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Title Central Labour College, 1909年-1929年

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Title Central Labour College, 1909年-1929年
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Central Labour College, 1909年-1929年(下) : イギリスにおける労働者コレッジ運動と労働組合
松村, 高夫
慶應義塾経済学会
三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.82, No.3 (1989. 10) ,p.505(93)- 529(117)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19891001
-0093
r 三田学会雑誌」82卷 3 号 (
1989年10月)
Central Labour College,
1909年一1929年 (
下)
イ ギリ ス に お け る 労 働 者 コ レ ッ ジ 運動と労働組 合一
—
松 村 高 夫
自 次
はじめに
I
n
ラスキン• コレッジ(
R.C . ) の学生ストライキ
1 R .C . の教育方針と「
プレプス. リーグ」の結成
2 D .ハードの辞任と学生ストライキ
皿 セ ン ト ラ ル . レイバー. コレッジ(
C. し C.)の設立
1 C.L.C. の開校
2 労働組合の視点からのC.しC .( 以上,82卷 1号)
IV ロンドン移転後のセントラル. レイバー. コレッジ(
C. L. C . ) ( 以下,本号)
1 C.しC . のロンドン移転(
1911年)
2 C.L.C. における学生の反乱(
1912年)
3 C.L.C.女性同盟の結成
全国労働者コレッジ評議会(
N .C .L .C .) とレイバー•
V
コ レ ,ジ
V I レイバー.コレッジの衰退
1
2
コレッ ジ長クレイクと書記フッ トの横領享件
コレッジの閉鎮
付 C.L.C . のカリキュラムと派遣学生試験問題
IV
ロンドン移転後のセントラル. レイバー. コ レ ッ ジ (
C.し C.)
1 . C. L. C . のロンドン移転(
1911年)
1911年 11月 14日, C .L .C . は オ ッ ク ス フ ォ ー ド か ら ロ ン ド ン へ 移 っ た 。 オックスフォードの プテ
ド モ ア 通 り の C .L .C . 所 在 地 の 地 主 は , セ ン ト • ジ ョ ー ン ズ • コレ ッジであったが, C .L.C . に非
協 力 的 で あ り , 1911年 3 月, C .L.C . は 地 主 の 立 ち 退 き 要 請 に よ り 一 時 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の バ ー ク
( 1)
. タ ウ ン 5 番 地 に 移 っ て い た 。 数 力 月 の の ち , そ こ も 退 去 せ ざ る を え な く な り , ロンドンのアール
ス . コート地区 に 移 っ た の で あ る 。 C .L .C . の 第 3 回 年 次 総 会 (
1912年 8 月) で, 言記クレイクは
この移 転 に つ い て ,「これらの困難は, 疑 い も な く オ ッ ク ス フ ォ ー ド 文 化 に 特 徴 的 な あ の 不寛容の
( 2)
精 神 , 反 動 以 外 の 何 も の を も 好 ま な い 精 神 に よ っ て 生 み 出 さ れ た 」 と報告している。 書記は, シム
ズが 1910年 9 月 病 気 で 辞 め た あ と , ク レ イ クが引き継いでいた。
注 〔1 ) C. し C., Report of Second Annual General Meeting, August 7,1911, (MSS. 127/LC/4/1/3), p. 3.
(2 )
C.しC., Report of Third Annual General Meeting, August 5,1912, (MSS. 127/LC/3/1/1), p. 2.
93 (505)
ロンドン移転後も,C .L .C . の 財 政 は 楽 観 的 見 通 し を も て な か っ た 。 コ レ ッ ジ 長 D . ハードの同年
次 総 会 報 告 に も ,「コ レ ッ ジ の 財 政 上 の 闘 い は な お 厳 し く , 労 働 組 合 が こ の *態 を 真 剣 に 考 慮 し な
( 3)
いならぱ, コ レ ッ ジ の 将 来 は 極 め て 疑 わ し い 」 とある。 事 実 , C .L .C . が ロ ン ド ン に 移 転 し た 1911
年 10月 25日から 12年 6 月 30日 ま で の 間 の 総 収 入 £ 2 ,996の う ち’ 主 な 財 源 で あ る 労 働 組 合 か ら の 奨
学 金 授 業 料 は £ 5 4 1 と18.1% に す ぎ ず ,銀 行 か ら の 借 入 金 も 2 ,159に72.1% を 依 存 し て い た 。 ロン
ドンでは61年 間 の 賃 借 契 約 を 結 ぶ こ と が で き た が , 賞 借 料 £1,302 は全支 出 の 43. 5% を 占 め , 他の
( 4)
主 要 な 支 出 項 目 は , 食 料 調 達 £ 2 9 4 , 設 備 • 図 * 費 £ 2 3 3 , 給 与 £159 であった。
ロ ソ ドン移転に伴い, C . し C . の 運 営 母 体 は 暫 定 委 員 会 か ら 新 た に 設 置 さ れ た 理 享 会 B oard に
なった。 この時以降, C . し C . を 支 持 す る 諸 団 体 の 代 表 か ら 構 成 さ れ る こ の 理 # 会 が , 全てコレッ
ジの運営と 力 リ キ ュ ラムをコントロールすることになったのである。 理 事 会 は 7 名 で 構成され,
A .S .R .S . か ら は ウ ィ リ ア ム ズ J.E. W illia m s と ェ ド ワ ー ズ Ernest Edwards の 2 名 が , また,
S. W. M. F . か ら は ア プ レ ッ ト Noah Ablett 他 5 名力; , 理 * となった。 受 託 者 も A. S. R. S., S. W.
M . F . の ウ ェ ス タ ン •ヴ ァ リ ー ズ と ア ン ス ラ サ イ ト 地 区 の 3 者 と さ れ た 。 新 規 則 も 承 認 さ れ , ここ
に C .L .C . は, 労 働 組 合 が 資 金 援 助 を し 力 リ キ ュ ラ ム や 運 営 を コ ン ト ロ ー ル す る 名 実 共 に r 独立労
.働 者 階 級 教 ぎ 」 ‘indゆefident working class education*の コ レ ッ ジ と な っ た の で あ る 。
こ の 「独 立 」 とは, 公 的 資 金 の 援 助 を 受 け ず , 労 働 組 合 が C .L.C . の 財 政 を う と い う こ と を 意
味する。 であるから, C .L .C . は 絶 え ず 財 政 不 足 に 悩 ま さ れ ろ こ と に な る 。 1912年 8 月 の 第 3 回年
次 総 会 で の 労 働 組 合 へ の 寄 金 の ア ピ ー ル に 応 え て , A .S .R .S . 執 行 委 員 会 は £200 の C . し C . への
貸 与 を 決 定 した。 こ れ は 1913年 1 月 号 の 『プ レ プ ス • マガジン』 のトッ プ記事となり,「こ れ で コ
(6)
レッジの スタッフは再 度 ひ と 息 つ げ る と 書 い た 」 力;, 翌 月 号 で は 取 り 消 さ れ た 。 £200 貸 与 に 「我
々は喜んだ。 あ 一 ! 提 案 さ れ た 貸 与 を (
A . S .R .S . ) 執 行 g 員 会 は 承 認 し た が, 受 託 者 は 不 承 認
だった。 A » S .R .S . の 規 約 に 違 反 し て い た か ら で あ る 。 ......C .L .C . は 何 か 他 の 方 法 で £2 0 0 を見
( 7)
つ け な け れ ば , コレ ッ ジ は 閉 鎖 し な く て は な ら な い 」 と言いたのである。
奨 学 金 授 業 料 が 少 な か っ た か ら , 学 生 数 は い ぜ ん と し て 少 な か っ た 。 1911年 8 月 か ら 1 年間の学
生数は 22名, そ の う ち 3 名 は A .S .R .S . 力'S 6 名 は S .W .M .F . が 奨 学 金 を だ し て 送 っ た 学 生 で
あり, 残 り は 私 費 学 生 5 名 , 奨 学 金 に よ る 学 生 8 名 で あ っ た 。 そ の 他 , ハ ッ キ ン グ A.J. Hacking
が 中 心 に な っ て 創 立 し た 通 信 部 の 学 生 が , 計 171名 い た 。 コースは, 文 法 (
70名) , 経 済 学 (41名),
論理学(
34名), 産 業 史 (17名) , イ ギ リ ス 文 学 (7 名) , 進 化 論 (2 名) と 6 つあり, ハ ッ キ ン グ の 報
( 8)
告 に よ れ ぱ ,「学 生 数 は 少 な い が , か れ ら の 知 的 性 格 は 良 好 」 であった。 し か し 1912年 秋 に 寄 宿
注 (3 ) Ibid., p. 7.
(,4 ; 'Treasurer's Report and Balance Sheet’,in ibid., pp. 8-9.
(5 )
(6 )
(7 )
(8 )
C. L. C', Report of Third Annual General Meeting, op. ciL, p. 3.
Plebs Magazine, vol.IV, n o .12, January, 1913, p. 265.
Ibid" vol.V, n o .1 , February, 1913’ p .1.
*Correspondence Department Report’
, in C. L. C', Report of Third Annual General Meeting,
op, ciL, p .11.
-----------
94 〔
506 ) ---------------
制学生が反乱を起こした。
2.
C . L . C . に おけ る学 生 の 反 乱 (
1912年)
C.し C . が R. C. (Ruskin C o llege ) における1909年 3 月一 4 月の学生ストライキから誕生した
(1909年 9 月)ことは前稿(
上)で記したところだ力:, 1912年秋,そ の C . L . C . で学生の反乱が生じ
た。 R . C . でジェヴォンズの経済学は教える必要はない, マルクス経済学のみ教えるべきであると
主張し反乱を起した学生が,新たに設立したC .L .C .で,今度はマルクス経済学の講義に対して魅
力的でないと反乱を起したのは,何とも皮肉なことであった。批判の対象となったマルクス経済学
の担当者はG . シムズ。 かれこそ,R .C .のストライキでは指導的役割を果し, C . し C . 創設の中心
人物となった一人である。 こ の C . し C . の学生ストライキは,C . L . C . のいわぱ「輝かしい」労働
者教育史には汚点とみなされたためか,W . W . クレイクの前掲書 The Central Labour Collegeに
も記されていない。 し か し 『タイムズ』や 『プレプス• マガジン』が報じているし,C .L .C .の理
事会議事録や教員会議録も残されているので,そのストライキの概要を把えることは可能である。
『タイムズ』 The T im e s は, 1912年11月18 日,「
反乱する労働者学生たち」 という見出しで,つ
ぎのように報じた。
r オックスフォードのラスキン.コレッジから脱退した結果創設されたロンドン
の セ ン トラ ル . レイバ ー .コ レ ッ ジで,学生たちが再び反乱の状態にある。かれらは, コレッジが
コレッジ支持者たちに最良の利益があるようには運営されていないと主張して,労働組合の指導者
たちに支接を求めるアピールを出した。すでに出された回状には, 1911年に学察に20名の学生がい
たが,いまや 9 名まで減少し,かれらを看るために他に9 名のものがいると書かれている。現在の
( 9)
基盤の上にコレッジを継続させるより閉鎖した方がよいと,学生たちは示唆している。
」 こ の 『タ
イムズ』の記* は,T .U .C .議会委員会の報告書にも転載されているが,T .U .C .は当時W .E.A .
(Workers' Educational Association) を 支 持 し C. L. C . を敵視していたことを考慮すれば, この
(10)
反 C .L .C .的記* がコメントなしに転載されたことが一定の意味を帯びてくる。
学生の反乱の発生と経過を,いま少し詳しくみてみよう。 1912年11月 6 日, C . L . C . の学生全員
9 名は,C .L .C .の運営理享会に数項目の要請* を提出した。 この理享会には,理享として議長ュ
ドワーズEdwards, J. E . ウィリアムズJ. E. Williams, N . アプレットNoah A b le ttが出席し
教員も 3 名の学生も出席した。要請の第 1 点は,ま規制に関するもので,夜 11時以降の外出は特別
のぱあい(
会合や劇場にいく)以外は認められず,散歩も違反という現行規則に対し帰察時間の延
長を求めるものであった。第 2 点は,学生が使う暖房用石炭を無料支給にして欲しいという要請で
あった。 第 3 点は,C .L .C .のスタッフが過剰であることと経済学の講義が魅力のないものである
ことに対する批判であった。第 4 点は,料理人プラウンから出された給与増額の要請,第 5 点は,
( 11)
察長の権限についてであった。 これらの要請のなかで特に重要なのは,第 3 点のスタッフの過剰と
注 (9 )
(10)
The Times, November 18,1912.
