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北太平洋のなかの近世日本
シリーズ・世界史のなかの日本史 北太平洋のなかの近世日本 大阪観光大学国際交流学部専任講師 後藤敦史 本州最南端の町、串本町(和歌山県)の紀伊大 とその同伴船グレイス号であった。実はこれらの 島には、トルコ記念館が建てられている。1890年、 船は、アメリカ独立後、同国の国旗を掲げて日本 オスマン帝国軍艦エルトゥールル号が同島の前に に来航した初めてのアメリカ船といわれており、 広がる熊野灘で座礁・遭難、地元住民たちが救助 日米関係の端緒を示すものとして、日米修好記念 にあたるという事件が起こった。トルコ記念館は、 館が建てられたのである。 この事件を契機とした日本とトルコの友好関係を しかし、レディ・ワシントン号の来航は、単な 記念した建物である。 る日米関係史というわく組みだけではなく、 「世 一方、紀伊大島には、日米修好記念館という建 界史のなかの日本史」に連なる、より広い視点か 物もある。しかし、トルコ記念館に比べるとあま らとらえたほうがいいであろう。この事件は、日 り有名ではない。そもそも、なぜ日米関係に関す 本の歴史が北太平洋という空間の歴史のなかに明 る記念館が串本町に存在するのか、ということも 確に位置づけられていたことを示す一つの事件で あまり知られてはいないようである。 もあった。以下においては、18世紀後半から19世 この日米修好記念館は、以下の事件に由来して 紀中葉までの約1世紀にわたる北太平洋の歴史の いる。1791年、紀伊大島の樫野の海岸に、2隻の 展開過程をたどり、そのなかで、同時期の近世日 外国船が来航した。紀州藩の役人たちが到着する 本がどのような位置づけにあったのか、という点 ころには姿を消していたが、外国船が残していっ についてラフスケッチを試みたい。 た文書によると、これらの船は「花其載」という 1 北太平洋と毛皮交易 ところから来た船であるという。 「花其載」とは、 ボストンのことである。樫野に来航した外国船の 「第2の大航海時代」ともいわれる18世紀は、 正体とは、アメリカの商船レディ・ワシントン号 西洋諸国にとって太平洋探検の時代であった。な かでも、ロシアが派遣したベーリングの探検隊や、 フランスのラ=ペルーズ、イギリスのクックたち による太平洋探検が有名であろう。 これらの探検隊が「発見」したモノのなかで、 北太平洋の歴史に最も大きな影響を与えたのは、 ラッコの毛皮である。西洋諸国は、このラッコの 毛皮が清朝において高く売れることを知るにい たった。もちろん北東アジアでは、西洋諸国の参 入以前からラッコの毛皮は貴重な商品であったが、 その存在が西洋諸国にも知れわたったことで、北 太平洋には西洋(独立後のアメリカも)の多くの 毛皮交易船が集まり、競合するようになった。 レディ・ワシントン号が来航した樫野の海岸(筆者撮影) 日本史では、18世紀後半から外国船の接近・来 −2− 航が増加し、それが徳川幕府の対外的な危機意識 展していった。1830年代には、世界の捕鯨業に占 を高め、海防強化につながった、ということがい めるアメリカの割合は約60パーセントにものぼっ われる。この時期に接近・来航するようになった たという。 外国船とは、北太平洋でラッコを中心とする毛皮 捕鯨業がさかんになるにつれて、当然クジラの 獣を捕獲し、清朝での一攫千金をめざした毛皮交 頭数も減少していった。そのため、南太平洋で始 易船であった。最初に述べたレディ・ワシントン まった太平洋での捕鯨活動は、クジラの減少にと 号も、毛皮交易船である。 もなって漁場を北へ北へと移していった。そして、 同時期に日本との通商を求めて来日した外国使 日本列島近海でマッコウクジラがたくさんとれる、 節としては、ロシア使節のラクスマンとレザノフ ということが1810年代末に「発見」されると、こ が有名である。もちろん、ロシア使節である彼ら の「ジャパン・グラウンド」に多くの捕鯨船が集 が乗ってきた船は毛皮交易船ではないが、ロシア まってくることとなった。 の対日政策の背景には、毛皮交易が密接にかか それに伴って、外国の捕鯨船が日本に接近し、 わっていた。内陸のキャフタでのみ清朝との交易 あるいは船員が上陸するという事件も増加し、そ を認められていたロシアは、広東貿易に参入した れがまた徳川幕府の危機意識を刺激した。幕府が いと考えていた。 そして、 北太平洋で捕獲したラッ 1825年に発令した異国船打払令も、前年に大津浜 コを広東へ運ぶ航路のその途次に、日本列島は位 (現北茨城市)と宝島(現鹿児島県鹿児島郡)で 置している。毛皮交易の新市場、そして物資補給 あいついで起きたイギリス捕鯨船員の上陸事件を 地として、日本の開国が求められたのである。 契機に発令されたものである。 国家の使節ではないが、レディ・ワシントン号 また、日本列島近海で操業を行う捕鯨船が増加 が来日したのも、日本を毛皮交易の新市場にした するにつれ、不幸にも難破し、日本へ漂着する欧 いというもくろみがあったからである。また、イ 米人も増えていった。捕鯨船員たちが日本に漂着 ギリスの毛皮交易船アルゴノート号が新市場とし すると、基本的には長崎にいったん護送され、そ て日本と朝鮮に目をつけ、レディ・ワシントン号 こからオランダ船によって帰されることとなって が来日したのと同じ1791年に博多と小倉へ来航す いた。