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導く手 - タテ書き小説ネット

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導く手 - タテ書き小説ネット
導く手
泉
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
導く手
︻Nコード︼
N9212CM
︻作者名︼
泉
︻あらすじ︼
アラサーOLから転生したら、道に迷わない特技を持つ貴族令嬢
となっていた。行き遅れる気満々だったのに、飛び抜けた優良物件
にアプローチされたけど、なんで?︵個人サイトにも載せています︶
1
un
あの馬鹿兄、迷うくせにどうしてじっとしていないんだ。
わたしは自分が幼女ということを忘れて舌打ちをした。たくさん
の人でごった返した街は、ちいさな子どもがひとりで出歩くのに向
いていない。まして、貴族の子どもとなると、身の危険まで発生す
る。
王様が治めるこの国で、父親は伯爵。つまり、わたしも兄も貴族
というものに分類されている。だから、身分がばれないよう簡素な
服を選んで外で遊んでいたのだけれど。
三歳の誕生日を迎えたばかりのわたしは、さっきまで隣にいたは
ずの兄が忽然と消えたことに気づいてため息をこぼした。
もうすぐ六歳になる兄は、絵にかいたような活発で向こう見ずな
男の子である。そして、ものすごい方向音痴である。目的地に自分
で着けたためしがない。それなのに、気になったものには駆け寄る
し、知らない道でもどんどん進んでしまう馬鹿である。
わたしがしっかりと服の裾を握っていたはずなのに。つい今しが
た、猫がかわいいと一緒になでていただろう。どうしてこうなるん
だ。わあ∼かわいい∼、じゃないだろう三秒前のわたし。兄から一
瞬でも目を離すんじゃなかった。
迷った兄を探すのは、いつもわたしの役だ。兄の方がわたしを見
つけてくれたことなんて一度もない。
わたしは三歳である。これでも三歳。誰がどう言おうと、ここで
生を受けて三年しか経っていない。そんな鼻たれが兄の面倒をみる
なんて間違っていると思う。
けれども、わたししか兄を探せないのだからしょうがない。地球
という星の、日本という国で生活していた記憶のあるわたしは、道
2
を覚えることがすごく得意になってここへと生まれ直してしまった。
なんだろうその特技。職場がカーナビを開発する会社だったからだ
ろうか。⋮⋮まさかな。
三歳なのに大人の思考を持っているわたしを、周りの人たちはち
ょっとおとなしい子どもとして認識している。ぼろが出ないように
ひっそりしているせいだ。むしろ、落ち着きのない兄を毎回家まで
連れ帰るため、大変ありがたがられている。上々の立ち位置だ。
猫を気がすむまでなでくり回してから、わたしはあたりを見回す。
ここは街の大通りから一本入った路地。コの字に戻ればすぐに大
通りに出られるところにいるのだけれど、あの兄が素直にそちらへ
行ったとは思えない。わたしは迷わずに入り組んだ住宅街へと駆け
た。
表通りに店が多い分、その裏手には庶民の家が並ぶ。貴族の家は
だいたい集落を外れた奥の奥か、王宮に続く通り沿いにあるから、
この辺は普通の人の家ばかりだ。
ここから、なにが兄のアンテナに引っかかったのだろうか。
ぐるりとあたりを見渡して、わたしは二軒の家を過ぎ、そこを左
に曲がってまた三軒先の隙間を駆けた。突き当りにある、庭が見事
な家では大きな犬を飼っていたはずだ。さしずめ、その声でも拾っ
てしまったのだろう。勝手に予測する。もし違ったとしても、その
うちなんらかの反応があるはずなので、わたしはまったく慌ててい
なかった。
のに、わたしは目を丸めて立ち止まることになる。
もう突き当りの壁が見えているところで、石段に座り込んでいる
男の子がひとり。途方に暮れているその表情は覚えのあるもの。
わたしの軽い足音に、彼はこちらを振り返った。真っ青な瞳を丸
くして、驚きをあらわにする。わたしはほんの少し逡巡してから首
をかしげた。
3
﹁おにーちゃん、なにしてるの?﹂
さらさらの金髪に、くっきりとした目元、高い鼻。身なりはシャ
ツにベスト、茶色いズボンと簡素だけれど質がよく、貴族の子ども
だとすぐにわかった。兄よりもいくらか年上だろう。こんな場所に
は不釣り合いなその子は、舌足らずなわたしの声に困ったように眉
をさげた。
﹁家の者とはぐれてしまった﹂
うん、そうでしょうとも。迷子の顔をしていたからね。迷ったと
きの兄と同じだ。
﹁どこまでいっしょだったの?﹂
﹁仕立て屋にいった帰りに、いつの間にか⋮⋮﹂
しょんぼりと肩を落とす。これは、絶対方向音痴だ。いつの間に
かってあたりがとくに。迷っている自覚がないのがやばいです。
﹁ここ、みつけてもらえないよ。おーどおり、いく?﹂
﹁でも、もう、ずいぶん長い時間歩いたから、遠くまで来てしまっ
ていると思う﹂
いやいや。大通りはすぐそこだから。どれだけぐるぐるさまよっ
たんだろうこの子。道に迷うことのないわたしの前に、道に迷った
子がいる。これはもう、そういうことですよね。
﹁おーどおり、いけるよ﹂
ぱっとあげられた顔に、わたしはちいさな手をさしだす。
4
﹁いっしょにいこ﹂
ふにふにしたわたしの手。それとわたしの顔とを交互に見た相手
は、きゅっと唇を結んで大きくうなずく。つなぎなれた兄の手より
もちょっとだけ大きなそれが、しっかりとわたしの手を取った。
大通りまで、子どもの足でも五分とかからない。
何度も言うがすぐそこなので、わたしはとことこ歩きながら見目
麗しい少年の手を引く。角を曲がって、猫がいた家の前もとおって、
元来た道をたどるとすぐに人で賑わう大通りへ出た。
隣を見上げると、唖然と目を見開く彼。
﹁きみは、魔法使いか?﹂
思わず吹き出してしまいそうになるのをこらえた。わたしは三歳
の少女。きょとんとして首をかしげるだけにとどめる。
あとはどうしたらいいのかな。お供の人に引き合わせるにしても、
どこにいるやら。家の名前を聞いて、送り届ける方が早そうだけれ
ど。いかにしてもわたしは三歳。この体、意外とすぐに疲れてしま
う。
人がたくさんとおりすぎている様子を眺めていると、隣ではっと
息をのむ気配がした。どうしたのかと声をかける前に、坊ちゃま!
と切羽づまった男の人が駆けてくるのが見える。ああ、よかった。
あちらから見つけてくれたようだ。
ほっとしてつないでいた手を離す。しょんぼりしていたのが嘘の
ように、彼はもうすっと背筋を伸ばしていた。これなら大丈夫だろ
う。
そうなれば、わたしは本来の目的を︱︱
5
﹁フィー!﹂
どこからともなく兄の叫び声が聞こえて、わたしは心のなかで盛
大にため息をついた。
***
結局、推測どおり犬のところにいたらしい兄は、そこからまたず
いぶんと奥に進んだ路地でわたしの名前を叫んだのだった。声をも
とに駆けつけたわたしに、はぐれちゃだめだろ、なんて唇をとがら
せてきたので殴ってやりたい。
今度はしっかりと手を握って、わたしは兄とふたりで家に帰った。
今日も兄のせいで疲れた。疲労困憊でくったりしたわたしと、犬と
戯れて服を汚した兄はもちろん家の者にすぐに見つかり、外に出て
いたこともばれてしまった。乳母にも親にもこっぴどく怒られ、そ
れなのにけろりとしている兄の図太さにがっくりしてしまう。
兄に振り回されながら過ごせば、ひとつ下の弟もずいぶんと活発
になってきて、毎日毎日ドタバタと慌ただしい。あっという間にわ
たしも年を重ねて、淑女たる者こうであると教育を受けながら、な
んとか伯爵家の長女という役目を務めている。
兄は十歳になったときに騎士団へ入団していった。
方向音痴は相変わらずで、そんな彼が万が一戦場に出ることにな
ったら致命的だと、家族みんなで反対したのだけれど。騎士イコー
ルかっこいい、というものすごく不純な動機を主張する兄は絶対に
譲らなかった。
6
弟はそんな兄にはちっとも似ずに馬と本を愛していて、父につい
てよく外の領地にも行っているから、兄が騎士になっても家のこと
はまあなんとかなる。けれども、兄は長男で、弟は次男なのだ。そ
ういうことにここはとてもうるさい。が、そんなことを兄はかまわ
ない。少しはかまえ。
どんな説得にも応じなかった兄は、行ってきます! と元気よく
騎士団へ入団し、そんな兄に弟がひと言。
﹁破門されたら勘当だから。死ぬ気で騎士になれよバーカ﹂
⋮⋮おまえに勘当の権限はないだろう。仮にも兄へのこの態度も
どうなの。わたしは両親と並んでため息をこぼしてしまった。
この世界において大人の仲間入りとされる社交界デビューは、十
六才前後ですることが一般的だ。とにかく女性の結婚は早く、二十
歳をすぎれば行おくれとされてしまう。
わたしは今その十六才になるわけだけれど、日本では三十二才ま
で記憶があるから、もうね⋮⋮自分の親よりも精神年齢が高いなん
てなんの冗談だろうか。晩婚化と言われた時代でアラサーだったわ
たしは、仕事に明け暮れて結婚なんてしていなかった。
まあ、そろそろしないと危ないなとは思っていたけれど、ずるず
る年を重ねていたのだから、十六のときなんて結婚のけの字も意識
していなかったと思う。
そんなわたしが今、十六才。結婚適齢期で、相手にはどこの家が
よいなどと考えられるかというと、もちろんそんなわけはない。貴
族の友人や噂話では、誰々が婚約しただの、お茶会に招待するだの、
一番人気が誰それでアタックする方法がどうのこうのとか、ものす
7
ごく婚活が盛んだ。貴族だし。結婚も仕事の内と考えられているか
ら、当然ながらみんなの意識は高いわけで。
周りが結婚を現実的に考えてガンガン婚活しているなかで、そん
なガツガツする気になれないわたしは、周りから見るとものすごく