T .U .C . は W .E .A . を支持し,1915年までは C . し C . を承認しなかった。前 稿 〔
上)
,p. 54 参照(
—
95 ( 5 <97 ) —
経済学講義の魅力の欠如である。
ス タ ッ フ 過 剰につ い て は , 11月 6 日 に 提 出 さ れ た 要 望 I I に, つ ぎ の ご と く 指 摘 さ れ て い る 。
「(C.L.C. の) 財 政 的 展 望 は 極 め て 暗 い 。 労 働 者 階 級 の 教 育 の 本 拠 が 救 わ れ る た め に は , ドラステ
ィックな方法が採られねばならない。 労 働 組 合 運 動 は コ レ ッ ジ が 抱 え て い る 負 債 を 容 易 に 一 掃 す ろ
ことができるし, コ レ ッ ジ を 堅 固 な 財 政 基 盤 に の せ る こ と も で き る 。 い ま 提 起 さ れ て い る 問 題 は ,
コ レ ッ ジ が よ り 節 約 し て 運 営 で き な い だ ろ う か と い う 点 で あ る 。 我 々 は , 寄 宿 制 学 生 と し て , はっ
( 12)
き り 「イエス」 という。」 学 生 側 は , 昨 年 度 (1911年一12年)は, 教 員 が ハ ー ド , クレイク, ハッキ
ン グ の 3 名, 学 生 が 18名 だ っ た の に 対 し , 今 年 度 (1912年一 13年)は 学 生 が 9 名 に 減 り , し か も 2 年
間 の コ ー ス を 終 え て な お 留 ま っ て い る も の が 2 名 い る の は , コ レ ッ ジ の 「負 担 」 になっているとし
て,つ ぎ の よ う に 主 張 し た 。2 名 の 残 留 者 に つ い て ,「こ の コ レ ッ ジ の 目 的 は , 労働者階 級 の 利 益 の
宣 伝 者 と し て 人 び と を 訓 練 す る こ と で あ り , そ れ故, か れ ら は 各 々 の 地 区 に 戻 り , 獲 得 し た知識を
( 13)
拡めることができねばならない。
」 このように, 卒 業 後 も 料 理 人 の 助 手 や * 記 の 助 手 と し て 2 名が
出 身 組 合 に 帰 ら ず に 留 ま っ て い た の が 批 判 さ れ た の で あ る 。 学 生 側 の 要 望 * は, つづけてこういっ
て い る 。「労 働 者 階 級 の 教 育 の 原 則 は 正 し い し , 全 面 的 に 支 持 す る に 値 す る 。 しかし, かようなバ
カ バ力しく 不 必 要 な ス タ ヴ フ が い た の で は , セ ン ト ラ ル . レ イ バ ー .コ レ ッ ジ を 存 続 さ せ る こ と は
できない。 当 学 院 が 危 機 の 段 階 に 到 達 し て い る こ と は , 貴 殿 に も 全 く 明 白 で あ る に ち が い な い 。 労
働者たちは自らの少ない賃金のなかから,労働組合への寄金を維持するために厳しい闘いをしてい
る。 それ故, 我 々 が 労 働 者 と し て こ の コ レ ッ ジ が 職 務 に 沿 っ て 経 営 さ れ て い る か 否 か を み る の は ,
( 14)
当 然 の こ と で あ ろ う 」 と。
経 済 学 の 講 義 に つ い て は , 学 生 側 は ,r カ リ キ ュ ラ ム の 最 も 重 要 性 の あ る 科 目 は 経 済 学 で あ る 。
こ の 科 目 の 現 在 の 講 師 G . シムズ氏は, 教 え る の に 全 く 不 適 任 incompetent で あ ると我々全員は
( 15)
考 え る 」 として, つ ぎ の よ う な 決 議 を し た 。 r……不 幸 に し て , か れ の 講 義 の や り 方 や ス タ イ ル は ,
ど の 学 生 に と っ て も 分 り に く い も の で あ る 。 我 々 の 側 が 忍 耐 強 く 努 力 し て も , かれの意味するとこ
( 16)
ろを理解することができない, と我々は残念ながらいわざるをえない。
」 そして, シ ム ズ に 代 っ て
ク レ イ ク か 他 の 講 師 に 経 済 学 を 講 義 さ せ る よ う 求 め た 。 もしこの要求が容れられなかったならば,
r は る か に 大 き な 利 益 が 得 ら れ る と 我 々 が 確 信 す ろ 」 自 主 ク ラ ス を 編 成 す る 。 そして現 在 の ま ま で
は C .L .C . は 閉 鎖 し た 方 が 存 続 さ せ る よ り 良 い , と主張し, 改 革 を 求 め て 学 生 側 全 員 9 名 の暑名入
注 (
11)
Board Meeting, November 1912, 速 記 録 (
15頁のタイプ刷)(
MSS. 127/LC/3/1/3), pp. 4-14.
An Appeal to Trade Unionists (November 1も 1912)( タイプ刷)(
MSS. 127/LC/3/1/5) 同文
のものが,Hebs Magazine, vol.IV, n o .1 1 , December 1912, pp. 247-8,に掲載されている。1912
年 11月 6 日の C.L.C . 理事会宛の要請書もアピールには含まれている。 署名者は, 9 名の学生会員
で, J. B. Allen, W. W. Booth, G. Daggar, T. Dean, A. Hatfield, R. Holder, H. Thomas, N.
Thomas, C. W. Webber.
(13) An Appeal to Trade Unionists, op. cit" p. 2.
(14) Ibid" pp. 2-3.
(15) Ibid" p. 4.
(16) Hid., p. 4.
(12)
—
96 is o s ')
—
( 17)
りで, 11月 14 日,労働組合宛にアピールを出したのである。
多 少 迴 及 し て 享 態 の 維 持 を み て み よ う 。 G . シ ム ズ は 病 気 療 養 の の ち ,1912年 9 月 17日 か ら C丄 .C.
に戻り, 経 済 学 を 講 義 す る 一 方 書 記 の し ご と を 再 開 し て い た 。 再 開 後 , 間 も な く シ ム ズ の 経 済 学 講
義 に 対 す る 学 生 の 不 満 が 噴 き だ し た 。 10月 22日の教員会 議 録 に は , 学 生 側 代 ま は ,「1) 経済学 の 講
義 (
複数)は長す ぎ る , 2)長 く 座 っ て い る こ と は 不 可 能 で あ る , 3) 説 明 が 明 解 で な い , 4) 方法, ス
( 18)
タイ ル が 極 めて退 屈 で あ る , と い う の が 学 生 の 一 致 し た 見 解 で あ る と 述 べ た 」 と* かれ て い る 。 こ
の教 員 会 議 に は , ハード, ハッキング, クレイク, シ ム ズ の 全 教 員 4 名 が 出 席 し て お り , シムズは
( 19)
「長 い 講 義 は 通 し て 1 回 だ け で あ り , そ れ は 時 計 を も っ て い な か っ た こ と に よ る 」 と釈明している。
この 会 議 は 学 生 と 個 々 に 会 見 す る こ と を 決 定 し た が , 学 生 は そ の 決 定 が C . し C. 当局による切り崩
(20)
しを 招 く こ と を 恐 れ て 強 く 反 発 し て い る 。
3 日後の 10月 25日には, シ ム ズ は 学 生 か ら の 批 判 に つ い て , 学 生 代 表 に 問 い た だ し て い る 。 シム
ズによれば, か れ の 経 済 学 講 義 に 反 対 す る 学 生 の 意 見 は , 第 1 に, r マ ル ク ス 以 前 の 経 済 思 想 学 派
の 知 識 は 不 必 要 で あ る 丄 第 2 に ,r た と え そ の 知 識 が 必 要 で あ る と し て も , そ の 講 義 の 課 程 の な か
では教えるのが早すぎるので有効ではない」
, 第 3 に,「リカード地代論のようなマルクス理論とは
反対の他の諸理論は, マ ル ク ス の 課 程 を ま ず 開 始 す る こ と な し に は 理 解 不 可 能 で あ る 丄 第 4 は,
( 21)
「昨年, 学 生 は 弁 誕 法 の 知 識 な し に コ レ ッ ジ を 卒 業 し た 」 の 諸 点 で あ っ た と い う 。 因 み に , 当時の
弁 証 法 は , 進 化 論 の 梓 組 の 内 で 把 え ら れ て お り , 学 生 代 表 も ,「当コレッジの 主 要 科 目 は 進 化 論 の
立場 か ら ア プ ロ ー チ さ れ て い る 。 す な わ ち , 弁 証 法 は , 進 化 論 的 観 念 に 基 礎 づ け ら れ た 推 論 以 外 の
( 22 )
何 も の で も な い 」 と主張している。
前 記 11月 6 日 の C . し C . 理 事 会 の 前 日 に 開 か れ た 教 員 会 議 は , 過 剰 ス タ ッ フ を め ぐ っ て , 2 対 2
に 意 見 が 割 れ て い る の は , 興 味 深 い 享 実 で あ る 。 r ハ ッ キ ン グ 氏 と ハ ー ト 氏 は , 学生の提起したス
タッフ過剰に賛成 し た が , シ ム ズ 氏 と ク レ イ ク 氏 は そ の 点 に 反 対 し , 教 員 の し ご と を コ レ ッ ジ 内 部
( 23)
の し ご と の 関 連 だ け で 判 断 す る の は 公 平 で は な い と 主 張 し た 」 と教員会議録にはある。 そ の 後 , 前
者の声はかき消されていくことになる。
か く し て , 翌 日 11月 6 日 の C .L .C . 理事^会 へ の 学 生 か ら の 要 望 言 提 出 と な っ た の で あ る が , 理 *
注〔
17) Ibid.
(18)
Meeting of Staff Committee of Labour College, October 22,1912, in MS. Vol. of Signed
Minutes, April 1912—May 1915.( 手稿)(
MSS. 127/LC/1/3/1)
(19)
(20)
(21)
Ibid.
Meeting of Staff Committee, op. cit., October 29,1912.
Minutes of Board Meeting of Labour College,( タイプ刷)(
MSS. 127/LC/3/1/3), November
6’ 1912.
(22) / ろ p. 7 . 都築忠七氏は, 「この時期のC . し C . ープレプズの運動の基調をなしたのは,このよう
な進化論に接木されたマルクス主義であり,そうしたものとしてイギリスの産業組合主義に土着のイ
デォロギ一を提供したといえよう」 と述ぺている〔
前掲論文「アングロ .マルクス主義の再検时丄
P .10) 0
(23)
Meeting of Staff Committee, op. cit., November 5,1912.
—
97 C509)
会 に 出 席 し た 3 名 の 学 生 の う ち の 1 人 ウ ェ バ ー Webber は,「シ ム ズ 氏 の 講義にこれ以上出席する
よりは, た だ ち に コ レ ッ ジ を 去 る だ ろ う 。 というのは, そ の 講 義 は 神 経 系 統 を 完 全 に か き 乱 す か ら
( 24)
であ る 」 と語った。 また, 他 の 学 生 ハ ッ ト フ ィ ー ル ド Hatfield は, 不 満 の 原 因 は , 2 年 次 の 学 生
( 25)
向 け の 『資 本 論 』 2 巻 と 3 巻 の 勉 強 を 目 的 と す る ク ラ ス が な い こ と で あ る と 述 べ て い る 。
しかし, 学 生 側 の 要 求 は , 基 本 的 に は 拒 否 さ れ た 。 コ レ ッ ジ 側 の 決 定 は 専 制 的 で あ っ た 。r 当コ
レッジは理事会の コ ン ト ロ ー ル 下 に あ る 。 我 々 は 学 生 た ち の 心 か ら の 協 力 を 歡 迎 す る 一 方 で , かよ
う な 相 互 協 力 と 理 享 会 独 自 に 与 え ら れ た 権 限 と の 間 に は 境 界 線 が あ る と い う こ と を , 我々は学生た
ち に 指 摘 しておき た い 。 …… こ の 要 求 書 で 扱 わ れ て い る * 項 は , 全 く 学 生 た ち の 領 域 外 で あ る 。 こ
( 26)
れは経済学の講師についての決議についても同様に妥当する。
」 教員人享と講義内容は理享会の専
決 ま 項 で あ る と し た の で あ る 。 C .L .C . 当 局 と 学 生 の 対 立 は 深 ま り , 享 態 は 悪 化 し て い っ た 。 11月
14日には, 前 述 の 労 働 組 合 へ の 回 状 が 学 生 側 か ら だ さ れ る こ と に な る 。
C . し C . 理 # 会 は 再 度 11月 30日に開かれるが, こ こ で も 学 生 側 の 要 求 は 拒 否 さ れ た 。 それだけで
はない。 理 * 会 は 3 項 目 , す な わ ち , 第 1 に, コ レ ッ ジ 内 外 の 職 務 に つ い て 労 働 団 体 や 新 聞 に 周 知
さ せ る た め の宣言 を だす こと , 第 2 に, 事 務 員 と * 記 助 手 と し て 各 々 2 名雇用したのは 正 当 で あ る
こと(
「
通常の市場価格ではかような助手を選ぶのは全く不可能な」.安い賃金で雇用(
* 記助手は無給)したの
はよろこぶべきこととしている)
, さ ら に 第 3 に *経 済 学 の 講 義 に つ い て の 学 生 の 批 判 は 受 け 容 れ な い
( 27)
こと, を 決 定する。 さ ら に 運 営 理 # 会 は 「か れ (シムズ) に 対 す る 批 判 と か れ が コ レ ッ ジ の 規 唐 を
( 28)
維持するために果した役割との間の関連を全く無視することはできないという感触をもっている」
とするに至った。 学察の規律 :維 持 に 対 す る 学 生 の 反 発 が , シ ム ズ 担 当 の 経 済 学 の 講 義 に 対 す る 批 判
とな っ た と い う 見 解 が こ の 時 は じ め て 表 明 さ れ た の で あ る 。 雨 者 の r 関 連 を 全 く 無 視 す る こ と は で
きないという感触」 は, 翌 年 1913年 8 月 開 催 の C .L .C . 第 4 回 年 次 総 会 で の 書 記 報 告 で は , 後述す
る よ う に 「断定 」 になる。 以 上 3 項 目 の 決 議 の あ と , 運 営 理 享 会 が 教 員 の 負 担 の 実 態 を 述 べ , 教員
は , 1)週 平 均 3 コマの講義をもち, 2)少 な く と も 月 1 回 各 学 生 の 論 文 を 添 削 し , 3)通 信 部 の 約 200
名 の 論 文 ,演 習 を 添 削 し , 4)地 方 講 義 クラス, 郵 送 に よる講 義 クラス等 を 担 当 し , 5 ) コレッジの行
政 に 関 わ り , 6)外 国 の 労 働者組織に対し助言 ■
す る こ と を 挙 げ て い る 。 そ し て , コレッジのスタッフ
の 平 均 週 労 働 時 間 は 約 14時 間 , 1909年 7 月 か ら 1912年 6 月 ま で の 3 年 間 の 総 給 与 額 は £260 以下で
( 29)
ある と 述 べ て い る 。 も ち ろ ん こ う し た 報 告 の 意 図 す る と こ ろ は , 学 生 の 労 働 団 体 宛 の 回 状 に 对 し 批
半IJす る こ と に あ り , 回 状 が コ レ ッ ジ の 財 政 基 金 が 過 剰 な ス タ ッ フ に 支 払 わ れ 浪 費 さ れ て い る と 書 い
て い る の は ,r迷 惑 か つ 馬 鹿 気 た こ と 」 で あ る こ と を 示 す こ と に あ っ た が , 紛 争 の な か で 教 員 の 教
注 〔
24) Minutes of Board Meeting, op. cit., November 6,1912.
(25)
Ibid.
Ibid.
C. L.C., Board of Managements Statement. The Student Circular, 〔
タイプ刷)(
MSS. 127/LC
/3/1/4), pp. 2 - 3 . これは1912年12月3 日付でG . シムズより発せられたC . しC . 理享会決定である。
(28) Ibid., p. 3.
(29) Ibid., pp. 3-4.
