った膨大な数の通
信文書は、今でも饗本外務省外交資料館に保管されている。その申の一鄭は
鞄本爆交文書選にも収録され、轟版されている。雄総年代以降のB豪外交史
における彼頒献の講邸、稿微めて謝ることにし・ここで1繭単な紹介
にとどめておきたい。
マークスに関する私的な文書がほとんど残っていないため・彼が簿故8本で
貿易業を営勧と患った鋤・、はっ齢としない。そ倣め・i灘こ及ぶ麟
での難産難間中、綾が霞本や9本人に対しどのような臨象を抱も・ていたかにつ
いての詳纒も不覆である。しかし、彼が日本や欝本人を好んでいたことは懸違
いないように患われる.なぜなら、マークス1湖治政懸こ女礼齢進んでヴィ
クト1タアにおけるB本名誉頼事の任命を講額しており、2§明治政府に宛てた被
の手紙には、彼が繊浜滞産申に雛本人の友人達から受けた多くの窺窮1こ報いる
ためにも、オースト粥アに来る躰人を保護するの墓詣分の義務である・と
遽べている.殊硫欝8脚i月には期励ま志瓢て油ス鰍の木曜島へ
渡り、藏本人溝水夫の労働条件を調室している。鰺マークスは嚢本語をとても
流暢に話すことができ、鰺鱒奪にマークスに会ったある老欝本人は、彼を「大
男で、完璧で丁寧な甕本誌を話すので、まるで縫撚の者のように感じた」と記
憶している。2警また彼は名誉領事に任命される前の総鰺年には、4名の嚢本人
一!7i一
行政社会論集 第鴛巻 第嫁号
水夫の法廷通訳をメルボルンで行っている。麗このような事実からも、マーク
スは貿易嚢として8本との貿易を有孝彗に進めたいという思惑獄.露こ、B本や羅
本人に燧せられたところがあり、当時欧米人にとって最も難しい言語のiつで
あったであろう欝奉語を習籍するまでになったようである。
はっき善とした証鑓はないのだが、鰺§3年鴛月に饗本に渡ってきた元オース
トラ讐ア難民地人であるジョン・レディ・ブラック(」薇登Re6磁ε殻農磁)に
よって書かれた匿ヤング・ジャパン選(yo醗8」硲醗)1こ、マークス兄弟の内
のi人だと患われる男性が登場する。その本の中でブラックは、慮62年にヴィ
クト陰ア纏蔑地のバララットで幾会った欝本から戻ったきたばかむの紳士を鰯
恕している。ブラックは、その紳士によって説明された経本の話を次のように
搭写している。
r彼の考えの董っは、8本のような国や8庫入のような人々はいないという
ことのようであった。彼は封建時代の習慣、大名やその纏家人、人々の素直
な盤質を語った。被は横湊の外轟人居留者が特に注目している、監獄監視の
体翻、ゼ火の番違または夜警、すもう、麟場、茶癌、厳行等、多くの特色を
述べた。」3董
ブラックは、当時8本を訪れるという考えは「月の人間と酵き合うまのと同
じように患われたと述べている。32
ジ葺ン・レディ・ブラック
ゼヤング・ジャパン盤の著者であるJ・駐・ブラックは聡27年にスコットラ
ンドで生まれ、ヨン容ンの有名なパブ1ナック・スクールであるクライスツ・ホ
スピタル(C歴sギs芸麺s輝t雄〉で教育を受けた。卒業後、海軍仕官になったが
すぐに除隊し、懸人で事業を起こそうと南オーストラ辱ア植民地へ移民した。
オーストラサア灘在中に結婚し、長男ヘン彗一・ジェイムズ・ブラック
(登eRryJ&艶書sB璽&縫{)をもうけた。33しかし、彼1ま事業に失舞交し、 i8§3年三2
月に英羅への帰鑓途中、家族と共に横浜にたどり着いた。どうやら彼は帰鑓の
途一とアジア簾行を試みたようで、インド、そして申蟹を経て欝本に到着したの
一貫2一
意一ストラ琴アから8本への訪矯者:鰺§4年から露鱒奪まで(材.と雄一)
だが、その時は「永往者になる考えはなかった≦と運べている。鍵彼は8本を
訪れた遜密を述べてはいないが、1862年にバララットで鐡会った紳士との会話
によって影響されたと患われる。ブラックはその親9諏の紳士を彼にとって
ドヒ一難一のような人麹」とゼヤング・ジャパン蓋の中で述べていることから
も、その影響が推察できよう。蕊ブラックは8本には短顛濃在しかしないつも
りであったが、賑本や饗本人に強く魅了され、一一時中羅に滞在した鱗懸を醜い
て、舞醗年に彼が亡くなるまで9本に住居を構えた。
当携ブラックは、当時遷講で発行されていたゼジャパン・ヘラル磯(諏β醗
E郡α躍)紙の主任編集者の職を撮る.その後、鞍は自分麩身の新藤鮭を露叙
隼に設立し、タ縄紙ζジャパン・ガゼット選(」α芦α箆Gαz就翻)紙を発行した。
後に彼はその新纏縫を売薄し、8本の写真器や記事を常時掲載したゼファー・
イースト薩(舜窪rE{鵜義当褥擁遷で後に月モ1鈴をi8?{}葺詫こ麟廓」した。解このよう
な雑誌は、当鋳新たに麗界に射して聡かれた8本に聞する情報を、英語灘の人々
1こ提供する貴重な椿報源となった。
徳灘幕府が撰幕される以前における、オーストラ撃ア槌裟地における暮本と
8本人とのイメージに関するブラックの影響力は、ほとんど鵯明していないの
が実憐である。しかし、嚢本や欝本人に関する彼の纒人的な爺象が、英語饗で
ある程度広まったと考えるのは妥当であろう。彼の憑人的な繕本に対する海象
は、英語新鹿のゼジャパン・ヘラル確紙や匿ジャパン・ガゼッ瑠(弱治維
新後は謬ファー・イースト遜)紙の記事や鮭議を還して、オーストラ婆アの諸
纏民地でも広まったことであろう。さらに、ブラック褻身もゼヤング・ジャパ
ン遺で認めているように露本における生活に魅了されており、ブラックの記事
は葬電蓄こ親霧的であった。このことを彼もゼヤング・ジャノぐン毒の前書きで認
めて次のように述べている。
寝ヨ本や琶本人毒こ薫圭する私§,警の纒人的な共感は非常に強い・・喜。私は、
多くの人々が私1ま時掻あま瞬こも好意的に述べすぎていると考えることを承
短しているG」灘
一173一
行政鮭会譲葉 第鷲巻 第尊号
また彼は、嚢本や譲本人に端する彼の韓象について次のように表覆している。
軒私自身の経験に絶しては、明らかに鋼外ではなくその反対なのだが、浪人
や、我々を取蓼巻いている危験や、我々に麗わるすべての不愉快な灘来事を
毎響葺にするにも関わらず、私は単純に魅了され、擁を奪われ、人生の外観
はすべてそんなものだと信じることで満足していることを認める。」3§
このζヤング・ジャパン塞は濃ンドン、横旗、ニュー・ヨークで翫版された
が、鱒このようなブラックの英誘出蔽物を遜むて肯定的な欝本のイメージが西
洋に広まり、罎本が勉のアジア諺蟹から区甥されるようになっていったことは
懇豫に難くないであろう。彼はしばしば自身の趨叛物の中で、蓉本人が魑のア
ジア人種よりも優れていることに言及している。鰍えば、ゼファー・イースト誰
麟刊号の鮭議でブラックは、8本人の特徴について霊及し、8本が東洋におい
て捲導的な国になる可能性を以下のよう1こ予見している。
「アジア人の特徴もまた、披らの文明縫様に多様である。ベンガル人(現在
のバングラデッシュ地方の人々)はおとなしく、従纈で、へっ叡・さえする。
マレー人は窪の気が多く、執念深い。中石入は物薄かで、こつこつ饑き、欲
傷ずくである。8本人は機敏で、志しが高く、騎士的である。すべての人種
が程痩の差はあるが勇気を持っている。しかし、インド人が捲導者を必要と
するとき、8本人が導くであろう。中震人は彼らや題がおかれている績態を
改養してくれる科学など量界には存在しないと考える。B本人は彼らがどれ
穫轡界の表舞台に鐵ていなかったかを敏速に理解し、神経質なほど教わるこ
とを望んでいる。学ぶことに賛成する中国人1ま自分総身に関わる事極を習得
するのに熱中するが、一方、壷接的に匿知識をうすうす違知っている段本人
は・束縛を我慢できず、すべてを手に入れることを夢見ている。その結果・
馨本人の特質には多くの魅力があるが、しばしばそうであるが、また多くが
彼らを露難に導いていく。しかし、極東の全人種の中で、段本人ほどに露難
孟こ皺む緩んでいる人種はほとんどいない。涯盤
このゼファー・イースト郎ま、棄京、一1晦、香港で講麹こ発行されており、遵2
−i74一
オーストラ鱗アから馨本への訪問者:鰺騒奪から露鱒奪まで(村上雄一)
このようなブラックによる英語慮版物は、8本を訪れたり段本に興味を持っ
ているオーストラ馨ア纏戻地人にある程度影響を与えたであろう薄能性は否定
できない。
ジ3ン・ヘン》一・ブルック
露総年代に霞本に移った飽の有名なオーストラ婆ア纏民地人にはジ葺ン・ヘ
ン瞬一・ブルック(Jo糠登e獄yBroo藍e〉がいる。彼は鰺3§年イングランド
で生まれ、6無題葎麟工見習として響いた。その後ブルックは『婆ンカンシャ
イヤー・タイムズ湛(窺麗麗輪編re T厩εs)紙の報道記者にな鯵、後年編集長
として経営者にまで鐵穫した。唾3このような彼の職歴が、後の彼の欝本浦在中
において有利に饑くようになる。
i総2奪ブルックはヴィクト嘆ア纏蔑地に移民し、i蕊6年にはウエスト・ジー
ロング(We蕊Gee海盆g〉地区選串の立法議会議員として当選した。硅酸8鑓年ブ
ルックは内競の一員にまでなるが、墨縄3奪に内閣から罷免され、翌奪の選挙で
議霧を失った。隠この選挙の蜘ヒによる絶望感から、ブルックはオーストラ弓
アから去る漢意を置めたようで、璽由はよくわからないが、醤本へ移ることに
したようである。鰺67隼2月2§嚢ブルックはヴィクト蓼ア纏残地からゼボンベ
イ骨盤(君。醗紘勢に乗む込み、まずセイ欝ンに鶴かい、4書そこから欝本への旅
を続け、そこで彼は後の欝7i年にゼジャパン・デイ1ター・ヘラルド遷(諏β醗
∂翻y挽r認め紙の娃主兼編集長になった。4マ霞本における外国人緩留民に臠
する著舞のあるハ霞ルド・S・ウィ摩アムズα簸ro露S.Wi懲&懲s)は、ブ
ルックを「多分温本において専門的な講練を積んだジャーナ婆ストが新鹿投を
経営した最密の入梅であろう」と述べている。4難
ブルックはi8欝奪のイースターの嚢曜蔭に大量の荷物と共に霞本に到着し、
それが当時の横湊緩留民の間で樽になったという。難破はテントまで持参して
きたが、それは8本家羅について数多くの罐を縫いており、B本の家が「紙の
ように薄遍ぎる」時のためだったという。5§ブルックは蕪本に到着壷後からジ
ャーナリストとしての仕事を腿始し、饅本に絶する最褥の諸鐸象を詳纈に書き
一葦5一
行政娃会講集 第盤巻 第護号
留め・それをオーストラ辱アの新縫程に投稿している。その新興娃はメルボル
ンの匿アーガス濃緩で、彼の投稿文は欝欝年8月から緯月にかけ「あるオース
トラ1タア植民地人1こよる日本の韓象韮と題され6囲連載されたσ
マークスやブラック瞬様、ブルックも馨本や弩本人に魅了されたことは明ら
かで、オーストラ鯵アの読者に麟し、詳纏な馨本人の習叢や濃習を公平な癒写
で伝えている。その魅力はとても強く、ブルックは響本人ほど「曝気で快活な
人々」を想繰できないと述べている。また破は、蓉本人は「自然で寛大な礼儀
窪しさ」に溢れてお鯵、それは地のどこにも存在しないとも感じている。5茎
ブルックはまた、露本の品勃や製品に多大な関心を示した。横湊で一番広い
通鯵は「骨董遜り」として難られており、それはこの商癌街に沿って好奇心を
そそる巌々な伝統工芸品を擾う商人がいるからだと運べている。これらの伝統
工芸品には、錫製品、漆塗鯵の島麹、象牙纒工、象畷細工、離甲総工、それに
種々様々な装簸的伝統工芸贔が含まれている。被は馨本とヨーロッパに共通す
る製愚を比べて、霞本製品や芸徳島の方がよりいっそう優れてお鯵、騒本製贔
や芸術品の繊纏さや小奇麗さと耽較するとヨー霞ッパの晶物は「葬常に粗野で
洗練されていない」と強く感じた。§2
ブルックはオーストラ讐アの読者に薄し、8本の人馨が多いことから「英国