まったりおっとりしているらしい。いやだって、十六で結婚とか早
すぎじゃないですか。周りの雰囲気はもう婚活モードなんだけど、
いまいち乗り切れずに他人事に思えてしまう。わたしのデビューに
気合いを入れまくっている両親には悪いが、ここでも行おくれの太
鼓判を押されると思う。
そんなわたしが、である。
デビューとされていた舞踏会で、やたらきらめいた男性に声をか
けられたのだから、世の中よくわからない。
その相手が、この国の宰相補佐で、年頃の女性の視線を一斉にか
っさらっていくくらいの優良物件なのだから、本当にわからない。
なんでだ。
8
deux
わたしのデビュー戦として両親が考えたのは、年に一度奉納祭と
称して王妃様が主催する舞踏会だった。
半年前から準備に追われて、まだ始まってもいないのにわたしは
うんざりしていた。だって、ドレスを仕立てるから採寸がどうとか、
色がどうとか、ここのドレープはもっとこうして、デザインが⋮⋮
とか延々とやられるんだよ? 初めは楽しかったけど、それが頻繁
だと嫌気がさしてくる。
普段の淑女教育ではダンスレッスンが大きく幅をしめてきて、弟
を相手にくるくる踊る日が続いた。悲しいことに週末なんていう概
念がないから、今日はお休みにしましょうっていう素敵な言葉が母
から発せられることはなく、毎日毎日アン・ドゥ・トロワだ。
代々貴族として教育を受けてきた人たちの遺伝子を引き継いでい
るため、どれもこれもそう苦労はしなかったけれど、そればかりに
なると飽きる。
弟はもうすっかりわたしの背を追い越して、少年から青年にむか
っていく途中のしっかりした体つきになっていた。彼もまたダンス
のセンスが悪いわけではないので、ふたりしてそこそこの出来栄え
である。
そうして迎えた舞踏会当日。
両親につれられて、わたしと弟も馬車に乗ってお城へ向かった。
デビューをする人は、国花を胸元に飾る暗黙の了解があり、わた
しは白い花のコサージュを珊瑚色のドレスにつけた。弟も新しく仕
立てたジャケットに同じものを嫌そうな顔で飾っている。お父様の
デビューしたときとそっくり、なんて母がうれしそうに笑うもので、
彼はますます眉を寄せてしまう。
9
わたしはそれをにやにや見ていたけれど、おまえも母さんのデビ
ューしたときとそっくりだな、と父が言い出し、ここぞとばかりに
弟がにやっとした。母はうつくしい人なので悪い気はしないけれど、
改めて言われるとものすごくむずむずする。一応、わたしも弟も思
春期というものである。そんなわたしたちに母がころころと笑った。
今日は楽しみなさいな、と軽く言うけれど、今から向かう舞踏会は
王妃様が主催なのである。
ちいさなパーティーには何度か行ったことがあるが、ここまで大
きなものは初めてだった。緊張もするけれど、笑顔を貼りつけてひ
と晩すごさなければならないことを考えると気が重い。そんな実に
少女らしい思考からかけ離れたことを思いながら、停まった馬車か
らおりる。
ああ、着いてしまった。腕を組んでゆったりと歩く親に、弟と連
なってついていく。弟も落ち着かない様子を見せたけれど、その表
情は面倒くさいと語っていて、おまえは純粋に少年なのだからその
反応はだめだろうと思う。
きらびやかな世界。
王宮はとても華やかだった。精神年齢が高いわたしでも、はっと
息をのんで周りを見渡してしまうくらいに。
父の評判はまあまあいいらしく、広間に入ってすぐにあいさつし
てくる人が多かった。父はわたしと弟を紹介しながら、長くなりそ
うな人は会釈でかわして奥へと進む。これから国王陛下と主催者で
ある王妃様へ、ごあいさつをするわけである。これは、さすがのわ
たしも緊張した。まとう雰囲気が他の貴族とまったく違うおふたり
に、ドレスの裾を持って、腰を折る。
﹁本日は、お招きいただきまして、誠にありがとうございます。フ
ィオーラ・ウェンズウッドと申します﹂
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ゆっくり、はっきりと申してお辞儀をする。すると、にこやかに
笑んだ王妃様が、今宵は楽しみなさいとお答えくださった。
一歩下がって弟へとその場を譲ると、彼もまたそつなくあいさつ
をして、歓迎の言葉をいただいていた。両親がまたひと言ふた言足
してから、その場を辞すごあいさつ。ほっとして肩の力が抜けた。
﹁姉上でも緊張なさるのですね﹂
ぽつりとこぼした弟に、わたしは唇をとがらせる。この子はわた
しのことをいったいどういうふうに思っているのだろう。
﹁あたりまえでしょう。誰でも初めてのことは怖いものです﹂
﹁では、ここで踊ることも怖いのですか﹂
初めての社交の場。もちろん、人前で踊ることも初めてだ。涼や
かな瞳に見下ろされて、わたしはため息をこぼす。
﹁ええ、あなたに目を付けた女性の視線が﹂
﹁⋮⋮なにを言っているんです﹂
嫌そうに顔をしかめた弟は、身内贔屓を差し引いてもまあ整った
顔立ちである。目立つわけではないが、そういえば彼かっこいいよ
ね、と女子のなかで言われる感じだ。父親譲りのピンクブロンドが、
冷たい彼の雰囲気をほんのりとやわらかくしてくれている。
一曲目は、本当は兄がここにいるはずで、一緒に踊る予定だった
けれど。弟もわたしも、兄が予定通りに現れるとは思っていない。
大方、城のなかで迷ってたどり着けていないのだろう。
無事に騎士になった兄は、剣の才能はあったらしく騎士団第二番
隊の副隊長までのし上がってしまった。第二番隊とはこの城の警備
をする隊のひとつで、副がつくにしても、その隊を束ねる立場にあ
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の兄がなっているのだ。あの兄が。マイペースで方向音痴な兄が。
よくなれたな、騎士団って大丈夫か? とわたしはこっそり思って
いる。
あらかたの招待客がそろったのだろう。時間も定刻をすぎた。国
王陛下と王妃様がそれぞれ今宵のあいさつをなさったのを合図に、
オーケストラが曲を奏で始めると弟が手袋に包まれた手をのべる。
流れるような動作でホールドの体勢をとり、一瞬、お互いに微妙
な顔をした。思春期だと、姉弟で手を取り合うというのもむずむず
するのである。
弟とのダンスはなれたもので、とくに失敗もなく一曲を終えるこ
とができた。
ああ、これで今日の最低ノルマは終わった。わたしはますます肩
の力が抜ける。足を止め、弟の手を離したところで、会場にいた友
人のところにでも行こうかと思っていたわたしは、目の前に差し出
された白い手に目を丸めた。
﹁踊っていただけませんか﹂
背の高い、美丈夫がほほえんでわたしを見下ろしている。
周りから女性たちの悲鳴や息をのむ音が聞こえて、わたしはます
ます目を丸めた。え、なにこれ。横にいた弟さえも驚きの表情だ。
目の前の男性は、わたしの記憶にはない方だけれど、周りの様子
からして彼の人気をおしはかることができた。さらさらな金髪。澄
んだ青い瞳。背は高く、ほどよく引き締まった体つきで、品のある
男性。これは当然、女子が放っておくはずがない。もう、大人気。
本日の目玉商品、みたいな。
きょとんとしたわたしは、二度ほどまばたきをしてから首をかし
12
げる。そんな目立つ人に、声をかけてもらういわれはないのだけれ
ど。
﹁わたくし、でしょうか﹂
人違いではありませんか、と言外に述べたわたしに、王子様みた
いなその人は真っ青な瞳をやわらかに細める。
﹁ええ。フィオーラ・ウェンズウッド嬢、あなたです。︱︱私は、
クレスフォード・ロッシュと申します。お見知りおきください﹂
﹁はあ﹂
わたしで間違いないようだ。困った。クレスフォード・ロッシュ
様だって? 困った。そりゃあこの騒ぎになるはずだ。彼は、この
国の宰相様の息子で、そのあとを継ぐと言われている方じゃないか。
驚きで固まったわたしに、彼はほほえみを絶やさない。踊るため
に伸べた手を、わたしのまえに差し出したまま、ただただ答えを待
っている。
姉上。弟の声にうながされ、わたしはこっそり心のなかでため息
をこぼしながらその手を取った。よろしくお願いいたします。お辞
儀をすると、そっと、けれどもゆるぎない強さでフロアへと導かれ
たのだった。
弟のときとは比べものにならないほど多く、鋭い視線を周りから
お見舞いされ、ダンスを楽しむどころではない。
完璧なリードでステップを踏むと、弟よりも踊りやすくて驚いた
が、きらきらした笑みを上からそそがれてしまうので、わたしは無
心になって踊ることにだけ集中する。どうしてこうなった。ものす
ごく心臓に悪い。
わたしはひっそりと貴族令嬢を務めて、この先もまあ、行おくれ
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という年齢になったあたりで、無難な家柄で生理的に無理じゃない
人のところに嫁ぐことになると思っていた。どう転んでも、こんな
目立つ人と、社交界デビューでかかわる予定なんてない。
クレスフォード・ロッシュ様は、優雅にわたしが踊るのを手伝い
ながら、うれしそうに、そう、実にうれしそうにわたしを見つめる。
まるで、好意を向けられていると錯覚してしまうくらい、あまやか
で熱のこもった視線だ。
一曲をなんとか終えると、わたしはお礼と別れのあいさつをして
足早にその場を辞した。引き留めるような声が聞こえた気もしなく
はないが、聞き間違いだろうと思うことにする。
﹁フィー! どうして会場にいないんだ﹂
さささっと広間を抜け出したわたしに声をかけたのは、大遅刻を
しているはずの兄だった。
落ち着きのないわたしに目を丸めた彼は、短く切ったピンクブロ
ンドを後ろになでつけ、式典用の騎士服姿で大股に歩く。ここは、
中庭に続く回廊で広間から少しだけ離れているはずだ。