(26)
(27)
98 な10)
育 負 担 の 実 態 が 明 示 さ れ た の は , 予 期 せ ぬ こ と で は あ っ た 。 ともあれ, 11月 30日の運営理事会の声
明は, 最 後 に 「こ の紛争の結果は, コ レ ッ ジ が す で に 実 行 し て き た す ぱ ら し い 活 動 を よ り 高 く 評 価
( 30)
す る こ と に 導 く だ ろ う こ と を 確 信 し て , 我 々 は こ の 事 項 を 労 働 諸 団 体 の 判 断 に 任 せ る 」 と記した。
紛 争 の 結 末 は , 圧 倒 的 に 学 生 が 不 利 と な っ た 。 翌 年 1913年 1 月 31日の教員会議で, シ ム ズ が 『資
( 31)
本 論 』 の 2 巻 と 3 巻 の 講 義 を 週 2 回 ず つ 特 別 講 義 と し て 開 始 す る こ と を 決 め た 以 外 は , 学生側には
み る べ き 成 果 は な く , C .L .C . 当 局 に 抑 え こ ま れ て し ま っ た の で あ る 。 か く し て , 1913年 8 月に開
催 さ れ た C .し C . の 第 4 回 年 次 総 会 で , * 記 シ ム ズ は , つ ぎ の よ う な 報 告 を す る 。「学生の回状に
か ん して, 不満は, 1) 当 コレッジ が 過 剰 ス タッフで あ る こ と , 2)経 済 学 講 師 が 満 足 で な い こ と , で
あった。 3 つの 異 な る 調 査 の 結 果 , 理 享 会 は 2 点 の 告 発 は 真 実 で な い と の 見 解 を と っ た 。 理事会は
さらに, こ れ ら の 告 発 は 当 学 察 の 必 要 な 規 律 に 反 対 す る こ れ ら の 学 生 た ち に よ っ て な さ れ た , とい
( 32)
う見解をもつに至った。 規 ま の 遂 行 は 全 く そ の 経 済 学 講 師 が 負 う こ と に な っ た 。」 こ う し て シ ム ズ
は, 経 済 学 講 師 と し て の 自 ら に 投 げ ら れ た 批 判 を , * 記 と し て 学 察 の 規 律 確 保 の 責 任 者 シ ム ズ が そ
の こ と の た め に 学 生 か ら 経 済 学 講 義 を 批 制 さ れ た と い う 筋 * きに転化した。 労働者教まを実施する
C .L .C . でさえ, 学 生 の 反 乱 に 对 し て は 非 民 主 的 な 方 策 を と っ た の で あ る 。
3.
C .L .C .女性同盟の結成
C. L. C . 女 性 同 盟 Women’s League of the C.L. C . の 活 動 は , 注 目 す べ き も の で あ っ た 。 当
初 ,「女 性 労 働 者 コ レ ッ ジ 」 Women’s Labour College 設 立 を 目 標 と し た 構 想 は , アダムス夫人
Bridges A da m s に よ っ て 提 唱 さ れ た 。 1912年 5 月 12 日 の 『デ イ リ ー . ヘラルド 』 Daily Herald
に 掲 載 さ れ た か の 女 の 論 稿 は , 最 近 の T .U .C . 大 会 に お い て , 大 多 数 は 女 性 か ら 成 る 20万 3,900名
の 繊 維 労 働者の 代 表 は 83名, そ の 中 で 女 性 は 3 名 し か い な い こ と を 指 摘 し た 上 で , 労働組合指導者
に女性が 少 な い 理 由 は , r 女 性 自 身 が 確 信 を 失 っ て い ろ 」 か ら で あ る と し , 女 性 労 働 者 コ レ ッ ジ 設
立 の 必 要 性 を 説 い て い る 。 その 計 画 は , まず 15名ないし 20名 を 収 容 す る コ レ ッ ジ を 男 性 コ レ ッ ジ の
近 隣 に 設 立 し 可 能 な ら ぱ 2 年 間 コ ー ス (1年も可)を 設け, カリキュラムも男性 と 同 一 に す る こ
と, そして, 男 性 コ レ ッ ジ の 講 義 も き き に い け る こ と と し , 授 業 料 も 男 性 と 同 一 額 の 年 間 £52 ( 寄
宿舎代と授業料)とすることを提示した。 財 政 援 助 は 労 働 組 合 に , と く に 女性労働組合に求め, 学生
を コ レ ッ ジ に 送 る た め の 奨 学 金 を 要 請 す る こ と と し た 。 これは, 当 時 R .C . に 3 — 6 名の女性を学
生 と し て 送 っ て い る 労 働 組 合 に , 女 性 労 働 者 コ レ ッ ジ に も 同 様 な 措 置 を 求 め る も の で あ っ た 。 可能
性 の あ る 組 合 と し て は ,A .S .R .S . , 炭 紘 夫 組 合 (
M .F .G .B .),ガス労動者ならびに一般労働者組合
( 33)
Lras Workers’ and General Labourers’ Union を 掲 け "l いる。
注 (
3の Ibid., p. 5.
(31) Meeting of Staff Committee, op, cit" January 31,1913.
(32) ‘Central Labour College, Annual Meeting', in Plebs Magazine, vol.V, no. 8, September 1913,
p. 176.
(33) Daily Herald, May 12’ 1912.
99 ( 5 ii)
ア ダ ム ス 夫 人 が C .L .C . 理事:会 に 招 か れ ,「労 働 女 性 コ レ ッ ジ 」 'Working Women's College*
(前出の名称とは若干異なっている)について 報 告 し た の は , そ の 半 年 後 の 1912年 11月 6 日である。
か の 女 の 構 想 は , 先 に 新 聞 に 発 表 し た も の よ り 具 体 的 に な っ て おり,「こ の運動の友人が, 匿名を
厳格に希望しているのだが, コレッジの長期借家権を購入しそれを相応に改修するのに充分な資金
( 34)
を み つ け る こ と を 引 き 受 け て く れ た の で , ク リ ス マ ス 後 に は 開 校 が 充 分 可 能 で あ る 」 と述べた。 そ
して, 女 性 労 働 者 コ レ ッ ジ は 独 立 採 算 で 運 営 さ れ る が , 男 性 C .し C . との間には連携と協力が保た
れ ね ぱ な ら な い し , C-し C . との 将 来 的 な 統 合 の 問 題 も 含 め て 検 討 す る た め , ア ダ ム ス 側 と C.L.C.理 享 会 そ れ ぞ れ 3 名 ず つ か ら 成 る 6 名 の 委 員 会 を 設 置 す べ き だ と 提 案 し た 。 理事会はこれを受けて
( 35)
委員 会 の 設 置 を 決 定 し , C .L .C . 側 か ら は ハ ー ド , クレイク, シ ム ズ の 3 名 が 委 員 と な っ た 。
同年 12月 18日には, C .L .C . 教 員 会 議 は , r C .L .C . の 基 金 を 増 やし , 宣 伝 活 動 を 助 け る と い う 特
( 36)
別 の 目 的 の た め に ,女 性 委 員 会 Women’s Committee の 結 成 が 望 ま し い と 思 わ れ る 」 とし, ホウ
ビ ン H o rrabin , ホ ー プ H o p e , チ ェ イ タ 一 C h ay to r, モ ン テ フ ィ オ ー レ M ontefiore, チェシヤ
イ ア C h ashire , グ リ フ ィ ス Griffith の 5 名 の 女 性 を 委 員 に 任 命 し , 委 員 会 は 月 1 回教員会議に報
( 37)
告 す る こ と と し た 。 か く し て , C .L .C . 女 性 連 盟 Women’s League が 誕 生 し た だ ち に C .し C.
理 事 会 の 承 認 を う け た 。 間 も な く , R . ウ ェ ス ト Rebecca W e s t や W . プ ラ チ フ ォ ー ド Winifred
Blachford 等 が 女 性 連 盟 に 加 わ っ た 。 し ば ら く は 確 固 と し た 組 織 な し に 活 動 し た が , 翌 年 1913年 5
月 21日, 公 式 会 議 を 招 集 す る と ,「20—30名 の 情 熱 的 な 女 性 が 集 ま っ た 。」 ホ ラビン夫人がひきつづ
き書記に選出され,会 長 に は モ ン テ フ ィ オ ー レ が , 名 誉 財 務 に チ ュ イ タ ー が 選 出 さ れ た 。 女性連 盟
の 活 動 目 標 2 つ が 掲 げ ら れ 明 文 化 さ れ た 。 す な わ ち , 1)男 性 と 女 性 の 奨 学 金 基 金 を *め る こ と に よ
り, C .L .C . の 教 爱 活 動 の 前 進 を 助 け る こ と ,
2)c.L.c.の
r ソー シャル」 の側面を発展させるこ
( 38)
とであった。 モ ン テ フ ィオ ー レの 『デ イ リ ー . ヘラルド』 へ の 投 書 の 中 の 文 言 を 使 え ば , 「女性連
盟 存 在 の 目 的 は , C .L .C . を 財 政 的 か つ 社 会 的 に 接 助 す る こ と 」 であった。
活 動 目 標 の 第 1 に 掲 げ た C .L .C . の 寄 金 集 め に 関 し て は , P ン ド ン の 多 く の 労 働 組 合 支 部 を 廻 り t
組 織 化 も 行 な っ た 。そ の 効 果 も あ っ て ,全 国 仕 立 ,裁 縫 お よ び 関 連 業 労 働 組 合 National Society of
Tailoress, Dressmakers and Kindred Trades は , C .L .C . の た め に 組 合 員 1 人 ず つ 年 間 2 ペンス
寄 付 す る こ と を , 83对 9 で可決した。 こ れ は 女 性 連 盟 爱 員 の ひ と り チ :n シ ャ イ ア が *記 を し て い ろ
注 〔
34) Minutes of Board Meeting, op cit., November 6,1912.
(35)
(36)
(37)
(38)
(39)
Ibid.
Meeting of Staff Committee, op. cit., December 18,1912.
Ibid.
‘Women's League, C. L. C., Reports’,in Plebs Magazine, vol.V , no. 5, June 1913, pp. 110-11.
Daily Herald, May 23 ,1 913 . この投書は,D. B . モンテフィオーレが, 5 月27日付シャーロツト
• コーデイCharlotte Corday の投書に反論したもので,カットされて掲載された。投言の全文は,
Plebs Magazine vol.V, no. 6, July 1913, pp. 134-35.に掲載されている。以下はカットされた部
分の一部。「
C .L .C . はすでに最良の革命的労働組合の支持をえており,(
女性)連盟として, 我々は
我々自身の活動が知られるようになるに伴い,全ての階級意識のある戦闘的プロレタリア組織によっ
て支持されることを確信-する。
.」Gbid" p. 135).
--- 100 (512') —
組合で, か の 女 の 説 得 活 動 に よ る と こ ろ が 大 き か っ た 。『プ レ プ ス . マガジン』 は, 少 数 の 組 合 で
ある が ,「その結 果 は 重 要 で あ る 。 ……仕 立 エ は 男 性 の 大 組 合 に 対 し す ば ら し い 例 を 示 し た 。 鉄 道
〔
40)
従 業 員 た ち は い つ そ れ に 続 く の で あ ろ う か ?」 と言いて, チ ェ シ ャ イ ア の 活 動 を 絶 賛 し て い る 。
女 性 連 盟 の 活 動 目 標 の 第 2 は,「ソーシャル」の 準 備 を し た こ と で あ る 。 1913年 5 月 に は ,C.L.C.
で ロ ン ド ン 社 会 主 義 者 オ ー ケ ス ト ラ London Socialist Orchestra を 招 い て ソ ー シ ャ ル の 夕 べ を 開
( 41)
催 し , また, ホ ラ ビ ン 夫 人 自 ら も 加 わ る 演 劇 も 演 じ ら れ て い る 。 つ づ く 1913年 夏 か ら の 1 年 間 に は ,
3 つ の ダ ン ス バ ー テ ィ ー , 4 つ の 演 劇 上 演 を 行 な っ て い る 。 演 劇 は バ ー ナ ー ド .シ ョ ウ の も の な ど
で, N.U .R. ロ ン ド ン 支 部 に 招 か れ て 上 演 し た こ と も あ っ た 。 そ の さ い に は C . し C. のスタッフが
( 42)
C . し C . の教育目 的 を 聴 衆 に 説 明 し , 財 政 的 援 助 を 訴 え て い る 。 そ の 時 点 は N .U .R . の年次大会が
開 か れ る 直 前 の 1914年 6 月 7 日のことであり, C .L .C . 支 援 の 主 要 な 労 働 組 合 N .U .R . 力;, S.W.
M . F . と と も に C . し C . を 所 有 し コ ソ トロールするか杏かの重要な決定を迫られていた時点であっ
た こ と を 考 慮 す る と ,「ソーシャル」 も 一 段 と 重 要 性 を 帯 び て い た の で あ る 。 このような女性連盟
に よ る 「ソーシャル」 の 催 し は , r 労 働 者 文 化 」 の 活 動 と し て 極 め て 重 要 な 意 義 を も つ も の で あ り ,
今後より深く検討されるべき課題であろう。
1914年 に な る と 女 性 連 盟 は , さ ら に 2 人 の 女 性 労 働 組 合 員 を C .L .C . に 派 遣 す る こ と に 成 功 し た 。
£ 6 0 を 連 盟 が 支 仏 う と い う 合 意 の 上 で , 1914年 2 月力、ら 2 人 の 女 性 学 生 が (
寄宿制学生ではなく)通
学 し た 。 1 人 は オ ー ル ダ ム の A . ス ミ ス Alice S m ith で あり, 他 は ペ リ ー の M . ハ ワ ー ス Mary
H ow arth で,と も に ラ ン カ シ ャ 一 織 布 エ 組 合 Lancashire Textile Operative's U nio n の組合員で
( 43)
_
ある。 ホラビン夫人は, こうい う。「こ の 事 実 の 重 要 性 は 過 大 評 価 さ れ る べ き で は な い 。 近い将 来
も っ と も っ と 多 く の 女 性 が 同 じ よ う な 機 会 を も た ね ば な ら な い , と いうことが重要である。 今日労
働 組 合 に と っ て 疑 い な く 危 険 な こ と の 一 '^^^は, 教 言 を 受 け て い な い 未 組 織 の 女 性 労 働 者 の こ と で あ
る。 ス ト ラ イ キ 破 り や 労 賃 切 り 下 げ と い う 点 で 資 本 主 義 の 最 大 の 資 産 で あ り う る 女 性 は , 男性の仲
( 44)
間 と 同 じ 階 級 意 識 の 方 針 の 下 で 教 ま さ れ な け れ ば な ら な い 。」
こうして, 女 性 労 働 コ レ ッ ジ 設 立 に は 程 遠 い も の の , C .L .C . に 女 性 労 働 者 を 通 学 さ せ た 女 性 連
盟は,鉄 道 女 性 ギ ル ド Railway Women’s G u ild との接触を望み, そ れ は 1915年初めにプリスト
注(
40) ‘Women’s League, C. L. C„ Reports', in Plebs Magazine, vol.V, no. 6, July 1913, p. 133.
(41) Ibid.. p. 133.