製品や産物の有力な毒場である珪ことを強調し、将来の欝本との貿易に大きな
期待が持てると伝えている。53また彼は、騒本人は貿易の繁栄が「国力の本当
の源」であることを習うであろうから、すばらしい機会が「ヨー讐ッパの貿易
商社に繁して闘かれであろう」と予想している。54
露本に絶するブルックの麗心は、馨本の教畜麟度にまで及んでいる。彼は馨
本の教育システムは「急速に改善されっっある途上珪にあり、次のようなこと
を撫実に感じている。
「この生来敏速で知的な人々が、文醗の恵みや歓会改善、そして難つ又のフ
オークと共に、立憲政治や騒疑の諸権科の無点を鐘解するようになるのに多
くの葎惣まかからないであろう。轡
一!?6一
オーストラ竃タアから8輩への訪鶴者二i鰻年から鰺鱒葎まで(啓上雄一〉
経験豊かなジャーナ屡ストのブルックは、B本の独特さやもの珍しさのみな
らず、強力な覆家になるであろう8本の樗来の薄能牲をも濁察している。彼の
ジャーナ琴ストとしての才能が、次に述べるような露本の未来の予言を可能に
させたといえよう。
ゼ膨大な資灘に恵まれ、土壌や気鑑の優れた利点があり、(近隣の発展途上
匡1と相対的に比べて/地理的な地縫を継続して発展しつづけることで、やが
て猛本は蟹際社会の強国になるであろうが、その時私は多分生存していない
であろう。」蕊
i§総年8本は欝露戦争で軍事的な大勝利を達成し、西洋列強によって先進工
業国として認知されるようになるが、それはブルックの死後3奪の趨来事であ
った。しかし、オーストラ撃アの植民地人達は懲§7年にブルックの描写を読ん
だ時、嚢本が将来そのような大蟹になるという彼の予言を鱈じなかったであろ
う。当時の多くのヨー聾ッパ人達は、西洋の支醗力が強大であった懲琶紀末に
アジアのi小国が糧界に影響を及ばすほどの馨家になるなどとは愚墾もしなか
ったに違いない。
ブルックが盆一ストラ婆アの新鹿娃に送った投稿記事の申で、彼が9本を
「エル・ドラード(黄金郷擁と記遽したことが最も読者に影響を与えた。ブル
ックは響本の資源は「疑う.までもなく多く、特に鉱物資源が豊富である」と報
道した。5乳一藻のオーストラ琴ア櫃葺き地人はこのニュース萎こ魅了され、R本に
移ってきた。ウィ婆アムズによれば、18鎗年i月欝欝替のゼジャパン・タイム
ズ・オーヴァーランド・メイル雌紐(」αp麟露縫εsOぴε冠α寵Mαゴ毒が監ア
ルビ捧ン号選(盗泌∫醗)で羅本に到着した多くのオーストラ琴アからの乗客は、
欝本を新たなrエル・ドラード」と癌写したメルボルンの歓一が補惣こ矯
載された投稿記事に誘発されてやって来たことを輻じている。露また」アルビ
オン号選は、185艇罫代のゴーノレド・ラッシュ時1こ、アメ撃力合衆露1のニュー・
ヨーク蛾からヴィクト鱗ア纏民地へ移ってきたヘン婆一(墨髭獄y)、チャール
ズ・ジェイムズ(C簸躍lesJa灘es〉、そしてジョージ(Gεorge〉のホイット
一i77一
行政蛙会議集 第鴛巻 第4号
譲Oyも)三兄弟によって購入され、それに馬事を搭載してきたといわれている・
ヘン婆心・ホイットはフtターマン・コップ(ぎ騰e猛脇Co漉)蛙という駅、馬車
会鮭の遵驚管理者を経て、露60隼擁窮にはヴィクト壁ア麺蔑地の西藻地薮の郵
痩馬車の経営をしていた。1862隼ホイット晃葉はニュー・ジーランドにまで経
営を拡大するが、建§8奪にはニュー・ジーランドでの経営権を売却してい
る。5警オースティン(A麗綴)によれば、彼らが初めて「コップ駅馬華会栓
(Co穂餓6Co.)という会姓名を霞本に導入した窪であろうという。鎗8本で
その会社はrエド・メール」(Ye60凝a灘として横浜・東京縫や絶の地域で
4頭だての馬車を走らせていたといわれている。6墨
よく短られているように、マルコ・ポー費が鴛98年蓉洋に窮めて籔本を「ジ
パング藩(Z華a鷺g㊧またはヂチパング」(C媛夢繊g瞬として紹介したが、彼の
本1が燐めて英議に翻訳されたのは蔦?9隼のことであった。S2『棄方晃懸録懸で破
は、「ジパング」を中石の棄蜷にある大きな島で、そこでは金が「計量できな
いほどの量雌が産出されていると述べている。§3ボーロによれば、騒本人は金
を輸聾しなも、ためにかなりの金を保有しているという。屋根や寝室、広縫や窓
のような8本の宮殿の建築資材はすべて金メッキされ、それは「算当不能なほ
どの富裕さで、それをはじき鐵そうというどんな試みも落じられないような鰻
度を超えるであろう3と表現している。6畦この話が西洋の人々の想像力を掻き
立て、東洋のどこかに伝議の金銀島が存在するという物語を暮紛だした。蔦轡
紀からの大統海時代の幕開けと共に、蓉洋列強はその伝議の島を発見しようと
試み、探検家達を東洋に諏遺した。纏えば欝総年ビスカイノは、欝本の近辺に
その島があるという当時墨騒っていた噂を基に、スペイン馨王からその伝議の
島を探すように命じられている。欝豊年3月彼はメキシコのアカプルコから8
本に向けて串親し、同年6月に浦賀(現在の横須賀)に至1渚した。その時彼は
江戸幕府2代将軍徳瞬秀忠のみならず窃代樗軍徳翅家康にも謁見し、i磁2奪9
趨29まで欝本1こ滞在した。i6翅年9月i銀被は伝説の金銀島を探索するため
に響本を発ったが、成果をあげることなく圭ヵ月ほど羅本近海を漂った。その
一i78一
オーストラ褄アから8本への訪問者1欝縫年から醤鱒奪まで(耕.上雄一)
後議のために船が損傷したために探縷の中止を余儀なくされ、どスカイノはB
本に蔑ってきた。騰
5本では金が豊富に算出するという報告が質種紀頃よむ西洋で増撫していっ
た。欝猛奪ウィサァム・アダムズ(Wi蟻a灘Aδ&搬s)弱はジャワの英国商人宛
に一通の手紙を送っているが、それには霞本には「大量の銀や金」があり、そ
れらと絹やダマスク織鯵、黒こはく織鯵や赤葎の晴れ着、そして鉛と交換でき
ると伝えている。磁霧牽からのアダムズの手紙はサミュエル・パーチャス
(S&搬載ei p敬磁&s)が絡2§年代に戯した著作によって英国人に広く紹介され、
雄溺隼には織6糧紀及び鴛鬘髭の8本帝遷の記録垂という本の中で再びその手
紙が紹介されている。鋸
i6欝年から亙64i年までオランダ東インド会握の霞本商館で饑いていた力資ン
は、欝38隼バタビアの上司よむ鷺本に聴する多くの質題に答えるよう捲示され
た。この質商に対する彼の解答集がi645年オランダ語で懲販され、続いて英語
を含むヨーロッパ諸語でも鐵版された。6駐馨1本の資源に関する質翼に嬉して、
彼は考えられるすべての資源が騒本では入手でき・大量の金や銀・鋸・鈴そし
て鉛が産患されていると述べている。鴇彼の著作1灘総2年に英語に翻訳・量販
されたのを皮切りに、絡63奪、露7i年及びi8蒐奪に再版が発行されている。了i
ドイツ戯身で、長騎の鐵島にあったオランダ東インド会社商館付の医縣とし
てi6弱年から絡麗年にかけて霞本に滞在したケンペルも、彼の睡本誌遜の申
でこの資源の富裕さについて「金はすべての金羅の中で最も豊富にあ鰍B本
帝国齢いくつかの藩において勲趨隷てい召と言及している・了2
ケンペル同様、オランダ東インド会社商館付の薮鯖として葺覧年から菅聡奪
にかけて霞本に滞在したスウェーデン虚勢の医騒ツンベルクも、彼の著作の中
で§本では金銀は一般的な鉱物であると詣擁している。了擁823年掛ら鰺28年ま
でオランダ東インド会被商館に雇われていたドイツ人医騒シーボルトも、霞本
における天然資源について詳しく表記している。また被は・江戸と大阪で大量
の金が通貨として流通している様子を見る機会を持っている。箕
一i?9一
行政被会誌集 第舞遂 第4号
西洋からの訪間者が8本をゼ黄金郷雌と捉えたのには、主な理由が2っある
ように患われる。第11こ、B奉は総量組中壊から約i蟹}年の闘に急速な金銀鉱
山の聡発を進め、大量の金銀を産鐵していたという歴史的事実が挙げられる。
中醗への濤本金の輸串は鴛轡紀から絡獲紀にかけて、生糸や絹毒との交易のた
め持続的に増撫している。絡縫紀後簸からは藏本銀が、絹を縁るために中遜や
朝舞、そしてスペイン支配下のフィリピンやスマトラ等の東南アジア諸蟹1こ霧
け輸懲され,た。ノ1、葉題によれば、i7量紀初頭には約20毒,〔}{矯キβもの銀が毎葺…
嚢本:から輪鐵されていたという。しかし、葺擾紀中頃から埋蔵量が減る一方、
その時代における縫庫の採掘技衛の鰻界から金鐘鉱山業は衰退し始めた。得8
本が金銀を豊富に供給していたというこの伝説的なイメージが、多分、金銀の
輸出を禁止した徳瞬幕府の鎖遜政策によってよむ一縷勝色されたのではないか
と患われる。実際毒こは、i7轡1紀中葉鎌来、8本における金銀の産出量は減少し
始めていたのである。
第2に、懲59年の横渓港の海外貿易開港からi奪の悶に大量の騒本金が西洋
商人によって海外へ運ばれたことが挙げられる。当時、8本匿穴では金が不足
していたため、一分銀が一分金の代わ辱として流通していた。つま鯵・蔭本蟹
内の毒場においては一分銀と爾数の一分余が事実上交換されていたのである。
ブラックの言葉を倦むれば、薪海外では金と銀の穰薄的な懸値が約i対i舅で
あったが、饗本では「横漫の畷港当時、約i対6であった3という。7§その結
果、多くの外国人が銀貨を羅量の一分銀と交換し、その一分銀を羅》て今度は
一分金を不釣合いな無縫で購入した。駿らはその金を中国へ送む、その本来の
儀値で売却、その結果、「たったiヵ月や6遷閣の縫に送金だけで蔦§%以上」
の霧益を生じた。胃そのため徳辮幕府は、海外への金流鐵を食い食めるために、
一分金よりも小さい万延争覇と呼1まれる新しい小判の導入を余儀なくされ
た。職
マルコ・ポー聾の時代から続く「エル・ドラード」としての霞本のイメージ
は、オーストラリア纏民地人の・さの中毒こ生き続け、 さらにi85§年代ヴィクト陰
一鰺§一
オーストラ1タアから8奉への訪問者:亙8騒隼か鑓8鱒葎まで(耕土雄一)
ア麺蔑}趨睾こおけるゴールド・ラッシュが、金色に輝く9本のイメージを増長さ
せたに違いない。そして、オーストラ穿ア櫨長地人の中には、ブルックの投稿
記事を読んだ後、彼らの「オーストラ陰アン・ド茎ターム雌を再び実現させるチ
ャンスであると感じ、新しい「エル・ドラード涯を夢見て8本へ護って来た者
もいたのであった。
難.オーストラ蓼アから欝本への訪問者:茎8銘年から総9G年まで
時代背景
欝67奪鐙月、最後の将軍徳辮慶喜が大政奉還を決擬し、明治政府が徳辮幕府
を継承することになった。新たに設立された政癖は当初、8本雛会の急激な変
革によって蟹向精勢が不安定だったために苦労したが、雛本の西洋乾が止まる
ことはなかった.i8鴨隼代後難までに、明治政府は中央集権化1こよる蟹家の統
一に成功した。明治政癖の下、薮本は稜極的に諸外蟹、特に西洋列強との外交
麗係を拡大し始めたため、欝鐙紀後辛の8豪騰係にも新たな馬面を生み鐵すこ
とになった。簿
馨瀦奪代から鰺鋳年代にかけてニュー・サウス・ウェールズ、ヴィクト畦ア、
そして南オーストラ撃アの各纏民地が反中蟹人移民立法を導入した後、オース
トラ瞬アにおける中国人と臼人入権者の極度の緊張鍵係は収束に向かい始めた。
さらに、その頃ヴィクト直穿アとニュー・サウス・ウェールズ爾植浅地における
金の産鐵蚤が減少したため、欝6?年までに両纏民地政癖とも中蟹火移昆麟銀法
を撤1葵した漣こも関わらず、オーストラ1タアにおける中墨人の入舞は減少を続診
た。き聾87鱗i代中頃まで申蟹人移民の流入は小康状態であったが、クイーンズ
ランド麺民地における金の発見が、再び多くの中震人をオーストラ琴アに引き
寄せることになる。総懸奪代を通じて、オーストラ婆アでは反甲羅人運動が主