わたしは先ほど会場へ向かうときにとおったから、間違えること
なくここまでやってきた。それなのに。どうして兄がここにいて、
そしてその兄にどうして咎めの声をかけられているんだ。
﹁お兄様﹂
﹁今日が初めての舞踏会だっただろ? 楽しくなかったのか?﹂
頭ひとつ以上背の高い兄は、不思議そうに首をかしげた。遅刻し
ていて約束もすっぽかしているのに、相変わらずのほほんとしてい
る。
﹁初めのダンスはお兄様とって約束していたのに。どうしてこんな
14
ところにいるの﹂
﹁いなくてもユーグがちゃんと踊っただろ? いいんだよ、あいつ
も目立っておいたほうがいいんだから﹂
﹁もう﹂
ということは、兄の遅刻は確信犯なのか。意外とこの兄、考えな
しに見えてそうでもないから困ってしまう。だからって、約束を破
っていいことにはならないのだと、眉を寄せて小突いてやる。ちっ
とも痛くないくせに、いてて! なんて悲鳴をあげた。
﹁まだ、始まっていくらも経っていないじゃないか。なんでこんな
ところにいるんだ? 誰かにいじめられたのか?﹂
﹁そういうわけじゃ、ないけど﹂
言葉をにごすわたしに、兄は不思議そうだ。微妙な顔のわたしと、
回廊の先とを見比べてからますます首をかしげる。
﹁じゃあ、戻るか? こんなとこ、なんにもないからおもしろくな
いぞ。フィーがいるなら俺も会場にいけそうだし﹂
﹁レディ・フィオーラ﹂
ご満悦に笑う兄に、やっぱり迷っていたのかと呆れたわたし。
するとそこへ、落ち着いたテノールが響いた。振り返ると、クレ
スフォード・ロッシュ様がわたしをまっすぐと見つめている。わー、
なんか追ってきてるー。なんでだよ、本当に。
﹁クレスフォード様﹂
居住まいを整えたのは、わたしよりもその隣にいた兄の方が早か
った。わたしが見慣れた間抜け顔をきりっとさせて、踵を合わせた
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礼をする。
﹁ルパート殿、来ていたのですね。姿が見えないから今宵は来ない
のかと﹂
﹁いえ、妹と弟のデビューですので。警備の見直しを終えて、ただ
いま向かっていたところです﹂
すごい、あの兄が仕事をしている! 驚きで目を丸めるわたし。
クレスフォード・ロッシュ様は兄にそうですかとうなずくと、わた
しへと視線を移してやわらかな笑みを浮かべた。
﹁突然、お誘いをして申し訳ありませんでした。すぐに出ていかれ
たようですが、なにか失礼をしてしまいましたか?﹂
﹁い、いえ。決して、そのようなことは﹂
﹁そうですか。ですが、もうダンスはよろしいのですね? それで
したら、よろしければ庭園でもご案内いたしましょうか﹂
なんで。なんで彼がわたしを追ってきて、わたしを庭に誘うんだ
ろう。最優良物件が。
戸惑い、彼の笑みを見上げたわたしが言葉を探し出すまえに、す
っと目の前を大きな影がさえぎった。騎士団の正装の背中。黙って
わたしとクレスフォード・ロッシュ様のやりとりを聞いていた兄が、
間に立ってわたしの姿を隠す。
﹁女性に人気のあなたが、なぜ私の妹を?﹂
あっけらかんとした兄の姿からかけ離れた、真剣なその様子にわ
たしはぽかんとしてしまった。
そんなわたしが見えていない兄は、クレスフォード・ロッシュ様
相手に断固とした態度をくずさない。
16
﹁この子は、あなたにまとわりつくような女とは違います。からか
うつもりなら、ウェンズウッドの名を継ぐ男が黙っておりません﹂
﹁お兄様﹂
位はクレスフォード・ロッシュ様が上だ。兄の言い方は丁寧では
あるけれど、わたしに手を出すなら兄も、弟も、父も、見過ごすこ
とはないと脅しをいれてしまっている。言い過ぎでは、と咎めると
兄は気にせず振り返り、わたしの背を押す。
﹁フィー、いくぞ﹂
﹁ルパート殿、待ってくれ。私は、ずっとレディ・フィオーラにお
会いしたかった。生半可な気持ちで、こうしているわけではない﹂
わたしに会いたかったと、ためらいなく言うその人は至極真面目
で、なんで? とついていけないわたし。兄はそんなクレスフォー
ド・ロッシュ様をじっと見つめると、かすかにため息を落としてわ
たしを振り返った。
﹁フィー、おまえクレスフォード様とお知り合いだったのか?﹂
﹁いいえ、お会いするのは、今日が初めてです﹂
友人の誕生パーティーにだって、さすがにこの人がいたことはな
い。父も宰相様と個人的なお付き合いがあるようには見えなかった
し、父経由でも会ったことはない。こんなイケメンに会ったら忘れ
ないだろう普通。
ふーん。ちらりと、夜の庭園へ視線を動かした兄は、なんだか不
機嫌だった。がしがしと頭をかいて唇をとがらせる。きまりが悪い
ときの兄の癖だ。
17
﹁⋮⋮フィーが行きたいなら、行きなさい﹂
低い声で言う兄に、わたしはこっそりとため息をこぼした。うな
ずいてから、クレスフォード・ロッシュ様を見上げる。
﹁もし、よろしければ。ご一緒させてください﹂
さすがに、この状況で目上の方のお誘いを断れない。断ったら、
あの広間に戻らなければならないし、戻るってことはクレスフォー
ド・ロッシュ様の誘いを無碍にしたと知らしめるわけで。デビュー
したてで周りに敵を作りたくない。この優良物件とダンスしたこと
で、すでに危ういけど。断っても、快く引き受けても角が立つなん
て、ものすごく面倒くさいなあ。
戸惑いを引っ込めて、ひとまず笑みを浮かべて首をかしげた。十
六年培った淑女のしぐさである。
すると、クレスフォード・ロッシュ様はほっとしたように表情を
ゆるめ、流れるようなしぐさで自分の腕にわたしの手を絡めた。
﹁会場までかならず送り届ける﹂
兄にそう言うと、クレスフォード・ロッシュ様はやんわりとわた
しを夜の庭園へと導いた。
18
trois
﹁私のことは、どうかクレスと。︱︱フィオーラと、お呼びしても
?﹂
庭に入って、先ず初めに言うことがこれである。
驚きすぎて固まりたいのに、淑女スキルがそれをうまくごまかし
た。不自然ではない笑みでうなずく。
﹁ええ、もちろんかまいません﹂
その場をしのいだのはいいけれど。クレス様︱︱この際、お言葉
にあまえて呼んでしまおう︱︱がわたしに声をかけてくることも、
兄がわたしを守る言動をしたことも、すべてが想定外のことでわた
しは内心で大いに戸惑っていた。
兄は昔から今まで、ずっとわたしの前では困った兄。あんな頼も
しく、大人の顔をした兄なんて知らなかった。
驚きが治まらないままのわたしは、ゆっくりとした歩調で夜の庭
を進んでいく。すごしやすい秋の季節。王宮の庭には秋薔薇が咲き
乱れていた。春よりは落ち着いた色が多いけれど、白を基調とした
薔薇がきれいに整えてある。あまいにおいがあたりに広がっていて、
ほんの少し肩の力が抜けた。
﹁ルパート殿とのお話を邪魔して、申し訳ありませんでした﹂
月あかりに照らされた薔薇を眺めているわたしに、そっとクレス
様が口を開く。青い瞳は、からかいの色もなくまっすぐとそそがれ
る。薔薇がよく似合った。
19
これだけの男性なのだから、女性の扱いにもなれていて自分の感
情を隠している、なんてことだったらわたしはお手上げだけれど。
本当の十六才ではないから、真に受けずに言葉だけは受け取ってお
こう。
わたしはそう思って、やんわりと首を振る。
﹁いいえ、兄とはいつでも話せますので、お気になさらないでくだ
さい﹂
﹁本当に仲がよろしいのですね。私には兄弟がいないから、とても
うらやましいです﹂
目元を和ませ、紡ぐ声はどこまでもやさしい。イケメンの笑みを
目の当たりにするのは心臓に悪くて、わたしは慌てて薔薇へと視線
を移した。
﹁クレス様は﹂
﹁はい﹂
なにか会話を、と口を開いたわたしに、彼はひと言も聞き逃すま
いという具合に体ごとこちらをうかがう。どうしよう、たいした話
じゃないのに。
﹁ダンスがとてもお上手でいらっしゃいますね﹂
当たり障りなさすぎてすみません。
それなのに、とてもとてもうれしそうに笑うから、わたしはまた
困ってしまう。
﹁ありがとうございます。もしかしたら、あなたと踊ることができ
るかもしれないと思っていましたから。粗相のないよう、練習いた
20
しました﹂
あまり得意ではないのです、と恥ずかしそうにはにかむのもやめ
てください。な、なんなんですか、このあざといイケメンは。
思わずつま先が地面につっかかってしまった。大丈夫ですかと支
えてくれるとか、余計にどきどきさせてきて困る。本当に困る。勘
違いしたくなってしまうじゃないか。
この話題はやめよう。わたしは自分の身を守るため、すぐさま話
を変えることにした。
﹁このお庭にもお詳しいのですか?﹂
﹁何度も来ておりますので。今はこのとおり、薔薇が見ごろです。
一番奥には小さな噴水があるので、そちらまでお連れいたしましょ
う﹂
﹁ありがとうございます﹂
薔薇が似合うなんて普通だったら嫌味っぽいのに。クレス様はそ
んな気を起こさせないから不思議だ。自分の魅力を鼻にかけていな
いというか、そもそも魅力に気づいているのかどうなのか。
周りからの評判はよい。こうして接してみても、それが噂だけで
はないと思える。だからこそ、余計にわからない。どうしてこうな
っているんだろう。
﹁レディ・フィオーラ﹂
フィオーラと呼んでも、なんて言ったのにクレス様は丁寧な言葉
をくずさなかった。背筋を伸ばして視線を向けると、やっぱりあの
青い瞳がまっすぐとそそがれている。
﹁もし、ほかに踊りたい相手がいたとしたら、無理に誘って申し訳
21
ありませんでした。ですが、どうしても、私はあなたと話したかっ
たのです﹂
な、なんでですか、面識ないはずですよね? でもでも、この感
じはやっぱりわたしがド忘れしているのかなあ。さすがに、初対面
でこんなにぐいぐい来ないだろう。それとも、どこかで変な前評判
でも飛び交ってしまっているのか?