(42) ‘Women’s League Report,, in C. L. C., Fifth Annual General Meeting, August 3 , 19H, in
Plehs Magazine, vol.VI, no. 8, September191も p. 1 7 6 . 因みに,演劇はつぎのようなものだった。
1913年 8 月 4 日,(
年次大会の夕),Riders to the Sea, by J. M. Synge ;The Workhouge Ward, by
Lady Gregory;1913 年11月29日, The Rising of the Moon, by Lady Gregory; How He Lied to
Her Husband, by Bernard Shaw;1914年 5 月17日, The Showing-up of Blanco Posnet, by Ber­
nard Shaw ;1914年 6 月 7 日,(
N. U. R ロソ ドン支部への特別招待) ,Riders to the Sea, by J. M.
Synge; The Showing-up of Blanco Posnet, by Bernard Shaw.
(43) Ibid., p. 176.
(44) Ibid.
101 ほ 13)
( 45)
ルで 実現した。 第 1 次 世 界 大 戦 中 の 女 性 連 盟 の 活 動 状 況 は 明 ら か で な い 。
V
全 国 労 働 者 コ レ ッ ジ 評 議 会 (N . C . L . C ) と レ イ バ ー . コ レ ッ ジ
C .L .C . の 学 生数 は 1914年 初 め に は 14名 であ り , そ の 内 6 名 は S. W . M .F . 力' : , 2 名 は N .U.R.
が 奨 学 生 と し て 送 り こ ん だ 学 生 で あ っ た 。 他 に 2 名 の 女 性 が , 通学学生と し て 前 述 の 女 性 連 盟 か ら
( 46)
送られて い た 。 C .L .C . は ロ ン ド ン 移 転 以 来 £2,3 0 0 の 銀 行 負 債 を 抱 え て お り , それを一掃するた
めに , 1914年 初 め C .L .C . の 財 産 を N . U . R . と S .W .M .F . の 所 有 と す る べ く 両 組 合 に 申 し 入 れ
(47)
た。 同 年 6 月 の N .U .R . の大会で, C .L .C . へ の 派 造 学 生 を 2 名 か ら 6 名 へ と 増 加 す る こ と , およ
び, 奨 学 金 を £ 1 , 150追 加 す る こ と を 決 め る が , そ の 背 M には, S. W. M .F . も同一額をだすことを
(48)
条 件に, 両 組 合 が 共 同 で C . し C . の 財 産 所 有 権 者 に な る こ と が 意 図 さ れ て い た 。 1 力月後カーディ
'
(49)
フ で 開 か れ た S.W. M . F . の 特 別 大 会 は , N .U .R . の 提 案 を 支 技 す る 決 定 を し た 。 S. W. M. F . と
は 対 照的に , N . U . R . の 内 部 に は J . A . ト マ ス J. A. Thom as の よ う に C .L.C . に敵対していた
ものもいた〔
か れ は C . L . C . に奨学生を送ることにも反対していた) ので, そ の 後 の 両 組 合 間 の 交 渉 は
多少 難 行 し た が , 1915年 夏 ま で に は 両 組 合 が C. L. C . を 所 有 す る こ と に な り ,こ こ に 初 め て C. L.C.
( 50)
財政は多少とも安定することになった。
し か し 第 1 次世 界 大 戦 中 は , C . し C . は ス タ ッ フ の 病 気 や 出 兵 の た め 危 機 状 態 に な り , 1917年一
(51)
時閉 鎖 に 追 い こ ま れ た 。 G . シム ズ は イ タ リ ア 戦 線 に 参 加 し , 1919^|^夏 ま で 戻 れ な か っ た し , D . ハ
一 ド は 病 気 の た め 戦 後 も 戻 れ ず , 1920年 7 月 13日に死去した。 コ レ ッ ジ 長 は ク レ イ ク が い だ „
1919年 10月 に C .L .C . は 29 名 の 寄 宿 制 学 生 を も っ て 再 開 し , 名 称 も r レ イ バ ー . コ レ ッ ジ .ロ ン
(52)
ドン」Labour Collge, London ( 以下では,旧 名 通 り C .L .C . と略す) に変更された。
戦 後 , 各 地 の 学 習 会 と ロ ソ ド ン や 地 方 の 労 働 者 コ レ ッ ジ の 連 合 結 成 の 必 要 性 が 強 ま り ,J.F . ホラ
注 (
45) Plebs, Magazine vol.VH, no. 2, March 1915, pp. 44-5.
(46) C.L.C . の銀行負債は,1914年 7 月 1 日現在, £2,319 15s. 5 d . であった。 なお他の収入の合計
は £904 18 s. I d . で, 両者の合計が収入:
£ 3,253 17 s. 7 d . であった。 C.L.C., Balance Sheet,
Financial Statement and Subscription List, Julv 1 , 1914—June 30,1915, (MSS. 127/LC/3/1/8),
Plebs Magazine, v o l.V I,n o . 2, March 191も p. 135.
Ibid" p. 136.
(49) Plebs Magazine, vol. VII, no. 2, March 1915,pp. 25-6.
(50) W. W. Craik, Central Labour College, op, cit" pp. 106-7.
(47)
(48)
1914年12月には,銀行よりC. し C . の射産を競売に付すると通告され,C. し C . のハードはR U .R .
宛に,購入を決定した2 つの組合に早く所有権を購入するよう督促している。ハードは「
強制売却と
いうような不幸を我々は避けることを望む」 と書いている〔
A Letter from D. Hird to the Executive
of the N. U. R., December 7,1914. 3 葉の手稿,MSS. 127/LC/3/1/8)。
(51) C .L .C . 教員会議録には, 1914年11月18日, G . シムズから軍隊に加わったので,コレッジの書言己
を辞任したい旨手紙が届いたこと,および「
公式にかれの辞任を承認した」ことが記録されていろ
〔
Meeting of Staff Committee, op. cit" November 18,1914)。
(52)
W. W. Craik, op. cit" p. 114.
102 Q514)
ビンなどが中心となり, 組 織 づ く り が 開 始 さ れ た 。 大 戦 中 に は ス コ ッ ト ラ ン ド 労 働 者 コ レ ッ ジ が 設
立 さ れ て い た し , また, プ レ プ ス . リーグが各地に学習会を組織し, 活 発 な 活 動 を 行 な っ て い た の
( 53)
,
である。 全 国 労 働 者 コ レ ッ ジ 評 議 会 National Council of Labour Colleges—N .C .L .C . の設立の
た め の 最 初 の 大 会 は , 1921年 10月 8 — 9 日, バ ー ミ ン ガ ム の ク ラ リ オ ン . ク ラ プ . ハウスで開かれ,
C .L .C . はもとよ り , ス コ ッ ト ラ ン ド 労 働 コ レ ッ ジ , 地 方 の 労 働 コ レ ッ ジ , プ レ プ ス •リ ー グ の 代
表 が 参 加 し た 。 会 議 の 議 長 は ’ 1911一 12年 に C . し C . の 学 生 で あ っ た プ レ プ ス . リ一グのメンバー
で ダ ラ ム 炭 鉱 夫 組 合 の 活 動 家 で も あ る ウ ィ ル . ロ ウ サ 一 Will Lawthero 名称も全国労働者コレッ
ジ 評 議 会 N . C . L C . と正式に決定され,『プ レ プ ス . マガジン』 をその機関誌にすることも決定さ
( 54)
れ, G . シ ム ズ は 暫 定 委 員 会 の 書 記 に 任 命 さ れ た (
委員会議長は J . ハミルトン Jack Hamilton)。 J. F.
ホ ラ ビンは, N .C .L .C . 創 設 の 意 義 を つ ぎ の よ う に 書 い て いる。「N .C .L .C . の財 政 は , 完全に直
接 的 に 労 働 者 組 織 か ら き て い る 。 全 国 的 労 働 組 合 か ら の 年 々 の 奨 学 金 と い う 形 か , あ る い は , 労働
組合支部, 労働評議会, 労 働 • 社会主義政党,協同組合の加盟費か寄付金の形のいずれかによるの
である。 したがって, 労 働 者 階 級 に よ る コ ン ト ロ ー ル は 完 全 で あ る 。 しかし評 議 会 (
N .C .L .C . ) は
労 働 者 に よ る コ ン ト ロ ー ル を 目 ざ す だ け で は な い 。 そ れ は プ レ プ ス . リ ー グ と C .L.C . の創設者た
ち を 鼓 舞 し た の と 同 じ 教 W 原 理 と 政 策 を 目 ざ し て い る 。 そ の 原 理 と 政 策 は , 1 世 紀 前 , ト マ ス •ホ
ジスキンを鼓 舞 し た も の で あ り , 階 級 と し て の 『労 働 者 の 利 益 に な る 労 働 者 の 教 育 』 を目ざしてい
( 55)
るのである。
」
N .C .L .C . 設 立 後 た だ ち に , 地 方 コ レ ッ ジ は 工 業 都 市 や 炭 鉱 地 帯 に 主 と し て 設 立 さ れ て い る と
いう
事 情 の 下 で , 全 国 の 労 働 組 合 へ は 充 分 な 教 言 サ 一 ヴ ィ ス が で き な い こ と が 判 明 し た 。 そこで
C .L .C . は 通 信 に よ る 教 育 提 供 を 開 始 し , 参 考 文 献 リ ス ト を 載 せ た 4 頁 の 小 冊 子 と 論 文 課 題 を 載 せ
た も の か ら 成 る 通 信 課 程 を 設 置 し た 。 や が て エ デ ィ ン バ ラ の J . P . M . ミ ラ ー J.P .M . M illa r の家
( 56)
をその拠点として,急速に拡大していった。
翌 1922年 3 月 マ ン チ ェ ス タ ー で 開 か れ た N. C. L. C . の 第 1 回 年 次 総 会 で は , N. C. L. C. の構成
員 資 格 が 確 定 さ れ , r 全 て の 労 働 コ レ ッ ジ , 地 方 的 お よ び 全 国 的 教 育 組 織 , あ る い は , 独立労働者
階 級 教 育 の 原 則 を 受 け 入 れ る 全 国 組 織 か ら 構 成 さ れ る 。 教 ま 組 織 が 別 々 の 学 習 会 と 支 部 は , 地方グ
ル ー プ が 形 成 さ れ る ま で は 年 間 5 シリングの参加費で加盟することができるが,全国評議会の選挙
( 57)
権 は も た な い 」 とされた。 か く し て , プ レ プ ス . リーグ が 加 入 した の は勿 論の こ と, 1922年には建
築 業 労 働 者 合 同 組 合 Amalgamated Union of Building Trades Workers一 AUBTW の組合員
注 (
5 3 ) 第 1 次世界大戦中のプレプス. リーグによる学習会活動と地方レイバー•コレッジの設立について
は,B. Simon, Education and the Labour Movement, 1870-1918, op. cit., pp. 332-39, 成田克矢前
掲 訳 『イギリス教言史n , 1870年-1920年』
,pp. 375-84.を参照のこと。
(54)
(55)
J. P. M. Millar, The Labour College Movement, op. cit,, pp. 31-3.
J. F. & Winifred Horrabin, Working-Class Education, 1924,p. 51.
(56)
(57)
J. P. M. Millar, op. cit,, pp. 53-4.
N. C.し C., Report of N. C, L, C. Annual Meeting held on March 4 & 5 ,1 9 2 2 , ( タイプ刷)(
MSS.
127/LC/8/1/1/2) J.P.M . Millar, op, dt" p. 3 4 . にも転載されている。
--- 103(5 i5 )
65,000名が, 1923年 に は , 全 国 流 通 関 連 労 働 者 組 合 National
Union
of Distributive and
Allied W orkers 〔の ち の U S D A W )の 組 合 員 86,000名 が 加 わ り , さ ら に 同 年 , 合 同 機 械 工 組 合
Amalgamated Engineering Union—A.E. U . 等 3 組 合 が 加 入 し た 。 カ ぺ し て , 1923—24年 に は ,
全 国 組 合 だ け で 5 つ の 労 働 組 合 が N .C .L C .の教言計画に加わったのである。
こ の N .C .L .C .の大 規 模 な 発 展 は , 1925年 に は 97団 体 の 加 盟 (
内訳は労働組合1 7 , 労働党14支部,
労働組合評議会1 1 ,独立労働党4 支部,協同組合5 , 別 に N .U .R . 17支部等) となり, 参 加 団 体 は 加 盟 費
年 間 £ 1 I s . 支 払 う と 2 名 の 会 員 を 無 料 で 学 習 会 (クラス) に 参 加 さ せ る こ と が で き(た。 因みに
N .C .L .C . に 加 わ っ た 労 働 組 合 数 は , 1923年 の 9 組合, 24年 の 22組合, 25年 の 28組合, 26年 の 27組
合,27年 の 29組合 , 28年 (9 月) の32組 合 と 推移している。 また ,R C .し C . の通 信 課 程 の 学 生 数
は,1923—24年の 90名 , 1924—25年の 645名 , 1925—26年 の 1,459名,1926—27年の 2, 702名 (
13力
( 59)
月分) , 1927—28年 の 2, 385名と , 推 移 し て い る 。 さら に 学 習 会 は , つ ぎ の よ う な 推 移 を 示 し た 。
年 度
学習会
1922—23
23-24
24—25
25—26
26—27
27—28
529
698
1,048
1,234
1,021
1,102
学生数
11,993
16’ 909
25,071
30, 398
31,635
27,147
こ の よ う な N .C .L .C . の活動 は , C . L . C . に と っ て は ニ 面 的 作 用 を 及 ぼ し た 。 一 面 で は , 狭く ロ
ン ド ン に 限られず 全 ■ の 労 働 者 コ レ ッ ジ 運 動 と 連 携 し W .E .A . に 対 し て も よ り 強 力 に 対 時 す る
こ と が で き た 。;
N .C .し C . と W .E . ん の 対 立 ,す な わ ち ホ ラ ビ ン の い う 拡 爱 講 座 主 義 者 (Exten.
sionists) と 独 立 主 義 者 (Independents) の 間 の 対 立 の 原 型 は す で に 1909年 の ラ ス キ ン .コ レ ッジ
R . C . の 紛 争 に あ っ た が , 1923年 頃 に は と り わ け 激 し く な っ た 。 第 1 次 世 界 大 戦 直 後 , W .E .A . の
テ ュ ー タ ー G. D. H . コ ー ル G. D. H. C o le と W. メ ラ ー William Mellor ( のちの『デイ リー . へ
ラルド』編集長) は, N .C .し C . との協同を求め, W . W . ク レ イ ク と G . シムズに会いに出向いた
こともあったが, N .C .し C . 側 の 反 応 は 冷 た か っ た 。 公 的 財 政 援 助 を 受 け , そ れ 故 教育务員会等か
らのコントロールを 受 け て い た W . E . A . は, 独 立 労 働 者 階 級 教 ま と は 縁 の な い 敵 対 的 な も の と す
る 疑 念 を C .L .C . は 持 ち つ づ け て お り , コールの訪問は, W .E .A . に 労 働 組 合 獲 得 の 隠 さ れ た 意
( 60)
図があると思われたからである。
しかし他面では,寄 宿 制 大 学 の C. L .C . が 少 数 の 学 生 を 抱 え る こ と に 对 し , 地 方 各 地 の 学 習 会 で
多 数 の 労 働 者 を 教 育 す る 方 が 効 果 的 で あ り , 真 の 労 働 者 教 ま で あ る と い う 見 解 が , N .C .L .C . の中
で は 強かった。 も と も と 寄 宿 制 大 学 と 学 習 会 と を 同 じ 組 織 の 構 成 員 に し た と こ ろ に 出 発 点 か ら 無 理
注 (
58)
(59)
(60)
N. C. L. C-, Annual Report, 1925, (MSS. 127/LC/3/1/3/1) pp. レ4.
Education For Emancipation: The Work of N. C. L. C .,1927, pp. 2-3.