要な政治論争のまっとなった.結果的にi8総年、オーストラ琴アのすべての権
民地政鰐が扇じような中石人麟猿及び耀鱗法を鱗足することに瞬意すること1こ
一鰺i一
行政鮭会論集 第捻巻 第遵号
なった。級
この歴史的な背景と後に続く鰺響§隼代の反有魚人移民運動から、多くのオー
ストラ蓼ア史麟究家達は、オーストラリアにお曇る有色人移民への反感の起瀬、
及び、それが白豪主義政策誕生に与えた影響を解隣しようと試みてきた。麗し
かし、申騒人に対する人種偏見の莚こりを除いては、ほとんどの有色人種は醗
究家達によって一駿乾された文賑で掃われてきた。これは、中国人以外の有色
人移民の数が相対的にかなり少なかったこと(舞えば、i8綴隼オーストラリア
にはたった39名の8本人しかいなかった〉、雛及び、注意深く綾証されないまま、
中騒人に対する人種的嫌悪感の起源を纏の有色人種、特に8本人のようなアジ
ア人種に対して適絹してきたからであろう。
オーストラリア史における8本および欝本人のイメージは一般に懲鱒年代の
史料から魯1られ、愛一ストラ言タア史の文練尋こおける霞本の否定的なイメージを
与えてきた。舞えば、ウォーカー(W幽er)とイングルソン(鎗暮ieso鐙は
欝総奪に崖販された本の1章で、次のように記遽している。
εヨー環ッパ人の観点から、8本人の地盤を計り知れないほど低く位置づけ
た人種的ステレオタイプに響本人は苦しんだ一方、それにもかかわらず、披
らの文窮はある非常に鑑識銀のある人々の反響を引き起こした。」鍵
彼らはオーストラ婆アにおいて8本人に対する人種的ステレ方タイプが翼鉢
的にいっ鐡現したかを瞬示していないが、その章全体からは、i8総葎代褥頭か
らある程度の反8本大慈構が存在していたと示験しているように思われる。し
かし、i89騨年以蓉鱗こ、杏定的でステレオタイプ化した中国人のイメージが霞華
人に適醗され、オーストラ喜}アの白人入麺者の大多数によって共有されていた
ということには、必ずしもならないであろう。そうだとすれば、露鴨年代から
18総年代にかけてオーストラサアにおける湯本および響本人のイメージという
ものは、一…体、どのようなものであったのだろうか。B本人は、中麗人のよう
な纏の有色人種と同じであると患われていたのであろうか。そして申蛮人がそ
うであったように、驕本人も欝総奪代オーストラ婆アにおいて一般大衆から蔑
一欝2一
オーストラ婆アから欝本への訪翼者:露髄隼から鰺鱒奪まで(啓上雄一〉
視されていたのであろうか。
この論議で瞬らかにしていくが、結論から先に述べると、鰺総年代後彗三にお
いて庚申国人運動がその獲点に達していた頃でさえも、当時のオーストラ撃多ア
における8本及び讐本人のイメージは、一般的に葬常に好意的なものであった。
この議講は、i89§年代における麩本及び欝本人のイメージ変遷を分析する上に
おいて基礎を成すものでもある。麩本に興殊を抱いたり、訪れたりしたオース
トラリア極蔑地人の数は、懲鴨年代から欝欝年代にかけて増趨を続けた。その
申には、マークスやブラック、そしてブルックと購様に、窃難の8豪関係にお
いて広範な役割を演ずることになる人物もいた。
オーストラ琴ア麺畏地人が8本に更なる関心を両けるようになった理由の1
つには、i86§年にアメ勝方合衆講において大陸横筋鉄連が闘還したこととも麗
擁している。メルボルンのジャーナ琴ストで鰺留年にB本を訪れたジェイムズ・
ヒングストン(J欝es H無客s船扮によれば、英国から琶本への厳行は詫米ア
メ撃力大陸を横籔する大軍洋鉄道の醗遍によってよむ容易になったという。ロ
ンドンから趨発した簾行者は、「最も慰籍でいる海で婚類題かかる蒸気離での
移動」を含む「iむ月の快適な簾行3で霞本に上陸できるという。サンフラン
シスコからは、当時最も大型の蒸気船が毎月延銀本へ喬け趨港しておむ、そ
の結果、オーストラ蓼アへ向かう西洋の入梅者達は、ハワイのホノルルとフ
ィージー経由、またはトレス海躾の垂峯梗覆翼こよる欝本とシンガポール経由のど
ちらかを選ぶことができるようになった。鵠オーストラ琴ア纏民地人の申には、
ヒングストンもそうしたように、8本経宙でオーストラ誉アへたどり着くか、
またはヨーβッパへ戻った者もいたようである。
ウィルトン・ハック
明治窃難にオーストラリアから8本を訪れた有名な人物としては、ウィルト
ン・ハ・ソク(W潅。資狂3改)が挙げられる。彼はi843年にステファン(Ste擁錨〉
・ハ,ソクの息子として生まれた。彼の父はクエーカー教の家系串身で、露3?奪
にイングランドのグ露スター(G重。駿cesもer)から南オーストラリアへ入綾した
一i83一
膏政被会論集 第臆巻 第壕号
先駆けとして地元で敬愛されていた。ウィルトン・ハックは、グ濤スターのク
エーカー教縫である裾父母の下に送られ、チェシァ(c魏s撮艶〉のサンドバッ
チ・グラマー・スクール(S皺曲&改Gra灘灘ar Sむ襲ool〉で教育を受け、続い
てドイツのヘイデルベルク(Re油玉もerg)大学に進んだ。その後、被は溝オー
ストラ婆アのマレー(M撚膿y)綴の湾麟藻の棄にある、ロング・デザート
(Lo貧g Deserも)牧場の父親と合流し、まもなくピナルー(Pi総roo)牧場を引
き纏いだ。しかし、欝§7奪の攣越のため、彼はその牧場の閉鎖を余儀なくされ、
アデレードの学校で絵画の先生になむ、18?§年、バプティスト諏の牧晒、ジョー
ジ・ストーンハウス麟穣騨.(}eo糟e Sto麗擁難e)を父にもつアンナ・ストー
ンハウス(A腿aSto豊嶺。簸se〉と結婚した。結婚後、ハックはバプティスト
諏の敦鰍こな吟、総「勉の人々が試みない分野藩において奉佳の一生を送ること
を漢意し、ヤタラ(Ya盤互譲麟務駈の露人を懇懇するようにな
った。i873年彼は宣教麟として§本へ向かうが、侮故彼が欝本を布教活動の場
として選んだか・理癒は定かではない。シソンズ(銭sso欝)は・欝?3年に日
本がキ蔭スト教薬舗を撤廃したことを可能性のある理由として捲擁してお鯵、
ハックが隅隼日本にたど鯵着いたプ貸テスタント系宣教麟器名の内のi人では
ないかと叢濃している。87クロス(Cross〉によれば、ハックは「8本へ行き、
人々にキ嘆ストの福音を説きなさいという配内から高まる響び声磨を受けたゴ
ために、その決心をしたという。認もしそうであるならば、鐵内から高まる響び
声遜という表現からも明らかなように、ハックは、神からの啓示とされる「内
なる光」に縫うクエーカー教徒のフレンド教会の教義を信陣していた父親や複
父無から多大な影響を受けていたといえよう。鱒後にハックはノーザン・テ婆
ト婆一に露本人移蔑を白塗移民として入纏させようと試みるが、擁難舞豪彊係
における被の影響の詳纈については、ε1本人移民驚題を取り籔う予定の購稿で
改めて講遽する。
ジェイムズ・ヒングストン
昌本を訪れた飽の著名な方一ストラ婆ア植蔑地人1こは、メルボルンの匿アー
一i8珪一
才一ストラ彗アから8本への訪濁音:欝騒年から鰺韓年まで(韓土雄一〉
ガス雲紙に蓉本を含む一連の海外練行記を書き、後にそれをまとめた『オース
トラ弓ア人、海外へ雌(跳ε、4薮r麟観護醜。α6)という一躍の本をi879年に
崖叛した、繭連のジェイムズ・ヒングストンがいる。ヒングストンの生涯につ
いてはあまり知られていないが、ζオーストラリア人、海外へ邊の中で・彼は
霞分嚢身を、25年賜メルボルンで活発に仕事をしてきた「アンダ聾一意ースト
粥ア纏民地超と呼んでも喝。艶ヒュー・マックレー(翫離断敬&φに
よると、ヒングストンは「丈夫で、しき鯵に自己主張をする(入麺)として膏
っ超とも懸、魅878年からメルボルンのゼアーが雌紐の事務醜こ現れ始め・
霞分の記事を売融込もうと試みたが、しばらくの閤は無駄に終わったという。
最終的に路藤電車に臠する記事が認められ、それが紀行作家としての被の経歴
の始ま鯵となった.彼は窪アーガス遜紙上では「J.翼.涯という頭文字を購いて
「蕨の話雌という一連の紀行文を書き、人気を博すようになっていったとい
う。號しかし、紀行作家としてのヒングストンの実鰹の経歴は、彼が蓼アーガ
ス雌紐に経界擁行の紀行文を鰺胃年の祷め頃から送り始め、それがヂ約2年閣
に渡り毎選掲載された涯ことから、少なくともi隼早く始まっているようであ
る。麗さらに、マックレー難身も、ヒングストンのことを箆鷺年代にはすでに
「著名な作家まであったと記述していることからも、蒙連の「鰺78葎から」と
いう時類は誤記の可能性が高い。
ヒングストンはサン・フランシスコから簾行を始めているが、紀行文は響本
から始まっている。欝本を訪れた後、被は中羅、コーチシナ(現在のヴェトナ
ム最南藩地域)、マレーシア、スンダ列島及びジャワへ族を続蓉た。それから
彼は、オーストラ1タアのノーザン・テ1タト1ターからニュー・ジーランドまで1勇
下している。彼の簾行への精熱はそこで終わらず、その後、セイロン、インド、
エジプト、パレスチナ及びシ腰やまで蕨を続けている。§絃オーストラ酵ア人、
海外へぷは当窃全2巻の、1製本として、ロンドンでi879奪に鐵叛された。それ
がオーストラl/アの読者屡にとても好詳で、鰺85年にはメルボルンの出叛社が
第2版を簾醸i懸iで再1叛し、その翌奪には第3叛が癖麟されている。ヒングスト
一!85一
行政社会論集 第鶯拳 第4葺
ン1こよると、その本1こ麗しては好意的な概評しか受けなかったという。あるメ
ルボルンの有力誌は翫判的な文章を載せているが、それは初版が「メルボルン
ではなく、礁ンドンの識版鮭名を表紙に冠している・一。この涯目に値する
作品の功績は、始めから終わりまですべてメルボルンに負っているのである」
というものであった。瓢
ヒングストンは、騒本権薮の観光を試みた、初めてのオーストラ瞬ア櫨渓地
人だったようである。東京、横浜、京擁、大蔽、神戸、そして長麟のような場
所を訪れたが、当時は麗港地より4§キ欝を超えての厳行は許されていなかっ
た。蕊彼は本の中で、携えば、蔭本を「東洋の大英帝羅」と、棄京を「8本の
臼ンドン」と呼ぶなど、B本や8本の薬毒を醒洋諸蟹と結びつけた描写の比喩
を好んで堰いた。解ヒングストンは8本人を薪小構な人種まと表現し、霞本家
屋の玄関を遜るとき披の螺子がいつもぶつかってしまうことの驚きと苛立ちを
速べている。繋彼は繧本人は「非常に魚を食べるのが好きな人々」で、生魚
(つまり麟身)を食べるのがr全く普通」であるが、彼の灘には合わなかった
とも述べている。8本人は「人類で最もきれい好きまという羅象を受けたヒン
グストンは、銭湯が欝本の「至る町にある轡ばか吟でなく、衛生管理につい
ても述べ、次のように主張している。
r5本人は、衛生溝題についても、なんと漣意深いことだろう1一・8本
では汚水潔から悪臭が漂わない。騒本人は、着ているものをいつも洗い、濤
潔さを保つように気を醗っている。涯購
騒本に関する章の最後のページで彼は、馨本人は生来「建直で、信頼でき、
誠実」であり、露本人と交際するということは「天性の紳士の一人と交際する3
ことであると結論づけている。醗
彼が嚢本を訪れた頃には、ゼエル・ドラー肖という9本のイメージはすで
に支醍的ではなく、富は「9本の白人緩留者達の課では、もはや手早く縛るこ
とはできず」、濤本の鉱t麟ま野今に至るまで利益があがっていない」と述べて
いる。蹴そうではあったが、彼は、「端麗な8本の羅風や趣味の良い高級木工
一i86一
オーストラ撃アから譲本への訪問者1雄蕊隼から鰺鱒奪まで(韓、と雄一〉
家具涯のような葬常に多くの魅力的な伝統工芸品があるので、貿易商は8本を