しかし、帰国までの日本の役人による監視 るという事件も生じている。 は、捕鯨船員たちによって「犯罪者に対するよう このように、北太平洋における毛皮交易の隆盛 な取り扱い」として広く知れわたった。そのため、 によって、日本はその新たな市場として注目され、 太平洋で活動する捕鯨船の数が多いアメリカでは、 欧米諸国からの開国要求が高まることとなった。 日本近海で遭難する捕鯨船員の保護という課題が 近世日本は、北太平洋という空間のなかに明確に 浮かび上がることとなった。 位置づけられ始めたのである。 ただし、1850年代におけるアメリカによる日本 開国、という動きの要因を捕鯨業だけに求めては 2 捕鯨船の時代 ならない。そもそも、産業化を支える機械の潤滑 しかし、19世紀に入ると、毛皮獣の乱獲によっ 油としての鯨油や、あるいは女性が着用するコル て毛皮交易は衰退を余儀なくされた。そのため、 セットの形を維持するための鯨髭など、捕鯨業は 毛皮交易の新市場として日本を開国させよう、と 基本的に欧米諸国の内部での消費を前提としてい いう西洋諸国の動機も減退していくこととなる。 た。その点、対アジア貿易を前提とした毛皮交易 毛皮交易の次に北太平洋で隆盛を迎えた産業は、 とは根本的にその性格を異にしている。そのため、 捕鯨業である。とくに、アメリカ合衆国の捕鯨業 捕鯨業そのものが環太平洋に位置する日本を開国 が大きな力を有することとなった。太平洋での捕 させる、という国家次元の動きにつながったわけ 鯨業に先に手をつけたのはイギリスであるが、独 ではない。日本開国に向けたアメリカの外交政策 立後のアメリカでは、大陸東岸のナンタケットや は、日本に漂着する捕鯨船員の保護、という課題 ニューベッドフォードを拠点に捕鯨業が急速に発 に加え、北太平洋の蒸気船航路開設という計画が −3− 浮上したことで、具体的な形をなしたのである。 3 アメリカ合衆国と北太平洋 1840年代以降、アメリカの太平洋進出の動きは 急速に進んでいく。それは、1846年のオレゴン併 合をはじめ、 「明白な天命」のスローガンのもと に進められた領土拡張が、太平洋岸にまで到達し たことを背景としている。そこに、アヘン戦争以 降の東アジアをめぐる国際情勢の変化、そして蒸 気船技術の進展という条件が重なった。アメリカ の内部で、具体的にはイギリスとの対抗を目的に、 中国市場への迅速なアクセスを実現させるための 北太平洋蒸気船航路の開設、という計画が浮上し たのである。 そして、アメリカ合衆国西海岸(=太平洋岸) 太平洋の危険な岩礁などの所在地を示した地図。北太平洋測量艦 隊の成果として1857年に刊行された(米国議会図書館蔵)。 から中国市場にいたる北太平洋の航路上に、日本 しかし結果的にいえば、1840~50年代を通じた 列島が位置していた。ここに、新市場および物資 アメリカの北太平洋をめぐる構想は成功しなかっ 補給地としての日本の開国が、アメリカ合衆国と た。その大きな原因は、いうまでもなく南北戦争 いう国家によって再び求められることとなった。 である。1867年にはサンフランシスコから香港に ただし、毛皮交易の時代とは異なり、捕鯨船員の いたる蒸気船航路が太平洋郵船会社によって開設 保護という課題もここに加わっている。 されたものの、南北戦争後においてはアメリカ西 有名なペリー艦隊の派遣も、こうしたアメリカ 部・南部の国内市場の開発が優先され、アメリカ による北太平洋政策の一環として理解することが 海運業も衰退を余儀なくされたのである。 可能である。ただし、日米関係というわく組みだ なお、その間、明治政府の保護を受けた三菱郵 けでは、ペリー艦隊をもって、アメリカが日本開 船会社と太平洋郵船会社が上海~横浜航路をめ 国をきわめて重視していたとする評価にとどまり ぐって競合し、後者が同航路から撤退する(1875 やすい。もちろん、ペリーが日本の開国にかけた 年)など、日本の海運業が発展していくこととな 情熱はなみたいていのものではないが、アメリカ る。近代を迎えた日本と太平洋との関係も、新た 政府にとってみれば、日本開国はあくまでも蒸気 な段階にはいったといえよう。 船航路開設という目的を達成するための手段で 以上、北太平洋の歴史のなかで、近世日本がど あった、という点も忘れてはならない。 のように位置づけられるのか、という点について その点、ペリーが浦賀に来航した1853年に、ア 概観してみた。 「太平洋のなかの日本史」という メリカ海軍によって北太平洋の探査・測量を目的 視点からの研究は、近年さかんになりつつある一 とした艦隊が派遣されたという事実は重要である。 方、まだ緒についたばかりでもある。今後のさら 日本を開港させただけでは、北太平洋蒸気船航路 なる研究の進展が期待される分野といえよう。 を開設することはできない。その開いた港を、太 平洋の航路上に位置づけることが重要である。日 【付記】 本も含む北太平洋の探査と海図作成を実施した測 本稿は多くの先学の成果を参考としている。詳 量艦隊は、ペリー艦隊と並んで、アメリカの太平 細については、拙稿「18~19世紀の北太平洋と日 洋政策と密接に結びついていた。なお、この北太 本の開国」(秋田茂・桃木至朗編『グローバルヒ 平洋測量艦隊は、1855年に開港地下田・箱館にも ストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年)を参 寄港し、1856年にその任務を終えた。 照されたい。 −4−