J. P. M. Millar, op. cit., pp. 57-8, p. 78.
--- 104 (5_Zめ
が あ っ た こ と は 否 定 で き な い 。 N .C .L .C . 創 立 大 会 の と き す で に , シ ェ フ ィ一 ル ド労働 コレッ ジ代
ま E . プ ラ ド シ ョ ク E. Bradshaw は, 「地 方 組 織 に と っ て は ,寄 宿 制 の 労 働 者 コ レ ッ ジ は 労 働 者 階
級運動のランク • アンド . ファイルから遊離しており, 地方コレッジの(
学習会)活動がまさに効
( 131)
果 的 で あ る 」 と発言していたし, そ の 後 も 学 習 会 を 重 視 せ よ と い う 主 張 は , N .C .し C . の機関誌に
な っ た 『プ レプス』 誌 上 に 次 々 と 掲 載 さ れ た 。 イ タ リア戦 線 か ら C .L .C . に戻 っ た G . シムズも
N .C .し C . の 活 動 に 情 熱 を 燃 や す が , そ れ は 必 然 的 に C .L .C . 内 部 で の 対 立 を 深 め , ついにかれは
1924年 C .L .C . を去る。 も っ と も C .L .C . 理 事 会 の 議 ま 録 (1924年 11月14日)には,「シムズ氏の不
満 足 な 行 為 (unsatisfactory co n d u c t) により, 去 る 10月10 日,言記はかれを停載にし,停職後 シム
( 62)
ズ氏はコレッジを辞めた, と書記が報告した」 とある。 シムズ辞職の詳しい享情は判然としない。
T .U .C .総評議会は,W .E .A . ( 全国組織として労働者教育労働組合委員会Workers’ Educational Trade
Union Committee-- W. E. T. U. C. を設置していた) と N. C. L. C . と C.L. C .を調整し T. U. C . の
コ ン ト ロ ー ル 下 に お く 実 行 計 画 を 策 定 し た 。 1924年 に な る と T .U .C . 総 評 議 会 は , 従来 の 合 同 教
育 爱 員 会 Joint Education Committee を 解 散 し 新 た に 教 言 諮 問 爱 員 会 Educational Advisory
Com mittee を創 設 し た が , こ れ は 総 評 議 会 の 代 表 ,協 同 組 合 ,W.E. A., N.C. L. C . か ら 各 2 名ず
つの代表,R .C . と C.しC .から各1 名ずっの代まから構成された。そして,1925年 9 月 の T.U.C.
スカーバラ大会で,極めて重要な計画が決定される。 この計画は,C . L . C . と R . C . は,総評議会
の全国教育"委員会National Education Committeeが直接運営し, その代まに N . C . L C . がな
るというもので あ る 。 W . E . A . と N .C .L .C . は そ れ ぞ れ 独 S 性 を 持 ち な が ら , 合 同 委 員 会 を も つ
ということも含まれていた。 こ の T . U . C . の計画の目的は,「労働組合や労働者協同組合活動の
ために,労働者の能力を発展させ授けるために,労働者階級教育"を提供すること」にあったが, こ
れ はN .C .L .C .とC .し C .が新しい機関の教言はマルクス主義にもとづくものであり続けるべきで
( 63)
あると主張したことを,T .U .C .で総評議会が受けいれたことを意味する。W .E .A .は,ただちに
中立性が破られる「
危険な可能性」があるとして,教言委員会から圧力をかけられた。教育大臣で
保守党員E .バーシイEustace Percyは,「
教育の真の敵はN .C .L .C .の一般書記のような人々であ
る」 と* き, 少 し 後 に ,N .C .L C . を r 有 毒 な 教 育 「を す る と し て 非 難 し た 。 W .E .A . はついにスカ
( 64)
一 バ ラ 大 会 の 決 定 か ら 逸 脱 し 教 員 を 労 働 組 合 員 か ら 任 命 し な い こ と な ど を 決 定 し た 。結 局 T.U. C.
のコントロ一 ル 下 に 全 て の 労 働 者 教 育 機 関 を と い う 計 画 は 失 敗 に 終 っ た の で あ る 。
さ ら に 1926年 に は , イ ー ス ト ン . ロ ッ ジ 計 画 Easton Lodge Scheme が 提 案 さ れ , 結 果 的 に は ,
注 (
61) Ibid., p. 29.
Minutes of Board Meeting, op. cit., November 14,1924. J. P. M . ミラーは,「シムズが ロンド
ンのイースト. エンドに消えた」のは,クレイクとフットの解雇(
後述) と同様に競馬のギャンプル
にコレッジの資金を流用したからと推測していろG .P .M . Milar, op. cit.. p. 44)。都築忠七「
前掲
論 文丄 P .13参照。
(63) B. Simon, op. cit., pp. 339-40,前掲訳,pp. 384-85.
(62)
(64)
‘The British Trades Union Congress and Workers' Education,, in Education For Emanci­
pation, op. cit., p .10.
105C5i7)
労 働 コ レ ッ ジ 運 動 は 混 乱 し た 。 こ の 画 は , ウ ォ ー リ ッ ク 伯 爵 夫 人 か 自 ら の イ ー ス ト ン .ロ ッ ジ に
あ る 邸 と 土 地 を 寄 宿 制 コ レ ッ ジ と し て ;使 用 さ せ る こ と を T . U . C . に 申 し 出 た こ と に :端 を 発 す る 。
か の 女 は 1895年 に 社 会 民 主 連 盟 S .D . F . に 加 入 し , 以 来 社 会 主 義 運 動 の 強 力 な 支 持 者 だ っ た 。
T . U . C 教 育 委 員 会 は R . C . と C .し C . の 代 表 と 共 に イ ー ス ト ン • ロッジを訪れ, T . U . C . 総評議
会 は そ の 申 し 出 を 受 け る こ と を 決 定 し た 。 G . D . H . コールがそこの初代コレッジ長になるはずだっ
た。 総 評 議 会 は イ 一 ス ト ン . ロ ッ ジ を 整 備 す る の に 必 要 な £ 5 万 を 3 年 間 で 組 合 員 1 人 当 り 1 ペン
ス の 負 担 金 を か け る こ と に よ っ て 得 る こ と の 承 認 を T .U .C . に求めた。 こ の よ う な 多 額 な 費 用 を
か け て 寄 宿 制 コ レ ッ ジ を つ く る こ と に 対 し て は , そこで教育^できる学生は少数に限られるとの理由
で, N . C . L . C . か ら 反 対 が 起 っ た 。「よ り 重 要 な 学 習 会 に 対 し て 援 助 す る と い う 規 定 が 全 く 含 ま れ
ていない」 というのが, か れ ら の 反 対 し た 理 由 で あ る が , 前 述 し た :
N .C .し C . の方針からもその
理 由 は あ る 程 度 納 得 で き よ う 。 ところ力;, C . L . C . も そ の 計 画 に 熱 心 で な か っ た 。 そ の 理 由 は , 労
働者コレッジは農村地帯ではなく, 労働運動や政治運動と学生が常時接触できろ工業都市におかれ
るべきで あ る か ら と い う も の だ っ た 。 か く し て , 1926年 の T . U . C . ボ ン マ ス 大 会 で は ,244万 1 千
( 65)
対 148万 1 千 で イ 一 ス ト ン . ロ ッ ジ 計 画 は 否 決 さ れ た の で あ る 。 1926年 5 月 の ゼ ネ . ス ト の 敗北
で, 各 労 働 組 合 は 財 政 的 に 大 き な 打 撃 を う け , 労 働 者 コ レ 、
ッ ジ支援も困難になってきていたという
事情も, 否 決 の 背 景 に あ っ た 。 そ う し た 労 働 組 合 の 財 政 状 況 は , 間もなく C . L . C . を閉 鎮 へ と 追 い
こむ こ と に な る 力;
, そのことに触れる前に,一 つの事件を追うことにしよう。
V I
1.
レ イ バ ー .コ レ ツ ジ の 衰 退
コレッジ長クレイクと書記フッ卜の横領事件
W . W . ク レ イ ク は 1920年 7 月 D . ハ ー ド の 後 を 継 い で C . L . C . コ レ ッ ジ 長 の 職 に あ っ た が ,
1925年 1 月, 解 雇 さ れ た 。 解 雇 理 由 は , 学 生 の 奨 学 金 授 業 料 の 横 領 で あ る 。 もち ろ ん こ to不名誉な
も触れられていない。 し か し
解 任 は , ク レ イ ク の 前 掲 書 The Central Labour College では一言 ■
J . P . M . ミ ラ ー の 前 掲 書 The Labour College Movementの中では, つ ぎ の よ う に 書 か れ て い る 。
r クレイクは1922年と 25年 の 間 に レ イ バ ー .コ レ ッジ の 資 金 が 紛 失 し た こ と に H 及していないこと
を 非 難 さ れ る こ と は な い だ ろ う 。 しかし, そ の エ ピ ソ ー ド は , 疑いもなく
N . U . R . の 1 . 2 名の
指導者の入手するところとなって,継続的に何らかの悪影響を与えた。 ク レ イ ク が か れ の 本 を 備
しているときには,R U . R . の ポ ウ コ ッ ク を 攻 撃 し た コ ミ ュ ニ ス ト .グ ル ー プ の 活 動 を 知 ら な か っ
た こ と は 明 ら か で あ る 。 コ レ ッ ジ の 最 後 の 低 落 の 相 互 に 関 連 す る 諸 原 因 は , ゼネストにより大きく
悪 化 し た N . U . R . と S . W . M . F . の継続する相対的貧困, かれらの財政負担を分かちあうよう他
の 組 合 を 説 得 す る 努 力 の 失 敗 , そして, コレッジを存続させるベく
N .C .し C . と協力すること0
注 (
6 5 ) イーストン•ロブジ計画については, ibid., pp.10-1 1 .J. P. M. Millar, op. cit" pp. 73-6.; W.W.
Craik, op, cit., pp. 140-44.
--- 106C5iS)
( 66)
失 敗 , で あ る 。」 クレイク力; ,C .し C . が 最 終 的 に 閉 鎖 に 追 い 込 ま れ た 原 因 は , イ ー ス ト ン .ロ ッ ジ
計 画 Easton Lodge Scheme を N. C. L. C . が 棄 却 し た こ と に あ る と し て , C. L. C . の外部にその
原 因 を 求 め る の に 対 し , ミラーは, そ れ は 「誇 張 さ れ て い る よ う に み え る 」 と批半ij的 で あ り ,1950
年 の ミ ラ ー 宛 の ラ ザ フ ォ ー ド の 書 簡 か ら ,「1929年 の レ イ バ ー .コ レ ッ ジ の 閉 鎮 の 原 因 は 財 政 で あ
る力' S 貴 殿 が 触 れ た 内 部 の 紛 争 に よ り 助 長 さ れ た と 私 は 考 え る (当然, これは公式には一要因としては
( 67)
指摘されなかったけれど) 」 を 引 用 し , C . L . C . の 内 部 紛 争 も 要 因 の — ^ としている。 私 は , クレッグ
と* 記 フ ッ ト の 授 業 料 横 領 が , C . L . C . 支 援 の 労 働 組 合 等 の 不 信 を 買 い , C . L . C . 閉 鎮 に 連なる原
因 の 一 ••^ に な っ た と 推 測 し て い る 。
コ レ ッ ジ 長 ク レ イ ク が 「コ レ ッ ジ の 財 政 に 関 す る 違 法 行 為 に よ り 停 職 に さ れ た J のは, 1925年 1
月 であ る 。 1925年 1 月 8 日 の C .し C . 理 事 会 の 議 事 録 は , つ ぎ の よ う に 記 録 し て い る 。 理事会の
出席者は, ア ブ レ ッ ト A b le tt , プ ラ ッ ク B la c k , ゴ ア G o r e , ジェンキン ス J e n ld n s , ルーカス
L u c a s , フ ッ ト F oot の 6 氏である。 報 告 は 書 記 フ ッ ト が 行 な っ た 。「書 記 は 理事 会 に以 下 の こ と を
報 告 す る 。 前 回 の 決 定 に 従 っ て , * 記 は さ ら に 調 査 を す す め , い ま や £185 ず つ の 小 切 手 が 2 回室
内 装 飾 業 者 全 国 組 合 の 分 と , £2 5 0 が 1 回 ノ ー ザ ム バ ー ラ ン ド 炭 鉱 組 合 の 分 が , クレイク氏の個人
口座に払い込ま れ た こ と を 報 告 し な け れ ば な ら な い 。 ク レ イ ク 氏 は 説 明 を 求 め ら れ た と き , その金
を 受 け と っ た こ と を 認 め た 。」 理 事 会 は 検 討 の 結 果 , ク レ イ ク の 停 職 姐 分 を 決 め る 。「全 状 況を検討
した結果, 我 々 は , ク レ イ ク 氏 を コ レ ッ ジ の , あ る い は コ レ ッ ジ に 関 連 す る あ ら ゆ る 仕 事 か ら 停 職
させる決定をし た こ と , さらに, 全 事 実 を 2 つ の 関 連 労 働 組 合 に 報 告 し , つ ぎ の 指 示 を 仰 ぐ こ と に
第 1表横領きれた授業料ー資表
年 月
1920年 8 月
1921年12月
1922年 3 月
1922年10月
1923年12月
1923年—
1923年—
1924年—
1924年—
1924年 5 月
1924年10月
1924年—
授 業 料 支 払 者
S .W .M .F . ァバデーァ地区
ノッティンガムシャ一炭鉱夫組合
同上
S .W .M .F . モンマス, ウェスタン, ヴァリー地区
同上
室内装飾者組合
ノ一ザムバーランド炭鉱夫組合
漂白染色者組合
室内装飾者組合
プロッカ氏(
私費学生)
同上
デニス氏(
私費学生)
同上,本代
合 計
金 額
£150
£125
£250
£100
£100*
£125*
£250*
£125*
£185*
£30*
£ 5
£30
一 £ 5 18s.