訪れる選曲があるとも信じていた。鵬
ブルック緯様、ヒングストンも8本の伝統工芸贔を賞賛し、製島を夢金麟や
陶器、編や絹での芸備作品珪と表現している。麟当時の窪本製品にしばしば搭
かれた特後的な表象の!っには、富士由のイメージがあった。ヒングストンは
鋳故に富士鐵が8本人の心の中に葬常に入鯵こんでいるかについて、彼がその
巨大な由を目にしたとたん理解することができ、次のように述べている。
「8本人がそれ(富士出)を彼らの特徴的な表象として、漆塗り製品、素鑑、
絵嚢、離職掬、象銀総工、鑛や臨器の壷、そして紋織絹に黙・るのも無理は
ない。雄鶏
ブルック同様に、彼も横浜の「骨董通りまを訪れ、外国からの簾行者は「素
朴な芸徳の驚異」を見つけるであろうと捲擁している。鵬
ブラックやブルック属様、ヒングストンも経本の急激な西洋化を認識してお
り、「鉄道やガス、学校、電懸、兵舎や軍事教練」がヨーヨッパ人技術者の旛
導の下、馨本中に広まっていると述べている。難破はまた、「ヨーロッパの知
識すべてが、始まるとすぐに、この人々によって凄まじい速さで取り入れられ
てきた」と観察している.購しかし、ヒングストンは譲本人が「樗来、芸術的
な労働を実爾的な労働へと方講を変えてしまいゴ、「優利な鞠を生産し・奇想を
凝らした暢を蒼寇する」ことを想像するのは残念であるとし、B本の西洋化を
手放しに歓邊はしなかった。薦被は、弩本の伝統的な芸術品がヨーロッパやア
メ写方では好意的に紹介されているにも間わらず、B本が進めている革新は、
馨本人をしてそれを否定する原獲となるだろうと指摘している。騰また被は、
西洋資本主義が8本人のすばらしい気質に害を与えるのではないかと危撰し、
B本人の気質を次のように表麗している。
「銭もうけが人難の魂を蟹落させ、心を毒し、人聞の本質から騎士道精神や
人生の喜びを奪い去る麟の、旧態蟹然とした漫騨で育った霞本人は天性の紳
士である!」瓢
一圭8マー
行政被会講集 第i2拳 第4号
彼は醤本を人覆が快適に生活できる場駈であると理想匙し、西洋の族人は露
本に行き、警本人を見て、鍵道や相撲、薙刀の試合をしたり、騰狩や狩猟、釣
りに鐵かけることで日本人が主に時離を遍ごしている「楽しい生灘のすべて
を学ぶべきだと勧めている。麗
ヒングストンの本における最も興殊深く重要な{雑面1ま、日本をオーストラ婆
ア麺畏地人に蕨行先として紹介していることだ。つま甑欝本をド極韮棄の覆
としてではなく、ヨー欝ッパからの行き帰参に訪れることができる轡として、
それまで以上にオーストラ1ナア纏餐地人に8本を騨染みのある国としたのであ
る。被は蕨行者が欝本語を難っていればさらにB本線行を楽しめるであろうと
は認識したが、破自身は饗本人の親切や思いやりによって、非常にくつろいだ
気分で自揺を持って馨本で滞在することができた。欝綾は響本での生活や交通
は非常に安く、雛遊が良く、騎や村も多いので、簾をとても楽しいものにして
くれると捲撫している.鵬彼は8塞の風景の美しさにも強く心を動かされ、鰹
えば、神戸から長綺に至る蒸気綴からの瀬戸内海の愚景を次のように搭写して
いる。
「樹木に覆われた丘が皺む弾む、縫地に醗まれた港、そして立振な弩本の仏
寺としっかりした作りの家渥、それが簾行者の目には麟象的な風景をなして
お磐、B本のすべての場漸と全く線様、十分再訪するに髄する。涯懸
茜洋の旅行家達から2総年以一ヒも隠されていた8本の美しさや意外さすべて
を強調しながら、ヒングストンは蓉本を健康や娯楽を享受できる、漫界で最も
優れた場藪のiつとして推薦している。欝縢本に関する最後の章では、医界で
最も旅行先に櫓鯨しい蟹の玉つとして次のように繰り返し強調している。
「欝本は、すべての気候が完壁に最も遍い、健康の覆である。一・スポー
ツ好きや娯楽を求めている人は、1二1本が両方とも請えている毯だと気づくで
あろう。お金を節約したい人も、使いたい人も、羅本では、どちらの望みも
満足できる。」圭灘
彼は、すべての訪簡者が「売気な鶴本人を励まし」、「稜(難本人)と彼の愛
一基88一
オーストラ婆アから饒庫への訪総者:懲54年から欝鱒隼まで(耕.t雄一〉
すべき馨がよく栄えることを類う]であろうと信じた。欝また鞍は、懸本を訪
れる者はr国藝祭鮭会の新しい一一員であるこの蟹に再i諒したい套と希望するばか
静でなく、「友人達も観光に送む鐡したい葺と強く纐うであろうと予想してい
る。鵬
上遽してきたように、ヒングストンも鰹人的に9本や8本人に懸了されたこ
とは購らかであむ、西洋諸国が産業革命の姥まむと資本主義の進展と共に失い
始めた古き畏き生活様式をB本は未だに保持しているとして、邊懇的な馨とし
て賞賛している。さらに彼は、B本の西洋イヒには懐疑的で、西洋の技衡と文化
の導入が欝本人の気質と伝統的芸備に悪影響をもたらすと考えたのであった。
ジ3ン・スタン》一・ジエイムズ
疹オーストラ摩ア人、海外へ醤の補綴が出叛されてから3年後の欝82隼、麗
のメルボルンの著述家が琶本に臠する一連の紀行文を疹アーガス盤紙に連載し
たが、それはヒングストンのものとは全く疑反撃の経本と日本人のイメージを
伝えるものであった。r放浪者涯というペン・ネームでよく知られていた、ジョ
ン・スタン婆一・ジェイムズ(Jo盤箆S訟盛e¥」農驚総〉は、欝珪3年鑓刀懸8に
イングランドのスタッフ愛一ド州(S絵鐸orδs嬢re)ウ云一ルソール(W盛s盆暮
で生まれた。ウ茸一ルソール高校を卒業後、彼は鋳鉄製造藪を瞬有する一家に
蕎ち弁護士であった父ジョセフ・グ彗一ン(Jos9擁Gre艦〉・ジェイムズの下
で実務麟修生として饑き始めた.しかし、父親とは深躍な不仲とな甑彼は欝
ンドンへ上京、そこで数無間新灘社横手にフ瞬一のジャーナ摩ストとして生計
をたてた。彼は都市生活で体調を崩し、静養のためβンドンを…時離れるが、
i8総年ごろ再び欝ンドンにジャーナ婆ストとして戻ってきた。その後、彼はウ
孟一ルソールにi度戻るが、父霧とまた不仲にな鯵、それが原義で鰺?2奪ごろ
アメ葛1力合衆羅へ向け議発する。ニュー・ヨークではジャーナ鯵ストとして生
計を立てることに失致し、ヴァージニア州のプランテーシ欝ン出身の裕福な未
亡人と結婚するが、その結婚生活は長続きしなかった。離婚後、ジェイムズは
オーストラリアに病かい、そこで「放浪者」というペン・ネームでついに成功
一!89一
行政鮭会論集 第捻拳 第4号
することになった。彼の記事はメルボルンの罫アーガス選紙やゼシドニー・モー
ニング・ヘラルド雌紐に掲載された。鰺雛奪ジェイムズは、ゼオーストラ蓼ア
ン考選(湾欝翻α∫諭㍑)に乗離し、申蟹、騒本、英領コ窃ンビア、そして力婆フォ
ルニァヘ9ヵ月覆の長難隷行に墨発した。この長鰯簾行に関する破の手記は
ゼアーガス薩紙に掲載され、それには欝82隼1月から2月にかけての罰猛本か
らの手記淫という題で7懇掲載されたものも含まれていた。懲
ジェイムズが8本を訪れたのはヒングストンからたったの4隼後であったが、
彼の露本紀行文はオーストラ1ヌアの議者に対し、ヒングストンのものと全く正
反対の葎象を与えるものであった。8本人の特徴についてジェイムズは、ゼジ
ャップ」はヂ官職以外涯の管理職につく能力がないと述べている。麗彼は長麟
で中騒人経営者の下で饑いている饗本人労蟻者を見て驚樗し、これは中国人が
人種的に優越している証鎚のiっであると指摘した。鵬
ジェイムズは薮本人芸人を長蟻の麟場や娯楽場で羅撃したが、被によると、
それはあまりにもお糧末で描写できないものであむ、そのような芸を見ている
日本人の観客は「道徳や良識の基準を持っていない窪ようだと感じた。鵬彼の
窪本人に蝿する苛立ちが、披をして次のように公書することを簿らせなかった。
「この島には善悪を簸る木は、明らかに、決して持ちこまれたことがない。
綾らは受動的にそして無騨気に無作法なばかむでなく、進んで、そして、こ
れみよがしに、そうするのである。仏陀の教えは、全く、ほとんど影響して
いない。彼の道徳信条は彼らには高絶すぎ、仏教が廃れている一方で、先橿
を崇拝する神道の信条が人気を集めている。」蕊
ジェイムズは、ある羅の文明の発展奨金をその国がどれだけ茜洋比している
かで覇藪するという確魑たる樫点を有していた。彼の文明論からすると、紅ジ
ャップ」は西洋風のズボンを知らないことから「全くの野蛮人」であ静、彼に
はB本人が養物i枚で歩いているのを見るのは醗え難いことであった.齢さら
に被は、「鵜子やテーブル、洋綴ダンス、ソファー、そしてナイトテーブル」
のような「家具の使絹を鷺らない」ことから、El本人は野蛮人であると分析を
一i鱒一
云一ストラ1タアから欝本への訪問者li8騒隼から鰺弱年まで(韓土雄一〉
続診ている。環
ジェイムズにとって欝本人はあらゆる面において野蛮人であったので、次に
述べるような讐本人の「高度に洗練された趣鶴」を彼は理解できずに轍んだ。
「・・畜彼らが焼物の茶筒から少量の茶をノ卦さな急須に移すとき、轟寺に毒ま竹
で、そして撚福な人々の間では銀でできた、小さく優美な匙が霧疑られ、そ
れは絹の被いにしまわれ、この還的のためだけに使われる。涯鵬
これが、ジェイムズが霞本で発見することができた「唯一の文明化または洗
練された習慣」であった。また彼は、rジャップはメラネシア系とポ讐ネシア
系の部族と繋がむがある珪と信じていると述べ、鵬8本人は「購洋の野蛮人」
とすべての点におも、て鍛ていると結論付毒ナている。麟
彼は、「装甲艦、鉄道、電信、陸軍、警察及び行政事務」の導入を轡界に示
した8本の発展の襲で、この国の実情は野貧乏で荒廃」してお朕その露民は
「野蛮人の趣向及ぴ風習涯を有していると鑑じたのである。畿
ジェイムズの欝本人鍵解が祇会遊佐論に強く影響されていることは瞬らかで
ある。チャールズ・A・プライス(C難鍵iesA.Price)は、オーストラリア嬉
民地人によって「窪色人種雲や「黄色人種憾という露語が使われ始めたのは、
箆鷺年代及び鰺欝年代で、欝5§年代及び鰺鑓奪代には一般に硬われていなかっ
たと繕擁している。麗ジェイムズの記事には夢白色人種」という羅語が次のよ
うに縫われているσ
「上海での多くの事醗とは異なり、白色人種はここ(8本)では活躍してい
ない。・一ここでも白人の麟はすぐれており、機会があれば常に『主人誰
になれるのだ。ゴ路3
緊本や欝本人のイメージに関して、ヒングストンとジェイムズのどちらの簾
行記が欝総年代のオーストラ婆ア槌民地人により強く影響を及ぼしたかを藪定
することは璽難である。しかし、匿オーストラリア人、海外へ遣が欝ンドンで
はなく、メルボルンで2度も再版されたことからも、オーストラ琴アの一般大
衆はジェイムズのものよりもヒングストンの紀行文の方をより好んだものと患
一igi一
膏政社会講集 第競巻 第違舞
われる。ジェイムズの「警本からの手記雌は、ゼアーガス遊紙に掲載されただ
けで、本として鐵版されることがなかったことと比較しても・そのことが推察
できよう。
ジェイムズ・マードック
騒豪関係において大きな役割を果たす寮1の人物も、i8総年代後楽に琶本を訪
れている。その入梅は、全3巻からなる薔日本薙を執筆したジェイムズ・マー
ドック(Ja澱esM灘δo磁〉である。欝56年スコットランドの霞キンカーディ
ン勢1(K搬鍛r磁難$s娠re)フェテレッソ(Fε雛8r総so)でマードックは生まれた
が、綾の家は裕福ではなく、破は登歳頃までほとんど学校教育を受けていなか
った。i34その後、綾の葬瓦な才能が認められ、オールド・アバディーン・グラ
マー・スクール(0謎Aberδ総擁G盗難搬鍵S撫。擁)に送られ、聡75年には奨