この流れなら、さすがに聞いてもそれほど失礼にならないはず。
わたしは意を決して口を開いた。
﹁あの、失礼を承知でおたずねするのですが﹂
﹁ええ、どうぞ。私に答えられることでしたら、なんでもお聞きく
ださい﹂
にこやかにうなずいたクレス様。うっとりするくらいにあまく、
やさしい声だ。うっと言葉を詰まらせたわたしは、それでも動揺を
ひた隠しにして続ける。
﹁わたくしと、クレス様は、その、今までにお会いしたことがござ
いましたか?﹂
首をかしげ、できるだけ不躾にならないようにうかがうと、クレ
ス様はかすかに苦笑を浮かべて足を止めた。
﹁あなたは、覚えていらっしゃらないかとは思いますが、一度だけ。
私が見かけるだけなら何度か﹂
﹁えっ﹂
﹁ずいぶん前のことですから、忘れてしまうのもしかたがありませ
ん。それに、ウェンズウッド伯爵の御子息、ご令嬢のことはよく噂
になります。此度はおふたりのデビューということで、注目してい
22
る人も多かったようです﹂
噂! どんなものだろう。家同士で交流のある人たちからの評判
は悪くない。けれども社交界でどういう立場にいるのか、家からあ
まり出る機会がなかった今まででは把握しづらかった。
不安が顔に出ていたのか、クレス様がくすりと笑みをこぼして言
葉を続ける。
﹁しなやかで強く、切れ者のルパート殿。博識で冷静、若いのに決
断力にも優れたユーグ殿。そのふたりが大事にしているレディ・フ
ィオーラは、穏やかで思慮深く、花のように愛らしい、と﹂
⋮⋮なに、それ。弟はさておき、兄とわたしへのその評価はどう
いうことなの。切れ者? あの兄が? あのお馬鹿な兄が? そし
て穏やかで思慮深いとか、精神年齢のおかげで余裕ぶっこいている
だけじゃないか。えええええ。ちょっと待って。もう、この一時間
あまりで驚くことが多すぎてついてゆけない。
ぽかんとしたわたしを、クレス様の手がそっと庭の奥へとうなが
した。水の音が聞こえると思うが早く、薔薇の生垣から抜けて、目
の前に石造りの噴水が現れた。
﹁わあ、すごい﹂
薔薇のかおりたつ庭で、月の光を受けて水がきらきらと輝く。そ
れはとてもきれいな光景だった。
素直に口をついた言葉に、クレス様がうれしそうにわたしを振り
返る。ここまでゆっくりとした歩みでわたしに合わせ、庭を隅々ま
で見せ、噴水へと案内した彼の仕草はどれもやさしいものだった。
とろけるような笑みに、わたしの心臓がこっそりと跳ねた。
23
﹁気に入っていただけたなら、よかった﹂
手を引いて、噴水の縁までつれてきてくれる。そして、わたしの
顔を覗き込んだ。
﹁寒くはありませんか?﹂
﹁ええ、大丈夫です﹂
﹁ですが、冷えるのはいけませんね。サイズは合いませんが、少し
の間、これを羽織ってください﹂
秋とはいえ、夜は涼しくなってきた。水が近くにあればなおのこ
とだ。ドレスは肩がむき出しだから、たしかに長時間ここにいたら
風邪をひいてしまうかもしれない。そういう配慮なのだろう。クレ
ス様は自分の上着をふわりとわたしの肩にかけた。
顔が赤くなってしまって、とっさにわたしはうつむく。ちょ、ち
ょっと待って。こういう気づかいはうれしいが、ここまで少女漫画
のセオリーどおりになってしまうと、うれしさよりも恥ずかしさが
増す。純粋な少女だったらここでときめくはずなのに。蚊の鳴く声
でありがとうございますと言うのが精いっぱいだった。
クレス様の上着は、わたしの膝裏まであった。そのまま腰かける
ように言われ、噴水の縁にふたりで並ぶ。そこで他愛のない話︱︱
お城のなかの様子とか、兄の働きっぷりとか、夏至にあった祭りの
こととか、とにかく深くはないけれどお互いのことをちょこちょこ
と出し合い、和んだところでそろそろ広間へ戻ろうということにな
った。
長い時間いないと、さすがにわたしの家族もいい顔をしないだろ
う。それにクレス様のファンに殺されてしまうかもしれない。
24
わたしの手を取って立たせてくれたクレス様は、来たときと同じ
ようにわたしの歩調に合わせて薔薇の生垣のなかを進んでいく。わ
たしは来た道と、左右に首をめぐらせて、クレス様を見上げる。
いや、でも、ああでも、やっぱり、と口を開こうかどうしようか
迷って、迷うことを三回繰り返したところで、おそるおそる、隣を
うかがった。
﹁あの、クレス様﹂
﹁どうかしましたか﹂
相変わらず、にこやか。だからこそ、違うのだと言い聞かせてい
たのだわたしは。けれども、もうさすがに思い違いではなさそうで、
たまらず言葉を続ける。
﹁もう、会場へ戻るのですよね?﹂
﹁ええ。あまり長い時間、あなたを夜風にさらしたくはありません
から﹂
﹁お気づかい、ありがとうございます。でしたら、あの⋮⋮会場は
こちらから反対方向になりますが﹂
ぴたり、とクレス様の歩みがとまった。目の前に続いている道と、
左右を見比べてから、ふうとため息をこぼした。
﹁⋮⋮やはり、あなたにはかなわないな﹂
困ったような、笑み。悪戯がばれてしまった子どもみたいに、き
まり悪く頬をかく。そしてやっぱり困った笑みをわたしに向けた。
﹁どうやら、私は方向感覚がおかしいようで。幼いころ、あなたに
助けてもらってから、いつかその礼とともにどこかを案内したいと
25
思っていて﹂
わたしははっと息をのんだ。あの、路地で途方に暮れていた男の
子。真っ青な瞳、さらさらな金髪。整った顔立ちが、おぼろげな記
憶と重なる。
美少年はすっかり美青年へと成長して、ひたむきにわたしを見つ
めていた。
﹁あのときは、あなたに引いてもらった手を、私は忘れたことがあ
りません。今度は、私が引いてさしあげたい。そう思って、ずっと
この日を夢見ていました﹂
あんな一瞬みたいな出会いを、大事に大事に思ってくれていたの
か。
﹁けれども、まだまだ未熟なようです。またあなたに手を引いても
らうとは﹂
﹁さきほどまで、わたしの手を引いてくださっていたではありませ
んか﹂
苦笑をこぼすクレス様に、わたしは笑いながら首を振った。
今思うと、あれも実は迷っていたのかもしれない。そういえば、
ずいぶんと庭の端まで行くんだなあと思ったけれど、案内してくれ
るということだったので気にしていなかったのだ。
本当は迷っていたとしても、それでもしっかりとわたしをエスコ
ートしてくれたクレス様。きれいな噴水を見せてくれた、すてきな
この人は、わずかに腰をかがめてわたしを上目にうかがう。
﹁また、お会いしてくれますか?﹂
﹁クレス様﹂
26
吐息みたいな声がこぼれた。自分が、まさか、こんな少女のよう
な声を出してしまうなんて。
顔が熱い。今すぐ、どこかに隠れてしまいたい。
そんなわたしの気持ちはちっとも察してくれずに、クレス様は容
赦なく先を続けた。
﹁あなたの兄上たちには、私はまだまだ認めていただけないでしょ
う。ですが、ようやくあなたに会えた。私は、この一度きりであな
たとの関係を終わらせたくはありません﹂
やさしく引き寄せたわたしの手に、形のよい唇がそっと口づけを
落とす。
ぎゅっと握られた手。
まっすぐ見つめる青い瞳。
月夜に照らされた薔薇に囲まれた、王宮の回廊。
そこにいるだけで、物語のお姫様になった気持ちだ。年甲斐もな
く真っ赤になってしまったわたしは、なんだかもう、降参! と手
を上げたくなってしまった。どうしてこんなにまっすぐなんだ、こ
の人は。
ひたむきで、一直線。ある意味で不器用だけれど、それさえも魅
力にしてしまっているこの男性に、わたしは惹かれ始めてしまって
いると自覚する。ああ、困った。困ったけれど、この人が迷ってし
まわないようにしたいなと思ってしまった。
ため息をこぼす。するとほんのわずか、私の手を握っているそれ
がゆれた。海みたいに青い目を見上げて、わたしはほほえむ。
﹁こんな不束者ですが。よろしくお願いいたします﹂
肩から力が抜けた、そんな笑みになってしまったけれど。お辞儀
27
をしたわたしを、目元を赤らめたクレス様がじっと見つめる。じっ
と見つめて、はっとしたように息をのんで、はああと大きな息をつ
く。
ああ、よかった。
ぽろりとこぼれたその言葉に、彼がずっと緊張していたのだとよ
うやく気づいた。
それからわたしを家族のもとに送り届けてくれたクレス様は、た
くさんの視線が向けられていることには気づいた様子もなく、ご丁
寧にも父と母にあいさつすると、ちゃっかり後日家に来る約束まで
して去っていった。
仏頂面をした男三人を母となだめる羽目になったのは予想外で、
なんだかんだとクレス様と婚約する運びとなった未来なんて、もち
ろんこのときのわたしは思い浮かべてもいなかった。
約束どおり我が家を訪ねた彼が、フィオーラ、と恥ずかしそうに
呼ぶ声に、わたしはほほえんで手を伸べるのだった。
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魔法をもう一度
ちいさな女の子の背中を、私は引き留めることができなかった。
待って、と声をかけたつもりだったが、素早く身をひるがえして駆
けたその子は、あっという間に住家の隙間に消えてしまう。
フィー、というのが彼女の名前なのだろう。
絶対に忘れないようにしなければ。ピンクブロンドのふわふわし
た髪も、真ん丸な碧色の瞳も、何度も何度も思い描いて記憶を刻む。
私を一時間さまよわせたあの路地は、彼女が相手となると悔しい
ことに大変素直だった。突然現れて、救ってくれた彼女には感謝し
てもしきれない。自分だけでは家に帰ることはおろか、見つけた相
手によっては事件に巻き込まれてしまっていたかもしれない。命の
恩人である。
それからというもの、私は仕立て屋をはじめとする大通りの店へ
出向くときには、注意して周りを観察するようにした。
幸いなことに、彼女の髪色はそれほど多くはない。ただ、人の多
い街で見える範囲だけを探すのでは、見つけることは難しいと思っ
ていた。
案の定、求めていた髪色を見かけたのは、彼女に会ってからふた
月も経ってからだった。彼女より少し年嵩の男の子が、全力で駆け
ていたのである。よく似たピンクブロンドはくしゃくしゃだった。
瞳を楽しげに輝かせて通りを横切り、パン屋の横の路地へと身を滑
らす。あまりの勢いで声はかけられず、驚いている私を母が行きま
すよと促した。
ようやく彼女の姿を見つけられたのは、それからまたひと月後。
あの男の子の手をぐいぐいと引いて通りを歩いていた。おそらく、
兄妹なのだろう。
29
フィー、あっちからいいにおいがする!