£1469 2 s.
* はクレイク氏が受領したが自分自身で使ったと認めたもの。
出典)
of Board Meeting, C. L. C., February 23,1925. (MSS. 127/LC/l/l/l)
注 (
66) J. P. M. Millar, op. cit., p. 102.
(67)
(68)
A Letter from Rutherford to Millar, May 6,1950’ quoted in ibid., p. 102.
Minutes of Board Meeting, op. cit., January 8’ 1925.
107 〔
519)
( 68)
賛 成 す る 。」
さ ら に 同 年 2 月 23日の理事:会 で は , 調 査 の 結 果 判 明 し た 「支 払 わ れ た が , コレッジの会計には記
録 の な い 授 業 料 の 一 fc 表 」 か 提 出 さ れ た (
第 1表 )。
( 69)
使 い こ み が 新 た に 判 明 し て , 2 月 23日の理 # 会 は ク レ イ ク の 解 雇 を 決 定 し た 。 C .L .C . はその 後 .
ク レ イ ク の 横 領 に 対 し て 法 的 措 置 を と る た め , 日頃から法ま問 題 が 生 じ た さ い に は 依 頼 し て い た バ
ティ ス ン • ア ン ド . プル ー ア Pattison & Brewer 法 #:享 務 所 の 指 示 を 求 め た 。 同 年 4 月 21日, 当
法 參 * 務 所 は , 「こ の 件 に 関 す る フ ッ ト 氏 宛 の 特 別 * 簡 で ,我 々 の 見 解 で は 告 訴 は 正 当 で ,それは成
( 70)
功するだろうと書いた。
」 4 月 24日 の C .L .C . 理 ま 会 は , 弁 護 士 の か よ う な 報 告 を 受 け て , 更に弁
( 71)
護 土 と 相 談 し な が ら 法 的 訴 訟 を 進 行 さ せ る よ う 書 記 フ ッ トに指示する決定をした。 6 月 18日には,
検 享 の 意 見 を 聴 い て い る と こ ろ だ と す る バ テ ィ ス ン . ア ン ド . プ ル ー ア か ら の * 簡 が 読 ま れ , 「言
( 72)
記 は よ り 迅 速 か つ 明 確 な 行 動 を と ろ よ う 指 示 す る 」 決 定 が な さ れ た 。 〔これ以降,理ぎ会議ま録では,
クレイク使いこみの件の記載が途切れるが,弁護士事務所の本件への支払金帳簿によると,
) 7 月に入ると,
弁 護 士 に よ る 警 察 法 廷 へ の 手 続 き が 具 体 化 す る 。 す な わ ち , 7 月 7 日には,「ウ ェ ス ト .ロ ン ド ン
( 73)
警察法廷に出向く力 ;, 検 事 の 申 請 に よ り ク レ イ ク の 逮 捕 状 が 認 め ら れ た 」 のである。
ところ力; , 奇 妙 な こ と に , クレイク は 逮 捕 さ れ な い 。 フットのあと書記になったポウコック力*〜
1926年 10月 に 法 廷 で 供 述 し た と こ ろ に よ る と , 「遠 抵 状 が 申 請 さ れ , 認 め ら れ た 。 し か し ク レ イ
( 74)
クは逮補を逃れた。 そ し て 私 の 知 る 限 り , 現 在 に 至 る ま で 逮 I t は 執 行 さ れ て い な い 」 のである。 逮
⑩ を 逃 れ る こ と の で き た 理 由 は 必 ず し も 充 分 明 ら か で は な い が , クレイクは一 時 期 大 陸 に 逃 れ て い
る。
事 態 を さ ら に 複 雑 に し た の は , ク レ イ ク を 告 訴 し た C .L .C . の ® 記 フ ッ ト 力 ';,ク レ イ ク の 共 犯 で
あ っ た と い う ま 実 で あ る 。 こ の 事 実 を 隠 し つ づ け る た め に , フットがクレイクの逮捕と裁半 0を望ま
な か っ たことも, 大 い に あ り う る だ ろ う 。 フ ッ ト も 授 業 料 横 領 を し て い た と い う ま 実 は , 1926年に
なると, 露 呈 さ れ は じ め る 。 1 月 8 日, C .L .C . 理 事 選 挙 が 行 な わ れ , 旧 理 享 の 何 人 か は 退 任 し た 。
そ の な か に フ ッ トもいた。 3 月 13日の理事会では, 書 記 に T h . ポ ウ コ ッ ク Thomas Pocock が選
出され,コレ ッ ジの 教 育 関 係 書 記 と な っ た 。 〔これとは別に事務関係*記も任命されることになった。
)3
月 下 旬 に ,会 計 の 引 き 継 ぎ の た め 会 計 監 査 を す る べ く ポ ウ コ ッ ク は フ ッ ト と 連 絡 を と る 力 ';,再 三 再
四 多 忙 を 理 由 に ,会 う こ と を 拒 否 さ れ る 。 4 月 に 入 っ て も 会 計 監 査 は 延 び 延 び に な る 。 ボウコック
注 〔
69) Ibid., February 23,1925.
To the Trustee and the Governors of the Labour College, Pattison
Brewer, REX v. CRAIK,
(MSS. 127/LC/7/3/10/1) p .1 . これはパティスン• アンド. プル一ア法律事務所が, クレイク訴訟費
用 を C . し C . に求めた請求書であるが,法律事務所の行動が月日とともに簡潔に記されている。
(71) Minutes of Board Meeting, op. cit,, April 24’ 1925.
(72) Ibid., June 18,1925.
C73) To the Trustee and the Governors of the Labour College, op, cit., p. 3.
(74) 'Mr. Thomas Pocock Says\ 〔
10頁のタイプ刷)(
MSS. 127/LC/7/3/1/145) これはフツト裁判の
さい(
1926年10月21日)
,ボウコックがC . し C . 書記として証言*した速記録である。
(70)
--- 10 8 ( 5 ^ 0 )
は, こう IE言 す る 。 r 私 は コ レ ッ ジ に 1926年 4 月 12日に行ったが, 会 計 監 査 は ま だ 用 意 さ れ て い な
い こ と に気がつい た 。 そ れ 故 私 は フ ッ ト と 4 月 15日に来る 手 は ず を 整 え た 。 私 は 4 月 15日にコレッ
ジへ行くと, 監 査 が 行 わ れ て い る の に 気 が つ い た 。 監 査 が 終 る や 否 や , フ ッ トは立ち去った。 私は
それ故, 翌 日 再 び 帳 簿 を 受 け と る た め に 行 っ た が , そ れ は 用 意 さ れ て い な か っ た 。 私 は 『日曜日』
と 書 かれた手 紙を 受 け と っ た が , そ れ は 1926年 4 月 18日のことである。 4 月 19日, 私 は コ レ ッ ジ へ
行 っ た が , フ ッ ト は 鉄 道 会 社 で 働 く よ う 求 め ら れ て い た の で , そ こ に は い な か っ た 。 そ れ故, 私は
* 類 を と り あ げ , 私 自 身 で そ れ を 見 は じ め た 。 この途中で, 書 籍 に 関 す る あ る 会 計 が 当 然 コ レ ッ ジ
に支払うべきものであることに気がついた。 私はフットにこのことの説明を求める手紙を言いた。
...... 私 は ま た 会 計 の 中 で , 供 給 さ れ た タ バ コ と シ ガ レ ッ ト に 関 し て 支 出 が あ る の に 気 が つ い た 。…
…私 は フ ッ ト に 1926年 5 月 24日付手紙で, 言 籍 の 会 計 と タ バ コ と シ ガ レ ッ ト の 会 計 に つ い て 説 明 を
(75)
求 め る 手 紙 を * い た 。」 こ れ が 横 領 事 件 発 覚 の 発 端 で あ っ た 。
1926年 4 月 23日には, S .W . M .F . より, 1925年 度 C .L .C . 会 計 の う ち 「非 常 勤 講師と他のサー
( 76)
ヴィス」 支 出 £662 に 疑 義 がだ され た 。 調 べ た 結 果 , 書 記 フ ッ ト が 正 規 に 取 得 す べ き £ 3 :
)0 以外に
( 77)
£ 1 4 7 も多く 得 て い る こ と が 後 日 判 明 す る 。
1926年 5 月 ゼ ネ ス ト が 始 ま っ て い た 。
1926年 6 月 11日 の C. L. C . 理事^会 で は , 書 記 ポ ウ コ ッ ク は (公式記録には),「フット氏がコレッ
(78)
ジ を 4 月 17 日に 離 れたと報告した」 ぜ、
、( 証言によると) r そ れ ま で の 私 の 知 る か ぎ り の 事 態 の 報 告
( 79)
を理 事 会 に 提 出 し , さ ら に 調 査 す る よ う 指 示 さ れ た 。」 ボ ウコックは, フットを何度も呼びだそう
とし て う ま くい か な か っ た が , つ い に 「6 月 23日, フットはコレッジに理事の一人エイクノ、一 スト
( 80)
氏を伴って来た。
」
フットに対する追求が始まった。
我 々 は フ ッ ト 氏 に , モ ン マ ス . ウ 01ス タ ン . ヴ ァ リ 一 地 区 か ら の £1 0 0 の小切手に 関 し て 説
明を求めた。
フットは, か れ が £1 0 0 の 小 切 手 を 受 け と っ た と い っ た 。
かれ は ま た , か れ が そ の 小 切 手 を か れ 自 身 の 銀 行 に 払 い こ み , そ の 金 は 学 生 た ち の 奨 学 金 で
あ る と思い , 現 金 を ク レ イ ク に 与 え た , といった。
私 は い っ た の だ が , 小 切 手 に * か れ て い る 町 の 名 前 と そ の 振 出 人 か ら , フットはその小切手
注 (
75) Ibid.
(76)
A Letter from Evan Thomas (Assistant Secretary of S. W. M, F.) to T. Pocock, April 23,
1926. (MSS. 127/LC/7/3/1/1)
(77) Labour College Accounts, 1 9 2 5 .( 1 頁のタイプ刷)(
MSS. 127/7/3/1/lM) ; The Labour Collegeト
Receipts and Payments Account, Year Ending December 31,1925,
April 26,1926, by T. Pocock.( 1 頁のタイプ刷)
(78) Minutes of Board Meeting, op, cit" June 11,1926.
(79) ‘Mr. Thomas Pocock Says’,op, cit.
(80) Ibid,
109 (521)
Private and Confidential^
がどこから何の目的できたのか,判るはずだ。
フットは, 帳 簿 の 記 入 に つ い て 説 明 が 求 め ら れ た 。
それから, か れ はい っ た 。 か れ は そ の 金 額 を コ レ ッ ジ の 収 入 簿 に 入 れ , また 公 式 受 領 IE に言
きいれたが, ク レ イ ク が そ の 金 を 使 っ た こ と に か れ が 気 が つ い た と き , か れ は そ の 記 入 を 削 除
し, 受 領 IE の控 え に ,「ロ ン ド ン 地 区 自 治 体 の 家 賃 £10 」 と書きいれた。
か れ は ま た , 炭 鉱 夫 に 送 ら れ た 公 式 受 領 証 は £1 0 0 で あ る と い っ た 。
フットは, バ ー ネ ル 氏 宛 の か れ の 手 紙 の 中 で , か れ が そ れ と 判 る 前 に そ の 金 の 目 的 を 知 ら せ
てくれるのを待っていると書いたことの説明を求められた。
( 81)
フットは, r あ れ は カ モ フ ラ ー ジ ュ だ 」 といった。
そ の 2 日 後 の 6 月 25日, C .L .C . は, 特 別 理 事 会 を 開 き , 対 策 を 練 っ た 。 出席者は ,議長のアプ
レット, S. W .M .F . か ら A . ジ ;
C ンキンス, トマス . ルーカス, N .U .R . か ら し エ イ ク ハース
ト, J . E . ゼンク, T . ポ ウ コ ッ ク (
* 記)であった。 調 査 す べ き 点 は 3 点 あ っ た 。 す な わ ち , 1) コ
レッジの基金から購 入 さ れ た タ バ コ と シ ガ レ ッ ト に つ い て , 2)1924年 12月 に 受 け と っ た £1 0 0 の奨
学 金 に つ い て , 3 ) コ レ ッ ジ の 基 金 が 購 入 し た 書 籍 代 を 学 生 た ち が 払 っ て い た 件 に つ い て , であった。
者 議 の 結 果 , 1)の タ バ コ 等 々 に つ い て は , そ の 年 の 3 力 月 間 コ レ ッ ジ の 基 金 か ら 購 入 し た こ と を
フットは認め, そ の 分 の £16 3s. 5 d . を 返 却 す る こ と に な っ た 。 2) の 奨 学 金 に つ い て は , 小切手
を 受 け と り 自 分 の 個 人 口 座 に 入 れ , その後, ク レ イ ク に 学 生 の 奨 学 金 と 思 っ て , 現金を渡したこと
を フットは認めた。 さ ら に £ 100 を £ 1 0 と改ざ ん し た こ とも 認 めた 。 3) の 書 籍 代 に つ い て は , フッ
トはコレッジに £ 6 16s. 6 d . を 負 債 し て お り , 早 急 に 返 却 す る こ と と な っ た 。 そして, 理事会と
しては, 1)以 上 の こ と を 関 連 労 働 組 合 に 報 告 す る こ と , お よび, 2) r 我 々 の 意 見 で は , 法 的 措 置 が ,
( 82)
フット氏に対してとられるべきであることを, 各々の労働組合に奨めること」 の 2 点を決定した。
こ の よ う な C .L .C . 史 上 の 汚 点 と も い う べ き こ の 横 領 事 件 に は , 物的証拠があるのだろう力んこ
こに一枚の小切手が あ る 。 ウ ォ ー リ ック大 学 モ ダ ン . レ コ 一 ド .セ ン タ 一所蔵になるものである力 ':,
日付は ,1924年 12月 12日, オ プ ト ン .バ ー ネ ル Opton P u rn e ll と A . ウ ォ ル タ ー ス Albert Wal­
ters のサインがあり , フット宛 に £100 支 払 わ れ た 小 切 手 で あ る 。 ミッ ドラン ド銀行が発行した小
( 83)
切 手 で あ り , バ ー ク レ イ 銀 行 に 振 り 込 ま れ て い る 。 また, バ ー ク レ イ 銀 行 の 帳 簿 に も 1924年 12月 18
( 84)
日 に フ ッ ト の 個 人 口 座 に 振 り 込 ま れ た と 記 載 さ れ て い る し , それを証明 す る 次 の よ う な 資 料 も 残 っ
て いる。
「バ ー ク
レイ銀行株式会社
注 (
81) Ibid.