学金を受けアバディーン大学に進学している。工8鴇隼に古典で修士号を取得
し、最褥はオックスフォード大学へ進んだが、すぐにドイツのゲッティンゲン
(G6綴簸竃e扮大学に纒入、そこで綾はサンスク婆ット語を習露し、後にパ蔭
のソルボンヌ大学に進んだ。このような学歴から彼は、「ラテンやギ撃シャ文
学の素晴らしい鷺識1まおろか、サンスク菩ナット語にも聡るく、その一方でフラ
ンス語やドイツ藷を十分話したり書いたりできる、最1も聡明な右端の一人」
になった。麟
彼の外蜜語を学びたいという椿熱は後にも続き、露量紀及び貿轡紀の霞本に
来たイエズス会及びドミニコ修道会の蜜教練が残した文書を読むために、スペ
イン譲やポルトガル語を習得することになる。鵬さらに、彼は蓼日本の歴史選
を執筆するため、遍代雛本語ばか鯵でなく、吉典昌泰譲も習得している。被が
嚢本語を真鑓こ学び始めたのは、5暮歳になってからだといわれている。欝
24歳のとき、彼はギ琴シャ藷教授の蟻手としてアバディーン大学に震ってく
る。その後すぐにクイーンズランド植長池に新しく設立されたメ匡ナボ欝一・グ
ラマー・スクール(M灘y船鷺駿g簸Gra鐙懲ar S嶺ool)の教頭として駕§鱒ポ
ンドの給料で饑くよう1こ誘われ、欝8三年7弄郵こオーストラ1タアに到着した。し
一!92一
かストラ狩から蔭本への謙賭1臨轟から魏膨まで縦上雄一)
かし、露85年3月彼は学校を解雇され、その次の2奮闘、ブ》スベン・グラ
マー・スクールで教鞭を取っている。懸その後、稜はその学校を依顯退職し、
ジャーナ蔭ズムの道へと進んだ。この頃までに彼はクイーンズランド槌民地の
労欝運動に強い影響を受けるようになむ、偉大な労働党を緩織しようという大
志を膨らませていった。披は政治教育を促進させようとジャーナ婆ズムに身を
捧げ、ウィリアム・レーン(W濃捻搬L繍e〉やフランシス・アダムズ
伊r鐙。墨sAδa搬s〉のような当時の過嶽なナショナ喜}スト達と共に佳事をする
ようになった。欝欝毅犀の終わ瞬嚢、レーンは過激でナショナ瞬スティックな
雑誌影づラン郵β・罐磁噸薦1締し、マヂック蝦本を謙た際の
手記を含む、多くの記事をその雑誌に鍵供している。
鵬癬婦マづックは、オーストラ貯鶴の帳入ク一声一売買を議
するため、東アジアおよび藁薦アジアへ請け畿発した。香灌と広東での調査を
終えた後、彼は8本へ肉かい、欝そこから置ブーメラン遜へ日本に関する二連
の手記を送っている。彼の紀行文総篇は雄88年雄月i饗から欝89年2月9縫に
かけて掲載されたが、それらは置ブーメラン置のような愚激な書説で反申蟹人
移民を主張する雑誌という性賂から見ると、非鴬に興殊深》ものであった。
マードックによると、鞍が8本を訪れた頃には、麩本妻こ臠する書物毒ますで1こ
数え切れないほどあり、人力車や駕籠、蒙承人の入浴習慣などしばしば描写さ
れ、特働な8本嘱糠講とんどの読者にとってもうすでによく矢弱れても淫
たという。麩本の西洋イとについてマードックは、飽のオーストラ馨アからの訪
縷者講様、「すべての事繕が、彼ら紹本人)がヘブライ人の子孫のようにな
るまで、進歩は続くであろうことを示しているように患われる」と考えてい
る。鐙ヒングストンがそうであったように、マードックも薩洋化された霞とし
ての9本の将来に似たような不安を感じているのが翼殊深い。彼は、冒本が西
洋文明の肯定的な嚢のみならず、否定的な藏も取鯵入れてしまうのではないか
と恐れ、次のように述べている。
「欝本には我々の文瞬の健全な翻分を採購させ、神の鐸名にかけて、El本を
一籌3一
鴛政娃会議集 第稔巻 第尊号
我々の偏見に遍合させたむ、陰やかましい人(西洋)の機嫌をとらさせない
ようにしよう。貴婦人紹本)が家でアングロ・サクソニー(高綴紡毛織物)
で心地よく休めるようにさせ、知的な欝本人が、澱室育ちの上品さや感覚と
糞1の道徳の欝繋こは、決められた広大な溝があるという確信をしっかりと持ち
つづけさせるようにしよう。f聡
被は雛港地で出会った馨本人は、飽の濤本人とは全く異なむ、腐致している
ので嫌っていたが、一般の8本人緑髪親友や仲間のように愉快」であると述べ
ている。幽すべての場藏において、8本の下簿では「多くの素購らしい親密と
慰籍や鯵」があむ、それがマードックをして次のように信じさせることになっ
たα
「一言でいうと、日本人は紳士的な人種一あいまいでありきたむな意陳での
電話である紳士ではない。多くの人々にとっていわゆる『紳士選は、全能の
禅に全く責任がある、最もひどく、途方もない下贔な人物である。しかし、
もしζ紳士誰の意殊が、ある人麹の主要な性格が置上畠雌および匿勇ましさ垂
の産物である、という定義ならば、8本人はまさにぴったりで、さらに数段
上である。」搬
彼はまた次のようにも運べている。
「露本以外に、すべての賠級の人々が揮疲れた蕨行者遜に普通に親燐にして
くれることを蟻待できる蟹を見つけるのは霧難であろう。」主輪
8本人の勉の良い特徴のiつとして彼は・すべての響本人は生まれつきの現
実主義者で、『事鵯や醜い事実をあ離のままに熟擬することを決して恐れない曇
と指摘している。矯
マードックは九州で英語の知識がほとんど全くない縫∼鱒人ほどの8本人の
若者や父親を槻手に英語を教える機会があった。被は麩本人学生が「英蟹教麟
の人生を不幸にさせる悪魔達(学生)とは非常に異なる存在」であることを喜
んだ。癬彼が教えた子供達は平均的なオーストラ琴アの子供達とは等しく異な
っており、無礼や生意気な態度を決してとることがなかった。彼はまた羅本人
一i鱗一
煮一ストラ残アから霞本への訪懸者二醤54隼から鰺鱒奪まで(韓土雄一)
の赤ん坊がほとんど泣かないことに興味を覚え、それが「8本人の子供達がほ
とんど泣くことがなく、決してけんかをしな同軸であると考えた・蜀彼は
8本滞在中、横浜港でたったi度しか暴力を見ていないと記憶している。また、
8本人は幾籟をおこすことはほとんどないことも観察している。このような子
供から大人に至る9本人の観察から、彼は「赤ん紡から総綴代のお隼奇警まで
素賜い味々と離本人のことである」と結論韓ナている避
学者そしてジャーナ琴ストとして、マードックは縫本人及びその椎会の悪い
藏についての批判的な考察も忘れてはいない。携えば、彼は饗本人の自尊心は
籍すべての甥密な謙遜にも関わらず、簿か単縫に途方もないものである雌と捲
織ている.王5死かし、彼は雛ナて、その悪い藤ま不髄ものでは全くなく・
8本にいる外国入訪間者1ことっては「少なくともそれほどのものではない」と
も認めている。難マードックが気づいた欝本性会における欝の問題点は、日本
人女性の低い立場であった。彼は長麟のミッション系の女学校で教えているア
メ撃力人女性教麟達から、「教縣として自立した職業に進もうという若い欝本
人女性の熱望が育ってきている韮こと、及び・「彼女達の教え子の数名はすで
に長鋳の学校で雇われている」ことを教えられた。魏しかし・彼からしてみる
と、これは十分な進歩ではなく、8本人女性の社会的地盤の低さが「この蟹の
社会状態における最も弱い点感であり、「霞本がその事実に気づきそれを改善
するまで膜1偉大嘱に決して栃ないであろ舅縮織ている・’53
マードックは、醤本人は中石人よむも優れていると信じており、疑本の英蟹
馨留民の懸で広く揺じられていたイメージ、「i人の霞本人は5人の中国人に
匹敵する涯を紹介している。難「中国人の身体についていえば、普通の8本人
の2倍の重量である」が、彼は雨覆の懸で戦争が勃発すれば、「戦縫では精神
力は体力の3倍に魅する」ので、露本人は中国人を圧倒するであろうと「本当
に心から」信じていると述べている。鵬
ブラ・ンク同様マードックも、9本に来る前は欝本に永住することを全く考え
ていなかったが、破も嚢本人とその馨に非常に魅せられ、縢本に移り住むこと
一i懸一
行政縫会論集 第捻巻 第4号
に決めた。ブサスベンでの諸事を片付けるとすぐ、鰺89隼に欝本に戻む、騒麟
第一高等学校で西洋史を教える職を欝た。1欝3薙に短谿間8本を離れた以外、
マードック1毅8襲年から鰺§7年まで金沢の響麟第獲姦等学校で英語を教え、後
には高等商業学校(現一橋大学)で経済史を教えている。欝弱年彼は嚢本人女
性の岡霞竹子と結婚したが、その経験から9本人女性は経界で最も好ましいと
も断言している。それから2奪後、マードックは鹿児島の第七高等学校に移鯵、
そこで欝総軍雑本史遷の第i巻を、マ一群ックの元教え子であむ、罎本史の
史料を英譲に翻訳した出縣五十雄の動力の下、完載させた。購王§欝年には鞄
本史違の第2巻を灘叛したが、この時は彼の霞本語の古文議解能力が十分であ
ったために、B本人勝手に頼ることはなかった。欝
欝i7奪披はオーストラリアに戻鯵、キャンベラ郊外のダントルーン
(亙)雛鸞鏡oo簸〉にあった王立陸軍1士窟学校(Roy盆Mi里詫&ryCoi艶εε)及びシド
ニー
蜉wで欝本語を教え、オーストラ穿アにおいて褥の8本語教授になった。
i麗i牢破は癌のため亡くなむ、細本史話の最終誉1灘麗§年に出版された。シ
ソンズによれば、マードックの賠本受遺は「先駆的な書であ甑i弱§年代後
半まで権威ある書であった」という。麗
霞本観光ブーム
鰺総年代後半までに欝本は蕨行先として酸く認識されるようになったようで、
さらに多くのオース卦ラ婆ア纏民地人、特にクイーンズランド槌民地の著名な
人暢達が、B本籤行に行き始めた。飼えば、鰺縛年5月ζブーメラン選は「露
本、地上の楽醸」という晃畿しで記事を載せ、クイーンズランド櫃蔑地の人々
に薄し、お金に見合った休暇を求めているのなら、神戸か横浜行きの乗総券を
選ぶべきだと推薦している・その記事には経本ほど生活がしゃすく懐通な蟹は
縫にないと書かれており、簾行者達を引きつけようと試みている。欝オースト
ラ讐アを擁点とする蒸気毅会娃も醤本を人気蕪行先に押し上げた甥の憂欝であ
った。例えば、鰺総年榮オーストラ陰ア蒸気船会樵(丁擁尉鶲t8灘a擁
A囎tr農ii餓翫膿猛s聾ゆCG鑓矯餓y)は、蒸気船『メンミュア号誰(擁醗澱厩r)
一ig6一
かスト列アか頒本への訪鵬:騰轟から圭8§鋒まで(村上雄一)
によるシドニー発経本行きで、途中クイーンズランド纏農地の諸港、ポート・
ダーウィン、ジャワ、シンガポール及び香港に寄港する観光厳行の広告を申し
ている。躰へ講ζ趨港す磯に、その蒸気麟蝿灯や冷韓を含む当時の最
先端技鯨こよって大震撫敏装されている。惣メンミュア雛はi88薄絹
重継こシドニーを蜷し、3欝後にはブ似ベンに寄港、’6圭そこで少なくとも
霞本へ鶴かう6名の客を乗船させている。魏ポート・ダーウィンで発行されて
い麗ノーザン・テ弊1タ・タイムズ以論難廉男燐む鰐丁漉εs)緻よ
匿メンミュア考選を鶴本観光船選と呼び、休暇簾行を計蔑している人々にとっ
て8本への観光は震い機会になるであろうと述べている。騰
躰を訪れたことのあるクをンズラン噸跳のG・w・軒畔樗
(」破δgeG.W.P麟は、エ887年ブ1以ベンの毎一・ファーム(翼ewF&灘)
に藏本家屋を建設している。麟ポール鵯事の霞本家渥についての詳纏は幾稿に
て皺む上げる予定なので、ここでは雀酪する。悶年には、当時の著名な詩人で
豹急進講であっ罐齢アダムズも、帽及翻本を讃ている・’触が
鰍中石及び麟を簾行先に選んだのかは定かではないが・このアジア旅行の
韓購婚したば翻だったことから、新婚旅行だったのか翻醜い・’§6ま
儒、懲酷核を患っていたこと栃、静養晒だ枕のか梱れ軸評披
は8本に関する数篇の詩を書灘ており、そ栃は雑譲こ掲載され編さらに・