おにーさま、かえるから、だめ!
きょろきょろと首をめぐらせている兄に、かわいらしい声がはっ
きりと答える。唇をとがらせた兄の手をしっかりと引いて、街の雑
踏にまぎれていった。
お兄様、と言っているあたり、やはり彼女たちも貴族なのだと思
う。
すぐに私はウェンズウッド家の兄妹を思い浮かべた。子どもたち
はみんなピンクブロンドを受け継いだと言われている伯爵家。それ
が彼女たちならば、彼女の下には弟もいるはずだ。
しかし、残念ながら宰相を務める父と、伯爵とは私的な交流はな
い。共通の親しい家があっただろうか。せめて誕生パーティーなど
でかかわることができたらよいのだけれど。まだお互いにデビュー
前であり、そうなると家ぐるみでかかわりがないと会うことは難し
い。
悶々と悩むだけで月日が流れ、結局会えるような関係は築けず、
数年を重ねて私の社交界デビューとなった。
父の立場のおかげで周りから注目されてしまったが、粗相もなく
こなせたと思う。ここにレディ・フィオーラがいてくれたらよいの
にと思うが、彼女がデビューするのはあと七年ほど先だ。
昔から家同士で交流のあった幼馴染と一曲だけ踊って、私は他の
ダンスは断ってしまった。思うのは、レディ・フィオーラのことば
かり。幼く愛らしかった彼女は、今では花がほころぶようにうつく
しくなっていっていると聞く。
街におりるときは彼女の姿を探すことが当たり前になってしまい、
そうして意識しているから、噂話も自然に耳に入ってくる。あちら
は私のことなど知らないだろうに、なんとも奇妙なことだ。早く知
り合いたい。会って、目を見て、話したい。
強くなる思いとは裏腹に、一向にその機会には恵まれなかった。
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気持ちは空回るばかり。
二年前に、彼女の兄にあたるルパート殿が騎士団に入団して、王
宮で見かけるようにはなった。
親しくなれないかと話しかけてみたところ、そつのない返答で一
線を越えさせず、警戒心をゆるめてもらえなかった。たしかに、次
期宰相と言われてしまっている私が、いきなり話しかければ不審だ
っただろう。
街で見かけたときの彼からは想像ができない、貴族然とした顔。
きっと、あの楽しげな表情は、レディ・フィオーラたちだけにしか
見せないのだと思う。騎士団でも彼は頭角を現していると聞いてい
る。私も気を引き締めなければなるまい。
日々精進と言い聞かせ、レディ・フィオーラと会う機会をうかが
っていたが、ルパート殿がデビューする年になっても、果たされる
ことはなかった。もしかしたらと思ったレディ・フィオーラは、彼
に同伴していなかった。まだ会えないのかと落胆してしまう。
ひと言だけでもと、ルパート殿にはデビューの祝いと今後に期待
していると言葉をかけたけれど、隙のない笑みと礼を返されるだけ
だった。歩み寄るとはむずかしい。
周りへ挨拶をすませ、多少の酒だけを含んだところで私は会場を
見渡すだけ。噂話に耳をかたむけながら着飾った人々をながめてい
ると、女性から声をかけられることも多かった。基本的には幼馴染
が私に寄り添うように立ち、数人が少し離れたところでこちらをう
かがうことが多い。
私のデビューのときから、幼馴染がべったりと張り付いてしきり
にダンスへ誘ってきたが、まったく気乗りがしないために断った。
彼女は私に付き合って踊らないことが多かったため、構わず好きな
男性のところへ行くように勧めたところ、ひどい癇癪を起されて驚
いてしまう。けれども、私がここでなだめるために踊っても、今後
31
同じことが繰り返されると目に見えている。はっきりとしなければ
互いのためにならないと、丁重にお断りをする。
数年前に彼女の家から婚約の打診があったが、そのつもりはない
と回答していた。それをわかった上で交流しているのだから、幼馴
染のよしみで私のことを気にかけてくれているのだと思っていた。
まさか彼女が特別な感情を抱いていて、未だに婚約を希望していた
とは気づいておらず、今思えばもっと早くはっきりした態度を示す
べきだったと反省する。
幼馴染が走り去ると、今度は違うご令嬢に声をかけられたが、そ
れも同じ理由で断る。広間にいてもそればかりで、そそくさと逃げ
出し、目の前にあった庭園に駆け込んでしまった。なんとも情けな
いことである。
いつまで経っても道を覚えることが苦手な私は、それから数時間
庭園をさまようことになったが、なんとか回廊へとたどり着いたと
きには舞踏会も終わっていて人目もない。ほっと息をついて帰路を
たどる。この庭園も、レディ・フィオーラがいればまたたく間に抜
け出すことができたのだろうか。彼女の使う魔法を、もう一度見た
いと思った。
それからまた三年。
待ちに待った、レディ・フィオーラの社交界デビューである。
もう私も二十三歳になってしまい、周りが結婚のことを口うるさ
く言ってくるが、婚約者もないまま今に至る。勧められた相手と何
度か会うこともしたけれど、やはり決定的な女性はおらず、私は相
変わらずレディ・フィオーラのことを気にしてしまう日々だ。
ついには母親に、誰か心に決めている人でもいるのかと尋ねられ、
気になる方がいると渋々白状する事態となった。誰だどんな人だと
大騒ぎする家族たちを必死に言い包め、レディ・フィオーラのこと
は黙秘した日からひと月と経っていない。
32
今宵、レディ・フィオーラは、どんなドレスを着ているだろう。
きっとよく似合い、髪もきれいに結って、可憐な姿なのだろう。
年甲斐もなく弾む胸をなだめ、今か今かと到着を待つ。入場する
人たちをながめることしばらく、両親と弟であるユーグ殿に付き添
われた、待ち望んだ姿がそこにあった。
ピンク色のふわふわとしたドレスに、国花の胸飾り。あのピンク
ブロンドの髪は複雑に編みこまれてリボンが結んであった。ごくた
まに、街で彼女を見かけることがあったけれど、着飾ってたたずむ
姿はとてもうつくしく、愛らしい。
少し緊張したように口を引き結んでいた彼女は、ユーグ殿とひと
言ふた言交わすと、ふわりと花がほころぶようにほほえんだ。
ああ、とため息がこぼれる。やっと会える。やっと。
王妃様への挨拶をすませた彼女の、すぐ近くへと移動する。そん
な私へ声をかけてくる女性がいたが、丁重に断りながら歩いている
間に、ダンスの曲が奏でられてしまった。思いのほか、足止めが多
かった。
一曲目は親しい相手と踊ることが多い。彼女に婚約者はいないは
ずだが、誰が相手を務めるのかと焦りが募る。ユーグ殿が寄り添っ
ている姿が見えると、思わず安堵の息をついてしまった。
この曲が終わったら。あの手を取ることができる。ようやく、向
き合うことができる。
似合いのドレスをひらひらさせて踊る彼女を、自然と目が追い続
ける。
ここにはない姿を待ち焦がれるだけだった舞踏会。初めて胸が高
鳴るのを感じる。
曲が終わり、ステップもやんで、ゆっくりとふたりが人の輪から
離れたところを逃してはいけない。タイが曲がっていないか、髪が
乱れていないか、今さら気になるそれらを素早く整えてから、私は
こほんとちいさく咳払いをする。うまくいきますように。祈りなが
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ら、私は足を踏み出すのだった。
34
牛フィレ肉のパイ包み
兄のここまで憮然とした顔は、初めて見た。
どっかりとソファーに腰かけた大きな塊を見て、ユーグはひそか
に思う。
ユーグが六歳になった年に、ルパートは騎士団へと入団し、ほと
んど家には帰ってこない。騎士の訓練はきびしいと聞いていたし、
啖呵を切って出て行った手前、帰りにくさもあっただろう。
が、あのルパートのことだ。今日家に帰ろう、と思い立てば気お
くれなんて言葉は消え去り、毎日ここにいるような顔でただいまと
言うのだ。そして、帰ってくるなら報せてくれればいいのに、と唇
をとがらせる姉の頭を得意げにぽんぽん叩く。ご機嫌な顔が常であ
る、兄。
王妃様主催の舞踏会があったのは昨晩だ。
あまり気乗りしない様子で、なにかおいしい料理は出るかしらな
んて言っていたフィオーラ。そんな彼女が、なぜかクレスフォード・
ロッシュに声をかけられてしまい、それから我が家の雰囲気がおか
しなことになっている。
兄は姉の横をはなれずにそのまま家に帰ってきて、ひと晩経って
もこんな調子だし、父は父でむっつりしているところを母になだめ