(82) Minutes of Board Meeting, op. cit., June 25,1926.
( 8 3 ) 小切手は,MSS. 127/LC/7/3/3/1, West London Police Court, Exhibit 9.
(84) Barklay Bank Ltd, Kensal Rise Branch. In Account with W. T. A. Foot Esq., December 18,
1924. に f 100 と記入されている(
MSS. 127/LC/7/3/1/132), (West London Police Court, Exhibit
9)。
110 ( 5 2 2 )
ケンソール.ライズ支店
83チ ;
C ムバレン通り
1926年 9 月 2 日
1924年 12月 18日
顧客
フ ッ ト W .J.A .
貸方総額銀行支店
振出人
£ 1 0 0 ミッドランド, アポティラリィ, バ ー ネ ル £100
我 々 は 上 記 が 1924年 12月 18日 の 我 々 の 取 引 日 帳 簿 に お け る 記 入 の 正 確 な 写 し で あ る こ と を IE 明す
る0
バークレイ銀行株式会社
ケンソール . ライズ,
( 85)
L .R .ゲ イ ウ ッ ド 支 店 長 」
さらに, 1926年 12月 12日 付 の パ ー ネ ル か ら フ ッ ト 宛 へ の 言 簡 の 写 し も 残 っ て い る 。便 蓬 は , 南ウ
—ル ズ 炭 鉱 夫 組 合 S . W . M . F . モ ン マ ス . ウ ェ ス タ ン • ヴ ァ リ ー 地 区 と 印 刷 さ れ て お り ,「フッ
ト殿, 上 記 地 区 か ら の 学 生 レ イ . ロバーツの 1924年 お よ び 1925年 の 授 業 料 に つ い て 。 同封されてい
る £1 0 0 の小切手は, レ イ バ ー . コ レ ッ ジ の 上 記 学 生 の 1924—25年 次 の 授 業 料 で あ る 。 その旨の受
(86)
領 証 を 送 付 さ れ た し 。 で き る だ け 早 く 銀 行 に 小 切 手 を 渡 さ れ た し 。 敬 具 , オ プ ト ン • バーネル 」 と
書 か れ て い る 。 こ の 言 簡 と と も に £1 0 0 の 小 切 手 が 送 ら れ た こ と , そして, フットは個人口座にそ
れ を 振 り 込 ん だ こ と は , 明 らかである。
1926年 7 月 2 日 の C .L .C . 理 事 会 の 「回 覧 不 可 」 と 書 か れ た 資 料 (おそらく当日理事に配布された
もの) は,「フッ ト 氏 に 関 す る 未 決 済 享 項 」 と題され,「£100 の 学 生 授 業 料 に 関 す る オ プ ト ン •パ ー
ネル氏の書簡と受領証の写しは, フット氏がこの授業料に関し, 完全に違法であるとする主張を諭
( 87)
証 し た 」 とし, そ の他, タ バ コ 等 の 不 正 購 入 等 の 証 拠 も 鬼 參 中 で あ る と し て い る 。 この日の理事会
(88)
は, 2 つ の 労 働 組 合 の 回 答 に 基 づ い て , フ ッ ト に 対 す る 法 的 措 置 を と る こ と を 決 定 し た 。
先 の 6 月 25日 の 理 事 会 で の 法 的 措 置 を と る と の 決 定 は , S .W . M .F . と N .U .R . の 2 つの組合も
承 認 し バ テ ィ ス ン . ア ン ド • プ ル ー ア が 再 び 弁 護 士 と し て 委 任 さ れ , かれらは検享フ ラ ム プ ト ン
にも資 料 を 提 出 し た 。 7 月 2 2 日, ウ ュ ス ト . ロ ン ド ン 警 察 法 廷 で 召 唤 が な さ れ , 3 回の延期のの
( 89)
ち, フットは ロ ソ ドン 裁判所で裁判を受けた。 再 び 3 回 延 期 の の ち , 途 中 10月 11 日 に 「3 人の神
注 (
8 5 ) パークレイ銀行の証明言は,MSS. 127/LC/7/3/7/2, West London Police Court, Exhibit 9.
(86)
(87)
A Letter from Opton Purnell to Foot, December 12’ 1924. (MSS. 127/LC/7/3/1/147)
Board o f Meeting, Labour College,、
了uly 2, 2 \30 p. m .,1926、Not C irculated,( 1 頁のタイプ刷)
(MSS. 127/LC/1/1/1-)
(88) Minutes of Board Meeting, op. cit" July 2,1926.
(89) REX, V, FOOT, Diary of Events fr o m March 24 to November 9 ,1 9 2 6 , ( 2 頁のタイ プ 刷)
(MSS. 127/LC/7/3/8/1) ; Prosecution of Late Secretary Mr, W. T.A. Foot (July 16,1926) by
T. Pocock.( 1 頁のタイプ刷)〔
MSS. 127/LC/l/l/O 'not circulated’ の船筆の言込みがあろ。
--- 111(525)
( 90)
土 」 が 告 訴 の と り 下 げ を 弁 護 士 に 打 電 す る と い う 「不 当 介 入 」 もあったが, 裁半IJ官は フ ッ ト か ら の
5 時 間 に わ た る 聴 取 の 末 , 全 て の 点 で 有 罪 で あ る と し ,「フ ッ ト 氏 が 語 っ た 複 雑 な 網 の 目 の よ う な
爐 に よ り , フプト氏は, 初 犯 で あ る け れ ど も 再 犯 と 同 じ 6 力月の実刑 と い う , かなり珍し い 判 決 を
( 91)
受 け ね ば な ら な い , と 裁 判 官 は 述 べ た 。」
か く し て , C.L.C . コ レ ッ ジ 長 ク レ イ ク の 横 領 享 件 に 書 記 フ ッ ト が 共 犯 で あ っ た こ と が 明 ら か に
された。 確 か に , この事件は, 「輝 か し い 労 働 者 教 育 機 関 」 で あ っ た C .L .C . 史 上 の 汚 点 で あ っ た 。
前 掲 の 小 切 手 や 銀 行 帳 簿 ま で も が 残 さ れ て いるのは こ の 享 件 が 裁 判 に な り, ウ ェ ス ト •ロ ン ド ン 警
察 法 廷 が 横 領 享 件 の 誰 拠 資 料 と し て 冤 * したからである。 も し 事 件 として告訴されることがなかっ
たならば, かような一次資料は残存しなかったであろう。
2.
コ レ ッジの閉鎖
1926年 5 月 の ゼ ネ ス ト は , 炭 鉱 労 働 者 だ け が 秋 ま で 闘 争 を 続 け た が , M .F .G .B . だ け で な く ,
労 働 組 合 は 全 般 的 に 財 政 状 況 が 逼 迫 し , そ の 結 果 , C .L .C . へ の 財 政 支 援 が 困 難 に な っ て き た 。
1925 . 26 年 に ク レ イ ク と フ ッ ト の 授 業 料 横 領 が 明 る み に で て , C .L .C . に 対 す る 不 信 も 加 わ り ,
C.L.C. 1929は 年 つ い に 閉 鎮 に 追 い こ ま れ る 。
支 持 組 合 の な か で , ま ず N .U .R . 執 行 爱 員 会 が , 1926年 12月, C .L .C . 支 援 の 中 止 を 決 定 し た 。
こ の 決 定 は *筒 で 12月 17日 の C .L .C . 理事^会 に 伝 え ら れ た が , そ の 内 容 は , 「N .U .R . 執 行 S 員会
は現在の学生が課程を終了するという責任を果したのちは, コレッジの所有権とコントロールを継
( 92)
続 し な い 」 というものであった。 理事:会 は , r コ レ ッ ジ の 将 来 が 不 安 定 で あ る 故 」, コ レ ッ ジ 長 T.
( 93)
ア シュ ク ロ フ ト T. Ashcroft 以 下 3 名 の 教 員 の 雇 用 を 1927年 7 月 末 ま で と 決 定 し た 。 もっとも,
N. U. R . 執 行 委 員 会 の 決 定 は , N. U. R . 総 * 記 ク ラ ム プ Cram p の C .し C . 閉 鎖 賛 成 論 に も か か わ
らず, 1927年 夏 の カ ー ラ イ ル で の N .U .R . 年 次 大 会 で 否 決 さ れ て い る 。 多 く の 支 部 が 閉 鎖 に 反 対
( 94)
したのである。(し か し 大 会 は N . C . L C . が C .L .C . を救済するという案も否定している。
) その結果,
C .し C . は多少延命 し た 。
享 態 を 憂 慮 し た T .U .C . 総 評 議 会 は ,す で に 1927年 2 月 10日,シ ト リ ン C itrine, ヒ ッ ク ス Hicks,
ボ ウ ェ ン Bowen を C. L. C . に派遣 し , コ レ ッ ジの将来に関し, コレッジ長と言記と討議していた
( 95)
力;
, その結果, T .U .C . 総 評 議 会 は 2 月 25日,C .し C . 宛 に つ ぎ の よ う な * 簡 を 送 っ た 。
「臨 時 措 置 の 一 部 と し て , ま た イ ー ス ト ン • ロ ッ ジ 計 画 が 採 用 さ れ る こ と を 期 待 し て , 一般評議
注 (
90)
Minutes of Board Meeting, op, cit., October 20,1926.
The Labour College and Secretarial Duties, (November 29’ 1926) by T. Pocok. (3 頁のタイ
プ刷)(
MSS. 127/LC/3/2/3), p. 3.
(92} Minutes of Board Meeting, op, cit., December 17,1926.
(93) Ibid.
(91)
F. Moxley, Railwaymen and Working Class Education, in Ph. S. Bagwell, The Railwaymen,
op, cit" p. 688.
(95) Minutes of Board Meeting, op., ciL, March 25,1927.
(94)
—
1 1 2 (5 ^ 4 )---
会 は , 1926— 27年 度 ラ ス キ ン •コ レ ッ ジ に 対 す る 奨 学 金 の 一 部 を 援 助 す ることにした。 一般評 議 会
はかような責務を誇るべきこととする力;
, 同 時 に ラ ス キ ン • コレッジに提供され る の と 同 じ 援 助 手
( 96)
段 が レ イ バ ー • コレッジにも与えられるべきであると考える。
」 そして, ラスキンに対すると同じ
額,
5 名 分 の 奨 学 金 £375 を 送 る 用 意 が あ る 旨 , * か れ て い た 。 C .L .C . 理 ♦ 会 は , 「感 謝 し て ,;
T .U .C . 総 評 議 会 の 財 政 援 助 を 承 認 し た 。」
1927年 4 月 9 日には, C . し C . の 将 来 を 考 え る た め に N .C .L .C . が 主 催 す る 会 議 が 開 か れ ,つ
S .W .M .F . を 含 め 数 組 合 代 表 が 参 加 し た 。 会 議 は , C .L .C . に 対 し 三 者 , す な わ ち 2 つの組合
( S . W . M . F . と N .U .R .), C .L .C . の 理 享 会 , N . C . L C . 力:, r 合 同 で 寄 宿 制 お よ び 学 習 会 の 調 整 計
画を準備する可能性と, 独立労働者階級教育に加わっている全組織の活動を共同で運営することを
( 97)
検 討 す る 会 議 を 召 集 す る こ と を 求 め た 。」 こ の 決 定 に 沿 っ て ,5 月 4 日会議が開かれ る こと にな っ た 。
し か し 5 月 4 日には, N .U .R . が 欠 席 す る 旨 伝 え て き た の で , 当初代表 を送 るこ とを 決 め て い た
S .W . M .F . も N .U .R . 欠 席 を 理 由 に 決 定 を 変 更 し , 結 局 N .C .L .C . だ け が 出 席 す る と い う 惨 め
な 結 果 になった 。 C . し C . の 閉 鎮 と い う * 態 は 避 け ら れ な く な っ て き た 。 この日の 会 合 で の 決 定 は ,
三 者 が C . L . C . と 同 等 の 代 ま 権 を 持 ち , 同 時 に 同 等 の 財 政 負 担 を 行 な う こ と を , N .U.R., S.W.
M.F., N .C .L .C . の 三 者 に 求 め る , というもの で あ っ た 。 N .C . し C . 代 ま は , C .L .C . の財政の
( 98)
3 分 の 1 を 負 担 す る こ と に 同 意 し た 。 しかし, C .L .C . 側 の アシュクロフトは, N .C .L .C . の援助
は 必 要 な い と 考 え て い た よ う で あ る 。 というのは, 以 前 と 同 様 に こ の 危 機 も 乗 り 越 え ら れ る と 楽 観
( 99)
視 し て い た か ら で あ る , とミラー は 書 い て い る 。
1928年 の T .U .C . ス ウ ォ ン ジ ー 大 会 で , N .U .R . の J . ト マ ス Jimmy Thom as と S .W .M .F .
の W. メ イ ン ウ ァ リ ン グ Will M ainw aring は, 1 年 余 に わ た っ て か れ ら の 組 合 が C .L .C . 財政
の 中 心 に な っ て き た が , 今 や 他 の 労 働 組 合 に も 財 政 負 担 を し て も ら う べ き だ と 訴 え た 。 だがこの提
( 100)
案は否決された。
1928年 10月 5 日 付 で C .L .C . は * 記 と コ レ ッジ 長 名 で 労 働 組 合 宛 に * 簡 を 出 す が , そ れ は つぎの
文面で始まっている。
r
レイバ
ー • コ レ ッ ジの将来
拝 啓 ご 承 知 の 通 り , レ イ バ ー • コレッジは, S .W .M .F . と N .U .R . により維持されコントロ
一ル さ れており , T .U .C . がコレッジを弓 I き受け, 組織 され -た 労 働 運動全体のために独立労働者階
級 教 育 を 促 進 す る た め に そ れ を 利 用 す る よ う T .U .C . を 説 得 す る 試 み が し ば し ば な さ れ て き た 。
注 (96) I b id , この決定は,T .U .C . ュディンバラ大会(
1927年 9 月)で正式に承認された(
J.P. M. Millar,
op. ciL, p. 9bン
o
(97)
(98)
(99)
Ibid., A p r il13,1927.
Ibid., May 3-4, 1927.