i887年にシドニーで初版が灘され、その後i9驚年までヨンドンで緯度か再版さ
れ巌の詩集騨に諏め軈ている。主呂旋硝名なクイーンズラン噸跳
人で欝欝年に羅本へ向かった人物には、欝簿年から鰺82年没び灘器年と欝93年
嬢駿クイーンズラン噸跳醐を務め潜一マス・マッタイルレイ藤
(s圭r T鼓。盤3s M磁wr&i盛〉がいる。推灘ではあるが、後が8本を訪れたのは
単なる郷覆緬紛ためだけではなく、静養を兼ねていたようである・なぜなら・
彼はi888年賛月に病気を理由に首繕職を辞しているからである。購はっきりと
した証擬はな疑が、アダムズやマッタイルレイスは、iヨ本の気候は健康にとっ
て最も適した場藪のiっだという、ヒングストンの簾行記を読んだか、または、
一i解一
膏政経会論集 第鴛巻 第尋号
噂に闘いていたのではないかと患われる。さらに、マッタイルレイスの8本行
きに関する薄能牲のある購の理由は、クイーンズランド産の羊毛や冷凍肉に端
する沼本市場の授察が考えられる。マッタイルレイス§身牧場を経営しており、
破の弟アンド1ナユー・マッタイルレイス(A簸6rewMcBwr綴織)は、オース
トラ喜ナァで最劔に冷凍内輪鐵を手がけた人物であるからだ。欝
トーマス・フィ二一
クイーンズランド麺民地において著名な商人であったトーマス・フィ二一
(丁勧猛as F磁総y)は、i888年、中国、霞本、アメ》力合衆蟹そしてヨー讐ッ
パを趨遊する漫界線行にブ喜多スベンから蕨発っている。フィニーは鰺37奪アイ
ルランドのゴールウェイ梨(G渓way)トゥアモ(?膿灘〉で生まれた。鰺総
隼彼はダブ撃ンの衣料品唐で働き始め、亙862年に店員仲間のジェイムズ・アイ
ルズ(」&磁es is至es〉と共にブ婆スベンに移ってきた。2年後彼らは衣料品店
を手に入れ、フィニー・アイルズ商会(獲撒ey至s璽εs&Co)を設立し、驚i8総
奪までにロックハンプトン(盆Oc簸a獄脚。箆)やギンピー(Gy盤麟㊧に支繕を
墨し、その翌年にはブ撃スベンに2唐舗目を鐡すようにまでになっていた。麗
フィ二一は、中国と8本を訪れたことで満足したため、末羅やヨーヨッパへ
足を紳ばすことを中止し、i888奪7月i旧、香港からゼガス琴一号蟹G雄編ε)
に乗り、メルボルンに寄った後、ブ婆スベンに戻ってきた。灘その隼の縫目、
彼は匿ブーメラン遜に「8本入と彼らの将来」と題する文章を寄稿した。フィ
二一
烽ワた冒本及び霞本人に感銘を受け・8本を罰すてきな」人々の住む紅素
晴らしい国3と雛写している。彼は中国と8本を訪れたが、両国の人々に対し
全く鑑反支鐘の雛象を持つようになった。フィ二巴一1こよれば、中国は灘本から1ま
黄海を挟んですぐの駈に位置しているのに、中国人は「無愛想で、野卑で、残
酷に見える群集」であるのに端し、冒本人は紅愛すべき人種」としか描写でき
ないと遽べている。彼は醤本人ほど生活を楽しんでいる人々を今まで見たこと
がないとも述べている。そして、中国人と嚢本人の聞の違いは、麟者は変化を
好まないのに対し、後者は「驚くほど瀬応樵がある」点だと観察している。羅
一ig8一
オ_ストデ汀か頒本への調者:i鰻働・らi蹴隼まで縦上錐一)
蕎入として成功していたフィ二一は、麟本人商人の弱点を見遷さず、饗本人
は爵来に女礼て不注創だと季議している。鰍ば・躰人は篤酒毒繭昂
を購入するが、もし筋隈までに支払いができなくても、微笑みながら平静なま
まであるという。これは馨本人の子供つばい盤質から来ているとフィニーは理
露づけている。しかし、このことを除いて蓉本人麟人は「素購らしい謡連中で
あり、金離れがよく、客にはヨーロッパ風の大鏡餐で接待してくれ、瞬餐の後
には、客をオーストラ婆アで流行っているような今風の観灘の醸装で、懸本の
麟融融ていって係るであろうと髄べている評こ鉱う廓象をフィ
ニーが持ったのは、披自身がこのような接待を受けたからであろう。
フィ二一1謡本晒洋イ撫.感銘し、躰磯烈ま畷も素賜しいもののi
つ」になるであろうと結論付蓄ナている。欝破は、賑本に大きな支醗力を持って
も・る綱人達のいくつかの推論を耳にしたが、そ纏よると8本嶽’ずれアメ
1油連合に緩み込まれるであろうという。フィ二一は譲本の将来は盤界におけ
る「最も高度な文勢の工っになることを疑わず、露本はゼもうすでにアジア
で懿徳潰して講練るべき榊!を勝祉っている鐸露した評フィ
ニーと、ヒングストンやマードックのような飽のオーストラ琴ア植民地人達と
の最たる違いは、彼は獲本の西洋化を樗来の8本人にとって否定的ではなく肯
定的な社会変動であると縫えていることである。つまり、彼は白人の知性と優
位が「8本に端して完全で無撫な勝利涯を勝ちとっていることを見て、喜んで
いるのであった。欝
先にも遽べたが、プライスは、「黄色人種」という一般化した人種絹謡が、
主87脚代及びi88簿撫講一ストラ弊纏民地の人々によっ破く使われるよ
うになったと主張している。しかし、今までこの穂で考察してきたように、少
なくとも鰺総無代まで、猴本人は申請人から明確に区懸されており、その結果
嘆色人麹という人種騰を騨・て躰人を表現することはゾー−般的にはさ
れていなかった。鰍えば、申国入がいかに野蛮かを説明する饒にフィニーは中
睡人を「黄色人種雄と縛んでいるが、霧本人には「鶴亀人種涯という購語を編
一i弱一
行政娃会論集 第鷺巻 第達号
いている。欝彼は爾人種のイメージを混濁させないために、段本人を講じ爾語
で描写することに躊籍したのであった。
麗.結
び
鰺54隼からの西洋列強に難ずる8本の醜国は、オーストラ婆アを含む西洋娃
会に、8本に関する情報流鐵を引き起こした。このことはまた、§本や欝本人
に記するオーストラ1タア縫渓地人の縫心を麟激することにもなり、媛らは薮本
への新しい貿易ルートの確立で、巨大な利益が得られるのではないかと鱗待し
たのであった。マークスのような貿易麟達は、商館経営のためオーストラ婆ア
から横謀に危険を冒してまで移ってきた。貿易商ばかりでなく、オーストラ夢
アの飽の墜癌の人々も露本や日本人に興蘇を捲き、永住するつもりが無かった
としても・オーストラ肇アとアジア闘の新しい航蕗を科爾して経本を訪れた。
そのような人々の中には、マークスやブルック、そしてブラックのように、明
治維新講から馨本に移り住んだ者達もおむ、窮期響豪関係におも、て重要で、影
響力のある役割を演むることになった。さらに、ブルックの紀行文が韓激とな
って・「エル・ドラード∫としての伝説的な嚢本のイメージが蘇む、それを信
じたオーストラ琴アの探金者の中には、霞本へ渡った者までいたのであった。
謹戸時代末簸から窮治初期にかけて、経本や蓉本人がどれほどオーストラ1タ
ア纏民地人達を魅了したかを懇豫するだけでも繭激的である。ブラックやブル
ックのような、影響力を持つ人物達が警本や馨本人に魅了され、アジアにおい
て日本が最も強力な蟹になると予書した。すべてのオーストラ婆ア嬉戻地人達
が瞬じ認識を持っていたかは靉靆だが、8豪講の最祷の外交麗係が絵まった頃
には、嚢本人に対するオーストラ1ナアの人種偏見はほとんど無かったというこ
とが言えよう。
また、この1輪読からも明らかになったように、オーストラ壁アにおける一般
的な欝末及び欝本人のイメージは、欝8§年代に激しい反中躍大運i勤があったに
一2総一
オーストラ讐アから譲本への訪簡者:鰺§4隼から鰺鱒隼まで(村上雄一)
も麗わらず、羅年代まで広く肯定的であった。この現象の理由のiつとしては、
総総年代のオーストラ喜}ア麺蔑地人の翼心が、主に中国入に集中していたこと
が挙げられる。その結果、跳蕩オーストラ1タアヘの8本人移民の懸題は、反申
羅人運動の影に隠れてしまった。懸物選曲としては、オーストデ汀への8本
人移艮の数が葬鴬に醸られており、露鱒年代まで大幾穫な集懇でやって来るこ
とがなかったことがあげられる。この点は、i8総年代のヴィクト1ナア及びニ
ュー・サウス・ウェールズの講纏星縫、そして鰺鴨年代及び欝欝年代のクイー
ンズランド纏野地におけるゴールド・ラッシュ時に、大挙オーストラ琴アに移
ってきた中国人とは対称的であった。さらに、瞬治政府の下、西洋化した醒家
として発展する欝本は、愛一ストラ瞬アから8本への訪翼者の多くに好馨象を
与え、そのような訪間者による紀行文がオーストラ琴アの人々に露髄年代以前
まで広く読まれ、受け入れられていたのであった。麟
しかしながら、慈本や欝本人に帰する偏見が欝糧紀末にかけて徐々に多くの
愛一ストラ琴ア槌民地人の心の中に芽生え、露定化されていくことになる。何
故、オーストラ彗アの人々の認識が、欝世紀末にそれほどまでに否定的になっ
ていくのかという臨嚇、i鰯年のかストラ1浮連邦政織こよる白豪主義政
策の国是龍と密接に繋がっていることから、オーストラ撃ア史にとっても重要
な問題の玉っである。この欝欝隼代における醤本や馨本人のイメージに耕する
オーストラ1}アの人々の急激な変遷の考察に入る韓彗に、次羅発表予定の論説で
は、盤鱒奪代議薦の8豪溝蟹の貿易及び文化交流の諸権について考察を行う予
定である。その論説を踏まえることによ辱、賂鱒年代のオーストラ婆アにおけ
る馨本及び臼本人に対する否定的な認識の進展と、それが欝磁零の白豪主義政
策の蟹建艦に与えた影響に関する考察に懸盤が与えられるであろう。
注
i 東京大学史料編纂湧,『大8本古文書一幕末外交麗係文書選(東京=東京大学
患蔽会,鴛箆〉,第5巻麹.麟餅蕊§(以下『大8本古文書選と酪記〉.石井孝,
一2籔一
行敢被会論集 第稔拳 第尊号
院本雛蟹薙(藁ゑ:吉燐弘文館,ig72〉,難.6昏88.
2 r大嚢本書文書遷,第7巻,麹.轄9纏嚢.第騰拳,鐙.薮を鱒3.石弾.麟懇書,
欝.i28−i42.
3 罫大§本吉文書遜,第2§巻,麹.?鍵一8緯.石井,蔚掲書,理、37レ3畿.
壊 この鶴題に麗しては,村11雄一,「オーストラ壁アの移戻立法と馨本の女書痴:
1欝3葎から圭9襲隼まで」,駄一ストラ讐ア醗究紀要露,第22巻(欝§6犀稔月)を
参黙。
5 M段澱簸i簸g C茎a薮{, ノ集 S轟。κ 翫s孟orツ {ゾ ノ茎麓εオrα轟β (盆i盤εwoo(圭, V玉eもor童a:
Pe嬉戯8Goks,revise凝。麟薮e醗油,欝5),聾.i2斜27.
6 WestG簸8&te,y言。蓄{)r諭箆Go錠オR鉱s島ε3 (F圭tzざoy,V玉(}tor圭a:熱望cP蓋ee G里嚢)を}艶
/Pe盤ε虚豊BOo藪s,玉988〉,茎}.8.
7 C蓑εぼies A. Pご墨£e, r為ε σr8(誌 稀偽琵ε Wl厩頭s α陀 む漉髭r 盈εsか言。言∫ひε
盈藏g禰磁め論離擁醗εr魏α翻擁臨確嬬地1836−!888(Ca曲鰹経:
A被str譲ia益饗袋縫。豊緩ぴ盤皇軍ers詫y峯〉re総,197導),登夢.68−69.プライス1こよれば.
反申蟹人感憶は「金の産鐡高がわずかに減少漉し,「白人採鉱者達が新たな発見
が尽きた時に撰き返してこようと考えていた古い採鋭1地で,申馨人が大量の承
を使駕し.水洗鉱遷していることに.白人採鉱者が覇1立った」ことに反癒して
急速紅進展したという (藍ぜ女ま,茎}.68)。
8 Cia癒,σ薪。誌.,夢.M2.ラミング・フラット暴動に饑しては、D.W.Wa翫er,
‘触ot蓋edGO嚢att魏L磁波gFiatR玉。毛s,i86舞一6i’,」傭r認θダ費。躍
擁麗翻誠醗舐s鉛漉厩8確ε鞭,V虚.誌,簸。.6(欝難),踵.雄3遺編を参黙。
g c玉3癒,雌紘
鎗 藤癖隆男,「霞豪主義の神話一オーストラ婆アにおける中蟹火移罠一」,『規擁
としての文化一文姥統合の遍代史話(東京:平瓦嫉,簿鱒〉,登.3齢.