られていた。当の姉は兄に声をかけながら刺繍をしているけれど、
ときどきふと頬を赤らめてからあわてて首を振って変な声を出すの
で、平常を装っているつもりで、やはり動揺している。
本を読みながら周りを観察してしまっている自分も、やはりどこ
かいつもとは違うのだろう。本の内容はこれっぽっちも入ってこな
い。ユーグはため息をついてルパートを振り返った。時刻は昼を過
ぎた。いつまでもこうしていてもしかたがない。
35
﹁兄上、遠駆けしませんか﹂
﹁やだ。面倒﹂
気を利かせて声をかけても、これである。知っていたが。ルパー
トが家族にはあまえてこういう物言いをすることも、フィオーラの
ことをとてもかわいく思っていることも、ユーグはよく知っていた
が。
知っていても苛立つことにかわりない。ぴくりと眉が動くのを感
じた。
﹁いつまでへそを曲げている気ですか。そろそろ姉上が面倒になっ
て、相手をしなくなる頃合いですけど﹂
あえて棘を含めて言うと、ルパートの唇がとがる。しかし、彼が
なにかを言う前にフィオーラが針をとめた。白薔薇の蕾が途中にな
って膝のうえに置かれる。
﹁ちょっと、ユーグ。勝手に人の行動を読むのはやめなさい﹂
﹁本当のことですが、なにか﹂
しれっと答えれば、フィオーラの頬がふくらむ。
いつの間にこんなに生意気になっちゃったのかしら。子どもっぽ
く眉をしかめて悪態づいたフィオーラは、たぶんルパートの心境を
わかっているつもりだ。それが合っているのかは別だが。
ぷりぷりするフィオーラをちらりと見てから、ルパートがこれ見
よがしにため息をついた。のそりと大きな体を起こす。
﹁フィー、今日の夕飯、肉のパイ包みがいい﹂
36
ぶすっとした表情のまま、ルパートはフィオーラにからんだ。フ
ィオーラは呆れた顔でこたえる。
﹁またそうやって、子どもみたいなことを言って﹂
﹁いいだろ。せっかく俺が帰って来てるんだし。じゃ、頼むな。︱
︱ユーグ、行くぞ﹂
ため息をついて、ユーグも席を立つ。すると、とたんにフィオー
ラが心配そうにふたりを見上げた。
﹁お兄様、ユーグだけで大丈夫? わたしも行きましょうか?﹂
﹁いい。フィーは大人しくいい子にしてろ﹂
あっさりとフィオーラの申し出を断り、ルパートがひらひらと手
を振る。フィオーラがこうやってあまやかすから、ルパートがいつ
までも彼女にこだわるのだというのに。きっと彼女のなかでは、い
つまでも兄はまともに歩くことができない兄なのだろう。
思いながらユーグも席を立つ。陽が暮れる前には戻りますと添え
て、ルパートのあとを追った。
﹁ユーグ、お前どう思う﹂
街を抜けたところで馬の速度を落とした。ゆっくりと二騎を平行
させ、ようやくルパートが口を開く。
ユーグは馬が好きでよく遠駆けに出かけるが、ルパートと並んで
いくことは久しぶりだ。ルパートも騎士だから馬には乗る。けれど
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も無茶な走りをさせたり、厩で悪戯をしたりと馬丁に怒られること
が多かったため、家ではめっきり乗らなくなってしまった。
男だけとなり人目もない場所になって、ようやく本題に触れるこ
とができた。ユーグは、あまやかにほほえんだ次期宰相を思い浮か
べる。胸やけがしそうだ。あの人のあんな顔も初めて見た。
﹁クレスフォード様が動くとは思わなかったですね。でも、あとは
姉上の気持ちだけでは? 身分も人柄も申し分ない方ですから﹂
ルパートも似たようなことを思ったのだろう。むっつりした顔に、
なんとも言えない色をのせてうなずいた。
﹁んー、まあ。でも、なんか弱そうじゃねえ? どう見ても俺のが
強いだろ﹂
﹁兄上は、姉上に近づく男が気に入らないだけでしょう﹂
﹁るせー﹂
おまえだってそうだろ。不機嫌な声がつけ足した言葉をユーグは
さらりと無視した。
すまし顔のユーグにますます唇をとがらせたルパートだったが、
ため息をついてから声色をかえた。
﹁裏は取れたのか?﹂
空気が一瞬にして引きしまったと肌で感じたユーグも、背筋を伸
ばして浅くうなずく。
﹁まあ。彼が裏表のある人間でないことは確かですね。現宰相を含
めても、不正は見当たりませんでしたし、女性関係も一方的な好意
を向けられているだけで、本人はやはり潔白でした。昨晩で集め直
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した情報も、とくに変わった点は見られません﹂
﹁仕事もできるんだよな、あれで。のほほんとしてるのに、いつの
間にかいろんなことを片づけてんだよ。あれが不思議だって、結構
城で言われてる。︱︱たしかにうちをうかがってる様子ではあった
んだけど。まさか本当にフィーに目をつけてるとはな﹂
王宮でクレスフォードと接触することは、少なからずあった。ど
れも仕事の話ではあったが、なにかを話したそうな素振りを見せて
いたので、様子見と称して距離を測っていたのである。
﹁姉上は自覚がないだけで結構目立ちますから。⋮⋮兄上のせいで
もありますからね。いつまで駄目な兄を演じる気ですか﹂
﹁だって、フィーかわいいんだもん﹂
にしし、と笑うルパート。こんな顔は王宮では絶対に見せること
はない。これでも、切れ者、食わせ者と囁かれているのだルパート
は。
フィオーラが再三にわたり彼の手を引いていたのだが、もうルパ
ートがあまり道に迷うことはないのだと知ったらどうするだろう。
道を覚えることが苦手なのは変わらない。ただ、状況判断が的確に
できるから、子どものころほどルパートは苦労していないのだ。
やんちゃな少年はすっかり大人になって、今では一目置かれる存
在である。騎士になったのも王宮で動きやすくするためで、ひいて
は、ウェンズウッド家のためだ。家業を放って奔放にしていると見
せかけて、城での人脈を作り、ほかの貴族たちの動向を探ったり、
人柄を直接目で見たりしているのだと、ユーグにはわかっていた。
だから、いずれ彼が家督を継ぐときに役立てるよう、ユーグは現在
の領地を把握する。父のやり方を見て覚え、兄を助けるために今か
ら備えているのだ。
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﹁くそう。なんで一番初めに非の打ちどころのないやつが来るんだ﹂
﹁喜ばしいことですね﹂
あっさりうなずくユーグの言葉を、ルパートは聞いているのかい
ないのか。
﹁まだ、十六になったばっかりじゃないか﹂
﹁ええ、適齢期ですし﹂
﹁二十くらいまで、家にいればいいと思ってたんだけどなー。何人
かへんな男を蹴散らしてから、ようやく見どころありそうなのが来
るくらいでちょうどいいだろ﹂
勝手な構想を語り出した兄に、呆れた冷たい視線をお見舞いする
も、まったく堪えた様子はない。ユーグは何度目かわからないため
息をこぼす。
﹁兄上の希望で嫁ぎ遅らせるわけにもいかないでしょう。それに、
遅かれ早かれ嫁いでしまうのですから、それが早かっただけのこと
です。これを拒否して、よい相手を逃すわけにもいきませんよ﹂
﹁あー、おもしろくない!﹂
つまりは、そのひと言につきる。
正直にこぼす兄に、ユーグは苦笑を浮かべた。それでいて、結局
昨日はフィオーラの気持ちを大事にしたし、これからも彼女たちの
よい話
関係を邪魔するつもりはないのだろう。それほどロッシュ家と近づ
くことも、クレスフォード・ロッシュという人間も含めて
なのだ。不貞腐れている父も、フィオーラがうなずきさえすれば
渋々と話を進めるはず。あとはフィオーラ次第なのである。
幼いころからしっかりしていて、周りの状況を把握することがう
まかったフィオーラ。大人びていると思うのに、たまにものすごく
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子どもっぽいこともする。こましゃくれているというよりは愛嬌の
ある子どもだったし、それを武器にうまく大人たちを動かしている
ようにも見えた。
まったくこの子はどうしてこうなのかしら、と呆れと愛情のこも
った目で兄のことを見るのはしょっちゅうだったし、そのくせ、兄
が兄らしいことをすると頬を真っ赤にして照れる。
ユーグにはいつだって姉の立場だったけれど、勉学などやりやす
いよう環境を整えてくれたり、助言をくれたりと頼りになった。い
つの間にかユーグの方がしっかりしてしまった感はあるが、そんな