J.P.M . Millar, op. cit" p. 9 8 , クレイクは, N. C• し C. からの援助については一言も書いていな
い (Jbid., p. 99)。
(11
ibid,, pp. 96-7.
--- 113 (5^5)
今年の ス
ウ ォ ン
ジーの(
T . U . C , ) 大会で,享態は元に戻った。
炭 鉱 業 の 悲 観 的 状 況 の た め に , S .W .M .F . に と っ て は 財 政 的 責 任 は 重 す ぎ る も の に な り つ つ あ
り,かれらは,(
C . し C . ) 理 # 会 に , 他の 労 働 組 合 に レイバー.コレッジを支持する 用 意 が あるか
( 101)
否か , も し あ る な ら ぱ ど の 程 度 に か を 問 い 合 わ せ る よ う 求 め た 。」
このよう な 問 い 合 わ せ の * 簡 は 46の労 働 組 合 と 25の 炭 鉱 組 合 支 部 に 送 ら れ た が , 17組合が返答を
よこしただけだった 。 返 答 し た も の は , い ず れ も C .L.C . を 援 助 す る こ と は で き な い と い う 回 答 だ
( 102)
った。 そ の 状 況 が 報 告 さ れ た 1928年 11月 27日 の C .L .C . 理 事 会 は , N .U .R . と S .W .M .F . に 対 し
「い か な る 組 合 か ら も , 財 政 援 助 等 を 得 ら れ る 展 望 は な い よ う に み え る 」 と 知らせることを決めた。
S .W .M .F . は 1929年 4 月 18日, カ ー デ ィ フ で の 大 会 で , 正 式 に C. L. C . か ら 手 を 引 く こ と を 決
め , 4 月 2 6 日 の C. L. C . 理 事 会 で S. W. M. F . の 総 * 記 T h . リ チ ャ ー ズ Thomas Richards 力:
( 103)
「S .W .M .F . の レ イ バ ー . コ レ ッ ジ に 対 す る 責 任 は , 1929年 7 月 以 後 , 停 止 さ れ る 」 と伝えた。
こ の 決 定 と 「N .U .R . の 1927年 の カ ー ラ イ ル 年 次 大 会 で の 決 定 を 考 慮 し て , 教 員 , * 記 , 学内臨時
( 104)
職 員 全 員 に 对 し , 1929年 7 月 31日以降, か れ ら の 職 務 は 要 請 さ れ な い 」 と決議された 。.
閉 鎮 が 決 定 的 と な っ た な か で , 1929年 の 総 選 挙 活 動 の た め , 12日間コレッ ジ は 日 常 業 務 を 停 止 し
( 105)
た。 総 選 挙 の 結 果 ,数 名 の C .L .C . 卒 業 生 が 労 働 党 議 員 に 当 選 し て い る 。 また, 5 月 17日には, 日
本 人 の S .ヨ シ サ カ (
神戸)が C .L .C . に 学 生 と し て の 入 学 申 請 を だ し , 私 費 学 生 と し て の 入 学 を 許
ひ06)
可 さ れ て い る 〔この日本人学生がじっさいに入学したか否かは不明)。
N .U .R . と S .W .M .F . は, C . し C . の 閉 鎮 を 最 終 的 に 承 認 し 早 急 に C . し C. の財産と家財を
( 107)
売 却 す る よ う 求 め た 。 財 産 評 価 の 試 算 の 結 果 , ロ ン ド ン の 2 つ の 家 屋 は 計 £ 2 ,9 0 0 , 家 財 は £154 で
( 108)
あった。 家 屋 は 9 月 の 第 3 週 ま で に 競 売 さ れ る と さ れ , 金 額 は 「秘 扱 い 」 とされた力' ; , 9 月 12日に
( 109)
ぶ 3,000で売れた。 翌 9 月 13日, C .L .C . 最 後 の 理 事 会 が 開 催 さ れ た 。 N . U . R . と S .W .M .F . は
C .L .C . の 教 職 員 の 失 職 に 対 し 財 政 的 援 助 の 申 し 出 が あ り , 教 職 員 は 6 週 間 分 の 給 与 相 当 額 を 求
め た が , 教 員 と * 記 は 1 力月分を, 学 内 職 員 は 2 週 間 分 を 休 暇 ボ ー ナ ス と し て 支 給 す る と い う , 6
( 110)
月 20日 の決定を変えなかった。
財 産 処 理 の た め 1930年 2 月 1 7 日, C. L . C . 受 託 者 会 議 が 開 か れ , S. W. M. F . か ら N . リース
Noah R ees と T h . アンドリュウス Thomas Andrews 力' ; , N. U. R . か ら P h . ヒュウレット Philio
注〔
101) The Future of the Labour College, October 5 , 1 9 2 8 . ( 1 頁のタイプ刷)(
MSS. 127/LC/3/2/4)
(102) The Future of the Labour College, November 2も 1928.〔2 頁のタイプ刷)(
MSS. 127/LC/3/
(103)
(104)
(105)
(106)
(107)
(108)
(109)
(110)
2/4)
Minutes of Board Meeting, op. cit., April 26’ 1929.
Ibid.
Ibid., June 20,1929.
Ibid.
Ibid.. June 28,1929.
Ibid., July 11,1929.
Meeting of the College Trustee, September 12,1929. 購入者は Y. de Vries という人物。
Minutes of Board Meeting, op. cit., September 13,1929.
--- 114 (^526~)
H e w l e t t と F . C . フ ァ グ F .C . F a g g 力;
, それに前 * 記 T . ポウコックが出席した。 家 財 も £139
で10月 3 日に売れ,協同組合銀行に合計 £8 ,5 1 7 12 s. 8 d . が C .L .C . の預金としてあることが银
( 111)
告された。 N . U . R . と S . W . M . F . は, これをそれぞれの組合が二分することを求めた。 しかし弁
護土に照会の結果,二分することは法的に不可能と判り,結局協同組合銀行にそのまま入れておく
( 112)
こ とが決定された(
その後この£8, 500余がどうなったかは不明)
。
ここで C . L . C . 理享会議享録は終っている。 それは,小規模ではあったが,A . ベ ヴ ァ ン Aneurin
B e v a n をはじめ, N . エ ド ワ ー ド Ness Edward, J . グ リ フ ィ ス Jam es Griffiths, J . ジョーンズ
Jack Jones, W . オ ー エ ン W ill Owen, W . コウルド リッ ク W ill C o ld r ic k 等々数多くの労働党,
労働組合等の指導者を輩出した,「揮ける」労 働 者 教 育 組 織 C . L . C . の閉幕であった。 こ の 「輝け
る」 という形容詞に,多くの留保条件がつくことは,本稿が示したところである。
付
C . し C . の カ リ キ ュ ラ ム と 派遣学生試験問題
〔
A 〕 1922年 の C.L.C:
. のカリキュラム
1 ) 方法論(
W.W. Craik—
—
コレッジ長)
a 認 識 論 b 史的唯物論
2 ) イングランドにおける社会主義の歴史(
W. W. Craik)
a トマス. モ ア b ジョン• リルバーンとジラルド . ウィンスタンレイ C18世紀以前の土地改革者
d l9 世紀第1 .四半期の英国社会主義
3) イングランドの産 業 史 (
A. M. Robertson)
4 ) 産業革命(
W. W. Craik)
5 ) 労働組合の発生と発展(
A. M. Robertson)
6 ) 経済学初級(
A. M. Robertson)
7 ) 経済学上級(
W. H. Mainwaring)
a 近 代 資 本 主 義 b 株式取引と商品取引 C 近代産* の 競 争 d 銀 行 史 e 銀行と 信 用 機 構 f 国際交
易
g 貿易
8 ) 経済地理学(
J.F. Horrabin)
a 序 論 b —般 地 理 学 C史 的 地 理 学 d 今日の経済地理学上の諸問題
9 ) 帝国主義(
W. H. Mainwaring)
1の 哲 学 史 (
W. W. Craik)
a 古 代 b 近代古典哲学
1 1 ) 労働組合法と労働災害法(
W. H. Thompson, A. U. B. T. W . 等の弁護士)
a 歴史と1871年 法 b 刑事犯と話訟可能な不法行為C 71年法以後の法ま d —般法,労働災害法,お
よび雇主責任法 e 労働者災言保障法
1 2 ) 地方政府 (
Edward Gill)
1 3 ) 先史時代の技術進歩(
W.W. Craik)
1 4 ) 家族史〔
W. W. Craik)
1 5 ) 古代奴謙制の没落(
W.W. Craik)
注〔
111)
(112)
Minutes and Decisions of a Meeting of the Labour College Trustees, February 17,1930.
Ibid., February 21,1930.
115 〔
527)
16) 文学 G.F. Horrabin)
a 史的唯物論と創造的芸術 b 芸術と文学,および独立労働者階級教育におけるその位置づけC 文学
と「
時代精神」
17)
d プルジョアジ一と文学 e 今日の文学傾向
ロンドン一国家の都市G.T. Walton Newbold)
1 8 ) 労働党の活動の諸側面(
W. W. Craik, W. H. Mainwaring, A.M. Robertson)
1 9 ) 協同組合運動(
A. M. Robertson)
補充講義
数 学 F. J. James, 統 計 H. Levy, 帝国主義 H. N. Brailsford, マルクス主義と人種問題W. Paul,
理 学 E. P au l, 伝記と一般史J. A. Fallows,革命の進化T. A. Jackson,近代産業組織T. A. Jacson,
公 開 演 説 C. S. B u n n , エ ス ペ ラ ン ト P. J. Cameron.
カリキュラムが網羅的にできているのは驚くほどであるが,同一人がいくつかの講義を兼任しており,
その水準は,当時の学問研究の水準にも規定されていた。もとより講義内容を正確に把え評価することは
不可能であるが,つぎに示すようなより詳しい講義内容と指示されている参考文献から,およその内容と
水準は推測されよう。たとえば,W . W . クレイクの講義した4 ) 「
産業革命」の内容は,1)革命以前(
経
済状態,階級関係,政治団保,正義,道徳,宗教) ,2 ) 技術変化一革新,3 ) 生産•所有関係に対する諸影
響 (
階級,労働組合) ,4)産業革命の政治的諸結果,5)正義,科学,道徳,宗教。
參考文献としては,Beard, The Industrial Revolution; Gibbins, The Industrial History of England:
Beer, History of British Socialism; Engels, Conditions of Working Class in England:Rogers, Six
Centuries of Work and Wages; Webb, History of Trade Unionism; Hammond, The Village Labourer,
The Town Labourer; Starr, A Worker Looks at History; Craik, The Modern British Working-Class
Movement.が拳げられている。
もうひとつ, A.W . Robertson の講じた 5 ) 「
労働組合の発生と発展」を例にとってみてみよう。内容
は,1)労働組合の基礎と起源,2)1825年〜 1835年の労働組合,3)チャーティスト運動,4)退歩の時期,5)
新組合主義,6)19世紀末の労働組合,7)産業不安,8)産業別組合主義,9)戦争の諸影響,1の労働者組織の
将来,であり,参考文献としては, ebb, History of Trade Unionism; Craik, Short History of the
Modern British Working-Class Movement; Cole, World of Labour and Organisation in Industry;
Mellor, Direct Action :Hovell, Chartism; Beer, History of British Socialism (Chap. on "Chartism")
が挙げられている。
〔
B 〕 C . し C. への派遣学生試験問題
2 つの組合が自らの組合員に奨学金を通常2 年間ずつだしていた。寄宿制学生は年間£ 1 2 5 で,これは
授業料と寄宿舎費であった。通学学生のぱあいは£40 であった。奨学生選出試験は,各労働組合が実施し
たが,論文と設問から成っており,前者は500語以下で,後者は各問題毎に50—100語であることが要求
され,試験時間は合計2 時間30分。試験問題には,以下にみるように,極めて実践的問題がだされた。
N . U . R . ( 全国鉄道従業員組合)1921年 6 月実施
論文— 三角同盟 Triple Alliance の機能はどうあるべきであると考えるか。また,これらの機能を効果
的に遂行するためには,いかにそれは構成されるぺきであるか。
設問— 1)実施したならば鉄道従業員にただちに有益な効果をもたらすと思う, 4 つ以下の要求を含む案
を言け。各々につき理由を簡単に述べよ。
2)同一の職階または部門から構成される支部と混合した職階から構成される支部という, 2 つの支部組
織の方法のうち,組織全体の効果的統一のためには貴君はどちらが最もよく考案されていると考えるか。
—
116 〔
528) —
3) スライディング. スケールの原則による賃金規制に賛成か反対か,理由を拳げて述べよ。
4)次の用語で貴君が理解するところを述べよ。 a ■ 家, b 提案中の炭鉱夫の「
プール制丄 C クラフト.
ユニオン。
S. W. M. F . ( 南ウェールズ炭鉱夫連盟)の 最 終 試 験 1921年 9 月 実施 (
予備試験は略)
論文— 三角同盟は復活すべきか。もしすべきでないならぱ,効果的統一の観点から,貴君は何がそれに
代替すべきかを提案せよ。もし三角同盟が復活すべきと考えるならぱ,その再構成に当り,貴君は効果と
いう観点からいかなる構造と政策の変更を主張するか。
設問— ( 設問は約200語)
DM. F .G .B . の 3 分の 2 以上でストライキを決定するという規約に賛成または反対の理由を2 つ書け。
2)1920年炭鉱業法の実施は,賃金と利潤の関係を規制する新しい制度という点で,炭鉱夫にいかなる利
益または不利益をもたらすと貴君は予測するか。
ノ ッ チ ィ ン ガム炭鉱夫連合1920年 9 月実施
設問— 1)過去2 年間で大英炭鉱夫連合M. F. G. B . の側にとって最も重要な成果は何であっナこと貴君は
考えるか。
2)補償法の炭拡夫の観点からの欠点は何か。
3)現在の様々な炭鉱組織の連合制に代って,もし全国の炭鉱夫が単一の中央組織に合同されたならば,
それは有利であるかそれとも不利である力、
。
4)炭鉱業における「ミドルマン」 の,炭鉱所有者とは異なる,利潤の源泉は何か。
5)炭鉱国有化は,いかにして炭鉱業以外の労働者の利益になりうるか。
6)次の用語の,貴君の理解するところを記せ。
「
展開」"Evolution", 「
革命」"Revolution"
出典)The Labour College, 1922. (MSS. 127/LC/4/3/4/1)
付記) 前稿( 上)および本稿作成のための資料利用のさいおせわになったウォーリック大学モダン•
レコ一ド. センターの
R. Storey と A. T ough の両氏に,記して謝意をましたい。
( 経済学部教授)
117(529)
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