縫 この韓に関するよ吟詳総な譲考は,繭揚書を参照。
i2 Geo鐸rむy B茎&搬ey, 7為ε 乃r趨箆鷺γ 〔ゾ P∫説蕊πcε∫ μo灘 漉醜{魏{}ε 8為痙βε6
擁菖ε善rα轟αも為ぎ8孟σ穆 (Me茎t〉o幾r資{)二S駿難 8⊂}{痩s,ig6§〉,}}茎).i83−i慈4.
i3翫威,夢、2鑓.
欝 翫ゴ.,夢、2ii、
王さ この{隼1こ§§する詳華響は,季重』ヒ雄一,「オーストラ聾アの捕鯨船と響本:ま8き4隼
まで」.ゼ行政縫合論集壌.第簸巻,第違弩(婚§8)を参照。
玉6 Sy4箆εヅMor鷺ε鴛9∫蒸εrα∫ぎ,3 ぎ琶br簸ary i8轟警 (£乏下ε蟹ヲ「と撰警護莚)、
一2§2一
オ_ストラ1淳から譲奉への謙賭:玉緩隼から鵬緯まで磁土簸一)
玉7 ∫む掘.
董8 驚掘.
i§聰泓s(漉至b・騰e〉,i8M&re娯86i似下々9麓sと酪記)・
2§ この手紙の中で函館は‘凝誌。酷磁”と書かれている。
2i湾rg欝,i8M農rc短8敬
22 1む誠.
23」蹴sS漉犠,e盛.,隔Cy伽磁α・μ厩・融(M曲・鏡r艶:CyciG夢a曲
Co.,獅3〉,VG茎.i,夢.289.
2遵」藏読罵磁躍(M曲・疑獄e〉,3導臨yエ§至2.P.C.SS墨SS幡,‘A慧stra玉搬一
蜘襯seRe厩・鍛s二丁簸eF賊P齷齪獅鱒鉄脚銭跳姻登a嚢er・晦t油屋墨
L皇惚ry。ξA駿stra撫,圭§78),費.2.R.盆地s躍‘Aiex8難曲臨r藪sほ蹴一
玉9欝:B娘s搬ess魚袋難 a蟹走 Ja茎)&難es琶 CG豊s撮’,ノ矯就賀漉α箆 」εξ麗s為 E∫就or面厩
&}c就γ,vol.巷,登。.3(i蟹?),登・i22・
器 S圭sso薦,瀬4、S漉褒,o貧厩.,警.2総.譲本外務省,鯨本外交文書薄(鰺?§),
費、25§.榎本からマークス.i3Dεce盤瞭欝7§議麟・らマ}クス・3毒臨y
1885.大縷からマークス,2May鰺8§.日本外務省外交史料館勝蔵 r各醒駐
在留蟹名誉領事任命雑件(メルボルン之部〉第一拳」,鑑e巖敬6泓5登?.
2§Mar藪stot難eG。Ψe獄。ダ・窒Y・藪・蓋蹴a,5A駐9襲st1878,羅辮θδκ醗姻
盈蜘翻心懸,鰹醸α・撫麟編餐aも宝・簸&i騰r鍔・£A簸str曲・
G嬉i75,盤e簸。.6.i.5、{レ7(以下辮GK酸’と酪記).
27臨r麹st。t蓋εM墨醸erξ・でF・re呈露A騒rs,2S鐙te曲eri8?8,飴鼠
28臨r盆st。撫eV重ce羅難室難{。rF。re圭解Af盤玉rs,243ece翻ri蹴転
本外交文書垂(鰺8勢,鐙.娼94儀,a撮24Feも灘ary欝85,前場書(鰺85〉,鐙
5i8−53i.
2§S童sso盤s,・登.cit.,欝.2−3,a撮{・Ot麟e1・
3§諮躍,G搬75,鋤簸。.6.i.蓉、解、1認年明58櫛マークスか粥本数
癖へ送られた手紙に講封されていた新縫記事(馨付不明)を参照。
3i Jo}雛R.B茎ack,罫。琶滝9」αβ{醗,yo勧たα灘窪窪縦∫yε面ゴ箆鷺館r碗翻εoダ魏ε
s臨髭灘醜α羅醜ε厩y♪餓厩囎鵡箆g o∫読ε旋&魏s厩躍53め漉ε
cご08εoダ魏君!8籏膨鹸α9オ&羅αオ疏εβrogr2ss oダ」αP醗磁離9窪Pε船4
G舜膿胸鰐騰饒wY・r麹こB齢,P麟&C・猛襲雛y講織v・至誠
麗,2塁マー8、
一2§3一
蕎政被会論集 第稔巻 第4号
321む鼠,夢.2磐.
33 雰灘絹子,菱」、艮.ブラック」,駐近代文学を葺究叢書遜.第i巻(i§5§隼i月),夢.
捻§.ヘン讐一・ジェイムズ・ブラックは,後に石井ブラックとして人気落語家
になった。
3窪醗&c藪,o麩厩.,夢.2蓬9.
35羅鼠,夢.2壕7.
3暮 写真はその雑誌に糊付けされ.ていた。
37 赤羽,麟懇書,欝.捻7護3鼠駈三男,褻ジョン・レディー・ブラックとゼファー・
イースト虜,丁数猛1贋R E擁8ア(復刻版,東票:雄綬堂書痴,雄蕊〉,vo蓋.7,欝.
専一ii.正{ar麗S.W重蚤繊s,‘丁驚。盆e漁虚段瞬eA膿r寂至重麟so{0雑Y磯曲琶磁a},
跣2でr醗8α癬醗so∫醜ε盈s∫鏡面So痂麹摩露β磁,サ。至、3,登。.玉2①e総獄漉r
i蟹§〉,登、52.
38B茎ack,σ罫。誌.,夢.穣.
3§翫鳳,欝.2逢9.
鵜 赤羽,麟掲書,嚢.焉8.
壕i ヂαr Eαs孟,3{》駕至&y ま8’7(》,vo至.亙,登。.亙,茎》、i、
縷2青羽,藩掲書,夢.15i.
垂3Lε翻εr(M曲G鍵盤e〉,6Se舞曲eri8容2.
襲 1む証.
蕊Do鞍9董as簸ε,ge漁e6.,み臨r薩醗D雌。磁轡。ゾ蔑09ヂα擁y(C&癒。難,
V1cも。疑盆:Me至も。殺r登eU錘veぎs詫yPress,工弱≦}),翠。茎.3,茎).2蓬5(以下孟∂8と酪
記).K鑪盤ε綴丁輪灘s倉難a寵Geo鐸rey8e薮e,護蔑09蔵β鏡掘ε爾ε9言就εr〔ゾ漉ε
彰ぎ{鷺。掩α冴P窪ヂ麗α醗ε建言185ターン夢θθ(Ca簸藝εrra:A破s毛ra蓋a簸翼&毛玉。簸a玉U鼓舞grs詫y
Press,ig72),茎}茎}.23−24.
鶉湿〉2(i§鋤,voi.3,夢.2蕊.
む権r8臨,欝OctGもεri87ia蕪」α郡論究醜εs,iiJ鋤鍬r¥i鱒2.
蓬8 Raro選 S.W蠢蠢a膿S,Tαオε8〔ゾ孟轟εβ0鍔ε∫9総3εオ認ε醜ε㍑むSε鑓♂α茎}μ簿 (To髭yα
C簸ar艶s奮、孚琶宅tiεCoτ盃萎)&盗y,igξ迅〉,茎).i§3.
畦{妻 遵rg狂s,22 A嚢塞r駿st i867.Wi玉茎圭a溢s, 謎}ゴ{え,茎》.i62.
5§ W灘a憩s,め認.
5i歯g麓s,280£tG瞭i867.
52驚鼠,22A琶解sも圭8馨7.
一2縫一
オーストラ嘆アから8本への訪問者:難縫奪から欝鱒年まで(村上雄一〉
昌3 鐡風,i§s鍾te艶麗でi8§?.
騒 /腕4.
55 驚鼠,28()ctoもer i86?.
56 泌羅、,欝Se郵e艶艶r i欝気
解 ∫む躍、
58 W簸農鶏s,o夢.厩.,夢ユ認
5§ 登.睡.Loマe壷至£翻癒,(滋Co¢論魏g Pαys腕 〔)書蕊go α寵8偲波蝕寵
(C短st伽醜,NewZ葛a融6:Lo瞳一S磁i塩&Ve醗er,i§3i〉,賂2レ2翫
6春 K.A.A軽st搬,ア為ε.翫gノ誌s oチσo∼治 α箆{∫ Co.(A(量8夏滋{豊e:R塗麦堰 L量難i艶{乳
鰯?),β.93、
磁 W数段鶴,o愛.ε鼠,夢.i5§.
62愛宕松男,「解説雄,ぷ一礁(愛宕松男譲),ゼ東方見欝録邊(東京:平凡祇,
餅§),嘘、i,舜52a磁聾.3詩356.近東醗究煮の申にはマルコ・ポー窪
の串蟹練行を疑問擬する声もあるが、披の著作が西洋において多大な影響を及
ぼしたという歴史的事実に変わ馨はないであろう。Fr繊。εs Woo6,Z)認Mαrco
P麗。 go書。 o編綴9(Lo雛。益:s¢ek礫&Wa痴蟹g,簿§5)を参照。
63 灘arCO峯〉0至0,tぎa簸S熱te(豊玉)y 鷺ORa聖{墨L駁t}玉a盈, 7為ε アr畠群ε」8 (ゾMαア℃o P()∫O
(Lo無量。貧: Pe豊9t工雛 建oo肇{s,i§i}8〉,玉}茎}.2i5−2i裁
縫 驚鼠,登、2絡.
65ビスカイノ(韓土直次郎譲).rビスカイノ金銀島探後報錘(東京:雄松堂,
欝66〉,夢.貿i a撮瀞ほ聡477.
6§ 鶏麗年に譲本に遷り着いた最鱗の英蟹人で,後に徳鱗家康に仕えている。
67 A盤鶏s to葱s膿鐘鼓ow簸£rie難(玉s a総co糠醜ry鵬繊1益」段聡,22 0cto稔貿
i§隻i,茎}r搬もe睦 塾 S&驚慧ε玉P雛rci量as,E{漉戯y青黴s Po舗為膨雛箆s o即P雄℃尭琶ε孟{麺
P認gr翻εsゴCo漉鰐漉詫9α瓶s雄y o∫饒2膨or羅魏sεα驚γα9εsα寵しα綴ε
Trαびε詑8 ∼増 E鋤9轟8為羅ε建 &箆ゴ oε義ε若s (糞rst 茎}r垂te{量 語 Lo蝋圭。駄 i62臥
r曜賊e嶺簸G聖as客。w:」寂難es厳ac跳osea蕪S。登s,i鰯〉,vol誰,夢・338・
68‘L8ttersoぞw懸鐵A6a驚sほ益丁簸。灘s灘認a薮,e6、,競灘総裏s駐μたε
E醜声羅 oダ」αβα艦 凝 漉ε X雛α詫4 X鞍}cε漉群言εs (翼ew Yo蜜: 髭rst
帥至重s舞8曲yt塾e議勲yもS・cま吻,i8§§,re麟Rte薦y8雛Fra盆豊嵐獅?λ
脚.i乳85.
6§ 幸羅綾友,「フランソワ・力讐ンの生涯」.力露ン(幸醗威友訳),慶大欝本玉
一2§5一
行政被会論集 第捻拳 第4号
遜志邊(東京:平凡蛙.ig7i),登、き9&雛夢.6魂.
簿力四ン,繭撮書,夢、1職
質 幸霊.蔚掲書,麹.8鞍83.
72翫竃e至瞭もK良e脚蚕er,tra登S玉翫e麟yよK.SC醗C簸zer,E醜0群0チ轟β醗
(or圭琶童鷺&雛y 茎}ri簸もe{董 圭登 Lo灘{至。論, re夢r墨簸te{翌 玉藍 Kyoto, 京躯 :S簸重賞む慧簸〔墨6
S簸ote簸,進文堂書鷹,欝29〉,夢.欝?.
73 ッンベルグ(出懸珠樹訳),ゼッンベルグ鉱毒紀行曝(東京:雄松堂,欝欝),嚢.
332.
騒 シーボルト(巽秀三訳),ぎシーボルト籔本交通翼易史露(東京:雄松堂,欝66〉,
登.3i2.
箆 小葉鐙淳,r鉱山の歴史還(東京:至文堂,雄蕊〉,麹、騒略3a磁魏.欝3耀旙.
% B至&ck,o露ε認.,夢、33、
771ゐ鼠,登、36.
78 小葉蟹淳,『饗本の貨瞥書(東票:至文堂.欝弱〉,欝.鋳3ぞ縫.
鴇 明治維新については,弊上清,『瞬治維新善(棄京:中央公講獄,欝?4)を参
.照。
8§登ricε,⑲厩.,聾.i25一工27.
8i∫麗.,嚢.ig容.