ユーグをかわいい弟扱いすることは崩さない。その点はルパートと
そっくりだった。
そのフィオーラが結婚か。
まだ確定したわけではないけれど、その可能性はひどく高い。彼
女なら、クレスフォードが宰相になったとしても、うまく邸を切り
盛りしながら支えていくのだろう。が、やはり、なんだかもやもや
した。おもしろくない。たしかに、それだ。
﹁俺、あの人にお義兄様って呼ばれるのか﹂
馬の足音に消えそうな声で、ルパートがちいさくこぼした。ユー
グも思わず手綱を持つ手に力がこもる。
﹁⋮⋮お義兄様﹂
自分はそう呼ぶのか。あのクレスフォード・ロッシュを。
しばらくの間、蹄の音だけが響いた。
ユーグはなんとも言えない気持ちでちらりと横を見上げる。する
と、同じような顔のルパートと目が合った。馬の速度が急激に落ち
た。
41
﹁⋮⋮帰るか﹂
﹁ええ﹂
手綱を引いて馬の向きを変える。陽はずいぶんと傾いているから、
ちょうどよい。
パイ包みでも食わないとやっていけないよなあ。ぼやいた兄の言
葉にため息で返事をする。ルパートの言いつけを守って、フィオー
ラはコックにメニューの要望をしてくれているだろう。それが、ル
パートの好物でもあるが、ユーグの好物でもあると知りながら。
こんがりと焼けたパイ生地を割って、じゅわりと出てくる肉汁の
うまみ。ふわりと舞う湯気と野菜のあまい香り。
そんなものを思い浮かべて気を紛らわせながら、あたたかな家に
向かってふたりは馬を走らせた。
42
花の雨
パン! と音が響いたのに顔をあげると、クレス様が花吹雪のな
かにいた。
さらさらと白い花弁が舞い散って、クレス様の背中を包む。それ
はとてもとてもきれいで、わたしは思わず目を丸めてその光景をな
がめてしまった。
はらはらと、やわらかな風にのって散っていく、花びら。
﹁いやだわ。どうして、あなたが先に入ってくるのかしら﹂
驚きに足を止めたのは、わたしだけではない。クレス様も予測し
ていなかったようで、青い瞳を丸めて立ち尽くしていた。そこにた
め息まじりの声がかけられ、ようやくわたしたちは花弁から目をあ
げる。
クレス様のお母様が、頬に手をあててわずかに眉をよせていた。
﹁フィオーラのために用意したのに、気の利かない息子ねえ﹂
はあぁ。悲しげな表情で、これみよがしなため息である。
クレス様は慣れているのか、お母様の言葉にもとくに反論もしな
かった。あいさつの言葉を探していたわたしをさえぎって、ほんの
りと苦笑をこぼす。
﹁ただいま、戻りました﹂
﹁はい、お帰りなさい。フィオーラも、いらっしゃい﹂
花に呆気を取られたおかげで、わたしだけまだ一歩外にいる。ク
43
レス様が振り返って手をとり、邸のなかへと迎えてくれた。
ようやくふたりで並んで立つと、クレス様のお母様はにっこりと
笑みを浮かべた。絵にかいたような貴婦人で、立っている姿勢がう
つくしかった。
﹁お久しぶりでございます。本日は、お招きありがとうございます﹂
わたしはそれを見本に、きれいなお辞儀を頭のなかに思いえがく。
粗雑にならないよう気をつけながら腰を折ると、やさしく瞳を細め
てくれた。それにこっそりほっとする。
すでに両家であいさつはすませ、先日婚約式も挙げたが、そうい
った行事以外でわたしがロッシュ家を訪ねるのは初めてになる。実
は今日は朝から緊張していた。このままいくと、お姑さんになる人
である。なるべくいい関係を作りたいので、なんだこいつと思われ
ないようにしなければ。ここからは気を引き締めなければならない。
さあどうぞ、と奥へととおされ、日当たりのよいバルコニーに案
内された。クレス様が椅子を引いて座らせてくれるのに、お礼を言
って腰かけるとうれしそうに微笑んでくれる。
本当にきれいな顔をしているなあと会うたびに思ってしまう。だ
いたいはにかんだように笑うから、よけいにずるいのです。これだ
け身分も容姿もよければ、もっと性格がひねくれそうなのに。彼は
どこまでもおっとりした天然さんであった。
﹁鍛冶屋に依頼して、作ってもらったのよ﹂
クレス様のお母様が手ずから紅茶をいれながら、出し抜けにそう
言う。
よい香りがふんわりと鼻腔をくすぐるのに感心したわたしは、首
をかしげて続きを待った。
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﹁ロッチェの花びらは、メイドたちが早咲きを集めてくれて。道具
を玄関にくくりつけたのは執事。満を持して紐を引いたのは、私だ
ったけれど。少し早かったわね。もっとよく見てやればよかったわ﹂
ロッチェとは国花のことだ。初夏から秋にかけて木々に咲き誇る
白い花は、ふわふわした花びらが幾重にもなっている。国のいたる
ところに植えられているから、白い花が街を彩ると夏が来たなあと
思う。このお邸の庭にも、大きなロッチェの木があるそうだ。あと
でクレス様が案内してくれると言っていた。
頬をふくらませる勢いで不満をもらしたクレス様のお母様。花の
雨を浴びたのがクレス様だったということが、ずいぶんとお気に召
さないらしい。紅茶をかたむけながら反省している姿は、年齢を感
じさせないかわいらしさがあった。
つまり、あれか。クレス様が浴びた花びらの仕掛けは、わざわざ
鍛冶屋に作らせて、家の人たちで分担して決行されたということだ。
もっと言うと、どうやら、わたしの歓迎であったらしい。
﹁まさか、このようにお迎えしていただけるとは思っておりません
でしたから、本当にびっくりしました﹂
自然と顔がほころんでしまう。
そんなわたしに、クレス様のお母様は拗ねたように口をすぼませ
た。
﹁いやだわ、フィオーラ。もっとびっくりしてもらうはずだったの
よ。クレスに浴びせたってなんの面白味がないじゃない﹂
﹁でも、とってもきれいでしたよ? なにより、わたしはそんな準
備をしてくださったお気持ちがうれしいです﹂
歓迎してくれている。それがわかるだけで、どれだけ心が軽くな
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るか。
いくらわたしとはいえ、婚約者の家を訪ねるのは緊張する。そこ
で相手のご両親に会うなんて、回数を重ねればともかく、まだ片手
でも指があまるほど。慣れるなんてまだ無理だ。
ましてここは、貴族の世界である。失態は許されないし、わたし
の中身はどうであれ、ウェンズウッド家の娘というだけで気に入ら
れないことだってある。
肩の力が、多少抜けた。思わず笑みをこぼしてしまったわたしに、
クレス様のお母様はぱっと瞳を輝かせた。
﹁聞いた? クレスフォード。フィオーラはかわいいわねえ﹂
クレス様によく似たきれいな顔がうれしそうにほほえむと、わた
しの隣でもうひとりのきれいな顔もおおきくうなずく。
﹁ええ。私もそう思います﹂
ぐふっ。咽喉が変な音を立てた。
危ない、思わず紅茶を吹き出すところだった。淑女たるもの、そ
んな失態をするわけにはいかない。むせそうになるのも根性で乗り
越えた。
ええ、ってなんですかクレス様。褒められるのはうれしいけれど、
そんなあっさり、朗らかにうなずかれてしまうと背中がむずむずす
る。⋮⋮うん、まあ、クレス様だしなあ。本当に思ってくれている
んでしょうし、いいことにしよう。気にしたほうが負けだ。
﹁そうそう、ロッチェの仕掛けだったわね﹂
内心で必死に戦っているわたしに気づくことなく、クレス様のお
母様は歓迎の演出の話に戻る。
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﹁鍛冶屋の夫人がとってもおもしろい人で。驚かせたい人がいるっ
て話したら、意気投合してしまったのよ﹂
どういった経緯で、クレス様のお母様が鍛冶屋に足を運んだのか
気になるところだけど。鍛冶屋も鍛冶屋で、そんな提案をしてしま
うのか。わたしのなかで鍛冶屋とは、武器や防具を作るイメージだ
ったから、考えを改めたほうがよさそうだ。
﹁何度も練習もしたのに、本番でうっかりするなんて。私もまだま
だね﹂
物憂げにため息をこぼしたクレス様のお母様だが、視線で執事へ
紅茶のおかわりをうながすと、もうこの話は終いでよいのかあっさ
りとクレス様を振り返る。
﹁クレスフォード、あなたはいつもフィオーラを独り占めしている
のだから、今日くらいはお母様に譲ってくださらない? 女同士で
ゆっくりお茶をしたいのだけれど﹂
クレス様のお母様と、ふたりで、お茶ですって?