82 舞えば,A.?.Yaywoo6,遼8謡鷺鍛磐rα翻。㍑め護麗ε確轟綴男舞εβα漉g灘琶縦∫
εo£κc藏sめ飛 18タ6−!霧23 (Par盆v議8,V玉ctor童a:Me賛)o疑蓄捻e U数量vers誌y Press,
i§64)l Pr量ce,〔)鯵 c詑.;A.厳農rks,汐eαr α鷺ゴ厚就rε訟P葛麺か∫窪9孟蕊就rα麗α総
畠鷺6 εα∫4≧}芦詫言窃 185{ンー19θ! (Sy(玉籤ey: }至a玉8 &註{墨 irε灘。資ger, 1979);K農盤鷺y簸
C驚簸搬,(〕麗醗翻σ醗s誠漉sゴεた魏2sε魏Eαr魯彰醜or諭((〕鍵至to簸,Vlctoria:
麓e海。駁知識む覧海量vers詫y Press,ig82);C.K琶羅最碑ay,梶W「短te A逗str段矩ざ一Row
Po叢t量。目玉 Rea墾ty もee&難ε 餐at重。貧a璽 恥望y盤ず, 鳥総就rα蕊α箆 ㊤肱α嬬εr砂, 亨。圭2§
(」繊e獅3);B、C、薩a糞s峯玉e懇,讐地Or玉竃雛soヂW短籍A慧stra蓋置a”,必認.,聖oL
2§,(D8ce麟er獅4);K.M.Dal玉as,‘難eOギ慰主筋so£W擁8A琶s繊玉童a”,
ゴ翫感,¥o至.27 (M&rc蓋 i§55〉1翼.B、醤a圭r簸,‘A S嚢rvey oξt蓋8琵量story oぐ t盤ε
W醸eA簸stra茎iaPo至重cyi簸t盤e欝嶺Ce撫rゾ,ε翻,戯.28(Se費te紬εr
欝56)を参照。
83 W.V段難事)茎ε輝,e{圭.,ノ髪冠舘r{Σ麗窪穐s∫E雄ε{}rぎ(鶏∼ 8ε(誌お認cs (黎r〔)盆6way,NSW「:
Fa圭r蝕x,Sy驚e&We玉{圭α}A$soc塗t琶s,1987),塗、9.
一2総一
オーストラ彗アから嚢本への訪簡者1鰺騒葎から欝弱年まで(縁上雄一)
8逢 更)即羅 W温麺r 段登善 JG鼓R 麺91玉eso簸,曙鼓e 至難茎}3ct oぞAs童ざ,i鼓 翼劔濃e
Mea鰐,eδ.,び漉r駕曲面蹴ε二C臨膨r齪襯ε醜s魏α寵醜ε難燃9
・μ臨ヂαぬ(碧膿麓曲。灘8澄磁e飆飆蝕甑i・継A臨漉a鴻鋤,夢・
3暮む.
8§ 1毒鼠,嚢、i.
麗擁ぬ魏魏r(離e璽3iδe〉,2臨rc難欝23a蕪湿沼(欝?2〉,voL違,β.3i3
8?P.C.S.Sls鐡s,‘Ja欝ese塗旗e臨rt簸er難Te℃ritoryi8讐獅2’,8磁為
擁臨顧α雌,vo圭.i6,簸。.i(漉油19?7〉,欝欝.
総 」.Cross,‘W濫。簸9a盈鍛虚J即a簸ese玉懸驚igrra七沁糞垂も。 Nor撫A{ist鍛墨iざ,
Pr㏄磁箆ぎ8・∫拗動郵Gε・9灘擁翻s・ご鱒・ノ擁蕊ε翻鼠s・紬
A駿s毛ra璽ia豊露ra嚢磁,vo茎、6i①登ce灘漉ぎ欝6暮〉,琵56.
89 フレンざ協会に臠しては,登OW蝕δ登.B薮賊0豊,Fr細編S和r3δ8yεαr&野鳥ε
鳩雄y磁4醒好摩畿εSo漉麹。ダFr∫ε寵s8魏εe Gεσrg8Foκ8雄鹿4飽
触読εr翻σひε羅ε魏(Pe猛sy豊va瞬農:P膿6至e}{濃蔓簸a裟e癒ae執ig蕊〉を参照。
確たる誕槌はないが,英語圏の蟹々で流れていた響本や騒本人に臠する椿報が,
ハックの渋蘇に影響を与えた可能性がある。饑えば,鰺58奪エルギン騨(Lo雌
鷺聯〉旋簾毯と共1講本を訪れた英覆海軍シェラード・オズボーン艦長
(Ca玉}ta短S蓋鍵arδOsもor嚢〉1ま匿名で‘ACr綴se塗Ja茎〉a簸eseW就ers’という
タイトルで手記をロンドンのゼブラックウッズ・マガジン講(β蝕漉膨oo♂S
瀬窃gα∼魏ε)に欝§8年からi859年にかけて連叢した。総総年にはそれをまとめて
玉購の本を凄叛し,欝65奪にはその酸訂版を鐵叛している。その庫の申で緩は
以下のよう1こ翫正しているG
「衣装の地練な藍獲いや様式に関して震えば,騒本人男雛は東洋のクエーカー
教縫と言えるかもしれない。そして,けばけばしく荘厳な中醗人上綴官吏と,
高貴な馨本人役人のシンプルだが整った装束のコントラストは,とても衝撃
的であった。」
オズボーンはクエーカー教縫のシンプルな生活様式と比較することによって,
灘本人の衣装に繋する趣味のよさを描写しようと試みているのであるが,藝洋
の書勃や雑誌等で馨本のシンプルな生活様式が紹介されることで,その読者の
申にはオズボーン嚢様に露本人とクエ一方一教縫との闘に類鍛姓を晃撫す者が
いたかもしれない。 S蓋eゼ&r(重()s藝or糞,ノ雀 (ン漉s2魏Jl‘z鐸第鷺εsε 揮αεεrs
髄癬rg蓋癬L・豊醜:Wi玉li蹴B融冊・6a蕪S・鍛s,騨e麟磯i8繊
一
2解
一
行政蛙会譲葉 第鴛巻 第4号
登.嬉2.
鱒3騰es脹曙sto難,跳ε離S灘」繊髄磁4(Me董も0簑r箆e:W難磁1豊客星圭sa麟
¢・識量r護磁・糞」88§〉・瞬
9i R盤9鼓 勤至cCr段e,梅 Fα孟為εr, 膨鷺冨 め F‘麗掩2〆s ぎr∫ε泥ぎs (Sy{董狼ey: A簸塞慧s
錘達Roもerもso難,エ935〉,嚢.78.
92 1翫4.
93銭搬琶sto簸,oβ、厩.
§4 飴躍.
9§鐡4、,夢、樋.
9§ ゼ大匙本吉文書雲,第器巻,麹.謄3−7製.
§7脹鼓琴s織,oβ.ε詑.,警、3.
98 ∫む詫言.,∫}.淫4、
9§翫6、,欝.5?.
購翫ぜ.,費、§7.
漿∫麗.,夢.8容.
i彗21耀.,夢.3.
鶴1む羅.,夢.89.
漿 ∫む凝.
圭鶉翫ゴ.,登.2逢.
至総∫旛.,夢.6?.
禦1耀.,夢.7.
鎚1魏.,欝.55.
i欝∫耀.,登.68.
i欝 ∫乏躍{∫.
i至重 1∼だぜ.
麗乃認.
鴛翫ゴ.,欝、82.
墨∫麗.,登.5.
腿1擢.,費.84.
懸1旛.,登.§.
瞬1耀.,倉.79.
難翫6、,β.9i.
一2認一
オーストラ婆アから藤本への訪露者1鰺議隼から雄鱒年まで(縫上雄一)
難飯鼠,夢.88.
i2馨販拡,夢.89.
玉2至 M童。簸ae玉Ca盗難G籔,窪簸tro{盤ict沁ゴ1豊Jo蓋益Sta欝墨ey J&犠琶s (塾護量{溢呂e翌Ca登貧。葺,
eの,丁轟ε癒紳鰯P卿rs(C段r玉醜,V圭ct。鍛:Me蔓b。灘ε掘窄e蓄s圭ty
Press,欝容9〉,翼)、i畦i.
茎2套
盃rg務8,1逢 Ja簸慧縦ry i8暮2.
∫む認.
購
1置}説孟,2i Fe毫}ぎ駿ary i882.
瞳
乃認.
鱗
1翫菰,28」段登寝袋ぎy i8書意、
欝
1蟹
藷凝、
乃掘.
鵬
1鱒
観菰,2i Ja魏盆ry i882.
畿}
飴雄.
1醜敏,28 」&簸登ary i882.
叢
Pr量ce,o芦。詑.,茎).25{}.
i麗
圭墾
湾rg㍑8, 1塵」登貧農&ry 玉8暮2.
潔)β(ig86),憾.臆,登.6懲.
麟
」αβ魏wε翻y C為r傭漉,亙7論vε励εr麗i,群7縫(以下」影。と酪記〉.
至3§
この新濁のマードックに麗する謎鞍記事は、擁E醜ory砂」碑磁,鴨L3
(Lo登40鑑K曙鍛Pa虚膿6τ臓雛er,ig26)に収録されている○
懸JWC,i7}ξo翠e紬erig2玉.
禦 能美チヤ子・松奉美穂子,「J、マードック」,ゼ近代文学醗究叢書講.vo翌.2§
(欝63),麹.9i−92.
麗 シソンズは,マードックは鞭多分彼の無神論や結婚生活の醗壊が礎密で)蓬
事達の不評を買った」のでないかと推濾している。擁Z)君(i{逮§),亨。翌.韓,登.6緯
を参照。
i欝
1δ鼠a綴」響ε,i7Nove曲εri§2i.
欝
JWC,i7}ξove紬eri§2i.
雄
βeo鞭r醜9,i5Pecε麟εri8総
1醜4.,ig J農強殺駐ry i88§,
匿
∫む紹.,i5De艶灘碁er i888.
灘
一2総一
行政社会論集 第鍛巻 第4号
撰鴎懸橋露醗懸簸難麟麟鸚鵡
泌掘.
翫緻,29互)琶。臓もer1総8.
翫6.,i5D登ce紬eri88書.
1老癈ま,§ぎe篭}貰鍛ry 鰺愚甑
1醜6.
/む認.
∫老麺{致, i5 £}ec∈}難髪}er i888、
羅躍.
莇躍.
藷躍.
1む凝.
1む認.
能美・松本,鋳掲書,聾.舗尋董.マードックの疑本人学生への教資濾蕩く評
懸され、灘本政瘍は彼の奉職に嬉し叙勲を申し入れた。しかしマードックは、
;欝名になったり社会で活発に活動している元教え子達によって、もうすでに十
分名誉を与えられていると感じ、その叙勲を諺退した。マードックの最も有名
な元教え子には憂欝激石が挙げられる。嶽石が文藻省からの博士号授与を舞退
したとき、マードックはその元教え子に手緩を送電)、鞍のヂ精檸的な気骨豊を
称えたという。能美・訟本,蔚揚書.,夢.欝5及びS藏嘘。 M蕊s抵雲欝t aH透
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略記)、
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と略記〉.
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一2欝一
オーストラ琴アから露末への訪羅者1懲駿年から鰺鱒奪まで(種土雄一)
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霞 アダムズがオーストラ琴アへ移盤したのは、医者がそこで病気療養をするよ
う勧めたからであった。護Z選(欝欝),亨。至、3,夢.欝を参照。
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欝 ∫翫6.
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購 この頃の英米における欝本及び饗本人のイメージだが、東灘によれば、英麟
ではすでにi85§寧歳に目本や馨本人専こ女鐘する肯’定的イメージがほぼ謎揃醍\i86{き
奪代にはそれが一段と強められ、絵本は清潔な人々の住む美しい霞であむ、藪
洋文瞬の受容能力も傷い一。露本の文醗はアジアのなかで最高度の発達を示し、
飽のアジア諸蟹よ鯵も明るい未来を補叢されている。」と思われていたという。
しかし、i8簿奪代から鍛鱒奪代補頭にかけては、否定的なイメージとしての
「薄か驚くべきことをやってのける」という日本縁が登場する一方、その反動と
して「きわめて高獲:な古い文明を持つ露」というような書窓的なイメージが強
調されることがあったという.そして、i8§4年からi895年にかけての鞍濤戦争
における日本の勝報を境に、「子礁じみた蟹というイメージ、ゼ人形の家の文窮壌
というイメージを艀酸し、アジアにおける大羅というイメージを、そして一九
臓紀3一瞬ッパのジェンダー・イデオ欝ギーからすれば恐らく叢も好意的な
r男雛i的醒家轟というイメージをさえ生み鐵させることにもなった。」 と分権し
ている(棄霧雅導,罫大英肇霞のアジア・イメージ雲,京躯:ミネルヴァ書麗,
一2ii一
行政祇会論集 第捻巻 第尋号
欝§6,翼}.22i−222〉。また、粂井は,鰺掌§奪にアメ嘆力で墨飯された褥等地葺墾教
科書を弓1駕し、「罎本億、甲羅よむも、いやアジアのなかでもっとも文瞬的な羅
家と記述された。」と遽べているが、一方で、その好意的なイメージは、「欝本
の文瞬そのものが評懸されたのではなく、騒本が、アジアにあって、西洋に近
づこうと努力している姿勢が好感されたに遍ぎない。」と分観している(粂井輝
子,ゼ外蟹人をめぐる縫合史一近代アメ勝方と旺3本一盞, 東京:難山窪嵐 欝9臥
1翼).S3−5遵)。
一2i2一
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