わたしの体が思いっきり固まってしまったのは、もうしょうがな
いことだと思う。新しいポットとカップを持って現れた執事も、き
っとこの流れを予測していたのだろう。きちんとわたしの分のカッ
プまで手にしていた。
満面の笑みを浮かべて小首をかしげるお母様に、クレス様でも逆
らうことは難しいらしい。
わたしの顔をそっとうかがい見てから、クレス様は困ったように
笑った。
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﹁あまりフィオーラをいじめないでくださいね﹂
﹁人聞きの悪いことを言わないの。ほら、フィオーラが身構えてし
まうでしょう﹂
早く行きなさい、なんてあしらわれて、クレス様は席を立つ。
大丈夫ですよ。ちいさくわたしの耳元でそう微笑んだのに、わた
しは膝の上でぎゅっと手を握った。
新しい紅茶。皿に並んだクッキーとマドレーヌ、色とりどりのマ
カロン。
改めて整えられたテーブルは、ずいぶんと華やかなものであった。
紅茶をひと口楽しんだクレス様のお母様は、静かにカップを戻す
とまっすぐとわたしを見つめた。
﹁フィオーラ。ロッシュ家は、︱︱いえ、私たちはあなたを歓迎し
ますよ﹂
姿勢を正したまま、わたしは言葉をなくす。
なにを言われるのか考えを巡らせていたわたしだが、向けられた
言葉は、思い浮かんだもののどれにも当てはまらなかった。
まなざしを受け止めることしかできないわたしへ、クレス様のお
母様は続ける。
﹁長いこと浮いた話がなくて、すすめたご令嬢とも婚約するには至
らずに終わってしまうし。ずっと心配していたら、実は気になる女
性がいるなんて言うから。どこのどなたかと思えば、ウェンズウッ
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ド家のご令嬢だなんて。本当にうれしくて﹂
ふふ、と笑うお母様は言葉どおり、本当にうれしそうだった。
家柄に問題がなくて、よかった。それはきっと、わたしだけでは
なくて、わたしの家族もクレス様のご家族も、みんなが思ったこと
だろう。貴族だから。対立している相手でも、身分がない相手でも
だめ。それだけのことで、話にもならない。
こんな局面で、家柄に感謝することになるなんて、わたしは思っ
てもいなかった。それと同時に、自分にも驚く。結婚について淡白
なつもりだったが、思いのほか、この結婚を受け入れていたのか。
クレス様と結婚するということを、望んでいたのか。
いまさら気づいたことが恥ずかしくもあり、照れくさくて勝手に
顔が赤くなってしまった。
クレス様のお母様は、そんなわたしを見てにっこり笑った。
﹁見た目に反して抜けているところがあるし、女性の扱いなんてう
まくできないでしょうから、気が利かないし。それに、あなたも知
っているでしょうけれど、道によく迷うのよ﹂
⋮⋮話の方向が、思わぬところへ移りましたね。
わたしの表情から、お母様は肯定と受け取ったようだった。大き
くうなずいて、真剣に語り続ける。
﹁今は子どものころより、よくなっているみたいだけれど。本当に、
クレスフォードはよく迷子になったわ。ひとりで出かけさせなかっ
たのに、出先ではぐれてしまうの。だからね、鈴をつけたの﹂
﹁え?﹂
驚いて目を丸めたわたしに、クレス様のお母様は真面目な顔で繰
り返した。
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﹁鈴よ。ちりんちりん鳴るじゃない﹂
﹁は、はい。鳴りますね﹂
﹁首から下げさせたの。クレスに。そうすれば、音でどこにいるか
わかると思って。とってもいい案でしょ?﹂
首から、鈴。
唖然としたわたしをよそに、クレス様のお母様はここでもため息
をこぼした。
﹁でも、いざやってみたら駄目だったわ。そりゃあそうよね。離れ
たところでは鈴の音なんて聞こえないもの。隣を歩いているときに
鳴ったって、迷子になったときにはまったく役に立たなかったわ。
あれは本当に名案だと思ったのに﹂
はあぁ。悲しげにため息をつくその表情は、この日出迎えてくれ
たときと重なる。
ロッチェの花びらが降りそそいだ、あのうつくしい光景。目を丸
めて立ち尽くしたクレス様の背中。悲しげな、クレス様のお母様。
﹁それは⋮⋮大変だったのですね﹂
こらえきれずに、わたしはくすくす笑ってしまった。
そうよ、大変だったのよ! なんてクレス様のお母様もうなずい
て、あれやこれやと当時の出来事を話してくれる。
変わった人だなあ。さすが、クレス様のお母様という感じだ。
邸のなかでは毛糸を結び付けていた、なんてまた笑いとの戦いを
しなければならない話を聞きながら、わたしはちいさなクレス様を
思い浮かべる。
わたしが街で助けたとき、クレス様はかわいらしいお人形のよう
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な子どもだった。その首に、鈴。彼の方向音痴は相当なものなので、
お母様もずいぶん手を焼いたのだろう。その結果が、鈴。そして毛
糸。⋮⋮だめだ、笑ってしまう。
どこまでも真剣なところに、ますます笑いの発作が起こりやすく
なっている。わたしは、今まで培ってきた淑女スキルを総動員して
笑いを引っ込めた。淑女とは、吹き出したり、腹を抱えた爆笑した
りしてはいけないのである。危ない。本当に危ない。くすくす笑い
ならまだ許されるから、必死に笑いを収める努力をしている。
クレス様のお母様とゆっくり話すのは、今回が初めてだった。
絵に描いたような貴婦人で、たおやかなのに、芯がしっかりして
いる方だと思っている。家を切り盛りする手腕も大変すばらしいと
の評判だから、ぜひとも参考にさせてもらいたい。素敵なご婦人な
のである。
それは今話してみても変わらないけれど、やっぱりというか、ち
ょっとずれた一面もお持ちのようだった。礼儀作法や所作に厳しい
ような方じゃなくてよかった。よく聞く嫁姑問題には、今のところ
ならないだろう。
むしろクレス様のお母様の情熱の方向が、貴族の奥様とは思えな
いところへ注がれているところが大変興味深い。あの花吹雪の準備
や、クレス様の鈴の件がいい例だ。きっと、今までにいろんな事例
があったに違いない。
﹁フィオーラは、ちいさなときからしっかりしていたと聞いていた
けれど。クレスと会ったことがあったそうね?﹂
﹁はい。一度だけですが、街で﹂
仕立て屋からの帰り道で、途方に暮れていたクレス様。今ならそ
の顔がはっきりと思い出せる。
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﹁私もちいさなあなたと会ってみたかったわ。たしかに、こうして
話してしっかりしているとも思うけれど、ただ素直なのね。意外と
とっつきやすくて安心したわ﹂
﹁素直、ですか?﹂
それはクレス様のような人を言うのだと思うけれど。
そっとカップをソーサーに置くと、クレス様のお母様がおかわり
をついでくれる。
﹁あなた、面倒くさいことが嫌いでしょう﹂
ずばっと指摘されて、思わず動きが止まってしまった。図星であ
る。図星なんだけど、こんなにはっきりと言われることに驚いた。
貴族というものは、大変面倒なことに歪曲した表現を好むのである。
﹁だからどうすれば問題にならないか、先を見越して動いているか
らしっかりしていると周りは思うし、たしかにしっかり者ね。でも、
頭が固いのではないから視野も広いし、そのぶん寛容だわ。⋮⋮だ
からこうして私ともお茶ができるのよ。普通のお嬢様だったら、怒
って席を立っていてもおかしくないじゃない﹂
私の言動は失礼と言われるものだったのに。にっこりと笑う相手
に、わたしはなんと返してよいのか言葉につまる。
﹁よかったわ、本当に。なるべくよい関係ではいたいから、気が合
わなかったら上辺だけですませるつもりではいたけれど。私、娘が
ほしかったのよ﹂
﹁そうなのですか﹂
かろうじてそう相槌を打ったわたしに、クレス様のお母様は大き
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くうなずく。
﹁息子も結局ひとりだけだし、やっぱり家はにぎやかなほうがいい
わね。結婚したら邸は別になりますけど、いつでも遊びにいらっし
ゃい。クレスフォードの同伴なんてなくていいわ﹂
マカロンを食べ終えた手をナプキンで拭いてから、うっとりする
ほどきれいな笑みをわたしへと向ける。
その姿は本当に貴族令嬢のお手本ともいえるのに、こぼれる言葉
がことごとく貴族離れしているように思えた。わたしの驚きなんて
気にもしないで、クレス様のお母様はマイペースに話を続ける。
﹁息子と食事やお茶なんてつまらないですから。お買い物なんかも
いいわねえ。結婚式の準備もあるし、息抜きに今度行きましょう。
新しくできた、焼き菓子のお店を知っている? 評判だときいて先
日取り寄せたら、とってもおいしかったのよ。あなたが来るときに
合わせて用意して︱︱﹂
﹁母上、それくらいになさってください﹂
延々と続くと思わせるお母様をさえぎったのは、つまらないと評
されたご子息であった。
クレス様の登場に、お母様はさして驚いたふうでもなく少女のよ
うに首をかしげてみせる。
﹁あら、もう戻ってきてしまったの?﹂
﹁私もそろそろフィオーラと話をしたいので﹂
さらりと蜜語をはいたクレス様に、お母様は瞳をやわらかに細め
た。ふうと息をついて、空になったカップをテーブルへと戻す。
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﹁まったく耐え性のない子ねえ。フィオーラ、ごめんなさいね。ま
たゆっくりお茶をしましょう。今度はクレスフォードのお願いをき
いてあげてちょうだい﹂
﹁ええ。もちろんです﹂
こころよくうなずいたわたしに、クレス様もほほえみ返した。
それにほっとしてしまったのは内緒だ。もしかしたら、ほんのち
ょっとだけ顔が赤くなっちゃったかもしれないけど、たぶん大丈夫。
クレス様は気づいていないはず。
クレス様のお母様とこうして話せたことは本当によかった。この
先のことも、少しだけ心配がやわらいだ。でもまだ、やっぱり気を
張っているんだろう。クレス様の顔を見て、そう実感してしまった
わたしはまだまだ貴族令嬢として未熟である。
椅子を引いてくれたクレス様に、自然と笑みが浮かんだ。
差し伸べられた手が、わたしの手をくいと引く。そのまま流れる
動作で腕につかまるよう促され、青い瞳がやさしく見下ろす。
夕食までには戻りなさいと送り出す声に返事をして、白い花が咲
き誇る庭先へと導かれたのだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9212cm/
導く手
2016年8月22日17時58分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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